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2006
11.30

この世からあの世へ

 長い闘病生活を続けていたKさんが亡くなられました。
 心の平安を求めて当山とご縁を結ばれたKさんは、事後の段取りも調え、法楽寺へと言い残して逝かれました。
 先に倒れて施設にいるご主人を案じ、自分の方が危ないことを大変気にしていましたが、これも運命です。

 枕経で見た久方ぶりのお顔は実に穏やかで美しく、「ああ、苦を離れられたなあ」と安堵しました。
 しかし、一番前の席にいるご主人は車いすに乗り、悲嘆にくれておられます。
 口はきけなくともしっかり合掌し、すがるような目は「お願いします」と言っているのが解ります。
 心で「大丈夫ですよ」とお答えしたら、すうっと涙を流されました。

 枕経の修法後、ご主人を介護している方が控え室へ来られました。
「ご主人はまったく口がきけませんが、絵を描くことはできます。
 奥さんが亡くなったことをお知らせしたら、一本の線で山らしいものを描き、その麓をさかんに指さします。
 お寺のことですね、わかってますよと言ったら、大きく頷きました。
 以前から、奥さんも自分も法楽寺さんへ頼みたいと意思表示していたので、確認したかったのでしょうね」
 ご主人とは一度も会ったことがなかったので、きっと奥さんから当山のことを聞いておられたのでしょう。
 信頼してくださる気持はありがたく、しっかりお応えせねばとの強い思いが湧きました。

 事情があってお通夜もなく、翌日、出棺経から火葬となりました。
 火葬の間、晴れているのに雨がぱらつき、街を包むように大きな虹がかかりました。
 きっと最後まで自分らしい生き方を通そうとしたであろうKさん。戒名に「美」の文字が入ったKさんを送るにふさわしい天候でした。
 そして、お骨となって当山へ来たKさんのために引導を渡し、百か日までの供養を行ないました。もう、すっかり夕暮れです。
 この世での安心を求めてみ仏へ帰依し、後の世への安心も持って旅立たれたKさんには、戒名にある「福」の多い次の世が待っていることでしょう。
 一種の神々しささえ漂わせていたお顔が、それを教えているようでした。

 さて、私たちは、自分の身体を失うことに強い恐怖や危機感や不安を抱きます。
 それは、我(ガ)があるために、「すべてのものは変化して止まない空(クウ)なるものである」ことを頭で理解していても、自分の身体もそうであることをなかなか認められないからです。
 この恐怖や危機感や不安は成仏への障害となるので、引導法では、「お授け」という法力のはたらく場をつくり、そこでみ仏の教えを説き、我(ガ)からの解放を行ないます。
 また、霊柩車へ乗るまでの間にそうした執着心や未練を残さないよう清めの法を行ない、さらには斎場でも、み仏のお導きをいただく法を結びます
 生きている間に解ききれない「ものを実体視するかんちがい」は、死後もまた、処置が難しいのです。

 なぜこうした修法をするのかといえば、当然、転生がより良きものとなるためです。
 転生する「次の世」があるのは明らかです。
 なぜなら、私たちは、「何者か」としてこの世へ生まれるからです。
 何者でもない赤ん坊は一人もいません。
 男性か女性か、丸い顔か四角い顔か、おとなしい子かきかん坊か、などなど、生まれる段階で「何者か」を決める要因は、決して未来にも現在にもありはしません。
 要因は過去にしかありません。赤ん坊にとっての過去とは、前世以外のものであり得ましょうか。

 前世が現世にかかわるならば、この世でのありようは、当然、次の世でのありように決定的な影響を及ぼすはずです。
 因果応報の真理は、時間空間を超えています。

 次の世に悪しきものを持った人々がたくさん生まれるならば、その世は苦の深いものとなります。
 それは、私たちそれぞれの未来に大きな苦が待っているということです。
 現在の苦を克服し、良き未来を創るため、過ちを浄化し、霊性を高める正しい人間修行を重ねたいものです。




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2006
11.30

非情と有情 2

 日本の政治をリードしていただきたいと願っている国会議員H先生のもとへ拙稿「非情と有情」をお送りしたところ、関係者から大変参考になるお手紙をいただいたいので、その一部を掲載します。
 もちろん、了解済みです。

「有権者によって総括される選挙は非情なものであることは当然です。
 候補者の信念や政策や人柄を比較して投票した結果に異を唱えることは出来ません。
 しかし政事に欠けてならないものこそが『情』ではないでしょうか。
 それは弱い立場のものへの配慮、強きをくじき弱きを助けるという正義 (公平・公正の精神)、主張や意見が違うものを粛清・排除するのではなく、違いは違いとして認める寛容性なのではないかと思われてなりません。
 何か大きく間違っていることが大手を振って罷り通っているように感じられます」

「降伏したものをどのように料理しようが自由であり生殺与奪の権利を行使することは勝者の楽しみなのでありましょうか。
 全体主義政党のごとく一糸乱れない統制を目指しているようにも見受けられます」


 政治の実態は子どもたちのお手本になるでしょうか。
 たとえば、こんな教育が成り立ちましょうか。

子供のお手本

 良い子の皆さん、正しい大人の在り方、社会人とはどうあるべきかを今政治家のトップにいる人達が、実践で子供達に示してくれていますよ。
 いじめを実践することは間違いではありません。
 ドンドンやりましょう。

 日本のえらい政治家の人は、自分達と少しでも意見の違う、価値観の違う人間は何の価値もない人だと教えてくれました。
 自分の意見や考えを持つ人間など必要ありません。
 そんな人間は自分達の仲間に絶対に入れてはいけないと教えてくれています。
 いじめの理想的なやりかたはこうするのですよと。

 まず、自分達と少しでも意見の違う、考え方の違う人間がいたら、絶対に仲間と認めないで徹底的に排除しなさい。
 口をきいてもいけません。
 もしそのような人間と口をきいたら、あなたも排除します。

 それから、一度排除した人間は絶対許しちゃいけません。
 もともと仲間なのだから、もう一度仲良くしようと言うものがいても絶対に認めてはいけません。
 意見の違う人間などはもはや対等の立場ではありません。
 それでも仲間に入れてほしいなら、その時は対等の人間でなく奴隷として服従することを誓うのならば受け入れてあげてもよいかもしれません。
 土下座して、二度と逆らわないこと、何をされても文句を言わないことを大勢の前ではっきり言わなければ駄目です。

 それから、私たち仲間には友情という情は、百害あって一利なしです。
 友情にとらわれるなど恥ずべきことです。
 自分にとって損か得かという勘定、強いものには絶対に逆らわらないという固い信念で行動するのが人間として理想的生き方なのです。
 友情を大切にしたいと言うような人間、情で行動するということは、人間として最低の生き方なのですよ。
 困っている人間や弱い立場の人間に手を差し伸べるなどと言う無駄なことを考える人たちは、仲間には必要ありません。
 そんなことを言っていると排除されても文句は言えませんよ。
 それでもいいんですか。よくよく考えましょう。

 自分達の価値観、考え方だけが絶対に正しいという、理念、信念をもって生きてゆきましょう。
 それに少しでも異論をとなえる人間がいたら、徹底的に排除しましょう。
 絶対に仲間に入れてはいけません、
 仲間への友情などという、情に流されるレベルの低い、おめでたい人間がいたら、徹底的にバカにし無視しましょう。
 これこそが、これからの日本人の理想的な生き方のモデルです。

 今の政治のトップにいる人達が、身をもって示していてくれます。

 未来を背負う聡明な子供達の皆さん、この国を代表する政治家達のメッセージをきちんと受け取っていただけたでしょうか。」




2006
11.28

寒椿

 ホームページのトップページにどの花を掲げるかという選択に迫られて寒椿を選んだところ、心優しい女性担当者から「寒椿は縁起が悪いという説がありますが………」という親切なご指摘をいただきました。
 当山の回答です。

 さっそくにありがとうございました。感謝しています。
 「縁起」の件は、むしろ、そうした区別に対する警鐘の意味でも寒椿を選んだのです。
 昨今、怖れる気持をうまく利用する者がはやっていますが、私たちが「よるべ」とすべきなのは、道理です。
 イジメは思いやりと智慧のないところに発します。

 散り際が潔いからといって忌み嫌われたなら、可憐で健気な寒椿がかわいそうではありませんか。
 思いやりの明かりで、虐げられているものたちを輝かせてあげたいものです。
 今後も、お気づきの点を指摘してください。


 さて、厳冬にあたる季語寒椿を詠んだ名句です。

 庫裡の下駄揃へてありぬ寒椿  ―板橋とし―

 寒い朝、下駄が揃えられた庫裏の玄関にはピンとした空気があり、その近くでは、雪の中で椿が可憐な花を咲かせています。
 「愛嬌」を花言葉とする寒椿が、息も白くなるような世界に、ほっとさせる温かさを広げています。




2006
11.27

非情と有情

 昨今、「政治は非情である」と公言する政治家がいるのは、嘆かわしいことです。
 それは、二つの理由によります。

 一つは、非情とは「情無し」つまり「人非人(ニンピニン…人でなし)」の心の状態であり、それは人間として恥ずべきありようであることが忘れられているからです。

 生きものは有情(ウジョウ…情を持つもの)です。
 情とは「苦を離れ、楽を得たい」とするありようで、いのちあるものはすべて等しくこの傾向を共有しています。
 それは、猫でもカラスでも人間でも、何ら変わることはありません。
 だから、仏法では、差別することなく有情を尊び慈しみます。
 そして、困っている有情を憐れまずにはいられないのが、高貴な人間の本性です。
 こうした本性を失った人非人であることを公言することは、実に愚かしい行為です。

