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2006
05.31

この世で『三途(サンヅ)の川』を渡りましょう ―1200年―

 21日から昨日まで、のべ75名の善男善女が『守本尊道場』建立予定地において尽力され、おかげさまにて、堀は8割方まで、できあがりました。
 昨日は、友人からこの計画を教えられてインターネットで内容を確認した女性Oさんがかけつけられました。
 数々の病を抱えられながらも気力を発揮して奉仕活動に励むTさんと、首と肩の故障から居合を始められたところ快癒してしまったEさんも参加され、4名での作業となりました。
 女性が堀の上から石を送り、下にいる男性が積むという理想的な形で作業はかなり進みました。
 皆さん、すっかりコツを会得されたようで、できばえもプロ顔負けといったなかなかのものです。
 一切の予定を入れなかった私は、15トン分の石をブルトーザーへ手積みし、夕刻にはきれいさっぱり現場へ運び終えました。

 男女の共同作業はバランスも雰囲気も良いものです。
 男性だけではストイックになって無理をしがちだし、女性だけでの力仕事は気の毒で見ていられません。
 無言のうちにいたわり合いながらことを進めるのは、実行する人も、目にする人も嬉しいものです。
 まして、こうした奉仕活動ですから、真剣ではあっても気持のどこかに暖かく柔らかなものをもって行い、身体にも心にも爽快さをまとってお帰りいただきたいと願っています。
 その点では、21日の作業はどこか決死の行動といった雰囲気があったような気がして、参加された方々へ申し訳なかったという思いがあります。
 疲れが溜まらないうちに休憩をとり、元気でまた行い、無理のかかる前に、その方なりに切り上げてお帰りになっていただくべきところを、現場にほとんどいられなかったばかりに、皆さんへすっかり無理をかけてしまいました。
 この場から、お詫びを申し上げておきます。

 さて、今年は、お大師様が唐から密教のすべてを持ち帰られてちょうど1200年目に当たります。暦が20回廻りました。
 お大師様のまとめれた真言密教には二つの柱があります。
 一つは「即身成仏」であり、一つは「マンダラ」です。

 即身成仏は、「この身に即してみ仏に成る」ことですが、それは、「人間は本来み仏の子であり、身・口・意を正しく統一させることによってみ仏そのものであることに気づく」のが深意です。
 それは、生きながらにして三途の川(迷いの川)を渡ることに他なりません。
 この世でさんざん「やらかしておいて」死んでから無事、川を渡って極楽へ行けるようにと願うのは本来の仏法がめざすところではなく、人を堕落させる考え方です。
 仏法は、何よりもこの世で、さらに言うならばたった今ここで迷いを脱しようとするものです。
 釈尊が身をもって示された「迷いを脱した人間」になる方法が2500年にわたって研究され、今生きている私たちはその成果を受け継いでいます。
 やらずにいられましょうか。

 仏法に導かれてこの堀を渡るのはその方法の一つであり、「即身成仏」の場がもうすぐできあがろうとしています。
 来る6月15日はお大師様ご生誕の日です。
 1200年という区切の年のめでたい日までに完成させることができれば、こんなにありがたいことはありません。
 今日から明日にかけ、法務の合間をぬって残りの20トンを現場に運び込み15日をめざす覚悟でおりますので、時間と体力の許す方は、たとえ10分でもご助力を賜りたいと願っております。

 あらゆるものがみ仏の光明を放つマンダラはどこにあるか―――。
 言うまでもなく、一人一人の心の中にあります。

『守本尊道場』が完成すれば、それをはっきりと目にもでき、仏法の存在を体験していただけます。
 三途の川の完成は、その第一歩なのです。




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2006
05.29

〈生きるリズム〉を取り戻す

 昨日、仕事があまりに厳しくてどうしようかと思い悩み、人生相談へ来られたKさんへ申し上げました。
「無我夢中でやっていても、自分なりの〈生きるリズム〉が確保されているうちは大丈夫ですが、それが狂いそうになったなら手を打たねばなりません。
 ただし、仕事を辞めるといった言わば外科手術のようなものは最終手段です。
 まず、力を充分に発揮できるようにやってみましょう」

 そして、「三力(サンリキ)」についての具体的な提案をしました。
 何度か書いた「1 自分の努力と、2 周囲の縁の力と、3 み仏のご加護」です。

 まじめなKさんは、1 については申し分ありません。
 ただし、「自分で仕事をする」のではなく「させられている」「追われてどうしようもない」といった状況になったならば、そのままで突き進むのは危険です。
 我が身は自分で守るしかありません。
 大切なのは、自分のリズムを守ることです。
 そのためには、何かを毎日続けることです。
「たとえば散歩です」
と話したら、会社から帰宅するのが夜中になってしまうKさんは一瞬「エッ!」という顔をされましたが、すぐにその意味に気づかれ、ううんと考え込まれました。
「たとえ仕事をいくらか切りつめても、たった10分の散歩時間は確保することです。『これをやっている自分』という形で自分を取り戻し、力を回復するのです」
 きちっとやりながら同時に自分への強制にならぬよう、ストレスにストレスを重ねぬよう、そこは微妙な配慮が必要ですが、日記であれ、瞑想であれ、読経であれ、柔軟体操であれ、必ず何かは見つかるはずです。
 しかも、それは未来永劫、自分が生きている限り続けねばならぬというものでもなく、しばらくやったなら、別のものに切り替えても一向にかまいません。

 2 については、穏やかな人柄で信頼を受けるKさんは何の問題もありません。
 強いて挙げれば、誰か目標になる人物を見つけることです。
 そうすると、たとえとうてい評価できない上司の下にいても、自分の置かれている縁の中で感謝を保ちつつ、やり通すことができるでしょう。

 3 は、やはり守本尊様の真言です。
「この仕事を成功させたい」「何とかこの窮状を脱したい」などと願う気持になったならば、まず、無心に真言を唱えたり念じたりすることです。
 それは必ず自分の懺悔になり清めになります。
 そうした後で、具体的な願いをしっかりと念じるのです。

 清らかな心で抱く願いは、必ずや清らかなみ仏の世界へ届くことでしょう。

 こうして三力が確実なものになれば〈生きるリズム〉が確保されて力は充分に発揮され、冷静な状況判断もできるようになります。
 目に力を取り戻したKさんは、元気で東京へ帰りました。
 そのうちに、きっと、吉報が届くことでしょう。




2006
05.28

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 1

 釈尊は、深い瞑想にあって「原因には結果が伴う。結果には必ず原因がある」ことを悟られました。「因果応報」です。
 
 そうしてこの世のありさまを観ると、愛する人が亡くなったり、病気に苦しんだりして、誰もが「ままならないもの」を抱えながら生きています。
 もちろん、財を蓄えたり権力があったりと、威勢の良い人たちもいますが、すべてが移り変わる「無常」の風から逃れようもなく、そうした状況は決して永遠に続き得ません。
 たくさんあるがゆえに財が醜い争いを引き起こすこともあり、権力をかさにきて人々を苦しめたばかりに怨まれて非業の死を遂げたりもします。

「ああ、人生は苦である」と悟られ、生まれるのも、老いるのも、病気になるのも、死ぬのも、愛するものと分かれるのも、憎い人とめぐり会うのも、欲にはキリがないのも、豊富にあるものに迷わされるのも、人間として生まれた以上避けられないものであることを悟られました。
『四苦八苦』です。

 原因のないものはないならば、こうした苦にも必ず原因があるはずです。
 釈尊は根本原因をたどり、それは智慧の灯りがないせいであると喝破されました。
「無明(ムミョウ)」です。
 生きものは、生まれた以上、生き続けるための努力をします。食事を摂るのも、眠るのも、みな、そうです。
 生きたいという無意識の意思があります。
 喉が渇いたならば水を求めないではいられないのと同じ状態であって、それを「渇愛」と説かれました。
「自分が生きる」ということを何ものにも優先させたい意思はさまざまな煩悩としてはたらき、因果応報や、無常などの真理が解らなくなります。無明の状態です。
 こうした〈真理によらない生〉は真実ではありません。そこに苦が生じます。
 この世が苦に満ちた迷いの世界である理由です。

 真理をよりどころとしないがゆえに苦があるのなら、真理をよりどころとして生きれば、苦はなくなるはずです。
 つまり、無明を滅することが苦を克服する方法です。
 釈尊は、それを八つの正しい道『八正道』と説かれました。
 正しい見解・正しい思惟・正しい言葉・正しい行動・正しいなりわい・正しい努力・正しい念い・正しい心のおさまりです。

 こうして、「『四苦八苦』は『八正道』によって克服できる」と明確に説かれてからもう二千五百年も経ちましたが、私たちは、そのことをすっかり忘れているかのようです。
 これから八回にわたり、克服の道筋を述べましょう。




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2006
05.27

五力 4 ―信力 3―

 かつて、五力の第一番目『信力』に、こう書きました。
「自分の矮小さに気づき、遙かに高いものを心から尊ぶのが信仰です。
 それは、自分を省みる謙虚さと、至高の存在を感得する純粋さのもたらす世界です。
 それが宗教です。」
「ご本尊様はどこにおられるかと言えば、五感六根でとらえる世界におられ、一方では私たちの心におられます。
 それを密教では、『有相(ウソウ)』『無相(ムソウ)』と称します。
 尊像を眼にして手に印を結び、口に真言を唱えるのは『有相の行』です。
 心の満月にご本尊様の象徴である梵字を描き、心をご本尊様の徳でいっぱいにするのは『無相の行」』です。」
「信仰はあらゆる障害にうち勝つ力となります。」

「イワシの頭も信心から」と言いますが、「信じれば何でも尊く思える」といった思考停止や、あるいは「人はつまらぬものでも信じずにはいられないものだ」といった頭だけで考える姿勢では、「信」の真実は解りません。

 信じるとは、疑いが無く、魂をポーンと投げ入れてしまい喜びや充実感や安心が深まる状態です。
 それは、決して判断をしないという意味ではありません。
 
 たとえば、ある人格者や達人に出会い、「ああ、すばらしい人だなあ。自分も少しはああなりたいものだ」と感じれば、その人の話に耳をかたむけたり、その人の仕事ぶりに学んだりします。
 強く動かされれば、自分もその人と同じことをしたくなります。
 もしも感銘を受けた相手が大工さんだったなら、自分も見事なカンナかけができるように努力することでしょう。
 努力の結果、だんだんにできるようになって、教えられたことの意味が解るようになります。
 そして、やがては「ああ、こうだったのか!そうか………」と精妙なレベルを会得して、大工さんの達人ぶりに確証を抱くことでしょう。

