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2006
04.30

要らない子

 ある女流作家の述懐が話題になりました。

 姉が一番目の子供で自分が第二子として生まれた彼女は、夫婦の会話を聞いてしまいました。
「お前、今度も女の子だったなあ。
 次は必ず男の子を生んでくれよ」
 ああ、自分は「要らない子」なんだなあと感じ、心に屈折したものが生じたそうです。
 彼女はそれに負けることなく、むしろ結果的にはそうしたものが強靱な心のバネとしてはたらき、ベストセラーを書くことができました。

 このエピソードには、「人生は、往々にしてそういんもんだよなあ。何が災いし何が福をもたらすかなど、判らない。万事『禍福(カフク)は糾(アザナ)える縄の如し』さ」と、どこか人をほっとさせるものがあります。
 一方、「そうそう、何だって人生の肥しにすれば良いのよ。要は自分次第なんだから」と、人を前向きにさせる力もあります。

 確かに、そのいずれか、もしくは両方を自分の生きる姿勢にできれば、その人は強い力で人生の荒波を渡って行くことでしょう。
 しかし、どうしてもいずれをも選べずに潰れる人々がいます。
 生きるために耐える必要がほとんどなくなり、打たれ弱くなった現代の若者たちは、大人が想像する以上に傷つきやすく、歪みやすい存在です。

 明らかに、時代の変化は純粋で敏感な若者たちへ強くはたらきかけ、彼らは右往左往し始めました。
 もちろん、変化には良き面と悪しき面と両面ありますが、良きものを活かす能力を身につける前に、非力な若者たちが悪しきものの犠牲になりつつあります。
 そして、日本がアメリカ型の社会へと変貌しつつあるために、そうした傾向は助長されています。
 たとえば、日本では風邪を引いて熱が出ればとにかく安静にして熱が下がるよう注意する治療法が主流ですが、アメリカでは、むしろ風呂へ入って汗をかき、上がった体温を利用して風邪を吹き飛ばしてしまう治療法が盛んであると聞きました。
 確かにアメリカの流儀は速やかな平癒をもたらすかも知れませんが、自己快癒力が弱く強硬なやり方に身体がついてゆけない人は、大きなダメージを受けてしまう危険性があるのではないでしょうか。

 私たちの真姿は菩薩です。
 お地蔵様であれ、観音様であれ、菩薩はただの一人をも見捨てません。
 それぞれが不断の人間修行をすることによって、お互いがお互いを救えるようになります。そうして、手を携え、共にこの世の苦を脱したいものです。




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2006
04.29

お不動様のお導き

 K家のお嬢さんが、お葬式に関するお布施を持参されました。
 世界的組織に属している人らしく挨拶も質問も的をはずさず、無駄がありません。
「父が次男である我が家にはご供養すべきご先祖様はないのですが、仏壇と不動明王像があります。
 先祖代々の霊位と書いたお位牌も作りました。
 御宗では仏壇中央へお祀りするご本尊様は大日如来と聞きましたが、どうなるのでしょうか?」

 Kさんは、父親が「自称」無宗教なのに酉年生まれのせいか不動明王を大切にしているので、いずれお葬式になったならば、そうした面で父親の安心できる寺院を探しておこうと調べていたところ、当山の活動内容を知って、こういうお寺もあるんだなあと思ったそうです。
 それは数年前のことで、父親がこんなに早く逝くとは思いもよらず寺号はすっかり忘れていました。
 今般、父親があっけなく逝ってしまい、かねて会員として契約していた葬儀屋さんへかくかくしかじかと訊ねたところ、以前、当山を指名した会員の葬儀を行なった担当者が「それは法楽寺だろう」と気づき、ご縁となりました。
 ご一族の宗派は真言宗ではありませんが、喪主である母親も自分も、亡き父親がきっと納得するであろうと考え、迷うことなく檀家になられました。
 不動明王のお導きでしょうねえと何度も言われます。

 さて、質問への回答ですが、もちろん、お不動様をご本尊様として中央へお祀りして何の問題もありません。
 四国八十八霊場のご本尊様がさまざまなので解るように、み仏はそれぞれ徳分が異なるので異なったお姿や尊名があります
 人は一人一人心のありようが異なっておりどなたに感応するかは人それぞれです。
 縁もまた千差万別なので、Kさんの父親のように何かのきっかけで不動明王を信ずるようになる方もあれば、地蔵菩薩、あるいは文殊菩薩、あるいは阿弥陀如来を信ずる方もあって当然です。
 ご本尊様は、人にとって生涯をかけて憧れ続けるアイドルであり、一家にとっては子々孫々をお護りいただく護り神なのです。

 こんな質問もありました。
「せっかく仏壇で毎日ご本尊様とご先祖様をご供養していたのに、四十九日まで仏壇を閉めておかねばならないというのは理解できず、やるべきことをやらないと母も私も落ちつきません。
 開けて手を合わせてはいけないのでしょうか?」

 四十九日までウンヌンは習俗の問題です。
 迷った時に依るべきは真理です。
 仏神は「日は三百六十五日昼夜を見守り、時は一刻の休み無く八方天地十方世界を守る」方々であり、一瞬たりとも私たちと離れることはありません。
 先に逝かれた方々もまた、常に私たちを見守っておられます。
 一方、私たちのいのちは、今ここに在るからといって明日も在るとは限りません。
 当山では、常々こう申し上げています。
仏神のことは『思い立ったが吉日』です
 こうしたいと思ったならば、あるいは気づいたならばただちにやりましょう。
 もちろん、拝むのに、日の吉凶は一切ありません。
 貴方のいのちは〈ここ〉にしかありません。
 今、手を合わせずに、一体いつやるんですか?」
 真理を観れば、答ははっきりしています。

 お嬢さんは拙い説明に納得され、目を輝かせて帰られました。
 やはり、「大智慧のゆえに大迦楼羅(カルラ)炎を現じ」ておられるお不動様を信仰しているせいでしょう。
 根本をしっかりつかまえられたようです。
 南無大日大聖不動明王。




2006
04.28

最近の『法楽の苑』です



十三仏様





参道から





梅と笹倉山





『法楽農園』の水菜 ※使用者募集中







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2006
04.28

天使の分け前

 桜を横目で観ながら国分町へご供養にでかけ、思わぬ話を聞きました。
「開店三十周年」「開運おにぎり」の表示板に誘われ、飲食ビルの三階でランチをいただいたおりのことです。

 ご夫婦らしいマスターとママさんが、カウンターと小上がりだけの古い店で待っていました。いかにも「バー」です。
 トイレを借りている間に、小鉢にキュウリと大根の漬け物、それに薩摩揚げなどのちょっとした煮物が並んでいます。
 止まり木に腰を下ろすと間もなく、熱々のワカメのみそ汁が加わりました。
 もうこれだけで嬉しくなりましたが、お待ちどうさまと出てきたのは、肉の細切れが入った変わりご飯のおにぎりと、イクラの入った海苔巻きおにぎりです。
 長方形の陶器にただ横に並べるだけでなくちょっと斜めに盛ったところは、なかなか細やかな演出です。
 
 おいしい食事と決して神経に障らずふんわりともてなす会話に満ち足りた気持になり、止まり木からふと後を振り返ると、ウイスキーなどのミニボトルが壁の飾り棚いっぱいに並んでいます。
 繁華街に縁遠くなった今となっては、写真でも見るような懐かしい光景です。
「ずいぶん溜まりましたが、空に近いのもありますよ。
 自然に蒸発したりしますしね。
 なくなった分は『天使の分け前』と言うんです」
 初めて耳にした言葉なので、エッ、もう一度お願いしますと説明を求めました。

 ウィスキーを永年寝かせているうちに貯蔵庫の樽から蒸散する分が発生し、10年経てば3割ほど減ってしまいます。
 ウィスキーの本場スコットランドではそれを「Angels' share」(天使の分け前)と呼び、天使が喜んで飲んでくれたのでいっそうおいしくでき上がったと感謝するそうです。

 このところ、猪八戒が振るう熊手のように何でも我がものにしようとする「我」と「煩悩」について書いているので、とても佳い話を聞かせていただいたものだと、耳が洗われる思いでした。
 お礼を言ったら、ママさんは、開運と書いたらすぐにお坊さんが来てくれた、きっとウチもお客さんも開運しますねと喜んでくれました。
 カラオケのない、いかにも30年経ったという年輪を感じさせる安心と温もりいっぱいのこの店は、国分町二丁目の『やまざき』さんです。

