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2010
10.26

師は要らないか

 生まれ落ちた私たちは、すぐ、の手に抱かれます。
 ランドセルを背負えば、教の手がさし伸べられます。
 学問を行えば先生、社会へ出れば先輩や上司の指導を受けて一人前の人間になります。
 心に敬虔さが育てば仏神への尊崇が自然に起こり、ご加護やお導きを感じます。

 さらには兄弟や祖父祖母などの族、あるいは同輩や仲間、また、出会う人々や経験するできごと、さらには社会や大自然など、私たちはこの世に生を承けた瞬間から、あらゆる導きを受けてこそ、まっとうな人間として成長し、生きられます。
 オオカミに育てられた少女マカラは、心が育つ時期に人間として生きられなかった結果、〈人間〉になれないまま、短い生涯を終えるしかなかったのです。
 母の生きざまが胎児の心へ少なからぬ影響を及ぼしていることを考えると、母の胎内に宿っているうちから、私たちは「導き手」のおかげを蒙っていると言えます。

 こうした導き手を「」といいます。
 人間が人間として育ち、人間として生き抜くためにはの恩が欠かせません。
 
 さて、のおかげで生き抜いた私たちは、肉体という衣を脱げば、み仏を唯一の導き手として安心の世界へ旅立ちます。
 み仏は、葬式では引導の力となり、仏壇では本尊としてお守りくださり、お墓では開眼供養した墓石へ宿ってお導きくださるのです。
 み仏こそが「あの世の」です。

 しかし、今、「~は要らない」という風潮が蔓延している中、亡くなった方をそのままお骨にし、祈りのない墓地へ埋めるスタイルが流行りつつあります。
 それでは、「死んだ人には要らない」ことになり、墓地はお骨置き場でしかなくなります。
 本当に師は要らないのでしょうか?
 私たちはお骨を置き場へ入れるだけで本当に安心でしょうか?
 遺族や知人が手を合わせるだけで、先に逝った人への感謝などの思いは、行動として尽くされているでしょうか?

 自分を省み、さまざまな師なくして人間たり得なかったことを思う時、この世では『守本尊』として、あの世では『十三仏』としてお導きくださるみ仏のありがたさに、自然と合掌してしまいます。
 み仏の恩は、師の恩の象徴です。

 枕経からあの世の導きは始まります。
 亡き人は、この世と同じく師の導きによって安心の道を歩まれます。
 導かれる道行きを用意できるのは、生きている私たちです。
 こうした理を真剣に考えてみていただきたいと願ってやみません。

〈私たちは、あの世の花をも想像できます〉
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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2010
08.03

導き手を失った私たち ─直葬について─

 かつて、私が出家した折りに授かった教えを紹介しました。

人の道を主とせよ。我が心を従者とせよ」。


 この教えはとても深く胸に染み込みました。
 なぜなら、全財産を失い、周囲の人々の信頼に背き、多くの方々に迷惑をかけた愚かしい行動はすべて、「我が心」言い換えれば自己中心の姿勢がもたらしたことを誰よりもよく知っていたからです。
 師の教えは、100パーセントの真実であると確信できました。
 もちろん、今もその確信は深まるばかりです。

 当時は、文化人も経済人も「自分らしさ」、「自分らしく」といったフレーズで社会をリードしていましたが、そうした意識は結局のところ、煩悩(ボンノウ)という恐ろしい火炎を煽る風でしかないことに警鐘を鳴らす人など、ほとんど見かけませんでした。
 それから20年、高度成長は止まっても、戦前の「お国のために」への反動から急速に浸透した「自己中心的姿勢の解放」は、とどまるところを知りません。
 大阪市西区のマンションで幼い姉弟2人が死ぬまで放置された事件など、まっとうな人間には想像すらできない行動をさせるものはすべて自己中心という意識です。
 ついにここまで来たかと思う方がおられましょうが、これはまだ、過程に過ぎず、いったい、どこまで行くのか想像できません。
 孫もクラスの子供たちも、あるいはサッカーチームのメンバーたちも心に魔ものを生じさせるのか、魔ものに襲われるのか、魔ものが王となる文明は滅びるのではないかと考え込んでしまいます。

 さて、「教え」です。
 主となるべき人の道は真理でなければならず、毎日、まず自分が生きねばならない凡夫が自分でつくることもできず、自然に気づいて血肉にするなど至難の業です。
 だから、聖者が説かれた教えを至心に学び、実践しないかぎり、自他を苦しめ、破滅もさせる自己中心という意識は克服できません。
 それをお大師様ははっきりと説かれました。

煩悩を抱えた私たちは愚かであり、自分で覚る智慧を持ってはいない。
 だから、如来はご加護のお力を下さり、私たちのおもむくべき先を示してくださる。
 おもむくべき所の根本は優れた教えによらねば示されない」。