 この過程が「聞・思・修」と説かれています。

「聞」は、聞くことであり、学ぶことです。
 それが本ものなら必ず対象を仰ぐ姿勢になるはずです。
 相手の人格にうたれた時は、無意識に相手を仰いでいます。
 それを「仰信(ギョウシン)」と称します。

「思」は学んだことをよく考え、自分でやってみて肝心なところをきちんと理解することです。
 それを「解信(ゲシン)」と称します。

「修」は習い修めることです。
 もちろん、仰ぐ人はどこまで行っても自分より高く、どこまで行っても背中に追いつけはしませんが、少なくとも、歩かれた道を自分もたどっているという確信は持てます。
 いつのまにか、出会と相手の高みの真実性を自分で証明しているのです。
 それを「證信(ショウシン)」と称します。

 信じるとはこういうことです。肝心なものが自分の血肉になることです。
 み仏のご用意くださった出会があり、精進があり、確信にたどりつきます。
 その過程を貫くものが信という心棒であり、過程によって信は強まります。
 心を澄ませていれば、きっと聖なる出会が生じ、信じるありがたさに深い感謝の持てる時がくることでしょう。





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2006
05.26

五力 7 ―念力 3 呪いを返す―

「Sちゃん、あなたの魂をもらったからね」
 それは、優しいはずのT先生から聞かされた信じられない言葉でした。
 まだ幼稚園児だったSさんは、すぐに、受け持ちの先生へ報告しました。
 大人たちは皆で元に戻してあげなさいと頼みましたが、霊能者と称しているT先生は、「魂は、もう別な子に付け替えてある」と言い、幼稚園を辞めました。
 20歳までしか生きられないと宣告されたSさんはすっかり意気消沈し、小学校へ入学しても、不安や焦燥にかられて満足に受業を受けられません。
 血気盛んな教頭先生がT先生のところへ乗り込んだ帰り道で事故に遭い、亡くなりました。 奥さんの喪服姿は今でも忘れられません。
 校長先生が岩手県にいる別の霊能者へ相談に行ったところ、
「Sさんは『願』をかけられているからどうにもなりません。何とか生きられるように祈りますが、20歳を過ぎたら苦労が多くなるでしょう」
と言われたそうです。

 事実、そのとおりになってしまったSさんは、〈いのちを付け替えられた〉別な子の親へ抗議に行きました。
 ところが、幼い頃に虚弱児だったその子は幼稚園に入ってから急に元気が良くなり、今では東京で大活躍しているので、いまさらどうしようもないと玄関払いされました。
 驚いたことに、その後、その親御さんも、Tさんも、たまにSさんの様子をのぞきに来ています。
 一人の人生を狂わせたことを詫びるのではなく、確かにSさんがいのちの勢いを失っているかどうかを調べているとは、驚くべきことです。

 Sさんは幼稚園の卒業アルバムを持参されました。
 カトリック幼稚園のT先生は丸顔で自信に満ちた目をしたなかなかの美人ですが、無論、正式に修法を学んだ気配はありません。
(もっとも、正統な行者はこうした悪行をはたらけません)
 恐らくは、何かのおりに神様が降りたと錯覚した程度の人です。
 神と悪魔の狂った想念に取り憑かれたのかも知れません。

 こうした経緯で来山されたSさんの望みは、念力で「呪いとなっている『願』を外して欲しい」、「奪われたいのちを返して欲しい」の二つです。

「あなたの原状は法をかけられた結果ではなく、他人を怖がらせ、自分の言うとおりだと思いこませるのが上手な人の邪念によるものです。
 ハッとさせられた瞬間に、潜在意識へポーンと尖った石を投げ込まれ、それが時と共にだんだん沈み込み、石の角がいつもいろいろないろいろなものにぶつかっては傷つけるといった状態
が作られています。
 きっと同じ時期に、別な子の潜在意識へ丸い飴玉を投げ込んだのでしょう。
 そちらは、おりにふれ嬉しい甘さがはたらき本来の力以上のものが発揮されて運命を活性化させたのです」
お大師様のご加持法は、そうした潜在意識を揺すぶり、悪しきものは浮き上がらせて取り除きます。
 Sさんへ向けた邪念は『呪い返し』の法によってTさんへ返しましょう。

 人は、善きことも悪しきことも、自分の行為の結果を自分で受けることになっています。
 それが釈尊の説かれた因果応報の真理です。
 このままでも、いつかはSさんとその関係者はそれを実感する時を迎えねばなりませんが、あなたが当山を訪れるという仏縁によってそれが早まりました。
 もう大丈夫です」
 こう説明し、ご加持と呪い返しの法を修しました。
 約1時間後、Sさんは別人のような笑顔になり、きびきびとした動作で当山を後にされました。〈取り戻した〉のです。
 空にはゆったりと白雲が流れ、境内では草木の緑が光っています。早くもカエルの声が聞こえ始めました。




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2006
05.24

み仏の声

Category: 日想
 昨日は天気予報が見事にはずれて雨に遭うこともなく、一日中、石とおつきあいしました。

 まるまる二日間、石運びに専念し、21日にご苦労をおかけした方々の汗を少しは解ったような気がしました。ありがたいことです。

 石を持っては「南無遍照金剛」、ブルトーザーを操縦しては光明真言の心で過ごしたところ、滝行の時と同じく、体中の細胞一つ一つが活性化して本来のいのちのはたらきを発揮する体験をしました。

「そんなに一生懸命やって、あちこち痛くなりませんか?」とご心配いただきましたが、何とかなりました。今朝も4時から法務を行なっており、何のこともありません。ありがたいことです。



 さて、男性5名、女性4名の方々とお茶をいただき、ウグイスの声を聞いていて思いました。

 何であれ、およそ、感性というものは〈み仏の声を聞く受信装置〉ではないかということです。

 お大師様は、地・水・火・風・空の「五大」「五輪」と言われていたものに「識」を加えて、「六大」とし、しかもそれは長年に亘って主張されてきたような〈この世の構成要素〉ではなく、〈この世に顕れているみ仏の徳〉であると説かれました。

 そうすると、識つまり心があるのは生きものに限りません。

 風や石にもそれは遍く存在しているはずです。




 今日からボランティアとして加わってくださったプロがタバコをうまそうに喫いながら、できあがった石の壁を見てつぶやきました。

「石は皆違うから、それぞれ役に立つんですよね」

 そう言われて見れば、でこぼこの斜面に突き刺さるように重ねられた石たちは、違っているがゆえにうまくバランスがとれ、味のある石垣になっています。

 石の姿形を目にした瞬間プロは?この石はここに?と直感するらしく、よどみなく作業をされます。それは、石が発している情報を的確にとらえているからに他なりません。

 明らかに交感があるのでしょう。

 きっと同じように、画家にも、音楽家にも、作家にも、哲学者にも同じような深く鋭い交感があるのでしょう。

 

 無心になってウグイスの声に身を任せている時、形に合わせて石を抱え重さと一体になっている時、私たち凡人にもなにがしかの感性がはたらき、いくばくかの交感が起こっています。

 それは〈み仏の徳〉に接する瞬間ではないでしょうか。

 上手になったウグイスのさえずり、ずっしりくる石の重さ、足元に立つタンポポの微笑み、汗をかいた頬に心地良い風、善男善女の屈託のない笑顔と明るい声、どれもこれも〈み仏の声〉以外の何ものでもありません。



 今日は、講演や鮎川でのご祈祷などが待っています。これから修法を終え、現場は3人のプロなどへ安心してお任せし、出発します。

 清めの『三途の川』は、昨日の段階で6割近く完成しました。あと一頑張りです。やり遂げましょう。




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2006
05.23

【現代の偉人伝第十八話】 ―背中で導く人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 5年間も寺院探し、墓地探しをしておられたTさんが、たまたま『法楽の苑』にいた私と出会い、その場で「ここで良いよな?」と奥さんを振り返り即決してくださったことは、2年ほど前に書いた。

 それがどれほど大きな励ましであったかは、時が経つほどに明らかになりつつある。〈認められる〉ことが持つ真の価値を、還暦間近にしてやっと理解できたのである。

 

 そんな恩人Tさんの一周忌となり、法要を行なった。

 一週間前は雨か曇りの予報だったのに当日は快晴に近い青空が広がり、Tさんの気に入ってくださった笹倉山が、雨上がりの鮮やかな緑をまとって見守っていた。

 

 堀の工事が重なり、簡単な法話と感謝のご挨拶を申し上げて会席を途中退席した。

 緑色の紙袋を手にして後を追ってきた娘さんが、読んでくださいと言われる。お子さんが、亡きお祖父ちゃんのことを書いたそうである。



 夜になって封を切り、ううんと唸ってしまった。また、涙がこみ上げて来た。Tさんと苗字を呼ぶよりもKさんと名を呼んだ方がしっくりくるあの太い声と日に焼けた笑顔、そして全身から発している生気がありありと思い出された。

 文字どおり、「この祖父あって、この孫」である。

 過日の講演会で、「大人は子どもたちへ背中を見せましょう」と訴えたが、Kさんは、まぎれもなくそのように生き、死後も家族や知人(私も含まれる)たちの心に生き続けておられる。

 ここに四年生のお孫さんが懸命に書いた文章を掲載し、あらためてKさんへの感謝としたい。

 なお、この作文は、平成十八年、作文宮城の仙台市審査会で入選している。当然であると感じた。



『大好きだったじいちゃん』

 

 じいちゃんは、六月二日に亡くなりました。みんなにそんけいされていました。

 じいちゃんは、いろいろな能力を持っています。ぼくが骨を折った時も、かべの絵が落ちて、

「いやな予感がするな。」

と思ったそうです。ほかにもあります。ぼくが生まれるとき、前の日にお母さんが東京に単身ふにんしているじいちゃんに電話をしました。

「一週間だって。」

と言ったのに、おばあちゃんにすぐ電話をかけて、

「こんばんか、明日だから準備しておくように。」

と言ったそうです。その後、急におなかがいたくなって次の日にぼくが生まれました。

 ぼくは

「テレパシーみたいだな」

と思いました。

 まだあります。東京で電車に乗ってあばれている人がいて、その人をじいちゃんは止めました。お母さん達は、やめてほしいと思ったそうです。しかし、ぼくは包丁を持っている人を止めるなんてすごいなと思いました。けいさつにも名乗りでなかった所も

