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2005
09.30

【現代の偉人伝 第1話】 米を手放す人  

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。





米を手放す人   

                                           遠藤龍地(法楽寺) 



 托鉢を行とし、仏縁へいのちを託して歩いていた日、一本の電話が入った。

「元気?たまには音楽でも聴いて休んだら?」

 かつての同級生T君が、近所のホールで行われる演奏会の切符をくれるというのである。近所といっても彼の近くなので、行くとなるとガソリンの心配もせねばならない。なにしろあの頃は、ガソリンスタンドで500円しか入れてもらえない毎日だった。

 せっかくの誘いでもあり、T君の顔も見たいので、中学1年生の時に恩師からいただいた45回転のレコード盤でベートーベンの第五番を何度も何度も聴いた時代を思い出しながら、ハンドルを握った。

 

 演奏された曲目は覚えていない。帰りにお礼を言おうと立ち寄った時のできごとがあまりに強烈だったからである。

 

 彼は選挙に落選し、不遇をかこっていた。とりたてて裕福でもない一人の男が、「故郷を見捨ててはおけない」との思いでとうてい勝てないだろうと言われた戦いに立ち上がり、敗れ、質素な借家住まいをしていたのである。

 私は相当に貧困だが、彼もまた支援者に支えられて捲土重来を期す我慢の日々だった。収入は奥さんのはたらきのみと聞いていた。

 

 そんな彼が、帰りしな、持って行けよと米をたくさんくれた。そればかりか、野菜などの食べ物も後部座席いっぱいになるほど出してきた。なまじな量ではない。ほとんどありったけのものをくれたのではないかと思えた。

 これには心底驚いた。いよいよ困ると、米さえあれば「これで明日も生きられる」と思うようになるもので、彼にとっても家族にとっても米は安心の基でないはずはない。

 自分も困っている時に自分にとって最も大事なものを平然と手放す姿に、すっかり涙してしまった。

 もしも立場が反対だったらどうだろうと考えてみると、一段とうたれるものがあった。



 お布施を受ける左手は、米粒の重さも一円玉の重さも知っている。教えは「一粒も天地の恵み~、天地に感謝し~」と説き、一円玉の重さにも確かなものがある。

 私はあの時、彼の心境になることを目標の一つと定めた。

 いまだに、到達した覚えはない。











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2005
09.30

彼岸 ―あの世の友人―

 亡きE君のご遺族が遅い彼岸供養に来られました。
 もうすっかり肌寒くなり、青空にトンボが舞っています。
 今日は、若い行者S君と二人だけで行う初めての法要です。
「み仏に救われて行く身にあれば とこしえかけて安らかん」と唱え、須弥壇(シュミダン…ご本尊様のおられる正面の壇)へ安置したお位牌とその前に立つお塔婆へ目をやった時、絶句しそうになりました。
 あまりに〈彼の気配〉が濃かったからです。

 もう7・8年も前のことになりましょうか。
 当山で同期生の厄払いをすることになり、ご加持法を行った時、無心になったE君は法の動く通りに反応しました。
 必死に抵抗する人や試そうとする人や無関心な人もいる中で、彼の真っ白さは際だっていました。
 そんな彼が逝って、もうすぐ3年が過ぎようとしています。

 彼は、今日、明らかに守護しに来ていました。
 奥さん、娘さんたちとその伴侶たち、孫たち、前にぬかずいている宝もののご家族を守護し、当山を守護し、緊張し切っているS君を守護してくれていました。暖かい心は、生前と何ら変わっていません。

 釈尊は、「世界はいつも存在するか?」など十四種の問いへ黙して答えられませんでした。
 維摩(ユイマ)居士もまた、聖者たちとの問答の末、「絶対の境地についてどう考えるか?」という文殊菩薩の問いへ黙して答えられませんでした。
 皆さんからよく問われるのは、「あの世はあるかどうか?」「人は死んだらどうなるか?」などですが、その都度、その方に合わせて拙い答を申し上げています。
 聖者のような力があるならば無言で究極の答を発することができましょうが、愚かな身では、そうはゆきません。
 いずれにしても、何らかの答を口に出せるのはE君のような御霊のおかげであり、み仏のおかげです。
 E君ありがとう。真の友はいつまでも友ですね。




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2005
09.29

祈りは誰のために

 NHK講座で、とても困る隣人の話になりました。
 Xさんのご近所にいつも自分本位の人がいて皆さん眉をひそめておられますが、誰一人、「あなたのそういうところを直したらいかが?」と忠告できないそうです。
 Xさんも嫌な思いをさせられていて、勉強会で人の道を学べば学ぶほどその人が気になってしまうと言われます。
 かといって、おつきあいしないではいられない関係です。
「本当に困っています。どうすれば良いんでしょう?」

「その人のために祈ってはいかがですか」
 隣人が餓鬼界から抜け出られるよう、祈ることをお勧めしました。
 いかにも辛そうな顔で窮状を訴えていたXさんは一瞬驚きましたが、すでに祈りを実践しておられるので、ただちに理解されました。
「ああ、そうですね!祈れば自分が清められ、変わるので、同じ仕打ちを受けても辛さが違うはずですよね!」
「人は皆み仏の子として、心の深いところにある清浄なものは共通しています。
 あなたの祈りは、清浄なものの共振・共鳴を起こさせ、その方を含め、周囲の人々の心を動かしますから、今言われたとおりあなたの受け止め方が変わると同時に、周囲へも必ず良い影響を及ぼします。
 祈りましょう」

 夕刻、身内の頑固に悩むYさんが来山されました。
「家族なのに我がまま勝手なことをしてばかりいて、本当に困り果てました。
 もう、欲しいものはなにもかもくれてやって、無関係になりたいです。
 これまでどれほど泣かされたか判りません」
 やはり、祈ることをお勧めしました。
「えっ!………」
 Yさんは、大きな眼をいっそう丸くして言葉を失いました。
 それはそうでしょう。
 さんざん泣かされた人のためになぜ祈らねばならないのか―――。
 Yさんは〈被害者〉なのです。
 人から殴られてその相手の幸せを祈られる人は仏神でしょう。
 殴り返さないまでも、憎み恨むのは当然です。

 もちろん、相手が幸せになりますようにとただただ思えというわけではありません。
 祈るのは、相手人の持つ悪業の元を善きものへと転化させるためです。
 そうして相手が悪業から離れれば、それは相手のためであり、自分のためであり、ひいては人々のためになります。
 これが、「我も他もみ仏も根本は一つであり、その境地へ立つのが悪業をつくりつつ生きるこの世の苦を脱するものである」という教えと法の理です。
 この境地へ立って祈るのです。

 ただ漫然と人々のためにと言っても、ましてや悪人のためにと言っても、心は奥底からそのように動くことは困難です。
 むしろ、相手を憎んでいながら無理にそのように思おうとすれば、正直な人ほど自己欺瞞を感じたり葛藤が生まれたりして気持と思考と祈りは分裂し、結果的に闇は深くなります。
 表面だけ善人であれば満足な人々や、深い祈りを持たず皆で幸せにと頭で考えた理屈を訴えるだけの人々にひきずられれば、〈良い人〉や〈善い人〉は救われません。

 幾千年にもわたって祈りの法が探求され、伝えられてきたのには理由があります。
 明確なイメージを持って正しく祈れば、憎悪はいつしか哀憐に変わります。
 悪業を積む哀しい存在であるのは、相手も自分も同じなのです。

 また思い出しました。
「君看(ミ)ずや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」
 誰しも憂いを持ち、哀しみを抱き、どこかで耐えながら生きています。
 そうした生を重ねているうちに、眼には人間らしい色、み仏の子としての光が宿るようになります。

 Yさんは、泣き笑いの顔になられました。
「〈その時〉が来たなら、いつでもご連絡ください。
 祈りの方法をお伝えしますよ」
 その日が一日も早く来るよう祈ります。
 み仏のため、他のため、自分のために祈りつつ生きて行きたいものです。




2005
09.28

仙台ロータリークラブにて

 仙台稲門会の斎藤忠一氏がご紹介くださり、「ガンの渡と菩提心」というテーマで講話をさせていただきました。

 あの小さなガンたちが千?以上もの渡ができるのはV字編隊をつくるからであり、強い者が右側の一列を構成し、弱い者が左側の一列を構成すればこそ全体として雨風に負けぬ力を発揮すること、また、一羽残らず「群の心」に成りきる時に1+1が3にも5にもなり、『真の翼』という驚異的なものとなることなどをお話しました。

  

 一羽一羽が皆のために我がままを捨てるのは「自他の区別を離れた心」、お互いを思い仲間を見捨てないのは「無限の思いやり」、若鳥が訓練を重ねて未知の渡へ挑戦するのは「無限の向上心」、そして、全員がそれぞれの役割そのものになり切って異次元の存在『真の翼』となるのは「心のおさまり」です。

 これこそがお大師様の説かれる悟りを求める心菩提心(ボダイシン)に他なりません。

 

「自他の区別を離れた心」においては、ポトマック川で他人へ浮き輪を譲った男性、「無限の思いやり」では、ありがとうと親へ感謝しつつ逝った難病の女性、「無限の向上心」については蟻を眺め続けた熊谷守一画伯、「心のおさまり」については、敗戦の翌日に割腹した特攻隊隊長大西瀧次郎を紹介しましたが、未熟ゆえ、意を尽くせぬところがありました。



 斎藤忠一氏は、ご紹介くださる際に寺子屋建立運動について丁寧にご説明をされ、合掌する思いでおりました。

 お大師様の菩提心についてご紹介させていただいたことはまことにありがたく、法務の機会をお与えくださった相馬是文様、鈴木誠一様、そして斎藤忠一様へ心よりお礼申し上げます。




