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2005
06.30

理不尽

 この世は理不尽と思えるとだらけです。
 かつては不条理という言葉が流行りましたが、いずれの世にあっても、すべての人それぞれに「納得できない」ことが山ほどあったはずす。
 もちろんこれからもそうでしょう。
 たとえば、子供が大病に罹ったり伴侶が突然倒れたりしたならば、暴飲暴食の果てででもあればともかく、「なぜウチの子が?」「なぜ、この時期にウチの人が?」と衝撃を受け、しばらく事態を受け容れられないのではないでしょうか。
 もしも天変地異や飛行機の墜落や通り魔などに遭ったならば、半永久的に「?」は消えないかも知れません。

 理由の一つには、結果には必ず原因があるはずなのに、人間はすべての原因と結果を結びつける能力を持っていないこと、もう一つには、「生・老・病・死」が世の常であるのを頭では理解しているつもりでも、「我がこと」としてするりと受容するのは難しいことが挙げられます。

 しかし、もしも「生まれ持った遺伝子と生活習慣がこの病気をもたらしました」と説明されても、「死はあなたの夫にだけ訪れるのではありません。生を承けてそれを永遠に保ち続ける人は、一人もいないではありませんか」と説法されても、依然として「?」は消えないことでしょう。
 なぜならば、「なぜウチの子が?」「なぜ、この時期にウチの人が?」は、実は「なぜ〈かけがえのない〉ウチの子が?」「なぜ、この時期に〈かけがえのない〉ウチの人が?」であって、自分の価値判断を含んでいるからです。
 それは、憎たらしいと思っている人が大事故に遭ったならどうであるかを想像してみれば、すぐに解ります。
「自分にとって大切な人」「自分にとって大切なこと」「自分にとって大切なもの」すべてに価値判断をしている自分があります。この「自分」が前に出る以上、「?」は消えないのではないでしょうか。

 今回、妻が検診の結果大病の疑いありとして精密検査を受けることになり、妻にも私にも大小は別として「?」が生まれました。
 しかし、いつになくじっと庭を眺めていたり、すっかり古くなったノースリーブのブラウスを引っ張り出してきて「似合う?」と見せたりする様子に、「今この世に在る」生の重さを妻は妻なりに深く感じ始めたことを知りました。
 私の心にも、静かに膨らんだものがあります。
 近々、しばらく登っていない山へ登ることにしました。
 妻は初めて自分から同道を申し出ました。いつしか「?」は消え、時として小刻みに震える微かで切ない「いのちの証し」がまた一つ生まれていました。




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2005
06.28

守本尊様とは?

 当山では、守本尊様をお祀りしてご供養申し上げ、その法をもって、足をはこばれる方々の善願の成就を祈っています。
 守本尊様とは、その名のとおり、天地万物をお守りくださっているみ仏のことです。
「じゃあ、具体的には一体どなたなの?」と思われるでしょう。
 答は、「マンダラにおられるすべてのみ仏です」ということになりますが、これではあまりに漠然としていて、ほとんどの方はイメージできないはずです。
 そこで、古来、生れ歳によって決まる「一生をお守りくださるみ仏」を守本尊様とお呼びし、大切にしてきました。

○子(ネ)年生れの方      千手観音様
○丑寅(ウシトラ)年生れの方  虚空蔵菩薩様
○卯(ウ)年生れの方      文殊菩薩様
○辰巳(タツミ)年生れの方   普賢菩薩様
○午(ウマ)年生れの方     勢至菩薩様
○未申(ヒツジサル)年生れの方 大日如来様
○酉(トリ)年生れの方     不動明王様
○戌亥(イヌイ)年生れの方   阿弥陀如来様


 多くの暦にこの表がありますので「あっ、私はウサギ年生まれだから文殊様に守っていただいているんだ」というようにお解りいただけることでしょう。
 さて、守本尊様方の守備範囲は、当然、それだけではありません。

 たとえば、鬼門だからどうこうとかよく言いますが、鬼門とは北東であり、その方位にもお守りくださっている方がおられ、それは虚空蔵菩薩様です。
 そのように、八方と天地にも、それぞれの方位を守る守本尊様がおられるのです。

 また、お腹の調子が良くない時には千手観音様の法、足が悪い時は阿弥陀様の法を行うというように、五体にも守本尊様がおられます。

 あるいは、今年は午年だから勢至菩薩様、今日は酉の日だから不動明王様というようにその年・その月・その日・その時にもそれぞれ守本尊様がおられますし、厄年には千手観音様、後厄には大日如来様というように、年齢によっても、異なったご本尊様がそれぞれの役割としてお守りくださっているのです。

 み仏はこのように具体的に私たちをお守っておられ、ご本尊様をご供養し御加護をいただく法も経典によってさまざまに定められているので、当山では、伝授された法を修しています。
 み仏の教えは、お互いを「み仏の子」として尊重し合う人間本来の生き方をする人々によって、楽しく共存できる社会をめざすものであり、「あれは要らない、これも要らない」と他の仏神を排斥し、己だけが正しいとする偏狭なものではありません。
 尖り、争う険しい心こそ、もっともみ仏から遠く離れた悲しいものです。
 生れに応じ、ことに応じ、時に応じてそれぞれに縁となるみ仏へすなおに手を合わせる心になれば、愚かな争いはなくなり、心からお互いの幸せを願う極楽浄土になることでしょう。




2005
06.28

幸せになるには

 私たちは、幸せになりたくて何かを求めます。
 幸せなどという意識はあまりない方もおられましょうが、言い替えれば「思うように行ないたい」「思うように成りたい」「思うものを手に入れたい」と思っています。
 人間にとっての幸せとは「意思の現実化」です。
 そうした意欲がいのちの源にあり、生きているとは意欲することでもあります。
 意欲そのものには色がありません。
 いのちに善悪がないのと同じです。

 しかし、釈尊は、「この世は思うようにはならない。この事実を直視せよ」と説かれました。
 恐ろしいことです。
 私たちは、幸せになれないように生まれてきたのです。
「こ(これ)は苦なり」という一節を目にした時の衝撃は忘れられません。
 それならば、私たちは絶望せねばならないのかというとそうではなく、釈尊は「原因のないものごとは何一つないのだから、苦を脱したいのなら苦を生じている原因を取り除きなさい」と説かれました。
 何しろ苦を脱した体験に裏打ちされているので、話は実に明快です。
 皆が釈尊になれればこの世は変えられるはずです。
 さてそうなると、問題は原因です。
 それをつきつめると、いのちの源にたどりつき、意欲が問題であることが解ります。
 意欲という活力に後押しされていかなる意思を持つかということになります。

 意思の裏側には「我がため」が貼りついています。
 恋人を愛する心には「だから自分も愛されたい」がセットになっています。
 それぞれが「我がため」なので、ぶつからざるを得ません。
 車がお互いに道を譲らないようなものです。
 そこで、釈尊は「愛欲を捨てなさい。思いやりに生きなさい」と説かれました。
「我がため」を捨てるのが、苦を脱する根本的な方法であるというのです。
 ハンドルを握ったならば、お互いに道を譲り合いなさいということです。
 しかし、「そうか。ポイントは我がためを離れることか」と知っても、それだけではほとんど何もなりません。
 考えただけでは離れられないからです。
 それが人間の業(ゴウ)というものであり、仏教では「染まっている」と表現します。
 洗い流すには実践あるのみです。
 幸いにも、私たちは、その気にさえなれば捨てられる「我がため」のものをそれぞれなりに持っています。
 時間・知識・労力・財物・祈りなど何でも良いのです。
 そうした何かを具体的に捨てねば自分もこの世も変わりません。変えられません。

 本当に見返りを求めないで何かを捨てた時の心地良さには、他に代えがたいものがあります。
 その時、私たちは極楽の住人であり、み仏そのものです。
 お慈悲を本体とするみ仏のお顔の神々しさは、きっと極楽の心地良さの表現でもあるのでしょう。




2005
06.25

親だって昔は子供

 失敗した話は共感を呼ぶものです。それは、誰しもがどこかで「やらかしている」し、「自分の素顔を知っている」からです。失敗しなかった人、あるいは自分は何かの面で他人より劣っていると感じたことのない人はいないのではないでしょうか。

 共感と言えば大げさならば親しみを感ずることは、人間関係において非常に大切なポイントです。親しみを感じれば聞く耳が持てるからです。心が開くからです。



 子供が失敗した時の対処法も同じです。

「お前はなぜそんなことをしたんだ!お父さんは恥ずかしい」「そんなことも判らなかったの!お母さんお前のような子に育てたつもりはありません」「何度言ったら解るんだ!」

