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2006
06.30

今月の守本尊は胎藏界大日如来様です

 今月(7月7日より8月7日まで)の守本尊様は大日如来(胎藏界)様です。





『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、お力をお与えくださいます。




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2006
06.30

7月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」



今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
06.30

7月の例祭

◇第一例祭



 7月2日(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  7月15日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




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2006
06.30

人間もペットも同じ墓所で眠ることができます

 当山のホームページ「ご供養」の欄に、こんな記述をしてあります。

◆Q. ペットの供養もお願いできますか?
 もちろんできます。
 蟻であれ、蝶であれ、タンポポであれ、犬であれ猫であれ、生きもののいのちの尊さは平等です。
 たとえば、私たちの皮膚の表面にも体内にも膨大な量の細菌がおり、保護や消化や免疫などさまざまなはたらきをしています。
「たかが細菌」といってもし細菌を皆殺しにすれば、私たちは生きて行けません。
  まして、家族同様のペットは尊く、もしいのちを落としたならば、当然供養すべきです。
 一つ屋根の下で暮らした生きもの同士なのに、人間は篤く供養される一方でペットはゴミになるのでは、あまりに悲しいではありませんか。
  なお、ペットと一緒にお墓に眠ることもできます。
 もちろん人間と獣とでは徳の位が違いますから同じカロートではありません、詳しくはお訊ね下さい。


 最近、似たような問い合わせが数件あり、回答しました。
「我が子同様にしている犬が年老いて介護をしていますが、亡くなってからどうしようかと考えています。
 人間の家族なら同じお墓に眠れるのに、犬だけ離ればなれにするのも可哀想な気がします」
「同じ墓地の中で弔うことは可能です。
 ただし、お骨を一緒にできないのは当然です」

 おそらく皆さんがとまどっておられるのは、ペットが飼い主に〈心のレベルでとても近い〉存在になったのに弔う風習にはさしたる変化がないので、何かと微妙なズレが生じているからでしょう。
 つまり、犬畜生と言うように、人間以外の生きものはまったく別次元の下劣な存在であり、人間にとって役に立たなくなればゴミと同じであるといった感覚が世間にあるけれども、ペットを可愛がる皆さんは、とてもそうは思えなくなっておられるのです。

 住居は大きく変化し始め、これからはペット同居のマンションなどあたりまえになることでしょうが、お墓となると、なかなかそう簡単ではありません。
 なぜなら、永年浸ってきた「犬畜生」の感覚が無形のタブーを形成しているからです。
 また、弔う側の法がどうなっているのかという問題もあります。

 しかし、当山においては、修法上の問題はまったくありません。
 結界法と供養法が確立しているからです。
 人間とペットと、それぞれのカロートへきっちりと結界の法を結び、それぞれをお導きくださるご本尊様のご加護をいただけば、墓所は「一切衆生悉皆成仏」「草木国土悉皆成仏」の浄土になります。
 この世が位の異なる無数の生きものたちによって成り立っている以上、あの世とてそうしたマンダラ世界であって何の不思議がありましょうか。
 ご安心いただきたいものです。







2006
06.28

文月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



※6月中に詠まれた句を載せているので、月遅れになっています。



七変化咲かせ女の独り住み



つきつめて物は思わですだれ巻く



雪渓に雲棚びて岩手富士



掌(テノヒラ)にでで虫這はす男の子




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2006
06.28

お釈迦様の心 ―説法と懇話の会―

 お年寄りやご婦人方の集まりではいろいろとお話を申し上げていますが、今回は、初めて国分町での説法とあいなりました。

 娑婆に棲んでいた時代に少なからず世話になり、迷惑もかけた街への報恩と罪滅ぼしの機会と考え、お引き受けしました。

 もちろん、グラス片手の世間話ではありません。

 しかし、雰囲気は、肩の凝らないゆったりとしたものにし、参加される方々に翌日への活力を高めていただけるよう願ってお務めします。

 どうぞお気軽にご参加ください。



一 日 時 平成18年7月13日午後5時より午後7時まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 5000円(7時から飲み放題のサービス付)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)




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2006
06.28

五力 8 ―念力 4 合掌のすすめ―

 私たちの左手は自分です。
 右手は、仏神・御霊・家族・親族・友人知人・生きとし生けるもの・宇宙、つまり、小さな自分を〈今、ここに在らしめているすべてのもの〉です。

 時には、左手だけでは寂しくなります。
 片方だけの手は冷たくもなり、凍えそうになることもあります。

 そんな時は、合掌しましょう。
 必ず、手は温もりを取りもどします。
 右手が加わって両手が一つになる時、孤独はどこにもありません。
 それを「同行二人(ドウギョウニニン)」と言います。
 四国八十八霊場を歩く時は、お大師様がいつも一緒に歩き守っていてくださるので、この四文字を白衣や笠へ書いて歩きます。
 しかし、それは、四国の霊場だけのことではありません。
 生きているということは、生かしてくれている尊いものとの関係性にあるということです。
 常に誰かと一緒なのです。 
 合掌によって、必ず生きている実感が得られます。
 そして心を澄ませば、たった一人ではないことが解ります。

 理性は道具です。
 道具を用いる目的を示すのは霊性です。
 理性に頼るだけでは、せいぜい〈孤独〉か〈観念上の連帯〉までしか行き着けませんが、霊性は理性の突きあたる壁をやすやすと透過して、孤独を消し、連帯を血の通ったものとする〈広大無辺ないのちの世界〉へと誘います。
 合掌は、霊性の光を導き出す尊い姿なのです。
 
 清浄な目的と正しい教えを念力によってしっかりと心に保ち、合掌して、あとはみ仏へお任せすれば、必ずや最上の結果を得られることでしょう。




2006
06.27

ご加持さまざま ―身心の病気を克服する―

 このところ、ご加持が多く、神経を使う毎日が続いています。
 学力向上などの能力開発や、自律神経失調などのバランス回復や、偏頭痛解消などの病気封じや、夫婦円満などの和合の修法ならそれほどではありませんが、うつ病などでは、たった一言の不適切な言葉づかいでも受者との信頼関係に問題が生じる場合があるので、細心の注意が必要です。

 今日の夕刻は長年アルコール依存症に苦しんだ女性が4回目の受法に訪れ、最回には修法の終了後に本堂がアルコール臭くなって驚いた方が、すっかり良い笑顔を取り戻してお帰りになられました。

 続いて、祈祷師から憑きものがあると脅され、過酷な修行に苦しんだ女性Aさんが、久方ぶりに、ご家族に伴われてご来山されました。
 かなり回復したけれども、今度は、多様な人格が現われるようになったのです。
 さっそく修法に入りました。
 確かに複数の男性が現われていろいろ言ったりしますが構わずに法を続け、やがてゆったりとした息を取り戻されました。
 あとは、五体を守る守本尊様方に、まじめな人特有の疲れをとっていただくだけです。

 午後8時をまわって無事終了した後、お守を手にして泣きながらありがとうございましたと言うAさんは、とても素敵で可愛い女性になっていました。
「いろいろな人格が出てきても、それと闘ったり、悩んだりする必要はありません。
 そうしたものたちは、いわば影法師の一部です。
 地面がデコボコだと影法師は人の身体を正確に映しませんが、平坦な道へ出ればおかしな形ではなくなるでしょう。それと同じです。
 今は多少不安定なデコボコ道を歩いておられるのでやむを得ませんから、あまり気にせず平気な顔で過ごしてください。
 やがて歩む道が定まれば、彼らは自然に消え去ります。
 今日は徹底して貴女の守本尊様の法をかけました。
 何かのおりには守本尊様の真言を唱えてください。
 必ず守っていただけますよ」