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2005
09.27

救われる先3 ―畜生界から脱するには―

 畜生界は、恩のない世界です。
 最も単純な構造をしている生きものの一種であるゾウリムシにとって、この世は黒か白かの世界だとされています。
 つまり、周囲の環境とは、食べ物とそうでないも物のどちらかでしかありません。
 食べ物なら捕ろうとする、それが日々の生命活動です。
 他の動物たちも基本は同じですが、やや高等なものになると、遊んだり、群れたりするようになり、渡り鳥などは老いも若きも強い者も弱い者も連れだって一つの大きな翼をつくり、暴風雨にも負けず長い旅をします。
 犬や猫になると人間の生活になじみ、教えられたことをやるようになったりもしますが、食べ物と住処を与えられているからといって恩を感じ、自ら恩返しをすることはありません。
「一宿一飯の恩義」とは無縁です。
「猫の手も借りたい」ほど忙しくても、猫は餌をねだることはあっても手を貸してくれることはないのです。

 人間は、人という文字に現れているとおり、支え合って生きる生きものです。と言うよりも、支え合わねば生きられない生きものです。
 誰かの「おかげ」なくしては一瞬たりとも生きられません。
 そして、人間にとっての「おかげ」は他の人間から与えられているだけでなく、動物も植物も空も大地も、そして地球も月も太陽も「おかげさま」と感謝する対象です。
 人間は唯一、恩を知る生きものです。
 
 しかし、私たちは、ともすると恩知らずになります。
 それは、人間はあらゆる生き物たちの要素を持っており、鳥のように一夫一婦であるかと思えば、虎のようにどう猛でもあり、犬のように従順でもありますが、ゾウリムシのように周囲のものを我がものとしたい慾が心の根底に潜んでいるからです。
 我がモノとするため、我が権力のため、我が快楽のために「おかげさま」を忘れ、畜生界に堕ちます。
 その結果、一時的に富裕になったり、権力者になったり、楽しい思いにふけったりはしても、畜生になり下がった歴史は消えません。
 いかなる富貴や名声も、品性や人間性の薄さは隠せないものです。
 他を喰いものにしている人たちの顔には甲羅のような硬さがあり、内からにじみ出る暖かさがなく、目の光はただ強いだけで、他の痛みや悲しみや辛さや寂しさを和らげる慈悲の光はありません。
 
 こうした人非人にならないためには、「おかげさま」の心を忘れず、自然であれ、ものであれ、生きものであれ、人であれ、周囲の縁に学ぶことが必要です。
「おかげさま」と生きていれば、辛い時も苦しい時も、周囲はすべて人間性を磨いてくれる宝の世界になります。
 以前もとりあげましたが、若くして難病で逝ったある女性は、両親へ「生んでくれてありがとう」と言って亡くなりました。
 病苦が女性の魂を観音様にまで磨き上げたのであろうと確信しています。<
 あらゆる縁が悟りへの導きとなるような人を「縁覚(エンガク)」といい、その世界が「縁覚界」です。

 ああ恩知らずになっているなあ、我がために人を裏切ったなあ、人様を喰いものにしたなあと省みて浅ましさに気づいたならば、合掌して「おかげさま」と口にしてみてください。
 守本尊様を供養し、懺悔しましょう。
 きっと、畜生界から縁覚界へ引き上げていただけることでしょう。




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2005
09.26

救われる道2 ―餓鬼界から脱するには―

 餓鬼界は、欲しい惜しいと貪ってやまない世界です。
 貧富のいずれにあっても陥りやすく、貧にあれば、当然生きるための水へ食料へとむしゃぶりつきます。富にあれば、より多くよりぜいたくなものをと望み、欲は果てしなく燃えさかります。
 今飲む水がなければ、「人生の意味とは?」と問う心の余裕はありませんし、ぜいたく品に意識を奪われていれば、「他のためを考えてこそ尊い人間です」という説法は耳に入りません。
 餓鬼のお腹は、いくらものを入れても満杯にならぬほど膨らんでおり、そのくせ咽は細く、なかなかものが通りません。お腹は、ものを集めるだけでは決して解消されない欲の底なしぶりを表わし、咽は、必要なものが入らない悲しみと、闇雲に集めたために入りにくくなる醜さを表わしているのでしょう。
 
 現在、地球上では8億人もの人々が食糧難に苦しみ、アジアやアフリカでは、農業・漁業・牧畜・狩猟など食物の生産にかかわる人々を主として11億人もの人々が1日1ドル以下の生活を強いられています。
 ここ半世紀近く一人あたりの食物摂取量が増加しているにもかかわらず、8億人以上もの人々が低栄養に悩み、サハラ以南のアフリカにあっては、何と一人あたりの食料生産量は下がり続けています。
 水道のない人は11億人、水不足の人は20億人、衛生設備のない人は26億人。1960年代の中国では4000万人、1980年代のエチオピアでは100万人、1990年代の北朝鮮では120万人が飢饉によって死亡したとされています。
 
 こういった現実がありながら、先進国では子供のうちから肥満が進み、ダイエットが流行し、作りすぎては値が下がるからと食料が廃棄され、富裕層が目のくらむような生活をしている様子は毎日テレビで報道され、視聴者は憧れをもって眺めています。

 貧困にあっては切迫が、富裕にあっては高慢が教えを遠ざけています。
 この餓鬼界から脱する先は、教えの道に学ぶゆとりと謙虚さのある世界です。
 それを声聞界(ショウモンカイ)と称します。
 釈尊の時代には文字がなく教えは聞くしかなかったので、人々は、聖者のもとを訪ね、迷いと苦しみを去ろうとしました。
 現代にあっては書物もインターネットも情報源であり、文字や映像から学ぶことができます。
 いずれ、知って学ばねば人の道をまっとうに歩むことはできません。

 もし〝ここが餓鬼界か〟と思ったならば、信仰するみ仏へ、とにかく声聞界へお導きいただくよう祈りましょう。
 み仏は不断に教えを説いておられます。
 漠然と「お救いください」だけではなく、救われる先のイメージをしっかり持って祈ることです。
 教えに耳を傾け、「そうだったのか」と真理・真実を知る喜びの世界をイメージしましょう。
 そして、供養し、祈願をかけましょう。
 必ずやみ仏の教えの光が心へ届き、苦の中にも心のゆとりが生まれ、貪る己を省みて浅ましいと思えることでしょう。




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2005
09.25

救われる道1 ―地獄界から脱するには―  

 もうすぐお彼岸が明けます。迷う私たちは、どこを目ざせば早く安心と活力に満ちたところへ行けるかを考えてみましょう。

 迷いの最も辛い場所は地獄界です。
 地獄は、深い霧の中にいるようで道が見つからず、どちらへ手を伸ばしても出口がなく、気持は乱れ、心は沈み、足下には暗い穴が待っている世界です。
 そんな場所へもお地蔵様やお不動様は必ず降りて来られ、手を引いてくださるのですが、いきなり如来様のおそばへと飛翔するわけではありません。無理な上昇は、深い海から急に海面へ浮かび上がろうとして潜水病を起こすような危険性があります。
 そうかといって、欲しい惜しいと貪るような餓鬼界へ行ったのでは、救われません。み仏は、なによりもまず開けた明るい場所へと連れて行ってくださいます。そこが天界です。
 
 天界は美しい光がふりそそぎ佳き香りや音楽に満ちた世界ですが、輪廻から完全に脱したわけではなく、天に住むものの寿命は400年とも900万年ともいわれ、いずれまた畜生界などへ堕ちざるを得ません。
 しかし、青空を見られない地獄界にいたものにとっては、まさに別世界であり、胸いっぱいに清浄な空気を吸える世界です。
 まず、そこで安らぎを得てこそ、さらなる向上への意欲も湧いてくるというものです。

 もし〝ここが地獄か〟と思ったならば、信仰するみ仏へ、とにかく天界へお導きいただくよう祈りましょう。
 漠然と「お救いください」だけではなく、救われる先のイメージをしっかり持って祈ることです。
 一代の守本尊様であれ、あるいはその年回りに応じた守本尊様であれ、きちんとご供養し、祈願をかけることです。
 必ずや霧が晴れ、壁がドアとなって開き、気持はおちつき、心は活気をとりもどし、足下は堅固になって力強い一歩を踏み出せることでしょう。

 これから合計5回にわたり、迷いの世界からどこへ脱することができるかを述べます。




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2005
09.24

五力 14 ―定力 2 心のバラスト水―

 ある会社の社長Aさんが、創業当時からの盟友Bさんの裏切りに気づきました。
「Bがライバル会社と密談する日時が判りました。
 現場を押さえてやっつけますから、その調査がうまく行くように、当日ご祈祷をお願いします」
 心願成就のご依頼です。
「その日」はしばらく先ですが、一生懸命なAさんが会社を守られるよう、日々の修法で陰祈祷をしていました。

 あとわずかという日、慌てた様子で連絡がありました。
「なぜか密談はなくなったようです。次のチャンスにお願いします」
 
 幾日か経ち、Aさんは肩を落として報告に来られました。
「Bが自分から『悪かった。二度とくり返さないから許してくれ』と詫びを入れました。
 裏切りの経緯に不正行為もからんでいたので、私は、この際事実をはっきりさせて、相手の会社からも相応のものをもらおうと思っていたのに残念です」
 観たところ、この事件はBさん個人の行為であってもこちらの会社というバックが無関係だったとは言えず、まして相手の会社にはケンカ上手の体質と強い運気があり、トラブル処理の専門家もついている様子なので、穏便に収めることをお勧めしました。
 Aさんは、解ったような解らないような顔で帰られました。

