9月の俳句
9月は長月です。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
カンカン照りの中を歩いて行くと、公園に建つ彫像が目にとまった。
彼はじっとして動かない。
陽射しを一身に受けているかのようだ。
私たちは「ああ、暑い」と口に出して汗を拭う。
だからといって暑さが去るわけではないが、気持に一区切りがつき、また、歩める。
しかし、彼にはそれが許されない。
ただただ灼けているだけである。
作者は「大変ねえ」とつぶやいたのだろうか。
日照から頭を守ろうとかぶっていた帽子の内側はもう汗だらけだ。
ふと見つけた樹木の下へ入り、帽子を小枝にひっかけて一休みする。
頭にかぶさっていた熱気がたちまちに去った。
読者にも心地よさが伝わってくる。
「ひょいと」に「ああ、良かった」が隠れている。
人通りが多い場所へでかけると、頭の上は七夕飾り、周りは「どっと」集まった人の海。
そのうねりを見ただけで汗が噴きだす。
「へそかづら」は、時期によって強い臭いを発するところからこう呼ばれているが、細長い釣り鐘のような小さな花は微笑ましい。
しかし、作者は、「はびこりし」に断罪の気持を込めている。
ところ構わず鶴を伸ばして勢力範囲を広げ、内へ不快な臭みを抱えている植物を政治家に喩えたのではなかろうか。
「戦後最大の景気拡大!」のうたい文句にはカラクリがあり、お祭り騒ぎをしている間に国民の多くが生活を苦しくしてしまった。
怠けたのではない、一部に富が集中し、多くの人を窮乏させるシステムができていたのである。
日本はG7の仲間入りをして世界の指導者ぶってはいるが、過去十年間で、このグループのうち六カ国が国民総生産を平均五十パーセント以上伸ばしたのに、日本だけが伸びていない。
「世はデフレ」には、庶民の財布が寂しくなった事情が込められている。
蒸し暑さで寝苦しく悶々としているうちに、雷が鳴りだした。
今度は怯えさせる。
自然は容赦ない。
人間は縮こまっているだけだ。
日本各地で大地震の発生が予想されている。グラッとくると、たった今、自分が体験した揺れ以上の大地震がどこかで起こっているかも知れないという不安や恐怖が伴う。
思わずテレビやラジオをつけるのは日本人の習性となっているようだ。
本来の「鳴かず飛ばず」は、目立つ動きをせずにじっと機会を待つことだったが、現在は、長期間ぱっとせずに過ごす状態そのものを指すことが多い。
この句もそれにならっている。
「空蝉」もまた、「現身(ウツシミ)」つまり「今、現在この世にいる人」だったのが、万葉集で空蝉という文字が当て字として用いられたことから蝉の抜け殻そのものを指すようになった。
自分に厳しい作者は、人生をふり返り、自分の句を読み直して空蝉と言っているが、綴られた句には厳しさや強さのこもった独自の境地がある。
空蝉ではない。
「二声」とは、突然一度か二度鳴くだけの声である。
なぜか、アブラゼミなどにこうした習性がある。
エッと目を醒まさせられて空を見上げると赤い月がかかっている。
赤い月には「濃い」気持を引き出されるものだが、ここでは暑さを表しているのではなかろうか。
蓮は夢の中のできごとなのか、それともうつらうつらしているうちに香が届いたのか。
蓮は日照に敏感であり、暗いうちは咲かないからきっと前者なのだろう。
幻想的な句である。
夢の中で爽やかな風に頬を撫でられた。
風には蓮の香が幽かに感じられる。
浄土は確かである。
生前戒名を受け、写仏や勤行に勤しんできた作者はもう、浄土の住人である。
心が生き方となり、生き方が心を創る。
浄土がもたらされたのは必然である。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
公園の彫像もっとも灼けてをり
カンカン照りの中を歩いて行くと、公園に建つ彫像が目にとまった。
彼はじっとして動かない。
陽射しを一身に受けているかのようだ。
私たちは「ああ、暑い」と口に出して汗を拭う。
