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2014
05.10

目に見えている世界と観えていない世界 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(33)─

20140510023.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第6章 宇宙法則 ―大宇宙の真実が語りかけるもの―

1 時間の概念

自然法則の一切が、空(クウ)の中に含まれる

自然界の話をしよう。」

 
 前章では、生きものとして必ず兆してくる欲望を適切に生かすための方法として、私たちが他者との関係性の中でしか生きられないという真実、生かされているという真実を観ることの大切さが説かれた。
 ここでは、そうした他者を含む現象の世界、私たちがたった今〈いる〉この世界を考える。
 それを「自然界」と言う。

自然現象宇宙に生起(ショウキ)し、消滅し、繰り返す、この世界に起こることどものことである。
 仏教的宇宙観から眺めると、究極の事実、あるいは究極の事象と呼ぶべき、われわれが遭遇する現象を捉えようとするとき、それがわれわれに対して現れた現れ方と、実際にそのものがある『有り様(サマ)』との間には、埋めがたい大きな溝がある。」


 仏教は何よりもまず〈観る〉宗教である。
 何を?
 現象世界の真実のありようを。
 何を用いて?
 心眼と道理を用いて。
 どうやって?
 見え、聞こえ、香ってくるもののペースに乗せられず、そうしたことごとが起こり、消える様相の全体を直感的に把握する精神状態をつくることによって。

 お釈迦様が、成道(ジョウドウ…悟りの成就)をされる直前、魔ものたちがありとあらゆる強迫と誘惑で妨害する。
 しかし、明けの明星が現れるのを待っていたかのように魔ものたちはすべて退散し、お釈迦様は一夜にして悟られた。
 これはいかなる状況か?

 凡夫としては、乳が欲しい、食べものが欲しい、オモチャが欲しい、友人が欲しい、服が欲しい、異性が欲しい、家族が欲しい、財産が欲しい、称賛や名誉が欲しい、思うがままにする権力が欲しい、妨げられない眠りが欲しい、いつまでも生きていたい、あるいは死んで楽になりたいといった欲望、一生のうちに現れるすべての欲望を体験されたのだろうと想像する。
 それが、ダライ・ラマ法王の説く「われわれが遭遇する現象を捉えようとするとき、それがわれわれに対して現れた現れ方」である。
 私たちが「遭遇する」現象は、欲望を引き出すきっかけとしてしか現れない。
 お釈迦様は、真理真実をつかもうとする不動の決心によって欲望を引き出されない境地に至り(これが魔ものたちの退散)、「実際にそのものがある『有り様(サマ)』」を観た。
 これが悟りである。
 だから、お釈迦様は悟られた当初、ご自身の法楽に憩うのみであり、説法などは考えもしなかった。
 梵天(ボンテン…インドの最高神)に説法を勧請(カンジョウ…請い勧めること)されたおりに断ったのも、見聞きするものに欲望を引き出されつつ生きる人々が、欲望を引き出されない世界を理解できるはずはないと考えたからである。

「わたしのさとったこの真理は深遠で、見がたく、難解であり、しずまり、絶妙であり、思考の域を超え、微妙であり、賢者のみよく知るところである。
 ところがこの世の人々は、執著のこだわりを楽しみ、執著のこだわりに耽り、執著のこだわりを嬉しがっている。」
「わたくしが理法を説いたとしても、もしも他の人々がわたくしのいうことを理解してくれなければ、わたくしには疲労が残るだけだ。
 わたくしには憂慮があるだけだ。」

 しかし、梵天は二度、断られてもなお、救いを待っている人がいる、理解できる人がいると訴え、三度目に至りお釈迦様はついに説法を決意する。
 ダライ・ラマ法王が指摘する「埋めがたい大きな溝」を埋める新たな難行に挑んだのである。




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2014
05.05

爪を立てて欲張る心に平安は訪れない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(31)─

201405050142.jpg
〈5月4日早朝、例年通り、中山平温泉『琢秀』さんの水子地蔵様をご供養しました〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ死の謎』を説く」である。

