--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2006
12.31

輪廻転生 4 ーご先祖様は「いじめられっ子」だったー

 恐竜が絶滅した頃、私たち人間の祖先は天変地異をかいくぐって危うく生き残り、次いで訪れた弱肉強食の試練をも乗り切って人間になりました。
 
 凶暴な肉食獣の脅威から逃れるため、まず樹へ登りました。
 揺れる木の枝などを安全に動き回るために手が発達し、獲物との距離を正確に計るために、眼が頭のてっぺんにあるのではなく今のような形に顔が創られました。

 樹上生活も決して安穏なものではなく、食物獲得競争が強い者と弱い者を分け、強い者はそのまま安全な場所に住んで植物を食べ、森林の王たるゴリラになりました。
 やや弱い者は時折地上へ堕とされ、あるいは食物を得ようと地上へ降りて雑食になりました。その子孫が今のチンパンジーです。
 もっと弱くて森林を追い出された者は、草原で生きるしかありません。
 ここで、地平線へと視線を走らせて身の安全を確保するために立つようになったのでしょう。
 食べられるものは何でも食べるしかなく、しかも、樹上と違っていつ地上や空中から襲われるかも知れないので、食べ物を分け合い共同で危険に立ち向かう集団生活をせねばなりません。
 そうして身体が直立歩行に合ったものとして変化し、脳が発達しました。霊性を持った人間の誕生です。

 この推移は、何かとても大切なものを教えているように思われてなりません。
 悠久の過去に思いをはせれば、勝ち組・負け組という粗野で殺伐とし嫌悪感を催させる流行語などは、一枚の紙切れほどの重みもありません。

 輪廻転生の摂理は、決して世間的勝ち組に極楽を、負け組に地獄を用意しているのではなく、むしろ、他を蹴落とし権勢に驕った者はその報いとして地獄や畜生や修羅の世界へ行かねばならず、恵まれぬ生活にあってもまっとうに生きた者には人間や天人の世界が待っています。

 肩を寄せ合って生き始めたご先祖様たちの思いを大切にしたいものです。




スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2006
12.30

1月の運勢(世間の動き)

 どんどん伸びようとして、さまざまなものが動き出します。

 地に足のついたものには将来への可能性があり、根を張る前に急いで花を咲かせようとするものは挫折への危険性を抱えます。

 良くも悪しくも大衆との関係がことの成否に大きく関わりましょう。

『法句経』は説きます。



「恥ずべきものを知らねば、畏れるべきものを畏れねば、避けるべきものを避けねば地獄に堕ちる」



 世間・大衆の動きに何を観、何に同じ、何に惑わされないか、運命を決めるのは自分です。



 また、「小を積んで大となる」はたらきが強く出ます。

 やはり『法句経』は説きます。



「慈悲心をもって自他の幸福を願う者には十一の幸福が訪れる。福徳がやってくる、安眠がある、目覚めて爽やかである、悪夢を見ない、神々に護られる、敬愛される、毒にやられない、危害を加えられない、水難火難に遭わない、必要な物を得られる、死後に不安がない」

「心に思いやりを抱き、それを大切にしながら生きれば、この世の苦はだんだんに薄れ、やがては不動の安心が得られる」




 思いやりを忘れず、徳をこそ積みたいものです。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.30

平成19年の運勢(世間の動き)

 平成19年は、18年と異なり、派手派手しいことは少なく、地に足のついたものが見直されます。

 統計で明らかになったとおり、過去5年間は、一流企業の経営者と運用資産を抱えた富裕な人たちが所得を増やした一方で、労働者は所得を減らし、税金や保険料などの社会的な負担は増え、さまざまな分野で格差が急拡大した時代でした。  

 今年からは、そうしたひずみを是正する方向へと舵が切られ、ただただ「改革」を叫べば何でも許されることはなくなりましょう。やっと中身が問われる正常さを取り戻します。



 天を目指して高く飛べる極々限られた人が夢の虹をかけ、誰しもがその橋を渡られるような幻想が錯覚であることに人々は気づき始めました。 

 もはや思考停止をさせる単純な言葉は通用しません。責任を果たせるのは幻想を抱かせるアジテーターではなく、納得を求める声に応えられる誠実な人々です。

 弱者の心を忖度し、社会に安心をもたらす器量人です。

 ここで日本がいかなる方向へ進むべきか、じっくりと検討せねばなりません。

 敗戦によって定められた進路が根本から問われ、何を残さねばならないか、変えるべきものはどうどう変えるか、国民の目の前で本質をふまえた議論がなされねばなりません。

 憲法・教育・社会保障・国防など、いずれもこれから先の30年、あるいは50年を決める大きな問題であり、既成政党の枠内だけでことを進めるのは難しくなりましょう。



 平成19年は「育てる」が大切な感覚となります。

 ここ数年は「壊す」「変える」「代える」で来ましたが、ここまで子供たちの心が荒廃し人々の心の底が抜けてしまえば、もう事態は誰の目にも明らかです。

 忙しく目先を変えるよりも、樹木を植え育てるように、何が人間と社会にとって最も大切なのかをじっくり考え、大切なものを守り、根気強く伸ばさねばなりません。

 

 もはや若者は無慈悲に使い捨てとなることをよく知っており、労働に積極的な価値を見いださなくなりました。大手ゼネコンの人事担当者が「現場で汗を流す若者がいなくなった」と嘆くのは当然です。

 人間がモノと同じ道具と見なされる世の中で、誰が黙々とはたらけましょう。

 もちろん、これまでも組織内の人間は歯車の一つでした。しかし、簡単に取り替えられることはなく、組織の成長と共に性能を向上させ、やがては小さな歯車を回す大きな歯車になることも可能でした。

 しかし、今は、未来へそうした希望を持てない時代になりました。

 経営者はいつも「もっとうまく手っ取り早く儲けられる商売はないか」と鵜の目鷹の目になり、今期の損益を睨んで夢中になっているのと同じく、労働者も、たった今、より多く収入を得られるところを求めて血眼になっています。

 これほど世の中の人々が皆、目先に走る時代はかつてあったでしょうか。



 こうした時代は、必ず「我がため」という自己中心的な心を育てます。「共に」という尊い心を萎縮させます。

 人心と社会の荒廃は「我がため」によってもたらされます。「得たい人」だけで「与える人」がいない社会に潤いはなくなります。

 

 もう転換点に来ています。

 平成19年を「育てる」時代の元年にしたいものです。

 子供の邪知・妄知を刈り取って霊性を育てましょう。

 希望の持てる職場を創り、若者を育てましょう。

 自分の子供、自分の職場だけでなく、社会がそうあるように願い、できることを行いましょう。

「共に」安心と潤いのある社会をめざしましょう。



 国際ボランティアとして、カンボジアの貧しい子供たちの教育に長らくたずさわってきたKさんから、こんな体験談をお聞きしました。

 読み書きのできなかった子供が文字や言葉を知ると、見違えるように活き活きしてくるそうです。

 紙が水を吸うように次々と覚え、考え、ものごとができるようになり、大きな希望を持つようになります。

 そうすると、生きるだけで精一杯でその日暮らしだった親にもめざましい変化が現れ、心の向上に伴って生活も向上します。

 子供が行くべき学校もない環境におかれた人々はこうして人間らしい霊性を取り戻し、育てているのです。



 子供たちと日本の未来のために、私たちにできることは必ずあるはずです。

 登校する子供たちへ「おはよう」と声をかけること、文具や書籍を寄贈すること、スポーツなどを教えること、選挙の一票を真剣に考えること、などなどいくらでもあります

 第一線を退く団塊の世代にも大きな役割があるはずです。

 斜めに構えて隠者になることなく、こうした世の中を創った者としての責任を果たしたいものです。

 育てつつ世を去ることこそ、死魔の克服ではないでしょうか。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.29

マンダラと教育の再生

 私たちが合掌礼拝するマンダラには、み仏だけでなく神や鬼なども描かれています。
 それは、マンダラで表現される真実世界には何一つ無駄なものがなく、ありとあらゆるものが存在意義(仏性)を持っているからです。