「すごい」

と思いました。じいちゃんは、家族をとても大切にしていました。まごたち七人と、おばあちゃんとみんなで出かけるのが好きでした。

 特に楽しかったのは、木ノ下大サーカスです。そのとき、ぜん息のぼくの声が出なくなりました。病院へ行ってからみんなと見に行くことができてよかったです。一番すごかったのは、バイクです。大きなあみの中を通りました。大きなブランコもありました。みんなとてもおどろいていました。他にも「まるまつ」とか、おろいろなレストランにも連れて行ってくれました。

 じいちゃんは、頭が良いので自分でトランプの手品を考えました。その手品をぼくだけが教えてもらいました。それは、すごい手品でした。その手品ができるのには時間がかかりました。むずかしすぎて、少し忘れてしまったからくやしいです。

 ぼくは、四年生の春から野球を始めました。じいちゃんは、病室でぼくと野球の話がしたいと言っていたそうです。野球が大好きなじいちゃんと一しょに、楽天の試合を見る約束をしていたのに残念です。じいちゃんのグローブを形見にもらいました。今、家でかざってあります。

「もらったよ」

とお母さんから言われたときにはすごくうれしかったです。ぼくは右ききだから、じいちゃんにもらったグローブは、はめられません。ぼくは、野球をがんばっていて、今レフトを守っています。ぐう然、じいちゃんもレフトを守っていたそうです。それを聞いて、とてもうれしかったです。野球は、じいちゃんのためにもがんばろうと思っています。

 じいちゃんのおはかには、こだわりの石でできたいすとテーブルがあります。去年の夏に、まだ元気だったじいちゃんが自分で建てたおはかとテーブルです。そこはけしきがよくていい所です。

「何かなやみがあった時は、おはかに行ってすわっておにぎりでも食べてじいちゃんに話すんだよ。じいちゃんは必ず守ってあげるからね。」

と言いました。いとこ達と話を聞いたとき、ぼくはこんなに早く、じいちゃんがいなくなるとは思っていなかったので、不思議なことを言うのだなと思っていました。じいちゃんは、すごい力を持っています。だから、じいちゃんは自分で分っていたのかもしれません。

 ぼくはじいちゃんともっと話がしたかったです。じいちゃんが亡くなってから、いろいろなことが分ったような気がしています。

 おかあさんから聞いたけれど、いつも行っていた老人ホームのひいおばあさんとじいちゃんは、小さいときに離れてくらしていて、やっとおじいさんの年齢になってから、自分のお母さんと会えるようになったから、家族をとても大切にしているのかなと思いました。

 ぼくは、本当にじいちゃんともっと話がしたかったです。そして、これからは、たまにはおにぎりを持っておはか参りに行きたいです。




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2006
05.22

この世で『三途(サンヅ)の川』を渡りましょう  ―石積みの会―

 今朝から妻と二人で石積みにとりかかっていたところ、長老のTさんがご夫婦で来られました。
 奥さんは、いただいた大量の食器の処理などプレハブの整理、Tさんは自ら猫車を押して石を運んでくださいます。
 ありがたいことです。
 そこへ、今度は造園業のOさんが来られ、明日、2~3人、現場へプロを投入してくださることになりました。
 かなりのスピードアップが見込まれますので、明後日までにはできあがるかも知れません。

 もしも時間と体力の許す方は、明日であれ明後日であれ、何時でも結構ですので、ご協力をお願いいたします。

 今日の石積みは5時に終わりましたが、結局男性4名、女性5名が集まっての作業でした。ありがたいことです。
 6時過ぎてから、Sさんが、またユンボを持参して泥揚げをしておられます。頭が下がります。

 さて、昨日は、夕刻になって作業を終えた善男善女へ、また『すべてを超える翼』のお話を申し上げました。
 とたんに、長老Kさんから実話が披露されました。
 お近くの沼から白鳥が渡りに飛び立った後しばらくしてから、残っていた一羽を迎えるためにわざわざ編隊が戻って来て、無事連れて行ったと言われます。
 鳥のほとんどは一夫一婦制で、ペンギンなどのようにとてつもない数の夫婦たちが一緒に子育てをしていても、必ず伴侶と子供を見つけるそうですし、鳥夫婦の仲の良さはオシドリだけではないと聞きました。
 鳥を見習いましょう、反省しましょうと大笑いしての解散となりました。

 今日は、寺子屋の理想を申し上げました。
 道場は基本的に位牌をお祀りする供養堂であり、訪れる親御さんにもお子さんにも、「先に逝かれた人々がおられてこそ今の自分がある」ということを感じていただいてからすべてが始まるようにする予定です。
 また、当然、般若心経を大きな声で読誦する「科目」もありますが、難しい理屈を教えたり、信者になれと強制することもありません。
 ただし、たとえ普段は「南無阿弥陀仏」しか唱えていないお子さんでも、ここでは一緒に般若心経を唱えさせます。
 それは、水のように我を張らない心を育てるためです。
 その心があって始めて、真の布施行や供養ができるようになるのです。
 時に応じ、ことに応じて我を張らず、縁の人のためになるのが布施であり、供養とは、み仏とあの世の御霊へ心をささげることだけではなく、この世の人同士が選り好みせずに縁の相手へ敬意を払い、相手のためになることをするのも大事な一面です。

 すべての人々が「相互礼拝、相互供養」をすれば、この世は争いのない極楽になることでしょう。
 そもそも、仏神は争いのない完全な救済の世界を司るはずであり、「あの神様とこの仏様が争う」などということはあり得ません。
 そうしたことを言い合って争うのは、迷う人間のやることです。


 ガンジーの逸話をもう一度書いておきましょう。
 かつて、インドとパキスタンが争い、ヒンズー教徒とイスラム教徒が殺し合いを演じたおり、食を断って争いを鎮めようとした彼のもとへ一人のインド人が訪れました。
 彼は、殺し合いを演じている罪を悔い、ガンジーへ「生きて欲しい」と訴えます。
 ガンジーは諭しました。
「あなたが救われる方法を教えましょう。それは、イスラム教徒に子供を殺されたあなたが、イスラムの孤児を我が子として引き取り、育てることです。それも、イスラム教徒として………」

 大和(ヤマト)の国日本も聖徳太子以来、こうした国柄でした。
 それを破壊したのが明治の『廃仏毀釈』であり、敗戦直後の占領軍による『神道指令』です。
 仏神を言挙げして争う国になったのは、わずかに、ここ百数十年のことに過ぎません。
 私たちは、世界中で宗教のからんだ殺し合いが行なわれている現代にあって、今こそ本来の国柄を取り戻し、出口のない地獄へ一石を投じなければなりません。
 そのためには、宗教で意固地にならず、大らかな心をもった子どもたちを育てる必要があります。
 当山は、それを使命として、断固行なう予定です。

 これを聞いたSさんとEさんが、はからずも異口同音に言われました。
「子供のころから、親の手を合わせる姿を見ていますから、どんな神様や仏様を前にしても、自然に合掌をしています。
 もちろん、仏壇に向かって合掌しない日はありません。
 ありがたいことです」

 明日もやりましょう。合掌




2006
05.22

この世で『三途(サンヅ)の川』を渡りましょう

 一週間前の予報では土・日は雨か曇りでしたが、だんだんと予報が前にずれて早めに降雨となり、晴れた土曜日に水抜きをした堀は、かなり乾いていました。

 そして、これ以上ない絶好の五月晴れとなった21日、小学生から80歳になられる方まで、はるばる山形県から足を運ばれた方も含め30名を越す善男善女が『守本尊道場』建立予定地へ集まり、堀の石積みをされました。


 ほんの数名の方々を除いてはどなたも体験されたことのない重労働です。しかも、ご年配の方々が多く、漬け物石ほどのものもたくさんある総量30トンの石を手渡しで運び、総延長200メートルにもなる面へ崩れないように積む作業は、言葉にならないほどのご苦労でした。

 おそらく昨夜から今日にかけて身体が痛かったり、疲れて起きられなくなっている方もおられるのではないでしょうか。若いTさんですら、「明日は(会社に行って)書類の陰で寝よう」などと言っておられました。本当にご苦労さまでした。

 

 ユンボを駆り、ブルトーザーを操縦して指揮されたプロの鈴木さんと佐藤さんは、ほんの少ししか造れないだろうと予想しておられましたが、午後3時前にはほぼ3割ができあがり、解散となりました。

 あまりの感動と感謝に、言葉ではお礼の申し上げようもありません。ご参加くださった皆々様のご多幸を祈るのみです。



 さて、『守本尊道場』の堀は「三途の川」の象徴です。

「三途」とは、私たちが生まれ持っている清らかなみ仏の心へ汚れとして貼りつき、清らかな光が発しないように覆ってしまう「貪・瞋・痴」という強力な迷いです。いのちを害する「三毒」とも言います。

「欲しい」「惜しい」「もっともっと」と貪る時、「この野郎」「うぬっ」「なにっ」と怒る時、「自分だけが」「知ったことか」「ざまあみろ」と自分勝手な考えになる時、自他のいのちを活かす光は弱まり、目には見えない黒いベールがいのちのはたらきを弱め、運勢を暗い方向へと引っぱります。

 

 こうした三途の川は、死んでから極楽へ向かう途中で渡るものとされており、ほとんどの方々はこの世では関係ないと思っておられるでしょうが、本当は、いつでも渡ることができます。

 たとえば「お彼岸」を考えてみましょう。

 彼岸つまり「彼の岸」とは極楽であり、此岸つまり「此の岸」とは迷いの世です。

 一年中で一番早くあの世の極楽へ行ける春彼岸と秋彼岸には寺院へお詣りをしたり、ご先祖様をご供養したりしますが、それは、ご先祖様の安寧を願うだけでなく、祈る私たちが早く迷いを脱してこの世を極楽にするためでもあるのです。

 そもそも、釈尊は、生きて苦しむ私たちが、この世で苦を脱する方法を説かれました。この世を極楽にすることが、仏法の第一義と言えます。

 この世が極楽になったならば、あの世の何を心配する必要がありましょうか。



 私たちは、本当に発心(決心)すれば、たった今、ここで三途の川を渡り、この世を極楽にすることができるのです。 

 ここ『守本尊道場』は、川の外側に建つ守本尊様のお堂へお詣りをし、川を渡って中央の本堂へ向かうように造られます。

 それは、この世で迷いを断ち、この世で極楽を体験するためです。

 

 前世、そして生まれてから今日までの因縁によって四苦八苦が私たちを苛みます。

 たとえば「自分を裏切った恋人が憎い」「誤解され怨まれている」「死にたくてたまらない」などなど、苦にはきりがありませんが、お大師様にはそれぞれの苦を祓う法があり、お堂にしっかりお詣りして川を渡り、修法を受ければ必ずや救われましょう。

