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2013
11.08

戒名料やご葬儀料の決め方(2)

20131108DSC00021.jpg

 ゆかりびとの会会員Aさんから、「戒名料やご葬儀料の決め方─〈相場〉へ逃げず、人生の大事については自分で考え判断しましょう─」を読んだご感想をいただきました。
「確かに住職が書いたとおりだと思いますが、本当にまごころに応じてご本尊様へお布施をすると莫大なものになってしまうので、皆さん、困るのではないでしょうか。
 お金に余裕がなければ、どうしようもないのではないでしょうか。
 大きなお布施を求めている、あるいは、貧しい方々を切り捨てるといった誤解もありはしないでしょうか」

 お応えしました。

 私は「申しわけない」と思いつつ、お布施をしています。
 それは、み仏を対象とするご喜捨だけの話ではありません。
 わけへだてなく生きとし生けるものを潤す水の心で布施行を行う時は、決して「こんなに納めた」とか、「これだけしてやった」という考えにはなりません。
「これしかできないけれど、せめてこれだけでもさせていただく」
 こうでしかあり得ません。
 なぜなら、いかなる場合も、布施をする相手の〈おかげ〉は大きく、自分は非力で、〈おかげ〉の大きさや重さに比べれば、自分のできることなど、たかが知れています。
 謝りたくなるのは当然です。

 娑婆にいた頃の私は、こうは考えられませんでした。
 だから、人生を左右するような大問題に関して、み仏へ願をかけた時も、そして成就した時も、さしたることはしませんでした。
 お金をけちったというよりは、それでも結果として〈間に合った〉からです。
 ここで言う〈間に合った〉とは、時の流れの中で支障なく、ことがはこんだという意味です。
 み仏へお布施を差し出すことは、商売上の取引とあまり変わらない、み仏との〝やりとり〟の一部でした。
 み仏はご加護をくださり、私はお布施でお返しをしたのです。

 しかし、本格的に仏道を歩み始め、驚きを伴って気づきました。
 仏神のご加護はあまりにも大きいのです。
 国や社会の恩、親やご先祖様の恩、生きとし生けるものの恩、師の恩、そして仏法僧の恩はあまりにも大きいのです。
 それに対して、自分は何をさせていただけるか?
 日夜、安全と生存を保証する国家社会へいかなる恩返しができるか?
 生み育くんでくれた親、輪廻転生(リンネテンショウ)しつつ私の心身へとその影響力を及ぼしている無限のご先祖様方へいかなる恩返しができるか?
 たとえ何をしようとも、すべては「これしか」の範囲を超えられません。
 そして、〈する〉のではなく、すべては〈させていただく〉のです。
 なぜならば、布施や恩返しといった善行は、仏神や社会や親といった相手があればこそ実践できるのであり、善行の実践はすべて善業(ゼンゴウ)となり、自分の未来をよきものとする力として見えぬ世界へ蓄積されるからです。
 実践を可能にしてくださる相手は常に、自分よりも気高く、尊く、文字どおり有り難い存在です。
 真の布施も恩返しも、遜(ヘリクダ)る心からしか実践できません。
 ここが欠けていれば、前述のような〝やりとり〟に堕してしまいます。

 ある日、岩沼市で〈読み聞かせ〉を行っているグループのリーダーBさんから小冊子『おとしぶみ』をいただきました。
 東日本大震災で被災した方々から聴き取った話を手作りでまとめられたのです。
 その時、80才を超えたBさんの口から、「私にはこれしかできません」という言葉が添えられました。
 胸も言葉も詰まってしまった記憶は今も鮮明です。

 ある日、関東在住のCさんから突然、お布施が振り込まれました。
 Cさんは困難を抱えながらも、世のため人のためになれる自分をめざし、学びつつ生きようとしておられます。
 一通の短いメールが届きました。
「み仏に対する信仰が強まり、ご縁の皆様にご加護がありますように。」
 ご自身の生活費を切り詰めてお送りくださったお布施は千金の値があり、私などにはあまりの重さです。

 ある日、ご自身の〝その時〟に備え、年金から積み立てておられるDさんからご葬儀のご依頼がありました。
 独り暮らしの妹さんを亡くされたのです。
 ほとんどが年配者数名の家族葬でしたが、しきたりをふまえた手ぬかりのない見事なものでした。
 ご自身の人生をかけた最後の仕事の一つとして妹さんをきちんと送るため、常日頃からどれだけの思いで準備をされていたのか。
 覚悟と節約の日々を想像しようとしても、私などには到底、できません。

