
チベット密教のソギャル・リンポチェ師は生と死について説く。
師は20台前半の頃、通訳としてドゥジョム・リンポチェの教えを受けていた。
ある日、「かつてない驚くべき体験」をする。
「それまでの教えのなかで語られてきたことのすべてが一度に起こり始めたのだ。
──周囲のすべての物質的事象が溶けるように消えていった。
わたしは興奮して吃った。
『リンポチェ……リンポチェ……起こりはじめました!』。
そのときのドゥジョム・リンポチェの顔に浮かんだ慈愛の表情を、わたしはけっして忘れないだろう。
彼はわたしのほうに身をかがめ、わたしをなだめた。
『それでいい……それでいい。
あまり興奮しすぎないように。
つまるところ、それは良いことでも悪いことでもないのだから……』。
驚きと至福にわたしは我を忘れかけていたのだ。
良い体験は瞑想の道の有益な道しるべになりうるが、そこに執着が入り込むと、それは落とし穴になる。」
「その体験をこえて、より深い、より確固たる基盤に向かってゆかなくてはならないのだ。」
私たちは、一心に祈っているうちに、さまざまな超常現象に出くわす場合がある。
それで自分の霊感を確信したり、悟ったような気分になったりするかも知れない。
あるいは、何かに取り憑かれたようで不安な気持になったりするかも知れない。
それらはいずれも〈経過的現象〉である場合が多く、過去の行者たちは、真の悟りへ向かう一里塚として冷静に扱った。
もしも実体視したり、慢心したりすれば、横道へ行く。
だから、根本経典『大日経』は、行者が奇瑞(キズイ…吉の兆し)や魔境(マキョウ…バランスの崩れによって起こる超常現象)などにとらわれず、そこを超えて行く「十縁生句(ジュウエンショウク)」を説く。
ここでは、1番から5番までを記す。
1 幻
身体と言葉と心をみ仏へ合わせて行くと、菩薩(ボサツ)や神など、物理的に説明できない幻を見ることがある。
それは普段、身口意が三つの業(ゴウ)を積んでいる状態から離れて、み仏の不思議なおはたらきである三密(サンミツ)に転換しつつあるのかも知れない。
いずれにせよ、真言や瞑想の不思議な力を知り、変化は受けとめても、見えたものそれ自体に深くとらわれず、修行を続けねばならない。
2 陽炎
厳かな仏界が陽炎のように見えるかも知れないが、それを実体視せず、その荘厳さ、清浄さを感得し、自分の愚かさや穢れや思い上がりから脱することが肝要である。
また、世間に漂う想念は陽炎のようなものを相手にして起こっている場合が多く、それらにとらわれず修行を続けねばならない。
3 夢
夢もまた、瞑想の影響による一現象であると知って、とらわれない。
そして、私たちの苦楽そのものが夢のようなものであり、み仏の悟りに入ればそれは生じていないと観じて修行を続ける。
4 影
何かに映る影は実体がなく、そうしたものについてあれこれ言っても無益であり、淡々と瞑想を続けねばならない。
真言の力で生ずる不思議な効験も、それ自体は影のようなものであると知って、修行を続けねばならない。
5 乾闥婆城(ケンダツバジョウ)
体験したことのない境地になると、まるでこの世を離れた天界の宮殿にでも入ったような気持になるかも知れないが、そこもまた仮そめのものであり、自在な心で瞑想を続けたい。
蜃気楼として顕れる宮殿は、修行の結果、もたらされたものではあるが、それを実体視してはならない。
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チベット密教のソギャル・リンポチェ師は生と死について説く。
第4章 心の本質
師は説く。
「みずから作りあげた暗くせまい牢獄に閉じ込もって、それが全宇宙だと思い込んで、ほとんどの人は現実の異なった次元を想像してみることすらできないでいる。」
そして、パトゥル・リンポチェが行った蛙の話をする。
大海からやってきた一匹の蛙が、生後ずっと井戸の底で暮らしてきた年老いた蛙を訪ねる。
「おまえさんはどこからやってきたのかね」と、井戸で暮らしてきた蛙。
「でっかい海からだよ」と、大海からやってきた蛙。
「その海とやらはどのくらいでっかいのかね」
「すんごく、でっかいね」
「このわしの井戸の四半分くらいかな」
「もっとだね」
「もっと?じゃあ、半分くらいか」