 私たちの願いは、いつも最良の道へ向かうものであるとは限りません。
 持っている脳細胞の3分の1も使っていないのですから当然です。
 また、私たちは、ここ一番という時に、多かれ少なかれ不安か高慢になるものです。
 不安も高慢も煩悩であり、最善の判断や行動を妨げます。
 そんな私たちがまっとうに生きるために必要なのは心の重心です。
 正しい信仰はこの重心をつくります。
 み仏を信じ、お任せしている心境は、お力を「使う」「あてにする」とは違い、もちろん「利用する」でもありません。
 究極の安心が動かない状態とでも言えば、かなり近いでしょうか。

 貨物を積んだ船は重心が安定しています。
 空になると不安定になるので、バラスト水と称してわざわざ海水を船底近くにとり込みます。
 これは多すぎても少なすぎても安定を損なうので難しい調節をせまられますが、究極の安心は、心のバラスト水がちゃんと保たれているようなものです。
 願った結果が自分の思った通りであってもそうでなくても、必ずそこには「お導き」と「教え」があり、後悔はまったくありません。

 仕事熱心なAさんは、思いもよらない結果を得られました。
 今は思惑がはずれたのでがっかりの気持が強くとも、やがて時が経てば「あの時は、危うく自分から泥沼へ足を入れるところだった」と理解されることでしょう。
 誰しも最初は危急に際しておすがりするところが入り口です。
 そこで安心を得る体験が重なれば、心をみ仏へ向けて大きな安心を得ることが常に可能になります。
 そうすなば、ここ一番に際して、不安にも高慢にもならず対処できます。
 このバラスト水を入れたような安定した状態が「定(ジョウ)」です。
 定の力は、持てる能力を発揮するのに欠かせません。
 五力の一つ「定力」によって「人事を尽くして天命を待つ」ならば、人生に後悔はなくなることでしょう。
 



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2005
09.23

弱点を宝ものにする

 ケンカになったら、原因は相手に三割、自分に七割と気がつけば縁覚(エンガク…縁を智慧で活かせる人)になれます。
 たとえば、街を歩いていてつまらぬ因縁をつけられたとします。
 もちろん、身に覚えのない言いがかりであれば納得はできませんが、自分が〈目をつけられた〉のは事実です。
 二日酔いでフラフラ歩いていたのかも知れません。
 オドオドしたふるまいがカモに見えたのかも知れません。
 肩をいからせていたのが目についたのかも知れません。
 無防備な金持ちに見えたのかも知れません。
 人気のない夜道を不用意に歩いていたのかも知れません。
 いずれ、悪党の目にとまる原因はあったわけです。

 たとえば、夫婦げんかをしたとしましょう。
 妻の文句は聞くに堪えませんが、自分の収入が少ないのは確かですし、勝手に転職したのも自分ですし、妻の嫌がる癖をなおさないのも自分ですし、子供をほったらかしにしているのも自分です。
 夫のゴルフ狂には困ったものですが、若いうちから一緒にでかけたりする習慣をつくらなかったのは自分ですし、夫の飲み歩きも、よく考えれば、だんだんに化粧も愛想も忘れた自分に原因があるのかも知れません。
 いずれにしても、相手を選んだ自分にまったく原因のなかろうはずはありません。
 心が許せればこそ好き勝手なことが言えるのであって、夫婦げんかは親密さの現われです。
「夫婦げんかは犬も喰わない」二人だけの世界で起こるできごとです。
 どんなに言い争っても、冷静さを取り戻して「待てよ、自分はどうなのだろう。―――相手の立場に立っていたかなあ」と考えられれば、成長への入り口に立てます。
 ただただ感情に走るだけ(もちろん暴力は論外です)では、愛情が深かっただけに、ぬきさしならない敵となり仇となってしまいます。

 一般的に我の強い人、運気の満たされていない人、徳の少ない人は、すぐにケンカになりがちです。
 芯が強く、思考がしなやかで、感謝の心があり、徳のある人はあまりケンカをしないものです。
 なぜならば、相手がぶつかって来た時に、スッと一段上に上がれるからです。

 自分がどのあたりにいるかを知るバローメターは、弱点を指摘された場合の対応です。
「何をっ!あんたにだけは言われたくない!」と一瞬思っても、「確かに事実だしなあ」と風が吹いたかのように流せれば、かなり徳が積まれた証拠です。
 弱点のない人はいません。
 心がけ一つで、弱点は劣等感と反発心と憎悪をつくる因縁ではなく、謙虚さと不動心をつくってくれる貴重な宝ものになりましょう。

 自分はけんかっ早いなあと思う方は、時おり木鶏(モッケイ)の故事を思い出してはいかがでしょうか。
 きっと「真に強い人」になれましょう。

 昔、闘鶏を育てる名人が、王様から一羽の鶏をあずかりました。
「強くしてくれ」というのです。
 十日して様子を見に来た王様へ名人は答えました。
「今は敵を求めて殺気だっていて、まだまだです」
 また十日経ちました。
「敵の気配にたちまち闘志をみなぎらせます。できていません」
 また十日経ちました。
「敵を見るとにらみつけいきり立ちますから、まだだめです」
 そして十日経ちました。
「もう良いでしょう。
 いくら挑発されても動じなくなりました。
 まるで木で作ったようです。
 こうなれば他の鶏は闘う気がしなくなり逃げ出してしまうでしょうから」




2005
09.22

仏滅には徳を積みましょう

 仏滅は「悪いことが起こる日」あるいは「悪いことが起こりそうな日」と考えている方が多いのではないでしょうか。
 しかし、実際は、「その日が悪い」のではなく、「その日に悪いことをすれば悪い結果が早く出やすい」あるいは「その日は過去の過ちの結果が出やすい」のであって、信心深く善行に励む人に凶日はありません。

 何よりも怖れるべきは過去の悪業です。
 人が生きた歴史はすべてさまざまな種子として深い意識へ入っており、芽を出す縁を待っています。
 今、善行をなせばそれが過去の善行の種子へはたらきかけて、福徳の花咲く未来への芽を出させます。
 その反対に、今、悪行をなせばそれが過去の悪行の種子へはたらきかけて、罪罰に苛まれる未来への芽を出させます。

 誰しもみ仏の子である以上心の奥には良心があり、悪しきことを行えば、表面の心では「なあに、これくらい」とタカをくくっても、良心は必ず呵責としてはたらいています。
 それは解消されない暗い想い出となって、意識の底へ沈んでいます。
 あっ仏滅だと思う時に起こる「怖れ」が、こうした古い想い出と感応し、知らぬ間に運勢を暗い方向へと誘う場合があります。
 それは、「怖いもの見たさ」で見なくとも良い暗闇の向こうを覗きたくなるのに似ています。
 日の吉凶を気にする方が意外に凶運に負けてしまうのは、この理によります。
 怖れを除く最良の方法は善行に邁進することです。仮に黒い種子が10粒、金色の種子が10粒深い意識へ入っていたとすると、善行によって金色の種子が次々と芽を吹き茎を伸ばせば、黒い種子が芽を出すことはできません。
 すべては、今、自分が何をするかにかかっています。

 祖先から伝えられたものを大切にし、仏滅を意識するのは結構です。
 問題はその先です。ただただ怖れてばかりいれば、自分で自分に負けてしまいます。
 心配ならば、いつにも増して善行をやりましょう。徳を積む日として仏滅を活かしましょう。お互いにみ仏の子なのですから―――。




2005
09.21

彼岸 ―美しい人―

 お彼岸の「彼岸」は迷いを離れた世界です。
 そこで生きる人は、我が利や見栄や悪心を離れた美しい心で他のためになっています。
 真に美しい人は、大きいことをしたり、見栄えが良かったり、弁舌が巧みであることとはまったく関係ありません。
 美しい人は小さなものに小さな心で触れ、大きなものに大きな心で触れることができます。
 我欲を離れ相手の側(ソバ)へそっと立てます。
 我欲の人は、公に動けば周囲へ大きな災いをもたらし、私に動けば小さな我がことしかできません。

 最近、ある方から某宗教の隆盛について質問を受けました。
「どうしてああいう排他的なものが流行るのでしょうか?
 他の宗教や宗派を邪宗と断言して勢力を伸ばし、政治にまでかかわる宗教は仏教と言えるのでしょうか?」
 それは、「これをやる自分たちだけが救われる」として思考をなるべく単純化させ(「純粋」と勘違いさせます)、同時に「やらない人」という敵をつくって仲間とそれ以外の人々との間に高い壁を設け、内部を純化させ固める戦術に長けているからです。
 しかし、囲い込まれた「自分たち」は、集団的な我です。それを唯一絶対とする姿勢は、壁の外にいる多様な相手の側に立つことができませんから、み仏の目から観た美しい存在ではあり得ません。
 いかに規模が大きくとも、いかに権勢が強くとも、それは美しさではありません。
 しかし、私たちにはそれぞれ我欲があるので、欲を満足させてくれそうなそうしたものを美しいと見まちがう場合があります。

 泣いている人がいれば一緒に涙し、喜んでいる人がいれば一緒に喜ぶ、こうした「人として当たり前」なことができれば美しい人です。
 もしも、泣いている人へ目的を持って近づき、一緒に泣くようなふりをして壁の中へ誘い込み、やがては壁の外にいる人たちと隔離するならば、醜い人です。

 一人一人が真の美しさを考え、一人一人が美しくなりましょう。
 心は誰がどうしてくれるものでもなく、主人公は自分です。
「真実に生きようと決心し、限りない思いやりを根本とし、思いやりの具体的実践を人生の目的とする」
 これが、み仏の説かれる最も美しい人です。




