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2006
07.31

八月の聖語

「智鏡を心台に懸け、醍醐(ダイゴ)を宝殿に嘗めん」 ―弘法大師―



(智慧という鏡を心の鏡台へ立てかけ、この上ない甘露の味をみ仏の宮殿にて味わえるよう)



 この文は、亡き父親の三回忌を行なう方が、五種類の経典を写経して供養する際に修法した、お大師様の願文です。

 ここでは、写経の功徳が明確に説かれています。



 み仏の智慧は、一点の曇りもない澄んで明るい鏡にたとえられます。

 この功徳によって、御霊がそうした鏡のような境地へ昇られますようにと願っておられます。



 醍醐とは、牛や羊の乳を用いて精製された乳製品で、最高の味を持つとされる飲みものです。悟りとも涅槃(ネハン…絶対安穏な境地)ともたとえられるところからしても、いかに美味しいかが想像されます。

 宝殿は、み仏のおられる宮殿です。そこで醍醐を味わうとは、み仏の世界へ入り、その精髄を魂全体で感じ、法悦に浸るという意味です。



 写経の功徳がこれほどの供養になるとは、何とすばらしいことでしょうか。

 

 なお、お大師様は、願文において、書いた経典を御霊へ供えるだけでなく、仏具も荘(カザ)り、仏法僧の三宝へ供え奉ると述べておられます。

 三宝に帰依する清らかな心で供える経典だからこそ、み仏のご加護が受けられ、御霊を極楽へとお導きいただけます。



 また、文章の冒頭近くには、

「父親の納められた棺を自ら担ごうとされた釈尊でさえ、生前、父母の恩へ報いきることはできなかった。御霊に極楽へと行っていただいて恩に報いるためには、仏法を説く経典により、迷いの河を渡すしかない。み仏を信じ仰がねば、恩に報いられない」

とあります。



 父母の恩、み仏のご加護、経典の功徳、供養の心構え。お大師様の教えは偉大です。




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2006
07.31

8月の守本尊様

 今月(8月8日より9月7日まで)の守本尊様は大日如来(胎藏界)様です。





『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、お力をお与えくださいます。




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2006
07.31

8月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」



今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
07.31

草刈が終わりました

Category: 本堂建立計画
 早朝の大雨はあがり、絶好の「草刈り日和」になりました。

 天気予報はどこへやら、思いがけないとしか言いようのない降らず照らず、暑くもない好天に恵まれ、ハプニングで参加できなかった4名の方々は残念でしたが、総勢15名のメンバーで草刈り奉仕が行なわれました。

 

 当日参加できないからと事前にジュースを届けてくださったり、昼食代にしてくださいとご喜捨されたり、また、天候を見計らって事前に草苅をしてくださったりと、多くの方々のお心に支えられて、無事、予定を終えました。

 見違えるようになった境内は、お盆を迎えるにふさわしい姿になり、風が一段と気持ち良くなりました。堀の鯉は勢いよく泳ぎ廻り、蝉は励ましてくれているようです。

 

 汗を流しながらの奮闘は午前中で終わり、当山そばに手造りでロッジふうの建物を完成させた『山海里』さんから求めた冷やし中華とスイカ、それに皆さんそれぞれに持ち寄った煮物や漬け物に舌鼓をうちながらの昼食となりました。

 

 お菓子やジュースをいただきながらのお礼の最後に、こんなことをを申し上げました。

「理想の本堂は、着々と図面が進んでいます。必ずや遠からぬ時期に姿を表わすでしょう。今は、そのための資金は一円もありません。日々の法務で精一杯だからです。

 しかし、ここはお大師様の弟子が教えを実践している聖地ですから、お大師様が高野山を創建された時に「釘一本、瓦一枚でも」と広くご寄進を募った時と同じ方法でやります。

 無理なご寄進依頼によって壇信徒さんを苦しめながらできあがる豪壮な本堂など、何の意味があるでしょうか?皆さんの願いと喜びが集まってできあがる施設こそ、真の拠り所であると信じています」

 

 そして、廃車や廃屋を供養する、全国で初めての(『東北経済』誌による)インターネット受付『カギ供養』にご縁を求めるご依頼が、東京や大阪など各地から入り始めたことをご報告しました。

 

「今秋には本を出版し、信念と願いを全国へと発信します。願いとは、もちろん正しい教えと法によって『この世の幸せとあの世の安心』を得ていただきたいということであり、『子どもたちと日本の未来のために』寺子屋を建立したいということです」



 ゆっくり休んで解散となり、午後からは、希望者が『法楽農園』で整地や種まきに精を出されました。

 3時前からは本堂で人生相談などの法務が始まり、皆さんの解散を見届けられませんでしたが、暗くなってから行った『法楽の苑』も『守本尊道場』も『法楽農園』も、そして、作業用のプレハブもきれいに後片づけが済んでいました。

 普段、限られた時間内で走り廻っており手の回らないところを、実にしっかり補っていただきました。

 何と、Sさんは、井戸の排水を流すための作業を一人黙々と続けておられました。奥さんの体調不良によりなかなか出てこられないので、一気にやってくださるおつもりなのでしょう。

 あらためて、皆さんのお心の篤さと清らかさに頭が下がり、合掌しました。



〈今年も百合が咲きました〉






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2006
07.30

運命転化法 12 ―善人が八方塞がりになる時は―

 とても「良い人」や「善い人」がなかなか大きく羽ばたけない場合があります。
 そうすると、世間は所詮こうしたものだという独自の見解ができてしまい、同時に自分の見解への執着が強くなり、世間へ大して斜に構えるために、根は善人なのに、ますます受け容れられにくい人になってしまいます。

 信徒Kさん手作りの冊子にカンボジアの民話があります。

 昔、インドにビンビサーラ王という大変徳の高い方がいました。
 この王子アジャッタサールは我がまま者で、まだ若いのに自分が王になりたいと考えました。
 王の従弟デーバダッタは、常々王の輝かしい日々を妬んでおり、アジャッタサールの邪心につけこんで破滅させようと企みました。
「王子様、王様はあなたではなく、妹を女王にしたいと考えていますよ。
 王様からそうした指示がある前に、王位を奪わねばなりません。
 それはあなたにしかできないことです」
 そそのかされた王子は、懐へ短剣を忍ばせ、散歩をよそおって王宮へ向かいました。もちろんたった一人です。

 警備兵は咎めました。昼前に王宮へ入ることは誰も許されないからです。
 ところが、王子は、子供が親へ会いに来たのに門前払いをするのは何ごとかと暴れたため、隊長は王子を捕縛しました。
 そして、短剣が発見されました。

 隊長は考えました。
「王の命令によれば、この時刻に宮殿へ入とうとする者はもちろん、武器を持ちこむ者も許されない。
 警備兵は、命令に従わぬ者は誰であれ殺すように命じられている。
 こうなれば王子と家族、そして関係者すべてを殺さねばならない」
 即断できないでいるうちに、二番警備兵が言いました。
「王子は明らかに犯罪者であるが、そそのかしたデーバダッタも処刑せねばなりません。
 王子を処刑する前に、厳しく詮議すべきでしょう」
 もう一人の思慮深い三番警備兵は、他の意見をよく聞いた後に、意見を述べました。
「この国の法律は一般人を対象としたものであり、王家の一族に対しては慎重でなければなりません。
 まして、王子様は我々の王様が愛している息子です。
 王様に雇われいる我々警備兵は自分たちで結論を出さず、王子様と短剣を王様へお渡しして判断を仰ぐべきではないでしょうか」

 悲しい目で王子を見た王様は、それぞれの考えを聞き、判断を下しました。
「隊長よ、王子と家族などを殺そうとしたお前は宮殿兵の資格がない。
 もう、自分の村へ帰りなさい。
 二番警備兵よ、お前は王子と首謀者を殺そうとした。
 しかし、お前がこうした非常時の裁きをすることは許されない。
 元の仕事に戻り、水牛の番をしなさい。
 三番警備兵よ、お前は、王家の不幸なできごとをよく見極め、さまざまな事態をも予測し、賢い判断をした。これからは君が隊長だ」

 さまざまな事態を予測する判断力や全体を観る視点を持つ柔軟な思考があれば、「良い人」や「善い人」は、周囲へ芳香を広げる「佳い人」へと成長できます。 不動明王は、このように人それぞれの住む世界や考え方の違いについて深く理解する力をお授けくださいます。




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2006
07.29

隠形流居合について 1

1 隠形流居合とはどういうものか

 この特殊な居合は、不動明王の法によって自らを清め、鍛え、能力を高め、摩利支天(マリシテン)の隠形法を用いて悪しきものから自他を守る密教剣法です。

 摩利支天は、かつて阿修羅と帝釈天が戦い、日月が破壊されようとしたおりに、すばやい動きで阿修羅の軍勢を目くらましにかけ、この世が闇になるのを防いだとされる神であり、その後、仏法を守る護法神として現在に至りました。
 摩利支天は悪しきものの前へ蜃気楼や陽炎のように現われるので、相手は見られず、捕まえられず、そもそも戦いになりません。そして、打ち破られるべきものは、陽炎の奥から瞬時にひらめく剣によって断たれます。

