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2006
02.28

【現代の偉人伝第15話】 ―師となってくださる方々―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 一昨日、重鎮としてお支えくださっている檀家さんが来山された。知人が檀家になりたいと言っているので、入檀を認めていただいきたいとのことである。

 ご丁重なご挨拶に傷み入った。ご縁をつないでいただき感謝するのは当山の側である。

 もちろん快諾したところ、すぐにAさんご夫婦が来られた。小柄なご主人の斜め後に、最近手術を終えたばかりの奥さんが慎ましやかに座られた。

 当山が導師を務めたご友人の葬儀に列席し、檀家になる決心されたという。

 ご自宅のすぐ近くにある大きな寺院に持っている外柵付きの墓地を手放しての入檀と聞き、驚いた。

 まだお骨はないし、お墓もいつ建てられるか判らないけれども、境内整備などの手伝いをしながらご縁を活かし、やがて寿命の尽きる時は安心して旅立ちたいと誠意を述べられた。責任の重さとお選びいただいたありがたさに胸が震え、頭が下がった。



 昨日朝、Bさんが、はるばると約2時間かけて来山された。

 お母上を亡くされ、親夫婦のご意思で、特別立派なお墓は造らなくとも安心して眠れる寺院を探していたところ、インターネットで当山を知ったという。

 簡単な葬儀を行なった後、葬儀屋さんや親戚たちからいろいろ勧められたけれども意に添わず、納得のできる寺院がみつからないうちに、もうすぐ一周忌ですと笑われた。

 インドを始めアジア各地を旅したBさんは話に無駄がなく、目を逸らさない。

 法要と納骨の打ち合わせを終え、『法楽の礎』へご案内した。十三仏様をカメラに収めながら、こちらはやはり寒いですねと言われる。海岸添いの町から2時間の北上である。おそらく3度や5度は違うだろう。

 敢然として、居住地より寒いところへ永遠の安心の場を求める姿に、改めて打たれる思いだった。



 恒例のご加持が終わった夕刻、永年音信不通だったお父上が急死され、お骨を預かる寺院を求めていたCさんご夫婦が来山された。

 まだお若いが、端然として正座を崩さない。

 事情があって葬儀ができず、お弔いについての知識もまったくなく、十数ヵ寺へ電話をかけてから夫婦でよく相談し、当山に決めたという。

 修法後にお茶を共にした。

 父を亡くしたのでと告げた時、ご愁傷様でしたねと言葉をかけられたのは当山だけだったので、強い印象を受けましたと涙ぐまれた。唖然とし、同じく袈裟衣をまとう者として身の縮む思いだった。

 つい最近、葬儀後の法話で、決して人の死に慣れることはできませんと申し上げたことが思い出された。

 弔う者としてひんぱんに死の場に立ち会うけれども、それはこちらの事情であって、それぞれのご遺族にとっては生涯に何度もない衝撃の場面であり、そのご心中を察する時、皆さんと同じく心に雨が降るのを禁じ得ない。

〈人の死は常に早すぎる〉のである。



 晩飯の頃、タウン誌で隠形流居合の記事を目にし、入門を検討しているというDさんから電話があった。もう60歳を過ぎており、初めてですが大丈夫でしょうかと心配そうである。

 私も60歳です。70歳以上の方も女性もおられますからご心配なくと申し上げた。

 いかなる記事であるかは、まだ見ていなので判らないが、とにかく身体と言葉と心を正しくはたらかせ、み仏の教えと法を実践する旨をお伝えしたところ、入門を決断したご様子である。

 初めのうちとはすっかり異なって金曜日が待ち遠しいというような明るい声に、こちらの気持も明るくなった。

 師弟ではあっても、門人に対して同志という意識の強い私は、いつも皆さんと会話を交わすだけで心が弾む。目に見えぬ何かをいただくのである。



 AさんもBさんもCさんもDさんも皆さん礼儀正しく、清浄で、物腰が柔らかいけれども毅然としておられる。

 こうした真の日本人たちは、私にとって師である。何度でも目を見開かされ、お会いし、お声を聞くだけで大きな力をいただく。

 理想へ向かって進めるのは、教え生かしてくださる方々のおかげである。

 偉大な人々に支えられた小さな行者は、今日も微かな一歩を踏みだそうとしている。




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2006
02.27

イナバウアー ―密教の秘密とは―

Category: 日想
 勝負師荒川選手の金メダルも、情と辛抱の村主選手の4位も、若い安藤選手の果敢な挑戦も、なかなか消えない冬の気配やおそまつな政治情勢もあってウツウツとしていた日本人へ、一気に溜飲を下げさせる快挙でした。

 心から拍手を送りました。

 

 さて、昨日行なわれた会合で、「密教の秘密って、一口に言うとどういう意味なんですか?」と問われました。

 とっさに「イナバウアーをやれる人とやれない人がいるようなものです」と答えました。

(イナバウアーの意味は特になく、昔これをやったドイツ人スーケーターの名前に由来しています)

 観る人へ新鮮で優雅な印象を与える華麗な技も、荒川選手がやればこそ高い完成度で美しく見えますが、小学生などのちびっ子スケーターがいきなりまねをしようとしても危険なだけで、技が活きないことでしょう。

 

 人は性根や、器や、能力などがそれぞれ異なっており、長所や短所もさまざまです。この世で人間らしく活きるための術(スベ)もまた、その人によって異なるはずです。

 み仏は、〈ふさわしい術〉を授け、ふさわしくない術は授けません。これが『如来秘密』です。

 ある作曲家は、作ったばかりの曲を披露しようと自らピアノで演奏したところ、あまりに難しくて弾けずにとうとう怒りだし、ついにはやめてしまったそうです。

 天才作曲家には超一流の作曲する術が授かりましたが、演奏家ではないので、演奏の術は、まだほどほどのところで隠されていたのでしょう。

 み仏がお慈悲で判断されることは、とうてい凡夫の窺い知るところではありません。そして、まだ授けられないものは深く蔵されていて、これもまた知り得ないのです。



 一方、凡夫は煩悩によって心の鏡が曇っているので、真理も真実もありのままに映し出し活かすことができません。

「微かに受けとめ、どうやら人間性を保っている」のが今の私たち―――、長い長い向上の過程にある旅人の姿ではないでしょうか。

「愚かさのゆえに自分で肝心な宝ものの山を隠してしまっている」のが『衆生秘密』です。



 如来が、あるいは衆生が隠す〈イナバウアー〉を顕らかに知り、導かれるよう、心の鏡を澄ませたいものです。




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2006
02.24

世間話・説教・説法

 古い知人Wさんから懇請がありました。
「親父がわけのわからないことを言うようになって困っている。
 あまり気ままになられると、我々夫婦間までおかしくなってしまうかも知れない。
 お寺に行って少し住職の話を聞いてくれれば良いと思うけれども、もちろん、そんな気持はさらさらないようだ。
 申し訳ないけれど、出張して説法してもらえないだろうか」

 残念ながら、ただちにお断りしました。
 それは、人生相談は、ご本尊様と一体になる修法をした上でのみ行なう説法であり、世間話やお説教ではないからです。

 そもそも、息子の意見に耳を貸さなくなった父親が第三者の意見をすなおに聞くはずはありません。
 女性である母親ならいざ知らず、脳の構造も肉体の構造も女生と大きく異なっている男性には、意識するとしないとにかかわらず「自分が主でありたい」という共通の願望があり、世の男性族は、最終権威を自分に置きたがるものです。
 最近、行者S君がこんな光景を目にしたそうです。

 雪の日、子どもたちが幼稚園で雪遊びにうち興じていました。
 すべり台を見ると、男の子が一人、頂上から園児たちめがけて雪の球を投げています。
 その下には赤いジャンバー姿の女の子がいて、雪を集めて球を作っては男の子へ手渡していました。
 せっせと縁の下の力持ちをやる女の子と、大将になって遊ぶ男の子―――。
小さいうちから、男女は、自然にそれぞれ異なった姿勢で生きています。

 主となり、あるいは主でありたいと願いつつ長い人生を生きて来た男性が、他人の意見へ簡単に心を開くはずがないのは当然であり、ノコノコと出かけて行っても、ほとんど無意味です。

