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2006
10.30

【現代の偉人伝第二十九話】 ―稟として生き抜いたお母さん―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                       Sさん(宮城県)



 3月末日、お母さん(Aさん)は自動車の後輪に巻き込まれた。

 田舎なので救急車が到着するまで30分もかかり、大量に出血してしまった。

 その間に、しっかりしてくださいと抱きかかえた加害者の運転手へ、苦しい声で「もういいですから」と覚悟を伝えた。

 子どもたちへ迷惑をかけたくないからと、高齢になっても田舎暮らしを続けたAさんは、こうして逝った。



 看護師の資格を持ち3人の子供を育てたAさんは、日本軍と共に海を越え、時には従軍慰安婦となりながら、たくさんの尊いいのちを救ったという。



 遺影は、凛としながらも優しさに満ちた微笑みをたたえていた。

 さようなら、お母さん。




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2006
10.30

河北新報

 10月28日発行の河北新報夕刊に当山の活動内容が記事になりました。

 まことにありがたいことです。

 まとめてくださった横山記者には脱帽しました。

「子どもの心はぐくむ寺子屋開きたい」「日本人の美徳を次世代に引き継ぐ」の標題は、これ以上の表現方法がないほどはっきり私の願いを表しています。



 寺子屋は、「家庭教育と学校教育のすき間を埋め、人の道を教えることで心の病を予防する」ためのものです。

 この世に生まれた歴史的使命を果たすために「不幸な戦争を乗り越え、日本人は心を整理して世界に友好を求めてきました。この日本人の美徳を、次の世代、その次の世代へと引き継ぎたい」のです。



 ただし、記事にあるとおり私がブルドーザーを操縦しているのは事実ですが、私の流した汗などは微々たるもので、地域の方々や、壇信徒の方々の膨大な「おかげ」によって今日があります。

 この点だけは、はっきりと補足させていただきます。



 今朝も、東京都在住の方からお焚き上げの荷物が届きました。仙台市の方からは供養を依頼する写真も届くことになっています。

 真剣に修法を重ね、皆さんにも御霊にも安心していただければ、必ずや本堂と供養堂ができあがると信じています。




2006
10.30

11月の例祭

◇第一例祭



 10月5日(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  10月18日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




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2006
10.30

芋煮会

 これ以上の秋晴はないほどの好天に恵まれ、『親輪会』主催の芋煮会が開催されました。

 二つの炉で火を燃やすなど、朝9時から準備が始まり、12時には、豚肉を用いる仙台流と、牛肉を用いる山形流と別々の鍋が完成しました。

 参加できない方々も含めて何人もの会員から大量の肉や野菜や飲みものやお菓子や軍資金の差し入れをいただき、何もかもたっぷりの食事会になりました。

 豪華な鍋ものはもちろん、現場で米を炊いて作ったおにぎりや新鮮な果物などもおいしく、お腹にとって至福の時であり、いっさいのしがらみを離れたふれあいは、心にとってもまたとないリフレッシュの機会となりました。



 ビンゴゲームやカラオケ大会が行なわれる一方で、居合の行者たちは巻わらを切る稽古をし、あっという間に午後4時をまわってしまいました。

 名残を惜しみつつ別れる頃は、笹倉山の端に陽がかたむき、空には赤紫色の雲がたなびいていました。



 お寺を守りながら自分たちの和も深めたいという自発的な会は、法楽寺にとって、『法楽の会』と並ぶ車の両輪です。

 会員の方々による毎月途切れることのない奉仕活動は、もはや、法務の遂行に欠かせないものとなりました。

 

 和やかなまごころに浸った一日は、どなたにとっても至福と解放のひとときだったことでしょう。



〈さあ〉





〈期待の鍋〉





〈絶好調〉





〈役員の大合唱〉






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2006
10.29

幸せ

 勉強会で疑問が出されました。

「幸せって何でしょうか?」



 言葉にすれば、「喜びや嬉しさを感じられる状態」ということになりましょう。

 しかし、その中身は、人によって千差万別です。

 好きな音楽を聴いたり、大好物を味わったりしてそう感じる人もあれば、家族の団らんにそう感じる人もあれば、ボランティア活動を感謝されてそう感じる人もあれば、病院の窓から桜を眺めてそう感じる人もおられることでしょう。

 いずれにしても、自分の心の状態であることには違いありません。



 さて、江戸時代までの日本人は「仕合わせ」と書き、それは「為合わせ」であり、「めぐり合わせ」だったそうです。

 めぐり合わせなら自分で決められることではありません。

 だから、武士が手柄を立ててお殿様からご褒美をいただけば「ありがたき仕合わせ」と言いました。

 自分のせいではなく、お殿様のご厚情によって思いがけなくいただきましたと、謙虚にお礼の言葉を口にしたのです。



 めぐり合わせなら、良いものばかりとは限りません。

 困った仕合わせもありました。

 つまり、仕合わせとは自分に関することではあるけれども、欲しがって自力でつかむものではなく、生きて行なった何ごとかの結果として自分が引き受けるできごとでした。



 

 一方、「仕合う」もあります。

 これは試合を行なうことであり、双方が相手に対して仕掛ける勝負です。

 勝負に際しては「勝ち負けは時の運。運否天賦(ウンプテンプ)。恨みっこなし」といった潔さがありました。

 運否とは幸運と不運、天賦とは天から与えられるものを意味します。





 こうして考えてみると、「仕合わせ」にも「仕合う」にも、「行なうのは自分だけれども、結果は天からいただくもの」といった感覚があったことが解ります。

 私たちが漠然と考える「幸せ」も、本当は、「自分のために自分があくせくして自分でつかみ取る」ものではなく、「人事を尽して天命を待つところに、やがて訪れる」ものなのでしょう。

 

 もしかすると、今の日本人は、本来の幸せを忘れているのかも知れません。

 たとえば、結婚しようとする男女は、自分が幸せになりたくて結婚してはいないでしょうか?

 そうして出発した結果、自分が幸せになれなくて苦しんではいないでしょうか?

 ここには発想の誤りがあります。

 結婚は愛する相手と行なうものであり、日本人にとって「愛する」とは、本来、相手へつくすことだったはずです。

 ならば、結婚とは、相手を幸せにしたくて行なうのが本来の姿ではないでしょうか。


 

 お互いが求めるばかりならば、与えてくれる人はいなくなります。

 皆がこれほど優しさを求めているのに社会がどんどん殺伐の度を深めているのは、自分のために求める人ばかりになり、優しさが枯渇しているからです。

 古来、日本人は、求める愛よりも、つくすまごころを大切にしてきました。

 ここまで来たならば、そろそろ本来のものを取り戻さねばなりません。

 幸せに生きたいならば、まごころで生きましょう。縁の相手へつくしましょう。社会のためになりましょう。

 そうしてまごころをつくすところへ、み仏は真の幸せを届けてくださるに違いありません。





2006
10.29

法句経に学ぶ

 お釈迦様の教えが簡素な言葉で非常にわかりやすく説かれている経典に『法句経』があります。

 ちなみに「人は生まれながらにして口の中に斧を持っているようなものである。その悪しき言葉が自他を切る。」という有名な教えも、この教典にあります。

『法句経』をテキストにしてご一緒に御仏の教えを学び心に収まり(心の柱)を持ちませんか。

 質疑応答の時間も用意し、真剣ではあっても楽しく和やかに行なっています。

 