 日本へその法が伝わってからは楠木正成、武田信玄、上杉謙信、前田利家といった武将たちの守り神となり、威神力が崇められて、剣難、火難、盗難などの災厄を至らせない神として尊ばれています。
 実際、当流には、眠狂四郎のように剣で円を描き、清めると同時に魔ものに踏み込ませない型もあります。

 見学者やホームページを読んだ方からお受けする質問は「なぜ寺院で剣を用いるのか?」が圧倒的です。
 摩利支天も不動明王も剣を手にしているので、当流が剣を用いるのは当然ですが、そもそも、不動明王はもちろん、虚空蔵菩薩や文殊菩薩など、たくさんのみ仏や神々が剣を手にしておられることに思い至れば、疑問は解消するはずです。
 すなわち、行者が手にする剣は、己を切らず他人を切らず、智慧を曇らせる魔ものを断つための〈仏具〉です。単なる武器や美術品ではありません。

 剣を振るのは身体の修行です。
 また、気合となってほとばしる「九字」は、眼、耳、鼻、舌、皮膚、そして、表面の心、生きた歴史を刻み込んだ心、生まれ持った心、み仏の世界へ通じる心の九つを清め、それぞれの持つ力を発揮させるために唱えられます。
 そして、心に抱く観想は、み仏の世界へ入るための念をつくり、不動心をもたらします。
 隠形流は、身・口・意を清め、それぞれの能力を高め、み仏と一体になる仏道修行法です。




2006
07.27

今日もありがたい日です

Category: 日想
 今日も朝から梅雨の合間をぬって駆けつけた8人もの方々がそれぞれ、草を刈ったり、集会所を掃除したり、井戸の処置をしたりしておられます。もちろん、中には業者さんもおられますが、皆さん心を尽し、汗を流しておられます。とても感謝し尽くせるものではありません。

 

 また、今日は暗いうちからパソコンのキーを叩き、今秋出版予定となっている書物の原稿をやっとまとめました。明日、不動明王のご縁日には完成形となります。何とありがたいことでしょうか。

 

 草苅へ参加できないからと飲みものを届けてくださる方、野菜を届けてくださる方、布巾を縫って送ってくださる方、さまざまなご供物を送ってくださる方々と、皆さんの尊いまごころの集まる当山は、足を運ばれる善男善女が必ず救いと安心を得られる永遠の泉となるはずです。

 

 堀に小さな睡蓮が咲きました。皆さんのお心の結晶です。合掌




















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2006
07.26

救われる道5 ―人間界から脱するには―

 出版の原稿書きに追われていて、気がつきました。
 5つの苦界から脱する方法をまだ4つしか書いていません。
 ここに5番目を記します。
 ただし、これは最も難しく内容も膨大かつ深遠であり、本稿ではサワリしか書けません。
 8つのカギを用いても問題が解けずに思い悩み、行き詰まった方は人生相談にご来山ください。

 人間界は聖なる世界と四悪界(地獄・餓鬼・畜生・修羅)との中間にあり、人間は、時には神のごとき行いをするかと思えば、時にはケダモノにも劣る行いに走ることもある中間的存在です。
 万華鏡のように悲喜こもごも、泣いたり笑ったりの人生このままで良いと達観するならともかく、あまりに哀れであり、苦しく、辛く、情けなく、憤らずにいられないできごとにあふれたこの世を良くしたい、あるいは自らのままならぬ思いを解消したいならば、目ざすべきは如来の世界です。
 そのために、釈尊は「八正道」を示されました。
「八正道」によって四苦八苦を克服できないならば、人間にとっての救いはどこにもありません。

「生苦」は生まれに関する苦です。
 母となる母体の辛さはもちろん、無事この世へ生まれ出ることができるかどうか、子供にとっても、人生の最初に死と隣り合わせの苛烈な体験が待っています。
 生まれた後は、何でこんな所に生まれたんだろうとか、生まれて来なければ良かったなどと考える場面もあります。
 どう考えようと、一旦生まれた以上は、死ぬまで生き続けるかそれとも自分で終わりにするか、選択肢は二つしかありません。
 いずれも極苦と感じるならば、生苦は極まります。
 克服するカギは「正見」です。

「老苦」は老いに関する苦です。
 若くして夭折しない限り、老いは誰にもやってきます。
 それは意外に足早に訪れるにもかかわらず、気づく、あるいは認めるのはどうしても遅くなるもので、そのズレは、ちょうど見て感じるよりもはるかに早く到達する津波のようなものです。
 小椋佳は「果てしない海へ消えた僕の若い力呼んでみたい」と絶唱しますが、若い力は、決して戻ってはきません。
 克服するカギは「正思」です。

「病苦」は病に関する苦です。
「俺は人様に後ろ指さされたことなどない」と豪語する心が、すでにある意味で病気にかかっているかも知れないように、事故死や変死でない限り、人間は必ず病を得て死を迎えます。
「医者になど行ったことはない」人であっても、ぱったり亡くなれば、死亡診断書に「心筋梗塞」と書かれたりします。
 自分の生活に原因があったとしても、なかなか気づきにくいものであり、呼んだつもりはないのにいつの間にか側にいるのが病魔です。
 克服するカギは「正語」です。

「死苦」は死に関する苦です。
 生きものはすべて生まれた瞬間から死への歩みを始めます。
 それは決して止めることはできません。
「生まれた」には「死なねばならぬ」が貼りついているのに、普段は気づかず、誰かの死によって初めて実感されます。
 それでも他人の死と自分の死とは天と地ほどの隔たりがあり、人は自分の死を目の前にして初めて、最もままならぬものを真に知り得ます。
 克服するカギは「正業」です。

「愛別離苦」は愛するものとの別れに伴う苦です。
 どんなに可愛がっている犬であれ、いつかは死にます。飼い主が先に死ぬかもしれません。いずれ必ず別れはやってきます。
 克服するカギは「正命」です。

「怨憎会苦(オンゾウエク)」は怨み憎まずにいられないものとの出会に伴う苦です。
 怨んだり憎んだりしないではいられぬ人との出会や、後に怨みや憎しみの残るできごとは、必ずあるものです。
 克服するカギは「正精進」です。

「求不得苦(グフトクク)」は求めても得尽すことのできない苦です。
 身体は手足をどんなに伸ばしてもたかが知れている範囲までしか届きません。
 大富豪も寝るときに占める面積はせいぜいが畳一枚分やそこらです。
 一日は二十四時間しかなく、どんなに好きなラーメンでも十杯は食べられません。
 なのに、見れば、聞けば、思えば、欲しい惜しいと際限なく賤しくなります。
 欲は、放っておいて自律的に止まることはありません。
 律し、節する意思がなければなりません。
 克服するカギは「正念」です。

「五蘊盛苦(ゴウンジョウク)」はいのちのはたらきや、ものなどがあり過ぎて起こる苦です。
 性的欲望が引き起こす犯罪、ネット上に溢れた情報が必要とするものを適切に選ばせない不便、発達し便利になった情報網を悪用する輩の跋扈、発達した科学がもたらした核爆弾、いずれもこの苦です。
 克服するカギは「正定」です。

 人間は不完全なのに、真、善、美それぞれに完全なイメージを持つことはできます。
 そして、数学の定理、捨て身の善行、至高の絵や音楽など、時として、驚嘆するようなものをつかみ、表わすことができます。
 そこに感じられる「究極」や「完全さ」こそが如来界の表われです。
 ピラミッド、教王護国寺の立体マンダラなど、人間はいつの時代も完全なものを求めつつここまで来たのではないでしょうか。
 
 もし〝この迷いから脱したい〟と思った時は、至心に祈りましょう。
 如来界をイメージし、祈願をかけましょう。
 心清浄ならば、きっと如来界をかいま見せていただけることでしょう。 




2006
07.25

色情因縁の解決3 ―極楽と地獄を見たアーナンダ―

 釈尊は、こんな風にして愛弟子を色情因縁から救い出されました。

 釈尊と父を同じくするアーナンダは、釈尊に似て得も言われぬ威厳があり、また端正な顔立ちなので、時として釈尊と間違われるほどでした。
 女性たちにチヤホヤされ、浮き世のことごとへの強い執着心もありました。
 そんな彼は、愛妻を娑婆へ残して出家したものの、なかなか心が定まりません。

 ある日、釈尊は神通力を用いて彼を天界へ誘いました。
 何もかもが想像を絶するほど美しく、特に天女たちはすべて見たこともないほどの美貌を持っており、彼はすっかりびっくりしてしまいました。
 釈尊は訊ねられました。
「アーナンダよ。天女たちと君の妻とどちらが美しいかね?」
 彼は当然、天女たちですと答えました。
 そして、彼は一段と清らかなのに伴侶を持っていない天女を見つけ、どうしてあなたはお一人なのですかと声をかけました。
 天女は答えました。
「今、地上では、アーナンダという方が仏陀のもとで修行中です。
 やがて修行の功徳によって天界へ来られ、私の夫になってくださるので、待っているのです」
 その日から、アーナンダが修行に打ちこんだのは言うまでもありません。

 またある日、釈尊は神通力を用いて彼を地獄界へ誘いました。
 罪人たちが釜でゆの刑に苦しみ叫んでいるている光景に卒倒しそうになった彼は、ふと、誰も入っていないにもかかわらず、ただお湯だけが煮えたぎっている釜があるのに気づきました。
「おや、あそこには誰もいませんね」
 恐ろしい形相の獄卒は告げました。