 こうした場合の解決方法は、はっきりしています。
 まずWさんが来山してみ仏の前で真実を吐露し、示された教えをまっさらな心で受けとめることです。
 そうすれば、必ず解決への糸口がつかめましょう。
 そのためには、「人事を尽した者」として、至心にみ仏へおすがりする心にならねばなりません。
 そうやって心を清め、大切なアンテナから娑婆の汚れを落とさねばなりません。
 なぜなら、アンテナにこびりついた煩悩の錆が厚ければ、教えを魂のレベルで受けとめられず、教えが活かされないからです。

 この場合、強い煩悩としては、男性であるWさんにも備わっているであろう〈男性としてのプライド〉と、〈知人としての親しさ〉が挙げられます。
 プライドが〈聞く耳〉を濁らせるのと同じく、親しさもまた、耳を濁らせます。
 それは、今は幻でしかない昔の姿や親しい行動の思い出などが、目の前にいる行者をありのままに認めさせないからです。
 行者と命がけのやりとりをしているはずなのに、「なあなあ」の気持でいてはどうしようもないのです。

 いずれにせよ、「これではどうにもならない」と行き詰まりを認め、「何とかならないだろうか!」と仏神へすがり祈る心にさえなれれば、つまらぬプライドや親しさなどは簡単に超えられます。
 そして教えに依って自分の生き様へ「清め」を加え、願をかけているうちに、その様子とみ仏のお慈悲が父親の魂を動かし、さしもの「気まま」という氷もきっと溶け始めることでしょう。

 釈尊は、「説かれる教え」と「修される法」によって〈霊性を発揮するための核心をつかむ〉ことが人生苦の究極的な解決方法であると説かれました。
 それは真理であり、わずか2500年経ったからといって、何ら色あせるものではありません。
 今日も、信じて説法を行ないます。




2006
02.23

弥生の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



先客の猫と分ちて置炬燵



室の鉢芽目ほつほつ三年目



立春に牡丹雪降るほたほたと



三寒に待たるる四温遠ざかる







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2006
02.23

如月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



省略の俳句にも似て枯木立



強東風の家ゆさぶりし響かな



祈るには余りに細き寒の月



雪降らば雪にあまねく路地明り



節分や皆平等に齢を取り



強東風の家ゆさぶりし響かな





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2006
02.23

睦月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



雪しづり猫三尺を飛び退る



食卓の小さき聖樹一人住み



初風呂やふりかへることのみ多し



ものぐさに猫も動かぬ三ケ日




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2006
02.23

師走の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



クリスマス眞中おそふ寒波かな



通帳に染みほどの利子花八ツ手



吾の思ひ猫に聞かせて冬迎ふ



新米によき梅干を選びけり



銀杏散るいてふ黄金ほどけ散る




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2006
02.22

退職・転職の作法 ―己に勝つ―

 退職・転職の人生相談に関していつも申し上げているのは、「『勝者』となって動きなさい。『敗者』となって逃げてはいけません」ということです。
 ここで言う勝敗は、世間で流行っている他人を相手にしての勝ち組・負け組といった下劣な意味ではありません。
 己に勝つ(克つ)のか負けるのかという根本的な問題です。
 釈尊は、『勝者の偈』を説かれました。

「たとえたった一人で千人の敵にうち勝つとも、己に勝つ者の尊さには及ばない」


 勝者と敗者を分けるのは〈引き際〉です。
「もうこれ以上はできない」「この仕事は、どうしても自分には向いていない」と諦めた場合の辞め方です。
 黙って出社しなくなるのは論外ですが、テレビのシーンなどに見られるように「今日限りにさせてください」なども下の下というべきです。

 まず第一には、自分のことしか考えていないからです。
 自分の行動が雇い主や同僚にいかなる迷惑をかけるかを考えないような人間では、一人前の社会人ではありません。
 それは、立場を逆にしてみればすぐに解ります。
 たとえば、突然、雇い主から「君は今日限りで辞めなさい」と宣告されたならどうでしょうか。
 妻子があったりすれば、その衝撃はなおさらです。
 会社も大きな家族のようなものであり、一人の身勝手な行動は、社内全員への大きな迷惑となります。
 こうした思いやりも智慧もないままでは、まっとうな人生は送れません。

 第二には、負け犬になってしまうからです。
 困難に立ち向かう高貴な精神がなく卑屈でいじけた姿勢では、決して明るい運命を創ることはできません。
 一度負け犬になってしまうと、二度目は簡単に同じことをやります。
 三度目はなおさらです。
 こうしてできあがる「陽の当たらぬ暗い物陰が恋しい」という負け犬根性は、人格の向上を止めてしまいます。
 釈尊は『覚醒の偈』を説かれました。

「目覚めよ!どぶ貝やシミなどのように、何を物陰で憩うているのか。
 そうしている間にも、いのちは時々刻々と失われているではないか」


 さて、勝者になる方法です。
 それは、もう無理であると最終的な判断をしたなら、会社や組織のことを考慮して、申し出てから辞めるまでの期間を充分にとることです。

 会社が自分の穴を埋める態勢を調えられるよう協力し〈立場をまっとうする〉ことです。
 古人は、その価値を「飛ぶ鳥跡を濁さず」と表現しました。
 勇気をもって早めに申し出て、〈やり遂げた〉人間として会社を後にするなら、それは、向上の確かな一歩となりましょう。
〈投げ出した人間〉〈逃げた人間〉とは天地の違いです。

 行いはすべて蔵識という潜在意識へ蓄えられ、反応する機会を待っています。
 それは、埋もれ火が一陣の風を待つようなものです。
 行いが運勢となり、縁を得て運命を創ります。
 敗者は暗い方向へと進み、勝者は明るい方向へと進むのです。

 迷ったならば、自分可愛さから安易に逃げ出さず、辛くとも、やり遂げた人間になり胸を張って次の場を目ざしていただきたいと願っています。
 求める方へは、そのための勇気を出す方法をお伝えし、祈っております。
 願わくば、善男善女が『勝者』となりますよう。




2006
02.21

ブータン王国の徳治

Category: 日想
 ブータン国王ジグメ・シンゲ・ワンチュクが国是と定めた『国民総幸福量(GNH)』をこそ大切にしようという考え方が注目を集めています。

 

 GNHは「持続可能で公平な社会経済開発」「自然環境の保護」「有形・無形文化財の保護」「良き統治」を柱としており、国民がこぞって理想の実現をめざす過程において、何と、年平均で約7?という経済成長が伴い、国民の平均所得は南アジアでトップクラスになりました。

 精神が高められれば生活も安定するモデルケースと言えるのではないでしょうか。

 もちろん、「幸福の定義」や「幸福の量り方」など、論理と数字で納得しなければいられない私たちはそう簡単に取り入れられない面もある難しい目標ですが、精神世界は〈気まま〉、物質世界は〈弱肉強食〉へ任せるといった理念なく野蛮な日本の姿勢とは天地の差を感じます。



 経済成長そのものを国家が第一目標として追い求めるのは誤りであり、国民すべてが大きな幸福を感じ、それを共有できる社会を創ることこそが国家の目標であると明言された仏教国の英邁な国王は、ある時、辛辣な質問を受けたそうです。

 少子化に取り組んでいながら8人の妻を持っているのはいかがなものかという指摘です。

 王室の継承を確実なものにするためのきまりに順っていた若き国王は、即答しました。

「この問題は、自分の人生で最大の過誤である」

 そして、ただちに改める作業にとりかかったのです。



「徳治」という日本では死語になりかかっている言葉を思い出させられました。





(国王の写真は『王国リンク』さんから拝借しました)



※日本では、大正天皇が初めて一夫一婦制の理念に基づく神前結婚式を行ない、昭和天皇がお局(ツボネ)制を廃止し、側室はなくなりました。




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2006
02.20

釈尊の母君『摩耶夫人(マヤブニン)』が来られました

 このたび、篤信の檀家S様のご芳志により、当山へ摩耶夫人(マヤブニン)の尊像をお迎えすることができました。

 摩耶夫人は釈尊の母君であり、我が子が「姿形が天上界の子供のように清らかで美しく、たくさんの福徳も備わっている」ことをこの上なく喜びましたが、産後の肥立ちが悪く、まもなく天上界へ逝ってしまわれました。

 釈尊がものごころのついた頃から高い精神世界を意識され、儚いこの世の栄華にとらわれず人生の真理を求める道へ入られたのは、幼い日に母親を失ったことが関係しているのではないでしょうか。