 むろん、頭の良い人々がこうした事実を知らぬはずはありませんし、他を誹謗するためにこの稿を書いているのでもありません。
 怖れているのは、一国の首相が他人ごとのように「政治は非情ですねえ」と言ったり、与党の権力者が非情を正義の旗印にして主張を通そうとしたりする様子がテレビで放映され、各界から特段の疑念も提示されていないことの影響です。
 若い人々や子どもたちは、テレビのシーンをどう観ているのでしょう。
 無機質なゲームの世界や、仮想のヒーローたちとの共通点を感じ、「かっこ良い」と思ってはいないでしょうか。

 心配なのは、非情な人がいることよりも、「他人の痛みや苦しみに無感覚な姿が、子どもたちに恐ろしいと感じられていないのではないか」ということなのです。
 子供の世界は大人の世界を映す鏡です。
 イジメの原因は制度ではなく、こうした私たち大人のありようにこそ存在する
のだということを認識したいものです。

 第二には、もしも非情な決断をせねばならぬ苦渋の場面に立ち至ったならば、歯をくいしばり、自ら責任を取る覚悟を決め、黙って行なうべきであり、「これから非情な決断をします」と口にするなど、人間として軽すぎるからです。
 国を動かす大役を担った人たちがこんなことでは、日本は大丈夫かと不安でたまりません。

 たとえば社員をリストラする時、俺はこれから非情になるぞと口にし、自分の正当性を主張しながら行なう経営者や人事担当者がいたとしたら、彼らはまっとうだと言えるでしょうか。

 人々の心が乾き霊性の曇りが激しくなりつつある世相を巧みに利用する人々に惑わされないようにせねばなりません。
 人非人にならず、まっとうさを失わずに生きたいものです。




2006
11.27

自他を幸せにする『四無量心』5  ―世界を救う道2―

 さて、他へ楽を与える慈無量心(ジムリョウシン)とはどういう心でしょうか。

 釈尊の時代、雨が降り虫たちが活躍する4月16日からの3ヶ月間、行者たちはお堂へこもって修行をしました。生きものを踏まないためです。
 踏まないというよりむしろ「踏めない」ので、どこに生きものがいるか判らない状態では、外へ出られなかったのでしょう。
 こうした「命あるものを大切にしないではいられない心」が慈しみです。
 
 真の愛にはこの心が欠かせません。
 その点では、私たちが漠然と愛だと思っている現代人の「男女間における引力のはたらき」は、かなり怪しいものです。
 どうしても「愛する」には「愛して欲しい」がセットになっており、愛してもらえるから愛するといった交換条件がついてまわっているように見受けられます。
 だから、相手に対して不満になると愛しているはずの相手が簡単に憎らしくなり、場合によっては殺してしまう場合すらあります。
 これでは自分のために愛することになり、求めているのが「自分の満足」である愛など、ありはしません。

 真の愛の典型は、オトタチバナヒメの故事に見られます。
 夫ヤマトタケルノミコトと共に船に乗っていて暴風雨にさらされた時、彼女は海神の怒りを静めようと自分の身を海へ捧げました。
 おそらく彼女にとってはそれが自然の行為であり、危機にあたって他の選択肢はなかったに違いありません。

 こうした行為の正反対にあるのが殺人であり、戦争であり、イジメです。
 私たちは、戦争が慈しむ心を破壊するものであることを肝に銘じておかねばなりません。
 アメリカなど戦争をしている国々では、人を見たら瞬時に敵か味方かを見分け、敵なら撃たれる前に撃つ訓練をさせられた〈優秀な〉兵士が続々と戦場を目ざしています。
 戦争にあっては、人間を慈しまずにいられない心は邪魔なのです。 
 こうした訓練を経て戦場へ送られ、生き延びて帰国した兵士たちが正常な日常生活を取り戻すことが困難なのは当然です。
 人の心は訓練や習慣によってつくられるものであり、長期間かかって強制や恐怖や混乱や異常な快感などによってつくれらた心の傾向を変化させるためには、やはり長い時間がかかるからです。
 今のアメリカでは、精神科医と弁護士がいくらあっても足りないほどの繁昌ぶりです。
 それは、心が壊れ、当事者同士では解決できないトラブルを抱えた人々が激増していることを意味します。
  
 慈しむ心を育て霊性を磨くのが尊い人間として生まれた私たちの務めであり、その先にしか万人の幸せはないのに、いまだにセッセと正反対のことをしている現代人の姿は残念でなりません。
 幸せを求めつつその根本的な実現方法を知らぬことこそ、釈尊の説かれた無明(ムミョウ…智慧の明かりが無い状態)です。
 無明が戦争やイジメによる殺人の横行、さらには世界を覆う核兵器として最終的な相を表わし始めた今、私たちは覚醒せねばなりません。
 慈無量心を目ざしましょう。



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2006
11.25

自他を幸せにする『四無量心(シムリョウシン)』4 ―世界を救う道1―

 去る22日に行なった講演会において法話の柱にした四無量心に関し、後からご意見やご質問や賛同が相次いだので、以前「み仏の子として」という題でちょっと触れておきましたが、少しまとめて書いてみます。

 四無量心とは、無限の「利他(他のためになろうとする)の心」であり、慈・悲・喜・捨の四つから成ります。

一 慈無量心(ジムリョウシン)とは、限りない「与楽(ヨラク…他へ楽を与えようとする)」の心です。
 この心は、命あるものの生きる姿に対して、「いとおしさ」や「健気さ」を感じる時に起こります。
 特に、辛い状況や過酷な条件の中で必ずしも楽を得ていない相手への思いやりとなって顕れます。

二 悲無量心(ヒムリョウシン)とは、限りない「抜苦(バック…他の苦しみを取り除こうとする)」の心です。
 この心は、苦しみもがき、すがる糸すらないような命あるものを前にした時に起こります。
 決して放っておけず、自然に救いの手を差しのべてしまいます。

三 喜無量心(キムリョウシン)とは、他の喜びを自分の喜びと感じてやまず、決して妬まない心です。
 この心は、命あるものはすべて一瞬光芒を放ち儚く燃え尽きる花火のような存在であり、しかも、命は他との関係においてしか存在しないことをしっかり認識すると、自然に起こります。
 しがみつきたい我(ガ)は、幻でしかないのです。
 自分も誰かも、支え合う同じ人間同士です。
 自分に起こった何ごとかに喜ぶ心があるならば、他の吉事を喜ばないでいられましょうか。

四 捨無量心(シャムリョウシン)とは、ためになろうとする相手を勝手に選ばない、平等の心です。
 この心は、自己中心性を脱却すると起こります。
「我がため」という悪魔が離れてしまえば、他を選別する基準など、どこにもありはしません。
 私たちは無心に乗り物の席を譲る時、相手を選ぶでしょうか。見かえりを求めるでしょうか。
 
 これは、簡単そうでなかなか難しいものです。単に自分を離れるだけでは得られないからです。
 ここで自己中心性という場合の「自己」とは自分一人だけとは限らず、家族や仲間なども含まれます。
 そうすると、テロと宗教との関係にまといつく問題も解くことができます。
 宗教を背景に死ぬテロリストは、自分の認識としては尊い自己犠牲を実践する聖者でしょうが、自分の信じる神を基準として「命を捧げる相手」と「滅ぼす相手」をはっきり区別しています。
 仏法で理想とする菩薩(ボサツ)ではありません。
 菩薩は、一人をも残さず救おうとする存在です。菩薩にとって、滅ぼすべき相手など、たった一人もあり得ません。
 
 あらゆる宗教の根幹にある愛なり、慈悲なりがすべて「他のためになろうとする」尊い心であることは、いかなる宗教者といえども異論はないことでしょう。
 そこを一歩進め、尊い心を向ける相手を選ばない「捨(シャ)」まで行けば、人類は戦争の惨禍を克服できるに違いありません。


 以下、4つの心について述べましょう。




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2006
11.24

朝も夜も

 風の気配もなく透明な水晶のような空気の中を、ご供養にでかけました。

 ペット霊園『やすらぎ』さんの合同墓がいっぱいになりかけ、お骨を大きな供養塚へ移されたのです。

 供養塚はご夫婦の手作りですがレンガを貼りつめた本格的なもので、陽光をたっぷりと浴びている様子は百点満点です。

 

 聞くところによると、多くのペット霊園では、定期的に合同墓からお骨を取り出し、産廃として山などへ捨てています。

 しかし、ご夫婦はこう言われました。

「犬ちゃんや猫ちゃんを供養する人は、本当に純粋な気持で手を合わせておられるようです。見ている私たちも、供養の尊さを教えられます。そうすると、とても?ごまかせない?んです。ちゃんとしてやりたいんです」

 

 慰霊祭を行なうと何百人もの善男善女が集まられるのには、ワケがあります。

 塚の修法が終わり、塚に飾られている文章が目にとまったのでお訊ねしたところ、絵馬に書いた方から拝借したそうです。

 