 街灯も少なく暗い夜道を遠くまでお帰りになられるご一家をお送りして振り返ると、猫のクロがニャーと足元へやってきました。
 さあ帰ろうと声をかけ、今年は蛍が見られるかなあと思いながらクロと並んで本堂へ向かいました。

 釈尊が説かれた真理は厳然として動かず、結果として眼前にある現象には必ず原因とそれにはたらきかける縁があったはずです。
 たとえば、肝臓病が、無理な仕事と、それをまぎらすための酒によってもたらされるようなものです。
 この場合の「無理な仕事」は、心の病気では環境としての家族関係だったり、トラウマを生む突発的なできごとだったりします。
 もちろん、病気そのものを治さねばなりませんが、完全に克服するためには、家族関係を変えたり、突発的なできごとの衝撃や記憶を薄れさせたりせねばなりません。
 自己快癒力を高め、環境改善も行なうのです。
 当事者が変わればやがて環境にも変化が現われますが、変化のペースがあまりにゆったりしていると、せっかく傷口を塞ぎかけた薄皮がまた剥がれてしまう恐れもあるので、環境を劇的に変える手段も採らねばならない場合があります。
 むしろ、そこが難しい場合が多いのです。
 善業も悪業も自分で積む一方、周囲の人間たちによってもたらされる共業(グウゴウ)は避けがたい場合が少なくありません。

 一人の人間の苦しみには、必ず多様の人間が関わっています。
 幸せは一人でつくれらるものではなく、不幸もまた一人でつくってしまうものではありません。

 いかなる世の中になろうとも、お互いに支え合う『相互供養』とお互いを尊び合う『相互礼拝』は自他を救い幸せにする道です。

 2歳のB君は、お線香を立てて祈るとき、「Bがおりこうになるように」と自分のことを祈りますが、必ず「ママも」「みんなも」と家族全員の幸せも祈ります。
 B君に習って生きて行きたいものです。




2006
06.26

清水が流れ始めました

Category: 日想
 おかげさまにて井戸のモーターが完成し、去る6月15日、お大師様ご生誕の日より清水が流れています。

 今年は、お大師様が完全な密教を中国より招来してからちょうど1200年になります。このようなめでたい年に煩悩の迷いを渡る川ができたことはまことにありがたく、身の震えるような思いがします。

 

 まだ、雨降りの泥水が周囲から入るので清流とは言えませんが、少しづつ周囲に石と土を盛ることによって流入を阻止し、水の入れ替えをする予定です。いつできあがるかは判りません。

 Tさんが七北田川で釣り上げた82?の野鯉はもちろん、金魚や鮒も皆元気いっぱいに泳いでいます。子供が生まれたらしく、目だけ大きく身体は糸のように小さな魚もいます。

 朝夕、橋のそばで餌を与えています。鯉たちは気配を察知してすぐにやってくるようになりました。可愛いものです。



※堀の水をグルグルと巡廻させるために水車を置こうと考えていますが、意外に高価でなかなか買えそうもありません。どなたかご不要の水車があったならお譲りいただければ幸甚です。












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2006
06.25

仏前結婚式

 TさんとSさんの良縁により、ご両家の親御さん方数名が参列して、厳粛な結婚の儀をとり行いました。
 仏前結婚式の特徴は、二人の添い遂げる決意を仏神だけでなくご両家先祖累代の霊位へも誓うことです。
 結婚の意義は、無限の過去に生きた人々から受け継がれた二つのいのちが一つになり、諸縁が調えば新たないのちを未来へ授け渡すところにあることを認識せねばなりません。

 まず、全員が列席する中で、導師が仏神と両家の御霊へご挨拶申し上げ、ご加護を願い修法を行ないます。

 次に、法を結んだ数珠をお授けします。

 次に、授戒を行ないます。これも仏教独特のもので、導師が「人間に生まれることは大変難しいのに、こうして生まれている。
 仏法に会うこともまた大変難しいのに、こうして出会っている。このようにありがたい(有り難い)この世の人生においてまことの道を求めないならば、いつ、できようか。至心に仏法僧へ帰依しよう」と導きます。

 次に、指輪の交換があれば行ないます。

 次に、導師が新郎新婦へこのように誓いますかと訊ね、二人は「誓います」と答えます。
 み仏の教えを守り、たった今互いの胸に抱いている決心を終生の誓いとし、人の道を忘れず、お互いに助け合い敬愛し合い、相和して生涯苦楽を共にすることを誓うのです。

 ここで、人倫の基本中の基本である「四恩十善戒」を人生の柱とする決心もします。

 次に、三三九度の儀を行ないます。
 密教において世界を表現する胎藏界と金剛界は、目に見える世界と目に見えない世界でもあり、おさまりの姿と変化発展の姿でもあり、陰と陽でもあり、女性と男性でもありますが、それを合わせて二人のいのちを一つにするのです。

 次いで、両家の縁を固める杯を挙げ、最後にもう一度祈願をして終了となります。

 法話では四恩十善戒についてお話申し上げ、人の道をまっとうに歩むことが二人の幸せ、ひいては両家はもちろんご縁となる方々の幸せをももたらすことを考えていただきます。
 ただし、形の上では帰依ですが、それは式を挙げた寺院の信徒となることを強制するものではありません。
 特に、お大師様はあらゆる宗教思想にその存在意義を認めておられ、当宗においては一切他の仏神と争わず排除しないマンダラの姿勢なので、新郎新婦が招来いかなる宗教の信者になろうと、何の問題もありません。
 尊きものの前で誓った、四恩十善戒における〈生きとし生けるものの恩を忘れない〉ことや、〈親の恩を忘れない〉こと、また〈無益な殺生をしない〉ことや〈二枚舌を使わない〉ことなどは、いかなる宗教にあっても否定されぬものであり、誓いの重さは不変です。

 仏法は第一義的に生者を導くためのものであり、それには人生のあらゆる場面において力強く清浄な明かりとなる教えと法が備わっています。
 仏前結婚の意義は小さなものではありません。仏神と無始の過去よりつらなる霊位の前で法が結ばれ、まごころからの決心が披瀝される以上、単なる形式ではないのです。










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2006
06.22

【現代の偉人伝第二十話】 ―解脱した人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地

 平成十六年七月十六日に他界された作家中野孝次氏の『ガン日記』が、文藝春秋の七月号に掲載された。

 せいぜいが立ち読みで年に一回も買わぬ月刊誌なのに、コンビニエンスストアで表紙を見て購入し、この文章に出逢った。

 ガンの告知を受けてから、治療のための入院に踏み切るまで、約40日間の思いが綴られたものである。



 日記は、「唯一の楽しみ」である日曜碁会で成績に気を良くするところから始まる。氏は「体調悪い上に右目はほとんど失明状態にて、調べて書くものは当分できず」といった状態にある。



 食道ガンが見つかったという検査結果を電話で平静に聞いた氏は、古代ローマの哲人セネカに親しんでいたせいであろうと考える。

 

 治療を受ける病院を決めるべく大病院へ行くが、年配者にとって食道ガンの全摘手術はできないということ、及び入院手続きが困難である旨を説明され、手術以外の方法がないなら余命はあといくばくかを訊ねたところ、「オウム返しに」あと一年と告げられる。そして、氏は、大病院は頼りにならないと感じる。

「ついにこの日が来た」ことを咀嚼し、「あと一年しかないと思わず、あと一年みなと別れを告げる余裕を与えられたと思うことにしよう、一年を感謝して生きよう」と決心する。