 尊像は、釈尊を手印へ載せて護りながら警戒怠りなく四方へ意識を広げる母親の、優しくも賢く強い姿を表現したものです。

 御手におられる釈尊が尊いのと同じく、どなたのお子さんにもかけがえない尊さがあります。

 すべての母子にご守護がありますよう。








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2006
02.20

戒名に現れた尽きぬ願い

 以前、当山で正式な参拝法を学び、ご夫婦で四国八十八霊場を順拝されたご夫婦のご主人が亡くなられました。
 もちろん、どなたにとっても早過ぎない死はありませんが、それにしてもあまりに早い死魔の訪れでした。
 篤信の檀家さんのご友人でもある奥さんと若いご当主はただちに当山への入壇を希望され、ご友人ともども、ご本尊様の前で固い決意を表されました。

 すべてが終わり、百カ日までの法要後に続く席で、思わぬお話をいただきました。

 戒名は〈魂の色合〉〈この世で積んだ徳〉〈次の世でいただく宝もの〉との三つの熟語から成り、当山では、お布施の金額に関係なくすべての方々へこの正統な形式でお授けしていますが、そこへ故人のご意思が現れたのです。
 戒名にある一番上の熟語へご長男の名前の「下の一文字」が入り、真ん中の熟語へは故人の名前の「上の一文字」が入り、下へはご次男の名前の「下の一文字」が入っていました。
 何も知らずにいつものように法を結んで心を澄ませ、ご本尊様から授かった尊い戒名から、またもや「死後も消えぬ思い」のあることを教えていただくことになりました。

 席に並んだご友人は、後にある遺影を斜めに見ながら述べられました。
「Sさんは、二人の男の子たちへ、いつも『お前たちは大きくなったら仲良く二本の矢になれ。長男は当家を立派に嗣いで守れ。次男は立派な仕事で当家の名を上げよ』と教えていました。
 女系のご一族にあって、男の子へかける期待が大きかったんでしょうね。
 もちろん、たった一人の女のお子さんへは、良い伴侶を見つけて早く孫の顔を見せて欲しいと願っていました。
 この戒名をどんなに喜んでいるか判りません」

 これから先、御位牌を前にしてぬかずくたびに、「二本の矢」は、それぞれ決意を新たにされることでしょう。
 お別れの言葉で、涙ながらに「お父さんとお母さんは理想の夫婦でした」と述べられた娘さんの心にも、故人の思いはしっかりと残っています。
 緑鮮やかな松の大木のごとく強く雄々しく生きられた故人は、死してなお尽きぬ善願を、はっきりとこの世へ残されました。

 お預かりしたお骨を胸に抱いて葬祭会館から帰山する道すがら、夕闇迫る街の灯も泉ヶ岳の白いゲレンデも少し潤んで見えました。

「虚空尽き、衆生尽き、涅槃尽きなば、我が願いも尽きなん」 ―弘法大師―
(虚空が尽きこの世が終わるまで、迷える衆生の最後の一人までが悟り尽すまで、この世が密厳国土となって悟りという言葉が不要になるまで、私は祈り続けよう)




2006
02.16

夢の中で逝った方

 信徒さんが亡くなられ、葬祭会館へ枕経にかけつけました。三寒四温そのままの天候が続いており、今日は霙(ミゾレ)です。

 法衣に着替え、袈裟をまとい、法具を整えて修法に入りました。
 もちろん、初七日をお守りくださるお不動様のご加護をいただき、亡くなられたばかりの御霊が迷わぬよう、邪霊などに近づかれぬようお守りするためです。

 終了後、奥様へ最期のご様子をお尋ねしました。
 前日までちゃんと会話をしておられ、急変の気配もなかったのに、早朝、病院から入った電話によると、職員がベッドから落ちていたのを発見し、ただちに医者が応急処置をしたけれども間に合わなかったということでした。
 主治医の説明によると、患者さんは肺を患っていたので、おそらく苦しさから動いた拍子に落ちて、そのまま逝かれたのではないかとのことです。
 泣き顔の奥さんは、やっとここまで言葉をつながれました。

 故人を前にして座った時の穏やかな印象と悲惨な成り行きには、どこかズレがあります。
 枕経の修法も、事件や事故みよってご遺族と意志の疎通がなかった場合のためのものを行ってはおりません。
 帰山してじっと観たところ、状況が解りました。

 夕刻になり、ご子息が紹介者と一緒にご挨拶に来られました。
 檀家としてみ仏にご守護をいただき、同時に当山を護って行きたいとのご決意をありがたく承り、お父上の最期について観たままを申し上げました。
「お父上は、決して苦しまぎれにばたばたと暴れてベッドから落ちたのではありません。
 好きな山へ行っている時の夢を見て、夢うつつのうちに起きあがり、立とうとされたのです。
 心は、もう、見慣れた山道か頂上にあったのでしょう。
 もちろん病室にいることなど忘れ、『ああ―――』と元気な時のように心を伸びやかにされたまま、肉体が限界を迎えたのでしょう。」

 病院で寝ずの番をしながら義父を送った時のことが思い出されました。
 突然呼吸が荒くなった様子にはっとして上げた眼の先に、まっすぐに視線を合わせている義父の眼がありました。
 しばらくの期間ほとんど瞑目して酸素マスクをしたままだったのに、カッとばかりに見開いたその眼は「娘を頼んだぞ!」と告げていました。
 無口で大の子煩悩だった義父の最後の言葉を、はっきりと眼で聞きました。眼の心である「眼識(ゲンシキ)」がとらえたのです。
 肝心なことを伝え、義父はそのまま帰らぬ人となりました。

 今日は、故人のお気持が心の鏡へ映りました。
 説明にご子息も紹介者も深くうなづき、納得されたご様子です。
 念を押しました。
「どうぞ、お母さんにもこのことをお伝えください。
『ご主人は、佳き夢の中で浄土へ旅立たれたのです』と………。」




2006
02.16

表現の自由とイスラム教 ―日本の役割―

 デンマーク紙などがムハンマドの風刺画を掲載したことに発する欧州とイスラム世界との対立は深刻の度を増しつつあり、一見解決不可能に見えます。
 片や「表現の自由」、片や「宗教的信念」、どちらも絶対的価値と考えられている以上、双方が原理原則を主張し続けるかぎり譲歩のしようはありません。
 実際、欧州では画を掲載する新聞が増加し、イスラム勢力の抗議行動は世界中へ広まりつつあります。

 これを仏法の視点から観ると、対立の根本原因は、欧州的な「表現の自由」として現われている〈我欲〉です。
 そもそも、いったい誰が、いつ、「隣人に不快感を与えてまで気ままな表現方法をとる」ことを正義と決めたのでしょうか。
 日本でも報道の自由という正義の仮面をかぶった露悪趣味や傲慢な取材などが横行し、一旦標的とされれば、哀れな獲物となった人は著しく尊厳を踏みにじられています。
 恥を忘れた報道人や、他の人格を貶める番組の視聴率を上げる視聴者と同じ日本人であることが恥ずかしく、父祖の霊前へぬかづくと、情けなくなってしまいます。

 仏法では、「隣人へ苦や悲しみや不快感を与える」ことは明らかに悪しき行為であり、人の道ではありません。
 そろそろこのあたりで、「悪しきことを行い、争いを生じさせようと、我を張り続けることが正当な権利である」ことは妄想であると気づくべきではないでしょうか。
 欧州では、平等と自由が人類を導く絶対の理念であるとされてきましたが、平等が怪しい観念であることは共産主義の破綻によってすでに明白であり、今、自由もその欺瞞性が露見しつつあるのでしょう。

 こんにちでは、自由が権利として主張される場合、あくまでも自分が主です。
「とにかく自分が自由にしたい」のです。
 ここには、霊性を持った神聖な人間としての姿勢はありません。
 その結果、ケダモノですら摂理という歯止めがあって生存に必要な以上の闘いはしないのに、万物の霊長である人間が歯止めのない気ままを通したいばかりに不毛の争いを起こし、殺し合いまで行なっています。
 欧州的な自由は人間の依るべき理念でない証左であるというべきです。

 仏法に依れば問題は即座に解決できます。
 何かを行ないたい場合は、まず隣人を思いやることです。
隣人を題材にした風刺画を描きたいならば、隣人が不快と感じないと確信できる範囲で描けば良いだけのことです。
 それでも不快であると訴えられたならば、やめて謝るべきです。
 たったこれだけが実践できれば、今回の不幸は回避できたはずなのです。