一 日 時 平成18年11月8日(水)午前10時より12時まで

        平成18年11月22日(水)午前10時より12時まで

一 場 所 NHK文化センター仙台・泉

        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階

        022(374)2987

一 主 催 NHK文化センター

一 申込み NHK文化センター




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2006
10.29

生活と仏法 ―説法と懇話の会第五回―

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成18年11月15日(水)午後6時より午後7時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)




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2006
10.28

北朝鮮に核兵器廃棄を求め、子どもたちに世界史を履修させねばならぬ本当の理由

 私たちが、北朝鮮に核兵器を持ってもらいたくない本当の理由は何でしょうか?
 それは、核兵器が、人類の手にした最悪の非人道的兵器だからではないでしょうか。

 そこに立たない限り、北朝鮮に対して真に説得力のある「国際社会の声」は生まれません。
 アメリカは、さまざまな国々に700ヵ所以上も軍事基地を持ち、核兵器を配備し、世界を支配しています。
 そうしたアメリカの利益に反する自国の国益を守ろうとする国が、対抗上、核兵器を開発・保有したいという考えを持つのは、ある意味で当然とも言えます。
 世界最悪の核兵器所有国であるアメリカがいかに声高にその非拡散を叫んでも、世界中を納得させることはできません。
 
 仮に、一方が自動小銃を持ち、一方がナイフを持っている男同士の関係が険悪になったとします。
 いよいよ雲行きが妖しくなったならば、ナイフを持った男は、いざという場面に備えて、自動小銃を持とうとするのではないでしょうか。
 この緊張関係を解くにはどうすれば良いか?
 自動小銃を持った男が、こう提案するしかありません。
「自分も手放すから、お前も自動小銃を持つのは止めないか。そうでなければ、お互いに家族共々滅亡するかも知れないではないか」

 つまり、今回起こっているような緊張関係を解き、その再発を防ぐためには、アメリカを初めとする核兵器保有国がこぞって核兵器の保有数を削減した上で、持とうとする国へ持たないで欲しいと説得するしかありません。
 悪魔の兵器を手にした強者が、「お前は強くなってはいけない」と弱者へ迫るのは恫喝でしかなく、道理ではありません。
 道理に反した声は、正しい意味での「国際社会の声」たり得ないのではないでしょうか。

 高校において必須科目の世界史を教えていなかったという驚くべきじ実態にも、同じような非道理があります。
 そもそも、教育の目的は何でしょうか?
 子どもたちをまっとうな大人に育てることではないでしょうか。

 そうした本来の目的を考えるならば、歴史を教えぬ教育など、あり得ないはずです。
 なぜならば、「自分は何者なのか?どこから来たのか?」「文明はどうして構築されたのか?人類はいかなる道をたどってここまで来たのか?」といった想像力を膨らませることは、情操教育上、欠かせないからです。
 
 もちろん、歴史を知らないということは人間を知らず、己を知らず、自分たちを知らぬということに他ならず、そうした教育で「国際社会に通用する有為の人間」をつくるなど、夢物語にすらなりません。
 半世紀前に日米が戦火を交えた事実を知らぬ高校生が珍しくないこの国のありさまには、戦慄すら覚えます。
 そうした中で、東大と京大のみが受験科目に世界史を指定していることに、深い感慨を覚えました。
 両大学が国を動かす指導者たちを輩出し続けているのは、あまりに当然なのです。

 道理の根本をふまえない教育は真の教育ではありません。
 道具として役に立つだけの人間をいくらつくっても、国は衰亡するだけです。
 今、日本は明らかに衰亡へ向かっているではありませんか。

 人心の荒廃だけではなく、国税庁が発表した全国の法人の所得額(2005年度)にも、それははっきりと表れています。
 総額は15年ぶりに50兆円を超えましたが、黒字申告をしたのは全体の3分の1だけです。
 黒字額は、15年前と比べて、約20%伸びています。
 一方、赤字申告した企業の欠損金の総額は、15年前に比べて、何と2倍を超えているのです。
 すさまじい状況と言わねばなりません。
 政府や経済界の首脳たちは、景気の良い産業がやがては日本全体を良くするから大丈夫であると主張するでしょう。
 しかし、問題なのは、国が思いやりを忘れたシステムの構築に走っているということなのです。
 もちろん、アメリカの核の傘に守られた日本が、道理一本槍の主張はできないでしょう。
 親から子どもたちを受験戦争に勝たせることを求められている学校当局が、応用問題へ走りたいのも解ります。
 しかし、そうした実情であればこそ、純粋に道理を考え、声を発する人々の存在が必要なのではないでしょうか。
 土台の崩れかけている日本をこのままにしてはおけません。




2006
10.27

【現代の偉人伝第二十八話】 ―新庄選手―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

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                                           遠藤龍地



 彼は明らかに目立ちたがり屋である。

 それは、プロ野球選手に許されるキラキラしいものであり、スター性の一部でもある。



 スター性も含め日本で一流だった彼はアメリカへ渡り、超一流の選手たちがしのぎを削る中でいくばくかの光芒を放ったものの、実力の壁にぶつかり帰国した。



 何十年も全国制覇から遠ざかっていた当時の弱小チーム「ファイターズ」は、ファン共々、彼を暖かく迎え入れた。

 新天地にあって、自分の人気がチームの人気と結びつき、選手一人一人への期待へと大きく変化して行く動きに、彼は何かを感じたことだろう。



 そして、引退を決意した今年、ついに日本一となった。

 プロ棋士米長邦雄氏の言葉を思い出す。

「勝利の女神は、笑いのある者を好むものです」

 比類のない笑顔と闘志で、もはや彼は単なる人気者ではなく、尊敬される存在となっていた。

 優勝が決まり、まっ先に胴上げされたことがそれを証明している。

 チームやファンだけではなく、弱肉強食の時代に不遇をかこっている北海道にとって、かけがえのない人物にまで成長した。

 ファンが彼に感謝し、彼もファンに感謝した。澄んだ鏡に照らし合うような深い感謝「ありがとう」「おかげさま」が彼を磨いたのではなかろうか。



 そう言えば、横綱朝青龍関の成長にも、そうした流れがあった。

 横綱になった当初は、勝てば良いだろうと言わんばかりだった。

 やがて叱咤と激励を受けて立場を深く理解し、謙虚になり、前回の優勝にあたっては、自分への応援だけではなく、全力士への応援に感謝する言葉を口にした。



 かつて、師からこう教えられたことがある。

「人気があり良い人だと言われるのは入り口である。

 尊敬されれば一流の行者である。

 どこか畏れられるようになって初めて、超一流の行者である」



 長嶋茂雄選手は、この道を歩んだ。

 華麗としか言いようのない技術と天性の明るさで飛び抜けた人気を誇る大スターだったが、数字に表れた成績は超一流ではなかった。

 しかし、尊敬され、監督となった。

 やがて「日本代表チーム」の監督の座は彼以外考えられないほど圧倒的な、存在感とカリスマ性を持つようになった。

 