 今日は、ここへ来る前に行なった『法句経講座』の最後に、新しく参加されることになった方からも、こんなお話がありました。
 Yさんは、最近心臓の手術をされ、毎月第二水曜日は病院で検査を受けねばならないので月に一回しか出られないにもかかわらず、講座へ参加されました。
「一人でも多くの方にこの講座を受けていただきたいものです。
 そのためにはまず自分自身が参加しなければと思って来ました」と言うYさんは、地下鉄の駅で気を失って倒れた時、近くにいた若者たちが皆で助けてくれたことに、「ああ、日本はまだ大丈夫だ」と、とても勇気づけられたそうです。
 病院では24時間看護してくださる方もあれば、風の強い日などは、ついふらふらしてしまうと周囲の若者たちが「大丈夫ですか?」「どこまで行くんですか?」と声をかけてくれることもあり、大病をしてから周囲の人々への感謝が強まったそうです。
「新聞やテレビは、悪いできごとばかり集めて大きく報道し過ぎるのではないでしょうか。
 私たちの身の回りには小さな善行がたくさんあるはずです。
 そうしたものをもっと積極的に報道してもらいたいものです

 Yさんの言葉に励まされ、『現代の偉人伝』をいつまでも書き続けねばとの思いを強くしました。

 善行は、み仏の世界へ徳を積む行いです。
 そこで費やした時間も、労力も、言葉も、財物もすべて他を喜ばせます。
 そうして自分のいのちを誰かに「分け前」として差し出せば、必ず福徳が待っているとされています。 これが布施行です。
 そもそも、私たちがみ仏の子として生まれている以上、お与えいただいた一人一人のいのちには、他の誰かへの「分け前」が含まれているのではないでしょうか
 だからこそ、自分一人でほくそ笑むような喜びよりも、他の誰かに喜ばれる時の満足感などの方が深く、爽快感も伴うのでしょう。

 最近、『サラリーマンへのエール』『有給休暇で行く世界の旅』の著者、木村光男氏とお会いしました。
 木村氏は、心の底からサポートがしたいのです。
 会社勤めを考え直したい人、自分なりの旅行をしたい人、本を出したい人などのために、自分の経験を役立てたいと熱く言われます。
 意欲満々の姿は、まさに迷いの淵で手を取って向こう岸へ渡す人=菩薩様のようでした。

 また、高任和夫氏の長編10作目となる『偽装報告』をいただきました。
 彼も、登場人物へ
「~人生の後半は世のため、人のためになることがいいんじゃないか。
 自分がいいことをやっていると感じられれば最高だろうな」
「金もうけじゃなく」
「そうそう」
と言わせています。
 しかも、この力作では、暴悪な権力者へ人助けをさせています。
 反社会的な権力者を苛烈な筆で徹底的に叩きのめしてきた彼も「ついにこれを書いたか」と目頭が潤みました。

 私たちが、自分のいのちをただただ「我がもの」として他へ分け与えず摂理に背く悪行に走らず、お互いに「分け前」を与え合えば、この世は極楽になるに相違ありません。




2006
04.27

幸せを何倍にもする方法10 ―『害』を払いましょう―

 釈尊は説かれました。
「衆生は相(アイ)剋(コク)して、以てその命を失う、行ずるに随って堕する所、自ら殃(オウ)福を受く」
(人はお互いに傷つけ合いながら命をすり減らしている。悪行によって殃(ワザワイ)に遭い、善行によって福を得るという理を知らずに)

「人間よ、お前たちは何と哀しい存在なのだ」と、釈尊が心で涙しておられることが偲ばれる教えです。
 
 私たちは、何かを得ようとして、また、何かを失うことに耐えられず、貪り怒りや怨みと共に他を害します。
 昔風のマンガには、夫婦げんかの象徴として奥さんが茶碗を壊すシーンがありますが、それなどは可愛いものです。茶碗に当たって済むなら大事にはなりません。
 しかし、今は〈欲しいけれどお金がないから盗む〉〈気晴らしに人を殺す〉時代になりました。
 人間を人間たらしめる崇高な「自由」は「気まま」という姿で大道を闊歩し、人間らしいいのちのはたらきである「意欲」は、「煩悩」として醜いふるまいをもたらす場面が多くなりました。
 飢餓と病気といういのちを脅かす敵にうち勝つ一方で、誰しもが、耐えることのできない人間になりつつあります。

 そもそも、文化は、上手に耐える、あるいは抑えるところでしか発展し洗練されないのではないでしょうか。
 衣食住と言いますが、衣装は身体を上手に隠しながら巧みに自己表現をする道具になります。
 食物はバランスよく摂られればいのちを充分に活かします。
 住まいもまた、それによって自分や家族が安心を得る一方で他人の私生活を尊重してこそ、暖かい町並をもたらします。

 そして、社会は他人への信頼があればこそ成り立つということを忘れるわけには行きません。
 食料品店で買った牛乳はおいしく安全であると無意識の裡に信じているから、買った牛乳の成分分析をせずにそのまま喉へ流し込むのであって、いちいち安全確認をせねばならないなら私たちの神経が安定を保てないことでしょう。
 乗り物に乗る場合も、道を歩く場合も同じです。
 家にカギをかけて眠る場合ですらそうです。ガラスを叩き割って侵入してくる暴漢を恐れねばならないなら、鋼鉄に囲まれた箱に住むしかなくなることでしょう。
 しかし、現代はどうでしょうか。
 食品の安全が脅かされているのはもちろん、世界中の街角で爆弾が人々を殺し、住居は簡単に侵入され、充分な警備態勢をとっているはずの店舗や現金自動支払機は重機で破壊されるようになりました。
 生活態度を注意されたからといって簡単に子供が親を殺し、生徒が先生の昼食へ薬物を混ぜる時代になることを、誰が想像し得たでしょうか。

 すべては、根源的欲望への抑制が薄れたことに起因しています。
 文明は進歩している風でありながら、個人個人は内心で我欲を膨張させ野蛮になりつつあります。

 うわべだけ美しい街並に、欲望を抑えきれなくなりつつある人々が、一人一人孤立して生きています。

 釈尊は、二千五百年前、欲望むき出しの物質文明に破壊されつつある美しい共同社会を憂い、人生の真実を求めずに欲望に流されて傷つけ合う人間のありさまを恐れ悲しみ、生涯をかけて
「欲望を正しく活かせ」
と説かれました。
「私たちがいかに穢れた存在として醜い世の中を夢遊病者のように彷徨っているかを直視し、その夢から覚めよ」「尊い霊性を持った者同士として、向上の道を歩め」
と説かれました。

 霊性に導かれた意欲を輝かすところにしか、真の文明の深化はあり得ません。
 お互いが他人を害することのないよう欲望を抑制するところにしか、信頼の保たれた社会は成り立ちません。

 塩が隠し味になって食べものの甘みが絶妙な味となるように、正しい道にそって抑制された意欲は一人一人の人生を味わい深いものにし、そうした人間によって創られる社会には、故郷としての趣が加わることでしょう。
 個人は「不害」を誓い、国家は「不戦」を誓いたいものです。




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2006
04.26

祖先と子孫の靖国神社

 戦後60年、太平の歴史が一回りし、さしもの奇跡的復興期は過ぎ去り、風雲急を告げています。
 この国のありようの根本が問われ、私たちは二者選択的に歩む道を決めねばならない時期にたち至っています。
 もはや、長らく北朝鮮による拉致事件を放っておいたような「先送り」は許されません。
 問題の一つである靖国神社の件につき、伝統仏教を捧持する当山の姿勢を明確にしておきます。

 平成13年8月14日、恒例のお盆供養会を開催し、隣地にある忠魂碑前で慰霊を行なった際、英霊となられた方々のお名前一つ一つが光るように目を射て、み仏の世界と感応したことを確信すると同時に、「国難を見捨ててはおけない」とばかり、英霊がむらむらと立ち上がる気配すら感じられました。
 その後、当山のとるべき姿勢をみ仏へお尋ねし、熟考を重ねた結果を『法楽』へ書きました。
 A4版で23ページになるものなので、結論と「あとがき」のみを記しておきます。


○御霊の望まれた方法で祀り、供養のまことをささげよう。
○御霊には決して鞭打つまい。
○歴史に対する責任は、価値判断をする私たち自身が負おう。

あとがき

 基本姿勢は固まっても、胸に消化切れないものが残り、「いかに―――、いかに―――」と問い始めてちょうど30日目の9月12日早朝、アメリカで人類の近未来を暗示するかのような卑劣極まる大量虐殺があった直後、ついに煙霧は晴れた。
 台風一過の秋晴は、自然界のできごとだけではなかったのである。

 その日、朝の勤行を終えてパソコンに向かった私の手がよどみなく動き出し、あっという間に、一つの文章ができあがった。
 感応は、ほんの数分だったろう。
 画面を眺めて呆然となったが、次の瞬間、こみ上げてくる感謝と感動は、とうていこらえきれるものではなかった。
 近くにいた妻が飛んできた。
「お父さん、どうしたの!」
 答えられず、ただ、
「ありがたい。ありがたい。ありがたい。ありがたい。ありがたい」
とくり返していたように思う。