 こうした、隣人へ思いやりをかけることや意図せぬ加害を謝罪することが人間の尊厳を傷つけましょうか。気ままを抑えることによって尊厳は損なわれましょうか。
 むしろ、徳が磨かれるはずです。
 日本人は、古来、そうして気ままを抑え徳を重んじ、隣人との和を保ってきました。
 身分の区別も貧富の区別もなく和の花がどこででも咲いている、美しい国でした。
 さればこそ、当欄で何度も書いた通り、幕末明治の日本人は、気高さで世界中の耳目を驚かせたのです。
 欧州的な自由という観念が日本へ入ってきた時、先哲はいぶかしがりました。
「日本語で『自由』と訳されるような観念は、本来、高い価値のあるものではない。これからの日本を導く価値あるものであるとするならば『道理』と訳さねばならないのではないか」
 まこと、心眼の明いた人はいつの時代もいるものです。

 自由と称し、我を張るだけで思いやりも懺悔もない姿勢こそが、人間の尊厳を無視したものであるにちがいありません。
 平等も自由も、不平等に苦しみ、不自由にもがいている隣人を思いやる視点から観念されればこそ、活きることでしょう。
 つまり、それらは、自分のためではなく、隣人のためにあってこそ正義となるのです。


 戦後60年、日本の歴史は一回りしました。
 敗戦によって一時的に灰をかぶせられた尊い徳の火を復活させ、金力や武力でなく本来の徳をもって世界へ貢献できる国に戻りたいものです。




2006
02.13

映画鑑賞会

 このたび、下記の要領により、映画を鑑賞することにいたしました。

 私たちの心は、五感六根を通じて受け取るものが創ります。心は、何を眼にし、何を耳にするかによって、一瞬一瞬、時々刻々と変化し続けています。

 より「真」、より「善」、より「美」、より「妙」なるものと接することで心は磨かれ、霊性は輝きを増します。

 反対に、正しい目的を持たぬ欲望にひきずられ、真の価値あるものから離れれば離れるほど心は乾き、人格は堕落し、霊性は曇ります。



 以前行なった鑑賞会では、黒澤明監督の『雨月物語』を観ました。

 眼に見える世界はめまぐるしく変わっても、心の底流はそう簡単に変わりはしません。

 人類は、ようやく深層水の価値に気づき始めました。〈真の価値〉が永遠のものならば、それは浅はかな人間の手によって創られるものではなく、いのちの始まりにおいて、すでにお与えいただいているはずです。

 人類の歴史は、表面の心で次々と儚いモノを創りだす一方で、始原の価値に気づき、探求を続ける道程なのかも知れません。

 お与えいただいたものは無限であり、人間のいのちは有限です。

 輪廻転生は、無限を求める永遠の旅路ではないでしょうか。

 その証拠に、私たちの脳細胞は、まだ、その能力のいくばくも発揮していないのです。



 さて、今回は、市川雷蔵の『眠狂四郎』を観ます。

 参加は自由です。ご家族やご友人などとご一緒に、ふるってご参加ください。

 なお、当日は、朗読アーティスト渡辺祥子さんをお招きし、観賞後、スピーチをしていただきます。

 アナウンサー・朗読家として皆様におなじみの渡辺さんは、現在、『法楽』でとりあげたことのある『全てを超える翼』のすばらしさをより多くの方々に知っていただくべく、来る五月十三日、宮城県民会館大ホールにてトークショーを開催する予定です。

 題は『Power of Life ~心の翼を広げて~』です。

 

 日本人の情緒の原形とでもいうべきものを表現した映画を楽しみ、当山の寺子屋基金の賛同・協力者でもある渡辺さんの清らかなお話に耳を傾けていただきたく存じます。



 なお、当日は隠形流居合の稽古日でもあり、ご興味がおありの方には、スピーチの後、同じ青年文化センター三階の和室にて稽古風景をご覧いただけます。



      記



1 主 催 渡辺祥子さんを励ます会

       大師山法楽寺『法楽の会』・大師山法楽寺『親輪会』

1 日 時 三月十日(金)午後六時より映画鑑賞

       午後七時四十五分より渡辺祥子さんのスピーチ

1 場 所 仙台市青年文化センター

      (仙台市青葉区旭ヶ丘三丁目27-5 電話022-276-2110)

1 参加費 五百円(『法楽の会』『親輪会』会員は無料)

      (お茶とおにぎりをご用意します)

1 参 加 大師山法楽寺へ、電話やメールなどでお申し込みください




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2006
02.12

五力 2 ―信力 2―

 五力の一番目、「信力」の二回目です。 
 
 前回、信仰の力について記しましたが、それなら「私は観音様を信じて朝晩拝んでいるから、もう大丈夫」かと言えば、私たちを鍛え向上させてくれる人生の荒波を越えることは、そう生やさしくはありません。
 船に羅針盤があるからといって、暴風雨に負けないでしっかり航行ができるとは限りません。
 強いエンジンも、変化してやまない波や風の方向や強さに応じて舵を切る知恵も、乗務員の団結力も必要です。
 そうしたものの総合力が無事安全な航行をもたらします。
 総合力の土台になるのが「生きる姿勢」「ものの観方」です。
 
 この世が苦(ままならぬもの)であると悟った釈尊は、次に、苦を克服するための正しい道『八正道(ハッショウドウ)』を悟られました。
 その第一が「正見(ショウケン)」。正しいものの観方です。
 これがなければ、いかなる努力も自他を幸せにし、安心させることはできません。

 たとえば、「~を一日~回唱えさえすればあなたは人生の勝利者になれます。他の仏神は要りません」と教えられてそれだけに専念し、ものの道理を考える智慧をはたからせず、親族・隣人・知人との宥和を欠いたならばどうでしょうか。
 拝む習慣によって強められた〈我〉が、「なにくそっ!」と頑張る力となって一時的には何ごとかを突破できたとしても、信仰を同じくしない人々とも手をとりあいながら、共に親和と感謝と安心の世界へ入ることはできないでしょう。
 他の仏神を邪神とし、他の信仰を邪宗とし、他人が仏神を尊ぶ心は自分の清浄な信仰心とは違うと考えている姿勢が「正見」ではないからです。
 いずれの仏神も、仏神である限り尊いものです。
 そうした本質的な意味において、この世に邪宗はありません。
「正見」を持たない身勝手な人々が邪な信じ方をして邪宗をつくり、邪な見方で他の信仰を邪宗と呼ぶだけなのです。

 およそみ仏の教えの根幹は「慈悲」と「智慧」であり、これからはずれた仏法はありません。
 他を思いやり、他人の喜びも悲しみも安らぎもも苦しみも〈他人(ヒト)ごと〉とは考えぬ心が慈悲心であり、その心でものを観るものの観方が正見です。
 慈悲心に導かれ、正見によって考えるところに生まれるのが智慧です。 
 
 最近になって、気づいた人々の意見がやっと耳目に触れるようになりましたが、かねて指摘しているとおり、アメリカで純粋培養され、日本を席巻しつつある弱肉強食思想も、歯止めなき自由競争原理も、拝金主義も、正見からすれば、とても情けなく哀れな姿勢なのです。
 こうしたものの流行る社会は、霊性が曇った精神的に貧しい社会です。
 表面的な勝者はますます闘争心を高めて弱者を葬り、あるいは食らい尽そうとし、奢り、限りなく慈悲心を失います。
 表面的な敗者はますます萎縮し、敗者の群れはまだ勝負の舞台に立たぬ人々へ無力感を与え、敗者からも敗者予備軍からも希望は限りなく奪われます。
 こうして、智慧はどこにもはたらかなくなります。
 正見から外れた社会は人々を幸せにすることはできず、正見を離れた人々へ幸せは訪れず、「勝ち組」などは愚かしい妄想でしかなく、人生の真の勝利者はどこにもいなくなるのです。


 次回は、信ずべき正しい具体的な見解をいくつか述べることにしましょう。




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2006
02.11

五力 1  ―信力 1―

 善願を成就させる五つの力『五力』について考えてみましょう。
 今回は、第1番目の「信力(シンリキ)」です。

 私たちはさまざまなものを信じます。
 約束・言葉・理論・仏神・人間・生きもの・機械、あるいは明日も地球があること、そして、明日も自分は生きていること、などを信じてこそ暮らせます。
 それは、意識するとしないとにかかわりません。
 ある日突然かわいがっている猫が虎のように獰猛になったり、時計が逆回りに動いたりするような事態になれば、きっと、私たちは正常な精神を保てないことでしょう。
 そうした「信じる」ことと、「信仰」はどう違うのでしょうか。
 
