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2014
08.11

本当に大切なものは何か? ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(45)─

2014081100012.jpg

〈この夏最後の護摩法を終えました。もう、秋です〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマの謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○最後のダライ・ラマになる覚悟はある

「私自身、ダライ・ラマ個人として、私自身の未来には何ら関心はない。
 ダライ・ラマという制度にも関心はない。
 ダライ・ラマという制度は人が創り出したものでしかない。
 長い年月、人々はダライ・ラマという制度になんらかの有効性を認めてきたというだけのことである。
 だからこそ、この制度は生き残ってきた。」


 ここにある「ダライ・ラマという制度」を「檀家制度」に置き換えると、そのまま当山の姿勢と重なる。
 弊害が顕著になった制度そのものにすがってはいられない。
 だから、当山は、「脱『檀家』宣言」を行い、仏教の根幹である布施の根本的意義を社会へ訴えた。
 これが見失われれば慈悲の実践はなくなり、人の心は荒み、自己中心が心の王となる。

「もし、人々がダライ・ラマの制度が過去の遺物となり、時代にそぐわないと判断すれば、それはそれでいい。
 自動的にこの制度は消滅するだろう。
 私はその存続にいかなる努力もする意志を持たない。
 もし、私のこの生命があと数十年ばかり続き、もし、人々がダライ・ラマの制度を不必要と感じるようになったなら、それはそれまでのことである。」


 当山も檀家「制度」がどうなろうと関心はない。
 大切なのは、檀家つまり「ダーナ」という自主的で清浄な「布施」の心が失われず、自分本位の邪心を清める奉仕の精神と行動が人間界から失われぬことのみである。
 そのためには、なによりもまず、僧侶自身が法施(ホウセ)という法の布施に徹して生きねばならない。
 と言うよりも、そうして菩薩(ボサツ)になるための修行道を歩む以外、僧侶としての生き方はない。
 また、僧侶が本来の行者として生きる時、初めて、娑婆の方々は本来の〈檀家さん〉となり、営利活動を行わない寺院の存続をさまざまな形で支えてくださることだろう。

「私は最後のダライ・ラマとなることに、いかほどの痛痒も覚えないだろう。
 私は一個の仏教徒であるのみだ。」


 当山も又、檀家制度にすがる寺院であることを望みはしない。
 住職という一個人は当然、一人の仏教徒であり、檀信徒の方々と何ら変わるものではない。
 そして、仏教徒ではない方も含むサポーターの方々すべてと共に悲しみ、共に苦しみ、共に喜びつつ、この世の幸せとあの世の安心を目ざして進みたい。

「人間は本来すばらしい知性と情感を有している。
 このふたつが相携えて働くなら、正しい方向に向かって進むなら、人類愛や慈悲心がそこには湧き出てくるはずである。
 本当に大切なことはそれだけだ。」


 知性とは、道理をもって考える力である。
 情感とは、天地万物と感応する力である。
 二つがきちんとはたらく環境世界であって欲しい。
 そうした環境世界をつくりたい。
 つくれるよう、知性と情感の二つを錆び付かせず、磨き続けたい。
 そうすれば、悪しき結果をもたらす個人的悪業(アクゴウ)も、社会へ悪しき結果をもたらす共業(グウゴウ)としての悪業(アクゴウ)も消えて行くことだろう。

 最後に、寺子屋で行われた無宗教と称するAさんとの対話を記しておきたい。
「私も仏教が説く因果応報は理解できます。
 しかし、たとえば、沈没した韓国のセウォル号に乗り合わせていて亡くなった教師や生徒は、いかなる因果の報いだと言えるのでしょうか?
 神がそうさせたとは思えない一方で、犠牲者の因果応報とも考えられないのです」
 お答えした。
「そこが社会的な共業(グウゴウ)の恐ろしく、抗しがたいところです。
 事件が起こるまで、セウォル号のあのような航行を許す社会が積んできた悪業(アクゴウ)は隠れていました。
 だから、セウォル号を避けるという判断はできませんでした。
 共業(グウゴウ)の前では、個人的営みはあまりに無力と思えるかも知れません。
 しかし、たとえば航路を変えにくい巨大な艦船でも、誰かが舵をきれば、必ず舳先(ヘサキ)の向きを変えられます。
 また、このままではいけないと気づいた誰かが舵をきる行為に着手しない限り、向きは変わりません。
 私たちがよい行いを実践することも、悪い行いから遠ざかることも、知ることも、知らないでいることも、無関心でいることも、すべてが、個人的な業(ゴウ)をつくり、同時に、共業(グウゴウ)もつくっています。
 私たちが悪しき共業(グウゴウ)にやられず、被害者や犠牲者を出さぬためには、それが隠れている時点でいち早く見つけ、自分ができることによって、かかわらねばなりません。
 共に、自分を見つめ、社会を見つめながら、やりましょう」