 最近、いじめっ子を処罰したり停学にしたりする法律を強化しようという動きがありました。
 何と無謀なことかと推移を見守っていたところ、立ち消えになったようでホッとしました。
 なぜ不適切と考えたかといえば、いじめられる子供にもいじめる子供にもそれぞれそうなった因縁があり、両方共に哀しく憐れで愛おしいことに変わりはなく、いじめられる子は白でいじめる子は黒だからとまったく別個に扱うのは発想に問題があるからです。

 子供の世界に排除の論理を用いるのは、子供に改悛の可能性が薄かったり、犯罪性が高かったり、親や家庭に反省を促すために必要だったりと、よほどの場合に限らねばなりません。
 世の中を学ばねばならない段階で「混沌」という現実から隔離すれば、現実への適応力を養えず、人間性の核を創る段階でレッテルを貼ったり貼られたりすれば、自分で模索しつつ光明をめざす力を損ねるからです。

 いじめが起こったなら、何よりもまず、親や家族や友人などがいじめという渦へ飛び込み、卑劣で悲しい行為が再び行われないよう子供たちの心を変えねばなりません。それができない場合は先生や警察の出番になります。
 根本的な解決法は、当然ながら、家庭を主とした道徳教育の実践です。
「それができていないからこうなっているのに無理だ」

と考える方もおられましょうが、誰しもが必要なことを必要と考えられる空気を作らねばなりません。
 寺子屋はそうした面で役に立ちたいのです。家庭でも学校でも手の届かないところへ小さな手を伸ばしたいと願っています。

 私たちは、「自分にとってどうか」という自分勝手な視点をなかなか離れられず、「ありとあらゆるものが存在意義(仏性)を持っている」という観点に立ちにくいものです。
 この欄で何度か採りあげた『すべてを超える翼』は、そうした迷いの眼を離れさせます。
 の渡りは強い鳥だけでなく、弱い鳥も含めたすべての鳥が作るVの字によって行われるという不思議、神秘には素直に驚嘆したいものです。

 また、勤勉の象徴とされるアリの群れにはあまりはたらかないように見えるアリたちがおり、その存在が群れ全体のバランスにかかわってこそアリの社会が保たれるという事実も、私たちの想像を超えるものがあります。

 私たちがいかに未成熟で発達途上の存在かということは、最近発表された研究結果についても明らかです。
 これまでの流体力学では、空気抵抗の少ない流線型が理想とされ、ありとあらゆる乗り物は、限りなくその形を理想としてきました。
 しかし、列車の転覆事故を調べているうちに、流線型では横へ回り込んだ空気が車体を持ち上げるような力としてはたらく場合があり、強い横風に弱いことが判明したそうです。
 むしろ昔の電車の四角張った形の方がそうした危険な力を発生させにくいというのですから驚きです。

 私たちは、あまりに「早さ」と「変化」を性急に求めすぎてはいないでしょうか。
 浅知恵に頼り過ぎて、現実の底から真実をつかむ力を失ってはいないでしょうか。
 時にはマンダラを眺めて生きとし生けるものに仏性を感得できる力を養い、教育再生も、ここから始めたいものです。 




Comment:0  Trackback:0
2006
12.28

習い覚える順番

 ある事情から神経症になったSさんは、時には自分の名前すら思い出せないほど重症だったにもかかわらず、好きな車の運伝をしてはたらくことによって病気を克服しました。

 普通なら、とてもはたらこうという気持にはなれないはずなのに、なぜSさんは自己快癒力が動いたのでしょうか?



 Sさんは、子供の頃から「はたらかざる者食うべからず」と教えられていたからだと言われます。

 何をやる気にもなれない、何もできない、何をすれば良いか判らないといった地獄(Sさんの言葉)から光明のある方へと脱するきっかけは、習い覚えていた格言でした。

 ある日、突然“そうだ、こうして生きている以上、はたらかなきゃあ”と思いつき、運転の仕事を求めたそうです。

 常識的に考えれば、病状が、脅迫的なものを含む「はたらかざる者食うべからず」を受け容れるはずはないのですが、幼子の心にすんなりと入っていた格言には何か大きな力があったのでしょう。

 黙々とはたらく親たちの姿から労働の崇高さを感じとっていたという面も大きかったのではないでしょうか。

 

 寺子屋が果たしていた役割、親が子へ伝えるべきこと、読経の意義などをあらためて考えさせられました。

 読み書きの訓練、あるいは文章の暗記は理屈を理解する勉強の前に行われ、心の成熟と共に習ったものの意味や意義がだんだんに掴めるようになるという順序には、見逃せないものがあります。

 

 とにかく「押しつけてはいけない」といった方針ばかりでは、こうして習い覚える貴重な機会を失わせてしまうばかりでなく、結果的に自制心を育くむ機会を逸し、気まま心を助長し、社会生活を円滑に行うために欠かせない「郷に入らば郷に従う」といった柔軟な姿勢を身につけさせられない怖れがあります。



 仏道では「戒・定・慧」の三学(サンガク)が説かれています。

 戒めを守り、心身を落ち着かせ、智慧を磨く修行は、この順番で行わねばなりません。

 なぜなら、せっかく瞑想を行っても、乱れた日常生活のままでは心が鎮まらず、正しい智慧が導き出されるはずはないからです。

「不殺生・不偸盗・不邪淫・不妄語」といった戒律を頭にたたき込み、心身がそうした徳目に清められた状態で行ってこそ、瞑想が力を発揮します。

 もしも気に入らない相手を憎み、貶めてやろうと思いながら瞑想を行った場合、人の道を践む智慧が得られましょうか。

 仏道修行が受戒から始まるのには理由があるのです。



 当山のめざす寺子屋では、冒頭の格言などを徹底的に唱和させ、書かせ、そして疑問には丁寧に答えます。

 父祖から伝えられた宝ものを確実に伝え、残します。

 

 霊性の扉を開く珠玉の言葉は、これからも私たちを導き、救ってくれることでしょう。




2006
12.25

?お友だちが遊んでくれない時

 お母さんと一緒に来山した女の子Mちゃんからの質問です。

「Cちゃんと遊びたいのに、なかなか遊んでくれません。どうすれば良いんでしょうか?」

 Mちゃんは3歳です。お布施はミカン3個とお小遣いから出したお金です。

 さっそくもらったミカンを使って1個は普通に置き、その横にお金を置き、さらに裏返したミカンを並べました。



 Mちゃんは好きな子がいるよね。Cちゃんだよね。それをこのミカンだとしようね。(普通に置いたミカンを指す)

 嫌いな子もいるだろう?嫌なやつって思う子だよ。えっ、いない?それはすごいなあ。

 でも、あまり遊びたくない子はいるだろう。それをこのミカンだとしよう。(逆さに置いたミカンを指す)

 どっちでもなくて、あまり関心の持てない子はたくさんいるだろう?それを真ん中のお金としようね。

 さあ、これがMちゃんにとってのお友だちだ。



 ところで、Cちゃんにも同じようにこういう3種類のお友だちがいて、それはMちゃんが好きな子や、遊びたくない子や、関心の持てない子と違うのは解るよね?

 それはみんな違うのも解るよね。



 そうすると、MちゃんがCちゃんを好きなのに、CちゃんがMちゃんを好きだと思ってくれていないとしても、あたりまえだよね。

 みんな好みが違うんだから、そうなるよね。

 だから、Cちゃんが遊んでくれなくてもあたりまえなんだよ。

 決してCちゃんが悪いんじゃないのは解ったよね。



 じゃあ、どうしようね。Mちゃんが遊びたいと思っても、Cちゃんがそう思わなければどうにもならないよね。

 ここで大事なのは、遊んでくれないからってCちゃんを嫌いになってはいけないということだよ。

 Cちゃんは悪くないんだから、Mちゃんに嫌われたら可愛そうでしょう?



 好きだなと思ったら、相手がMちゃんを同じように好きでも、あるいは嫌いでも関係ないよね。

 Mちゃんを好きだと思ってくれるから好きで、そう思ってくれなきゃ嫌いだというのなら、本当にCちゃんを好きだということにはならないんじゃないかな?