 その川を造るための第一歩が確実に踏み出されました。

 皆さんの流す汗は三毒を流し出し、もう、すでにご自身を清め始めています。



 これから梅雨に向かいます。

 石積み作業は、堀の水をかき出さないとうまく行えないので、梅雨に入り、堀の底の泥が深くなれば当分、作業は難しくなってしまいます。

 どなたでも作業ができるように準備をしてありますので、ご協力をお願いいたします。

 なお、石は、堀の斜面へ平行に貼りつけるようなイメージで積むと、地震などで簡単に崩れてしまいます。地面に平行に、板を重ねるようなイメージで積めばしっかりでき上がります。

 また、石を上から手渡す方と、それを受けて下で積む方とペアになれば作業は大変はかどります。

 どうぞよろしくお願いいたします。



 皆々様のご誠心がみ仏へ届き、福徳がもたらされるよう、心より祈っております。
















2006
05.19

読み下し文の効用 ―難しくない般若心経―

 当山では、経典の読み下し文を積極的にとり入れています。
 皆さんは「やっと、どんなことが書いてあるのか、少しは解りました」「目が醒めたような気持です」「ありがたさが増しました」と、おおむね喜んでおられます。

 たとえば、最も知られている一方で、さっぱり解らないとも言われる般若心経の冒頭はこうなります。

「観自在菩薩(カンジザイボサツ)、深般若波羅蜜多(ジンハンニャハラミタ)を行ずる時、五蘊(ゴウン)皆空なりと照見して、一切の苦厄を度したもう。舎利子(シャリシ)、色(シキ)は空(クウ)に異ならず。空は色に異ならず、色即ち是れ空、空即ち是れ色。受想行色も亦復(マタマタ)是の如し。舎利子、是の諸法は空相にして生ぜず滅せず、垢つかず浄からず、増さず減らず」

(観音菩薩が深い瞑想の中で真実の智慧をはたらかせておられた時、目に見え耳に聞こえる現象世界も、感受作用も、思うという作用も、行為作用も、自分という意識の作用も、すべては空であると明らかに覚られ、一切の苦を離れられた。
 舎利子よ、現象世界は空であり、空は現象世界であり、現象世界はそのままに空であり、空はそのままに現象世界である。同じように、感受作用も、思うという作用も、行為作用も、自分という意識の作用も、すべてはそのままに空である。
 あらゆるものは空という在りようにあって、そこでは何ものも生ぜず滅せず、垢にまみれず浄いということもなく、増しもせず減りもしないのである)

 つい最近、ブログの【仏法上の勘違い1 ―唯一絶対の経典はあるんでしょうか?―】において、釈尊の悟りと真理の関係を氷山と海に譬えました。
 ここで説かれている「色」と「空」の関係もそうしたイメージをもってとらえれば、いくらかは観音様の境地へ近づけるのではないでしょうか。

 つまり、自分そのものを含め、私たちが見たり聞いたりしている世界は氷山のようなものであって、それは海水から成り、溶ければどの氷山も同じ海水になるけれども、固まっているうちは、一つの独立したものとして確かに在るのです。
(自分はいるでしょう?いなければ善行も悪行もあり得ません。
 み仏のいのちをありがたく分けいただいた尊い者として、今、ここで生きています)

 一方、海を離れた氷山はなく、氷山は、必ずいつか海へ還ります。
(自分は、いのちという大きな世界の一部であり、肉体の耐用期間が過ぎて寿命が尽きれば、大きな世界へと溶け込みます)

 み仏の世界である大海は氷山になろうとなるまいと常に悠然と存在し、氷山が尖っていようと溶けかかっていようと、その本質にはいささかの変化もありません。
(こうした大海の様子は、頭で考えても解りません。
 悟るしか本当に知る方法はありません。
 だからこそ、観音様は深い瞑想へ入られたのです)

 観音様は、ありありとこの海を感じとられたのでしょう。
 自分の生まれた故郷、自分という形で自分に生きている故郷、そして、いつの日か帰って行く故郷。
 魂がいつも故郷と離れず、霊性がその表れであることをはっきりと知ってしまえば、何の不安・不満・不信がありましょう。

「一切の苦厄を度したもう」なのです。

 偉い先生方の難しい解説書に頭を悩ませたり、「目を閉じれば何も見えなくなるでしょう?それが空なのです」などという無責任な放談に解ったような気持になったり、「要はこだわるなということです」などという人生論に貶めたりせず、時には漢文を無心に読誦し、時には読み下し文をすなおに読誦しながら、その人なりに観音様の境地を感得していただきたいものです。




2006
05.18

仏法上の勘違い 2 ―釈尊は癒されて長生きする方法を説かれたのでしょうか?―

 冒頭のご質問がありました。
 答は、「そんなことはありません」です。

『法句経』の「吉祥品」において説かれている16の幸せは以下のとおりです。

1 正しい教えを信じ求めること。
2 天や他人からもたらされるタナボタのような僥倖を求めず、神にすがらず自立していること。
3 賢い友を持ち、善なる世界に住み、先んじて福徳となる行為をし、自らを正して真理真実に随うこと。
4 悪徳から離れて善行を行ない、身を摂して酒色に溺れないこと。
5 真理を学び自らを戒め、正しく行じて他と争わないこと。
6 在家ならば親孝行をし、家を守り妻子を養い、無意義な行為をしないこと。
7 高慢にならず、足るを知って報恩の心を持ち、適切な時に経典を読誦すること。
8 何ごとにも忍耐をもって摂し、行者に憧れ、講説にでかかけて学ぶこと。
9 飲食を慎み、清浄であるべく行じ、賢者や聖人に会って教えを請い、導かれること。
10悟りへの道筋を信じ、心を正しくして疑わず、地獄・餓鬼・畜生の心を脱しようと努力すること。
11普く布施を行い、悟りを得た聖者に奉仕し、神や人を敬うこと。
12貪りと怒りと、愚かさを離れようと努め、まことの道を正しく理解しようと努めること。
13なすべきでないことを行なわず、仏道を学んでなすべきことを行なうこと。
14常に人々のためを思い、大いなる慈悲の毅然たる実践によって人々を安楽にさせること。
15仏を信じ、教えを聞き、行者に供養し、自らを戒めて清浄なること。
16世間に住みながら吉祥をもたらす生き方に徹し、仏の智慧を獲得すること。


 しかも、こう説いておられます。

「たとえ一生涯人に仕え神々に捧げものをして祀り続けたとしても、たった一つ、真の慈悲行を実践する功徳には及ばない」

「月に千返神々に祈る生活を一生続けようとも、たとえひとときではあれ、仏法を念じ仏法僧を供養する功徳には及ばない」

「もし百歳まで生きたとしても、戒めを守る清らかな生き方でなければ、たとえ一日であっても、戒めを守り心を正しくして安寧に過ごす功徳には及ばない」

「真理を学ばねば、ただ長生きしたからといって牛が育つようなものである。福徳智慧はどこにもない」

「長老とは、いたずらに歳を重ねた人ではない。姿形が長じただけでは、愚かさを離れることはできない」

 長老とは、真理を把握し、自らを節して心穏やかであり、思いやりにあふれ、道理に明るく、清浄になった人である」


『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ)』も、子供の親孝行を通じて、いかに老いるべきかを明確にしています。

「父母のために何不自由ない暮しをさせたとしても、仏法僧を信じさせなければ親不孝と言わねばならない。
 なぜなら、いかに社会的貢献をなし、優れた学識を身につけた者であっても、ひとたび煩悩が荒れ狂うならば、たちまちにして人生を崩壊させてしまうからである。
 そうさせないためには、親孝行として何が大切かをはっきりと知らねばならない

 つまり、大切なのは生きる時間の長さではなくいかに生きるかということであり、それは、煩悩に目がふさがれていれば見えない聖なる世界、〈真実世界の住人になること〉なのです。




2006
05.17

仏法上の勘違い 1 ―唯一絶対の経典はあるんでしょうか?―

 唯一絶対の経典はありません。
 釈尊は、不変の真理についてご自身が把握された範囲のものを、弟子であれ娑婆の人であれ相手に応じて解りやすく説き、法の力で具体的に救済する旅を貫かれました。
 真理は釈尊の出現以前も入滅後も厳然として動かず、それを仏陀と呼ばれる〈覚った聖者たち〉が説く仏法は、決して釈尊のお創りなられたものではありません。

 しかも、こう明言しておられます。
「弟子たちに説いた教えは、自分が知りながら説かなかったことに比べると僅かである」
 真理が海のようなものだとすると、釈尊は巨大な氷山をつかみ、氷山になり切ることによって海という大生命の真理を把握されたのでしょう。
 そして、悟りを開いてから入滅するまでほぼ45年の生涯においてその金口からあふれた言葉は、海面へわずかに顔をのぞかせている氷山の一角のようなものなのでしょう。

 氷山は、二千数百年前に融け去ってしまい、もう、目にすることはできません。
 その様子は目にした人たちから口づてに伝えられ、数百年後にやっと「我、之の如く聞く」つまり「如之我聞(ジョシガブン)」で始まる経典としてまとめられました。
 以後、二千年以上の長きにわたって、氷山の追体験を希(コイネガ)う聖人行者たちが研鑽を重ね、感得の歴史とも言うべき膨大な経典や修行方法などを遺されました。
 幸いにも、私たちは、縁によって接する仏法に導かれて時には氷山の一分を感じ、あるいは海そのものを感じて己を清め真実世界に生きることができます。
 すべて、釈尊やお大師様を初めとする方々が珠玉の宝ものを遺してくださったおかげです。
 何とありがたいことでしょうか。

 そうした私たちが、勝手に「これが一番」とか「これ以外には要らない」などと言ったなら、恩知らずになりはしないでしょうか。
 まして、そんなレベルで争ってはなりません。
 角突き合わせるこの世の苦を脱する道こそが真の仏法だからです。




2006
05.16

子どもたちのまごころと知性を育てましょう

 子供の何を育てるべきかといえば、第一にまごころ、第二に知性です。
 まごころがちゃんと育った子供は、知性を正しく使い、正しい道を歩みます。
 知性がちゃんと育った子供は、まごころのはたらかせ方を知り、豊かな精神性をもった生き方ができます。