 以上で、「ダライ・ラマ『の謎』を説く」を読み終わります。




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2014
08.10

仏教は「まず信じよ」ではない ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(44)─

20140809001232.jpg
〈数百キロも遠くからご参拝にこられた方のお土産である。この「屈託のなさ」はどこへ行ったのか?寺子屋『法楽舘』の冒頭で皆さんと話し合った〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマの謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○仏教は、帰依心よりも思考を大切にする

「仏教の悟りを求める方法や、物事への取組み、思考法は、ときとして近代科学のそれとひじょうに近い立場を採用することもある。」


 ダライ・ラマ法王が、科学界のプロたちと議論を重ねてこられたことは周知の事実である。
 しかも、開かれた場において。
 宗教が、宗教家や宗教団体のためでなく、真に万人のためになるものならば、こうしたことは当然と言える。

「基本的に仏教は、帰依(キエ)心よりも事実、事象の上に思考を巡らせることを大切にするからだ。
 これは仏陀ご自身が説かれていることである。
 もし自らが探求して仏陀自身の教えの中に矛盾があると思うなら、自らの方法に従え、と仏陀は説かれている。」


 仏教は、「すがれば救われる」とは説かない。
 基本的には「こういうものの見方をすれば、真実真理に迫り得るかも知れない」と示唆するのである。
 それが、悩み、苦しんでいる人それぞれなりの突破口になればそれでよいのである。
 だから、仏教によって救われる道筋はこうである。
 聴き、考え、納得してやってみたら光が見つかった。
 もちろん、半信半疑から始まる場合もあるだろう。
 いずれにしても、思考停止を求めるならば、仏教ではない。

「仏陀は自らの教えを批判する権利を弟子たちに与えられたのである。
 これは科学的と呼ぶに値する。」


 当山では拝み方などを強制しないし、はっきり無宗教と言う方々も、納得してご縁を結ばれている。
 そして、批判も大歓迎である。
 だから、お骨を移動しようとして相談に行ったらさんざん怒鳴られたなどという話は信じがたい。
 仏教は、それぞれがそれぞれなりに真の解放を得ることをもって、個人的には完結する。
 そのためにこそ道理をもって考え、道理によって議論する。
 まさに「科学的」なのである。

「ある高名な科学者にして無神論者が、私自身に語ったことがある。
 彼はたいへんすばらしい無神論者であるのだが、宗教論議の中で、こう言った。
 もし、いずれかひとつの宗教を選ばなければならないとしたら、彼にとっては仏教になるだろうと。
 彼だけではない。
 他の多くの科学者がそのように語るのを聞いている。
 これは、仏教の思考法に科学的なそれと相通じるところがあるからだと、私は理解している。」


 当山も、寺子屋へ科学者をお招きし、役員にも科学者がおられる。
 宗教的信念や宗教行為を科学の目から判断していただくことは、とても大切であると考えている。

「知性によって生きる人たちが仏教を評価するのは、仏教が本来、理性と実験を重んじるものであったはずだからだ。
 特に初期の仏教はそのようなものであったはずである。
 ただ、すべての仏教徒個人が、仏陀の行いを踏襲することができるはずもなく、当然、残された経典に頼ることになる。
 長い歴史の中では、これもまた当然だが、初期の仏陀精神は失われてしまいがちになる。」


 今でもチベット仏教では、修行者同士の論議が正式な修行である。
 映画『チベット チベット』で観た真剣勝負の場面は忘れられない。
 それだけに、中国政府が、「チベットの寺院は守られている」として同じような場面を公開した時、欺瞞であることはすぐにわかった。
 僧侶たちは皆、笑顔であり、あるいは腑抜けだったからである。

