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2014
09.09

すぐにキレる、我慢できないならば、こうしてみよう ―生活を変える―

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〈赤根彰子師手書きの栞〉

 私たちは、怒れば呼吸が荒くなります。
 焦れば呼吸が浅くなります。
 そして、荒く、浅い呼吸思考情緒をさらに不安定にさせ、ついには愚かしい行動にまで駆り立ててしまいかねません。

 私たちは、高慢心から、あるいは正義感から、怒りを発します。
 私たちは、自分の過ちから、あるいは不意のできごとから予定が狂い、焦ります。
 こうした状況は人生のあちこちで生じます。
 そこで最も必要なのは、一旦、落ち着くことですが、簡単ではありません。
 なぜなら、呼吸の状態が落ち着かせないからです。

 だから、怒ったり焦ったりしたならば、「落ち着こう」と自分に言い聞かせ、深呼吸をしてみましょう。
 気持を変える方法として呼吸を変えるのです。
 目を閉じ、お腹を少しづつ慎重に引っ込ませながら、できるだけ時間をかけ、ゆるゆると口から細く長い呼気を行いましょう。
 お腹がもうこれ以上背中へ近づけないところまで行ったなら、自然に鼻から空気を補充しましょう。
 これも、意識してお腹を少しづつ膨らませながら、ゆっくりと行います。
 慌てて吸わなくても死にはしません。
 余裕のある範囲でこれをくり返せば心拍数が収まり、思考の範囲が格段に広がります。
 情緒の波も穏やかになってきます。
 自分で自分を追いつめた状態から離れ、すでに、一つの危機を脱したのです。

 こうしたことが可能になるためには、日頃、火事や雨や津波などに対して防災訓練を行っているように、備えをきちんとする意識と、実際のトレーニングが必要です。
 お釈迦様は、自分自身と人生のままならなさを克服するためには八つ方法があると説かれましたが、そのうち、二つがここでは特に有効です。
 一つは正命(ショウミョウ)です。
 これは、規則正しい生活を行い、まっとうななりわいによって生きることです。
 もうひとつは正定(ショウジョウ)です。
 これは、きちんと心身の手入れをした上で、瞑想を行うことです。
 そして、二つに共通しているのは、背骨が伸び、あごを引いたよい姿勢とゆったりした呼吸です。
 座ろうが、腰掛けようが、歩こうが、よい姿勢はそれだけでパワーを蓄え、パワーを発するものです。
 ゆったりした呼吸は心身にむだな負担をかけず、意識することによってさらにゆったりした呼吸を行うことを可能にします。
 これに慣れていれば、とっさの場合、切り替えが容易にできます。
 切り替えれば、自分がおかれている状況と、自分自身の状態が正確に判断できることでしょう。

 9月7日に放映されたNHK大河ドラマ『軍師官兵衛』に象徴的な場面がありました。
 天下人となった秀吉から黒田家へ与えられた領地の旧主宇都宮鎮房(ウツノミヤシゲフサ)が頑として服従しないことに焦っていた官兵衛の長男長政は、鎮房の罠にはまり、血気に逸って出陣します。
 長政を守る又兵衛が、落ち着いて官兵衛の判断を待ちましょうと進言しても、今こそうっぷんを晴らすチャンスとばかり沸き立った若手や幹部を止めることはできません。
 自分がおかれている状況と、自分自身の状態とを正確に判断できないままに行った決断は、あまりにも危険なものでした。

 どなたにとっても大切な生きるポイントですが、とりわけ、自分はキレやすく我慢できないタイプだと思う方は、まず、よい姿勢とゆったりした呼吸を心がけてみましょう。
 そして規則正しい生活をし、時折、ひときわ長い腹式呼吸をしながら瞑想を行うことです。
 1日はどう生きても24時間です。
 24時間の使い方を変えれば、生活が変わるだけでなく、自分の生き方そのものも徐々に変わります。
 これまでと異なった生き方をしたいならば、時間の使い方を変えるしかありません。
 やろうではありませんか。




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 般若心経の音声はこちらからどうぞ。(祈願の太鼓が入っています)
 お聴きいただくには 音楽再生ソフトが必要です。お持ちでない方は無料でWindows Media Player がダウンロードできます。こちらからどうぞ。



「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。
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2014
08.17

ガンからの復帰と瞑想修行

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お盆供養会の後に、「みやぎ四国八十八か所巡り道場」を参拝しました〉

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〈当山近くの八島さんが整備してくださった道場は、参道のどこにも枯れ枝が落ちていませんでした〉

