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2011
12.22

『大日経』が説く心のありさま六十景 その60 ─猿猴心(エンコウシン)─

 猿猴心(エンコウシン)は猿のように落ち着かず、ソワソワ、バタバタしている心です。
 これは漢訳『大日経』から抜けていますが、善無為三蔵が補って六十心を完成させました。

 私たちはなぜ、右往左往するのか?
 それは、心に柱がないからです。
 釈尊は説かれました。

「自らを灯明とし、仏法を灯明とせよ」


大日経』は、さらに、明確にしました。

菩提(ボダイ…覚り)とは何であるかといえば、実の如く自分の心を知ることである」


 人間としての〈まこと〉を求め、学び、実践しないではいられない心。
 ここに徹すれば、それは決して消えない明かりを点しているということであり、み仏の子である自分の心を知り尽くそうとする道を歩んでいると言えます。
 まことはすなわち、「真実」の「こと」であり、「こと」は「言葉」に置き換えられて意義や意味が明確になるので、行き着くところ「真言(シンゴン)」になります。

 私たちがみ仏の子であるならば、なぜ、こうした苦の岐(チマタ)になっているのか?
 それは、心の奥の奥を「実のごとく」知らないからです。
 ここで言う「知る」は知識として知るのではなく、体験的に「つかむ」ことを意味します。
 仏法を学び、考え、実践するのが、「つかむ」ための方法です。

 修行には難行道(ナンギョウドウ…高度な修行)と易行道(エキギョウドウ…簡素な修行)があり、み仏に近づきたいと思い定めたならば、即身成仏(ソクシンジョウブツ…この身このままでみ仏であると気づき、成りきること)への道は必ず開かれます。
 淳和天皇の妃の一人真井御前(マナイゴゼン)は、天皇が正子内親王を皇后として迎えた天長4年、出家を志し、修行の道へ入りました。
 しかし、密教の修行を行ってもなかなか即身成仏が体得できません。
 そこで、お大師様が御前と等身大の如意輪観音像を造り、尊像と一体になる方法を伝授したところ、ついに納得を得られました。
 たとえ地獄界にいようと、修羅界にいようと、仏心を持った存在であることに変わりはなく、その人なりに〈み仏に成り切る時間〉を持つことは可能なはずです。
 要は、まことを求めるかどうかにかかっています。
 真言を唱えたりして善き世界をイメージし、我(ガ)を捨ててそこへ入る時間をつくるかどうかにかかっています。

 まことを求めるなら何でも良いかといえば、なかなか難しいものがあります。
 ある福祉関係のリーダーが言いました。
「彼らはイヌやネコと同じだから、扱いやすいのです」
 あるボランティア活動家が言いました。
「津波で亡くなった人たちの怨みなどを受けるのは嫌です」
 利益や名誉、あるいは自尊心の満足などを求めるという煩悩(ボンノウ)をきちんと制御しないと、表面的には善いことを行っていても、肝腎な心がそれと一致していない状況になりやすいのです。
 だから、釈尊以来2500年にわたって積み重ねられてきた煩悩へ対処する方法を学ぶ必要があります。

 これで、『大日経』の説く「六十心」を眺め終わりました。
 六十心は行者への戒めですが、それは、人間修行を行う万人への戒めでもあります。
 最後がソワソワ、バタバタする心とは、また、考えさせられます。
 救いとは結局、心が落ち着き、豊かで、徳に満ち、その佳き影響力が周囲へ広がるような状態であろうと考えられるからです。
 人間修行のスタートラインとゴールラインを示す釈尊と『大日経』の教えを再掲して終わりとします。