だからといって暑さが去るわけではないが、気持に一区切りがつき、また、歩める。
しかし、彼にはそれが許されない。
ただただ灼けているだけである。
作者は「大変ねえ」とつぶやいたのだろうか。
汗の帽ひょいとあづけし樹下蔭(コシタカゲ)
日照から頭を守ろうとかぶっていた帽子の内側はもう汗だらけだ。
ふと見つけた樹木の下へ入り、帽子を小枝にひっかけて一休みする。
頭にかぶさっていた熱気がたちまちに去った。
読者にも心地よさが伝わってくる。
「ひょいと」に「ああ、良かった」が隠れている。
人どっと汗どっと噴く七夕祭
人通りが多い場所へでかけると、頭の上は七夕飾り、周りは「どっと」集まった人の海。
そのうねりを見ただけで汗が噴きだす。
はびこりしへそかづらや世はデフレ
「へそかづら」は、時期によって強い臭いを発するところからこう呼ばれているが、細長い釣り鐘のような小さな花は微笑ましい。
しかし、作者は、「はびこりし」に断罪の気持を込めている。
ところ構わず鶴を伸ばして勢力範囲を広げ、内へ不快な臭みを抱えている植物を政治家に喩えたのではなかろうか。
「戦後最大の景気拡大!」のうたい文句にはカラクリがあり、お祭り騒ぎをしている間に国民の多くが生活を苦しくしてしまった。
怠けたのではない、一部に富が集中し、多くの人を窮乏させるシステムができていたのである。
日本はG7の仲間入りをして世界の指導者ぶってはいるが、過去十年間で、このグループのうち六カ国が国民総生産を平均五十パーセント以上伸ばしたのに、日本だけが伸びていない。
「世はデフレ」には、庶民の財布が寂しくなった事情が込められている。
寝苦しき夜をつんざく梅雨の雷
蒸し暑さで寝苦しく悶々としているうちに、雷が鳴りだした。
今度は怯えさせる。
自然は容赦ない。
人間は縮こまっているだけだ。
眞夜中の地震にとび起きニュース聞く
日本各地で大地震の発生が予想されている。グラッとくると、たった今、自分が体験した揺れ以上の大地震がどこかで起こっているかも知れないという不安や恐怖が伴う。
思わずテレビやラジオをつけるのは日本人の習性となっているようだ。
鳴かず飛ばず空蝉(ウツセミ)のごと句に縋る
本来の「鳴かず飛ばず」は、目立つ動きをせずにじっと機会を待つことだったが、現在は、長期間ぱっとせずに過ごす状態そのものを指すことが多い。
この句もそれにならっている。
「空蝉」もまた、「現身(ウツシミ)」つまり「今、現在この世にいる人」だったのが、万葉集で空蝉という文字が当て字として用いられたことから蝉の抜け殻そのものを指すようになった。
自分に厳しい作者は、人生をふり返り、自分の句を読み直して空蝉と言っているが、綴られた句には厳しさや強さのこもった独自の境地がある。
空蝉ではない。
二声の夜更けの蝉や月赤し
「二声」とは、突然一度か二度鳴くだけの声である。
なぜか、アブラゼミなどにこうした習性がある。
エッと目を醒まさせられて空を見上げると赤い月がかかっている。
赤い月には「濃い」気持を引き出されるものだが、ここでは暑さを表しているのではなかろうか。
夜の浅き夢見し蓮の匂ひけり
蓮は夢の中のできごとなのか、それともうつらうつらしているうちに香が届いたのか。
蓮は日照に敏感であり、暗いうちは咲かないからきっと前者なのだろう。
幻想的な句である。
夢の中風の渡りて蓮浄土
夢の中で爽やかな風に頬を撫でられた。
風には蓮の香が幽かに感じられる。
浄土は確かである。
生前戒名を受け、写仏や勤行に勤しんできた作者はもう、浄土の住人である。
心が生き方となり、生き方が心を創る。
浄土がもたらされたのは必然である。
8月の俳句
8月は葉月です。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
夜更けに外へ出てみると、ひんやりした夜気が心地よく、空には月がかかり、清涼な光を放っている。
家の中にはまだ暑い空気がよどんでいる。
いっそのこと戸を閉めず開け放っておきたいが、そうもゆかない。
「閉ず」には「……。」としたくなる心残りがある。
