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2006
01.31

釈尊が説かれた人倫の基本 2

 前回、「とにかく、悪いことをせぬようになること。そうすれば善いことができるようになります」と書いたら、「もっと前向きに、『とにかく善いことだけをしよう』ということでは、どうなのでしょうか?」とのご質問がありました。
 すばらしい発想です。
 実は、密教の姿勢はここにあり、いきなり〈み仏そのものである真姿を明らかにしよう〉とするものです。
 観音様やお地蔵様になってしまえば、もう、怖いものはありません。
 しかし、残念ながら私たちの心の満月にかかっている暗雲はかなり厚く、そう一足跳びにはできにくいので、まず、悪いことをしがちな現実を観て、そこを是正しつつ〈み仏の心=真心(マゴコロ)で生きられる〉ようになることを目ざしています。

 二歳になった孫を観察していると、もう、暗雲が観られます。
 他人を叩いたので娘が叱ったら、少し視線をそらして「Xちゃんだよ」と言います。
 早くも、自他の区別がついただけでなく、他人のせいにする悪知恵がはたらき始めました。
 もちろん、誰に教えられたわけでもありません。
 放っておいては大変です。
 心の雑草があまりに生い茂ると、とても抜ききれなくなるだけでなく、本来伸ばすべきものを弱らせ、傷つけてしまいます。
 しかし、見分けのつきにくい毒草も多く、よほど注意していなければなりません。
 驚異的な速さで進む脳のはたらき具合や目に明らかな身体の発達が、目くらましになったりもします。

 このように、私たちは、必ず、雑草=煩悩の種を持って生まれます。
 これは宿命です。
 芽が出た時に完全に抜き去ることはなかなか困難で、やがて、『四苦八苦』という毒花を咲かせます。


 さて、どうすれば良いか。
 当然、花を手折れば済みますが、あまりに深く根付いてしまったために、うかつに引っこ抜こうとすれば心に大きな傷をつけてしまう怖れがある場合もあります。
 解決法の一つは、花の毒を利用して薬にすることです。
 たとえば、つまらぬ正義感からすぐ粗暴になってしまう人なら、高い理想を持てば良いのです。
 理想といっても、地位や名声や富のことではありません。
 とにかく、くだらぬことにカッカしないで、正義感の強い人ならではの、熱涙あふれる感動体験や慟哭そのものになってしまったような体験を大切にすることです。
 そうすれば、真心がちゃんとはたらくようになり、いつしか「こうありたい」「こう生きねば」といった思いが固まるものです。
 そうしてつかむ理想の高さの尺度は〈人間性〉です。職業や収入とは何の関係もありません。

 お大師様は「観る眼のない人にとってはただの石ころでも、観る眼のある人が観れば、それが磨けば宝石となる石であることが判る」と説かれました。
 ぼんやりしている人にとっては、ただ吹き過ぎる邪魔な風であっても、心の澄んだ人は、なでられた頬にはっきりと春の便りを感じることでしょう。
 ぼんやりしている人にとっては、ただの雑音でしかない子供たちの歓声も、心の澄んだ人にとっては、未来が待つことを教え希望の灯を大きく輝かせる力となりましょう。
 このように、み仏の無言の声が聞こえるならば、理想が高く保たれている証拠です。
 ぼんやりして煩悩に任せたままで生きるか、それとも心を澄ませるかは自分次第です。
 心の持ちよう一つで、短所として表われていた心の色あいがそのまま長所となって表われるようになり、いのちのはたらきの方向が変わるのです。

 さて、もう一つの解決法は、もちろん、ただちにみ仏そのものになり果てることです。
 自分の身・口・意をみ仏の身・口・意のありようと一致させる方法を実践することです。
 そして、一日五分、十分と、み仏になっている時間を積み重ねれば、毒花はだんだん影の薄い幻となり、いつしかなくなっていることに気づく日が来るに相違ありません。

 昨日も、自分の弱さと闘っている方が来山し、帰り際に絞り出すような声で質問され、答えました。
「解ってはいるんですが、どうしても負けそうになります。どうすれば良いでしょうか?」
「心が『助けて!』と叫んだ時は、無心に真言を唱えましょう。必ずお救いいただけますよ」
 お送りしようと外へ出ると、参道わきの草たちは、雪の冷たい白さに負けずに緑色の光を放ち、杉林のあたりでチチッチチッと小さく鳥が鳴いています。
 空も心なしか薄水色になりました。
 やはり、立春は間近です。




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2006
01.28

2月の運勢(世間の動き)

 不変を意味する「恒」には二つの徳があります。

 一つは恒久、幾久しく時間を貫き通して変わらないことです。

 もう一つは、動きが連続し、止まらないことです。お線香が一旦火を灯されたならば己を燃やし尽くすまでその役割を果たし続けるようなものです。

 

 古人が北極星に導かれたように人は「恒」に導かれ、不変のものに依って不断の努力をするところに真の人生が積み上げられますが、私たちは、ともすると、その反対になりがちです。

 転変する儚いものに惑わされたり、始めたことを終わりまできちんとやり遂げられなかったりする場面はないでしょうか。

 儚いものに魅力を感じて惑うのも、胆をすえてことをまっとうできないのも、煩悩のしわざです。



 今月は、自らを律して「恒」の徳を生きる人と、気まま・放逸・慢心に流される人との明暗が分かれる時です。

 

 今は何でも速さを競う時代ですが、この世には、早く手に入るものと決して早くは手に入らないものがあり、えてしてなかなか手に入らぬものほど、人生の深みや味わいを教えてくれるものです。

 たとえば、親が回復不可能な病気にかかった場合、告知すべきかどうかという結論は簡単に出せましょうか?

 

 アルキメデスは、思索に思索を重ねていたからこそ、重大な原理を発見し、「ユリイカ!」と叫びながらお風呂から裸のまま飛び出すほどの喜びを得ることができたのでしょう。



「てふてふが一匹韃靼(ダッタン)海峡を渡って行った」

 これは、安西冬衛が昭和四年に書いた『春』という詩です。

 たった一匹で、春を告げようと、白い氷が残るサハリンの海へ飛ぶ蝶―――。読むたびに心身が震えてしまいます。

 着想の雄大さといい、「イッピキ」「ダッタン」「ワタッテ」「イッタ」という蝶の勇気を励ますような響きの見事さといい、「恒」に裏打ちされた不朽の詩です。

 一行で構成された詩のために、彼の感性はどれほど深く鋭く研ぎ澄まされたことでしょうか。一行のために、彼のいのちはどれほど渦巻く長い燃焼の日々を必要としたことでしょうか。とうてい計り知れません。

 

 決して速さを競えぬもの、競ってはいけないものがあることを忘れず、速さの目くらましに惑わされぬようにしたいものです。

 佳い春になりますよう。





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2006
01.27

愛国心について ―家族やふるさとを大切にしましょう―

 最近、愛国心という言葉をひんぱんに耳にするようになりました。
 ひところは、この言葉を口にするだけで右翼・反動などのレッテルを貼られ、マスコミに袋だたきにされていたのが嘘のようです。
 さて、心という以上は、本来「心の問題」であるはずなのに、政治(教育も多分に政治的に動かされています)やイデオロギーや歴史の観点からとりあげられていることが多いのをいぶかしく思い、少々書いてみます。

 私たちは直接的な刺激となるものに、より強い関心を持ちます。
 心が惹かれます。
 たとえば殺人事件があった場合、犯人の人相や行動や生い立ちがテレビで幾度となくくり返し流されますが、つい耳目を奪われます。
 少し落ちつけば事件の社会的な背景などに関心が向かい、評論家やコメンテイター(不思議な職種ができたものです)の意見を聞き、自分でも考えるようになります。
 しかし、そうした「人が人を殺す根本原因」である無明(ムミョウ…慈悲と智慧を曇らせる根本煩悩)が万人に備わっており、それは、埋もれ火が燃え上がる時をじっと待っているようなものであることにはあまり関心が向きません。

 一方、第一の関心はパッと燃える割にはすぐに消えます。
 だから、ワイドショーは常に新しい刺激物を求めて走り回っています。
 第二の関心は少々長続きし、場合によってはなにがしかの社会運動をもたらしたりもします。
 第三の関心はなかなか持ちにくいけれども、一旦胆におさまれば生涯の問題としてその人の人格を練り、高め、生きる方向を動かしたりもします。

 さて、私たちは「ふるさと」へ他に代えがたい懐かしさを感じ、ありがたく、大切なものと思います。

「ふるさとの山に向ひて言ふことなし ふるさとの山はありがたきかな」 ―石川啄木「一握の砂」―


 そこは「自分」を人として育んでくれたところであり、「家族」とかけがえのない時を過ごした場所です。
 また、同級生や同じ釜の飯を食った仲間とは、気のおけない和やかな心を共有できます。
 クラス会があれば一気に「あの頃」へ戻って無心のひとときを送れるし、そうした仲間の間で生涯続くつき合いが生まれたりもします。
 その底には「自分と友人」が共に人間として成長した時間が流れています。
 そして、オリンピックを観たり、日の丸を背負って外人と折衝したりすれば祖国への愛着を感じ、一心に励ます心や強い責任感がわき上がります。
 その底には、「祖先を含む同胞」が笑い、泣き、喜び、悲しみ、無数の生死をくり返した膨大な時間が流れています。

 愛国心の源泉は、これらのうち、懐かしい「家族」と「ふるさと」にあります。
 その懐かしさが真心(マゴコロ)となっている人は、きっと「友人」や「学校」にも懐かしさを感じることでしょう。
 そして、懐かしさが感謝を伴っているならば、祖先にも同胞にも祖国にも懐かしさを感じ、それを大切にしないではいられないはずです。

 愛国心は、つくられるものでなく、教え込まれるものでもありません。
 そうした発想は、たとえば殺人事件が起こった時、いきなり
「人間は無明を抱えているから当然です」
「貴方も被害者の悲しみを自分の悲しみとして感じなさい」
と言うようなものです。
 先に考えたとおり、私たちの関心の持ち方には順番や深さがあります。
 犯人の形相や被害者の悲嘆に心が強くゆすぶられてある印象を持ち、だんだんに事件の原因や背景にも関心が深まり、総合的な印象を心に保ち続けているうちに無明の恐ろしさがじんわりと解る。
 こうした流れがあって初めて、人は無明をしっかりと相手にできるようになるのではないでしょうか。

 愛国心も同じです。
 愛国心のある人々が集い、共に生きる美しく安全な国になるためには、子供たちが生まれたことに感謝し、家族や友人に感謝できるようなあたたかい家庭や学校や生活環境を創らねばなりません。
 その上で、「我がことを第一とせず」「他人の悲しみをちゃんと実感できる」真心(マゴコロ)を育ててやらねばなりません。
 やがて、真心は必ずや社会や国への感謝をもたらし、社会や国のためになろうとする意欲をもたらすことでしょう。
 この感謝と意欲こそが、真の愛国心の中身ではないでしょうか。
 それを持ってふりかえる時、ふるさとも母校も母国も、しみじみと懐かしいものとして想われるはずです。
 つまり、愛国心が大事だと考えるならば、まず第一に、大人たちが家族やふるさとを大切にし、我欲をむき出しにせず、思いやりのある人間になること。
 そうした大人が、子供たちを社会の宝ものとしてせいいっぱい慈しみ育むことが、何よりも肝要なのではないでしょうか。




2006
01.26

【現代の偉人伝第13話】 ―嫌われるお祖母ちゃん―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



「私たちの地区でも、子どもたちを守るパトロールが始まりました!」

「それは良かったですねえ。何人ぐらいでおやりになっているんですか?」

「今のところ、私一人です。孫の下校に併せて、子どもたちを抱えるようにして連れ帰るんです」

 こんな実践派のKさんが笑い話をされた。

「家(ウチ)には、孫の友だちがいっぱい遊びに来ます。この間、孫が、『Aちゃん、家(ウチ)に来るのいやだなあって言うんだよ』とうつむいています。 どうしたのって訊いたら、お祖母ちゃんがうるさいからですって。

『ああ、そう。でも、Aちゃんには二つしか言ってないよ。一つは、履き物をきちんと揃えること。もう一つは、4時半になったら自分の家へ帰ること。これだけなのにねえ』

『でも、Aちゃんちは、門限5時だって言ってたよ』

『それも、お祖母ちゃんはちゃんと教えたはずだけどなあ。よそのお宅へ行ったら、そこのしきたりに合わせなきゃいけないんだよ。どこへ行っても自分のやり方を通すのは、いけないんだよ』

