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2005
10.31

霜月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



身動きのにぶる此の頃こぼれ萩



焙じ茶を一寸濃いめに今朝の秋



埒もなき日の繰返し冬迎ふ



世の中に小さく生れいとどなる (「いとど」はコオロギのことです)




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2005
10.31

神無月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



新涼や筆洗ひの水取り替ふる



秋刀魚焼く猫に味覚のありにけり



今日といふ今を大事に地虫鳴く




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2005
10.29

運命転化法 3 ―身体の原理と心の原理―

 警世の書『病気にならない生き方』を読み、身体の健康についてのプロの見解が、心の健康を求めるみ仏の教えとあまりに通ずるところが多く、〈身体の原理〉は〈いのちの原理〉である以上〈心の原理〉と重なるものであることがよく解りました。

「治療だけでは本当の意味で患者さんを健康にすることはできません。
 手術や投薬よりも、日々の生活を改善することのほうが、根本的にはより重要なのです。」
○生き方を変えるのが、運命を願う方向へと転化させる根本的な方法です。


「人間を含めて動物はみな、何をどのぐらい食べるのがよいかというのは、自然の摂理で決まっているのです。
 自然の摂理を無始したところに健康な生活はありません。」
○身体を痛めつける難行も、欲に任せるだけの放逸も、共に心を安寧にさせることはできません。
 真理・原理に合わせて正しくコントロールされ、初めて心は安寧になれます。

「子供が親と同じ病気を発病しやすいのは、遺伝子として病気の原因を受け継いだからではなく、病気の原因となった生活習慣を受け継いだ結果なのです。」
○子供がおかしくなったからといって、生まれの因縁のせいにすることはできません。
 家庭の何が子供の心に反映されたのかをよく観る必要があります。

「人間の体質というのは、親からの「遺伝」としてもって生まれたものと、幼い頃からの「生活習慣」によって培われるものとの二つによって決まると私は考えています。」
○人間の運命は、持って生まれた因縁と、育ち及び生き方の因縁によって創られます。

「遺伝的要素はもって生まれたものです。
 でも習慣は「努力と意思の力」で変えることができるのです。
 そして、習慣の積み重ねによって遺伝的要素はプラスにもマイナスにも変わっていくのです。」
○無限の過去からの因縁が人間の誕生をもたらします。
 因縁解脱とは、たった今の自分を〈こうさせている〉要素のうち良きものを伸ばし、悪しきものを消すことです。それは、教えの実践によって成就されます。

「現代医学は「治療」、すなわち病気を治すことからスタートしています。
 それがそもそもの間違いだと私は思います。
 病気から始まる医学ではなく、健康な状態から身体をとらえ、どうしたら健康を維持できるのかということを考えていかなければ、「本当の医学」というのは成り立っていかないのではないでしょうか。」
○迷いの相に人間を本質を観たなら、真の救いは難しくなります。
 人間が本来み仏であることを観るところから、真の救いへの道が開かれます。
○学校や青少年の心の荒廃は、幼いうちの育て方から見直さない限り根本的な解決はありません。

「自然の摂理に即した「命のシナリオ」を無視させてしまったのは、人間の限りない「欲」です。」
○欲の人間的発露である創造性は、良きものも悪しきものも生み出します。
 立ち止まり、私たちが手にしている文明を点検する必要があるのではないでしょうか。

「よいことを始めるのに「遅すぎる」ということはありません。」
○心を定めるのに早い遅いはありません。発心(ホッシン)するのは常に〈たった今〉です。

「知る」とはありがたいことです。
 狂牛病は、草食動物である牛へ動物性の食物、それも牛自身の身体の一部を食べさせた人間の傲慢への自然界からの警告と観ていました。
 また、人間の子供を育てるのに人間の乳よりも牛の乳に頼ろうとするかのような姿勢に、奇妙さと危うさを感じていました。
 その感覚が正常であることを専門家に教えていただきました。

「知らぬ」とは恐ろしいことです。
 過日のお葬式の後でも「花の話」を申し上げました。
 数年前、子供がいじめで殺された学校の現場へ毎日花を捧げていた父親が、通っているうちに学校や犯人への怨みが昂じて暴力をふるい逮捕されたのです。
 花を捧げるのは、忍辱(ニンニク)つまり忍耐の心を養い、その生き方をもって御霊への供養とするためです。
 だからこそ、花は御霊ではなく、捧げる人の方を向いているのです。
 それなのに、花を捧げるのが捧げる人の行でもあることを知らなかった父親は、忍耐できませんでした。
 手に持ったおにぎりが食べものであることを知らずに餓死したようなものです。
 あまりに傷ましく、とうてい忘れられないできごとです。
 当山では、お葬式の最後に、極力こうした「五種供養」の教えをお伝えすることにしています。
 故人が己の死をもってつくった大切な〈教えが伝わる機会〉を活かさねばなりません。
 
 この本に接し、また、知らないでいた真理を教えていただきました。
 虚空蔵菩薩様の「是非善悪を見分ける力」のお導きでしょうか。




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2005
10.29

守本尊様のお智慧

 あの世で迷わぬようお導きくださるのが、初七日を守るお不動様から始まり、やがて来る転生の時に無限の宝ものをお授けくださる虚空蔵菩薩様までの『十三仏』様です。
 それに対して、この世で迷わぬようお導きくださるのが、鬼門である北東を守る虚空蔵菩薩様から天の大日如来様までの『守本尊』様です。

 死を迎え、よりどころとしていた肉体を失った魂が非常に不安定な状態におかれた時は、いち早くみ仏のご加護をいただかねばなりません。
 それが『枕経』の意義です。速やかに枕許へ出向き、悪しきものなどに惑わされぬようしっかり不動法を結びます。
 同じように、この世に生まれ、人としての智慧を発揮しながら生きる際にまず必要なのが、是非・善悪・虚実などを見分ける力です。虚空蔵菩薩様はそれをお与えくださいます。
 行者が「リン・ヒョウ・トウ・シャ・カイ・ジン・レツ・ザイ・ゼン」と切る九字の最初に「臨」と唱えれば、このお力が授かります。
 次いで、東を守る文殊菩薩様が、善きことを行なえば善き結果が待ち、悪しきことを行なえば悪しき結果が待つという「原因と結果の結びつき」を知る力をお与えくださいます。
 次いで、南東を守る普賢菩薩様が、因果の理に従って悟りを得る道筋を知る力をお与えくださいます。
 次いで、南を守る勢至菩薩様が、人の性根を見分ける力をお与えくださいます。
 次いで、南西を守る地の大日如来様が、人の欲するものを知る力をお与えくださいます。
 次いで、西を守る不動明王様が、人それぞれがいかなる世界にいるかを知る力をお与えくださいます。
 次いで、北西を守る阿弥陀如来様が、行くべきところへ行ける力を力をお与えくださいます。
 次いで、北を守る千手観音様が、過去世のありさまを観て人間というものの姿を知る力をお与えくださいます。
 
 ここまでで八方におられる守本尊様のお智慧をいただきました。
 そして、九字の最後に「前(ゼン)」と唱え、中央を守る地蔵菩薩様に、人はどうやって生まれ、死に、輪廻転生するかを知る力をお与えいただいて行は完結します。
 こうしてみ仏の子である人間として必要な智慧がすべて身についた時、天の大日如来様の曇りなき完全なお智慧の世界へ入られます。

 こうした『十三仏』『守本尊』の感得は、何という偉大なできごとだったことでしょうか。
 ピラミッドなどを造った先人の途方もない能力に思いを巡らすと、想像力が無限の世界に吸い取られて霧のようになってしまいますが、み仏の感得は、先人の遺されたお次第が追体験を約束しています。
 み仏の存在やお力は、行を重ねるに従って、より明らかになります。
 夢のようなこの世は(そしてきっとあの世も)、明らかなお導きがあればこそ生きて行けます。
「南無守本尊大法護如来」「南無大師遍照金剛」




2005
10.28

【現代の偉人伝 第6話】 亡き友人

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                      談 Tさん(仙台市)



 ご紹介があって、葬儀を行ないました。一切が終わり、精進落としの席で、隣りに座った方からお聞きした故人のお人柄です。

 ご了解いただき、ここに掲載します。 



 今日分かれたK君とは、四十年来のつきあいでした。ゴルフもしました。マージャンもしました。お酒も飲みました。旅行もしました。

 ずうっとN社で一緒だったのですが、忘れられない一件があります。

 ある時、当時盛んだった労働運動の猛者S君が配下になりました。勇名が全国にとどろいていたほどのS君は誰も手がつけられない暴れ馬で、僕とK君は、さてどうしようかということになりましたが、K君は、「S君は相当無理をしているから、いずれ身体を壊すでしょう。私にまかせておいてください」と、平然としていました。

 