 ある日、大病を抱えたEさんのご主人から、当山の『みやぎ四国八十八か所巡り道場』へご寄進がありました。
 Eさんは若き日、四国八十八か所をお詣りしていた時、子供の頃に拝んでいたある菩薩様とめぐり会い、ご自身の守本尊であると深い確信を持たれました。
 いつ、どうなるかわからない状態に陥り、人生最後の仕事として、その菩薩様がご本尊様となっているお堂を造りたいと決心されたのです。
 ご高齢でもあり、ほとんど当山へ足を運ばれないEさんの篤い願いに、さらなる精進へと奮い立たせられました。

 前回の文章で「まごころに応じて」と書いたのは、〈おかげさま〉の真実に立ち、損得や計算による〈やりとり〉でなく、〈させていただく〉姿勢こそが真の布施であり、それは大きな善業(ゼンゴウ)となって実践する方の未来を尊く気高い方向へと導くからです。
 そして、その方の実践は、ご本人の未来を明るくするだけでなく、お線香の香りが周辺へ広がって周囲の人々の心を潤すのと同じく、周囲の人々からもよき心を引き出し、この世を浄土にするための大きな力ともなるからです。
 Bさん、Cさん、Dさん、Eさんの実践に感じとっていただけるとおり、決して、金額そのものの問題ではなく、まごころ、すなわち心の清らかさの問題であることをご理解いただきたいと思います。

 Aさんから「わかりました。皆さんにご理解いただければいいですね」とご返事いただき、ホッとしました。




 原発事故の早期終息のため、復興へのご加護のため、般若心経の祈りを続けましょう。
 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
https://www.youtube.com/watch?v=IY7mdsDVBk8





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2013
07.23

「脱『檀家』宣言」から3年が経過して

 平成22年7月21日、河北新報へ「脱『檀家』宣言」が掲載されてから、3年が経過しました。
 寺院にご先祖様を頼んでいるという意味の檀家にとらわれず、寺院の理念や活動へ賛同するという自主的判断によって寺院へ足をはこんだり、寺院を支えたりする純粋なサポーターによる「ゆかりびとの会」も、順調な活動を続けています。
 会員の方々は、毎月、定期的に届く機関紙「ゆかり人」を読み、学び、行事予定を知り、余剰資金で寺院の経営を支え、御幕や手水場や「みやぎ四国八十八か所巡り道場」のお堂などを造ってきました。
 また、草刈り奉仕やお花見や芋煮会なども行ってきました。
 役員の方々は毎月一度、必ず定期的に役員会を開催し、寺院の活動の柱となってきました。

 そもそも、寺院は、聖職者が行う修法による法施(ホウセ)と、サポーター(真の檀信徒)さん方による財施(ザイセ)とによって成り立っています。
 サポーターさん方は、寺院で行われる修法による救いを信じてモノや労力を捧げ、寺院を信頼しています。
 寺院は、サポーターさん方によるご助力を信じて修法に励み、信徒さん方を信頼してます。
 互いに信頼し合えるのは、ご本尊様がおられるからです。
 そして、ご本尊様は、いかなる仏神を信じる方をも排除せず、見守っていてくださいます。
 だから、サポーターの方々はあらゆる宗派にわたり、無宗教の方などもおられます。

 今、法楽寺は、「人が生きる」という原点に立ち、人が真に自立し、信頼し合う人々が支え合って生きるということを実感としてつかむ道の一つとして『法楽農園』の聖地化を目ざしています。
 自分たちで作り、自分たちで分け合う米も野菜も、他の生きものの生活を許さない農薬や土の力を抑制する化学肥料を用いず、自然からの〈恵み〉として与えられるものです。
 恵みを施す空間には、お地蔵様や守本尊様が祀られ、お見守りいただいているという真実を感じることができます。
 完成した『法楽農園』へ足をはこばれれば、私たちのいのちは大自然の中のどこにあるか、インスピレーションとして把握できることでしょう。
 また、土の力、生きものたちの息吹、そしてみ仏方のご加護も感得できることでしょう。
 
 サポーターの方々、また、新たな「摩利支天(マリシテン)ネット」を通じてのご縁の方々、そして当山へ関心を持つあらゆる方々と共にまごころのをつくり、次のステップを目ざしてゆきます。
 このは、誰かを騙そうとしたり、自分だけが儲けようとしたりする欺瞞や悪意を含むただのネットではありません。
 真実を求め、自他の救いを求め、誰かのためになりたい人、つまり菩薩道(ボサツドウ)を歩む人々によるです。
 このには、よりよき未来をめざす祈りが込められています。
 必ずや仏神のご加護があることでしょう。