第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

2 相互依存の精神

○外的な価値を信じる者は、破滅の道を辿る

「人間は、往々にして外的な価値を信じる。
 人生の回答を金に求める。
 あるいは、力に求める。
 その結果、人間は破滅へと到達する。」


 ダライ・ラマ法王は、財物や地位や名誉そのものを求める人生は必ず破滅すると説く。
 

「外的な価値を追求すれば、その必然的に至るところは破滅でしかない。
 権力欲と金にまみれて転落してゆく多くの国の政治家を例に挙げる必要もないほど、これは自明のことである。」


 世界中の権力者たちが哀れな末路を披露し続けている。
 庶民は正義の実現に快哉を叫びつつ、うっぷん晴らしも行い、自分たちにも潜む物欲や名誉欲が異様に膨張し破裂するさまを目にして驚き、あきれる。
 それでもなお、自分の欲望を深刻に省みはしない。
 大したことはない、とたかをくくって生きている。

「名声を惜しみ、地位を惜しみ、それでもなお、人は自己の欲望を抑えるのにいかに苦労するかという実例は、いくらでもある。
 未来を見通すことができず、自己の欲望を統御できず、欲望を満たすことが本物の内的な欲求であると勘違いしたものは必ず破滅する。
 政治家だけではない。
 ラマ僧であろうと、禅の高僧であろうとも、この道筋を破滅へと辿るものは少なくない。」


 今、中国でも韓国でも政府要人たちに対する国民の目は厳しくなってきている。
 平成26年2月5日、新聞各紙は、国連の『子供の権利委員会』が、「世界各地でのカトリック聖職者による未成年者への性的虐待問題に関する報告書を公表し、ローマ法王庁(バチカン)の対応は不十分と厳しく非難した上、関与した聖職者の即時解任や司法の捜査を求めた」と報じた。

○快楽の誘惑は。至福の生命への障害となる

「社会の一員として生きながら孤立していると感じたり、多くの人々とともに暮らしながら孤独を覚える若者が増えている。
 それが原因で、現代、若者は自らの欲望に充足だけに走りがちであると言われる。
 特に欧米、日本などの豊かな国々の若者たちに、金とセックスに溺れるものたちが増えている。
 彼らにとって、よりよい道、自らの人生を生きるよりよい方法はあるのだろうか。」


 モノ金に恵まれた「欧米、日本などの豊かな国々」でこそ、「金とセックスに溺れるものたちが増えている」とは、悲しい現実である。
 人は〈食うに困らなくなった〉時、何をするのかという哀れな実態が見えているのは情けない。

「常にそうだが、過ちを見出すことは何の造作もないのだが、その正しい回答を得ることはひじょうに難しい。」


 財欲(モノ金が欲しい)・色欲(異性と交わりたい)・食欲(うまいものをたらふく食べたい)・名欲(有名になりたい)・睡眠欲(思いっきり眠りたい)という五欲によって次々と過ちが引き起こされている。
 しかし、私たちにとって五欲はもはや空気のような存在なので、過ちを処理し再発を防ぐための「正しい回答」はなかなか見つからない。

「今日、なぜ若者たちがそのようになりがちなのか。
 もちろん、いくつもの原因、因子が求められる。
 彼らは、大都市で生きるとき、四六時中、さまざまな快楽の誘惑に自らを曝して生きている。
 物質の誘惑、快楽の誘惑は、毎日、より広範囲になり、それを獲得するのにより容易くなりつつある。
 これら外的なものはある種の幸福をもたらしはするが、却って内的な世界にしか見出せない平安、至福の生命を得るには障害となる。」


 モノ金が手に入っても、それは一時的な安心や満足やを生むのみであり、もの惜しみやなくす不安や、ない人への軽蔑や高慢心なども併せて起こる。
 異性と親しくなっても、快楽を楽しむ一方で、失いたくないという執着心や心変わりへの疑念や思う通りになってくれないことへの怒りなどに悩まされもする。
 こうしたものに溺れている限り、「内的な世界にしか見出せない平安、至福の生命」は関心の外にある。
 もしくは葛藤や失望の果てに、求められずにいられないものとして意識へたち顕れる。