 やがて、S君は会社で倒れました。

 その時、K君はただちに介護からの一切を自分で行ない、救急車で最も信頼していた病院へ運び込んでから奥さんへ連絡しました。

 それからの一カ月というもの、K君は一日欠かさず病院へ通い続けました。

「今日は、課長がこれを持って行けってよこしたよ」

「今日は、部長が俺は行けないけど君に読ませろってさ」

 こんなふうに言っては、新聞や週刊誌などを届けたんです。

 退院した時のS君は別人になっていました。会社を敵としか観ていなかった彼が上司の心にうたれ、組織のありがたさに気づいたのでしょう。



 それだけではありません。

 S君の子供が入学式を迎えた時です。K君はS君に休暇を与えました。

「君は、毎日忙しくて、ほとんど家をかえりみることもなかっただろう。明日は、お子さんと奥さんを『入学式おめでとう。安心して行ってこい』と送り出してやれよ」

 誰もが早朝から夜中まで無我夢中ではたらいていた時代ですから、あれはこたえたでしょうねえ。

 こうして人が変わり、職場の雰囲気がすっかり変わりました。

 K君はすばらしい部下であり、友人でした。



 お葬式を終えると、故人は他人とは思えなくなります。 何もないところから托鉢行で開基した当山では、お葬式はすべてご紹介か口コミなどで知ったという方のご縁であり、ほとんどの場合、故人とは遺影でしかお目にかかれませんが、旧知の友人、家族、親戚、知人といった気持になるものです。

 戒名の名付け親になることも、なんらかの影響があるのでしょうか。(戒名は修法を通じてみ仏から授かるもので、僧侶が決めるのではありませんが)

 今回のKさんも、お会いしたことのなかった方とはとても思えないでいたので、お話はすんなり心へ入りました。

「えっ、そうだったんですか」

ではなく、

「そうでしたか。………そうでしょうねえ」

といった感じです。

 

 花火がとても好きだったKさんとの永遠のおつきあいが始まりました。




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2005
10.24

護摩の炎 ―守本尊・火天・竜神―

 護摩の炎には、不動明王をはじめとする守本尊様など、さまざまな仏神が現れてくださいます。














2005
10.24

五欲の問題 4 ―天人五衰 4―

 欲の問題の続きです。

4 色欲
 色欲は、種の保存の本能とも言うべき最も根源的なところから出ています。
 そのために、ものごころがついてから灰になるまで、異性の存在は常に最大の関心事の一つです。
 それは、人生に潤いを与える場合もあり、この上ない苦しみ・辛さ・憂いを与える場合もあります。
 男性の色欲は女性への「優しさ」として現れます。
 女性の嬉しい様子が自分の喜びとなります。
 そして、思いが深まれば、自然に相手を守ろうとするようになります。
 こうなった男性は、自分が相手にとって一番でなければ気が済みません。
 女性の色欲は男性への「アピール」として現れます。
 自分のアピールしているところを解ってくれる男性が現れるまでは、自然に自分を守ります。
 そして、自分を解り守ってくれる相手へ気を許しやがては身体を許せば、相手のためにますます自分を守ろうとします。
 
 男女が一組になり、心身が満たされ、やがてはいのちのバトンタッチをする子供を授かればめでたしめでたしですが、人間の他の生きものと決定的に異なっているところは「あいまいさ」にあるので、ことは、そううまくばかりは行きません。
 草木であれ、ケダモノであれ、人間以外の生きものたちの一生は〈時が来れば、自然に時に応じたことを為す〉だけで、実に単純です。
 人間だけは自由気ままにさまざまな想念を持ち、さまざまな行動を行います。そこに創造性が生まれ、同時に悪も芽生えます。
 この特殊性が、色欲における問題を生じさせてしまいます。
 
 色欲は人倫を破壊し、修行を妨げるので、仏教においては「不邪淫戒」として厳しく戒められています。
 釈尊の説法についてはこれまでいろいろと学んだので、ありがたいことに当山と同じ名前の法楽寺を縁とする江戸時代の名僧慈雲(ジウン)尊者の説く「不邪淫戒」に学びましょう。
『十善法語』の意訳です。

「この不邪淫戒は、万巻の書を暗唱する者ですら、持たねば身に災いが来る大切な戒めである。
 はなはだしい場合は、家を滅ぼし国を滅ぼす。
 この戒に背かなければ一生、心安らかである。
 学者も愚者も、同じように慎み守らねばならない」
「国の乱れもこの戒が破られることを元として起こる。
 家の礼節の破壊も、身の礼節の不備もこれを元として起こる。
 謹慎に戒を守る者は、神々の冥助が得られる。男性も女性も、我に属せぬ者に心を寄せてはならない。みだりに狎れ睦まじくしてはならない」
「淫欲は身心を縛り、重なり来る憂いとなる。
 愛欲に随順すれば、この世界はことごとく執着の地獄となる。
 淫欲・愛欲が流れれば我を一番とする高慢となり、あるいは争いを起こす」
「愛欲は心身の安寧と澄んだ智慧の障害となるので、戒律で深く戒められている」

 尊者は、色欲による「乱れ」が身を滅ぼし、家庭を崩壊させ、ひいては社会関係すら破壊してしまうと説かれました。
 乱れは、親しくなるべきでない相手と「狎れ親しむ」ところに起こり、そうした「いい加減さ」は昂じて人格を賤しくし、精神の背骨を砕きます。
 
 男性の「優しさ」が向けられるべきでない相手へ向けられること、女性が自分を大切にし「守る」意識が薄れること、これが「いい加減さ」の現れです。

 心をあいまいに揺れ動くままに任せていれば、はてしなく、いい加減になることでしょう。
 倫理・宗教の必要性は、たやすくケダモノになり得る人間の尊厳を守るところにあります。
 尊者は「正義不邪淫戒」と説かれました。
 色欲の相手はただ一人と思い定めましょう。
 この単純な決意が、一夫一婦制の私たちにとって正義と尊厳を守る生き方になります。

 欲の問題は、次回が最終回となります。




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2005
10.23

五欲の問題 3 ―天人五衰 3―

 前回に引き続き、残りの欲を考えてみましょう。

3 物欲
 もしも財物があって困るというならば、使い方を知らない方でしょう。
 五欲のうちの3つ睡眠欲・食欲・色欲は身体と直接関係のある欲ですが、いずれも、ある程度モノがあってこそ満たされ、程良く満たされている感覚は、ほとんど「幸せ」に近いものです。
 安心して眠るには、眠る場所が必要です。
 空腹を満たすには食物が必要です。
 夫婦生活には、プライバシーの守られる場所が必要です。
 生命を維持し種を保存する、生きものとして根源的な部分で程良い満足感が得られていないと、心身に安定を欠きやすくなります。
 心に余裕がなくなります。
 
 仏教は「貪り」という欲の暴走を戒めているのであり、人間の尊厳が守られぬほど欲が満たされぬことを善しとするのではありません。
 釈尊は、欲の否定を目的とした苦行の無意味さを知ってそれを捨て去り、説かれました。

「不死(悟り)を願うに、いかなる苦行も利をもたらすことなしと知った。陸に上げられた舟の艪舵(ロダ…こぐ櫨と方向をとる舵)のごとく、すべて利をもたらすことはない」

 欲の敵視である苦行も、飢餓も、貧困も、すべて人間が人間らしさを充分に発揮しながら生きるための障害に他なりません。
 大切なのは「少欲」であり「知足」です。
 「少欲」とは、欲の大きさが小さいことではありません。
 自分のために取るもののむやみと大きいことを望まないことです。
 たとえ百億円を得ようと、それを世のため人のために用いて自分はつつましい生活をする。
 たとえ最高権力者になろうと、弱者や少数者の思いを忘れず、敗者の気持を忖度し、すべての人々を救うべく権力を行使する。
 こんな人は、立派な「少欲」の人です。
 縁の人々あるいは万人の幸せを求める「大欲(タイヨク)」を持ちながら、自らは少欲に生きるのが、仏教に説く理想の人間像です。
 
 また、「知足」とは、簡単に満足してしまうことではありません。
 得られたものに感謝し、得られた範囲のものに不平を言わずすなおに喜ぶことです。
 たとえば「一日三千円分はたらけば生きて行けるから、これで良いや」と安易に日々を送る人は、単に意欲のない怠惰な人であって真の「知足」の人ではありません。

 僧侶に托鉢の行は欠かせないものでした。
 過去形で書くのは、もはや托鉢行が形骸化しているからです。
 今や、行ではなく「行事」になり果てました。
 托鉢は、み仏のおはからいへ自分のいのちを託して生きる「信」をつくるものであり、高慢心を打ち砕くものであり、世間の実態や人々の心を知るものであり、知足の心を磨くものです。
 他のいかなる行をもってしても代えることはできません。
 托鉢から始まった当山は、托鉢行を「本物の僧侶をつくる基本の行」と位置づけています。
 釈尊は、『月の喩え』と言われる経典の中にその心構えを説いておられます。

「行者たるものは、どのような家を訪ねても、何ものにも心とらわれず、ただ『得ようとするものは得られるように、功徳を欲する人には功徳を施せるように』と念じなければならない。
 また、自分が得たならばそれを喜び、他が得たならば、それを喜ぶのが良い」


