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2006
08.30

スロットの調査

 親思いのS君がスロットの餌食になっているという噂を聞き、しばらくできなかった外回りの仕事のついでに、初めてスロット屋(こう呼ぶのでしょうか?)のドアを開けました。
「子供がダメになりました」「夫が狂いました」「妻が借金に走りました」といった悲痛なできごとにからむ遊びの実態を確かめるためです。
 もちろん作務衣姿ではなく、かつて着ていたスーツのスラックスに安売りしていたシャツ、足はサンダル、頭には父の山高帽という珍妙ないでたちです。
 駐車場から眺めた煌びやかなコンクリートの箱は、先入見のせいか巨大なアリ地獄に観え、一呼吸してから建物の割に小さい自動ドアの前に立ちました。

 入った瞬間、プラネタリウムか水族館というイメージに驚き、拍子抜けもしました。大音量の音響は、あまり気になりません。
 いらっしゃいませと声をかけ、忙しく立ち回っているのは若くて身ぎれいな若者たちです。
 男性も女性も身支度をきちっと整え、笑顔で応対しています。
 険しそうな、あるいは一癖も二癖もありそうな、あるいは腕から入れ墨が覘いていそうな男性店員など、一人もいません。
 誰もが、そのままコンビニエンスストアや車屋や住宅展示場のセールスマンになれそうです。
 お客さんも勤めを終えた年齢の男性、若い奥さん、学生風の若者、中年の夫婦など、老若男女さまざまです。
 タバコの煙はありません。
 昔のパチンコ屋とはまったく別世界です。
 おそらく、若者たちは、居酒屋かカラオケボックスへ行くのと変わらぬ感覚で、あのドアを通るのでしょう。

 さっそく店員さんにメダルの申込み方から教えてもらい、瞑目して3つのボタンを押しました。
 両手を同時に使ってピアノを弾くようにゆっくりとやっていたところ、急に音響が激しくなり、盤を囲むライトが点滅し出しました。
 さっきの店員さんが飛んできて、あとは順番にボタンを押すだけで自動的に絵が揃いますと言うので、その通りやっているうちに、メダルがたっぷり溜まりました。
 お祭が終わってから幾度かやっても当たる気配がないので、計算してもらい、パチンココーナーへ行きました。

 千円札がなかなか穴へ入らず、やっと入ったものの出てきたカードがうまく使えず困っていたら、台は右側のものを使ってくださいと教えられました。
 よく見ると、カードの出てくる縦長の部分にも、ゲームをやる機械のある部分にも小さな番号プレートがついており、カードと機械が一致しないと作動しないようになっています。
 おそらくカードの偽造を防ぐためなのでしょう。
 パチンコ台も昔とは様変わりで、球の入る穴があちこちにあるのではなく、スロットと同じく、あくまでも大当たりを狙うようになっています。
「1か0か」ではなく、「1か100か」なので、10や20のあるなしを行ったり来たりして楽しむことはできません。
 文字通りあっという間に貴重な千円をなくし、隣の台へ移りましたが、またもやお札がなかなか入りません。
 これはいけないなと思った通り、やはりいくばくもなく、箱は空になりました。
 さっきスロットで当たっているので足が出るはずはありませんが、もう、これ以上尊いお布施を使うことはできません。
 ここまでで調査は充分です。
 それにしても、2千円の消えた早さといったら戦慄するほどです。
 一等地へ巨大な施設を造り、毎日必ずと言って良いほど新聞へ上質の紙を使った折り込みを入れることに、店の儲けのべらぼうさは明らかですが、あらためて実感させられました。

 受付へ行って、店員さんの後へずらっと並んでいる景品を選べば良いんですかと尋ねたら、換金できますよと言われ、教えられるままに交換所で換金しました。
 お互いの手元しか見えず、無言で、一瞬、小さな不安と緊張が走るのは昔と変わっていません。
 手にしたのは約8千円です。スロットだけなら、たちまち8倍になった計算です。
 これで儲けたと喜び、「今日飯を喰う分は手にした」と思うならば、その人の人生はどうなるのでしょうか。
 確かに時給7百円のアルバイトにすれば、もう、一日分稼いだことになります。
 しかし、さっき消えた2千円は、一生懸命はたらいても月給20万円になるかならないかのタクシードライバーにとっては、数時間分の給料に相当します。

 帰りの車から店を眺めたら、勝ったはずなのに、やはりアリ地獄です。
 あそこには、異様さはありません。
 むしろ、快適さがあります。
 あそこで時を過ごすのは悪くありません。
 まして、真夏や真冬ならなおさらでしょう。
 昔のジャズ喫茶を思えば、音も問題ではありません。
 そこが落とし穴です。
 快適空間なので、お金がペロペロと機械に飲み込まれて行くことへの恐怖が起りにくいのでしょう。

 調査は終えましたが、S君の気持はまだ解りません。
 おそらく、8千円や2千円の感覚とは遠く離れたところにいるのでしょう。
 調査では出逢わなかった魔ものと出逢ったのでしょうか。
 さっきさりげなく現われたビギナーズラックなどという小者ではない巨大な魔ものと………。




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2006
08.28

生活と仏法 ―説法と懇話の会第三回―

 国分町での説法も三回目となりました。

 娑婆に棲んでいた時代に少なからず世話になり、迷惑もかけた街への報恩と罪滅ぼしの機会と考え、お引き受けしたところ、継続となってしまいました。

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成18年9月21日午後5時30分より午後7時まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)




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2006
08.28

長月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



※8月中に詠まれた句を載せているので、月遅れになっています。



好きな靴とことん履いて夏逝かす



花芙蓉雲の影ゆく午後三時



白雲の盛りあがり居り秋の午後



赤とんぼ幼きころを思ひ出す




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2006
08.27

ペットと一緒に眠られるお墓

 かねて、当山が、「動物であれ何であれ、生きもののいのちの尊さは平等です」とし、ペットと人間が同じ墓所で(もちろんカロートは別々です)眠ることを可能であるとしていたとおり、今回、その目的にそった墓石を造る石材業者さんが、東北地方で初めての発表会を行なうことになりました。

「我が子」の成仏を願う尊い心が現実のものとなります。

 ぜひ、ご来山いただき、安心を得られますよう。



 ところで、毎月毎月、他の寺院より移って来られる方が後を絶ちません。

 まことに残念であり、仏法の未来が心配にもなります。

 墓地選びはお寺選びです。

「この世の幸せ」がモノや金では手に入らず、むしろモノや金が人を争わせることは、人生経験豊富な方ほど、よくご存じのとおりです。

 ご先祖様はもちろん、自分や伴侶、あるいは子々孫々の「あの世の安心」は何によって得られるか、よくよくお考えいただきたいものです。

 たとえば子供を入学させる場合、いかなる教育方針で、いかなる教師が導くのか、よく確かめないで我が子を託す親がありましょうか。

 ましてや、御霊の眠る聖地である墓地と、守る寺院とを選ぶのは。何代にも影響する重大事です。人生に幾度もない決断と言わねばなりません。



 永遠の場をお求めになられる際は、供養を行なう寺院がいかなる法を行なっているか、何を本尊とし、何を経典としているかを、住職へ質問してください。

 最も大切なのは、住職の行者としての信念を直接確認することです。

 修行と布教を使命とする住職が仏縁を結ぼうとされる方とお会いするのは大切な法務であり、断るはずはありません。

 当山では、ご縁を求めるすべての方とお会いし、あらゆる質問に答え、納得していただかない限り墓地の永代使用契約を結びません。

 聖地である墓地の永代使用契約は決してモノの売買に類する契約ではなく、み仏と、ご縁のご一族と、寺院と三者の「仏法上の誓約」であると考えているからです。

 

 そして、寺院ではいかなる僧侶がいかなる日常活動を行なっているか、また檀家となってからのつきあい方についてもよく調査と検討を行われ、後から実態を知って驚いたり、悩んだり、果てはお墓を移したりしなくても済むよう、真の納得と安心を得てご縁を結んでいただきたいと願っています。





  



1 日   時

   平成18年9月2日(土)より9月18日(月)まで

1 場   所   

   『法楽の苑』

1 記念モデル

   2メートル四方の広々した墓地に墓石を造り、138万円で提供(20基限定)されます。

   〈138万円に含まれるもの〉

   ○墓地4?永代使用料

   ○初年度分年間管理料

   ○墓石・外柵代

   ○基礎工事・建て込み工事・ステンレス香炉・ステンレス花筒・文字の字彫

   ○10年間の保証

1 プレゼント

   石材業者さんがいろいろ準備しておられます。








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2006
08.27

失われた公徳心と安心

 会社勤めもベテランの域に達したMさんの述懐です。

「私は職場に着くと必ず大きな声で『おはようございます』と言い、帰る時は『お疲れさま』あるいは『お先します」』と声をかけますが、最近は、とみに、返事が返ってこなくなりました。
 昔の明るさがウソだったように、空虚な雰囲気になりつつあります。
 経営的に難しい職場ではなく、別にリストラにおびえているのでもなく、夜中まで仕事をしなければならないほど大変なわけでもないのに、空気がだんだん殺伐としてきました。
 皆の気持が伸び伸びしていないんですね。
『お互いさま』が死語になったのも最近です。
 かばい合うなどということは、もう、全然ありません。
 もちろん、上司と部下の関係も希薄になりました。
 以前の温かい雰囲気はどこへ行ったのかと不思議になるくらいです。
 一人一人がバラバラになり、それぞれが気分的な閉塞感を持っている職場は、とても働きづらいものになりました。
 こういう風になったのは、ウチだけではないと思います。
 どうしてこんなに『自分だけが良ければあとは知ったことではない』という社会になったのでしょうか」