○家族は、若者の精神形成に重要な役割がある

「外的な要素を重視する人生のスタイルを選ばせる理由としては、まず生活環境の影響が考えられる。
 田舎に生きる若者について考えてみよう。
 彼らは、より少ない誘惑の中で生きている。
 物質的な誘惑にも快楽の誘惑にも、都市に生きるものよりは、彼らのかかわりは浅いと言えるだろう。」


 法政大学総長田中優子氏は、『鄙への想い』に書いた。

「生産共同体だからこそ、鄙と都はかつて相互依存関係にあった。
 都は鄙の生産物をさばき、流通させ、貨幣と交換する。
 鄙の技術力が高ければ高いほど、都が商品をまわす活力は強くなった。」

 田舎は生産共同体であり、個人の社会定期位置は、都会ほど浮遊的ではない。
 山でも田畑でも、短いスカートは無用である。
 山里に住む者として、目に見えぬ〈節度〉が都会よりは濃く存在している実感を持っている。
 誘惑への「かかわりは浅い」。

「次いで、家族の影響は無視できないほど大きい。
 貧しくても自分たちの暮らしに有意義な意味を見出している家族もあれば、豊かでありながらより多くの物質を求め、常に金と物とに飢えている家族もあるだろう。」


 古来言われてきた「三つ子の魂百まで」は、科学的にも事実とされつつある。
 岡潔博士はこう指摘した。

「生後3ヶ年を童心の季節と、私は言っている。
 何故そう言うかと言えば、この時期にはまだ子供には自分(自我)と言うものが無いからである。
 この時期に子供は家庭と言う環境から取って、自己の中核を作ってしまう。
 これは其の後には(宗教の力によらなければ)もう変えられないのである。
 だからこの時期の家庭は十分よくなければいけない。
 取り分け母親は子を可愛がってやらなければいけない。
 母親が職業の為に昼は子供から離れて、夜だけ十分可愛がってやるのでは足りないか、と聞かれても、ここの研究は非常に難しくて、そんな細かい点まではまだわかっていないのである。
 だから十分大事をとって、そんなことはしないようにして欲しい。」

 私たちのほとんどは、3才あたりまでの人生を記憶していない。
 しかし、そこで親が何を大切にしながら生き、いかなる心で子供を育てていたかによって、私たちの「自己の中核」がつくられる。
 ありがたくもあり、恐ろしくもある。
 世の親たちには、よくよく心していただきたい。

「だが、心すべきだ。
 貪欲は、あなたを決して平安な暮らしに導いてくれることはないことを。
 貪欲は破滅への道であることを。
 したがって、家族の絆は決定的に重要であると言わねばならない。」


 親が貪欲すなわち、「人のものを(正当な方法によらず)自らが所有したいと願う気持が強ければ、子供も貪欲になりかねず「平安な暮らし」は訪れにくい。
 そうした家庭環境ではなく、他には代えられない家族間の絆をこそ大切にする親であり、子であれば、「平安な暮らし」にきっと手が届くことだろう。



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2014
05.02

よい利己主義もある ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(29)─

20140501008 (2)
〈池に咲く花〉

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〈『木香舎』増野繁治氏の道場 2〉

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第5章 欲望について ―快楽と至福の喜びはどう違うのか

1 幸福の追求

○質の悪いエゴが、利己主義を蔓延させる

「だが、このような正しい欲望とは反対に、道徳原理や掟など眼中にない欲望もある。
 闇雲に《欲しい》という欲望である。
 他人が何を言おうとも、ひたすら、ただ欲しい、と欲する欲望である。
 その手の欲望は、将来それがどのような影響を及ぼすかもまったく考慮しない。」


 とにかく欲しいというのは、〈万事我がため〉の邪知(ジャチ)による。
 邪知がはたらいているうちに、〈おかげさまを知らぬ〉妄知(モウチ)がはたらき、手に入れる自分勝手な方法を考える。
 欲しいものを手に入れるためなら何でもしようとするのである。
 暴走すれば、まっとうな人間として生きるための戒めである不慳貪(フケンドン…貪らない)戒、不瞋恚(フシンニ…妄りに怒らない)戒、不邪見(フジャケン…気まま勝手な考えを持たない)戒が破られる。
 やがては、不殺生(フセッショウ…妄りな殺生をしない)戒や、不偸盗(フチュウトウ…自分に与えられていないものを手にしない)戒や、不邪淫(フジャイン…妄りな瀬セックスをしない)戒すら破られかねない。
 その過程においては、不妄語(フモウゴ…嘘をつかない)戒、不綺語(フキゴ…飾り言葉を使わない)戒、不悪口(フアック…粗暴な言葉を使わない)戒、不両舌(フリョウゼツ…二枚舌を使わない)もきっと破られていることだろう。
 つまり、堕落しきってしまうのである。