 布施が得られなければ生きられないので、訪ねたお宅で何かをいただけるように願うのは当然であり、訪ねたお宅で求める幸せのためにはできるだけのことを行なう、つまり、在家の財施(ザイセ…財による施し)と行者の法施(ホウセ…法による施し)があって初めて布施行は完成となります。
 托鉢僧が首から下げている袋は頭陀袋(ズダブクロ)と称し、執着を払い除くことの象徴です。
 縁によって得られるものにいのちを託すことにより、少欲と知足を徹底して学びます。
 托鉢では、たくさん布施をされそうなお宅を選んで歩くことは許されません。
 それでは賤しい「物もらい」であり、文字通りのコジキになってしまいます。
 万人の家に音もなく静かに訪れる月光のように、清らかに戸口へ立つのが真の行者であると信じています。

 欲を程よく満たして幸せになる方法は最終回に譲りましょう。




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2005
10.20

【現代の偉人伝 第5話】 亡き主人

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                      談 Mさん(富谷町)

 

 主人は教師として北海道の都会から田舎へ赴任し、私たち夫婦はお風呂もないような山間の宿舎で新婚生活を送りました。場所は、―――何と宮床でした。

 主人は何でも自分でやれる人でしたし、山も好きで、今では想像もつかないような不便さながら、仲良く楽しい毎日でした。

 やがて団地に家を建て、二人でつつましく安定した生活を送っていましたが、主人は突然不治の病気に罹りました。

 死を覚悟をした頃「俺の弔いは法楽寺へ頼んでくれ」と言い出したのにはびっくりしました。何しろたまたま「托鉢日記」を目にしただけで、行ったこともなければご住職と話をしたこともないのですから。

 ただ一度、ホームセンターで作務衣姿のお坊さんを見かけた時、「あの人に違いない」と確信した様子でしたが、実際その通りでした。不思議なものです。

 あの節は突然の電話で失礼しました。会ったこともないのに「夫が危ないのです。ぜひと言っていますから、亡くなった時はよろしく」とお願いしたのでしたね。



 三回忌を経てようやく立ち直ったという実感があります。

 供養会直前に何度も何度も出てきては何か言いたそうにする夢には本当に心配しましたが、お守をいただき供養の修法が終わってからは、ぴたっと現れなくなり、私の心には安心感が広がりつつあります。

 新しいお花を供えるたびに心が洗われるような清々しい思いになります。お墓を磨くと、心も綺麗になったようで嬉しくなります。

 ようやく私にとっての未来が見え始めた今、主人の人間としての凄さ、男の人の力というものの大きさが、日に日に実感されます。主人は生きている間、私を守り抜いてくれました。今も変わらず私の心の中に住んでいて、護ってくれています。私は決して一人ではないんです。魂は消えないんですね。主人は、はっきりとそれを教えてくれています。



 お送りしたお米は、主人がこれでなければと選びに選んで食べていたもので、近所のお米屋さんは、必ずこれを用意しておいてくれます。

 私は、ようやく、二人で食べていたお米がおいしく感じられるまで立ち直りました。どうぞ、ご住職もお米を力にしてくださいね。

 主人に護られ、主人が選んだご住職に護られている日々を感謝しながら送っています。

 主人は、本当に凄い人です。




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2005
10.20

運命転化法 2 ―仲好しがうまく行かない時 

 うら若い女性Aさんが、美人も台無しの浮かぬ顔で人生相談へ来られました。
「誰とでも分けへだてなく同じような距離で接し、皆と仲良くしているつもりなのに、何となく後から気まずくなったり、ああ言ったのが失敗だった――、とか、後悔するようなことが起こってしまいます。どうすれば良いんでしょうか?」

 観たところ、この方はとても〈良い人〉なので、無意識の裡に相手も自分と同じだろうという感覚で接してしまい、相手側にこちらで気づかぬ気持や思惑や魂胆があったりすると、こちらの気持に空回りが生じたり、思いもよらぬ成り行きが待っていたりするのです。
 この方には、人と仲良くしたいという無意識の傾向もあります。
 
 ここで必要なのは、相手の性根を見分けることです。この力を司るのが勢至菩薩様です。
 相手がどういう人なのかを知るのは、人間関係の出発点でどうしても必要です。
 もちろん、時が経たねば見えない部分はあるにせよ、まずある程度の判断がなければ、適切な対応はできません。
 こちらが善意であればすべてうまく行くとは限らず、もしも相手に悪意があればそれから自分を守らねばならないし、それを封じなければならない場合もありましょう。
 人間がみ仏の子であるならば、み仏のお力をいただいているはずです。それがまんべんなんく備わっていれば「仏様のような」円満な人柄になりますが、なかなかそういう方はおられません。
 過去の因縁によってデコボコしているのが人間です。
 へこんだ部分が運勢の弱い部分であり、それを放ったままで生きていると、いつか「あれえ?どうしたのだろう」という時が来ます。
 それは因縁解脱のチャンスなので、Aさんのようにしっかり自分を見つめ直せば、運勢の舵をより明るい方向へと切ることができます。
 
 Aさんは、まず〈相手の性根を見分ける〉意識を持つことによって、周囲の世界がこれまでと変わります。
 それでどんどん開けて行くなら結構、もしも、もう一段の力をつけたいならば、勢至菩薩様の修法を受けることによってさらに方向性ははっきりすることでしょう。

 また、Aさんは、過去の失敗が忘れられない、何かをしようと思っても決心が付かないと嘆きました。
 気弱になると過去へ逃げたくなるのが人間です。
 過去へ入り込むと、それはもうどこにもない幻なのに記憶上は〈確かに在った〉世界なので、誇りにせよ罪悪感にせよ胸の高鳴りにせよ意気消沈にせよ、それらはぬるま湯となって心を包み、思考停止させます。
 決して真の安心ではないのに、どうなるか判らない未来とは反対に〈在った〉ことが、霧のような安心感となるのです。
 しかし、そうしているうちに時は容赦なく刻み続け、寿命は減る一方です。
 釈尊は「人間はわずかな水に棲む魚のようなものである。(水が干上がらぬうちにしっかり生きよ)」と説かれました。
 
 時にはぬるま湯で休む時期も必要ですが、Aさんにはふさわしくありません。
 秘めた夢があるはずです。
 その夢を強く意識することが、姿勢を未来へと向ける出発点です。
 夢が揺るぎそうになったならば、守本尊様へおすがりすることです。決心がつかない時は、守本尊様へおすがりすることです。

 そして、もう一段のご加護を求めるならば守本尊様の修法を受けることです。

 お守を手にしたAさんは、花のような気配を漂わせながら帰られました。きっと明るい道へ踏み出されたのでしょう。




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2005
10.18

五欲 2 ―天からの墜落 2―

「天からの墜落」を読んだ方からご質問をいただきました。
天人界は、死後にもしかしたら行くかも知れない世界の話なのに、天人界で起こることは、まるでこの世と同じですね?」
というものです。
 まさにそのとおり、み仏の教えは時空を超えた真理ですから、説かれている〈践むべき道〉には、あの世もこの世もありません。
 道は永遠なのです。

 もう一つのご質問は、
「いのちと欲が離れず、欲とのつきあい方を知らないから迷うのなら、一体どうすれば良いんでしょうか?」
というものです。

 そこで、今回は、もう少し具体的に「五欲」を考えてみましょう。

1 名誉欲
 人は誰でも他人から認められれば嬉しいものです。
 認められればどうなるでしょうか?
 信用されます。
 信用されるのは、人としてまっとうで正しい生き方をしている証です。
 名誉欲の健全な人は、必ず信用を重んじます。
 特に社会的立場の高い人などは、信用が何よりも大切であると考えられる方も少なくないことでしょう。
 だから、こういう人はいつも自分の行為が正しいかどうかを考えています。
 名誉欲は、正しさへ向かわせる大きな力なのです。
 
 しかし、この欲が暴走すると、名誉自体が目的となり、それを守るためには何でもやる人が現れます。
 政治家の変節・官僚の不作為・嘘の学術研究など、枚挙にいとまありません。
 また、名誉を軽んずる人は信用をも軽んじますから、平気で悪事を行います。
 最近はやりの悪徳リフォームや、振り込め詐欺など、これまた新聞だねは尽きません。
 
 信用を大切にし、それを「おかげさま」と力にして、めざす目的のために邁進する人になりたいものです。

2 睡眠欲
 睡眠は、脳の疲れが指令を発し、脳と身体全体とを休ませる生命維持に欠かせない大切な行為です。
 食べ物は点滴などである程度補えますが、睡眠は他のもので代用するわけには行きません。
 だから、昔、世界中で行われた拷問の一つに、眠らせないというものがありました。
 ソルジェニーツィン作『収容所群島』にはこう書かれています。

 主任取調官シワコフは言った。
「監獄医からの資料によると、お前の血圧は上が240で下が120だ。
 畜生っ、お前にはこれではまだ低い(彼女はもう50歳を過ぎていた)、お前のような悪党には、こちらが手をかすこともない。
 青あざや打ち身や骨折なしでくたばるように、血圧を340まで上げてやるぞ。
 それにはお前を寝かせないだけでよいのだ!」

 眠くなったなら、脳が求めているのですから休むのは当然です。
 自分の心の平静を保てる人は、安眠が約束されます。
 天人に現れる墜落の兆しのような冷や汗などはありません。
 釈尊は『法句経』で説かれました。