「今の日本は明らかに異様です。
 権力者も選挙民も、何かに憑かれたように走り出しました。
 一切は白か黒、権力内は純化されて批判や意見は封殺され、権力主義に異を唱える政治家は政治生命を断たれようとしています。
 マスコミは、降って湧いたような視聴率かせぎの機会を最大限に利用しようとしています。
 一人の政治家の頭で膨張した理念が絶対神となって独裁色を強め、排他的な宗教団体が後押しをする。
 国民はこうした構造に危険を感じないのでしょうか。
 日本を覆う空気に色濃く滲んでいる狂気に気づかないのでしょうか」
 ホームページにこう書いてからたった一年の間に、Mさんの言うとおり、社会の空気は「殺伐」の度を深めました。

 雇用状況の改善は名ばかりで、正規社員のイスは少なくなる一方です。
 臨時雇いでしかない労働者が激増しました。
 景気が回復傾向にあるというのに、一人あたりの賃金は徐々に安くなっています。
 また、外国人の就労にはどんどん門戸が開かれています。
 経営者は、いつでもどこからでも「安い労働力」を集められるし、地位も賃金も低いパートは使い捨ての対象でしかありません。
 労働者は、今や、楽をして賃金をもらえることを考えるしかなく、いつも、より自分にとって条件の良い職場を探しています。
 会社は、今を生きるための道具でしかありません。
 常に意識は「腰かけ」です。
 株主は、配当や株式の値上がりだけを求めて鵜の目鷹の目で「獲物」を探しています。
 経営者や労働者の思いに一顧だにしないことは、昨今のできごとを見れば明らかです。
 こうして、経営者も、労働者も、資本家も全員が「自分の利益」だけを求めるために存在する会社とは一体何でしょうか。

 かつての日本における会社は樹木でした。
 経営者も労働者も資本家も皆が一丸となってより強くたくましく、風雨に耐えて生き延びられる立派な樹木になろうとしました。
 会社は乗り合わせる誰もが運命を託する一艘の船でもありました。
 会社が運命共同体であったればこそ、それぞれが「会社のために」なれるよう努力し、人生の主要な時間のほとんどをそこで費やす職場は、文字通り人生修行の場でした。
 上司は部下を育て、同輩は切磋琢磨し、部下は上司を見習いました。
 もちろん、実際はきれいごとばかりではありませんがが、少なくともそうした建て前であり、そうした要素が色濃くあったことは事実です。
 しかし、残念ながら、会社は樹木でも船でもなくなりました。

 誰もが「自分のため」だけを考える世の中になれば、誰もが自分を潤してくれるものを得られません。
 誰もが「相手のため」「家族のため」「会社のため」「社会のため」「日本のため」を考える世の中になれば、誰もが潤いを得られます。
 どちらの社会が、人間が人間らしく生きられる社会でしょうか?

 狂気の数年は、日本の社会から最も大切なものを喪失させました。
 一つは「公徳心」、もう一つは「安心」です。
「公徳心」の問題は、こうした会社のありように典型的に表れています。
 つけ加えるならば、社会を弱肉強食のケダモノの世界にし、「我がため」という邪智を抑えねばならない子供に株式取引を教え、日本語もたどたどしいうちに外国語を習わせておきながら、教育の場で愛国心を含めた徳育を進めようなどという発想は、とても理解できるものではありません。

「安心」は、就労はもちろん、家庭と学校と社会とを問わずありとあらゆる場での事件や事故、治安、就学、年金、医療、老後、家計、食物、国防、さまざまな面において急速に失われつつあります。
 誰もが身勝手で、不安な社会になりました。

 この二つが国民一人一人の心から失われると同時に、日本という国もそれを失いつつあります。
 世界で最も「世界へ良い影響を与えている国」である日本は、「世界へ悪い影響を与えている国」ナンバー2のアメリカを限りなく模倣した結果、明らかに転落しつつあります。
 戦慄しないでいられましょうか。




2006
08.25

タブーの話など

 お盆が終わり、早くも10日が過ぎようとしています。
 相も変わらず息つく間もない日々ですが、み仏のご守護とご縁の方々のお心により法務は滞ることなく進み、お地蔵様のご縁日である24日、今秋出版予定の『み仏は あなたのそばに』を脱稿できました。原稿の完成です。
 昨年までの『法楽』に掲載した文章から抜粋し加筆修正したもので、『法楽』は毎回出来あがるたびに、子どもたちを旅立たせていると感じているのに対して、この原稿には遺書といった感じを持っています。
 すぐ死ぬかどうかの問題ではなく、この本には、修行不足とはいえ行者として残すべき真実が凝縮されていると信じているからです。

 おかげさまで『法楽』は9月で200号です。
 これからは、第二の遺書『み仏は あなたのそばに』続編を目ざし、『法楽』300号を目ざし、いっそう精進せねばなりません。

 昨夜の「法話の会」も無事終わりました。
 早朝に『法楽の苑』へ行ったら、Oさんが清掃奉仕をしておられました。「昨夜行けなくて残念でした」と言われます。ありがたいことです。
 
 さて、会では、以前と同じ「仏様へ頼み事をしてはいけないんですか?」といったご質問がありました。
 誰が言いふらしているタブーかは知りませんが、こうした道理に反することが人口に膾炙するとは、実に残念です。
 もう一度はっきりさせておきます。

 お不動様、お地蔵様、観音様など、どの経典にも救いが約束されています。
 おすがりしていけない理由など、どこにもありはしません。
 元寇など国難のおりはもちろん、飢饉や疫病の蔓延などに際しても、天皇から庶民にいたるまで、み仏へ祈り、ご先祖様へ祈りながら日本は今日まで来ました。

 先亡の御霊も同じです。
 たとえば自分が今死ぬとしたら、子供や孫はもちろん、配偶者などの家族、友人知人、あるいは日本の安全などをあの世から見守りたいと願うのが人情ではないでしょうか。
 原因には必ず結果が伴います。因果応報の理は、時空を超えた真理です。
 ならば、見守りたいという思いが何らかの力にならないはずはありません。
 宇宙の構成要素の70%は、人知でははかり知れない暗黒エネルギーです。
 もしも、大好きなお祖父ちゃんを亡くした孫が危機に陥って「お祖父ちゃん、助けて!」と叫んだなら、思いはお祖父ちゃんの御霊へ届き、きっとそうしたエネルギーが動くことでしょう。
 家族へ救いを約束してあの世へ旅立つ方、御霊の救いを信じておられる方、実際、ご先祖様にお救いいただいた方など、当山とご縁の善男善女にそうした例を探せばとても枚挙に暇ありません。

 み仏も、神々も、御霊も、非力で愚かしく矮小な自分などをはるかに超えた尊い存在であるからこそ、自分の力だけではどうにも突破できない壁へぶつかった時に祈ります。
 自分自身を見つめる先にそうした尊いものの存在を感じ、それと通じて救われた体験の積み重なりが仏神への信仰という形で人間の歴史と共に続いて来ました。

 さまざまなタブーを言い、他人の凶事をたやすく預言する者は、そうすることによって己れを高く見せ、己れへすがらせようという魂胆を持っている場合が多いことを忘れてはなりません。
 相手へ怖れを抱かせるほど自分へ屈服させるのに有効な方法はないのです。
 真理、真実に立脚しない流言飛語に揺すぶられないよう、気をつけたいものです。

 当山では、ミンミンゼミやヒグラシが主役になりました。
 オニヤンマは盛夏から本堂を訪れる珍客ですが、赤トンボもチラホラし出しました。
 暦通り、もう秋です。




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2006
08.24

水子の真実 ―水子供養のすべて―

1 水子とは

 水子について考えることは、人間の誕生について考えることです。
 私たちは、どのようにして生まれて来るのか?ここが出発点です。
 この世で善悪さまざまな業を積んだ魂は、業となった「因」に対する「果」を現実のものにするため、転生の機会を待っています。
 やがて、運命や性格などの「魂の色合」に共通するところを持った男女のペアを見つけると、そこに宿ろうとします。
 大切なポイントは、子供が親を選ぶことであり、肉体より魂の引力が先にはたらくという点です。
 ここを勘違いすると、子供が親へ「勝手に生んだ」などと暴言を吐いたり、親が子供へ「望みもしないのにできてしまった」などと妄言を口走ったりします。


 さて、選んだ男女のところで無事肉体的結合も進み、順調に生まれればめでたしめでたしですが、そううまく行くものではありません。
「受け難い人身」という経文があるとおり、人間としてこの世へ生まれ出ることはとてつもない難事とされています。だから、当然、無事誕生に至るどこかの時点で失敗するケースが生じ、水子にもなります。
 水子は、自分が選んで挑戦した高いバーをクリアできなかったジャンパーのようなものです。
 一度や二度失敗しても、だんだんに力をつければ、やがてはクリアする日が来ることでしょう。それが、最も徳の高い生きものである人間の誕生です。