「今、地上でアーナンダという人が修行をしていて、やがてその功徳で天界へ上るが、功徳が尽きればここへ堕ちることになっているのだ」

 びっくりして道場へ逃げ帰った彼は、六道をフラフラしている己の様子をふり返り、一心不乱になって修行に励んだ結果、ついに悟りを開きました。
 釈尊は告げました。
「威力を具え、容貌も美しい者はアーナンダである。
 強い愛欲にうち克ち、五根を調え、執着を断ち、清浄な行者となって欠けるところがない。  昂ぶらず、放逸でなく、よく心を調御しており、正念、正智、共にみごとである」
 アーナンダは清浄で美しい姿と声で人々から慕われ、すばらしい説法者になりました。

 私たちは、神通力を持つまでもなく、この世の地獄も極楽も日々見ており、接してもいます。 そこへ出入りもします。
 上がらない雨がなく、快適な気候のみが続く日々もないのと同じく、六道輪廻の歯車はグルグルと回り続けて止まりません。
 己の善業が良き運命を創り、己の悪業が悪しき運命を創り、文明の共業(グウゴウ)が良き運命を創る手助けとなり、悪しき運命へと押し流しもします。
 文明の共業とは、たとえばコンピューターの発達です。バイオテクノロジーが難病を治す薬を作る一方で、ゲームは若者たちの脳を破壊しています。
 地獄も極楽も、畢竟、私たちの心の産物です。
 見るべきものを心の眼で観て、心を定めたいものです。

 そして、アーナンダこそが色情因縁を解脱した人であることもしっかり見ておかねばなりません。
 美しさは、身体と言葉で用いれば自他を地獄などの悪道へ堕とします。
 しかし、心と言葉で用いれば自他を高め、救いもします。

 今は、前世の因縁として持って生まれずとも文明によって色情が強くかき立てられる時代です。
 現代人のほとんどが共業としての色情因縁に染まっていると言っても過言ではありません。

 教師、警察官、弁護士、僧侶などなど、職業的に犯罪と最も遠いところにいるはずの人々が、この因縁で次々と墜落している現実が、それを証明しています。
 2500年前に因縁解脱を見せてくれた彼に、よくよく学びたいものです。



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2006
07.24

欽ちゃんのファインプレー

Category: 日想
 欽ちゃんが前言を撤回し、野球の球団を存続させることになりました。

「たった3日の解散で、ずるいと思っています。撤回するのは恥ずかしくて、みっともないと思っていた」

は本音でしょう。

 解散発表直後からさまざまな形で膨大な「やめないで」コールがあったのは想像に難くなく、日本野球連盟の松田昌士会長までが直々に「欽ちゃんの後ろに何百万人いると思っているんだ。別な形で責任をとれ」と諭したそうです。



 あの時の「やめる以外考えられない」も、今回の「みんなが喜ぶと思って復活した」もまた本音に相違ありません。

 うがった見方もあるようですが、いかに上手な芸人といえどもつまらぬ計算があったはずはなく、芸風同様スピーデイに動いたのでしょう。

 

 涙の訴えを受けて再開したからといって、泣きながら止めた潔さに傷つくものではありません。

 たちまちにして万の単位に達したとされる存続の署名(放っておけばどれだけの数が集まったことでしょうか)と、署名活動をしたファンの「心の叫びが届いた」はそれを証明しています。

「止めるときは一人で決断し、行なう時は推されて乗る」出処進退の大原則を彼なりの形で見せたファインプレーは、実に新鮮でした。




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2006
07.23

ふたたびの市川雷蔵 ―光と影を宿した男―

 以前、当山で市川雷蔵主演の『眠狂四郎』を鑑賞する会に参加されたSさんが、バックナンバーで最後の一冊を手に入れましたと、『知るを楽しむ』平成17年6/7月号を送ってこられました。向田邦子と市川雷蔵の特集です。
 市川雷蔵については作家の村松友視氏が希有の俳優雷蔵について熱い文章を書いています。
 彼は、20歳になるまでの間に何度も名前が変わるという運命を背負った雷蔵の特異なキャラクターについて以下のように述べます。

「負の札をその場その場で正の札へお色直しして使い捨てることなく、自分に与えられた色を、身につけたまま映画俳優という世界までたどりついた。
 そこに、雷蔵の値打ち、挌というものがあるような気がするのだ」

「私は、スーパースターというものは、洋の東西を問わず、〈かげ〉が光って見えるという特徴を持っている存在だと思っている」

「市川雷蔵は自らの出自に始まる〈かげ〉を、無意識であるのか、才能的に自覚したあげくであるのか判断はできぬが、終生道連れとして生きていった。
〈かげ〉を自分から突き放すことをしなかったのだ。
 雷蔵のこの潔さが、比類ない光となって人々を打ったのではなかろうか」

 雷蔵は、親の不仲によって母の実家で生まれ、生後6か月から名門でない歌舞伎役者の養子となり、さらに20歳の時に、将来を嘱望する映画監督武智鉄二の口ききで名門市川寿海の養子になりました。
 育ての母は泣いて反対したそうです。
 その3年後に映画デビューして158本もの映画に出演し、肝臓ガンで37年の生涯を閉じました。
 一番目の養母は雷蔵21歳、同じく一番目の養父は雷蔵24歳の時に他界しました。
 30歳では二番目の養母を失っています。
 また、病魔に冒され始めた32歳の頃に、第三者の手紙によって生母の生存を知り、会っています。

 さて、今は何ごとにつけ明るいものが好まれ、望まれ、売れる時代です。
 影、陰、翳を帯びたものは疎まれ、急いで脇へ追いやられます。
 皆が笑いを求めてやみません。
 しかし、その一方で、モノに光が当たれば必ず生じる影の部分は、明るさになじまないタイプの人々によってそのままの形で認められることなく、仮想世界をつくりつつあります。
 さまざまなゲームや、偏執狂と紙一重のアニメキャラクターへの傾倒などです。

 影を見て自分の姿を確認しつつ光を目ざせばまっとうに生きられるはずなのに、光から逃避しようとする心性は限りなく仮想世界へと傾斜して行き、バランスが大きく崩れれば人間関係を損ない、社会性を失い、挙げ句の果ては犯罪者にもなってしまいます。
 子供や夫がバランスを損なっていますと人生相談に来られる方々の涙には、大切な人が目の前で生の現実を破壊するアリ地獄へ飲み込まれて行くのをどうしようもない悲しみと絶望が宿っており、胸を締め付けられる思いをする機会が増え続けています。
 このアリ地獄こそが、現代文明のもたらす共業(グウゴウ)です。
 
その力は強大で、離れるタイミングを失ってしまうと、取りかえしのつかないことになるのに、どれだけの人々がその恐ろしさに気づいているのか、はなはだ疑問です。

 こうした現実を前にする日々にあって、光を目ざしたいばかりに無理に〈かげ〉を消そうとしたり、あるいは自堕落に〈かげ〉に溺れてしまったりせずに、みごとに〈かげ〉と共存する姿を見せてくれた雷蔵の潔さは特筆にあたいします。
 光だけの薄っぺらさや影だけの劣悪さは、いずれも釈尊が説かれた人の道『八正道』における「正見」と反対のものです。
 現実に現われている真実を観て大道を歩むことなく、道の端へ走ろうとするのはいずれも逃げであり、人からまっとうさを失わせます。
 前回の鑑賞会では眠狂四郎に表われていた高貴さを観ましたが、次回は市川雷蔵の潔さ、深さを観たいものです。
(もっとも、眠狂四郎シリーズ後期の作品では、村松友視氏の言うとおり役と俳優が一体化しており、観客には狂四郎という虚構と雷蔵という現実の区別はつかないことでしょう)




2006
07.21

【現代の偉人伝第二十三話】 ―武士道を見せた萩本欽一氏―

 忙しく目を通していた新聞の記事に、息がつまった。選手の不祥事を受けて、欽ちゃんが社会人野球の球団『茨城ゴールデンゴールズ』を解散するという。

 次いで、声にならぬ「あーーー」が喉から絞り出すように流れ、涙が溢れてきた。

 

 萩本欽一氏は昭和16年の生まれ、私より少々年長であり、彼の出演するテレビ番組を見ることはほとんどないが、彼の行動は、同世代の人間の生きざまとして気にかかるものだった。

『コント55号』の芸が秀逸だとか、司会に味があるといった特段の興味は持っていないが、ファンや視聴者へ対して優しくしたいと懸命であることは解っていた。

 だから、趣味の野球が社会的な人気や評価を落としつつあった平成17年に自前の球団を創った時は、彼らしいと感じた。

 大好きな野球をヨイショと持ち上げよう、ファンたちに喜んでもらおう、野球に希望を持ってもらおうとしているのだろうと思った。

 茨城県の農家の人々などを交えた選手構成も彼らしかった。

 彼は、芸人として舞台やテレビカメラの前に立てば大きな収入が約束されているのに、行く先々で地域の人々と一緒になって野球を楽しみ、どこへ行ってもサービス精神を発揮していた。

 野球チームの監督は、子供であると大人であるとを問わず、男性なら一回はやってみたい仕事の一つに挙げられる。ああ、彼は夢を実現しているのだなあととすなおに喜んでいた。



