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2015
07.13

真智の開発をめざして(その19) ─欣ちゃんと勝義心(ショウギシン)─

201507130002.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「尊さ」について考えてみましょう。

4 勝義心(ショウギシン)を持つ

 私たちが本来、持っている尊い心の一面に勝義心(ショウギシン)があります。
 より、勝れたものを求めてやまない無限の向上心です。
 向上心を失った時、〈努力〉は単なる繰り返しや人生の消費に過ぎなくなります。
 向上心があってこそ、努力は精進(ショウジン)として輝きます。

 7月11日、朝日新聞はコメディアン萩本欽一氏のインタビュー記事「遠回りしようよ」を掲載しました。

 氏は、若者にこう言いたい。

「とにかくみんな、前へ前へと進みたがることも気になるね。
 モデルになる誰かを見つけて、すぐにマネしようとする。
 でもね、人生はそんなに簡単に前には進まないよ。
 偉人の伝記を読めばわかるでしょ。
 最初は失敗だらけなんだから。
 だから僕はいつも言うの。
 まず一歩下がって、世界を広く見ろ。
 もっと遠回りしろ、人と違う冒険を始めろって」


 手っ取り早い成功を求め、いわゆるノウハウやマニュアルを血眼で探し廻るのは危うい。
 そうしたものを提供して商売する人々を儲けさせるだけになりかねない。
 自分だけがうまく前へ進むことができる何かを与えてくれる人などいない。
 まず、世間をよく眺め、自分が、自分の考えと意志で思い切ってやってみた結果、身に応える失敗をして自分の甘さに気づくこと。
 ノウハウ探しよりも、そうした体験こそが結果的に成功へ導くと言う。

「人生は出会いだって、よく言うけど、ちょっと違うね。
 出会いっていうのは、人にただ会うことじゃないんだ。
 苦労をして、マイナスの経験をいくつも積んで初めて、会うべき人に出会える。
 なぜ自分がダメだったのか、生きていくうえで何が足りなかったのか。
 本当の出会いなら、その答えが見えてくるもんだよ」


 苦労の中から本当の問いが生まれる。
 そして、呻吟しているうちに、自分で答を見つけるきっかけとなるような出会いが生まれる。
 当山が、勢に関する人生相談で、「厄年を怖れず、気に応じた智慧をはたらかせてまっとうに生きていれば、かけがえのない出会いがあり、チャンスが来たりもします」とお話しするのには、こうした理も関係している。

「8割はだね。
 そいつは正面からは来ない。
 思ってもみないところからやってくるから、なかなかつかまえられないのよ。
 後ろから肩をトントンやる奴がいて、うるせえなこの野郎って、振り向いたら何だ、ここにいたのか、というのがなんだよ。
 坂上二郎さんとの出会いがそうだった」


 成功するには才能よりもだと言う。
 ただし、「正面からは来ない」をうまくつかめるかどうかは、本人次第である。
 テレビで大失敗した氏へ電話をかけてきた故坂上二郎氏は、それまで「ライバル」で「苦手」な人だったが、一瞬でゴールデンコンビが誕生した。
 苦しんでいたからこそ、すなおに運をつかめたのではなかろうか。

「遠回りすれば、人間いろいろ考える。
 いろんな出来事にぶつかる。もちろん、いいことばかりとは限らないよ。
 でも、とてつもなくいいものにぶつかることが、あるんだよ。
 その出会いにこそ物語が生まれる。
 それが大事なのよ。そういう物語に、人は心を動かされるんだから」


 うまくやろう、近道をしよう、と鵜の目鷹の目になっていれば、「いろいろ考え」たりはせず、一喜一憂の繰り返しになりかねない。
 遠回りでも、自分で考え、苦しみつつ、自分の足で歩んでいるからこそ、自分の足で歩いている人との出会いがあり、物語が紡ぎ始められる。
 その物語に人生の真実を認めた時、「人は心を動かされる」。

「もちろん。生まれ変わってもコメディアンだよ。
 ただ、またダメなコメディアンから出発したいね。
 ダメな若い奴が上を目指してもがく姿に、支えてやろうって気持ちが生まれたんだと思うから」


