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2012
06.26

裸の自分になる ─相手の言葉を無心に聴く─

20120625005.jpg
〈気のせいか、どことなく、虎につながる威厳があります〉

 人生相談をお受けして皆さんの心を推しはかっていると、しばしばこんなことを感じます。
「人はどこかでになりたいと思う」
「人は心や身体に病気を持つと、の自分が顕わになる」
の魂をそのまま受けとめる以上の優しさはない」
 
 人は
真如(シンニョ)一点の曇りを受けて、人間となる」
存在なので、誰もがいびつであり、デコボコしています。
 み仏の子なのに、なり切れないものがあるので、人間として生まれます。
 それぞれ育ちも違い異なった人生を送っており、異なった〈流儀〉を持った人と人が接する時にあちこちとぶつかるのは当然です。
 自分以外の人とぶつからないで人生をまっとうすることは誰にもできません。

 そうした中で、真の安心を得るには、本来の真如となり一滴の水となって、生きながらにしてみ仏の大海へ還るのが一番ですが、これは誰でもどこででもできるというわけには行きません。
 
 そうなると、デコボコのままで安心を得るためには、互いに自らの生きる流儀であるデコボコを主張しないことです。
 世間の荒波と闘うための甲冑を捨ててみることです。
 私は『宗教は政治へ口出しすべきか(その2)』へ書きました。
「私たちは、名も無き人の心の叫びと名だたる人の堂々たる主張とを平等に聴き、客観的視点からありのままに理解し、判断する精神的レベルを目指したいものです。
 ここにこそ、正しい意味でのヒューマニズムの原点があると信じています」
 相手によって、自分の都合によって勝手な聞き分けをせず、無心に相手の言葉を聴いて相手の心になる。
 これが、自分がになる第一歩です。
 気まま放題、言い放題をやればになれるのではありません。
 その反対に相手の言葉を無心に聴く時、いつの間にか我(ガ)がするりと抜け落ちるという形でになっています。

 こちらが裸になれば、不思議なことに相手もいつの間にか裸になっています。
 デコボコがぶつかり合わず、大いなる解放を得られます。
 しかも、お互いに──。

 伊集院静氏の名作『いねむり先生』に、裸で踊るシーンがあります。
 心を病みアルコールに溺れた男性が、田んぼで暴れ出しました。
 先生も田んぼへ入って抱きつき、やがて、服を脱ぎながら一緒に踊り出します。
 誘われた著者も月光を浴びながら踊っているうちに、三人とも、心に巣くっていた闇を解き放っていました。
 肉体の裸と心の裸があいまって、救いを招いたのです。

 どうすれば〈裸の自分〉になれるか、よく考えてみましょう。

(この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)



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2012
06.26

お母さんを頼む ─父親が息子を大人にする方法─

20120625026.jpg
〈虎を一族に持つ者の堂々たる歩み〉

 人生相談に来られたTさんの余談です。
「いつからでしょうか。
 夫は、仕事で遠出をする時に、息子へ『お母さんを頼むよ』と言うんです。
 欠かしたことがありません」
 お子さんはまだ十代半ば、まだまだ「お父さん」「お母さん」と甘えたい年齢です。
 しかし、お父さんの言葉は、芽生えかけている〈男性〉としての任務矜恃責任といった人格を形成する上で非常に大切な意識へ適切な刺激と養分を与え、すばらしい教育になっています。
 彼は思うでしょう。
「―――俺は男だ」
 親子という関係を超えて、男が男に信頼されるという誇りが芽生えます。
 そして、母親は、その懐が恋しい存在であると同時に、男性である自分が守らねばならない優しく尊い女性として彼の心にイメージされ、彼は、きっと無意識のうちに自分を強く凛々しい男性である、あるいはそうありたいとイメージするはずです。
 一人の男の子は一人前の男性になるという理想的なパターンです。

 これをお聞きしただけで、もうこのお子さんは大丈夫と太鼓判を押せます。
 まだ会ったことのないご主人の男同士の信頼感をベースにしながら息子を育てる智慧、そして、妻への思いやりの深さには脱帽です。
 夫の賢さを世の男性に見習っていただきたいし、こう言わせる妻の姿勢も世の女性に見習っていただきたいと心から思いました。

 ちなみに、Tさんは決して弱々しくはありません。
 しっかり者なのに夫にこういう心を起こさせるものは女性としての可愛さであり、それは年齢と無関係です。

(この文章は、もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)



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2012
04.05

息を吐く、思いを吐く

 きものにはへのプログラムが内蔵されていますが、きものの基本姿勢はではなくへ向いています。
 それは、樹木が太陽の光を求めて枝を伸ばすのを見ても判ります。
 人もまた、最期を迎えるまで、をめざします。
 の訪れが100パーセント確かであればこそ、私たちは懸命にをつなごうとします。