「戒律を守り清浄な日々を過ごす者は、身体に悩みなく、眠りは安らかで、目覚めには喜びが伴う」

 一方、惰眠はなりません。
 いのちとは時間です。
 一瞬一瞬の積み重ねが一生です。
 一瞬を無駄にするのは、一生を無駄にしていることになります。
 釈尊は『法句経』で厳しく戒めておられます。

「修行者よ、起きよ!じがばち・たにし・どぶがい・木喰い虫たちのごとく暗所を安心の場とし、惰眠を貪って何になるのか」


 きちんと眠り、活き活きと生きたいものです。

 以下は、次回とします。




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2005
10.18

奉納剣 ―ペット供養会にて―

 10月16日、ご近所のペット霊園「やすらぎ」さんで、恒例の合同慰霊祭が行われました。
 まず、個別墓地の一聖地づつお経を唱えてご供養し、その後、共同墓のご供養となりました。
 好天に恵まれ、経営者ご夫婦のお人柄をしのばせるような数百人もの盛況ぶりで、駐車場の整理の方々も大奮闘でした。
 ご供養の後、お集まりの方々の除災招福を願い、隠形流居合の行者たちが奉納剣を行いました。
 午前の部、午後の部と、二度の修法は容易ではありませんでしたが、皆さんのためという思い一つで行者たちは真剣に剣を振りました。
 
 思いが集まれば運勢が創られます。目的を同じくする人々が共に未来を語り、共に未来の運勢を創らねばなりません。
 ただ未来を待つだけでは、どうしても不安がつきまといます。
 一方、ただ過去を言うだけになると脳のはたらきが下降して気楽になり、創造力が出なくなります。
 隠形流居合のメンバーが、共に教えに学び、未来を考え、行じ、自己啓発をしているのは心強いことです。
 
 終了後、参加された方々からねぎらいや感謝の言葉をいただきました。
 行者たちはどんなに勇気づけられたことでしょうか。

























2005
10.18

芋煮会

 10月15日、近くの会館において、壇信徒を問わず当山を護持しようとする方々のつくる護持会『親輪会』主催の芋煮会が行われました。

 役員やお手伝いくださる方々は前日から準備をされ、とびっきりおいしい鍋ができあがりました。炊きたてのご飯で作ったおにぎりなど手づくりの食事や差し入れの食べ物・飲み物、そしてわざわざSさんが自宅から持ち込んでくださったカラオケと、これ以上ない心のこもった一時でした。

 ふれ合いを求められる方、ご不幸から立ち直れらた方、立ち直ろうとしておられる方、感謝の気持で参加された方、皆さんそれぞれ尊い思いを抱かれての参加でした。

 スピーチの一言一言は、どれもこれも心に沁みるもので、Oさんからはこんな言葉をいただきました。

 

 最近、お母さんと一緒に亡きご主人のお墓参りに来られ、すべてが済んで発進した車の後部座席から、お母さんが『法楽の苑』をふり返りました。その時、作務をしていた弟子のS君が頭を垂れ、見えなくなるまで見送っていたのが印象に残ったそうです。

「このお寺を選んで良かったと母が言い、私もそう思いました」

 

 ただただ、縁を喜び、笑顔を交わし合う人々。―――極楽が顕れました。
















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2005
10.18

【現代の偉人伝 第4話】 歌手

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                      遠藤龍地(法楽寺)

 

  NHK大河ドラマ『義経』で、平重衡が打ち首になる場面がありました。

 源氏方から引き渡された南都の僧侶たちによって、かつて興福寺や東大寺を焼き討ちした罪をとがめられ、「仏罰である」と寺の境内地で処刑されまたのです。時代背景があるにせよ、報復として殺人を行う場面には言葉を失いました。



 翌朝、苦いものが心のどこかに残ったままで回忌供養へでかけました。

 仙台へ向かう車中でNHKFM放送のスイッチを入れたところ、ラテン風の旋律とリズムにのった明るく芯のある歌声を耳にしました。

 昭和48年、チリの混乱の中で処刑されたビクトル・ハラです。

 

 昭和13年、農村で生まれた彼は首都サンチャゴでチリ大学に学び、昭和38年ころからシンガー・ソングライターとしての活動を始めました。昭和44年に発表した「耕すものへの祈り」は南米の『新しい歌』運動の柱ともなりました。翌年成立したアジェンデ社会主義政権にあって彼はますますその輝きを強くしましたが、昭和48年9月11日に起こったクーデターにより、囚われの身となりました。

 しかし、彼はギターを手に唄って囚人たちを励まし続けました。ピノチェト軍事政権の兵士がギターを取りあげたところ、今度は手拍子で唄いました。そして、手をつぶされ、足をつぶされ、吊されてもなお唄をやめず、ついに数十発の銃弾で撃ち殺されたとされています。



 たった一曲を聴いただけでしたが、彼の唄は、実に伸び伸びとしていました。歌詞には民衆の立場に立つという政治姿勢が表現されているのでしょうが、暗さや怨みの気配はありません。あくまでも光に向かっています。

 相手が不当な搾取をし不当に暴力をふるおうとも、報復ではなく自立した行動をもって正義を実現したガンジーを思い出してしまいました。



 最近、皆さんが一生懸命植樹してくださった桜が折られました。一番み仏へ近いところにある高く成長した樹が、風も雨もない一晩のうちに無惨な姿になっていました。幸い引きちぎられてはいなかったので、添え木をしテープで留めてみました。どうなることでしょうか。

 犯人を詮索するつもりはありません。事実を知った地元の方は「よくそんな(恐ろしい)ことを………」と絶句しておられましたが、罰が当たりますようにと願う気持も毛頭ありません。

 因果応報の理により、放っておいても、犯人は自分の仕業の報いを受けます。恨んだり憎んだりして、こちらの心に毒を発生させるのは全く無意味で愚かしいことです。

『法句経』は、「怨みをなくすには、まず自分の心から怨みを取りのぞくことである」と説いています。

 きっと最期の時まで艶やかさを失わなかったであろうビクトル・ハラの歌声のように、何があっても、み仏を信ずる者の穏やかさを失わずにありたいと願っています。





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2005
10.18

五欲の問題 2 ―天人五衰 2―

天人五衰」を読んだ方からご質問をいただきました。
天人界は、死後にもしかしたら行くかも知れない世界の話なのに、天人界で起こることは、まるでこの世と同じですね?」
というものです。
 まさにそのとおり、み仏の教えは時空を超えた真理ですから、説かれている〈践むべき道〉には、あの世もこの世もありません。道は永遠なのです。

 もう一つのご質問は、
「いのちと欲が離れず、欲とのつきあい方を知らないから迷うのなら、一体どうすれば良いんでしょうか?」
というものです。

 そこで、今回は、もう少し具体的に「五欲」を考えてみましょう。

1 名誉欲
 人は誰でも他人から認められれば嬉しいものです。
 認められればどうなるでしょうか?
 信用されます。
 信用されるのは、人としてまっとうで正しい生き方をしている証です。
 名誉欲の健全な人は、必ず信用を重んじます。
 特に社会的立場の高い人などは、信用が何よりも大切であると考えられる方も少なくないことでしょう。
 だから、こういう人はいつも自分の行為が正しいかどうかを考えています。
 名誉欲は、正しさへ向かわせる大きな力なのです。
 
 しかし、この欲が暴走すると、名誉自体が目的となり、それを守るためには何でもやる人が現れます。
 政治家の変節・官僚の不作為・嘘の学術研究など、枚挙にいとまありません。
 また、名誉を軽んずる人は信用をも軽んじますから、平気で悪事を行います。
 最近はやりの悪徳リフォームや、振り込め詐欺など、これまた新聞だねは尽きません。
 
 信用を大切にし、それを「おかげさま」と力にして、めざす目的のために邁進する人になりたいものです。

2 睡眠欲
 睡眠は、脳の疲れが指令を発し、脳と身体全体とを休ませる生命維持に欠かせない大切な行為です。
 食べ物は点滴などである程度補えますが、睡眠は他のもので代用するわけには行きません。
 だから、昔、世界中で行われた拷問の一つに、眠らせないというものがありました。
 ソルジェニーツィン作『収容所群島』にはこう書かれています。

 主任取調官シワコフは言った。「監獄医からの資料によると、お前の血圧は上が240で下が120だ。畜生っ、お前にはこれではまだ低い(彼女はもう50歳を過ぎていた)、お前のような悪党には、こちらが手をかすこともない。青あざや打ち身や骨折なしでくたばるように、血圧を340まで上げてやるぞ。それにはお前を寝かせないだけでよいのだ!」


 眠くなったなら、脳が求めているのですから休むのは当然です。
 自分の心の平静を保てる人は、安眠が約束されます。
 天人に現れる墜落の兆しのような冷や汗などはありません。
 釈尊は『法句経』で説かれました。

「戒律を守り清浄な日々を過ごす者は、身体に悩みなく、眠りは安らかで、目覚めには喜びが伴う」


 一方、惰眠はなりません。
 いのちとは時間です。
 一瞬一瞬の積み重ねが一生です。
 一瞬を無駄にするのは、一生を無駄にしていることになります。
 釈尊は『法句経』で厳しく戒めておられます。