 74才となった第一人者が「またダメなコメディアンから出発したい」と語ったことは衝撃的だった。
 そして、この世でやり残した修行の続きを来世でやろうと考えていた小生は、再考を余儀なくさせられた。
 修行へと向かわせる発心(ホッシン)の重要性が突きつけられた思いである。

 すっかり、「遠回り」しましたが、萩本欽一氏の話には、無限の向上心についての重要な示唆があります。
 向上とは単純な直線道路を行くようなものではないことが、深々と示されているのではないでしょうか。
 庶民と涙も喜びも共有しつつ、現場で汗を流し続けてきた人の生きざまにこそ「尊さ」は輝いています。
 萩本欽一様、ありがとうございました。合掌




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2015
06.10

真智の開発をめざして(その18) ─他者の善行に同感、感心したならば─

20150610019.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

3 善行に随順する

 私たちが互いに気持良く共生するためには、誰かの善き行いに〝ああ、いいな〟と同感や感心を持つだけでなく、同様の実践によって善き行いの輪を広げましょう。
 たとえば朝夕、小学生の通学時間帯に誰かが横断歩道で指導、保護を行っているのを見て〝ご苦労様〟と思ったならば、自分が同じ時間帯に同じ行動ができなくても、通学する子供たちへ自分なりに目を配り、気を配るようにしたいものです。
 こんなことは誰でもできそうなのに、実際はなかなかできません。
 なぜでしょうか?

 一つには、面倒だと思う気持です。
 その実体は、自分にとって何の得にもならないという判断です。
 自己中心的な我欲(ガヨク)のしわざです。
 このままでは、本当に善いことを行った時の深い達成感や喜びを感じられないままの哀しい人生で終わってしまいかねません。

 もう一つには、やっかみや反発する気持です。
 その実体は、自分がやっていないという引け目です。
 せっかく、良心が「あれは善い行いです」と教えてくれ、自分はそうだとわかっている、あるいはそうしたいのに、なぜか参加する気が起こらず、誉める気にもなれないというジレンマが起こっています。
 このままでは、良心が何度も何度も活動を妨げられているうちに錆び付き、光を失ってしまうかも知れません。

 良心善行によってしなやかに練られる優雅で穏和な心が育たなければ、自分がギスギスし、了見の狭い人生を送らねばならないだけでなく、周囲の人間関係もそうした縁が多くなってしまいます。
 せっかく生まれ持った智慧が充分にはたらいていない世界です。
 これでは残念です。

 故藤沢周平は直木賞受賞の4年後、自分が子供の頃に行ったイジメ体験を綴りました。
 朝鮮人のアイスクリーム売りと、女乞食「お玉」について書いた『村に来た人たち』です。
 50才になった一流作家が、どうしても心にしまったままにしてはおけない思いを披瀝したのです。
 彼は深夜、原稿を書いていて自分の行状を思い出し、「思わず涙ぐみそうに」なります。
 侮られ、虐げられつつ生きる人々の人生が「いまになって私にもうっすらと」見えてきたし、そうした人びとに「あのようなかかわり方をした自分も」見えてきました。
 そして、「人はなぜ、人をいじめたりするのだろう。そもそも人間とは何者なのだろう。」と筆を止めて考えこんでしまいます。

 彼は愚かだった自分、ようやく愚かさの実態がわかりかけてきた自分をそのまま見つめ、書きました。
 小生はこの文章を思い出すと、自分の愚かさに心臓の筋肉が次々と収縮してしまうような気持になります。
 傍若無人だった自分、自分の愚かなふるまいを受けた方々――。
 皆さんの思いはいかなるものだったのか……。
 申しわけない……。
 こうしたことを繰り返していると、苛めに関する人生相談を受けるたびに、子供と大人とを問わず〝あなたには何としても苛めに負けない人間になって欲しい、苛める人間になって欲しくない〟と心中で幾度も祈ります。

 藤沢周平が『村に来た人たち』を書いたのはまぎれもなく善行です。
 読んで心をうたれた私たちは、ぜひ、善行に随順したいものです。
 自分の愚かさ、愚かだった自分から逃げず、自分が愚かな行為を繰り返さないのはもちろん、苛められて苦しむ方々のそばにそっと立ちたいものです。
 同感や感心にとどまらず、一歩、踏み出そうではありませんか。