 一行者の魂を震わせたご先祖様と子孫の交感の証をご紹介し、瑣末な稿を終わりたい。

祖霊よ 夫よ 妻よ 子よ 友よ

安らいでおられようか

あなた方は

かけがえのない日々を生き

国難に殉じて 尊きいのちを祖国へささげられた

私たちは

天の極まりなきがごとき恩により

今日を生きている

如来を礼する礼拝をもって 感謝のまことをささげたてまつる



祖霊よ 夫よ 妻よ 子よ 友よ

許していただきたい

私たちは

今をより良く生き 子孫へより良く生きられる日本を残すために

あなた方のかけがえのない日々に 黒き墨を塗ろうとしている

万斛の涙をもって 陳謝したてまつる



生けるものたちよ

あいわかった

我らの軌跡へ塗る色により そなたたちが救われるのであれば

我らは

いかなる色とされようとも 甘受しようではないか

我らは

そなたたちを生み・育て・護るものとして先に生を享け

あるいは 如来の道を示すために 先んじて死を見せたものなのだから



しかし

これだけは忘れないでほしい

幾億の光を放ち輝けるそなたたちの生も

後に続くものにたちによって いずれかは何色かとされよう

その時

彼らの心に 今のそなたたちの心と同じまことが宿っているよう

必ず 導いてほしい

そして

そなたたちも

やがては

我らとともに 子々孫々を護ってほしい



天長地久 即身成仏 密厳国土 風雨順時 五穀豊穣 万邦協和 諸人快楽

法界平等利益





2006
04.25

幸せを何倍にもする方法9 ―『諂(テン)』を払いましょう―

 これは「へつらい」です。下心があって本心を隠し、相手に〈気に入られる〉自分を演ずることです。
 よく「媚び諂う」と用いられ、相手から優越感などを引き出してその気の緩みに乗じ、結果的に自分の目的を果たそうとする卑しくさもしい(見苦しく、浅ましいこと)姿勢です。
 ただし、各種営業に携わる方々にとってはそれも技術のうちでしょうから、本当にご苦労様と申し上げたい気持です。

 娑婆にいた時分、政治家を囲むグループが、ある「中央へ顔の効く人」をひんぱんに呼んでいました。
 来仙する旅費などはもちろん、連夜の宴会、それも必ず二次会・三次会まで面倒をみるという状態でした。どこへ呼ばれても王様扱いされているらしい彼の、何をしてもらっても、どんなお追従もあたりまえと感じている様子に、私は密かな軽蔑を抱いていました。
 傲慢な王様はいつも全員を注意深く観察しているらしく、そうした目障りな者を許すことはできなかったのでしょう。ある夜、何十人も取り巻きが騒いでいる最中、末席あたりで目立たなくしていた私へ「おい、唄え」と声がかかりました。
 当然、気が乗りませんという仕草で断ったのですが、幹事は慌てました。お気に召さないふるまいなど、とんでもないからです。
 幹事に恩義を感じていた私はマイクを握りました。そして、真夏のビアパーティで前川清の『雪列車』を唱い始めました。
「匂うように 笑うように 雪は降る 白い景色 逃げるように 汽車は走る♪」
 会場は一瞬シーンとなりましたが、憮然とし苛立った王様をとりなそうとするざわめきが、すぐにその静寂を消し去りました。
 私以外の全員にとって不快で不気味で不吉な歌は
「あたたかいものを 何かください こころもからだも寒すぎるので どうぞ♪」
と終わりましたが、もちろん誰一人として拍手する人はいませんでした。

 あの時、深く考えました。
「諂う」のは卑しいことですが、いかに目的があってのこととは言え、相手への尊敬があれば、そこには「もてなし」という暖かい真実が伴うはずです。
「諂い」と「もてなし」は紙一重のところで裏になり表になりつつ人の心を暗くし、明るくしています。
 双方が尊敬・礼儀・矜持などを失わず、お互いの人間性を認め合えば、卑しさ・さもしさまみれの薄汚れた時間を共有せずに済むことでしょうが、それは、慣れるという習性のある人間にはなかなか難しいのかも知れません。

 初めて四国八十八霊場を巡拝して「おもてなし」に触れた時は、心底驚きました。
 宿や食堂や土産物店や境内の出店などでいろいろサービスを受けるのはもちろん、道ばたで日向ぼっこをしているお婆さんが手作りの飾り物をくださったり、あるいは、巡拝と判ればどんな車も必ず道を譲ってくれるなど、お大師様の「お互いを尊ぼう」という教えが千二百年以上の時を経ても生活の中に生きているのです。

 もてなして喜び、もてなされて感謝することによって、諂う卑しさと、それに乗ずるさもしさをうち払いたいものです。
 そうすれば、相手の喜びが自分の感謝を深め、自分の感謝が相手の喜びを更に深めることでしょう。




2006
04.24

お花見を終えて

Category: 日想
 一週間前は雨だった天気予報がだんだん晴れに向かい、これ以上ない好天となった23日、予定通り『花見の会』を終えました。

 山里はまだ梅の季節。紅梅や白梅は目にするものの桜はまだ開き初めといったところですが、佳い温泉につかり、どなたも屈託なくご意見や話題を出され、笑いと歌の絶えない数時間でした。

 

 午前6時にはTさんが早朝勤行に来山し、10時にはWさんが『法楽農園』に来て汗を流しています。そしてお花見に参集した皆さん。ああ、この方々とは前世でもこうした時を過ごしたに違いないとの確信が起こり、懐かしさとありがたさで胸がいっぱいになりました。



 23日は小生の60回目の誕生日です。これからの計画をすっかり発表しよう、その完遂のために、酒はこの日限りにしようと思い定めての宴会でした。皆さんの暖かな心とみ仏へ捧げられた極上の酒たちに最後の相手をしていただきました。

 結果、数十年ぶりに酔いつぶれました。介抱役のS君は、さぞ大変なことだったでしょうが、酒が人を倒す様子をよく見ておくことは何ごとかであったに違いありません。

 

 釈尊は、九つの穴から不浄なるものを出す肉体を直視せよと説かれました。

 酔いつぶれ、文字どおり不浄なるものを流し尽しました。

 よく「酒は人生の友」と言われます。確かにある時は良き友であり、ある時は悪しき友でしたが、この世の極楽で今生の別れをしました。

 あとは、一路邁進するのみです。

「南無守本尊法楽寺如来」「南無大師遍照金剛」




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2006
04.23

根源と究極と

Category: 日想
 四国八十八霊場には、必ず托鉢姿をしたお大師様の修行像があります。

 当山でも境内地入り口近くに立ち、ご参詣の方々を見守っておられます。

 今般、年忌供養で訪れた方が、お像の横にある表示板の文章を熱心に書きとめ、

「初めて知りました。弘法大師は、根源と究極を説かれたのですね?」

と言われました。

 もう、還暦はとっくに過ぎたとおぼしきロマンスグレーの紳士で、言葉の内容を確認しつつ話される口ぶりは、学問の世界におられたのではなかろうかと思わせます。



 私たち密教行者にとっては根本である教えが、世間様にはまだまだ知られていない現実を痛感させられた一件です。

 表示板の内容をここに記しておきます。



『お大師様(弘法大師 空海)について』



 宇宙は造られたものではなく、無限の過去から?それ自体?としてはたらき続け、生滅変化極まりないこの世を現わし続けています。

 常にそれ自体として存在し続けているものを梵字の「あ(阿)」で示します。

「あ」は、とりもなおさず真理と命の世界、つまり如来様の世界を示すものです。

「あ」は全てのものの根源を示し、「うん」は究極を示すもので、お寺を永遠に護る仁王様が、一体は「あ」と口を開き、一体は「うん」と口を閉じておられるのです。

 

 私たちがこの世に生まれ出たことは、永遠なる如来様の命の海がうねり波立ってパッとしぶきが舞い上がったようなものであり、人生はそれがキラリと光った瞬間であり、死は元の海に溶け込むことに他なりません。

 私たちの命は如来様の命そのものです。

 

 お大師様は、全国を歩いてこのような真理を説かれました。そして国家の安泰を願い庶民の苦しみに応じて数々の秘法を修され、法を説き書物を著され、霊泉や貯水池を造られ、病気を治され、高野山や四国八十八カ所など各地に寺院を建立されたのです。

 

 人生は、如来様の命の古里から出発し又そこへ帰るまでのつかの間の旅です。かけがえの無い日々を真理に導かれて歩みましょう。

 お大師様に向かって手を合わせる時は『南無大師遍照金剛』とお唱えください。必ずお力をいただけることでしょう。



阿字の子が 阿字の古里たち出でて またたち帰る 阿字の古里




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2006
04.21

幸せを何倍にもする方法8 ―『誑(オウ)』を払いましょう―

 今回は、「たぶらかすこと、たばかること、騙すこと」です。

 騙すのは、「騙し取る」と言うとおり、他人を欺いて不当に何かを得ようとすることです。
 得ようとせずに騙すことはあり得ません。
 たとえばおもしろ半分に嘘をつくにしても、それは愚かしい快感を得ようとするからであり、世間をごまかして生きるのは、自分勝手に仮構した自分を得ようとするからです。

 本来手にすべきでない、あるいは手にしてはならないものを手に入れようとする人は、当然他人から信用されなくなり、人々は周囲から遠ざかります。近づいてくるのは、同類だけです。