「ありがとう

 いつも日のあたる場所にいたね

 おまえはおひさまのにおいがしたよ」



 深夜になり、信徒Kさんからご報告を受けました。

 5歳になるお子さんはとても勘が良く、大人の世界のできごとや親の心の変化を敏感に感じるそうです。

 最近、ちょっとしたトラブルに反応して悪い夢を見るのが気がかりで、寝る時に、当山から送られたお守を持たせたました。



 翌朝、彼はにこやかに起きてきました。

「お坊さんと神様の龍の夢を見たよ」



 Kさんは、まだ子供で何のことかよく解っていないはずなのに僧侶が夢に現れたことを「意味深い」と感じられました。



 ありがたくも嬉しい一日が過ぎ行きました。



〈5年ほど前、改修前の本堂にて春祭厄除千枚護摩の修法中、龍神様が現れました。仏法守護の神様が、一瞬、お姿を見せられたのです〉






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2006
11.23

法句経に学ぶ

 お釈迦様の教えが簡素な言葉で非常にわかりやすく説かれている経典に『法句経』があります。

 ちなみに「人は生まれながらにして口の中に斧を持っているようなものである。その悪しき言葉が自他を切る。」という有名な教えも、この教典にあります。

『法句経』をテキストにしてご一緒に御仏の教えを学び心に収まり(心の柱)を持ちませんか。

 質疑応答の時間も用意し、真剣ではあっても楽しく和やかに行なっています。

 

一 日 時 平成18年12月13日(水)午前10時より12時まで

        平成18年12月27日(水)午前10時より12時まで

一 場 所 NHK文化センター仙台・泉

        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階

        022(374)2987

一 主 催 NHK文化センター

一 申込み NHK文化センター




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2006
11.23

生活と仏法 ―説法と懇話の会題6回―

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成18年12月13日(水)午後6時より午後7時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)





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2006
11.23

講演会を終えました

 おかげさまにて、たくさんの方々のご来場をいただき、『み仏は あなたのそばに』出版記念講演会を無事終えることができました。

 心より感謝申し上げます。



〈開場前に〉





〈準備万端、怠りありません〉





〈ご挨拶〉





〈声明〉





〈四無量心をつくるために〉





〈飼弁護士の平和論には気迫がこもっていました〉





〈渡辺さんの朗読は絶品です〉







〈稲垣さんのピアノは朗読と一体です〉







〈会場の皆さんと共に「ふるさと」を唄いました〉









2006
11.22

チベットの音楽

 小雨の朝、紅葉に包まれた道路を登り、ご供養するお宅へ着きました。
 仙台市青葉区です。
 紅葉の見事さを口にしたところ、法楽寺近辺はもっとすばらしいでしょうと指摘されましたが、どこであれ、自然の見せる季節の表現はそれぞれなりにすばらしいものですと答えました。

 ご主人を亡くされて百カ日を迎える奥さんとその息子さんを前に、本尊大日如来の魂入れと、御霊のご供養を行ないました。
 読経の柱は、密教最奥の経典『理趣経』です。

 幽かな雨音以外何も聞こえない静寂の中、修法が終わりました。
 足の不自由な奥さんは、椅子に座ったまま、小さな白菊のような笑顔で言われました。
「ありがとうございました。チベットの音楽を聴いているような気持で、心が広がりました」

 お葬式など、理趣経を唱える修法が終わってから「こういう雰囲気は初めてでした」と言われるのは決して珍しくありません。
 しかし、チベットの音楽という言葉は初めてでした。
 忘れもしない品川でのあの日、この方の心の弟子でありたいと願ったダライ・ラマ法王のお導きでしょうか。
 日本とチベットと、それぞれの地で完成された密教は、色合に違いはあっても、身・口・意を統一してこの身このままでみ仏の境地へ入るという姿勢は共通しています。
 イメージを明確にする密教経典は、ご主人を失った方の心へ、確かな何かを届けてくれました。

 今日の講演会にも法王のご加護がありますよう。




2006
11.21

自他を幸せにする『四無量心』3 ―サンタクロースの実名―

 数日前、アメリカのニュースとして、クリスマスの時期に見知らぬ貧しい人々へお金を配って歩く男性が採りあげられており、忘れられないので書き留めておきます。
 
 彼は、毎年、出逢う人へ匿名でお金を渡します。額面がいくらのお札かは判りませんが、もらった人の喜びようをテレビで見ると、一万円くらいでしょうか。
 嬉しさのあまり泣き出しそうになる女性や抱きついて感謝する女性もおられ、ガソリンスタンドで500円しか給油できない時代もあった私には、とても他人事とは思えません。
「どんなにありがたいことか………」こちらも泣かされそうになりました。
 還暦を迎えようとしている彼は食道ガンにかかり、こうした行為を誰かに引き継いでもらいたいと考え、初めて実名を明かしました。
 これまで約1億5千万円を施した彼は、病院のベッドで、善行の理由をこんなふうに述べました。
「とても嬉しい気持になるからです」

 これこそが、「四無量心(シムリョウシン)」で説かれている「喜無量心(キムリョウシン)」です。
「嫉妬」や「もの惜しみ」や「邪見」を離れると、他人の喜びをすなおに喜べるようになります。
 こうなった人は、嫉妬深くもの惜しみする人の何倍も喜びに満ちた人生を送られます。
 
 たとえば、夜中に預金通帳を眺めて悦に入る人にとっては、たった一人だけの喜びがあるに過ぎませんが、冒頭の彼には、周囲にたくさんの人々の喜びがあり、それに呼応するたくさんの喜びが自分の心にも生じるからです。
 そもそも、施す気持になった段階で、もう、その人は充分に幸福であると言えます。
 モノ金はいくら貯めてもいつかは消える儚いものであり、得るためにも保持するためにも大変ですが、施す心は無限に湧き出る幸福の泉のようなものであって決して枯れることはなく、湧いた幸福は、喜び、感謝、勇気、信頼などとして広がり、無限の人々と共有できます。

 ひるがえって日本を考えると、実に寒々しい国になりつつあります。
 11月20日付の河北新報にロナルド・ムーア氏が書いておられる統計では、大企業の従業員1人当たりの年収は、ここ5年で5.8%、零細企業では10%下がっています。
 一方、大企業の役員報酬は、90%上がっています。
 配当に至っては、実に175%上がっています。
 何となく感じているものはあっても、こうした数字を前にすると、やはり驚かないではいられません。
 政府がいくら「景気はどんどん良くなっています」と宣伝しても、私たちにそうした実感がないのは、明らかに富のありかが偏っているからです。
 
 こうした歪みを正すには、人権・平等・公平・公正といった社会正義の視点も必要でしょうが、何よりも「思いやり」「施し」「喜無量心」といった心を取り戻すことが不可欠です。

 いじめや自殺が絶えない子どもたちの心の荒廃は、思いやりを失いつつある大人たちのそれが生んだもの以外でありはしません。
 私たちは、とっくに、根本を考え、生き方を変え、社会を変えねばならぬ時期に至っています。
 大人たち一人一人が変わらすして、社会を変え、子どもたちを救うことなどできはしません。
 
 人間がみ仏の子である以上、私たちは、命あるものをいとしいと思い、苦しむものに憐れを感じる心のDNAを共有しています。
 こうした霊性の発露を邪魔するものに惑わされぬようにしましょう。
 冒頭の男性の行為などに学び、何が大切なのかを見誤らぬようにしましょう。
 お互いが霊性を発揮すれば、日本はこれ以上殺伐とした国にならずに済むことでしょう。



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2006
11.20

真実の日

 昨日も壇信徒の方々が自主的に『守本尊道場』の掃除をしたり、親輪会館と物置の整理をしたり、焚き火をして焼き芋を作ったりと、一日中奉仕活をされました。
 お詣りする方や墓地を見学する方々とにこやかに言葉を交わし、住職に代わって説明などもしておられます。

 墓地が寂しい場所や美しいだけの公園ではなく、暖かい空気が流れ、安心と親和のある場になりつつあることに感動を覚え、感謝の思いが満ちてきます。
 私は朝から法務に忙しく、お手伝いができません。
 合間、合間に様子を見に行くしかなく、5時頃、初めてご来山した方を『法楽の礎』へ案内した時は、もうほとんど真っ暗で、帰ろうとしていた方々へお礼を言うのみでした。

 夕べから降り続いている雨の音を聞いていると、四国霊場を巡拝したおりの光景が思い出されます。
 あの時も、しとしとと雨の降る寒い朝、一番にお詣りしたお寺の境内地では、もう、ご近所の方とおぼしきご婦人が掃除をしておられ、手押し車にもたれたお婆さんが、傘をさしてゆっくりと本堂を目ざしていました。
 きっと、それぞれの「日課」なのでしょう。

 八十八霊場にあってはさほど大きくないお寺の境内地で、住職らしい方がブルトーザーを繰っておられた様子にも、目を見張らされたものです。
「ああ、そうか、ああやれば良いんだ。自分がやればできるんだ」
 夢が山ほどあるだけで、形あるものがほとんどない私は、一気に目の前が広がる思いをしたものです。
 それ以降、ブルトーザー、ブルトーザーと言っているうちに、ブルトーザーをご寄進してくださる方が現れ、今度はユンボ、ユンボと言っているうちに、ユンボを貸してくださる方が現れ、事故の後は「住職はやめてください、私がやります」という方が現れました。

 まだ立派な本堂も供養堂もありませんが、昨日の様子は、もう、あの日の四国と同じです。
 釈尊は、なぜ真実を説く人々が言い争いをするのかと問われ、こう答えられました。

「世の中では、観念上、さまざまな永遠のものがあるとされているだけであり、たくさんの真実がさまざまにあるのではない」

 真実はいろいろな場面でいろいろな姿を見せても、「真実」としては何ら変わらないのです。
 それは、いつでもどこでも私たちの前に現れ、感激と感謝をもたらし、命の力を引き出してくれます。