 この二つの健全育成を邪魔するのが我欲です。
 むき出しの我欲は、思いやりを忘れさせます。
 むき出しの我欲は、悪知恵を生みます。


 我を先にし、他を後にしようとする我欲は、自他の区別がつくころには、もう動き始めます。

 相手のためを思って我慢することを教えなければ、気ままという雑草は限りなくはびこり、まごころは伸びられません。

 自他が楽しい状態と自他がぶつかる状態との違いを理解させなければ、正邪・善悪の区別が身につきません。



 育てる親に求められるのは、ただ我が子が可愛いという愛情だけではありません。

 自分自身が、自分の我欲をきちんと相手にすることです。自分にある正邪・善悪の規範をちゃんと確認することです。

 知性は急に磨けるものではありませんから、あとは信念をもって子供にぶつかるのみです。



 子供が同輩と競争をし、切磋琢磨して自分を高め、自分の位置を知ることは大切です。

 しかし、金儲けを競い、友人を出し抜いて自分だけ余計に得て喜ぶようなまねをさせてはなりません。そうしてかき立てられた我欲は、まごころを破壊し、知性の純粋さを損ねます。

 大人になり、〈得て生きる〉ことの意義が理解できるようになるまでの間は、ご褒美ならいざ知らず、儲けさせてはなりません。

 意義を知らなければ正しい使い方も知らないのは当然だからです。

 我欲を満足させるために儲けるだけの人間になれば、まごころも知性も飛んでしまいます。人格も品性も磨かれようがありません。

 それは、世に言う「ハゲタカファンド」のリーダーたちの表情を観れば一目瞭然です。学歴に表われている知能の高さと、まごころの深さ・知性の透明さは何の関係もないのです。

 鼻息粗く行なわれる「横取り」が天下の大道を闊歩する仕組みを作った政治家たちの罪がいかに大きいかは、これから先、10年も経たないうちに明らかになることでしょう。



 以前、有名校の記念式典で福祉についての講演があった際、会場からの質問が募られました。

 いの一番に手を挙げた生徒は、壇上の講師へ向かい、悪びれる様子もなく元気に問いました。

「ウチにもおじいちゃんがいるし、これから福祉がどんどん必要になることは実感できます。こういう時代に、どうしたら福祉関係の仕事で儲けられるかを教えてください」

 これには、能弁で鳴らす講師もさすがに一瞬たじろぎました。

 しかし、会場からは特段のブーイングが起こることもなく、むしろ、生徒たちは固唾を呑んで専門家の回答を待っているかのようでした。

 おそらくはこれからも各界のリーダーたちを輩出するであろう有名進学校が、すでにこうしたありさまでした。

 あの時の目の前が暗くなって行くような気持は忘れられません。



 教育の場すらも利益を上げることが至上命令である商売となって弱肉強食の世界へたたき込まれ、職員室では生徒がお客さんと呼ばれるようになってしまった以上、今こそ、世の親たちは、〈自分が自分の信念と責任で自分の子供を育てる〉という原点にたち帰らねばなりません。

 学校は〈学校が儲かること〉をするのだと、肝に銘じる必要があります。



 私たち大人は、子どもたちがまごころと知性を育てられるよう、それぞれの場において心と力を尽しましょう。

 そうして、これからますます悪戦苦闘するであろう親御さんたちを支えたいものです。




2006
05.15

守本尊様の真言

 美里町にお住まいの79歳になるKさんから電話がありました。
「ぜひ、相談にのっていただきたいんですが………。教えていただきたいことがあります」
 わざわざご夫婦で来山された理由は、毎月送付される御守を肌守にしているけれども真言がなかなか覚えられず、一計を案じたとのこと。
 真言の書いてある御守そのものを見なくても唱えられるように真言の一覧を図に書きたいので、その様式を教えて欲しいと言われます。
 そして、確かにありがたくて信じ唱えている一方で、真言そのものの意味を知りたいようにも思いますとの率直なご意見をいただきました。

 姿勢を正して合掌などの印を結び、口には真言や経文を唱え、心では観想するという身・口・意を一つにする正式な行法にあっては、行の途中で勝手に真言の邦訳を考えたりすることは禁じられています。
 言葉と心がバラバラになるからです。
 しかし、常日頃、真言の意味内容を研究してご本尊様のイメージをつくっておくことは大切なので、坂内龍雄氏の著書を基に、簡単に書いておきます。

〈千手観音〉
「おん ばざらたらま きりく」
(金剛法に帰命したてまつる。フリーヒ)

 金剛は不壊と魔切の象徴です。衆生をれなく必ずお救いくださる千手観音様の誓いと力におすがりする言葉です。

〈虚空蔵菩薩〉
「のうぼう あきゃしゃきゃらばや おん ありきゃまりぼりそわか」
(虚空蔵尊に帰命したてまつる。おお、怨敵を打ち滅ぼす尊よ、祥福あれ)

 虚空蔵様は、悪しきものを断ち切る剣と宝ものを出す宝珠とをお持ちです。

〈文殊菩薩〉
「おん あらはしゃのう」
(帰命したてまつる。ア・ラ・パ・チャ・ナ)

 アは菩提を求めること、ラは衆生を捨てないこと、パは第一義とすること、チャは諸法を修すること、ナは空(クウ)であることです。

〈普賢菩薩〉「おん さんまや さとばん」
(帰命したてまつる。汝は三昧耶(サンマヤ)なり)
(オーン、汝は我と同体なり)
(オーン、有情と大日と入我我入あれかし)

 普賢菩薩様は、その深いお悟りで、私たちと大日如来様を一体化させてくださるのでこうした意味になります。

〈勢至菩薩〉「おん さんざんざんさく そわか」
(帰命したてまつる。サン・ジャン・ジャン・サハ・めでたし)

 サンは穢れを離れること、ジャン・ジャンは執着を離れて空(クウ)になること、サハはその境地にあって不動なことです。

〈大日如来〉
「のうまく さんまんだ ぼだなん あびらうんけん」
(あまねき諸仏に礼拝したてまつる。ア・ヴィ・ラ・フーン・カン)

 ア・ヴィ・ラ・フーン・カンは、五輪の塔に書かれている五つの梵字ア・バ・ラ・カ・キャ(地・水・火・風・空)に通じています。

〈不動明王〉
「のうまく さんまんだ ばざらだん かん」
(あまねき金剛尊に礼拝したてまつる。ハーン)

 いかなる悪しきものをもうち滅ぼすお不動様は、動かぬ空(クウ)の境地におられます。

〈阿弥陀如来〉
「おん あみりたていせい からうん」
(甘露威光尊に帰命したてまつる。威光を世界へ及ぼしたまえ。円満せしめたまえ)

 阿弥陀様は、無限の寿命と無限の慈光をもってお救いくださいます。

 いかがでしょうか。
 あまり文字の内容を詮索するよりも、所定の観想をしっかりと持って唱える方が、み仏の世界へすんなりと導かれるのではないでしょうか。




2006
05.14

堀へ玉石を積みますので、ご協力をお願いします

 今日も、善男善女が当山へ足を運ばれました。

『法楽農園』では、母娘が両親を連れて来て作業をしておられます。かつて農業をしていた老夫婦が、お嫁さんとお孫さんへ作物づくりの手ほどきをしています。

『守本尊霊場』では、早朝からSさんがポンプを持参して堀の水を抜いています。堀の両壁へ玉石を積むには、一旦乾かして底の泥を揚げねばなりません。

 大きな鯉や鮒を移すための池も造りました。Tさん、Sさん、S君も駆けつけてくれました。魚たちを掬って移動するのは大変です。

『法楽の苑』では、Sさんがお子さんたちを連れて草むしり。檀家さんでもないのに、霊園で熱心に奉仕活動をしておられます。

 作業の合間には、そろって楽しいお茶をいただきました。ありがたいことです。



 さて、将来の本堂を取り囲む直径30メートルの堀に玉石を積んで、清らかな流れを造らねばなりません。

 来る21日(日曜日)、朝から揃って手作業でやることにしましたので、もし、都合のつく方は、たとえ1時間でも結構ですから、是非ご参加いただきたく、ご案内とお願いをいたします。

 装備は、長靴と軍手さえあれば結構です。昼食はもちろんご用意します。

 もしも交通手段のない方は、お迎えの車が出ますので、ご遠慮なくご連絡ください。

 ご参加される場合は、当山まで、電話なりメールなりでお申し出ください。

 どうぞよろしくお願いいたします。合掌















両側が玉石で護られます





まだ2年目とはいえ、咲き始めた桜もあります






2006
05.14

『Power of Life ~心の翼を広げて~』 ―『すべてを超える翼』の旅立ち―

Category: 日想
 昨十三日、ついに、渡辺祥子さんの『すべてを超える翼』を主としたコンサート『Power of Life ~心の翼を広げて~』が大盛況裡に終わりました。宮城県民会館大ホールの千五百席が入場者を収容しきれないほどの活況となり、目頭が熱くなりました。

 

 第一部として行なわれた大野勝彦氏と一緒の舞台は、両手を失う悲劇を克服して詩や絵画の作家となり、ついに美術館まで造ってしまった氏の姿が、人間には無限の可能性があることを信じさせて余すところのないものでした。

 そして、第二部、渡辺祥子さんは渡り鳥ゴーマーの物語を朗読し、その力量を充分に発揮しました。



 これまでたびたび紹介したとおり、ルイス・Aタータグリア著『すべてを超える翼』を発見した渡辺祥子さんは、朗読アーティストとしてこの本を日本中へ紹介したいと思い立ちましたが、すでに絶版になっており、著作権や版権など難しい問題が山積していたために、大きな壁にぶつかりました。

 しかし、彼女は渡米して作家と意思を通じ合うなどの努力を重ね、今回のコンサートへとこぎつけました。



 逆V字となって渡りをするガンの右側の列は強い鳥たち、左側は弱い鳥たちで構成され、同じ場所で過ごしてたすべての鳥が加わって初めて大きな翼が作られます。不思議なことに、強い鳥たちだけでは飛べないのです。

 そして、群を率いる強い鳥たちの列の一羽が先頭に立ち、疲れたならば最後尾へ移って直後にいる者が先頭を務め、交代を繰り返しながら数千?もの渡りを完遂します。



 強い者も弱い者も、老若男女のすべてが一致協力して大いなる翼となり、心を一つにして渡りという試練に立ち向かう時、一羽一羽それぞれが常ならぬ力を発揮し、それが集まった群は信じられないほどの強さを持って安寧の地を目ざします。