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2005
09.20

原爆慰霊碑を考える その2

 前回に引き続き、「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」の何であるかを検証するための第二の視点、碑がつくられた経緯などを述べます。
 この碑がつくられた昭和27年8月は敗戦からまだ7年、4月28日にサンフランシスコ講和条約が発効し日本は独立を回復したばかりでした。
 独立を言祝(コトホ)ぎ、昭和天皇は二首を詠まれました。

 風さゆるみ冬は過ぎてまちにまちし八重桜咲く春となりけり
 国の春と今こそはなれ霜こほる冬にたえこし民のちからに


 しかし、占領軍のウオー・ギルト・インフォメーション・プログラム(言論統制・教育破壊・東京裁判などによって戦勝軍側の問題や戦争犯罪を隠し、「戦前戦中の日本人は悪だった」という意識を持たせようとするもの)なる日本弱体化政策と3S政策(シネマ・セックス・スポーツに夢中にならせ、精神的活動を弱めようとするもの)の徹底によって、日本人の心はどんどん破壊されつつありました。
 もちろん、当時の新聞はこの方針に迎合していました。
 そんなおり、広島市長浜井信三氏がこの碑を発案しました。
 目的は以下の通りとされています。
「この碑の前にぬかずく1人1人が過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび、再び過ちを繰返さぬように深く心に誓うことのみが、ただ1つの平和への道であり、犠牲者へのこよなき手向けとなる」

 無心にこの文を読んでみると、いくつかのことがはっきりします。
 第一は、「この碑の前にぬかずく1人1人が」と表現されてはいますが、その後に「過失の責任の一端をにない、犠牲者にわび」と続き、あの当時、手を合わせる人のほとんどが犠牲者の遺族を含む日本人であるという事実を考えれば、市長の頭にある過失を犯した犯人は日本人であり、詫びるべき人もまた日本人であるはずです。
 第二は、あの時代に、史上最大の戦争犯罪の犠牲者たちへ「再び過ちを繰返さぬように深く心に誓う」ようにし向けるものは、まさに日本弱体化政策そのものだということです。
 何度読んでも、この文章からは、原爆投下という史上かつてない戦争犯罪を正面から問題にする姿勢がみごとに抜け落ちています。

 たとえてみれば、あの戦争は、隣家同士でいざこざがあり、A家の人が思いあまって相手の家族を殴ったところ、B家の人は「これはチャンス、このB家に逆らおうなどという家は徹底的に潰そう」とばかり、A家の人を殺したようなものです。
 そして、B家は、A家がショックから立ち直るのを手伝う一方で、殺人については謝らず、いざこざの経緯についての一方的な情報を与え、「今の悲惨な事態はA家が招いたものだから、永遠に反省し続けなさいよ」とくり返し潜在意識へすり込み、二度とB家へ逆わぬポチにしようとしたのでしょう。

 こうした意図をもって碑が造られ、碑文の公募が行なわれました。
 その結果、広島大学の雑賀忠義教授がこの句を選んだとされています。
 氏は自ら揮毫するほどの気に入りようでした。

 さて、同年11月、来日して碑文を目にしたインドのパール博士は、

「広島、長崎に投下された原爆の口実は何であったか。
 日本は投下される何の理由があったか。
 当時すでに日本はソ連を通じて降伏の意思表示していたではないか。
 それにもかかわらず、この残虐な爆弾を《実験》として広島に投下した。
 同じ白人同士のドイツにではなくて日本にである。
 そこに人種的偏見はなかったか。
 しかもこの惨劇については、いまだ彼らの口から懺悔の言葉を聞いていない。
 彼らの手はまだ清められていない。
 こんな状態でどうして彼らと平和を語ることができるか。」

と指摘しました。
 ちなみに、博士は東京裁判におけるたった一人の日本側弁護人であり、この裁判に関わった唯一の法律専門家です。

 これがきっかけとなり、碑文論争が起こりました。
 一方は
「碑文は犠牲者の霊を冒漬するものである」
として碑文の訂正や抹消を求め、一方は
「軍国主義を復活させるな。核兵器廃絶は人類の悲願ではないか。碑文にはそうした願いがこめられている」
と譲りません。

 雑賀忠義教授の見解です。
「広島市民であると共に世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓う。
 これは全人類の過去、現在、未来に通ずる広島市民の感情であり良心の叫びである。
『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ。
 そんなせせこましい立場に立つ時は過ちを繰返さぬことは不可能になり、霊前でものをいう資格はない」
 この文からは二つのことが解ります。
 まず、この当時「世界市民」という言葉は、左翼的文化人特有のもの言いでした。
 氏は特殊なイデオロギーに立っておられたのではないでしょうか。
 また、「『原爆投下は広島市民の過ちではない』とは世界市民に通じない言葉だ」も、こうした人たち一流のすり替えです。
 碑文に問題があると考えている人たちは、自分たちには一切問題がないなどと叫んでいるのではありません。
「原爆投下で大量殺人をした直接の犯人はアメリカであり、悲惨な被害をもたらした第一義の責任者でもあるという事実をはっきりさせて深く省みることを求め、アメリカを含む核兵器保有国が二度とそれを用いないようにしむけるのが、被害者の務めであり、そこからこそ真の慰霊と平和の希求が始まる」という立場でありましょう。

 20世紀最大の殺人国はアメリカでした。
 21世紀になっても変わりません。
 相変わらず最新兵器を開発しては世界各地で用いています。
 非人道的なクラスター爆弾を使っても「お前たちが悪いからだ」と胸を張っているのは、原爆投下の当時とまったく変わっていません。
 哀れな被害者たちは見捨てられ、強者へ追随する者たちが権勢を誇っています。
 被害者たちが雑賀忠義教授の説に従い「世界市民であるわれわれが、過ちを繰返さないと誓」っていて、この流れは変えられるのでしょうか。

 もとより、当山は寺院です。
 他を攻撃するに急であろうとするのではなく、真実をありのままに見つめ、み仏の教えとご加護によってそれを活かそうとするものです。
 最近、高い立場にある方が「他を誹謗するだけの姿勢は、最終的に共感を得られませんよねえ」と述懐されました。
 そのとおりです。
 最終回は、「人は皆罪人である」という性悪説でなく、「人は皆み仏の子である」という教えの立場からこの問題を考えてみましょう。




2005
09.19

原爆慰霊碑を考える その1

 昭和27年8月6日、広島に造られた原爆慰霊碑には短い文が刻まれています。
「安らかに眠って下さい 過ちは繰り返しませぬから」
 仙台市で行われた井上ひさし氏の講演でこの文に関する話を聴いた方々が、とても感心しましたと顔を輝かせています。
 彼は、「謝っている人が誰であるかよく判らないところがいかにも日本語らしい」「実は、私たち日本人を含む人類全体、あらゆる人々が主語である」と指摘したそうです。
 この文を称賛する立場です。
 皆さんは、
「日本人の宝というべき源氏物語だって、主語のはっきりしない朦朧(モウロウ)体が世界的な評価を受けていますよねえ。あなたも私も同じなんだ、区別しない、こういうところはまさに仏教的なんでしょうねえ」
「相手を攻撃するよりも、まず自分を省みるといった点も日本人の美徳かも知れませんね」
などと口々に言われます。

 しかし、かねて碑文にすっきりと腑に落ちないものを感じ、ウソの匂いが消えず、くり返して読むとどうしようもない不快感が胸に広がるのを禁じ得なかったので、この際、正面から相手にしてみようと思い立ちました。(これも朦朧体?)

 立脚点は二つです。
 井上ひさし氏が文章のプロならば、私は祈りのプロです。
 追悼のための言葉を、祈りとしてとらえてみることにしました。
 もう一つは、碑がつくられた時代背景と制作経過をたどり、「現在の視点から、自分の都合で観る」という色メガネをはずし、事実を確認することです。

 まず、第一点のために、祈りの文を何百回となく唱えてみました。
 経験上、清らかな経典は唱えれば唱えるほど自然に深く心へ染み入り、いつしか糧となることを知っているからです。
 たとえば、日常的な分別で字面を追えばなんだこりゃあと思うような「水を逆さに流す」といった部分も、無心に読み込むとそこにみ仏のお慈悲が顕われていることがはっきりとつかめるものです。
 教典でなくとも、これは追悼の言葉です。
 10歳に満たない子供の別れの言葉ですら大人を泣かせもします。
 誠心に発する言葉ならば、必ず心の琴線に触れるはずです。

 あにはからんや、この文は、何度口にしても異様なものが後に残ります。
 やがて、異様さの正体が解りました。
 形は追悼でも、死者を悼み供養する心があまりに薄いのです。
「安らかに眠って下さい」と「過ちは繰り返しませぬから」とはそもそも別ものであり、無理にくっつけられたのでしょう。
 前文をAとし、後文をBとすれば、AとBの言い回しは実にバランスが悪く、口にすればするほど神経が疲労するのはそのためです。

 とにかく、まず追悼があって謝罪がそれに続くといった流れがどうしようもなく不自然でなりません。
 そこで、実際に相手を殺した加害者が被害者へ心から詫び、御霊を供養する場合の心になってみました。
 ご本尊様と他人様や御霊と己との三者が一如になるのが法を結ぶということですから、これはプロにとってあたりまえの分野です。
 その結果、やはり順序が逆でした。
 位牌であれお墓であれ、それを前にして涙と共に口から漏れるのは、まずお詫びの言葉です。
「もうしわけありませんでした!」と泣き崩れるはずです。
 己の犯した罪の恐ろしさに打ちのめされ、心は乱れに乱れるはずです。
 そうした波浪がおさまって初めて、「どうか成仏してください」と供養する気持になります。
 そして、この気持は必ず心を平静の方向へと誘います。
 順番は、断じてこの通りであって、逆ではあり得ません。
 つまり、この文は、深い懺悔の思いによって自然に口から漏れ出た呻きのようなものではなく、頭で組み立てられたものなのです。