 ご縁の方々のおかげで、当山も真実に触れられる聖地になりつつあるのでしょう。
 ただただ、感謝するのみです。




2006
11.19

あいさつは魔法の力

 今、東京都では、あいさつによって心を変え、東京都を変えようと「あいさつ運動」を進め、あいさつソング『あいさつは魔法の力』を推奨しています。



 宮城県内はもちろん、山形県や岩手県まで托鉢をして得られた経験則の一つに、

「子どもたちが元気よくあいさつする地域は、托鉢行に理解を示してくださる方々が多い」

というものがあります。

 道ですれ違ったり、あるいは休み時間に学校の前を通りかかったりしたおりに、笑顔であいさつしてくれる子どもたちには、ずいぶん励まされました。

 基本をきちっとしつける情熱が熱い方々は、仏神への心にも篤いものがあります。

 一方、都会の駅周辺などを歩いていて、目が合いこちらで笑顔を向けてすら無視し、何ごともなかったかのように足早に去る子どもたちが圧倒的に多いのには、暗澹とさせられたものです。



 東京都の努力が実るよう祈る思いで、心理学者多湖輝氏の作った歌詞をご紹介しておきます。



1 ちょっと勇気がいるけれど

  思い切って声を出してみよう

  あいさつは魔法の力

  ラ~ ラララ~ ラ~ララ~



  朝は

  “おはよう”でいい気分

  道で会ったら“こんにちは”

  ほらこんな風に



  世界中に大きな声で

  おはよう“Good morning”

  こんにちは“Hello”

  ほらこんな風に



2 一人の勇気がみんなを変える

  家族も 友だちも 学校も

  あいさつは魔法の力

  ラ~ ラララ~ ラ~ララ~



  お世話になったら

  “ありがとう”心をこめて

  迷惑かけたら“ごめんなさい”

  ほらこんな風に



  世界中に大きな声で

  ありがとう“Thank you”

  ごめんなさい“Excuse me”

  ほらこんな風に



※ 一人一人の(ひとりひとりの)

  ちからが(ちからが)

  みんなを(みんなを)

  変える

  あいさつは(あいさつは)

  魔法の力(魔法の力)

  あいさつで(あいさつで)

  東京を変えよう



  ララララ~(ララララ~)

  ララララ~(ララララ~)

  ララララ~(ララララ~)

  ラララ~ラララ~




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2006
11.17

便秘の克服

 岩手県から中年のUさん夫婦がご来山されました。
 二年前に私の妻が突発的なできごとから重度のうつ病になり、二か月経った不動明王のご縁日の朝、奇跡的に治ったことを信徒さんから聞かれたからです。
 奥さんがやはり二年前にうつ病になられ、ほぼ快癒したけれども便秘がなかなか治らないということで、こちらの体験談を申し上げました。

 一つは当然、ご加持法です。
 トイレの戸の前で法を結んでいて、ポチャンという音がすると、とても嬉しく、自分まで爽快感を感じたものです。
 何といっても腹腰を護る千手観音様のお力は偉大であり、私自身、寒い日の托鉢中に不調になった時など、これまで幾度お救いいただいたかとても数え切れないほどです。
 お守をお渡しし、真言と唱える際のイメージをお伝えしました。

 一つは、飲物です。
 便秘だった妻と下痢がちの私たち夫婦は、朝一番に、リンゴを主としたジュースにカルピスを混ぜ、ご加持して飲みます。
 妻の便秘が治った今でもジューサーの係は私で、出張などでないかぎり一日も欠かさず妻へ与え、自分も飲んでいます。
 同じように飲むにしても、真言と同じくイメージをしっかり持つことが欠かせません。

 Uさんも言われたとおり、下剤にだけ頼っては、臓器に負担をかけるだけでなく根本的な解決にはなりにくいので、やはり、その方その方に合った方法をつかむ努力が必要なのでしょう。
 Uさんご夫婦も当然、これまでにいろいろと試しておられ、便秘については研究し尽したかの感があるほどですが、真剣に耳をかたむけておられます。
 ご希望なら、ご加持をして直接法をかけるやり方もありますが、人生相談だけでもう充分に納得された様子。お守を懐に、笑顔で本堂を後にされました。
 一日も早く爽快な日々を取り戻していただきたいものです。




2006
11.16

寺子屋では仏教徒をつくらない? ―宗教の根本―

 国分町での法話会で、寺子屋について話しました。

「寺子屋は、供養堂で開きます。それは。子どもたちが無意識の裡に『自分の命は過去に生きた人々の命とつながっている』と感じて欲しいからです」



「寺子屋では、正面に安置するお地蔵様かどなかに必ずご挨拶をしてから入堂するきまりにします。

 それは、自分たちの周囲にある日常を超えたものを感じて欲しいからであり、『郷に入らば郷に従う』という素直さを育てたいからです。

 ただし、み仏へ手を合わせるきまりを守ることは、必ずしも仏教徒になるよう強制するものではありません。

 将来、キリスト教徒になろうと、何宗何派の信者になろうと、本人が尊いものを尊ぶ心さえつくれれば、それで良いのです」



 途端に、きちんとした身なりの、中年にさしかかろうという男性から鋭い質問が出ました。

「今、寺子屋で学んだ子供が何宗に帰依しようと構わないとの発言がありましたが、仏教徒である貴方は仏教徒をつくるのが使命ではありませんか?

 世界中で争いが絶えず、それには宗教が深く関わっている事例が少なくありません。宗教は人を救えないのではないかと思え、私は宗教というものに対して不信感を抱いています。

 宗教は何でも良いという趣旨はとうてい理解できません」



 お答えしました。

「確かに私は仏法へ帰依した仏教徒であり、密教を修する密教行者です。だから、お話できることがすべて、その信念に基づいていることは言うまでもありません。

 しかし、法務を行なう目的は、狭い意味での仏教徒をつくることだとは考えていません。

 人間が霊性を発揮して生きられる世の中になることこそが、私の願いです。

 

 確かに宗教の説くところは千差万別です。しかし、いかなる宗教といえども、まっとうなものならば必ず普遍の共通点を持っているはずです。

 それは、『他のためになる』ことの大切さを知り、それを実行できる人間にならねばならないということです。

 慈悲と言い、愛と言い、ニュアンスに異なったものはあっても、この点においては何ら変わりありません。

 

 人間以外の生きものは、他のためになることはできません。自分のため、あるいは、種の保存のために命をかけた行動を行なう場合はあっても、決断をもって見ず知らずの人のためにすら自分をかけるなどということはできません。

 

 古い例で恐縮ですが、1982年1月ワシントンDCのポトマック河に飛行機が堕ち、救助のヘリコプターから浮き輪が投じられた際に、それを次々と周囲の人々へ譲り、自分は沈んでしまった中年男性がおられました。

 人は、こういう尊い行為ができるのです。

 

 この点に気づきさえすれば、宗教は争うことなく、人々を救い、導けるはずです。



 私は、寺子屋で、このポイントを子どもたちの心へ植え付けたいと願っているのであり、狭い意味での仏教徒を増やそう、あるいは、自分のお寺の繁栄を計ろうなどとは、考えておりません。

 将来、さまざまな宗教を信じ、清らかさを持って成長した人々が〈寺子屋の卒業生〉として仲良く生きて行くならば、どんなに嬉しいことでしょうか」



 一つだけ、言い添えねばならぬことがありました。

「他のため」という場合の「他」は、自分勝手に決めてはならないのです。

 私たちは、乗り物の席を譲る時に、相手が誰であるかを選びません。

 仏法は、それを「捨」と説きます。我執による分別を捨てるのです。自分の都合を離れ、絶対の平等に立たねばなりません。

 これが実現された時、戦争という魔ものは地球上から姿を消すことでしょう。




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2006
11.15

「居合・朗読・講演」は「身・口・意」です

「なぜ、出版記念講演会に弁護士と朗読アーティストが出るんですか?」

 こんな質問がありました。



 尊敬する方々へお願いした理由は二つあります。

 一つは、人間の命のはたらきは身・口・意の三方面から行なわれ、お二人はそれぞれ、「口」と「意」を主とした活動における達人だからです。



 渡辺祥子さんの朗読による説得力は圧倒的であり、特に「雁の渡り」を語る姿には神々しさすら感じられます。

 犬飼弁護士には人権を大切にせねばとの信念があり、特に、戦争や核兵器による人権の破壊は身を呈して阻止しようとの気迫を感じます。



 朗読と講演とによって、それぞれ、言葉と思考が入り口となった真実世界を感じていただきたいのです。

 加えて、当山の行う居合は、身体と剣の動きが目に見えます。

 以上、身・口・意で真実世界を表現したいということが第一の理由です。



 第二の理由は、『平和はご先祖様の願い』と題した講演も、『渡り鳥・雁のゴーマーの物語』と題した朗読も、私たち一人一人の自覚は大きな力であり、集まれば単に1+1が2になるというだけではなく、全体としてとても大きな偉業をすらなし遂げるほどのものにもなり得るということを説かれるからです。



 今、子どもたちの心の世界の荒廃は日に日に悲惨の度を増しています。

 時には親が加害者となり被害者となり、時には子供が加害者となり被害者となり、さらには学校や役所が間接的な加害者となり被害者となり、誰も信じられない地獄が現れています。