 氏は、自分の余命を知ってから、「まわりのものすべてに対し愛しさの増すを覚える」ようになる。

 自分を力づけるのは、セネカや兼好法師の徒然草にある言葉であり、言葉にある真実であると考える。

 セネカが幸福なる人生は何であるかを自らへ問い、心に不安がないこと、不動の内的な平安があることだと答を出したが、さて、自分はどうであろうかと問う。

「誰かに起りうることは、誰にでも起りうるのだ」 ―セネカ―

「若きにもよらず、強きにもよらず、思いがけぬは死期なり、今日まで遁れ来にけるは、ありがたき不思議なり」 ―兼好法師―



 氏は、過酷な治療を受けながら病院のベッドの上で死ぬのは人間の死ではないと考え、自然死を選ぼうとする。

 書斎の二畳間で仕事をしながら、自分の人生は受験勉強をした二畳間から始まり、二畳間で終わるのかと書く。



 やがて、自宅での自然死を迎えるのには、介護する妻の苦労をはじめあまりにも問題が多すぎると気づき、「わがまま」をやめて「死までの手続き」として入院しようと決心する。

 長く生きようとするより、よく生きることを願うが、治療を受けるのもよく生きることではないかと考え、「心とは変わり易きもの」と書く。

 妻へ大方針を伝える。

「少しでも長く生きることでなく、苦痛は苦痛として、晴れやかに死んでゆきたい」

 そして、在宅治療なども検討した上で、治療に耐えられるうちに一切を病院へ任せることにする。



「ガンと共生ではなく、ガンをなくす方針で行なう」との医師の言葉に「前途に希望生じたる思い」になる。

「前途に死しか見えざると、一条とはいえ生の光の見えたるとでは、今を生きる気分一変す。きのうより何となく希望生じたり」と書いた翌日、入院となる。



 一ヶ月半を病院で暮らした氏は四月三十日に退院し、最期を迎えることとなる別な病院へ入院するまでの約二ヶ月の間に、この日記を浄書した。

 なお、他の文章に、「セネカは入院中一貫して内側から私を支え、助け、励まし続けたのだ。人を支えるのは精神とか、心、気力、魂などと呼ばれる目に見えないものの力だ」と書いているという。



 奥さんがその二ヶ月を記した『夫が亡くなるまでの日々』も続いて掲載されている。



 治療は完全に終わったという医師の言葉を信じ、あと一年と知らされていなかった奥さんは回復を願うが、夫がものをあまりたべられずに体力を落として行く様子に不安を感じながらもガンのことは一切話題にせず、一緒の時を過ごす。ガンは治療で消えたことになっているので、最後まで話題にしなかった。

「彼は今までより一層優しくなり、私の不安な日々を言葉少なに労ってくれました」



 やがて衰弱が進み病院を選んで入院するが、ここでも、積極的に治療する方針を示す院長の言葉に夫は喜んだようだと記す。

「これまで僕は文学に生き、いい文章を読んで人生を送ってきたが、それは本当に良かったな、いい人生だったな」と述懐し、亡くなる一週間ほど前、「解脱ってこういうもんかな」と言う。

 奥さんは「この頃から中野は、これから自分が留まるよう約束された場所に戻っていくのだと考えているような感じを受け」た。



 釈尊は、「生死を超える」のが解脱であると説かれた。

 それは、諸行無常の真理を受容れさせぬ最強の魔ものが死魔だからである。

 細川忠利公から「巌(イワオ)の身」について訊ねられた宮本武蔵は、若い弟子を呼び、殿の命令なので切腹せよと申し渡した。ただちに切腹しようとした弟子を殿のお赦しがあったからと押しとどめ、退がらせた武蔵は「あれが巌の身です」と奏上したという。生死を超えた境地を見せたのである。

 中野孝次氏はまさしく解脱されたのに違いない。




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2006
06.20

文武両道

 私淑している方の事務所からメモが送られて来ました。
 その中に紹介されている逸話は、文武両道を目ざす者にとって目を見開かされる内容です。
 記しておかねばなりません。
 ちなみに、「文」とは平和時にはたらく霊性の発露であり、「武」とは、非常時にはたらく霊性の発露であると考えています。
 決して「武」イコール暴力ではありません。
 暴力は暴れ回る強大な力ですが、それは、霊性から離れれば己を傷つけ、他を傷つけるものとなり、無暴・粗暴などと言われます。
 智慧のない行為です。
 しかし、たとえば警察官が凶器を持った犯人を取り押さえようとする時に用いられる暴力は、社会正義のために責務を果たそうと我が身を忘れて行なわれる尊い行為であって、「武」と言うべきです。
 戦後の長い平和が暴力絶対否定といった思想をもたらした状況は一概に否定されるべきものではありませんが、日本人の背骨となっている武士道が広く世界から賞賛されているのは、戦いにおけるふるまいよりも、むしろ、〈非常時に備えて己を鍛える姿勢が平和時のふるまいを美しくする〉からに他ならぬことを忘れぬようにしたいものです。
 もちろん、「武」は必ずしも暴力を伴うものではありません。
 当欄でたびたび題材にするガンジーは非暴力を貫いてインドに独立をもたらしましたが、彼の行為は武器を用いない戦争であって、まぎれもなく「武」そのものでした。
 以下のメモは文武両道について考えていたおりのご縁であり、み仏のおはからいに感謝しつつ、記しておきます。

 江田島の教育長を務められた岡村清三氏が自衛隊に在籍していた当時、硫黄島にあるアメリカの施設を訪ね、硫黄島作戦の最高司令官だった将校のご子息と会った時のことです。
 彼は、父の話をしてくれました。

 司令官が島を占領したあくる日、片足の陸軍少佐がいざり寄り、「まだ穴では30人の部下たちが生き残っている。その中に東大を出た優秀な青年がいるので、彼は世界のために残したい。自分のいのちと引き替えに助けてくれ」と頼みました。
 司令官が、彼も君も救おうと答えるのを聞いて将校は息を引き取りました。
 ところが、「硫黄島を死守している限り本土の空襲は防げるのだから、同胞を守るためにたとえたった一人になっても戦い続けるように」と栗林中将から訓示されていた兵隊たちは、タバコをもらおうがチョコレートをもらおうが、感謝はすれども誰一人投降しません。
 そして、食料もない数ヶ月を耐え続け、最後に残った7人は手榴弾で自決しました。
 穴の入り口で発見された日本語と英文の手紙です。
「閣下の私たちに対する親切な御好意、まことに感謝に堪えません。
 閣下より頂きましたタバコも、肉の缶詰も、皆でありがたく頂戴いたしました。
 お勧めによる降伏の儀は日本武士道の習いとして応ずることは出来ません。
 もはや水もなく、食料もなければ13日午前4時を期して全員自決して天国に参ります。
 終わりに貴軍の武運長久を祈って筆を止めます。
 昭和20年5月13日 日本陸軍中尉 アサダシンジ 米軍司令官スプルアンス大将」
 司令官は、戦後10数年、アメリカ全土で講演をくり返しました。
「アメリカ青年よ立ち上がれ。
 東洋にはすばらしい国がある。
 その国は日本だ。
 日本にはお前たちが想像も付かないような立派な青年がいる。
 ああいう青年がいればやがて日本はどうしなくても世界の盟主になるであろう。
 奮起しろ」


 私たち日本人の魂にはこうした色合があります。
 み仏からいただいたいのちに内在する宝ものを大切にしつつ、文武両道に生きたいものです。
 それが、欲望を礼賛する思想によって霊性を忘れた獣性が世界を覆いつつある今、自他を守り国を守る道ではないでしょうか。