 ところで、「引き取る」には、大辞林における四番目の意味として「息が絶える。ぬ。『息を──・る』」があります。
 人は息を吐いてぬのではなく「息を引き取る」、つまり吸ってそのまま呼吸の停止した状態がです。
 自然にしていれば、誰でもが死に神に手を引かれるまで息を吸ってきようとし続けます。
 嬰児(ミドリゴ)が相手を選ばずに見せる笑い顔も、早朝に道路を掃くご老人の後姿も、息を吸いつつ生きてあるものの健気さを教えています。
 警察官や消防士などの殉職もまた、生をめざす人の死であればこそ、私たちの心へ強く訴えかけてきます。
 
 さて、以前も書きましたが、枕経(マクラギョウ)にでかけたところ、ご臨終に間に合わなかった方がとても残念がっておられたので、故人の思いが届く法を結んだ時、ご遺体が「フーッ」と息を吐くような気配を発しました。
 声なき声が聞こえたように感じたのは私ばかりではなく、ぐるりと座ったご一同はしばし、息を呑んだままでした。
 法によって心が動き、息に乗せて思いを届けようとされたのでしょう。

 作家岡本かの子を妻とした故漫画家岡本一平はこんなことを書きました。
「牛や魚は死ぬ時遺言しない。
 鳥や松の木も死ぬ時遺言しない。
 遺言するのは人間だけである。
 死ぬ時自分以外に他あるを顧みて其処(ソコ)に何か責任上の一言を遺して置く。
 これ人間が万物の霊鳥である由縁(ユエン)であらう」
「死に際には病苦や人生に対する愛惜の念でわれ等凡人はとんだ考になったり逆に反抗的に気取って見たりしてとても本当の事は述べられまいと思ふ。
 よって平常死後の事は洗ひざらひ喋ってしまって置く方がよいと思ふ。
 そして死病にかかった後にいふ事は取り上げないやうに近親に頼んで置くのがよいと思ふ」
「まあ身の廻りの捌(サバ)きに就(ツイ)て家族に少し説明して置けば一人前の責任は済むと思ふ」
 みごとに〈吐いて〉おられます。
 これならもう、いつ〈引き取った〉ままになっても大丈夫でしょう。

 とにかく生きましょう。
 吐く息へ思いのありったけを乗せつつ生きましょう。
「欲を捨てよ」という幻の声にうろたえず、慈悲智慧の力で生きる意欲を大欲(タイヨク)とし、息も思いも吐き切りつつ生きたいものです。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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〈密やかに進む思いの表現〉



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2012
03.04

恐怖・不安・安心

 いかなる職業に就いていても、いかなる境遇で生きていても、「この世をどう生きるか」という一点で〈生の芯〉になるものが宗教です。
 人間として絶対の〈安心(アンジン)〉を持つことが経典を読誦し、写経を行い、修行する大きな目的です。
 自己中心を離れ菩薩(ボサツ)道を歩む人として欠かせないのは、他への慈悲心であり、自己の安心です。
 安心があってこそ、ライフセーバーの揺るがぬストロークに似た行動が可能になります。

 安心とは、泥棒が逃げおおせてほっとしたり、受験勉強から解放されてほっとしたり、死ぬまで使い切れないほどのお金を得てほっとしたりすることではありません。
 不安恐怖もなく、満足感と到達感を伴った深い安心(アンシン)です。
 これさえあれば、「どう生きるか?」「なぜ生きるか?」といった疑問がなくなります。
 泥棒は、悪しきことを行ったという自分自身の後ろめたさから逃げることはできません。
 受験勉強が終わっても、もっと過酷な競争社会が待っています。
 どんなにお金があっても、使えば減るし、お金で買えないものがあり、お金があるばかりに余計な心配もせねばなりません。
 しかし、〈安心〉には良心の呵責するところはないし、襲ってくる苦はないし、破壊される心配もありません。

 迷いは、恐怖不安となって現われます。
 特定の対象があれば恐怖になり、特定の対象がなければ不安になります。
 意識が対象に集中すれば恐怖になるし、漠然としていれば不安になります。
 対象から逃れたくなったり、対象を攻撃しないでいられなくなれば恐怖であり、無力感に苛まれれば不安になります。
 相手を合理的にとらえれば恐怖になるし、不合理と感じ理解できなければ不安になります。
 ある時が過ぎればいったん恐怖は去りますが、不安はいつまで続くかわかりません。