 最初は、追悼のための文だからとまずAをつくり、その後でBを付け足したのではないかと考えました。
 しかし、作者の実際の心のはたらきとしては、まず、Bがあったのでしょう。
 だからBの言い回しは手がこんでおり、Aにはどうしようもない粗雑さが伴っているのです。
 作者は、何としてもBを主張したいのであり、Aはそれを碑へ刻むためにつけ加えられたに過ぎません。
 そうでなければ、せめて「安らかにお眠り下さい」程度の表現にはなっていたはずです。
 慰霊・供養の純粋さに疑問がある、欺瞞が隠れていると言わざるを得ません。

 人々がまごころから手を合わせる場所へこのようなものを置くのは、いかがなものでしょうか。
 私たちの迷いは身・口・意がバラバラにはたらくところに発するので、こうした異様なものを目にしながら追悼する人々の心もまたどうなるか、心配です。
 この碑を置き続けて良いかどうか、いかなる言葉が供養と平和への祈りの表現としてふさわしいのか、根本からとらえなおす必要があるのではないでしょうか。




2005
09.17

彼岸供養会

 昼と夜の長さが同じになるお彼岸は、正邪・善悪・虚実に迷う私たちが、偏る心を離れてまっすぐにみ仏の悟りの世界へ行くために一番時間のかからない日とされています。

 み仏は絶対の善を体現しておられ、私たちはともすれば悪に汚れます。

 合掌する際の右手はみ仏、左手は私たちです。合掌は、み仏と一体になる姿であり、姿は心をつくります。

 一方、人は内面から美しくなって初めて真に美しい存在となります。

 合掌の姿で美しい心をつくり、美しい存在として活き活きと生きるさまをみ仏と御霊へ捧げましょう。それに勝る供養はありません。



 9月23日(金曜日)午前10時より彼岸供養会を行ないます。

 法話と自由な質疑応答の時間もあります。

 壇信徒であるか否かを問わず宗教宗派も問いません。文字通りの自由参加ですので、どうぞお気軽におでかけください。そして、皆で美しい存在になりましょう。

 




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2005
09.17

9月の例祭

 護摩の修法を行い、ご供養とご祈願により皆様とみ仏とのご縁を深めていただきます。



 例祭で行われる護摩法は、願いが最も早く仏神へ届く秘法です。

 どなたでも自由に参加できます。

 たくさんの願いを持って守本尊様にお会いし、悪い縁や自分のいやなところは智慧の火で燃やし去っていただき、良い縁を固め精進がすばらしい花を咲かせるよう大きなお力添えをいただいて下さい。



 毎月第1日曜日(9月4日) 午前10時より

 毎月第3土曜日(9月17日) 午後2時より



 要注意の月に当たる方(機関誌『法楽』に掲載)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。



【五種供養】

○「水」のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん

○雨風に負けず咲く「花」のごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん

○「線香」のごとく、たゆまず、怠らず、最後までやりぬかん

○己を捨てて「食べ物」となる生きものに感謝し、心身を整えん

○「灯明」のごとき智慧の明かりで道を照らし、まっすぐに歩まん




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2005
09.16

お布施となった敬老祝

「夫が長生きしたので仙台市からお祝いをいただきました。何に使うというアテもありませんから、どうぞ寺子屋に役立ててください」
 NHKの講座が終わった時、ご主人が七十七歳になられたKさんから、赤いのし袋に入ったご芳志金をいただきました。
 受講生の方々は我がことのように喜んで拍手をしました。
 皆さんは善行を讃え、Kさんの気持になって高揚し、私の気持になって嬉しくなり、寺子屋建立がまた一歩進むのを喜んでくださっているのでしょう。

 善行とは、結果を待たずに行なうものです。
 その結果の中には当然「見かえり」が含まれます。
 だから、何かを施しても、恩をきせては布施行になりません。
 以前、『福田とツッコミ』で、善行と福徳を当たりクジのたとえで話したところ、「自分へ福徳がめぐってくるから善行をするのでは、真の布施にならないのではありませんか?」との質問を受けたできごとをとり上げました。
 あの時は、因果応報の理を信ずることが大切なのですと答えました。

 こういう答もあります。
 善行の結果は、いつ、どういう形で現れるか判らないだけではなく、誰に現れるかも判りません。
 たとえば、人を救うために父親が亡くなったとします。
 もちろん、当人はこの世で結果を得られることはありません。
 子供にとっても辛いできごとでしょう。
 しかし、その善行を知って魂の震えた人が「自分も」と善行をなしたならば、そこにすばらしい結果があります。
 もしかすると、救われた人に亡くなった人の子供が救われるかも知れません。
 善行者は「当たりクジの賞金が必ずしも自分の手に来なくても、誰かが喜べばそれで良い」のです。

 また、こういう答もあります。
 善行を実践している時、すでに結果が現れていると言えます。
 それは、善行者すなわち菩薩だからです。
 菩薩とは、如来の光を仰ぎ、自他を救うためにこの娑婆を離れずみ仏の教えを実践し続ける存在です。
 前述の父親はまさに菩薩と言えましょう。
 釈尊の前世物語は、すべてそれを示しています。
 飢えた虎に自分を食べさせる話、我が身を焼いて客人をもてなそうと火へ飛び込んだウサギの話などは、幾世にもわたって菩薩行を実践したことを意味します。
 その結果、生き仏そのものになられ、ついには如来にまで昇られました。
 釈迦如来の誕生です。

 善行者は菩薩であり、救い救われる存在です。
 恥ずかしそうに顔を赤らめてのし袋を差し出されたKさんが菩薩様だからこそ、皆さんの顔がこれ以上ないほど輝いたのでしょう。
 




2005
09.15

善人が潰されないために

 大変まじめそうで裏表のあまり無さそうに見える中年男性Tさんが来山されました。
 真実一路でやっているのに、騙されたり利用されたり裏切られたりで、なかなかうだつが上がらないそうです。
 過去からくっついて来ているものがあるから、それがブレーキにならないよう進取の精神でやること、弱点を補うのは大切だけれども、勝負する時の剣はあくまでも得意のものを磨きに磨いて用いること、などをお話しました。
 ここで、目に見えぬ力に左右される場合について記しておきましょう。

 人は、自分では悪いことをしていないと思っていても、徳を積むと同時にどこかで悪行も為している可能性があります。
 たとえば、親しい友人Aさんと一杯やっていて、そこに同席していない共通の友人Bさんについての話題が出たとします。
 自分では悪口のつもりでなく話したことがAさんの口を通してBさんへ伝わった結果、AさんにもBさんにも悪気がないのになぜかBさんがへそを曲げてしまうといったことはよく起こりうることです。
 知らぬ間に争いの原因ができてしまいました。
 やがて、何かのおりにBさんが仕返しとして言った一言で自分が大きな不利益をこうむれば、?なぜ自分がこんな目に遭わなくてはならないのか………?となるやも知れません。

 また、自分と同じようなタイプの未成仏霊に障られたり祟られたりする場合もあります。
 御霊が成仏できないのには、当然原因があります。
 怨みであれ、未練であれ、供養されないことであれ、同じようなタイプの人に現れる内的・外的環境が似ている場合は往々にしてあるものです。
 そうすると、その人へ未成仏霊が感応し、自分とは関係のない「未成仏霊にとって未解決の問題」に巻き込まれる場合があります。

 こういった変な流れが発生した場合、何よりも大切なのは健康です。
 心身が健全・健康であれば自分なりの生き方がぶれず、時の経過が解決してくれたりします。
 ところが生命力や胆力が弱ったり心が荒んでいたりすると、流れに負けてしまう場合があります。
 同じように時間が過ぎても一方にとってはそれが清めの時間となり、一方にとっては足下が崩される時間になってしまいます。
 四魔を封じるご加持(カジ)が健康法であり、能力開発法であり、魔除法であり、自他を活かす法であるのは、このことです。
 




2005
09.14

忍辱と我慢はどうちがうのでしょうか

 釈尊は「何が修行を支える最大の力になるかと言えば、それは忍辱(ニンニク)である」と説かれました。
 忍辱は、我慢とはまったく異なります。
 そもそも我慢は仏教用語で「自分本位の姿勢」を示し、当然悪行を生む元になるものです。
 我を張り、我が利を主として「我利我利亡者」になり、慢心し他を蔑む、恐るべき煩悩(ボンノウ)です。
 この煩悩に潜む「継続する力」を忍耐と考え、いつしか我慢=忍耐となって、我慢が良い意味で用いられるようになりましたが、言葉の背景を忘れないようにしたいものです。

「忍辱の人」をイメージするならば、第一に思い浮かぶのはかつての高倉健主演のヤクザ映画です。
 自分が何をされてもじっと耐え、配下や仲間や恩人や恋人や家族がひどい目に遭ってもひたすら耐えて役割を果たし、最後の最後に堪忍袋の緒が切れて悪党どもを一気に退治するといったおきまりのパターンですが、他に代え難い爽快感がありました。
 彼の一大活劇を観終わって映画館から出てくる男たちは皆、視線や動作のどこかに「健さん」を漂わせており、おかしくもあり、おそらく他から見れば同じであろう自分に苦笑しもしたものです。