 こうした状況は、もはや、当事者だけの問題ではなく、私たちすべてが関わる文明の問題です。

 いじめにおいては、加害者も、被害者も、等しく文明の害毒による被害者なのです。

 こうした文明の害毒こそ、「共業(グウゴウ)の穢れ」に他なりません。



 共業を清め、文明の方向を転換させるためには、私たち一人一人が、直接的であれ間接的であれ問題に「関わっている」こと、世のあらゆるできごとは「他人ごとではない」ことを自覚し、自分のできることをもって立ち向かうしか方法はありません。



 出版も講演会も、共業へ挑戦するきっかけになって欲しいのです。

 日本の現状を何とかしたいというお二人の願いと当山の願いが共通していればこそ、身・口・意の各方面からそれを受けとめていただきたく、この企画となりました。



 以上が理由です。ご納得いただけるようがんばります。

 当日を楽しみにしてください。




2006
11.14

映画『チベット チベット』鑑賞会

 チベットの現状と、区別なき慈悲を説くダライ・ラマ法王を描く迫真のドキュメ ンタリー映画です。



 在日韓国人三世金森太郎(金昇龍)さんは、国とは何か、自分とは何者かをたずねて世界一週の旅へ出ました。

 途中、ダライ・ラマ法王への10日間にわたる同行取材を行い、さらにチベットへとカメラを廻します。




·日程:12月15日(金)

·スケジュール:

   午後5時30分 開場

   午後6時 上映開始

   午後7時40分 法話『仏法の根本』·質疑応答

   午後8時 解散(希望者は和室にて『隠形流居合』見学)

·参加費:1000円 ジュース・おにぎり付

  『法楽の会』・『親輪会』会員の方は500円 高校生以下は300円

·定員:30名(準備の都合上、事前のご連絡をお願いします)

·場所:旭ヶ丘青年文化センター『エッグホール』

·お問合せ・お申込み;大師山法楽寺

  TEL022(346)2106・FAX022(346)2107



 10月29日に行なわれたダライ・ラマ法王の講演会と、直接の質疑応答は、一行者にとって、新たな世界の扉を開くできごとでした。

 ぜひ、たくさんの方々に、世界で起こっている悲劇について知っていただきたい、そして、奇跡的な精神と行動力をもって人類の生み出した困難へ立ち向かう聖者の尊さを実感していただきたいと願っています。




2006
11.14

死は怖いか困るか

 思いもよらぬ方のご家族から訃報があり、葬儀となりました。
 Tさんはお歳よりもはるかに若く見え、今度はどんな催しの時に笑顔を見せてくださるのだろうと思っていた方でした。

 Tさんは、たまたまバスで隣り合わせた同年代のHさんと世間話をしているうちに、檀家であるHさんから当山の活動について聞き、仏縁を結ばれました。
 辺鄙なところにあり、本堂も立派ではない当山は、このように〈納得してご縁になる〉方々に支えられながらここまで来ました。
 何かのおりには仲良くイスを並べてご参詣くださるHさんとTさんは、私にとって象徴的な方々であり、深く考えさせられました。
 お通夜と告別式と二度に渡る法話には、いつにも増して静かな流れが伴っていたような気がします。

 幾度となく葬儀を行なっても、決して慣れることはありません。
 ご遺族の悲嘆や衝撃は常に心に響き、お別れの言葉に涙を抑える努力は変わりません。
 ただし、自分の死については、いつの間にか怖れなくなっていました。
 壇信徒の方々であれ、家族であれ、友人であれ、知人であれ、犬や猫であれ、あるいは当山であれ日本であれ、この世のものと別れる日が来るのは当然だからです。
 怖くはありませんが、あまり早く連れて行かれては困るというのが、偽らざる実感です。
 修行が足りないのは言うまでもなく、法衣に課せられている責務に対して果たした実績はあまりに乏しく、後継者を決めねばならないし、残すべきものの準備もまたできていないからです。
 伴侶の死に耐えられる心の柱を妻へつくってやるのも、小さくはない仕事です。
 だから、何とかそこそこ〈間に合う〉よう、分を刻む思いで法務を続けています。

 しかし、食事を抜いたり、極端に睡眠を減らしたりすると後にひびくようになりました。
 その時がいつになるかはみ仏にお任せして、心身を整えながら淡々と死への準備を進める毎日です。




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2006
11.12

阿息観(アソクカン)

 あいにくの空模様となり、『炎と自然と音楽と』は室内で催されました。

 懐かしい日本の歌やフォークソング、これだけで20年生きて来たという方の作る五穀ご飯、特性コーヒー、無農薬野菜の芋煮汁などを堪能した後、わずかな時間ながら「阿息観」を行ないました。



 

 暗い室内に小さなロウソクを灯し、20人ほどのメンバーが揃って掛け軸に正対しました。

 掛け軸に描かれた梵字の「阿」はいのちの根源大日如来を表わすもので、私たちがそこから生まれ、やがては帰って行く世界のしるしです。

 呼吸法を行ないながら声明を聞いた後、それぞれにとって自然な声で、「あー」と長くゆっくりと声を出し始めました。

 

 バックにはクリスタルボウルの玄妙な音が揺らぎ、母なるみ仏の世界へと届く声は、混じり合い励まし合いながら寄せては返す波のように、時には高く、時には低く、時には強く、時には弱く流れます。

 まぎれもなく「阿字法界(アジホッカイ…阿の示す真実世界)」が顕われました。



 終了後、「私が求めていたものはこれでした」と言う方があれば、いじめに遭っているお子さんと一緒に「どうしたら良いでしょうか?」と質問し、真言を授かる方もおられ、会は意義深いものとなりました。

 

 最後にたくさん灯された小さな火を見つめて合唱し、お開きとなりました。

 食べ物を出してくださった方々や、歌手の方、クリスタルボウルの?橋さん、プロデュースの小嶋さん、ありがとうございました。




2006
11.11

自他を幸せにする『四無量心』 2 ―どう励むか―

 私の師は「すぐに変わる人」でした。
 今度はこうしようと指示されて準備をしていると、実行の直前になってこうしてくださいと内容が変わり、あたふたすることは日常茶飯事でした。
 先生は変わるから困るとぼやく先輩もおられましたが、内容が必ず高く、深く、より目的達成にふさわしいものとなることを知っている私は、黙って懸命について行きました。
 今になってみると、毎日が決して予定通りになどならない実践の現場で何が起こっても動じずに法務をこなせているのは、あの時代があったればこそと感謝の念でいっぱいです。
 そして、高く、深く、ふさわしい方法の実践を求めてやまなかった先生は菩薩(ボサツ)であると確信できるのです。

 私たちの誓いに「み仏の子であるべく生きる」というものがあります。菩薩道の実践です。

「われらはみほとけの子なり。ひとえに如来大悲の本誓(ホンゼイ)を仰いで不二の浄心に安住し、菩薩利他の行業(ギョウゴウ)を励みて法身(ミホトケ)の慧命(イノチ)を相続したてまつらん」

 み仏の子である自分のための行としては「無限の向上心をもって」励み、他のための行としては「幸せになって欲しいと念じて」励みます
 先生がどんどん変わられたのは、「良かれ」と念じて励んでいると次々に閃く」からに違いありません。
 
 さて、どう励むのかは『四無量心(シムリョウシン)』として明示されています。

1 慈無量心(ジムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて如来の輝きを秘め、身体にも言葉にも心にも不壊不変の尊さがある。身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、不変常住の大楽を得よう。

2 悲無量心剣(ヒムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて生まれ死す苦の海に沈み溺れ、己を知らず、勝手な分別によってさまざまな煩悩を起こす。身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、無限の功徳を得よう。

3 喜無量心(キムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて本来清浄であり、あたかも蓮華が汚泥に染められぬがごとく、本性清浄である。身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、自在なる智慧と福徳とを得ん。

4 捨無量心(シャムリョウシン)
 生きとし生けるものはすべて、己とはかないものたちへの執着を離れる真実世界にあっては平等である。心はもとより不生不滅であり、本体も現象もすべて空だからである。身体も言葉も心もみ仏となる行に励み、自他共に、姿形にかかわらず本来平等である理を覚ろう。

 こう念じて「思いやりを持ち、他の悲しみや苦しみを我がことと感じ、他の幸せを妬まず素直に喜び、良かれと思う相手を勝手に選ばない」のが、菩薩の心です。
 22日に行なう『み仏は あなたのそばに』出版記念講演会では、ご来場の方々のために、この誓いを形あるものとしてお見せしようと考えています。
『四無量心』が何であるかを、肌で感じていただければありがたいことです。



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2006
11.08

ダライ・ラマ法王講演会 5

 最後に昼食・謁見会における冒頭のスピーチを記しておきます。

「法友へ心から感謝する。
 このご縁が長続きするよう願っている。
 私は1967年を初めとし、幾度も来日している。
 日本の最初の印象は、『古い伝統的文化と近代的な科学の発展とが両立した国』というものだった。
 良い習慣と近代的な考え方はこれからも必要なものである。

 神道のお祭も貴重である。
 アインシュタインが認めた通り、日本の仏教はすばらしい。
 日本の皆さんは、世界へ貢献できるところ大である。
 その後も、精神的文化の発展が科学の発展と共に行なわれていることを実感している。
 両面で豊かな伝統は、世界平和と人間の未来の発展に欠かせない」

「私は、一介の僧侶として旅をし、世界へ貢献できていると感じている。
 私には、二つの目的がある。
 一つは、精神的発展の手助け、より良い人間になろうとする人の手助けをすることである。
 もう一つは、各宗教には見解、実践、儀式の違いはあっても『足るを知る。慈悲心を持つ』などの共通した徳目があり、それを人々の心へ浸透させることである」