「いんや、もっとでっかい」
「じゃあ……この井戸くらいでっかいか」
「くらべもんになんねえな」
「そんなことがあってたまるか!わしが行って、この目で確かめてやる」
二匹の蛙は旅立った。
井戸からやってきた蛙が大海を見たそのとき、驚きのあまり、その頭はパァンと破裂し、千々に飛び散った。
まさに〈想像を絶する〉という状況である。
井戸にいた蛙の脳は対応できなかったが、対応できた時に得られるものは凄まじい。
たとえば、9才のおりに起こった師の体験である。
ジャムヤン・キェンツェから石窟の中に呼ばれ、こう言われた。
「今からおまえを、おまえの本源たる〈心の本源〉に導く。」
そして、金剛鈴と小さな太鼓を手に祈った後で、突然問われた。
「心とは何か!?」
師は驚く。
「心は砕け散った。
言葉も、名前も、思考も吹き飛んだ。
まさにまったくの無心だった。」
「あの驚きの瞬間に何が起こったのだろう。
過去の思考はかき消え、未来はまだ起こっていなかった。
思考の流れは断ち切られた。
あのひたすらな衝撃の中でひとつの裂け目が生じ、その裂け目のなかから、すべての執着を離れた、透明で直感的な、〈今〉への目覚めが姿を現したのだ。
それは単純で、裸で、本質的なものだった。
その裸の単純さははかり知れない慈悲の温もりを放っていた。」
これは、当山が求めに応じて行う引導(インドウ)の修法に似ている。
生前によほどの覚悟をしておかなければ、死は、つかまる生が逃げて行くという状態でやってくることだろう。
手放す思いしかなければ、心は死を迎えた時に行き場を失う。
夏目漱石は短編集「夢十夜」の第七夜にそれを書いた。
人生の意味も目的も見つけられない男がある夜ついに、海へ飛び込む。
「自分はますますつまらなくなった。
とうとう死ぬ事に決心した。
それである晩、あたりに人のいない時分、思い切って海の中へ飛び込んだ。
ところが――自分の足が甲板を離れて、船と縁が切れたその刹那に、
急に命が惜しくなった。
心の底からよせばよかったと思った。
けれども、もう遅い。
自分は厭でも応でも海の中へ這入らなければならない。
ただ大変高くできていた船と見えて、身体は船を離れたけれども、
足は容易に水に着かない。
しかし捕かまえるものがないから、しだいしだいに水に近づいて来る。
いくら足を縮めても近づいて来る。水の色は黒かった。」
「そのうち船は例の通り黒い煙を吐いて、通り過ぎてしまった。
自分はどこへ行くんだか判らない船でも、
やっぱり乗っている方がよかったと始めて悟りながら、
しかもその悟りを利用する事ができずに、
無限の後悔と恐怖とを抱いて黒い波の方へ静かに落ちて行った。」
恐ろしい話ではないか。
夏目漱石自身が「この作品が理解されるには長い年月がかかるだろう」と言ったとおり、十の短篇はいずれも深刻で、とりわけ、この男の話はきつい。
引導は、こうした不安と恐怖が最も高まった場面で行われる決定的な修法行為である。
去ろうとしている御霊へ法をかけ、瞬時に〈渡す〉。
御霊はそこでようやく「はかり知れない慈悲の温もり」を感じられることだろう。
夏目漱石は、我がこととして「無限の後悔と恐怖」を把握していたはずだ。
さすが、と言うしかないが、〈その先〉を受け持つ宗教が日本でこれほど疎んじられる時代が来ると想像していたかどうかはわからない。
冒頭の寓話が示すとおり、私たちは、自分の心が作った〈井戸〉で暮らす。
日々、飲むもの、食うもの、着るものを他人様へ迷惑をかけることなく手に入れ、自分の寝床で寝て、ときおりセックスを行い、子供ができれば育て、親が老いれば面倒をみる。
そうした日常だけであれば、最後は「夢十夜」の男のように望もうと、あるいは望むまいと、ある日、場合によっては突然、戸惑いの中で無の闇に引き込まれ、生を終える。
死後に引導を受ければまだしも、生きている間中、もっとも確かな〈私〉だったはずの肉体を焼かれただけの状態であれば、彷徨う御霊はどうなるか……。
だから、日々、修法の最後に唱える願文において慈雲尊者の言葉を口にする。
「いまだ成仏せざるものには、願わくは、成仏せしめん」
祈らずにいられない。
さて、ソギャル・リンポチェ師の体験だが、それは生前に引導を受けるようなものではなかったか?