 騙すといえば、偽電話による詐欺事件にしても、ライブドア事件にしても、姉歯事件にしても、なぜ、こうも罪悪感が薄れ、恥を忘れた世の中になったのかを考えているうちに、子どもたちの環境に思い当たりました。
 親が「教育は人間づくりである」と正しく認識していれば結構ですが、そうではないと思われるケースがあまりにも多いのです。
 子供を勉強漬けにしておくことによって親自身が安心したいのではないかと考えざるを得ないような場合すらあります。
 こうしたパターンにはまると、子供は苦痛のあまり、親へ勉強する格好だけ見せておこうとするようになります。
 こうして、騙しが始まります。

 業(ゴウ)として生まれ持った悪の種が、幼少の時代にどす黒い芽を出してしまうのです。
 親がうまく騙されると子供は親を尊敬しなくなり、表面はどうであれ、内心では親をバカにするようになります。
 親が騙されずに子供を叱れば、子供は親を怨むようになります。
 いかに「お前自身のためだから!」と口が酸っぱくなるほど言っても、子供の気持を理解せずに苦しめるだけの親を、子供は絶対に認めません
 
 一方、勉強のできる子は、成績さえ良ければ親は意のままになると知り、自分が王様になります。本心を隠し、表面的な優等生を演ずることによって、親を初め世間を欺き、自己欺瞞の虚構に生きます。
 やがては高慢が昂じて騙しの通じる限界を見誤り、破滅します。
 まっとうな人々は「あんなことをすれば必ず嘘が露呈するはずなのに、何でああした幼いことをやったんだろう?」といぶかりますが、高慢心は、実に、人を愚かにするものです。
 こうして「優等生の破綻」が起こるのです。

 さて、心も身体も、弛緩と緊張のバランスがうまくとれてこそ健全にはたらきます。
 遊びは弛緩であり、勉強は緊張です。
 それがどういうバランスであればその子供にとって一番良いのかをよく見極めて、健全に育つ環境を与えようと努力するのが親の務めではないでしょうか。
 ある子は三時間遊び、一時間勉強すれば満足な一日だったのかも知れないし、ある子は三時間勉強して一時間遊べば安心な一日であるかも知れません。
 親がそれを把握するためには、子供の様子を注意深く観ることと、子供の話をよく聞いてやることが大切です。

 僧侶になりたてのころ苦労したことの一つに、托鉢へ出発するタイミングのとり方がありました。
 朝に供養をし、祈祷をし、勉強をしてから出発するのですが、準備万端整え〈満を持して〉でかけないと、うまく歩けないのです。
 満を持することの意義は、気持に引っかかりのない平静な時間を持つところにあります。
 ご縁の方の病状が深刻だからもう一度法をかけたお守を送ってあげたいなどのやり残しがあってはなりません。
 何かを考えている途中で妻に急かされたり、難題の電話が入ったり、不意の来客があったりすればリズムをつくりなおすことになります。
 それは、走り幅跳びなどの選手それぞれが、瞑想をしたり、深呼吸をしたり、音楽を聴いたり、身体でリズムをとったりし、〈満を持して〉スタートを切るのと同じです。
 いざ!という瞬間に観衆がざわめいたり、何かが視界を横切ったりしたなら、もう一度やり直しをせねばなりません。

 もちろん、現在は、どういう状況であれいつでも平然と出発できますが、ここへ来るまでの道のりは、それ相応のものがありました。
 そうした体験があるだけに、自分のリズムと無関係に机へ向かわねばならない子どもたちの苦痛は、手に取るように解ります。
 自由に弛緩の時間を持てない子どもたちは、悲惨としか言いようがありません。
 世の親御さんたちには、子供が自分に合った良いリズムで遊びと勉強を両立させることができるよう環境を整え、適切な指導をしていただきたいと切に願っています。
 無垢な子供を、親を騙さねば自分を守れない環境においてはなりません。
 子供が伸び伸びと健全に育てば、子供の幸せは親の幸せとなり、親の幸せは子供の幸せとなり、それぞれの幸せは何倍にもなることでしょう。




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2006
04.20

死刑制度について ―本村洋さんに想う―

 妻子を暴漢に惨殺された「全国犯罪被害者の会」幹事本村洋氏の言動は、日本人として至極まっとうなものと言えます。

「事件の全容としての事実は、神と加害者と直接の被害者しか知り得ない。被害者の遺族としては、『加害者が結果にふさわしい罰を受けるのが社会正義である』と信じ、その実現以外に不慮の死を遂げた家族を慰撫する道はないと考える。もしもそれが実現されないならば、自分の手をもって行なう以外にない」

 これは充分理解できる主張であり、まるで若い日の自分を見ているような気持で報道に接しています。



 本村洋氏は、決して一時の感情をひきずっているのではありません。

 平成十二年、山口地裁によって無期懲役の判決が出た際は「司法に裏切られた。死刑にしないなら早く刑務所から出してほしい。自分が殺す」と訴えた彼は、平成十四年、広島高裁によってふたたび同じ判決となった時、「妻と娘の命はこの判決のように軽いものではない」と考え「人の命を奪った者は命で償わせる。そうでなければ社会の秩序は維持できない」との信念を表明しています。



 二度目の判決が出るまでの間に渡米した彼は、テキサス州で会った死刑囚が涙を流し「死刑判決によって初めて罪の重大さを知った」と語るのを聞きました。その四カ月後に死刑が執行され、〈いのちによる償い〉が、他のものをもって代えることはできないという確信が固まったと言います。

 

 こうした彼が持つ鋭利な〈正義の剣〉の前には、人間性を失った犯人を殺意なき者に仕立て上げ、死刑反対という一個人の主張を通す道具に用いようとする老練な弁護士の作為は見るも哀れといった状況であり、勝負の帰趨は明らかです。



 日本においては、死刑制度がなければ被害者とその家族はなかなか救われず、加害者の真の更生もおぼつかないでしょう。

 人はそう簡単に自分を変えられるものではありません。まして凶悪事件を起こすほど人格が破壊されている人間が生まれ変わることが至難のわざであることは容易に想像がつきます。何年経っても犯人の非人間性が本質的に変わらない様子は目を覆うばかりであり、弁護士と「死は偶然だった」などと打ち合わせしているおぞましさは表現のしようもありません。

「生き直そう」と発心した善男善女ですら、何ヶ月あるいは何年もご本尊様へ願をかけ、因縁解脱をはかっているのです。なまやさしい方法で犯人が更生することなどあり得ましょうや。

 

 しかし、それでも、当山は、以前『死刑制度について』で伸べた通り、「死刑という制度があるのはやむを得ないが、死刑囚が正真正銘の真人間として生まれ変わったならば、罪一等を減じて欲しい。そのために寺院として尽くしたい」との信念に変わりはありません。

 死刑は〈罪人による罪人への殺人行為〉であり、それを回避することが、被害者も加害者も救われる究極の道だからです。

 

 尋常では解決できぬ人間にとって根源的な難題であるからこそ、仏神のご加護が必要なのです。

 真人間になった犯人を前にして、被害者の家族が死刑を許す日が来るよう願っています。




2006
04.19

運命転化法 11 ―祈祷のご利益を確実に手にする方法―

 さまざまな問題が重なって夫婦仲が悪くなり、ご主人が子供を連れて実家へ帰ってしまったがどうすれば良いかという人生相談がありました。
 かなり危ういけれどもまだ夫婦の縁は切れていないと観たので、問題一つ一つの解決方法と、帰って来て欲しいとご主人へ訴える場合の要点についてお話しし、関係者ご一同、納得し当山を後にされました。
 
 しかし、間もなく、また、奥さんからご依頼がありました。
 ご主人のマザコンと義母の息子への執着心が邪魔をしているんだから、二人の仲を引き離す修法をして欲しいというのです。
 わざわざ県外からご来山されていることもあって、何とかしてあげたい気持はやまやまでも、それじゃあというわけには行きません。
 奥さんが、まだ、ご自身の生き方を変えようとあまり努力しておられないからです。

 なかなか思うように精進できないのでご本尊様の後押しが欲しい、あるいは、努力しても努力しても好転しないのでご本尊様のお力を借りたい、というのならただちに修法へ入ります。
 しかし、いつまでも「あの人のせいだから」という考え方にとらわれ、そしてご本尊様への「あなた任せ」の姿勢でいたのでは、運命転化はおぼつきません
 今の状態で修法しては、決して本人のためになりません。
 よしんば、ご主人が帰って来たなど都合の良い変化が起きても、それはたまたま得た幸運のようなものでしかなく、そんなかりそめの幸せはまたいつか手から離れてしまうことでしょう。
 辛い体験をした自分がそれをかけがえのないきっかけとして向上すれば運勢が変わり、新たな自分がご主人を変え、義母を変えてこそ明るい未来が開け、幸せな運命が創られるのです。
 そうした流れの中でご加護を求めるならば、どの時点であれ、喜んで修法します。
 ご本尊様はきっと大きなご加護をくださることでしょう。