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〈一周500メートル弱ですが、別世界を歩くのはありがたい体験です〉

 お盆の4日間は、たくさんの方々がご来山されました。
 お正月と同じく、「また、お会いできた」ことが本当に嬉しく感じられました。
 せっかく足を運ばれても、でかけていたり、修法中だったりで、お布施やご供物や伝言でお元気であることをお知らせいただく場合が多く、直接お話しできたのは、ほんのわずかな方々だけした。
 皆さんのお心は確かにお受けいたしましたので、ここに、お詫びとお礼を申しあげさせていただきます。

 さて、そうした中で、ガンから復帰したAさんの回顧談には驚きました。
 還暦近いAさんは、病気が発見された時点で末期とされ、大病院でもホスピスを紹介されました。
 もう、回復のための治療法はないと宣言されたのです。
 しかし、気丈なAさんは、自分で克服の可能性を探り、単身、メキシコへ飛びました。
 英語は話せず、何のつてもなく、兄弟にも知らせませんでした。
 アメリカへ「歩いても行ける」ほど国境に近い街にある病院での毎日は、とても「楽しい」ものでした。
 日本では不可能とされた手術が行われ、車のついた点滴の道具をコロコロと自分で引きながら海の見える場所でのんびりしたり、日ごと夜ごと行われるボランティアの演奏やショーを堪能したりと、夢のような闘病生活でした。

 世界中からやってきた〈仲間〉たちと共に過ごしながら回復し、帰国したAさんは、それ以来、留学生などが催す各種の交流会やバザーへ積極的にでかけるようになりました。
 最近、トルコのイスラム教徒から数百円で買った御守は特にお気に入りとのことでしたが、あいにく手元になく、見せてはいただけませんでした。
 とても大病から復帰したとは思えないような溌剌としたご様子で、いろいろなことを学ぼうとしておられます。
  
 Aさんと、よき理解者であるお姉さんとのお話を聴きながら、自分のいのちに正面から向き合った時、不思議にも、自分という枠を超えた大きないのちの世界が観えるのではないかと思えました。
 自分のいのちに〈まつわる〉ことごとに忙殺されているうちは、そもそも、自分のいのち〈そのもの〉がよく観えていなのではないでしょうか。
 こうしたパターンは、瞑想によく似ています。
 自分の心中にある満月のように円満な心に出会う瞑想においては、自分を超えた世界へと心を広げます。
 また、そうすることによって、心中の満月がよく観えるようにもなるのです。

 Aさんは死ぬか生きるかという瀬戸際で心を解放させました。
 いわば、非常時にあって、異次元へと飛翔されたのです。
 瞑想修行は、平常時にあっても飛翔できる修行です。
 瞑想会へ初めて参加した70才のBさんからお聞かせいただいた言葉です。
 「心が軽くなりました」
 平常時に修行しておけば、日常生活を穏やかに過ごせるのはもちろん、非常時にもきっとオタオタしないで済むことだろうと、あらためて教えていただいた一日でした。




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2013
10.06

第十回法楽塾 ─『ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義』を読む(11)四つの真実への誤解(1)─

201310060282.jpg

 塾のテキストです。

ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義】       

第二章 輪廻における生存の状況─真の苦しみ

 第一節 四つの聖なる真実についての16の性質

 お釈迦様が説かれた「四つの聖なる真実」を再度、掲載しておきます。

1 苦諦(クタイ)……真の苦しみ
 輪廻(リンネ)の世界におけるわれわれの実情を、真の苦しみとして捉えたもの。   
2 集諦(ジッタイ)…苦しみの真の起源
 苦しみの生存の真の起源・原因が執着や欲望であると理解すること。
3 滅諦(メッタイ)…苦しみの真の消滅
 苦しみが真に消滅した状態についての教え。
4 道諦(ドウタイ)…苦しみの消滅への真の道
 真の消滅を実現するための修行方法の教え。

 これは動かしがたい真実ですが、私たちは、それぞれに対して誤解をしがちです。
 一つの項目に対して4つづつ、合計16の典型的な誤解を解くのがこの一節です。

1 苦諦(クタイ)に対する誤解

「第一の真実、真の苦しみ(苦諦)に関する四つの性質とは、(1)無常非常)、(2)苦しみ、(3)、(4)無我(非我)です。
 この四つの性質を知ることによって、苦しく悲惨なはずの現実を好ましく望ましいと考えているわたしたちの四つの誤解に対抗できるようになります。」