※逸話は、愛媛県東温市立重信中学校教諭大津寄章三先生の講演によります。
 




2006
06.18

五力 17 ―慧力 2 6枚のセンベイ―

 経典にあるお話です。

 あるお腹のすいた男が、センベイを7枚買いました。
 1枚食べても空腹感はなくなりません。
 2枚目を食べても同じです。
 そして、あっという間に、最後の1枚になりました。
 もうこれしかないと思った男は惜しくなり、まず半分にして食べてみました。
 すると、空腹感は消えました。
 彼は、ふと、考えました。
「たった半分でお腹いっぱいになるんだったら、丸ごと6枚も食べるんじゃなかった………」


 私たちは、この男を笑えるでしょうか。
 
 たとえば、『法楽の苑』に建ち並んだ墓石は地震にびくともしませんが、それは地上の部分がしっかり固定されているせいだけではなく、基礎が頑丈に鉄筋コンクリートで造られていればこそです。
 当山では石屋さんの指定をしていないので、さまざまな業者さんたちが熱心に穴を掘り土台を造っておられる様子を眺めていると、「発注した方に、ここからご覧になっていただきたいなあ」と思うことが、ままあります。
 できあがってからいくら眺め眇(スガ)めつしてみても、一番大変で肝心な作業が汗だくで行なわれた様子も、土台そのものも想像すらできないからです。

 私たちは、自分で食えるようになると、自分一人で生きているような錯覚をしがちです。
 しかし、時間的には、親がありご先祖さまがおられてこそ今の自分があり、指一本・耳一つすら自分で作ったものではないのですが、そんなことはほとんど意識しません。
 空間的には、国が豊かで安定し平和が保たれているからこそ、水も食料もお金さえ出せばすぐ手に入るのですが、そんなこともあまり意識されません。
 車を運転していて、何百台とすれちがっても事故に遭わない奇跡が続くのは仏神と御霊のご加護なのに、お守りいただいていると感じる人はどれだけおられましょうか。

 私たちが〈今のいのち〉をありがたく生きられのは、時間的・空間的・次元的なたくさんの「おかげ」によります。
 まっとうな生き方をしていて「おかげさま」を口にしない人には会ったことがありません。
「おかげさま」に発する思考は智力をもたらし、五力全体を活かします。
 この日本語を大切に守り、その心を伝えて行きましょう。
 子どもたちへは「せんべいの話」を語り伝えたいものです。




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2006
06.16

福井総裁の問題と戦後日本の堕落

 日銀の福井俊彦総裁が村上ファンドへ1000万円を拠出していた報に接した時、それほどの驚きを覚えないことが、自分ではむしろ驚きでした。
 一国を預かる総理大臣をはじめ、もはや〈立場にふさわしい人格の持ち主〉は求め得ない世の中になりました。

 堀江氏にしても、村上氏にしても、堀江氏の無頼・村上氏の獰猛はいずれも常軌を逸しており、まっとうな庶民はその言動を「胡散臭い」と感じていました。
 しかし、政財界のリーダーたちは彼らを高く評価し、世間に信用させ、結果的に彼らが行動しやすいシステムもつくりました。
 そのシステムは、はたして国民を幸せにしたでしょうか。
 二人の引き起こした事件は、最近における日本の急激な進路変更が正しかったのかどうか、広く国民が検証するきっかけとなりました。
 その折りも折り、国家の金融政策を左右する立場にある人間の不祥事が露呈したのです。

 現在、銀行などの主要企業をバブルの後遺症から救うために採られている超低金利政策により、恩恵に与った企業は空前の利益を計上するに至りましたが、その過程において、預金者としての国民が得ることのできなかった利息収入は、およそ304兆円(日銀の試算)にも上ります。
 言い換えれば、それだけの負担を国民に強いながら、企業は急速に潤ったのです。

 庶民にガマンさせる政策をリードする責任者が、我が利を得ようと胡散臭いところへ大金を預けるなど、法の問題以前に人間として立場にふさわしくない行為であると言わねばなりません。
 かつて、雅子紀の父親である小和田恒氏が国連大使になった時、心ある人々は、慎むべきではなかったかと言い合いました。
 また、ノーベル化学賞を受賞した野依良治・名大大学院教授が名古屋大学学長選挙で破れた時も、心ある人々は、選挙に立つべきではなかったと、賞の権威を貶める行為にがっかりしたものです。
 今や、こうした感覚は麻痺する一方です。

 当ブログは、かつて、太平洋戦争末期、神風特攻隊に第一号出撃命令を発した大西瀧治郎中将をとりあげました。
 彼は、「おれもゆく、わかとんばら(若殿輩)のあと追いて」と詠み、心で涙し合掌しながら特攻隊を指揮し、敗戦の翌日、自決しました。手当はもちろん介錯も断り、隊員やその家族の苦を一身に負いつつ、先に逝かせた者たちの後を追ったのです。
 勝てぬ戦争であることを知っていながら、歯をくいしばって時代に必要とされた役割をまっとうし、結果について言い訳をせず、いのちをも差し出して責任をとったその高貴さ、潔さはもう、忘れ去られたのでしょうか。
 このような「立場にふさわしい覚悟」のできる日本人は、もう、どこにもいなくなったのでしょうか。

 総裁は、「世間をお騒がせして申しわけない。国民の皆様に深くおわび申し上げる」と謝罪したそうです。
 しかし、引責辞任はしないと明言したとも報道されました。
 謝罪とは「犯した罪を謝る」ことです。罪がなければ謝る必要はありません。
 この場合、彼が認識している罪は何かと言えば、「世間を騒がせた」事実のみです。
 世間が騒ぐことなど、山ほどあります。騒ぎは、視聴率を稼ぎたいワイドショーによって、日々花火のように打ち上げられています。
「タマちゃん」の時は、騒ぎに微笑ましさが伴っていたから、騒がせても責任を追及された人はいなかったけれども、今度は、騒ぎに疑念や不快感が伴っていたので、嫌な思いをさせた責任を感じて詫びたということなのでしょうか。

 思えば、こうした堕落は敗戦直後から始まっていました。
 戦勝国による不当な東京裁判を容認する一方で、結果的に国家国民へ塗炭の苦しみを与えた責任をとった人々はごくわずかでした。
 むしろ、戦争をリードした人たちの多くがそのまま戦後復興のリーダーとなり、開闢以来の危機をもたらした責任を日本人自らが明確にすることはありませんでした。
 無論、あの時点で責任をウンヌンすれば天皇制を揺るがす可能性もあり、それでは日本がもたなかったであろうとする有力な説もありますが、それは通りません。
 責任は、本来、自分が黙って負うべきものだからです。
 もしも「大西瀧治郎中将」が政界に百人いたならば、日本の姿はまったく異なるものになっていたのではないでしょうか。

 戦前と戦後の日本人の違いを分ける大きな要素は、「懐中に短刀を抱いて職務へ向かうかどうか」ということです。
 故三島由紀夫が分析した武士道における「自己尊敬・自己犠牲・自己責任」の問題です。
 責任者の姿勢としてはこうなりましょう。
「立場を尊び汚さない・立場に立つなら我欲を棄てる・立場を穢したならば責任をとる」
 日本人の高貴さを創るこうした土台が戦後たちまちに忘れ去られ、たった60年ですっかり崩壊しました。

 もう、ここまで来れば、今の日本の「偉い人」へ高貴さを求めることはやめましょう。
 ただし、厳しく求めるべきは選挙の時です。
 有権者の一人一人が、候補者の人間性を見極めて投票しましょう。
 付和雷同はやめましょう。
 有名かどうか、見てくれがどうか、おもしろいことを言うかどうか、声が大きいかどうかに引きずられて騙されないようにしましょう。
 真に国民のことを考え、我欲を棄てて職務をまっとうできる人かどうか、もしも誤ったならば潔く責任をとれる人かどうかを見極めましょう。
 もしもテポドンが飛んで来たり、大地震が発生したり、富士山が噴火したりといった緊急事態において、安心して国を任せられる人かどうか、よく考えてみましょう。