暑さを凌ごうと簾をかけている。
一見、バリケード風だが決してそうではない。
形は拒否のようでも心には受容の準備がある。
郭公の鳴き声はとてもよく通る。
「高鳴いて」には、音程の高さや声の大きさだけでなく強さがある。
モズもシカも虫たちも高鳴く。
夏の霧には春の靄のような膨らみや優しさがない。
モノに遮られない限り一分の隙なく遍満している空気と一緒に、目に見える世界へすっかり浸透している。
在りながら虚無のようなそれは、胸中の虚ろな思いと同じだ。
気づくと、内も外も、もう、無彩色だ。
小さな流れを挟んだ草むらのあたりを蝶々たちが飛んでいる。
自分と一緒に、梅雨の晴れ間を楽しんでいるかのようだ。
稲光に次いで雷鳴が轟く。
あらゆるものを畏れさせる雷神は世界の王だ。
しかし身を縮め息を潜めている者たちとの間には絶対的な断絶があり、いかに王の力を示し、それを確認して自ら大きく頷こうとも孤独である。
「恍惚境」とは恐れ入ったとしか言いようがない。
夏の昼寝には独特の深さがある。
愛猫のクロが長く伸びている姿を眺めると、よく解る。
すっかり我を失い切っている時、あの世に行っているのと何の違いがあろうか。
目覚めの「ああ、戻ってきた」という感覚が「引き戻されし」となった。
又、鳴る。
今、言葉は要らない。左脳はお休みだ。
土鳩の声はどこかヤボ臭い。
そもそも、伝書鳩などとして飼われていた彼らは、人間界で生きる。
曇り空の下、眠りを破る野太い声は、すでに暑さを先取りしている。
見事なほど真っ白な霧。
あらゆるものの形も色もぼんやりし、感性ははたらかない。
迷子になったようだ。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
夏の月今日も同じく鍵を閉ず
夜更けに外へ出てみると、ひんやりした夜気が心地よく、空には月がかかり、清涼な光を放っている。
家の中にはまだ暑い空気がよどんでいる。
いっそのこと戸を閉めず開け放っておきたいが、そうもゆかない。
「閉ず」には「……。」としたくなる心残りがある。
簾して浮世を厭ふにあらず
暑さを凌ごうと簾をかけている。
一見、バリケード風だが決してそうではない。
形は拒否のようでも心には受容の準備がある。
高鳴いて山野の眠り解く郭公
郭公の鳴き声はとてもよく通る。
「高鳴いて」には、音程の高さや声の大きさだけでなく強さがある。
モズもシカも虫たちも高鳴く。
夏の霧胸のうつろを埋め尽す
夏の霧には春の靄のような膨らみや優しさがない。
モノに遮られない限り一分の隙なく遍満している空気と一緒に、目に見える世界へすっかり浸透している。
在りながら虚無のようなそれは、胸中の虚ろな思いと同じだ。
気づくと、内も外も、もう、無彩色だ。
梅雨蝶の小さく翔び交ふ細流れ
小さな流れを挟んだ草むらのあたりを蝶々たちが飛んでいる。
自分と一緒に、梅雨の晴れ間を楽しんでいるかのようだ。
光りては雷神孤独な恍惚境
稲光に次いで雷鳴が轟く。
あらゆるものを畏れさせる雷神は世界の王だ。
しかし身を縮め息を潜めている者たちとの間には絶対的な断絶があり、いかに王の力を示し、それを確認して自ら大きく頷こうとも孤独である。
「恍惚境」とは恐れ入ったとしか言いようがない。
夏の昼寝には独特の深さがある。
愛猫のクロが長く伸びている姿を眺めると、よく解る。
すっかり我を失い切っている時、あの世に行っているのと何の違いがあろうか。
目覚めの「ああ、戻ってきた」という感覚が「引き戻されし」となった。
風鈴の音がチリリーンと響き渡り、全神経が耳に集まって次の音を待っている。
又、鳴る。
今、言葉は要らない。左脳はお休みだ。
朝曇り今日も暑いと土鳩鳴く
土鳩の声はどこかヤボ臭い。
そもそも、伝書鳩などとして飼われていた彼らは、人間界で生きる。
曇り空の下、眠りを破る野太い声は、すでに暑さを先取りしている。
夏の霧白くて詩心見失ふ
見事なほど真っ白な霧。
あらゆるものの形も色もぼんやりし、感性ははたらかない。
迷子になったようだ。
7月の俳句