瞬間の導きである。
そうして「はかり知れない慈悲の温もり」を感じたことのある者にとっては、幻の〈井戸〉がそもそもなかったと気づくことがそれほど困難ではない。
師はそのことをこう言う。
「弟子自身のなかに息づく悟りの存在に、弟子を目覚めさせるに過ぎないのである。」
生と死におけるいかなる瞬間が〈目覚めの瞬間〉なのかは、さまざまである。
仏縁としか言いようがないと思う。
その願いを込めて当山ではよく「仏縁の皆様へ」と呼びかける。
師弟の目覚めが感応するとは、弟子の目覚めが師をさらに目覚めさせることも含む。
だから、師弟は「おかげさま」であり「お互いさま」の関係であると思っている。
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〈無常〉から〈変わらざるもの〉へ ―『チベットの生と死の書』を読む(15)―

〈祈りの場に咲くもの〉
○変わらざるもの
ソギャル・リンポチェ師は『チベットの生と死の書』において、恐怖や不安が友であると説く。
「西洋の詩人ライナア・マリア・リルケは、わたしたちの深奥にひそむ恐怖は、わたしたちの深奥に眠る宝を守る龍である、といっている。
無常がわたしたちのなかに呼び覚ます恐怖、何ものも実体を持たず、何ものも永続しないという恐怖、この恐怖がわたしたちのもっとも大いなる友であるということを、わたしたちはやがて知ることになるのである。
なぜこの恐怖が友なのか。
なぜなら、この恐怖ゆえに、わたしたちはみずからにこう問いかけるようになるからだ。
『森羅万象すべてのものが死にゆき、変わってゆくのなら、本当の真実とは何なのか。
事象の向こうに何かがあるのか。
果てしなく限りなく広やかなる何かが、そのなかで変化と無常がダンスを踊る何かが、そこにはあるのか。
本当に頼りとできる何かが、死と呼ばれるものをこえて生きる何かが、そこにはあるのか』
と。」
師は〈問題意識〉について語っている。
あらゆるものが無常であり空(クウ)であるならば、私たちの存在意義はどこにあるのだろうか?
鴨長明は『方丈記』に書いた。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。
淀みに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。
世の中にある人とすみかと、またかくのごとし。」
人間も、家も、川の淀みにポッカリと浮かんではすぐに消えてしまう水の泡のようなものであれば、私たちの営みはすべて、あまりにも空しいではないか。
束の間の生にいかなる意味があるのだろう?
こう、問わずにはいられない恐怖や不安や焦燥こそが、目に見える無常な世界の〈向こう側〉を観るための第一歩となる。
そして、生きるために、社会的存在であるがゆえの役割を果たすために、さまざまなものを得る努力をしつつ、それら〈空しいもの〉にすがらない心で生きていると、現象世界の意義や価値が徐々に姿を顕してくる。
「手放すことについての観想と実践をたゆまずつづけていると、自分のなかに何かが、何か名づけえないもの、語りえないもの、概念化しえないものが姿を現してくる。
この世界にあまねく変化と死の、その向こうに横たわる『何か』をわたしたちは実感しはじめる。
そして、不変への妄執がもたらす偏狭な欲望と気散じが、崩れ、消えはじめる。」
我欲(ガヨク)が薄れれば、つまらぬ怒りが起こらず、愚かしい考えも持たなくなる。
慈雲尊者(ジウンソンジャ)は説かれた。
「貪欲(トンヨク…貪り)ある者は必ず瞋恚(シンニ…怒り)あり。
瞋恚ある者は必ず貪欲あり。
その悪不善法たることは一つなり。
貪欲を離るれば瞋恚も薄くなり、瞋恚を離すれば貪欲も薄くなる。
その善功徳たることは一つなり。」
すがっても甲斐のないものへすがらなくなれば、何もなくなるわけではない。
師の説く「偏狭な欲望と気散じ」という邪魔ものがなくなるだけのことである。
それでもなお、自分は生きており、生きものたちも生きている。
ただし、ここで気づかれた〈生〉と〈存在〉は、貪り、怒り、真理を離れた考えに縛られていた時のそれと同じではない。
自分の生き方が変わることによって、〈生〉と〈存在〉もまた、異なる相貌を見せ始めるのだ。
「こういったことが起こるようになると、無常の真理の背後に広がる広大な意味がときおり燃えたつようにきらめくのを、わたしたちはかいま見るようになるだろう。
それはまるで、これまでのいくつもの生にわたって暗雲と乱気流のなかを飛行機に乗って跳びつづけてきたわたしたちが、ひときわ高く舞い上がり、見わたすかぎりの晴れわたった空のなかに飛び出したようなものだ。