 こうした出発は、親のウップン晴らしなら別として、教育としては最悪です。子供の心は閉ざされ、「馬耳東風」となり、頭は下がる一方で心には反抗の赤黒い炎が燃え上がります。気の弱い子供は「落ち込み」という灰色の世界へ入っても行きます。

 こうなってしまえば、いかなる正論であれ紙切れ一枚ほどの重さも持ち得ず、怒気を含んだ言葉は子供の心を切り刻み苛むのみで、導くことはできません。

「ああ、そうか。そう言えばお父さんも子供のころは~だったなあ」「そう?そうねえ。お母さんもそんなことがあったなあ」

 こんなスタートであれば、?えっ、俺だけじゃないんだ??ふうん。じゃあ親父はどうしたんだろう??と自然に聞く耳になります。これから先は、こうであって欲しいという方向へ上手に話を持って行けば良いのです。内容は必ずしも事実ばかりでなくとも結構。まごころから発せられた言葉は真実であり、仏神は決して咎めません。



 かく言う私も失敗者です。仕事の忙しさ(昔は娑婆にいました)を口実にするばかりのろくでもない父親なのに、子供の進路について「そんな学校へ行ってもしょうがないぞ。最低でも~あたりへ行かないとなあ」と偉そうなことを言ってしまいました。自分なりに考え希望していた道を言下に否定された子供は、寡黙なタイプなので口答えはしませんでしたが、行動に著しい変化が現れました。当時はそうした因果関係を知る由もない私は、常に子供のそばにいる妻をバカだなあと思っていましたが、実際は私がバカだったのです。

 結婚し安定した生活を送っている子供を思い出すと、心からありがたいと思います。もっと違う、社会人としてまっとうではない方向へ進んでいたとしても何の不思議もないのに、ちゃんと一人前になってくれました。ただただ、子供に感謝し、守本尊様へ感謝するのみです。



 当山にご縁の方々にはこうした危険な橋を渡って欲しくないという一心で、かかる駄文を書いています。

 親御さん方には、何よりも謙虚になっていただきたいと願っています。親がいくら偉くとも、ただそれだけでは、子供は「虎の威を借る狐」になり、「寄らば大樹の陰」といった姿勢を持ち、表面で権威に服従しても心中では強烈に拒絶し、あるいは根性があるなら親の欠点や弱点を見つけてはほくそ笑んでいるかも知れません。

 そもそも、親が社会的に偉いかどうかということは、家が裕福かどうかということと同じく、子供が人間としてまっとうに育つかそれとも曲がって行くかという面においての、決定的要因ではありません。

 

 親も昔は子供だった。こんな失敗もした。しかし、こんな風にしてみたら、あるいはこんな経験があって大人になったというプロセスに子供が親しみを覚え?それなら、自分だって………?と自信を持ち、希望を持てれば子供の目はますます輝くことでしょう。

 子供の目からかけがえのない輝きを奪ってしまうことのないよう、願ってやみません。




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2005
06.24

自殺をした方の行く先

 これからお葬式が始まるという直前、寺院控え室へご遺族のお一人が来られました。
 どうしても訊ねたいことがあると真剣そのものです。
 居住まいを正して耳をかたむけました。
「以前、テレビで、Hさんが自殺者は地獄へ行きますと断定している場面を見て、ショックを受けました。
 主人が自殺していたからです。
 それ以来、毎日ちゃんとお線香などをお供えして手を合わせていても、地獄へ行っているんだろうなあと思うと、心が安まりません。
 どうしたら良いでしょうか?」

 Aさんのご主人は、社会的責任の重い仕事に就いて熱心に励み、何一つそられしいそぶりは見せないまま逝きました。
 妻へのありがとうはあまり言わないけれども、親のことについて何かあると、必ず「ありがとう」をつけ加えた人でした。
 逝くための準備は見事でした。
 ただし、遺書はとても短い一言だけだったそうです。
 Aさんは「まだよくは解りません」と言われますが、そこは人生を伴にした仲ですから、だんだんにお判りのことでしょう。

 さて、「地獄行き」の件ですが、とんでもない妄言です。
 私たちは、こうして生きている今、あるいは人間界で迷い、あるいは修羅界で争い、あるいは地獄界で呻いています。
 地獄を含む「六道」はまさにこの世にあり、一番大事なのは、それと真摯に向き合い解決のために適切な手段を用いることです。
 自殺するほど追いつめられていた方は地獄や修羅の苦しみにあったのかも知れません。
 しかし、当然のことながら、あの世で地獄へ行くとは限りません。
 脱するため、あるいは脱していただくための手段があるからです。
 
 お地蔵様のお経や観音様のお経はもちろん、たくさんのお経に「いかなる境遇にあっても必ず救う」とあり、当山では、毎日そうしたみ仏のご加護をいただく修法をしています。
 生きながらにして地獄を見た方々がどんどん救われています。
 現に、私自身が「ここしかない」というほど強烈なお力によって地獄から生還する道を教えていただき、ここまで来ました。「おかげさま」は確かなのです。
 正式な葬儀法でみ仏のお慈悲に導かれ、ご遺族の供養が極楽への清らかな追い風となっている御霊です。
 地獄に迷っているなどということは断じてあり得ません。
「ちゃんと法が行われていれば、四十九日は薬師如来様、百カ日は観音様、三回忌なら阿弥陀如来様がお守りくださっているのですから安心ですよ」と申し上げました。
 薄い膜がはがれたように生気の滲んだお顔になったAさんは、「大丈夫なのですね。やっと安心しました」と辞去されました。

 全知全能ならぬ人間は、意識するとしないとにかかわらず、必ずなにがしかの不安を抱えています。
「~はいけない」といった怖れさせるものが流行るのはそのせいです。
 不安は「~してはいけない」と言われて表面化し、それに従って「~をやらない」ことによって安心に変わります。
 この一連の流れが虚実・善悪・正邪は別として強烈な印象を残します。
 身近なできごとを題材として利用し、見る人聞く人へこうした印象を上手に与え続けることによって、印象を繰る技術に長けているものは、ますます流行るのです。
 餌食になるのは、すなおな人たちです。
 最近の日本で占いがブームになっているのは、誰でもがとにかく生きられる時代になり、モノにも不自由しなくなり、欲しいものは刺激だけになっているせいかも知れません。
 不安をかき立てられるのも、刺激を与えられたことになるからです。
 人間にとって最も大切なのは善悪の区別です。
 それなくして次々とやって来る刺激に対しては、虚実・善悪・真偽を判断する智慧をもって立ち向かいましょう。
 どうしても不安になったり疑問が残ったりした場合は、それぞれの道のプロの智慧を借りましょう。
 さればこそ、虚空蔵菩薩も、文殊菩薩も、不動明王も智慧の剣を持っておられるのです。




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2005
06.23

真の供養法とは

 最期の時を迎えた釈尊は、クシナーラにある沙羅双樹の間に横たわられました。
 沙羅双樹は時期でもないのに満開になり、北枕で右を下にしておられる釈尊の上に花びらを降らせたといいます。
 それだけではなく、虚空からマンダラ華が舞い降り、栴檀の香りが立ちこめ、妙なる音楽も聞こえてきました。もちろん、如来となられた釈尊を供養するためです。
 釈尊は、そうした中で最後の説法をされました。

「アーナンダ(そばに使えている弟子の名前)よ。
 沙羅双樹が時ならぬ花を咲かせ、天からは花や香が降り、音楽が鳴っているが、本当は、このようにして如来は崇められ、尊ばれ、供養されるべきではない。
 出家している男女も在家の信者たる男女も、よく法を知り、法に従って行ずる者こそが、真に如来を崇め、尊び、供養する者である。
 だから、アーナンダよ。〈法を知り、法に従って行ずべきである〉と学ばねばならない」

 誰が言うわけでもなく、誰が行なったわけでもないのに花や香や音楽が捧げられるのは不思議であると同時に、いかにも釈尊の偉大さ・気高さにふさわしいと感じられますが、釈尊は、おそらく守護する神々が行なったであろうそうした荘厳に惑わされて根本を忘れてはならないと説かれました。
 供養する人の魂を清め向上させる実践とならねば、供養は真の意義が活かされないのです。

