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2005
08.31

長月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



茗荷汁明日に余生をゆだねをり



厄介なことはさておき心天



諸行無常別れにあふる蝉しぐれ



この暑さどうにもならぬ犬の舌







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2005
08.31

丸山弁護士に思う

 59歳にして『二十四時間テレビ』に出演し、100キロメートルを走り抜いた丸山弁護士の言葉には真実がもこっていました。
「とにかく沿道の人たちの声援がすごかった。スタートしてからずうっと続いていました。一生懸命やることに心から応援するという人たちがこんなにいたのかと思うと嬉しかったですね」
「100キロメートルを走るといっても、1キロメートルの積み重ねですからね。1キロメートルづつやれるところまでやっただけで、僕だってどこまでやれるかということなんか判らなかったですよ」

「やっている人」「やった人」の言葉は重みが違います。
 ただただ「千里の道も一歩から」と頭で知っているだけの世界とは別次元です。
 つい最近も、身近な信徒さん方からそうした言葉をお聞きしました。

 Kさんは、嫁いだ娘を頼って闘病生活を続ける母親を何年も介護して来ました。
 そばにいなければならないと仕事をやめ、ひんぱんに夜中に起こされるので睡眠不足になって高血圧を発症し、手は手術を勧められているほどの腱鞘炎に罹り、気持一つで頑張っておられます。
 いつも母親・子供・夫・兄弟・親戚などのことについて全力を尽くし、祈願もかけておられるので、「貴女は観音様のような方ですが、貴女が元気でおられないと結局皆さん大変なんですから、どうかご自分を大切にしてください」と申し上げていました。
 そのKさんが、ついに
「どうか私を守ってください。
 今、倒れるわけには行きません」
とご自身の安全祈願に入られました。
 有能な職業婦人だった方が何もかも捨てて身辺にいる人たちのために文字通り命を削って奮闘したあげくの言葉です。
 涙の出るような思いでお聞きしました。
 最後の最後に出てきた「自分」なのです。何としてもお守りせねばなりませんし、もちろん、み仏がお見捨てになるはずもありません。

 Sさんは、困った人々から相談を受けると「我がこと」と思い、いつもそうした人々と一緒に悲しみ、苦しみ、考え、親身になって来られました。
 そもそも当山へ足を運ぶようになったきっかけは知人の問題についての人生相談であり、当人には知らせない「因縁解脱」「家内安全」「安産守護」などの祈願をかけてもおられます。
 やはり、観音様のような方だなあと思っていましたが、最近になってご自身の身近な問題についての人生相談がありました。
 他のために一生懸命な生き方がご家族にとってとても大きな負担になってしまったのです。
 そこで、「とにかく貴女自身の問題を第一としてくださいね」と申し上げた時、念を押すといった口調で言われました。
「まず、自分のこと、自分の家族のことで良いんですね?」
 もちろんですと答えながら、他のために己を捧げ尽くして来た方の魂から絞り出すような言葉に、やはり涙の出るような気持になりました。

 多くのトラブルは「我(ガ)」を張ることに起因します。
 仏教ではくり返し「本来幻である我を捨てよ」と説き、お大師様は「我として現れる表面の自分ではなく、本来仏である自分の本姿で生きるのが即身成仏である」と説かれました。
「自分」という意識にこそ迷いや苦しみの根本原因である一方、私たちは一人では生きられない生身の人間なので自分で自分の心身をきちんと保たねばなりません。
 観音様のような方々は、夢中になってつい自分を保つための限界に近づいてしまいます。
 知らぬ間に「我(ガ)」は消えかけていますが、健全な自分自身も消えてしまいかねない危険なラインです。
 その姿は、〈飢えた虎に自分を喰わせようとした釈尊〉〈もしも人々のためになり得ないならこの身をみ仏のために捧げますと崖から飛び降りた八歳のお大師様〉に限りなく近いと言えましょう。
 この地点で必要なのは、もはや清めることではなく、我(ワレ)に還ることです。
 言うまでもなく、そうして還った自分は、もう「我(ガ)」ではありません。

 人がみ仏の子であることを証明してくださる皆さんのお姿・お声・生き方に教えられ、励まされながらの法務です。ありがたいことです。




2005
08.30

子供へ与える宝もの

 子供がその子らしく生きて行くためには、5つの指導が必要です。



?心からやりたいと思うものを発見させる

 スポーツ、芸術、自然、サークル活動などさまざまなものを体験させるのは、そのものをずうっとさせるためではなく、いろいろあることを教えることによって「発見する機会」を与えるためです。山へ行って虫と遊びたくなったならそれも良し、クレヨンを手放さなくなったならそれも良し、選ぶのは子供の仕事であり見守るのが親の務めです。

?何が弱点かを考えさせる

 夢中になり出したなら、その方向へ行くために障害になるものを見つけ、本人も気づいた頃にそれとなく話すことです。そして「でもだいじょうぶだよね」と励ますことです。

 たとえば山へ行きたがっても身体が弱いなら、子供の望む範囲で手伝えば良いのです。早めに弱点を知ることは、「疲れてもしょうがないよ。ゲームで遊ぼうよ」と弱点へ入りこもうとする魔ものに誘惑されないためです。また、手伝う範囲に慎重であらねばならないのは、親があまり積極的になると、子供はいつしか「やらされている」と感じるようになるからです。「やりたい」と「やらされている」では同じ行動をしても意義がまったく異なります。

?目的のために必要なものを考えさせる

 やっているうちに、「もっとこうしたい」あるいは「~があればもっとできる」と工夫し準備したくなるものです。これも、さりげなく手助けすることです。

?なすべきことや準備の順番を考えさせる

 いよいよ手際よくやる段階です。やることの順番や大事なものの順番をつけられるようになれば、やれるという自信がかなりできているはずです。

?弱点の克服法を考えさせる

 くり返し行なう習慣ができた頃には、自然に何か克服法をやっているはずですが、ちょっとしたアイディアなどがあれば教えてやることです。ここでも、それをやるかやらないかは子供に任せておきましょう。

 ちなみに、小柄な浅野知事は、かけっこに勝てないのが悔しくて毎日仙台市八幡町にある八幡神社の階段を登下りし、運動会で優勝するまでになりました。子供時代の習慣は、今も朝のジョギングとして彼を支えています。

 

 こんな風に子供時代を過ごせれば安心です。「やりたい」「やれる」という意欲と自信は生涯の宝ものになることでしょう。




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2005
08.29

大人は「なすべきこと」を行ない、子供には「好きなこと」をさせましょう

 子供は人間として何をすべきかを知らないので、知っている大人が導かねばならないのは当然です。

 ただし、どういう方法で指導するかによって天と地ほどの違いが生まれます。

 まず、子供は何としても「守る」ことです。子供が何を行なったとしても、たとえ全世界を敵にしても、家族揃って絶対に守らねばなりません。世間と家が同じでは信頼できる味方がいなくなり、心に安心・安定がなくなって不安・不安定が生まれ、性格が歪み、場合によっては心身が病んでしまいます。

 

 世間的にすばらしい活躍をして名声を得、慈善事業などにも熱心な親御さんがお子さんの問題に悩むようになる原因は、「守る」前に「自分の望むように育てようとする」ことにあるケースが圧倒的に多いものです。

 たとえば、子供に自分の持っている長所がなく、自分の持っている欠点がある場合、まず欠点をなおさせようとすると、それは弱点を「責める」ことになります。親がそう思わなくとも子供はそう受け取ります。あるいは自分のできなかったことをさせようとすると、できていない親を見ていながらさせられる子供にとっては大きなストレスになります。子供は親の言葉を聞くよりも後姿を見て育つことを忘れてはなりません。



 数珠を手にする場合、一番大きな母球をつまんで持ち上げるのが作法です。

 それと同じく、何か秀でたものを誉め、それを伸ばすことを第一としたいものです。そのために、何としても守るのです。一人で生きられない子供は、守られていればこそまっすぐに育ち伸びられます。置かれた数珠が手に持たれるように、長所を認められ自分の力が増すと自然に他の部分も上へ引っぱられます。そうして、ものごとを行なうのが楽しく好きになればストレスは起こりません。

 ただし、欠点には知らんふりをするのではなく、欠点を自分で見つめるように指導しましょう。

 好きなことをしているうちに、自分の弱点がそれを邪魔していることに気づくはずです。そこで適切な指導を行なえば、必ず自分で克服しようとします。「責められる」のと「克服しようとする」のでは天と地との違いになりはしないでしょうか。