 よく「政策で選ぶ」と言います。政党政治である以上当然ですが、「政策は一朝一夕にして変わるが、人間は簡単には変わらない」ことも忘れぬようにしたいものです。
 ワイドショーで騒がれる「~君」や「~ちゃん」は、決して一朝一夕にして大人物にはなり得ません。
 コメンテイターなどが「成長を暖かく見守りたい」と発言するのも無責任なもの言いです。
 北朝鮮に大切な娘をさらわれた横田夫婦は、日々、老いておられるのです。
 実際にいつまでも見守りたいのは、ネタを失いたくないワイドショーだけでしょう。
 立場にふさわしい人がいなければ、白紙にしましょう。
「あなた方ではノーですよ」と意思表示をすれば良いのです。
 選挙で誤れば泣きを見るのは選挙民自身であり、選挙権を持たぬ子どもたちであることをよくよく考えねばなりません。
 そして、一人一人が潔く生きることによって手本となり、明日の日本を創る子どもたちを健全に育成したいものです。




2006
06.13

安全大会

 久方ぶりの花巻温泉。130社の方々が安全大会を開催されるホテルへ車をとばしました。

 事故は決して起こってはならないものだけれども、いくら注意していても、ふとした拍子に大事故になるものであり、安全対策は、これで良しということはないとお聞きしました。

 プロとはいえ、人間のやることには限界があり、気の抜ける瞬間もあります。そこを補うものは、やはり人間でしかありません。

 現場ではたらく方々が、それぞれ自らの安全を確保した上で、仲間の安全についても注意を怠らぬことが不可欠なのです。



 こうした思いやりの心をつくるのは、五種供養です。

 水による布施、花による忍辱、お線香による精進、飯食による禅定、灯明による智慧。これを縁に応じて念ずることの大切さをお話し申し上げ、最後に、皆さんの安全を祈る奉納剣を行ないました。



 結界を張る金剛剣、それぞれの一代守本尊様にご加護をいただく守本尊剣、能力向上や悪癖解消などの五行剣、そして魔ものを祓い去る胎藏剣です。

 終わった時の会場は、昼食後の眠さも払われたらしく、清浄な空気に満ちていました。











 




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2006
06.13

草刈りが終わりました

 おかげさまで、無事、草刈りも終わりました。心よりお礼申し上げます。

 石積み開始から、『法楽』作り、魚たちの移動、草刈りと、毎日のように皆さんがお集まりくださり、『守本尊道場』の作業小屋は、ますますあたたかな場になりつつあります。

 ありがたいことに、何を計画した日も天候に恵まれ、皆で天地仏神へ感謝しています。

 当山は、不変の仏法によりつつ、姿は日々変貌しています。?どうなったかなあ?とお気軽にお立ち寄りいただければ幸甚です。





魚を放しておいた急ごしらえの小さな堀の水を抜き、60匹にものぼる鯉や鮒や金魚などを、完成した堀へ移動しました。手桶で水をかきだしながらタモで魚を掬い、大の大人が数時間かけての大仕事でした。

一匹残らず調べ、病気の手入れをしたので、もう安心です。



 

無事、堀へ放し終え、談笑しながらの後始末です。

あとは井戸水によって清流となるのを待つばかりです。





今年も20人近い方々が集り、雑草を相手に汗を流されました。和気藹々の中でいただくおにぎりのおいしかったことは、言うまでもありません。







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2006
06.12

【現代の偉人伝第十九話】 ―まっとうに生きる人?―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地

 小雨降る夜、地場最大の企業グループを率いる会長O氏の誕生祝賀会があった。役員や社員代表、関連・協力企業の代表、親族、地域住民など、ホテルの会場を埋め尽くした人々の前で、彼は謝辞を述べた。

 57歳とは思えない力のある声でゆっくりと話し始めた内容は、その人柄を示して余りあるものだった。



 まず、額に汗する人がまっとうな人間であると言った。

 社員に仕事をさせると、当然、結果に差は出る。しかし、彼は、目先の結果もさることながら、より一生懸命に努力した人を認めるという。人間の価値を、ひたむきさ・まっとうさで観ようとしているのである。

 形式的な場での発言ならまだしも、当人たちの目の前で口にするということは、実際にそうしているからに他ならない。

 弱肉強食が加速している世の中で、これは驚くべきことでなかろうか。

 

 企業は、人間をどんどん不要としつつあり、劣者・弱者・失敗者は情け容赦なく切り捨てられる時代である。「勝ち組・負け組」などという唾棄すべき言い方が、何の疑問も持たれずにはやり言葉となって飛び交っている。

 企業は人間のためにあるはずなのに、企業の儲けや拡大が最高の価値となり、人間は道具としてどれだけ役に立つかによって価値が判断され、それ自体として尊ばれることはない。

 銀行・自動車・ハイテクなどの花形業界が空前の儲けを謳歌しているにもかかわらず、肝心の労働者たちが喘いでいるのが、その証左である。

 ニートやフリーターが増大し、子供はつくられず、老人・病人にとっては、これからの社会機構への安心感が日々失われつつあるのもまた、その証左であると言わねばならない。

 しかし、無一文から出発し、汗は他人の何倍も流したであろう彼は、百人を超える社員を抱える今となっても、まっとうさを評価すると言い切るのである。



 次に、豆腐屋をやる計画について話した。

 以前始めた炭焼は、まだ採算ベースに乗っていないけれども、これから始める豆腐屋共々、必ずそれで食えるようにしてみせるという。

 企業グループのトップであり、地方議会の議員であり、超多忙な彼がなぜやるのか。

 それは、まっとうな仕事ならば、真剣に額に汗することで人間が生きて行けないはずはないという信念を実証したいからだという。

 稲作は、もはや普通のサラリーマン感覚でやっては採算が合わない。そのために、彼は、まだ人々が眠っている早朝から「そこいらのおんちゃん」と変わらぬ出で立ちで、7町歩もの田んぼへでかける。

 他人より余計に汗を流す。工夫をしながらとことんやる。それで生きて行けぬことはない。稲作はもちろん、炭焼も豆腐屋も必ずやれると断言するのである。



 最後に、来賓の方々が再来年の選挙について縷々(ルル)言及したので、さらりとつけ加えた。

「私もまたお世話になるかも知れないが、ここにおられるH議員は、私の言えないことも議会でどんどん発言しているので、私同様、協力して欲しい」

 O氏の企業で役員を務めていたH議員は、前回の選挙告示間際に突如として立候補し、初当選したばかりである。

 寝耳に水だった立候補に、O氏の支援者たちは皆驚き、今回は共倒れになるのではないかとの憶測も流れた。

 しかし、O氏は前回の選挙よりも得票を伸ばして連続トップ当選し、H氏までも当選したのである。

 O氏は、あろうことか出陣前夜の会合へ彼を招き入れて紹介し、選挙期間中、一度もH氏を批判・誹謗しなかったという。

 そして今日の一言である。

 

 日本広しといえども、同一選挙区に議席を持つ競争相手に協力してやってくれと口にできる議員は他にいるだろうか。

 O氏は男である。うわべだけの外交辞令や、その場しのぎの言葉は用いない。

 心から、可愛い部下だった人間の成功を願っているに違いない。会場の誰しもが、そう信じたはずである。



 人間を大切にする。額に汗する価値を信じる。他人を思いやる。いずれもあたりまえのことではあるが、今の世の人々は、実際にそのように生きられなくなりつつある。

 まっとうな世の中は、まっとうな人間によってしか創られない。

 人間がまっとうに生きられることを見せ、まっとうな世の中を取り戻す希望の星となっている人。それは『みちのく企業グループ』会長大須賀啓氏である。




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2006
06.10

仏教と仏法 ―排他性を廃し、世界を救う―

 GO-GO PLANNINGの木村社長から教えていただき、読売新聞の5月31日号に掲載された「『世界仏教』への期待」を読みました。
 筆者は東京工業大学助教授上田紀行氏です。
 氏は、仏教がアメリカで「期待される宗教」となっているとされ、その理由を述べています。
 