2 水子への姿勢

 だから、もし水子ができてしまったなら、「次の機会にはちゃんと生まれて来れるように」と祈り、励ます気持が大切です。男女のどちらかに直接的原因があった場合は、「ごめんね」と謝ることも忘れてはなりません。
 最もいけないのは、怖れることです。

 世間には「水子の祟り」と称して男女を脅す人もいるようですが、これは道理にはずれた議論です。
 なぜなら、水子の魂と現世の人間の魂との間には、「祟り、祟られる」といった関係の生じる接点がないからです。
 その理は、魂のはたらきである意識のありようを考えればすぐに解ることです。

3 水子決してが祟らない理由

 目に見える世界と直接、接するのは、見たり聞いたりしたりすることによって動く眼識・耳識・鼻識・舌識・身識の前五識です。
 それらは、「私」という第六識と共にあります。
 ここまでの六つの意識は、それとはっきり分かるものですが、こられのはたらき方は、この世で生きた歴史が積っている第七識によって方向づけられています。
 第七識は潜在したものなので、通常は、中身を知ることができません。いわば潜在意識です。
 
 たとえば、潜在意識へ車に関する情報がたくさん入ってい人は車に強い関心を持ち、読んだ小説の感動がたくさん入っている人は言葉や心に強い関心を持ち、殺人ゲームでワクワクした記憶がたくさん入っている人は殺人に強い関心を持ち、それらの「関心」が運命の舵取りをします。
「関心」によって、前五識と第六識が森羅万象の中からつかまえる対象を選び出し、運命が創られるからです。
 もしも殺人に強い関心を持った人が「非人間的な行動は許せぬ」と正義感を発揮する刑事になれば結構なことですが、ふとした争いで簡単に人を殺めてしまうかも知れません。

 前者よりも後者の可能性の方がはるかに高いので、恐ろしさに気づいた人たちはこうしたゲームの恐ろしさを指摘しています。
 
 ともあれ、第七識こそが運命を創る主役であり、「自分の運命は自分で創る」のです。
 その奥には、生まれ持った過去の因縁のすべてが伝えられている第八識があり、さらに奥には、み仏の心を宿した第九識があり、それらは広大な海のような無限のみ仏の世界、第十識の表れです。

 そうすると、水子の持っているものは、どれになるでしょうか。
 第十識と、第九識と、第八識だけです。
 第七識は、まだこの世に生まれ出ていないので空っぽだし、もちろん、第六識も、五識もありません。
 最近、胎児が詳しく研究されるようになり、母胎を環境として活発な生命活動をしている様子が明らかになりつつありますが、母子間で双方向のやりとりはできませんから、水子の日々は第八識へしまい込まれるだけです。
 母胎という井戸の中にいただけで外界を知らない水子が、この世の人に祟るはずがないのは明らかです。
 ましてや、尊い魂だけの存在が、この世へ生まれ出るチャンスを与えてくれた男女へ凶事を与えることがあり得ましょうか。
 私たちは、「水子の祟り」という妄想や、何代か遡れば誰にでもありそうな水子を悪者にして「先祖のつくった水子の祟りや呪い」を言う輩の脅しからそろそろ脱しても良いころです。
 
4 水子供養の意義
 
 以上が真理であるにもかかわらず、人は水子ができると、悲しむのはもちろん、あるいは怖れ、あるいは不安になります。
「怖れる」のは見当違いであり、水子への失礼に当たり、良からぬできごとを水子のせいにするのが理のない言いがかりであることは上記の理由ではっきりしていますが、不安はどうすれば良いのでしょうか。
 不安は「生んでやれなかった」「親の都合で流してしまった」という罪悪感から生じています。
 この気持には素直でなければなりません。
 そして、「ごめんね、今度はしっかり生まれてきてね」と謝り励ます祈り、それこそが水子供養の本旨です。
 こうした心からの供養は水子となった魂へ通じ、きっと大きな力になることでしょう。
 そして、やがてこの世に一人の人間が誕生したなら、何とすばらしいことでしょうか!
 水子供養は、「受け難き人身」を創るための尊い祈りなのです。

5 蛇足
 
 もしも、水子ができてから凶事が続いたならば、それは、決して水子のせいではなく、いのちの尊さや供養への関心が薄いその人自身の生き方がもたらした結果です。
 そうした人々といえども、良心はあります。第九識や第十識があるからです。
 水子の生じたことが決して小さなできごとでないことに表面下の意識では気づいています。

 表面では平気で知らんふりをしていても、心の底には不安が生じています。良心の警告です。
 そうしたものを放っておけば、知らぬ間に「柳を幽霊と見て恐れ」「縄をヘビと見て逃げ出し」「包丁で手を切れば『あのせいだ』と怖れ」ます。
 こんな真実から離れた生き方をしていれば、不幸の種との巡り会いが多くなるのは当然です。第七識がそうしたものをキャッチするからです。
 水子と凶事を直接結びつけるのは、理に暗い愚かさに他なりません。

6 結論
 
 水子に関する真実を知ったならば、正しい心で正式な供養をしましょう。
 たとえ昔の水子でも、今、供養することができます。
 み仏と御霊のことごとは、常に「思い立ったが吉日」です。人の生き死には、時を選ばないからです。
 気づいた時に行なわねば、行なう時はありません。
 誰の生であれ、確かなのは「たった今」だけではありませんか。


2006
08.22

日本の価値

 作家T氏と久々に会ったら、こんな情報をもらいました。
「おい、日本が世界で一番『世界へ好影響を与えている国』だってことを知ってるかい?」
 さっそく、米メリーランド大が英BBC放送と共同で行なった世論調査を調べたところ、確かに、質問の対象となった33ヵ国中31ヵ国が、「日本は世界へ悪影響よりも好影響を与えている」と判断しています。
 ちなみに、反対の評価をしたのは中国と韓国だけです。

 悪影響の方が多いと判断された国のワースト1はイラン、次いでアメリカです。
 イランには核開発や、テロへ走る原理主義的イスラム教勢力への加担という問題があり、アメリカは世界一人殺しをしていますから納得できますが、日本がなぜ好影響ナンバー1であるかは、よく解りません。
 T氏は
「日本は先進国で唯一、先の戦争以来60年間も戦争をしていない国だからなあ」
と言い、私もそうだよなあと相づちを打ちながら、それ以外にも理由がありそうな気がしました。

 そのうちに、T氏は、なぜ人を救う宗教によって戦争が起るのかという問題を提起したまま帰りました。
 きっと一神教の問題に帰着するのだろうと応えたものの、未消化の部分が残っている感じがして、瞑想をしました。

 思い浮かんだのは、平成17年にパリで開かれた第33回ユネスコ総会の決議です。
 文化の多様性を尊重することを法的に確定しようとする『文化的表現の多様性の保護と促進に関する条約(文化多様性条約)』は、賛成148票、反対2票、危険4票の圧倒的多数をもって採択されました。
 反対したのは米国とイスラエルです。
 このおりに、ユネスコの事務局長として、頑強に反対する友好国アメリカとの折衝に汗を流した松浦晃一郎氏は、後に再選されています。

 こうした活躍ぶりを考えると、日本は、世界一多様性を尊ぶ国の一つなのではないかと思えます。
 多様性を「尊ぶ」とは、他を「認める」ことであり、それは「赦し」に通じます。
 たとえば、A神を信じている人が、B神を信じている人を真に認めるとは、「A神を信じないことを赦す」ことに帰着します。
 なぜなら、真に認めるとは、自分と相手が魂のレベルで同じステージにあると信じることであり、それにはB神をA神に屈服させることの放棄が含まれるからです。

 そもそも、宗教において「救われる」とは、畢竟「赦される」ことに他なりません。
 赦しとは解放です。赦されるとは、魂が解き放たれ、霊性そのものとしてはたらくことです。
 たとえば、地獄の苦しみにあってみ仏に救われるとは、地獄へ堕ちるに至った自分の業が浄化され、悪因縁の呪縛から解き放たれることであり、そうして蘇生した魂は赦されているのです。

 私たちは、毎日毎日、これでもかというように新聞やテレビで悲惨な事件を目の当たりにしていますが、日本人であることにもっと自信を持って良いのかも知れません。
 日本では、仏神がほどよく生活の中へとけ込み、仏神の名のもとに争わず、嬉しいときも悲しい時も「郷に入らば郷に従え」です。
 いつも南無阿弥陀仏しか口にしない人が、神前結婚式では親族と一緒になって二礼二拍手一礼を行ない、神道に熱心な人が、知人のお葬式では心からお焼香と合掌をします。
 だからといって阿弥陀信仰が揺らぐわけではなく、天照大神信仰が揺らぐこともありません。


 他人の信仰を尊ぶことは、「信仰」の価値への確信を深め、他の仏神の信仰という環境にあって自分の信仰を保つことは、自信につながります。
 新興宗教の多くは、「この仏神こそが最も尊い」と既存の宗教を否定し、敵視すら行なうことによって信者さんたちへ闘争心を植え付け、膨張を計っていますが、邪道と言わざるを得ません。