 事件は、7月16日夜、遠征先の函館市で起こった。芸人山本圭一選手が、未成年の女性4人と飲酒の上、一人に性的暴行を加えたのが容疑内容である。

 17日午前、少女からの被害届を受けた北海道警は、山本に任意出頭を求め、事情聴取に着手した。山本は体調不良を理由にしてこの日の試合を欠場した。

 同日夜、監督の元へ山本から電話が入った。

「とんでもないことをしてしまった。すいません。あの…」

 監督は「何も言うな。内容は知りたくない」と遮り、電話を切った。

 19日、山本が所属する吉本興業は、本部で役員が記者会見を行ない、山本が結成していた『極楽とんぼ』の解散と、山本本人の謝罪及び芸能界からの引退を表明するコメントを発表した。

 吉本興業は、18日、すでに山本の解雇を決め、午後4時には本人へ通達していた。監督はそれを受けて球団の解散を決意したものと思われる。



 吉本興業の記者会見とほぼ同時刻、芸能活動のために移動中の監督は、羽田空港で取材に応じ、球団の解散を表明した。監督の足は震えていたという。

『ニッカンスポーツ』を引用し、言葉を書きとめておきたい。



「事が大きいのでどう考えていいのか。でもやめる以外考えられない。応援してくれた方には申し訳ないけど、やっぱり相手の方にも失礼だし、それに一番野球に対して失礼しちゃったんだから」

「吉本さんの判断を聞いて、オレがいけないんだって思ったの。今後やると言いっても、やめると言っても迷惑が掛かる。私が始めた野球…。ごめんなさい」

 選手の管理不行き届きについて尋ねられ

「そうですね。楽しい野球なのに、つらい目に遭わせちゃったよ」

 山本への一言は

「球団、なくなっちゃったよ」



 監督はこうも言っている。

「99%バカって言いたいけど、あー、分かんねえ。どうしてあげることもできないから。一緒に謝るしかない」

 夢列車と言ってはばからない生涯をかけた夢を捨てさせられながら、「どうしてあげることもできないから。一緒に謝るしかない」というせりふは、万人に一人も口にできないのではなかろうか。



「僕には責任がある。山本が反省して、どっかで仕事をやるまで責任がある」

 監督は事件に関する間接的な被害者と見ることすらできる状況で、自らの責任をとったばかりでなく、夢を壊した張本人に対して指導者としての責任をこれからもまっとうして行くと言う。



「今は『ごめん』と『ありがとう』だけです」

 一切言い訳をせずに責任をとり、謝罪し、これまで支えてくださった人々へお礼を言って去る、こんな日本人がまだいたのである。

 事件を起こした者にはこれからの反省を促しても、自分は「反省しています」で逃げようとせず、きっぱりと責任をとった。

 

 夢をかける以上自ら汗を流し、たくさんの人々に支えられている人間であることを深く自覚している『自己尊敬』、指導を受けている人間の起こした不祥事の責めを自ら受ける『自己責任』、そして、ただちに潔く生涯の夢すら捨て去る『自己犠牲』、いずれも武士道の精神そのものである。

 球団をやめないで欲しいと訴える子どもたちへ、大人たちは彼の精神の尊さを教えたいものである。

 彼は、自らを捨てて最高の教材となってくれた。

『茨城ゴールデンゴールズ』に目を輝かせていた子どもたちに、彼の心をこそ嗣いでもらいたい。
 

 

 最近、高い学歴、高い地位、高い収入、こうした人々がいざという時に見せ続けている卑劣・卑怯・脆弱・怯懦といった醜いものを、彼の涙は清め尽すかのようである。

 萩本欽一氏が「最後の武士」とならぬよう、心から願ってやまない。




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2006
07.19

『グラスハウス ル・ブルー』さんにて

 仙台市太白区にある『グラスハウス ル・ブルー』さんで法話の会を開いていただきました。

 精巧なガラス製品に囲まれた不思議で温かい空間に出来た車座は、釈尊の時代に四阿(アズマヤ)で行なわれていた集会を彷彿させるものでした。

 はっきりと異なっているのは、モーツャルトの弦楽四重奏曲を聴くかのようなハーブティが用意されていたことでしょうか。

 

 当時の部族では、皆が四阿に集まって開く会議でものごとを決めたこと、それぞれが集団の中で自分の役割をきちっと果たそうとしたこと、婦女子への暴力は御法度だったこと、自分たちの部族に現われた聖者だけでなく他所からやってきた聖者をも尊んだことなどを申し上げながら、かつて地上にあった理想の空間がここに再現され、同じ時間が流れていることを感じていました。

 五種供養や五つの心がけなどをお話ししているうちに、たちまち予定の時刻になってしまいました。



 質疑応答では、光市で発生した母子殺人事件と死刑制度の問題や、神通力についての鋭いご質問があり、最後に興味深い話題になりました。

 

 Oさんが朝顔を3鉢育てました。一つへは目も声もかけ、一つは罵倒し、一つは無視しました。

 その結果、無視されたものが明らかに育ち遅れになったというのです。

 また、法話を行なった部屋の隅をツタのように這っている緑濃い草は、クリスタルボウルというガラス器で癒しの音楽を奏で始めてから、飛躍的に蔓を伸ばしたそうです。

 ああ、そう言えばと、以前『法楽』へ書いたできごとを思いだしました。

 生きたエビを沸騰したお湯へ入れようとすると、別室にある鉢植えの植物が反応したのです。

 動物から発せられた危険信号を植物が感知するとは、にわかには信じがたいできごとですが、ニューヨーク市警のウソ発見器でくり返し行なわれた実験の結果であり、事実と言うしかありません。

 

 こんなこともありました。

 数日前『法楽の苑』で開眼供養と納骨を行なったところ、法が始まった瞬間、向かって右側に供えられた花束のうち、内側の小菊三本だけが、数秒間まるで手を振るかのように激しく左右に動きました。

 皆さんちょうど合掌瞑目しておられたので気づいたのは私ともう一人だけでした(修法後、その方から感極まったような表情で指摘がありました)が、そよりと吹く風すらないどんよりとした雨雲の下で左右対称に飾られた花の一部だけが明らかに動いたことは、物理的な原因を探しようがありません。行なわれた法が橋渡しとなり、納められた御霊と参列された方々の心とが感応したのでしょう。

 メッセージをどう理解するかは、受け手の問題です。



 昼食としていただいたカレーライスも、デザートのチーズケーキも、コーヒーもそれぞれに心のこもった味がしました。

『グラスハウス ル・ブルー』さん、ありがとうございました。

 ご用意とお世話をしてくださった方々と参加された皆さんにみ仏のご加護がありますよう、重ねてお祈りします。合掌




2006
07.17

釈尊はなぜ釈迦族の滅亡を甘受されたのか

 釈尊の晩年、釈迦族は隣のコーサラ国によって滅亡させられます。
 釈尊は二度止めて三度目には諦めたとも、三度止めて四度目には諦めたともされていますが、なぜでしょうか。
 なぜ、悟りを開いて法力を駆使できた超人が出身種族を救えなかったのか?
 実際、神通力第一とされたモクレン尊者は、町を鉄の籠で覆ってしまいましょうかと打診しています。
 しかし、釈尊は「釈迦族の宿縁は熟した。報いを受けねばならぬ」と言い、滅びを受け容れました。

 この場合の「宿縁」は、一般的には、次のような成り行きを指すと考えられています。

 そもそも、コーサラ国の前国王は釈尊の信徒であり、自分の后を釈迦族から迎えたいと希望しました。
 ところが、コーサラ国から来た使者の尊大さに怒った誇り高き釈迦族は、卑しい階級の女性を高貴な出身と偽って嫁入りさせました。
 やがて生まれた王子は成長して真実を知り、自分が国王の座に着いた時、長年の怨みを晴らすべく釈迦族に向かって兵を挙げます。
 まさに過去の因縁が熟して、時が来たというべきでしょう。

 しかし、この当時、新興国家は伝統的な暮らしを守っていた種族を次々に襲いつつ、国力増大を競っていました。
 各種族は、賢者をたて、長老を敬い、全員の合議制をとり、弱者をかばい、祖霊を尊び、協同的な生産活動をして政治的・経済的に独立した平和な日々を送っていましたが、武力の強い国家に侵略されて土地を失い、奴隷となり、次々に滅亡して行きました。
 かつてはアレキサンダー大王の侵略をすらくい止めた勇敢な種族たちも、最新兵器と貨幣経済を持つインドアーリアン族がつくる国々に武力で対抗することはできなかったのです。

 こうした情勢にあって、釈尊は、「滅びるものは滅びるにまかせ、自らは種族社会で培われてきた大切な宗教感覚を再建しよう」と決意されたのでしょう。
「私は古代の道、完全に覚醒したすべての聖者が創始した古い道を見てきた。それは私が従いたいと思う道なのである」
 だからこそ、新興国家の階級制度に真っ向から「否」をつきつけ、「人格は生まれによって判断されない、いかに生きるかによって判断される」と説かれたのです。
 また、同族が生きるために共同で行なっていた生産活動が、国家にあっては一人一人が物欲に追われて行なう私的利益の追求に変質し、我と我がぶつかり合い始めた醜さを戒め、「煩悩の火を消すべし」と説かれました。
 そして、「怨みへ怨みをもって対すれば、この世から怨みによる悲惨なできごとはなくならない。我が心から怨みを消すのが根本的な解決法である」は、地獄を観た聖者が発する血を吐くような訴えです。