この新たなる自由の次元に飛びこんだことに刺激され励まされて、わたしたちは自己の深みにある安らぎ、喜び、信頼を見出す。
それはわたしたちを大いに驚かすだろう。
そして、わたしたちのなかに『何か』があるのだという確信を、何ものにも打ち壊されることのない、何ものにも変化させられることのない、けっして死ぬことのない『何か』があるのだという確信を、徐々にしっかりと根づかせてゆくことになるだろう。」
師は聖者ミラレパの言葉を挙げる。
「死を恐れて、わたしは山に逃げ込んだ
日夜、死の時の定めがたさについて瞑想を繰り返し
不死にして不滅の心の本質をわがものとした
今、死の恐怖は消え去った」
問題意識と問い続ける生き方は、救いへと結晶する。
「わたしたちは何なのか、わたしたちはなぜここにいるのか、わたしたちはいかに振る舞うべきなのかといったことが、個人的に、まったく非概念的に、明かされるのである。
こういったことのすべてが最終的にたどりつくのは、他でもない、新しい生、新しい誕生である。
それを復活と呼んでもかまわない。
変化と無常の真理について、絶え間ない、恐れを知らぬ瞑想をつづけてゆくうちに、やがて感謝と喜びのうちに、不変の真理に、不死の真理に、不滅の心の本質に、向きあっている自分に気づくのである。
何と美しい、何という治癒力をそなえた神秘であることか!」
仏教の修行、あるいは仏法を体した生活は、このように意識も意欲も変える。
こうした意識の転換を転識得智(テンジキトクチ)と言い、転換した清浄な意欲を大欲(タイヨク)と言う。
版画家棟方志功は晩年、こう言った。
「俺もとうとう自分の作品に責任を持たなくてもよいようになってきた。」
〝この俺が自分に恥ずかしくないような作品を創る〟という意識から離れて創作活動ができるようになったという意味だろう。
彼はいつしか、自分が生み出すラカンさんや観音様に導かれていたのだろうか。
師の言う「治癒力をそなえた神秘」とは、根源的な救いの世界を述べて余すところがない。
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全てが空(クウ)なら人生は空(ムナ)しいか?
そうではない。
ソギャル・リンポチェ師は『チベットの生と死の書』に、そこのところを説く。
前回に続いて「空と希望」を考えてみよう。
私たちは一本の桜の樹を見て、〝あっ、桜が咲いた〟と気づく。
桜の花々は、いのちを輝かせながら、そこに在る。
しかし、その全体をじっと眺めているうちに一陣の風が吹けば、 花びらのいくつかは引きちぎられ、舞い落ちる。
雨が降れば花びらのいくつかは地へ落ちるが、残ったものたちはいっそう輝き、濡れた枝も幹も嬉しそうに艶々する。
地中へ染み込む水が根から吸い上げられ、巨大な幹や複雑に伸びた枝を通って末端の花びらたちへ潤いをもたらすさまも想像される。
黒い雲間から再び太陽が顔を出し、世界に明るさが戻り、陽光が頬に温かく当たれば、その光と熱によって私たちを生かすのと同じく、桜をも生かしていると実感できる。
その樹は、自分が子供の頃、こんなに大きくはなかったことを思い出すかも知れない。
地震にも津波にも火事にも害虫にもやられず、人間に伐られもせず、今に至っていることにも思い至る。
自分自身、枝を折らず、もちろんノコギリを当てもしなかったから樹はここに立っているのであり、自分が害を与えなかったこともまた、花びらの一枚一枚に関係しているのだ……。
宇宙のあらゆるものが一本の樹を存在させている。
あらゆるものとの関わりの中で桜は咲き、あらゆるものとの関わりの中で今、自分は桜を眺めていられる。
桜も自分も空(クウ)である。
「現代科学も広大な相互依存について語っている。
生態学者(エコロジスト)たちは、アマゾンの熱帯雨林で燃える一本の木が、パリの一市民が呼吸する空気を変化させることを知っている。
メキシコのユカタン半島の蝶の一羽の震えが、スコットランドのヘブリディース諸島のシダに影響を与えることを知っている。
生物学者たちは、性格と個性を形づくる遺伝子のめくるめく複雑なダンスの秘密を明かしつつある。
はるかな過去へと広がって、『個性』と呼ばれるものがさまざまに異なる影響からなるひとつの渦であることを示すダンス。
そのダンスの秘密を彼らは明かしつつある。
物理学者たちはわたしたちを量子の世界に招き入れた。
その世界はブッダが思い描いた、宇宙に広がるきらめく網のイメージに驚くほどよく似ている。
その網の宝石のように、すべての量子は他の量子とさまざまに結合しうる可能性をもって存在しているのだ。」
お大師様は、この〈網〉について説く「華厳経」を、密教の世界へあと一歩のところにあると高く評価した。