 私たちにとってはあたりまえの習俗となった「郷に入らば郷に従う」大らかなありようは、世界レベルから観ると想像以上の価値を持っているのではないでしょうか。
 そう言えば、私たちは、原爆は憎み続けていても、投下したアメリカを簡単に赦しました。たやすく友人にもなりました。
 今、激しく殺し合っているのは、赦し合えない人々です。
 最近になって、半世紀以上も前のできごとに恨み辛みを言い出した国があります。
 残念なことに、日本でも他の信仰を赦せない宗教の影響で家庭が崩壊しそうになり、当山を訪れる方々がおられます。

 日本の「好影響」とは、「赦す姿勢のもたらすもの」を指しているのでしょう。当然、それには、宗教を論(アゲツラ)って争わないということも含まれます。
 戦乱の止まない現代、我を張り合って生きにくい現代に生きる世界の人々が最も求めているものは、そうしたありようなのかも知れません。





2006
08.20

惚れた人 3

『惚れた人 2』に「こうした際の〈前向き志向〉は人生を薄っぺらにしてしまいます」と書きましたが、人生相談へ来られたお嬢さんから、問題点の共通した質問を受けました。

「私は、猫が交通事故で死んでいるのを見たりすると、とても悲しくなってしまいます。
 ある戦場跡へ行って戦士たちのお墓をお詣りした時も、ああ、皆どんな思いで逝ったのだろうと、強く胸をうたれました。
 特に何かが見えたり聞こえたりするような能力はありませんが、ある人から『そういう気持でいると、成仏できない霊に取り憑かれるよ。
 あまり、いろいろと気にしない方が良いよ』と言われました。
 でも、気にしないではいられません。
 実際、最近ある所へ相談に行ったら、何々の霊が憑いているから除霊しなさいと言われました。
 こういう私はどうすれば良いのでしょうか?」

 確かに、お嬢さんの心には隠しようのない不安が宿っています。
 それは、自分の心のありようを正確に知らず、周囲からあれこれ言われた結果、膨らんだ幻です。
 まず、不安な気持はいつでもご加持という法を受ければ解けてしまうから安心するように話し、利発そうな眼をしたお嬢さんへこんな説明をしました。

 お釈迦様の説かれた「お慈悲」は、貴女の気持そのものです。
「慈」は、分け隔てない友情、つまり、誰に対しても「他人ごと」と無関心にならず、その人の身になることです。
「悲」は、分け隔てない同情、つまり、誰の悲しみや苦しみをも、我がこととして共有することです。
 貴女が、見ず知らずの猫の無惨な姿を目にして猫の身になり、「可哀想に」と死を悼むならば、それは慈悲そのものではありませんか。
 戦士たちについても同じです。
 そうした慈悲心の発露を不安に思う必要はまったくありません。
 むしろ、ご自身の心にとても優しいものがあることを自信にしてください。
 それこそが、人をまっとうに生きさせる核なのですから。

 ただし、未成仏の霊が優しい思いの訪れを喜ぶ場合があることは確かです。
 もしも、何か感覚的に残るものが生じた場合は、合掌して真言を唱えてください。
 必ず、良い導きになり、不自然な感覚は消えます。
 また、貴女の一生を守る守本尊様の真言も忘れないようにしてください。
 経典によれば、守本尊様は一瞬たりとも休むことなくご守護くださっておられるので、どんな場合でも必ずお救いくださいます。

 なお、〈見える聞こえる〉は、無いのが正常だと考えてください。
 そうしたことを簡単に口にする方々のほとんどは、自分の心にあるものを自分の心の鏡へ映しているだけです。
 だから、他人様へ何かを指摘しても、相手を不安にしたり、嫌な気持にさせたり、恐ろしがらせたりするばかりで、正しく根本的な解決法は示せません。
 そして、他人へそうした思いをさせた因縁を溜め続けていますから、自分自身がカラリと晴れた心になれず、どこか湿った雰囲気や尖った気配があるものです。
 相手へ笑顔をもたらすことは、あまりありません。
 もちろん、中には、すばらしい勘と智慧を兼ね備えた方もおられましょうが、それは例外というべきです。
 これは問題だと気づいて相談に来られた方は、ご加持を受けて〈見えなくても良いものは見えず、聞こえなくても良いものは聞こえなく〉なって帰られます。

 プロの行者は、必要に応じて観るべきものは観、聞くべきものは聞こえるようになるのが修行の目標の一つですが、修法中に受けるものは、テレビなどでやるような、人様へ不安や恐怖を感じさせるおどろおどろしいものではありません。
 み仏と一体になり、不浄で余分なものを取り去るのが「法へ入る」ことなのですから、あんな状況はあり得ません。


 今、貴女におかしなものが憑いていないことは、はっきりと観えていますから安心してください。
 ご本尊様の前で、袈裟衣にかけて断言できます。
 貴女の不安は、貴女の並はずれて優しい心をなかなか理解できない周囲の方々の反応が積み重なってもたらされたものです。
 しかし、貴女は、今、ご自身の心に宝ものがあることを知りました。
 み仏のご加護も知りました。
理解し、脱する」ことを解脱と言います。
 観たところ、聡明な貴女は、もう、これまでの因縁から解脱しておられます。
 これからは、合掌や真言を忘れず、宝ものを一層大切にしながら生きてください。

 すっかり解脱した彼女へ除霊など行なう必要がなかったのは当然です。
 蝉時雨に送られながら軽い足取りで本堂を後にする彼女は、もう、別人でした。




2006
08.19

惚れた人 2

 前回の「惚れた人」を読んだ信徒さんからご質問がありました。
「Aさんに救いは無いのでしょうか?苦しみに身を任せるしかないのですか?」

 当然、救いはあります。
 そのためにこそ経文があり、真言があります。
 Aさんはご自身の守本尊様がどなたであるかよくご存じなかったようですが、私が唱える真言を聞き終え、手元のお守から済んだ目を上げてゆっくりと問いました。
「これはずうっと持っていて良いのですか?」
「もちろんです。
 財布へ入れる、車へ乗せる、あるいは枕の下へ入れる、どんな用い方であれ、とにかく身近へ置いてください。
 胸をかきむしりたくなった時、仕返しの妄想が黒雲のように起る時、光明がないと感じられる時、どのような場面でも真言を口にしてください。心で唱えても結構です。
 必ず心の波が治まりますよ」

 棚経にお伺いしたお宅でこうしたご質問もありました。
「私はお父ちゃん(ご主人)のことをなかなか忘れられないんです。
 メソメソしていると、ある方から『いつまでもそうしていると成仏できないよ。前向きにやりなさい』と言われたんですが、なかなかそうした気持になれません。どうすれば良いのでしょうか?」
 喪失感、不在感、やりきれぬ思い、次々と続いて起る追憶などは、尊い情緒の発露です。
 悼む心を無理に抑える必要はありません。
 こうした際の〈前向き志向〉は人生を薄っぺらにしてしまいます。悼む思いという陰翳こそが光明に輝きを与えるのです。

 その典型が「末期の眼」です。
 死を避け得ないものと知った時、眼に映るものすべてがいとおしくなると言います。
 失恋も、夫の死も同じです。
 無常をつきつけられたやるせなさに身を任せてこそ、この世にみ仏の徳が満ち満ちていることを実感できる時が来ます。
 どうしても耐えられぬなら、それはみ仏のご加護にあずかる縁の時です。

 至心に合掌しましょう。唱えましょう。
 日常生活と共にありながら気づかないでいた光明世界の扉がきっと開くことでしょう。




2006
08.18

惚れた人

 お盆が終わった途端に、男女関係のご相談が重なっています。

 惚れて惚れて惚れ抜いていた彼女に去られたAさんは、もう3カ月も経つのに、まだ、もがいています。自分以外の男性との結婚に納得ができないのです。
 これまで、ずいぶんいろいろな所で相談をされた様子ですが、当山で初めて言われたことが二つあったそうです。

 一つは、誰もが「不実でダメな女は、早く諦めてしまうように」とアドバイスしたそうですが、私は、
「Aさんにとっては、この世で天女に遇ったようなものでしょう。めったに遇えない佳い女だったのだからなかなか忘れられないのは当然であり、ここで悶々と悩むことは決して人生のロスではありません。
 ただし、仕返しといった人の道に反する行動はなりません。
 どんな小さなことでも、生涯、後悔するようになりますよ」
と申し上げました。

 もう一つ、待ち続けたいという気持が捨てられないAさんへ、誰もが「貴男とは縁のない女性だから、忘れてしまいなさい。別な相手を探しなさい」とアドバイスしたそうですが、私の観方は違いました。
「今現在、縁の糸が百パーセント切れているとは判断しません。
 彼女の生き方のマイナス部分が大きく作用して、いずれ、生活に破綻を来す可能性が大です。
 そうなって初めてAさんの真情が解るでしょう。
 その価値に気づくでしょう。
 もしかすると、『その時』が来るかも知れません。
 ただし、その時点では、彼女は、Aさんと愛し合っていた頃の彼女と別人になっていることを覚悟しておかねばなりません。肉体も心もです。
 それを覚悟した上で待つのなら、それも一つの人生でしょう」