 そうして、好きなことをやって伸び伸びと成長しながら徐々になすべきことができるような人間になれば、親の務めはまっとうされたことになります。

 まちがっても、親が「好きなこと」をし、子供に「なすべきこと」をさせようとしてはなりません。それは子供を潰す道だからです。





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2005
08.28

五力 19 ―信力 4 正しい信心―

 考えるだけの人は、うまく行っても計算通りの人生になるだけです。
 信じる人は希望通りの人生になるでしょう。
 理論的な思考には自分の限界という意識がともない、希望は限界(と思うもの)を超えて行けるからです。
 信じるといっても、特定の仏神を拝むということだけではありません。
 心が仏神の清らかさへ向いて行動すれば信仰ですが、行動が道に反するならば、形だけ手を合わせても袈裟衣をまとっても信仰にはなりません。
 ただし、道に反する行動をやらかしてしまっても、真に懺悔すればその瞬間から先は信仰です。
 せっかくの善い計画も、思っているだけでは実現はほど遠いものです。
 思って願えば実現はやや早くなり、至心に願えばもっと早くなります。
 深い祈りが加われば、エンジンにターボがかかったようになりましょう。

 信心にも男女で微妙な違いがあるものです。
 女性は、すなおに精進へ向かい、苦を脱する道に長けています。
 子を産み育む性として「投げ出さない」という長所を持っているからでしょう。
 一方、男性は忍辱(ニンニク…堪え忍ぶこと)に強く、納得を得る道に長けています。
 家を護る性として「責任を果たす」という長所を持っているからでしょう。
 苦を抜く精進と彼岸へ渡る忍辱とを兼ね備えれば、鬼に金棒です。

 さて、智慧とは、畢竟、六根(ロッコン…眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識)という道具の正しい使い方を知ることです。
 眼で何を見るか、すでにそこからいのちのはたらきに選択が開始されています。
 たとえば夜間泥棒をしようとしているなら、人の気配を気にすることでしょうし、澄んだ心で散歩をしていれば、玲瓏たる月光を浴びる景色に一枚の絵を見るかも知れません。
 眼に映るものは、すでに自分の心が決めているのです。
 見えるものが異なればそこに感じるものも異なり、行為も異なります。 
 そして、「見て、感じて、行なった」という一連のできごとはすべて七番目の「意識できないほど深い意識」へ蓄えられ、今度は、蓄えられたものが無意識のはたらきとして見るものを選ばせます。
 泥棒を重ねている人は、知らぬ間に人目を気にし、心の澄んだ人は、どこにいても美しい絵を見ることができるようになることでしょう。

 このように六根のはたらきと七番目の意識とは「ニワトリと卵」のような関係にありますが、たとえば「人目を気にする自分」がいやだ、もう生き方を変えたいと考えても、考えるだけでは七番目の意識にある「歴史」はどうにもなりません。
 心から因縁解脱を願うことです。願えば方法を知りたくなります。
 その方法こそがみ仏の教えです。
 運命の舵を望む方向へと切りたいならば、方法を信じ、行なうことです。
 
 ただし、方法の説かれている経典は誰にでも使え、使う人によって人を傷つける鋭利な刃物にもなり、心の魔を断つ不動明王の剣にもなるということを肝に銘じておかねばなりません。
 もしも「神を信じよ」と説かれてある経典を与えられ、与えた悪人が「我は神なり」と称し、経典通り信じたならばどうなりましょうか。
 凶器を与える教団か智慧の剣を与える教団かを見分けるのは簡単です。
 一つには、その人本人が心から願う正しい方向へと導き進む力をつけることを第一としているかどうか、もう一つは、出入りが自由であるかどうか、そして、説く人が広く社会と接しているかどうかです。
 信徒をがんじがらめにし、教祖は内部でだけ神のごとくに崇められ、批判する人へ凶暴な牙を剥いている教団ならば、表面をいかに美しく装っていてもそこはアリ地獄ではないかと疑わねばなりません。
 
 多くの人々が善き願いを抱いてこのポイントを忘れずに選び、信じ、すばらしい運命を創造されますよう祈ります。




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2005
08.27

原理主義という狂風

 8月22日、アメリカキリスト教福音派の右派を指導するパット・ロバートソン師(75歳)は、自分の宗教番組の中で、ベネズエラのチャベス大統領を暗殺すべきであると主張しました。
 理由は、チャベス大統領が「アメリカにとり極めて危険で、共産主義浸透とイスラム過激主義を助長している」というものです。
 イラク問題などによりブッシュの苦戦となった前回の大統領選挙で、彼の創始したキリスト教団体クリスチャン・コアリション(キリスト教徒連合)は選挙の中核となって動き、ブッシュ再選を助けました。

 世界第4位の石油輸出量を誇るベネズエラは、1980年代から90年代にかけて新自由主義グローバリゼーション(市場原理を最優先する経済の世界化)が進められてそれまでも顕著だった貧富の差は一挙に拡大し、多くの国民が生活苦におちいりました。
 98年、大統領に選ばれたチャベスは貧富の差の解消をはかり、5年後には満足な家すらも持てない庶民へ保健・医療活動を広げようと「居住区に入ろう(バリオ・アデントロ)」計画を進め、この2年間で5000カ所もの診療所を造りました。
「アメリカの裏庭」と言われ、ただただアメリカと一部特権階級のためにむさぼられていた国力を広く国民一般のものとし、行く行くは「南米諸国家共同体」を創ろうという動きすら始まりました。

 ホワイトハウスが沈黙を守る一方、チャベス大統領はこの発言に対して「この人物が誰かも知らない」とし、ことを荒立てようとはしません。

 24日、批判が相次いだためパット・ロバートソン師は謝罪しましたが、依然として
「米国によるチャベス暗殺計画が本当なら、われわれは実行すべきだ。戦争より安くつく」
「無実の傍観者の群れに車が突っ込もうとしているなら、ただ惨劇を待つことはできない。ドライバーの手からハンドルを奪い取らねばならない」
と述べています。
 ヒトラーやフセインのようになる前に暗殺すべきだというのです。
 自分たちの掲げる原理の旗を絶対的なものとして批判や反対を許さず、原理に従わぬものは悪であり、滅んで当然だという姿勢です。

 強者が弱者を抹殺しようとする、それはまさに弱肉強食の行き着く果て、獣の世界です。
 ここには人倫はありません。
 かつて中国で毛沢東が文化大革命を推進した時、権力者による原理主義のローラー作戦は中国人の人倫を破壊し尽くしました。
「革命」という錦の御旗に従うかどうかという物差し一つで人々は白か黒かに分けられ、従わないからといって子が親を、生徒が先生を、兄が妹を糾弾し町中をひきずりまわしました。
 原理主義が骨肉を争わせたのです。
 革命の狂風が止んだ後の調査によれば、親の生年月日を覚えている20歳以上の中国人の割合は約10パーセントという惨状になっていました。
 この資料を目にした時の衝撃は忘れられません。
 何という愚かさ、恐ろしさ、浅ましさ、悼ましさでありましょうか。

 これらのできごとは、決して他人ごとではありません。どこかの国でもよく似た風が吹き始めているではありませんか。




2005
08.26

背後霊のご加護

「背後霊っているんですか?」
 水子供養のために来山した若いご夫婦の質問です。どう思いますかと逆に質問をしてみたら、いるような気がしますとのこと。
 
 未来は私たちの前にあり、過去は後にあります。
 諸橋近代美術館で展示しているサルバドール・ダリの作品にそれを見事に描いた絵画があります。歩む男の前方には光が満ちあふれ蝶も舞っていますが、前へ進む速度と合わせるように背中は暗黒の過去へと引きちぎられ、未来と過去、明と暗の境目に一瞬危うく存在しているのが人間であることがよく解る秀作です。

 過去は自分がつくったものです。しかしさらにその後にある過去は自分にいのちをくれた人々のつくったものです。さらにその後には生命の発生以来の無数のいのちあるものたちの生き死にの歴史があります。
 私たちは生命の歴史を背負った存在なのです。
 私たちが今ここで生きているのは、生命がつながって来たからです。どこかで途切れていれば、今の自分は存在していません。
 それは、つながっている過去を背負っているのと同じであり、ご先祖様と自分はつながっていることが解ります。
 今はもういないけれども確かにつながっているご先祖様方、それが祖先霊(祖霊)、背後霊です。

 さて、そうすると、霊団となっている背後霊には善人だった霊も悪人だった霊もいるはずですが、いずれにしても背後霊は、ある時は守護し(守護霊)、ある時は指導し、またある時は支配しようとします。
 しかし、そのはたらきは、仮のものとしての縁でしかありません。いかなる霊団と関わりを持つか、霊団との関わりが何をもたらすかは、自分の心一つによります。
 もしも人を憎み殺したいと思えば、殺人者だった背後霊がそれに感応し「刺せ」とささやくかも知れません。
 もしも火事場を通りかかったら、火消しだった背後霊がそれに感応し「消せ」と背中を押すかも知れません。
 そこでどうするかを決めるのは自分です。
 決める瞬間、必ず善い方向、良い方向へと向かわせるものは真言です。魔ものとなった背後霊は光明真言でそのはたらきが浄化され、菩薩となった背後霊は光明真言でそのはたらきが倍加されます。

