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2016
11.22

「ともかくもあなたまかせの年の暮」「ドクターの笑顔やさしい往診日」

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 江戸時代の小林一茶は詠んだ。
 

「ともかくもあなたまかせの年の暮」


 年の瀬となってあれもこれもと気は急くが、ジタバタしたところで、時々刻々と一年は過ぎ去ろうとしており、もうどうしようもない。
 ことここに至れば、あなた任せを決め込むしかなかろうと、腹をくくっている。

「これがまあ終の棲家か雪五尺」


 雪が1・5メートルも積もってしまえば、出て歩くこともできないが、家が押し潰されるまではこうしていられる。
 自分の一生がこんなふうに終わってしまうのなら、それもそれだと泰然たるものである。

 みやぎシルバーネットさんが発行する「シルバー川柳」は、あっという間に第6弾となった。
 10月8日放映の「仙台人図鑑 第27回」に登場した編集人千葉雅俊氏(55才)は、読者が投稿した川柳を何句か紹介した。

「ドクターの笑顔やさしい往診日」 (女性・75才)


 末期癌の女性は、最後までペンと紙を離さなかった。

「決めかねるもっと美人の我が遺影」 (女性・85才)


 自分の遺影をあれこれと選ぶ達観した心中がよく表れている。

 氏は、投稿者の半数が、呆け防止のためにやっているというアンケート結果を披瀝した。
 老人クラブなどの会員が減る一方で、カラオケや川柳など、単一の目的に特化した会が増えた。
 豊かな老後を求める人びとの中で、趣味や好みを共有する人と人とのつながりという〈力〉が輝きを増している。
 
 昭和10年、寺山修司は『俳句作法講座』で、こう述べている。

「(俳句には)花鳥風月と合体した作者自身をもう一段高い地位に立った第二の自分が客観し認識しているようなところがある。
『山路来て何やらゆかしすみれ草』でも、すみれと人とが互いにゆかしがっているのを傍からもう一人の自分が静かにながめているような趣が自分には感ぜられる。」


 そして、ある歌人の話として、歌人には自殺者が多く、俳人には少ないというエピソードを紹介し、こう言う。

「いかなる悲痛な境遇でも、それを客観した瞬間にはもはや自分の悲しみではない。」


 年をとると、そこまで行ってみなければわからない〈ままならなさ〉にぶつかり、辛さや淋しさや悲しみに耐えねばならなくなる。
 そんな時、心を励まし、いのちを活性化させ、苦難を乗り越えさせもする俳句や川柳や短歌は、ありがたい友となるのではなかろうか。




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2016
11.14

「霜月の空也は骨に生きにける」

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〈四国霊場の花〉

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 四国霊場の49番札所浄土寺に、正岡子規の句碑がある。
 空也上人(クウヤショウニン)を詠んだものだ。

霜月空也は骨に生きにける」


 霜月と呼ばれる11月は1年で最も印象の薄い月かも知れない。
 秋の収穫や祭や観光が終わり、人々の心は年末と新年へ向かい、足元の時間は薄く不安を忍ばせた様相で、ただ忙しく過ぎて行く。
 もの皆、枯れ果て、変わらぬ存在感を持っているのはカラスぐらいのものだ。
 だから、子規はこうも詠んだ。

霜月や石の鳥居に鳴く鴉」


 人々が寒さに縮こまり、どこへ行っても暖を求める季節。
 寒風に立つ石の鳥居は、眺めるだけで冷たさがリアルに想像され、誰一人触れたいとは思わないだろう。
 しかし、真っ黒いカラスだけは平然と止まってあたりを睥睨(ヘイゲイ)し、いつに変わらぬ声で鳴いている。
 その存在の濃さに、子規は恐怖を覚えたのではなかろうか。

 さて、冒頭の句である。
 平安時代、阿弥陀聖(アミダヒジリ)と称された空也上人は鉦(ショウ…小さなカネ)などを叩き、ただただ、南無阿弥陀仏を唱えながら踊り、全国を行脚した。
 途中で寺院を建立したり、橋をかけたりするなど、社会事業も行った。
 京都の六波羅蜜寺(ロクハラミツジ)にある有名な像では、口から出る6つの文字がそのまま小さい6体の仏像に結晶している。
 身体は極限まで枯れようと、念仏は息のある限り続く。
 その思いは骨になっても消えない。
 霜が降り、いきものたちの活動が細って行く11月こそ、遺された上人の思いが際立つ。