 解る?ああそう、良かった。



 好きなままでいたら、こんなことが起こるかも知れないよ。

 たとえば、Cちゃんがいじめられたらどうする?

 助けてあげようと思うよね?

 思う?ああ、良かった。

 もし助けられたCちゃんがMちゃんの気持を解ったら、遊んでくれるようになるかも知れないよね。

 

 こういう風に、これから先どんなことが起こるか誰も知らないんだから、誰かを好きだと思ったら、その気持ちは大事にして行こうね。

 好きな気持は嫌いな気持と比べてどう?何となく嬉しいよね。

 相手がどうであっても、こうした嬉しい気持はきっとMちゃんを幸せにするよ。
 

 ところで、嫌なやつがいないっていうのは、本当にすごいなあ。

 いつまでもそういうMちゃんでいようね。




Comment:1  Trackback:0
2006
12.24

五力 12 ―念力 8 癒し、救うもの―

 これまで幾度となくテーマとした釈尊の説かれた真理「こは苦なり」の持つ意味をもう一度考えてみましょう。

 釈尊は、とても恵まれた環境に育ちながら、老い、病気になり、死ぬ人々の悩み苦しむさまを見て耐えられず、その苦と闘うために修行の道へ入られました。
 自分が我がままをしたいから家を出たのではなく、他人の苦を見過ごせずに何不自由ない暮らしを捨てたところが大きなポイントです。
 そして、苦は避けられず、それには原因があり、正しく生きれば原因を滅して苦を離れた世界へ入られることを悟り、その道筋を明確に説かれました。
 それが四諦と呼ばれる「苦・集・滅・道」であり、最初にあるのが冒頭の苦に関する真理です。
 
 私たちは、ともすると、「私たちの人生はままならない」「この世は思う通りにはならない」のはあたりまえではないか、そこで起こる悲喜こもごもが人生でありいつの世も変わらないではないかと考えがちです。
 そうすると、何でわざわざそんなことを勉強しなければならないのか?という疑問が湧くかも知れません。

 しかし、自分が強い苦しみに襲われた時、あたりまえと考えられる人がどれだけいるでしょう?
 身近な人が病気の痛みで苦しみ、財を失って苦しみ、何をやってもうまく行かないと苦しんでいる時、あたりまえだと考え、放っておかれましょうか?

 普段「この世は思う通りにはならない」のはあたりまえと考えているのは本当の苦に直面していない時の観念でしかなく、深い納得ではないことが解ります。
 だから、ことに当たればどうにもならないのは当然です。
 そうして人は、時には笑い、喜びながらも、他人を傷つけ、苦しめ、害しながら歴史を刻んできました。殺し、盗み、犯し、騙し、争ってきました。
 釈尊の時代と何も変わっていないかのようです。

 世の中のできごとを、自分の心と行いを、心の眼でよく観てみましょう。
 これで良いでしょうか?このままの社会、このままの自分で良いでしょうか?
 よく観れば良心の痛むもの、悲しいもの、恥ずべきもの、悲憤のわき上がるものがたくさんあり、釈尊が歩き始めた時の「このままではいられない」心が理解できるのではないでしょうか。
 苦は避けがたいものであると魂で感得すれば、あるいは親しい人の人生にも苦がぴったりと貼りついていることに深く思いをいたせば、恐ろしくなるはずです。
 何としても逃れたい、あるいは救いたいと強く念ずるはずです。

 釈尊はそこから出発されたに違いありません。
 ここに立って思いやりを深め、自分を向上させる道を歩みたいものです。それがまことの人間の道、菩薩道です。

 たった今、世界には2億人の孤児がおり、2秒に1人づつ新たに孤児となっています。
 そんな孤児たちが世界から集い交流する機会があったことをテレビで知りました。
「私はお父さんがいなくなりました」「私も同じです」
 たったこれだけの言葉を交わし合っただけで、心に明かりが差す子もいるそうです。
「苦しみ、淋しいのは自分だけではない、同じ思いの人がたくさんいる」「この苦しみ、淋しさは共有されている」
 そう知ることによって他人への思いやりが強くはたらき、それが自分をも癒すのです。
 自分を癒すものは、決して自分可愛さからは生まれません。
 他人を思いやる慈悲心こそが自他を癒し、救います。


 慈悲心を動かすために、まず、私たちが「共に苦を生きている存在」であることを真正面から観ようではありませんか。
 そして、自他共に苦を脱しようと願うならば、慈悲心を心に保って揺るがないことです。
 慈悲心が念力となって発揮される時、苦は消えることでしょう。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.24

睦月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



山茶花咲く日向の縁にねむり猫



葉牡丹の渦の数ほど齢重ね



やはらかく穏やかであれ年新た



鏡餅小さく机上にところ得て




Comment:0  Trackback:0
2006
12.23

生活と仏法 ―説法と懇話の会第7回―

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成19年1月17日(水)午後6時より午後7時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)



※お願い

 説法の終了まで、飲酒・喫煙はご遠慮ください。

 お聞きになっておられる方同士の会話はご遠慮ください。

 あるいは法を説き、あるいはご質問を受けながら消費時間をにらみつつ進めます。わざわざ足をはこばれた方々のため、不規則発言で時間をつぶさぬようお願いします。

 世のできごとを題材とする和やかな雰囲気ではあっても、「いわゆる世間話」は行いません。限られた時間内において、ご縁となられた方々全員に何かをつかんでいただけるよう、全神経を集中して法務としての説法を行いますので、ご協力をお願いします。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.23

1月の例祭

◇第一例祭



 1月7日(日) 午前10時より

 

 第一例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

 

◇第二例祭



  1月20日(土) 午後2時より

 

 第二例祭では護摩法を行ない、諸経典・真言、そして太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。

 参加は自由です。護摩の火のそばへ行き、悪しきものは智慧の炎で焼き祓い、善き願いへ守本尊様方の大きなご加護を受けられますよう。

 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



 要注意の月に当たる方(新聞『法楽かわら版』と機関誌『法楽』に掲載しています)は特に不意の災難に遭いやすく、尊きものを尊び五種供養の心を忘れず、例祭にお参りするなどして、み仏のご護をいただき無事安全な日々を送りましょう。




2006
12.23

新年開運祈祷のご案内

 1月1日より3日間、午前10時と午後2時の2回づつ護摩法を行います。



 

[:祝:]お正月の修正会(シュショウエ)は、皆々様の一代(一生)の守本尊様をご供養し、心の汚れや身体の不調や悪しき因縁を焼き清め、生き方を修正し、ご心願を成就させるための大きな御加護をいただくご祈祷です。

 新しい年を心新たに迎えましょう。



★子(ネ)年生まれの方の守本尊は千手観音(センジュカンノン)様です   

★丑・寅(ウシ・トラ)年生まれの方の守本尊は虚空蔵菩薩(コクウゾウボサツ)様です

★卯(ウ)年生まれの方の守本尊は文殊菩薩(モンジュボサツ)様です

★辰・巳(タツ・ミ)年生まれの方の守本尊は普賢菩薩(フゲンボサツ)様です

★午(ウマ)年生まれの方の守本尊は勢至菩薩(セイシボサツ)様です

★未・申(ヒツジ・サル)年生まれの方の守本尊は大日如来(ダイニチニョライ)様です

★酉(トリ)年生まれの方の守本尊は不動明王(フドウミョウオウ)様です

★戌・亥(イヌ・イ)年生まれの方の守本尊は阿弥陀如来(アミダニョライ)様です



※護摩祈祷のお詣りは自由です。燃え上がる除災招福の護摩の火へ身を近づけ、大いにご利益をお受けください。

 当山の本堂には、すべての守本尊様が安置され、日々ご供養とご祈願の秘法が行われています。ご家族おそろいで、ご自身やお身内や友人知人の方々の守本尊様へお詣りしてください。清らかで善き願いへ力強いご加護をいただき、喜びと安心に満ちた一年になりますよう。