 しかし、私たちはこうなり、誤解しがちです。

「本当は苦しみであるこの現実を(1)清浄で純粋なものであると考え、(2)幸福なものと考え、(3)ずっとこのまま続くと考え、(4)実体のあるものと考える」


(1)の誤解について

「私たちの心身を構成している複合体は常に変異する性質のものである、という事実から、それらは「無常なものである」と論証することができます。」


 ここでの〈複合体〉とは、般若心経に出てくる「五蘊(ゴウン)…心身を構成する5つの要素」のことです。

・物質…色(シキ)
・感受作用…受(ジュ)
・識別作用…想(ソウ)
・意志作用…行(ギョウ)
・認識作用…識(シキ)

 たとえば、いかに清らかで美しい人であっても、〈色〉である肉体は事故や加齢などで変異し、いかに意志の堅固な人であっても、〈行〉である意志作用は認知症などになれば変異してしまいます。
 ままならず、苦なのです。

(2)の誤解について

「心身を構成している五つの要素は別の力、すなわち煩悩(ボンノウ)と、煩悩によって引き起こされた行為の支配下にあるため、それらは苦しみの実体そのものであると言えます。
 すなわち『苦しみ』 という語の意味はここでは真実とは逆のものの支配下にある、ということなのです。」

 
 私たちの身体と心の全体は、いつも煩悩の支配下にあるので、身体は煩悩によって動き、識別作用などもまた、煩悩に染められながらはたらきます。
 それは、『般若心経』の説く(クウ)や、『理趣経百字偈』の説く大欲(タイヨク)から離れがちです。
 だから、現実はまぎれもなく、苦なのです。

(3)の誤解について

「心身を構成する五つの複合体ならなるわたしたちには、その諸要素とは別の実体としての『自我』は存在しないので、わたしたちは消滅することのない永続的実体としての『自我』を持たないことが論証されます。」


 身体もかりそめのもの、感受作用も、認識作用もそうです。
 今、たまたま、5つの要素がバランスよく和合しているから、こうしていられるだけであり、その〈時〉は今のみでしかありません。
 無意識のうちに、今日と同じく明日も来ると思っていますが、そんな保証はどこにもありません。
 あてにならず、苦なのです。

(4)の誤解について

「心身を構成する五つの複合体が生まれたり、消滅したりするに従って、わたしたちの自我も生滅しているのです。
 それが真の苦しみについての『無我』という性質です。
 また、わたしたちには永続する自我がないばかりでなく、それ自体の力で存在する独立した自我も存在しないのです。」


 自我の実体はどこを探してもなく、肉体というかりそめの器にまといついているだけです。
 烈しく執着する自我が実は見つからない、とは、苦というしかありません。

※自我のレベルについて

「一部の仏教徒を除いて全ての仏教徒は、真の苦しみについての、この四つの性質(非常、苦、無我)を承認しています。
 しかし、ここで言及されている無我(非我)は、単に心身の構成要素から独立した自我が存在しないということだけであって、より上位の学派、たとえば中観帰謬論証派(チュウガンキビュウロンショウハ)が主張している精妙なレヴェルの無我のことではなく、粗雑なレヴェルの無我である、ということに注意しておいてください。」


 私たちの日常的意識における自我には固定された実体がないけれど、高度な意識のレベルにおいては〈自分〉というものが別の次元で立ち上がってくるといいます。
 その世界が「精妙なレヴェル」です。
 最後に「真の解脱のためには精妙なレヴェルの性を悟ることが是非とも必要」とされていますが、この先へは軽々に言及できません。




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2013
09.01

第九回法楽塾 ─『ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義』を読む(10)仏教は論理を基盤とする宗教である─

201308310000001.jpg

ダライ・ラマ法王仏教哲学講義】       

第一章 仏教における論理的思考の重要性

 第六節  詳しい検証の必要性
 
 仏教は、迷信や狂信とはまったく無縁な道理をふまえた宗教です。
 仏教の根幹である「4つの聖なる真実」は、深く考察されています。
 確認のため、再掲しておきます。

1 諦(クタイ)……真のしみ
 輪廻(リンネ)の世界におけるわれわれの実情を、真のしみとして捉えたもの。   
2 集諦(ジッタイ)…しみの真の起源
 しみの生存の真の起源・原因が執着や欲望であると理解すること。
3 滅諦(メッタイ)…しみの真の消滅
 苦しみが真に消滅した状態についての教え。
4 道諦(ドウタイ)…苦しみの消滅への真の道
 真の消滅を実現するための修行方法の教え。