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 醍醐天皇の第二皇子という出生にもかかわらず、仏道修行と人々の救済に一生を捧げた上人の痩せた姿は、お釈迦様の修業時代を想像した有名なお像に結びつく。
 3~4世紀にガンダーラで作られたとされるお像は、鋳造や石造となり世界中で拝まれ、当山の境内地にも鎮座しておられる。
 印象の薄い霜月といえども、時はいつもと同じく流れている。
 こうした時期にこそ、子規のように立ち止まり、寒風にも消えず、歴史の波にも消えなかった心の灯火に想いを馳せてみたい。




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2016
10.21

アボリジニの表現 ─奪う者、奪われざるもの─

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「人々はかつてここに住んでいた。
 白人たちの姿を見つけると、
 人々は丘や岩場に駆けのぼって逃げたものだった。
 彼らは白人たちを恐れていた。
 私の母親と兄弟たちも逃げ出した。
 なぜなら、白人たちはマルトゥの人々を撃ち殺していたからである。
 白人たちはこっそりやってきて、そして銃を発射した。
 マルトゥの人たちはみんな逃げだし、
 プンタワリイにたどりつくまで走り続けた。」(アボリジニ:ダーダー・サムサン)


 オーストラリアには、何万年も前から住んでいるアボリジニという先住民がいる。
 そこへ侵入した白人は、土地もいのちも奪い、勝者の歴史を編んだ。
 上記の文章は、アボリジニの証言である。

 侵略を象徴するのが南北に約2000キロ続く「キャニング牛追いルート」である。
 20世紀初頭、北部の牧場から砂漠を越えて南部へ運ぶための道路が造られ、たくさんの井戸が掘られた。
 そこが先住民にとって、心といのちの支える聖地であることはまったく無視され、彼らは邪魔ものとして排除された。

 やがて非人道的な行動が問題となり、王立委員会において調査された。
 チームに参加していた料理人エドワード・ブレークは、アボリジニをつかまえて首に鎖をつけたり、新しい井戸を掘るために地域の水源を破壊するなど、数々の蛮行について証言したが、それを証明できなかった。
 建設は公認され、殺し合いの歴史を刻みつつ因縁のルートは半世紀にわたって使われた。

 21世紀に入り、過去のルートをたどりつつ、白人とアボリジニが協同して芸術活動を行い、支配者と被支配者の双方から歴史を観る大規模なプロジェクトが計画された。
 その成果は「ワンロード 現代アボリジニ・アートの世界」と銘打った展示会で公表され、展示会は日本各地でも開催された。
 イントロダクションにはこう書かれている。

「この展覧会では、アボリジニの文化には何千年にもわたる継続性があるということが、強いメッセージとなっている。
 それは、オーストラリアという若い国家の建設の歴史のなかで語られることのなかった、先住民という少数者によって記憶されてきた物語に光を当てる試みであった。
 それは、主流社会にとってこのような異なる歴史を理解することが、いかに重要であるかを訴えかけている。
 これはオーストラリアに限られたことではなく、日本人にも、そして誰にとっても無縁のことではないだろう。
 見えないことになっており、主流社会が持つ記憶とは異なった記憶、普段は見えなくされてしまっているストーリーは世界各地にあるはずだからである。


 自分が、かつて何を行った人々の末裔であるかを知ることは、自分を客観視させ、他の人が異なった歴史を背負っていることを知れば、独善は消えよう。
 それは視野を広げ、人生を変えるだろう。
 また、今の文明が何に立ち、どこを目ざしているかも見えてくるだろう。
 先祖を貶め、誇りを捨て、自虐的になろうというのではない。
 私たちの心に巣くう弱者や少数者への居丈高な姿勢、あるいは辛い立場や状況にある人々を無視する姿勢の根源的卑しさを恥じてやまない。 
 たった今、他者への不当な侮蔑や抑圧や攻撃や、不毛の対立などをもたらす高慢心を根こそぎ処理したいと思う。