 この世は無常です。
 季節だけではなく、すべてが時々刻々と移り行きます。
 でも、Aさんの純粋な気持は変わらないかも知れません。
 その純粋さが彼女の何に対してだったのかは、ボロボロになった彼女を前にした時に明らかになることでしょう。




2006
08.16

秘すれば花

 昨日のお盆供養会は、み仏と、たくさんの壇信徒さん方のご協力と、お心をお寄せくださる方々のご加護をもって、無事終了しました。
 まことにありがたく、感謝しております。

 さて、後片づけの終了後、皆でお菓子や果物や飲みものなどに舌鼓をうちました。ご本尊様へ、御霊へとお供えされた品々はとても美味しく、疲れが消えてゆくように思われました。

 あまり大きくない箱へ入っていたお菓子をお分けしたら、ちょうどぴったりで、私の分がありません。
 隣におられた女性が気づいて、先生のがないと言い出しました。
 私は、箱にあったお品書きをいただいて、これで充分ですと申し上げました。

 捧げられた品々は供養の心を表現するためのものであって、通じるのは心です。
 もちろん、見て美しく、食べて美味しいものは、その心をよりはっきりさせるはたらきがありますが、そうした部分は、人生の大切な時間をお手伝いにと割いてくださる皆さんへこそ回向されるべきで、法務が当然の使命である僧侶より優先されねばなりません。
 僧侶は、お品書きで充分です。

 世阿弥は「秘すれば花なり」と言いました。
 味が直接には判らないだけに、心は、よりはっきりといただけているのかも知れません。

















2006
08.14

借りたい猫の手

Category: 日想
 お盆が近づくと「猫の手も借りたい」ような状況になり、三度の飯にありつくことなどできません。

 以前、信頼できる医師からカロリーメイトは良いということを聞いていたので、カロリーメイトと、これまた良いよと聞いていたポカリスウェットのお世話になりながらどうにかやっています。

 普段より喉の調子が良いのは不思議です。やはり彼は名医に違いありません。

 

 猫は、足下にまつわりつき、こうして座っているとたちまち膝に乗るだけで、いつもと何ら変わりません。

 時折、ご来山される方々をおもてなししようとスリスリします。本堂で寛ぐことはもちろん禁止事項ですが、いくら禁止しても止めません。まあ、彼女なりに招き猫をやっているつもりなのでしょう。

 もちろん、猫アレルギーの方も、猫嫌いな方もあおりでしょうし、本堂のあるべき姿からしても、禁止は永遠です。



 ところで、当山では、「拉致」という言葉は難しく実態のイメージが持ちにくいので、「人さらい」と言うようにしています。

「BSE」もそうです。還暦にもなると頭文字の羅列では何が何だか解りにくく、以前の「狂牛病」を用いています。文明に潜む人間の奢りが生きものを狂わせ、そのツケが犯人である人間へ回ってきているという実態を忘れるわけにはゆきません。

 哀れな牛たちの姿と、病気への恐怖は、「決してくり返してはならない」という仏神からの警告です。



 さて、8月10日北京発の共同通信によれば、

「1998年8月に江沢民・中国国家主席(当時)が、中国の在外公館関係者を集めた会議で『日本に対しては、歴史問題を常に強調するべきだ。永遠に話題にし続ける必要がある』と述べ、歴史問題で日本を徹底追及するよう指示していた」

そうです。

 しかも、これは、

「中国各地で発売された江氏の文献集『江沢民文選」』で明らかになった」

ので信憑性は極めて高く、現在の指導部もこの方針を最大限踏襲していると思われます。

 中国が国家戦略の一環として歴史認識とそれに連なる靖国問題をもって永遠に日本を追求することにしている現実は、解りやすい日本語に直してみるとどうなるか、考えてみたくなります。



 相手の弱みとおぼしきところをとらえ、自分の目的を達成するまで何十年かかろうととことんなぶり続けるやり方は、私たち日本人の作法とはだいぶ異なっています。

 そもそも日本は大和の国です。原爆投下という歴史的大虐殺を行なった相手国と、こうも容易に肝胆相照らす仲になるれる国は、そうそうありません。

 自分の作法を押しつけようとしても無意味ですが、せめて相手の作法がいかなるものであるかはきちっと認識した上で、大人のつき合いをしたいものです。

 

 ともあれ、あと二日間とその後の数日間は、ますます喉の調子が良くなるはずなので、毎日入れ替わり立ち替わりご協力下さるご縁の方々へ感謝しつつ、猫はアテにせず、頑張ります。




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2006
08.12

お盆と施餓鬼

 お盆に行なう施餓鬼(セガキ)会は餓鬼界に迷う諸精霊へ施しご供養するもので、万霊供養の基(モトイ)です。 その心をもって、それぞれの家の、あるいはご縁の御霊をご供養してください。

 生きものとして「食べられない」という最も辛いところにおられる精霊へ施すことができれば、万霊への供養ができます。
 かつて、欧米列国の世界支配計画へ抵抗して日本が断固立ち上がり、日露戦争が起った時、昭憲皇太后は自らの居所を女性たちへ提供し、前線で戦う傷兵を思いやりながら、日夜、包帯づくりに勤しまれました。
 国民を思い、平和を願うそのお心は、後にノーベル平和賞の候補者に挙げられたほどです。
 自分がいかなる境遇にあっても、世の中にはとても辛い思いをしている人々がいることへの想像力と、縁に応じての思いやりを忘れぬようにしたいものです。

 修法では、清らかな飯食を加持して鬼神となっている方々すべてへ捧げ、貪りの心を捨てて満足が得られ、迷いの悪道から善き世界へと抜け出られるよう、三宝へ帰依して悟りを求める心を発してこの上ない安心が得られるよう、そして、その功徳によって一切の生きとし生けるものが飲食に不自由せずに済むよう願いをこめます。

 導師の修法と善男善女の祈りによって、五如来様方が、

貪る心を離れて福智円満に
醜い姿を離れて円満な姿に
心身を護っていただいて心豊かに
喉を開いて飲食物を摂れるように
恐怖が消えて餓鬼界から離れるように

と、精霊の手を引き、安心の境地へとお連れくださいます。

 この大きな功徳を諸精霊へ回向すれば、必ずや極楽浄土へと進まれることでしょう。
 それは、この世の私たちが、布施行によってより早く迷いを脱する道でもあるのです。




2006
08.10

五力 10 ―念力 6 動機と結果―

 80歳になった釈尊は脊髄の痛みに苦しみ、余命いくばくもないことを知りつつも、托鉢と説法の旅を続けていました。
 クシナーラで休息をとったおり、貧しい鍛冶職人ジュンダの供養を受けた釈尊は、食中毒を起こして倒れました。
 すでに「如来まさに入滅すべし」と自分の死を予言していた釈尊は、泣き崩れるジュンダを慰めます。

「お前の供養によって入滅すると考えて悲しんではならない。
 お前の供養してくれた心は、悟りを開くに至った時にナンダが乳粥で供養してくれた心と何ら変わるものではない」


 かつて生死の境を行ったり来たりするほど激しい難行苦行に邁進していた釈尊は、ある日、ふと、気づきました。
「悟りを得られぬまま死を迎えるわけには行かないではないか」
 そもそも、痛めつけれた身体は気力を失わせるだけで真の心の集中をもたらさず、心が鏡のようにならない限り、最高の真理は獲得できないだろうと考えた釈尊は、弱った身体を河で清め、瞑想へ入ろうとしたものの、もはや、河から上がれません。
 その時、不思議にも木の枝が垂れ下がり、釈尊はそれにすがってようやく岸へ上がったとされています。
 その村の村長の娘がナンダです。天神から行者釈尊への供養を勧められたナンダは、喜んで乳粥を捧げました。
 やがて釈尊は、多くの河川が海の水位を上げるように、また三日月が光る部分を増して満月へと向かうように本来の徳が自ずから現れ出て、菩薩としての美しい姿を取り戻し、49日目の早朝、釈尊35歳の12月8日、ついに悟りを開きました。

 こうした人類の大慶事をもたらしたナンダの供養と、如来の死という最大の不幸をもたらした供養とが同じであるとは、いかなることでしょうか。
 それは、
「供養する心の尊さは平等であり、何をもって行なうかによって価値の大小を評価されない」
という教えでありましょう。
 牧畜をなりわいとする村長の娘は、青い衣装に金の腕輪をし、最高においしい食事を捧げました。
 一方、貧しい職人は、お腹を壊してしまいかねないようなものをもってしか、供養出来ませんでした。
 しかも、一方は成道をもたらし、一方は死をもたらそうとしています。
 それでもなお、釈尊は、供養の尊さは変わらないと断言します。