 第一は「アメリカの国民の多くが仏教の寛容の精神、平和主義に強い期待を抱いているから」です。
 他の神を認めない一神教が政治と結びつき、世界中で殺し合いを演じており、アメリカはその多くに関与しています。
 この行き詰まりを打開するには「全く別の世界観が必要ではないかとの思い」が強いそうです。

 第二は「『個人』の苦悩に向かい合い、ひとりひとりの生きる意味を深化させるという仏教像がある」からです。
 アメリカの田舎では、日曜教会を欠席すれば村八分になりかねないといった雰囲気があり、「ムラの宗教」として個人個人を開放するどころか抑圧している面があるのではないかと指摘しています。

 そこで、氏は、ひるがえって日本における仏教を省みると、日本ではアメリカにおける〈村〉と同じように〈家〉があり、その儀式に活動が偏った日本の仏教にも転換が必要ではないかと提言しています。
 アメリカの仏教教団では、長幼の序や年長者への服従はなく、男女の区別もなく、女性老師が尊敬を集めたりしているそうです。

 最後に
「日本との大きな違いは、アメリカの仏教者たちが仏教を、この弱肉強食の物質主義社会における、スピリチュアリティー(霊性・精神性)の復権という、より広範な世界的運動の中に位置づけていることだ。
 仏教はまさに個人を救済し世界を救済する、大きな時代的な責務を負っているものとして認識されているのである」とし、日本の仏教はアメリカから学ぶべき時が来ているのではないか」と結論づけています。

 当山も、かねて、一神教の排他性が「平和を求めながら殺し合う」という悲劇に結びついている状況を指摘し、根本的にお互いを認め合うマンダラの思想、マンダラを旨とする密教が世界を救うに違いないと主張して来ました。
 
 確かに政治にからみ争いに根深く関わっている宗教がありますが、いかなる宗教であれ、あらゆる争いの元となるのはその「排他性」であることを見すえねばなりません。
 日本における自称仏教教団にも、排他性の色濃いものはたくさんあり、この仏様のみを信じなさい。この経典以外は不要です、他の宗派は邪宗ですといったやりかたをしています。
 内政に行き詰まった政権がどこかの国を悪者に仕立て上げて自分の立場を回復・強化しようとするのは常套手段です。
 それと同じく他の宗教や宗派などの世間を敵とし、戦う排他性をバネにして巨大化した教団がいくつもあり、そこでがんじがらめにされた方が家族を含めた人間関係に破綻を生じ、人生相談に来られることは珍しくありません。
不毛の対立を溶かし得るのは太陽のような〈認める暖かさ〉であり、北風のような〈痛めつける厳しさ〉ではないことをはっきりと観た上で、仏教の根幹と使命を考えねばなりません。


 もう一点、つけ加えねばならないのは、「仏教」は倫理を導き出す教えであり、宗教としてのいのちは「仏法」にあるということです。
 仏法は、仏(覚者)と称される悟りを得た聖者たちによって感得された生きた真理であり、信じる人を真実世界へ導く具体的な力となるものです。
 それは霊感や予言などとは何の関係もなく、理性と感性を研ぎ澄まし、真理を求め尽した先に得られた人類共通の絶対的なものです。
 
 そこをふまえておかないと、み仏の世界が「物質主義に対する精神主義」といった皮相的なとらえられ方になり、日本でも流行し始めた「癒し系」の疑似宗教レベルでしか理解されない事態になる可能性があります。
 事実、かつて、ベトナム戦争のおりには、平和志向の若者たちがインドなどの東洋へ憧れ、ヒッピーやフォークソングといった形で厭戦・反戦気分を表現しましたが、それは流行で終わりました。

 釈尊も、お大師様も、学び、行じ〈求め尽した〉方々です。
 真に救いを求めるならば、漠然と〈仏教〉を考え、論じるだけでなく、聖者の後を真摯に追い〈仏法〉を体感するしかありません。
 釈尊は、聖者と言われている行者へ教えを請うた時、「何も思わず、思わないと思うこともない静寂な境地にこそ、真理があり安らぎがある」との答を示されましたが、「それでは、明らかに今ここにいる自分が活き活きと生きていることにならないではないか」といった反論をし、さらに真理を求め続けられました。
 そして、思考と修行の究極において真理へ到達し、会得した教えと法力をもって、生涯、救済の旅をされました。
 
 お大師様は、「経典そのものは、生きた仏法ではない。経典を基にし、仏法をつかんだ師から伝授された方法で行じなければ、仏法は得られない」と説かれました。
 そして、マンダラや修法のお次第などを残されました。
 
 教えとしての仏教が再評価されるのは、入り口です。
「泉」であり「根」であり「太陽」である仏法こそ人類共有の宝ものであることがもっと認識されるようになった時、人類は愚かしい戦いから急速に遠ざかることでしょう。




2006
06.08

井戸ができました

 かねて井戸を掘削中のところ、無事、水脈がみつかりました。磁石を用いて位置を指定し、ボーリング屋さんへ20メートルで出るでしょうと申し上げていたとおり、凝灰岩の下ちょうど20メートルのところが水脈だったようです。

 近所の人々は「このあたりでは表層水の井戸しかない。あそこの田んぼでも、あそこの藪でも深いのは成功したことがないから無理だろう」と言い合いながら見ていましたが、「へえ―」となりました。やはりお大師様のご加護はありがたいものです。

 もっとも、掘ってくださった職人さんは業界で「神様」と呼ばれている名人ですから、み仏の場で神様が手を下す以上は、「成る」のが当然ではあります。

 

 完成した堀では、80?を超える鯉など、7人がかりで移動した60数匹の魚たちが元気に泳ぎ回っています。あと半月もすれば清らかな井戸水が不断に供給されるようになるので、文字通りの清流となることでしょう。

 

※当ホームページも『法楽かわら版』も、草刈りのご案内の日付がまちがっていました。

「12日(日)」は「11日(日)」の誤りです。

 お詫びして訂正します。ご都合のつく方は、よろしくお願いします。




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2006
06.08

虚構と真実

 米原万里さんという作家が亡くなりました。
 河北新報の6月6日朝刊に、作家吉岡忍氏が追悼文を載せています。
 故人はチェコのプラハで子供時代を過ごし、ロシアの大統領ゴルバチョフやエリツィンの通訳として活躍したこともあって、その後の作家活動にはめざましいものがあったそうです。
「そうです」としか書けないのは、不勉強なので、故人の作品を読んだことがないからです。

 さて、追悼文には、真実を真摯に生きた人にしか吐けない言葉があり、目を奪われました。
 抜粋を書きとめておきます。

「彼女は多才だった。
 だが、単にそれだけではなかったことを、私は一年前の六月、スロベニアの避暑地で開催された国際ペン大会で目撃することになった。
 私たちのテーブルで、中国やベトナムからの亡命作家たちが故国の言論の不自由を言い募っていたときである。
 じっと耳を傾けていた米原さんは、バラ模様のワンピースに包んだ上体をテーブルの半分まで乗り出すと、英語で言った。
 ロシア語ならお手の物でも、英語の語彙はそう多くない。
 それだけにまっすぐな言葉がその口からほとばしり出た。
『作家は国内にとどまって、普通の人たちの中で暮らし、同じつらさを耐えるべきです。本当の文学はそこからしか生まれない』