 たとえば、こうした景色が視野に入ってくる。
 高浜原発の審査に対応していた関西電力のA氏は、自殺前日までの19日間で150時間の残業をこなしていた。
 想像を絶する状況だが、管理職なので労働時間については労働基準法の適用を受けず、違法ではなかったという。
 しかも、原発に関する特別な通達もあり、ほとんど無制限な労働が〈適法に〉課される。
 適用除外となっている人々の人数や残業時間などを秘したまま、公表しない企業もある。
 末端では非正規雇用の比率が上がり続け、幹部もここまで非人間的な扱いを受ける。
 社会における〈適法〉な世界ですらこれほど非人間的になっているのだから、いわゆる〈ブラック〉の世界がどうなっているかは推して知るべしという他ない。
 いったい、誰のために、健康を保ちながら安定的にはたらくという人間らしい生活を根元から破壊するような仕組みが作られたのだろう?
 多くの人々を不安に陥れながら、誰が利を得ているのだろう?

 かつて、アボリジニはこう感じていた。

「人々はカリティヤ(白人)、あの白い肌を見て『ククル(悪魔)かもしれない。幽霊が墓から出てきたのだ』と心の中で思っていました。」(アボリジニ:クルパリン・ベシィ・ドゥーディ)


 人々を踏みにじりながら自分の利をだけをもくろむククルは、いつの世も、どこにでもいる。
 アボリジニは殺されるまでその存在に気づかなかった。
 私たちも、すでに殺されている。
 ここ20年ほどで急拡大した不公正はこれ以上、放置してはならないと思う。
 
 作家の池澤夏樹氏は、アボリジニの芸術についてこう書いた。

「彼らと彼らの絵は人が生きる姿勢の指針のように思われる。」


 作品に目を凝らし、心を向け、静かに自分とこの世を眺めてみたい。




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2016
09.25

いのちの重し ─お捕まりになられませんよう─

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 小生はときおり、妻からきつい注意を受ける。
「捕まんないでよ!
 罰金、いくらだと思ってんの!」
 スピード違反の話だ。
 お巡りさんから渡された振込用紙の金額を見てたまげ驚き、こっそり払おうと隠しているうちにバレたという前科もあるので、思い出した時に騒がれるのは仕方がない。
 今場所の豪栄道関ではないが、集中力が高まっている時は、前方のねずみ取りも、後方から忍び寄る白バイも早めにピンときてしまうので大丈夫。
 娑婆にいたころさかんにやっていた麻雀で、ツモる予感がするのと同じだ。
 しかし、考えごとをしていたり、カーステレオの音楽に夢中になっていたり、あるいはボーッとしたり(これはそもそも運転自体が危険でもあるが……)といった状態では、アウトになりやすい。
 酷い時は、後からサイレンを鳴らすパトカーに追跡(!)され、ついに赤信号で前へ回り込まれるまで気づかず、快走していたという実績もある。

 こんなわけで、つい最近も、法具など準備万端調い、さあ、出発というタイミングでいつもの注意を受けた。
 口では「はい、はい」と言いながら、内心では〝わかってるよ!〟と小さく叫びつつ寺務所を出ようとしたら(身・口・意が一体になっていないのだが……)、背後から重ねて、静かに声がかかった。
「お捕まりになられませんよう」
 職員の森合さんだ。
 さあ、出撃!という勢いが削がれた。
 これではもう、スピードを出すわけにはゆかない。

 もちろん、小生は暴走族と無縁で、いつもいつも国禁を犯しているわけではない。
 それでは「社会的に正しく」という教えに背く。
 だから常日頃は羊のようなものだが、やむを得ない時にはウィーンとやらかす。
 この衝動についてはひところ、妻や娘から「人が変わったようになる」と攻撃されもした。
 まあ、こうした〈小さな牙〉を隠し持つのは、かつて少年だった男性に共通の悪癖とでも言うべきものだろう。