 新しい年へ大きな希望を持ちましょう。

商売繁盛 社運隆盛 社内安全 業績順調 就職実現 交渉円満 

五穀豊饒 大漁満足 除災招福 厄除開運 心願成就 運命転化 

気力充実 転迷開悟 性格改善 悪癖解消 家内安全 家運隆盛 

夫婦円満 無病息災 方災解除 塞方解除 怪異消滅 身体健護 

当病平癒 体力増強 不眠解消 精神安定 ぼけ防止 交際円満 

良縁吉祥 安産守護 子孫繁栄 夫婦円満 安産守護 方災解除 

怪異消滅 交通安全 旅行安全 災害不到 火難守護 水難守護 

盗難守護 学業成就 試験合格 災害不到 訴訟必勝 金銀如意




※お申込みは、

〔ご住所・ご芳名・生年月日・電話番号・願いごと・ご志納金〕

をファクス・メール・ハガキなどでお送り下さい。

 ご希望の方には、ご連絡いただければ詳しい内容の書いてある申込書をお送りします。

 ご志納金はいかようでも結構です。 

 修法後、ご志納金に応じて

〔御札・大師御屠蘇・絵馬・御清め塩・大師茶・御加持米・御守・高野山線香〕

などの授与品一式をお送りします。

 絵馬は、ご心願を書き当山の六地蔵様へ祈願奉納します。



護摩木供養をお受けしております。

〔ご住所・ご芳名・生年月日・電話番号・願いごと・ご芳志金〕

をお知らせください。

〈供養料〉1本…3百円 7本…2千円 36本…1万円 108本…3万円



提灯供養の申し込みをお受けしております。

〔ご芳名〕をお知らせください。

 智慧の明かりを境内に灯してみ仏をご供養し、聖道を照らし、ご参詣の方々のお守といたしたく存じます。

〈献灯料〉1灯…3千円

 

守本尊守護旗建立の申し込みをお受けしております。

〔ご芳名〕をお知らせください。

 境内に赤い旗を立てて魔除を行い、同時に皆さんのご心願成就への大いなる勢いといたしたく存じます。

〈献旗料〉1旒…5千円





[:ニコニコ:]ご志納金は以下の講座へお願いします。

○郵便振替  02260-3-4604   大師山法楽寺

〇古川信用組合吉岡支店 普通預金 3383332 大師山法楽寺

〇七十七銀行富谷支店  普通預金 5110424 大師山法楽寺






2006
12.23

五力 11 ―念力 7 夢のお告げ―

 判断に迷った場合は、夢を通じて守本尊様のお智慧を拝借する方法があります。
 やりかたは実に単純です。
 まず、内容について自分の能力でできるかぎりの吟味をし、あとはご本尊様の真言を何度か唱えて眠るだけです。
 そうすると、夢の中か、あるいは翌日目が覚めてから何かを感じられる場合があります。それがご加護です。

 たとえばこんな例があります。
 
 Aさんは、病気が一進一退している妻と充分に高齢の域に達した父母との4人暮らしです。
 父母は二人とも大病の経験があり、今は通院していませんが、いつ健康を害しても不思議はありません。
 ある日、会社から海外出張を打診されました。
 それは勉強を兼ねているので、諾否が出世にかかわることはあまり考えられないし、これっきりというわけでもなく、再びチャンスが来ることは目に見えています。
 家族の健康についての不安と自分の勉強と、どちらを重いと考えるかの問題です。
 岐路に立ち、エイヤッとでかける気持が8割になった時、この方法でご本尊様へおうかがいを立てました。
 その夜の夢です。

 玄関のチャイムが鳴り、留守番をしていた妻が応対に出ます。
 Aさんは、シーンを空中から眺めています。
 若い女性が訪問セールスに来たのを断ると、今度は、一人でいることを知って風体の悪い男が一緒に乗り込んで来ました。きっと押し売りです。
 道路に停まった車には、もう一人、やはり柄の悪い仲間がいます。
 妻が窮地に立たされた瞬間、Aさんは現実の人間となって二人を追い払いました。

 目覚めてからも悪党どもが乗って走り去った車のナンバーがはっきりと記憶に残っていたAさんは、潔く出張を断念しました。
 自分の留守中に何が起こるかを知ったからです。
 妻は、こうした場面で恐怖や困惑を強く感じれば倒れてしまうかも知れません。

 この方法で大切なのは、混乱したり悩んだりせず、冷静に分析と価値判断をし、み仏へお任せする気持で至心に真言を唱えることです。
 心に保つ、すなわち念ずるものは「み仏へお任せする気持」だけです。
 それが清浄な念力となります。
 そうすると、不安や焦燥や恐怖にとらわれることなく安眠でき、自分の妄想ではない「お知らせ」をいただけること必定です。
 
 いざという時にこうしたご加護をいただくためには、普段の心がけが欠かせません。
 心がけとは教えを学び実践することです。
 私たちは身体を鍛えようとスポーツなどを熱心にやりますが、心を鍛えるトレーニングをする機会はあまりないように見受けられます。
 それでは、いざという時に身体が動かないのと同じく、ことに当たって心も適切にはたらいてはくれません。
 せっかく伝わっている仏法を活かしたいものです。




Comment:2  Trackback:0
2006
12.21

葬儀とまごころ

 ここ半月ほどの間に、北の町で三回お葬式を行いました。
 いかに本命星の方向とはいえ、これほど続けざまに同じ方位へ行ったのは初めてです。

 一軒目は、何でも指示して思うがままに従わせる近隣寺院のやり方に納得できず、当山が開山したての頃にご縁を結んだお宅でした。
 良きにつけ悪しきにつけ冠婚葬祭は地域住民が総出で行う土地柄なので、とても勇気のある決断だったはずです。
 故人は、早くに夫が倒れたので自分が主となって農業を続けながら子供を育て、成長して後を継いだ息子の片腕となり、そして孫の面倒を見つつ逝った「日本のお母さん」でした。
 ご家族のたっての希望によりあまり広くないご自宅での葬儀となりましたが、お別れの日はほとんど風がなく穏やかで、二張りのテントにつめかけた会葬の方々は大いに助かった様子でした。
「かけがえのない相棒を失ったような気持です」
 喪主のご挨拶には、母と子の情愛深い人生が感じられました。

 二軒目は、交通事故で亡くなった方でした。
 これまでに何度も事件や事故で犠牲者となった方々へ引導を渡してきましたが、加害者が枕経に立ち会ったのは初めての経験でした。
 暗い夜道で黒っぽい服装の被害者が道路の中央方面へよろけたらしく、避けがたい事故だったようですが、加害者は毎日病院へ見舞いました。
 そして被害者が帰らぬ人となった日、ご遺族の後で伴侶共々、導師を待ったのです。
 ご遺族も立派でした。
 ご夫婦に厳しい視線を向けることなく、喪主となった甥の方などは、むしろ傷心をいたわっておられるような雰囲気すらありました。
 み仏は、「自分も他人も等しく煩悩を抱えた哀しい存在である」ことと、「等しくみ仏の尊い子である」ことを腑に納め、「互いに慈しみ、憐れみ、許し合い、礼拝せよ」と説かれました。
 故人の保険金がおりないとお布施ができない境遇におられながらも、こうした教えを自然に実践しておられる方は、まさにみ仏の子そのものでした。

 三軒目は、年配になっても独りで生活し、重い病気と闘いながら逝った方でした。
 とても気丈で、孫たちの来訪を楽しみにし、いつもおいしい料理をたくさん作ってくれたそうです。
 お別れの言葉を述べたお孫さんは、お祖母ちゃんを誇りに思いますと言い、来春の受験にきっと合格しますと誓いました。
 これまで何のご縁もなかったお宅ですが、枕経の時から不思議にある花が心に浮かび、戒名にもそれが表れました。
 火葬場で炉へ入るのを見届けた後、長女の方が泣きながら教えてくれました。
 その花は故人の庭にあり、毎年毎年、雪が溶けて咲くのをとても楽しみにしていたそうです。
「大好きな花でしたし、本当にふさわしい戒名をいただいたと思っています」

 百か日までの法要が終わり、受験生から質問がありました。
「集中力をつけるにはどうすれば良いでしょうか?」
 呼吸法と心構えを伝えました。
 み仏とお祖母ちゃんのご加護があります。きっと合格することでしょう。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.19