密教のマンダラは〈網〉の具象化であり、マンダラと一体化する具体的な方法を実践するところに究極の即身成仏(ソクシンジョウブツ)がある。
ソギャル・リンポチェ師は世界の真の姿を説いた。
「観想を通して、わたしたちを含むすべてのものの、その空(クウ)と相互依存を真に見たとき、世界はより鮮やかな、より新鮮な、より明るい輝きのうちに、ブッダの言った宝石の網の無限の反射のうちに、その真の姿を現す。」
聖者ミラレパは端的に説いた。
「空(クウ)を見て、慈悲を持つ」
チャンドゥ・トゥルク・リンポチェは言った。
「つねに生は夢のようなものだと認識し、愛着と嫌悪を減じてゆきなさい。
あまねくすべてのものを思いやりなさい。
慈しみ、あわれみなさい。
人があなたに何をしようとも、あなたがそれを夢と見れば、人のすることなど何でもない。
要は、その夢のあいだじゅう肯定的な意思を持ちつづけること。
これが肝心な点。
これが真の精神性だ。」
ダライ・ラマ法王の指摘である。
「今日の高度に相互依存しあった世界にあっては、個人と国家はもはや自分の問題を自分だけで解決することができなくなっている。
お互いにお互いを必要とするようになっている。
そのため、わたしたちは世界的な責任感をつちかってゆかなければならない。
……地球家族を養い、守ってゆくこと、弱者を支えること、そしてわたしたちが住むこの環境を保護し回復させること、これらはすべてわたしたちの集合的責任であり、個人的責任なのである。」
私たちは法王の説かれる「責任」を果たすことにより、個人的な善業(ゼンゴウ)を積み、自他を幸福へと向かわせられる。
責任を果たさなければ、個人的な悪業(アクゴウ)を積み、自他を不幸へと向かわせてしまう。
個人的な業(ゴウ)の積み重なりが共業(グウゴウ)であり、戦争も、飢餓も、搾取も、過酷な格差も、悪しき共業(グウゴウ)の現れである。
すべてがつながっている空(クウ)であればこそ、地球上の全員に「責任」がある。
個人的であれ、世界的であれ、幸福と不幸は、私たち一人一人が空(クウ)を観て「責任」を果たすかどうかにかかっている。
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〈有楽町駅〉
無常をむやみに恐れぬようにしたい。
希望は変化の中にこそ見出せる。
1 逆境と成長
私たちは〈失う〉ことを恐れる。
恋人を。
財産を。
名誉を。
健康を。
しかし、数10年、人間をやってみると、喪失や喪失の危機が自分を育ててきたことに気づく。
ソギャル・リンポチェ師は『チベットの生と死の書』に説く。
「波が荒磯をたたいても、岩が崩れるわけではなく、むしろ波に洗われ浸食されて美景をなすように、人格も変化によって形づくられ、角がとれてゆく。
絶え間ない変化に洗われて、わたしたちは穏やかにして不動の落ち着きを身につけるすべを学ぶ。
自己への信頼が大きく育ち、その結果、善性と慈悲がごく自然に放たれ、周囲の人びとに喜びをもたらす。
この善性こそが死をこえて生きぬくものであり、すべての人にそなわったものなのである。
わたしたちの生はこのゆるぎない善性を見出すための実習であり、それに気づくための訓練なのである。」
今から約40年前、故伊藤肇は『左遷の哲学―嵐の中でも時間はたつ』を書いた。
彼は、人間を成長させる逆境として5つの苦難を挙げている。
闘病、浪人、投獄、左遷、挫折である。
闘病によってようやく他者の辛さが忖度でき、自分の存在の脆さを知り、一人で生きているのではないことも身に沁みる。
浪人すれば、〈どうしても失わざるを得ない状況〉があることを実感し、去る人、去らない人、目をかけてくれる人、さまざまな他人の本心も見えてくる。
投獄されれば、国家権力と個人のありようが体感され、不条理の壁が不動心を育てる。
左遷されれば、力の限界を知り、隠されていた自分の力に気づきもする。
挫折によって高慢心がへし折られ、地べたに叩きつけられる一方で、まったく新しい世界が見えてきたりする。
確かに、逆境に磨かれた人はどこかに「不動の落ち着き」を持ち、信頼感をもよおさせるものだ。
師は、逆境によって起こる変容が二つあると言う。
「変化のうちにくつろぐすべを学ぶこと」
「無常を友とするすべを学ぶこと」
変化に流されず、悪あがきせず、泰然と対応できれば怖いものはなくなる。
無常が不動の友であれば、執着という悪友は近づけない。
2 空と希望
無常を深く見つめると、新たな真理が顔を出す。
「宇宙の本質に、さらにはその宇宙の本質とわたしたちとの途方もない結びつきに、あなたの目を開かせる希望。」
つかまえるものがないところになぜ、希望が湧いてくるのか?