自らを灯明とし、仏法を灯明とせよ


菩提(ボダイ…覚り)とは何であるかといえば、実の如く自分の心を知ることである


 法灯により、法友とともに、法楽に憩いましょう。



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2011
12.17

『大日経』が説く心のありさま六十景 その59 ─受生心(ジュショウシン)─

 受生心(ジュショウシン)は、前世にこだわり、来世にこだわって、今を活き活きと修行できない心です。

大日経』は説きます。

「およそ行業(ギョウゴウ)を修習(シュジュウ)して、彼に生ずることあり。
 心はかくの如くなると同性(ドウショウ)なり」


修行しているうちに、来世を頼む気持が強くなることがある。
 心は自分の来世がどうであるかということにとらわれてしまう)

 仏教は「ものごとにはすべて原因があり、それに縁が加わって、結果が出る」という道理を根本的信念の一つにしています。
 修行がそれにふさわしい結果をもたらすと信じられなければ、修行にいそむことはできません。
 また、この道理はあらゆる倫理の基礎になってもいます。
 善き行いが自他へ善き結果をもたらすのでなければ、善きことを行う必要がなくなり、そもそも、善悪の区別すら意味を持ちません。
 そして、欲しい、惜しい、つまらないなどの靄を払いつつ心の底の底へ降りて行けば、魂へ精気を与える光のようなエネルギーの本体が待っています。
 それが私たちの霊性に色合いを与え、意義づけているもの、すなわち仏性です。

 こうした因果の道理を信じ、仏性に力づけられて修行に勤(イソ)しみますが、〈理〉にこだわり過ぎるあまり、おかしな考えにとりつかれる場合があります。
 一つは、過去世にこだわって「自分の人生は、動かしようのない過去世によって宿命づけられている」というものです。
 こうした方向へ行くと、何かの原因をすぐにとりかえしようのない過去世へ求め、果ては、「〈自分は~の生まれ変わりである〉から、こうした運命を生きている」といった妄想も生じます。
 妄想は、自分を過去のイメージに固定してしまい、自分にとって〈こうありたい〉と願う未来を創造して行く自在な活力を奪います。
 もう一つは、来世へこだわって「今、善行を行わないと来世は怖ろしいことになる」という強迫観念です。
 とりつかれた人は、〈自分の来世のために〉善きことを行わねばと必死になり、いつも行動を善悪で判断しようとギスギスして、心から潤いやゆとりが奪われてしまいかねません。
 そして、他のためにならないではいられない菩薩(ボサツ)の心を忘れてしまう場合もあります。

 たとえば、西郷隆盛と共に時代を動かした僧月照が遺した「十善戒歌」を考えてみましょう。
 不偸盗(フチュウトウ)、すなわち「盗むなかれ」について詠んだ一句です。

「やまもりの ゆるさぬほどは たにかげに おちたるくりも ひろはざるなむ」


(山守の 許さぬほどは 谷陰に 落ちたる栗も 拾わざるなん)
 山守とは山を守る人々のことですが、ここではもっと幅広く、山で生きる人々、たとえば猟師や炭焼人あるいは鷹匠なども含めて考えたいものです。
 そうした人々にとって山はいのちの場であり、聖地でもあります。
 聖地にあるものは、たとえ一個の栗であっても、その存在は厳粛なものです。
 こうした感覚のはっきりしていた僧月照は、そこで生きている人々から〈与えられない〉限り、落ちている栗へ手を出せなかったことでしょう。
 また、「谷陰に」には、「たとえ誰かが見ていなくても」という意味が込められています。
 持戒は修行の根本であり、破戒は地獄行きとなりますが、ある状況を想像してみましょう。

 飢饉になり、山で栗の実を見つけた時、近くで子供がお腹をすかせていたならどうするか?
 自分へ〈与えられない〉から栗の実を拾わずに死ぬとしたら、それはそれで結構です。
 しかし、子供は見捨てるのでしょうか?
 行者なら当然、拾って子供へ与えるのではないでしょうか?
 さて、子供へ与えるのは布施行です。
 布施行は、三つの要素が清浄でなければなりません。
 与える側の心と、受け取る側の心と、やりとりされるものです。
 この場合、行者はやりとりした栗の実を無断で手に入れたので、不偸盗の戒律を破りました。