「修行者よ、起きよ!じがばち・たにし・どぶがい・木喰い虫たちのごとく暗所を安心の場とし、惰眠を貪って何になるのか」


 きちんと眠り、活き活きと生きたいものです。

 以下は、次回とします。
2005
10.17

五欲 1 ―天からの墜落 1―

 人間は死後どこへ行くかということについて考えたことのない方はおられないのではないでしょうか。
 仏教では、死後の世界が六つあると説いています。地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の「六道」です。

 ところで、悪事が多ければ地獄や畜生の世界へ行かねばなりませんが、良いことをたくさん行い何不自由ないとされる天人に生まれ変わっても、いつまでも楽しく暮らせるわけではありません。
 六つの世界をぐるぐると廻る輪廻転生(リンネテンショウ)はなかなか止まらないからです。
 たった一つの脱出法は、解脱(ゲダツ)つまり悟りを開くことです。

 さて、まだ悟っていない天人の寿命が尽きる時は、五つの兆しが現れます。
 故三島由紀夫の小説で有名な「天人五衰(テンニンゴスイ)」です。
1 頭上の花が萎みます。
2 脇の下を汗が流れます。
3 衣装が穢れます。
4 身体から発している光がなくなります。
5 自分の座にいて楽しめません。

 最近、これはどういうことなのかというご質問があり、行者としてそこに立ってみました。
 
 もしも自分が天人となって楽しく暮らしていて、ある日突然、たとえば争い殺し合う修羅界へ行かねばならないことを知ったならどうでしょう。
 楽と苦の落差があまりに大きく、その驚きや恐ろしさや悲しさはとても想像し切れるものではありませんが、五衰の一つ一つを、迷いの中にある者として受け止めてみました。

1は、「名誉欲が満たされない」ことの象徴です。
 天人のみに与えられている花が萎むとは、特権の消失です。
 この上ない座が奪われるのです。

2は、「睡眠欲が満たされない」ことの象徴です。
 ある学者は人間なら腋臭(ワキガ)の意味であろうと解説しておられますが、脇の下の汗とは「冷や汗」でありましょう。
 それが出るような精神の不安定があれば、鬱々(ウツウツ)とした夜になるに相違ありません。

3は、「物欲が満たされない」ことの象徴です。
 物があってボロボロの格好をしている人は、まずありません。

4は、「性欲が満たされない」ことの象徴です。
 異性への意識があるうちは必ず身ぎれいにするものです。身支度に無頓着になるとは、異性への関心が薄れ、異性が離れることです。

5は、「食欲が満たされない」ことの象徴です。
 いるべき場所にいてなお心が憂いに閉ざされている人に、嬉しい食卓はありましょうか。

 天人の楽園は何不自由ない世界ですから、名誉欲・睡眠欲・物欲・性欲・食欲は何らかの形で満たされており、あるいは欲として感じられていないのかも知れませんが、「五欲」の束縛は完全に断ち切れてはいません。
 輪廻転生の原因は保ったままです。
「五衰」はそれが明らかになることでありましょう。
 ならば、天人界からの墜落は、欲に動かされる存在の愚かしさとその報いの恐ろしさを究極の形で示すものではないでしょうか。

 こんなふうに答えながら、み仏の教えは「欲とつき合う智慧」を教えてくださるものであることをあらためて考えさせられました。
 もちろん、欲は決して「悪」ではなく、敵視し消滅させる必要はありません。
 欲とのつき合い方を知らぬ無明(ムミョウ)こそが、迷わせ悪をもたらす根元です。
 智慧の明かりで無明を消し、五衰の恐怖に遭わぬようにしたいものです。




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2005
10.17

五欲の問題 1 ―天人五衰の話 1―

 人間は死後どこへ行くかということについて考えたことのない方はおられないのではないでしょうか。
 仏教では、死後の世界が六つあると説いています。
 地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天人の「六道」です。

 ところで、悪事が多ければ地獄や畜生の世界へ行かねばなりませんが、良いことをたくさん行い何不自由ないとされる天人に生まれ変わっても、いつまでも楽しく暮らせるわけではありません。
 六つの世界をぐるぐると廻る輪廻転生(リンネテンショウ)はなかなか止まらないからです。
 たった一つの脱出法は、解脱(ゲダツ)つまり悟りを開くことです。

 さて、まだ悟っていない天人の寿命が尽きる時は、五つの兆しが現れます。
 故三島由紀夫の小説で有名な「天人五衰(テンニンゴスイ)」です。
1 頭上の花が萎みます。
2 脇の下を汗が流れます。
3 衣装が穢れます。
4 身体から発している光がなくなります。
5 自分の座にいて楽しめません。

 最近、これはどういうことなのかというご質問があり、行者としてそこに立ってみました。
 
 もしも自分が天人となって楽しく暮らしていて、ある日突然、たとえば争い殺し合う修羅界へ行かねばならないことを知ったならどうでしょう。
 楽と苦の落差があまりに大きく、その驚きや恐ろしさや悲しさはとても想像し切れるものではありませんが、五衰の一つ一つを、迷いの中にある者として受け止めてみました。

1は、「名誉欲が満たされない」ことの象徴です。
 天人のみに与えられている花が萎むとは、特権の消失です。この上ない座が奪われるのです。
2は、「睡眠欲が満たされない」ことの象徴です。
 ある学者は人間なら腋臭(ワキガ)の意味であろうと解説しておられますが、脇の下の汗とは「冷や汗」でありましょう。
 それが出るような精神の不安定があれば、鬱々(ウツウツ)とした夜になるに相違ありません。
3は、「物欲が満たされない」ことの象徴です。
 物があってボロボロの格好をしている人は、まずありません。
4は、「性欲が満たされない」ことの象徴です。
 異性への意識があるうちは必ず身ぎれいにするものです。
 身支度に無頓着になるとは、異性への関心が薄れ、異性が離れることです。
5は、「食欲が満たされない」ことの象徴です。
 いるべき場所にいてなお心が憂いに閉ざされている人に、嬉しい食卓はありましょうか。

 天人の楽園は何不自由ない世界ですから、名誉欲・睡眠欲・物欲・性欲・食欲は何らかの形で満たされており、あるいは欲として感じられていないのかも知れませんが、「五欲」の束縛は完全に断ち切れてはいません。輪廻転生の原因は保ったままです。
「五衰」はそれが明らかになることでありましょう。
 ならば、天人界からの墜落は、欲に動かされる存在の愚かしさとその報いの恐ろしさを究極の形で示すものではないでしょうか。

 こんなふうに答えながら、み仏の教えは「欲とつき合う智慧」を教えてくださるものであることをあらためて考えさせられました。
 もちろん、欲は決して「悪」ではなく、敵視し消滅させる必要はありません。
 欲とのつき合い方を知らぬ無明(ムミョウ)こそが、迷わせ悪をもたらす根元です。
 智慧の明かりで無明を消し、五衰の恐怖に遭わぬようにしたいものです。

2005
10.14

運命転化法 1 ―良い運勢・悪い運勢―

 黒っぽい背広にスカッとした姿勢、バリバリの営業マンという風情の男性が人生相談に来られました。
 ここのところ事故や仕事の問題などが重なってどうも運気が悪いそうです。
 正直な方で、知人に勧められた有名な祈祷所へ行ったら悪霊を祓いに通ってくださいと言われて不信感を抱き、かねてインターネットで見ていた当山へ足をはこんだと言われます。
 観たところ、もちろんそんなものが憑いてはいません。
 ただ、運気がいかなるものかを理解され、その対処法をもう少し考えられれば大丈夫です。
 まして、しっかりみ仏のご加護を受けて運命転化をはかりたいとの意思があるのですから心配は要りません。

 事故を起こしてもケガをしなかったり、辞めてもすぐ次の仕事がみつかったりと、悪いことがあっても〈何とかなっている〉のは悪縁がまだ仮の状態にあるということです。
 この時点では、まだ悪縁が実のものになっていない、つまり、運命が悪くなってはいません。
 仏神へ手を合わせる気持が運勢の下支えになって、ドーンと落ちずにおられることも確かでしょう。
 このように〈仮の悪縁〉がある時は「どうも運勢が良くない」と感じるものです。
 それは、運気の流れを学ぶ縁の時です。
 ものごとがうまく進んでいる間は自分の努力のせいだと疑わず、引っかかり出すと「これは一体何のせいだろう?」と疑心暗鬼になるのが、普通の心のはたらきです。
 停滞の時こそ、真理・真実を学ぶ扉の前へ立っているのです。

 ここで必要なのは、運勢を知り、正邪・善悪・虚実を峻別する智慧です。
 ものごとをはっきりさせ、足場を固めねばなりません。
 仮に〈後厄〉ならば、何であれ予定より時間がかかるつもりで計画し行動し、愚か者の邪魔が入ることにも驚かず、人々と共にあることをうまく活かすようにすることです。
 女性の智慧も救いになりましょう。

 もしも、〈実の悪縁〉が生じ、運命が悪くなって来たならば、今度は正しさだけでは対処し切れません。
 ここでは、慌てず心にゆとりを持ち、何かと大変ではあっても、思い切った布施行をすることです。
 見返りを求めず己の持てる物を誰かのために手放すことによる究極の功徳が悪縁を消滅させます。迷わず捨て、空(クウ)になれば、怖れるものはありません。