 ユニフォームを脱ぐ新庄選手も、〈希代の代の人気者〉から、やがては〈畏敬される新庄剛志〉となれるかどうか、楽しみではある。




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2006
10.26

山の端の月

 昨日も、『法句経』講座を行いました。



「戒めを守り、心身を調え、智慧を磨き、この「戒」「定(ジョウ)」「慧(エ)」を己の血肉とし、それから離れることなく生きよ。

 こうして苦から脱したならば、もはや災厄はなくなり、執着心の穢れも消え去るであろう」




「戒」が血肉になるとは、戒めに反する行為が、自然にできなくなるということです。

 たとえば不殺生戒に生きれば、道ばたのタンポポを踏めなくなります。蚊を殺す時は、哀憐の気持が動きます。

「定」が血肉になるとは、衣食住において心身の安定を破壊する行為が、自然にできなくなくなるということです。

 いつでも、必要に応じて心を澄ませられるようになります。潮が引くように、波立った心を静謐にさせられます。

「慧」が血肉になるとは、自分を先にする行為が、自然に恥ずかしくなるということです。

 決して知識を増やすことではありません。恥というチェック機能が充分にはたらくことです。



 しかし、そうなるには、霊性を磨く決心が必要です。

 和泉式部は詠みました。



「暗きより暗き道にぞ入りぬべし 仄かに照らせ山の端の月」



 たとえ山の稜線にかかっている小さな月の光でも、それがなければ、暗い山道は安全に歩けません。

 動物たちと違って思考と意志を持ち、摂理によって行動に枠をはめられていない私たちは、霊性という導きの明かりがなければ、たやすく動物以下になり下がる宿命を持っています。

 思いやりを忘れ、我を張り、争い、卑劣・残酷といった感覚がなくなり、殺し、盗み、犯し、騙します。

 釈尊は、この明かりのない状態「無明(ムミョウ)」こそが苦の根源であると説かれました。



 さて、無明という闇黒が薄れれば、悩み苦しみは薄くなります。

 もちろん何でも思いのままになるわけではありませんが、思いのままにならないからといって悩み苦しむことはなく、まっとうに生きる意欲がなくなるわけでもありません。

 災厄が起こっても、その影響で悩まず苦しまなければ、心に災厄はなくなります。

 

 執着心がなくなるとは、何ごとにも無頓着になり、いいかげんになり、意欲を失うことではありません。

 元気であれ、モノ金であれ、立場であれ、自分に附随するものを自在に用いて、間然するところがなくなるということです。

 元気がある人は、道路掃除でも何でもやれば良いのです。モノ金がある人は、必要としている人へ手を差しのべれば良いのです。立場のある人は、組織や社会が霊性あふれる場となるよう発言し、行動すれば良いのです。

 そうして誰かが喜び、その喜びを自分の喜びと感じられる時、執着心という幻はどこにもありません。



「仄かに照らす月」である霊性を大切にしましょう。




2006
10.25

熊犬物語

 車の運転中に、戸川幸夫作「熊犬物語」の朗読を、一部分だけ聞きました。

 名人と呼ばれた猟師が手塩にかけて育てた真っ白な猟犬がいました。
 ある日、村に熊が現れ、被害が出たので猟師たちは熊を追って山へ入ります。
 どんどん進むうちに吹雪になりましたが、米が備蓄してある山小屋までたどりつけば数日はしのげるので、一行は山小屋を目ざします。
 ところが、やっとの思いで着いた山小屋には、米がほとんどありません。
 薄いお粥を作り、人間と犬が分け合って食べましたが、すぐになくなりました。あとは、吹雪が止むのを待つしかありません。
 ところが折あしく吹雪は一向に止まず、とうとう9日が経ち、衰弱した一行は、死を待つしかなくなりました。
 早朝、黙って猟銃を手にした名人は外へ出ます。
 寝そべっていた愛犬も、静かに後を追いました。
 やがて一発の銃声が響き渡り、真っ青になった猟師が戻って来ました。
 まもなく、さしもの猛吹雪も止みました。


 名人は、仲間のために愛犬を殺したのでしょう。
 愛犬は、察知して後を追ったのではないでしょうか。
 ことの直後に晴れたというのは、この事件に宿る聖性が運命の神様を動かしたせいかも知れません。

 命綱であるはずの米を使ってそのままにしておいた人間の愚かさ、自然の厳しさ、食物連鎖の厳粛さ―――。文章か簡潔なだけに、想念は一層深くなりました。
 いずれにしても、私たちは、毎日、愛犬を食べているのと同じく、死を望まないものたちを殺しながら生きています。
 彼らの与えてくれる尊い命にふさわしい尊い行動で報いねばなりません。




2006
10.23

法友

 このところ、ご縁の方々のご助力と連携はいっそう強くなっており、日々、感謝を新たにしています。
 古いプレハブを『親輪会館』と称して根城にし、清掃をしたり、枯れ枝を払ったり、重機で作業をしたり、電柱を立てたり、『法楽農園』で汗を流したりと、天気が悪くない限り毎日のようにどなたかは出入りしておられます。
 皆さんは、まさに法友です。

 そもそも釈尊の当時、教団には階級はもちろん、一切の決まりごととしての上下関係もありませんでした。
 釈尊も、弟子たちと同じく「行者」だったのです。
 そこにあったのは、血縁関係などを超えた友情でした。
 ただし、その友情は、私たちの日常にあるような、飲んだり食べたり遊んだりするといった友達付き合いの気分ではありません。
 共に法を求める者の間には「他人ごと」はなく、一本道を少しでも先に歩いている者が自然に仲間を導き、手をたずさえて共に無事安全に歩くという姿があるのみです。

 釈尊は説かれました。
「善き友を持ち、善き朋輩と共にあることは、この道のすべてである」
 そして、自らを弟子たちの友とされました。
「皆は、私を善き友とすることによって、老いねばならぬ身でありながら老いより自由になれる。
 病まねばならぬ身でありながら、病より自由になれる。
 死なねばならぬ身でありながら、死より自由になれる」

 皆さんが一切の我を離れて共に笑い、共に汗を流し、共に食べ、共に励まし合いながら奉仕活動という尊い布施行を実践しておられる様子は、まさに釈尊の教団と同じです。
 筆を持つ人は書き、料理をする人は食事の用意をし、工事の技術者は作業を指導し、植木の知識がある人は草苅などの指導をし、運転する人は仲間の足となり、皆さんがそれぞれ自分のできることをもって仲間のためになりながら、『守本尊道場』と『法楽の苑』を維持発展させておられます。
 それぞれのまごころあふれる行動が、仲間を自然に導いています。
 また、目に見える活動の陰には、「参加できませんが発展を祈っています」という心ある方々の有形無形のお励ましがあります。

 ここに尊敬と感謝といたわりはあっても、上下関係や、我がままや、高慢や、打算はまったくありません。
 あるのは菩薩行のみであり、ここは極楽そのものです。
 
 これからも、宝ものである法友の方々と共に、まっすぐ進みます。




2006
10.20

解放

 事件に巻きこまれてご子息を失った母親Kさんがご相談に来られました。
 お話が済み、数珠をお守にしたいから修法して欲しいと言われ、合掌しているKさんに背中を向けて登壇しました。
 法が進むにつれて、Kさんの口から発し本堂に充満していた怒りや辛さや悲しみなどの波立った気配が消えてゆきます。