 その小さな宝ものが、雅(ミヤビ)な一言で木っ端微塵にされてしまった。
 ダメなものは明らかにダメなのだ。
 そう割り切らせてしまわない何かがある。
 それは、修法中の自分と、日常生活を営んでいる時の自分とを異ならせている何かでもあろう。
 困惑しつつ考えた。
〝──私はようやく、〈少年〉から脱皮しようとしているのではなかろうか〟
 古希(コキ)になり、お迎えがそこまで来ているのに少年もないものだが、しわくちゃのお婆さんにだって〈少女〉が潜んでいたりするのが人間だ。

 村岡空氏の詩『身』を思い出す。
 そこにはこんな一節がある。

「生きるということは
 だんだん透きとおっていくことであろうか
 それとも
 しだいに意識のように濁って
 手や足をうしなって
 ついにはささえきれずに
 死の高みへ
 ふわりと浮かびでることなのか」


 私たちがいつまでも〈少年〉であり、〈少女〉であることは、浮かびでようとするものに細い糸一本でつながる重しなのかも知れない。
 そう言えば、もはや10冊を数える「シルバー川柳」シリーズに載っている作品は、どれもこれも、揺れ、輝いている。
 それらのうち、いくつかの正体は、糸につながれた〈重し〉たちではなかろうか。




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2016
08.31

悼むとは、死者の身近に在って、死者がいつまでも人間らしい存在であれとねがうことだった。

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 長田弘の詩に『アッティカの少女の墓』がある。
 葉桜の季節、氏は、2500年前に亡くなった少女の死について書かれた薄い本(『或るアッティカの少女の墓』)を思い出し、この詩を書いた。
 そこに決定的な一文を見つけた。

悼むとは、
 死者の身近に在って、死者がいつまでも
 人間らしい存在であれとねがうことだった。」


 氏は、古代ギリシャのアテネあたりで生き、死んだ少女の名前も顔も知らないが、悼む気持になった。

「死のなかでなお生きつづける親身な精霊。
 死者は、時を忘れて生きる存在にほかならない。


 見知らぬ少女が悼む気持に応じて「親身」な存在になっている。
 いや、親身に感じたからこそ悼むことができたのだろうか。
 いずれにしても、「生きる存在」としてそこにいる。
 明らかに、がある。

 カール・ベッカー博士は『愛する者の死とどう向き合うか』において説く。

続いていくは慰めや安らぎをもたらすということは事実です。
 慰めは、絶望や落胆に直面するなかでの快楽や楽しみや喜びを意味します。
 慰めは痛みの中に入り込みますが、痛みを取り除くわけではありません。」

多くの宗教は、悲嘆する人を慰めるものです。
 それは、自己を超えた実在とつながっているという感覚のうちに見いだされます。」


 長田氏はによって何を得ているのか?
 いかなる痛みが慰められたのか?
 氏は『探すこと』をこう締め括っている。

「人間は探す生き物。
 探し探して無に終わる、空しくも愛すべき生き物。」


 氏にとって徒労の人生を生きることそのものが悲哀なのだろう。
 氏の悲哀が見知らぬ少女の「親身な精霊」によっていっとき、慰められている。
 その精霊が「生きる存在」ならば、まさに、「自己を超えた実在とつながっているという感覚のうち」にあることになる。
 詩『アッティカの少女の墓』は、まぎれもなく宗教の世界を描き出した。

 特定の神や仏がいるから宗教なのではない。
 人生につきものの悲哀に沈み、不条理に翻弄されて呻き、その反面、表面の意識が薄れ、混濁する中で感覚が研ぎ澄まされる時、立ち現れる異次元なるものと交流する世界。
 そこが宗教の世界であろう。
 幾多の行者、聖者が体験をもとにして示したイメージこそが仏神であり、御霊である。
 私たちは文化の息を吸いながら、言葉とイメージの追体験をする。
 そこには聖なるものがあり、異次元の聖性は、私たちの悩みも苦しみも悲嘆も薄れさせてくれる。
 聖性を持った世界をもっと知り、もっと救われたいならば、学び、実践するしかない。
 そうして学び、実践するのが、いわゆる宗教である。

 深く悼むまごころは、芸術や宗教への扉を開くかも知れない。




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