 優れた教えに表れたみ仏のお示しになる道を歩むしか、覚る(自分を苦しめず、他人を傷つけない)方法はありません。

 自分自身の現実、人生相談に来山される方々のご様子、そして、確かなみ仏のご加護を考えると、最近の直葬(ジキソウ…火葬してそのまま埋骨するのみ)流行りには首をかしげてしまいます。
 さる高名な学者は「送る人が無常を知ればそれで良いのです」などと何ごとでもないように習俗の変化を解説していますが、み仏の導きを信じ、祈りの現場にいる者として強い危機感を持っています。
 死という厳粛なできごとにぶつかってすら「自分」あるいは「自分たち」しかいないのなら、もう、私たちは、導いてくださる主のない世界で自他を苦しめつつ生きて行くしかないではありませんか。

 釈尊は説かれました。

「我が身を慎み、自分の心を信じてはならない。
 心は結局信じられるものではない。
 我が身を慎み、心を情欲の対象となるものと接してはならない。
 対象によって動かされた情欲が災いを生ずるからだ。
 アラカンの悟りを得て初めて、自分の心は信じられるものとなる」。


 また、晩年、大病から回復したおりにも説かれました。

「自らを灯明とし、自らを依り処として、他人を依り処とせず、法を灯明とし、法を依り処として、他を依り処とすることなく、修行せよ」。


 これは、
煩悩に支配された自分の心に導かれてはならない。
 煩悩に支配された自分の心のままに、現象世界と接しては自他を苦しめ、傷つける。
 法に導かれた自分を信じ、導きとなる法を信じてまっすぐに歩むべし」
と読めないでしょうか。

 主となるべき教えを忘れたまま、自己中心の心を主として生きる私たちはどこへ行くのか?
 それは地獄界であり、餓鬼界であり、畜生界であると、釈尊は2500年も前に示しておられるのに、敗戦後、わずか半世紀の間にすっかり忘れ去られようとしています。
 経典の説く地獄界(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2297.html)と餓鬼界(http://hourakuji.blog115.fc2.com/blog-entry-2298.html)を参照していただきたいと願っています。
 私たちは、本当に「我が心」を主として生きて大丈夫なのかどうか、よくよく考えたいものです。

〈たった一輪の花のいのちがなぜもたらされ、見る私たちのいのちがなぜもたらされているか、互いに見つめ合っている時間はなぜ淡々と流れているか、不可思議とは思いませんか?〉
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2010
04.06

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その6)」─

 今も講演や人生相談や例祭の後のお話などで「葬式は、要らない」が話題となり、「葬式は、要る」ということがあらためて理解されつつあります。
 無縁死孤独死無縁墓などについてのご質問も絶えません。
 皆さんからの意見や感想をお聞きしていると、ほとんどの方が葬儀に求めているのは二つです。
「死者に安心してもらいたい(安心して旅立ちたい)。送った自分たちが死を受容し納得し、立ち上がりたい」

 僧侶の側からすると、使命の一つは、修法する場所や、いただくお布施の額や、葬儀の規模に関係なく確実に引導を渡し、会葬者の方々に「ああ、きちんと送ってもらった」と感じていただけるようなきちんとした修法を行うことです。 
 惰性やなおざりや緊張感のない態度でなく、全身全霊をかけてこの世とあの世の区切りをつける法を結び、葬儀の場に異次元の気配が立たねばなりません。
 合掌や琴や三味線などが入る場合もありますが、そうしたものも含み包み込んで、〈場〉には異次元の空気が流れていなければなりません。
 これは行者としての力量にかかっているので、ごまかしは効きません。
 行者にとって葬儀は最も厳しく試される恐ろしい場の一つであり、私はやがてテストに耐えられない日が来ることをはっきり予感しつつ、日々、法を結んでいます。

 使命のもう一つは、ご遺族の心のケアです。
 戒名や葬儀や供養の意義をわかりやすく説明し、質問に答え、生の断絶という最も苛酷な現場におられる方々を支えることです。
 それには適切な法話ときちんとした供養の修法が欠かせません。
 そして最も大切なのは、常々、各種行事や人生相談などを通じて仏法に関心のある方々と寺院との風通しを良くしておくことです。
 死がそうした信頼と安心で結ばれた関係の中で発生すれば、逝く方も、送る方もみ仏のご加護を信じ、確かな癒しを得られることでしょう。