 また太平洋戦争末期、神風特攻隊に第一号出撃命令を発した大西瀧治郎中将も忘れられません。
 直情径行型で、若い頃は愛想の悪い芸者を殴って海軍大学校への入学をフイにしたエピソードの持ち主ですが、山本五十六などから信頼を受けて真珠湾攻撃の計画に加わり、最後は神風特攻隊を指揮しました。
 最初から勝てない戦争であることを知って開戦に反対だったにもかかわらず、時代に必要とされた彼は、歯をくいしばって置かれた立場をまっとうしました。

「おれもゆく、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて」

 こう言いつつ若者たちを死地へ送り出す心中は、察するに余りあります。
 空襲で焼け出された愛妻が最後は一緒に住みたいと訪ねて来た時、特攻隊員たちを死なせた自分にそのような暮らしなど許されないではないかと追い返しています。
 敗戦に号泣した翌日、官舎で腹を切り頸動脈と心臓を刺し、手当も介錯も断わり、隊員たちや妻の苦しみを自らへ実感させるがごとく苦しんで世を去りました。
 辞世の句

「之でよし百万年の仮寝かな」

には、忍辱を貫き通した男の達観と、ことの先に待つ無限の安らぎがあります。

 さて、忍辱には五つの徳が伴うとされています。

1 たくさんの人々に愛される
2 たくさんの人々へ喜びを与え、気に入られる
3 なかなか敵をつくらない
4 なかなか過失をしない
5 迷わず、乱れず、死後は天界へ生まれる


 心のどこかに恨みや反発や不満を伴う我慢ではなく、なすべきことをじっとやり抜く忍辱をこそ実践しましょう。




2005
09.11

タクシー強盗とお経

 今日も、信徒Sさんがブルトーザーで地ならしをされました。
『守本尊霊場』の周囲です。
 そう若くはないし、真っ黒になって毎日仕事をしている身での休日の奉仕活動はなかなか大変なことでしょうが、「させてください」と運転席へおさまりました。
 昼食は奥さんが運んで来られました。
 恐縮してしまいます。
 材木へ並んで腰掛け、Sさんはカレーライス、私は持参したおにぎりを食べました。
 気温は高くとも微風が心地よく、蝉の声もそう暑苦しくはありません。
 虫に刺された奥さんは車へ戻り、ドアを開けてのんびりしておられます。
 作務で汗だくになった行者S君も並んで食べました。

 さて、食後に意外な話を聞きました。
 Sさんが若いころ強盗に遭って殺されそうになったというのです。
「護られたと言うしかありません」
 奇跡的に生き延びたお話です。

 あれはまだ28歳の冬でした。
 タクシーの運転手をしており、午前2時ころ、苦竹でお客さんを拾いました。
 乗せた時に何だか嫌な感じのある男性でしたが、野蒜海岸へ向かい人気のないところで首に包丁を突きつけられました。
 ひやりとしたものは刃渡り30センチメートルもありそうな柳刃包丁、ちょっとでも動けば頸動脈がぷっつりでしょう。
 ブルブルッと震えましたねえ。
 ほんのちょっとのうちに、ああしたら良いかそれともこうしようかなんていろんなことが頭に浮かぶもんです。
 もちろん、混乱しているから何もちゃんとは考えられないんですけども。
 次の瞬間、真夜中なのに自分の頭の上に明るい群青色の空が見え、気持の良い声でお経が天から聞こえてきました。
 私はその当時、ある宗教に凝って朝晩お経を唱えていたんです。
 もう気持が良いばかりでどれだけ経ったでしょうか。
 きっと私も唱えていたんでしょうねえ。
 気がついたら若い犯人は助手席へ移っていましたが、手がぶるぶると震えています。
 こっちは平気だし、さっきとは全然様子がちがいます。
 そこでゆっくり言いました。
「何でも欲しいものは全部持って行きなさい。
 ただ、教典だけは返してくれよ」
 犯人は包丁をこっちへ向けながら空いた手で教典をよこし、売り上げなどを奪って私を車から降ろしました。
 私はすぐに交番へ駆け込み、犯人はほどなく捕まりました。
 あのあたりはよほど詳しい人でないと途中から脇道を抜けられないんです。
 結局来た道を戻るしかなくなるんです。
 警察は5分ほどで駆けつけるし、犯人はそのあたりをウロウロしているしで、スピード解決でした。
 それにしてもあの時の声は佳かったです。
 天国からの声でした。
 後から聞いてびっくりしましたが、事件の前夜、親しい人が仏壇の前に小柄な人が倒れている夢を見ていたそうです。
 私は小柄ですから、一つ間違えば夢と同じになっていたでしょうね。
 あの時であれ今日であれ、とにかく、護られている実感は、はっきりあります。

 いろいろ苦労した後、お不動様を深く信仰するようになったSさんは、今は当山のお守や清め塩をそばから離さず、無事安全に仕事をこなしておられます。
 きっと、今日のご奉仕でご加護の力を一段と強くされたことでしょう。




2005
09.11

あれから60年

 映画監督伊丹万作が、戦後ちょうど一年経ったころ、「文藝春秋」の創刊号へ「戦争責任者の問題」を載せています。
 戦争責任というと、左翼文化人たちが天皇や軍部を糾弾するイメージがありますが、氏は、そうしたイデオロギーとはまったく別の、「一人間」の視点からこの問題を考え、自らを省みています。
 つまり、「自分たちはだまされ、戦争をさせられ、ひどい目に遭った」と言うが、それは本当なのかという問いです。

 皆がだまされたとしたら、誰かだました人がいるはずです。もしそれをどんどん上へ上へと追求するならば、最後には一握りの人間が張本人ということになりますが、そんなわずかな人たちが一億人もまとめてだませるはずはありません。
 氏は、だましの専門家とだまされの専門家に分かれていたのではなく、「日本人全体が夢中になって互いにだましたりだまされたりしていたのだろうと思う」と指摘します。
 その例として、戦時中、病人だった氏が戦闘帽をかぶらないで外出すると、国賊を見つけたぞとばかり憎悪の目を光らせたのは普通の庶民たちだったことを挙げています。
 そして、「だました、だまされた」のが事実なら、戦争の間、ほとんど全部の国民がお互いにだまし合わなければ生きていけなかったのが真相であると断定します。

 氏は、一転して、良心的に、かつ厳粛に考えるならこうなるだろうが、もしも少数の人間が多くの人間をだましていたとしたら、だまされた側は責任がないのだろうかと問います。
 だまされたという事実は、不正者による被害の発生を意味しますが、だまされた人が正しいとはどんな辞書にも書いてなく、だまされるのは知識の不足と意思の薄弱によります。
 昔から「不明を謝する」という表現にあるとおり、だまされる方にもなにがしかの問題があり、決していばって良いこととされてはいないわけです。
 軽重の差は別として、だます側にもだまされた側にも責任があったと考えるしかありません。

 終わり近くでの指摘は、もう現代を観ているかのようです。

「『だまされた』といって平気でいられる国民なら、おそらく今後も何度でもだまされるだろう。
 いや、現在でもすでに別のうそによってだまされ始めているにちがいない」

 事実、この稿が書かれた昭和21年夏は、原爆投下という史上最悪の戦争犯罪をわきへ置き、負けた日本を勝った側が事後立法で裁く理の通らない『東京裁判』が始まっており、「戦前の日本は悪だった」という思想の普及を柱とする日本弱体化のためのプログラムが実行されつつありました。
 ごく最近では、イラクのフセイン大統領が大量破壊兵器を開発しているというウソを根拠に侵略戦争が行なわれて膨大な数の人々が死に、その後遺症で今もどんどん死者が発生していますが、戦争にかかわった指導者たちは誰一人責任をとってはいません。
 自衛隊員に死傷者が出ていないのは、サマーワが、小泉首相の国会での答弁どおり「自衛隊が行っているのだから非戦闘地域である(!)」のが理由ではなく、自衛隊員や関係者の努力と仏神英霊のご加護による僥倖ではないでしょうか。
 そして、戦争とどうかかわるかという国にとって最大の問題が議論されないまま、国民投票や人気投票まがいの選挙が終わろうとしています。

「戦争責任者の問題」を書いてまもなく昭和21年9月21日に46歳で逝去した伊丹万作の御霊は、冥界からどう眺めておられることでしょうか。




2005
09.10

すべてを超える翼

 現代の語り部である渡辺祥子さんが心酔しておられる『すべてを超える翼』は、若いガンが迷いや不安と闘いながら渡りへ旅立ち、やがては群を救う英雄となる物語です。
 著者ルイス・A・タータグリア氏は、精神科医としての視点を主とし宗教的視点を隠し味としながら、事実をベースとした見事な物語を完成させました。
 最近、渡辺さんはわざわざ渡米して著者に会われました。そして、今後の「語り」の想を練っておられます。
 この物語は、仏教あるいは密教の立場をも見事に表現しており、渡辺さんの活躍に先立ってご紹介します。

 若いガンゴーマーは、旅への怖れから飛行訓練を嫌い、こう考えています。
「飛ぶというのは自由になることだ。生きることの悩みや責任から解放されて、心の底から自由になることなんだ!」
〈気まま〉が〈自由〉であると考えている段階です。誰しもの人生のスタート地点です。

 ガンは、逆V字の左側が年配者や幼い者などによって構成される「弱い列」、右側がそれ以外の者たちでつくる「強い列」になっており、V字の先頭を含む「強い列」では、先頭を務めた者は最後尾へ退がり、二番目にいた者がその後を継ぐといったパターンをくり返し、「強い列」が群を率います。その時その時の先頭者の役割は、群全体の運命を左右します。