 その後の歴史は、心身を解き放つ方向へと進んでいます。
 理性のはたらきが高まり、科学の世界における因果関係の解明が生活を便利にし医薬を向上させ、「不測の死」からどんどん遠ざかった人間は着実に寿命を伸ばしています。
 精神的肉体的欲望がより大きな満足を求め、自由と平等の旗印がそれを後押しししています。
 そうした流れは、一方で、我を主張することに対する自制心を失わせつつあります。

 釈尊から2500年、螺旋状に進む人類の歴史は今、踊り場に来ているのでしょう。
 核爆弾という事実上使えないながら人類を幾度も滅亡させ得るほど強力な兵器の存在は、欲望に走る他人への疑心悪鬼とあいまって、私たちをかつてない不安に陥れています。
 日本では、カギをかけなくとも平気だった地域でもカギかけ運動が高まり、地域住民がぶらりを花見へ出かけた学校は頑丈な門とガードマンに守られ、人々が自由に行き来する街は監視カメラが見張り、巨大なビルは24時間警備員が見回っています。
 悪人は咎める警察官から逃げず、逆襲するほど悪質になりました。
 家庭内殺人は日常茶飯事となり、いつ、誰が、どこで、どのように殺されても不思議ではない国になりつつあります。

 解き放たれたものは強い光となる一方で、深い影をも生み出しました。

 今こそ、運命に逆らうよりも、運命は甘受しつつ、いかなる運命にあっても人間としての真実を求めて生きようとした釈尊に学び、自らを戒め、自心を清め、霊性を主として生きたいものです。




2006
07.16

不完全な人間

 なぜお地蔵様や観音様がおられるか?
 それは、人間が不完全な存在なので、導き手がいないと人間としての生をまっとうできないからです。

「人」は棒が棒を支えている形であり、一本ではちゃんと立っていられません。
 人間の親に育てられ、社会で生きない限り人間の子として生まれても人間そのものになれないことは、オオカミに育てられて発見された少女マカラが証明しています。

 また、人は「間」的な存在であるから「人間」です。
 何と何の間かといえば、人間より徳が下の餓鬼や畜生の世界と、人間より徳が上の天人やみ仏の世界です。
 ただし、人間はいつでも天人にもなれるし、餓鬼にもなれるという特質を持っており、そうした揺れから脱すれば菩薩にもなれます。

 そもそも、人間は与えられている脳細胞のうちたかだか2割程度しか使えていません。いのちは常に不完全燃焼です。
 だから、人類にとって根源的な問題をなかなか解決できないのは当然です。
 たとえば、核兵器はない方が良いと考えられますが、世界の軍事情勢を見ればただちに全部をなくすのはとうてい不可能です。
 また、食料が地球規模で適切に配分できれば餓死者はいなくなるはずですが、依然としてある国々では人々が飽食しつつダイエットに励み、ある国々では人々が餓死し、あるいは食料をめぐり争っています。
 テレビの娯楽番組を見ながらステーキを食べている人々は、その瞬間にどこかで餓死している人々の存在を実感できません。

 一方、与えられている脳細胞を実際に使える割合がどんどん大きくなっているということは、人間の歴史は完全なものに向かう過程にあることを示しています。
 しかし、現実としてそうは思えないどころか人類滅亡を感じる時すらあるのは、発展が螺旋状であり、二歩前進一歩後退であり、デコボコ状態であり、精神と肉体の発展のバランスが常に良い均衡を保ってはいないからでしょう。
 不完全である以上、やむを得ません。

 さて、こう考えると、大きな目標を掲げて努力しても、時には未完成で死なねばならないのは当然だと理解されます。
「やり残して死ぬ」のは力不足もありましょうが、むしろ、目ざすものの高さを示しているとも考えられます。
 やり残しを怖れて志を堕とすことなく、やれる限り力を尽し、死んで行くしかありません。
 残ったものは、次の世でまた続ければよいだけのことです。

 お地蔵様や観音様は、過去世・現世・来世、いつの世にもおられます。
 人間が不完全なままで与えられたいのちを懸命にまっとうする姿を不憫と観て、「哀悲をたれ」てくださいます。
 心を鎮めて合掌すれば、左手の自分が右手のお地蔵様や観音様と一緒であることが実感できます。
 私たち一人一人は不完全でちっぽけに思えても、み仏のいのちを宿した尊い存在です。
 永遠の光を目ざし、合掌しながら一歩一歩進みましょう。




2006
07.15

またまた寺子屋について訴えました

 宮城県議会議員長島秀道先生を囲む早朝勉強会で、寺子屋についてお話し申し上げました。

 先生は、戦後初めてとなる県議会議員の定数削減に取り組まれ、2年がかりでやっと具体的な成果を上げることができた旨の挨拶をされました。

 選挙区の区割りの変更と定員の削減は、共に、選挙で選ばれねば仕事をできない政治家の政治生命に直結する重大事であり、文字どおりいのちがけとなるお一人お一人を相手にする調整は、困難を極めたことでありましょう。

 帰りしな、我が身を切る仕事のご苦労のほどをお察し申し上げますと言ったところ、「県民の理解を得られませんから」と穏やかな表情で答えられました。

 全体的に丸みをおびた優しいお顔で、眉も眼も他人を圧するような角張ったものを宿してはおられませんが、笑っている顔の一部分でありながら引き締まったままの唇に、幾多の波濤を超えてこられたであろう方の並々ならぬご意思の力を感じ、心で合掌しました。



 さて、肝心の講演は、限られた時間内で総論を申し上げたにとどまりました。

 ほとんど各論に踏み込めず、お聞きになられた方々は隔靴掻痒(カッカソウヨウ)の感がおありになったことでしょう。この場からお詫び申し上げておきます。

 それにしても、駆け足で当山の寺子屋にかける理想を追ってみると、それは子どもたちの霊性を発揮させるのが目的でありながら、まずは、親を含めた大人たちの生き方を問うものであることを再認識させられました。



「おかげさまを知らぬ」妄知と、「万事我がため」の邪知をはたらかせず、「自他共に」の視点立つ真実の智慧をはたらかせることができるよう。

 それには、「他人へ優しく、自分へ厳しく」などの心構えを持たせること。

 また、花を捧げては「耐える」、水を捧げては「施す」といった尊い気持をはっきりとイメージさせること。

 そうした心の訓練を通じて、「感動する瑞々しい感性を磨く。感謝するすなおな心を育てる。時に応じ、場所に応じ、時に応じた大人の振舞を身につける」などの目標を達成すること。

 霊性が常時にあっては「文」、非常時にあっては「武」としてきちんとはたらくよう、身・口・意をバランスよく鍛えること。

「自己尊敬」によって克己心を磨き、「自己責任」を貫いて廉潔に生き、「自己犠牲」の覚悟をもって我(ガ)の根にある死を克服する武士道などを心の柱として先人たちが霊性を発揮した尊いできごとを話して聴かせ、魂に訴えること。



 これらはすべて、まず私たち大人に課せられている生き方そのものです。

 子どもたちが健全に育成されれば理想的な大人になるはずであり、子どもたちにとっての理想像が「理想的な大人像」と重なるのは当然です。

 現在は、人生相談に来られる方々個々人における心の治療にいささかのお手伝いをさせていただいていますが、寺子屋活動をもって集団的に子どもたちの心の病の予防を行ない、それが同時に親御さんを含む大人たちの心の修行にもなれば、きっと子どもたちは霊性輝く大人へと育って行くことでしょう。




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2006
07.14

「売れっ子」と「似た者」

『法楽の礎』に墓所を持っておられるクリスチャンMさんから質問がありました。
「職場に熱心な仏教団体の信者さんがいるんですが、彼女は、辛い思いをしている人へ『それは、お祖父さんの供養が足りないせいですよ』などと、原因をハッキリ断言します。
 何かあると、すぐに『あなたの滅罪が足りないからです』と厳しく指摘もします。
 あなたは、超能力者なのか?自分のふるまいはどうなのか?と疑問になるのですが」

 鋭いご指摘です。
 確かに釈尊は因果の理法を説かれ、無明・煩悩を克服せよと説かれましたが、それは真理を観て欲を制御せよ、この世に苦を生み出しているお互いの気まま心を克服せよということです。
 あくまでも一人一人が己を戒めつつ生きるべき道筋を明らかにされたのであって、正しく生きる者へ、正しくない者を糾弾する権利を与えたわけではありません。

 もちろん、己を戒めつつ正しく生きるならば、それは自分だけの幸せを願うのではなく「自他共に」が不可欠となりはしますが、泳げない人が溺れている人を救えないのと同じで、他人への思いやりがあるならばまず自分がまっとうに生きねばなりません。