 いかなる場面で背後霊からいかなる影響を受けるか、いかなる力をもらうかは自分の生き方によります。
 仏壇もお墓も背後霊を正面にする場であり、供養によって悪しき祖霊は清められ、善き祖霊は力を増し、決心に感応した祖霊はいざという時に必ず救ってくれるものです。
 私たちの生き方は、未来を創ると同時に過去を動かし、それが未来を動かす力となることを忘れないようにしましょう。

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2005
08.25

お通夜あれこれ

 NHK『法句経』講座でのやりとりです。
 国際交流を兼ねたボランティア活動などを幅広く行っているKさんは、最近ブラジルの日系人に接すると「日本はこれで良いのかなあ」と思わされるケースがたくさんあるそうです。

 初めて来日した日系三世の人が、たまたまお通夜へ列席しとても驚きました。
 ブラジルの日系人社会では皆がしめやかに一夜を過ごすのに、日本では読経が終わるとすぐに酒盛りが始まり、死を悼むという雰囲気がほとんど感じられなかったからです。
 そこで、ある会合で一緒になった年配の日本人男性お二人へ尋ねました。
「日本のお通夜ってこういうものですか?
 なぜ、身近な人が亡くなったのにあんなに陽気にしていられるのでしょう?
 ブラジルではしんみり過ごすのですが」
 たまたまそばにいたKさんは、どう答えるのだろうと耳をそばだてました。
「人は必ず死ぬものですから、泣いていてもしようがありません。
 悲しんでいるよりも元気にしている姿を見せた方が、先に逝った人も安心するでしょうし………」
 そうなんですかといぶかしげなブラジル人へ、この講座で学んだお通夜の意義を話してあげねばと思い、皆が陽気にしているばかりではありませんよと喉まで出かかりましたが、当事者でもないし役員を務めている年配者へ恥をかかせる懼れもあって口をつぐんだそうです。

 本来の意義からすれば通夜は「夜を通す」ですから、夜通し読経などを行なって亡き人を慰め護るものです。
 近親者が交代で伴夜(バンヤ…一夜を伴にすること)あるいは夜伽(ヨトギ…夜間眠らないで附きそうこと)と称して灯明と線香を絶やさないのは、葬式までの間、魔ものに障られたりしないようにという配慮によります。
 そもそも「通夜ぶるまい」と称する飲食は一緒に徹夜をする人たちへの夜食だったのでしょう。
 それが、だんだんに葬式へ出られない弔問客へ報いるという性格が強くなり、夜通しは大変だということから「半通夜」という1~2時間で行なうものが一般的になりました。

 亡くなって間もない不安定な状態の御霊を護ってくださるのは十三仏の一番手、不動明王です。
 枕経をできるだけ早く始めねばならないのは、魔ものが来る前に不動明王の法を結んでお護りいただくためです。
 初七日が過ぎれば釈迦如来、四十九日は薬師如来、百カ日は観音菩薩と、それぞれのみ仏方がお護りくださるからこそ法要は大切なのであり、「あの世の安心」が約束されます。十三仏はダテにおられるのではありません。

 さて、Kさんは、日本人が皆陽気な通夜を送るのではありません、あなた方の祖父祖母やご先祖様と同じように慎み深い人たちもいますよと言いたかったようですが、こうした面についてはいろいろと考えさせられます。
 まず一つには、通夜本来の意義がどれだけ知られているか、忘れられていはしまいかという問題です。
 また、通夜が葬式代わりになり遺族が来客の対応に追われるという問題もあります。
 そして、そうした状況や一部僧侶の怠慢によって通夜が形式化・形骸化しているという面も見逃せません。
 雰囲気について言えば、「故人なりに」「その家・家族なりに」が理想です。
 古来、人の死に直面した時、泣いて過ごす人々も文明も、むしろ歌や踊りで陽気に過ごそうとする人々も文明もありました。
 確かに、以前の日本人はどちらかと言えば静かに送るやり方でしたが、今は来客の手前、そうしてばかりもいられず、皆さん気丈にあるいは強いて明るくふるまわれる場合が多いようです。
 どちらがどうと言うよりも、「故人はあまり人と接するのが得意じゃなかったし、寡黙な人だったから」なるべく静かに送り出してやりたいならそうすれば良いし、「故人は陽気な人で、俺が死んでもメソメソするなよと言っていたから」あまりしんみりしているのは故人が喜ばないと思うならそれなりの過ごし方をすれば良いのです。
 最近は、こうした家族の気持を大切にしようと家族や近親者だけでお通夜をする方々が増えています。

 他を見て己を考えるKさんの姿勢は、同じ講座に参加している方々に問題意識を起こさせました。
 そして、それぞれが体験や思いを述べられ、談論風発となりました。嬉しいことです。
 いずれ、僧侶としては、きっちりと法を結び、通夜説法を欠かさずやるのみです。
 通夜を形骸化させるわけには行きません。




2005
08.23

政界のシヴァ神

 小泉政権の誕生に際して、彼はシヴァ神的なものを持っていると直感し、要注意と書きました。

 シヴァ神とは、主にインドで流布しているヒンズー教の神です。
 三神一体の教義によれば、宇宙の始まりである「生」はブラフマン、存続である「住」はヴィシュヌ、そして破壊である「滅」はシヴァ神が司ります。
 シヴァとはそもそも吉祥を意味する言葉でしたが、暴風神ルドラに発するシヴァ神は吉凶の二つをもたらすものとされ、「生産と破壊」「愛欲と禁欲」「憤怒と恩寵」など相反するものに通じる「力」への信仰を生みました。
 槍や弓や斧や三叉の戟をふるって悪魔を滅ぼす一方で、世界が週末を迎える時にはあらゆるものを破壊し、掃蕩してしまいます。
 首にはドクロをかけ、栖は火葬場、その灰を身体に塗って屍体の上で踊るとされています。
 信者たちは、灰をかぶり、牛の鳴き声をまねてシヴァ神を礼賛し、白昼に人前で高いびきをかいて寝たりして、嘲笑・侮蔑を受けることを好みます。
 道徳の退廃からこの世を救うために現れるヴィシュヌ神や最高神ブラフマンを信仰する人々とは離れて山中に住み、常軌を逸した行動を続けます。

 小泉首相が権力という力を白刃のごとくにふりかざし、良識も連帯も伝統も歴史もすべて破壊しながら原理の即刻実現をめざす姿は、まさにシヴァ神が憑いたかのようです。

 ある炯眼の政治家は、以下の通り、この暴走の背景と問題点を的確に指摘しておられます。

「郵政法案と人権擁護法案は表裏一体、公明党は郵政法案成立に協力し、自民党は人権擁護法案成立に協力する、このふたつの法案は『セット』と申しても良いものです。
 性急で強引な進め方も双子のように似ています。
 ひとつはアメリカの注文、ひとつは公明党の注文、いずれも原案通りに進めることが注文先の希望と利益になることですから、修正・変更には応じず、内容の吟味や議論の打ち切りを行い、何が何でも可決を目指そうとする姿勢に納得が出来ます。
 しかし郵政法案に関して自民党内で衆議院において大量51名の法案内容の慎重審議を求める議員が出て、僅か5票差での通過という事態になり、参院での審議を前に人権擁護法案の国会提出は更なる波乱要因となることから今国会提出は見送られました。

『改革』『人権』いずれも大切なことでありますが、看板や字面よりも重要なのは『法案の内容』です。
 郵政法案も、人権擁護法案も、内容についての危険性や問題点について吟味し、国民の不利益にならないものにしようとするための議論そのものを否定・封殺する現在の状況に、恐怖に近い危機感を抱いています。
 議論を否定しては民主主義とは言えません」


 権力者が声高に叫び出し、世論が一方へ傾き出したなら要注意です。
 力の象徴シヴァ神は上九一色村でオウム真理教をも導いていたことを忘れるわけには行きません。




2005
08.22

呼吸のありがたさ

 私たちが生きている証拠と言えば呼吸です。
 息をしていることは、古今東西を問わず生の証でした。
 息は「生き」であり、同時に「活き」でもあります。
 しかも、息の様子は心をも左右します。
 釈尊は息の上がるような、あるいは息も絶え絶えになるような難行苦行を重ねた末、それらとは正反対の息をゆったりとさせる瞑想へと転じ、ついに悟りを開かれました。
 釈尊の行なった呼吸法を安般守意(アンパンシュイ)と言い、安はサンスクリットのアーナで「入息」、般はアパーナで「出息」、守意はサチで守意を意味します。
 釈尊は、『法句経』において
「出息入息の念を、具(ツブサ)に満じ諦(アキラカ)に思惟せよ」
と説き、その利益を縷々(ルル)明らかにされました。