 作者は過酷な渡りを成就させる力について書いています。
「群れというのは、母なる自然の力のあらわれであり、その力をガンたちは『真(マコト)の翼』と呼んでいます」「ガンなら必ずこの飛行編隊を組むことができるのです」

 飛行訓練を受ける準備の整ったゴーマーへ、おじいちゃんは先頭に立った時の心を説きます。
「意識は信じられないほど静まり返り、自分の心の奥底から規則正しくゆったりと響いてくる『真の翼よ、真の翼よ』という声が聞こえるようになる。おまえの心が意識の支配から解き放たれたんだ」

 こうして先輩たちから教えを受け訓練を積んだゴーマーは旅立ちの日を迎え、嵐を乗り切り、仲間を救い、1500?の旅を終えて『偉大なるガン』の称号を受けることになります。

 真言密教においては、み仏と他者と己とが一如であるという境地へ入ること(即身成仏)が究極の目的ですが、この本におけるガンたちの生態は、まさにそうした姿です。
 仲間と己という分け隔てを超えたガンたちでつくる群が、尊い『真の翼』に成りきっています。

 しかし、こうしたことは、自他のためにと意欲と向上心を持って精進しておられるどなたにも共通する「真の生き方」ではないでしょうか。
 渡辺祥子さんの活躍にご期待しましょう。




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2005
09.07

サンマをいただく

 いわき市在住のTさんから、サンマやカツオやイカがどっさり届きました。
 去年の同じ時期、「ご苦労様」と受け取ったのは私、料理したのも私でした。
 そして、重病の妻が初めて食べ物を「おいしい」と言ってくれ、合掌したものでした。
 今年は、受け取ったのも料理をしたのも妻です。先に箸をつけて「おいしいね」と言ったのは私です。

 あの時と今と、同じ日常に見えても目に見えるものはすべて移ろいました。
 壇信徒さんは増え、『法楽の苑』も様変わりするほどご縁が重なり、『親輪会』も発足しました。
 毎日早朝から行に励み法務を手伝う若い弟子もいます。
 そして、本堂とプレハブは着実に老朽化し、壇信徒さんも私たち夫婦も年をとり、弟子も子供も孫も成長しました。
 しかし、添え状もなくぶっきらぼうに大量の新鮮な魚類を送ってくださるTさんのご厚情は変わりません。
 去年、手を合わせて料理し、おいしいと聞いてまた手を合わせた時の驚きと喜びと感謝の気持もまた、鮮度を失ってはいません。
 人生の根っこを問い、やや斜めに構えていながら飄々と生きておられるTさんの顔も、そのままに思い出されます。

「身体は明王、態度は如来、心は菩薩」を理想としている自分がこの一年でどうなったかを省みる時、道の果てしなさと一生の短さが観えます。
 肉体の衰えを感ずる一方で何かが深まっているのを感ずる時、魂の不変が、より確信されます。
 やはり、「諸行無常(ショギョウムジョウ)…あらゆるものは移ろう」は、形あるもので成り立っているこの世のならいであり、「一切法常住(イッセイホウジョウジュウ)…根本は動かない」は、それを貫いている真実世界の現実なのでしょう。

 サンマの味、Tさんの面影、並んで箸を動かしている妻―――。無常でありながら常住である世界―――。心はいつも合掌です。




2005
09.06

あの世へ逃げることはできません

 あの世へ行っても、意識を強く持ったところ・強い印象・深い後悔などからは逃れられません。
 むしろ、生きていた時の姿勢、いつも持っていた観念が死後にさまざまなはたらきとして表われるものです。
 肉体はバラバラになって天地へ還っても、魂を彩る因縁は消えません。
 あの世は、決して逃亡先になり得ません。

 ただし、こうした因縁はむやみと恐れる対象ではなく、そこにある失敗や挫折は、柿の渋やマムシの毒のようなものです。
 時間をかけてそれを上手に処理すれば、嬉しい甘さや力を増す薬になります。

 釈尊は、処理の仕方を説かれました。
「極論(原理主義)へ走るな」「ものごとを逆さまに(自分の都合に合わせて)判断するな」
「まず、ありのままに(好悪のフィルターをかけずに)観よ」
『中道(チュウドウ)』です。尖らず、円く、智慧をもってやることです。
 そうすれば、失敗しても挫折しても、その人なりの佳さが出る人生になることでしょう。

 さて、あの世へ逃げたくなるような境遇に自分を堕とさないためのポイントの一つは、心を大きく保つことです。
 心が小さくなると災難に遭う機会が多くなります。
 卑屈・逃げ・萎縮・小心・怖れなどは、魔ものを呼ぶ香りのようなものです。
 心を大きくする一番の方法は、他人の喜びを我が喜びとすることです。
 心の奥底からそう感じられるようになれば、心はどんどん喜びで満たされ、豊かで、広く、深く、大きくなります。
 そして感謝の光があふれるところは、魔ものが最も苦手な場所なのです。

 人が亡くなったならば、生きている人たちが善行を供えましょう。
 もはや肉体を失った魂は、この世で徳を積むことができません。
 悪因縁を消すことができません。
 しかし、生きている人も亡き人も、その本体は魂ですから通じ合えます。
 だからこそ、僧侶は葬儀で戒律を授け(戒名は受戒者の名前です)、ご縁の方々が「追善供養」「追福菩提」のために法要などを行なうのではありませんか。
 亡き人のことを想う心があるならば、善行をもって供養することです。
 それに対して、亡き人は必ず守護霊となって供養されます。
 あの世は逃げる先ではなく、魂同士が供養し合う、この世とは別の「もう一つの世界」です。
「阿字の子が 阿字のふるさとたちい出て またたち還る阿字のふるさと」
 この世は一時的に訪れた異郷、あの世は永遠の故郷です。




2005
09.05

色情因縁の解決2 ―菩提心(ボダイシン)とは―

 色情因縁の項を読んだ方から、さっそく「菩提心(ボダイシン)ってどういうものですか?」と問われましたので、お大師様の説かれた四つのポイントを記しておきます。

1 「自分と他人とみ仏とは、根本において一つである」という真理を信ずる心
 たとえば、友人が病気から回復して喜んでいるならば、我がことのように喜ぶ心。
 友人が仕事に失敗して意気消沈しているならば、我がことのように心配する心。
 観音様にお詣りをしたならば、お顔が亡き母と見えて懐かしむような心。
 ケガをしたならば、イラクで傷ついた人はどんなだろうと想像する心。
 こうした心になれるならば、菩提心が開きつつあります。

2 「いつも自分を先にする」「自分のことがいつも一番」という姿勢を捨てる心
 慈悲心のある人(他のためになれる人)とは、「時に応じことに応じて自分を後にできる人」です。
「弱肉強食」しかない人は地獄の住人で、最も菩提心から離れています。
 その証拠に、最悪の世界が地獄界、その上に「欲しい、惜しい」の餓鬼界があり、畜生界はその上にあります。
 なぜならば、同じ「弱肉強食」でも自然界の生きものたちは節理に随っているので、節理を無視して何もかも我がものにしようとする我欲の人間よりは救いに近いのです。
 弱者を差別し喰いものにし、沙悟浄(サゴジョウ)のように富をかき集め権力を誇り、猪八戒(チョハッカイ)のように人の道を踏みはずし、他人の涙に無感覚。こんな人は畜生にも劣ると言えましょう。

3 「より気高きところ」を求めてやまない向上意欲を保ち続ける心
 煩悩がある限り、人は未完成です。「これで良いや」と立ち止まれば、それは道路の真ん中で車を停めるようなものです。
 人が一番相手にしているものは何かといえば、自分です。生きている限り、24時間一刻の休みもなく自分はいます。考える自分、食事をする自分、はたらく自分、喜ぶ自分、悲しむ自分、怒る自分、善いことをする自分、悪いことをする自分が常にいます。
 向上心を忘れ、昨日うっかりやってしまった失敗を今日も無自覚にくり返す自分のままでいるならば、その人は菩提心から離れています。
 釈尊は『法句経』で説かれました。

「蛇が脱皮するように、見聞きする対象によって悪心が起こらないよう向上する人が真の行者である」

 行者らしい心を失わずに生きてこそ人間ではないでしょうか。

4 正しい方法で「心の深みへ降りる」心
 「自分」と思っている「表面の心」は氷山の頭のようなものでしかありません。
 海面下に膨大な潜在意識・深層意識の領域があり、一番底には万人に通じるみ仏の心があります。
 お大師様は「生まれ生まれ生まれ生まれて生の始めに暗く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(クラ)し」と説き、煩悩の深さ、その闇の暗さ、いのちの不可知を示されました。
 その一方で「人は本来、この身このままで仏である」とも説かれました。
 暗きものは月にかかる暗雲、み仏は満月です。
 暗雲の向こうへ行かねばなりません。
 それには正しい方法が必要です。
 暗雲へ突入した飛行機を的確に操縦できなければ、どこへ行くか、何にぶつかるか判りません。勝手な瞑想などを厳に戒めるのはそのためです。



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2005
09.04

色情因縁の解決1 ―破滅への色情因縁を芳香に変えましょう―

 色情因縁は「引力」の問題です。
 引力を肉体的に使えば性的関係に忙しくなり、煩悩に負けて倫理を忘れ、自他を破滅させもします。引力を知的に使えば大きく広い範囲へ届く影響力となり、その芳香は自他を向上・発展させます。
 色情によって生ずる結果は、無始以来の因縁が動いて出ます。悪行によって自分を罰するのは、他人ではなく自分です。誰のせいにもできません。
 因縁を浄化する最高の方法は菩提心(ボダイシン…み仏の心)で生きることです。そこへ到達すれば、生霊・死霊・怨霊など、どのようなものも受け付けません。