 見聞きし五感が周囲の出来事に反応しながら生きている人間は、見えるもの・聞こえるもの・香っているものによって心が動きます。
 と同時に、心をそうしたものによって表現し、文化が現れます。
 私たちが、み仏や亡き人を供養するために花や線香や読経を捧げるのは、もちろん自然で尊いことです。
 しかし、それだけで良いのではありません。
 そこにいかなる心があるのかということが最も大切です。
 
 釈尊の思いを忖度し、説かれた教えを学び研究する無数の菩薩様によって、〈法を知り、法に従って行ずる〉具体的な方法が深められ伝えられてきました。
「花を捧げる時は花のような忍耐の心を、お線香を捧げる時はお線香のような精進の心を、水を捧げる時は水のような布施の心を」といった観想や実践方法はすべてそうした宝ものです。
 五感を持った人間として荘厳し、魂を持った人間として心を捧げ実践したいものです。




2005
06.22

無垢と奈落

 修法にでかけた方のお宅で『船形山遊歩道』という歌を知りました。
「春の升沢遊歩道…歩いてみたら… 雪解けの隙間から かたくりの花 いちげ草 マンサクの花 水芭蕉 日向ぼっこの雪ウサギ あぁ…また…いい春がきた…」
 以下、夏、秋、冬と四季が綴られます。
 ブナ、滝、霧と船形山の魅力について語るOさんの言葉はとどまることを知らず、次々に薄く引き締まった唇から流れ出て、目の光はこちらの顔を透過して、後方にある山々を観ているかのようです。

 しかし、山荘の話題に移ったところ、今度は驚くべき実情を知りました。
 山裾に点在する家が軒並み盗難に遭っているというのです。
 せっかく育てたタラや行者ニンニクや野菜などはもちろん、養殖しているイワナなどの魚、果ては家の中の家具まで被害を受けています。
 百本もの鉄道の枕木すら、一夜にしてごっそりなくなったそうです。
 そう言えば、最近、樹齢数千年という屋久島の杉が傷つけられた事件、高齢の登山者を狙った強盗の事件などが報道されました。
 卑劣という言葉ではくくり切れないほどの人間性の荒廃です。
 何かの底が抜けてしまって暗黒の深淵が見え始めたような不気味さがあります。
 無垢の自然とそれに共振するOさんの魂。―――その一方には奈落。
 
 欲望がどんどん膨らみ、刺激と物を求めて走り出した文明へ警告を発した釈尊の時代から二千五百年を隔てても、人間はほとんど変わっていないのでしょうか。
 五十六億七千万年経って弥勒菩薩とお大師様が現れてくださるまで、私たちの魂はカメのような歩みでしか向上できないのでしょうか。




2005
06.21

五力 18 ―信力 4 ご利益をいただくには―

 ご本尊様の「ご利益をいただく」とは、「自分の隠れた力を発揮し、天運を引き寄せる」ということです。
 
 そもそも私たちは持っている脳細胞の2割も使っていないのですから、未成熟であると同時に大きな可能性を秘めた存在です。
 脳がそうであれば脳の指令で動く身体も同じです。現に「火事場のバカ力」と言うではありませんか。
 だから、善き願いを叶えたいのであれば、まず必要なのは「自分の力を信じる」ことです。
 やれるはずだが何かが足りない、あるいは何かに支えて欲しいと思うからこそご本尊様の前へ来られたわけですから、そこをしっかりさせねばなりません。
 医療の力で病気を克服できるのは自己快癒力があるからだというのと同じ理です。

 また、願いをかける以上は、ご本尊様を「信じる」ことが欠かせません。
 自分の未熟な部分や、力を発揮できていない面や、袋小路を突破する智慧を補っていただくわけですから、人生がかかっています。
 目的地へ行くのに走っては間に合わないと判断して自転車に乗るのなら、自転車がちゃんと走ることを信じなければ始まらないではありませんか。
 そして、自転車を自分の足でこぐのと同じく、自分の意思でご利益をいただく、お力をいただくといういう姿勢が必要です。

 もう一つ決して欠かせないのは、「こうしたい」という目的意識をはっきりとさせることです。  前へ進もうとして後から押してもらいたいのなら、ハンドルは信じる方向へとしっかり握りしめていなければなりません。ハンドルを握るのは自分だけです。

 こうして心の準備ができたなら、あとは、ご祈祷であれご加持であれ、法を受けている間は、心身の力を抜き、ゆったりと過ごせば良いのです。(念ずるべきところはちゃんとご指導します)
 思いこみやこだわりや堂々巡りで疲れ、緊張している心身は解放を求めています。 歪み凝り固まったものがほぐれてこそ、大海のようなご本尊様の世界へ溶けこみお力をいただけます。
 我の強い人には法が届きにくく、すなおになれる人へは法が届きやすいことははっきりしています。
 天運はすなおな人にこそ訪れます。
 ご本尊様のお力は大宇宙の力であり、それは小宇宙である私たちの中にもあります。
 我という障害物が取り払われて二つが共鳴し一つになればこそ良い結果が得られるのです。
 
 この世を構成しているのは物質が5パーセント、エネルギーが25パーセント、暗黒エネルギーと呼ぶしかない謎のエネルギーが70パーセントであることを思いだせば、私たちはすなおに、謙虚になれ、希望も持てるのではないでしょうか。




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2005
06.20

ご不要の石や岩を求めています

 当山では『守本尊霊場』を自然生態系の生きるビオトープにしたいと願い、手始めに小川を作り始めました。

 重機で掘っていただいた堀を崩れないようにするための石や岩が必要なのですが、とても買えません。たとえ何ヶ月かかろうと一個一個積み上げて完成させたいと願っていますので、ご不要な石や岩(一人か二人で持てる範囲のもの)をお持ちの方は、大小にかかわらずご提供いただきたく存じます。来山する子供たちにフナやメダカを身近で見せたいという願いへ、ぜひご協力をお願い申上げます。ご連絡をお待ちしています。




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2005
06.20

今月の例祭

 護摩の修法を行い、ご供養とご祈願により皆様とみ仏とのご縁を深めていただきます。



 例祭で行われる護摩法は、願いが最も早く仏神へ届く秘法です。

 どなたでも自由に参加できます。

 たくさんの願いを持って守本尊様にお会いし、悪い縁や自分のいやなところは智慧の火で燃やし去っていただき、良い縁を固め精進がすばらしい花を咲かせるよう大きなお力添えをいただいて下さい。





 毎月第1日曜日 午前10時より

 毎月第3土曜日 午後2時より




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2005
06.20

五力 15 ―慧力 1―

 五力の5番目は「慧力(エリキ)」です。 

 人間が他の生きものと決定的に異なるのは、智慧があるという点です。
 サルもものを覚えるのでサル知恵などと言うし、渡り鳥は驚嘆すべき季節感や方向感覚を持っているし、イルカは高度な会話をしているという説もありますが、いずれも「生まれたままに生きて死ぬ」だけです。
 言い方を変えれば、「自分の一生」という運命のドラマは書けません。
 人間は、智慧をもって、自分の運命を創造することができます。
 智慧とは、知識や経験を道理に従って活かす能力です。
 いかに豊富な知識や経験を持っていても、それが人間として真っ当に生きるために活かされなければ、宝の持ち腐れになりましょう。
 用いる方向が狂えば、それらは宝どころか自他を害する猛毒になってしまいます。

 たとえば、最近尼崎で起こったJR宝塚線(福知山線)の事故の後、線路に自転車などの障害物を置く事件が多発していることを考えてみましょう。
 常識や良識のある人ならば、電車の事故がいかに恐ろしく悲惨なものかをまざまざと知らされたのですから、事故を起こさぬよう事故に遭わぬよう気をつけようとするはずです。
 しかし、そうでない人々もいます。
 彼らは一見、とても悪い人のようですが、そうとは限らず、むしろ弱い人なのかも知れません。
 人は、何かを見聞きし、あるいは嗅ぎ、味わい、触れるなどすれば、まず第一印象を得ます。
 刺激が潜在意識へ入る瞬間です。
 ここでボーッとしていると、「強い刺激」がそのまま残るだけになります。
 こうして潜在意識に積まれたものは、同じような場面で反応します。
 無意識のうちに同じような場面を求めもします。
 ふとしたきっかけで、又その刺激を求めて行動してしまうのです。
 万引きの現場を見て万引きする人、ビデオを見て痴漢をする人、好物を摂り過ぎて成人病になる人―――、線路にものを置くというおぞましい行為は、そうした心理のもたらす現象です。
 ここでみごとに抜け落ちているのが、「善悪」という人間にしかできない価値判断です。