 もしも、行者に、ここで説かれている受生心(ジュショウシン)があれば、二人とも餓死したかも知れません。
 それが悪いとは言えませんが、行者が破戒によって自分が地獄へ行こうとも子供を救おうとしたのなら、栗の実を手にして渡した行為は菩薩行の範疇に入ると考えられます。
 受生心(ジュショウシン)は、こうした人生への活き活きした対応をさせません。
 修行は自他を生かす生き方へ結びつかなければ何もなりません。
 因果の道理を信じつつ、過去にこだわらず未来を恐れぬ広い菩薩の心で、仏道修行も人生修行も行いたいものです。

〈見えなくなる部分をていねいに手がける〉
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〈巧みの技が光る〉
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2011
12.09

『大日経』が説く心のありさま六十景 その58 ─穴等心(ケットウシン)─

 穴等心(ケットウシン)は、せっかっくの覚悟を、ふとしたことから崩してしまう心です。
大日経』は説きます。

「先に決定(ケツジョウ)して、彼(カレ)後にまた変改するを性(ショウ)とす」


(決心したことを後から変えてしまいたくなる)
 仏法における決定とは、出家得度から始まり、順を追って修行のレベルを上げて行く過程で踏みしめる階段のようなものです。
 まず一段目がなければ二段目へは登れません。
 二段目が固まっていなければ足をとられてしまい、三段目へは登れません。
 せっかくこうやって修行を進めていながら、ちょっと気を抜いた隙に魔が入り、レベルを上げるどころか、一気に転落してしまう場合すらあります。
 いわゆる「アリの一穴」です。
 いかに頑丈に造られた堤防でも、たった一つの小さな穴がきっかけとなって崩れてしまう危険性があるのです。
久米の仙人」もよく知られています。
 神通力を身につけた仙人が空を飛んでいたところ、久米川の辺で若い女性が洗濯をしている様子に眼を奪われ、墜落したというものです。
 仙人はその後、また修行して神通力を回復したので天皇から広大な土地を授かり久米寺を建てましたが、こうした失地回復はなかなか困難です。

 出家者であれ、在家者であれ、道を踏み外させるきっかけは常にあると考えているべきです。
 それは毎日の食事や睡眠から始まり、日々の生活のすべてに〈緩み〉という罠は潜んでいます。
 何かがうまく行った時は、なおさらです。
 慢心という魔ものはすぐ横にいて、とり憑く機会を待っています。

 今年の沢村賞を受賞した楽天の田中将大投手は記者会見で質問に応じました。
「ダルビッシュを抑えての受賞については?」
「数字で上回っていただけです。
 投手としての実力、技量は、まだ足元にも及んでいないと思います」
「これからは?」
「全ての面において、まだまだ上を目指してやらなければなりません。
 もっと進化したい。
 もちろん、一番の目標は日本一になることです」
 きっと本音でしょう。
 緩まずに日本一の投手をめざして欲しいものです。

 一方、今年最後の場所で九州優勝した横綱白鵬関は、「全勝優勝できなかったのは、早く優勝が決まり、気の緩みがあったためで申しわけありません」と観客に異例のお詫びをしました。
 優勝したばかりの弁としては違和感を禁じ得ませんでしたが、完璧をめざす横綱の偽らざる心境だったのでしょう。

 仏道をめざすならば、心を崩す魔ものがそばにいることを忘れないために「穴等心」という言葉を憶持したいものです。


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2011
11.21

『大日経』が説く心のありさま六十景 その57 ─海等心(カイトウシン)─

 何でも自分の手柄にする心です。
大日経』は説きます。

「常にかくの如(ゴト)く自身に受容して、しかも住す」


(いつもよいことを自分自身に受け、自分自身のものであるがごとくにふるまう)