 問題を解決するためにまず必要なのは、み仏の教えによって新たな視点を持ち、苦の根本原因となっている貪・瞋・痴を離れようと決心し、具体的に何かを行なうことです。
 誠心は必ず仏神へ通じ、行者の祈祷が仏神のお慈悲を確かなものにします。それは、病気が治るのは患者の自己快癒力のせいであり、医者がそのお手伝いをするのと同じです。
 すべてはそこからしか始まりません。
 だから、当山では、ご祈祷のご依頼があれば、必ず問題解決のための心構えなどをお話ししています。

 ことを為そうとすれば、「自分の努力による功徳の力」「周囲の縁の力」、そして「仏神のご加護の力」が必要なのです。
 この「三力(サンリキ)」で運命を転化しましょう。



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2006
04.17

幸せを何倍にもする方法7 ―『慳(ケン)』を払いましょう―

 今回は「もの惜しみ」です。
 自分が手に入れたものを離したくないのは人情というものです。
 よく誤用されている「情けは他人(ヒト)のためならず」の問題も、ここにからんできます。

 この慣用句は、そもそも
「他人へモノやお金をあげたり、何かを手伝ったりして情けをかけるのは、決して他人のために自分が損をすることではない。他人へ何かをしておけば、その徳はいつか必ず自分へ返って来るものである。善行は、畢竟、自分のためである」(「解釈1」とします)
という意味です。
 現在では、
「へたに他人へ情けをかけると、その人のためにならないことがあるから気をつけねばならない」(「解釈2」とします)
と誤解・曲解されることが多いようです。
 
 いつぞや『法句経』の講座で、これが議論の種になりました。
「結局は〈自分のため〉だからというのでは、見かえりを求めぬ清らかな布施行にはならないんじゃないでしょうか?」
というものです。
 そのとおりです。「善因が善果を生み、悪因が悪果を生む」ことを信じればこそ良心の声に従えるわけですが、そこに我(ガ)が顔を出せば、信じながら穢れることになりかねません
〈我がため〉こそが煩悩の姿
だからです。

 そこで、「1」でも「2」でもない、み仏の教えから観る第三の解釈と第四の解釈とをお話しました。

「解釈3」
「他人へ思いやりをかければ、助かった他人は喜びます。
 もちろん、善因善果ですから、いつかはきっと自分のためにもなるはずです。
 他人が喜んで幸せになり、自分にもやがて幸せが来るならば、〈自他共に〉苦を脱しよう、〈自他共に〉幸せになろうという菩薩行そのものではないでしょうか」

『自分のためだから』と目的意識を持つのではなく、『いずれ自分のためでもあるのだから』と、自分の損得は、あくまで〈結果的に〉と信じ放り出すことによって、打算という我の呪縛に負けない考え方です。

「解釈4」
「他人へ思いやりをかけられる自分であること、思いやりをかけずにはいられない自分であることが、すでに救いの中にいる証拠です。
 それは、必ず悟りを得ようと決心する『発心(ホッシン)』の時点で、すでにみ仏の御手に抱かれているのと同じです」

 自然に他人へ情けをかけられるならば、その人は、ある意味で人間修行の達成者です。
 そもそも、人間修行の目的は、殺せない人・盗めない人・嘘をつけない人・愚かな考えを持てない人・愚痴を言えない人・嫉妬できない人・情けをかけずにいられない人、などになることではないでしょうか。
 不殺生や不邪見などの戒律は、「~してはいけない」が入り口であり、「~できない」が出口です。
 無益な殺生を行なうまいと決心し、気をつけているうちに、いつしか、無益な殺生のできない人になっています。これが行の達成であり、み仏のお導きというものです。

 かなり回り道をしてしまいました。
 自分のためでなければ何もしたくない、何も差し出したくないというもの惜しみは、心の成長を止めます。友情が芽生える機会を壊します。
 どんなに財があっても、いかなる高位にあっても、軽蔑されるとも決して尊敬はされません。
 尊敬される人格者は〈投げ出せる人〉です。
 スッとこだわりなく他人のためになれる人です。

 こういう人の回りには、自然に人の輪ができます。
 もちろん、中には利用しようと近づく不逞の輩もいるでしょうが、清水の流れは、必ず泥を払い去るものです。〈投げ出せる人〉の運勢が明るい方向を目ざす力の大きさは、はかり知れません。
 しかし、我が邪魔をしてこれがなかなか実行できないからこそ、釈尊は行の最初に布施行を置かれたのでしょう。
 もの惜しみをしないことが自他共に幸せになるための行の始まりであり、ある意味では到達点なのです。
 感謝しつつ他人様のためになろうではありませんか。




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2006
04.15

【現代の偉人伝第十七話】 ―松声の人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 葬儀を終えました。今夜、またお通夜があります。なかなか原稿を書けませんが、葬儀屋さん、ご親戚、ご友人、知人あるいはホームページときっかけはさまざまであっても、当山が何をしているどういう寺院かをよく知った上で、山里の名もない修行寺をお選びいただけるのはまことにありがたいことで、行者冥利に尽きます。未熟ながら微力を尽さねばなりません。



 さて、昨日お別れをした方とは生前面識がなく、さまざまな事情によって姓名と命日のみの情報で戒名をお決めすることになりました。

 ご本尊様の前に座ると、青空の下、緑濃い松の大木を吹き渡る風のイメージが生じ、人をあっと驚かせるような大胆さを伴う雄々しさも感じられます。

 そうしてご本尊様から戒名をいただき、一昨日のお通夜が始まる直前、僧侶控え室で喪主を務める奥さんへ書面をお渡しし、戒名について概略の説明もしました。

 

 初めてお会いした奥さんは、涙ながらに言われました。

「主人は、かなり病状が悪かったはずなのに、前日会った時は、もうずいぶん回復したような様子で、翌朝亡くなるとは想像もつきませんでした。その晩は娘が病院にいたのですが、午前零時近くになって、『もう大丈夫だから、帰りなさい』と何度も言ったそうです。娘は後ろ髪を引かれながら帰宅しました。どうしても関西方面へ行かねばならない仕事があったからです。

 明け方になって病院から急変を知らせる連絡が入り、主人はそのまま逝きました」



 昨夕、百カ日までの法要が終わり、会席でその娘さんからご挨拶をいただきました。

 利発そうながら控え目のその方は、世界的規模の公務を負っておられる人でした。

 

 亡きお父さんは、きっとご自身の最期を悟り、私的なことで公務を妨げてはならないと判断し、強引に娘さんを帰宅させたのでしょう。死の現場にいれば、そこを去ることはできません。

?死に水をとる役割は妻が果たしてくれれば良い。自分の病気のために家族へずいぶん苦労をさせてはいるが、娘の仕事になるべく支障を生じさせないようにせねばならない?

 こう判断されたに違いありません。



 老いれば、心細さが出てきます。病気になれば、なお一層です。まして死が近づけば、言うまでもないことでしょう。

 最愛の一人娘に心で別れを言いつつ帰したお気持を察すると、今でも涙を抑え切れません。

 明確な判断と断固実行された気力は驚くべきものです。

 人間は、奇跡のように気高い行為ができるのです。



〈ご本尊様の命名〉である戒名の決定は、親が生まれた子供に名前をつけるようなものです。それ以上のものとも言えましょう。

 親は希望や夢を託して子供に命名しますが、ご本尊様は、み仏の子として永遠なる生命の大海へ還る魂へ、魂の色合を観、過ごした人生を観て、その徳にふさわしい命名をされます。

 

 また、霊性の崇高さと戒名の厳粛さを教えていただきました。合掌




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2006
04.12

願いをこめる

Category: 日想
『平家物語』に、『卒塔婆流(ソトバナガシ)』という一章があります。

 鬼界が島(鹿児島県の大隅諸島)に流罪となった丹波少将と康頼入道が三所権現(サンジョゴンゲン)で通夜(ツヤ…夜通し堂に籠って唱え続けること)をしていたところ、明け方になって夢を見ました。



 白い帆をかけた船が一艘 沖合からやってきて、紅の袴をまとった女たちが岸辺で鼓を打ちながら三返謡い、消えたのです。



 よろづの仏の願いよりも 千手の誓いぞたのもしき 枯れたる草木も忽ちに 花咲き実なるとこそきけ



(あらゆるみ仏の誓願よりも千手観音様のそれはご加護のお力が大きい。枯れた草木に花を咲かせ実をつけさせることすらあると聞いている) 

 

 はっきりと聞いた康頼は、三所権現様の本体である千手観音様が、都へ戻りたいという願いをお聞きくださっているにちがいないと感涙を流しました。



 またある通夜のおりには、沖から吹いてくる風が、二人の袂へ二枚の葉を届けたことがありました。

 よく見ると、それは熊野三山のもので、しかも、裏側に虫食いのように一首が記してありました。



 千はやふる神にいのりのしげければ などか都へ帰らざるべき



(神様へ一心に祈っているのに、どうして都へ帰られぬことがあろうか、きっと帰られるであろう)