 こんなやりとりでした。私は、うるさがられても、役割は果たそうと思っています。大体、お祖母さんのいる家の子供は、しつけが良いものです」



 小学校へ入る頃の子供は、もう、自他の区別がついている。一方で、自我(仏教でいう小我)がどんどん伸びている。

 ここで一番大切なのは、自我を抑える訓練をすること、つまり「しつけ」である。

 きちんとそれをやっておかないと、「好き嫌い」「感情」といった形で現われる自我の命ずるままに動く子供ができあがる。そうなれば、後から慌てても間に合わない。


 学級崩壊は、何のことはない、家庭でしつけができていないから起こる現象である。

 これがしっかりできないうちに、決して子供を自由気ままにさせてはならない。

 子供の自由意思を尊重すべきだから放任するなどということは、明らかにまちがいである。

 真の自由意思は、瞬間的にはたらく感情に流されずにはたらく真心(マゴコロ)の力によるものであって、自我が抑えられない自由意思など、どこにもありはしない幻にすぎない。

 子供にも大人と同じ人権があり、それは自己決定権なのだから、学校へ行くのも行かないのも子供の意思に任せるべきだという意見があるが、これもまちがいである。

 それは、まるで、車のオモチャで遊んでいる子供に本ものの車を与えて「運転したければやりなさい。したくなければしなくて良いよ」と言うようなものではなかろうか。

 心身の発達段階に合わせて年齢相応の教育をし、与えるべきものは与え、与えるべきでないものは与えないのが大人の責務である。



 当山がやがて始まる寺子屋で必ず教えようとしているものの一つは、卑劣・卑怯・無慈悲・傲慢といった心の汚れの恐ろしさであり、そうした心で行動することの恥ずかしさである。

 それは、住職自身が子供の頃、学校のグラウンドで言うことをきかない目下の子供を泣かせていたおり、たまたま自転車で通りかかった父親に殴られ「弱い者いじめをするな!」と叱られた思い出が、年老いた父親への限りない感謝をもたらしている体験に基づく。

 たとえ煙たがられようと、嫌われようと、「好き嫌い」「感情」に流されそうになる子どもたちへ善悪を教え、しつけをしようとしているKさん、そして、頑張っておられる全国の無数のKさんたちへ腹の底からエールを送りたい。




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2006
01.25

運命転化法 10 ―目ざすところへ行くには―

 受験シーズンのたびに書いてきたテーマですが、念のため、今一度書いておきます。
 「目ざすところへ行きたい」のは当然の願いです。
 受験生なら目ざす学校へ入りたい、資格を求めている方なら有資格者になりたい、仕事を求めている方ならやりたい仕事に就きたい、それぞれ尊い願いです。
 目的のために力をつけること、持った力を発揮できるよう心身を調えること、そられのために集中できる心をつくること、いずれも自分を鍛え向上させるすばらしい行為です。
 文字どおり頑張っていただきたいし、願をかける方々の目標の達成を我が願いとして真剣に祈っています。

 ただし、そうした努力と共に練り、固め、高く保っていただきたいのは、志です。
 自分がなぜそこを目ざすのか、その真の目的をはっきりとつかんでいただきたいということです。
 自分がやっていることは、志を実現するために今の自分が最も有効と考える方法なのだと認識していただきたいということです。
 入学も、資格の取得も、就職も、すべて方法です。手段です。
 それらは、人生をかける目的、つまり志の成就そのものではありません。
 入試の合格は、一つの手段を得たことであり、入試の不合格は、目先の手段を一つ得そこなったことに過ぎません。

 志を忘れなければ、手段の獲得の成功は、速やかに次の段階へ誘い、やがて早い成就という果をもたらしましょう。
 志を曲げなければ、手段の獲得の失敗は、謙虚さと不屈の闘志を養い、やがて成就の深い喜びという果をもたらしましょう。
 大切なのは志という目的であって、それを捨てなければ、目先の手段が得られようと得られまいと、必ず人生の勝利者になれるのです。
 
 しかし、志を忘れた獲得者は、傲慢になり、怠惰になり、いつか墓穴を掘ります。
 志を忘れた非獲得者は、卑屈になり、自暴自棄になり、根無し草になります。
 何よりも大切なのは、志です。
 
 「人のいのちを救いたい」から医学部を目ざせば、あるいは立派な医者になり、あるいは立派な介護士になり、あるいは立派なライフセーバーになり、あるいは立派な僧侶になることでしょう。
 「快適な住まいを造りたい」から建築士を目ざせば、あるいは立派な一級建築士になり、あるいは立派な大工さんになり、あるいは立派な林業者になることでしょう。
 「人に笑いを与えたい」から娯楽産業へ飛び込めば、あるいは立派な落語家になり、あるいは立派なプロデューサーになり、あるいは立派な放送人になることでしょう。

 これも何度も書きましたが、作家の高任和夫氏は、各界を代表すると信ずる方々とのインタビューを続けているうちに、巨人たちが必ず有している二つの共通点に気づいたと言われます。
 一つは「謙虚さ」であり、もう一つは「志」です。
 「目ざすところへ行きたい」方々、ぜひ、志をしっかり保ってください。
 そうすれば、行きたい所・行くべき所へ連れて行く「遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)」を持つ阿弥陀如来様が、必ず光のある方向を示し、手を引いてくださるにちがいありません。




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2006
01.24

求む!『汚れた顔の天使』 ―ライブドア事件・まっとうさの回復―

 名優ジェームズ・キャグニーがはまり役のギャングを演じた名作に『汚れた顔の天使』があります。

 親友ジェリーと共に悪事をはたらいていたロッキーはうまく警察の手を逃れますが、ジェリーは捕まり、やがてギャングのボスになります。
 改悛して神父になったロッキーは、ジェリーを英雄視し、憧れる子どもたちを何とかして悪の道から救いたいと願っていますが、ジェリーの悪名が高まれば高まるほど子どもたちは惹きつけられ、どうにもなりません。
 ある日、仲間の裏切りでジェリーは遂に電気イスへ送られるはめに陥ります。
 死を恐れぬ「英雄」へ、ロッキーは懇願します。
「子どもたちを救うためだ。惨めに泣き叫びながら死んでくれ。
 君が軽蔑されるような死を迎えねば、子どもたちはこれからも君を理想像として悪事に走るだろう」
 もちろん、誇り高いジェリーは断ります。 しかし、最後の最後にジェリーは臆病者を演じ、子どもたちは悪夢から覚めます。
 ジェリーが死を恐れぬ誇り高い男だったことを知っているのは、この世でたった一人、親友ロッキーだけです。


 堀江氏の罪業が明らかになった今も、テレビのインタビューで「残念だった」と惜しむ人々の声を聞きますが、煩悩(ボンノウ)とはこうしたものだなあとつくづく教えられます。
 未だにオウム真理教を信じ続ける人々がおり、入信者が後を絶たないのと同じです。
〈善悪より好みを優先する〉
 これが煩悩の現れです。

 今の日本では、歴史上なかったほど煩悩が解放され、その恐ろしさも、欲得であさましく生きる恥ずかしさも忘れられています。
 「ずるい」ことをしようとしても後ろめたくてできないのが〈まっとうな人間〉ですが、そうしたタガの外れてしまった人々が大道を闊歩しています。
 「好き勝手なこと」をするのが人生の目的とされ、むき出しの煩悩そのものといった人々が群をなしています。

 閑話。
 たまに街へ出ると、失礼ながら、道行く人々がサルやキツネやトカゲなどに見え、この国はどうなるんだろうと心配になります。
 肉でできている〈表面の顔〉はモノでしかありません。
 モノの内側にその人の〈心の顔〉があります。
 モノの顔はいくらでも化粧をし、ヒゲを剃ることで作られますが、心の顔はそうしたものではごまかせません。
 傲慢・強欲・狡猾・卑劣・猜疑・怯懦・放埒あるいは無関心などを抱えた人々の多さに暗澹とさせられますが、童心のある佳い顔に出会うと、見知らぬ人なのに会釈をしたくなります。
 皆さんも、時折、何気なくご自分の顔を鏡へ映す習慣をつけられてはいかがでしょうか。
 他人様(ヒトサマ)に穏やかで和んだ顔を見ていただくことが和顔悦色施という尊い布施行でもあり、ご推奨します。
 ただし、気をつけなければならないのは、小我の目で他人様を観ると自分の心がそこに反映されてしまうということです。
 傲慢な人にとっては皆が軽蔑される存在となり、詐欺師は皆がバカでお人好しのカモに見えることでしょう。
 真心(マゴコロ)の目で観て初めて、自分の心の顔も、他人様の心の顔も、それと確かに解るのです。

 閑話休題。
 子供も含む若い女性が、モノを欲しいばかりに簡単に親からもらった身体を商品化し、お金の価値も恐ろしさも知らぬ子供が、国語や歴史を学ぶよりも一攫千金を考え、商売人は、青少年の心身に良くない(しかし好まれる)商品を売って儲けようとし、一握りの強者が、「勝ち組」「負け組」などという卑劣で無慈悲な言葉をはやらせて弱肉強食が正義であるとの幻想を振りまき、権力者は、強い者が主張を通して何が悪いとばかり傲慢になっている。
 こうした様子は、すべて「好き勝手なこと」をしている姿です。

 生命力の現われである意欲は、自他の幸せを求める「大欲(タイヨク)」となって初めて真の輝きを発揮しますが、単なる自分の好みに引きずられれば、自他を不幸にする悪業の炎を燃やす燃料となってしまいます。

 こんな哀れで情けない日本から脱するために、皆の心が動揺し、眼をこすってものごとをちゃんと観ようとする雰囲気の出かかっている今こそ、まっとうさを取り戻した『汚れた顔の天使』の登場が望まれます。
 悪人が天使に生まれ変われば、好みによって眼の曇った人々を救うだけでなく、自分自身も救われます。むしろ、救いの道はそこにしかありません。

 堀江貴文氏とその周辺の人々だけでなく、「堀江的な」人々、そして、こうした時代をつくってしまった私たちの猛省と決断を願ってやみません。

「目に見えぬ神に向ひて恥ぢざるは 人の心の誠なりけり」 ―明治天皇―




2006
01.23

?み仏と会った人はいるんでしょうか?

 ものごとをご自身でちゃんと考えるGさんから、率直なご質問をいただきました。

「仏神がほとんど人の形をしてるのは疑問」そして、(誰か見たのか?)というものです。

 Gさんは、「神も仏もないものか」と言いたくなるような理不尽なできごとを正面から相手にしておられ、低い呻きを含んだ問いを発しないではいられないのも解ります。

 

 この欄ではちょっと失礼かと思いつつ、世の親御さんたちにも考えていただきたいと願い、書くことにしました。

 

 美術史家や宗教学者の説がどうなっているのかはよく判りませんが、一行者としては、まず第一に、

「亡き聖者と会うことのできる行者はいくらでも存在したにちがいないし、今もいる」

という実感があります。

 釈尊やお大師様にあこがれる人々の中に、その境地の追体験を求めるうちに御霊との共鳴が起こって、まざまざと「おられること」を感じたり、お声を聞いたり、お姿を見た人がいたことは確かです。

 具体的な例としては、世界大百科事典にも掲載されている「念写」の大家三田光一氏が、昭和5年3月16日に、重ねた乾板の7枚目に写し出した弘法大師像があります。

 そうした特殊な能力を待つまでもなく、たくさんの方々が、さまざまな形で亡き親や友人とお会いになっておられるはずです。

 聖者と会った魂の震えるような体験が文章となり、絵や彫像となって結晶することには、何の不自然さも不思議さもありません。。



 次は、じゃあ、お不動様や観音様はどうなのか?ということになりましょうか。

 人間のいのちは五感六根ではたらいていますが、人間の眼はカメラではなく、人間の耳は録音機ではありません。 風景は眼識を通じて「見えたもの」として認識され、声は耳識を通じて「聞こえたもの」として認識されます。

 この眼識や耳識に反応を起こさせる風景や声は、その人その人によって千差万別です。

 キノコ採りの名人は、普通の人の眼に映らないキノコを待っているものと出逢うがごとく的確に見つけ、亡き師を慕う弟子は、山道ですれちがった見知らぬ人の後姿に、変わらぬ師の励ましを感じたりするものです。

 島崎藤村は、海岸へ流れ着いた一個の椰子の実に、日本人のルーツとなったであろう南方の景色を見ました。

 悟りの不動を信じ、罪悪を滅ぼし尽してくださる智力の絶大なることを感じている行者が、ある日、そうした徳の権化であるお不動様を感得しても、み仏のお慈悲の絶対無限に随喜している行者が、ある日、慈母のごとき観音様を感得しても、これまた何の不思議もありません。