 正しい呼吸法のもたらすもの、それは「自在」と「慈念」です。
 いのちをつなぐ呼吸に集中することによって執着心が消え、自然に生きている存在そのものになれます。
 それは人間の本性に立つことでもあり、私たちの心の最も奥底にあるみ仏の心が呼び覚まされます。

 出息は心身の汚れや疲れを捨てさせ、入息は清浄ないのちの本を取り入れさせます。
 吐く息は、悪しきものを遙かな山へ吹きやり、吸う息は遙かな峰の精気を丹田へもたらします。
「一息に お山の霊気 春浅し」
 呼吸法は菩薩様方によってさまざまに研究され、緊張と弛緩のバランスで調和をとる方法も行なわれています。
 無意識の呼吸(主として眠らない脳幹の仕事)を意識と関係がある大脳皮質を使って行なうことにより生ずる緊張だけに走ると疲労します。
 強く行なう出息と自然に招く入息でバランスをとるのです。
 呼吸へ感謝し、大切にしましょう。 




2005
08.21

王とは

 お大師様は、

「『王』とは主なり。
 衆庶(シュショ)の尊重する、
 これを謂ひて王となす」

と説かれました。
 王とは一国のあるじです。
 それは人々がこぞって敬い重んじるような人でなければなりません。
 王たるの資格の第一は、いかなる人物であるかという人間性にあり、ふさわしいかどうかは、ここが問われます。

 また、お大師様は同じ教えの中で、

「有情(ウジョウ)世間及び器(キ)世間を合して名づけて国となす。
 般若(ハンニャ)はよくこの二世間を護りて灾(サイ)を攘(ハラ)ひ、福を招く、故に護国と名づく」

と記されました。
 生きとし生けるものすべてと、それがよりどころとする自然や環境、この二つを合わせて国といいます。
 智慧は両方を護って災いを払い、福を招きます。
 つまり、智慧によってあまねくすべての人々に安心と幸せを与えるだけでなく、人間以外の生きものたちも、そして自然環境もみな無事で活き活きした状態におくこと、これが国を護るということです。

 王にふさわしい人物の智徳の光があまねく行き渡ってもらすところがない国であるよう、お大師様は指導者たちを導かれました。
 私たちはどういう視点で現代の王である政治家や首相を選ぶべきか、誰がふさわしいか、よく考えてみましょう。




2005
08.20

問いと救い

 人は問いを発します。
 答が思い浮かぶ場合もあり、分らずにどんどん内省を深めたり聖者の言葉を研究したりして探し続ける場合もあります。
 いずれにしても「なぜ?」は人間が人間である証しであり、誠実さの土台でもあります。
 ただ、問題は、答の見つからない問いをも人は発することができるということです。
 たとえば、人を殴れば殴り返されるのは当然ですが、見知らぬ人に突然殴られた時、その人と自分との関係がまったくない場合、なぜ〈自分が〉殴られたのかという理由は判りません。

 釈尊が、
「原因には必ず結果が伴い、結果には必ず原因がある。
 これは真理である」
と説かれたのは、「因果関係は必ず証明できる」「因果関係の糸は必ず見つかる」という問題とは別です。
 説法の内容が科学的事実であるかどうかをいくら考えてもほとんど意味がありません。
 それは、人間は、脳の構造上、1000キロメートルを走り得る車なのにガソリンは200キロメートル分しか与えられていない不完全な存在であるからです。

 これまで2500年にもわたってみ仏の説法が人を救って来たのは、一つには、常にとらわれている「自分」を離れた視点に立つことができ、一つには人として本来持っている「善」へ向かう力を与えるからです。
 先ほどの例をみるならば、因果応報の理に立った「なぜ?」は、やがて、人そのもののありようを考える視点に立たせ、人すべてが持つ哀しさに気づかせてくれるかも知れません。
 あるいは、傷を受けた辛さ・怒り・悲しさが暴力の恐ろしさを実感させ?自分は決して暴力を振るうまい?と決心させるかも知れません。

 み仏の説かれた教えは、科学的事実として理解できるから真理なのではなく、救いという証しがそれを真理であると証明しています。
 問わずにいられない人間、与えられている救い───。
 これから更まる秋の夜長に沈思黙考してはいかがでしょうか。




2005
08.18

人望と人気

 人望とは、「ああなりたいと望まれるような人格」で、尊敬と信頼の対象です。
 人気とは、「ワクワクとさせるような人格」で、おもしろさと独自性を持っています。

 人望のある人は、身近な人ほど尊敬を深くし、お線香の香りのように徳の力が周囲へ及びます。
 その徳は時と共に輝きを増し、受けた尊敬と信頼は死後ですら消えません。
 人気のある人は、人格の実態を知らぬ遠い人の関心を集め、花火のように一時は世間にもてはやされても、すぐに他の人にとって代わられます。
 花火の後は元の闇に戻るだけで、人々はすぐに別な花火を待ちます。

 人望のある人は、たとえ人気がなくとも堂々と淡々と立派にことを成し遂げます。
 人気はあっても人望のない人は、より刺激的であろうと四苦八苦し、周囲との軋轢から逃れられません。

 政治と芸能は役割が違います。
 人は一人で生きることすら容易ではありません。
 まして皆が共に安心でより活き活きと生きられる環境を創ることは至難のわざです。
 人々を動かす政治家には、何よりも高い人格と識見が求められるのは当然です。
 その資格のある人の周囲には「この人のためなら」とおのずから人々が集まり、団結し、世を動かす力となります。
 芸能は、世知辛い世間を生き抜く人々につかの間の解放を与え、生きる力を回復させます。
 一瞬、魂を揺り動かし、疲れや哀しみや怒りなどを忘れさせるのが仕事であり、後にしみじみほのぼのとしたものを残せれば一流です。
 己の技を磨くことこそが芸能人のいのちであり、求められるのが独自性である以上、孤独は当然です。

 人望と人気をかね具えていれば政治家としても芸能人としても超一流でしょうが、往々にして、人気にウェイトのかかった政治家が国を危うくし、人望にウェイトのかかった芸能人は大飛躍のできないものです。

「人望」と「人気」をキーワードにして、同じように支持率の高かったかつての中曽根康弘・後藤田正晴チームと、かつての小泉純一郎・田中真紀子チームとを比べてみましょう。
 中曽根首相の哲学及び業績と、小泉首相の哲学及び業績とを比べてみましょう。
 そして、マスコミの注目度というまやかしに惑わされず、単純なキャッチフレーズに思考停止させられず、今回の総選挙に立候補している人たちが政治家としてどうなのかを、私たち一人一人が自分の判断力でしっかりと見分けたいものです。
 近頃は政策・マニフェストといった言葉が踊っていますが、そんなものは一夜にして変わります。
 変わらないのは人間性です。
 政治の究極は人そのものであること、指導者の人間性が国を左右することを忘れずに選択したいものです。




2005
08.17

お墓と仏壇との関係はどうなっているんですか?

 お墓についての疑問集の最後に、仏壇についても、以前公開した文章を転記し基本的なことを記しておきます。

 仏壇はお寺のミニチュア版です。
 それは、古い時代の仏壇には三角の屋根がついており、正にお寺そのものの形をしていたことからも判ります。
 今日一般的になっている箱形の仏壇も、正式な形をふまえたものは中に屋根のような形の部分があり、ご本尊様を安置する一番上の台はまさに須弥壇(シュミダン…寺院の正面にある大きな壇)であって、お寺と何ら変わりありません。
 つまり、仏壇の意義は、そこにご本尊様がおられ、法と教えがあり、それによって御霊も生者も共に成仏への道を歩む場であることです。

 かつて、お寺には寺子屋がありました。
 文化年間(1804年~1818年)には江戸だけで1200~1300軒もの寺子屋があったとされ、そこで習う「読み書きそろばん」と僧侶の指導が教育の基礎であり、同時に社会人となるための基盤づくりともなっていました。
 もちろん、寺院ですから、子供たちは心が浄められみ仏も御霊も身近な存在だったことでしょう。
 江戸時代の識字率は世界最高だったというのも頷けます。
 私たちが仏壇の前に座るのは寺子屋にいるのと同じだとも言えましょう。

 さて、そこで学ぶものは何でしょうか。
 それは、何はさておいても「六波羅蜜(ロッパラミツ)」であり、そのためにそ「六種供養」が行われます。
 水をお供えしては「布施」を念じましょう。
 手へ塗香を塗っては「持戒」を念じましょう。
 花の供養では「忍辱」を念じましょう。
 お線香を立てては「精進」を念じましょう。
 ご供物をお供えしては「禅定」を念じましょう。
 灯明に明かりを灯せば「智慧」を念じましょう。
 こうして、日々のご供養がそのまま供養をする人自身の行になります。
 一心に念じていれば、凡夫の身・口・意がみ仏の身・口・意と一致し、迷いの三業(サンゴウ)が如来の三密(サンミツ)となります。
 つまり、仏壇の前は、この身このままでみ仏の世界へ入るための場です。