7月は文月です。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
薫風は炎熱の夏に吹く一陣の涼風であり、私たちをほっとさせる。
出典によると、唐の文宗帝が「人は篤い篤いと苦しんでいるが、私はむしろ夏の日の長さを愛でている」と詠んだのに対して臣下の柳公権が「南からやってくる薫風は、殿閣に微かな涼を生じさせている」と応じたことになっている。
だから、薫風そのものが涼しい風なのではなく、熱風をも楽しむ文宗帝の心を表現したのが薫風であるという解釈もあるそうだが、この句を読むと、そうした回りくどい詮索は不要に思える。
熱風の中に救いの薫風を感じる、あるいは見つける一瞬、一瞬がそのまま余生であると言う。
風自体の温度はどうでも良い。
風がもたらす「一刻」は、盤石より重い。
誰からか届いた封書を開く時、心が小さくときめき、青葉を渡る風が感じられた。
風は窓から吹き込んだのかも知れないし、気のせいだったのかも知れないが、そうしたことは問題ではない。
心の動きと天地の動きが呼応したことだけは確かである。
暑い日の夕刻、突然西空に積乱雲が盛り上がり、一気に暗くなる。
このまま降るのか降らないのかは判らないが、禍々しい気配は濃くなり、鴉が声高に鳴きながら急いで巣を目ざす。
雷雨を迎える変化が雄大にとらえられた。
白く軽い靴を履くと、身も心も軽くなる。
さあ、出発だと気合がみなぎる気持に合わせて、独りでに背筋が伸びる。
五月五日は、一年中で最も雨の降らない特異日とされている。
この頃を過ぎると、梅雨にはまだ早いのに雨がしとしと降り、梅雨を思わせる日になる場合がある。 これを「走り梅雨」と称する。
太った猫の暑そうな様子に雨はいっそう拍車をかける。
雨の時期に跳ぶ蝶は同情心を誘う。
励ましたくもなる。
木漏れ日に現れた蝶は風に吹かれてどこかへ消えた。
雨はまだ降らない。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
薫風の一刻づつが余生なる
薫風は炎熱の夏に吹く一陣の涼風であり、私たちをほっとさせる。
出典によると、唐の文宗帝が「人は篤い篤いと苦しんでいるが、私はむしろ夏の日の長さを愛でている」と詠んだのに対して臣下の柳公権が「南からやってくる薫風は、殿閣に微かな涼を生じさせている」と応じたことになっている。
だから、薫風そのものが涼しい風なのではなく、熱風をも楽しむ文宗帝の心を表現したのが薫風であるという解釈もあるそうだが、この句を読むと、そうした回りくどい詮索は不要に思える。
熱風の中に救いの薫風を感じる、あるいは見つける一瞬、一瞬がそのまま余生であると言う。
風自体の温度はどうでも良い。
風がもたらす「一刻」は、盤石より重い。
封書開くときめきほのと青葉風
誰からか届いた封書を開く時、心が小さくときめき、青葉を渡る風が感じられた。
風は窓から吹き込んだのかも知れないし、気のせいだったのかも知れないが、そうしたことは問題ではない。
心の動きと天地の動きが呼応したことだけは確かである。
気まぐれな夕立雲や鴉鳴く
暑い日の夕刻、突然西空に積乱雲が盛り上がり、一気に暗くなる。
このまま降るのか降らないのかは判らないが、禍々しい気配は濃くなり、鴉が声高に鳴きながら急いで巣を目ざす。
雷雨を迎える変化が雄大にとらえられた。
白靴に替へて背筋の通りけり
白く軽い靴を履くと、身も心も軽くなる。
さあ、出発だと気合がみなぎる気持に合わせて、独りでに背筋が伸びる。
老猫のころころ肥えて走り梅雨
五月五日は、一年中で最も雨の降らない特異日とされている。
この頃を過ぎると、梅雨にはまだ早いのに雨がしとしと降り、梅雨を思わせる日になる場合がある。 これを「走り梅雨」と称する。
太った猫の暑そうな様子に雨はいっそう拍車をかける。
雨の時期に跳ぶ蝶は同情心を誘う。
励ましたくもなる。
木漏れ日に現れた蝶は風に吹かれてどこかへ消えた。
雨はまだ降らない。
6月の俳句