 終わって向き直ったら、Kさんは静かに涙を流しておられました。
「こんなにきれいな鐘の音は聞いたことがありません。
 なぜか涙が出てしまいました」
 修法の最後の方で鳴らす鐘のことです。
 そして、続けられました。
「やっと、決心がつきました。
 もう、お骨は住職さんのところへお願いしたいと思います」
 Kさんはこれまで、もしかしたら亡き息子は無念や怨みや悲しみなど辛い思いを残しているのではないかと考え、母親としてそれを和らげてやりたい一心でお骨を自宅へ置かれました。
 しかし、今はなぜか、安心して手放しても大丈夫という気持になられたそうです。

 鐘の音はきれいでしたと何回もくり返されます。
 そう聞こえたということは、Kさんの心から暗い感情の波が薄れたことを意味します
 導師は修法の初めに結界を結びますが、それは、導師も祈願者も一緒に一枚の魔法のじゅうたんへ乗るようなものです。
 じゅうたんの上は、み仏のお慈悲の力をいただく異次元の世界であり、娑婆の波風はありません。

 夜の法話会では、ご加持(カジ)の話をしました。
 加持とは、私たちが本来持っている心身の力を充分に発揮するための法です。

 誰しもが持っている脳細胞の8割も使っていないように、私たちは心身の力という宝ものを充分に活かしきれない存在です。
 それでも、皆がそうなのでそれなりに生き、死んでゆきますが、普段の力では願いの達成はできないかも知れないが、それでは済ませられない人生の重大な場面があります。
 何とかしたいと強く思います。
 そうした時、無心になれれば「火事場のバカ力」のような思いもよらぬ力が発揮できるものです。
 オリンピック競技の決勝戦などで目にする選手たちの祈りは、自分を解き放ち無心になるための儀式なのでしょう。

 ご加持は、ある意味で解き放つ修法です。
 参加される方々の願いはそれぞれですが、とっていただく心の姿勢は同じです。
 それは、ご本尊様へまごころを向けること、願いを明確にすること、心身の力を抜くことの3つです。
 そうすると、やはり魔法のじゅうたんに乗ることができ、異次元へ入っている間に、本来の力を発揮させない邪魔ものが徐々に取り除かれます。
 結果として、人間関係に悩んでいた方は相手への積年の恨みが消え、病気に罹っている方は自己快癒力が高まり、受験生は不安が薄れ自信がつきます。
 普段の「自分」という殻が溶けてしまうからでしょう。

 解き放たれ、瑞々しさを取り戻された皆さんの姿によって、私もまた解き放たれた気持になります。ありがたいことです。




2006
10.19

仮想空間

 日大人口研究所の調査によると、2005年から2022年までの間、日本の「介護力」は世界192ヵ国中、最低であり続けるそうです。
 このままで推移すれば、2050年までそうした状態が続くだろうと結論づけています。
 介護力とは、65歳から84歳の総人口を100とした場合の、40から59歳の女性の人口を「家族介護力」としたものです。つまり、お年寄りを介護する中年女性が、お年寄り1人当たり何人いるかということです。
 日本には、戦後の10年間で出生率が半分になるという前例のない時期があったので、その影響が大きいとされています。

 しかし、日本の場合さらにいくつかの問題が重なり、おそらくは数値以上に悲惨なお年寄りが増えることと予想されます。
 一つは、家族が安心して暮らし子供を育てる家庭というかけがえのない場を維持発展させることよりも、お金を得て個人的にやりたいことをやる方を優先させる考え方が女性の間に蔓延していることです。
 家事の価値を金銭に換算してものごとを考えるという発想がいかに恐ろしいものであるか、家事適性に男女の違いはないという主張がいかに両性の真実を無視した表面的なものか、気づいている人はいないのでしょうか。
 男女平等・機会均等・共同参画などのキラキラしい理念が掲げられ、あまり極端に走ろうとするのはおかしいのではないかという声はかき消されていますが、変なものは、やはり変なのです。

 そうした典型的な例が、運動会で成績に順番をつけないことです。
「差別をしてはいけない」「子どもたちを平等に扱わなければならない」といった理念が異常に膨れあがった結果、子どもたちを大人の作った「仮想空間」へ入れてしまいました。
 そこには、活き活きした人生の真実はありません。
 成績はそこそこだが走れば負けない、頭が良くても運動は頭だけではどうにもならない、必死に走ってライバルに勝つ、身体が弱くて悔しい思いをする、などなど、現実に直面してこそ鍛えられ深まるはずの精神が、ダラリと放置されています。

 ちなみに、私が中学校へ入って最も目を見張らされたのは、運動会の花形であるクラス対抗リレーの最終戦で目にした、3年生のアンカーの姿でした。
 運動着や運動靴などは高嶺の花だった時代のこととて、あばら骨の浮き出た裸の上半身を反らせ、裸足で必死に走る彼は後続のランナーに抜かれました。
 丸刈りで陽に焼けいかにも貧しそうな彼は、スマートなライバルにあっという間に追い越されても歯を食いしばってゴールを目ざしました。
 その気迫、年長者の迫力に圧倒され、父から厳しく教えられていた「長幼の序」とは何であるかを、初めて知りました。
 後から思い出すと、貧しい人の持つある種の美しさや、自分を懸けている人の純粋さなども感じとっていたような気がします。
 ああした光景は、クラスの名誉をかけて走ればこそ現出したものです。
 クラス仲間のために全力を尽す尊い姿勢が彼を光らせました。
 最後は皆並んでゴールインするなどというやり方がいかにばかばかしいものであるか、いかに真実から離れた欺瞞であるかがよく解ります。

 脳のはたらきも身体の造りや機能も異なった存在である男女をそれぞれに尊ぶのではなく、区別を故意に差別と言い換え、違いを完全に無視しようとする考え方には、明らかに無理があります。
 真実に即していません。
 そこに作られようとしているのは、運動会で順番をつけないのと同じ「仮想空間」です。

 今、そのことに重大性にあまり気づいていないと思われる人々が社会を動かしていますが、こうした「仮想空間」の弊害は、徐々に顕わになりつつあります。
 たとえば、子供がカギをかけてゲームに熱中する子供部屋も、典型的な「仮想空間」です。
 そこは、物理的には家の中の一部でも、家庭であると仮想されているだけで、決して真実の家庭ではありません。
 かりそめの家庭でどのような子供が育つか、結果はもう出始めているではありませんか。
 頭でっかちで人間の真実から離れつつある現代人の作り出すさまざまな「仮想空間」に惑わされずに生きたいものです。

 古来、日本人は「ほどの良さ」を大切にしてきました。
 それを仏教用語で言えば中道(チュウドウ)となります。
 中道とは、ものごとありのままに観て、極端へ走らず、勝手な妄想に踊らされず、不変の真理をふまえる姿勢です。
 それには、我欲に支配される小我(ショウガ)ではなく、思いやりを忘れず、他人(ヒト)様のことを他人(ヒト)ごととして向こう側へ置かない大我(タイガ)に生きねばなりません。
 そうすれば、「仮想空間」ではなく、お互いが安心できる「ほどの良い」社会が実現されることでしょう。




2006
10.18

【現代の偉人伝第二十七話】 ―この世の不動明王―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                           遠藤龍地