【現代の偉人伝第三十一話】 ―親の背中―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                       Sさん(宮城県)



 宮城県東部の漁港近くで八百屋を開いている父親と息子がいる。

 以前、父親は癌になった肝臓を摘出しており、一旦くすんだ顔色はなかなか元に戻らないが威勢は良く、「プロ」の真骨頂を生きている。

 傍目から見ると二人はかなり仲が悪そうで、いつも気がかりだった。

 しかし、商売を切り盛りするのは親と子しかいない。



 ある時、訪ねてみたら、父親が一人でてんてこ舞いをしている。

 相変わらず冴えない顔色だ。

「今日は一人でやっているの?」と尋ねると、息子は喧嘩して出て行ったらしい。

 彼は多くを語らず、ぼそっとつけ加えた。

「年金だけではとても食べていけないから、こうやってはたらくしかないよ」



 数ヶ月後に再訪してみると、放浪の旅から戻った息子は別人のように明るくはたらいていた。

 驚いたことに、笑顔を伴った「おはよう」と「ありがとう」が勢いよく飛んでくる。

 商売人としてはあり得ない話だが、以前は彼の口からこうした言葉を聞いたことがなかったのである。

 お客さんの信頼が急上昇したことは言うまでもない。

 ああ、立派に受け継いだなあと、他人ごとながら、泣けそうになった。

 何が彼に変化をもたらしたのかは知らない。

 

 最近はお父さんの姿を見かけない。

 きっと、安心してゆっくりできるようになったのだろう。

 若人はどんどん成長する。父親の背中を見ていた彼は、商売と一緒に別な何かもちゃんとバトンタッチを受けたようである。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.17

冥界の眼 ―はがされた化けの皮―

 敬虔な信徒Sさんが、諸星大二郎著の『諸怪志異』を持って来られました。

 その一編をご紹介します。

 半世紀前までは「お天道様が見ている」「ご先祖様に恥ずかしくないように」と表現した教えです。



〔第一幕〕

 唐の長安に曹厳という役所勤めの男がいました。

 とても謹厳実直で他人に厳しく、いつも正義を口にする石頭には、家族も部下も辟易していました。

 ある同僚同士の酒席で、決して節を曲げないと力説する曹厳に、同僚がけしかけました。

「君がそれほどまで『ものに動じない』と言うのなら、化け物が出ると評判の荒れ屋敷へ一晩泊まってみたらどうかね」

 もちろん二つ返事で挑発にのった曹厳は、今すぐでかけるが、その前に用を足したいとトイレへ向かいました。



〔第二幕〕

 庭に出て小便をしている曹厳は、塀の向こうに人の気配を感じ、塀へ耳をつけます。

 泥棒かと思って静かに塀に登って様子を見ると、隣屋敷の奥さんが間男と逢い引きをしています。

 けしからんと腹がたったものの、騒げば男は逃げてしまうと考え、曹厳は結局すべてを見届けてから酒席へ戻ります。

 できごとについては何も語りません。

 そして、仲間に連れられて荒れ屋敷へ行き、一晩を過ごすことになりました。



〔第三幕〕

 横になった曹厳はまもなく異変に気づき、起き上がります。

 すると、人間の衣装をまとった小さなネズミたちが、劇を演ずるように、人間の生活を再現し始めます。

 ばかにしながら眺めていた曹厳は、やがて真っ青になります。その生活とは、他人にビシビシやる曹厳の日常そのものだったからです。

 そして、ついに逢い引きを覗いていたさっきの場面が再現され、塀の上にいる曹厳らしきネズミは、オナニーにふけります。

 衝撃と怒りに曹厳は塀を蹴倒し、ネズミは潰されて死にました。

 翌朝、曹厳は、いまいましいと思いながら、何ごともなかったかのように家路を急ぎます。



〔第四幕〕

 家では、突然崩れた塀の下敷きになって死んだ曹厳の葬式の準備に大忙しです。

 曹厳は透明人間になったかのようで、いくら声をかけても、誰も気づいてはくれません。

 かけつけた同僚は「何であんな塀に登ったんだろうなあ」「剛直だなんていっても、案外、人の知らないところでは何をしていたのか判らないぞ」などと噂話をしています。

 自分はもう冥界へ入ったのかと悄然とする曹厳の前にさっきのネズミが現われ、「冥界では、お前の所行はすべて分っているぞ」と言い残し、嘲笑と共に消えます。



〔第五幕〕

 嘲笑に重なる仲間の笑い声で我に還った曹厳の前では、まだ昨日の宴会が続いていました。

 できごとは幻だったのです。

 その後、曹厳のガミガミは少し減ったそうです。



 こうした教えに接すると、自分が娑婆で行なった「失敗への道筋」が手に取るように解ります。

 み仏はすべてを見通しておられ、時には厳しく鍛え、時には優しく助けてくださることが、今さらながらに確信できるのです。




2006
12.16

納めの不動

12月28日(木) 午前10時より

 

 今年最後のお不動様のご縁日です。

 『聖無動尊秘密陀羅尼経』など、普段あまり用いないお不動様の経典を一緒に読誦します。

 お不動様ご信仰の方は、どうぞご遠慮なくご参加ください。




2006
12.16

チベットの現実

 たくさんの善男善女が集まられ、映画『チベット チベット』の鑑賞会が終わりました。

 中国軍による国家破壊のすさまじさを物語るシーンには、想像を絶するものがありました。
 人々の心のよりどころであった寺院の僧侶たちは次々に銃座で殴り倒され、血まみれのまま手足を縛られ、一・ニ・三といったかけ声と共にトラックの荷台へ積み上げられて、どこかへ運ばれました。
 観光資源として役に立つ寺院は軍が支配し、その他の寺院は廃墟と化しました。
 侵攻後の5年間で、120万人のチベット人が虐殺などで消えました。
 中国軍人や監獄から解き放たれた犯罪者たちが続々と平和な国へ送り込まれた結果、侵攻前はいなかったチベット人の物乞いが都会に溢れ、主人公となった中国人たちは犬猫を相手にするように貧しい人々を追い払います。
 そして、こうした事実は、チベットから離れた地域に暮らす中国人たちには、ほとんど知られていません。

 いつの世も、絶対的な権力を握ろうとする者が目の敵にするのは宗教です。
 目に見える行動は恫喝で抑えられても、心の中のありようは支配できないからです。
 しかし、権力者は、それを容認できません。
 必ず、弾圧しようとします。

 西洋諸国が軍隊と聖書で世界を制覇しようとしたのと同じく、国家神道を柱にして国を強くし西洋列強に対抗しようとした日本もまた、内にあっては廃仏毀釈で伝統仏教を破壊し、侵略したアジア諸国では同化政策によって固有の文化や宗教の日本化を計りました。

 ダライ・ラマ法王は説きます。

「お互いの宗教や心を尊び合い、相手を選ばずに思いやりを施そうではないか」


 より多くの人々がこの映画を観てチベットの現実を直視し、それは決して「他人ごと」ではないことに気づいていただきたいと、心から願ってやみません。
※当山で所持しているDVDソフトは、鑑賞会の権利付です。
 当日、さっそく、新たな場所で鑑賞会を催したい旨のお申し出がありました。
 もしも、何人かお集まりの時に観賞したい場合は、ご遠慮なくご相談ください。
 




2006
12.15

【現代の偉人伝第三十話】 ―イジメに立ち上がった人々―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                       Sさん(宮城県)



 知人Tさんが、ネットを用いたイジメに遭った。

 彼はとても温厚で優しい青年であり、たくさんの人々から慕われ信頼されていると思っていたので、壇信徒さんが交通事故で大けがをしたような衝撃を受けた。

 凶悪な魔ものがすぐそばに来ているといった実感もあった。



 彼は、加害者へ対する怒りや怨みや不安によってテンションが異常に昂まったり落ち込んだりするばかりでなく、いじめられていることが思いだされなくても突然脈拍が早くなり、あるいは体温が何の前触れもなく急上昇し、ついに病院のお世話になった。