 ダライ・ラマ法王は説かれます。

「仏教では、苦しみは根源的無知(無明…ムミョウ)に根ざしていると説かれます。
 そして、その根源的無知は論理的思考によって破壊されるのです。
 論理的思考がその対象を考察するやり方に、六つの段階があります。

 まず、言葉の意味、一つ一つの語句の意味を検証しなければなりません。
 第二に、その対象が内的であるか外的であるかを通じて、その実態を考察します。
 第三に、事物の本性を、そのものの独自の性質と他のものとも共通する一般的な性質に分けて検討します。
 第四に、その事物が好ましいものであるか好ましくないものであるかを通じて、その部類を考察します。
 第五に、時間を考察します。というのも、時間の中で事物は絶えず移り変わってゆくからです。
 第六に、法則を探求します。」


 ここには、仏教がいかなる宗教であるかが明確に説かれています。
 それは、人間とこの世の真理・真実を知らない根源的な無知があらゆる苦しみの元となっているのであり、共にそこから脱して苦を克服しようというものです。
 必要なのは論理的な思考であり、論理的ならば、能力さえあれば誰でも〈それは道理である〉と納得できるはずであるからこそ、救いの道は万人へ開かれているのです。
 特定の仏様さえ信じれば救われるとか、特定の経典にだけ真理があるとか、特定の文言さえ唱えれば救われるなどという姿勢がいかに非仏教的であるか、いかに開かれていないか、仏教に対するすなおな関心を持たれる方は、よく考えてみる必要があります。

 さて、ダライ・ラマ法王は、誰でもが持っている理性や悟性で考える方法を6つに分けて説かれました。
1 考える道具である言葉そのものをきちんと特定せねばなりません。
 もしも、「青」という言葉で赤い色を連想するなら、青い海についての思考も、赤い彼岸花についての思考もメチャメチャになります。
 もしも、Aさんにとっての青がBさんにとっての赤だったなら、対話は成り立ちません。
2 原発事故によって感じる恐怖は内的であり、原発事故によって故郷を離れるという事実は外的です。
3 ネコはニャーと鳴きますが。ネコによってそれぞれ異なる声色と、ニャーと鳴くというネコ特有の特性とは分けて考えねばなりません。
4 無慈悲な言葉を浴びせていじめるという卑劣な悪事と、論理をもって討論するという互いに必要な善事とは、まったく部類が異なります。
5 いつ起こったことか、あるいは、昨日と今日とでどうなのか、などといった時間の観念抜きにしては、思考に無理が生じます。
 もしも、江戸時代の長屋における味噌や醤油の〈貸し借り〉という美風をそのまま現代にもってこようとしても無理があります。
6 客観的に成り立つ法則をつかめば、思考の正誤を判断するのに役立つだけでなく、共通認識へ到達するにも便利です。
 
 ダライ・ラマ法王は、法則の4タイプ(四種道理)を挙げられました。

「1 依存性に関する法則、すなわち結果は原因に依存する。」


 結果は必ず原因によって起こり、原因のない結果はありません。
 だから、苦が生じているならば、必ずその原因があるはずです。

「2 作用に関する法則、たとえば火はものを焼く作用をもち、水はものを湿らす作用を持つ。」


 作用すなわちはたらきが変わることはありません。
 だから、火事が起こったならば、必ず火元を調べるのです。

「3 本性に関する法則、すなわち事物はそれぞれ固有の本性をもつ。たとえば火は熱性を本性とし、水は湿潤性を本性とする。」


 埋もれ火を上手に使い、火事を起こさないためには、その本性をよく認識しておかねばなりません。

「4 正しい認識方法による妥当性の検証、すなわち直接知覚と推論とに矛盾しないこと。」


 こうだと思った時、それが心に何の引っかかりも疑いもなく、妥当であると直感できるか、そして、推論して矛盾は生じないかを判断せねばなりません。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「正しい認識方法には二つのタイプしかありません。
 すなわち、直接知覚と推論です。
 さらに後者には三種類あります。
 すなわち事実に基づく推論、一般に承認されていることに拠る推論、信頼するに足る聖典に基づく推論です。」


 たとえば、肉親やペットの死によって、いのちの尊さやありがたさ、そして死の恐ろしさなどを認識する時は、否応なく〈わかってしまう〉のです。
 たとえば、人を殺してはいけないという決まりを考えると、事実をみても、一般的に承認されていることに照らし合わせても、さらに経典をひもといても、正しいと推論されます。
 もちろん、では戦争はどうなのか?という疑問も起こりますが、それは、傍証的に考えればよいのではないでしょうか。