 個人個人が限りなくバラバラになり、限りなく信じられなくなりつつある現代にあって、この物語は、人間を信じようとする希望を振るい立たせる力を持った救済の物語です。

 かつて、彼女から困難な状況を聞かされた時、「これは人々を救う経典です。貴女は伝道師になったつもりでやるべきです」と申し上げました。

 今回のコンサートについても、「これはスタートです。必ず成功します。全国をめざしましょう」と申し上げました。



 密教行者にとって、『すべてを超える翼』はマンダラの思想を表現した経典です。

 すべての存在に真の意味でその存在価値を認め、自分の都合によって他を排斥することのない姿勢こそが、マンダラの真実を生きる理想の生き方です。

 お大師様は説かれました。

「ある人にとっては路傍の石であっても、ある人にとっては宝の鉱石である」

 密教行者にとっては、すべてが経典です。これが経典であるといった固定した考え方はありません。

 だから、般若心経であれ、法華経であれ、マンダラの思想を感得する機縁となるものはすべて密教経典となります。

 尊ぶ対象は、もちろん、仏教経典に限りません。世界がマンダラである以上、この世のものも、あの世のものも、ありとあらゆるものがそれを表現しているのです。

「草木も国土も皆、悉く成仏している」とはこのことです。



 弱肉強食という野蛮な思想、誤った個人主義という孤立と隔離の思想、そして誤った自由主義という欲望礼賛の思想を克服するには、

「共に認め合い、信じ合い、尊び合おう」

とするお大師様の説かれたマンダラの思想が、強い力になるものと信じています。


 

 さて、昨夜は、コンサートの内容もさることながら、もう一つ、心を打たれるできごとがありました。

 会場で五百部の『法楽』を配布させていただくことになっていましたが、会場の関係上、誰も通らない壁際に冊子を並べることになりました。

 開場となり観衆がどんどん入場しますが、こちらはまったく「蚊帳の外」です。妻は持って帰ることになるんじゃないのと情けない顔をしています。

 しかし、早々と会場へ到着し、パンフレット類の袋詰めなどを手伝いながら準備する人々の様子を見ていた私は、ちゃんと配れるチャンスが来ると思い、じっと待っていました。

 やがて、『法楽』を作ってくださったTさん夫婦、Iさん夫婦、Sさん、隠形流居合の三人娘などが続々と到着し、「住職、あそこ(入場者の列)へ行って配ってはだめなんですか?」と言い出しました。Wさんは「住職と渡辺祥子さんとの関係を訊かれたらどう答えれば良いんですか?」と用意周到です。

 頃合いを測り、「さりげなくやりましょう」と声をかけました。

 瞬時にして、ことは動きだしました。『法楽』を抱えた皆さんは、最年長のTさんを先頭にして物怖じせすることなく人の群へと向かいました。

 

 三十分ほどして、生花の陰に立って入り口から流れ込む観衆を注視し、「トラブルのないように、善男善女の菩提心が開くように」と祈っていた私に、配り終えましたというTさんの報告が届きました。

 人の群から戻ってくる皆さんの目は輝いており、ついにここまで来たかという思いが静かに胸へ広がりました。

 信じ、実践する壇信徒さん方の信念はここまで強くなったのです。

 無から出発した法楽寺ですが、み仏である「仏宝」、教えと行なわれる法である「法宝」、僧侶という行者と壇信徒という支える人々の「僧宝」が、いまや大きな力を発揮し始めました。「この世の幸せとあの世の安心」をもたらす場として確固たるものとなりつつあります。



 これからも、皆さんと共に『すべてを超える翼』の心で進もうと決意を新たにしています。




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2006
05.13

五力 3  ―精進力 1―

 今回は五力の2番目、「精進力」です。

 よく「お精進なことですねえ」などと言いますが、それは「努力」とどう違うのでしょうか。
 
 一生懸命やれば何でも努力です。
 それは、たとえばアリが体長の何倍ものものを運ぶことと同じで、「誰が」「何のために」やっても同じです。
 しかし、精進は、努力のうち、「清らかな心で」「正しい目的のために」やるものに限られます。
 たとえば、人を殺そうと思って包丁を立派に研いだところで、精進にはなりません。

 お大師様は、はっきり示されました。

「精進は、自分のための行としては煩悩を断つことが目的であり、他のための行としては、永久に生きとし生けるものの苦を取り除き悟りへ至らしめることが目的である」

 煩悩を断つとは、意欲をなくすことではありません。
 そもそも、意欲がなければ精進をつらぬくことなどあり得ません。
 それは〈清らかな意欲を発揮する〉、あるいは〈意欲を浄める〉ことです。

 パキスタンとアフガニスタンで、年間20万人ものハンセン病患者を無償で治療している中村哲という医師がおられます。
 脳外科医として活躍する一方で蝶の収集が趣味だった彼は、32歳の時、珍しい蝶を求めて両国の国境付近にあるティリチ・ミール山へ登るキャラバンへ参加しました。
 ところが、医師が来たことを知った人々から我先にと治療を求められ、できるかぎりのことはしたものの、後ろ髪を引かれる思いで帰国しました。
 彼は、医師を志したきっかけを思い出しました。無医村ではたらくのが夢だったのです。
 4年後の1982年、ついにパキスタンのペルシャワールへ旅立った彼は、もっとも深刻だったハンセン病の治療に従事し、あまりの惨状に愕然とします。
 2400人の患者に対してベッドは15床、診療員は3名だけでした。
 軽症の患者までをも診療員として指導しながら祖国日本へ援助を願い、設立された支援団体『ペシャワール会』や国立ハンセン病診療所『邑久光明園(オクコウミョウエン)』などの協力を得た彼は、2つの病院と5つの診療所を運営し、130名ものスタッフを育て上げるに至りました。

 お線香が精進の象徴とされることを納得させる姿です。
 お線香が、一旦火をつけられたならば、燃え尽きるまで自らを燃やし続けて周囲へ佳い香りを広げ、それは火が消えた後も残るのと同じく、彼の清らかな意欲にもとづく善行は、人々の救いとなり、やがては後に続く人々がそのバトンを受け継いで行くことでしょう。
 一心不乱の善行の前にはいかなる煩悩もはたらくことができません。それは克服されています。
 なぜなら、一人にとっていのちの炎は一つであり、それが清らかに燃えている時、黒煙を上げる炎はどこにもないからです。

 彼は自らの煩悩を断ち、人々から苦を取り除き、皆が人間として心安らかに生きられる日々をもたらしています。
 まさしく精進の人=菩薩です。




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2006
05.12

今月も『法楽』を作りました

Category: 日想
 行楽には絶好の日和となった日、信徒さん方が700冊の『法楽』を作るために午前8時30分から三々五々集まって来られました。

 昼食は、変わりご飯にみそ汁とお新香を用意されました。手早く、炊飯器のスウィッチを入れられたようです。

 

 準備もそこそこにお葬式へでかけました。母子家庭の母親が急逝されたのです。

 昨日、お通夜の修法が終わり戒名のご説明をして退堂する時に、皆さんが立ち上がり「ありがとうございました」と合掌で見送ってくださったのには感激しましたが、今日も清浄な空気の中で修法を終えました。

 生活保護を受けておられ、いろいろと制約があったとはいえ、きっちりと百カ日までの法要も行い帰山しました。

 作成会場へ報告に行ったら変わりご飯セットのお裾分けをいただき、遅い昼食を摂りました。

 

 当然のことながら、お布施の多寡によって修法を変えることはまったくありません。

 戒名も同じです。

 必ず、「院号」で魂の色合いを表し、「道号」でこの世で生きた徳を表し、最後の「法名」で来世の宝ものを表します。三つの熟語によって「○○院、○○、○○居士」もしくは「○○院、○○、○○大姉」となります。

 社会的貢献度が特に大きい方の場合、そのはたらきをより具体的に表現して欲しいということで文字数が増えることはありますが、それでも、一文字いくらという風に売り買いすることは決してありません。

 これまで何度も書いたとおり、戒名は僧侶が勝手につけるものではなく、所定の修法を行うことによってご本尊様から授かるものです。だから、一度もお会いしたことのない方の戒名が、不思議とそのお人柄にしっくりとくるものになります。

 よく「不思議ですねえ」と言われますが、何しろみ仏のおはからいです。凡夫の思議を超えているからといって何の不思議がありましょうか。



 さて、これまでで最も多い冊数に挑戦してくださる皆さんは、一体何時までかかればできるだろうかと思っておられましたが、意外に早く終わり、午後の陽がまだ高いうちに無事終了となりました。

 こうしたお茶のひとときには、何ものにも代えがたい安心感や信頼感や充実感などがあり、ありがたくてなりません。

 

 解散した皆さんは、『法楽の苑』へ向かい、咲き始めた桜の樹を観て回られました。

 種類により、植えた場所により、育ち方も咲き方もそれぞれです。子供と同じに、早く伸びて早く咲くものもあれば、ゆっくりしているものもあります。いずれ、来年は、お花見ができることでしょう。もちろん、本堂のある境内地を護る桜たちも、順調に育っています。

 ありがたい、ありがたいと一日が終わります。

 そうそう、今夜は居合の道場。稽古が待っています。



〈できあがり!〉





〈親戚以上?〉






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2006
05.11

幸せを何倍にもする方法11 ―憍(キョウ)を払いましょう―

 憍(キョウ)は「おごり」であり、「自らの盛事に酔傲(スイゴウ)」することです。
 地位や学歴が高い、財産や名誉がある、若さや健康がある、学識や経験がある、人気がある、有名である、などなど、自分が他人より優れていると思われるものを探してはそれに「酔い」、「傲慢」になります。誇るのです。
 誇示せねばいられない心のはたらきが「憍」です。

 托鉢で一軒一軒お訪ねして歩き、こうした質問を何度受けたことでしょうか。
「私は、~山で毎年修行をしています。~十年、一度も欠かしたことはありません。おたくは何年修行しましたか?」
「私は、総本山~で~をいただいています。おたくはどのあたりの位がありますか?」
「私は~寺の檀家です。総代を、もう~十年もやっています。ウチは~千軒の檀家があって、この間も~億円集めて~を造りました。ところで、おたくの檀家さんはいくらありますか?」

 質問者の前に立っているのは、寒風の中をどこからか歩いてきた見知らぬ修行僧。
 赤茶けた網代笠(アジロガサ…竹で編んだ笠)、日に灼けた墨染衣、履き古した脚絆(キャハン…足を巻いて保護する布)に白足袋、一見、哀れっぽい風体です。
 常々誇るチャンスを窺っていた第七番目の無意識は、待ってましたとばかり、ただちに反応しました。
 そして、見下しました。
 彼にとって、山登りも、高い地位も、檀那寺への奉仕活動も、憍をつくる業(ゴウ)の積み重ねでしかなかったのです。
 業によってはたらいた憍という強烈な煩悩は、釈尊もお大師様も続けられた真の修行が目の前で行なわれているにもかかわらず、その実体を覆い隠してしまいました。
 だから、煩悩の別称は「覆い隠すもの」です。