 人間は、刺激に対して価値判断ができます。
 智慧のある人とは、善悪の判断能力を持った人です。真っ当な人間です。
 釈尊が、生涯をかけて「己(オノレ)を律せよ」と説かれたのはそのことです。
 ここで言う「己」とは、ただ漫然と刺激を受け、漫然と反応するだけの自分です。言い替えれば、煩悩に流されるだけの自分です。
 ここで言う「律する」とは、善悪の判断基準に合わせるということです。
 釈尊が「もろもろの悪をなすことなかれ、もろもろの善をなすべし、己の心を清めよ」と説かれたのも、同じ理です。
 悪をなすのは煩悩に流される自分、善をなすのは律せられた自分、清められるのは悪をなさず善を行なう日々の結果です。

 つまり、智慧の核は「人間としての善悪の判断能力」です。
 自然にそれが輝くようになれば、人生は楽になり、危険が少なくなります。
 釈尊は「二の矢を受けず」と説かれました。
 智慧があれば、刺激を受けてもそれに左右されないという教えです。
 講演などで用いると皆さんよくお解りになられたような顔になるたとえ話は「美人を見ても、ふり返らない」というものです。
 歩いていて向こうから美人がやってくれば、ほとんどの男性は視線を奪われ「オッ、美人だな」と思うことでしょう。
 すれちがってしまえば、それだけのできごとです。
 美しい花を見、音楽を聴き、香を嗅いだのと同じです。
 ふり返らなければ、風のように生きられるのではないでしょうか。




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2005
06.19

水無月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、何年も機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ投稿しておられます。



チューリップ一人暮らしに乾杯す



一本いち本おのれを庇い葉桜に



自らの重みに揺れて藤の花



風も身も軽ろし五月の散歩道



忌み嫌う窓より逃がす夜の蜘蛛





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2005
06.19

この世のこともあの世のことも

 笹倉山の頂上が雲とも霧とも判らぬ薄鼠色のベールに隠されて今にも雨が落ちて来そうな夕刻、見覚えのある車が『法楽の苑』に停まりました。
 近くの公営墓地に、無彩色の石を組み合わせて宇宙を思わせるような墓地を建てたFさんです。
「あれ、住職がそんなことするんですか?」
 彼は大学の後輩なので、気さくです。長靴にスコップという姿を見れば、びっくりする方がおられても当然です。
「僧侶は基本的に何でも自分でやるんですよ。ましてウチは貧乏寺ですから。でも、皆さんが手伝ってくださるので助かっているんです」
「動くのは良いですねえ。身体に良いですよね」
 そういうことでもないんだがなあと心で苦笑しましたが、そうであることは事実でもあります。
 早朝3時間の散歩を欠かさない小説家Tさんも似たような経験をしているのだろうと思うと、勝手に可笑しくなりました。

 定年まで3年を残して退職したFさんは、近々、国家資格の試験を受けるそうです。ただ受かるだけでなく、準備期間の最短記録に挑戦するというのだから大した勉強家です。
「先輩、結果をちゃんといただくように祈るのは、菩提(ボダイ)でしたかねえ、それとも涅槃(ネハン)で良いんですか?」
 彼は『五輪の塔』へ願かけに来たのです。
 菩提ですよと答えながら、無性に嬉しくなりました。
 彼は、神仏は大切にしているつもりですがあまり信仰心はありませんと正直に言っていたからです。
 そうした「困った時の神頼み」も立派な真心ある行為です。
 仏神は私たちの親ですから決して無視されることはありません。

 五輪の塔は四角柱が一番下にあり、四方を向いています。
 太陽の昇る東側は「発心(ホッシン)の門」といい、さあ、やるぞという決心をお護りくださいます。
 南側は、「修行の門」といい、たゆまぬ精進をお護りくださいます。
 太陽の沈む西側は「菩提の門」といい、努力して得られる果実である成果をお護りくださいます。
 静かな北側は「涅槃の門」といい、ことを成し、満足の裡にほっとする安息をお護りくださいます。

 当山の五輪の塔は、さまざまな事情から無縁仏になってしまった方々を埋葬してご供養しており、「あの世の安心」と同時に、この世で生きる人々が願いをかけてご守護いただく「この世の幸せ」のための仏塔でもあります。
 来山された方々は、そうした意義を明示してある仏塔へそれぞれの思いで手を合わせられます。
 教えが生き、法で護られる場は、皆さんと共に造られ皆さんと共に護られ皆さんと共に発展して行くことでしょう。




2005
06.18

五力 13 ―定力 1 学ぶべきこと―

 五力の4番目は定力(ジョウリキ)です。
 これは、仏教徒にとって必須とされている「三学(サンガク)」の2番目「定学」による力です。

 じっと心身を静寂にしていると、波立つ心が穏やかになり、意識は透明になってみ仏の心へ近づきます。
 そこで観えて来るものは定めです。
 いのちに宿る宿命です。
 宿命は「いのちと共にあるもの」とも言えます。
「四苦八苦」がその正体です。
 人は生まれる時に、生きるか死ぬかの苦を体験します。
 科学が発達して無事出産できるのが当然といった雰囲気のある現代でも、安産祈願は絶えません。
 母も子もいのちをかけた大仕事です。
 人は必ず老います。
 病気にもなります。
 死なない人は一人もいません。ここまでの「生・老・病・死」が四苦です。

 必ず死を迎えるのは自分だけではなく、生きとし生けるものすべてが死を免れず、どんなに愛するものとも別離の時を迎えないわけには行きません。
 これを「愛別離苦(アイベツリク)」といいます。
 めぐり会う人がすべて気に入るなどということはなく、誰しもが、人を嫌な奴と思い、怨み、憎んだ経験をしているはずです。
 これを「怨憎会苦(オンゾウエク)」といいます。
 求めるものをすべて得ることは誰にもできません。
 情愛でつながって当然の家族の間ですら心の絆が危うくなり、悩む場合があります。
 形あるものもないものも、不足と感じ求め続けるのが人間です。
 意欲があればこそ輝く人生ですが、意欲は心のあり方一つで苦となります。
 これを「求不得苦(グフトクク)」といいます。
 人は、感覚がはたらき、感受作用があり、想い、意思を持ち、いつも自分というものがあって生きており、この生命要素を五蘊(ゴウン)といいます。
 しかし、「放っておく」とそれらは勝手に肥大化し「大変なことに」なるものです。
 たとえば、何かをしようとするのは当然であっても、自他の状況を省みず善悪を忘れればたやすく悪行になります。
 殺人・盗み・邪淫すべて意思の暴走です。
 しかも、きっかけは内側にあるだけではありません。
 多様で膨大な情報の氾濫も、私たちを混乱させて感受作用を濁し、想いを狂わせ、意思を誤った方向へ向かわせます。
 これを「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)」といいます。
 以上の四つを合わせて四苦八苦です。
 
 釈尊は、よく「生死を超える」という表現をされました。
 それは生まれず死なないのではなく、四苦八苦をもたらす生や死は厳然としてあっても、それに翻弄されない境地に入られたということなのでしょう。
 気に入らない人とめぐり会うのは避けられませんが、それによって苦しむことはないのでしょう。
 得られたものへの感謝と安心に満たされているということなのでしょう。
 定によって観られた宿命は有限な肉体へ訪れるものであって、さらに定を深めて不変の魂の次元へ入れば、四苦八苦は幻であるに違いありません。
 正しく正統な方法によって「定」を学び実践し、定力で運命を創りましょう。




2005
06.17

小さきもの

 一昨年Nさんから大量にいただいた苗木を本堂のある境内地周囲へバラバラと植えておきました。
 サカキやアオキやモミジやツツジなど、何がなんだか判らないけれども、いつしか育ったならば塀になってくれよと祈りながら一本一本植えました。
 さっぱり手入れをしないのでうまく育たなかったり虫の餌食になったりするのはもちろん、夏になると雑草の方がはるかに高く伸びて、草刈り機で雑草と一緒にいのちを落としたものも相当ありました。
 昨年秋、不憫に思ったTさんが、生き残ったものに目印の添え木をされました。