 葬儀は当然ながら、目に見えない世界の存在を前提にした宗教行為です。
 宗教行為である以上、核心は心の問題です。
 送られる人、送る人、法を結ぶ人の三者が共に一つの心の世界の住人になるからこそ、葬儀は成り立ちます。
 目に見える飾りや戒名の長さなどというモノの世界を対象にし、金銭で量ってみるだけでは葬儀の根本がつかめません。
 当山は、これから、より一層、現場を預かる行者の立場から、根本についての情報発信を行います。
 疑問・質問・要望などは大歓迎です。
 いつでも人生相談のお申し込みをしてください。
 皆さんと共に安心世界への門を確かなものにしたいと願っています。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2010
03.21

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その5)」─

 ここまで書いてきて気づいた。

 一つは、「これを続ければ、あげつらいになる」ということである。
 一方的に『葬式は、要らない』についてこまごまと書きっぱなしにするのは、フェアでない。
 生き残った者や、相手を打ち倒して権力を握った者が自分の立場を第一にして歴史を書くのと同じになりかねない。
 問題点の指摘で終わりにし、後は、それを参考にして著者と異なる視点からも問題を考えてみる方々がおられることを願うしかない。

 もう一つは、「この本に挙げられている事実のほとんどが、当山における現実とは異なったものばかりである」ということである。
 たとえば「檀家という贅沢」に書かれている、「檀家にはあずけている故人の冥福を祈ってもらっているという自覚がほとんどない」とか、「寺で供養するのは檀家の先祖でしかない」とか、まるで、〈あり得ない〉別世界が著者の批判を受けている。
 だからこれ以上反論しても、それは、隣の子がその隣の家人からいわれなく叱られたからといって、自分の子が叱られたと勘違いして文句を言うのと同じになってしまう。

 もう一つは、「葬式は要らない」、「葬式坊主は要らない」という姿勢は、「問題を是正しながら尊い葬式を洗練してゆく」、「僧侶本来の生き方で、あるべき寺院を創ってゆく」という姿勢とは交わらないということである。
 それは「政治が悪いから国会をなくせ」という主張と、「政治のありようをただして、国会を民主主義が実現できる場にしようと努力する」という姿勢が交わらないのと似ている。
 二者の議論はなかなか創造的に高まらない。

 そして最後には、著者の論点を突き詰めれば、葬式とそれにまつわる戒名などは「昔はなかった」、「贅沢だ」、「無意味だ」といった判断が根にあり、葬式などの本義を実現すべく〈現在〉にすべてを集中させている者とは、見えている世界がまったく違うということである。
 用いる言葉の意味も意義も異なっているのだから、実りのある議論はあまり期待できない。
 冒頭で、これ以上進めればあげつらいにしかならないと危惧した根拠はここにもある。

 あるできごとを書き、葬式は要るか要らないか、皆さんのご判断を待ちたい。

 Aさんは、生後数ヶ月のお子さんを亡くされ、当山へ葬儀を依頼された。
 枕経で目にしたご遺体は、突然死だったので司法解剖を受けたにもかかわらず血色がよく、まるで眠っているかのようだった。
 オモチャやミルクが周囲をとりまき、守り刀は大きすぎ重すぎるので脇へ置かれている。
 ご遺族はどなたも放心の気配であり、衝撃の強さがひしひしと感じられた。
 お通夜戒名をお渡しし、修法後にその意味をお話し申し上げた時は、こちらも崩れ落ちそうになるほど辛かった。
 参会者はすすり泣き、喪主ご夫婦は拳を握りしめ、肩を震わせておられる。
 両親もおそらくは家族の方々も一生懸命考えてつけられたこの世の名前は、もう、役に立たない。
 亡きお子さんは戒名を自分の名前としてまっすぐにみ仏の世界を目ざす。
 短かかったいのちも儚ければ、同時に、名前も儚い。
 新たな名前を前にしたご遺族は、無常の哀しみを骨の髄まで染み込ませられる。
 喪主は挨拶で述べられた。
「父親にしてくれてありがとう」
 葬儀で別れの言葉を述べたのは母親である。
「まだちっちゃくて、よくわからないだろうから、ママがお話するね。
 生まれてくれてありがとう。
 お祖父ちゃんたちに、いっぱい、遊んでもらってね」
 二人の声は終生忘れられないだろう。
 
 皆さんが無常を突きつけられる場に立ち会い、できる限り同じ気持ちで無常を受けとめる。
 ご遺族の気持を体して一心にみ仏へ祈り、哀しみを超えてゆくためのシンボルとして戒名を授かり、お伝えする。
 そして、歴史によって洗練された正統な修法をもって引導を渡す。
 こうして皆さんと共に無常に泣き、祈り、哀しみや辛さを超えつつ、無常の理に即した思考・生き方を共に創ってゆく共同作業をコツコツと続けたい。
 その作業やそれに伴うシンボルやお次第や、そして一連の作業すなわち法務を行えるプロが必要であるかどうかの判断は、皆さんへ委ねるしかない。