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2012
06.07

『自分の感受性くらい』『寄りかからず』 ─檀家や戒名の問題についてご相談を受ける時─

20120605 004
(「みやぎ四国八十八か所巡り道場」は着々と進んでいます)

 最近、また、檀家というものへの疑問、あるいは檀家から抜ける方法、また、戒名への疑問、あるいは戒名の意味を知らない不安、こうした問題に関する人生相談が増えています。
 ご相談に来られる方々はどなたも、自分で持っている判断材料だけでは決断ができず、そうかといって、いいかげんに思考停止へも逃げず、誠実です。
 中身について納得できる説明のないままに慣習だけで何かをせねばならない不合理、それも結構な金額になる出費をともなう事実上の義務に根本的な疑問を抱かれる方々は誠実です。
 流行の過激な意見に流されず、新聞などの統計にオタオタせず、伝統文化の意義をきちんと検証・理解した上で安心の道を探ろうとする方々は誠実です。
 こうした方々の誠実さへ、私たち祈りのプロは、それに負けない誠実さをもってお応えせねばなりません。

 人生相談という一期一会の真剣勝負に臨む時、ふっと念頭をよぎる二篇の詩があります。
 一篇は、故茨木のり子の『自分の感受性くらい』です。

「ばさばさに乾いてゆく心を
 ひとのせいにはするな
 みずから水やりを怠っていて

 気難しくなってきたのを
 友人のせいsにはするな
 しなやかさを失ったのはどちらなのか

 苛立つのを
 近親のせいにはするな
 なにもかも下手だったのはわたくし

 初心消えかかるのを
 暮らしのせいにはするな
 そもそもがひよわな志にすぎなかった

 駄目なことの一切を
 次代のせいにはするな
 わずかに光る尊厳の放棄

 自分の感受性くらい
 自分で守れ
 ばかものよ」



 夫に先立たれ、50才を過ぎて独り暮らしになった詩人は自分を叱咤激励します。
 心が乾く。
 気難しくなる。
 苛立つ。
 初心が消えかかる。
 抗しきれぬほど駄目なことがある。
 起こってくるこうした状態を自分で主体的に引き受けられず、あるいはそれに流されて克服できないのは、詩人のいのちである感受性が枯渇しかかっているせいであると認識し、「このばかものめが!」と自分を叱りつけています。
 私も、自分の修法は大丈夫か、惰性に流されてはいないか、と自分をチェックする思いで袈裟衣を身に着けます。 

 もう一篇も、やはり茨木のり子氏の『倚りかからず』です。

「もはや
 できあいの思想には倚りかかりたくない 
 もはや
 できあいの宗教には倚りかかりたくない
 もはや
 できあいの学問には倚りかかりたくない
 もはや
 いかなる権威にも倚りかかりたくない
 ながく生きて
 心底学んだのはそれぐらい
 じぶんの耳目
 じぶんの二本足のみで立っていて
 なに不都合のことやある
 倚りかかるとすれば
 それは
 椅子の背もたれだけ」



 73才の詩人は、自分の耳目で確認できる世界にいて、自分の二本足で立っていれば、あとは何も確かなことはない、もし、心身をまかせる場所があるとすれば、せいぜいがイスの背もたれであると達観しています。
 宗教者としての私も、「できあいの宗教」に「倚りかかって」はいられません。
 昨日も、「自分は宗教は不要であると思っています。これまで宗教によって救われた人数と宗教によって殺された人数を考えてみてください」と厳しく迫る方を含む現場でお話をさせていただくありがたくも貴重な体験をしました。
 こうした現場で役に立つのは、血肉になったものでしかありません。 
 真の帰依(キエ)は決して「倚りかかり」ではなく、「じぶんの耳目 じぶんの二本足のみで立って」いながら、み仏と一体になって力とし、み仏の教えと法力をもって歩む不断の修行です。
 詩人と同じく、こうした日々には「なに不都合のことやある」です。
 そして、私にとっての何よりの「背もたれ」は、善男善女の安心や喜びのご様子です。
 今日も「ばかものよ」と叱咤し、「なに不都合のことやある」と歩みます。
 皆さんの誠実な疑問へ誠実にお応えする方法はここにしかないと思っています。

※ようやく冊子『「脱檀家」宣言』(A5版299ページ)と『戒名の真実』(A5版187ページ)を増刷しました。
 ブログへ書いた現場での思いの断片集です。
 檀家戒名についての真実を知りたい方は、どうぞ郵送をお申し出ください。
(ご志納金の目安は1000円です。手元不如意の方へもお送りしますので、ご遠慮なく)