 があらゆる河川の水を呑み込むように、よいものをどんどん自分自身のもとへ集め、それが自分自身であるかのごとくふるまう高慢心です。
 そして、この高慢心には、自分を欺き、他人をも欺くという穢れがまとわりついています。
 その典型が「盗作」です。
 他人の創造力が生み出した芸術的な価値や学問的な価値を、あたかも自分自身の能力の産物であるかのごとく装います。
 また、何であれ「役職」を欲しがる名誉欲もこの心に通じています。
 役割に自分をかけるだけの価値を見出し、義務感をもって就任するのではなく、立場と肩書きを持つこと自体が目的化しています。
 等心が起こった人は、自分が他人より秀でている証(アカシ)となってくれそうなものを求め続けます。

 等心がさらに歪み蔓延すれば、いわゆる「コピー」に行き着きます。
 名誉よりも、お金が欲しくなり、もはや「盗む」行為が悪であるという認識も薄れ、汚れた商売に励むようになります。
 高慢さはまだ、恥の問題です。
 しかし、自分が実利を得、正当な権利を有する人や企業の実利を奪うのは明白に罪悪です。
 コピー商売がもはや中国の文化と化してしまっている現実は、信じがたい気がします。
 自由経済が急速に進む中で、何でも自分のものにしてしまいたい貪欲さが国中を覆っているのではないでしょうか。
 チベットの土地をチベット人から奪い、文化を破壊し、抵抗する人びとを情け容赦なく弾圧する〈奪う〉姿勢が、上でも顕著になり始め、日本を含むアジア諸国の領が蹂躙され始めています。
 11月19日に行われた東アジアサミットに始めて参加したアメリカを代表するオバマ大統領は、前夜の夕食会で中国の温家宝首相と隣り合って座り、二人ともほとんど食事に手をつけぬほど熱心に話し合いました。
 その結果、翌日の会談がセットされ、両首脳は突っ込んだ意見の交換をしたようです。
 サミット本番では18か国のうち16か国が上の安全保障に言及するといった緊迫した状態です。
 経済力と軍事力を急拡大させ、アジアを呑み込もうとしている中国の動きは〈海の氾濫〉を思わせます。

 そもそも『六十心』の教えは行者へ告げられたものであり、海等心では、勝れた教えを聞いただけで自分自身が教えの体現者であるかのごとくふるまう心を戒めています。
 しかし、こうした心はさまざまに変形しながら、あるいは表面で、あるいは潜在的に私たちの考え方へ影響を与え、日常生活を動かし、さらには社会的規模、あるいは国家的な規模でもはたらく場合があります。
 海等心は霊性を磨く妨げになるだけでなく、自他に悪影響を及ぼし、さらには国家社会を乱れさせ危険へ導きかねません。
 まず自分自身の心にある海等心を克服するところから始めましょう。
 参考になる言葉を一つ。

は自分でかきましょう。
 手柄は人にあげましょう」


 こう口にしていた竹下登氏は、末期には3・9パーセントという歴史的な超低支持率を記録した内閣の総理大臣でしたが、主義主張を超えて評価する人がいまだに絶えません。
 それは、地主の家に生まれながら、若くして農地解放に率先して取り組み、総理大臣になってからは「一内閣一仕事」を掲げ、権謀術数渦巻く政界で実際にこの言葉を実践しようとしていたからではないでしょうか。

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2011
11.14

『大日経』が説く心のありさま六十景 その56 ─弥廬等心(ミルトウシン)─

 謙虚さを忘れた高慢な心です。
大日経』は説きます。

「常に思惟(シユイ)の心、高挙(コウコ)なるを性(ショウ)とす」


(いつも自分の考えが最高であると思い上がっている)

 弥廬(ミル)は、宇宙の真ん中にある最も高い山とされる「須弥山(シュミセン)」のことです。
 頂上から上空にかけて帝釈天(タイシャクテン)などの神々が住み、私たち人間は山の裾野に住んでいると考えられました。
 いい気になっている状態を「有頂天(ウチョウテン)になっている」と言いますが、有頂天はこうした神々の世界の一部であり、「まるで自分が神様の世界に入ったかのように思い上がっている」ことを指します。