 仏壇の意義を活かすには用意した仏壇をどうすれば良いのでしょうか。
 仏壇は小さなお寺ですから、何よりも先にご本尊様をお祀りすることです。
 ご本尊様のおられないお寺はありません。
 ですから、ただ位牌を置くのは謬りです。
 ご本尊様がおられてこそ、手を合わせる私たちも位牌をよりしろとする御霊もお救いいただけるのです。
 こうした本義からすれば、当然、位牌がなくご本尊様だけがおられる仏壇はあってしかるべきです。
「お地蔵様が好きだなあ。ちゃんとご供養して手を合わせたいなあ。お経も読みたいなあ」「自分はなぜかお不動様にお護りいただいているような気がするから、お不動様をお祀りしたい」などと思えば、仏壇を用意すれば良いのです。

 また、「姓の異なる位牌を置くと家庭が乱れる」といった話がおかしいこともすぐ分かります。
 お慈悲の深いご本尊様が「お前は導いてあげよう」「君は嫌だよ」などとわけへだてすることがあり得ましょうか。
 せっかくみ仏がおられるお寺なのに、人間の好き嫌いや都合などを主とするのは愚かしいことです。
 供養とはわけへだてなく縁に応じて互いのためになろうとする慈悲行である以上、万霊供養が根本的な形であって、もしも代々の御霊のみを祀るならば、ご本尊様にお導きいただけないだけでなく、そうした狭い了見はそれこそ一家一族の繁栄の障害になり、仏壇は空虚な死後の家でしかなくなってしまいます。
 御霊は成仏できず、一家の人々もお護りいただけません。

 こうして、お墓、仏壇、寺子屋、お寺はつながっています。生きている間も死後も魂のよりどころとなるかけがえのないものを、大切に護りたいものです。




2005
08.17

御霊はいつもお墓におられるのでしょうか?

 あと二回、お墓についての基本的疑問について記します。
 この文章も、以前公開したものに若干の手を加えたものです。

 以前この欄でもとりあげた「千の風」がかなり話題になっているらしく、当山にも「千の風」と記したお墓が建ち、それを目にした方から、素朴でもっともなご質問をいただきました。
「魂が風になって自由にしているのなら、お墓にはいないんでしょうか。
 そうだとすると、お墓で手を合わせるのはどういうことになるんでしょう」
 お骨のある所は御霊の拠り所ですから、そこに弔われている御霊だけでなく、一族の御霊や友人知人の御霊はもちろん、ペットや怨霊などもやってきます。
 御霊は肉体を離れており私たちの考える物質的な法則にとらわれないので、自由自在に動いています。

 この春、関東地方へ就職したSさんの宿舎のすぐそばにこんもりした林があり、武士の亡霊や上半身だけの幽霊が出るといいます。
 江戸時代の昔、そのあたりは処刑場でした。供養されないで野ざらしになったお骨が地中に残り、成仏できないでいる御霊が彷徨っておられるのでしょうか。
 芭蕉は臨終にあたり「旅に病んで夢は枯れ野をかけ廻る」と詠みました。
 きっと、彼の死後、御霊は生前行きたくても行けなかった場所やもう一度会いたかった人のそばなどへと彷徨っていることでしょう。
 生きている人が夢を見るのと同じく、お骨は拠り所で供養されていても、御霊は行きたい所へ自由自在に飛んで行きます。
 太平洋戦争の激戦地には、まだまだ戦没者の遺骨があるいは雑草に埋もれ、あるいは藻くずにからまれたままになっています。
 望郷の念を抱いたまま無念の死を遂げた戦士の御霊は、故郷に帰り学校に帰り家族のもとへ帰り、あるいは靖国神社へ帰って来られることもあるでしょう。
 しかし、拠り所は以前として南方のジャングルや北方のシベリヤになどの異国にあり、癒されぬ思いが残っているはずです。
 戦没者の御霊への供養を欠かさないようにしたいものです。
 そして、安心していただけるような日本にせねばなりません。

 さて、御霊が自由に動けるのならばお墓は要らないかといえば、そうではありません。
 かけがえのない拠り所だからです。御霊は純粋な心です。基地があってこその心の自由であり、それは、家のない路上生活者や車を塒(ネグラ)にしている人たちが最高に自由を満喫しているといえるかどうかを考えればすぐに解ります。

 お墓は御霊があの世で安らげる大切な家なのです。




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2005
08.17

お墓の形や家紋などによって幸不幸が決まりますか?

 お墓に関する問題についてあと少し述べておきます。
 これも以前に書いたものですが、脅しのような話がまかり通っていることは耐え難く、より多くの方々に道理をお考えいただきたいと願い再記しました。

 最近は墓相についての関心が高まっているらしく、「~はいけないと聞きましたが、どうなのでしょうか?」という質問がたびたびあります。
 石の色がどうこう、向きがどうこう、家紋がどうこう、文字がどうこう、二家族が入ればどうこう、自然石はどうこう、皆さんの疑問と不安はキリがありません。
 タブーだらけです。
 人を不安がらせる人たちはいても真実・根本・道理を説く人はあまりおられないのかなあと思えるほどです。
 もしもお墓の良し悪しというものがあるとすれば、それと実生活とどういう関係があるのでしょうか?
 
 問題を解くために、よく考えてしっかりした(お金がかかっているかどうかということではありません)お墓を造った場合と、いい加減な気持で造った場合とでは心の様子がどうなっているかということを考えてみましょう。
 み仏とご先祖様、それに子々孫々に深く関係する肝心なものごとをいい加減に行うようでは、日々の生き方は推して知るべしです。
 人生行路をまっとうに歩むことはなかなか困難ではないでしょうか。
 損得や見栄を考えても魂の尊さを考えない姿勢では、自分の努力の範囲でしかものごとをなせません。
 ものごとは、それにあと二つ加わることによってこそ「最善を尽くした」と言えます。
 それは、周囲の縁の力と、仏神のご加護です。
 我欲ではなく尊いものを重んじている人は、その人の魂に共鳴する魂を持った人との縁ができ、場合によっては自分の力以上の力を授かったりします。
 仏神のご加護については言うまでもありません。この二つは人知を超えており、その力によって「望外な」成果が得られることすらあります。自分一人の智恵の範囲などはたかが知れていることを謙虚に見すえたいものです。
 
 ご加護の問題も重要です。
 仏神はすべてを観ておられます。
 御霊の安らかならんことを心から希い、み仏のご加護をいただき教えに学ぶ場でもあるお墓をどういう気持で建てるか───。
 仏神をも御霊をもごまかせません。
 もちろん、自分をもごまかせません。
 もしも、しっかりした考えで建てれば、仏神と御霊はは必ずやその心にふさわしいものをくださることでしょう。
 
 御霊の立場からも考えてみましょう。
 もしも、子孫がいいかげんな気持で建てたならどうでしょうか。
 自分はせっかく子孫を守ってやりたいと思っているのに、子孫が恩や人の道を忘れたような態度であれば、御霊は悲しみ、場合によっては愚かさを思い知らせるような「お知らせ」をくださるかも知れません。
 苦しむのは御霊だけではないのです。
 お墓は、生と死とが向き合うかけがえのない場です。
 子孫にとっては、自分の魂と身体に流れる赤い血をくださった大恩人の魂が安らぐ場です。
 タブーを云々する前に、ここをしっかり押さえておきましょう。

 さて、良いお墓かそうでないかを分けるとされている色や向きや家紋などですが、これらについても道理をもって考えてみましょう。
 たとえば材質や色です。
 昔は世界中から石が運ばれるなどということは考えられなかったので、身近にある物の使い方を考えて「この方が良い。これは要注意だ」などと言いました。
 黒はいけない、自然石はいけない、という時代もありました。
 今はどうでしょう。
 中国やインドやヨーロッパなど、世界中のありとあらゆる石が材料の対象として研究され、用いられるようになりました。
 特に脆いものやあまりにふさわしくないものでなければ、感性で種類を選んで問題がないのは当然です。

 形もまた、本来の目的にかなったものであれば、後は感性次第です。
 伝統を大切にしたいと考えられる方は信頼できるお寺や業者へ相談すれば良いし、墓相をいろいろ研究しないと納得できないという方は研究すれば良いのであって、「こうでないと不幸になる」と一律に断ずべきではありません。