「仰」の字は、そもそも、人がひざまづき目の前に立つ人を仰ぎ見る形から生まれました。
 自分の矮小さに気づき、遙かに高いものを心から尊ぶのが信仰です。
 それは、自分を省みる謙虚さと、至高の存在を感得する純粋さのもたらす世界です。
 それが宗教です。

 そうすると、宗教には必ず信じる心の対象になる存在があるはずです。
 それがご本尊様です。
 ある教団がいかなるものであるかは、第一に、何を本尊としているかを見なければなりません。

 密教では、宇宙を司り、宇宙として万徳を一身に体現しておられる根本仏を、大日如来と称します。
 如来・菩薩・明王・天の諸尊は、当病平癒・除災招福・転迷開悟など衆生の求めに応じて徳を顕わし、救いの扉を開く方々であり、どの扉であってもその向こうには大日如来の「万徳の世界」があります。
 だから、密教においては、「ご本尊様はこのみ仏でなければならない」とか「このみ仏はあの神様とけんかする」などということはあり得ません。
 観音様であれ、お不動様であれ、阿弥陀様であれ、自分がそのみ前へぬかづくと子供のように純粋になり、自然にありがたくなる。
 そうした方が、真のご本尊様です。

 さて、ご本尊様はどこにおられるかと言えば、五感六根でとらえる世界におられ、一方では私たちの心におられます。
 
それを密教では、「有相(ウソウ」「無相(ムソウ)」と称します。
 尊像を眼にして手に印を結び、口に真言を唱えるのは「有相の行」です。
 心の満月にご本尊様の象徴である梵字を描き、心をご本尊様の徳でいっぱいにするのは「無相の行」です。
 こうして、自分の心身を挙げて有相のみ仏と無相のみ仏との一体化をするのです。
 その結果、さまざまなお姿を表わし、さまざまな教えを説かれ、さまざまなお力でお救いくださるみ仏がありありと自分の心におられ、同時にあらゆる人々の心にもおられることを実感しつつ生きられるようになることが理想です。
 
 ご本尊様とのご縁を大切にしているうちに打ち立てられる心の柱は、何ものにも揺るがず、信仰はあらゆる障害にうち勝つ力となります




2006
02.10

?皆がやるからやめられない時 ―共業(グウゴウ)の問題―

 いじめの話題になりました。クラスの何人かが誰かを標的にした場合、やめようよと口にする勇気は、悪巧みに荷担する子供たちの数によって抑えられてしまうというのです。

 皆がしているようにしないと、学校生活ができないのです。善悪の判断は脇へ追いやられています。

 こんな意見も出ました。

「ウチの姪娘は伸び伸びと育って欲しいと願っているんですが、まわりのお子さんが皆、塾へ行っているらしくて、やはり塾通いなんです。母親も問題があるのに気づいてはいるんですが、塾へ行かせないとレベルの高い中学校へ入れないらしく仕方がないようです。どこの中学校へ入るかで、もう、高校も大学もほとんど決まるそうです。小学校3年生なのに仲間をライバルと思っているようですから、心配でなりません。こういうのって、どうにもならないんでしょうか」

 Hさんが憤慨し、やがて、ため息を漏らされました。

 考えてみれば、〈時代の空気〉にも、それとははっきり認識できなくとも無言の強制力があり、私たちは知らず知らずのうちに真の自主性を失い、空気に流されているのではないでしょうか。



〈皆の行いが積み重なり私たちを縛ってしまうもの〉が、以前、書いたことのある「共業」です。

 前の原稿では、1954年に米国が水爆実験を行なった後、死の灰を浴びた被害者へ生殖機能が低下するという医学的な見解を告げていなかったことが明らかになった事件をとりあげました。

 一個人の抗し得ない日米両政府の非人道的な行いが、約半世紀の間、闇に隠れていたのです。

 また、銀行の言葉を信じて苦労したあげく肝心な場面で見捨てられ、怨みの遺書を残して自殺した経営者をとりあげました。

 交通事故による死者の4~5倍にも上る日本の自殺者(毎日、約100人!)のいったいどれだけが、抗し得ない流れに溺れてしまわれたのでしょうか。



 釈尊は、人は「正しい行為=清浄業(ショウジョウゴウ)」と「悪しき行為=不浄業(フジョウゴウ)」とを行い、それによって必ず「楽」か「苦」を招くという因果応報の真理を悟られました。

 

 たとえば親に口応えした息子が父親に殴られたとします。

 口応えと暴力が、現われて消えた「表業(ヒョウゴウ)」です。

 その結果、息子は泣き、父親はこれで良いと思って拳骨を解きます。原因は結果を招きました。

 

 しかし、ことは、これだけでは終わりません。人の行為は目に見えるものをもたらすだけでなく、必ず後に何らかの影響力を残します。

 もしかしたら、息子は受けた暴力の恐ろしさによって心に深い傷を負ってしまい、成長と共にそれが人格に歪みをもたらすかも知れません。

 もしかしたら、父親は暴力を振るってストレスの発散を覚え、より暴力的な人間になってしまうかも知れません。

 あるいは、息子は非暴力を誓う聖者になり、父親は深く悔い改めて円満な人格者になるかも知れませんが、いずれにしても、見えぬ力が残ります。

 これを「無表業(ムヒョウゴウ)」といいます。

 人格は、生まれ持った心の核となっている「過去世の無表業」と、日々の生活と共に積み重なる「現世の無表業」とによってつくられます。



 こうした「行為と結果」、あるいは「影響力と結果」が社会的な規模でも生じており、それがこの稿の主題である「共業」です。

 非人道的な国家利益の追求は、「共業」としての「不浄業」です。それによって、無辜の被爆者たちの人生が破壊されました。

 弱肉強食思想による自分たちだけの利益の追求も、「共業」としての「不浄業」です。それによって、経営者は自殺しました。

 入学競争に走らせる社会の仕組みも、卑劣ないじめを横行させる子どもたちの非道徳的な心模様も、「共業」としての「不浄業」です。



 もちろん、一方には「共業」としての「浄業」もあります。

 「古池や蛙飛びこむ水の音」を読めば、私たち日本人のほとんどは、しいんとした静かな場所にある小さな古池の光景を思い描くことでしょう。

 そうした自然に育まれた一匹のカエルがポチャンと飛び込み、波紋がゆっくりと広がります。

 音を吸い込んで行く天地の懐の深さ、波紋に現れているゆったりした時間の流れ。音と波紋に現れている空間と時間の精妙さ。やがて、すべてが元へ戻り、何ごともなかったかのように不動のたたずまいを見せている天地自然の悠久さ。こうしたものをしみじみと感じとれるのは、無数の生き死にを繰り返したご先祖様方が、美しい「浄業」を残してくださったからです。

 それを同胞と共有しているありがたさを感じる時、祖国は何としても守らねばならないという気持になります。



 私たちは、一人一人が「共業」に関わっています。

 我欲で動けばそれを穢れた色に染め、まごころから発する思いやりで動けば、それを清浄な色に染めます。

 まごころに立てば、必ず自他を幸せにし安心させる智慧がはたらきくものです。

 確かにたった一人では抗し得ない恐ろしい「共業」はありますが、いかなる場面であっても、自分のまごころは、自分で損なわない限り決して損なわれません。

 

 たとえば、原理を発見した時のアルキメデスの喜びと確信は、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征したおり、暴風雨に遭った船を救おうと自らを海の神へ捧げた妻の弟橘媛命(おとたちばなひめのみこと)の献身の決意と喜びは、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、5年も10年も限りなくアリの目線でアリを観察し続け、ついに左の真ん中の足から歩き出すことを発見した画家熊谷守一の境地は、何ものが壊せましょうか。

 たとえば、「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」と詠んだ明恵上人の、月にみ仏を感得する精神の深み、霊性の発露は、何ものが壊せましょうか。



「真」「善」「美」「妙」いずれの道も、不変・不動・不壊のまごころを発揮させる道です。

 悪しき「共業」に負けそうになったならば、自分に合ったどれかの道への歩みを確かめましょう。子供へ、それぞれの道を感じさせるものや機会を与えましょう。

 そうして、一人一人が美しい「浄業」を重ねることによって、共に、美しい「共業」をつくりたいものです。




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2006
02.09

できることをやりましょう ―『ハチドリのひとしずく』に学ぶ―

 今日もNHK文化センターへ善女(残念ながら、今のところ「善男」はおられません)の皆さんが集まられました。
 名目は講義ですが、実質は、かなりの部分が質疑応答という形の自由討論になっており、聴講生同士でのやりとりも自由で、大変楽しい会になっています。