 さて、今般『守本尊霊場』の地ならしが終わったので、参道へあのものたちを移植しようと思い立ちました。
 雑草の陰になってばかりいるのもかわいそうだし、本堂の周囲は桜が取り囲み、彼らの出番がなくなったからです。
 Tさんの添え木を頼りに雑草に埋もれている小さな木を探し出しては掘り起こし、霊場へ連れて行きました。
 妻が異論を唱えました。「種類の違うちっちゃいのを並べたらおかしいでしょう。せっかくきれいな敷地になったのに………。それにモミジなんか大きくなったらどうするの」
 一理あります。
 20センチや30センチのものがいろいろある光景なんか、誰も感心してはくれないだろうし、何年かすれば、必ず植え替えは必要になります。
 でも、今は、ここまで生き延びた小さなものたちが、周囲に雑草はなく風通しも日当たりも抜群の環境へ出ればどんなに嬉しいかと思う一念しかありません。
 石ころだらけの所や砂利だらけの所で、肥料もなく、ただ放置されていましたが、今度は、適当な穴に山砂が入れられ土壌改良剤や堆肥なども混じっているぜいたくな土地で生きられます。
 どんどん育つことでしょう。

 ちっちゃいのと聞いて、漫画『おじゃる丸』の「ちっちゃいものクラブ」を思い出しました。
 金さん銀さんを思わせる小さなカメの姉妹やカタツムリなどがメンバーになっている仲好しクラブです。
 その主題歌にはこんな一節があります。

「ちっちゃきものたちむねをはれ おおしく手をふれ 足音高く 声高く 明日を目ざして」

 漫画は、何気ない日常生活ににじみ出ている「生きてある者」の健気さ・愛しさ・いじらしさといったものを感じさせます。
 主人公そのものが小さな少年だし、脇役に加わっている小さな生きものたちの存在は、こうしたテーマには欠かせません。
 小さきものは愛おしいものです。
 カメもカタツムリも、ふとした拍子に踏みつけられでもすればそれまでのいのちですが、ちゃんと生きています。
 むしろ、「弱きもの」でもあるがゆえに昂然としているのかも知れません。
 そういえば、彼らはこうも唄っています。

「行く手はばむは何者ぞ ようしゃはしないぞ ちっちゃきこの手につかむのは 大きな未来ぞ」
「人生は長き道 さか道もある ころげおちても はい上がれ ほこりも高く」

 凍える托鉢では雪融けの斜面に咲くフキノトウや黒い土に咲く福寿草に励まされ、焼かれる托鉢では砂利道に咲くタンポポに励まされてここまで来ました。
 延べ十二時間以上の作業は、時間に追われている身としては結構な負担でしたが、彼らのいのちの尊さと勇気づけてくれる力の大きさに比べれば何ほどのこともありません。
 小さきものたちへの視点を失わずに生きたいものです。
 そもそも、当山だって小さきものです。
 敷地が一般住宅よりやや広いといっても、空に円を描く鳶の眼からすれば細々した区切りの一つでしかないことでしょう。
 日々のご縁によって維持されているささやかな存在でしかありません。
 それでも、彼らの歩みと同じく着実に進んでいれば、いつしか「大きな未来」へ到達し寺子屋建立の悲願も叶うことと信じています。




2005
06.16

顔のグリース

 運転手Aさんは、食堂で昼食を摂っている時、異様な感覚に襲われました。
 左の鼻の横のあたりからしきりにグリースのようなものが流れ出て止まらないのです。
 しかし、いくら手でこすってみても何もついてはいません。
 おかしいなあどうしたんだろうと思いながら食事を終わり、何げなくテレビを見て心臓の停まるような驚愕を覚えました。
 従兄弟の家が火事になり、従兄弟Bさんが行方不明になっているというではありませんか。
 Aさんは、ちょうど一週間前に夢枕に立った女性が何も言わずにすうっと消えて行ったことを思い出しました。
「………あれは、彼の別れた奥さんではなかったか」

 Aさんの夢枕と同じ日、焼死したBさんの娘婿が経験したことのないほど強い金縛りに遭っていました。
「何のお知らせだろう。何ごともなければ良いけど」



 やがて、お父さん(Bさん)を火事で亡くされたGさんがご相談に来られました。
「不思議なことばかりでした。伯父Aさんの顔に出たグリースって一体何なんでしょう?」

 密教では柴燈護摩(サイトウゴマ)という野外の護摩法を行ないます。
 背丈以上の高さに積んだ薪を焚き上げるので、並大抵の熱さではありません。
 そばへ行って願いを書いた添え護摩木を捧げたり塩を撒いたりしますが、夢中でやっていると、知らぬ間に顔や手にを火傷をしている場合があります。
 終わって帰る頃になると顔中の毛穴から黄色のどろっとした液体がどんどん流れ出て、翌日までには、乾いて固まります。
 不思議と何日も経たないうちにすっかり治り、気力がみなぎってきます。
 因縁が切れたような爽快な気分になることもあります。

 Aさんの顔のグリースは、心を通わせていたBさんの顔に流れていたものだったに違いありません。 きっと別れを告げたのでしょう。合掌




2005
06.16

輪廻転生 1 ―学ぶべきこととは?―

 よく「教えを学ぶ」といいますが、仏教では、人として学ぶべき内容を戒(カイ)・定(ジョウ)・慧(エ)の「三学(サンガク)」としています。
 今回は「戒」について考えてみましょう。
 戒は、いましめです。
「人は放っておけば必ず勝手気ままになり、煩悩に負けてこの世を苦の世界にしてしまう。
 己を律して人間としての崇高さを発揮し、自他共にこの世を極楽にしよう」
というのが仏教の人間観であり、理想です。
 己を律するためには基準がなければなりません。
 それが戒です。
 
 この世には「決まりごと」がたくさんあります。
 皆が安全に車を運転できるように道路交通法が定められ、学校には校則があり、会社には規則があります。
 宇宙には天地が休みなく運行する摂理があり、動物も植物も摂理に添って生きています。
 こうした決まりごとを貫くものが「因果必然(インガヒツネン)」の道理です。
 赤信号を無視すれば交通事故が起こり、校則がなければ学びの場の雰囲気は失われ、規則がなければ会社は機能しません。
 月は潮の満ち干をもたらし、気候が順調であればこそ実りの秋がやってきます。
 すべては原因とそれにはたらきかける縁による結果としてもたらされ、種なくしては決して花が咲かないように、原因のない結果は何一つありません。
 原因と結果がつながっているのは必然なのです。
 まず、宇宙に生を受けた者として因果必然の道理を信じること、これが戒に生きる者の第一とすべきことです。

 次には、社会の決まりごととしての国法を守ることです。
 皆が法を守り国が平和で治安が保たれていればこそ、安心な今日があり、明日を考えて生きられます。
 内戦が絶えなかったり盗賊がはびこったりして治安の不安定な毎日を生きている人々の不安はいかばかりでしょうか。
 もちろん、法に問題があれば改善をめざすのは当然ですが、それはあくまでも法に則った方法によるものであって、国法を無視したり、国法に背いたりする者は仏教徒たり得ません。
 だからこそ、仏教は世界中の人々にとって生活の柱となり、他の宗教宗派と争わずにここまで来ました。
 遵法精神を堅固にすることが戒に生きる者の道です。

 そして、「四恩(シオン)十善戒」に背かずに生きること、これがみ仏の子として生きるための基本です。
 お大師様は、親・国王・衆生(シュジョウ…生きとし生けるもの)・三宝(サンポウ…仏・法・僧)の「四恩」について説かれました。
 

「父母の恩とは、己へいのちを与え、育んだ恩である。
 その高さは天よりも高く、その厚さは地よりも厚い。
 我が身を粉にし、たとえいのちを失うほどの孝行を未来永劫にし尽くたとしても、親の恩に報い切ることはできない。

 もし、国を司る王がしっかりしていなければ、強き者と弱き者が相戦い、貴き者と賤しい者が奪い合い、いのちを守るのは困難であり、生きるための財物も確保できない。
 人々の生活を安定させ、役人を決めて位を授け報酬を与え、この世にあっては国を栄えさせ、後世の模範となるのが王たる者のはたらきである。

 衆生のいのちは一つである。
 自分は、無始の過去より、今の世で生きるまでの間、さまざまな生きものとなり、地獄道や餓鬼道など迷いの六道のいずれかにあって輪廻転生をくり返して来た。
 生まれなかった人間以外の世界はない。
 智慧の眼で観れば、一切の生きとし生けるものは我が親である。