 そうした感得体験が経典となり仏像となり、さまざまな仏像として表現されました。

 後代の行者たちも、お像を眼にし印を結び真言を唱えているうちに、先人たちの経験をありありと追体験できます。



 また、五感六根を通して心に映る世界の感動は、「人間としての感動=人格的な彩り」となって心へ喜びをもたらすことも考えねばなりません。

 それは、何らかの人格としてまとまった印象をもたらしもします。

 たとえば、ベートーベンの「英雄」を聴けば、激動・高貴・悲嘆・上昇・歓喜・生死などの印象が生じ、横山大観の「霊峰不二」を観れば、雄大・清浄・荘厳・高貴・高踏・平安などの印象を生じますが、それらはすべて人格的印象です。

 「人間を超えたもの」もまた、私たちは「人間的に」しか感じ得ません。

 純粋な心が超越者に接すれば、心の深奥にある高貴・清浄・広大・深遠・精妙な部分(み仏の心)が音叉のように反応します。そして、感得されるものと感得する者との境界はなくなります。

 「み仏は心におわします」とはこのことです。

 音叉の霊動が音楽になれば「英雄」となり、絵になれば「霊峰不二」となり、文章になれば「不動経」「観音経」になります。

 

 だから、「超越者」が「最高人格者」としての姿をもって表現されるのは当然なのであり、「仏像は人の形をしている」のです。

 そして、貴方も私も等しくみ仏の子なので、願い、祈り、心を澄ませせば誰でもお姿を「見る」ことができるはずなのです。




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2006
01.22

初大師

 二十一日の例祭は「初大師」でした。

 今年最初のお大師様のご縁日です。

 『堀江貴文氏を反面教師としましょう?』へ書いたように、この事件で被害者となられた方々のお気持を強く察し、護摩壇へ登りました。

 入試合格を願う方々、当病平癒を願う方々、あるいは御霊供養を願う方々などのたくさんの善願をも受けています。

 

 一時間半を超えるご祈祷の最後に不思議なできごとがありました。

 お招きしたご本尊様方に元の世界へお帰りいただくため、その座として花を空中へ投げる作法があります。

 バラバラにした何十枚もの花片を右手に持ち、いつも通り護摩壇中央にある炉の上方へと散らしたはずなのに、すべてが左前方へ引かれるように動きました。

 投げ上げた菊花の一片一片が、ほとんどそっくり、阿弥陀如来様のおられる方向へ飛んだのです。

 その意味はすぐに解りました。

 阿弥陀如来様の徳は「遍所行智力(ヘンショギョウチリキ)」です。このお力は、「行くべき所へすぐ行ける」「行くべき所へすぐに連れて行く」ものであり、それゆえに極楽往生を願う人々はこの尊へおすがりして来ました。

 

 真言宗には、投花得仏(トウケトクブツ)という法があります。

 目隠しされ、手に持った花をたくさんのみ仏が描かれている「敷マンダラ(床へ敷いた形のマンダラ」へ投じ、み仏とのご縁を定めるものですが、お大師様は、中国での伝法に際して二度行い、いずれも大日如来様のところへ落ちました。奇跡的なできごとです。

 また、この法に由来する『花占いの秘法』も伝えられています。



 今日のご祈祷では、さまざまな善願の成就が祈られました。

 受験生はめざす大学へ行きたい、入院におられる方は家へ帰りたい、御霊は極楽へ行きたい、そして、ライブドア事件で被害を受けた方々は早く事件前の生活を取り戻したいはずです。

 こうした皆さんのお心を体して修法した結果、特異な現象が現われたのは、「確かにそこへ連れて行ってあげよう」というご本尊様のご意志の験(シルシ)以外のものでありはしません。

 善男善女へさらなるご加護がありますよう、事件の被害に遭われた方々が一刻も早く立ち直られますよう、今日も重ねて祈ります。






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2006
01.21

堀江貴文氏を反面教師にしまよう?

Category: 日想
 古代インドの物語です。



 いつくかあった国々を征服して統一国家をつくった王様がいました。

 昔は酷い政治をして失敗したのですが、心を入れかえて成功したのです。

 ある日、もっとすばらしい王様になってもらいたいと願った帝釈天が、王様の人間性を試そうと、金の杖と金の瓶をもった行者の姿で王様の前へ現われました。もちろん、彼は王様にしか見えていません。

「王様、私は海の彼方の裕福な国からまいりました。とても広いその国には、金銀財宝が山のようにあります。王様はこの国が欲しくはありませんか?」

 たちまち喜色満面となった王様は、答えました。

「えっ!そんなに広く豊かな国があるのか。その国をこの私が攻め獲らぬことがあろうか」

 行者は、こう言って立ち去りました。

「そうですか。では、船と兵隊を用意しておいてください。七日経ったら、私がその国へご案内しましょう」



 王様の命令で海岸へたくさんの船と兵隊が集められ、大騒ぎになりました。

 七日目を迎えてまっ先に船へ乗りんだ王様は、勇み立ち、今や遅しと行者の到着を待ちましたが、なかなかやって来ません。

 いらいらしているうちに陽が傾き、王様の心が曇るのと軌を一にするかのように夕闇が迫りました。

 膨大な戦利品をつかむはずの船も兵も、準備万端調っているのに、どうすることもできません。

 そうなると王様の夢はますます膨らみ、ますます焦り、ますます悲しく、ついには行者への怨みすら頭をもたげ始めました。

?ああ、恨めしい。私はもうすぐ大きな国を我がものにできる。そして、山ほどの財宝を手に入れられる。それなのに、行者が来ないばかりに何もできないなんて。何ということだろう………?



 待てど暮らせど行者は姿を見せません。

 そのうち、乱れに乱れていた王様の心は一瞬にして反転しました。

?―――待てよ。海の彼方にある国のことは行者から聞いただけであって、私は、何も知らない。それなのに、実際あるかどうかも判らないものをただやみくもに欲しくなって、大騒ぎを起こしてしまった。こうなれば、船も兵隊も、何の役にも立たないではないか。もしかしたら、あの行者は私の心に浮んだ幻だったのかも知れない………?

 そして、欲望の恐ろしさがストンと腑に落ち、命令を発しました。

「皆、ご苦労だった。兵たちは、それぞれの故郷へ帰るがよい。果てしない欲にからめとられていた私は、とうとう幻を見てしまった。目に見えるものを欲しがって止まないだけでなく、知らぬ人から聞いただけのものまで欲しがり、この騒動を起こしたのだ。皆もよく覚えておくがよい。『欲には際限がない。欲にとらわれ、ものを追いかけているうちは、いつまで経っても真の満足は得られぬものである』



 いきなりこう言われた人々は何のことか解らず、ただただあっけにとられただけでしたが、王様は、何とはなしの明るさを心に抱いて王宮へ帰りました。

 その後、以前にも増して善い政治を行なうようになったそうです。

(帝釈天がどれほど喜んだかは記されていません)



 今回のできごとでたくさんの方々が財を失い、あるいは家計が破綻し、あるいは家庭が崩壊し、あるいは仕事に行き詰まり困窮しておられることでしょう。

 無一文での托鉢から修行を始め、今もプレハブ暮らしをしている身には、痛いほどよく解ります。

 心よりお察し申し上げます。

 しかし、分不相応なお金を操ったアウトローの若者集団を怨むのは、〈お門違い〉というものです。

 まことにお気の毒ではありますが、勝手にを見たのは、皆さんご自身です。

 とは言え、見える人の目には明らかに幻だったにもかかわらず、見える人の意見を無視して幻が大手を振って徘徊するような仕組みを急いでつくった政治家たち、幻が開拓者やヒーローであるかのようにもてはやした学者・文化人・マスコミの責任は厳しく問われねばなりません

 また、他にもいろいろな幻たちがうごめいており、この国の人々の一刻も早い覚醒が待たれます。

 

 ちなみに、国民のどれだけが、〈「国際貢献」の美名のもとに自衛隊がアメリカ軍の一部に組み込まれつつある現実〉を認識しておられましょうか。

 アメリカは『地方復興チーム(PRT)』という新たなイラク支配組織を作り、今月13日、政府へ陸上自衛隊幹部の派遣を求めてきました。

 この組織の主たる目的の一つは「治安の維持」、つまり軍事行動です。

 これまで、自衛隊は、他国の軍に守られた〈戦わぬ軍〉としてイラクで活動してきました。憲法の縛りがあるからです。

 今、政府は憲法を改変しようとし、アメリカはそれに先だって明確な軍事行動を求めています。

 また、日本の指導者は、「同盟軍」を口にする時、独特の表情をします。あの気配に異様さを感じない人がおられるのは信じ難いいことです。

 さてどうするか、この国は戦後最大の岐路に立っています。

 すべては私たち自身に委ねられ、いかなるものであれ、私たちは私たちの判断が原因となってもたらされる結果を甘受せねばなりません。その〈結果〉は子々孫々の運命をも左右するほど巨大なものとなることでしょう。



 一つだけ、幻にやられぬ具体的な方法を指摘しておきます。

 今の世間で用いられている「改革」という言葉は、「改変」と置き換えて見聞きしましょう。

 「改革」には「良きところへ向かう」という暗黙の意味合いが含まれており、それを巧みに用いられると、「改革の名で行なわれる破壊行為はすべて善である」という錯覚を持たされます。

 一方で、「抵抗勢力」には、本来なかった「前進への邪魔者」という悪しき意味が巧みに付与され、慎重な議論を求めるまっとうな人々までがレッテルを貼られ排除されています。

 もちろん、改変が常に善であるなどということはあり得ません。欲にかられて「改革」の流れにうまく乗ろうした人々の悪業と悲惨とが、その欺瞞性を明らかにしたではありませんか

 ましてや、根気強い議論を経ないで性急に、声高に行なわれようとしているものには、何か隠された意図があると判断して間違いありません。



 当然のことながら、本稿は、徒なる個人批判や政府批判を目論むものではありません。

 ただただ、ともすれば幻を見たがる私たちのありようを省み、知らぬ間に風潮という流れに乗って現われる幻を見分けたいと願うのみです。



 当山は、年の初めに「今年は、去年にも増して今までになかった事態が起こり、影響は尾を引く」ことと、「無自覚に流される愚は避けたい」ことを指摘しました。 

 もう一度、声を高くして提案します。

 「改革」という言葉は「改変」に置き換えて見聞きし、主張の内容を、私たち自身の言葉と頭で冷静に慎重に検討し、判断しましょう!!




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2006
01.19

曇のない心 ―五智如来(ゴチニョライ)―

 私たちは「心が曇る」と言いますが、曇っていない心とはどういうものでしょうか。
 如来様のお智慧を考えてみましょう。
 
 まず、外界の全体が、全体として鏡へ映るようにとらえられます。
 これが「大円鏡智(ダイエンキョウチ)」です。
 たとえば、春の長閑な小雨の日に景色を眺めると、煙るような空気を通して山や樹や花や家が見え、間近には緑色のカエルがおり、雨音に混じって時折、鳥のか細い声が聞こえます。
 一幅の掛け軸になった風景画のように心象風景が広がります。
 これが曇れば、泥棒には戸締まりの不十分な家のみが見え、痴漢には性的興味の対象だけが見え、他のものはグレーの背景でしかなくなります。

 また、雨粒も、雨脚も、山や樹や家や花も、カエルも、鳥の声も、それぞれのものが確かに在ることが判ります。
 勝手な取捨選択を通さずに、皆、そこに在ります。
 これが「平等性智(ビョウドウショウチ)」です。
 これが曇れば、無慈悲になり、いじめに走り、他人はどうでもよくなります。

 そして、山は山として在り、カエルはカエルとして在り、鳥の声は鳥の声として在り、それぞれのものがそれぞれとして在って全体になっているという、万華鏡を覗いて内容物の有様がはっきりと認識できるような智慧がはたらきます。
 これが「妙観察智(ミョウカンザツチ)」です。
 これが曇れば、桜が眼に映っても、柳が眼に映っても、そのもの固有のかけがえのない有様が判断できなくなります。

 また、山の存在は、雄大さを眼と足の裏で確認するかのような体験を思い起こさせ、いとけないカエルの姿は、濡れた草むらと共にいのちあるものの健気さを覚えさせます。
 これが「成所作智(ジョウショサチ)」です。
 これが曇れば気ままになり、無感動になり、咲く花も、啼く鳥も、自分にとって無価値になります。

 四つの智慧が円満にはたらく時、この世のすべては無限のいのちの顕現であり、全体としてそれぞれの瞬間が完全でありながら千変万化して止まない世界であることが解ります。
 これが「法界体性智(ホウカイタイショウチ)」です。
 自然に、帰依・感謝といった厳粛で暖かい情緒が心の奥から滲み出し、溢れ、時が経つのを忘れます。
 隠形流居合で、充分に観想をこらしてからご本尊様の一剣をふるった後にも、こうした瞬間は訪れます。
 吉田松陰は、切られる直前になって興趣が動き、「これほどに思定めし出立をけふ聞く声ぞそうれしかりける」と書き遺しました。
 そして、以前に詠んだ「身はたとひ武蔵の野辺に朽ちぬともとどめおかまし大和魂」を口ずさみつつ、従容として逝ったとされています。