「欲しいから欲しい。
 それが隣人たちに迷惑をかけようと知ったことではない。
 このようなエゴ、これも強固な自己の意識だが、こうした《我(ガ)》は、極めて悪い質のものである。
 これは利己主義を蔓延させる要因として働くエゴにすぎない。」


 利己主義とは、「己を利する」ことを第一とする思考であり、それは常に周囲とぶつかり、波紋を起こし、怨みを買い、侮蔑を受け、信望や信頼を受けられぬ悲しい姿勢だが、〈欲しい〉に囚われてしまった人には、こうした自分のありようが客観的に眺められない。
 結局は誰をも幸せにはしない「極めて悪い質のもの」と言うしかないが、ダライ・ラマ法王は次項で、利己主義にも効用があると説く。

利己主義は、よりよき人生を拓くこともある

利己主義といっても、遠大な視野でとらえるある種の利己主義は必ずしも悪であるとは限らない。
 究極のところで、人は幸せを要求する権利を持つ。」


 ここで説く「遠大な視野でとらえるある種の利己主義」とは何だろう?
 それは、自分自身の人生の充実を目ざすことではなかろうか。
 自分は何のために生まれたのか、何のために生きているのか、何をなすべきなのか?
 これらはすべて、〈自分〉にまつわる根本的な疑問である。
 問題意識と言ってもよい。
 ここから出発しなければ、いかなる思想も深まらず、いかなる道徳も宗教も回転寿司のように、あるいは呆然と眺める車窓の外を流れ去る景色のように通り過ぎて行くものでしかない。

 もしも難病の苦しみを目にして何もできない自分がもどかしく、一念発起して科学者や医者になる場合、「何としてもこの難病にうち克つ」という信念で生きる人は、必ず自分を大切にするはずである。
 それは、目的を達成するまでは死ねないからである。
 無我夢中の研究や研鑽は必ず、厳しい自己管理を伴うことだろう。
 これが真の「不惜身命(フシャクシンミョウ)、但惜身命(タンジャクシンミョウ)」である。
 身体もいのちも惜しまずに励むためには、ただただ、身体もいのちも大切に管理せねばならない。
 自己管理のできない人に、真にいのちがけの仕事はできないのである。
 自分を何かへかけて生きる時、人生は充実したものとなる。
 これ以上、〈己を利する〉道はなく、そこには最上の幸福がある。
 

「つきつめて考えれば、幸せを希求する心の働きは利己主義と相まって、よりよき人生を実現する力となる。
 よりよき人生とは人生の目的そのものである。
 このような働きをする利己主義は、多くのものを達成するであろう。」


 泳げないライフセーバーは、溺れた人を決して救えない。
 まず自分が優れたライフセーバーになろうとして生きる時、人生の目的は達成されつつある。
 悟りを求めようと決心した姿は、まだ開いてはいない蕾の蓮華にたとえられる。
 悟りを開いた姿は、開いた蓮華にたとえられる。
 観音様は両方の蓮華を持つ。
 それは、悟りを求める決心をした時、すでに、心はみ仏の世界へ通じており、観音様は両者を一如としてお導きくださるのである。

「しかしである。
 他者の幸福、他者の権利を踏みにじる利己主義に関しては、狭い心にして愚かな、かつ邪悪な心の所産であると言わねばならない。」

 前述の邪知妄知が「狭い心にして愚かな、かつ邪悪な心」である。
 それらを抑える「おたがいさま」と「おかげさま」の感覚は、宝ものと言うしかない。





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2014
04.30

幸福な人間を目ざす ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(27)─

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〈『自然墓』のかたわらに……〉

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第四章 愛と慈愛、そして性愛

2 内心の動き

○内的な心の働きが、人生の本質を問う答えとなる

感情は心の動きである。
 感情はその人の心理的な傾き具合に大きく左右される。
 より深く人を愛せる、より強く人を思いやられる、そんな心の傾きを有する人は、より親密な友情を育むことができる。
 より堅い信頼関係を築くことができる。」