 生き死にをくり返す苦界にあって、そこから救い出し安楽を与えるのは三宝の徳であり、その広大さはとても想像し切れるものではない。
 仏宝は、真理を明らかにする最高の智慧を供えており、衆生へ進むべき道を示す。
 法宝は、思慮を超えた功徳を備えており、それを保つ人へ世間的な安楽と、世間的なものを超えた安楽とを与える。
 僧宝は、仏宝と法宝の徳を伝える者であり、これがなくては仏宝と法宝の徳が世間を救えない。」 






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2005
06.15

治療と予防

 厚生労働省研究班の調査によると、非行に走る子供のうち、約半数が離婚などによって養育者が代わっていることが判りました。また、非行者の約3割は親からの虐待を受けていたということです。

 非行者の85?に心理的・精神的な問題があり、虐待されていた非行者に限れば92?に異常があるとは、驚嘆すべき状況です。

 ただし、これは全国の児童相談所で受付けた対象者へ対するアンケート調査によるものであって、すべての子供たちを調べたものではありません。



 子供は養育される、つまり、養われ、育まれる存在です。自分のいのちを養育者へ委ねています。そこで絶対的に必要なのは「安心」です。言葉を変えれば、子供はいのちを委ねている相手(大人)を信頼できて初めて健全に育ちます。

 もしも、その相手が突然いなくなったり代わったり恐怖の対象になったりしたなら、不安はいかばかりでしょう。離れる親や虐待する親は、自分が子供になったつもりでその幼い魂の震えを想像したことがあるでしょうか。片親になった子供は、施設の人などへ甘えて「可愛い」と言われる場合があります。確かに様子は可愛いのですが、安心を取り戻そうと子供なりに懸命な姿を見ると、辛くてなりません。



 社会はすっかり後手にまわってしまいました。病気にたとえれば、治療で忙しいのです。

 しかも、治療に追われるあまり、健康を保持するための予防法はいつしか脇へ追いやられました。

 子供を抱えた母親の生活を保護しようと制度をどんどん整えたために、母親を一人の女性ととらえた場合、家庭を守りながら育児も行なうよりも、一人ではたらきながら子育てをした方が生活が楽であるという研究発表があります。子供と二人で生きる母親を英雄視するイデオロギーもあります。

 社会は、いつしか皆が病人になることを前提としてしまったかのようです。



 生活苦も、子供の非行も社会的病気です。それには手厚い看護が必要であり、看護が行き届くようであれば成熟した社会と言えるのかも知れませんが、病気が発生しないにこしたことはありません。

 また、治療法と予防法は方法が異なり、治療法だけをいくら行なっても決して予防はできないことも忘れるわけには行きません。病気になれば安静にするのが基本ですが、健全な人が安静にしてばかりいたならどうなるかを考えればすぐに解ることです。

 

 かつて、シュバイツァ-博士は「私たち医師にできることは、患者の内側に存在する医師を助けることだけである」と喝破しました。

 病気からの回復を行なう根本の力は、人に本来備わっている「自然治癒力」です。病気になるのは人間の宿命ですが、私たちのいのちには、宿命に対抗していのち分をまっとうさせる力があるのです。

 滅びる宿命にある身体ですらこうなのですから、永遠なる魂には不変の光が宿っています。それは満月に喩えられます。時には群雲(ムラクモ)がかかっても、晴れれば皓々たる光を発し続けていることが判ります。

 煩悩の汚れが清らかな光をさえぎる群雲です。予防法は群雲を払うこと、我がまま気ままに走らないことです。

 結婚しようとする男女は、性的対象としてだけでなく、自分をさまざまに満足させてくれる相手としてだけでなく、相手の尊厳を見すえ「この人のためなら一生………」と相手のために自分を差し出す覚悟を決めて結婚したいものです。

 子供をつくろうとする男女は、子供というものをよく観察し、知り、、養育の重さ・責任・感謝・苦労などを勉強し、「必ず立派に育て切る」と覚悟を決めてからつくりたいものです。

 そうした覚悟が群雲を払う力になります。強い覚悟が予防法の根本です。予防の大切さを忘れないようにしたいものです。




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2005
06.14

情報と煩悩

 ホームページが新しくなりました。
 これまでは役員Sさんの献身的なご努力と老練なアイディアに「おんぶにだっこ」でおりましたが、これからは、Sさんのご指導をいただきながらも、宮城大学に根を持つ『デュナミス』さんのセンスにかけて情報を発信して行きます。
 さて、情報の発信は社会的行為です。
 自由な発信は権利として認められている時代であり、日本はそれを認める国ですが、権利の行使には必ず責任が伴います。
 しかも、相手は特定できません。
 誇張して言えば、世界中の人々が責任をとらねばならない相手になりうるということになります。
 考えるだに恐ろしいことではありますが、それを承知の上で、み仏の教えを広める「弘法」に欠かせぬものと判断し、また一歩強く踏み出しました。

『平家物語』にこんな一節があります。

「露ふきすさぶ秋風は、射向(イムケ…鎧の左袖)の袖を翻し、雲井(クモイ)を照らすいなづまは、甲(カブト)の星をかかやかす」


 何度口にしてみても、流れ、ゆらめき、それでいて芯の揺るがない文章には陶然とさせられます。
 また、露をつくるほど冷たい秋風が鎧を身にまとった武者の袖をひらひらさせ、夕刻の空を一瞬明るく照らす稲妻が、頭を丸く覆っている兜に打ち付けてあるたくさんの鋲を光らせるという光景は、もう私たちが現実として目にすることはなくなった夢のような場面で、ダイナミックなドラマのイメージをかきたてられます。

 しかし、これは、権力側と宗教側が対立し、双方が武力で我が意を通そうとしたために一触即発という危機がせまった状況です。
 治安を司る国家機構が確立されていない時代にあっては、すぐに正面切った殺し合いが行なわれていました。
 事実、この場面の前後も殺し合いと憤激と悲嘆に埋められています。
 文章のもたらす心地よさと膨らむ鮮烈なイメージは、恨み・憎しみ・裏切り・横暴・暴力・血・呻き・涕泣といったものをみごとに覆い隠しています。
 このことを私たちは忘れてはなりません。
 読んだものによって触発された想像力はここまで達しなければならないはずです。

「他人の家の火事は、派手であればあるほど眺める者の胸を躍らせる」と言いますが、人の心は、放っておけばそのようにはたらくものです。
 テレビで惨たらしい事件や事故の場面を見れば、まず驚き、「凄い」と感じ、多くの人は続いて「酷い」と思うはずですが、どれだけその酷六煩悩さを想像するでしょうか。できるでしょうか。
 刺激に対して私たちの心は「好む・嫌う・無反応・楽と思う・苦と思う・苦楽を感じない」といった6種の反応を起こします。
 これが六煩悩(ボンノウ)です。
 見て・聞いてといった6種類のきっかけによって起こり、それが過去・現在・未来と続くので、6×6×3で108となり、除夜の鐘などを108回打って煩悩を清めようとするのはこの理によります。
 つまり、何かを見て、聞いて「好いな」「嫌だな」と思っても、ただそれだけでは、自他を苦しめる迷いの人生を送るしかないということです。
 テレビやインターネットを見ても、同じです。
 大切なのは、「好いな」が真の感動となり、自分もあのように生きたいという導きのきっかけとなることです。
「嫌だな」が人間の悪をしっかりと感じとり、自分は決してあのようなことはすまいという導きのきっかけとなることです。
 そうして初めて文明が人間にとって意義のあるものになるはずです。

 たとえば火薬の作り方や自殺の方法を発信する人は、それに責任を持たねばなりません。
 法的にどうこうという以前の、真っ当な人間たり得る条件です。
 同時に、情報を受けた人は、それにどう反応するかどう活かすか自分の人間性が問われ、結果は自分に降りかかることを忘れてはなりません。
 これが、この時代を生きる私たちの煩悩に負けない基本的な心構えではないでしょうか。




2005
06.13

至福の時

『親輪会』の草刈りに間に合うよう、一昨日の夕刻、みちのく建設さん総出で『守本尊霊場』の地ならしを完成してくださり、いよいよ暗くなって「これでできあがりですね」と帰り支度にかかった途端、雨が降り始めました。
「よくこの時期に工事中5日間も雨が降らないでいてくれたものですねえ。
 降ればできあがりは来週でしたよ」と、作業した方々が喜んでおられました。
 もちろん私も現場で合掌し、急いで向かった居合の稽古には一段と力が入りました。
 昨日の夜は激しい降雨だったのに、今日はおあつらえ向きの好天気となり、「ありがたいですねえ」とまたまたお集まりの皆さんと共に感謝しました。