 突発的に頭が真っ白になることすらあったという。

 

 間もなく、異変に気づいた友人たちが立ち上がった。

 彼らは、誹謗中傷する人たちへ、Tさんに突きつけられ評価が不当なものであり事実に反すること。そして惨状への認識を根気強く訴えてくれた。

 やがて攻撃は止み、Tさんは復活した。

 Tさんの述懐である。

「攻撃する人よりも守ってくれる人の方が強かったので、救われました」



 損害賠償を求めないんですかと訊ねてみたら、笑顔で答えた。

「とにかく負の気持がなくなった方が良いんです。それに、今回の強い葛藤と一緒に、以前から抱えていたさまざまなこだわりなども消えてくれたので、今はもう、過去のできごとをすべて水に流して前向きに進みたいと思います」



 イジメという低劣な行為によって仲間を傷つけるのが周囲の人々なら、被害者へ手を差しのべ、問題に取り組み、傷を癒やしてくれるのもまた、身近な人々である。

 霊性が破壊されそうになる恐ろしい現場で、誰がまず勇気を持って立ち上がれば良いか、今回のできごとは雄弁に物語っている。

 

 そもそも、一昔前も、子供の世界に悪さをする者はあった。しかし、小さな悪さのほとんどは、子供同士で解決できた。

 子供の世界に自浄作用がはたらいていたのである。

 その結果、大人の世界にも健全な自浄作用が存在し得た。



「攻撃する人よりも守ってくれる人の方が強かった」を、噛みしめたい。

 時として川へ汚水が流れ込んでも、それを圧倒する清水があれば川の清らかさは守られる。

 イジメを解決する最善の方法は、案外、単純なものかも知れない。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.14

なぜ宗派があるのか?

 説法会で、伝統仏教へ批判的な方から質問がありました。
「同じ仏教なのに、どうして宗派がいろいろあって、こうしなければならない、ああしなければならないと主張し合うんですか?
 宗派にこだわらない仏教寺院はないんですか?」

 こうしたご質問はこれまでに何度もいただき、当ブログでもとりあげた歴史はありますが、大きな問題をはらんでいるので、再度書いておきます。

 以下が、答です。

 仏法は永遠なる真理を説き、真実世界の存在を感得させるものです。
 釈尊がそれを体得し、教えとして説かれたところから法の流れが始まりました。

 その後、釈尊の境地を追体験したいと願う多くの行者や聖者たちが研究と実践を重ね、何かをつかんだ偉大な人々が自分で行なって確信した方法を後代へ伝えました。
 それは、釈尊が、自分の心の問題は解決したけれども、まだ解決できずに悩み苦しみ傷つけ合っている人々を憐れとおぼしめし、生涯かけて説法の旅を続けられたのと同じ心です。
 他を救おうとぜずにはいられなかったのでしょう。

 こうして絶対の境地へ入るためのさまざまな方法が現われ、深められ、あるいはまとめられ「法統」として今日に至っており、それは、悟りという頂上を目ざして仏法という山へ登るための登山道がいろいろあるようなものです

 ここで肝心なのは、たとえ一歩でもどこかの道を登り始めない限り、決して山のすばらしさは体験できないということです。
 もちろん、どの道を選んでも頂上へ到達できるわけではありません。
 無事安全で早く登れる道もあれば、途中から峻険になっていたり行き止まりになっていたりして、迂回や出直しを余儀なくさせられる場合もありましょう。
 しかし、いずれにしても自分の足で登らないことには始まりません。

 そうすると、冒頭の「宗派にこだわらない」仏法とは、ただそうした言葉が頭に浮ぶだけであり、実体はどこにもないのが解ります。
 それは「型のない」自動車のようなものです。観念はできても、実際に乗ることはできません。

 だから、冒頭のような質問をする方にとっての仏法は、ただ眺められているだけのものであり、実践されていないのではないかと想像されます。
 山道で汗をかいている人は自分の足が道や山の存在を確認しているので、観念的な質問の出ようはずはありません。

 中には、「じゃあ、自分で登山道を発見してやろう」と考える方もありましょう。
 実際、自己流でやっている方々はおられるし、新興宗教が現われたりもします。
 しかし、愚かな一行者としては、過去2500年にもわたって偉大な先人たちが残してくださった以上に確かな方法を自分が見つけられるなどということは、想像すらできません。
 釈尊はもちろん、空を説かれた龍樹様、西洋心理学に何百年も先だって無意識の世界を解明された無着様、世親様、和の一文字に日本における仏法の道を示された聖徳太子、密教という宇宙をまとめられたお大師様。生き仏とされるダライ・ラマ法王。
 そうした偉大な先師の残された宝ものの発する光をほんの微かに浴びただけで、短い一生などは終わってしまいます。
 今の世では、ただただ、霊光のお恵みをより多くの方々と分かち合いたい、それだけです。
 そして、人類がすべて霊性そのもので生きられるようになるには56億7千万年かかるとの教えに深く深く頷き、たとえ何万回でも生まれ変わって道を究めたいと願うしかありません。

 崇高な山を前にして謙虚になれれば、きっとその方にふさわしい登山道が見つかるはずです。
 きっと、この道を歩みなさいとお示しいただけることでしょう。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.12

輪廻転生 3 ―生まれ変わり―

 新聞の報道によると、12月9日午前2時45分ころ、埼玉県川越市のマンションから中学校2年の男子生徒(14歳)が飛び降り自殺をしました。
 生徒の部屋に残っていたメモ書きなどから、バスケットボール部のレギュラーからはずれたことを苦にし、「生まれ変わって、もっとできる人間になる」ための行為だったと推測されています。

 ままならぬことが多いけれども自分を鍛える絶好のチャンスもまた多い厄年に、かんちがいから若いいのちが失われたことは、まことに残念です。
 かんちがいとは、生まれ変わりは真実ですが、なぜ、どのようにそれが行なわれるのかを知らず、願うように生まれ変われると考えたことを指します。
 二度とこうした悲劇が起こらぬよう祈りながら、み仏の教えを簡単に記しておきます。

 私たちが「丸い顔」や「温厚な性格」など、ある特定の特徴を持って生まれてくるという事実から、過去世があったことを推測できます。
 理由がなくて特徴はが生ずるはずはなく、理由は、生まれる以前、つまり過去世にしかないからです。

 さて、空想の世界とは違い、自分勝手な自由意志によって、望むように生まれ変わることはできません
 どこにどのように生まれ変わるかは、過去世における自分の人生によって定められており、それは因果応報の理に基づいています。
 自分がこの世に生まれた原因は、自分が過去世で積んだ善悪こもごもの業(ゴウ)にあります。

 ならば、来世もまた、自分がこの世で積んだ業によって定まるのであり、強くなりたいと願うからといって強い者として生まれ変わることはなく、っせいぜい、そうした願いを持った者として生まれ変わるしかありません。

 死とは、始りも終わりもない「霊妙な意識」が宿る身体を変えるだけのことで、それは更衣(コロモガエ)に似ています。
 着る衣装が冬物となり夏物となっても、自分は自分です。
 それと同じく、死んで何が変わるものでもありません。

 死に臨んだ時、誰も助けることはできません。
 釈尊は「どんなに親しい人であっても、頼りになるものではない」と説かれました。
 救いとなるものはただ一つ、自分で行なった善き行為のみです。
 
 善き行為も悪しき行為も光明にたとえられる霊妙な意識へと生みつけられ、やがて転生すれば、その意識が自分の意識としてはたらき、次の世が開けます。
 ただし、祈りの力は時空を超えるので、回向(エコウ)として善き心がどんどん手向けられれば、御霊の転生へそうした善きものの影響が出ます。
 だから、死者を思いやる人々にとって回向となる供養は欠かせません。
  
 さて、私たちは、まだ与えられた脳のわずか範囲しか使えていない不完全な人間なので、こうした目に見えない世界を日常的な思考力だけで解ろうとしても、とうてい叶うものではありません。
 釈尊を初め驚異的な能力を持って日常を超えた世界について説いた聖者の教えに謙虚に耳を傾け、考え、教えを実践する中で確認と確信を深めて行くしかありません。