 さて、例によっていくつかの話題をとりあげましたが、最後に、こんな率直な慨嘆が出ました。
「でも、せっかく『世の中をこうしたい』と思っても、私たちにできることってあまりないんじゃないでしょうか?」
 世の中や日本の未来をまじめに考えていればこその疑問です。

 会場へ来る途中、今し方、車中のラジオで耳にしたばかりの寓話をご紹介しました。
 アンデスの先住民に伝承されている『ハチドリのひとしずく』です。

 ある日、森が火事になりました。
 動物たちは皆、我先にと逃げ出しました。
 ところが、クリキンディというハチドリだけは、くちばしに溜められるだけの水を運んでは火の上へ落とす作業をしています。
 逃げるのに忙しい動物たちは笑いました。
「そんなことをして何になるんだい?」
 火事の勢いの前ではあまりに無力なこととしか思えないからです。
 でも彼は答えました。
「私は、私にできることをしているだけだよ」


 皆さん、声もなくただただうなづき、納得の様子でした。
 この講座で副読本にしている『四十二章経』にこうした教えがあります。

 ある日、釈尊が弟子たちへ問いました。
「いのちはいかなるところにあるのだろうか?」
 一人が答えました。
「一日と一日の間にあります」
 釈尊は、それではまだまだ悟りではないと諭しました。
 また、一人が答えます。
「食事と食事の間にあります」
 釈尊は、やはり、同じく諭しました。
 もう一人が答えました。
「呼吸の間にあります」

 ここに至って、釈尊は初めて認めました。
「それで良い、お前はもう悟ったのだ」


〈何かを自覚したならば、たった今、ここで、自分のできることをきちんと行なう〉
 これが、み仏からいただいたいのちをちゃんと生きるということの全てです。

「この日すでに過ぐれば、命則ち随って減ず、少水の魚のごとし、これ何の楽しみか有らん」 ―『法句経』―


(日一日と、いのちは減って行く。
 私たちは、干上がりつつある小さな水たまりにいる魚のようなものである。
 そうした儚く貴重ないのちのなのに、真の安心もなく、欲にひきずられて虚しい楽しみを追い求めているだけでは、あまりに哀れな人生ではないか)


「ハチドリのホームページ」さんからお借りした写真です。 
ハチドリは虫のように小さい身体をしていますが、羽音は立派な鳥です。当山にも飛来したことがあります。




2006
02.07

物欲でなく良心の声に従いましょう

 千枚護摩祈祷に申込みをしても当日参加できなかった方々から、どんな法話をしたのかとご質問がありましたので、簡単に記しておきます。

 日本は、戦後60年、歴史が一巡りするうちに、復興のための努力の陰で、「良心に従う」という人間として最も基本的な姿勢を破壊し続け、幕末から明治にかけて世界中から賞賛された美しい生き方を忘れつつあります
 季節が変わる前に、それまでの季節の要素が溶解し新たな季節の要素が芽生えるための時期である「土用」が必要なように、日本もここ数年、見事なまでの「破壊の時期」を過ごしました。
 それを象徴しているのがライブドア事件であり、設計書偽造事件であり、東横イン事件です。

 心を澄ませ、良心に従って行なうのが善行であり、良心を無視し欲に命ぜられて行なうのが悪行です。
 欲のままに生きるケダモノと人間の違いは、ケダモノはせいぜい自然の摂理に従うだけですが、人間は良心に従って欲を抑えるところにあります。
 ケダモノの世界に善悪はありませんが、人間の世界には善悪があります。善悪を区別してこそ人間です。
 悪の恐ろしさは、ケダモノが従う自然の摂理すら破壊してしまうところにあります。
 縄張り争いをする猛獣は侵入者を倒しますが、周囲にいる同族を丸ごとすべて抹殺するなどということは決してしません。
 人間は、モノや宗教をめぐってくり広げられる戦争でそれを行い、快楽のあくなき追求のために、かけがえのない生活環境・自然環境を破壊します。

「ずるいやり方だけれど、法律で罰せられないから」「自分本位の人間だから」「最初はまずいかなと思ったけれども、だんだんそれほど気にならなくなったから」「悪いのは知っていたけれども、まあこれくらいならと思ったから」
 どれもこれも、良心の声を無視する姿勢です。
 善悪よりも損得を重視する生き方です。
 そして、良心を無視して物欲に従った無頼漢たちは悪行へ走り、因果応報の理は、老子が「天網恢々(テンモウカイカイ)疎にして漏らさず」と説いた通りの結果をもたらしました。
「天網」とは仏神の眼であり、仏神の裁きです。
「恢々」は限りなく大きいということで、「疎にして漏らさず」は、粗いように見えても、何ものをも漏らさないという意味です。

 これらの事件を見聞きする私たちは、モノ・金に眼がくらんで脇へ置きつつある良心の大切さを見なおさねばなりません。
 釈尊は、端的に「眼を覚ませ」と説かれました。
 良心に背く悪行は自他を破壊するということを肝に銘じねばなりません。
 そして、モノ・金を求めるうちにどん底へまで堕としてしまった日本人の心を立て直さねばなりません。
 そうしてこそ、善行も悪行もすべてが活きるマンダラ世界の住人たり得ます。
 やるべきは、子どもたちにまで株式取引などで損得を教えつつ物欲の奴隷になり続けることではなく、その正反対の、善悪を見分け良心に従うこと、それは自分本位・自己中心で物欲に従うより千倍も万倍も大切であると肝に銘ずることではないでしょうか。

 ここへ来て、ライブドアを英雄視していた人たちは、平らなまな板へ食材を並べるように、事件の持つさまざまな面を同列に観て○×をつけ、「これは×だけれども、これは○だった」と、保身や弁明に相努めておられます。
 これはいかがなものでしょうか。
 まやかしではないでしょうか。
 たとえば、包丁で人を殺した場合、いかにきれいに研いで準備をしたとて、磨く技術を誉めるべきでしょうか。
 また、金庫破りをしようと長いトンネルを掘った場合、その執念を誉めるべきでしょうか。
 人を殺したのは悪かったが、磨いたのは大したものだと言えるのでしょうか。
 泥棒をしたのは悪かったけれども、トンネルを掘った執念に乾杯しようなどということが正しい行為でしょうか。
 当然、ものごとには軽重があります。
 殺人や泥棒の行為に千の悪があるとすれば、研磨や掘削の努力には一の善もないほどです。
 そもそも、悪しき目的のための努力は、決して「精進」と呼びません。

 今日ここへお集まりの方々、そして、ご来山できなくとも除災招福を祈り善悪を見分ける人間としてまっとうに生きようとしておられる方々へ仏神のご加護があり、今から行なわれる私たちの祈りが、春が来たように日本再生の扉を開きますよう。

「心を法の本と為す、心尊く心に使わる、中心に善を念じて、即ち言い即ち行なわば、福楽の自ずから追うこと、影の形に従うが如し」 ―『法句経』―


(この世の根本は心である、心が主であり心が動かす。
 清らかな善心を中心として語り、行なえば、福徳・安楽がついてくる。
 それは、ちょうど形あるものへ必ず影がついてくるように、確かなことである)




2006
02.06

厄除の春祭が終わりました

 時折、粉のような小雪が舞い、気温は氷点下とはいうものの、冬の荒々しい寒さが遠のき、薄陽のさす日となりました。

 長老Tさんとはたらき盛りのIさんがすっかり雪をかいてくださった参道を通って善男善女が集まられ、護摩法が始まりました。

 珠のような火が上がります。

 怒濤のように太鼓が鳴り渡ります。

 守本尊様方の真言を1080回、観音経を3巻など、熱のこもったご唱和に支えられ、2時間を超える厄除祈願の千枚護摩祈祷は無事終わりました。

 ありがとうございました。

 

 修法前に善悪の区別に関する法話を申し上げ、日本人が損得でなく善悪の区別を柱として行動するよう、ご縁の方々のそうした誠心が災厄を除け福徳を招くよう、仏神のご加護を願うべく眦(マナジリ)を決して登壇しました。

 終わって皆さんのお顔をふりかえって観ると、どなたもみ仏になっておられます。さっきまで九字法に魔除けの気迫を込めていた自分自身も穏やかな海面のような心になり、堂内は春の息吹を感じさせる優しさに満たされていました。