20120606006 (2)

20120606005 (2)

※住職の秘書兼事務員のような形でお手伝いいただける方があれば、9時から17時までの間にご一報ください。
 当山の姿勢に共感し、パソコンが使え運転できる40才~50才くらいの健康で口が堅い女性なら、それほど難しい仕事ではありません。
(この件は住職の専権事項なので、住職以外の関係者へは勤務条件など一切お問い合わせをされませんよう。必ず事前に日時をお約束の上、履歴書を持参しておでかけください)



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2012
03.25

お堂の建立や修復はどう進めればよいのか

 東日本大震災後、こうしたご相談が急増しています。
「どうやってお堂建て替えたらよいのでしょうか?」
「どうやって莫大な修復工事をまかなったらよいのでしょうか?」
 もちろん、他山の住職からではなく、困惑した、あるいは苦しんでいる、あるいは悲しんでいる、あるいは怒っている総代さんなどからのご質問です。
 そこで簡単に私見をまとめてみます。

○やるべきこと

1 工事の必要性と予算を明確にする。

 なぜ、いかなる建物が必要なのか、住職聖職者として宗教的必要性による判断を行い、寺院を支えていてくださる方々からのご意見にも耳をかたむけ、理想の旗を立てるのがスタートです。
 聖地における宗教行為を行うための建物なので、その真の意味と価値は聖職者にしか判断できませんが、それがご本尊様へ帰依する方々のお心とかけ離れていてはならないので、チェックを受ける必要はあります。
 もちろん、同じ宗派内で規模の順番を争うなど、宗教的必要性以外の世俗的価値判断が入ったりしてはなりません。
 そうした穢れが取り付くと、理想が真の理想でなくなります。
 もしも穢れた計画が成功した場合、住職は世俗的価値で動いたという過ちを犯し、旗振りをされた方々にも余分な慢心が生じ、苦しんだり怒ったりしつつご寄進した方々にとって、仏縁そのものが〈やっかい〉と感じられてしまいかねません。

2 必要性を広く訴え、皆さんのご誠心に任せてご寄進を募る。

 寺院は、ご先祖様を託しているお宅だけのものではありません。
 なぜなら、ご本尊様はみ仏であり、み仏は、導き、救う相手を決して選ばないからです。
 寺院はそうした真の意味で公的性格を有しているので、寺院の宗教的必要性は広く開示され、それに同感、納得、賛同してくださる方々のお心全体によって造られ、維持されるべきです。
 また、ご寄進は当然、真の布施という行為によって行われねばならず、住職も、推進してくださる方々も、必要性に耳をかたむける方々も、真の布施の何たるかを明確に認識してからことを進めるべきです。
 ご寄進が正しい宗教行為である布施となるためには、三つの条件があります。
 布施する方にとっては、完全に自発的であり、見返りを求めず、感謝が伴うこと。
 布施を受ける側にとっては、宗教的理想以外のものを持たず、受ける布施の内容によって中身も相手も区別せず、すべてをご本尊様へ納められるものとして徹底的に尊び、相手へも等しく感謝すること。
 布施される金品は、正しい方法によって得られたものでなければならず、勤労奉仕などにあっても、余分な思惑を伴わないこと。
 これがご誠心による布施です。

○やってはならないこと

1 いわゆる〈頭割り〉によるご寄進の実質的強制。
 
 これが仏法を穢し、檀家本来の意味を歪め、寺院を堕落させ、寺院へ不信を抱かせ、ひいては仏教離れや寺離れをもたらす諸悪の根源であることは、当山の「脱『檀家』宣言」に詳しく述べてあります。
 聖なる修行道場であるべき寺院は、真の布施によってのみ成り立たねばならないし、真の宗教行為がなされていれば、み仏が必ず成り立たせてくださるはずです。
 
2 住職の私財の秘匿。

 住職は出家得度した聖職者であり、基本的に、私財を蓄えることはあり得ません。
 だからこそ、清々しい心で理想を掲げ、後ろめたさを持たずに善男善女へご寄進を呼びかけられるのではないでしょうか。
 たとえば1億円の建物を造る時、住職が最初に3千万円を寄進して、差額を檀家さんからのご寄進でまかなおうとするケースなどには問題があります。
 まず、住職が個人的に3千万円を蓄えていたことは理解を得られないでしょう。
 住職は、ご本尊様へ納められるありがたいお布施で生かしていただいている行者なのだから、蓄財などせず、一切合切を投げ出さねば先へ進めません。
 もしもこうなってしまった場合は、住職が檀家さんと同列に奉加帳へ名前を連ねたりせず、3千万円と言わずありったけの私財が宗教法人へ寄進され、宗教法人はそれを含めて準備できる総額を計画のベースとして提示すべきです。
「私腹を肥やす聖職者」は最悪のイメージであり、仏法を貶める元凶です。