 まっとうな人なら、いかに因果の理法を信じているからといって、他人様の生きざまへそれを当てはめて『それは、お祖父さんの供養が足りないせいですよ』などと簡単には言えないはずです。
 なぜならば、この世は原因と結果がすぐに目に見えて結びつかない不条理だらけであり、不完全な存在である人間は簡単に因果の糸が見えないものであることを、よく知っているからです。
 だからこそ、み仏へおすがりするのです。
 不条理を観ながらもみ仏を信じ、教えを信じられるのは、教えの実践が明らかに自分の生き方を変え、人生丸は必ず希望する方向へと舵を切って航路が変わるからです。
 自分が変われば、必ず周囲にも変化が現われるからです。
 そこに喜びと安心と希望を見いだせるからこそ、信仰は深まります。


 今の世は、ものを知ることが簡単になったばかりに、かえって不安が増大しています。
 無明がある以上、知ることと生きることは、すぐには結びつきません。
 そうした状況を上手に衝いて他人様の人生へ無責任にメズを入れる大胆さを売り物にする者たちがはびこっている現状では、「売れっ子」の姿が「似た者」でありたいという願望を刺激し、冒頭のようなタイプの人々が出てくるのは当然です。
「売れっ子」は、儲けようとする人々によって上手に舞台装置がしつらえられ、なかなか馬脚が現われないように仕組まれていますが、市井の「似た者」は裸なので、すぐ実体が明らかになってしまいます。

 いつの世も、教えは導きの灯火となり、利用しようとする者たちに悪用されても来ました。
 善き心はものを正しく用いて自他を幸せにし、悪しき心はものを邪に用いて自分へ悪因縁を積み、他人様を不幸にします。
 善き心でまっとうに生きたいものです。




2006
07.13

【現代の偉人伝第二十二話】 ―国分町の人々―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地



 宮城社交飲食新聞という月刊新聞がある。発行は宮城県社交飲食業生活衛生同業組合である。

 7月10日発行の第319号は、人々へ歓楽を与えるなりわいに生きる業界人の心意気を示して余りあるものとなった。

『光と影』と題された冒頭の一文は、国分町の歴史に残るにちがいない。



 表題の脇に佐藤一斎の『言志晩録(ゲンシバンロク)』が引用されている。



「水至って清ければ、則ち魚無く、木(モク)直(チョク)に過ぐれば、則ち蔭無し」とは、政(マツリゴト)を為す者の深戒(ジンカイ)なり。「彼に遺秉(イヘイ)有り。此に滞穂(タイスイ)有り。伊(コ)れ寡婦(カフ)の利なり」とは、翻して政事と做(ナ)す。亦侭(マタマタ)好(ヨロ)し。



(あまりに澄みきった水に魚は住めず、ただ垂直に伸びた樹木は人々の憩う陰を作らない。およそ政治に志す者は、このことを深く肝に銘じておかねばならない。

 あちこちに落ちている稲の束や稲穂を、やもめとなった婦人が拾っていのちを長らえるならば、それには目をつぶってやるのが政治というものである。このことも大切な要諦である)



 佐藤一斎は幕末にかけて活躍し、88歳の天寿をまっとうした学者。この一節は『言志四録』全四巻のうち67歳から78歳にかけて書いた第三巻に含まれ、出典は中国の詩文とされている。



 さて、『光と影』はこう始まる。

「うっとうしい梅雨が続いている。国分町歓楽街の華やかなネオンが、なぜか灰色の梅雨空に覆われたようにかすんで見える」

 国分町には3600軒の飲食店があるが、客足は最盛期の3分の1まで落ち込み、「不景気の波は一番先にかぶり、逆に回復は一番最後になる。皮肉な巡り合わせ」になっている。

 

 5月1日に施行された風俗営業適正化法の一部改正と当局の取り締まり強化とで、国分町の空気が一変したという。

 組合は、ピンクチラシ撲滅運動や防犯カメラ設置運動など、環境浄化にはこれまでも真剣に取り組んで来たし、これからも?民の力?を発揮したいと力をこめる。

 その一方で、「法のもとでは組合員、アウトサイダーも平等である」との警察官の言葉に強く反発する。

 組合員を特別有利にとり扱ってくれなどということではなく、善良な組合員の地道な協力があったればこそ行政は成果を上げ得たことを忘れず、まじめに苦労を重ねている人々を正当に評価し、心ある指導をして欲しいと望んでいる。

 悪意のない、生きるために必死で行なう行動には、サッカーと同じく、イエローカードやレッドカードのような対応があってしかるべきであると主張し、「水面下で眠ったふりをして」いる「本当に悪い者」への徹底的な取り締まりを期待している。

 冒頭に掲げた一文は「癒す」仕事に携わる人々の心意気でありながら、ここにその深意もあるのだろう。



 最後に、関係当局にもっと現場の実態を知り適切な法改正を行なってもらうよう行動を起こさねばならないと決意を述べ、国分町への限りない愛着と希望をこめて締めくくりとなる。

「今回の仙台市における風俗店に対する取締まり強化の成果が住民の心を萎縮させることなく、真の?明日への活力を養う楽しい娯楽の場?となって実ることを切に願いたい。東北一の歓楽街・国分町の灯を消すようなことは絶対あってはならない。

 梅雨空でも、ネオンが未来に向かって永遠に輝く国分町でありたい」



 当山にはすっかり縁遠くなったが、人々を癒し、楽しませ、憂き世をつかの間忘れさせてくれる街、そしてそこでいのちをかけてまじめにはたらく人々へ、心よりエールを送りたい。




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2006
07.11

ジダン ―私たちの中にいる彼―

 ジダン選手の退場を新聞で読みました。
 泣けました。もしそばにいられれば一緒に泣きたいと、心から思いました。

 彼の姿は、私たちの姿です。

 快楽であれ、財欲であれ、名誉欲であれ、飲食欲であれ、一線を越えて貪ったばかりに大失敗をしたことのない人は少なくないはずです。
 ライブドア事件や村上ファンド事件など、我利我利亡者たちの失墜はつい最近のできごとです。

 一時の怒りに我を忘れたことのある人もたくさんおられることでしょう。
 もちろん、我を忘れそうになったことのある人は言うまでもありません。
 特に、名誉を重んじる人や正義感の強い人などは、ギリギリのところを何度も経験しておられるはずです
 日本人にはおなじみの忠臣蔵の張本人である浅野内匠頭も、ある意味でジダン選手の先輩です。

 勝手な思いこみや、自分に都合の良い言い分や、真理・道理に反する考え方で他人様とぶつかったり、誰かへ不愉快な思いをさせたり、何かを壊したりしたことのある人も多いのではないでしょうか。
 さもなければ、正しくあろうとする人々にとってこんなに住みづらい世の中になるはずはありません。

 こうした貪・瞋・癡の三毒は、悟りを開かぬ限り、消し去ることはできません。
 なぜなら、三毒は、人間が生まれ持った無明(ムミョウ)から流れ出ているからです。
 無明とは、畢竟、生存欲であり、我が身可愛さです。
 あなたも私も、自然にしていれば、我が身可愛さの中に住んでいます。
 悟りとは、強い意志によって行われる無明の克服に他なりません。
 新約聖書によると、律法学者がイエスの前に姦淫した女を突き出し、「きまりでは石を投げつけて殺すことになっているがどうするか?」と問うた時、彼は「あなた方のうち、罪のない者が最初に石を投げよ」と答えたとされています。

 ジダン選手は、何かを守ろうとしたばかりに、結果として、肝心なものを捨てました。
 そうまでして守ろうとしたものと、彼ばかりではなく同僚やフランス国民までもが共に失ったはずのものとを天秤にかけて、賢愚をあげつらっても仕方がありません。
 人間とはこうした存在だからです。

 今日も、お葬式の後で、法話を行いました。
 私たちがみ仏や御霊へ花を捧げるのは、雨風に耐え、何があってもいのちの精華たる美しい花を咲かせようとする姿へ、私たちの忍耐の心を託すためです。
 耐えつつ人の道をまっとうする覚悟を捧げ、御霊に安心していただくためです。
 そうして霊性を高める行為であればこそ、植物の尊いいのちを絶つ行為が許されます。

 長い人生にあれば、いつか、ジダン選手と同じような場面に遭遇することもありましょう。
 そこでいかなる行動を選ぶかは、人生修行中に心へ何を溜めて来たかによります。
 花の心をたくさん蓄えておき、あとは仏神へお任せするしかありません。
 判断は、常に一瞬のできごとだからです。

 ああ、ジダン選手―――。
 人間というものの実態を見せてくれた英雄―――。
 一日も早く、胸を張って歩く日が来ますように。




2006
07.11

風のように

 沿岸部にお墓のある方が、あまりに遠方なのでお墓参りが難しくなり、2年間墓地探しをした末に『法楽の苑』を選ばれました。

「ずいぶん石屋さん廻りもしたし、チラシにも眼を通していましたが、なかなか安心できそうなところがなくて決めかねていました。やっと見つかってほっとしました」

 こうした言葉ほど励みになるものはありません。



 数日前、石屋さんに紹介されて『法楽の苑』をご覧になったその場で決められ、今日は母親と息子と男の子と3代揃って契約に来られました。

 お母さんが頭を低くして言われます。

「墓石を建てたらお骨をそっくり移動する予定ですが、これまでのお寺は離れられないんです。よろしいんでしょうか?」

 もう行くことができないからお墓を移すのに檀家のままでいてくれというのもいかがなものかと思いますが、こうした話は枚挙にいとまありません。

 