 この五つをつかさどる「五智如来(ゴチニョライ)」様のお智慧こそが、曇りのない心の表われです。
 どの方面かが汚れていはしないか、時折チェックしてみましょう。




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2006
01.18

堀江貴文氏を反面教師にしましょう

Category: 日想
 時代の寵児ともてはやされていた堀江貴文氏が高転びに転びました。

 彼及びこの時代の精神の荒廃を端的に物語っているのが次の言葉です。

「ずるいといっても合法だったら許される」



 「ずるい」という言葉はすでに〈罪悪〉を含んでいるにもかかわらず、「合法」を楯にして平然と人倫を無視しようとします。あの何かをはじき飛ばすようなツルリとした表情は、人倫によって「自分は縛られない」という傲慢さの顕われです。

 「許される」という言葉もまた、悪行を犯すことを前提としています。ずるいのが悪行であるという知識はありながら、「処罰されないのだから」とたかをくくって人倫を踏みにじっています。

「許される」とは、法律の網はまだ不完全であってすべての悪行を取り締まり切れないという意味でしかなく、心におわしますみ仏は、良心に従わぬ者を決して許しはしません。

 犯した悪行を放っておいて許されることはあり得ません。因果応報の理法は人間が定める法律のような〈目の粗い網〉ではないからです。



「愚かな者の行いは、自らに憂いをもたらす。気ままに行なう悪行は、自らに災いをもたらす」 ―『法句経愚暗品』―



「過失罪悪が報いをもたらすまで、愚かな者は平然としている。やがて時が至れば、過失罪悪に見合う罰を受けること必定である」 ―『法句経愚暗品』―



「災いの元となる悪行を行なっていながら目先の福徳に恵まれているのは、悪行が報いをもたらす時がまだ訪れていないだけのことである。時至れば、自ら惨い罰を受けねばならない」 ―『法句経悪行品』―



「小さな悪行を?これしき?と軽んじてはならない。一滴づつしたたりり落ちる水滴であっても、時が経てば大きな器を満たす。罪悪が溜り、罪が器からあふれてもたらされる大きな罰は、小さな悪行に発しているのである」 ―『法句経悪行品』―



 当山では、彼を反面教師にしましょうと重ね重ね申し上げてきました。

 とは言え、決して個人攻撃ではありません。

 悪は見すえねばならず、悪を教えてくれる悪人は、誰であれ教師とすべきです。

 気をつけねばならないのは、悪人は毒キノコが見せる妖しい魅力のようなものをふりまく場合があり、自分の好みに引きずられる人は、こうした目くらましにやられて、悪そのものを直視することが難しいことです。

 

 自民党が堀江氏を選挙にかり出したのは、亀井候補の徳に対抗できる候補者がいないので、目くらましを用いようとしたからです。

 まさに選挙民を愚弄する卑劣な(堀江氏流にいうなら『ずるい』)やり方ですが、勝てば官軍という悪しき風潮(「勝ち組」「負け組」などという浅薄な言葉は使わないようにしましょう)があるので、あわよくばと考えたのでしょう。

 いやしくも国政を担うに足る人物だと判断して積極的に選挙民へ訴えた以上、その人物の馬脚が現われた今、小泉首相を初め関係者たちは、速やかにその不明を詫びるべきです。

 そのためにもっとも適切な言葉があるではありませんか。

「不徳のいたすところです。もうしわけありませんでした」

 

 私たちは、つい最近、めったに耳にしなくなった潔い言葉を聞き、心が洗われました。

 山形の特急脱線転覆事故現場を視察したJR東日本の松田昌士会長は、12月29日ただちに「全責任は最高責任者のわたしにある。命を預かるトップとして出処進退は常に頭にある。死者が出た以上、原因が何であるかを問わず責任は免れない」と辞任を表明し、精力的に事後処理に当たっておられます。

 この件についてJR東日本へ問い合わせたところ、「さすがは会長だと思いました」と、担当者から誇りを含んだ声で回答をいただきました。

 一方、日本を背負っておられるトップの姿勢には些かの誇りも持てません。

「会社で採用した社員が不祥事を起こしたからといって、採用がまちがっていたことになるのでしょうか?」

とは、一国の総理の発言とは思えぬほどの俗論です。

 怒りを通り越してただただあきれ、次には恥ずかしくなりました。こうした俗耳に入りやすい俗論でものごとをやる総理大臣を選んだのは、誰でもない、私たちなのです。



 今回、一国の指導者たちがこの件にどう対応するか、私たち選挙民はよくよく見ておきましょう。

 誰が大人物で誰が小人物か、誰がまっとうで誰が姑息かを見極める絶好のチャンスです。



 ともあれ、私たちは、堀江貴文氏へ石つぶてを投げることなく、冷静に、その人物に端的に表れている時代の病巣を見つめ、反面教師としたいものです。

 彼のような人間にならぬよう、子どもたちへ、「ずるいことをしてはなりません」と、しっかり人倫を教えましょう。



 最後に急いでつけ加えねばなりません。

 彼は決して憎まれるべき大悪党ではありません。

 むしろ、無邪気な病人です。ただし、かなりな重篤であることは論を待たないでしょう。

 病名は「拝金主義」及び「弱肉強食思想」です。

 つまり、彼は私たちと同じ病気にかかった病人なのです。


 彼と私たちの一日も早い全快を願ってやみません。




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2006
01.17

釈尊が説かれた人倫の基本

 お葬式を行ないました。
 去年、「やがて来るいつの日か、弔ってください」とわざわざ夫婦揃ってご来山された方のあまりに早い別れに、言葉を失う思いでした。
 参列された方々から「戒名の意味についての説明は、初めて聞きました」「自分もやがては頼みます」「これからお大師様の勉強をしたい」等々の言葉をいただき、また、仏教の要諦についての真面目なご質問もありました。
 何度も書いた教えですが、ご縁となった皆さんのご誠心のために、再々度、記しておきます。

 釈尊は、人倫の根本として、まず「もろもろの悪しきことを行なうなかれ」と説かれました。
 善きことというものは霊性の向上に従って無限に深まり、高まり、広がりますが、悪しきことは人間たり得る最低レベルの下にあるので、小さい頃、「卑怯なことはするな、ウソはつくな、気ままをするな」といったことがしっかりしつけられていれば、自然に判断できるようになるものです。
 もちろん、判っていてもやってしまうのが人間の弱さです。言い訳もしたくなります。
 しかし、良心の扉さえ開くようになっていれば、何とか人生を送れます。
 もちろん、み仏の教えと法は、どんなに錆び付いた扉でも必ず開けられます。
 いつもその扉を開けておく決心をするのが、教えを聞き法を受ける授戒(ジュカイ)です。
戒律を授かり「殺生をしません・偸盗をしません」と決心を重ねているうちに扉は開いたままになり、もう悪しきことは〈やらない〉のではなく、〈できなくなる〉ものです

 授戒は、ほとんど場合、お葬式において導師から亡き方へと行なわれます。
 これだけでは、いかにも残念です。
 当山では「皆そろって悪しきことのできない人になりましょう」と願い、毎月二回の例祭で『お授け』という修法を通して授戒を重ねています。
 全身全霊を込めて「不殺生!不偸盗!」と誓うのです。
 そして、み仏の子としての本性に従って生きるよう、重ねて誓います。

 とにかく悪しきことができなくなれば、善きことはいくらでもできるようになるものです。
 その地点が釈尊の説かれた人倫の第二「もろもろの善きことを行なうべし」です。
 かつて、応神天皇の末子である菟道稚郎子(ウジノワキイラツコ)は、父の突然の崩御に伴い後継者争いが生じるのを避けるため、悠然と自決されました。
 その結果、最も徳が高いと目されていた皇子がいなくなったので、長子である仁徳天皇が即位されました。
「和をもって尊しとなす」大和の国日本ならではと言うべきでしょう。

 こうなれば、第三「自らの心を浄めよ」は自然に実践されることになります。
 一生を通じ無限に魂を清め高めること、人が生まれてきた理由はここにあります。
 これから五十六億七千万年、幾世代にも渡り魂を清め続け、やがてはすべての人間が本来のみ仏の心で生きられるようになる時を迎えるために、私たちはいのちのバトンを承け、そして渡すのです。

 年末から、例年にも増して厳しい冬となりました。
 でも、春を思わせる朧な十六夜(イザヨイ)の翌日、雪が溶け、伸び始めていた緑の草が顔を見せました。
 幼い木も、小さな葉を一枚つけています。
 イギリスの詩人シェリーはしゃれた言葉を残しました。
「If Winter comes,Spring be far behind?」(冬来たりなば、春遠からじ)





2006
01.16

死刑制度と仏法

 熱心に社会活動をしておられるKさんからのご質問です。
「不殺生を説く仏教では、死刑をどう考えているんでしょうか?」

 当山では、
「死刑という制度があるのはやむを得ないが、死刑囚が正真正銘の真人間として生まれ変わったならば、罪一等を減じて欲しい
 そのために寺院として尽くしたい」
と考えています。
 教誨師が生まれ変わりを確認し、裁判所もそれを認定し、かつ、事件の被害者や関係者などが罪を許すことができたなら、執行を停止しても良いのではないでしょうか。

 他人が知ると知らざるとを問わず、人は誰しも何らかの罪を犯すものです。
 罪とは、刑事責任を問われるようなものだけではありません。
 たとえば、仕事をさぼれば賃金泥棒の不偸盗戒に反し、不倫はもちろん不邪淫戒の破戒であり、嘘をつけば不妄語戒、つまらぬことに怒れば不瞋恚戒に背きます。
 ハンディを背負った子供をいじめるのも、明らかに道に迷っているお年寄りを無視するのも、公園などの公共の場を汚すのも罪です。
 こうして罪は簡単に犯されます。罪人でない人はいません。

 死刑は、罪人による罪人への殺人行為です。
 罪人たちが集まって、み仏から授かったいのちを誰かから奪うところに、穢れのなかろうはずはありません。
 しかし、社会の安寧を守り、信賞必罰の社会正義を実現しようとするなら、そして、凶悪事件の被害者となった人々の心境を忖度すれば、死刑制度にはやむを得ない面があります。
 問題は、最終的に人が人を殺さずに済む方法と、怨みや憎しみの根本的な解消方法の探求にあります。

 そして、問題を解くカギは、〈人は皆、み仏の子である〉〈祈りは万人へ届き、祈りによって救われぬ人はいない〉というみ仏の教えにあります。

 釈尊は、人間の罪業は迷いに発しており、それは月にかかった雲のようなものであるから、迷いから抜け出したならば、満月のように清浄な心がはたらくと説かれました。

「もし悪行をなすとも、後に悔い改めるならば、やがては世間を導く灯明たる人物にもなり得る。それは、覆っていた雲が晴れて元よりあった月の光が皓々と照るようなものである」 ―『法句経放逸品』―

 こうして生まれ変われば、もう過去の罪人はどこにもいません。
 満月のように清浄な心になった人を殺す理由はどこにありましょうか。
 被害者の復讐心を満足させるためだけに善人を殺すならば、〈野蛮〉と紙一重ではないでしょうか。

 さて、消えぬ復讐心は怨む人の心を汚し、傷つけ続けます。
 オウム真理教によるサリン事件の後遺症に悩む方の「麻原を怨まずにはいられない自分が悲しい」は悲痛な叫びです。
 釈尊は、この世から怨みをなくす方法を明確に説かれました。

「怨む相手を怨んでいるうちは、怨みはなくならない。
 己の心から怨みを除くことが怨みをなくす根本的な方法であり、これこそが真理である」 ―『法句経双要品』―
「怒らぬこと大地のごとく、動ぜざること山のごとく、真理に生きる人は穢れを除き尽くし、解脱を得る」 ―『法句経羅漢品』―

 このように説かれても、被害に遭った方々の心から怨み憎む心はなかなか消えないことでしょう。怨みは心の深い場所へ澱のように溜っており、表面の心で消そうと思って消せるものではないからです。
 だから、冒頭の方法、つまり、加害者が真人間に生まれ変わり、被害者は、もう昔の憎い犯人はどこにもいないのだということを五感六根で受けとめる必要があります。
 被害者の霊性が加害者の霊性を感得し、納得し、怨みという雲の消えることが必要です。
 そうして、罪の穢れをまとった人がいなくなり、罪人を怨む人もいなくなったならば、死刑を執行する理由など、どこにもありはしません
 しかも、死刑の執行がなくなれば、執行にかかわ人々を救うことにもなるのです。