 これは、決して慰めるためだけではなく、「人は心のありようによって人格の尊さが現われるのであり、生まれや階級によって決まるのではない」と説き続けた釈尊の断固たる信念の言葉であったに違いありません。
 供養の平等とは、言い換えれば
「行動においては、動機をこそ自らに問うべし。結果によって動機の清浄と汚濁は判断されない」
となりはしないでしょうか。
 生きることは大変であり、まっとうに生きることはなおさらです。
 いかなる組織も、結果で人を判断せざるを得ません。
 しかし、勝てば良い、儲かれば良い、好きなことができれば良い、ばれなければ良い、といった気ままがまかり通る今こそ、自分自身の死を前にして説かれた真理の厳粛さにきちんと向き合いたいものです。
 そして、「自分は人間としてどうなのか」「行動の動機は何なのか。穢れてはいないか」「いつも心に何を念じているか。念力は正しいか」を心の鏡に映し出したいものです。




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2006
08.09

十三仏様がきれいになりました

 炎天下の二日間、信徒Sさん母子三人が、十三仏様の苔をおとすご奉仕をされました。

 できたばかりの井戸水を手桶に汲んで壇へ登り、熱いコンクリートの上で、午前から午後まで、何時間もていねいにやっておられました。

 おかげさまで、あちこちに深い緑色をまとっていた仏様方はとてもきれいになりました。

 きっと、ご参詣の皆さんは清々しいお気持ちになられることでしょう。

 心よりお礼申し上げます。

 まことにありがとうございました。合掌







〈壇上での、三人の履き物です〉






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2006
08.09

井戸水が使えるようになりました

『法楽の苑』入り口左手に蛇口が取り付けられ、井戸水が使えるようになりました。

 水道の位置が墓園から遠いために、手桶で水を運ぶ方々へご不便をおかけしていましたが、今度は便利になりました。

 水は大変澄み、不快な匂いもなくとても美味しいので、お盆明けに水質検査を受ける予定です。

 もし、問題がなければ、飲料水としても使えます。お墓参りの時に美味しい水で喉を潤していただけるかも知れません。

 なお、水量が少ないので、使用後は必ず栓を止めてくださるようお願いします。



 井戸は、本吉町の方が「あるとき払いの催促なし」で掘ってくださり、石は、仙台市のIさんからいたいだいていたもの、それに、Sさんがわざわざ運んでくださったものです。

 ポンプを設置する四尺角のコンクリート基礎はN工業さんのご奉仕です。

 石の加工と竹細工は、役員のSさんが何日もかけて丁寧にやってくださいました。

 いずれも炎天下のご奉仕作業でした。

 心よりお礼申し上げます。

 ありがとうございました。合掌












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2006
08.08

長男の因縁

 頼もしい長男を育て上げた優しい母親二人が来山されました。
 ものごとをわきまえた方々なので、自慢話はしません。
 むしろ、これからどう一人前になって行くのかを見守っておられます。
 そこで、一般論としての「長男の特徴」を一つ申し上げました。

 母親は子供を充分にかわいがるのが使命です。
 いかなる場合も絶対に子供の立場に立ちます。
 良いことをしたなら誉め、悪いことをしたなら悪いことをしなければならなかった子供の気持をふまえた上で指導します。
 そうしてこそ、子供は安心という宝ものを持って育ち、環境や社会への信頼と責任を自覚出来るようになります。

 しかし、「子供の立場に立つ」ことが、教育上の落とし穴になる場合があります。
 それは、母親が子供のために言い訳をしてしまう場合です。
 特に長男に対しては、穢れずまっすぐ立派に育って欲しいと願うあまり、そうした理想像を崩したくないという心理がはたらきます。
 たとえば他人の塀へ落書をした場合、「Aちゃんに無理に誘われたからなのよねえ」と弁護し、第三者へもそうした主張をします。
 こうした「代理の言い訳」をくり返すならば、子供の心にどういう変化があるでしょうか。

 自分のしたことに直接向き合わず、誰かのせい、あるいは何かのせいにして、自分をいつも安全なところへ置くようになります。
 自分をかわいがるようになるのです。
 これは人生を渡る上で決定的とも言える脆弱さになります。
 まっとうな大人の社会では、言い訳や弁護は他人様がしてくださることで、自分がやるような人は信頼されません。

 40歳近くにもなってから、長男として育った自分のそうした面を実感した強烈な体験があります。
 一緒に問題の処置に当たっていた友人T君から、面と向かって「言い訳をしてはだめですよ」と言われたのです。
 彼も長男ですが、厳しく結果を問われる仕事をしているうちに、いつしか人間ができたのでしょう。
 たぶんに酒の勢いがあったのは事実でも、あの一言は応えました。
 また、新年を迎え、師の前で弟子たちが今年の抱負を述べ合った時、師はまっすぐに私の目を見て「今年の目標は『言い訳をしないこと』にしましょう」と宿題をくださったのです。
 いずれもが、育ちの因縁のマイナス部分を解き放とうと決心する大切なきっかけとなりました。
 以後、気をつけてはいても、やはり、それがこっそりと顔を出してしまう場面があります。
 因縁解脱は一生の行であり、その果のいくばくかは現世で現われましょうが、解脱を完成しない限りやはり次の世でも生まれの因縁となって引き継がれるのでしょう。

 過去の因縁を背負って生まれ、育ちの因縁で心がつくられる私たちの人間修行とは、悪しき因縁を解いてその呪縛から脱すること、つまり「因縁解脱」に他なりません。
 そのためには、良き因縁を「上手に」ではなく、「正しく」活かすことです。
 上手にやる人は一時の栄華を得られるかも知れませんが、正しくやる人は永遠の安心を得られます。
 佳い笑顔で当山を後にされた優しいお母さん二人は、きっと、息子さん方に「自分をかわいがらぬよう」「長所を活かすよう」指導されることでしょう。




2006
08.06

消えた友情

昨夜遅く、古い友人へこんなメールを書きました。

「かつて師が『私は友人を持たない』と言われた意味が、最近になってよく理解できるようになりました。
 友情という甘く和やかな感覚で楽しいひとときを過ごすことは、もうできません。
 和やかなゆとりある時間とは無縁になりました」

「妻や子などと一緒にいる時間以外は、常に真剣の刃の上にいるような感覚です」

「私は修羅らしく刃の上で生きるしかありません。
 それなりの覚悟はできていますが、刃の上で死ねるか、それとも畳の上になるのかは、み仏にお任せするだけです」

 そもそも慈悲の「慈」は友情を意味しますが、それは普通に気の合う友人と共有するものではありません。
 わけへだてなくなく、すべての人々へ対して感じるこの上ない友情です。
 言い換えれば、「どなたの身の上に起こることも『他人ごとではない』と心から思えること」となりましょうか。
 そうすると、30年来の知己も、たった今、人生相談にかけつけられた方も、衣をまとった者ににとって違いはありません。
 冒頭のようなメールを書いてしまったのは、法務の日々が、世間的な友情をいつしか消してしまったからでしょう。

 人間も肉体を持っている以上、動物の一種であり、寝そべったり、ぐったりしたりします。
 それは「私ごと」であって、他人様へお見せするものではありません。
 私を離れたことごとは、すべて「公」です。
 衣をまとった者にとっては、壇に登って修法していようが、道を歩いていようが「公」です。
 もしも、不意のできごとが起こればそれにどう対処するかは、袈裟衣をつけておらず、たとえ作務衣姿であっても、行者としてのふるまい以外のものでありはしません。
 やはり、刃の上としか言いようがありません。

 どなたと一緒にいてもありがたく、嬉しいことは一緒に嬉しく、悲しいことは一緒に悲しく、泣けることは一緒に泣けてしまいます。
 友人たちには申しわけありませんが、もう、「特別な人」はいなくなりました。
 しかし、つき合いが悪くなったからといって友情がなくなり冷たくなったわけではなく、ステージの異なった友情へ昇華しつつあるとご理解いただきたいと願っています。

 こうしたことを書いていると、昨夜お会いした友人Iさんは、面倒な理屈を待つまでもなく、周囲の人々へも「昇華した友情」を自然に持てる方であることが解り、あらためて尊敬の念がわいてきます。
 人は皆仏性を持っていますから、本来は、誰しもが「慈」の心を発揮することができるのす。

 これからも、ご縁の方々にお導きいただきながら精進したいものです。




2006
08.05

五力 9 ―念力 5 蜜か安心か―

『守本尊道場』で一汗かいて戻ったら、役員さんから電話がありました。
 近くにまた大きな霊園ができたようだけれども、次々にできる大規模な霊園に囲まれて大丈夫かといった内容です。
 現役時代は数字に厳しい立場を勤め上げた方だけに、いつもご心配をしてくださり、とてもありがたいことです。
 
 お礼に続けて、こう申し上げました。
「法楽寺は、もともと無から始めた所だし、今も皆さんのお心が集まって、ようやく成り立っています。
 よそ様と立派さを競う力はないし、そもそも競争ということと無縁にやっています。
 よそ様がどうであろうと当山は当山の信念で法務を行ない、あとはご本尊様へお任せするだけです。
 当山に墓所を求める方々は、『お墓選びはお寺選び』であると考え、当山ではどんな行者が何をどう行なっているのかを確認した上で、仏縁を結んでおられます。
 もう、これだけで充分です」

 昨日の夜、トイレの壁に蚊が一匹止まって身体を震わせていました。
 さっそく近寄ってきましたが、黙って血を分け与えるわけにはゆきません。
 そうかといって寝る前に殺生するのもしのびなく、追い払って出ました。
 今朝4時、彼はもういません。外へ出たとは思えないので、どこかで骸になっているのでしょう。
 わずか数メートルと言われている活動空間で、ただただ動物を待って生き、数週間の短い生涯を終えました。