 ダライ・ラマ法王は、正面テーブルで人々と親しく言葉を交わし、昼食もそこそこに、次の会場である広島市へ向かわれました。
 終始一貫、表情は柔和でありながらピンと首が立ち、歩く速さはとても70歳を超えた方とは思えず、一挙手一投足にまったく年齢を感じさせない輝きを伴っておられました。

 今回の体験ではからずも弟子となった私は、これから
「修行は、1 知識を得る。2 それについて納得を得られるまで考える。3 確信を得たものを、ゆっくりと時間をかけ心に馴染ませるという順番で行なうべきである」
と説かれたとおり、おりにふれて教えを復習し、時間をかけてそれを熟成させ、「善き変容」を得たいと願っています。
 そうした生き方がご縁の方々にとって何ごとかであればありがたいと心から願っています。

 早くも実感できる善き変容の一つは、常に根本を説く決心がついたということです。
「四諦の真理と、愛と慈悲の力は、必ずコモンセンスを動かす。だから、私は、いかなる場合もこれらの根本を話すのである」
には、ドンと背中を押されたような気がしました。

 これまでは、講演や法話にあたり「皆さんになじみのないものを、いきなりぶつけないようにしよう」といった遠慮がありました。
 しかし、万人共通のところに立つならば必ず通じるはずです。
 そして、もしもなじみが薄い、あるいは耳にしたことがない言葉や教えであっても、それこそが毎日懸命に生きておられる皆さんにとって、新鮮で爽やかな風となることでしょう。
 実践するには、自分自身が常に根本に立っていなければなりません。修行を深めねばなりません。
 さっそく、今日の『法句経講座』から自分を鍛え始めます。

 最後につけ加えておきます。
 法王のお姿を皆さんにお知らせするためにもと思い、カメラを持参しましたが、開演の冒頭、主催者から撮影禁止の指示があったので、撮影を断念しました。
 実際には、携帯電話などで撮影する方々で通路がごった返しましたが、ぐっとガマンしました。
 写真が法王のおられない場面だけになったのには、こうした理由がありました。
 しかし、私が講演を聴き、短い言葉と視線を交わすことによって法王と通じた肝心の部分は、このレポートによって読んでくださった方々の心へ通じたものと信じています。
 法王からいただいた宝ものが皆さんにとっても宝ものとなりますよう、祈っています。




2006
11.07

立冬を迎えて

Category: 日想
 立冬を前に、Sさんの献身的な奮闘と皆さんのご助力により、十三仏様への参道に岩が敷き詰められました。

 また、お地蔵様の周囲も一段と整備が進み、見違えるようになりました。

 本堂における例祭では善男善女が声高々とお経を唱え、同時に『法楽の苑』では、奉仕の心を持った方々が、和気藹々と作業をしておられました。

 活きたお寺になっていることがありがたくてなりません。



〈完成した参道〉





〈蓮の花咲く来年が楽しみです〉





〈掃除で悟りを開いたチューラパンダカ様も並びました〉






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2006
11.07

ダライ・ラマ法王講演会 4

 次いで、会場から、前世と来世をどう考えるかという質問があり、ダライ・ラマ法皇は静かに答えられた。

「宗教哲学には、創造主の存在を受け入れるものと、受け入れないものとがある。
 仏教は後者であり、すべては因と縁によって成立していると考える。
 因には本質を形成する『実質因』と、『助けとなる因』とのカテゴリーがある。
 たとえば、水は液体であり、氷は固体であるが、氷の実質は水である。
 この場合、水の存在が実質因であり、それに低温という助けの因が加わって氷ができたのである」
実質因は不変である。
 物を形勢する実質因も不変、心を形成する実質因も不変であり、物質が実質因となって心を創ることはあり得ない

「物質は、あくまでも物質的な要素を持つものが実質因となって存在しているのである。
「意識にはさまざまなレベルがあるが、心の原初はあくまでも意識でなければならない。
 どこまで遡っても、意識である。

『この心』があるのは、明らかにものを知り得る意識があるからである。
『この身体』の実質因もまた、どこまで遡っても物質的な要素をもったものでなければならない」
「脳によってもたらされると調べられている意識のレベルは低い。
 原初の心とも言うべき微細で高度なレベルについては、科学によって説かれることはない。
 目に見える世界について調べるのが科学であり、目に見えない世界について調べるのが宗教である」


 原初の心は不変であり、前世も現世も来世も、その中へ万華鏡のように現れるのである。
 心は、心によって創られ、心によってその根本をつかみ得る。


 他にいくつかの質問が出され、法王は答えられた。

「私は、心には縁起の真理を抱き、愛と慈悲を実践しようとしつつ、ここまで来た」
修行は、1 知識を得る。2 それについて納得を得られるまで考える。3 確信を得たものを、ゆっくりと時間をかけ心に馴染ませるという順番で行なうべきである。
 すべての宗教はこのコースをたどる。『善き変容』は必ずそうである

 法王は、自分で納得のできるように自分の心を創るのが真の宗教であると説かれた。
 心が正しくはたらくまでには時間がかかるとも説かれた。
 のたうちまわりながらここまで来た行者としては、すべてに頷くのみである。。

 妄信させよう、あるいは早く信者にしてしまおうとする宗教は、必ず邪知をまとっているものである。
 景品を餌にして人を集め、場の雰囲気で判断力を失わせ、そのすきに高価な羽毛布団などを売りつけるやり方と同じである。
 真の宗教は、縁の人に考えさせるはずである。
 そして、確信を持つかどうかは、その人にゆだねる。
 そうでなければ、真の発心(ホッシン…帰依しようとの決心)はあり得ないし、時間のかかる『善き変容』はもたらされない。

「仏教者は、『この21世紀に生きる仏教』について話さねばならない。
 今の悲惨な状況の原因は、必ず過去にある。
 時間をかけて過去を調べる必要がある。

 そのために、私は対話を進めるのである。皆で考えねばならないからである。
 21世紀は、対話を進めて行く時代である。
 広島、長崎といった歴史的事実を持っている日本人には、世界平和へはたらきかけて欲しい。
 皆さんなら必ずできる!」


 法王は合掌され、にこやかに会場を後にされた。

〈説法された壇〉









〈退席後の壇前にて〉









2006
11.06

ダライ・ラマ法王講演会 3

 ダライ・ラマ法王は、力強い言葉を続けられた。

「般若経に説かれている菩提心(ボダイシン)は空性(クウショウ)によって成り立つ。
 空性とは、すべては依存によって成り立っているという原理であり、大乗仏教の真髄である」


 自分が今、生きているのは、親がいたからであり、学校があったからであり、食べものがあるからであり、空気があるからであり、さらには運転中に他の車がぶつかってこなかったからである。
 数え切れない諸条件が重なり続けているから、生きていられる。
 すべての人々は「おかげさま」「お互いさま」でしか生きられないのである。

すべての衆生は楽を望み、苦を望んでいない以上、一切衆生に権利ありと言うべきである。
 仏教では、人間だけの権利を考えない


 ここで言う権利とは「尊ばれるべき尊厳」だろう。
 人間も、犬も、金魚も、気分良く楽しく暮らしたい。
 皆がそうであり「お互いさま」で生きている以上、尊び合わねばならないのは当然である。
 もしも犬を虐待するならば、それはこの世に虐待というおぞましいものを生じさせたのであり、自分だけがその悪徳のもたらす影響と無縁であることはできない。

「マントラ(真言)とは、心を護るものである。方便・修行によって、心をいかに護るかが問題である


 心は意図して護られねばならない。
 心を放っておくと、それはキツネのように、サルのように、ヘビのように、オオカミのように、カラスのように揺れ動き、時には善いことを行なっても、時には悪しきことを行う。
 霊性を持った人間らしく生きるには、自分で自分の心を創り、護って行かねばならない。
 釈尊も、生涯をかけて「放逸であってはならない」と説かれた。
 心を放置しておくと、放任主義で育てられた子供のように自分本位で生きるのが、人間の宿命であり、その心が諸悪をもたらす。
 殺人、強盗、詐欺などあらゆる事件の陰には、必ず自分本位という邪心が隠れている
 それを抑えるには、み仏の言葉であるマントラを唱え、教えを実践することである。

「金剛杵(コンゴウショ)は、方便と智慧を表わすものである。方便とは諸尊の瑜伽(ユガ…悟りの境地)を観想することである。智慧とは空の理解である」
「金剛鈴の音は空性を説くものであり、金剛杵と必ず二つを用いるのは、方便と智慧が欠かせないからである」

 金剛杵とは、両端の尖った金属の仏具である。魔ものを破壊する武器であり、どんなものにも負けず修行など善きことを行なう決意や力などを表わす。
 金剛鈴とは、手に持って鳴らすリンである。

 ここで、意外なことに、法王は仏壇の前などに必ず置かれている卓上のリンを叩かれ、これは何に使うのかと通訳へ訊ねられた。
 そして、瞑想の始まりと終わりに使えば便利だねと笑われた。

 ここまでで、講演は終わり、質疑応答となった。
 私はまっ先に挙手をし、お尋ねした。
 会場は広いので、前から三番目の列にいるとはいえ、大音声で話さねばならない。
「聞く耳を持たぬ者は、いかにして救われ得るでしょうか?」
 日々、人生相談を受け、祈り、世間を観ている者として、最大の関心事の一つである。

 むろん、霊性・仏性は人類共通であり、深い心のレベルに入れば通じないことはあり得ないと信じて修法するのが、密教行者の立場ではある。
 しかし、真理をふまえた言葉の通じない体験を数限りなく重ねられたであろう世界最高の頭脳を持つ聖者の意見を、どうしても聞きたかった。
 中国に侵略され、100万人以上の同胞が殺された国の最高指導者としてどう考えておられるのかを聞きたかった。