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2015
05.24

真智の開発をめざして(その17) ─他者の善行に感応する心─

201505240001.jpg

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

2 善行者を讃歎する

 私たちが、餌や縄張りを争って醜く牙をむき出し、血を流す獣たちと違い、相手のためを思い合う優雅で穏やかな人間らしい心性を発揮しながら生きるためには、善行の人を素直に誉め称えられなければなりません。
 他人のき行いを見聞きして、自分が恥ずかしくなったり、相手が神々しく感じられたり、涙が滲んできたり、希望を持ったりする心を失わないようにしましょう。
 貶したり、無視したり、反発したりといった反応では情けないというしかありません。
 また、しきものを誉め称えてはなりません。

 ここで考えねばならないのは、そもそも、何がで何がかという問題です。
 慈雲尊者(ジウンソンジャ)は明確に述べました。

仏性(ブッショウ)に順じて心を起こすをといい、これに背くをという。
 本性に身口意(シンクイ)相応すれば十おのずから全きなり。」


(私たちが本来的に持っている〈み仏の子〉としての清浄な心の核に従って発せられた心のありようを善と言い、その核に背いて発せられた心のありようをという。
 人間が人間たる本来的な性根、性分に相応して身体と言葉と心がはたらけば、み仏が説かれた十の善き戒めは達成される)

 修法する身としては、経典に説かれている仏性を求めて心を深めて行けばすっかり解き放たれた状態となり、そこは「霊性の庭」とでも呼べるのではないかと感じています。
 この庭に立って行動しても、語っても、思っても、それ以外にありようはないので、普通のモノサシで白黒を判断するような意味での善ももありません。
 しかし、そここそが人間が人間であることを証す場であり、慈雲尊者が説かれた「善」は、この世界のことだろうと考えています。
 仏性霊性の「性」は決して観念的な文字ではなく、一身に実証できる〈本来性〉なのです。

 慈雲尊者はこうも説かれました。

「善は常に仏性に順ず。
 は常に仏性に背く。
 法として是の如し。
 ただ迷う者が迷う。
 知らぬ者が知らぬばかりなり。」


 最近、ドローンを飛ばし、他人や社会への迷惑を考慮しない少年(15才)と、その行為につながる人々の問題が報道されています。
 善悪の判断や法律の網を超えて広がったネット社会は、面白ければよい、ワクワクすればよい、珍しければよい、儲かればよい、目立てばよい、といったレベルの行動を広げつつあります。
 そこでは、自分の〈心の波の大きさ〉と、社会の〈反応の大きさ〉のみが問題であり、倫理は崩壊して行きます。

 また、親や配偶者の死を隠して年金を不正受給する事件が後を絶ちません。
 公私の別うんぬんという前に、人間は一人残らず〈おかげさま〉によって一生を生き抜く社会内存在であるという認識が消えて、死を個人的なものとしか考えられなくなった心の荒廃が背景にあります。
 また、最近、亡くなった妻のお骨を一部、スーパーのトイレに廃棄した男(68才)が逮捕されました。
 生前に苦労をさせられ、憎んでいたというのが男の言い分です。
 生まれる、死ぬ、といった人間の尊厳にかかわる決定的なできごとすら、損得勘定や憎しみといった感情と同列に置く社会は薄ら寒く感じられます。
 葬送に関することごとを壁や石に刻んだ古代人の温かな思いはどこへ行ってしまったのでしょうか。

 医学博士宮城音弥氏が『霊―死後、あなたはどうなるか』にこう書いたのは平成3年です。
「現代の日本には慣習的宗教はあっても、宗教心は希薄である。」
 宗教が消えれば倫理は基盤を失い、好き嫌いや激情が主役となり、善も悪もあまり意識されなくなります。
 それは、誰もが幸せを手に入れられなくなることを意味します。
 
 他者の善行に魂が震わされ、自分を省みられる人間であり続けるためには、自分の仏性を感得する必要があります。
 そのための導きが十善戒です。
 自分に「不殺生(フセッショウ)」と言い聞かせていれば、生きものを救う人の尊い行為に心が反応します。
 自分に「不瞋恚(フシンニ)」と言い聞かせていれば、じっと忍耐する人の尊い行為に心が反応します。
 何としても「ただ迷う」ばかりでなく、「知らぬ者」のままで過ごさぬよう、学びたいものです。