 このような恐怖や不安にとりつかれると、いのちの勢いがなくなり、煩悩すら薄れます。
 強く欲求せず、腹の底から怒らず、独自の考えが持てず、逃避や忍従が習い性になってしまいます。
 また、迷いは、未知なるものや、仮想世界などたやすく現実から逃れさせてくれるものへ魅力を感じさせることもあります。
 満足はなく小さな世界に閉じこもって何となく現状維持で時を過ごしますが、内面には「いらいら」「空しさ」「頼りなさ」「やりきれなさ」などがヘドロのように静かに積もります。
 そして、外見は「まじめそう」「おとなしそう」でありながら、予期せぬ危機に遭遇すると、とっさに爆発的な行動に走る場合があります。
 それは、ブレーキを持たない車が突然、アクセルを踏まれたようなものです。
 これまでは、アクセルを踏む力が出なかったので、目立たぬ存在だったのに、力がこめられたばかりに狂気を発し凶器となってしまうのです。
 世間は、何と〈普通の人〉の暴発的まちがいにあふれていることでしょうか。
 何と、「えっ、あの人が」という驚きに満ちていることでしょうか。

 歴史の波に鍛えられ、幾多の行者たちによって磨かれた宗教には〈安心〉を持つ方法が人類の叡智として伝えられています。
 祖先が残してくださった宝ものを大切にしようではありませんか。

(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

〈生花の水がおいしいことを知ってしまった彼〉
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2012
01.28

眼を持つ難しさ

平家物語』の「祇王(ギオウ)」に、仏と呼ばれる白拍子(シラビョウシ)の舞い踊る姿に魅せられた平清盛が、ただちに側へ召すという場面があります。
 眼前にはすでに清盛の寵愛を受けている白拍子祇王がおり、仏御前は固く辞退します。
 祇王は、いきなり訪ねた仏御前をいったんは「無礼な」とばかり退出させた清盛をとりなして、対面させてくれた大恩人ですから、断ったのは当然です。
 しかし、清盛はその場で「それはならぬ。もし祇王をはばかるのならば、祇王をこそ追い出そう」と言います。

 読者のほとんどは、傲慢さを感じて「清盛はなんという薄情な男だろう」「権力者なんてこんなものさ」「時代が違うんだよなあ」などと思うのではないでしょうか。
 ところが弁護士Iさんは言いました。
「実際はどうだったんですかねえ。
 こんな風にやったんでしょうか。
 書いた人によってつくられた人物像かも知れませんよねえ」
 ここが大事なところで、情報の洪水という現代の蘊魔(ウンマ)にやられないためには、どうしても必要な視点です。
 しかし、それを持つのはそう簡単ではなさそうです。
 
 現に、司馬遼太郎の傑作とされ芸術院恩賜賞を受けた『空海の風景』は、一介の行者からすれば誤りと偏見と独断に満ち満ちていると思われますが、世間ではお大師様について学ぼうとする際の基本テキストになりつつあります。
 誰しもが大作家のネームバリューを信じ、「本当だろうか?」と客観的な眼を持って読むことを忘れてしまっているのではないでしょうか。
 もちろん、お大師様そのものがあまりにも偉大であり、説かれた教えはあまりに高度ですが、読者の直感として「そうだろうか」と立ち止まることはできるかも知れません。
 Iさんの視点があれば、自分の好悪がからんだ価値判断をあたかも事実であるかのように書いている巧妙な表現を見破られるはずです。

空海の風景』を再読三読してチェックした〈不審な〉ポイントは百ヶ所を優に超え、有名な書物が持つ問題を世に明らかにできぬ自分の能力と徳と財のなさに切歯扼腕していたところ、一人の男が立ち上がりました。
釈尊になった空海』を書いた松澤浩隆氏です。
 この本は、『空海の風景』を読んだすべての方に読んでいただきたい力作です。
 読み比べれば、人を救い迷わせる筆力というものの強さや恐ろしさ、そしてお大師様の真姿が読者なりに観えてくることでしょう。
 長澤弘隆師の『空海ノート』と菊池寛の『十住心論』も併せて読めば結構ですが、いずれもかなり専門的なので、購入には慎重な判断が求められます。

 あまり世に知られていないと思われる『釈尊になった空海』は、イラク戦争に関して徒歩で靖国神社へ参拝した帰り道、東京駅前の書店で見つけました。
 幸いにして自衛隊員が全員、無事、帰国を果たしたことと、『釈尊になった空海』との出会いは、 お大師様からのご褒美であると確信しています。
(この文章は平成17年に書きました。もうネットで読んでいただけない古い綴りの中から行者高橋里佳さんがピックアップしたものを加筆修正の上、再掲しています)

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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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