 Tさんは、忙しい中を茂庭台からいち早くかけつけ、お昼には帰られました。
 Hさんは毎日のお勤めと最近のご不幸で疲れておられるのに、朝から参加されました。Wさんは愛子から乗り物を乗り継いで来られ、我が家の庭で鍛えた腕を披露されました。
 孫のことで忙しいUさんは「こういう時にお伺いしないと」と急遽駆けつけられました。
 Oさんは息子さんの送り迎えで参加されました。
 黙々と鎌を使うKさんが進んだ後は、まるで新しい土を均したばかりのような草の影さえないできばえです。
 Kさんはプロ用の両手で押す草刈り機を、奥さんは手作りのお総菜を持参されました。
 会長は道具の準備から奮闘し、奥さんは手作りの昼食を持参されました。
 Sさんは、奥さんの病気とボランティア活動で多忙のところをおして出席され、午後には急いで帰られました。
 Iさんはご夫婦で参加され、最後まで執念を燃やしてサツマイモ畑を完成されました。
 Sさんは、奥さんの仕事開始までの時間をご夫婦で参加されました。
 総勢15名が参加された草刈りと畑作りは、境内の景色だけでなく空気も気配も清め、一切のしがらみや損得や思惑を離れたふれ合いの歓びを分かち合う貴重な機会となりました。
 お昼には、もう、お盆前の草刈りが話題にのぼり、秋にはKさんの畑でリンゴ狩りをし、初冬になったらここの畑で採れたサツマイモを焼き芋にして食べる計画すらできたようです。
 皆さんの笑顔は私にとって宝ものです。至福の時をいただきました。




2005
06.11

6月の守本尊様は勢至菩薩様です

今月(6月5日より7月4日まで)の守本尊は、勢至菩薩様です。

6月の本尊

 『根上下智力(コンジョウゲチリキ)』という、人の性根を見分ける力をもって、お救いくださるみ仏です。

人は、生まれにより育ちにより違った性根を持って運命を創り、お救いいただく道筋も、当然異なります。

勢至菩薩様は、それぞれが持っている蓮華のような尊い心を性根に応じた方法で開けるよう勢いをつけてくださるのです。




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2005
06.11

6月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



「オン サンザンザンサク ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちら





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2005
06.11

甘い飲み物と臭い水

 一人の老婆が、甘い飲み物を瓶に入れて売り歩いていました。
 途中で甘味の強い果物を食べて喉が渇いたので、通りすがりの家の奥さんから井戸水を一杯もらいました。
 これがとてもおいしく、すっかり気に入った老婆は担いでいた甘い飲み物と井戸水の交換を申し出ました。奥さんが喜んで応じたのは言うまでもありません。
 ところが、帰宅してから期待して飲んだところ水は全然おいしく感じられず、不思議に思った老婆は親族を集めて味見をしてもらいました。
 その結果、誰もが口々にこれは臭い水だから飲まない方が良いと言うのです。あらためてめて飲んでみてから老婆は気づきました。
 さっきは喉が渇き強い甘味が口に残っていたので臭みを感じられなかったのです。
 老婆にとって、今、初めて水はその本来の姿を明らかにしました。
 売りものの甘い飲み物は失われ、もう取り返しはつきません。

 この教えを思い出すたびに、五感六根のはたらきというものを考えさせられます。
 甘い飲み物を「善」とすれば臭い水は「悪」です。
 老婆の感じたおいしさは「快感」です。私たちはいかにこの快感(五感六根の悦び)に惑わされていることでしょうか。

 山形県光市の県立光高校で起こったガラス瓶爆弾事件も、こうした魔ものの仕業です。
 犯人にとって、ゲームや映画、あるいはイスラム世界で頻発している爆弾テロ事件のテレビ映像などはすべて快感をそそる対象です。
 彼は、何度も何度も仮構の世界に触発されて快感を覚えているうちに、現実世界で快感を体験したいという「欲望」が膨らみ、恨みを晴らすという快感への「期待」も高まって行動へ走ったのでしょう。
 そこには、善悪の判断が見事に抜け落ちています。
 私たちは、私たちの文明が持つ毒をよく見極める必要があります。―――社会全体が老婆のように手遅れにならないうちに。




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2005
06.11

6月の運勢

 今月は、とかく世間が波立ち不和・離別などが生じやすく、情報に問題が起こりやすい時期です。交通事故や雷、地震などにも要注意です。

 特に若い方々は、誤った情報や風評や宣伝に乗せられないよう注意しましょう。

 また、青少年の健全育成をよく考えたいものです。

 損得よりも善悪を教え、我を張るよりも人として尊い生き方ができるよう、親が明確なイメージを持って導かねばなりません。放任すれば、周囲にあふれる欲をそそる情報に翻弄され、見て聞いて触れて快楽を感じられるものに走ってしまうのは当然です。心に締まりがなく育った子供は、我がままで大人になれなかったり、優しさというオブラートに包んだケジメのなさが悪人につけいられる隙をつくって転落したりします。

『親輪会』の方々が植えてくださった桜の木一本一本を毎日見回っていると、あるものは芽がちゃんと育たず、あるものはせっかく勢いの出てきた若葉が虫に喰われて一日でボロボロになったりと、成長することの難しさをつくづく教えられます。 土壌や肥料などに充分に留意して植樹し、毎日水をやってすらこうなのですから、その辺にただ漫然と植えただけならばどうなるかは、推して知るべしです。

 本ものを見分ける眼を養い、謙譲・謙遜・謙虚・謙黙の徳を磨きましょう。

 誰もが有名になりたい、情報に載りたい、善悪何であれ注目されたいという風潮であればこそ、そうした大人の徳がいぶし銀のような価値を発揮します。『やじろべえ』の中心を支えられるのは、そうした人です。時にはぶらりぶらりと揺れるのも佳いでしょうが、この時期には危険です。

 旅行はよほど準備周到でなければなりません。「心の旅」には利がありますが、「鵜の目鷹の目の旅」は凶です。

 万事ゆとりを以て行えば無事安全です。




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2005
06.11

6月の聖語

「水は澄浄(チョウジョウ)にして色相を照らす。然れども願行(ガンギョウ)の波、波浪を起こす。波浪すなわち声を作(ナ)す。これ説法の音なり」     ─弘法大師─



(水は澄み清らかですべてのものを映し出している。祈願と修行の風がその水面に波浪を起こせば、そこに音が生じる。その音こそが、み仏の説法される声である)



 み仏の世界はこの上なく清浄で、そこにはあらゆるものの本当の姿(=真理)が現れています。不動心は曇りのない水晶のようなものです。

 そこへ祈りと修行のまことの思いが届けば、水晶はその清らかさを保ちながら、そのままでいのちのうねりとなっている世界(=真実)を顕します。

 み仏の世界には、不動の面とダイナミックに変化して止まない面とがあり、変化の面に私たちの魂が共振すれば、それはすべて教えとなって私たちの心へ届きます。祈りと人間としてまっとうな道を歩もうとする努力とが真実世界への扉をたたき、開くのです。




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2005
06.10

例祭のお知らせ

護摩の修法を行い、ご供養とご祈願により皆様とみ仏とのご縁を深めていただきます。



 例祭で行われる護摩法は、願いが最も早く仏神へ届く秘法です。

 たくさんの願いを持って守本尊様にお会いし、悪い縁や自分のいやなところは智慧の火で燃やし去っていただき、良い縁を固め精進がすばらしい花を咲かせるよう大きなお力添えをいただいて下さい。





毎月第1日曜日 午前10時

第3土曜日 午後2時




2005
06.10

感化

 6月7日午前1時頃、佐久川盛吉さん(61歳)がタクシーに男性客(28歳)を乗せて那覇市から浦添市に到着したところ、男性はお金を持っていません。
 佐久川さんから穏やかに料金は会社へ持って来るようにと言われた男性はカッターナイフを所持しており、強盗を企んでいたことを告白しました。
 佐久川さんは男性を諭し、そのまま自分のタクシーで浦添警察署へ出頭させました。
 男性は、見ず知らずの自分の体調を気遣ってくれるような佐久川さんの人柄に接し、だんだんと「この人を襲えない」と思うようになり、ついに犯行の機会を失ったということです。
 