「声を上げることもできず悩んでいる人たちのために少しでも役に立ちたい」

 若い「いそ弁」K氏からいただいた挨拶状の一節である。

 1年半の司法修習を終えたばかりでまだ独立した事務所を持てず、どこかの事務所に席をおいて活動する弁護士を「いそ弁(居候弁護士)」と呼ぶ。



 ここに感じられる共感・公憤は貴重である。

 他人の悲しみを自分の悲しみと感じ、虐げられている他人の苦しみを自分の苦しみと感じるところに、自ずから怒り・憤りが生じる。

 そして、自分のためではなく、他人のために汗を流し、悲しみや苦しみを解こうとする。

 そうした精進へ大きな力を与える怒り・憤りは、不動明王のそれと同じである。



 経典に、こう説かれている。

「仏法を護持するため、衆生へ利益(リヤク)を与え安穏をもたらすために、限りない慈悲の姿、すなわち怒りの形相を表わす。衆生を見る慈悲の眼は平等にはたらき、たった一人のわが子を見る眼と同じである」

 

 なぜ私たちの怒りは煩悩として退けられ、怒りの権化のごとき不動明王はみ仏たり得るか。

 それは私たちは「我がため」に怒り、後に「憎しみ」を残すからである。

 不動明王には、我(ガ)がない。

 小我(ショウガ)のもたらす怒りは、自分の心身を不調にさせるだけでなく、時として人間の尊厳を失わせ、自他の運命を狂わせる。そして、心が憎しみという汚れをまとってしまう。

 小我とは、いつも自分が先でなければならないとする妄念である。

 自分だけが早く悲しみ・苦しみ・辛さから離れたい、自分だけが早く楽しみ・安楽・喜びを得たいと思えば、他人のそれはどうでもよくなる。

 そこに待っているのは、自然界の動物たちにも劣るケダモノの世界である。

 親子が殺し合い、弱いものをいじめ、騙し、見捨てる、弱肉強食で無慈悲な社会となった日本が、まさにそうである。



 私たちは悲しむ先に怨みを生ずることがある。

 辛い思いをしているうちに、妬みを生ずることがある。


 悲しみは人間性に深みを与える高等な情緒であり、辛さは肝を太くし不動心を養う大切な感情だが、「怨み」や「妬み」といった煩悩を生ずれば、地獄・餓鬼・畜生・修羅の悪道へ向かうことになる。

 

 分岐点は、小我に立つか、大我(タイガ)に立つかである。

「他人の悲しみを自分の悲しみと感じ、虐げられている他人の苦しみを自分の苦しみと感じる」大我の人になりたいものである。



 K氏の文章は、こう続いている。

「驕らず気負わずそしてひるまず日々精進していく所存です」

「この世の不動明王」の誕生に、心から期待したい。




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2006
10.16

ペット供養

 今日は、一年ぶりに行なわれた『ペット霊園やすらぎ』さんの第四回合同慰霊祭で修法をしました。
午前八時に始まり、一基づつ個別墓地のご供養を行なってから合祀墓のご供養となり、ご参列の方々の除災招福を祈る奉納剣で午前の部が終わりました。
ただちに帰山してご来山の方々と言葉を交わし、汁物をかき込んだだけで午後二時から二回目の合祀墓供養、そして、奉納剣を行ないました。

 読誦と居合でへとへとになったS君は、着替えもそこそこに帰りました。過酷な仕事の合間に、過酷な修行をしたようなものです。
 彼にとって大変な一日だったはずですが、行者は、ぎりぎりまで自分を追いつめなければ、なかなか真の力はつきません。
 たとえば、当流には、24時間にわたって剣を振り真言を唱えるというものがあります。始める前はできなそうでも、願いをかけて始めれば、必ず成就するものです。
 それほど大がかりでなくても、たとえば普通の行法の流れにそって真言やお経を唱える場合、長丁場だからと力を抜いてやれば、能力は向上しません。百メートルの走法で千メートル走に挑み、最後は息も絶え絶えでゴールインするといった唱え方を自分に課す必要があります。

 そのためにも、常日頃の健康維持は、いわば至上命令です。護身法や気合術や偏らない食事などで、心身の足腰をつくっておくことです。

 さて、修法に先だって短い説法を行ないました。
「新聞もテレビも、嫌なできごとや恐ろしい事件や憤らずにはいられないような状況の報道にあふれていますが、それらはすべて人間がやっていることです。
 自然の摂理に従って生きるペットたちは皆、純真無垢であり、のたうち回る人間世界の穢れや汚れとは関係ありません。

 そして、亡きペットたちに手を合わせる方々のお心もまた、穢れなきみ仏の心です。
 ペットの人を裏切らない姿や御霊に導かれて人間が清められることの価値を再認識したいものです」

 ご参詣の方々の清らかなお心にこちらも清めていただき、感謝をもって帰山しました。

 ところが、暗くなってから、交通事故で愛犬を亡くされた方が『ペット霊園やすらぎ』さんへ来られたとて、もう一度、でかけました。

 葬儀が終わり6人の善男善女から質問を受けました。

「道路を一目散に渡ろうとした時に起こった一瞬のできごとでしたが、自分の死を知らず、迷うということはないのでしょうか?交通事故の現場でまた事故が起こるといった話をよく耳にするのですが」
 それは人間にも当てはまることで、確かにそうした問題もあればこそ、しっかりと引導法を結び、迷わずに向こうの世界へ行けるよう、み仏のお力で導かねばなりません。
 因果応報が時間と空間を超えてはたらく真理である以上、「覚悟の死」と「不慮の死」が同じ結果になるはずはありません。
 だからこそ、み仏のお力をいただく法にはさまざまな種類があり、僧侶はそれを確実に動かす法力を獲得するために生涯修行を続けるプロの行者なのです。

「愛犬が使っていたおもちゃなどはどうすれば良いでしょう。残しておくと迷ったりしないでしょうか?」
 引導を渡すと共に遺品は清めたので、一緒に荼毘に付すか、それとも、またいつか縁になるかも知れないペットのためにとっておくかは、飼い主の感覚の問題です。
 法によって清められたものは執着などの穢れをまとっておらず、何の心配も要りません。

 焼却炉へ向かう皆さんと別れて帰山し、これを書いています。
 人間を癒し、和ませ、励ます純真無垢なペットたちの御霊を弔う方々の、穏やかに晴れた秋空のようなお心と、お地蔵様の法に抱かれた一日でした。




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2006
10.14

【現代の偉人伝第二十六話】 ―実直な菩薩様―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

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                                       Sさん(仙台市)