 さて、菩提心は怨霊などのはたらく世界とは次元が異なっていますから、いかなる魔力の刃が向かって来ようと、空を切るだけでまったくダメージを受けません。
 菩提心に刃向かう悪しき者は鏡を相手にするようなもので、相手を攻撃しようとした力が自分をうち倒します。
『四十二章経』はこう説いています。

 釈尊の悟りを聞いた悪人が、釈尊と面会し、さんざん悪口を言い立てました。
 その愚かさを憐れと思った釈尊は、黙っているだけで何も答えません。
 やがて、悪人が言い疲れたころを見計らって口を開きました。
「あなたは、お土産を持って誰かを訪ねた場合、相手が受け取らなければどうしますか?」
 悪人は、当然こう返事をしました。
「持ち帰るしかないだろう」
 そこで釈尊は諭しました。
「今、貴方が私を罵りましたが、私はまったく受け容れていませんから、貴方はその言葉を自分で持って帰り、自分を穢し傷つけるしかありません。
 それは、山彦のようなものであり、影が形あるものに随うようなものでもあります。
 悪行は自分に災いをもたらすのですから、以後、慎みなさい」

 この怨霊返しの鏡を曇らせ破壊するのがが我であり、それは、時には色情因縁や挫折因縁となって現れ、迷いや争いを起こします。
 
 菩提心のない色情因縁のエネルギーは悪縁をつけます。
 目線・言葉・態度・行動は相手へ印象を残し、放っておけばいつか必ず何ごとかとなって報いがやって来ます。
 たとえば「引力」の強い女性が「私は佳い女なのよ」とばかりに流し目をすれば、その行為は瞬間的なものに過ぎず、すぐに忘れてしまっても、目線によって動かされた相手の心の波は潜在意識へ残り、しばらく時間が経ってからストーカー事件を起こさせるかも知れません。
 刻み込まれた歴史は消せないのです。

 因縁解脱とは、因縁そのものをなくすというよりも、正確には「今ある因縁の悪しき面を消滅させ、因縁を清らかに活かす」ということです。
 動物のレベルで因縁をはたらかせるか、智慧ある人間のレベルで因縁をはたらかせるか、それは自分次第です。
 因縁解脱とは、因縁の呪縛から解き放たれ脱すること。脱する先は菩提心です。



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2005
09.02

9月の運勢(世間の動き)

 今月(九月七日より十月七日まで)は、たくさんの雷があちこちで響き渡るかのような騒動の月です。

 怒りと闘争に満ち、勝つ者も敗れる者も血を流す姿が見られます。しかし、この時期の争乱には流された血に見合うだけの価値がなく、ただただ挫折者が続出するだけです。こんな時、智慧ある人は、慌てず騒がず、身に降りかかる火の粉を払いながらじっと時を待ちます。

 とにかくつまらぬ争いで傷つかぬよう心がけましょう。まさに護身の時です。

 ただし、単なる「高みの見物」では何もなりませんし、そう甘くはありません。上の空でいると、否応なしに凶事に巻き込まれたりしますから要注意です。大切なのは現象をよく観、そこに映し出されている人々の心を観、そして己の心を省みることです。

 

 また「過ぎたるは及ばざるがごとし」も明らかになりましょう。

 生物の研究分野に定向進化(テイコウシンカ)説があります。一旦進化の方向が決まると、ある程度その方向へ進化し続けるように見えるというものです。

 たとえば、馬の先祖は背丈数十?、足の指は四本でした。それがだんだん姿を変え、今のようになりました。マンモスの巨大な牙やオオツノシカの巨大な角なども、徐々に大きくなったものと考えられています。

 ここで問題なのは、オオツノシカの角の大きさは今や個体にとって負担が大きいだけで、どこまでもその方向へ進めばいつかは種を亡ぼすだろうということです。

 人間には知恵があるので、何ごともコントロールしながらここまでやって来ました。しかし、核兵器の開発やさまざまな面の環境破壊や不寛容な宗教の対立には危ういものを感じざるを得ません。人間も眼に見えない「オオツノシカの角」を持っているのではないでしょうか。

「勇み足」や「行き過ぎ」の恐ろしさに学びつつ、とにかく省みましょう。

 そして、振り出しに戻り智慧と人徳が試される来月を無事で迎えましょう。



※毎月の個人の運勢は機関誌『法楽』に発表しています。




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2005
09.01

9月の守本尊様は不動明王様です

今月(9月7日から10月7日まで)の守本尊様は不動明王様です









『種々界智力(シュジュカイチリキ)』をもって、人々がどのような境遇にありどのような心の世界に住んでいるかを見極めて、人それぞれに合った教えと救いをお与えくださり、どんな奈落の底にいる人をも、頭上の蓮華へ載せてその下からヨイショと押し上げてくださいます。




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2005
09.01

9月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



不動明王(ふ・どう・みょう・おう)



「ノウマク サンマンダ バザラダン カン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2005
09.01

9月の聖悟

「凡人の心は合蓮華(ゴウレンゲ)の如く、仏心は満月の如し」  ─弘法大師─



(普通の人の心はまだ開かない蓮華のようなものであり、み仏の心は満月のようなものである)



 私たちはみ仏の子であり、心の奥底にせっかく蓮華のような美しさを宿しているのに、煩悩が邪魔をしてなかなか華を開かせません。それにひきかえ、み仏は清らかな汚れのないお心が常に満月のような光を発し、私たちを照らしてくださっています。

 これから名月の候になります。皓々たる満月を眺める時「嗚呼」と感ずる感性が蓮華を開かせる力になりますよう。




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2005
09.01

福田とツッコミ

 NHK講座で『四十二章経』をとりあげました。
 その第九章に、布施によって供養をするには、より徳の高い相手を選ぶ方が良いという教えがあります。

 それは、一つには、より徳の高い人とはよりたくさんの人々を救い導く人だからです。
 その力は人を養う作物をもたらす田のようなものであることから「善行の種を蒔けば福徳という収穫の得られる田」であり、福田(フクデン)と呼ばれるようになりました。
 当然、釈尊のおられた頃は釈尊が最高の福田であり、お弟子さんたちも福田でした。
 次第に三宝(仏法僧)を敬い尊ぶ教えが確立され、布施の対象はみ仏であり、教えであり、それを学び守り伝える人々へと広がりました。
 この時代には、得られる福徳とは辛く苦しいこの世を脱すること、すなわちあの世で救いの世界へ生まれ変わることでした。
 今でもタイあたりではそれを保証するために、領収証を渡して「祝福の証」としている寺院があります。
 やがて、他のためになる利他行を重視する大乗仏教が流布すると布施の対象を選ばなくなりました。
 広く一般大衆、それも、むしろ「恵まれない人たちのためにこそ慈悲心を発揮すべきである。それによって自分も救われる」という考え方が興り四天王寺に敬田院・悲田院・施薬院・療病院が設けられ、東大寺にも悲田院・施薬院が造られました。
 そして、行基菩薩やお大師様などが托鉢行と共に全国へそうした教えを広められ、貧窮福田(ビングウフクデン…困窮した人を福田と考える)、看病福田(カンビョウフクデン…病人を福田と考える)などの言葉も生まれて、仏教における社会的実践としての慈善事業がここに始まったのです。
 お大師様の創建された授業料無料の綜芸種智院(シュゲイシュチイン)は世界初の開かれた総合大学であり、西洋にそうした大学が誕生する数百年も前の偉業でした。

 また、徳の高い人を求めるもう一つの理由は、徳の高い人を前にすると心が静まり、いつしか清められ、人間や人生への希望が高まり、自分の力も引き出されるからです。
 もっとも、自らを省みれば、一時的には自分の徳や力のなさに打ちのめされるかも知れませんが、それも長い目で見れば必ず向上へのステップになるものです。

 仏教における布施の思想が「自らの救済」から「自他の救済」へと深化したことは、小乗仏教においては悟った人「羅漢(ラカン)」になることがまず目標とされ、それをふまえた大乗仏教が自他を同体と観て自他を救う「菩薩(ボサツ)」をめざすようになったのと軌を一にしているのではないでしょうか。

 限られた時間内での講義でもあり、福田思想を判りやすく説明するために、こんなたとえ話をしました。
「私たちには原因と結果を結ぶ糸を完全に知る能力はありません。
 しかし、善行の功徳は必ずみ仏の世界へ積まれ蓄えられています。
 いつしかその壺がいっぱいになれば必ず福徳としてあふれ出します。
 それを信じて善行をやりましょう。
 もしも当たりクジを予約できたらどうでしょうか。
 こんなに嬉しいことはないでしょう。
 福田へ布施をするのはそのようなものです」
 とたんに鋭いツッコミを受けました。
「でも、『自分のため』で良いんでしょうか?」
 以前、布施は三輪清浄(サンリンショウジョウ…布施する人と、布施に使われるものと、布施を受ける人が清らかであること)が条件であると講義したのを覚えておられたのです。
「我ため」では、布施を受ける人の心が汚れているのではないかという指摘です。
 もちろん、ボケで応じるわけには行きませんから、こう答えました。
「福田という考え方には、『善行には福徳が待っており、悪行には災いが待っている』という因果応報の理を信ずるという前提があります。いろいろに
 説かれていてもその根本はここにあるのですから、因果応報の理を信じて進めば必ず救われます。

 真剣に考えていなければできないツッコミです。
 大変嬉しいできごとでした。これからも大歓迎です。




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