 向きもそうです。
 確かに家相の判断には意味がありますが、マンションの場合はどうなりましょうか。
 たとえば仏壇を置く場合、円柱形のマンションの住人に「この向きでなければ」と言ってもしょうがありません。
 やはり、根本を考えることです。ご本尊様と御霊をお祀りし、合掌するのに最も雰囲気の良い場所であること以上の条件はありません。
 磁石を手にしていたずらに吉凶ばかりを心配するよりも、自らと家族の心持がいかなるものであるかを省みることの方が何万倍も大切です。
 人としての姿勢がしっかりしていれば、向きがどうこうということを理由に見放す仏神はおられません。
 家紋や文字についてもそうです。
 家紋は武将の旗印のようなものです。
 あるいはオリンピックの表彰台にかかる国旗のようなものです。
 自分がある一族に連なってこそ今の自分がここにいられることのありがたさを目で確認できることが、その第一の意義です。
 適切な用いられ方であるならば、ありとあらゆる場合に用いて何の問題もありません。
 自分の家の仏壇におられるご本尊様がどなたであるか知らない方もかなりおられるように見受けられますが、「私の家はお大日様に守っていただいているんだ」「私の亡き母は阿弥陀様にお導きいただいているんだ」という風に知って信じている方は、そうでない方よりみ仏の世界に近いのは明らかです。
 家紋も同じです。
 知っていて、何かのおりに密かな誇りと責任を持って用いるならば、行動は、きっとそれに守られたものとなることでしょう。
 お墓参りをした時に〈我が家の家紋〉を目にして自分に連なる魂と血の連鎖をよりはっきりと感じることができるならば、そこに生まれる誇りや感謝は、きっと目に見えないところで我がまま気ままな心を抑えてくれるに違いありません。
 
 流布しているタブーを一つ一つとりあげればキリがありません。
 要は、道理と人の道を基準として判断することです。
 もしも判断がつかない場合は、ことの本質は供養法ですので、供養のプロである僧侶に相談されることをお勧めします。




2005
08.17

予言者?

 早朝の空気には冷気が含まれ、秋は深まりつつあります。
 突然発症し突然快癒した愚妻の大病から、早、一年が経とうとしていますが、未だに「もう大丈夫ですか?」「お変わりありませんか?」とお気遣いくださる方々がおられ、感謝に堪えません。
 この三百六十五日は当山を深化させました。
 皆様のお心により、み仏のご加護により、理想とする姿へと変貌しつつあります。
『守本尊道場』や『法楽の苑』などの姿形が変わっただけでなく、ご縁の方々が自発的に集う機会が増え、意欲ある若者が早朝からお経を誦み、汗を流すようになり、お礼参りの方も増えました。
 経典にある「威光増益(イコウゾウヤク)」が進んでいるのでしょう。ありがたいことです。

 さて、お盆供養会で雨はすぐに止むでしょうと話したことにつき、「あんなに降っていたのになぜ判ったんですか?」「そうすると来年も降るんでしょうか?」と忌憚のないご意見をいただきました。
 これまで何度も書いたように、私は超能力者でもなければ預言者でもありません。
 人間が天地自然の一部であり、天地自然はみ仏のお姿であり、人間はみ仏からいのちを分けいただいているみ仏の子であることがポイントです。
 法のご利益をいただいている時はそうした真実世界の住人になっているので、濡れながらも祈っておられた皆さんの様子を眼にして雨に含まれた意義が自然に感得でき、言葉になったのでしょう。
 別に雨を降らせたわけではなく、また必ず降るというものでもなく、「そうしたものだ」と言うしかありません。

 私たちは五感六根という鏡を縦横に駆使して周囲の世界をとらえ、反応し、忙しく生きています。
 いのちが燃えるという性質を持ち、人間に意欲がある以上当然です。
 しかし、たまには鏡を休ませて汚れを落すことも必要です。
 呼吸法や瞑想はその方法の一部であり、誰にでもできます。
 休ませている間も人間は生きています。そこで、鏡を休ませているはずの自分が必要に応じて鏡の性質を発揮できる瞬間があります。「感応」「感得」は、きっとそうした時に起きているのでしょう。
 いたずらに見える・聞こえる・感じるを言う霊能力者や占い師ではなく、霊性を健全に輝かせる真っ当な人間になれるよう、真剣に道を求める方々と共にこれからも学び実践して行きたいものです。




2005
08.16

お墓って本当に必要なんですか?

 今日で今年のお盆も終わります。
 御霊にお帰りいただく前に、御霊の家であるお墓の必要性について、以前ホームページへ掲載した文章をもって述べておきます。

 最近「ホームページを読んでお墓というものの考え方が変わりました」というご連絡があった一方で、墓石業者さんからは切実なご質問をいただきました。
「『何でこんな高価なものを造らなきゃならないんですか。
 お墓のない人は先祖供養はできないんですか?』と言う若い人もいます。
 せっかくご両親が早めにちゃんとしておこうと思っても、一緒に店へ来る若い人の考えがあやふやだと進まない場合があるんです。
 本当に皆さんお墓の意義をご存じありません。どうしたものでしょうか」

 建墓の目的は供養にあるのですから仏壇でそれがしっかりできれば良さそうですが、肉体の残滓が自然へ還り魂が転生するまでのより所となるお骨がいつまでも家内にあったのでは、御霊の決着がつきません。
 必ずしも独立したお墓でなくとも、やはりおさまるべき家としての何らかの場は必要です。
 最近は「あの世へ行ってもいろいろな方と知り合いになれた方が楽しいから」と共同墓を求める方も結構おられます。
 もしも、自己流のやり方や中途半端なやり方で済ませ、正しい教えと法によって御霊を成仏へとお導きできないでいると、そこに留まったままで念の切れていない御霊や、成仏できないでいる亡者や、通りすがりの浮遊霊などに憑かれたり障られたりして、想像もできないような事態に陥ったりする場合があります。
 プロの指導による正しい方法でお骨を埋葬ずることが一番です。

 近頃は、お墓を用意せずお骨をあちこちにまき散らすケースがありますが、決して誉められた供養法とは言えません。
 一つは、御霊のより所をなくしてしまい、御霊に真の安らぎを得ていただけないからです。
 また、それがないために守護霊のはたらきを弱めてしまう場合があります。
 私たちは時折誰かに見まもられているように感じることがあり、現世の人間に対する御霊の思いの強さは相当のものがあります。私たちがそれにお報いするには、安心して安らいでいただけるように最大の努力をしなければなりません。
 故人とゆかりのあった人が至心に『五種供養』などをするならば、こちら側の人の魂が故人の御霊にとっての守護霊になっているとも言えます。
 私たちは、意識するとしないとにかかわらず御霊の成仏を願うからこそ供養をするのであって、それは良き所へ転生するための大きな力ともなるのです。
 このように、死者の御霊と生者の魂が交感し合う重要な場であるお墓を軽んじたり、御霊のより所であるお骨を成仏の成否も判らぬままに捨て去ることが、姿形を真剣に考えて納得のできるお墓を造るよりも尊い行為であるはずはありません。

 お骨を撒き散らす弊害の二つ目としては、縁に学ぶ縁覚(エンガク)となる大事な機会を失い、周囲の人々へ失わせ、無明(ムミョウ)に支配されたレベルの合理性までで思考停止に陥る人間をつくってしまうからです。
 目で見、耳で聞くといった五感六根のはたらきで命を燃やしている私たちにとって、目に見えるものは最も心を動かす要素です。
「形ある物があってもなくても心さえあれば」と言うのは、やむを得ぬ場合の気持の持ちようであって、見えるものの大切さは、清潔な家に住む場合とゴミだらけの家に住む場合を想像すればすぐ判るのではないでしょうか。
 私たちの心は、目・耳・鼻・舌・触覚・表面の意識といったものだけでなく、さらに第七識としての蔵識・第八識としての伝識・第九識としてのみ仏の世界へ通じる意識・あるいはその奥にある無限の心のはたらきの統一体としての魂で生命を営んでいるのであることを忘れてはなりません。
 お墓で手を合わせるということは、目のはたらきを確実なきっかけとして、無意識のうちに深いレベルの心までを動かす尊い行為です。

 ここには、供養の根本が万霊供養であるという理の一面もあります。
 多くの人々が自由に供養できる場がなければ、幽明境を異にしても決して切れぬ縁をこちらから一方的に薄くしてしまうだけでなく、人々が教えに学び御霊と交感する中で第九識をはたらかせて無明を断つという大事な機会を失うことになってしまうではありませんか。

 生死を超え生死が交差する御霊の世界にこそ人間の尊厳の源があり、気楽さや便利さや思いつきや自己満足でなく、正しい教えと法をもって対応すべきです。




2005
08.16

地震について



 かなり強い地震でしたが、おかげさまで、当山は本堂も『法楽の苑』もまったく影響がありませんでした。
 いち早く本堂へ駆けつけてくださった方々やご心配をいただいた方々へ、心よりお礼申し上げます。