 私たちはいかなる「心理的な傾き」を持っているか?
 自分の損得や好き嫌いなどにしか関心がなければ、他者への思いやりや、社会との連帯感や、自然との一体感などが持ちにくい。
 他者と自分とは同じ人間同士であるという意識、自分は社会内の存在であるという認識、自分のいのちは自然の一部であるという気づきがあれば、感情は優しく、温かくはたらく。

愛情思いやりといった感情は、われわれ人間が誰でも内部に秘めている小さな扉を開ける働きをする。
 その扉を通って、われわれは外界に出て行き、広々とした空間において、われわれの仲間である幾多の人と交わり、親しみ合うのだ。」


 感情が優しく、温かくはたらく時、外界は親しいものとなり、他者との滑らかな交わりが自然に起こる。
 

「このような感情が働きかけるのは、なにも人間に限ったことではない。
 動物とも安らぎに満ちた交わりができるであろうし、動物たちもそれを喜んで受け容れるであろう。
 このような内的な心の働きが人生の本質を問う質問に対する、より重要な答えとなるはずなのだが、ともすればわれわれはそれを忘れ、無視しがちになる。
 つい人間は、外的な要因の中に人生の回答を求めようとする。」


 働き手として飼ったり、食用として育てたりする場合は別として、動物が家族としてこれほど人間と親密な生活を共にする時代はなかったのではないか。
 動物との「安らぎに満ちた交わり」がこれほど大きな救いとなる時代があったとは思えない。
 私たちは、人間を相手にして得られにくい心の宝ものを動物たちからもらう。
 財欲や名誉欲などに駆られ、自分が外から何を得、外へ何を誇ろうと、「人生の回答」は見つからない。

「憎しみ、恐れ、寂しさ、絶望、自己猜疑といった不幸をもたらす感情は、同じカテゴリーに属するものである。
 誰も不幸を求めたりしないはずだ。
 それと対極に位置する、幸福な人間の社会をもたらす、心の平和、自信、友情、調和などといった感情を自分のものとすべく努力するはずだ。」


 自分が不幸を求めず、幸福を求めるように、〈誰しもが〉不幸を厭い、幸福でありたいと願う。

「まず、《他者》の権利を尊重せよ。
 そして、自己の権利を、《他者たち》との関係の中で調整せよ。
 仮にその《他者たち》がわれわれの敵であったとしても、共存する至上の目的のため、彼らの権利を認めよう。
 それが現実的な態度と言うものだ。」


 お釈迦様の前世(ゼンセ)物語がある。
 お釈迦様は、地獄で苦しむ亡者たちへ大皿に盛った食べものと長い箸を与えた。
 我先にと食べようとするが、長いために自分の口へ入れられない。
 騒ぎの中で、老賢者がハッと気づいた。
 互いに食べさせ合えばよいのである。
 ダライ・ラマ法王の説く「現実的な態度」とは、このことではなかろうか。
 人はどうあるべきかという「人生の本質」への問いは、ここに回答が示された。




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2014
04.08

物質的な成功と精神的な充足とをどう求めるか ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(18)─

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〈岩出山の『森栖』さん〉

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第三章 カルマの法則

2 平常心の心得

○物的、心的な両世界は不可分である

「今日、物質的な成功がすべてであると考えるのは、あまりにも無知な考えであると言わねばならない。
 経験が足りなさすぎるのである。
 もちろん、世界を見れば、物質的な窮乏の中で生きる人たちは多い。
 彼らにとって、物質的な必要が満たされることは大事なことである。
 そのことを疑っているわけではない。」

「だが、物質的な成功と精神的な充足とが完全にふたつに分かれて存在するわけでもない。
 これらは不可分に結びついて存在する。
 と言うよりも、物的、心的なふたつの世界は同じものの表現の違いでしかないのである。」