 一方、〈仮の良縁〉がある時は「運が向いてきたようだ」と感じるものです。
 この時点では、まだ良縁が実のものになっていない、つまり、運命が良くなってはいません。
 必要なのは見栄や我を捨て、相手を思いやることです。それが通じれば、やがて仮のものが実を結ぶようになりましょう。

 もしも、〈実の良縁〉が生じ運命が良くなってきたならば、今度は優しさだけではそれを保てません。
 調子の良い時ほど「人の道」「教えの道」へ思いをいたし、自らに厳しい姿勢で生きることです。
 厳しさこそが良き運命を持続させる唯一の力です。
 そのために、不殺生・不偸盗などの「十善戒」を心に念じたり、お線香を捧げて精進を誓ったりしましょう。

 お話とご祈祷が終わり、彼は意気軒昂で帰られました。
 きっと開運されることでしょう。




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2005
10.13

原爆慰霊碑を考える その3

 これまで、『原爆慰霊碑を考える その1』として、広島市にある原爆慰霊碑(正確には原爆死没者慰霊碑)に刻まれた「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」という碑文の異様さと、文章にこめられた思惑などを観ました。

 次いで、『原爆慰霊碑を考える その2』として、碑がつくられた背景や経緯を調べました。

 最後に、「これから」を考えましょう。

 中央にある石棺へ納められた死没者名簿は平成17年8月6日現在で85冊、犠牲者数は242,437人に上っています。
 たった一人の肉親を亡くした時の衝撃と、その後の気持を思い出すと、気の遠くなるような数であり、言葉を失ってしまいます。

 さて、慰霊碑へぬかづく者は、何よりもまず、御霊の思いそのものにならねばなりません。
 そしてご遺族のお気持を忖度せねばなりません。
 そして誓わねばなりません。
 犠牲者となった方々の慟哭を感じ、浄土への旅を想う時、いかに祈れば良いのでしょうか?
 近代史上最悪の戦争犯罪へ対峙する時、血で血を洗う修羅の悪道へ堕ちず、飼い慣らされ喰いものにされる羊の愚蒙から離れて、いかなる覚悟をすべきなのでしょうか?
「原爆の犠牲となりしは恨むまじ 再びの原爆使用は許すまじ 尊厳にかけて」 これが結論です。
 一人でも多くの国民がまごころで合掌し、「安らかに眠って下さい 過ちは繰返しませぬから」の文と比べてくださるよう願わずにはいられません。
 祖霊に安んじていただき、これからの日本を担う子供たちを導く、確かな道を考えたいものです。合掌

※修羅界については『修羅界から脱するには ―救われる先―』、放射能兵器劣化ウラン弾については『真理・道理・原理』に略述があります。




2005
10.10

滝行 3 

Category: 隠形流居合
 女性行者の眼に映った光景です。













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2005
10.10

滝行 2 ―お導き―

 滝行の日は、確かなご守護を感じていました。
 まず、行の場へ到着するまで雨が降らなかったことです。
 カッパを持たず折りたたみ傘一本しかない一行は、途中で降られていたら大変でした。
 全員が泥と落ち葉ですべる崖を降りられていたかどうかも判りません。
 まるで着くのを待っていたかのような雨でした。
 しかも、テントの中で行の準備が終わる頃、雨は一旦あがりました。
 おかげでほとんど水かさの増していない川へ入ることができました。
 もう少しひどくなれば、鉄砲水などの危険性があるので中止せざるを得なかったかも知れません。
 
 帰途は降ったり止んだりになりましたが、一旦滝や川でさんざん濡れたので、もう気になりません。
「やった!」という満足感があったので、意気揚々でした。
 ただし、ところどころで目にする小さな沢や岩の崩れた斜面を流れ落ちる水には、行く時とまったく違う激しさがあり、滝を後にするタイミングが遅れなかったことに感謝しました。

 山道の一部にガレキの斜面があり、枯れ木などにすがりながら順番に降りていたところ、四人目がつかまった大木が倒れました。
「あっ」という声と物音に気づいて目を上げた時は、下の平坦な所にいたS君が、途中からY字型に枝分かれした部分に両脇をはさまれるような位置で立っていました。
 異様な気配に振り向いたS君は、倒れてくる大木の幹を、とっさに左手で払ったそうです。
 おかげで直撃をまぬがれました。
 いくら隠形流の行者とはいえ、かすり傷一つなかったのはご加護としか言いようがありません。

 帰山する車中で、毎日早朝から修行を続けているS君へ言いました。
「今日はよくやったな。もう、一人前だ。もうすぐ、一緒にお弔いにでかけるようになるよ」
 S君は、まだお葬式でお唱えしたことはありません。

 その夜、当山の法務に共鳴される太白区の方から電話があり、お弔いのご依頼がありました。
 故人は風景画などを描くのが趣味で、私たちが滝行をしたあたりへよくでかけておられたといいます。
 しかも、その日は、危篤をくりかえしながら長いこと入院している病院でいつになく食べものを口にして電話にもでられるほど元気を取り戻し、遠くにいる家族とも意思を通じてから、夜を迎え静かに息を引き取られたそうです。

 私たち行者も、故人も、まごうことなきお導きの中にあった一日でした。




2005
10.09

滝行

 今日は寒露(カンロ)。露が寒気によって凍る寸前となる状態を指し、菊が秋の最後を飾って咲き始める時期ですが、かねて予定していた滝行のために、錫杖をうち振りながらぬかるんだ山道を行きました。
 メンバーは男性3人、女性3人。隠形流居合の行者たちです。
 クマザサと深い杉林は熊やカモシカの棲息を感じさせ、時折でくわす崩落した瓦礫の斜面を通り過ぎる空気の流れは、霊気の確かさを教えてくれます。
 山道からそれて崖をくだり、渓流の近くへ着いた時、天気予報通りの雨となりました。急いでテントを張り、男性陣は水へ入る準備を始めました。

 さして高さはない滝ですが、一帯の気配が実に清らかで、行の場としては申し分ありません。
 洒水(シャスイ…聖水)加持をしている間に行者たちは護身法を結び、お不動様の護身法を重ねて修してから慈救呪を唱え、辟除と結界の法で護られた流れへ踏入ました。

 滝行の第一の目的は、身体と言葉と心の三つを一つにするために、他へ意識が行かぬよう集中力を高めることです。
 手に不動明王の印を結び、口に不動明王の真言を唱えると、心は自然に不動明王となります。身体が水の中にあり死へ向かうという究極の非常事態であってもなお、三つが揺るがなければ、いつどこにいても不動明王になることができます。
 それは、〈本来み仏〉である私たちの本姿で生きることに他なりません。
 
 私たちは善行のみに生きることは困難で、どうしても、智慧に従って生きられず、欲に流され、身体や言葉や心がみ仏でない時間を過ごしがちです。
 つまり三つが悪業を積むわけですが、三つがみ仏と一致すれば迷いの日常生活で隠れていた秘密の姿が明らかになります。
 こうして善悪の入り交じった三業をみ仏の三密に変えることが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、真言密教の目的はここにあります。
 
 第二の目的は、いのちの根元に触れることです。
 私たちは、普段、生きているという意識を持たずに時間を過ごしています。
 精魂込めた仕事をやり終えたり、趣味に没頭する時間を堪能したり、無心に自然と向き合ったり、おいしいものを食べたり、気のおけない友人と過ごしたり、あるいは他人様に喜ばれることがあったりすると、?ああ、生きている?と気がつきます。
 滝行では、身体を冷やされているうちに、何かが暖かくなり出します。
 きっと、危機に瀕した細胞たちが眠っていた生命力を発揮し始めるのでしょう。どこでもなく自分の中にある暖かさ、―――確かに生きているのです。

 第三の目的は、運勢を変えることです。
 もちろん、明確な目的を持って行に入るので運勢を変えることは目的ですが、運勢が変わるのは、行者すべてに必ず訪れる結果でもあります。
 私たちの生きた歴史はすべて無意識の領域へと蓄えられ、新たな縁に〈反応する可能性〉として人の生き方を左右します。
 美しい音楽を聴いて過ごす人は、心がそうした美しいものによく反応し、むごたらしい映像を好んで見ている人は、いつしかそうした場面を求める行動に走ったりします。
 哀しいことに、親から受けた虐待が子供の運命に強くかかわるのも、同じ理によります。
 体験は、すべて、それが〈活きる時を待っている〉のです。
 あるいは、〈活きる時を呼ぶ〉とも言えます。
 滝行により三業が三密になった人には、み仏になる時がまたやって来ます。
 明らかに運勢が変わるのです。

 三人は見事でした。み仏になり切っていました。
 傘もささず雨の中で真言を唱え、見守っていた女性三人も見事でした。
 ストーブが欲しくなりかけたこの時期に不思議に27度もの気温を記録した日、行の目的は、成就しました。




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2005
10.07

10月の守本尊様は阿弥陀如来様です

今月(10月8日から11月6日まで)の守本尊様は阿弥陀如来様です








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2005
10.07

10月の聖悟

鼻下(ビカ)に糞あれば、香を嗅ぐともまた臰(クサ)し」 ─弘法大師─



(鼻の下に糞をつけていれば、いかなる芳香も嗅ぐことができず、ただ臭い匂いに悩まされるだけである)