2005
08.16

お盆供養会と奉納剣

Category: 隠形流居合
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2005
08.16

お盆供養会と奉納剣

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2005
08.16

独裁者の出現・小泉内閣の危険性

 今年の敗戦の日は忘れられない一日になりました。
 ご供養のためにご縁のお宅へ向かう車中で、フレデリック・ディーリアスの『夏の歌』を耳にしました。
 イギリス出身の彼は、60歳の時、性感染症による全身麻痺を発し、3年後には失明しました。
 筆記者として雇われた青年エリック・フェンビィは、彼の口述によって五線紙に音符を書き込み、ディーリアス68歳にして名曲『夏の歌』は完成しました。

 私たちは夏というと生の饗宴をイメージしますが、盲目となった彼は、不思議な静謐をもって、揺らめくいのちの世界を表現しました。
 曙を感じさせ、世界の扉が開くような始まり。大空のような広がり、雲の流れとその下に広がる波のたゆたいを感じさせる音のうねり。
 そして夕焼け雲が消えて行くかのような終曲。
 涙が出そうになりました。
「戦地に散った英霊は、このような夏を知っておられただろうか………」

 お経が終わったら、お茶の用意をする横ですぐにカルタが始まりました。
「犬も歩けば棒に当たる」と聞いて真剣に札を追うのは、まだ幼稚園の男の子です。
 大人も勉強しながらやっていますと笑う若い夫婦は頼もしく、元気に手を伸ばす幼子は文字通り宝ものに思えました。
 続いてお訪ねしたお宅では、やはり就学前の女の子が何やら口ずさみます。
「『祇園精舎の鐘の声』なんかもやるんです。 
 テレビの子供向け日本語の番組に人気があるし、幼稚園なんかでもいろいろ考えているようですよ」
 日本語教育こそが教育の原点であるという認識が広まっているのでしょう。
 何と嬉しいことでしょうか。

 さて、夜を迎え、床へ就こうとしてテレビのニュース番組を見たばかりに、眠れぬ一夜となりました。
「足にゲートルを巻いたまま迎えたあの日はとても暑く、とにかく暑さが印象に残っています。
 こんな大雨の8月15日は珍しいのではないでしょうか」
 さっき、かなり遅れて到着したお宅でご当主からこう言われ、思わず「英霊の涙雨でなければ良いんですが」とつぶやいてしまったことが思い出されます。

 最新の調査によれば小泉内閣の支持率は約60パーセント。
 ほぼ内閣発足時の水準にまで急上昇しており、選挙は「改革を進めるのか、それとも止めるのか」という白黒選択の様相が強まったとのことです。
 選挙民が、独裁者の出現と権力者の非人間性を怖れなくなったら、その国は恐ろしいことになります。
 これまで何度か書きましたが、俳人渡辺白泉は、昭和14年に

「戦争が廊下の奥に 立ってゐた」


と詠みました。
「国威発揚」で国中が意気盛んだった頃、彼はすでに死に神をはっきりと観ていました。
 誰もが悲惨な死をイメージできぬうちに、日本はもう、後戻りできない一本道に踏み込んでいました。

 今の日本は明らかに異様です。
 権力者も選挙民も、何かに憑かれたように走り出しました。
 一切は白か黒、権力内は純化されて批判や意見は封殺され、権力主義に異を唱える政治家は政治生命を断たれようとしています。
 マスコミは、降って湧いたような視聴率かせぎの機会を最大限に利用しようとしています。
 一人の政治家の頭で膨張した理念が絶対神となって独裁色を強め、排他的な宗教団体が後押しをする。
 国民はこうした構造に危険を感じないのでしょうか。
 日本を覆う空気に色濃く滲んでいる狂気に気づかないのでしょうか。

 ある政治家は、最新の著書で「日本は、方向性を定め、国民が一丸となって進むと、驚くべき力量を発揮します」「日本人の思考は、単細胞的といってもいいのかもしれません」「直線思考といってもいいでしょう」と伸べ、これから先は日本人の長所と短所を冷静に見極めて政治を進める必要性があると指摘しています。
 私たち一人一人が冷静になれるかどうか。
 戦後60年、暦の一廻りと共に日本は重大な岐路に立ちました。




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2005
08.16

お盆供養会と奉納剣

 善男善女が祈るお盆供養会の終盤、スコールのような雨が降り始めました。修法を終えて申し上げました。
「この雨は、じきに止みますから、ご心配なさらずに用意したジュースなどをお飲みになってお待ちください。
 ただ今行なった施餓鬼(セガキ)の修法は、供養されず地獄に迷っている亡者たちを呼び、浄水を集め、塞がった喉を開いて飲食物を施す法なので雨が降るのは当然です。
 法が終わり、皆さんのお心は万霊へ届いたので雨もすぐにあがります」
 二張のテント内でイスに腰かけた方々は、跳ね上がるしぶきで足下どころかズボンやスカートまで濡れてお気の毒ですが、皆さん悠然と飲み物を手にされるので、安心して次の支度にかかりました。

 ほんの15分ほどでさしもの大雨もおさまり『法楽の苑』へ移動しました。もう、青空さえかいま見えます。
 この日のために親輪会の方々や居合の行者などが心をこめて整備した聖地は、雨のおかげで草も樹もいっそう生き生きし、寂しさや暗さはどこにもありません。
 たくさんの御霊が眼には見えないいのちとして一緒におられることが実感されるような、不思議な賑わいがあります。
 鮮やかな緑、セミ時雨の声、トンボたちの舞、そして十三仏の微笑み………。「癒し」という言葉に括りきれないありがたさです。

 早朝から準備した会場で奉納剣が始まりました。
 平和観音様の前で、隠形流居合の行者たちが不動明王のお力をいただく剣を振るい、世界の平和と有縁無縁の方々の除災招福を願うのです。
「臨・前!」「臨・兵・闘・者・皆・陳。烈・在・前!」
 約一時間、九字を切る裂帛(レッパク)の気合が聖地にこだまし、お集まりの皆さんは、輝く笑顔で聖地を後にされました。

 行者たちが汗もそのままに会場を片づけ、借りたイスをきれいに拭いて地域の集会所へお返しし、着替えを終えたちょうどその頃、一天にわかにかき曇り、またもや大雨となりました。
 まだ残っている夏の気配にはっきりと別れを告げるようなザーザーという音を耳にしながら、行者たちと一緒に食べたアイスクリームの味は、きっと忘れられないことでしょう。






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2005
08.11

親友の娘

 『小説宝石』8月号に高任和夫氏作「親友の娘」が掲載されました。
 商社マンとして釜の飯を同じくしている親友が交通事故で急逝し、たった独りで残された娘さんが立ち直るのを見とどけるという短編。
 主人公はおなじみの井狩です。
 内容は読んでからのお楽しみでなければなりませんから、あまり立ち入りません。
 ただ、僧侶としてこの傑作を一人でも多くの人に読んでいただきたいと願う理由だけは、書いておきます。

 彼女は聖書の一節にうたれて救われましたが、それは、神は試練を与えると共に救いの道を用意されているというものです。
 この教えは、み仏の教えとかなり重なっています。
 み仏は三百六十五日一刻の休みもなく私たちを守護しておられ、私たちは心を向けさえすればいつでもそれを感得することができます。
 追い風の時はその優しさを知り、向かい風の時はその厳しさを知ります。
 人生におけるいずれの場面にも、み仏のご加護の手は与えられており、人生という時間のすべては、人として真っ当に生きるために必要なものです。
 浅はかな「損得」や「都合」や「好悪」や「言いわけ」などによる取捨選択や区別を超えたところで、それは〈確かなこと〉なのです。

 好き嫌いをする子供に嫌いなものを食べるよう指導する親の情の深さを、頑是ない子供は知り得ません。
 与えられた脳細胞の二割も使えていない人間にとって、そうした限界があることは宿命であり、その厳粛な事実の前に謙虚にならねばなりません。
 大いなるものの前で裸になる「帰依(キエ)」こそが謙虚さの行き着く極みでありましょう。

 おそらくは作者自身が己を追いつめ、もしかすると、別な意味で仏神をも追いつめておられたであろう時期に成った「親友の娘」は、「救い」について真剣に考えておられるすべての方々に読んでいただきたい大傑作です。 