 昨日、枕経にでかけた折り、戸外で到着を待っておられた葬祭業のBさんに訊かれ、お答えしました。
「こちら様は、息子さんが亡くなられてお父さんが喪主を務められます。
 逆縁の場合、お母さんは葬式へ出られないという風習があるのでどうしたら良いかとご相談を受けましたが、どのようにご返事をすれば良いでしょうか?」

「そうしたタブーなどの慣習と、ものごとの道理、あるいはみ仏の教えとの間にギャップがあるのは仕方がありません。
 人は怖れから逃れるために、あるいは何かを欲しいが故に、勝手な因果関係をつくってそこに安住しようとするものです。

 しかし、それが根本的に人の道に反するならば、勇気を持って脱却すべきです。
 判断基準は、もちろん道理と教えです。

 この場合、最愛の息子を亡くした母親が葬儀に出られないならば、「見届けられなかった」「別れを確認できなかった」「送ってやれなかった」という悲しさや寂しさや悔しさはいかばかりでしょうか?
 そうした思いすらも脇へ置かねばならぬほど正しく強い理由がありましょうか?
 亡き息子さんの気持になってみても同じでしょう。
 無論、み仏の教えにこうしたタブーはなく、同じように、妊婦はダメとか、六歳未満の子供はダメなどというものもありません。
 誰であれ、人の死なる厳粛なものに際したならば、できる限り弔いと供養のまことを尽すのが人の道であることを、ご遺族へはっきりとおっしゃってください。
 これは、送られる御霊のためであるのはもちろん、送る人々も迷妄を脱し、人生の真実を直視する大切なチャンスです。
 
 ただし、言い回しは慎重にしてください。
 もしも、ご一族のタブー意識が非常に強い場合は、『住職からこういう回答を得ましたが、どうするかの最終判断は皆さんが行なってください。
 故人も皆さんも一番安心できると思われる方法を選んでください』と言わねばなりません。
 なぜなら、タブーは、深いところで道理に反するようなものであっても、心の傷を治す瘡蓋(カサブタ)である場合が多いからです。
 もしも無理に引きはがした場合、あまりに痛かったり出血したりすると、怨みや怖れや不安を招いてしまい、万が一何かいやなことや不幸なことが引き続いて起こった場合、そのせいにしてしまう危険性があります。
 そうすると、道理に目覚めるどころか、『やっぱり』とばかり、道理に反するものを強く信じてしまうかも知れません」

 このように、正しく導かれて真の安心を得るのはとても難しいことです。
 時には、一時的にちょっとした瘡蓋を利用する回り道も必要なのです。
 
 しかし、ここまで紹介してきた十の煩悩は、私たち誰でもが持っている〈まごころ〉という尊い光を覆ってしまう恐ろしいものです。
 何としても取り除かねばなりません。

 それが周囲の人々へ不幸を与えたり、悪しき共業となったりする場合はなおさらです。
 だからこそお大師様は、強突張りの悪党だった衛門三郎へ子供を失うという大きな試練を与えて生まれ変わらせ、今日行なわれている四国遍路を確立されました。

 もしも十の煩悩を克服できたならば、「あなたの幸せは私の幸せ、私の幸せはあなたの幸せ」という心になり、この世の幸せは何倍にもなることでしょう。




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2006
05.08

爽やかにやりましょう

Category: 日想
 ほぼ好天に恵まれた連休は、多くの人々にとって嬉しくも楽しい期間だったようです。

 4月と5月の守本尊様は普賢菩薩ですが、その十の誓願は「普皆回廻」すなわち、「すべての功徳をあまねく人々へ振り向ける」で締めくくられています。

 確かに、あちらにもこちらにも、ご利益に浴する光景が見られました。



 当山は人生相談やご祈祷や法要やお葬式などでいつもより忙しく、あっという間に過ぎてしまいました。

 そんな中で、2日も3日もかけて、佐藤さんは持ち込みのブルトーザー、鈴木さんはパワーショベルを駆使して境内整備をされました。決して「暇だから」来られたのではありません。それぞれご家庭があり、それなりの事情があるにもかかわらず、この好天を利用してやってしまいましょうと駆けつけられました。頭が下がります。

 僧侶が皆さんのために汗を流している時、一方でご縁の方々が汗を流し、法務の場を造ってくださるるとは何とありがたいことでしょうか。

 特大の鯉のぼりは千葉さんのご寄進です。寺子屋ができたならば、子どもたちと一緒に泳がせたいものです。



 さて、江戸時代の薩摩藩では、武士の子どもたちのために「郷中(ゴジュウ)教育」が行なわれていました。

 6才から14才が対象です。

 早朝の勉強、朝食、また勉強、そして運動です。格闘技では体力と共に弱音を吐かぬ意志力が養われましたが、勝敗にかかわらず戦った相手を賞賛する態度こそが最も大切とされました。もちろん、一撃で相手を倒す示現流などの武術も、厳しい稽古が課されました。

 子どもたちは、一旦ことに当たったならば勇敢にかつ堂々と立ち向かい、破れた者や弱者へはいたわりを忘れぬ清々しい生き方を学んだのです。

 当然、卑怯や臆病は最も恥ずべきとされました。



 風も空も緑も爽やかです。時候の徳にふさわしいそうした心を培いたいものです。



千人力





すべて克服されます





強く、あたたかく







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2006
05.07

5月の守本尊様

 今月(5月6日より6月5日まで)の守本尊様は普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩による苦を解決し、心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。

 煩悩は、〈自分を迷わせ、他から邪魔される〉魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。

 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。








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2006
05.06

成仏には二つの条件があります

 お葬式のあとで、いつものように「五種供養」についてお話しました。
 
 葬儀後の出棺なので所要時間が3分しかなく、短時間でまとめねばなりません。
 慌てず、むしろいつもよりゆったりと一つづつ要点のみをお伝えしたところ、「これが『成仏』であります」が締めくくりとなりました。
「なりました」というのは、ほとんど無意識にそうなったからです。
 自分の口から出た言葉なのに、一瞬ハッとしました。心底、驚いたのです。
 そして無性にありがたくなり、み仏と故人へ深く礼をして会場をあとにしました。
 
 葬儀後の法話でほとんどと言って良いほど申し上げるのは、
「供養はみ仏と御霊のために行なうものだけれども、それは同時に供養する人の修行でもあり、その機会をお与えいただいたことに感謝してしっかりと修行し、まっとうに人の道を歩まねばならない。その姿を見ていただく以上の供養はない」
というものです。

 一方、
「よく亡き主人が夢に出るんですが、まだ成仏していないのでしょうか?」
といった質問も、たくさんいただきます。

 引導法と供養法を修法している者としては、所定の法をぬかりなく結んでいるのだから一分の不安もありません。
 引導を渡す瞬間は全生命力をかけてこの世とあの世の区切をつけており、その法についての疑いはまったくないのです。
 しかし、それは導師の立場であって、関係者の方々にとっては、
「私のこんな供養の仕方で大丈夫だろうか?」「まだ迷っているんじゃないだろうか?」
などの不安があるのはもっともです。

 そうしたお気持ちにお応えするためには、
「正しい供養によって必ず成仏していただけますよ」
とはっきり申し上げる必要があったのです。
 今回、そのことに気づき、驚き、ありがたかったのです。

 成仏するとは「仏に成る」つまり「絶対の安寧を得た存在になる」ということです。
 さて、自分が亡くなった時のことを考えてみましょう。
 生前に仏道を目ざしていたかどうかは別にして、法力をもって現世から切り離され、真理に導かれて「見守る者」となったならば、もはや、我がことについての不安はありません。
 前世の業とみ仏のご加護のバランスに任せる以外ないからです。
 もしもたった一つ気になることがあるとすれば、それは遺された人々の生きざまではないでしょうか。
 
 我が子、我が孫、我が伴侶の幸せを願わぬ御霊はないはずです。
 たとえこの世でどうであったとしても、み仏の世界に入った以上、親子の確執も夫婦げんかも過去のことです。
 清浄な心でただただ幸せを願うのではないでしょうか。
 その場合、もしも遺族がお線香を捧げては精進を誓い、お花を手向けては忍辱を誓い、灯明を灯しては智慧を誓うなら、どんなに嬉しいことでしょう。
 もしも、そうした供養を行なわず、形だけお線香を点けても心はだらけたままだったならば、安心できるはずはありません。
 導師の修法は、御霊の成仏にとってきっと必要条件なのです。
 そして、十分条件こそが、ご遺族の正しい供養なのです。

 まず、しっかりした修法によって確かにあの世の安心世界へ入っていただき、あとは私たちのまっとうな生きざまを見せることです。
 それが、先に逝かれた方の成仏を願う〈人の道〉に相違ありません。




2006
05.03

『心の教育と平成寺子屋』 仙台稲門会にて

 鈴木幹事長から『心の教育と平成寺子屋』なる演題をいただき、去年の続きをさせていただきました。

 今回は、「やはり!」ではあっても大きな衝撃を受けざるを得なかった岡田尊司著『脳内汚染』で指摘されたゲームやビデオによる悪影響との取り組みが主題となりました。

 冒頭、ご参会の方々から

「子供の教育の根本は親にあるのか?」

「ゲームが悪いと思っても、取り上げれば子供は仲間はずれにされてしまう。解決策はあるのか?」

というご質問もあり、三つのポイントについて拙いお話をしました。





〔仙台稲門会さんからお借りしました〕



1 共業(グウゴウ)と不共業(フグウゴウ)

 

 私たちは、表面の〈私〉という第六識を道具とし、生まれの因縁としての第八識(深層意識)と生き方の因縁としての第七識(潜在意識)によって運命を創りながら生きています。

 第八識は、丸い顔や四角い顔というように生まれ持ったものなので動かせませんが、引き出し様の第七識は、見るものや聞くもの、そしてそれにつれて動いた心の歴史などがすべて蓄えられて行きますから、生涯にわたって変化し続けます。

 そして、第七識は、回転寿司で好きなネタが目の前に流れてくれば自然に手が出るのと同じく、相手を選んで反応します。

 たとえば、福祉に関心があって活動をしている人ならば、街を歩いていて困っている人を見かけた時、決して放ってはおけないでしょう。

 一方、殺人ゲームに親しんでいる人ならば、街を歩いていてケンカを売られた時、とっさにそばにあった棒で相手を殴り殺してしまうかも知れません。

 こうして、人生の方向は外界への反応の仕方によって決まります。

 この第七識に溜り続けて反応を起こさせ、〈決めるもの〉こそが業です。


 そして、基本的に個人的なものであれば、それは「不共業」です。

 