 吉岡氏は、その場が一瞬凍りついたようだったと表現していますが、瞑目して米原さんの言葉を口にしてみると、確かに「同じ辛さを耐えるべきです。
 本当の文学はそこからしか生まれない」は、圧倒的な説得力で迫って来ます。
 いかなる説明も反論もあり得ない真実の言葉としか言いようがありません。
 そして、その真実は、あらゆる世界に通じています。
「本当の音楽はそこからしか生まれない」
「本当の政治はそこからしか生まれない」
「本当の宗教はそこからしか生まれない」

 堀江貴文、村上世彰という希代の詐欺師たちが相次いで化けの皮を剥がされましたが、なぜ、政界・財界・マスコミ界がこぞって彼らを持ち上げ、世間へ莫大な被害をもたらしたのかを考える時、真実の言葉が破邪の剣となって解き明かしてくれました。
 持ち上げた人々には「普通の人たち」のそれと「同じ辛さを耐える」姿勢がないのです。
 権力や財力が市井の人々の苦を感じとる感性を失わせたのでしょう。
 虚構の栄華に生きる人々が、詐欺師たちの描き出して見せる極楽の虚構を見破れなかったのは当然なのです。
 また、彼らを持ち上げ、実質的に片棒をかついで被害を拡大させた人々の誰一人として責任を取らないことに、戦後日本の退廃が色濃く現れています。
 太平洋戦争でご主人を失った方の詠嘆が思い起こされます。
「かくばかり醜き国になりたるか 捧げし人のただに惜しまる」

「同苦」という言葉があります。
 苦を同じくする、つまり、相手のままならない思いを我がことと感じる姿勢です。
 思いやりはそこからしか生まれず、思いやりのないところに人生の真実があろうはずはありません。
 いかなる人も、座って半畳、寝て一畳です。
 どんなに立派な棺桶だって中身は一畳分しかありません。
 そんなちっぽけな人間でも心豊かに暮らせるのは、心の通じ合いがあるからです。
 真の通じ合いとは、思いやりのやりとりです。
 米原さんは、こうも言いたかったのではないでしょうか。
「人生の真実はそこからしか生まれない」




2006
06.07

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 2

 第1回に「真理をよりどころとしないがゆえに苦がある」と書きました。
 ここで、「苦」とは何を指すのかを記しておきます。


 私たちは、普段「痛い」「嫌だ」「辛い」などという形で苦を感じます。
 智慧第一と言われた弟子のサーリプッタは、こうした身近な苦を「苦苦性(ククショウ)」「行苦性(ギョウクショウ)」「懐苦性(エクショウ)」と説きました。

「苦苦性」とは、たとえば抓(ツネ)られて痛いと感ずるようなものです。
 痛みは身体を危険から守るためのはたらきであり、危険信号です。肉体を持っている以上、それを感ずることは避けられません。
釈尊といえども同じであり、80歳になっても続けていた行脚の最中に腹を壊した際、しばしば休まれたのは当然です。
 また、暑い、寒い、なども危険信号であり、それらを我慢しなければならない状況では心身の機能が抑えらます。無理をすれば、その先には、当然、死が待っています。焼死・凍死です。
 悟りを開くための瞑想へ入る前の釈尊は、すさまじい難行・苦行をされたと言われています。
 そうした時代のお姿として、まさに骨と皮だけになった状態の尊像が残されていますが、結局は、肉体的ガマンをするだけでは真理は得られないと判断し、難行・苦行を離れられました。
 だから、『四苦八苦』に説かれる「苦」は、そうした肉体的なものを問題としているのではありません。

「行苦性」とは、「行」つまり移り行くことによって生まれる苦であり、この世のすべてが無常である以上、逃れられません。
 その代表的なものが死です。
 死ぬのは嫌だ、死にたくないと思っても、生まれたからには死は避け得ません。
 しかし、頭では解っても心は簡単に静まらず、死神の訪れは、最大の不安と恐怖をもたらします。

「懐苦性」は、「楽境の崩壊」によって生ずる苦とされています。
 たとえば、権力者が失権し、富豪が文無しになり、健康を誇っていた人が不治の病に罹ることなどが挙げられます。
 故三島由紀夫氏の小説で有名な天人五衰(テンニンゴスイ)と呼ばれている状況も同じです。
 天人には人間の何万倍もの寿命がありますが、輪廻転生の輪から脱していないので、必ず天界から墜落する時が来ます。
 いくら辛いと思っても、どうにもなりません。
 それは、頭上の花が萎んだり、楽園にいるのに気が滅入ったりするなど、5つの兆候によって知られます。
 こうなると、古くからそばにいた天女たちが嘆き悲しむ一方、新しくかしづいたばかりの天女たちはあっさり見捨てるとされています。
 天女たちから離れ、何不自由ない天界から地獄界や修羅界へ行かねばならぬ落胆・悲嘆・恐怖は、想像を絶しています。

 釈尊の問題にされた苦は、当然、「行苦性」と「懐苦性」です。
 この二つが、『四苦八苦』という人間にとっての宿命として立ち現れ、場合によっては、それが肉体へ影響を及ぼし、結果的に「苦苦性」となる場合もあります。

 私たちは、真理に依ることができないために、嫌だ、辛いとじたばたします。
 原理的には、虫歯になったなら歯医者へ行かねばならないのに、行きたくないと駄々をこねる子供と同じです。
 決まっていて逃れられないことがらについて「ままならない」と考えて苦しむのはまことに勝手な話ですが、なかなか「―――詮なきこと」と達観できません。
  
 真理に依れない無明そのものをいきなり滅しようとしても、なかなか困難です。
 四苦八苦にその都度正しく応じながら、克服し続けましょう。




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2006
06.05

堀が完成しました

 のべ90人にものぼる方々のご奉仕により、開始からちょうど2週間経った第一例祭の佳き日に、石積みは無事終わりました。

 現地で手伝ってくださった方々、ご声援をくださった方々、また完成を祈ってくださった方々へ、心よりお礼申し上げます。

 まことにありがとうございました。

 

 お大師様は、3年を費やし、誰がやっても堤が切れて洪水を引き起こしてしまう満濃池(マンノウイケ)という暴れ池の堤防工事を、たった4カ月で終えられました。

 今も、世界的な奇跡とされています。

 図面を引き、ことこまかに指導し、壇を構えて修法し続けたお大師様でしたが、完成を祝って朝廷から下賜された大金に一円たりとも手をつけず、すべてを甲山寺造営のためにと置いたまま平安京へ帰られました。

 その時のお言葉を、直木三十五はこう書いています。

「わしの力ではない。そなたたちの持ち寄った力のためだ。そして仏天の冥加(ミョウガ)を忘れぬよう」 

 規模はたとえ何万分の一であっても、今回の成功は、やはり、皆さんの「持ち寄った力」のためであり、2週間にわたってさしたる雨も降らず、1日たりとも作業を休まずに続けられた「仏天の冥加」のためであったと確信しています。

 

 さて、この堀についていろいろなご質問をいただきましたので、あらためて本質的な部分を記しておきます。



 正確に言うと、この堀は『三途の川』自体ではありません。

 迷いの川は、私たちの心にあります。

 この堀を〈渡る〉とは、川を渡る行為を通して、迷いを超克するというイメージを強く持ち、心から三毒を〈消し去る〉ことなのです。


 

 それは、隠形流居合で、守本尊様の梵字を目の前にして破邪の剣をふるうのが、決して梵字で表わされるご本尊様を斬るためではなく、ご本尊様と私たちの間にある見えざる暗雲をうち払うことであることであるのに似ています。