「たとえば、チベットの僧院の中で、多くの僧侶たちが仏教の本質を見失い、生きるための方便として僧侶としてありつづける、そんな姿をさらしている。
 チベットばかりではないだろう。
 多分、日本においても、多くの寺院には知性の抑圧が見られるだろうし、知識を食い物にしている僧侶がいるだろう。
 稼ぎの方法として、人間のを食い物にする者もいるはずだ。
 これらは、ダルマに悪しき印象を及ぼしかねない困った事柄である。」


 耳に痛い指摘である。
 お釈迦様やお大師様と同じように、生き方に悩む方々や、身近な人のに悲しむ方々にとって必要とされる聖職者でありたい。




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2014
07.15

仏教はまず〈人それぞれ〉を認め合う ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(42)─

20140712001376.jpg
〈7月12日の寺子屋『法楽舘』では、お盆と盆踊りについて皆さんと考えました〉

2014071200131.jpg
〈光明真言についてもお話しし、一緒に唱えました。8月9日の寺子屋では、「懺悔と救われる道」について考えましょう〉

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
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第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

2 最後のダライ・ラマ

○信仰は、きわめて個人的な問題である

人生を成就するための唯一の拠り所などというものは存在しない。
 何事につけても、最善の唯一のものなどありえない。
 すべてのものごとは、個々の人間の心の許容量、性向、その人が置かれた環境などに応じて判断されるべきであろう。」


 この文章を読んだ多くの方々は、意外に思われるかも知れない。
「チベット仏教の最高の指導者がそんなことを言っていいの?」
 次を読むと、さらにびっくりされるかも知れない。

「たとえば、私自身、ダライ・ラマ十四世は仏教徒である。
 仏教を信仰することが私個人の心の最善の拠り所となっている。
 これは間違いない。
 だが、全ての人にとってそうではない。」


 多くの方々はこう考えておられることだろう。
「どの宗教も自分たちこそ一番と信じ、信者を増やそうとしている」
 確かに、教団の都合でそうした強い姿勢と行動に走る宗教団体が見受けられる。
 そのほとんどは、二つの頑なさを持っている。
 一つは、唯一絶対と主張する絶対者や教義を錦の御旗とすること。
 もう一つは、他の宗教を攻撃すること。
 しかし、もしも仏教教団が頑なさを持つならば疑問符がつく。
 仏教は端(ハナ)から〈人それぞれ〉という真実を見極め、そこに立っているからである。
 悟ったお釈迦様は何をされたか?
 あくまでも〈人それぞれ〉の事情に合わせ、その人にとって最も救いとなるであろう内容と形で法を説き、法力を示しもした。
 しかも、救いを求める人を誰一人、宗教の違いなどによって見放したりはしなかった。
 後代になり、仏陀が相手に合わせて実行する最高の手立ては「方便(ホウベン)」という言葉になった。
 大乗仏教行者にとって生きる目的は、〈方便を見出し実践できる存在=菩薩(ボサツ)〉になることである。

 さて、私たちは菩薩たり得るか?
 相手それぞれの人柄や過去の因縁や目先の事情や周辺の状況をお釈迦様のように正確に把握し、最も適切な法を説き、法力を発揮できるか?
 ダライ・ラマ法王といえども、無理である。
 ならば、「何よりもまず、〈人それぞれ〉という真実に立とう、自分の拠り所などという狭いものから離れよう」というのが、この教えである。
 ちなみに、当山の人生相談は袈裟衣をまとい、法を結んでからしか行わない。
 それは、住職程度の行者では、世間話の中で相手様に必要な方便はわかりようもないからである。
 だから、ご本尊様のお力をお借りしてお相手をするしかない。
 まさに〈人それぞれ〉であるお戒名も、ご本尊様と一体という心で、ご本尊様から授かってお伝えするしかない。

「キリスト教がある人にとっては最高の導きになるだろうし、他の人にはまた違った途(ミチ)があるだろう。
 それはきわめて個人的な問題であり、その人個人の心に属することがらである。
 一切を一般化することは避けるべきである。」


 この「一切を一般化すること」こそが、特定の宗教を早く広めたい人々の陥りやすい陥穽(カンセイ…落とし穴)である。
 神ならぬ人間、菩薩ならぬ人間に〈一切の一般化〉は不可能である。
 しかし、相手を信じこませ、仲間を増やすためには、はっきりと、断定的に、告げる、やり方が効果的である場合もある。
 こうして、私たちは容易に〈人それぞれ〉という真実を忘れる。