 昨年の夏、10年来のお客様Sさんから電話があった。肺ガンの手術のために明日、入院するとのことである。

 翌日、頼まれた果物を持って病院へ駆けつけた。

 私の顔を見るなり

「何だ、もう来たのか」

 こんないつものぶっきらぼうなセリフとは裏腹に満面の笑みを浮かべたSさんは、初期症状だからと、いつもと変わらない態度で世間話をされた。

 しかし、しみじみと、こんな話もされた。



 Sさんが若い頃、よく遊びに行っていた場所へ何度も通ううちに、いつの頃からか幼子の手を引いた女性が立っている姿を眼にするようになった。

 雨の日も風の日もあまりひんぱんに見かけるので、思い切って、どうしたんですかと訊ねた。

「行く所がないんです」

 不憫に思ったSさんは、詳しい事情を詮索することもなく、母子を親戚へ預けた。

 驚いたことに、もう小学4年生くらいになっていた女の子には戸籍がない。

 Sさんは、自ら命名して戸籍を作り、入学の手続きも行なった。

 風の頼りでその娘さんが今では立派な社会人になったと聞き、Sさんは陰ながら喜んでいるという。



 黙って母子を救い、でしゃばらずに幸せを祈り続けているSさんの心に、胸がいっぱいになった。

 自分の命がどうなるか判らないという状況で、淡々とこうした話をしてくれたSさん。ありがとうございました。

 手を合わせる気持で病院を後にした。




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2006
10.11

親の収入と子供の学力

 子供の教育に関心のある方なら、どなたにも知っておいていただきたいデータが発表されました。

 お茶の水女子大学教授耳塚寛明氏が、首都圏内の人口25万人の市において、小学6年生1200人と保護者を対象に行なった調査結果です。

 

 親の収入と子供の算数の学力テストにおける成績との関係は以下のとおりです。



 年収500万円未満の家庭……平均点が100点満点で42点

 500万円から700万円未満……………………………43点

 700万円から1000万円未満…………………………54点

 1000万円以上…………………………………………66点

 

 また、親の収入と子供の家庭における勉強時間との関係は以下のとおりです。



 年収500万円未満の家庭……………

      30分以内67%・1時間から1時間半23%・2時間以上10%

 1000万円以上………………………

      30分以内24%・1時間から1時間半39%・2時間以上37%



 戦慄を覚えます。




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2006
10.10

日々が修行です

 インドのお話です。



 大変熱心にはたらく料理人に感心した主人は、ご褒美に大きな牛を一頭与えました。

 喜んだ彼は特別大きな包丁を持ちだし、さっそく解体にとりかかりましたが、包丁がなまくらな上に相手は大物なので、包丁はすぐに切れなくなってしまいました。

 ところが、大きな包丁を研ぐ台は料理場と離れた小屋にあり、何度も往復しているうちに、彼はとても面倒くさくなりました。

 そこで考えました。

「よく切れるように、何回分も研いでおこう」

 そして、いつもの十倍も念を入れて研いでから使いましたが、また同じように切れなくなってしまいました。

 今度こそと力んだ彼は、百倍も念を入れて研いでいるうちに、料理をすっかり忘れてしまったそうです。



 最近、文筆家の方と修行についての話題になりました。

「確かに無明、煩悩はある。このままでは真の安心はなく、汚れたままで死んでしまう。修行が必要である」

 そこで、修行ですが、中身が問題です。



 以前、プロの僧侶になるための特殊な修行は、イチロー選手や松井選手が誰も見ていないところでバットの素振りをするようなものだと書きました。 

 現役時代の王監督はスウィングを鋭くするために、深夜にくり返し真剣を振り、練習に使った部屋の畳はへこんでしまったほどです。

 しかし、一番の修行は何かと言えば、もちろん、実践です。

 実践以上の修行はなく、そもそも、実践の機会がなければ修行そのものの意義が何分の一にもなってしまいます。



 同じく、仏道修行も、世間様との関わりの中でそれが役に立たねばほとんど意味はありません。

 世間にあって生きること以上の仏道修行はないのです。

 行者が己の身・口・意の活動、つまり生きざまをもって接する方に仏道の何かを感じていただけることは、打者がヒットを打つのと同じです。

 いかなる難行苦行を行なったとしても、いかなる階位を持っていても、言動に仏法が顕れていなかったり、高慢や世間知らずでは、打者が凡退するのと同じです。



 こうした修行は、愚かな料理人が考えたように「まとめてやってしまう」ことは決してできません。

 愚かな考えに陥ると、特殊な修行をやったから偉い、修行をやったからもうこれで良い、あるいは修行をやっていれば良いといった本末転倒にもなります。

 特殊な修行はあくまでも準備、世間様と接して日々を生きること自体が本番です。生涯、準備と本番をくり返しつつ生きねばなりません。

 

 人生をかけた仏道修行は、出家修行者にのみ可能なことではありません。

 いかなる道にあっても専心して行なうならば、必ず己の矮小さに気づくはずであり、もしも小さな我(ガ)を超えた存在を感じたならば、畏敬の念を大切にして生きることです。


 まっとうにことを為した人々が例外なく謙虚なのは、こうした経験をしておられるからでしょう。

 先場所優勝した大相撲の朝青龍関が、土俵下でインタビューを受け「全力士を応援していただき、ありがとうございました!」と叫ぶ場面を見て、ああ、本ものになられたなあと心から拍手をしまたものです。

 そして、『無財の七施』に典型的に示されているように、誰でもどこでもいかなる場面でも修行は可能です。

 たとえ見知らぬ相手でも、面と向かったならば穏やかな表情で接することは「和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)」であり、乗り物の席を譲ることは「床座施(ショウザセ)」という立派な布施行です。



 まっとうに生きるどなたも、皆さん人生修行をしておられます。準備と本番をくり返しておられます。

 決してまとめてやることはできず、これで終わりという終着点もありませんが、共に生きつつ、共に修行道を歩んで行きたいものです。




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2006
10.09

【現代の偉人伝第二十五話】 ―アーミッシュ・赦す人々―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

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                                            遠藤龍地



 新聞報道によれば、アメリカ東部ペンシルバニア州ランカスター郡で10月2日、キリスト教の一派であるアーミッシュが運営する学校へ32歳のトラック運転手をしている男が押し入り、女子児童を殺害した。

 

 男は自動小銃とショットガンを持っており、教師と男子児童を外へ出した後、教室で6歳~13歳の女子児童十数人の足を縛って黒板の前へ並ばせ、警官が駆けつけた直後に5人(7歳~13歳)を次々と撃ち殺し、自殺した。

 男の遺書には20年前のできごとへの復習である旨書かれているというが、内容は定かではない。

 警察には、性的暴行が目的だったのではないかという見方もある。



 この際、死亡した児童のうち最年長のマリアン・フィッシャー(13歳)は、児童たちへ銃を向ける暴漢に、自分を先に撃って他の友人たちを逃がしてくれるよう頼んだという。

 続いて、姉が撃たれるのを見たマリアンの妹(11歳)も、次は自分を撃つように訴えた。

 こうした事実は、肩を撃たれながらも生き残った妹などの証言により明らかになった。



 事件後、かけつけた暴漢の妻と3人の子どもたちは罪を許すアーミッシュたちに抱擁して慰められ、妻は葬儀にも招かれた。出欠は明らかではない。

 なお、暴漢一家はアーミッシュではない。



 アーミッシュは、16世紀の宗教改革で生まれたキリスト教再洗礼派(アナバプティスト)の一派であり、成人後に自分の意志で洗礼を受けるべきであると主張する。

 オランダのメノー・シモンズによって統率された彼らはメノー派(メノナイト)と呼ばれ、絶対の平和を唱えて国法をも無視するために迫害を受け、ドイツやフランスへ逃れる。

 フランス東部アルザスに住んでいたスイス・メノナイトのヤコブ・アマンは、メノナイトたちが迫害に負けて純粋さを失ったと考え、独立した。その仲間たちがアーミッシュである。