 ある高名なサッカーの選手が、ファンたちから英雄扱いを受けた時、叫びました。

「ファンは我々の雇い主だ。ファンが我々にサッカーをさせてくれている。我々はファンのためにはたらいているんだ」

 当山は、かつて『プロの覚悟? ─僧侶はしもべです─』に書きました。

「僧侶がみ仏へのご喜捨によっていのちを永らえる存在であるならば、ご縁の方々があって初めて生きて務めをまっとうできるのですから、生かしてくださる方々よりも生かしていただく方が上であるなどと考えれば、『恩知らず』と言うしかないではありませんか。

 たとえば、イチロー選手や松井選手がファンへ対して『この俺がお前たちを楽しませてやっているんだぞ』と言うはずがありましょうか。『ファンの支えがあってこその選手活動である』との信念にちがいありません」

 

 こうした場合、こちらから相手様へくわしい事情をお訊ねすることはほとんどありません。苦しい胸の裡は解っているつもりです。

 ご縁の方の願いが道理にはずれていなければその求めに応じて安心していただくこと、それが寺院の役目です。

「もちろん結構です。ただし、当山は、お金さえ払えば誰でも墓地を使って構いませんよといった『墓地売り』はしません。マンダラの心でお互いを尊び合いながら、共に縁となった整地を仲良く守って行こうという気持になっていただくことが、墓地の使用に関する唯一の条件です。行事のご連絡などは毎月発行する新聞でお知らせしますが、参加不参加はまったく自由です。負担に考える必要はありません。よろしいでしょうか」

 寺院の都合や思惑を押しつけたり、求められていないのに教えを垂れて従わせるのは仕事ではないと考えています。

 自在な風の徳を持つ寺院であり、ご縁の方々にも風のように自在な心になっていただきたいと願っています。




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2006
07.10

勝ちパターン

 昨夜、福島県からTさんがやってきました。

「ぜひ、お知らせしたくて………」

 

 半月前、職場の人間関係に悩んだ彼は、他人へは言えない苦しい胸の内を述べられました。

 組織がからみ、情がからみ、財までからんでもつれた糸は、自分の力だけでほどこうとしてもなかなか難しいのです。

「自分と他人と大きく分けてみた場合、他人の土俵でいつまで相撲をとっていても勝つのは難しいものです。なにしろ、相手に都合の良いルールでやらされているんですからね。そうした心の土俵を変えてみたらどうですか」

などと、搦(カラ)め手を申し上げました。



 ところが、Tさんは、直截に最も身近な位置にいるキーマンの気持を動かし、井戸の泥水を一気に払い出してしまうような結果を得ました。

 何と、相手からこちらへ気持を合わせてくれたのです。

「いきなり本丸を攻略しましたね」

と言ったら、彼は小さく笑いました。

「授かった作戦よりも、Tさんならやれるという一言の方が自分には救いでした」

 

 そうかと思いました。彼は逃げない人物であると信じて出た何気ない言葉が、役立ったようです。

 動作で正面の線が崩れない彼は、心でも真っ正面から勝負し、一つの結果を得ました。

 次はきれいになった井戸水の分配や使い方という厄介な問題にぶつからねばなりませんが、またじっと満を持してどこかで勝負し、必ず勝利をつかむことでしょう。―――自分の勝ちパターンで。



 静かな雨に咲くアジサイは、薄明かりの中でも、晴れた空のように鮮やかな蒼を見せています。





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2006
07.08

無神論者

 自称無神論者Sさんから、修法を依頼されました。たまたま会った時に「頼もう」という気になったそうです。

 これまでお墓参りにもほとんど行かず、仏神へ一切すがらずに商売をして来られたご夫婦なのに、近所にある無縁塚の供養をしたくなったと言われます。

 

 当山は、思想信条によってこちらから相手様を分けへだてすることはありません。無神論者はむしろ、大歓迎です。

 何も信じておられない方が正統な修法の場へ参加して日常を超えたものを感じてくださるならば、それだけで布教になるからです。

 もしも何ごとも起らなければ当山の力不足が明らかになったのであり、未熟を省みて一層精進せよというお知らせを受けたことになりましょう。

 いずれにしてもありがたい仏縁です。精一杯お努めせねばなりません。




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2006
07.07

思いやる人

 呪われたために長年にわたって大変な思いをし、呪い返しの法によってすっかり元気になったKさんが、突然言いました。

「ああいうことをお願いして………。私とんでもないことをしてしまったんじゃないかと、心配になりました」

 返しの法で相手のAさんが苦しんでいるのではないかと思ったのです。相手がたとえどんなに酷い人であっても、誰かを傷つける行為は悪しきことであると気づかれました。

 これで、Kさんは、完全に因縁解脱をしました。万々歳です。



「み仏の法は、誰をも傷つけません。呪い返しの秘法によってAさんは、貴女へ刃を向けている自分の姿を鏡に映るように観ましたから、そのおぞましさにゾッとしたはずです。

 そして、自らを省みる心になった瞬間に、何人かへかけていた呪いはすべて消えました。

 Aさんは、もう愚かなことを行なわないし、刃で自分を傷つけることもありませんから大丈夫です」



「Aさんに生きていて欲しいと、心から思います」

 因縁の解けたKさんは、花のような笑顔で帰られました。 




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2006
07.07

七月の聖悟

「男女、若(モ)し能(ヨ)く一字を持せば、朝朝、一たび自心の宮を観ぜよ。自心は亦(マタ)是(コ)れ三身(サンジン)の土、五智の荘厳、本(モト)自(ヨ)り豊かなり」 ―弘法大師―



(男も女も、いのちの根源である阿の字を心に保ち、毎日一度は、自分の心にあるみ仏の宮殿を観照しなさい。自分の心にこそみ仏はおられ、そのお智慧は豊かに備わっているのだから)



「あ」は、いろは五十一文字においてもインドの文字においても最初にあり、私たちの呼吸もまた、口を開いて息を吐き出すところから始まります。不意のできごとにハッとした時も無意識の裡に「アッ!」と言います。

 仁王様の一体は、こうしたいのちの始まりを示して「あ」と大きく口を開けておられ、もう一体は、いのちの終わりを示して「うん」と口を閉じておられます。私たちのいのちは、「あ」と「うん」の間にあります。

「あ」は根本仏大日如来を表わすものでもあり、文字のイメージを心へ抱くことにより、心の奥底にある霊性の座、つまりみ仏の宮殿へ到達することが容易になります。

 お大師様は、教えに学び実践して阿字に導かれ、一日に一度は自分の根源へ還るよう説かれました。



 また、三身とは、み仏のありようを説かれたもので、宇宙の根源としての法身仏(ホッシンブツ)、願いに応じて宇宙へ現われる報身仏(ホウジンブツ)、地球上へ現われた釈尊やお大師様のような応身仏(オウジンブツ)を指します。

 五智とは、何ものをも漏らさず、平等に、違いや個性をそのままに、それぞれの生きざまをすっかり観ていてくださる慈悲深いみ仏のお智慧のことです。

 そうしたみ仏のお姿もお智慧も、どこか遠くの浄土ではなく霊性を備えた私たちにあり、心を澄ませば、み仏の子として心豊かに生きられるのです。



 阿字を心へ抱き、時には「あー」と唱え(心豊かな世界への入り口として、阿字を実際に唱える法が伝えられています)、清浄ないのちを回復しつつ生きたいものです。



〈観想をする際の本尊です。中央の梵字が「あ」です〉






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2006
07.05

【現代の偉人伝第二十一話】 ―師の恩―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                            遠藤龍地

 母校仙台二高の同窓会総会で、年度幹事を代表し、ささやかなご挨拶を行なった。

 このままの成り行きならば、男子校として最後の総会になるかも知れない。何を話そうかと考えた結果、「師の恩」にした。

 

 出家の際、四恩十善戒を授かる。恩を忘れず戒律に則して生きることを誓うのである。

 恩の中に、「師の恩」がある。

 直接的には、得度させ、修行を指導してくださる師僧の恩を指すが、娑婆にあっては先輩や上司などの指導者、学校にあってはもちろん、先生や教師の恩である。

 また、生きとし生けるもの、天地万物は根本仏大日如来の法身であり、風の音、鳥の声、雲の姿、何一つとして教えを説かぬものはない。それをしっかりいただけるかどうかは、受け手である我々の霊性が清浄であるかどうかにかかっている。

 鏡にたとえるならば、曇りがなければ良し、アンテナにたとえるならば、錆び付いていなければ良いのである。



 中学生の頃は、あまりウマの合わない先生がおられた。いじめを受けていると感じたこともある。

 何しろ、日教組などによってだめにされつつある日本を変えようと政治家をめざしていた生徒なので、日教組の闘士とうまく行くわけがない。

 仙台二高へ入って、小圷(コアクツ)洋校長先生は「かのケエサルは、ついにルビコンを渡った」、歴史の佐藤英樹先生は「もし、クレオパトラの鼻が少し低かったならば、歴史はどうなっていたか判らない」と説かれるのを聞き、井の中から大海へ出たような思いをしたものである。