 さて、お釈迦様へ戻ろう。
 相手に応じた極めて多様な内容のどれもが、悟った人すなわち仏陀(ブッダ)の金口(コンク)から流れ出た法なので「仏法」とされ、真摯で天才的な行者たちにより2500年かけて分析され、深められ、わかりやすい教えとしてまとめられたのが、今に伝えられた「仏教」である。
 だから、もしも、お釈迦様やお大師様といったレベルの菩薩がこの世に現れれば、仏教によってすべての人を救えるだろう。
 しかし現実は、凡夫として〈自分にピッタリくる〉範囲の教えによって救われ、関心を持つ人や、自分と同じ悩みに苦しむ人へ個人的体験の範囲について語る程度までが、せいぜいのところである。
 自分が知っている仏教は、8万4千あるとされる法門のうち、いったい、どれほどになるのか?
 こうした〈真の仏教徒〉としての自省と自覚があれば、他の宗教宗派を安易に誹謗したり、軽蔑したり、攻撃したりはできない。
 私たちは凡夫同士として、せめて、〈人それぞれ〉をはっきりと認め合い、互いに拠り所とする大切な心の杖を振りかざして争い合う愚行を慎みたいものである。
 



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「おん あみりたていせい から うん」※今日の守本尊阿弥陀如来様の真言です。
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2014
07.08

責任を引き受ける愛 ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(41)─

2014070500124.jpg

 平成6年、ジャーナリスト大谷幸三氏は、インドのダラムサラにおいて、ダライ・ラマ法王への質問を数日間かけて行い、回答をまとめた。
 それがテキスト「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」である。

第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

1 無限の利他

○人間の頭脳は超能力の住処(スミカ)である

「人間の頭脳というこの小さな空間は、まさに超能力の住処(スミカ)だと言える。
 知と心とがこの中に生きている。
 しかも、それらは単一のものではない。
 何千、何万、何百万という、脳細胞と神経細胞の組み合わせが、それこそ無数の異なるレベルの知と心の融合を実現している。
 その融合が、人が生きるうえで必要なさまざまな役割を果たしてくれる。
 その働きの中でも、もっとも大事なものといえば、愛情を作り出しているということだろう。」


 電波に例えるなら、頭脳は発信基地であり、中継所であり、受信装置でもある。
 目に見えない「知と心」は、目に見えない世界にまで届く。
 東日本大震災で犠牲者になった方々とのやりとりを書いた『想像ラジオ』(いとうせいこう著)は、私たちがずっと保ち続けてきた死者との交流という大切な感覚を大胆に広げて見せた。
 この「知と心」がうまく融合すれば、人間的な愛情の泉ともなる。

「愛情、それもロマンティックな愛はすばらしい働きをする。
 男と女がいようとも、ロマンティックな愛の存在なしには性の営みさえうまくいかない。
 次の世代が絶えてしまう。
 いわゆる再生産のメカニズムが機能しなくなるわけである。
 このような感情は人の本質にかかわるものである。
 したがって、ロマンティックな愛の感情は自然の発露であると言える。」


 男女は、磁石のプラスとマイナスのように引き合うとは限らない。
 しぐさ、目線、言葉など、何であれ、パチンと火花が散るような機縁が必要である。
 そこから「ロマンティックな愛」も生まれる。
 異性間のつながりは、同性同士では、あるいは同性だけのグループでは生まれにくい微妙な潤いを生む場合が多い。

「だが人間の知性は、もっとはるかに遠くまでその力を及ぼすことがある。
 限界を超えることがある。
 自然の発露としての役割以上のことを成し遂げることがある。
 であるからこそ、考えなければならない。」


 この「限界を超える」知性のはたらきは、自分の意志で自分のいのちを捨てるところまで行く。
 ブログ「守ってこそ真の優しさ」に書いた日本武尊(ヤマトタケルノミコト…倭建命)の妃である弟橘媛(オトタチバナヒメ)がその典型である。
 再掲しておきたい。