 いよいよご加護を確信した康頼は、千本の塔婆を作り、阿字や歌などを書いて祈りながら海へ流したところ、何と、その一本が厳島大明神の前へ打ち上げられました。

 外海へ流れ出ることなく広島県へ流れ着くとは驚くべきできごとです。しかも拾ったのは康頼ゆかりの僧侶で、康頼の老母や妻子へそれを見せることができました。

 そして、やがては流罪を命じた平清盛の目にもとまって「哀れ」と口から漏れ、二人は、後に赦免されることになります。



 このように、願いを懸けて流されたものには不思議な力が宿るものです。

 当山も、昨年夏、隠形流居合の行者Iさんが南方を巡る際に、百八体の地蔵像を流し、太平洋戦争で散華した英霊を供養しました。

 

 最近、この世から原爆をなくすための運動の先頭に立ちながら交通事故で亡くなったご婦人の形見である「折りたたみ傘」をいただきました。柄が黄色のプラスチックで色灼けした古い模様の傘ですが、清々しい存在感があります。

 ご主人は、奥さんを轢き殺した犯人を許したそうです。

 この傘を寺宝とし、お互いを認め合い、許し合い、人が人を大切にする社会になるよう精進するつもりです。




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2006
04.11

懸けて行なう人生相談

 昨日も「電話やメールで人生相談を受ければどんどん縁が増えるし、住職なら10分幾らでお布施が集まるでしょう。ぜひ、やられたらどうですか?」というありがたいご提案をいただきましたが、聖徳太子のように一度に十人もの話を聞ける天才ならぬ凡人の身では、到底できません。
 凡人にとって、一日の二十四時間はとても短いものです。
 これまで何度か、時代に合った効率的なやり方をお勧めいただいたにもかかわらず、当山では、依然として、電話やメールでの人生相談を原則として受け付けておりません。
(ただし、特段の事情がおありの場合は別です。常識・良識の問題です)

 それは、いやしくも人生の重大事について他人へ相談する以上、自分の〈何かを懸ける〉姿勢でなければ、困難を克服するための真実など掴めるはずはないと考えているからです。
 民主党では、メール問題をめぐるドタバタ劇の結果、ある人は信を失い、ある人は信を得ました。
 そうなった理由の一つは、電話やメールで肝心な相談や依頼をやろうとしたことと、時間を割き、愚直に相手のもとへ足を運び頭を下げたことの差にあると観ています。

 一方、当山は寺院であり、他人様の人生に関わる重大事を世間話や思いつきの考えで済ませるわけにはゆきません。
 必ずみ仏と一体になる法を結んでから行なうので、動く肉体は僧侶のものであっても、口から出る教えも、はたらく法力もみ仏のものです。
 そうして行なうところにこそ、行者たる僧侶の役割があると考えています。
 相談を受ける僧侶も、〈衣を懸けて〉いるのです。

 自分の「何かを懸ける」とは、こういうことです。

 かつて、三国時代の武将で蜀の初代皇帝となった劉備玄徳(リュウビゲントク)は、晴耕雨読の生活をしていた諸葛孔明(ショカツコウメイ)が人格識見を兼ね備えた超一流の人物であることを知り、徐庶(ジョショ)に連れてきて欲しいと頼んだところ、徐庶は「自分が呼んだからといって動く男ではありません」と言いました。
 そこで劉備玄徳は諸葛孔明のもとへ自ら三度足を運び、ようやく会うことができて、かけがえのない軍師を得ました。有名な「三顧の礼」です。
 また、剣豪は水垢離(ミズゴリ…水をかぶって穢れを清めること)などを重ねて剣術の開眼を祈り、母親はお百度参りをして子供の病気が回復するよう祈り、妻は千人針を腹に巻かせて夫を戦場へ送り出しました。

 ちなみに、千人針とは、女性が街頭へ立ち、道行く女性たちに声をかけて針で縫った糸目を一つづつ結んでもらい、それが千になったら完成する武運長久の腹巻きです。
 縫う資格のある女性は寅年生まれに限り、その人の年齢の数だけ縫ってもらうのですからなかなか大変ですが、太平洋戦争のおりなどには、一生懸命にやったといいます。
 こんな逸話を聞きました。

 南方へ出征した友人同士が、「もし、どちらかが戦死したら、生き残った方は、必ず千人針を遺品として家へ届けよう」と約束していました。
 破れて敵に追われるはめになり、食べものもなくなっていたところ、椰子の木に実がなっているのを見つけました。
 忠告を聞かずに木へ登った一人は敵に撃たれ、もう一人は一目散に逃げました。
 ところが、どんなに逃げても濃い霧のために道が判らなくなり、不思議にも元の場所へ戻ってしまうのです。
 三度目に、彼は約束を思い出しました。
 そして遺体を見つけ、腹巻きを取って手を合わせたところ、さしもの霧も晴れ、無事帰還して約束を果たしたということです。

 まだまだ修行中の未熟者ゆえ、なかなか〈特効薬〉をお渡しすることはできません。
 しかし、み仏を信じてわざわざ足をはこばれる皆さんのご誠心に何としてもお応えしたいという姿勢だけは忽せにせず、いのちの限り、皆さんの心からの願いをみ仏へお届けし、み仏のお力を皆さんへお渡しする仕事を続けさせていただきたいと願っています。




2006
04.10

時代に必要とされた小沢一郎氏

Category: 日想
 今般、民主党の代表に小沢一郎氏が選ばれたのは当然であり、党を再生させ日本の舵取りを誤らぬためには、他の選択肢はありませんでした。



 かつて、機関誌『法楽』は二つの大問題をとりあげました。

 一つは、やがて、北に住む自衛隊員が灼熱のイラクへ派遣され危険にさらされるであろうということです。

 だから、日本人の血を流さぬよう祈るため、徒歩での靖国神社詣でを決行しました。明治以前の日本人は、国難を克服するために臣民をあげて仏神を問わず祈ったのに、世間ではあまりに危機感が薄く、何としても犠牲者を出したくなかったからです。

 案の定、北海道、東北の精鋭部隊も日の丸を背負ってでかけました。幸いにして、今のところ無事に済んでいます。一兵たりとも欠けることなくこの戦が終わって欲しいものです。

 

 もう一つは、北に住む人々の中から日本の救世主が出るだろうということです。

 政治家は、年から年中「今こそ重大な時である」と叫んでいますが、戦後の歴史が一回りしたここ六年間は、日本がいかなる国として存立して行くかを決める正に重大な時期へ入りました。

 急速に世界が変わり、日本も大きく変わりつつあります。今起こっている変化にはもちろん良き面もありますが、世界中で煩悩を抑制する霊性が軽んじられ、むき出しの財欲や色欲や食欲などが大手を振るようになった結果、人が人を尊ばず、人が人を信じられないという恐ろしい精神の荒廃が進んでいます。

 いったい誰が、地域に根ざす学校が固く門扉を閉ざし、警備員に守られる不安な場となることを予想したでしょうか。いったい誰が、およそ人の心を失ったとしか思えぬ若い犯罪者たちや、犯罪を目的として入国する不良外国人たちや、母性の崩壊した母親たちの輩出を予想したでしょうか。

 日本という国も、世界も、共に文明のありようとそれぞれの国のありようを根本から考えねばなりません。ゲームやインターネットの普及速度とその凄まじい悪影響に見られるとおり、この時代の精神の荒廃は、地球上の所を問わず急速かつ広範に拡大しつつあるからです。

 そうした時期に、愚にもつかぬ問題で国会が右往左往するなど、話になりません。

 

 この代表選挙で小沢一郎氏が登場したのは、時代が必要としたからです。

 小沢一郎氏の政策内容うんぬんではなく、ものごとの根本をきちっと議論する国会になるためには彼が必要だからです。

 そして、「深い傷を負っている菅直人氏は幹事長になるべきでないし、小沢氏は背水の陣を敷くにちがいないから、アキレス腱を抱えるはずはない」と判断したとおりの陣容になりました。

 深い傷とは、1989年に韓国の盧泰愚大統領へ「日本国国会議員一同」名で提出した「在日韓国人政治犯の釈放に関する要望」に、土井たか子氏や田英夫氏、本岡昭次氏、渕上貞雄氏、江田五月氏などと並んで署名していることです。

 原敕晁さん拉致事件に関与したとされる辛光洙(シンガンス)元北朝鮮工作員の無罪放免を韓国当局へ求めるとは、何という判断の誤りでしょうか。

 もし、民間企業でこれほど重大な失敗を犯したなら、たちまち失脚するにちがいなく、無論、出世はおぼつかないはずです。

 そう遠くない将来、拉致問題は重大な局面を迎えます。そのおりにこの問題が蒸し返されればマスコミは昨日のことのように騒ぎ立て、菅直人氏は窮地に陥ることでしょう。「あれは過去のことだから」で済むはずはありません。