 先生方の心に余分なものがなく、生徒も余分なものを削ぎ落とした心になれた。

 そこで、ものごとを自分の頭で考えることを学んだ。それも、より〈根本から〉、そして〈大所高所から〉である。

「師の恩」はここに極まる。一生を導く姿勢、あるいは視点を授かったのである。

 

 仙台一高とのバスケットボール定期戦に臨み、学校が一般生徒の応援を禁じたことに反発し、生徒会長として受業のボイコットを呼びかけた責任を問われ、謹慎を命じられた。

 数日、登校はできても授業を受けられないのである。校長先生は、どんな言いわけも許さなかった。

 しかし、テレビで東京オリンピックが観戦できた。政治犯をテレビ付きの房舎で禁固刑にするようなものである。校長先生への信頼は一段と高まった。

 

 娑婆にいた頃、校長先生が亡くなり、奥様一人となった家を処分するお手伝いをした。

 二階の六畳間へ上がった。書斎である。家具などはなく、陽に灼けた畳に数冊の本が転がり、片隅に幅四尺ほどの文机があった。

 黄土色の古い木製のそれは、明らかに先生の気配を遺していた。

 もし、引き取り手がなければお譲りいただきたいと申し出、その場では快諾を得たが、後日、叶わぬこととなった。

 一度だけ、友人と二人で水戸へお墓参りにでかけた。肌寒い時期の弘道館は凛としており、先生の文机にあったものを少しは理解できたような気がした。



 当時の師の年齢を超えた今なお、より〈根本から〉そして〈大所高所から〉と願いつつ、まだまだ不肖の弟子である。

「師の恩」は大海であり、飲み尽くせないのが当然ではある。




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2006
07.03

お盆供養会のご案内

 お盆を来月にひかえてすでにいろいろなお問い合わせがあり、多少早めではありますが、お盆供養会の予定について記しておきます。

 もし、ご供養を希望される御精霊がおありの場合は、檀家であるなしにかかわらず、ご遠慮なくお申込みください。

 なお、本堂にて修法される供養会の終了後、隠形流居合の行者が奉納剣を行います。どうぞお揃いでご参列下さい。



《お施餓鬼(セガキ)とは》

 ある日、お釈迦様の弟子である目蓮(モクレン)尊者が、神通力で亡き母親の様子を観たところ、生前、子供を思う一心でつい犯してしまった小さな罪のために、餓鬼道で苦しんでいました。

 驚いた尊者は、早速お釈迦様に相談しました。

「夏安居(ゲアンゴ…夏の行)の最終日である七月十五日(旧暦)に、できるかぎり多くの僧侶にお経をあげてもらいなさい。そして、心から供養をすれば、必ず救われることでしょう」との教えをいただいた尊者はさっそく実行し、母親は、無事、天上界に生まれかわったということです。

 以後、ご先祖様や有縁無縁の諸精霊のために、施餓鬼法が広く行われるようになりました。



 宇宙法界を表すお塔婆をつくり、追福菩提の施餓鬼法を修して御精霊をご供養し、善男善女の心願成就を願い、重ねて魔切追善の奉納剣を行います。

 なお、交通手段のご不便な方のために、午前9時に〔地下鉄旭ヶ丘駅となりの青年文化センター西口前〕へお迎えの車がまいりますから、事前に、ご遠慮なくお申し出ください。



○日時

 8月15日(火曜日)午前10時より

○場所

 大師山法楽寺本堂および『平和観音』様前

○お申込み方法

 ハガキや電話やFAX、あるいはホームページ上にあるメール欄などで、準備の都合上、8月12日までにお申込みください。

○送られるもの

 申込みに応じて、『廻向の証』『ご祈祷札』『修法の証』をお送りします。

※ご志納金は、お心のままで結構です。

※修法したお塔婆を持ち帰り、それぞれのお墓へ立てください。持ち帰らない方の分と、万霊供養・戦没者供養などのお塔婆は、『法楽の苑』内にある『十三仏』様のおそばへ立てます。



〈去年の供養会です〉

































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2006
07.03

親輪会より草苅のご案内

 早いもので、もう今年も後半に入ります。梅雨空が続いていますが、皆様にはお元気でお過ごしのことと思います。

 さて、来月のお盆を迎えるに際し、次の要領にて、親輪会会員をはじめ、法楽寺とご縁の方々こぞって墓苑や守本尊道場などの草刈を実施します。

 暑い時期につき、充分に休息し、有志が『法楽農園』で作られた野菜なども味わいながら、無理をせず和気藹々とやる予定ですので、皆様ふるってご参加くださいますようお願いいたします。                     親輪会役員一同







一 日時  

 7月30日(日) 9時から14時まで(ご参加くださる時間帯は、それぞれ自由です) 

 交通手段のない方は地下鉄泉中央駅前『イズミティ21』前へ9時までに集合してください。

一 道具  

 親輪会と法楽寺にて準備(用具など)します。

一 燃料  

 草刈機の燃料は法楽寺が負担します。

 もし草刈機を携行される方は法楽寺までお申し出ください。

一 昼食  

 親輪会と法楽寺が準備します。

一 雨天  

 中止します。

一 参加  

 参加される方は7月29日までに法楽寺へご連絡くださるようお願いします。 




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2006
07.02

和尚さんと語ろう会  ―法話と懇話の会―

 仙台市太白区で、お話を申し上げる会が開かれることになりました。

 会場は非常にゆったりとした雰囲気の場です。

 どうぞ、お誘い合わせてご来場ください。

 以下は、主催者の案内文そのままです。

 なお、参加の申込みは、直接、主催者の『ル・ブルー』さんへお願いします。



「和尚さんと語ろう会」



 このたび「法楽寺」ご住職の法話と懇話会を開催することになりました。

「お線香はどうしてあげるの?」など仏教の基本的なお話や、お釈迦様の話をお聞きしたり、私達が日々の生活の中での疑問などを和気藹々とお話しする会です。

 お寺や和尚さんがだんだんと遠い存在になってきている現代ですが、法楽寺の和尚さんはいつも私達のそばにいてくださり、日々人生相談も行われています。

 きっと何かのヒントがいただけるような、あたたかい楽しい時間になることでしょう。

 ぜひ、お気軽にご参加ください。



日時:2006年 7月19日(水)

         10:00~約1時間半

会場:グラスハウス ル・ブルーCafe

会費:500円(ハーブティ付)



『グラスハウス ル・ブルー 』

TEL・FAX:022-307-6802 仙台市太白区日本平3-10 1F




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2006
07.01

7月の運勢(世間の動き)

 今月は、ものごとを大所高所から観る視点のあるなしが運勢を左右する時期です。その視点は同時にものごとの根本を観るものであり、我欲の汚れをまとわない智慧がはたらく境地でもあります。



 我欲をまとう「妄智」は、自分をこの世の主人公とし、あなたは要る・あなたは要らないと勝手な分けへだてをする迷いであり、同じく我欲にあやつられた「邪智」は自分だけのことを考えて他を邪魔にする迷いであることは、以前書きました。

 これらに引きずられれば、開運はおぼつきません。

 以下は、高い境地に立って霊性を発揮した先人の例です。



 世界を支配しようとするヨーロッパ諸国の野望に対抗すべく努力していた明治時代の日本は、隣国朝鮮が中国から独立して近代化し、気概をもって共に戦ってもらいたいと願い、福沢諭吉などが活発な活動を展開していました。

 しかし、自分が世界の中心と考える中国に属していた朝鮮では、日本をヨーロッパと同じになろうとしていると批判し、軽蔑する人々が大きな勢力を持っていました。

 そうした中で、明治十七年、日本に留学していた学生などが指導的な役割を果たし、封建制度を変えようとする庚申政変が起こりました。

 しかし、企てはわずか三日で失敗し、首謀者の一人である金玉均は、師の福沢諭吉を頼って仲間と共に日本へ亡命しようとしました。

 

 日本から朝鮮へ遣わされていた竹添公使と一緒に日本へ出航しようという矢先、朝鮮政府は金玉均一行の引き渡しを迫り、公使は随う意向を持ちました。

 もしそうなれば、一行のいのちはありません。彼らは囚われて恥をさらすよりはと自刃を決意しました。

 その時、人道上許されないと判断した千歳丸の船長辻勝三郎は、朝鮮外交顧問メレンドルフら官憲の前に立ちふさがって決然と拒否し、九人のいのちを救いました。

 自らのいのちを失いかねない切迫した状況にあって、日の丸を背負った公使が乗る日本船の権威を守り、亡命者のいのちを保証するという国際的な人道上のきまりを守った勇気ある行動は、我欲をまとわない智慧によってもたらされました。

 我が身が可愛いと思えば、恐ろしくなって身を引き、要求に従ったに違いありません。



 さて、今月は、モノ金に走れば不満が多く、精神的に高いものを求めれば大いに満足が得られましょう。また、酒色に溺れれば信用を落とす危険性が高く、要注意です。

 まっとうななりわいに生きる「正命」と、まっとうな努力を続ける「正精進」を大切にし、開運しましょう。



〈守本尊道場にあるグミが真っ赤な実をつけました。

今年はなかなか甘いようです。どうぞご自由に採取してください〉





〈堀で金魚の子が孵化しました。最初は糸のようだったのが、日々成長しています。赤い金魚も、小さなうちは黒いんですね〉





〈土が水へ落ちないように、堀の縁へ石を積みつつあります〉






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