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2015
02.24

真智の開発をめざして(その17) ─素直な心とは─

201502240001.jpg
〈塩釜市在住の隠形流居合行者藁科昇氏が被災地を撮影しました。3月1日の供養会で会場に流れます〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、み仏の光が発し、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事をがためとするよこしまな心)も消え失せます。
 さて、今回は「優雅さ」について考えてみましょう。

1 有の人を尊敬する

 人の間にある人間である私たちが安心や喜びを得、同時に周囲の人々へ安心や喜びをもたらすためには、心にゆったりと穏やかな部分がなければなりません。
 ギスギス、ピリピリ、カリカリしたままでは自分が成長できないだけでなく、周囲へもよからぬ気配を漂わせ、安心や喜びの縁を自他から遠ざけます。
 こうした人は、もちろん、グループの指導者を務める資格もありません。
 打算でなく自然に人垣ができるタイプの人には必ず、太陽のような穏やかさがあるものです。
 こうした穏やかさを持った人が人を高め、深め、その人がまた優雅で大らかな心をつくるというよき循環をもたらすもの、それが素直さです。

 糸の束を染める際に、元のところで強く結ぶので、全体が染まっても結ばれた部分の内側は白いままで残ります。
 それが「素」です。
 目という文字は、目の縁と眼球を線書にしたものが縦に置かれています。
 それに飾りが付くと「直」になり、「正しく見る」というのが元々の意味です。
 直の上部にある十文字は呪力を表す飾りなので、正しく見て悪や邪を祓うという深意も含んでいます。
 だから、「素直」とは、何ものにも染められていないまっさらな目でものごとをありのままに見ることであり、そこではおのづから霊性がはたらきます。
 古人は霊性のはたらきが悪や邪を祓うことを知っており、〈直(ナオ)い人〉こそが神に仕え、神の意を問い、祓う力を持つと考えました。

 素直な人は必ず、周囲にいる有者を見つけます。
 周囲とは、向こう三軒両隣、あるいは学校の先生や先輩などとは限りません。
 魂がブルブルッと震えれば、書物の中にも、新聞やテレビの情報からでも発見できます。
 発見し、尊敬が生まれれば少しでも近づきたいという願いが起こり、学び、同化をイメージしているうちにいつしか自分のも高まります。

 よき同化の反対が悪しき感化によるカルトへの、のめり込みや、犯罪への傾斜です。
 同化のイメージが狂った方向へと向かわないようにするためには、〈ものごとをありのままに見る〉真の素直さが必要です。
 そこにこそ科学や芸術や宗教の出発点があります。
 素直でない余分なものが科学を歪め、芸術を堕落させ、宗教を思考停止の狂信や盲信へ追いやります。

 さて、自分は大切な素直さを失ってはいないか、素直さが錆び付いてはいないか、時折、調べてみたいものです。
 方法は簡単で、「自分は誰を有の人として尊敬しているだろうか?」と問うだけです。
 もしも、「徳のあるやつなんていない。友人も先輩も先生も親も尊敬できないし、本当に徳がある人になんか会ったことがない」と思うならば危険です。
 それは周囲の誰にも霊性の光を発見できないということであり、「素」の部分に〈(ガ)〉という余分な色が濃くついているか、「直」の目に〈好き嫌い〉という煩悩(ボンノウ)のフィルターがあまりにも強くかけられている可能性が高いからです。
 バカな友人は、本当にバカなだけなのか?
 意地悪な先輩は、本当に意地悪なだけなのか?
 居丈高な先生は、本当に居丈高なだけなのか?
 口うるさい親は、本当にう口うるさいだけなのか?
 実は、それらの人々が持っているまごころや徳に、自分が気づいていないだけではないのか……。

 ここで言う有徳の人とは絵に描いたような聖人君子だけではありません。
 有徳の人を尊敬するとは、言い換えれば、「他人様に徳を発見し、それを尊敬できる」という意味なのです。
 小説であり映画化もされた『悼む人』の主人公坂築静人は、亡くなったいかなる人にも愛し愛された人生の一幕があり、誰かに喜びを与えた一瞬があることを信じ、そうして生き、死んだ人を忘れないと誓うことによって死者を悼みます。
 悼みつつ、いつしか自分が救われ、周囲の人々も自然に救われます。
 これも又、〈徳の発見〉と言えるのではないでしょうか?