 死刑の執行を止める制度ができるよう、念じています。




2006
01.14

自分に厳しく生きましょう

 自分に厳しく生きるのはもっとも難しいことです。
 とかく、「自分に甘く、他人に厳しく」となってしまいがちです。
 真言宗中興の祖とされる覚鎫(カクバン)様が残された懺悔のための文があります。

「我等懺悔す、無始より來(コノカ)た。妄想に纏(マド)わされて、衆罪を造る。身、口、意、業、常に顚倒(テンドウ)して、誤って無量不善の業を犯す。」

に始まる内容は激越です。
 心から汚れた血を絞り出すようにして自らを悔い、いのちの始まりからたった今までの、あらゆる生きとし生けるものの罪をも代わって受け、懺悔しておられます。

「諸(モロモロ)の衆生。三業(サンゴウ…身・口・意)に作る所の是の如くの罪。我皆相代って盡く懺悔し上(タテマツ)る。更に亦その報いを受けしめざれ。」

(あらゆる生きものたちが、身体と言葉と心とでつくる罪障を、私が身代わりとなりすべて引き受けて懺悔いたします。罪を犯した者たちへ悪しき報いが及ばぬよう、どうぞお許しください)


 私たちは、なかなかこうは行きませんが、隠形流(オンギョウリュウ)居合の稽古では、毎回、自らに厳しくあるための誓いを唱えています。

○愚痴を言わずに未来を語ること
○自分の好みに引きずられぬこと
○自他のものの区別をすること
○明らかなことと明らかでないことの区別をすること
○公と私の区別をすること


 さらに、恩を着せず恩を忘れぬことむやみと権利を主張するよりも霊性を持つ人間としての尊さを重んじることを重ねて誓っています。
 欲が野放しになり、どの世界でもプロがどんどん甘くなっていて、えっ!と思うような事件や事故が頻発する今こそ、まず、自分に厳しく生きたいものです。



〔み仏のご加護をいただき、今日も無事、稽古が終わりました〕




2006
01.13

お寺はいつでも変えられます

 今、指先から血が滲むような思いで、パソコンのキーを叩いています。
 後世に僧侶がこんなことを書かねばならない時代が来るとは、いかなる祖師様方もお考えにならなかったことでしょう。
 でも、書かねばなりません。仏法が歪められ、人々が救われぬ世へと退落しつつある事態を放置するわけにはゆきません。

 昨夜もまた、憔悴した顔のご婦人が来山されました。
 文字どおりいのちがけで看護し、看取った父親が亡くなって菩提寺へ連絡したところ、ただちに呼びつけられ、百万円単位の戒名料を請求されたそうです。
 病人の長期入院などで家族全員が金銭肉体共に疲弊し切っておりとても無理です、何とか考慮してもらえませんかと必死の懇請をしたところ、お布施を値切るのかとすごまれました。
 そして、お通夜までに全額そろえて仏様のそばへ置くように命じられました。
 しかも、これから控えている数億円かかる計画まで聞かされました。
 驚いたご遺族は慌てて何とか用意したものの、全員、今後のことが不安になりました。当然、誰もあとを継ぐ勇気がありません。
 僧侶の送り迎えはもちろん何もかも一方的に命じられるままにすべてを終え、勇気を出してご相談に来られました。
お寺を変えることはできるんでしょうか?」

 もちろんです。
 仏神のことは心の問題であり、まったく自由です。行く先を告げるだけで縁を切ることができます。
 墓地は、お骨を引き取り、更地にして返せば良いのです。
 離檀料と称して法外な金銭を請求された話をたくさんお聞きしていますが、それは無茶というものです。
 縁あってお寺を支えてくださった檀家さんが訳あって離れる場合、お寺はお礼を言って送り出すべきです。
 檀家さんが「これまでお世話になりました」とご喜捨をするならともかく、縁切り料を求めるなどあってはならないことです。
 身近な形に置き換えてみればすぐに解ります。
 もちろん檀家さんは〈お客様〉ではありませんが、お得意さんが引っ越しなどでご挨拶に来られた時、お餞別を渡すならともかく、縁切り料を請求するお店がどこにありましょうか。

 ここでまたお布施の何たるかを書かねばならないとは、情なくてなりません。
 布施行は、僧侶はもちろん、人間修行の第一番目とされているものだからです。
 でも、必要がありそうです。三輪清浄(サンリンショウジョウ)について簡単に復習しましょう。
 
 まず、布施をする人の心が清らかでなければ布施ではありません
 何の下心もなく、何のわだかまりもなく、心から差し出すもの。差し出させていただくもの。それが布施です。
 子供が乗りものの席を譲り、悲しんでいる友人へ優しい言葉をかけ、亡き人の弔いが終わってご喜捨をする時、いかなる曇りがありましょうか。
 
 もちろん、布施を受ける側の心も清らかでなければなりません
 自分の都合による勝手な請求や強制は、最も布施を汚すものです。「これこれ欲しいからください」などということは、布施にはあり得ません。なぜなら、布施を受ける側は、〈完全な受け身〉でなければならないからです。
 ましてやみ仏に仕える者の受ける布施は、ご縁の方からみ仏へいただくものであり、聖職者は空(クウ)の心でそれを〈み仏から〉おしいただいて生き、法務に励まねばなりません。

 当山では、何かをいただいたならば、必ず「ありがたく、ご本尊様へいただきます」と申し上げ、ただちに須弥壇へお供えして合掌します。

 差し出そうとする方の苦境を知りながら、ばちが当たりますよとばかり強制するなど、考えも及ばないことです。
 
 そして、布施行に用いられるものもまた、清らかでなければなりません
 泣きの涙でかき集められた戒名料が清らかであり得ましょうか。
 
 ご婦人の体験は、あまりに哀れであり、あまりに情けなく、あまりに恐ろしくてなりません。
 人生で最大の悲しみに襲われている方々は慰撫されるべきです。
 驚愕や困惑や恐怖や不安を与えるとは何たることでしょう。
 亡き方をいかように送るかは、当然、ご遺族のご意向を最大限に尊重する形で決められねばならず、寺院が命令すべきではありません
 
 同じようなご相談が後を絶たず、このままでは仏法は滅びてしまいかねないという危惧がだんだんと深まっています。
 どなたにおかれても、真の納得と安心の得られる寺院とご縁になっていただきたい、そして、仏法を大切にしていただきたいという一念で「最も書きたくなかったテーマ」について書きました。
 自らを切り刻むような思いで書きました。―――嗚呼。

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2006
01.13

皇室典範の改正について

Category: 日想
 法要の後で「皇室典範の改正についてどう考えていますか?この問題について宗教者が発言すると何か問題があるんでしょうか?」とのご質問をいただきました。

 あまり詳しく内容へたち入ることは避けますが、仏教へ帰依する一人の日本人としての基本的姿勢をお伝えすることはできるので、以下の通りお答えしました。



数千年の歴史を持つ日本を代表する伝統を変えようとするのなら、それにふさわしい時間をかけ、問題点を判りやすい形で国民へ伝え、広く公平に社会学・歴史学・宗教学・民俗学・国文学・哲学・倫理学・法学・政治学などの専門家たちから意見を聞き、それを国民の前へ明らかする必要があるのではないでしょうか

 また、学者だけでなく、法律家・宗教家・教育家・実業家など各界の意見も聞かねばなりません。

 そして、国民の見識が深まり、共通の認識が成熟するまで時を待つ必要があります

 選挙の時は莫大な経費をかけて政党の宣伝をするのだから、たとえば、新聞一ページまるまる使って皇室典範のかみくだいた解説を載せるとか、方法はいくらでもあるはずです。

 また、世論がどうこうと言いますが、調査の方法に問題があり、多くのものはとても参考になり得ません。もしやるのなら、まず、『あなたは皇室典範を読んだことがありますか』を第一番目の質問とし、2~3の予備知識の問題をクリアできた人へ初めて改正についての賛否を問うべきです。何も知らない人へこれほどの重大事について尋ねても全く無意味です。

 今のやり方は、とにかく〈最初に結論ありき〉です。形式だけの会議をやってどんどん進め、いいかげんな世論調査を裏付にして、敗戦に際してすら守り抜いた日本固有の伝統を破壊するのはいかがなものでしょう。もう任期がいくばくもないたった一内閣でバタバタと決めるなど、暴挙というべきではないでしょうか」



 何かというと世論調査をしますが、有効な公論をまとめようと努力することはあまりないように見受けられます。

 行なわれるのは、ほとんどが、いわゆる「人気度」の調査だけです。

 おもしろおかしいで済む問題ならいざ知らず、それで国家の大事を判断するのは、賢明な方法とは言えません。



 そもそも、釈尊の時代において、部落民全員が参加する討論では、尊敬されている老賢者がリーダーとして議論を導きました。

 

 聖徳太子の『十七条憲法』第一条の「上和らぎ下睦びて、事を論ず」及び、第十七条の「それ事は独り断むべからず。必ず衆とともによろしく論ずべし」において〈論ずる〉人々は、識見のある人物が想定されていたはずです。



 明治天皇の『五箇条のご誓文』第一条の「広ク会議ヲ興シ万機公論ニ決スベシ 」の「公論」もまた、現代の大衆民主主義を前提としたものではありません。 



 つまり、肝心なことは充分議論されねばならないが、それは単に全員が参加するということではなく、無条件の多数決が最上策でもないというこです。

 たとえば、

「キノコが二種類あった場合、食用になるキノコと毒キノコの見分のつかない人一万人がどちらかを選ぶよりも、たった一人の見分のつく人が選ぶ方が万人の利となる」

のが、理というものではないでしょうか。

 とかく、毒を持つものは見た目が美しく、思わず手を出したくなることは、人生経験を重ねた方ならどなたでも首肯できるこの世の姿でありましょう。



 最近、寛仁親王殿下がご発言をされ、一月九日付の産経新聞にその概要が載りました。ご憂慮のほどが偲ばれます。

 参考までに書き記しておきます。



 天皇さまというご存在は、神代の神武天皇から百二十五代、万世一系で続いてきた日本最古のファミリーであり、神道の祭官長とでも言うべき伝統、さらに和歌などの文化的なものなど、さまざまなものが天皇さまを通じて継承されてきました。世界に類を見ない日本固有の伝統、それがまさに天皇の存在です。

 その最大の意味は国にとっての振り子の原点のようなものだと私は考えています。国の形が右へ左へ、さまざまに揺れ動く、しかし、いつもその原点に天子様がいてくださるから国が崩壊せずにここまで続いたのではないか。

 (有識者)会議の構成に私が口を挟むわけにはいきませんが、わずか十七回、三十数時間の会議でこれほどの歴史と伝統を大改革してしまうことが果たして認められるのでしょうか、あまりに拙速に過ぎませんかと強く申し上げたい。

 たとえばかつて十代八方の女帝がいらした。これが女帝論議に火をつけていますが、そのほとんどは皇女、つまりお父様が天皇でいらした男系の女子です。また、もともと皇后でいらして天皇が亡くなられたために即位された方も多い。御家系で適齢期の方が即位されるまでのピンチヒッターとしての即位で、独身で即位された方は終生、結婚なさいませんでした。

 今認められようとしている女系天皇は、全く意味が違う。二千六百六十五年間連綿と男系による血のつながりでつながってきた天皇家の系図を吹き飛ばしてしまうという事実を国民にきちんと認識してもらいたい。

 畏れ多いことですが、愛子様が男性と結婚されて、お子様が生まれれば、その方が次の天皇さまになられる。こうしたことを繰り返せば、百年もたたないうちに天皇家の家系というものは一般の家と変わらなくなってしまいます。

 そのとき国民の多くが天皇というものを尊崇の念でみてくれるのでしょうか。日本の歴史に根ざしているこの天皇制度が崩れたら、日本は四分五裂してしまうかもしれない。この女系天皇容認という方向は、日本という国の終わりの始まりではないかと私は深く心配するのです。

 今の典範のままではいずれ先細りで皇位継承者がいなくなる可能性はありますから、陛下がご自分の御世で確かな方法を考えて欲しいくらいのことをおっしゃった可能性はあるかもしれません。しかし、具体的に女系を容認せよ、とか長子優先とか、そうおっしゃる可能性は間違ってもない。陛下はそういうことをおっしゃる立場ではないし、非常に真面目な性格からしてもそのような不規則発言をなさることはあり得ないでしょう。

 私が国民にお願いしたいのは愛子様が即位されるにしても、少なくとも三十年から四十年先であり、その間にこれまで皇統を維持するために先人がどんな方策を取ってきたかという事実をよく考え、さまざまな選択肢があると認識し、物事を決めて欲しいということです。