 火攻めに遭い、相模から逃れて上総をめざした船が暴風に襲われたおり、日本武尊と共にいた弟橘媛はこう言って入水しました。
「いま風が起こり波が荒れて御船は沈みそうです。
 これはきっと海神のしわざです。
 賎しい私めが皇子の身代りに海に入りましょう」(『日本書紀〈上〉全現代語訳』より)
 姫が海中に消えると、さしもの暴風もたちどころにやみ、日本武尊は無事、役割を果たします。
 旗山崎にある走水神社には、故事にちなんだ絵画や石碑があります。
 弟橘媛が日本武尊へ遺した一首です。
「さぬさし 相武の小野に 燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」
 御歌意訳です。
「相模の国の野原で、敵に四方から火をかけられあわや焼け死にそうになった時、あの、あなたは、剣で草をなぎはらい、大丈夫か、おまえ、と声をかけてくださいましたね。」
(「弟橘媛」より)

 この「燃ゆる火の 火中に立ちて 問ひし君はも」は、日本人の情緒そのものである。
 危機的場面で私を救ってくれたから、今度は私がお返しをするという話ではまったくない。
 おそらく、弟橘媛の心はこうであろう。
〝あの時の貴男の姿も言葉も、自分にとって〈決定的だった〉からこそ、自然に身代わりとなるのであり、身代わりとならずにはいられない。
 あの時の喜びと、今の喜びは変わらない〟

 性愛を媒介とした男女間ではあっても、淫欲や嫉妬や怒りが絡まって相手のいのちを奪いかねない世界とは正反対である。
 ここには、仏神の世界に通じる明らかな知性がある。

「知性を伴う愛、それがロマンティックな愛の形を取ろうとも、正しい愛であるならば、愛はある種の責任を引き受けることを意味する。
 正しい愛は幸せな結婚を実現するだろうし、その結婚は長く幸せを持続させ、生命のある限り続くものになるだろう。
 子どもを産み、育てる。
 幸せな結婚とはそうしたものだろう。
 これもまた、自然の摂理が湧き出るように実現されるもののひとつだと言えるだろう。」


 重要なのは、相手へ「求める」のではなく、「責任を引き受ける」覚悟の伴う愛こそが「知性を伴う愛」であり、そうした愛が、引き合う男女の幸せだけでなく、人類の存続にかかわるという点である。
 愛という言葉は決して免罪符ではない。
 ワニのように、本能や縄張り意識などで動くだけでは情けない。
 ネズミのように、感情を主として自己本位にうまくやろうとするだけでは情けない。
 私たちはワニやネズミのレベルを脱し得る大脳新皮質を持った高等なほ乳類であり、み仏の世界に連なる霊性を具えた人間である。
 この言葉を忘れないようにしたい。
「正しい愛であるならば、愛はある種の責任を引き受けることを意味する。」

20140708000111護摩
〈おかげさまにて、無事、第一例祭を終えました。『法楽の会』会員様をはじめ護摩木に記した善男善女の願いは確かにご本尊様へお届けしました〉




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「おん さんまや さとばん」※今日の守本尊普賢菩薩様の真言です。
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2014
07.04

知力と情緒で〈真の人間〉になろう ─「ダライ・ラマ『死の謎』を説く」を読む(40)─

2014070400111.jpg

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第7章 「知」と「心」の融合 ―求めつづけることの大切さ―

1 無限の利他

知力に感情が伴えば、無限の利他へとつながる

「自然現象の必然というものがある。
 その極みが肉体の死であろう。」


 もしも、「どうしても避けられないものを、たった一つに絞って挙げなさい」と言われたなら、多くの方々が「死」を選ぶのではなかろうか。
 私たちは、動物としては生まれながらに〈人〉だが、精神的には、成長しつつ、だんだんに人間らしくなる。
 知恵がはたらくようになり、情緒が豊かになるからである。
 さらに、霊性をきちんとはたらかせつつ生きるためには、人の道を学ばねばならない。
 だから、慈雲尊者は、行うべきことと、行ってはならぬことをきちんと分けて考え、行動するのが〈人になる方法〉であると説き、「人となる道」を著した。
 しかし、私たちの肉体は、精子と卵子が出会った瞬間から、死へ向かって歩み始めている。
 まさにモノの世界における必然であり、精神の世界における宿命である。
 アジソンは言った。
「人間の一生は、ちょうど橋のようなものだ。
 生から死へかかっている橋、その橋を一歩一歩渡ってゆくのが人生だ」