 幸いにしてイラクでは犠牲者がなく、国会は横綱が堂々とぶつかる正常さを取り戻しつつあります。

 二度と日本軍が出兵することのないよう、日本人の精神の源流と文明の変化を見すえた国是が確立されるよう、願ってやみません。




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2006
04.09

また一歩

 関東在住のAさんから、当山のホームページを利用してお経を唱えており、お経のCDが欲しいという旨のメールがあった日、かねて思い描いていた『守本尊道場』本堂の完成予想図が届きました。
 ここに詳述はできませんが、おそらくいままでにない伽藍になることでしょう。
 とは言え、一切、壇信徒の方々へ頭割りのお布施依頼をせずに造る心算なので現世的な計算はなかなかできませんが、理想の旗を掲げて精進していれば、ご本尊様は必ず願いを叶えてくださるに相違ありません。
 一山の開基、六地蔵様の像、お大師様の像、墓地『法楽の苑』、一切無縁の方々をお弔いする五輪之塔、十三仏様に守られた共同墓『法楽の礎』などなど、これまで、すべて、そうでした。

 むろん、何億円もかかるものなど、壇信徒さんへ辛い思いをさせない限りできようはずもありません。
 あまりお金のかからない工法を用いて、とにかく形の整った広いスペースを確保し、そこで修法を受けることによってこの世の極楽を体感したり、あの世での安心を確信したりしていただきたいと願うのみです。
寺子屋も始めねばなりません。

 釈尊の誕生日は、普段より一段と〈濃い〉日になりました。

 やっと晴れました。
 今日も祈り、檀信徒さんたちや行者さんたちと共に、ブルトーザーを操縦し、汗を流し、小さくとも確実な一歩を進めます。
 そうそう、CDも早急に作らねばなりません。
「乞う。ご期待」です。






2006
04.07

幸せを何倍にもする方法6 ―『嫉』を払いましょう―

 嫉妬という心のはたらきはなかなか抜きがたいもので、経典には「他の栄に耐えず」と説かれています。
 自分と他人を比較し、他人が自分より優れ、秀で、栄え、認められることを妬むのはまったく無意味なのに、〈気に入らない〉という気持をどうすることもできない場合があります。
 
 ほとんどの人は、この心の刃は相手に向いているようであってそうではなく、無意識の自己否定という形で自分を傷つけていることに気づいていません。
 たとえば、相手が美人だから〈気に入らない〉場合、実のところ、自分が相手ほど美人ではないことを嘆いているのであり、今の自分を否定しています。
 誰でも、いつも、「ありのままの自分」でしかあり得ないのに、「別な自分(もっと美人)」でないからと嘆いてみてもしょうがないではありませんか。
 そんなことをしていると、ギリシャの哲学者アンティステネスが
「嫉妬は錆のごとし。錆が鉄をむしばむがごとく、嫉妬は汝自身をむしばむ」と喝破し、ソクラテスが
「嫉妬は魂の潰瘍」
と警告したとおり、自己否定の感情は、際限なく運勢を暗い方向へと導いてしまいます。

 聖徳太子は、『十七条憲法』の第十四条で、部下たちを諭されました。

「十四に曰く、群臣百寮(ヒャクリョウ)、嫉妬あることなかれ。
 われすでに人を嫉むときは、人またわれを嫉む。
 嫉妬の患(ウレ)え、その極(キワマリ)を知らず。このゆえに、智おのれに勝るときは悦ばず。
 才おのれに優るときは嫉妬(ネタ)む。ここをもって五百歳にしていまし今賢に遇(ア)うとも、千載(センザイ)にして一人の聖を持つことに難(カタ)し。
 それ賢聖を得ずば、何をもってか国を治めん。」


(およそ臣たる者は、嫉妬してはならない。
 自分が他人を嫉妬すれば、他人もまた自分を嫉妬する。
 そうした場合の害悪ははかりしれず、極まりない。
 自分より智慧があるから、才能があるからといって嫉妬する。
 こんなことをしていると、五百年経っても賢人に会えず、千年待ったとしても、たった一人の聖人を指導者に迎えることすらできないであろう。
 賢者・聖人を得られなければ、いったい誰がきちんと国を治められようか)

 こうした嫉妬がなくなれば、隣家が改装すれば嬉しく、友人が出世や結婚をすれば嬉しく、近所の店が繁盛すれば嬉しく、あらゆる人々の幸せを共有できるようになります
 そうすれば、この世は嬉しいことだらけです。
 幸せになれる道を自分で閉ざす嫉妬は、止めにしませんか。 




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2006
04.06

4月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



普賢菩薩(ふ・げん・ぼ・さつ) 



「オン サンマヤ サトバン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
04.06

4月の聖語

「因果は、信ぜずんばあるべからず、罪福は慎まずんばあるべからず。鐘谷(ショウコク)の応、良(マコト)に以(ユエ)あるなり」 ―弘法大師―

(因果応報の道理を信じなければならない、悪行と善行は必ず罪罰と福徳とをもたらすので、身を慎まねばならない。鐘木で打てば鐘は必ず鳴り、谷で叫べば谺が必ず返るのは、まことに、こうした理を教えるものである)



 お大師様の弟子たちは、三つの信条を守ることになっています。



?釈尊より五十六億七千万年の後、弥勒菩薩が最後の一人までも救い尽されるまでの間、求める者はいつでも救おうとされるお大師様のご誓願を、この世でも、後の世でも信じ続けること。



?四恩十善戒の教えにより、人の人たる道をまっすぐに歩むこと。



?因果必然の道理を信じて善行にいそしみ、自他のいのちを活かすこと。



 これらのすべての元になっているのが因果応報を信じることです。

 私たちの生き方がそれにふさわしい結果をもたらすと信じられればこそ、意欲が湧きます。

 たとえば、工夫しておいしい蕎麦を作ればお客様に喜んでもらえるにちがいないから、蕎麦屋さんは腕を磨き、他人のものを盗めば盗まれた人がお気の毒だから、欲しいものがあっても、盗みはしません。

 

 私たちの生き方がそれにふさわしい結果をもたらすと信じられればこそ、良心に従います。

 もしも人を殴れば誉められ、人を救えば監獄へ入れられるならば、良心は雲散霧散することでしょう。道徳も宗教もなくなります。人を殺し、領土を奪い、国民が信じている仏神を粗末にし破壊すれば誉められる戦争がいかに異常なものであるかが解ります。



 また、その道理は、この世だけのものではありません。

 過去の生物としての歴史が遺伝子へ記録され、過去の心の歴史がアラヤ識という深層意識へ記録されているように、この世の生き方はこの世で結果をもたらすだけでなく、あの世や次の世へ影響を及ぼします。

 この世で悪行が露見しなかったからといって、決して安心はできません。閻魔大王の目はごまかせないのです。

 この世で善行がなかなか報いられないからといって、諦めてはなりません。仏神は必ず観ておられます。心を澄ませば、そのことはありありと解るものです。



 そして、忘れてならないのは、私たちは脳を使い切ることのできない不完全な生きものであり、かつ、複雑な存在なので、因果応報のつながりのすべては知り得ないということです。

 私たちは、どうしても身・口・意がバラバラになりがちです。

 せっかく善いことを行なっても、気持のどこかに?何で認めてくれないんだろう?といった穢れがあったり、悪いことを行ないながら、心で母親へ合掌していたりします。思春期の頃は、好きな人へわざと乱暴なもの言いをしたりします。

 私たちはこうした複雑な存在です。仏神ならぬ身で、生き方に対応する結果が、いつ、どこで、どういう形で顕れるかを知り得ないのは当然です。

 だから、人間として霊性を高めるため、またケダモノへ堕ちないためには、見るもの聞くものを〈知る〉だけでは不十分です。道理を〈信じる〉ことがどうしても必要なのです。



 お大師様が「信ぜずんばあるべからず」と説かれたのは、このことです。

 







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2006
04.05

4月の守本尊様

 今月(4月5日より5月4日まで)の守本尊様は普賢菩薩様です。

『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩による苦を解決、し心の平穏を保てる智恵をつかさどるみ仏です。

 煩悩は、〈自分を迷わせ、他から邪魔される〉魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。

 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。








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2006
04.05

3月の守本尊様

 今月(3月6日から4月4日まで)の守本尊様は文殊菩薩様です。

『過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)』をもって、過去から現在を通り未来へと連なる因と縁と果とのつながりを見極めるお力をくださり、悪しきことをせず良きことを行うようお導きくださいます。











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2006
04.04

4月の運勢(世間の動き)

 今月は、いかにも春らしく新しいものが生じ、それぞれなりに、あるものは伸び、あるものは伸び悩む様子が見られましょう。

 留意点は、正邪・善悪・虚実を観、出始めた芽へ水をやるべきかやらぬべきかを見分け、果断に行動することです。

 

 また、「段取り七分」であり、ものごとをなすに際しては、準備のいかんが成否を分けます。「これで良し」となったなら、迅速に行動して開運しましょう。



 ただし、無自覚なままで他人に引きずられる行動は危険千万です。一緒に泥棒をやろうと誘われてその気になり、いかにしっかり七つ道具を揃えようと、決して明日は開けないではありませんか。