6月は水無月(ミナヅキ)です。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
友人と眺めている作者は、眼前にある大樹が過去の膨大な時間の結晶であるであることを感じ、同じく〈ここまで生きてきた者〉として深い共感と納得と喜びに胸がいっぱいである。
それは、傍らにいる友人とも共通しており、三者は一体である。
桜の笑顔は、自分の人生を丸ごと賞めてくれるかのようだ。
「立つ」が結論「生きし」を呼び、「これでもういい」という達観を超えた大肯定となっている。
作者特有の勁さが存分に発揮された。
作者は、行く時間を惜しみ、あまりに潔く散ろうとする桜に「ちょっと待って」と思いをぶつけている。
それは、帰らねばならない友への惜別と重なっており、行ってしまうのは重々解っていならがも、ゆとりを持ってこう言ってみるところに味わいがある。
恋愛における「行かないで」と異なり、定めし、コンサートにおけるアンコールといったところだろうか。
たたでさえはっきりした主張のある香が、しっとりした雨の日であればなおいっそう強く自分を包み込む。
外出を阻む雨が、同時にぜいたくな空間を守ってくれている。
これはもう、本を読むしかない。
般若心経の「心にさわり無し」である。
これ以上充実した時間と空間があろうか。
「あっ、まだ鳴いている」と思える頃が最も節回しが巧みで声色は艶やか、かつ円かでもあり、感心しているうちにいつの間にか役割を終えている。
だから、最高の声を聴かれるのは、一年数度しかない。
それを耳にして目覚めるなど、至福と言う以外に表現のしようはない。
最高の一瞬をとらえる俳人ならではの句と言えよう。
俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)
古い枝垂桜の花々は枝が折れんばかりに咲き競い圧倒的な存在感で風に揺らいでいる。
友人と眺めている作者は、眼前にある大樹が過去の膨大な時間の結晶であるであることを感じ、同じく〈ここまで生きてきた者〉として深い共感と納得と喜びに胸がいっぱいである。
それは、傍らにいる友人とも共通しており、三者は一体である。
桜の笑顔は、自分の人生を丸ごと賞めてくれるかのようだ。
「立つ」が結論「生きし」を呼び、「これでもういい」という達観を超えた大肯定となっている。
作者特有の勁さが存分に発揮された。
「再会」は、今年も満開の時節を迎えて眺められる桜と、久方ぶりに会った友人の両方を対象にしているのではないか。再会に散り急ぐ花とどめませ
作者は、行く時間を惜しみ、あまりに潔く散ろうとする桜に「ちょっと待って」と思いをぶつけている。
それは、帰らねばならない友への惜別と重なっており、行ってしまうのは重々解っていならがも、ゆとりを持ってこう言ってみるところに味わいがある。
恋愛における「行かないで」と異なり、定めし、コンサートにおけるアンコールといったところだろうか。
ここでも、「こもり」が部屋にこもる百合の香と部屋から出ない自分との両方を示している。百合の香にこもり本読む雨一と日
たたでさえはっきりした主張のある香が、しっとりした雨の日であればなおいっそう強く自分を包み込む。
外出を阻む雨が、同時にぜいたくな空間を守ってくれている。
これはもう、本を読むしかない。
般若心経の「心にさわり無し」である。
これ以上充実した時間と空間があろうか。
鶯は春を告げる鳥だが、鳴く期間は意外に長く、夏になっても練れた上手な声を響かせている。老鶯に至福の刻や朝目覚め
「あっ、まだ鳴いている」と思える頃が最も節回しが巧みで声色は艶やか、かつ円かでもあり、感心しているうちにいつの間にか役割を終えている。
だから、最高の声を聴かれるのは、一年数度しかない。
それを耳にして目覚めるなど、至福と言う以外に表現のしようはない。
最高の一瞬をとらえる俳人ならではの句と言えよう。
紅枝垂影さす池に灯をともす
夏立ちぬ友と近況語り合ふ
紅しだれ友と楽しむ会席膳
夏つばめプリン揺るる午後三時
バラ活けて雀踊に行く気なし