「宗教は世界中にさまざまあり、何を信じるかは自由である。仏教を信じるかどうかも自由である。
 一般論としては、先祖から受け継いだものを信じれば良い」
「信じない人へは教えを説いても無意味である。
 しかし、愛と慈悲は、どのような人にとっても特に信じ実践すべきものである。
 それには普遍的な価値があるからである。
 それがある人は幸せになり、ない人は不幸になる

四諦の真理と、愛と慈悲の力は、必ずコモンセンスを動かす
 だから、私は、いかなる場合もこれらの根本を話すのである」

 法王は、
「世界中の人々に仏教を信じさせて世界に平和をもたらそう」
と考えてはおられない。
「人間にとって普遍的な価値のあるものを共有することによって平和になろう」
と訴えておられる。

 他の宗教宗派を否定し、他宗で信じる神や仏を要らぬものとし、自分の宗教へ改宗させようと争う姿勢とは正反対である。
 何が世界にとって必要なのか、あらためて教えられた。

 法王は、こちらの目と通訳の目を交互に見ながら、はっきりと説かれた。
 そして、次の質問者の声が小さくて聞き取りにくいので、前へ出るようにと指示されてから、わずかの時間、もう一度じっと私の目を見つめ、にっこりと笑顔になられた。
 目と目を合わせていたのは10秒もなかったはすだが、法王は心で
「解ったかな?行者よ」
と言っておられた。
 後の呼びかけは「仏弟子よ」あるいは「法友よ」だったかも知れない。
 しかし、私は、視線の絡み合った数秒の間に、まぎれもなく法王の弟子となった。
 法統の問題ではなく、私淑(人知れず尊敬し、模範とすること)の問題である。
 法王は、会場を去られるまでに、何回もこちらを見られた。
 師であり、父であると確信した。




2006
11.04

ダライ・ラマ法王講演会

 法王は、一言一言に身振り手振りを交え、子供へ言って聞かせるように説かれた。



「愛と慈悲が私たちに必要であり心身へ良き影響を与えることは、世間的、科学的、常識的、体験的にも判る。

 怒りは、心にも社会にも、すべてのものに悪影響を与える。

 アメリカやカナダの大学でも、もちろん、日本でも、こうしたことはよく研究されている。

 教育を通して心へ慈悲を浸透させるなど、人間にとって何が必要であるか、未来のためによく考えてみるべきである」



「幸せを得、苦しみを解く宗教的な手段を考えてみよう」



「宗教には、創造主を認めるものと認めないものとの2種類がある。

 認めるものは、神の愛が究極であり、永遠であると説き、神の愛・隣人愛・許しを説く。

 創造主を認めない仏教とは哲学的命題を考えれば違っているが、大いなるものの愛・人間同士の愛・寛容などの大切さは共通のものである。

 哲学的見解は異なっても、『困っている人を救う』など、実践においては同じである面が多い。

 すべての宗教は同じように愛や慈悲を説いており、それを高めるという目的において協力し合えるものである



「特に仏教は、慈悲の大切さを強く説く。

 仏教の真髄は『縁起』にある。それは、因と縁と果のつながりを説く。すべてのものは相互依存によって生起するのである。

 苦・集・滅・道の四諦(シタイ)は、集という原因によって苦が生じ、道という原因によって苦が滅すると説くものであり。すべての仏教において共通・根本・土台となる真理である。

 仏教には大乗・小乗とあるが、分け隔てをするのは誤りである。小乗仏教は仏教の土台であり、これなくして仏教は成り立たない。

 小乗仏教の上座部(ジョウザブ)が土台であり、その上に大乗仏教の菩薩乗(ボサツジョウ)があり、それをふまえて金剛乗(コンゴウジョウ)の密教がある。

 三つに矛盾はなく、そろって一つの建物を構成している」



「我々の宗教的実践の中心は、非暴力と慈悲である。

 慈悲と縁起の教えには深い関係がある。

 他者を害することが因となって不幸という果が生じ、他者を愛することが因となって幸せという果が生じる真理を観るのが智慧である。

 宗教と無関係なやり方によっても同じ縁起となること。また、こうした事実が科学的・常識的に理解できるのは、仏教の正当性の根拠である



「私はこれまで、科学者との対話を重ねてきた。

 ある人から、科学者との対話は仏教を殺すと言われたことがある。しかし、仏教は、教えの裏付けや理由を明確にして実践してゆかねばならない。

 釈尊の言葉だからと、盲信するのではない。

 科学者はよく調べるが、仏教徒も同じく調べ、実践してゆかねばならない。この点においては、科学と宗教とは似ている。

 我々は、他者の利益となることと、解脱を最終的な目標とする。科学者もまた、人類のためを思い、人類のためになろうとする。我々と同じである。

 よく調べ、分析し、正しいかどうかを考えるという方法は大切であり、その対象となる経典はとても重要である」



 すべてがすんなりと納得できる内容である。

 特に、宗教的な教えは常に時代によって検証され、確信を土台として現実的に生かされねばならないとする考え方は、まったく同感である。

 こうした柔軟性と理性的姿勢によって、仏教は世界各地で、その地域なりの精神的風土になじみながら、他の神々と争うことなく生かされてきた。



 当山は、「魂で受けとめ、血肉となった仏法を、たった今、自他のために生かす」ことが使命であると信じてここまで来たし、これからもそうあり続けたい。



 ところで、必死になってメモをとっている人はほとんどいない。どうしたことだろう。

 聞いた言葉などは、すぐに忘れてしまう。珠玉の言葉を心へとどめたいならば、復習せねばならない。「学びて習う」のは基本ではないか。

 もちろん、貴重な講演内容は後に本になったりはするだろうが、そうしたものを読むことと、霞の中へ消えゆく記憶をたどりながらメモを整理することでは、天と地ほどの違いがある。

 

 たとえつたないメモでも、会場へ行けなかった方々のためになるならば、ありがたい。とてもありがたいと思う。




2006
11.03

炎と自然と音楽と

 音楽家のグループが当山の『守本尊道場』で、ユニークな催しを企画しました。

 そうぞ、ふるってご参加ください。





炎と自然と音楽と・・・



~宮床の大自然の中、暗闇の中の炎を楽しんでみませんか?~



·日程:11月11日(土)午後3時スタート午後6時終了予定

·参加費:1500円

  青空カフェ体にやさしい、こだわりのメニューから雑穀ごはん・お飲み物+芋煮汁・焼き芋付き

·定員:30名(準備の都合上、必ずご予約下さい)

·場所:大師山法楽寺『守本尊道場』

  詳しくはhttp://www.hourakuji.net/index.htm

  雨天の際は、すぐそばの公民館

··お問合せ・お申込み

  TEL・FAX022-307-3108(小島)E-mail symphony@dream.ocn.ne.jp



  

1.焚き火点火

2.ご挨拶

  遠藤龍地

3.焚き火の周りでお食事

  雑穀ご飯と芋煮汁 ~焼き芋を作ろう!!

4.歌&ギター 

  懐かしい歌を心に響く声のSONOKOさんが歌います。

  また参加者の皆さんと一緒に歌を…。



休憩(ご自分で焼いた焼き芋をお召し上がり下さい)



ティータイム(有機コーヒー・三年番茶他…)



5.声明とクリスタルボールによるセッション

  声明とRIKAさんのクリスタルボールの響きをお楽しみ下さい。




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2006
11.03

11月の運勢(世間の動き)

 今月は、今年(来年の節分まで)中で一番「正しきもの・まっとうなもの」が通る月です。

 まっすぐ人の道を歩めば、今月の守本尊阿弥陀如来様の真言にある「アミリタ」が不死を得る妙薬を表わすように、心に大いなる安心や満足感を得られることでしょう。



「正しい」とは、この世を貫く原理である「因果の法則」を信じて、移ろいゆくものに執着せず、恩を忘れぬ行動をとることです。

 もしも正しい方法で豊かになりたいならば、自分の持っている財物をただただ抱え持っていてはなりません。

 それは、必ず移ろうものだからです。

 自分が使っても、どら息子が浪費しても、盗まれたり欺されたりしても、火事や天変地異によっても、なくなります。死ぬまで持っていたとしても、閻魔様へのおみやげとしてあの世へ持って行くわけにはいきません。

 いつかは必ず手から離れるのです。

 

 ならば、執着心の対象でしかない余分な財物は、自分の意志で手放すことです。他人のために良かれと用いることです。

 お互いがそうすれば、この世はたちまち豊かな人だらけになりましょう。

 地球には飽食の結果、身体の調子を狂わせる人々がおり、価格調整のために食料を破棄する地域があるのに、餓死する人々が絶えない国々もあります。

 残念でなりません。

 我欲を捨てて足るを知り、「おかげさま」と感謝して手放せば、「お互いさま」と助け合う世の中になります。

 人はこうして生きるのが正しい方法で豊になる生き方であり、それはとりもなおさず霊性に導かれる生き方です。



 実践方法は、以下の五つです。

?安心な生活を保障する国家社会の恩に感謝すること

?自分へいのちを授けてくれた親や先祖に感謝すること

?食べ物としていのちを捧げる生きとし生けるものに感謝すること

?正しいなりわいに生きる道を示してくれる人に感謝すること

?み仏と、仏法と、それを守り嗣ぐ人々へ感謝すること
 

 こうした気持で財物を用いれば、それは尊い布施行です。真に豊かな社会を実現するための力となります。

 