 そうしたことごとは、『誕生日の例え』によって理解できます。
 私たちは、自分の力だけで自分の誕生日を知ることはできません。まだ、幼く、生まれた瞬間を認識できないからです。
 しかし誕生日は必ずあり、自分を思いやる両親を信じればこそ、その口から聞いた日を信じられます。
 いつ生まれたのかという重大事を、自分以外の人の言葉によって何の疑念もなく納得できます。

 このように、人生の大事は、拙い自分の五感六根だけではとうてい把握できず、愚かさを突破したみ仏のお慈悲とお智慧に接し、その比類ない温かさと明瞭さにうたれ、初めて納得できます。
 み仏は、「聞・思・修(モン・シ・シュウ)」つまり、聞いて、自分の頭で考え、納得できたならそれを自分の生活に反映させよと説かれました。

 二度とかんちがいによってかけがえのないいのちが失われることのないよう、願ってやみません。




2006
12.11

『功名が辻』 ―「一豊と千代」奇蹟の夫婦愛―

 NHK大河ドラマ『功名が辻』が終わりました。
 断片的にしか視聴できませんでしたが、セリフの冴えには感心させられました。
 脚本は大石静さんです。
 彼女は、かつて、歴史上の大人物とされている信長、秀吉、家康について誰が好きかと聞かれ、三人とも好きじゃありませんと答えています。
 それぞれ天才ではあっても「酷い人たち」だからというのが理由です。

 それにひきかえ明智光秀や石田三成は、「端正に生きた人々」だからと、大変お気に入りのご様子です。
 大いに頷かせられました。

 確かに、今回のドラマで描かれた徳川家康は、権謀術数の天才です。
 待ちに待った秀吉の死後は、権力構造の確立という一点を目ざし、ひれ伏す者を将棋の駒のように扱い、対立する者を容赦なく叩きつぶしました。
 小泉前首相が純朴なチルドレンたちに引導を渡した言葉「政治家は使い捨て」を思い出させられました。
 また、オランダとスペインによる地球二分割構想に始まり、ついには日本を太平洋戦争へと追い込んだ西洋諸国の世界制覇という姿勢も思い出しました。

 結果的に徳川の代は平和が保たれたからと、無条件にその成果を評価するむきもあります。
 しかし、それは、一瞬の大量虐殺によって日本が戦意を失い早く戦争が終わったからと、原爆投下を肯定するのと同じ論理であり、一面的な観方と言わざるを得ません。

 終わり近くに「一時の平和は訪れたが、いまだに戦争はなくならない」という内容のナレーションが流れました。
 それが原作者のものか大石静さんのものかは判りませんが、この視点こそが失ってはならないものです。

 美しい夫婦愛は、惨たらしい殺し合いが背景となって際だちました。
 一豊と千代の生涯は、奇跡的だからこそ今に伝えられているのでしょう。
 決して奇蹟ではなく、誰しもがああした温もりのある生涯を送られる世界にすることこそが、私たちの理想ではないでしょうか。

 そのためには、お互いが「思いやり」で生きるしかありません。
 権力欲も財欲も色欲も、人を高慢に、戦闘的に、賤しく、邪慳に、醜くする煩悩ではなく、生命力の発露たる清々しい意欲となるのは、思いやりに立つ時です。
 欲に穢れるのも、欲で輝くのも、心のありよう次第です。

 一豊と千代の生涯が羨望をもって語られることのない世の中になるよう願ってやみません。




2006
12.09

ごめんなさい、見知らぬ貴女へ

 昨日、当山をめざした貴女へ心からお詫びします。
 貴女は、水子供養について聞きたいと、当山の近くまで来てから、場所を確認する電話をくれましたね。
 でも、それっきり貴女は来られませんでした。
 おそらく、一度目の電話からしばらく後に鳴った電話は貴女からのものだったのでしょうが、もう、その時間帯は予約された方々をお相手にしていたので、急いで電話口に駆けつけたものの、間に合わず留守電になってしまいました。
 もしかすると、どうしても場所が判らず、お戻りになったのではないでしょうか?
 仙台市からわざわざおでかけになられたのに、すみませんでした。
 心よりお詫びします。

 あの時、急いで電話口で「これからは、ぜひご予約ください」と申し上げた事情を少し詳しく書いておき、ご理解いただきたいと思います。

 当山は、ご祈祷、ご供養、ご加持、人生相談、講演会と多様に渡る活動を行なっており、朝から晩まで「手の空いている」時間というものはまったくありません。
 毎日毎日、分を刻みながら法務をこなしています。
 そのためにせっかくご来山くださる方があっても、不在だったり、ご祈祷中だったりすると、当然お相手することはできません。
 また、時間に追われながら原稿やお塔婆を書いていたりするところへ突然ご来山いただいても、充分な対応はできず、失礼することになります。
 だから、ご来山される方々へは、すべて日時のお約束をしていただくようにお願いしています。

「こんな肝心なことを電話で申し込んでは失礼だ」とお考えになり、各種法要の日程などをうちあわせする際にも「ちょっとで済むから」わざわざご来山くださる方がおられますが、こうした場合も日時をお約束いただきたく、各種日程の調整なら、ご遠慮なさらず、電話やファクスでのお申し込みでも充分です。
 当山は決して敷居の高いところではありません。
 お気軽にお問い合わせください。

 ただし、人生相談については、一切、電話で行なうことはできません。
 なぜなら、皆さんの抱えておられる問題はすべて皆さんの人生をかけたことごとであり、いわゆる世間話的にお相手することはできないからです。
 必ず修法壇を調え、袈裟衣をまとい、ご本尊様と一体になる法を結んでから、直接対面にて行なっております。
 ご来山される皆さんが命がけなら、僧侶もまた、命がけで対応せねばならないのは当然です。

 ただし、救急病院ではありませんが、緊急の場合は、お電話を入れてみてください。
 何とかなるかも知れません。
 最近のできごとです。

 東京におられるお身内に命のかかった問題が発生し、危急のご祈祷依頼がありました。
 しかし、お焚きあげの予定や電話の入る予定などが詰まっており、準備して登壇する時間がありません。
 そこで、『守本尊道場』で急いでお焚きあげに入り、電話は妻に任せ、本堂はしばし不在にしました。
 そして、燃えさかる火を前にして祈りに入りました。
 もう、所定の手順を踏んだ方法では間に合いません。
 幸いにして当事者はよく存じ上げている方だったので、東京におられる当事者と一体になり、解決のために必要な心になり切りました。

 しばらくして、心を癒やそうとたまたま立ち寄られた方が火のそばへ来られました。
 法を終え、今度はそちらの方の話に耳を傾け始めました。
 その時、電話が鳴り、無事解決しましたとのご報告をいただきました。
 思わず涙が流れたのでそばにいる方はびっくりし、「これでよければハンカチをどうぞ」とご心配されましたが、あの涙はご依頼された方の涙であり、東京におられる方の涙だったのでしょう。
 




2006
12.06

キムタクの成長

 テレビのニュース番組で、木村拓哉が映画『武士の一分』で演技した感想を述べていました。

 印象に残った発言です。



「『一分』に命をかけるというつもりでやっているうちに、『一分』が命よりも大事なのではなく、そうして生きていることが大事なのだという気持になりました」



 キムタクがそこまで行ったのかと、あらためて「成長」というものを考えさせられました。

 そういえば、人気グループスマップのメンバーは、木村拓哉だけでなく、香取慎吾・稲垣吾郎・中居正広・草薙剛、全員が、それぞれ見事に芸人として独自の道を歩んでいます。

 今回の映画では、原作の力はもちろん、山田洋次という名監督が木村拓哉の持つ可能性を引き出したのでしょうが、スマップの全員が「誰かに見いだされた」ということに言いしれぬ喜びを感じます。

 また、彼らの立場は「売られる商品」であるとしても、恣意的に強調される個性などという言葉ではくくれない、それぞれの人間的な成長が見てとれるのは、年配者にとって安心であり希望の源です。

 

 すでに逝った藤沢周平、そして老練の域に達した山田洋次監督の魂と若い木村拓哉の魂に共鳴が生じたのです。何と嬉しいことでしょうか。



 ところで、仏法には「法器(ホウキ)」という言葉があり、法統は、それを受け入れられる器の人へと伝えられます。

 たとえプロになるのではないとしても、必要とする方へ必要と思われる法をお伝えすることは簡単ではありませんが、そこは魂のレベルで感得できるものです。

 求める方の身・口・意に、真意は必ず表われているからです。



 仏性が万人に備わっている以上、誰しもが「見いだされ」「成長する」可能性を持っています。

 それが実現すれば、当人にとって幸せであるばかりでなく、見いだし、見守る人にとっても嬉しいはずです。

 あちこちで仏性の花が開きますよう。




Comment:0  Trackback:0
2006
12.05

弱さを克服するには

 人生の酸いも甘いも噛み分けたHさんから、深い森の泉水のようなご質問がありました。



「弱さを克服できる道はあるのか?