 さて、一緒にうどんを食べ、お茶を飲みながらの雑談と仏器磨きの作務へ入りました。

 次々と質問が出ます。

 私は手を動かしながら答えるために口を動かし、皆さんは手を動かしながら耳をそばだて、さらなる質問をされます。

 貴重な時間です。



「み仏の教えは性善説ですか、それとも性悪説ですか」というご質問がありました。

「性善説です。しかし、それは性悪説と反対のものというレベルではなく、むしろ、善悪を超えた大肯定という立場です」



?人間は善いことも悪いこともするから、性善でもなく、性悪でもない。心には神も悪魔も同居している。

?神ならぬ人間は穢れており性悪である。だからこそ、神による救いが必要である。

?人間は皆み仏の子である以上、心の核になっているのは尊いみ仏の心であり、性善である。

 人間の本性が善であるか悪であるかは、おおよそ、この3つの考え方に分けられましょう。

 もちろん、仏教は?ですが、それは「説」といった言挙げでは説明し切れない体験の世界が裏付けになっています。

 

 正しい方法で心をずうっと静めて行くと、必ず「絶対的な肯定」とでも言うしかない道へ入ります。

 心の深みへ降りて行く道は果てしなく、どこが究極かはとても解りませんが、きっと先へ行けば行くほど安心は深まるにちがいありません。この確信こそが「信」です。

 ここには、もはや善・悪と対立的に考える意識はありません。

 大安心(大肯定)は当然、感謝を生み、ありがたいと思う心は当然、思いやりの心(慈悲)になります。

 安心・感謝・慈悲のどこにも、もはや悪の影はありません。

 これは理屈ではなく、事実であり、現実であり、真実です。



 揺れ動いてやまない表面の心だけしかはたらいていなければ、たやすく善・悪と対立的に考える二元論になり、生きものとしての恐れが悪しき現象を巨大視し、性悪説に傾きがちです。

 しかし、表面の心は氷山の一角でしかありません。

 たった今、善き願いを持って法の中へ入った皆さんは、み仏になられました。

 心が深まり、絶対肯定の道の扉が開いたのです。

 

 ここに現われた真実世界の力によって、あらゆる人々へ福徳が訪れますよう。






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2006
02.05

【現代の偉人伝第14話】 ―泣いてくれたおかみさん―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 外はしんしんと降る雪。火鉢から広がる炭の香の漂う本堂で、きりっとしたスーツ姿の男性が、美しく正座して述懐された。



「行きつけの店で、お客さんが途絶え、おかみさんと二人きりでしんみりした会話になりました。もちろん、いくらなじみになったからといっても、お互い他人であり、大人です。当然、話せることも話せないこともあったのですが、突然、おかみさんが涙ぐみました。思わず、そんなに親身になってくれるのかと感激してお礼を言ったら、とんだ勘違いでした。

『Aさんでなく、娘さんのことを思うと………』

 私には娘たちがいますが、くわしい話は何もしていません。そこまでなれなれしく崩れはしませんから。

 ところが、おかみさんは娘たちの不憫さを的確にとらえ、自分の身の上と同じように感じてくれています。

 おかみさんの涙を通じて、娘たちの純粋な思いが一気に私の心へなだれこむようでした。

 こういうことってあるものでしょうか?

 いつも霊感がどうのと口にするタイプの人でないだけに、心底、驚き、うたれました」



 おかみさんは文字どおり〈慈悲の人〉なので、とっさには信じがたいことが起こったのだろう。

 

「慈」はインドの言葉でメッターといい、根本は〈友情のような思いやり〉である。

 友情とはいっても、自分の気に入った相手へだけ抱く親和の情ではない。

 自分のいのちをいとおしいと感じるのと同じ気持を、家族へも、知人へも、見知らぬ人へも、そして、生きとし生けるものすべてへも抱くところに暖かく流れる思いである。

 高校生のころ、慰問に訪れた病院のホールで一生懸命にコーラスをしたら、車いすの人たちが自分の子供や孫を慈しむような目で見てくれた思い出。失恋した友人の手を黙って握ってあげたら、相手も黙って涙ぐんでいた思い出。

 そこで交流したまごころが、メッターである。

 

「悲」はカルナーといい、〈他人の苦しみをそのままにしてはおけない思いやり〉である。

 失恋した友人の前例は、ここにもあてはまる。釈尊は、はるかな前世で、餓えた虎へ我が身を与えたという。



 きっと、おかみさんにとって、お客様は、単にもうけさせてくれる人々ではなく、自分の店ではだかになってくれるいとおしい人々なのだろう。

 男たちは、鎧をまとい、剣を手にして世を渡る。おかみさんの前でも、すっかり鎧を脱いでしまう人はあまりいないはずだ。むしろ、「ほどほど」が大人の態度であり、Aさんもそうしたお一人なのだろう。

 しかし、おかみさんには、鎧の下がお見通しである。

「娘がいます」「とにかく仕事が忙しくてねえ」といった短い言葉に、?ああ、かわいい娘を思い通りにかまってやれない悲哀を抱いた男がここにもいる?と直感した。そして、Aさんの優しくまじめな性格に、娘さんへと向かう切なさを感じ、同時に、お父さんの気持を解っている娘さんの切なさも強く感じてしまったのだろう。

 いろいろあっても、Aさんの娘さんの本心は「お父さんは理想の男性」である。

 おかみさんを涙させた切なさは、Aさんにとっても、娘さんにとっても、おかみさんにとっても、珠玉のように澄んだ宝ものに相違ない。



 おかみさんは、Aさんの話を静かに聞いていたのだろう。

 そして、半分しかはだかになれない男へいとおしさ「慈」を抱き、その心がAさんの心の隣へそっと寄りそったのだろう。

 やがて魂が共鳴して生まれた切なさを、それは貴男のことでしょうにと放っておけない「悲」の心がはたらき、涙が流れたのだろう。

 こうした生ける観音様の存在は、心の荒みが増しつつある今の世に生きる私たちへ、大いなる勇気を与えてくれる。

 ご縁を活かし、「おかみさんの涙」を語り伝えて行きたい。




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2006
02.03

お焚き上げ

 ご遺族から依頼された品々をお焚き上げげしました。
 中身を見ることはないけれども、修法して清めた一点一点を手に取り、真言を唱えながら炉へ入れます。
 たくさんの弔電。表紙が分厚く立派な体裁のものもあれば、ごく簡単なものもあります。それぞれの思いが御霊へ届けられ、ご遺族へ届けられたしるしです。
 介護関係の契約書。故人もご家族も安心を求めて最善を尽されたことでしょう。
 宗教関係のパンフレットやお守や破魔矢など。生きようとすがり、運命を受け容れようと頼られたのでしょうか。
 遺影のネガ、古い数珠、葬儀のうち合わせ資料や受付を表示した紙などの一切も次々と燃え上がります。
 目的によって形づくられ、思いによって使われた品々が天地へ還ります。

 故人のこの世での因縁は溶け、薄れて行きますが、その生涯は消えることなく御霊の行く先を導き、心の痕跡となって周囲の方々の人生に生き続けます。
 物語を思い出しました。

 昔、ある国で大臣が亡くなりました。
 一人息子はまだ幼くて後を継げず、家は没落しましたが、数年たって息子は元気な若者に成長しました。
 貧困の中で彼は考えました。
〝これではどうにもならない。そうかといって、自分は大臣の息子だから、つまらないこともできない。でも、自分の腕と度胸があれば何かできるにちがいない。そうだ、何か大きいことをやろう〟
 思い立ったのが、王様の宝ものを盗むことでした。宝ものは飛び抜けてすばらしいにちがいないし、裕福な王様なら、少しぐらい盗まれても平気だろうと考えたのです。
 ある夜、首尾良く王様の部屋へ忍び込んだ若者はとてもお腹がすいていたので、枕許にあった水差しを手に取り、目にとまった粉のようなものを飲み込みました。
 粉と水は空腹を満たしてくれるので、ぐいぐい飲んでから気づきました。砂糖か何かだろうと思ったのに、ちっともおいしくありません。よくよく味わってみたら、それはただの灰でした。
 若者は考えました。
〝灰を口にしただけで腹は膨れた。―――これなら、草を食べたって生きられるんじゃないか。わざわざ泥棒するのは愚かしいことだ。こんなことはやめよう〟
 すでに目覚めていた王様は、宝ものに手をつけずに出て行こうとする若者へ静かに訊ねました
「盗みに入った君がどうして盗まないのか?」
 若者は詫び、悟ったことを話したので、父親と同じく大臣に採用されました。