 もの惜しみをする人は、かりそめの財物しか手にすることができません。

「他の喜びをすなおに喜んで得られる深い感謝と満足」こそが、無限に与えられ、揺るがず減らず、時が経てばますます熟成する真の財なのです。

 正しく生き、共に豊かになろうではありませんか。




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2006
11.02

『み仏は あなたのそばに』出版記念講演会

 このたび、み仏のご加護とあらゆるご縁の方々のおかげをもって機関誌『法楽』が200号となり、『み仏は あなたのそばに』を出版をするはこびとなりました。

 つきましては、感謝をこめて記念講演会を開催いたしますので、ふるってご参加くださいますようご案内申し上げます。

 会では、同級生でありながら人生の師と仰ぐ犬飼弁護士と、心の大切さを訴えるまごころの伝道者渡辺祥子さんにそれぞれ記念講演と記念朗読をしていただくことになりました。

 両氏を初め、これまでの皆々様のご縁とご助力はまことにありがたく、衷心より感謝し、お礼申し上げます。

 当日はまず感謝の思いを率直に皆さんへお伝えし、次いで当山の理想とするところをお話し申し上げ、共に「この世の幸せとあの世の安心」を得るための新たな出発の日になればと願っております。

 

 さて、以下は、行者としての姿勢を表わす本文の一部です。

「僧侶はみ仏へのご喜捨によって命を永らえる存在であり、ご縁の方々があって初めて生きつつ務めをまっとうできる存在です。明らかに、僧侶は皆さんのしもべなのです」

 また、出版の目的は「あとがき」にあります。

「この本は、一老行者の遺書である。回顧録でなければ自伝でもない。真理の顕れである真実世界に生きようとする行者の血肉となったものを知り、何かを感じていただければありがたい、ただそれだけである」

 

 皆々様のご多幸を祈っております。









一 次 第 声明

(声明は、弘法大師伝来の旋律をもって唱えるお経です。讃えられるみ仏と唱える人と聞く人との交感を体験していただければ幸甚です) 

        隠形流居合

(当日は道場主の遠藤龍地が皆さんのご多幸を祈って修法します)

        記念講演『平和はご先祖様の願い…今、憲法九条』

        弁護士犬飼健郎

(氏は仙台二高・東北大学法学部に学び、仙台弁護士会会長・日本弁護士連合会副会長を務められました。基本的人権の尊重と社会正義の実現を目指して頑張り、現在は憲法問題に取り組んでおられます)

        記念朗読 『The Great Wing~渡り鳥・雁のゴーマーの物語』 

        朗読アーティスト渡辺祥子

(稲垣達也氏のピアノに流れるような七色の声を乗せて、雁の渡りの旅を通して、沢山の気づきや勇気がもらえる感動の物語をお送りします)         

        謝恩講演 

        住職遠藤龍地

        合唱 

一 日 時 平成18年11月22日(水)午後6時30分より

一 場 所 仙台市青年文化センター交流ホール

        仙台市青葉区旭ヶ丘3―27―5

        022(276)2110

一 参加費 5000円(本代2500円を含みます)

        『法楽の会』会員、『親輪会』会員は3000円

        ご家族の場合、お二人で6000円(本は一冊です)

        3名以上の場合、お一人1000円追加

        高校生以下は500円

一 主 催 大師山法楽寺

一 申 込 電話やファクスやメールやハガキなどでお申し込みください。

        チケットをお送りします。

        (送金先と電話番号もお知らせください)

一 送金先 郵便振替  02260-3-4604  大師山法楽寺

        古川信用組合吉岡支店 普通預金 3383332 大師山法楽寺

        七十七銀行富谷支店 普通預金 5110424 大師山法楽寺

一 その他 当日、渡辺祥子さんのCDなども頒布いたします。この機会にどうぞ。




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2006
11.02

ダライ・ラマ法王講演会 2

 映画が終わり、梵字の書かれた法被をまとった行者たちが、暗い会場で真言密教独特の太鼓などを打ち鳴らす。
 やがて、スポットライトを浴びた法王が、先導僧たちに続き数名の弟子たちと共に、にこやかに歩を進められ、自然に立ち上がった参加者たちは拍手をもって法王をお迎えした。
 笑顔を絶やさぬ法王は、登壇前にひざまずいておられる様子。きっと礼拝であろう。
 真言宗の儀軌によってしつらえられた壇上で足を組んだ法王は合掌し、法話を始められた。
 用いるのはチベット語と英語。向かって右下に控える男女2名が通訳である。

「ナーガールジュナの結界を張り、世尊に帰依する」
 結界を張ってからものごとを行なうのは、密教行者の常である。

「私たちは釈尊の法灯を嗣ぐ者であり、同じ師の弟子である。
 しかし、法友一人一人の積んだ功徳は少ない。
 集めれば大きいものになるが、それでも足りない。
 それぞれの行動には限りがあるからである。
 お互いに学び合えることはたくさんある。学び合うことが大切である。
 チベット仏教から日本仏教へ教えるものも、その反対もある。学び合おう」

 法王は、適当なところで話を区切り通訳へ顔を向ける。それを合図に通訳は口を開く。

「形式張らずにやろう。
 後に質疑応答も行なう。
 形式張ったことは、本当の対話を妨げることがある」
「これから世界の平和と人権について語ろう。
 なお、平和とは、人間間だけのものではない、生きとし生けるものすべてにとって大切なのである」
真の平和とは『暴力のないこと』ではなく、『身・口・意による慈悲の実践が行なわれていること』である。
 怒りや貪りによって動機づけられた行いが、平和を破壊する暴力などである」
 法王は、平和は生きとし生けるものすべてにもたらされねばならぬとしながら、〈人間にとっての平和〉とは何かを明確に解かれた。
 ただ争いがないだけでは、真の平和ではない。たとえば中国軍に押さえられ沈黙しているチベットに戦争はなくとも、平和もまたないようなものである。

 法王は、ここで、スポットライトが眩しいからと、サンバイザーを被られた。
 アメリカ人の友人からもらったもので、重宝しているという。
 会場は一気に和やかになった。
 法王は見かけの権威を自ら壊し、一瞬にして会場を緊張から解き放った。

「平和は心の中から生まれ、育てられる。
 強い意志によって実現されるものである」
 慈悲は、すべての生きとし生けるものに自然に備わっている。
 その種子はすべての生きものが持っている。
『私』という思いのある生きとし生けるものすべて(人間と動物を指す)に慈悲はあっても、それは、怒りやうぬぼれによってはたらかなくなる。
 自分で、自分がより良く生きて行くための条件を整えねばならない。
 愛や慈悲により、逆境となる条件である怒りや嫉妬やプライドなどをなくすことである」

世界平和のため、慈悲の実践のためになさねばならぬ行いは、『慈悲心を持つこと』と『その反対のものをなくすこと」』である。
 私たちは、生まれながらにして、愛と憎しみと、相反する二つの感情を持っている。
 私たちは、一つのものを二面から見る。
 たとえば他人なら、『苦しみをもたらさぬように』と見れば慈悲であり、『苦しみを与えたい」』と見れば憎しみである。
 これらの二つは、決して同時には生じない。
 好きな人が同時に嫌いであることはあり得ない。
 しかし、同時でなければ、それらはさまざまに起こる。
 相反する二つは、異なった見方のもたらすものであり、愛を育てたいのなら、憎しみをなくすことである」

大切なのは、心の持ちようを変えることである。
 心に平安がなければ、世界を平和にすることはできない。

 少しの鳩しか飛ばせなければ、少しの平和しかもたらされない。
 平和には多くの慈悲心が必要である。
 平和は内なる平和を元にして達成されなければならない。
 平和な社会の実現のためには、一人一人の心の平和・家庭の平和が必要であり、それが確立されるかどうかがポイントである」

「心には愛と憎しみが備わっている。
 一方を育て、一方をなくさねばならない。
 その必要性や根拠を考え、心の修行を積まねばならない。
 悪いものの観方により、憎しみや嫉妬が起こる。
 正しいものの観方により、愛や慈悲が起こる。

 そのための修行は二とおりある。
 一つは宗教的な教えの実現、もう一つは宗教によらない心の育て方である」

「まず、宗教的方法によらないものから話そう。
 すべての人々は幸せを望み、苦しみを嫌がる。それが自然である。
 生まれてすぐ、新生児は母の胸に抱かれ母の愛を感じる。
 そして心の底から満足感を味わう。
 母の愛は人生の第一番目から大切である。
 それが与えられない子供は恐怖感などを持ち、生きられぬほどに生命力が弱る場合もある」

「最新の研究によれば、愛があれば脳(特に右脳)が活性化される。
 子供にとっては、母親のぬくもりが脳の成長にとても役立つ。
 医学によれば、心の平安は病気を治す。
 のんびりした状態で生活すれば、早く治る。
 また、医者や看護師の強い愛情は、効き目のない薬を与えてさえ患者を治すほどである。
 反対なら、いくら効き目のある薬を投与しても、なかなか良くならない。
 科学者の研究によれば、愛と慈悲の瞑想をした子供は、わずか3週間から4週間で心が穏やかになり、記憶力も伸びた。
 煩悩は免疫力を抑制する。
 愛や慈悲は免疫力を高めるのである

 心と免疫力などとの関係は、体験上、それが事実であることを断言できる。
 ご加持の修法が心身の状態に良き変化をもたらすのは、行者にとって当然ですらある。




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