 とてもよい仕事ができたり、鋭いヒントを得たり、高い評価を受けたりすると、「私もまんざらではない」と嬉しくなります。
 この程度なら、その気持は自信や勇気や希望に結びつき、さらにやる気が出て良い循環をもたらします。
 しかし、有頂天のような〈てっぺん〉に立ったという勘違いまで行くと、黒い慢心が生じます。
 作家高任和夫氏は、各界の著名人とのインタビューをまとめた『仕事の流儀』を「能(ヨ)く生きることは、能(ヨ)く働くことと見つけたり」と総括しています。
 彼が会った一流と言われている方々は一様に謙虚で、それぞれの分野で懸命にはたらくことが、そのまま、まっとうにいのちの火をもやすことになっていると言うのです。
 実際に、氏の口から「思い上がっている人なんか誰一人いなかったよ」と聞かされ、とても納得できました。
 やればやるほど〈その先〉が開けてきて、いつも〈もう一歩〉前に踏み出さないではいられないと感じていたからです。

 そもそも、私たちは全員、精神も肉体も限定された条件の中でのみ、生きています。
 頭では完全な正三角形を思い描いても、それを手で書くことは不可能です。
 心では誰にでも思いやりを持ちたいと願っても、嫌な人や憎い人やけしからんと思う相手には心の刃を向けがちです。
 急に走り出した孫が危ないから止めようと思っても、足がもつれて追いつけないかも知れません。

 双葉山と白鵬、連勝をはばまれた二人の大横綱が約70年の時を超えて同じ思いになりました。
「未(イマ)だ木鶏(モッケイ)たりえず」
 木鶏(モッケイ)は中国の故事にある言葉で、闘鶏の鶏が名人に鍛えられると、まるで木でつくられたかのように泰然自若として、相手の闘志を萎えさせてしまうという意味です。
 しかし、勝負師も木鶏(モッケイ)の境地まで行けば百戦百勝になるかどうかはわかりません。
 肉体は必ず衰えるからです。
 もちろん、年をとれば衰えつつある肉体をうまく用いる技術も磨かれることでしょう。
 そこには、若いうちは決して理解、体験のできない醍醐味もあるはずです。
 でも、いつかは斃れます。
 その時まで工夫や鍛錬は続き、きっと〈その先〉も靄の向こうに見えつつこの世での役割を終えるのではないかと考えています。

 また、私たちは何をやるにしてもまず、生きていなければなりません。
 生きているとは、ものを食うことです。
 食うとは、他の生きもののいのちをもらうことです。
 もっと言えば、他の生きもののいのちを奪うことです。
 魚も鳥も稲も、決して自分から死にはしません。
 人間が殺すのです。
『日本のもと 神さま』に、狩猟時代のご先祖様の心を描いた印象的な一節があります。
「ヒュッと矢があたって、一頭のシカがたおれました!
 傷口からドクドクと血を流し、死んでいく目の前のシカ。
 それを見て『やった!』という満足感と、『すまなかった……』という思い、そして飢えをしのげることへの『ありがとう』という気持がわいてきたなら、それこそが『信心』のめばえです」
 食べられる喜び、いのちを奪われたものへの詫びと感謝、そして生きられる嬉しさ──。
 こうした自分が生き、生かされている現実の足元を忘れなければ、心は浮(ウワ)つきません。

 誰でも、ことがうまくはこべば嬉しくなります。
 そこでこそ、足を地に着け、もう一歩先を見ましょう。
 また、足元を見て、生かされていることに感謝しましょう。
 そうすればここで説く慢心にやられず、きっと、もう一歩先へ進めることでしょう。

〈隠形流行者藁科昇さんが撮った門脇小学校とダライ・ラマ法王
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「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」※今日の守本尊不動明王様の真言です。
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