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2006
01.13

お寺はいつでも代えられます ―お布施の強要という暗黒― 

 今、指先から血が滲むような思いで、パソコンのキーを叩いています。
 後世に僧侶がこんなことを書かねばならない時代が来るとは、いかなる祖師様方もお考えにならなかったことでしょう。
 でも、書かねばなりません。仏法が歪められ、人々が救われぬ世へと退落しつつある事態を放置するわけにはゆきません。

 昨夜もまた、憔悴した顔のご婦人が来山されました。
 文字どおりいのちがけで看護し、看取った父親が亡くなって菩提寺へ連絡したところ、ただちに呼びつけられ、百万円単位の戒名料を請求されたそうです。
 病人の長期入院などで家族全員が金銭肉体共に疲弊し切っておりとても無理です、何とか考慮してもらえませんかと必死の懇請をしたところ、お布施を値切るのかとすごまれました。
 そして、お通夜までに全額そろえて仏様のそばへ置くように命じられました。
 しかも、これから控えている数億円かかる計画まで聞かされました。
 驚いたご遺族は慌てて何とか用意したものの、全員、今後のことが不安になりました。当然、誰もあとを継ぐ勇気がありません。
 僧侶の送り迎えはもちろん何もかも一方的に命じられるままにすべてを終え、勇気を出してご相談に来られました。
「お寺を変えることはできるんでしょうか?」

 もちろんです。
 仏神のことは心の問題であり、まったく自由です。行く先を告げるだけで縁を切ることができます。
 墓地は、お骨を引き取り、更地にして返せば良いのです。
 離檀料と称して法外な金銭を請求された話をたくさんお聞きしていますが、それは無茶というものです。
 縁あってお寺を支えてくださった檀家さんが訳あって離れる場合、お寺はお礼を言って送り出すべきです。
 檀家さんが「これまでお世話になりました」とご喜捨をするならともかく、縁切り料を求めるなどあってはならないことです。
 身近な形に置き換えてみればすぐに解ります。
 もちろん檀家さんは〈お客様〉ではありませんが、お得意さんが引っ越しなどでご挨拶に来られた時、お餞別を渡すならともかく、縁切り料を請求するお店がどこにありましょうか。

 ここでまたお布施の何たるかを書かねばならないとは、情なくてなりません。
 布施行は、僧侶はもちろん、人間修行の第一番目とされているものだからです。
 でも、必要がありそうです。三輪清浄(サンリンショウジョウ)について簡単に復習しましょう。
 
 まず、布施をする人の心が清らかでなければ布施ではありません
 何の下心もなく、何のわだかまりもなく、心から差し出すもの。差し出させていただくもの。それが布施です。
 子供が乗りものの席を譲り、悲しんでいる友人へ優しい言葉をかけ、亡き人の弔いが終わってご喜捨をする時、いかなる曇りがありましょうか。
 
 もちろん、布施を受ける側の心も清らかでなければなりません
 自分の都合による勝手な請求や強制は、最も布施を汚すものです。「これこれ欲しいからください」などということは、布施にはあり得ません。なぜなら、布施を受ける側は、〈完全な受け身〉でなければならないからです。
 ましてやみ仏に仕える者の受ける布施は、ご縁の方からみ仏へいただくものであり、聖職者は空(クウ)の心でそれを〈み仏から〉おしいただいて生き、法務に励まねばなりません。

 当山では、何かをいただいたならば、必ず「ありがたく、ご本尊様へいただきます」と申し上げ、ただちに須弥壇へお供えして合掌します。

 差し出そうとする方の苦境を知りながら、ばちが当たりますよとばかり強制するなど、考えも及ばないことです。
 
 そして、布施行に用いられるものもまた、清らかでなければなりません
 泣きの涙でかき集められた戒名料が清らかであり得ましょうか。
 
 ご婦人の体験は、あまりに哀れであり、あまりに情けなく、あまりに恐ろしくてなりません。
 人生で最大の悲しみに襲われている方々は慰撫されるべきです。
 驚愕や困惑や恐怖や不安を与えるとは何たることでしょう。
 亡き方をいかように送るかは、当然、ご遺族のご意向を最大限に尊重する形で決められねばならず、寺院が命令すべきではありません
 
 同じようなご相談が後を絶たず、このままでは仏法は滅びてしまいかねないという危惧がだんだんと深まっています。
 どなたにおかれても、真の納得と安心の得られる寺院とご縁になっていただきたい、そして、仏法を大切にしていただきたいという一念で「最も書きたくなかったテーマ」について書きました。
 自らを切り刻むような思いで書きました。―――嗚呼。




2006
01.13

極楽にいる人の手を握った話

Category: 日想
 隠形流行者Rさんはお祖母ちゃん子でした。

 大好きなお祖母ちゃんが亡くなってふさぎ込んでいたところ、ある日、夢を見ました。

 

 お祖母ちゃんが在りし日の姿そのままに、ゆったりと枕許に座っています。

 起きあがったRさんは、すぐそばで向かい合ったお祖母ちゃんに話しかけました。

「お祖母ちゃん、今どこにいるの?」

「幸せなところにいるよ」

 嬉しくなったRさんは、思わずお祖母ちゃんの手をしっかりと握りしめました。

 そして、とめどなく溢れる涙を流し尽くしたRさんは、その日以来、すっかり気持が楽になりました。

 両手で握ったお祖母ちゃんの手の感覚は、今もありありと残っているそうです。



 この家では、時折、誰も来ないのに玄関のチャイムが鳴ります。

?また、お祖母ちゃんだ?

 皆、同じ思いで顔を見合わせます。

 その音を聞いても、全然気持ち悪くないと言います。



 一周忌の供養会を迎えるために毎日お経を唱えていたRさんは、僧侶と共に経典を読誦し切りました。お父さんも、般若心経などを口にしておられます。

 見事なものです。



 晴れた陽の光が大きな障子へ外のものの影を映している暖かな部屋で、心のこもったおもてなしをいただきながら、お祖母ちゃんの縁で結ばれた檀家さんとの深い時を過ごしました。

 

 今日も、真実世界について教えていただきました

 み仏から伝わる何ごとかをお伝えできました

 時折、お大師様のおそばへ自由に行っていたというお祖母ちゃん。ありがとうございました。




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2006
01.12

独裁者の出現・小泉内閣の危険性?

Category: 日想
 誰しも知らぬことがあります。できぬことがあります。失敗もします。

 人間が与えられた脳細胞の三分の一も使えぬ未完成な生きものであり、五十六億七千万年かからねば全員が悟れぬ未熟な存在である以上、それはしかたがありません。

 人間が人間たり得るのは、知らぬことを知ろうとし、できぬことができるようになろうとし、失敗を省み懺悔してくり返さぬよう覚悟をするところにあります。

 生涯この努力を続けるのが、未完成であり未熟であるこの〈人間〉を生き抜く誠実さというものではないでしょうか。


 

 知らぬこと、できぬこと、失敗することを恥ずるべきではなく、知ろうとせぬこと、できるようになろうとせぬこと、失敗をくり返すことをこそ、恥じねばなりません。



 昨今、改革という刀を振り上げる者はそのまま正義の使者であり、これまであったものは皆、切り捨てられて当然であるという恐ろしい風潮がつくり出され、まっとうな態度が無視され、破壊されつつあります。

 まっとうな態度とは、

〈今ここに在るものを壊そうとするなら、これからの存在意義を否定するだけの充分な理由がなければならないし、新しいものと代えようとするならば、新しいものの方が今在るものよりも存在意義が高いことを確認しなければならない〉

〈祖先が重んじてきたものを壊すなら、壊す理由の正当性について祖先に恥じないという信念がなければならない〉


というものです。

 

 なぜならば、なにものかが〈在る〉ということは、自分がこうして〈居る〉ということと同じだからです。

 自分は、たった今存在している宇宙の一部です。自分なくして宇宙はどこにもないし、宇宙なくして自分もあり得ません。

 つまり、〈在るものを変える〉とは〈自分を変える〉ことと同じです。

 また、自分が生きてここに居ることに感謝しているならば、この宇宙が在ることにも感謝するのが当然です。

 それなら、何かを変えて宇宙をつくっているものを壊す、つまり自分を壊す場合は、充分に真剣であるべきではないでしょうか。

 

 一方、すべては流転し、有為転変を止めることはできません。

 その厳しい流れの中で残り、伝えられて来たものは、言い換えれば〈ご先祖様方からずうっと存在価値を認められて来た〉ものです。

 無数のご先祖様方の判断を自分たちが覆そうとするなら、充分に真剣でなければならないのもまた、当然ではないでしょうか。



 私たちは、何かを変えよう、壊そうとする場合、それが一体どういうことなのか、まず、ちゃんと知らねばなりません。

 そして、変えること、壊すことの妥当性についてきちっと判断せねばなりません。判断する能力を持たねばなりません。特に背後に伝統のあるものであれば、破壊こそ正義であるというデマに惑わされてはなりません。

 もしも、どうしても自分の判断に自信が持てなければ、「自分は判断できない」と正しく認識すべきです。

 その意味では、選挙における棄権や白票には、充分な意味があります。よく判らないのに、ただただ選挙へ行きましょうというかけごえにつられて面白半分でいいかげんな投票をするよりは、棄権や白票を選択する方が誠実であるというべきではないでしょうか

 そして、歴史に鑑みて同じ失敗をくり返さぬよう気をつけねばなりません。

 同じ失敗をくり返しては、私たちへいのちを手渡し、自分たちの生きざまをもって「こう生きよ、こう生きてはならない」と教えてくださっているご先祖様方に申し訳ないではありませんか。



 今の政治権力は、問題の単純化によって国民へ判断停止をさせ、説明を回避し破壊のスピードを上げることによって国民へ充分に知る時間を持たせず、強権の発動によって権力へ抗することに無力さを感じさせ、過去にあった過ちをくり返そうとしています。

 明らかに危険というべきではないでしょうか。




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2006
01.11

無縁になられる方もお弔いできます

 おそらくは老人ホームの担当者ではないかと思われる女性から、いかにも困ったという口調でご相談がありました。
 もうあといくばくもない状態の方がおられ、子供もいなければ身内もないのだが、もしも亡くなった場合に弔ってもらえるだろうかというものです。
「財産がないので、いくらもお布施ができません」
 あちこち聞いたけれどもどうにもならなくて、と言われます。
 当然、お引き受けすることにしました。
 もちろん、まだご当人が亡くならないのに詳しいうちあわせはできません。
「ご心配なさらず、どんなことでもご相談ください。なお、ご病人はお大事になさってくださいね」
 
 電話を切ってから、「ありがたいものだ」と感謝の念が湧きました。
 一般墓地、規格墓、合祀墓、無縁墓と、どういうご要望にもお応えできる態勢があってこそ、「どんなことでも」と言えます。しかも、その態勢は、ご縁の方々の尊いお心一つがもたらしたもので、無理なご喜捨依頼はなしに、〈いつしかできあがっていた〉のです。
 ありがたいと言うしかありません。

 ご相談の方のように、戒名なり俗名なりを第三者へ示す形すら要らないという場合には、五輪の塔へお納めします。
 そもそも、この塔は、無縁になる方々のためにと、仙台市在住の方からご寄進いただいたものです。
 事件や事故やご家庭の事情や後継者不在などのためにきちっと弔われない方々がおられることに心を痛め、寺院である以上ぜひとも何とかしたいと念じていたところ、ひょんなご縁で、私が五輪の塔を造りましょうというお申し出をいただきました。
 ところが、その当時は、まだ墓地がありませんでした。
 やむなく業者さんの倉庫へ眠ること約一年、今度は、墓地用地のご寄進がありました。
 そして、高さ三?にもなる本格的な五輪の塔が完成しました。
 嘘のような本当のできごとです。
 おかげさまで、塔の下ではさまざまな方々が安らぎ、『法楽の苑』を訪れる善男善女が手を合わせておられます。
 この五輪の塔と十三仏守護の『法楽の礎』があるおかげで、自分のご先祖様や身内に手をあわせるだけでなく、自然に有縁無縁すべての御霊をも供養するという理想郷になりました。

 純水が凍ったかのように澄んだ霊気の中に屹立している五輪の塔は、合掌する人にとって宇宙の中心です。






2006
01.10

勉強する習慣 ―声聞・縁覚―

 『大人にとっての成人式』で、子供の勉強でもっとも大事なのは「勉強する習慣」を身につけることで「点数」は二の次であると書いた点について、補足しておきます。

 ふりかえってみると、無一文から出発した落伍者にとっては、師の「教え」と師から伝授される「法」とは、生きるための唯一の灯でした。
 いかに生きるべきかを知り、法力を磨くこと、それがすべてでした。
 師のそばへ行く時は、必ず小さなペンとメモ紙を袂へ入れました。
 教えは一言一句たりとも聞き逃さないよう、師の言葉に全身全霊を注いでいました。
 要点はすべてメモをとり、必ずその日のうちに整理しました。
 大脳生理学では、1日経つと7割忘れるとされているのでうかうかできません。
 メモの整理をしたり、伝授された法についての復習をしたりしているうちに起こった疑問については、必ずしかるべき時に質問し、一度として答をいただかないことはありませんでした。
 質問することが一段高いレベルの伝授を受けるきっかけになり、そういう日々を重ねているうち、ついに開山を許されました。