 突然の終幕になってしまいました。
 もしも、〈これから〉を期待していてくださった方がおられたならば、心からお詫び申し上げます。



「おん さんざんざんさく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
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2010
03.20

葬式は要る ─「葬式は、要らない」を読む (その4)」─

 お彼岸になり、生前戒名のお申し出も複数あるので、『葬式は、要らない』における章の順番と関係なく「生前戒名は増えている」事実をのべておきたい。

 島田裕巳氏は前掲書第6章で「生前戒名が広まらない理由」とし、2つを挙げている。

1 「戒名が死後の勲章の性格をもち、亡くなってからでないと、本当はつけるのが難しいからである」


 例として手塚治虫の「伯藝院殿覚圓蟲聖大居士」などを示す。
 そして、寺が儲けるためにこうした長い戒名をつけたかも知れないとし、生前に得度して戒名を授かっていたならこうしたものにはならないだろうという。

 反論である。

 寺が儲けようとしているとの指摘は、残念ながら人生相談などで、相手かまわず高額なお布施を要求する例を数多く耳にしており、当たっている場合もある。
 しかし、当山は戒名の本義に基づき、戒名料として下さるお布施の多少とまったく無関係に、魂の色合いが顕れる「院号」と、いかに生きてきたを示す「道号」と、得度し、生き直して授かる徳を含む「法名」とを等しくみ仏から授かり、お伝えしている。
 皆さん「~院~~居士」あるいは「~院~~大姉」となる。
 まっとうであろうと努力している寺にとって、主張は暗い憶測であるというしかない。

 また、生前に得度した場合はこうなっていなかっただろうにと心配しておられるが、無用である。
 生前戒名を求める方は教えの実践を決心し、恩を忘れず、戒めを守って生きる努力をされる。
 その結果、とてつもない社会的貢献をしたからといって、「私の戒名をもっと立派なものにして欲しい」などと亡くなる前に、あるいは亡くなってから希望するはずはない。
 これまで生前戒名を求められた方々は例外なく、その方なりに、み仏を信じ教えの実践に励みつつ人生を送っておられ、あるいは人生を送られた。
 仏弟子として生き直しをされた方は、そうした下世話なことを考えなくなるのである。
 こうして生き抜いた方が亡くなられた場合、故人の生きざまを知っている家族や周囲の方々は、おそらく誰一人として「もっと長い戒名にしないと故人にすまない」などと考えないはずである。
 もしも、見栄からそうした願いを持つ方が相談に来られたならば、「それは戒名の本義に背いており、故人がそうした考えを喜ばれるかどうか考えてみてください」とお話し申し上げ、道理に基づく判断を求めるのみである。

 だから、「早く戒名を授かると、死んだ後問題が起こる」という考え方は、戒名の本義を無視しており、本義を理解し求める方と授けるみ仏の間で行われる生前戒名の授受という真実からすれば、あまり意味はないと判断する。

2 「戒名の中に使われることばは、どれも基本的に仏教の教えとは関係しない」


 例として山本五十六の「大義院殿誠忠長陵大居士」を挙げて仏教よりも儒教との関連を感じさせるとし、「仏教の各宗派が、自分たちの養成する僧侶に戒名のつけ方を教えないのも、戒名と仏教徒の関係が明確ではなく、むしろ縁がない可能性が高いからである」と類推する。

 反論である。

 まず、たった1例でこうした結論を出すとは、信じがたい議論である。
 こう書かれた前のページには、冒頭の手塚治虫他、2例がある。
 渋沢栄一は「奉徳院殿仁智義譲青淵大居士」である。
 田中角栄は「政覚院殿越山徳栄大居士」である。
「奉」「徳」「仁」「智」「義」「譲」「淵」「覚」「山」「徳」「栄」すべて、仏教において用いる文字である。
 著者は、不都合だからご自身で書かれた前のページを無視されたのだろうか。
 信じられないやり方である。
 ちなみに、当山では、善男善女の求めに応じてみ仏の前で祈り、み仏から降りた戒名が「仏教の教えとは関係しない」もので埋められていた例は、たった一つもない。
 戒名の本義に照らして行う者にとっては、ありがたい文字や言葉が授かるのはあまりに当然な事実であり、真実である。

 また、「僧侶に戒名のつけ方を教えない」も暴論である。
 当山では正統な伝授を受けた私が正統な修法を行い、結果をお伝えし、喜んでいただいている。
 お伝えする場では、涙が伴う場合も少なくない。
 生前戒名は、まぎれもなく誰しもが本来み仏の子である真実を明らかにし、受者の行く手を照らすからである。

 以上が反論と現場における真実であり、当山においては「生前戒名は増えている」のが歴然たる事実である。



「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。



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