 今朝は、残り少なくなっている蜂蜜のビンの蓋を開けたら、蟻が二匹溺れ死んでいました。
 きっと、前回蓋を開けた時、内側にへばりついていて閉じこめられたのでしょう。
 この上ない好物にまみれて死んでいる様子に、ある物語を思い出しました。

 猛虎にでくわした旅人が古井戸を見つけ、蔓草にすがって中へ入って難を逃れようとしたところ、下では毒蛇が獲物が落ちて来るのを待っていました。
 しかも、黒白二匹のネズミが蔓草をかじり始めたではありませんか。
 ところが、絶体絶命の窮地に陥った旅人の上にミツバチが飛来して、時折、蜜をたらしてくれます。
 旅人は蜜を口にすることだけに気をとられ、虎も、毒蛇も、ネズミも、もう忘れてしまいました。


 私たちは、たかだか、自分の身体を移動できる範囲にしか行けません。
 食べものがなければ、あるいは摂取できない身体になれば死がまっています。
 蚊の姿は他人ごとでしょうか。
 蟻も同じです。
 生きながらにして「好みの海」で溺れ死ぬ人々の何と多いことでしょうか。
 そして、旅人です。
 死神の待っている古井戸へ逃げ込み、一瞬の後には落ちるかも知れないのに目先の蜜しか意識にないのでは、あまりに哀れと言うしかありません。
 現世の苦という猛虎と対峙してこそ人間です。
 もしも対峙する生命力が衰えている時は、合掌し、真言を唱え、み仏を観想して体力と精神力を回復すれば良いのです。
 苦と向き合い、根本のところで救われるしか、苦を脱し切る道はありません。
 
 当山とご縁を結び、学ぶ方々は、心に念ずべきものを知り、一時の甘い蜜に惑わされず、「この世の幸せとあの世の安心」を得られる道を歩もうとしておられます。
 念力にご加護があり、ご多幸で過ごされるよう祈る毎日です。




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2006
08.04

葉月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



※7月中に詠まれた句を載せているので、月遅れになっています。



低温に庭のトマト実のならず



新しき簾の色の風通る



やませ風鈴音走らせ猫帰へる



久々に墨香を立て夏書かな




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2006
08.04

文月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



※6月中に詠まれた句を載せているので、月遅れになっています。



七変化咲かせ女の独り住み



つきつめて物は思わですだれ巻く



雪渓に雲棚びて岩手富士



掌(テノヒラ)にでで虫這はす男の子




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2006
08.04

8月の運勢(世間の動き)

 今月は、ものごとが上昇し、それにふさわしい結果が明確にでる時です。

 積まれた徳はどんどんみ仏の元へと届き、それに呼応して福徳がもたらされます。上がった因への果が速やかに降ります。

 また、悪しきことについても同じ原理のはたらく時なので、もしも、北朝鮮がふたたびミサイルを打ち上げるような事態になれば、大変困ったことです。

 中東、アフガン、イラクなど、世界中でミサイルやロケット弾が飛び交い、犠牲者は時々刻々と増え続けています。

 今月は戦線がさらに拡大する虞もあり、世界の平和は予断を許しません。

 

 こうした時は、育てるべきものをしっかりと育てるチャンスです。夏休み中の子どもたちの指導などは、特に大切です。

 同時に、摘むべき悪しき芽を摘み取って、悪しき花が咲かぬようにもしましょう。

 釈尊は、こう説いておられます。

「樹木を伐採してしまう時に、根を除かねばまた伸びる時がくる。迷いを断とうとするなら無明という根を除かねばならない」



 良き果、善き果、佳き果が早くもたらされるには、条件があります。

 それは、「夫婦和合」や「労使協調」といった陰陽の調和です。

 子供は親を選んで生まれてくるのであり、夫婦和合があれば清らかな波長の魂が宿り、生まれてくる子供にとって安心な道の用意された受胎が起こります。

 和合がなければ迷った波長の魂が宿り、生まれてくる子供にとって不安な道の用意された受胎が起こります。

 家庭内の問題による病気や事件が続発する現代の状況は、魂のレベルでの和合が難しくなりつつあることを証明しています。

 こうした時こそ、相手を思いやる心で調和、和合をはかりたいものです。



 また、今月の流れを活かすためのもう一つの方法は、計画や準備や整備といったものを怠らないことです。

 そうすれば、吉凶さまざまな不意のできごとに対して最も適切な対応が行なわれ、上昇の勢いを活かすことができましょう。



 注意事項としては、女性が性犯罪への注意を疎かにせぬこと、また、内容の伴わない怪しい話に乗せられないことです。

 うろつく者、浮つくもの、実態の明らかでないものには、情報を共有するなどして皆で充分に注意をはらい、無事安全に過ごしましょう。




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2006
08.03

生まれ変わった人

 死刑制度に関する当山の姿勢について、いろいろとお訊ねやご意見がありました。

 参考までに、生まれ変わったアングリマーラの物語を書いておきます。



 国師と言われる父をもったアングリマーラは、非の打ち所のない好青年でした。

 バラモンの弟子となった彼は、師の妻に横恋慕されましたが、もちろんとりあいません。

 しかし、彼を嫉妬する同輩たちが、二人の関係をあたかも事実であるかのように師の耳へ吹き込みました。

 師は、彼を呼びました。

「君にはすべてを伝えたつもりでいたが、最後の一つだけ残っていた。それは天上界へ昇るための秘法だ。君を見込んで、特別に授けよう。法とは、100人を殺してその拇(オヤユビ)を首飾りにすることだ」

 師の邪悪な魂胆を知らぬ純真な彼は、実行に移しました。



 托鉢で事件を知った弟子から聞いた釈尊は、彼の前へと歩を進めました。

 おりもおり、周囲から人々が逃げ去って殺す相手のいなくなった彼は、止めようと駆けつけた母親にまで刃を向けようとしていました。

 釈尊を見つけたので、しめたとばかり襲いかかろうとしましたが、足が止まって動けません。

 止まれと叫ぶ彼へ、釈尊は言われました。

「私は言われずとも止まっている。走り回っているのは汝ではないか。汝は愚かにも殺人を行なっているので、私は救いにきたのだ」

 その瞬間、真人間に返った彼は釈尊へ弟子入りを申し出ました。



 やがて、国王が彼を召し捕るための兵と共に道場の前を通りかかり、釈尊へ挨拶をしました。

「これから殺人鬼を逮捕に向かう。守護して欲しい」

 釈尊は訊ねます。

「王よ。もし、殺人鬼が改悛して出家したらどうされますか?」

 国王は、当然、こう答えました。

「聖者となったその時は、あなたを礼拝するのと同じく、心から礼拝するだろう。しかし、そんなことは起こりえない」

 そこで釈尊から出家した彼を紹介された国王はびっくり仰天しましたが、やがて言葉通り二人を礼拝し、これからも国中の人々をお救いくださいとの言葉を残して帰城しました。



 アラカンとなった彼は托鉢にでかけます。しかし過去を知っている人々は彼を許さず、血だらけになって道場へ戻りました。

 痛むかといたわる釈尊へ彼は答えます。

「恐ろしい罪から逃れた私は、その喜びで満たされており、傷など少しも痛みません」

 釈尊は授けました。

「アングリマーラよ。汝はもう生まれ変わった。これからは、人々へこう言うがよい。『私は生まれてから一度も殺生をしたことがない』と」

 その後、聖者として慈悲一筋に生きた彼は、たくさんの人々を救いました。



 前世の業を背負って生まれてくる私たちは、誰一人として罪人でない人はいません。

 霊性の源である仏性そのもので生きようとすれば、誰でもこの世において生まれ変われます。

 アングリマーラは、私たちへその真実を教えているのではないでしょうか。




2006
08.02

譲れない一線

 ある事務所の最高責任者が来山されました。
 よその寺院では、各種会費やお布施などを役員や世話人が集金している。それがなかなか大変だから、だんだん自動振替に変わってきている、ついては、お宅もどうだろうかとのお誘いです。

 郵便局という日本で唯一の「安心」と「信頼」を保証する機関がなくなり、国民一人一人が「儲け」を目的とする機関しか選択できなくなった今、そうした業界の資金獲得競争にはすさまじいものがあります。
 それは、国民全部が、自己責任で儲かる機関、あるいは損をしないで済みそうな機関を選ばねばならず、汗水たらしてコツコツと貯めるお金は国家社会によって一切保証されない時代になったということを意味します。

 醜態をさらし続けている福井日銀総裁が自らそうした機関の一つと直接金銭に関わる契約をしていた事実が明らかになったことは、「一億総白痴化」という言葉に変わって「一億総……」を思わせ、この国民の品位が失われつつある速度に慄然としてしまいます。

 さて、冒頭のご依頼へはこう答えるしかなく、期待を裏切ってしまいました。

「いかなる名目であろうと、寺院へ納められる金品はすべて布施行によってご本尊様へといただくものであり、納めたいというまごころと願いが伴っています。
 たとえ一円であれ、行者である僧侶はそれをご本尊様からいただき、法務の目的に合わせて使います。
 寺院を守る者たちはたとえネギ一本であれ、ご本尊様からいただいてこそ生き長らえることができます。
 