 4月7日付の産経新聞は、「孤立する男 暴走」というタイトルで、高齢者によるストーカー事件が10年で4倍になったと報じた。

「60代以上の高齢者が加害者となったストーカー犯罪が急増し、昨年は1919件と10年前の約4倍に上ったことが、警察庁のまとめで分かった。
 加害者の大半は男性。
 専門家によると、男性は女性に比べ、家族と死別したり、退職したりして心のよりどころを失った場合、孤立しやすい傾向にあるといい、最悪の場合、ストーカーに走る人もいるという。」


 警察庁の調査によれば、平成25年において、60代と70歳以上の合計で1919件発生しており、全体の9・1%に当たる。
 こうした傾向について、ストーカー被害者を支援するNPO法人「ヒューマニティ」(東京)の小早川明子理事長は言う。

「この世代は仕事一筋で打ち込み、激しい競争社会を生き抜いてきた人が多い。」
「男性は女性に比べて地域のコミュニティーなどにも溶け込めず、孤立してしまいがち。
 寂しさを埋めたいという気持ちから、女性に過度に期待してストーカーに走る人もいる。」
高齢者は社会的地位が高い人も多く、拒絶されることに慣れていない。
 恋愛がうまくいかないだけで行動をエスカレートさせてしまうこともあるのではないか。」


 はたらいて生きるのは、まず、自分の身体を養うことである。
 社会人として、衣食住も整えねばならない。
 また、家族を養う場合もあるだろう。
 そこに生きがいも、蹉跌(サテツ…しくじり)も、歓びも哀しみもある。
 やがて、退職後や老後を考え、自力で生き延びる準備を行う。
 そうして人生をまっとうしようとするのはごく自然な姿である。

 このように生活を確保しながら生きて老い、人生の最後に色情から犯罪を犯すとはどういうことか?
 ダライ・ラマ法王は、そこのところを、「物質的な成功がすべてであると考えるのは、あまりにも無知な考えである」と指摘された。
 他人様から後ろ指を指されずに生きるのは「物質的な成功」である。
 しかし、それが「精神的な充足」にもならねば、人生は真の意味で輝かない。
 ストーカー事件は、四苦八苦の一つである求不得苦(グフトクク…求めても得られないままならなさ)の表れであり、「充足」がない状態に他ならない。
 たとえ「社会的地位が高い人」になろうと、色欲や名誉欲などの欲望は内心の問題として一生、つきまとい、自分で自分の心をコントロールできない限り、暴発の危険性は死ぬまでつきまとう。

「物質的な発達は、生存を快適にし、物理的な生活の困難を小さくしてくれる。」
「それは、いずれ精神的な欲求の充足への道を切り開くはずである。」
「充足した精神生活は、物質的な豊かさを、より平衡のとれた正しい方向へと導いてくれることになるだろう。
 それは、より大きい恩恵をわれわれにもたらすであろう。」


 今日、たった今、自分の口へ入れるごはんがなければ、「充足した精神生活」は送り難い。
 衣食住がある程度、確保されてようやく、いかに生きるべきか、生かされている感謝をどう表現すればよいのか、といった方向へと心が広がる。
 この方向は、五欲(財欲・色欲・食欲・名誉欲・睡眠欲)に引きずられる方向とは違う。
 感謝から行動が生まれ、それが再び感謝を生じるといった循環が始まれば、ようやく「精神的な欲求の充足」がもたらされる。
 よき循環こそが「物質的な豊かさを、より平衡のとれた正しい方向」へと導くのである。
 ダライ・ラマ法王が「経験が足りなさすぎる」と指摘されたのは、心に巣くう五欲の恐ろしさに気づかず、それと対峙し制御する内心の戦いをせず、野放しにしたまま気楽に生きることを戒められたのではないか。
 それでは、真の生きがいや幸せをもたらす「物質的な成功と精神的な充足」はあり得ない。
 健康ブームで長生きをするようになった世代がストーカー事件を引き起こすのも、同じ高齢者としては、はなはだ残念ながら、むべなるかなと言うしかない。




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