 彼らはやがてフランスをも追われ、同じく絶対平和を唱えるクェーカー教徒ウィリアム・ペンの導きでアメリカへ渡った。

 聖書を独自に解釈して文明の利器を拒み、電気・ガス・水道・車などを用いず、独自の言語で生活する信者たちは、アメリカやカナダなどに22万人いるとされる。



 さて、13歳で死の恐怖に負けず自分を撃てと言った姉もさることながら、姉が撃たれた惨状を目の当たりにしながら次は自分と申し出た11歳の妹の言動は、奇跡とも言うべきではなかろうか。

 想像を絶している。

 しかも、家族や仲間を殺された人々は、その直後に、犯人の家族を赦している。きっと犯人をも赦しているに違いない。

「我(ガ)」で生きる人には絶対に不可能なことである。



 最近、当山で起こったできごとを思い出した。

 幼い頃に幼稚園の先生から呪いをかけられて20年以上も悩み苦しみ抜いた方が来山され、呪い返しの秘法を含むご加持を受けて永年の呪縛を断ち切られたが、帰り際にこうした言葉を残された。

「呪い返しの法で、あの先生が酷いことにならないようにしてください」

 赦したのである。



 釈尊が説かれた

「この世から怨みをなくすには、自らの心から怨みをなくさねばならない」

を実践する人々の姿は、私たちにとって救いである。




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2006
10.08

単細胞の生きものから人間へ

 生命の発祥は約20億年前であり、単細胞だったとされています。

 無生物と違ってはいるが「ただ、そこに生きて在る」というだけの存在だったことでしょう。

 

 だんだん、ゾウリムシのような食べる生きものになると、この世は食べものとそうでないものとの二つに分れて感じとられるようになります。「食べて生きて在る」だけです。



 それから14億5千万年経つうちに生きものは進化をとげ、魚にまでなりました。

 魚は殺されようとする時、抵抗します。「自分は生きていたい」のです。

 以前、ニューヨーク市警で行なわれた実験によると、エビは熱湯へ入れられる寸前に電波のようなもので危険信号を発するそうです。



 それから4億5千万年後に現れたほ乳類は、家族を守ろうとします。

 自分だけでなく、種の維持につながる家族たちも大切だということが判るようになりました。



 次いで約100万年前に登場した人類は、家族だけでなく仲間たちをも守ろうとします。

 虎に襲われた鹿を助けはしませんが、人間が襲われれば助けます。

 思う心が人類へと広がりました。



 進化の最先端にいる人間には、すべての生きものの要素が何らかの形で残されています。

 だから、偏食は心身の健全な発育の妨げとなるのです。

 特に発育盛りの子どもたちにとっては、その昔海にいた頃食べた海藻も小魚も、陸へ上がって食べるようになった木の実もケモノも、バランス良く食べることが肝要です。

 そうして健全な身体を得れば、心も健全に保ちやすくなります。



 心には、生きようとする盲目的な意志も、殺されるのは嫌だという意志も、家族を守りたいという意志も、そして、皆が幸せでありますようにという祈りも持ち合わせています。

 もしも五体満足でありながら食べて飲んで生きるだけであれば、霊性は見えません。

 自分が生きたいだけならば、やはり霊性は隠れています。

 家族を考えるようになって初めて霊性は光を発し始め、広く「私たち」を考えて生きるようになれば、霊性は本来の光でお互いを照らし合うようになります。

 人は人類としてこの世に生を承けますが、人間として生きるためには霊性を磨かねばなりません。



 霊性は詩としても顕れます。

 最近、渡辺祥子さんから教えていただいた堤江実さんの『世界中の息子たちへ』を掲載しておきます。



「たとえ

 どんな大義があろうとも

 私はあなたが殺されるのを見たくはない



 それにもまして



 たとえ

 どんな大義があろうとも

 私はあなたが殺すのを見たくない



 この世に生きて

 守らなければならないのは

 魂なのだから」




2006
10.04

ご先祖様へのまごころ

 昨日から岩手県内在住のご縁の方々のお宅を廻っています。今日は農業の盛んな地帯から一転して漁業の盛んな大船渡市へ足を伸ばし、今、次の仕事で名取市の住宅街に着きました。

 お約束の時間までの寸暇を惜しんでこれを書いています。

 

 夏の名残すら感じられるほどの好天の下、お位牌と神棚を移転する修法をし、墓地などでもご供養をしました。

 登記上、小さな墓地があることになっているけれども現地は一面草むらだけといった場所もありました。

 正確な位置の特定ができる方はもうどなたもおられず、供養を思い立った方々も知りません。

 このあたりだろうと目星をつけ、お花とお線香とお水を捧げました。

 修法中、一段と清らかな秋の風がさあっ、さあっと舞い、唱えていることがとてもありがたくなりました。

 皆さん、「ここで良かったのでしょうか?」と不安げですが、御霊が喜んでおられることを確信したので、「良いことをされましたね。喜んでおられますよ」と申し上げました。

 何代も前のご遺体は、もう、とっくに土へ還っていることでしょう。しかし、子孫の供養の心は時空を超えて仏界へ届きました。

 霊性そのものになった方々の笑顔が嬉しく、皆さんへも合掌しました。



 遅い昼食となり、率直な感想が述べられ、お答えしました。

「実は、永くここにおられた方々を遠くへお移しして大丈夫だろうか?お祖父ちゃんはあまり他心様と交わるのが好きでなかったから、姓の違った方々と一緒のお仏壇へ入って落ち着かないんじゃないかと心配でした」

 事情があってご夫婦それぞれのご先祖様を同じ仏壇でご供養することになったのです。



「まず、考えるべきは、子孫が供養のまことを捧げるそのことがご先祖様方にとって一番嬉しいことに違いないという点です。なすべきことに取り組み一心不乱になっている時は美しい霊性が輝いていますから、み仏そのものです。子孫がまことを尽し、菩薩として生きる以上の供養はないのです。

 いかなる地であれ、毎日供養されるならば、誰もいない故郷の空き家へおかれるより何百倍嬉しいか判りませんよ。

 

 また、生前の性格は、あまり問題にしなくて結構です。魂だけになってみ仏に導かれている御霊は、生前の性格上の欠点などはどんどんなくなっているはずです。

 いつも申し上げているように、何のかんのと言挙げして争うのはこの世の人間であり、きちんとした修法で送られ供養されている御霊は、そうした争いを離れた絶対的な存在であるみ仏の元へ向かっているのですから、あまり心配しなくとも大丈夫です。



 そして、私たちの常として、亡き方の印象は、時が経つにつれて懐かしく、だんだん良い面だけが記憶に残ることも忘れてはなりません。

 さっき申し上げたとおり、向こうの世界では清められ向上しているので、「良い人だったなあ」と思い出すのと同じように、どんどんと良い人になっているはずです。

 日本人は、偉いご先祖様も、世間から後指を指されたご先祖様も分け隔てなくお弔いし、ご供養します。

 無意識の裡に、亡き人が仏界へと溶け込むことを信じているのです。その心へすなおになりましょう」



 そろそろ定刻が近づきました。これが終わると、今日の最後のお努めは午後9時からの枕経です。皆さんのまごころに励まされて頑張ります。




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2006
10.03

10月の運勢(世間の動き)