 そうである以上、寺院は、自分の都合によって『効率よく集める』といった発想とは無縁です。
 もちろん、開山以来、人様を煩わせて『集金』したという歴史はまったくありません。
 他の寺院がどうであれ、それは関知しないできごとです。
 もしも目的があって資金を必要とするなら、住職は理想の旗幟を鮮明にし、あとはお一人お一人の自在なお心に委ねる以外の方法はあり得ません。
 
 たとえそう大きくないと思われる金額でも、時によってはきつい負担と感じられる方もあるはずです。
 托鉢の日々を送っていたかつての自分がそうだったように、世の中には、ガソリンを五百円や千円しか給油できない人がたくさんおられるのです。
 そもそも、人の生活はいつどうなるか判りません。
 事実、病気のためや家族の介護のためや家計の逼迫のためにに『法楽の会』を一時休会し、後に戻られた方々がおられます。
 ご連絡をいただけば「ああ、お元気になられたのか」「ああ、落ちつかれたのか」と我がことのように嬉しくなります。
 あるいは、寺院の運営に不満や不安を抱く方もあることでしょう。
 続いていたお布施が途切れた時は、壇信徒さんの身の上を案じ、当山のどこかに問題があるのではなかろうか?と考えもします。

 頭を丸めた人間がそうした心持から離れ、ただ通帳の数字を眺めているなど、想像するだにおぞましい光景です。
 聖職者である以上、あくまでも相手の立場に立つ視点を持ち、謙虚で、自省心を忘れずにありたいと、未熟ながら努力をしています。

 以上の理由から、当山では、自動引き落としや自動振替は、相手様が自ら望まぬ限り、採用できません」

 責任者は恥ずかしい申し出をしてしまいましたと謙虚に手をつき、頭を下げられましたが、手を上げていただきました。
 弱肉強食の世を勝ち抜いて生き、関係する人々を生かさねばならぬ立場の方の仕事としては、極々当然な成り行きだからです。
 そうしたお誘いにどう応えるかは、あくまでも寺院側の判断によるのであって、娑婆の方にどうこう申し上げるものは何もありません。

 当山は、たとえ日本中の寺院がどうであれ、こうした姿勢を貫く所存です。
 釈尊が
「人は生まれによって人格を判断されない、どう生きるかによって判断される」
と説かれたのと同じく、寺院は
「いかなる歴史がありいかなる伽藍があるかではなく、いかなる法務がいかにして行なわれているか、そして、行者である僧侶はいかに生きているか」
によってみ仏から、そして世間様から判断されるものと信じています。




2006
08.01

隠形流居合について 3

4 得られる力は

 当流では、不動明王と摩利支天(マリシテン)に守られ、目的によって守本尊のご加護をいただきます。

○たとえば、善悪や虚実があいまいになって自信がない場合は、虚空蔵菩薩のお力をいただきます。
○人の見分けができず騙されたりして困る場合は、勢至菩薩のお力をいただきます。
○死霊に障られている場合は、大日如来のお力をいただきます。
○発展を妨げるものに悩まされている場合は、普賢菩薩のお力をいただきます。
○実の良縁を固めたい場合は、文殊菩薩のお力をいただきます。
○仮の良縁を育てたい場合は、不動明王のお力をいただきます。
○足が不調な場合は、阿弥陀如来様のお力をいただきます。
○厄年には、千手観音菩薩のお力をいただきます。
○因縁の迷いに取り憑かれた場合は、地蔵菩薩のお力をいただきます。



 また、学力を高める、人間関係を円満にする、悪因縁を滅する、病気を封じる、悪癖を止めるなど、目的に応じたみ仏との縁を強める修行をし、お力をいただきます。

 数多くの仏神がおられ、尊名はもちろん、真言もお姿も持物も異なるのは、それぞれの持っておられる徳が異なるからです。
 行者は信念をもって目的に応じた修行をし、み仏からお力をいただきます。それは、ただただすがるというのではなく、修行に表わすまごころが、み仏へ通じるということです。

 もしも、体調や環境がこうした修行を許さない方へは、その方なりの修行法をお伝えします。
 み仏のお慈悲は、決して「救い漏れ」を生じさせません。

5 心構えは

 心根の良い人なら、他へ優しくするのは自然にできましょう。
 正義感の強い人なら、社会正義の実現を目ざすでしょう。
 家庭や友人を大切にする人なら、自然に和を第一にするでしょう。
 辛い思いをして仏神へ手を合わせた人なら、仏神を疎かにはしないでしょう。
 しかし、こうした善良なる方々どなたにとっても一番難しいのは、自分へ厳しくすることです。

 ところが、魔ものに負けないための修行を続けるには、厳しさこそが不可欠です。
 そのために、当流では、修行の初めに必ず『七言法』を唱和します。

一 我、愚痴を言わず未来を語るは、人につけいられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、好むと好まざるを語らぬは、人に束縛されず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、自他のものの区別をするは、人に疎んぜられず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、明と闇の区別をするは、人をまどわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、公と私の区別をするは、人の輪をこわさず、自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、恩をきせず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、 自他の発展を願うがゆえなり。
一 我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり。


 こうして、気まま心を抑え、我ではなく霊性に導かれて修行を行ないます。

6 入門は

 老若男女を問いません。中学生以上なら可能であり、真剣ではなく、身体に合わせた模造刀を用いるので、スポーツの未経験者や女性や高齢の方でも問題はありません。
 これまで、さまざまな方が、さまざまな思い出で当流の門を叩かれました。

 あと一歩のところをつかめないダンスの教師が真剣に学び、イギリスで行なわれた世界で最も難関とされる試験に合格しました。
 悩み苦しんだ中学生が見事に立ち直り、世のため人のためになろうと勉学に励んでいます。
 大企業の営業責任者が八面六臂の忙しさをぬって気合と信念を学び、立派に活躍しておられます。
 熱心な行者が、国交を記念する祝典で、日本代表として魔切の剣を披露しました。
 大病の後遺症に悩む方が、看護婦さんの許可を得て修行を始め、『守本尊道場』の石積みを熱心にやれるほどに回復されました。
 心が追い込まれて声の出なくなった女性が、たちまちに声と美貌を回復しました。

 こうした方々は、どなたも初体験の方々です。
 み仏を信じ、自分の弱点を克服し、魔ものに負けず自分を守り、やがては大切な人や社会を守られる人になりたい方なら、どなたでも入門できます。
 仏性を輝かせたい方に、いかなる壁もありはしません。




2006
08.01

隠形流居合について 2

2 目的は

 当流は、をバランスよく用いる修行により、清められた三つを一つにして霊性の発する法力を動かそうとするものです。
 つまり、僧侶が導師となって登壇し、み仏を前にして法を結ぶのと同じことを、剣を用いた大きな動きを通して行なうのです。

 導師は、法衣の下の小さな印の動きと、あるいは大きく唱えあるいは心で唱える九字や真言や経文と、心に抱く観想との三つをもって法力を動かしますが、最初から小さな動きや小さな声や邪魔もののない静けさの中での観想を行なうだけでは、なかなか確たる法力は得られません。
 だからこそ、しっかりと体を使う行があり、力の限り唱える行があり、深く深く沈思する行があります。

 剣を正しく大きく振れれば、やがては手印の小さな動きでも体の持つ力が発揮できるようになります。
 
 九字を丹田から唱えられるようになれば、やがてはたとえ心で唱えようと九字の勢いを発揮できるようになります。

 大勢の中で、あるいは雑音の中でも観想が揺るがぬようになれば、やがては座ってすぐに観想の世界へ入ることができるようになります。

 当流は、このように武道の形を通して仏道の実践を行ないます。だから、稽古に励む人々は決して武芸者ではなく、〈行者〉です。
 菩薩(ボサツ)道に出家と在家との差別がないのと同じく、出家者も在家者も共に行じ、共に清め、共に能力の開発を行ないます。能力とはを通じてはたらくいのちの力であり、清められたそれは、必ず霊性の発露をもたらし。やがては法力が動かせるようになります。

3 剣で切るものは

 無明煩悩がもたらす魔ものは、「四魔(シマ)」です。
煩悩魔(ボンノウマ)」は、欲しい、惜しいと暴れる煩悩や、霊性を離れたケダモノのような本能が暴走する魔ものです。
天魔(テンマ)」は、善行者に障り、引きずり降ろし、善行を妨げる高慢心や嫉妬心の生む魔ものです。
死魔(シマ)」は、死や恐怖や不安で混乱させ、心を苛み破壊し、暗い底へと引きずり込む死神で。
「蘊魔(ウンマ)」は、動いたり見たり考えたりするはたらきを混乱させ、強いこだわりを生む魔ものです。

 煩悩魔がなくなれば、欲が人生の機関車として活躍します。
 天魔がなくなれば、善きもの、正しきものが認められ、存分にはたらけるようになります。
 死魔がなくなれば、不動心が生まれ、勇気ある行動がもたらされます。
 蘊魔がなくなれば、心が健全になり、善と悪は、はっきり区別されるようになります。





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