 美しい人格が人を感化し、救いもするという実例です。
 きっと釈尊もお大師様もそうだったのだろうと思うと、また憧れがつのります。
 若いうちはほとばしる生命力の輝きが強いので人格が見えにくい場合もありますが、人生を過ごすうちに潜在意識へ貯まったあるものは芳香を発し、あるものは泥香を発するようになります。
 それは態度・言葉・目つき・顔つき・雰囲気に顕れ、地位・名誉・財産・服装など何をもってしても覆い隠すことはできません。
 賤しくなった人は賤しく高潔になった人は高潔であり、ごまかせないのです。
 釈尊のような佐久川さんに合掌する思いです。




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2005
06.09

母恋し

 5歳の時に親が離婚し父親に育てられたTさんは、子供の頃、時折友人へ「お前はおふくろがいていいなあ」と言ったそうです。
 兄弟3人共に鉛筆やノートにもこと欠くような窮乏生活を過ごし、母親とは音信不通の数十年が経ちました。
 
 職人として必死にはたらき結婚し、温かな家庭をつくったTさんの元へ役所から連絡が来ました。
「年老いて老人ホームへ入っているあなたの母親の面倒をみて欲しい」2人は猛反対し、結局末弟のTさんが引き受けました。
 1人で生きてきた母親は気性が激しく、施設の担当者も手を焼いて自宅へ連れ帰ってはくれまいかと懇請されたこともありましたが、親子3代で暮らしている現状ではかなわず、毎週施設へ通っては世話をし続けました。
 母親は、一緒に行く妻へお前の顔は見たくないと悪態をついたりすることもありました。
 そんな時、Tさんは妻へ「あれは病気が言わせているんだから許してやってくれよ」と謝りました。
 母親恋しさが、心にいつしか理想の母親のイメージを創り、いざデコボコだらけの現実の母親を前にしてもそれは崩れることなく、軋轢や苦痛や悲惨の向こう側に、理想の母親そのものを見続けていたのでしょう。
 
 そしてただの1週も欠かさずに見舞った9年が過ぎ、Tさんは急に逝かれました。
 奥さんの述懐です。
「何としても自分で母親を送りたかったようですが、母親はかなり惚けており、文字通りの病人となりました。
 惚けた老人としてやむを得ないことはあっても、もう、気ままをして周囲の人を困らせることはできません。
 そうした意味では、いくらか安心していたのではないでしょうか」

 初七日忌が来ました。
 修法が終わり、遙かな希望の星でも見上げるように目に光を宿しやや上向きかげんの遺影を前にして、お茶をいただきました。
 奥さんはまだ憔悴を隠せませんが、初めて笑顔を見せられました。
「ありがとうございました。今日のお父さんは、ずいぶん笑っているように見えます。
 もう安心しているんでしょうね」




2005
06.08

炭焼

 百数十名もの社員を抱える地域ナンバーワンの企業グループを率いるO会長が炭焼を始めました。
 16年12月31日が第一回目の火入れでした。
 七つ森を背にするこのあたりはもともと炭焼に適した場所ですが、今ではとても生計を立てることができず、ほとんど廃れてしまいました。
 ところが超多忙なはずのOさんが長老の指導を受け早朝の仕事として手がけられた由、なぜだろうと思っていました。
 56歳になるので道楽だろうと観る人が多いかも知れませんが、伝え聞くところによれば、役職員は「どうすれば商売になるかよく考えなさい」と指示されているらしく、ただごととは思えません。

 誕生日を祝う会の席上、Oさんは言いました。 

 厳しい時代と自分の年齢を考え、生きるとはどういうことだろうかと考えた。
「1+1」で2になる計算だけで良いのか、それだけでやっていけるのか、それが生きているということなのか。
 そもそも生きているとは、額に汗を流し飯を食うことではないか。
 昔は、炭を焼き、豆腐を作り、生きてきた。
 そこには汗があり知恵があった。自然の恵みをいただき炭を焼いて食えるかどうかは、自分の姿勢にかかっている。「1+1」を2にも3にもできないはずはない。
 自分は、若く貧しかった頃、一人の見知らぬ方から思いもよらぬ情をかけていただき、それを宝ものとして無我夢中ではたらくところから出発した。
 もうすぐ定年を迎える年齢になった今、これまでの人生をふり返り、自分の身をもって、汗を流すということ、食うということ、生きるということの原点にもう一度立ってみたい。


 災害があると、被災地へ数十人規模の慰問団を派遣して辛く苦しい思いをしている人々へ手を差しのべ、雪が降った早朝には自分で重機を動かして役所の手の届かないところまで除雪をされるOさんは、自分の姿をもって役職員はもちろん、若い人々へも真情からのメッセージを発したかったのでしょう。
「時間がないというのは言い訳だ」「商売は小さなお金を大切にするところから始まる」「仕事に貴賤はない」「やがては豆腐屋も始め、油を消費する車を使わず、時間と汗と知恵とをもって商売として成り立たせたい」まさに道の人です。
 寺子屋建立という悲願を持つ私にとっても、小さからぬ示唆をいただいたような気がしました。




2005
06.07

霊性の濁り

 4月1日、大阪市大正区の府立高校で、一年生の生徒がクラスのちがう生徒に呼び出されて暴行を受け、負傷しました。
 ケンカ両成敗ということで二人は停学処分となり、被害者の親は学校側へ事情を問いただしました。
 ところが、学校側は「民事不介入」「個人情報保護」を理由に、事件の本質的な解決へまったく手を打たなかったばかりか、被害者側へ、加害者である生徒の住所はおろか氏名すらも教えませんでした。
 やったことは、停学という処分と、「連絡するよう相手方へ話をします」という通告だけでした。
 むろん、加害者側からは何の連絡もなく、被害者側は大正署へ被害届を出し、刑事事件となりました。
 
 驚くべきことに、学校側は生徒名簿などを一切渡さず、生徒同士ですら入学した当初はあたりにいる仲間の姓をやっと知るだけだったのみか、警察の捜査に対しては情報の提示を拒みました。
 警察からことの重大性を説かれ、やっと事件を明らかにしたというていたらくです。
 この異様なありさまについて、ある弁護士は「学校の対応は一般的な感覚では非常識だが、法律上は正しいというしかない」とコメントし、校長は「対応に問題はない」としています。

 この弁護士の言葉が問題の本質を雄弁に物語っています。
 それは、法律は人間としてこれ以下に堕ちてはいけないという最低ラインを定めたものであって、それを踏み外しさえしなければ人間として真っ当であるとは言えないということです。
 もしも生徒同士が殴り合ったならば、それをどう教育の糧とせねばならないかを真剣に考え、当事者を指導するのはもちろん、親御さんへ対しても家庭で適切な指導が行なわれ事件が円満に解決するようはたらきかけるのが、真っ当な先生というものではないでしょうか。
 もしも子供が誰かにケガをさせたならば理由の如何を問わずまず相手へ謝らせ、それから我が子と相手のお子さんと両方からよく話を聞いて、大人になるための指導の機会とするのが真っ当な親というものではないでしょうか。
 しかし、こられのことは法律で定められてはいません。
 常識・良識という言葉以前の、あまりにも当り前なことだからです。
  
 何かが大きく狂い始めました。
 人間は万能ではありませんから、理想的な人間の振るまいを法で定めることなどできはしません。
 でも、何に強制され縛られずとも、人間は人間らしい崇高さを失わずにここまで来ました。
 それは霊性が活きていたからです。
 誰かが見ていなくとも悪いことはしない、役割はきちっと果たす、仏神・自然・生きとし生けるもの・社会・先祖・親への恩を忘れない、困っている人へは手を差しのべる、などはすべて霊性がさせる振る舞いであり、こうした生き方ができて初めて一人前の大人というものです。
 子供たちをそうした方向へ導くのが大人たちの務めでした。教育とは、眠っている霊性を呼び覚ます行為と言えるかも知れません。
 いつしか、それはちゃんと行なわれなくなりました。

 霊性の濁りが、人間を堕落させた原因です。
 濁りの正体は「思い込みへのとらわれ」です。
 自由・平等・権利・平和・プライバシーなどの意識が肥大化して人間の真実のありようとの間にズレが生じ、我欲と怖れが鬼子となって現れました。
 この事件について考えてみれば、学校側の態度は、教育の責務を果たすよりも「訴えられないように」を優先させています。
 我欲と怖れ以外の何ものでもありません。
 校長の言葉の意味は「何も悪いことをしていないのだから、とやかく言われる筋合いはない」です。何をか況んやですね。
 明らかに、私たちは根本を考え直さねばならないところへ来ています。




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