 ダライ・ラマ法王は、さらに深い仏教論理学に言及されていますが、あまりに専門的になるので、ここでは取りあげません。
 最後に、科学の考察方について説かれた部分を読んでみましょう。

「第六番目の考察法法である論理の考察には、先に述べたように四つのタイプがありますが、西洋の科学の考察方法は、そのうち最初の三つのタイプによって行われていると言うことができるでしょう。
 まず、対象の本性が探求され、そのようにして見出された本性に基づいて、その対象が行う作用が探求され、そしてその対象が依存しているものが探求されるのです。」
 前述の四種道理のうち、三番目の本性に関する法則、二番目の作用に関する法則、一番目の依存性に関する法則を用いているのが科学の考察方なのです。
「先に挙げた論理的思考の六つの段階は、西洋の科学におけるような科学的な探求の原理も仏教における精神的な探求の原理も、合わせ持っているように思われます。
 わたしは、科学における探求性は、精神性における探求と密接に結びついていると思うのです。
 なぜならば、両者とも同じ対象に関わるものであるからです。
 前者は器具を使った実験を通じて探求し、後者は内的経験と瞑想を通じて探求する点に違いがあるだけです。
 大事なことは、科学によっては見出すことのできないものと、存在しないことが科学によって証明されたものを区別することです。
 科学によって『存在しない』と帰結されたことについては仏教徒も従わなければなりません。
 しかし、そのことと科学では確認できないものがあるということとは全く別のことなのです。」


 仏教の根幹である輪廻転生や、御霊が〈無〉になってしまわないことなどは、科学で確認できる範疇を超えています。

「世の中にはきわめて多くの神秘的な事柄があるのは明らかです。
 人間の感性には限界があります。
 しかし、わたしたちはわたしたちの五感を越えたものについて、それが存在しないと言うことはできないのです。
 わたしたちの祖先が五感によって知覚できなかったもので、現在のわたしたちが目の当たりにしているものは山ほどあります。
 それと同様に、現在わたしたちが知覚できないことでも、将来理解できるようになることがたくさんあるに違いないのです。」


 病気の原因となる細菌を確認できるようになったのは、人間の歴史からみれば、ごく最近のことでしかありません。
 暗黒物質(ダークマター)の存在もまた、これから先に知覚できる時代がくることでしょう。
 その時になれば、精神と物質の関連性についてもまた、新しい発見があるに違いありません。

「精神という別の領域に関して、人間を含めた生命あるものが何世紀にもわたって様々な経験を積み重ねたにも関わらず、わたしたちは、精神というものが本当にはどのようなものでああるか、それがどのような働きをもっているのか、その全性質を未だ知らないでいるのです。
 精神のように、形もなく、色もない事物は、外的事物を探求するような仕方では決して理解することのできないものなのです。」


 現代人は心の病気という大敵を相手にしつつあります。
 しかし、私たちの文明は進行する現象にあたふたしている段階です。
 この大敵は、物理的外的原因と精神的内的原因の複雑な絡み合いによって生じています。
 しかも、遺伝や過去世因縁などとも無関係ではないはずです。
 なぜなら、肉体には遺伝子が伴っており、精神には因縁が伴っているからです。
 私たちの文明はまだまだこれからであるという謙虚さと希望と探求心を持ち、道理をもって考えることが何よりも大切なのではないでしょうか。




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2013
08.04

第七回法楽塾 ─『ダライ・ラマ法王の仏教哲学講義』を読む(9)苦しみと安楽の真実─

20130803001.jpg
〈『京都環境学』よりお借りして加工しました〉

ダライ・ラマ法王仏教哲学講義】       

第一章 仏教における論理的思考の重要性

 第五節  四つの聖なる真実

 4つの聖なる真実とは、お釈迦様が悟りを開き、最初に説法した時に説かれた教えであり、仏教の根幹です。
 
1 苦諦(クタイ)……真の苦しみ
           輪廻(リンネ)の世界におけるわれわれの実情を、真の苦しみとして捉えたもの。   
2 集諦(ジッタイ)…苦しみの真の起源
           苦しみの生存の真の起源・原因が執着や欲望であると理解すること。
3 滅諦(メッタイ)…苦しみの真の消滅
           苦しみが真に消滅した状態についての教え。
4 道諦(ドウタイ)…苦しみの消滅への真の道
           真の消滅を実現するための修行法法の教え。