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2005
08.10

お精進と努力

 この時期は「お精進」という言葉が皆さんの身近なものになることでしょうから、精進と単なる努力との違いを記しておきます。
 
 まず、「精進」は真人間になるための六つの修行「六波羅密(ロッパラミツ)」の一つであることを考えてみましょう。
 この六つはバラバラなのではなく、あとの五つが兼ね備わってこそそれぞれの実践が可能になるのであり、一本の道を六つの方面から説いたものとも言えます。
 たとえば「精進」を実践しようとするならば、それは同時に「他のためになる…布施」でもなければならず、「人としての戒めを守る…持戒」でもなければならず、「真理を観る…智慧」でもなければなりません。
「我がためのみ」「人として恥ずかしい」「道理に反している」こんな行為であれば、どんなに熱心に努力しても「精進」ではないのです。
 ちなみに、六波羅密のうち残る二つは、「堪え忍ぶ…忍辱(ニンニク)」と「心身を整える…禅定(ゼンジョウ)」です。
 
 また、釈尊は、迷いを去って悟りへ入るには「善をなし、悪をなさず、自分を清めること」と説かれており、精進も、善悪を離れるものではありません。だから精進には四つの要素が必要です。

1 まだ実現されていない善きことは、それが得られるよう努力すること
2 今ある善きことは、それが大きく完全なものになるよう努力すること
3 まだ起こっていない悪しきことは、それが起こらないよう努力すること
4 今ある悪しきことは、それが減少し消滅するよう努力すること


 たとえば、家族へおいしいものを食べさせたいからといって、他人様の家へ忍びこんでは、善のために悪を発生させてしまいます。
 あるいは、悪しきことを見たからといってそれが再び起こらないようにと願うだけで、善きことが起こるよう願わなければ、恐怖心や猜疑心が容易に心のトゲとなってしまいます。
 善悪を見すえた不断の努力が精進です。
 
 精進は、お線香の心です。
 お線香を供える時は「線香のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん」と決心し、お線香の煙と香りにその心を乗せてご本尊様や御霊へお届けしたいものです。




2005
08.08

狼の眉毛

 杉浦日向子さんの『百物語』に「狼の眉毛の話」があります。

「人には騙され、女には侮られ、女房には軽んじられ、商いは損ばかり」という愚かな男が、ある日、女房に痛罵され、家を出ました。
 自分は何の役にも立たないのだから、せめて狼の餌になろうと狼の巣で寝ころび、食べられるのを待っていました。
 ところが、帰った狼は「臭い真人間など食べないから帰れ」と、とりあいません。
 そして、眉毛を一筋やるから、町の辻でそれをかざし、世の中をよく見て退屈しのぎをせよと追い返しました。
 しかたなく町へ戻った男が狼の言ったとおりにして眺めれば、どの人もこの人もみな化け物だらけです。
 そして、真人間は自分とコモを被った乞食だけであることを知りました。
「こんな世間では、出世出来なくても当たり前だ」
 そこへ、どこをほっつき歩いていたのかと悪態をつきながら女房がやってきます。
 もちろん本性は人間ではなく、鳥の化け物です。
 男は、こんなやつとはうまくやれなくても当たり前だと悟り、狼からもらった眉毛を乞食へ渡し、妻と連れだって家へ向かいました。

 作者は、他の物語と同じように「不思議ではあるけれど、あっても当たり前のできごと」といった筆致で十六コマを埋めています。しかし、その内容たるや驚嘆すべきものと言わざるをえません。

 釈尊は、ウサギであった前世に、聖者をもてなす供え物を準備できないので我が身を捧げようと火へ飛び込んだそうですが、いのちを捧げるのは布施の極みです。
 世間の役に立たない男がそれを為そうとしたことには、汲みつくせない意味合いが含まれています。

 狼が真人間は臭くて食えぬと言うのも逆説的です。
 真人間以外は、生肉を喰らい生き血をすする狼と同類なのでしょう。

 狼の眉毛が真人間と迷妄の闇に棲む人間とを見分けるという発想にも脱帽しました。
 狼は自分のいのちがかかっているし、自然の摂理に従って生きているので、いのちを養う餌とそうでないものとをきちっと見分けられますが、生きるという根源を忘れた人間や我がまま勝手な人間には、真人間とそうでない人間とを区別する能力がないということなのでしょう。

 そして、極めつきは、悟った男が黙って「穀潰し、能無し」とわめく女房の元へ帰る姿です。
 見た目は家を出た時とほとんど同じですが、心はまったく違うはずです。
 ただうなだれ自身が持てないダメ男ではなく、何を言われようと、どう罵られようと、〈真人間として生きられない〉妻や周囲の人々への〈諦めを伴った優しさを持っている真人間〉として生きて行くことででしょう。

 作者は、こう言いたかったのではないでしょうか。
「気づきにくいかも知れないけれども、こういう人って貴方のそばにもきっといるはずですよ」




2005
08.08

お墓を動かすと罰が当たりますか?

 県内外各地からお骨を持って来られる方が五月雨式に続いています。
 すべての方が事前に来山し、いろいろな事情を述べられます。
 最も多いパターンは、仕事などの関係上仙台市や富谷町や大和町などに落ちついた結果、遠方にあるお墓をそのままにしてはおけず移動するというものですが、寺院や親族とのトラブルが原因となるケースも決して少なくはありません。
 いずれにしても、御霊が一番安らかでおられ、実際に供養する方が清らかな心で手を合わせられることを第一にお考えいただきたいとお話し申し上げています。
 最近も「お骨を移動すると罰が当たる」と脅かされた方が人生相談に来られたので、この際、以前記した文章をもって、そのあたりの問題について述べておきます。

 雪深い他県にお墓があってなかなかご供養に行けない方が、五月(!)の雪解けを待って『法楽の苑』へお骨を移動することになりました。
 お骨を取り出しお墓を解体するに際してこれまでの旦那寺に法を解いてもらえないので、こちらから行くという段取りになりました。
 来山されるまでの間はいろいろ心配しておられたようですが、お骨の移動は、もちろん吉凶に結びつくことはありません。
 もしも宗派が変わっても、兄弟の家へ引っ越すようなものですから心配ご無用です。
 そもそも、宗派の一つだけが、同時にすべての人にとって最高であるなどということはあり得ません。
 長い仏教の歴史にあって、それぞれの時代の宗教的天才たちが、それぞれ異なった問題に苦しむ人々を救うために、膨大な教えの中から必要なものを選び出し(み仏に選んでいただいて)理解可能な形で説いたものが教典として残っているのです。
 それに、真理を体現しておられる法身仏から発せられている真理を未完成の人間が完全に表現することなど不可能であって、これからも人間の能力の向上にあいまって無数の教典が出現することでしょう。
 また、伝えられた教えを活かす方法も研究され続けることでしょう。
 お墓を移動する場合は、何よりも、建墓の本来の目的を考えて、より良い場所へ移さねばなりません。
 生きている人が不快な家に住みたくないのと同じで、御霊も、本尊のおられない、教えのない、生気のない、汚れた場所では喜ばれないでしょう。
 自分がそこを拠り所として心の底から安心できるかどうかよくよく考えることです。
 また、誰しも引っ越しにはなにがしかの苦痛を伴います。
 必ずより良い所へお移し申し上げますとの信念をもってやれば、御霊は癒され、その真心をきっとお喜びになられます。
 御霊の喜びこそが家運隆盛への追い風であることを忘れないようにしましょう。




2005
08.06

葉月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



身の程を知るや知らずや蟻の列



句作りも視野狭くなり梅雨の日々



紫陽花の中に溺れ如く佇つ



驟雨中相合傘となりにけり




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2005
08.06

8月の世間の動き

 今月(8月7日より9月6日まで)は、転覆・崩壊の危険性が大きくなります。天変地異に対しては屋根や地盤や土台や堤防などの確認点検を怠らず、生活上では自分の足下を見直し堅固にせねばなりません。

 大衆の乗った船が激流に流されようとする時、舵取りをする人は、あくまで高貴な精神を保つことが必要です。幕末の日本には「三舟」と称された勝海舟・山岡鐵舟・高橋泥舟が現れて国難を救いました。今の日本にも、そういったレベルの人物の登場が熱望されます。

 また、古い時代のできごとや、長期間日の目を見なかった証文が徐々に明らかになりますが、その時代の人々の心になって感じ、色眼鏡を通さず心眼で読むことが大切です。そうすれば父祖の努力や精神に対する感謝が、眠っていた力を呼び起こしてくれることでしょう。

 シロアリが土台をボロボロにしネズミが穀倉を食い荒らすがごとき崩れが生じ、伝統あるものが揺らぎ、跡取りの問題が発生します。その適任者は、大地に脚を踏みしめる人です。

 暗い夜道や見通しのきかない場所では警戒が必要です。霧への突入は、崖から落ちる危険性大です。

 旅行など集団での行動にあっては、孤立することを避け皆と手を携えて無事安全です。





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2005
08.06

8月の守本尊様は胎藏界大日如来様です

 今月(8月7日より9月6日まで)の守本尊様は大日如来(胎藏界)様です。







『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、お力をお与えくださいます。




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