「すべてが無常であるのなら、すべては〈空(クウ)〉である。
永続し安定した独自の存在などありえない。
そして、それらすべては、分離独立しているのではなく、他のすべてと相互に依存しあっているのである。
ブッダはこの宇宙を無数の光り輝く宝石が織りなす巨大な網にたとえた。
そしてその宝石のひとつひとつがさらに無数の切子面を持っていて、その切子面のひとつひとつが他のすべての宝石を反射させている。
つまり、ひとつが同時にすべてなのだ。」
ある時、20才そこそこの一人娘が突然、男性との同棲を始め、しかもうまくいっていないらしいが、どうすれば家に引き戻せるかという人生相談があった。
両親も祖父母も心配でたまらない。
じっと状況をお聴きしているうちに、お祖母さんからこんな場面が語られた。
「突然、帰宅した孫は何も言わず自分の部屋へ入り、しばらくしてまた、黙って出て行きました。
去る背中に向かって、いつだって帰って来ていいんだよ、ここはお前の家だからね!と叫びました。
ビクッとした孫は一瞬、立ち止まり、チラッと見せた横顔で小さく頷きました」
申しあげた。
「船着き場があるから、船は航海に出られるんです。
別に毎日、顔を合わせていなくても、家族という糸があることをお孫さんが忘れなければ、それで家族の役割は立派に果たせています。
そして、心配する一方で信頼もしている、という家族ならではの真実が揺るがないことをお孫さんが感じとっていれば、充分です。」
どんなに離れていようと家族も一つの小宇宙。
友人関係も、仕事場も、地域も、国家も、そして世界も、構成する無数の輝く宝石によって織り成されている網であり、マンダラである。
大海から岸辺に打ち寄せる小さな波の一つも、他のすべての波と関わり合って海を構成しており、もしもその小さな波一つがなかったとしたら、それは海そのものがなくなることを意味する。
公園にある一本の樹木も、土、陽光、雨、風、手入れする人、眺める人、おしっこをかける犬、など、ありとあらゆるものとの関係がその存在を支えており、しかも、関係すべてが刻一刻と変化してやまない。
量子化学によれば、偏在する量子たちは、さまざまに結合する可能性をもって存在している。
網のようであり、マンダラのようでもある。
ありとあらゆるものが空(クウ)であり、同時に関係性という糸で結ばれているからこそ、望む方向への変化という〈希望〉がある。
3 逆境と希望
変化が苦を伴って現れれば逆境となるが、それは試練として人間性を陶冶(トウヤ)する。
変化を、望む方向へ動かせる可能性が希望を抱かせる。
試練の時期をどう生きるか、空(クウ)とマンダラの真理を観ていかなる希望を持つか、それはその人次第である。
3月9日、大津地裁は、関西電力高浜原発3、4号機の運転を差し止める仮処分決定を出した。
東日本大震災によって安全神話が崩壊し、きちんとした現実的な避難計画も策定不能なままに、国策として再稼働をしてきた原発に司法が危険信号を点した。
変化の中にこそ発展と救済の可能性があり、いかなる〈壁〉も変化を拒みきれない。
無常を恐れず、無常の中に悠然と、方向を見誤らずに生きたい。
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「おん あらはしゃのう」
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