 私たちは「あの人は鼻持ちならない」と言う場合があります。「鼻持ちならない」は、臭いがあまりにひどくてとても鼻がもたない、我慢できないという意味だったのが、人の言葉や態度に嫌みがあって不愉快に感じ、見聞きするに耐えられない状況を指すようになりました。

 鼻持ちならない人は、身なりが粗末だったり、言葉づかいが荒っぽかったりするわけではありません。むしろ、地位や権力や財や知識や体力などに恵まれている人がそれをひけらかす時に、そうした世間的な宝ものがその人の品性を損なっている実態が明らかになり、宝ものがまばゆいだけに心の賤しさがはっきり露呈してしまいます。



 お大師様は、そうした〈臭いもの〉を心に抱いてはいないかと諭されました。

 たとえば政治家なら権力、財界人なら財産、官僚なら地位、学者なら学位、僧侶なら僧階などが〈臭いもの〉となる予備軍で、それらは腐臭を放った途端、真実をありのままに観る目を曇らせてしまいます。

 権力者にとっての庶民の苦しみや不安、富豪にとっての貧困者の辛さや悲しみ、高級官僚にとっての庶民の不満や怨み、学者にとっての庶民の額の汗や知らざるがゆえの不幸、僧侶にとっての娑婆の苦や布施の重さや、僧侶の富裕な生活への不信、こういったものが見えなくなります。



 実は、そうした〈臭いもの〉は誰しもが持ち得ます。無明(ムミョウ)という闇が生み出す六つの煩悩(ボンノウ)です。



1 貪り

 身体を覆えば社会生活ができる、食べれば生きられる、雨風をしのげば住める。〈生きる〉とはこれだけなのに、私たちは自分に「もっと、もっと」とせき立てます。すると、それを利用して、「もっともっと、どうですか」と煽る人々が現れ、永久に「鼻の先へニンジンをぶら下げられた馬」になってしまいます。

 心によってコントロールされたほどの良い欲望は人間を向上させ、社会を発展させますが、欲望が主人公になれば、人間は堕落し、社会は荒廃します。



2 憤り

 思い通りにならないと腹が立つ。これは誰でもそうです。特に正義感の強い方などは、年中怒っていなければならないかも知れません。

 怒れば不愉快です。なのに怒らないではいられない。それは「この自分」という我(ガ)があるからです。怒ったならば、深呼吸をしてみましょう。フッと自分を相手の心に添わせてみましょう。



3 愚かさ

 基本的な愚かさは、我(ガ)へのとらわれです。自分はいのちのバトンタッチをするランナーの一人です。あの人もこの人も誰しもがそうです。その証拠に、人は生まれる一方で死に、この流れはいつからともなく今日まで続き、いったいいつまで継続するのか判りません。確実なのは、今、自分がランナーの一人としてここにいるということだけです。いのちの流れというエスカレーターには、一人一人のための乗り場と降り場があり、その間が寿命です。それだけのことが解った瞬間、幻の我など、もうどこにもありません。



4 驕り

 他人と比べることによって自分というものの確かさを確認しようとする心のはたらきが、驕慢です。「こんなに優れているのだから」と安心するのです。しかし、そんな考えは仮そめであり、虚なるものです。当然ながら、絶対に優れている人も絶対に劣っている人もあろうはずがなく、比べている限り不動の安心はありません。

 慢心の強い人が自分より優れているものを引きずり降ろそうとするのは、当然の帰結です。天魔になるのです。また、劣等感の強い人も他を引きずり降ろそうとします。相対的に浮かび上がらないではいられなのです。

 嫉妬は慢心の裏側にあり、やはり、自分で自分を認めないではいられない我(ガ)のしわざです。



5 疑い

 人がすなおになれないのは、他を認めると己の存在が危うくなると錯覚するからです。疑いの強い人は、ご加持のご利益がなかなか受けられません。法の場で心を真っ白にしようとすればこそみ仏は最高の絵をもって潤してくださるのであり、薄汚れたままで「さあ、絵を描いてみろ」と試しても、泥の上に美しい絵は描けません。

 ここでも、今の自分を守ろうとする幻の我(ガ)が邪魔をするのです。



6 邪見

 人は五つの誤った見解を持つものです。

 ?人のいのちもあらゆるものも仮そめの存在であり、いつかは消える儚いものであることを頭では知っていても、心情ではいつまでも生きていられるような気がしています。

 ?確かに子供が育っているし、真実に生きた人々の過去の歴史は魂に響いているのに、自分が死んだら何もなくなると思っています。

 ?今の自分は永遠不滅だという考えを持つ場合があります。

 ?イデオロギーや、予言や、???の考え方など、根本的な真理でないものにすがりたくなるものです。その時代その時代でさまざまなものが流行っては消えて行くのは、こうした心があるからです。

 ?自分を厳格に縛っておかないと不安になるタイプの人がいます。日の吉凶にこだわったり、言い伝えに怯えたり、偏狭な正義感にこり固まったりしていないと不安になるのです。



 これらの臭い糞たちは、真実世界の美しさや香りを覆い隠します。み仏の法と教えに導かれ、無明・煩悩を離れましょう。





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2005
10.07

10月の運勢(世間の動き)

 今月(十月八日より十一月六日まで)は何ごとにつけ、よりどころを求め、ついて行こうとする機運がたかまります。生活の柱・活動の柱・心の柱を求めようとします。   

 かつて多くの読者を魅了したチベットの『死者の書』は、死者の魂が悪しきところへ行こうとすると、生前に定めた師が「そちらではありません」と明確に指示し、浄土へ導く世界を表わしています。日々の生活がこうした信仰に支えられているチベットの人々は、あまり死を怖れないといいます。



 さて、『法句経』は、「人は命のために医に事(ツカ)え、勝たんと欲して豪強に依る(「寄らば大樹の陰」です)、法は智慧の所に在り、福を行なえば世々明らかなり」と説いています。

 病気になれば救いを求めて医者を頼り、やろうとすることに加勢が欲しければ威勢のある人に頼り、真実の生き方を探せばみ仏の智慧に頼ります。そして、「世々明らかなり」とは、「ままならぬ」という苦が抜け、立ちふさがる壁のなくなった状態で、そのためには、善悪を区別し善き行いに徹することであると説かれました。



 ところで、ただ勝つだけなら、善人よりも悪人の方が強いものです。善人の考えられない方法を思いつき、善人の裏をかくからです。往々にして悪人が勝者になり、それにあやかろうとする人はいるのはいつの世も同じです。

 しかし、それは短期的なできごとに過ぎません。長期的には必ず善なるものが勝ちます。悪行や予想外の過ちの後を追って「こういうことがくり返されてはいけない」と法律が定められることを考えても解るとおり、人は基本的により善く生きることを求め、それが実現する社会を目ざすものだからです。



 よりどころを考える時、その縁が自分の心から賤しいものを引き出すか、それとも尊いものを引き出すかを判断基準にしたいものです。

 私たちの歩む道は自分で決めねばなりません。善きものも悪しきものも、伸ばすのは自分の心の方向性一つです。心の柱を定め目的を明確に意識して行なえば、些細なものは四~五か月で変わり、三年経てばほとんどの運命は変えられ(善男善女が、因縁解脱などを願って一日一枚当たり千枚の護摩木を焚くのはそのためです)、十年で変わらないものはないとされています。

 四か月も、三年も、十年も、今日、たった今がその始まりの瞬間であり、始まりの日です。



 今月、特に注意すべき点としては、男女の関係・飲食・交友などで失敗をせぬよう、難事に際して慌てぬよう、また大切な文書の取り扱いなどで窮地に陥らぬよう気をつけましょう。





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2005
10.05

【現代の偉人伝 第3話】地上に降りた悲母観音様

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                      遠藤龍地(法楽寺)

 

 昭和20年代は、誰もが貧しかった。

 履き物も着る物も不足し、はだしの子供は珍しくなく、洟をたらすのは普通だった。皆が頭を掻くのはノミやシラミがいたからだった。登校すると、今は禁止されている(!)DDTなる白い粉をかけて虫殺しをしてもらった。DDTはアメリカからもらうのだと聞かされた。給食はアルミのコップに粉ミルクだけ、食後は匂いのきつい肝油(カンユ…不足がちな脂肪を摂取するために油を小さく粒状に固めたもの)を水で飲み込んだ。アルミの弁当箱を開けると、それぞれの家庭の経済状態が推しはかられた。たとえ真ん中に赤い梅干しがあるだけの『日の丸弁当』であっても白米が入っている子の家庭はゆとりがあり、芋などであれば一段と貧しかったからである。もっとも、親族が農家だったりする場合もあるから一概には言えないが………。



 誰もが健康を保って成長できるわけではなく、もちろん、小さいうちに死ぬ子供は珍しくなかった。

 小学校には養護学級というものがあり、そのクラスでは教室の後に畳が三枚ほど敷かれた部分があって、気分が悪くなった子供はいつでも休息をとることができた。一時は栄養失調で死んでもおかしくない状態だった私も、お腹が弱く、しばしば畳のお世話になった。