 素直な心を取り戻しましょう。
 誰かの徳に感応する心が穏やかになり、安心と喜びを得られますよう。




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「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」※今日の守本尊大日如来様の真言です。
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2015
02.23

真智の開発をめざして(その16) ─観音様と勢至様がおられるわけは?─

201502230002.jpg

〈20120618162912f4f様よりお借りして加工した洞泉寺の弥陀三尊像。向かって右が観音様、左が勢至様です〉

 五智如来のお智慧の内容を、私たちにわかりやすく説かれたのが「優しさ・厳しさ・正しさ・優雅さ・尊さ」という教えです。
 私たちの心にある仏心がきちんとはたらけば、私たちの心からもみ仏の光が発せられ、妄知(モウチ…おかげさまと心の底から思えない惑った心)も邪知(ジャチ…万事を我がためとするよこしまな心)も消え失せます。

 さて、「正しさ」は、五つの恩を深く想う時に実現されます。
 それは、国家社会の恩、親とご先祖様の恩、人間や生きとし生けるものの恩、や教え導いてくださる方の恩、仏法僧(ブッポウソウ)の恩です。
 今回は、「の恩」についてもう少し考えてみましょう。

2 出世間的な

 前回、「人によって、人として育てられなければ、霊性を持った人として成長することはできません」と書きました。
 ノーベル平和賞を受賞したパキスタンの少女マララ・ユスフザイさん(17才)の言葉です。
「教育は人生の恵みの一つであり、人生に欠かせないものの一つでもあります。
 これは私の人生、17年間の経験で分かったことです。」
 実に、導かれることは人生に欠かせません。

 さて、「仏の十号」という言葉があり、悟りを開いたお釈迦様は十種類の名で呼ばれますが、その中に以下の二つがあります。
 一つは調御丈夫(チョウゴジョウブ)といい、指導(調御)をする勝れた人(丈夫)です。
 もう一つは天人(テンニンシ)すなわち、神々や人々のです。
 このように称される世間を離れたはどのように導いてくださるか?
 ヒントは観音菩薩と勢至菩薩にあります。

 弥陀三尊(ミダサンゾン)として阿弥陀如来の向かって右におられるのが観音様、左におられるのが勢至様です。
 それぞれ、阿弥陀様が持っておられる〈慈悲〉の化身、〈智慧〉の化身とされますが、とてもよく似ておられます。
 ずっと拝んでいるうちに気づきました。
 まず、観音様は、私たちが休まねばならない時に、絶対肯定をもって受け容れてくださる方であること。
 そして、勢至様は、私たちが進まねばならない時に必要ないかなる力をもお与えくださる方であることです。
 
 病人にとって第一に必要なのは休息です。
 深く傷ついた子供は、休校させるのもやむを得ません。
 健康な人なら第一に必要なのは勉励(ベンレイ…努力を重ねること)です。
 元気な子供は、気分にかかわらず、登校させねばなりません。

 観音様は前者を導きます。

「この世のなかの諸々の○苦しみ受けて悩めども○観音菩薩の在るを聞き○その名至心に称(トナ)うれば○観音菩薩はその音声(コエ)を○即時に観じ応現(オウゲン)し○皆の解脱(ゲダツ)を得せしめん」


 困り果てた極限のところであっても、観音様は苦を離れさせてくださいます。

 勢至様は後者を導きます。

勢至菩薩に帰依(キエ)するは○われら衆生(シュジョウ)が菩提(サトリ)への○道を求めて精進し○貪・瞋・癡(ムサボリ・イカリ・オロカサ)の○三毒離れて大いなる○仏の教えを受け止めて○智慧に目覚める驚愕の○心を自ら開発(カイホツ)し○己(オノレ)を超えた存在の○真理に気づくことにあり」


 べったりと貼りついた煩悩を離れる智慧の力をお授けくださいます。

 このように、み仏は、いかなる時も私たちをお導きくださる最上の師です。
 これで「正しさ」の項を終わり、次回は「優雅さ」へ進みます。




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「おん さん ざん ざん さく そわか」※今日の守本尊勢至菩薩様の真言です。
 どなたさまにとっても、佳き一日となりますよう。

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