 以上、未熟な私見をざっと述べました。
 原理原則に則り、ことを単純化して純粋に進めれば、み仏が道をつくってくださると信じているのですが……。
 皆さんの望まれる良き計画が順調に進みますよう。合掌

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〈まだ、池には氷の張る朝です〉



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2011
10.07

「葬式や年忌供養はお寺に頼みたいが、檀家にはなりたくない」という話をよく聞きますが、どうなのでしょうか?

 まず、「檀家とは何か?」が問題です。
 今の日本では、「おのある寺院」もしくは「位牌やお骨を預かったりして供養を頼んでいる寺院」という感じでしょうか。
 しかし、実はこの言葉の原意と実態の間はかなりかけ離れており、これだけ寺院や葬儀のあり方が問われているので、根本から考え直してみる必要があります。

 では、檀家とは何か?
 檀家はインドの言葉「ダーナ」に発し、ダーナつまり布施をする人、もしくは布施をする家です。
 だから、檀家という言葉は、おやお骨の問題より先に、尊い布施を行うというところに核心があります。
 そして、布施は相手のために見返りを求めずに行うものです。
 布施の行為は自分自身の人生修行になるので、布施行と称されます。
 それが寺院と娑婆の方々との間で成り立つ時、寺院は「法施(ホウセ)」という修法による布施を行います。
 法施に際しては、奴隷の姿をした不動明王と同じく皆さんの僕となって、何としても皆さんの願いに応えられるよう、一心に勤めます。
 一方、娑婆の方々は「財施(ザイセ)」と呼ばれる財物などによる布施を行います。
 財施に際しては、もの惜しみしたり、損得勘定をしたりせず、徳積みをさせていただくという清浄な気持で捧げます。
 こうして、僧侶を仲立ちとして、娑婆の方々はみ仏に守られ、み仏のおられる寺院は娑婆の方々によって守られます。
 互いに相手のためになることによって自分が守られ、真の布施が成り立ちます。

 では、現状における檀家のありよう、寺院のありようはどうなっているか?
 双方共に、本来の姿から遠ざかりつつあるのが実態ではないでしょうか。
 もちろん、こうなった一番の原因は、いわゆる檀家さんを寺院に〈所属〉しているお宅ででもあるかのように勘違いし、寺院の都合で葬儀料や戒名料や本堂の修理費などを〈請求〉してきた寺院の側にあります。
 寺院は〈この世の幸せとあの世の安心〉を求めるすべての方々のために開かれた公器であることを認識し、相手をわけへだてせずせず本来の法務に専念すること。
 また、あくまでも自主的で清浄なお布施でのみ寺院を維持して行く覚悟を新たにすること。
 そして娑婆の方々は、いかなる僧侶によっていかなる法務が行われている寺院であるかをよく調べ、信頼できる寺院へ人生相談や葬儀や供養を依頼すること。
 また、ご本尊様がおられる寺院を自分で都合良く利用しようとするだけでなく、この世もあの世もお守りくださるご本尊様のおられる寺院を支えるために感謝のこもった布施を行い、それによって我欲を離れる人生修行とすること。

 このように檀家も寺院も基本に立ち返った姿になれば、冒頭の考えは生じなくなることでしょう。
 僧侶や寺院を信頼し、何かを依頼するのであれば、当然何らかの形でダーナ(布施)をする人、つまり真の意味の檀家さんになるはずだからです。
 檀家さんは、地の永代使用契約を行った人やお宅に限りません。
 冒頭の考えに含まれる「縛られる」という感じは、寺院の側が本来のありようを取り戻せば、きっとなくなることでしょう。
 檀家さんもまた、せっかく選び、縁となった寺院に学び守られて行こうとするならば、自発的に檀家である関係を継続することでしょう。
 また、せっかくここまで読まれた方々の中に、「み仏に救われたいが、み仏のためになる布施はしたくない」と考える方はおられないと信じています。

 当山はこうした考え方から昨年「脱『檀家』宣言」を行いましたが、ありがたいことに、それまでの檀家さんは離れず、結果的に新たなご縁が増えました。
 難しい問題にあたっては、ものごとを道理という尺度で根本から考え直し、判断し、行動したいものです。

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