 こんな愚かな兎の寓話があります。



 椰子の木の下で六匹の兎が昼寝をしていたら、熟した椰子の実が一つ、大きな音を立てて川へ落ちました。

 臆病な兎が跳び上がって駆けだしたところへ狐がやって来て訊ねました。

「一体どうしたんだい?」

 兎は走りながら答えました。

「大変だ!恐ろしいものがやってきたんだ!」

 それを聞いた狐も恐ろしくなって走り出し、猪や鹿や牛や豹や狼や虎も次々に群へ加わりました。集団的な錯乱です。

 そこへ獅子がのっそりと現れたので、一同は叫びました。

「大変だ!恐ろしいやつに殺されそうだ。獅子さん、助けて!」

 獅子が、どんなやつなのかと虎へ訊ねると、見たことはないけれど恐ろしい音を出すんだと言います。どんな音か知らない虎は狼へ、そして、豹へ牛へと順番にたどり、ついに兎が問われました。

 獅子に訊かれた兎たちは、立ち止ってもまだブルブルと震えています。

「天でも落ちてきたような恐ろしい音だったんだ。怖くて、正体を見る余裕などなかったよ」

 現場へ行った獅子は、何ごともないのでゴロリと横になりました。そこへ、また、椰子の実が落ちて音を立てました。

「お前たちは、きっとこの音に驚いたんだろう。少し落ちついて様子を見れば、何のことはなかったのさ」

 獅子の言葉に、一同は皆それぞれの巣へ戻りました。



 ここでは恐怖が主題ですが、主題が興奮や感激に代わっても同じです。

 私たちは、下心があって興奮や感激を与えるような演出をし、「乗せよう」とする者に惑わされてはなりません。

 本ものに接すると、後に残るものは感銘や感與であり、それは時を経ても褪せません。むしろ時と共に成熟したり、いつしか人生を導いていたりもします。


 たとえば生命の神秘を解き明かす「真」、人知れず誰かを救う「善」、魂を奪われてしまうような「美」、いのちの根源に触れる「妙」。本ものは、必ずこうした要素を含んでいるものです。

 

 もしも政治家が何かを叫んだならば、本当に身を捨てて国家国民のためになろうとしているかどうか、虚実を見極めねばなりませんし、演説の後に、興奮ではなく感銘が残るかどうかの検査も必要です。

 前の国会において、障害を負った一議員が、二年前に行なわれた福祉に関する提案の棚晒しをとり上げていました。

 弁は訥々としており、激高する雰囲気も、テレビ映りを意識する様子もありませんでしたが、「善処」「前向き」「鋭意」といった空々しい常套語で受け答えするしかない者たちの虚や瞞や保身を暴く、まごころと真実の重みは圧倒的でした。

 いまだに、感銘は、はっきりと残っています。

 

 テレビをにぎわす評論家やキャスターや先生と呼ばれる人たちの言動、あるいはマスコミ一般に対しても、こうした視点を失わぬようにしたいものです。



 水をやるべきものを誤らぬために。

 そして、〈愚かな兎〉にならないために。




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2006
04.03

4月の例祭

◇第一例祭



 4月2(日) 午前10時より

 

 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  4月15日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




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2006
04.03

もう一つの『すべてを超える翼』

Category: 日想
 例によって『すべてを超える翼』の話をしていたら、博覧強記のT氏から指摘されました。

「雁の詩なら、中学か高校で千家元麿のやつを読んだはずだよ。彼は、確か、白樺派だよ」

 そう言われてみれば、うろ覚えではあっても、並んで飛んでどうこうという印象的な作品だったと思い出し、『雁』を調べました。



暖かい静かな夕方の空を

百羽ばかりの雁が

一列になって飛んで行く

天も地も動か無い静かな景色の中を、不思議に黙って

同じように一つ一つセッセと羽を動かして

黒い列をつくって

静かに音も立てず横切ってゆく

側へ行ったら翅(ハネ)の音が騒がしいのだらふ

息切れがして疲れて居るのもあるのだらふ、

だが地上にそれは聞こえない

彼らは皆んなが黙って、心でいたはり合い助け合って飛んで行く。

前のものが後になり、後ろの者が前になり

心が心を助けて、セッセセッセと

勇ましく飛んで行く。



その中には親子もあらふ、兄弟姉妹友人もあるにちがひない

この空気も柔らいで静かな風もない夕方の空を選んで、

一段になって飛んで行く

暖かい一団の心よ。

天も地も動かない静かさの中を汝許りが動いてゆく

黙ってすてきな早さで

見て居る内に通り過ぎてしまふ



「情」の心で観れば、こういうことになるのでしょう。「柔らいで」いるのは、空気だけではありません。

 遠くから一団を眺め、心が望遠レンズになって近くから一羽一羽も見ています。動と静の対比の巧みさもあって、名詩と呼べるのではないでしょうか。

 その点、『すべてを超える翼』は心理学者らしい「知」の仕事であり、その底にはキリスト教の「妙」が流れています。

『雁』が絵画だとすれば、『すべてを超える翼』は人を運ぶ船です。触れる人をいつの間にか乗せて、必ずどこかへ連れて行きます。

 宗教の色はついていますが、船着き場は神の国に限らず、乗る人の心一つでどこへでも到着できる不思議な船です。


 さればこそ、生粋の日本仏教に生きる当山でもその普遍的価値を認め、推奨しています。

 絵画を眺めるも佳し、船に乗るも佳し、縁を活かしましょう。




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2006
04.01

幸せを何倍にもする方法5 ―『悩』を払いましょう―

 よくいただく質問に、「僧侶になると悩みはなくなるんですか?」「ご住職くらいになると、もう悩みなんてないんでしょうね?」などといったものがあります。
 悟れば悩みがなくなるのかといった話になれば大問題ですが、こうした仕事をしていると、「くよくよする」とか「困り果ててパニックになる」ことはまったくなくなります。
 
 それなら毎日ルンルンかと言えば、もちろん、そんなことはありません。
「日本の社会も子どもたちも大変な状況になっており、問題点もそれなりに明らかになりつつあるのに自分はあまりにも非力で役に立たず、情けない??理想は自分の脳内にはっきり確立されているのに、それを形にするための資金がなくて残念だ」などの思いを抱きつつ、棟方志功画伯が彫刻刀を持って板と格闘するがごとき毎日を過ごしています。

 さて、今回のテーマは『悩(ノウ)』、悩みです。
 これにとらわれると心に余裕がなくなり、「下手な考え休むに似たり」で、とかく、思考や行動が見当はずれになったり、無茶だったり、道理に反したりするものです。
 ここで言う悩とは、これまで考えてきた「忿」や「恨」、つまり怒りや怨みを繰り返し思い浮かべられないでいられない困った状態です

 数年前、学校でいじめに遭って殺された少年の父親が、現場で暴力をふるい逮捕される事件がありました。
 毎日学校へ花を手向けていた父親は、足を運ぶたびに怒りや怨みがこみ上げ、ついには憎い先生や生徒へ殴りかかったのです。
 これまでたびたびとりあげた通り、花は忍辱の象徴です。それを知っていたなら、きっとこうした事件は起こらなかったにちがいなく、残念でなりません。
 また、自他の幸せを破壊する「悩」の恐ろしさを痛感もします。

 慈雲尊者は、怒りの空しさを説かれました。
 
 山川草木に対して瞋恚を生ずるか。
 この山川は、耳目なく思慮なく、わが瞋恚(シンニ…怒り)を見聞分別せぬ。
 この瞋恚、労して功なきじゃ。
 鳥獣に対して瞋恚を生ずるか。この鳥獣は、みずから水草を逐い、みずから食を求め友を求む。わが言意を解せぬ。
 この瞋恚、労して功なきじゃ。
 
 人間に対して瞋恚を生ずるか。この人間は、日夜に衰老してついに死に帰する。
 石火電光の暇、しばらくこの世に存在するも、枯骨皮肉に包まれたものじゃ。
 わが相手になるに何の所詮なし。此も労して功なしじゃ。


 すべては空であり、宇宙は私たちそのものなのに、怒ってみてもしょうがないではないかと言われるのです。
 
 密教には、この心をつくるための『四無量心観(シムリョウシンカン)』という瞑想法があり、隠形流居合には、『四無量心剣』という剣法もあります。
 ※当ブログに、「自分も他人も幸せになれる『四無量心』」があります。

 身・口・意を統一し、相手を幸せにしないではいられない普賢菩薩になり、他人の苦を抜かずにはいられない虚空蔵菩薩になり、他人の幸せを喜ばずにはいられない観音菩薩になり、誰しもが同じくいのちという大きなお慈悲の世界の住人であることを観る虚空庫菩薩(コクウコボサツ)になり果てれば、いかなる「悩」状態も必ず雲散霧消します。
 虚しい「悩」を脱し、かけがえのない人生の一時一時を大切に生きようではありませんか。




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