 いつも唇を紫にしていたA君の席がある日空になり、人の死を知った。



 学校の近くに長屋のような住居があり、一番道路側にK君一家が住んでいた。

 戦争で足が不自由になった父親は、いつもイスに腰かけて轆轤(ロクロ)を回し、こけしを作っていた。子供たちの目を輝かせるコマ作りの名人でもあった。母親は、ひっつめ髪に姉さんかぶり(頭に一枚の手ぬぐい状のものをかぶること)で、モンペを穿き、薄暗い部屋の中で傘を貼っていた。小さい一間だったからだけでなく、夫婦は「とても近くにいた」という印象がある。

 K君はひょろひょろして背が高く、すぐに暴力をふるうが、父親の足が悪いことや貧乏ぶりを言われることもきっかけだったように記憶している。今のように陰湿ではないが、あの時代もいじめはあった。

 

 授業参観で忘れられないのが、K君の母親の姿である。色黒で服装はいかにも貧しそうではあるが、教室の後の壁際に並んで立った親たちの前列にいてしっかりと胸を張り、目は深い光を放っていた。なぜか、自分の親を見つけ、そしてK君の母親を見つけると安心したものである。

 K君はとりたてて成績が良かったわけではない。けんかがちで、母親は何度も学校から呼び出しを受けていた。

 しかし、授業参観をするK君の母親は、いつも昂然としていた。決していばっている風ではないのに、大きな存在感があった。あの当時は、それが何であるかを知る由もなかったが、きっと息子を育てている母親としての矜持があったのだろう。「守る者」としての不動の強さもあったのだろう。あるいは耐えつつまっとうに生きている人間の清らかさもあったのだろう。いずれ、何ものかは確かに子供心にも響いていたのである。

 あの「母親」は、自分の母親と並んで私の「母親像」の形成に大きな影響を与えた。



 中学校まで一緒だったが、その後の進路で別れ、ほとんど行き来はなくなった。親孝行のK君はまもなく就職し、親へ仕送りを続けていた。そして、冬の北海道で、宿賃を節約しようと土管にもぐり込み眠ったまま死んだ。暖をとった練炭で二酸化炭素中毒を起こしたのである。

 

 み仏の教えに学び法を修するようになり、心理学や教育学を学びつつ人生相談を受ける毎日にあって、K君の母親のイメージは一段と鮮明である。―――地上に降りた悲母観音様として。





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2005
10.03

救われる道4 ―修羅界から脱するには ―

 修羅界は、はてしない争いの世界です。
 悪業によって趣く四悪趣(シアクシュ)の一つです。
 修羅はインドの神阿修羅(アシュラ)の ことで、こんな神話があります。
 
 阿修羅はもともと正義の神でした。一方には神々の王である最大の力の持ち主帝釈天がいました。
 ある日、阿修羅の娘スジャーを見初めた帝釈天はむりやり妻にしてしまいました。
 怒ったのは最愛の娘を略奪された阿修羅です。
 正義に反するものを許してはおけぬ性格からたちまち戦争を始め、帝釈天の宮殿近くまで攻め上り、太陽も月も破壊される寸前になりましたが、摩利支天(マリシテン)が隠形法(オンギョウホウ…※『隠形流居合』の源流です)で目くらましをしたために、世界の光は守られ、阿修羅の軍勢は退却しました。
 力の神が勝利したのです。
 以後、戦いの念から離れられない阿修羅は悪神と怖れられるようになったとされています。

 帝釈天はスジャーを愛おしみ、結果的にむつまじい夫婦神となりました。
 その痴話げんかを見せられた仙人が通力を失ったという後日譚があるほどです。

 さて、正義の闘いに敗れた阿修羅はなぜ悪界へ堕ち、帝釈天は善行によって昇る善界の存在でありえたのでしょうか。
 インドの先住民族と、侵入し支配者となったア―リア人との関係から読み解く説もありますが、ここでは、因果応報の理をもって考えてみましょう。
 
 一見、阿修羅の気持は無理もない、娘をかどわかされて怒らない父親はいない、帝釈天はとんでもない神様だと思われますが、はたしてそうでしょうか?
 男女の機微・夫婦の機微は微妙なもので、結果がすべてと言っても過言ではありません。
 男女間における倫理観は時代により場所により大いに異なっており、日本においても「夜這い」が当然だった時代すらありました。
 今なら、住居不法侵入や強姦などの罪に問われてもおかしくないケースが、当時は結婚の大切なきっかけだったのです。
 事実、スジャーも幸せになりました。
 阿修羅の誤りは、「きっかけがまちがっている」という「自分の考える正義」だけにとらわれ、娘の気持や帝釈天の気持になってみなかったところにあります。
 何はともあれ、娘が幸せに暮らせるようになったならば、相手を許すのはもちろんやがては感謝すらできるはずです。
 ところが、阿修羅はいつまでも帝釈天を怨み、怒り、戦い続けました。
 そして、いつしか戦いが習い性になった彼は、己のみが正義とする高慢と、怒りという毒とを持ち、自他を傷つけ殺す者への報いとして悪界へ堕ちました。
 
 修羅界へ堕ちないためには、他の立場に立ち、他の心になってみることです。
 たとえ挨拶一つでも、あるいは道路のゴミを拾うことでも、見返りを求めずに他のためになることをしてみましょう。
 それが菩薩の姿勢です。
 地蔵菩薩・観音菩薩・虚空蔵菩薩など、私たちをお守りくださっている菩薩様のお慈悲とそのおはたらきを知り、お心をイメージしてみましょう。
 また、自分の考える正義を検証し、正義を実現しようとしている方法をよく省みることです。

 ちなみに、己の身を挺して「非暴力・不服従・国産品愛用」を訴えたガンジーは、敵の血で手を穢さずにインドを独立させました。
 彼は、その後も慈悲ある方法で正義をつらぬく聖者として生き、こうしたエピソードを遺しました。

 インドと隣国パキスタンの間で紛争が起こりました。かたやヒンズー教、かたやイスラム教、どちらも退がるに退がれません。
 非常事態に際し、彼は断食をもって和平を訴えました。
 ヒンズー教の男性が敬愛するガンジーへ懇請します。
「自分は、イスラム教徒に子供を殺されたので、報復としてイスラム教徒の子供を殺した。だから地獄行きが当然だが貴方は違う。食べて生きてくれ」
 彼は答えます。
「貴方が地獄から抜け出す方法を教えよう。それはイスラム教徒の孤児を自分の子供として育てることだ。しかも、イスラム教徒として」






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2005
10.01

10月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



阿弥陀如来(あ・み・だ・にょ・らい)  





「オン アミリタテイセイ カラ ウン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2005
10.01

【現代の偉人伝 第2話】 山男

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                          遠藤龍地(法楽寺)



 縦縞の背広に蝶柄のネクタイで国分町を闊歩する毎日。やみくもに稼ぎ、いい気になってビルを建てると、黙っていても人は近寄って来た。善人へも悪人へも〈お人好し〉として接し、心はいつも王だった。目的を見失い魂は斜めなのに、表面的には成功者らしかった時代。怖いものはなかった。



〈王〉は思い立ったら我慢できない。ある日、そうして山へでかけた。

 もちろん軽装備、と言うより無装備だった。さすがに革靴ではなかったが、3時のおやつと水筒一つ、あとは「あれば何でもできるはず」の札束をポケットに押し込み、妻と二人の娘を連れて高級車を駆った。

 

 自然はそんな愚かな人間へちゃんと報いをくれた。

 道を見失ったのである。

 藪へ入った。山の午後は短く、あっという間に日暮れになる。妻は上へ登れば小屋か何かあるのではないかと主張し、私は降りようと言い、子供たちは泣きだした。おやつと水はなくなり、岩のくぼみに溜まっていた水を手で掬って飲んだ。



 ガサガサッと音がし、突然絵に描いたような完全装備の山男が出現した。今、まぎれもなく山の中にいるのに、自分が深い山へワープ(瞬間移動)したかのような錯覚におちいった。

 窮地にあってすら、自分のいる所がどこであるか、していることが何であるか、真実が解っていなかった。



「大丈夫ですか?」「行きましょう」

 彼は下の娘を背中にスタスタと歩き出した。背中は岩かと思えた。

 たった今まで悪戦苦闘していたはずなのに、彼の後をついて行くと普通の道を歩くのと変わりないのに驚いた。すぐに山道へ出、なんなく駐車場へたどりついた。あまりにあっけなく、さっきまでの混乱は夢のように思えた。

「ありがとうございました。本当に助かりました。お名前だけでも教えていただけませんか」

 彼は答えず、気をつけてねと子供たちへ笑顔を見せ、風のように立ち去った。



 手で水を掬った時、ポケットの紙は何の役にも立たなかった。それは、お礼として渡すこともできず、ありがたいとの感謝は風船のように行き場を知らず、中に浮いていただけだった。

 彼は、自分の足で真実世界に立っていた。私は、かりそめの世界の漂流者だった。

 できごとの真の意味が解るまで、10年以上を要した。持てる財をすべて失わねばならなかったのである。

 真実世界の住人、彼はまぎれもなく英雄だった。 




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