 ビクトル・ユーゴーは言った。
「人間は死刑を宣告されている囚人だ。
 ただ、無期執行猶予なのだ


「その不可避な死を恐れおののかずに迎えるには、人間の知と心のどちらが有効だろうか。
 人間は肉体を内部から知と心によって支えている。」


 私たちの脳には、魚のように、とにかく呼吸や心拍を続けようと、生命維持に懸命な脳幹がある。
 そして、爬虫類のように、本能や縄張り意識などで動く大脳辺縁系がある。
 さらに、ネズミやモグラのように、情動を司り、うまく立ちはたらこうとする大脳旧皮質がある。
 これらがある以上、私たちは必ず死を恐れ、死を避ける行動に動く。
 こうしたワニやネズミの脳のはたらきをコントロールするのが、ほ乳類の大脳新皮質である。
 人間らしい知や心は、死の恐怖へ立ち向かう。

「したがって、この両者の結合にこそ意味がある。
 どちらが優位にあるか、どちらがより大きな影響を及ぼすか、どちらがより人生の節目を決定する力を有するか、そうした問いに答えることは不可能に近い。」


 知力情緒があいまって、過たず、生きがいのある生活が可能になる。
 どちらがより、私たちを幸福にし、どちらがより、不幸にするかはわからない。

「いかなる知、即ち知力、知識、学識なども、心の働きの助けなしには機能しない。
 知の助けなしに心は動かない。
 心がこもらない知によっては、何を行おうと有効にものごとを成し遂げることはできない。
 と同時に、知に支えられない心は狭くなる。
 このように知と心は、ともに助け合いながら働くべきものなのだ。」


 理性が強すぎると、冷たい人になりかねない。
 感情が強すぎると、ばかな人になりかねない。
 信頼される人格者は必ず、冷たくないし、ばかでもない。

「たとえば、心だけならどうだろうか。
 心に生まれる感情は、多くの場合、あまり芳しからざる働きをする。
 心だけでは、ときとして善からぬ働きをすることがある。
 理性とも知力とも無縁で働く場合がそうだ。
 たとえば、憎しみである。
 憎悪もまた心の所産である。
 たとえば、執着といった感情である。
 愛着が執着になったなら、これは悪しき感情の働きだと言わねばならない。
 したがって、心がこもればすべて善いというわけではない。」


『中阿含経』は説く。
「実のごとく苦の本を知るとは、いわく、現在の愛着(アイジャク)の心は、未来の身と欲とを受け、その身と欲とのために、さらに種々の苦果(クカ)を求むるなるを知る」
 執着すなわち、空の真理を知らず、囚われてもいたしかたのないものに囚われ、自ら苦を生じてしまう。
 執着心と苦との絡み合いが解け去らない限り、地獄界や修羅界など、苦の世界における輪廻転生(リンネテンショウ)から抜けられない。
 私たちは、輪廻転生の中で、戦争に苦しんできた。
 しかし、戦争のない時も又、苦しんできたのである。
 知力情緒も、持ち合わせていながら……。

「心は感情の生まれるところである。
 感情といえども、けっして悪しき心の働きだとは言い切れない。
 仏陀自身も激しい感情の持ち主であったはずだ。
 仏陀の説く無限の利他は、理性の基盤の上に、たっぷりと感情がこめられている。
 知力に感情が伴えば、利他の精神はより強められるということだ。
 仏陀は利他を強力な感情だと説かれたと理解したいぐらいである。」


 要は、思いやりを持ち、人の道を学ぶことに尽きる。
 そして、大事に際しては、いかに腹を決めるかである。
 み仏の表情は静かだ。
 しかし、決して冷たくはない。
 手を合わせると無性に懐かしさに似た感謝の感情が起こったりする。
 故郷や親のような無条件に受け容れるお慈悲がそうさせるのだろう。
 み仏には、みじんも揺るぎは感じられない。
 もちろん、迷いもまったく感じられない。
 み仏を慕い、み仏に憧れて合掌を繰り返し、知力、情緒を怠らず、向上させたい。
 そうすれば、きっと、利他の思いが深まることだろう。




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「おん ばざら たらま きりく」※今日の守本尊千手観音様の真言です。
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