 今月は、天に太陽が輝き、くまなく照らし尽すように、力ある人や声の高い人や正道を歩もうとする人が大きな影響力を発揮する時期です。

 皆が正義を競い、ものごとの変化に拍車がかかる勢いになります。

 しかし、食べものは腹八分が一番健康に良く、いかに美味しい料理でも食べ過ぎれば身体を壊すやも知れません。 行き過ぎには注意が必要です。 



 また、こうした流れにあっては、まだ充分に力がついていないにもかかわらず、自分も大きなことができると勘違いし、分不相応の大望を持って失敗するケースがありますから、用心しましょう。

 流れのゆったりした川と急流とでは、漕ぐ技術が異なるのです。



 もう一つの留意点は、うかつに「正義」へ立ち向かうと完膚無きまで叩かれる可能性があり、正義の仮面を剥ぐ、あるいは問題点を指摘するには充分な準備をし、時を待つ必要があるということです。



 さて、昔は「水は三尺流れればきれいになる」と言われました。(今のような化学物質がいろいろと混じっていなかったからです)

 そして、怨みや憎しみを抱いた相手の名前を筆と墨で川面へ書き、それが流れに混じって見えなくなり、清浄な水が後から後からと流れるさまを見て、怨みや憎しみという心の汚れを文字通り洗い流そうとしました。

 それと同じように、変化の力を活かして、流し、清めたいものには思い切って決着をつけましょう。



 尊きものを尊べば、飲食も会話も楽しくなり、不遜な心になれば、飲食や会話の縁がよからぬ結果をもたらす場合があります。

 実るほど頭を垂れる「稲穂の心」で開運しましょう。




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2006
10.02

『み仏は あなたのそばに』出版記念講演会

 このたび、み仏のご加護とあらゆるご縁の方々のおかげをもって機関誌『法楽』が200号となり、『み仏は あなたのそばに』を出版をするはこびとなりました。

 つきましては、感謝をこめて記念講演会を開催いたしますので、ふるってご参加くださいますようご案内申し上げます。

 会では、同級生でありながら人生の師と仰ぐ犬飼弁護士と、心の大切さを訴えるまごころの伝道者渡辺祥子さんにそれぞれ記念講演と記念朗読をしていただくことになりました。

 両氏を初め、これまでの皆々様のご縁とご助力はまことにありがたく、衷心より感謝し、お礼申し上げます。

 当日はまず感謝の思いを率直に皆さんへお伝えし、次いで当山の理想とするところをお話し申し上げ、共に「この世の幸せとあの世の安心」を得るための新たな出発の日になればと願っております。

 

 さて、以下は、行者としての姿勢を表わす本文の一部です。

「僧侶はみ仏へのご喜捨によって命を永らえる存在であり、ご縁の方々があって初めて生きつつ務めをまっとうできる存在です。明らかに、僧侶は皆さんのしもべなのです」

 また、出版の目的は「あとがき」にあります。

「この本は、一老行者の遺書である。回顧録でなければ自伝でもない。真理の顕れである真実世界に生きようとする行者の血肉となったものを知り、何かを感じていただければありがたい、ただそれだけである」

 

 皆々様のご多幸を祈っております。









一 次 第 声明

(声明は、弘法大師伝来の旋律をもって唱えるお経です。讃えられるみ仏と唱える人と聞く人との交感を体験していただければ幸甚です) 

        隠形流居合

(当日は道場主の遠藤龍地が皆さんのご多幸を祈って修法します)

        記念講演『平和はご先祖様の願い…今、憲法九条』

        弁護士犬飼健郎

(氏は仙台二高・東北大学法学部に学び、仙台弁護士会会長・日本弁護士連合会副会長を務められました。基本的人権の尊重と社会正義の実現を目指して頑張り、現在は憲法問題に取り組んでおられます)

        記念朗読 『The Great Wing~渡り鳥・雁のゴーマーの物語』 

        朗読アーティスト渡辺祥子

(稲垣達也氏のピアノに流れるような七色の声を乗せて、雁の渡りの旅を通して、沢山の気づきや勇気がもらえる感動の物語をお送りします)         

        記念講演 

        住職遠藤龍地

        合唱 

一 日 時 平成18年11月22日(水)午後6時30分より

一 場 所 仙台市青年文化センター交流ホール

        仙台市青葉区旭ヶ丘3―27―5

        022(276)2110

一 参加費 5000円(本代2500円を含みます)

        『法楽の会』会員、『親輪会』会員は3000円

        ご家族の場合、お二人で6000円(本は一冊です)

        3名以上の場合、お一人1000円追加

        高校生以下は500円

一 主 催 大師山法楽寺

一 申 込 電話やファクスやメールやハガキなどでお申し込みください。

        チケットをお送りします。

        (送金先と電話番号もお知らせください)

一 送金先 郵便振替  02260-3-4604  大師山法楽寺

        古川信用組合吉岡支店 普通預金 3383332 大師山法楽寺

        七十七銀行富谷支店 普通預金 5110424 大師山法楽寺

一 その他 当日、渡辺祥子さんのCDなども頒布いたします。この機会にどうぞ。




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2006
10.01

生活と仏法 ―説法と懇話の会第四回―

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成18年10月19日(木)午後6時より午後7時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)




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2006
10.01

十月の聖悟

「自心(ジシン)の源底(ゲンテイ)を覚知(カクチ)し、実(ジツ)の如く自身の数量を証悟(ショウゴ)す」 ―弘法大師―



(最高の仏法とは、自らの心の奥底をはっきりと見極め、自らの身のありようを根源からつかむものである)



「自心の源底」とは、心の底には本来、菩提心(ボダイシン)というみ仏の心が厳然としてあることを指します。

 普段「自分」と思っているのは、見るものや聞くものなどによって揺れ動く「表面の心」であり、それは育ちの因縁と生まれ持った因縁とによって活動しています。

 しかし、それらは、いわば氷山の一部でしかなく、いかなる氷山も等しく海水によってできており、それは万人に共通した宝ものであることを見極めれば、もはや因縁に左右されることはありません。



「自身の数量」とは、五体がみ仏の徳によってもたらされている宝ものであることを指します。

 骨格は大地のごとき堅さを持ち、血液は水のごとく流れ、体温は火の如く細胞を活き活きさせ、呼吸は風のごとく自在であり、それらは空のごとくお互いがお互いを妨げず、すべてが調和しています。

 それを地・水・火・風・空の五輪(ゴリン)と言います。



 菩提心が五輪に宿り、五輪は菩提心によって活かされています。

 お大師様はそれが金剛界のマンダラと胎藏界のマンダラであり、私たち一人一人がこうした真実世界そのものを生きているありようを悟る方法こそが最高の修行であると説かれました。

 そうして自分の身・口・意がみ仏の身・口・意そのものであることをつかむことが、即身成仏(ソクシンジョウブツ)です。



 誰しもが「私たちはすべてみ仏の子である」という真実に立てれば、この世から争いが消え、お互いを礼拝し合う極楽が顕れることでしょう。




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2006
10.01

10月の守本尊は阿弥陀如来様です

 今月(10月8日から11月6日まで)の守本尊様は阿弥陀如来様です







『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。そのお力により、正しく念ずるならば、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。




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2006
10.01

10月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



阿弥陀如来(あ・み・だ・にょ・らい)  





「オン アミリタテイセイ カラ ウン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2006
10.01

10月の例祭

◇第一例祭



 10月1日(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  10月17日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




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