 故人と生前、お会いしたことはありません。
 でも、きっと、大きなきっかけがあって人生の真実に気づき、清らかに生きつつ立場をまっとうした方だったのでしょう。
 合掌




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2006
02.02

2月の守本尊様

今月(2月4日から3月5日まで)の守本尊様は虚空蔵菩薩様です。

『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。








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2006
02.02

2月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



虚空蔵菩薩(こ・くう・ぞう・ぼ・さつ) 



「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
02.02

2月の聖語

「大悲心(ダイヒシン)とは、また行願心(ギョウガンシン)と名づく。いわく外道(ゲドウ)・二乗(ニジョウ)の心を起こさず。ただ菩薩大士(ボサツダイシ)のみ有してよくこの心を起こして、法界(ホッカイ)無縁の一切衆生を観ずること、なおし己身(コシン)のごとし」 ―弘法大師―



(大悲心は行願心ともいう。地獄道や餓鬼道などの六道にいる者や自分の悟りだけで満足している者たちは、この心を起こさない。ただ、無限の精進を続ける菩薩のみがこの心を起こし、一切の生きとし生けるものを我が身のように観るのである)



「大悲心」は無限の思いやりです。

「行願心」は悟りを求めようとの願いを実現すべく、身命を賭して精進する心です。この願いに自他の区別はありません。迷いを脱することはこの世のあらゆる苦を除く根本的な方法であり、自分だけでなく万人がそれを実現してこそ、この世もあの世も極楽浄土となるからです。

 

「自他共に」と願って不断の精進をする菩薩には、自他を分けてしか観ない「妄智(モウチ)」はありません。

「私が居るから貴方が居る」のではなく、「貴方も、あの人も、亡き人も、皆居るから私が居るのであり、私が居る以上、貴方も、あの人も、なき人も、共に皆居る」のが真実です。

 そして、「居る」はそのまま「要る」に通じます。

 

 それぞれが居てこの微妙な世界が保たれているのであって、たとえば目の前の猫一匹でも、突然消えたなら、そこに世界中のエネルギーも物質もなだれ込み、この世はたちまち崩壊してしまうことでしょう。

 天体物理学によると、宇宙は、普通の物質が約5?、未知の粒子によってつくられている暗黒物質が約25?、重力に逆らう暗黒エネルギーが約70?で構成されているそうです。ビッグバン以来、宇宙は約140億年にわたって加速膨張を続けていますが、そこでは人知を超えたしくみとバランスが保たれています。

 お互いが居ることはありがたく、お互いがお互いにとってかけがえのない価値があり、お互いは、どうしても「要る」のです。



?あいつなんかいなくたって良いや。自分だけいれば?は暗い妄智(真理に反する知恵)です。



 また、妄智は、たやすく「邪智(ジャチ)」へと堕ちます。

「自分だけ」が、その表われです。

 自他の根本は〈共通のいのち=大我(タイガ)〉なのに、自分は単独でいるような気がして、いつも自分を優先したくなります。

 他を邪魔にする、それが邪智です。

 これがはたらくと、互いに心が血を流すだけでなく、身体も血を流し、いのちをなくすことにもなりかねません。

 怨み、殺す、この世は何と邪智で生きる外道に満ちていることでしょうか。



 生前戒名を受ける時、あるいは出家得度する時、必ず授けられるのが『四恩・十善戒』です。

 産まれた地への恩、産み育ててくれた両親への恩、いのちを育んでくれる生きとし生けるもの、そして、人が人たるように導くみ仏・仏法・仏法を学び守り伝える人々への恩を忘れぬことが、まず人間たる条件です。

 四恩を忘れた恩知らずを「犬畜生にも劣る」というのは、万物の霊長たる資格がないということです。

 四恩に報いられるまっとうな人間になるための戒めが「殺すなかれ、盗むなかれ、~」の十善戒です。



 こうしてまっとうな人間となる基礎を固めつつ菩薩としての修行を行なうのが、布施行や精進行などの『六波羅密(ロッパラミツ)』です。

 お線香を灯しては精進行を誓い、水を捧げては布施行を誓い、花を捧げては忍辱行を誓いながら、一歩一歩菩薩としての完成へ向かう、それが人の道に他なりません。

 お大師様は、その完成形を

「一切の生きとし生けるものを我が身のように観る」

と示されたのです。





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2006
02.01

2月の例祭

◇春祭厄除千枚護摩祈祷



 2月5日(日) 午前10時より

 

 立春から運勢は大きく変化します。千枚の護摩木を焚いて、今年ご守護いただく守本尊様方をご供養し、善男善女の厄除開運を祈ります。

「千」という数字は、仏教においては「無限」を意味します。限りない真心を捧げましょう。

 

 前厄の方は、積徳が花を咲かせ、過失が大きな破れを招かないよう、本厄の方は、実のある人間関係が生まれ、向かい風が心の足腰を鍛えてくれるよう、後厄の方は、親和に囲まれ、たとえ時間が多少多くかかっても必ずゴールへ飛び込めるよう祈ります。

 また、いかなる年齢の方でも、運勢の強い部分は確かな前進力となるよう、弱い部分へはお救いの手が差し伸べられるよう、今年一年をそれぞれにお守りくださる守本尊様へ祈ります。

 なお、当日は第一例祭と重なっていますので、月詣りの方もどうぞおでかけください。



【数えの年齢によって、一年間を守ってくださる守本尊様が決まっています】

〇地蔵菩薩様   

1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100歳の方

〇阿弥陀如来様 

2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101歳の方

〇不動明王様   

3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102歳の方

〇虚空蔵菩薩様 

4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103歳の方

〇勢至菩薩様(前厄の守本尊様)   

5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104歳の方

〇千手観音様(本厄の守本尊様)   

6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105歳の方

〇大日如来様(後厄の守本尊様)   

7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106歳の方

〇文殊菩薩様   

8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107歳の方

〇普賢菩薩様   

9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108歳の方



※厄除のご祈祷は、2月5日に限らず随時行なっております。ご予約いただければ、いつにても修法します。



◇第二例祭



  2月18日(土) 午後2時より

 

 護摩の修法を行い、ご供養とご祈願により皆様とみ仏とのご縁を深めていただきます。



 例祭で行われる護摩法は、願いが最も早く仏神へ届く秘法です。

 どなたでも自由に参加できます。

 たくさんの願いを持って守本尊様にお会いし、悪い縁や弱い運気や自分のいやなところは智慧の火で燃やし去っていただき、良い縁を固め運気を高め、精進がすばらしい花を咲かせるよう大きなお力添えをいただいて下さい。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




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2006
02.01

機関誌『法楽』の誕生

 まだ雪の残る『法楽の苑』へ4人の有志が集まり、機関誌『法楽』作りをしていただきました。
 A4版の紙を1万5千枚ほどテーブルへ並べて丁合し、大きなホッチキスで留め、製本テープで仕上げ、66ページの機関誌を作るのです。
 平成7年に『法楽の会』が発足して10年が過ぎ、会の機関誌として毎月欠かさず発行している『法楽』はもうすぐ200号となります。
 最初はB5版の原稿用紙へ手書きしたものを数枚コピーし、ホッチキスで留めただけでした。
 現在のように400字詰め原稿用紙で200枚を超えるようなものになるなど、想像もつきませんでした。
 すべては、み仏とご縁の方々のお支えのおかげです。とても感謝し切れるものではありません。

 できあがると、我が子を産んだような気持になります。
 未熟な親ゆえ、きわめて拙く産まれた子供ではありますが、皆さんのおそばへ行き、あるいは可愛がられあるいは叱られることが、きっと皆さんのお心にとって何ごとかであろうと信じています。

 今日は、ご寄進いただいた火鉢を現場へ持参しました。
 寒い日ですが、プレハブの中は皆さんの真心と熱気と親和の空気でとても暖かく、火鉢へかけた鉄瓶からふわりふわりと立ち上る湯気と炭の紅色は、それを象徴しているかのようでした。

 作業中、県南にお住まいの方から、亡き母親を頼みたい旨のご連絡がありました。
 み仏の結ばれる縁の糸に遠い近いは関係ありません。
 車で10分かかるか2時間かかるかが、信じて御霊を任せたいという真心を揺るがしましょうか。
 現に、今日お集まりになられた方々は、仙台市と富谷町から来られました。
『法楽』購読者は関東・関西にまでおられます。
 きっかけは嬉しいできごとであるにせよ、悲しいできごとであるにせよ、尊い糸が「この世の幸せとあの世の安心」への命綱になるものと信じて疑いません。





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