 さて、釈尊の時代、インドにはまだ書物がありませんでした。
 教えは聞くしかなかったのです。
 聞いて理解し、悟りを開いた人を声聞(ショウモン)といいます。
 ラカンさんと称される人々です。
 また、教えを聞くことが修行へ入るきっかけであっても、その後じっと心を深め、せせらぎや山の雲などの縁に導かれて悟りを開いた人を縁覚(エンガク)といいます。
 彼らもラカンさんです。
 こうして自らの迷いを断ち、自他共に苦を脱しようと生きる人になれば、それが菩薩(ボサツ)です。
 
 六道輪廻の苦界を脱したところは声聞。
 そして、縁覚、菩薩と向上し、如来の境地をめざす。
 これが仏教で説く、悟りへの道筋「十界」です。
 菩薩としての行をもって悟りを求めようとする日本のほとんどの宗派では、声聞・縁覚を小乗仏教であるとしてあまり重んじていません。
 しかし、お大師様は、声聞・縁覚の段階をしっかりやってこそ菩薩行が本ものになり、やがては、悟りを開く方法が直接説かれている密教を学ぶ資格ができるとされました。
 密教の高度な哲学と実践方法は、教えの根本・基本ができていなければ理解も会得もできず、まちがった理解をすれば、狂人が鋭利な刃物を手にするような危険性すら生じるのです。

 お大師様の弟子たちは今でもこの教えを守っています。
 当山がNHKカルチャーセンターの講座で『法句経』を題材にしているのは、もっとも古いとされている経典によって根本・基本を学びながら、質疑応答などを通じて一緒に考え、自然に密教に接していただくためです。
 四国霊場を巡拝したおり、ある寺院で、参拝者の方々と一緒に行なう朝の勤行資料として密教の経典に加えて『法句経』があったのを見つけた時は「我が意を得たり」と頷いたものです。

 こうしたことを考えてみると、勉強する習慣の大切さをあらためて実感します。
 行者としての日々は、準備を調え、よく聞き、書き留め、復習し、実践し、質問する、このくり返しでした。

 また、釈尊の時代にはまず聞くしかなかったこと、最高度の密教を体得したお大師様が〈声聞→縁覚→菩薩〉を厳しく説かれたこと、真の仏道修行には便利な早道はないことなどを思い起こす時、〈聞き、体得し、土台を創り、さらに向上する〉という形の持つ力に圧倒されてしまいます。

 そして、子どもたちの健全育成にも必ずや同じ原理がはたらくはずであると考え、世間を見渡すと、あらためて「寺子屋をやらねば」という決意が強まります。
 やはりお正月、年の始めです。




2006
01.09

大人から観る成人式

Category: 日想
 今日の成人式を心からお祝いします。 



 さて、成人とは「人に成る」ことです。

 成人式は、そもそも結婚可能な年齢(成年期)に達したことを祝う「成年式」「成女式」で、男性は15歳、女性は13歳になってお祝いをするのが普通でした。元服祝いであり、腰巻祝いです。

 そして、結婚できるということは社会人として一人前になることでもあり、親は、それまでに、しつけを通して社会人として他人へ迷惑をかけずに生きて行く訓練をほどこしました。

 成年式が成人式になったのは太平洋戦争後です。



 さて、「一人前」とは何を意味するのでしょうか。

 「他人へ迷惑をかけず自分で生きる」ということであれば、親の世話になっているうちはまだ一人前ではなく、もちろん、生きる糧を得られなければ一人前とは言えないでしょう。

 そうした根本的な意味合いからすれば、現代における20歳という年齢設定には、かなりの無理があります。

 しつけという訓練においても、成人するための準備は明らかに不備と言わざるを得ません。

 もちろん、これらの問題の責任は成人する当人ではなく、親や社会にあります。

 しかし、成人たちは、これから先、自分の言動に自分で責任を負わねばなりません。いいわけは通用しないのです。



 しつけが親の責務ならば、子供の義務は勉強です。

 勉強は、子供にとって欠かせない仕事です。

 勉強の第一の価値は、決して知識を増やすことにはありません。

 この点は、ほとんど見のがされています。

 小学生は中学生になるための知識を得、中学生は高校生になるための知識を得、高校生は大学生になるための知識を詰め込むのが勉強であると勘違いしている親御さんが多いのではないでしょうか。

 実は、子供にとって勉強が大事なのは、「予習」「受業」「復習」を通して、ものごとの段取りをし、実行し、結果の確認と後片づけをするという、「ものごとを行なう手順」や「ふるまい」を身につける機会だからです。

 

 一昔前までは、手伝いという習慣がありました。

 買い物一つとっても、何を手にして、どこへ行って、何をいくついくらで買い、どうやって持って帰るかは子供に一連の流れを経験させ、報告しご褒美をもらうまでが、立派な訓練でした。もちろん、家業の手伝いなどを行なえば、そうした訓練はもっと徹底したものになりました。

 必ずしも学問が身についていなくても、手伝いに熱心な子どもたちは、成人までにきちんとふるまえるようになりました。そして、社会へ巣立ったものです。



 こうした習慣がほとんどなくなった今、「勉強をする習慣」には他に代え難い意義があります。

 成績として勉強が「できない」よりも、ものごとがきちんと「できない」ことをこそ、親も教師も恐れねばなりません。勉強をしない子供は、ついに「できない」まま社会へ放り出され、辛い思いをすることになるのです。

 

 日本では、まったく、あるいはほとんど家で勉強しない子どもたちが急増しています。

 しかし、ここに書いた観点から危機を指摘する声は聞きません。子どもたちと日本の未来のために、声を大にして危機を訴えたいものです。



 さて、しつけを受け、勉強をした子供も、しつけをあまり受けず、勉強もあまりしなかった子供も、成人すれば等しく大人の仲間入りをします。

 そこでは厳しい評価が待っています。

 ここでもう一つ声を大にして言いたいのは、

「大人たちは、彼らがつい最近まで子供だったことを忘れないで欲しい」

ということです。

 もし「できなく」ても、「お前が悪いんだ!」と突き放さないで欲しいということです。

 大人たちは、新成人へ自覚をうながすと同時に、自らの責任を自覚して欲しいということです。

 世界一交通信号を守り、世界一並んだ列を乱さず、阪神大震災の復興へ大挙してかけつけた日本の若者たちを信じて欲しいということです。

 新成人を信じ、育てて欲しいということです。

 そうすれば、彼らは、正義感が強く、潔癖で、礼儀正しく、工夫に優れ、勤勉で、思いやりのあるDNAを活かして、日本の未来に大きな花を咲かせてくれることでしょう。




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2006
01.08

菩薩の穢れ

 「『1月の聖悟』に書かれている菩薩(ボサツ)様のまとう『苦の気配』について、どういう風に考えれば良いのでしょうか?」とのご質問がありました。
 確かに、お地蔵様であれ、文殊様であれ、ご本尊様として私たちを導くほどのお力があるのに、どういうことでしょう。考えてみましょう。

 密教では、地獄から如来までの世界全体を二面からとらえます。
 一つは横平等(オウビョウドウ)、一つは堅差別(シュサベツ)です。

 横平等とは、すべての存在は大日如来の徳の顕われである以上かけがえのない存在意義があると観るものであり、堅差別とは、さまざまなありようの多様性をはっきりと観極めるものです。
 たとえば男女の両性をとりあげるならば、男女に尊卑・貴賤・優劣はなく、男性がいてこその女性、女性がいてこその男性であって、互いに尊重し合うべき存在であると観て行動するのが横平等の立場です。
 また、男女に差別はないけれども厳然とした区別があり、お互いの異なった徳を認め合い、それぞれの持つ特性を大切にして接し合ってこそ男性であり、女性であると観て行動するのが堅差別の立場です。

 二つの立場のバランスがとれてこそ、般若心経で説く「遠離一切顚倒夢想(オンリイッサイテンドウムソウ)」つまり、ひねくれた観方や妄想を離れた澄んだ眼が得られます。
 当山がジェンダーフリーという思想を「狂風」と言うのは、横平等を求めるあまり堅差別を故意に無視しており、結果として子どもたちの健全な発育を損ない、男女両性の輝きを曇らせてしまうからです。
 不自然に偏ったものは、必ず不自然な結果をもたらすものです。注意せねばなりません。

 さて、今回の問題は、〈堅差別の世界観〉によるものです。
 まず、如来と菩薩の違いです。
 如来は、完全な悟りの世界を家として常にそこに住んでおられる方々です。
「こここそが真の極楽ですよ。
 ここはあなた方のふるさとであり、人間修行の到達点です。
 また、あなた方の心には、ふるさとである極楽の光が必ず宿っていますよ」と教えてくださいます。
 菩薩は、悟りの世界にとどまらずに苦の世界へ降りてこられ、私たちを大きな船に乗せて救い出してくださる方々です。
「いつまで迷っているのですか。
 過ちを犯すのは真の貴方ではありません。
 苦しいのは真の世界を知らず心の眼が曇っているからです。
 さあ、ふるさとをめざすこの船に乗って真の貴方をとりもどしましょう。
 迷いの世界を離れましょう」と手を引いてくださいます。

 如来は塵一つない世界で理想を示しておられるので、一切の穢れをまといません。
 菩薩は極楽と苦界を常に行き来しているので、穢れをまとってしまう場合があるのです。

 また、菩薩とは、菩薩行に励む存在すべてです。
 何も虚空蔵菩薩様や観音菩薩様だけではありません。
 六波羅密(ロッパラミツ…布施・持戒・忍辱・精進・禅定・智慧)を行ずる者はすべて菩薩であり、私たちのめざす理想の生き方は菩薩です。
 それは〈自分のことだけを考えず、自他共に真に幸せでありますようにと願い、そのための行動ができるように自分自身を鍛え、実践する人〉です。
 たとえば勇敢な自衛隊員・消防士・警察官・ライフセーバー、子供のためにはいのちをも惜しまぬ慈悲そのものの母親、家族のために辛い場面をぐっとこらえて黙々と働く忍辱の父親、だれでもが菩薩です。

 アメリカを襲った巨大ハリケーンによる被害者の方々の様子は、実に悲惨でした。
 巨大帝国の暗部が明らかになりました。
 水や食料や衣料品や家財道具を求めて商店を襲う人々の形相は恐ろしく、哀れでもあり、阪神大震災直後の日本との違いにあきれ、日本人であることに感謝したものです。
 しかし、暴徒たちを嘲ってばかりはいられません。
 もしも自分が被害者としてあそこにいたならどうしただろうか。
 もしも空腹で泣く子供やケガをした妻と一緒にとり残されていたならどうしただろうかと想像すると、決して他人ごとではないのです。
 前世・来世、あるいはこの先に同じような体験がないと言い切ることはできません。
 場合によっては、たとえ見ず知らずの人であっても乳飲み子を抱いた若い母親がミルクを求めてさまよっていたならば、不偸盗の禁戒をおかして商店のドアを蹴破るかも知れないではありませんか。

 たとえ自分が地獄に堕ちようと誰かを救わねばならぬ場面ではそれを断行する人。恐れぬ菩薩はどこにでもおられます。
 誰でもが菩薩になれます。
 いいや、菩薩になりましょう。本来菩薩である人間の真姿を生きましょう。
 ―――たとえ穢れをまとおうとも………。




2006
01.06

1月の守本尊様

 今月(1月5日から2月3日まで)の守本尊様は虚空蔵菩薩様です。

『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。








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2006
01.06

1月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



虚空蔵菩薩(こ・くう・ぞう・ぼ・さつ) 



「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
01.06

1月の聖語

「仏界の文字は真実なり」―弘法大師―

 

(如来の世界は真実世界であるから、如来の発する言葉は真実そのものの表現である)



 この文の前に「九界は妄なり」とあります。

 迷いの雲のかかっている世界が九つあり(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人・天・声聞・縁覚・菩薩)、そこで語られる言葉は妄語(モウゴ)にならざるを得ません。

 なお、菩薩様は、完全な悟りの世界である如来の世界とこの世とを行き来し、悩み苦しむ私たちを悟りの世界へと連れて行ってくださる船の船頭さんのような方々なので、微かな苦の気配をまとっておられるとされています。

 

 さて、妄語とされているものは以下の四つです。

 ?相言説(ソウゴンセツ)