 信念を持って斬るという行為によって、まさしく暗雲は消え、ご本尊様の霊光をいただくことができます。

 同様に、渡るという行為によって三毒として現れる煩悩を消し去り、宇宙の中心を表わす本堂で、ご自身の心からみ仏の光が放たれる体験をしていただきたいと切に願っています。

 み仏が〈ありがたい〉のは入り口です。

 み仏も、自分も、人々もありとあらゆるものも〈一つになる〉のが、密教における目的地です。

 言い換えれば、即身成仏(ソクシンジョウブツ)を体験するために渡るのが、今回完成した堀です。

 

 一日も早く善男善女のための守本尊道場全体が完成するよう祈り続けます。




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2006
06.05

親輪会より草刈りのご案内

 麦の収穫の季節となりました。皆様にはお元気でお過ごしのことと思います。

 次の要領にて、親輪会会員をはじめ、法楽寺とご縁の方々こぞって墓苑や守本尊道場などの草刈を有志で実施したいと思いますので、皆様ふるってご参加くださいますようお願いいたします。親輪会役員一同







一 日時  

 6月11日(日) 9時から14時まで 

 交通手段のない方は地下鉄泉中央駅前『イズミティ21』前へ9時までに集合してください。

一 道具  

 親輪会と法楽寺にて準備(用具など)します。

一 燃料  

 草刈機の燃料は法楽寺が負担します。

 もし草刈機を携行される方は法楽寺までお申し出ください。

一 昼食  

 親輪会と法楽寺が準備します。

一 雨天  

 中止します。

一 参加  

 参加される方は6月10日までに法楽寺へご連絡くださるようお願いします。

                   




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2006
06.05

6月の例祭

◇第一例祭



 6月4(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  6月17日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




2006
06.02

6月の守本尊様

 今月(6月6日より7月6日まで)の守本尊様は勢至菩薩(セイシボサツ)様です。



6月の本尊



『根上下智力(コンジョウゲチリキ)』という、人の性根を見分ける力をもって、お救いくださるみ仏です。

 人は、生まれにより育ちにより違った性根を持って運命を創り、お救いいただく道筋も、当然異なります。

 勢至菩薩様は、それぞれが持っている蓮華のような尊い心を性根に応じた方法で開けるよう勢いをつけてくださるのです。




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2006
06.02

水無月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



※5月中に詠まれた句を載せているので、月遅れになっています。



チューリップ根方に侍(ハベ)るあくび猫



寄せ植えの中の一本茎立てり



初咲きの溢れて気付く柿の花



花を観て齢(ヨワイ)一つを重ねけり




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2006
06.02

六月の聖悟

「法界は惣(スベ)て是(コ)れ四恩なり。六道誰か仏子(ブッシ)に非(アラ)ざらん」 ―弘法大師―



(およそこの世に存在するものは、すべて国王《国》と両親と衆生《生きとし生けるもの》と三宝《仏・法・僧》の恩をこうむらないものはない。地獄などの迷いの六道にある人々は、本来、一人としてみ仏の子でないものはいない)



 お大師様にとって「おかげさま」でないものはなく、み仏の子としての「同胞(ハラカラ)」でない人もまた、いませんでした。

 大日如来の現わすこの世は、心眼で観れば迷いの六道であり、霊眼で観れば密厳国土です。

 

 釈尊は、心眼が曇っていてこの世のありさまをきちんと観られない私たちに、まず、「無常を観よ、六道を迷う苦を観よ、空である実態を観よ、流れる時間の中で棒のように存在し続けるものはないことを観よ」と説かれました。

 それは、仏像を造るための材料である木材の形や性質などを正確に知るようなものです。

 

 仏師は、やがてその中にみ仏のお姿を感得し、立派な仏像が生まれます。

 そして行者に魂を込められることにより、生きた仏像としてのご本尊様になります。

 もはや無常ではなく、苦でもなく、空でもなく、時空を超えた存在になります。

 木材であることに変わりはないのに、存在の次元が移るのです。



 こうして、霊眼に観られた「仏子」の世界が開けます。

 釈尊もお大師様も、そこに立たれたからこそ、智慧と慈悲のあらんかぎりを尽されたのでしょう。



 み仏の子である私たちは、「おかげさま」を忘れてはいないか、「他人ごと」と知らん顔をしてはいないか、省みたいものです。

 それが共に苦を脱する第一歩ではないでしょうか。




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2006
06.02

6月の運勢(世間の動き)

 今月は、風が屏風のごとき岸壁に行く手を遮られるような事態が起こりがちです。しかし、眼前に見える岸壁が自分の心や身内によってつくられている幻であることに気づけば、無事に進むことができます。

 それには智慧がはたらかねばなりません。この場合の智慧とは正しいものの観方、正見です。

 正見は、霊性を高めない限り、得られません。霊性を高めるには、人間として恥ずかしくないまっとうな日々を送る以外の方法はなく、仏法は、そうした生き方のできる人間になることを目ざすものです。



 釈尊は、もっとも霊性を曇らせるものとして貪欲(ドンヨク…むさぼり)・瞋恚(シンニ…いかり)・愚痴(グチ…勝手な思考)の三毒を挙げられました。『三途の川』における超克すべきものたちです。



 私たちは、あの世に行きかけた人が「川の向こうにきれいな花畑があって、そのまま行きかけたけれども、人の呼ぶ声にハッとしたら、この世へ戻って来ていた」という話を耳にします。それは、極楽は『三途の川』の向こうにあることを意味しており、私たちの深い意識にはいつしかそうした真理が蓄えられ、いのちと共に伝えられています。

 ただし、肝心なことが忘れられています。それは、『三途の川』はこの世でこそ渡られるべきものであり、仏法はそれを説いているということです。



 過日、ある政治家とこの話をしたところ、「貪らず、怒らず、自分の考えを持たないための川など渡りたくない」と言われました。そんなことをしては、とても仕事にならないというわけです。

 誤解はただちに解かねばなりません。すぐに説明をしました。

「大いなる権力欲をもって、より大きな権力を握ってください。ただし、それをまっとうな目的のために発揮してください。社会悪に対しては大いに怒ってください。不動明王のように揺るがず、社会悪へ立ち向かってください。大いに社会の理想像を練り上げてください。そして、その実現に邁進してください。」

 

 仏法は、決して、欲を減らし、仙人のように気楽に過ごすことを説くものではありません。

 ともするとそんな風にとらえられがちなのは、真の行者の発言があまり伝えられていないからです。

 人は誰しも、その人らしく活き活きと生きて初めて、この世に生まれてきた甲斐があるというものです。活き活きと生きるとは、尊いいのちを尊く活かすことに他なりません。

『法句経』は、

「たとえ百歳まで生きたとしても、真理によらぬ生き方であっては、真理を学び実践するたった一日にも及ばない」

と説いています。

『理趣経』は、

「自他共に真実を生きようとする大欲は清浄であり、真実を生きる大安楽には無限の豊かさがある」

と説いています。

 意欲を捨てて自分の安楽のみを願う生き方は、清らかでも豊かでもなく、霊性を磨き自他共に向上しようとする菩薩の姿勢から離れるものです。

 

 当山で行なっている『守本尊道場』の堀の石積み作業へは、たとえ一つだけでも積みたいという方が足を運んでおられます。また、自分は行けないけれども成功を祈っていますという電話や手紙をいただきます。こうした方々は、自分だけの安楽を求めてはおられません。

「良かれ」「善かれ」と願う心は清らかな意欲に満ちており、まさに菩薩の心です。

 この心を持って幻を見破り、無事安全に過ごされますよう。




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2006
06.01

6月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



勢至菩薩(せい・し・ぼ・さつ) 



「オン サン ザン ザン サク ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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