 ダライ・ラマ法王は説かれました。

「お釈迦様が説かれた4つの聖なる真実について、二つの説明の仕方があります。
 一つは汚れたものについての因果関係であり、もう一つは清浄なるものについての因果関係です。」


 ここでの「汚れたもの」とは、苦しみに関する面であり、欲望や執着が問題になります。
 ここでの「清浄なるもの」とは、安楽に関する面であり、悟りが問題になります。

「それらはわたしたちが安楽を求め、苦しみを望まない、ということを前提として述べられています。」


 仏教倫理の基礎は〈生きとし生けるものは安楽を求め、苦しみを望まない〉という事実にあります。
 自分が望み他も望む安楽を共に求め、自分が望まず他も望まない苦しみを共に脱することから逸脱した倫理はあり得ません。

 四つの聖なる真実についての因果関係は、時系列的に、あるいは客観的側面から説かれる場合と、実現の順序、あるいは主観的側面から説かれる場合があります。
 ダライ・ラマ法王は、前者について、マイトレーャの言葉をとりあげます。

「原因と道、そしてくるしみとその寂滅という順に従って、云々」


 また、後者について、同じくマイトレーャの言葉をとりあげます。

「病は認識されるべきである。
 病の原因は除去されるべきである。
 健康な状態は達成されるべきである。
 薬は取るべきである。
 同様に、苦しみは認識されるべきであり、原因は除去されるべきであり、苦しみの消滅は達成されるべきであり、そして道は採用されるべきである。」

 
 もしも病気になって苦しむ時、私たちは誰も、その状態を喜ばず、そこから脱したいと願います。
 原因を知り、原因を取り除くことによって苦しみから逃れたいと望みます。
 原因が塩分の取りすぎであるとわかったなら、誰しもが塩分を控えめにするし、原因が酒の飲み過ぎであるとわかったなら、誰しもが酒をストップするか控えめにすることでしょう。
 苦しみから逃れるためには、小さな苦しみは我慢できます。
 こうして我慢でき、努力できることは人間が理性ある存在である証拠です。
 このプロセスは、四つの聖なる真実の教えと一致します。

 第一に、ぶつかり合い、傷つけ合う私たちの苦しみをしっかり認識しましょう。(病状の認識)
 第二に、その苦しみが続くことを望まない以上、原因を考えましょう。(病気の原因の探求)
 第三に、原因が取り除かれれば苦しみはなくなると確信しましょう。(快癒した状態への希望)
 第四に、原因を取り除く方法を実践するため、努力しましょう。(快癒への努力)

 こうした、問題のありかを的確に掴み、その原因を調べ、原因を取り除く方法を考案し、方法を実行する努力によって問題を解決するというパターンは、社会的にも通用します。
 琵琶湖疎水はその例です。
 以下、『京都環境学』からの抜粋です。
「明治時代を迎えた京都は、東京遷都にともなって、1100年余りにおよぶ都の座を奪われ、あらゆる面で衰微の一途をたどりました。」
 その時、第三代京都府知事北垣国道は説きます。
「京都の再生・繁栄のカギは工業の振興である。
 内陸都市京都にとって、琵琶湖の水を京都市中に引き込めば、あたかも石炭の山が京都の真ん中にできるようなものである。」
 そして、23才の技師田邊朔郎を責任者に抜擢し、田邊は、琵琶湖疎水を完成させただけでなく、日本初の事業用水力発電所を造り、日本最初の路面電車を走らせるという快挙を成し遂げました。
 彼のノートが残っています。

「It is not how much we do,but how well. The will to do,the soul to dare.」
(如何に多くするかではなく、如何に良くするかが大事だ。
 やろうとする意志、チャレンジしようとする魂が大事だ。)


 自他を不幸にする原因を根本から取り除き、自他に真の幸福をもたらそうとするならば、愚かしくまちがいやすい自分を謙虚にふり返るところから始め、このように道理をもって考え、実践したいものです。
 お釈迦様は、〈多く〉する難行苦行から離れ、〈良く〉する瞑想によって悟りを開き、道理をもって説法されました。
 2500年以上にもわたる人間の叡智が蓄積された伝統仏教には、幸福への道筋がはっきりと示されています。
 四つの聖なる真実に立脚し、田邊朔郎のようなチャレンジ精神で生きたいものです。




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「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃ まり ぼり そわか」※今日の守本尊虚空蔵菩薩様の真言です。
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