 見えるものや聞こえるものといった、現在目の前にあるものごとについて語る言葉です。

 もしも他から奪うことを考えている餓鬼界にいれば、町並は盗みに入りやすい家と入りにくい家の二種類に見え、「よし、あそこをやろう」とつぶやくかも知れません。

 ?夢言説(ムゴンセツ)

 過去の経験の現われとしての夢を見、醒めてからその内容を語る言葉です。

 もしも争いの気分に翻弄される修羅界にいれば、以前悪口を言われたことのある友人を殴る夢を見て、「そうだ!」と実行するかも知れません。

 ?妄執言説(モウシュウゴンセツ)

 過去のできごとを思い出して語る言葉です。

 もしも苦からの出口が見えない地獄界にいれば、「あの時、ああすれば良かった………」「ああ、こう言えば大丈夫だったはずなのに………」といった愚痴のとりこになるかも知れません。

 ?無始言説(ムシゴンセツ)

 いのちの相続と共に伝えられた無始の煩悩によって語られる言葉です。

 赤ん坊の「オギャー」や、びっくりした時に発する「うわっ!」あるいは嬉しいときに思わず叫んでしまう「万歳!」などです。



 ここで言う「言葉」は、実際に口から出るもののみを指すのではありません。思考は言葉によるので、何かを考えているだけでも、言葉がはたらいていることに変わりはないのです。

 

 嬉しいから、悲しいから、好きだから、嫌いだから、賢いから、愚かだからといった条件によってはたらく言葉ではなく、いついかなる時も真実世界を表わし、現わし、顕わにする言葉、それが如来の発する言葉『真言』です。

 今年も「仏界の文字」である真言と経文に導かれ、まっすぐに生きましょう。








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2006
01.05

まっとうな人 その2

Category: 日想
 たくさんの方々から『まっとうな人』へご意見をいただきましたので、附記しておきます。

 

 前回とりあげた老社長の経営方針と会社のありようは、終身雇用を前提としたまさに日本的な姿ではないでしょうか。

 職場は、生きるための糧を得る場であると同時に、集う人々が成長するための修行の場でもあり、場そのものも人と共に成長します。人々は自分が生かされ成長することだけでなく、会社そのものの成長をも我がことのように喜びます。

 会社は私である家に対して公(オオヤケ)であり、人々は、はたらきながら〈公のために尽くす〉という奉仕の精神・布施の心が涵養されます。

 もちろん、会社は、日々安心に生きるためのよりどころです。

 

 経営者は社員へ兄弟や親のように接し、育て、守り、生かします。

 給料は「生かしてやる」ために与えるのではなく、はたらいてくれた謝礼として渡されます。

 社員は経営者へ兄弟や子供のように接し、敬い、従い、支えます。

 給料は「獲得する」のではなく、「生かしていただく」感謝をもって受け取ります。

 経営者は社員を使うのではなく、それぞれの持ち味を活かすように持ち場を与え、社員は経営者に敵対するのではなく、経営理念を理解し、その実現のために力を尽します。

 資本家は、あくまでも裏方として控え目に経営者と社員を見守ります。

 そうした資本家を経営者も社員も尊敬し、誇りに思います。



 会社は、経営者が社員をこき使い、気まま放題をする場ではありません。

 会社は、社員が給料を得るために利用する場ではありません。

 会社は、資本家が私腹を肥やすために売り買いするものではありません。

 会社は、経営者と社員と資本家が鼎(カナエ)の足のように共に支え合いながら生き、向上し、それが結果的に何らかの形で一人一人の自己実現をもたらす神聖な場です。

 これが日本の会社だったはずです。

 

 経営者も社員も資本家も基本的にはまっとうでした。イデオロギーに振り回された時代もありましたが、少なくとも、まっとうであろうと努力しました。

 誰しもが我欲をむき出しにする「あさましさ」「いやしさ」「さもしさ」「いぎたなさ」を嫌い、恥としました。そうした人間は未熟であり、いつまでも未熟であっては恥ずかしいのです。

 恥を知り、恥を怖れ、恥ずかしくない生き方をする人をまっとうな人といいます。



 ―――老社長の生きざまが、恥を忘れつつある経営者・社員・資本家への警鐘となりますよう。アメリカですら見なおされつつある日本の美風を弊履のごとくうち捨てようとする政治家への痛棒となりますよう。




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2006
01.04

まっとうな人

Category: 日想
 久方ぶりに、NHKテレビを観ながらのゆっくりした夕食となりました。ありがたいことです。

 画面には、90歳を越えた老社長の姿がありました。

 

 彼は、若いころ下請け工場に勤めていて、「お前たちに仕事をやらせてやっているんだぞ」という元請け会社の姿勢に我慢ならず、独立したそうです。

 よく解ります。かつて会社を経営していた当時、社員は断じて道具のように〈使う〉ものではなく、共通の目的のために一緒に汗を流す同志であると考えており、一度も「人を使う」といったもの言いをしなかった私は、「人を何人使っている」という経営者同士の会話にとても不快感を感じていたものでした。



 彼は、人のできることは人がやり、どうしても人が出来ないことを機械にやらせるのが本当で、人が要らない社会はおかしいと言います。

 人から人のできることをとり上げてしまうような〈自動化〉は、人の敵だと断言します。

 会社にはパソコンがありません。経理はそろばん記帳は手書を通し、ベテラン設計士は、複雑で精密な機械の図面を定規一本用いることなくすべて手で書き上げています。それでいて何の不便もなく、会社はずっと黒字経営を続けています。

 最新技術を求められる機械製造工場でこのようなやり方が行なわれていることには心底驚き、人間の持つ能力の大きさ・可能性をあらためて認識させられました。



 彼は、仕事が金より上であり、金が仕事より上であるはずはないと言います。

 日本人の得意分野である磨かれ鍛え上げれらた技術で勝負しているこの会社では、ほとんどが年配の社員たちです。

 60歳を超えた職人が退職を申し出たことがありました。体力的に、もう、毎日の勤務はできないというのが理由でした。

 慰留した社長は発注者たちとかけ合い、機械の納期をこの技術者の出勤可能な日程に合わせてもらいました。永年の同志に少しでも長くはたらく場を与えたかったからです。

 この会社には、残業も休日出勤もありません。無理をせず能力を高めながら長くはたらくことが、一人一人へ充実した毎日をもたらすと考えているのでしょう。



 ずっと黒字だったからといって、社長は儲けだけを考えていたのではありません。

 昔の仲間が不渡り手形を抱え、倒産・夜逃の危機に瀕したことがありました。

 せっぱ詰まった仲間は、ほとんど期待はせずに、社長へ電話を入れました。

 聞いた社長は、財産や経営がどうなっているかなどの詳しい説明を求めることもなく、一体いくらであなたの工場を買ってあなたに貸せば今まで通りの仕事を続けられるか、それを教えてくれと答えました。そして、言い値で買い取ってくれました。

 狐につままれたような成り行きで救われた仲間は、急成長しようとして失敗した愚をくり返すことなく、堅実な経営を続け、ついに黒字経営になったそうです。

 社長は述懐します。

「何でそんなことをしたんだと聞かれても、判りません。私には、人助けをするなどという気持はまったくありません。ただ、あの時は、自分ができることをやっただけです」

 

 当山にも同じような経験があります。

 宮床へ移転してまもなく、境内地の地続きになっている土地を譲ってくださるという話がもちあがりました。当山が理想を実現するためにはどうしても必要な場所です。

 俳人原阿佐緒さんゆかりの土地の売買交渉は順調に進みましたが、いよいよ契約が秒読みに入った最後の土壇場で予想外のできごとが持ち上がり、取引が決裂しそうになりました。

 当山は買収を諦めれば良いだけですが、売手も仲介者もそれぞれ事情があって、もう後戻りはできません。

 いよいよ今日明日というある朝、かねて長老から「何かあったら駆け込みなさい。必ず力になってくれる人だから」と教えていただいていたOさん宅を訪ねました。多忙なOさんとは、それまでほとんど言葉を交わしていません。

 あらましを黙って聞いていた彼は、「ちょっと待っていてください。午前中に連絡します」とだけ答えました。

 ほどなくかかってきた電話の内容は、想像を絶するものでした。

「時間がないので勝手に決めて悪かったけど、私が保証人になって銀行から法楽寺へ融資をしてもらうことになりました。これで良かったですか?良ければすぐに銀行へ来てください」

 彼はこの件に関して一切条件をつけず、みかえりを求めることもありませんでした。「できることをやって」くださったのです。

 こうして救われ、皆さんから後押しをしていただき、今日の当山があります。



 いつの時代も、環境や条件を言いわけにせず、目先の損得にとらわれず人の道をまっとうに生きる人はおられるものなのでしょう。

 そうした〈まっとうさの力〉は小賢しいへ理屈を沈黙させ、無責任な毀誉褒貶が一枚の紙切ほどの重みもないことを教えてくれます。

 それにしても、さすがはNHKです。




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2006
01.04

修正会を終えて

 おかげさまで、無事、正月のご祈祷を終えることができました。

 一回の修法に約1時間30分かけ、徹底的に善男善女の心願成就を祈りました。

 初めて修法へ参加し、「こんなに祈るんですか!ご祈祷では、トコロテン式にどんどん進まされたことしかないので驚きました」と目を丸くした方もおられましたが、当山では愚直にやって行こうと考えています。

 合計6回のご祈祷は、必ずやご縁の方々の6つの暗雲を晴らす力になったはずです。地獄界の塞がり・餓鬼界の貪り・畜生界の恩知らず・修羅界の争い・人間界の迷い・天人界の傲慢です。



 また、ご参詣の方々へ、『新年に感謝します』に書いた「山賊へ水をさし出した少女の話」をお伝えし、共に考えました。

 ?ああ、そうか、そうですよねえ?と思っても、いざ自分がその場にたち至ったならばどうでしょう。

 「実践できそうで、できなそうで、でもできそうで………、やはりやりたいと思う」といったところではないでしょうか。

 いずれ、何かを聞いたならば真剣に考えることが第一歩です。それを、声聞(ショウモン)といいます。

 

 守本尊様を大切にし、まごころを向ける方々にとって、そして有縁無縁の方々にとって佳き一年になりますよう。






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2006
01.03

【現代の偉人伝第12話】 ―大欲の人松井秀樹選手・山田社長―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 プロ野球ニューヨークヤンキースに所属する松井秀喜選手は、野球の世界選手権とも言うべき国別対抗戦、ワールド・ベースボール・クラシック(WBC)の日本代表選手になることを辞退し、彼が〈至宝〉であることをあらためて証明した。

 たくさんのプロ野球ファンはもちろん、ほかならぬ王貞治監督に参加を熱望されていながらの辞退であり、周囲には驚いた方も、不可解と感じる方も、不満な方もおられようが、おそらく、彼にとってはあの選択以外なかったはずである。

 

 膨大な熟慮の時間が背後にあることを信じさせる訥弁はこうであった。



「ヤンキースでワールドチャンピオンになるんだという米国行きを決断した時の大きな夢がおろそかになるのを恐れる自分がいました」



 〈私は、自分自身を夢の中へ投げ込んでしまった身なのですから〉と言っているのである。

 おそらく、彼がほんの一時期、ヤンキースの一員であることを離れ、日本人選手として日の丸を背負って闘ったからといって非難する人は誰もいないだろう。むしろ、結果にかかわらず、いつものひたむきな姿は大きな感動を呼び、変わらぬ賞賛を受けるにちがいない。

 しかし、彼は、世間が望む晴舞台に立つことはできなかった。



 数年前、『仙台レコードライブラリー』の山田社長が、自ら創設した組織から離れ、出身校にかかわる一切の役職も辞任した。

 組織とは、仙台二高を卒業した同期生が集う葬祭互助会である。

 その当時、同期会の会長を務めていた私は慰留しなかった。

 身を引かずにいられない真の理由は、レコードを通じてのクラシック音楽の探究をさらに徹底したいというものだろうし、あるいは、もっと高い次元をめざしておられるのかも知れない、と忖度したからである。

 東京にも進出して日本有数のクラシックレコード専門店を育て上げても、盤へ針を落としただけで曲名はもちろん、指揮者、演奏者、録音時期、録音場所、すべてが判断できるほどの境地に至っても、おそらくは「道、半ば」といった心境なのだろう。



 松井選手にとっても、山田社長にとっても、定めた生き方から離れた行動は、単に時間を割かれるのがどうこうという問題ではなく、もう、〈できない〉のである。

 歩いている一本道からはずれれば〈自分〉ではなくなるのだろう。どうしても、〈偽りの時間〉が過ごせないのである。



 功利・名利といったものが身から剥がれ落ちた大欲(タイヨク)の人は、清々しい。




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