 業は社会、あるいは人類といったレベルで積まれもします。それが「共業」です。

 たとえば、悪しき共業は、北朝鮮による拉致、公害や環境汚染、核兵器の誕生と拡散、そしてゲームの蔓延などです。

 こうしたものは、一個人の努力だけではとうてい対応しきれません。

 拉致事件の被害者家族の悲痛な叫びは私たちの胸を打ちますが、解決はなかなか困難です。

 日々、若者たちの脳を破壊し続けているゲームによる悪影響もまた、社会を大きく変質させる恐ろしいものですが、業界があまりにも巨大になったために、どう手を打つべきかは難しい問題です。

 

 でも、悪しき共業には立ち向かわねばなりません。子どもたちと日本の未来のために。



2 川上と川下

 

 共業に対処する方法を考える時、忘れてならないのは、先に生まれた者は川上におり、後に生まれた者は川下にいるということです。

 川上が汚染しているならば、川下は必ず汚染し、いくら浄化をしてもきりがありません。

 その逆に、川上から清流を送れば、川下は自然に清らかな流れになることでしょう。


 

 つまり、孫の代に心の汚れが酷くなったならば、まず両親、そして、当然祖父母が自らの心を浄めることが対処法の根本であるということです。

 キレる若者、殺す若者、傍若無人な若者、こうした「世代の相」は、親によって、そして祖父母によって創られたものに他なりません。

 

 子供にとって、親は永遠に親です。

 あなたは泥水を流しますか、それとも霊水を流しますか?

 あなたは桜の花びらを浮かべて流しますか、それともゴミを浮かべて流しますか?



3 話と姿

 

 では、どうするか。

 親はどうやって悪しき共業へ立ち向かい、川上にある者としての責任を果たせば良いか。



 正しいと思うこと、この方が良いと思うことを話して、子供が納得すれば一番ですが、なかなかそう簡単ではありません。

 

 確かに言葉は大きな力を持っています。

 たとえば、4月28日、横田早紀江さんと会談したブッシュ大統領は、横田さんの「大変忙しい中で時間を割いてもらい、ありがたい」との謝辞へ

「人間の尊厳と自由について話せないほど忙しくはない」と応えました。

 あの一言は、世界中の人々へ彼の懐の深さと理想への情熱の強さを感じさせて余すところありませんでした。

 しかし、人は、そうした心に響く言葉すらも届かない世界へ入ってしまうことがあります。

 地獄界・餓鬼界・畜生界です。




 〈八方塞がりの地獄界〉にあっては、目も耳もまっとうにはたらきません。何もかもが苦となり、救いの光明を見いだせず、ただただ呻くばかりです。

 〈貪って止まない餓鬼界〉にあっては、欲に待ったをかけるものはすべて敵になります。友人の忠告も、賢者の老婆心も、必死の親心も通じません。

 〈恩知らずの畜生界〉にあっては、周囲は軽蔑や嫌悪の対象でしかありません。たとえば、親にうるさく言われるのが嫌で格好だけ勉強部屋へ入っている子供は、騙される親を決して尊敬せず、厳しすぎる親へは胸の奥で反発します。そうして、恩を忘れている者の耳へは、いかなる導きも通じません。



 こうした場合は、姿をもって感じさせる以外、方法はありません。

 一昔前の父親は背中で教育したものです。背中は人生の表示板です。いかなる生き方をしているかが否応なく顕れています。しかし、今はなかなか通じなくなりました。むろん、そうした意識を持つ親御さんも少なくなっています。

 もしも息子がバイクで夜遊びをして困ったならば、母親が好きなケーキを断って「ゲームをあまりしなくなるように」と仏神へ願いをかけましょう。

 それを子供へ告げるかどうかは、子供の性格と解決すべき問題との双方をよく勘案して決めれば良いのです。とにかく、願う人自身が、たとえ小さなことでも、思い切って生き方を変えることが大切です。

 たとえ話で「お父さんが好きなお酒をやめて~」と申し上げた途端に会場が凍りついたようになってしまい、大変申し訳ないことをしましたが、我が子とはいえ、人間を変えるためには大変なエネルギーが必要なのです。



 人は身・口・意で生きています。

 はっきりした意思を持ったならば強く願い、それによって行動するか、もしくは言葉として口から出すかしなければ、何も動きはしません。

 いかに巨大な共業であれ、動かす方法は、一人一人の祈りと行動と言葉による以外ありません。川上の人間はそれをもって責任を果たすのみです。

 たった今、始めようではありませんか。




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2006
05.02

五月の聖悟

「一切の男子は是(コ)れ我が父なり、一切の女人は是れ我が母なり。一切の衆生(シュジョウ)は皆是れ我が二親、師君なり。所為(コノユエ)に、衆生の恩は須(スベカラ)く報酬すべし」 ―弘法大師―



(過去世においても現世においても男性は我が父親であり、女性は我が母親である。生きとし生けるものはすべて我が親であり、我を導く師である。だから、しっかりと恩に報いねばならない)



 行者と衆生とみ仏とが一体になる境地におられたお大師様にとっては、時間的に観る輪廻転生と、空間的に観る縁起(縁という糸が原因にはたらきかけて現象を起こすこと)とが明らかだったのでしょう。

 そうした真実世界にあっては、今ここにいる自分も過去に生きた自分も、時には父となり時には母となり時には師となって手を差しのべてくれるあらゆる生きとし生けるものに育まれて来たことが、ありありと解られたのでしょう。

 だから、恩に報いるために仏法を会得し弘めることは当然だったのです。

 恩を着せず、恩を忘れぬことこそ、人倫の基礎と言うべきです。



 この聖悟を胸に修法していたところ、草原の一隅で私(と思われる)を抱き柔らかなまなざしを注いでいる母と、その横に立って風になびく草木の向こうをじいっと窺っている父の光景が目に浮びました。両親共に、南京袋を切って開いたような布をまとっているだけです。周囲には誰もいません。

 数万年の時間を一瞬にして超え、ああ、この父親と母親があったればこそ自分がここにいるんだということが実感されました。



 人は、父親のように「正確に判断して強く行動する」ことと、母親のように「じっと目をかけて優しく守る」ことを徳としてお与えいただいたのです。

 そして、み仏の顕れである天地万物は、不断に教えを説き、守護しています。

 ご恩に報いないでいられましょうか。



 また、『剣と童謡のコンサート』をやらねばなりません。

 心で聞きましょう。父の声、母の声、み仏の与え給ういのちの声を。




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2006
05.01

皐月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



 蔵王にドライブに連れて行っていただきました。

 出発の街中には八分咲きの桜があり、街をぬけると、彼方にぼんやりと虹がかかっていました。山に入ったら、今度は春霞の他は何も見えず、山頂はあっという間に白く雪となり、雷が遠くに聞こえ、不思議な一日でした。 悦子



梅八分桜蕾は控へめに



春もやひ車窓は何も見えませぬ



コースターに寛ぐと有りわらび蕎麦



午後からは雪降る蔵王四月かな



白樺は雪よそほひて山の宿



※4月中に詠んだ句を載せているので、月遅れになっています。




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2006
05.01

5月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



普賢菩薩(ふ・げん・ぼ・さつ) 



「オン サンマヤ サトバン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
05.01

卯月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



何鳥か来てゐる狭庭水温る



寄り道の花屋と本屋日脚伸ぶ



春日影お手玉五つ縫ひ上げて



音合せ三味の稽古や春の昼



枝々の青き影伸ぶはざれかな




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2006
05.01

5月の例祭

◇第一例祭



 5月7(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  5月20日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




2006
05.01

5月の運勢(世間の動き)

 今月は、何ごとであれ思った以上に時間がかかるものと覚悟してやりましょう。特に愚かな人を相手にする時は大変です。

 決して焦らず、高ぶらず、怒らず、善因善果の「末吉」を信じてまっとうにやれば開運です。

 また、浮ついたものはメッキがはげて情けない姿を晒します。軽薄才子は決して通用しません。

 そうした中で、賢明な女性の「地に足のついた姿勢」が大いに活きることでしょう。原因が結果をもたらすさまと、ものごとが縁によって起こるさまをすなおに観る視点も大切です。

 自分を主とせねばいられない男性原理を少々控えて過ごしましょう。

「頑」を離れ「順」の徳で生きましょう。

 

 明治から大正にかけて活躍した世界的物理学者寺田寅彦博士は、日本人として生まれたことに素直であろうとし、日本の神話を読み進むうちに陸地の移動に伴うさまざまな変化の様子を調べようと思い立ち、潮の満ち干や地震などの研究をしました。

 また、金平糖(コンペイトウ)という日本独自のお菓子の研究に没頭し、なぜそんなものに関わるのかという質問を受けると、「外国にないから誰もやろうとしないのさ。もしも外国にあったなら、きっとたくさんの論文が発表されていただろう」と笑い飛ばしたそうです。

 生涯、日本の文化や庶民の生活や毎日のできごとにもこまやかに心を向け、「文明が進むと天災の被害も大きくなるから気をつけよう」と警告しました。

 

 今日になって、「人間の失敗と事故との関係」が研究されるようになり、科学の発達が小さなミスを大事故に結びつけてしまうという問題が注目されています。たとえば、小さなボタンを間違って押した場合、それがミサイルの発射装置だったならどうなりましょうか。

 超一流の科学者が、生涯、自らの住む世界を客観的に省みるしなやかさと、透徹した先見性と、思いやりあふれる姿勢を持っておられたことには、ただただ驚かされます。

 ちなみに、博士は『科学者とあたま』という随筆で、こう述べておられます。西洋文明(特に科学)を吸収しようと日本中の学者が競っていた時代の文章とは信じられません。



 科学は孔子のいわゆる「格物」の学であって「致知」の一部に過ぎない。しかるに現在の科学の国土はまだウパニシャドや老子やソクラテスの世界との通路を一筋でももっていない。芭蕉や広重の世界にも手を出す手がかりをもっていない。そういう別の世界の存在はしかし人間の事実である。理屈ではない。そういう事実を無視して、科学ばかりが学のように思い誤り思いあがるのは、その人が科学者であるには妨げないとしても、認識の人であるためには少なからざる障害となるであろう。



 さて、この時期に地震や山での遭難、あるいは飛行機のトラブル、もしくは闘争・戦闘などが起こると大惨事となり、後々に影響が残る可能性も非常に高いので、もしもの場合は慎重に対応し、無事安全に乗り切りたいものです。




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