 自分では良く思われようとして疲れ、相手からは容赦ない評価をされて打ちのめされてしまう。

 そうした人間関係に左右されず、心を清くまっすぐに立たせて生きるにはどうすれば良いのか?」



というものです。



 Hさんは「自分の心を動ぜず、清らかでまっすぐなものにさせたい」と望まれました。

 これこそが発心(ホッシン)です。願う心のありようは、み仏のそれに他ならないからです。

 

 発心は、事態を明らかに知ることに発します。

 Hさんは、揺れ動き頼りない自分の心をそのままに知りました。

 そして、どうにかしないではいられなくなりました。

 この気持が発心をもたらすのです。



 さて、自分と周囲は、お互いが鏡のように照らし合うものです。

 自分の心に安らぎがあれば、自然に周囲へ安らぎの気配を漂わせるようになり、それは、当然、気配を察知する人々の心を感化して、いつしか変えてゆきます。

 反対に、自分の心に棘があれば、周囲も殺伐としたものに変わることでしょう。

 

 もしも富を得て何ごとかをなし遂げたいのならば、まず施すことです。

 美しく生きたいならば、まず、耐えることです。

 こうした布施と忍辱を体得したみ仏は、何と福徳にあふれ、何と輝かしいお姿をしておられることでしょうか。

 反対に、かき集め、気ままに生きる者には賤しく高慢な気配があるものです。どう生きているかは隠しようがありません。



 ご質問へは、このようにお答えしました。



 克服には厳しさが必要です。 「自分に厳しくする」のは最も難しい心の訓練であると同時に、初めに行なって、他の善き心をつくる力をつけるものです。

 そのために隠形流居合では、毎回、稽古の前に『七言法(シチゲンホウ)』を唱和し、その決心をみ仏へ捧げています。

 以下の誓文を口に出してお唱えしていると、心のありようが必ず変わります。まっすぐに心へ届く言葉は、潜在意識を浄化するからです。

 まずは、これを実践してください。

 なお「一」は「ヒトツ」と読みます。



一  我、愚痴を言わず未来を語るは、人につけいられず、自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、好むと好まざるを語らぬは、人に束縛されず、自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、自他のものの区別をするは、人に疎んぜられず、自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、明と闇の区別をするは、人をまどわさず、自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、公と私の区別をするは、人の輪をこわさず、自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、恩をきせず恩を忘れぬは、人の道を忘れず、 自他の発展を願うがゆえなり。

一  我、権利より尊さを主張するは、人は万物の長であることを忘れず、自他の発展を願うがゆえなり。



「自他の発展を願う」すなわち、自他のために向上心を保ち続けるというところに大きなポイントがあります。

 ご精進を祈っております。




2006
12.03

師走の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



針の穴見えて見えざる暮の秋



裏窓てふ映画ありしよ蒲団干す



茫々と過ぎにし日や年惜しむ



ビンゴゲーム老も楽しき年忘れ







Comment:0  Trackback:0
2006
12.03

12月の聖悟

 色(シキ)を孕(ハラ)むものは空(クウ)なり。空を呑むものは仏なり。仏の三密は何(イズ)れの処にか遍ぜざらん。仏の慈悲は天のごとく覆い、地のごとく載(ノ)す ―弘法大師―



(この世のすべては、空に包まれている。空を体しているのはみ仏である。

 み仏の身・口・意の霊妙なおはたらきは、あまねく存在している。

 そのお慈悲は、天のように頭上にあり、また地のごとく私たちをお支えくださっている)



 色とは、現象世界、つまり、目に見え耳に聞こえる世界です。

 それは、諸条件があってかりそめに成立しているだけであり、不変の実体はありません。

 こうしたありようを空といいます。

 

 たとえば私たちの身体は今ここにあっても、明日もあるという保証はまったくありません。

 元気な若人は明日死んでも不思議はないなどということを考えてもみないでしょうが、それは錯覚です。

 もしも大きな交通事故に遭えばどんなに丈夫な人でも簡単に命をおとしてしまうではありませんか。

「これまで大事故に遭わなかった」ということも「諸条件」の一つなのです。

 よく車を運転する方ならば、一日のうちに何百台の車とすれ違っているか解らないほどです。そのうちたった一台が急にこちらの車線へ入っくれば、死は避けようがありません。何と危うい毎日でしょうか。

 一台もぶつかってこないことは、奇跡的なできごとです。

 この奇蹟は、守本尊様のご守護によります

 確実にあると思っている自分の身体でさえこんなに危うい存在ですから、猫や家や地位や名誉などの危うさ、はかなさは言うまでもありません。



 お大師様は、み仏がこのような空を「呑む」と説かれました。

 これはどういうことでしょうか?

 飲み込んだものは身体の一部になるので、空を「体している」と書きましたが、深意は「高い次元へと変質させる」でありましょう。



 私たちは米を食べ、野菜を食べ、魚を食べます。

 米も野菜も魚も、生きていたものの屍です。

 しかし、それが私たちの体内へ入り、分解され吸収されて養分となり、60兆の細胞へ行き渡るうちに屍は命を支える力へと変質します。

 そして、力は身・口・意のはたらきをもたらします。

 もはや屍は痕跡すら残ってはいません。

 こうした一連の不可思議な変貌をもたらすものは、もはやみ仏とお呼びするしかなく、そのお慈悲は世界のすみずみまで行き渡り、アリ一匹、タンポポ一本すらおかげをこうむらないものはありません

 

 この真実のレベルからすれば、「この世は空である」との認識を持つのは、新鮮で食べられる米や野菜や魚を得たようなものです。

 大切なのは、それをありがたくいただき、活き活きと生きることです。

 もちろん、腐ったものは食べ物になりませんから、空を把握することは人間らしく生きるために欠かせませんが、肝心なのはその先です。

 密教には空をどう食べればどうなれるか、つまり即身成仏(ソクシンジョウブツ)の方法が具体的に説かれており、お大師様は「仏法は遙か遠くの浄土や極楽にあるのではなく、私たち一人一人の心にある」としてそれを実践されました。

 是非善悪を誤りなく判断して行動できれば虚空蔵菩薩になれるし、人々が喜び好むものを理解できれば大日如来になれるのです。

 空や悟りをどうこう言うだけでなく、実際に「『おかげさま』を忘れず、縁の人々のためを思い、涙には共に涙し、微笑みを忘れない人間」へと成長したいものです




Comment:0  Trackback:0
2006
12.02

12月の守本尊様

 今月(12月7日から1月5日まで)の守本尊様は千手観音様です








Comment:0  Trackback:0
2006
12.02

12月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



千手観音(せん・じゅ・かん・のん)  



「オン バザラ タラマ キリク」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





Comment:0  Trackback:0
2006
12.01

12月の運勢(世間の動き)

 今月は、権勢や財物のある人々と生活苦の多い人々の格差が広がるように感じられる時期です。

 世間の表面は勢いに満ちているかに見えても一人一人の現実としてはなかなか辛いものがあり、そうしたギャップが暗雲のような不安感をもたらし始めます。



 平成十九年は格差がさらに明確化するので、自分の状況に明らかな衰運の兆しを見つけたならば、早めに対処することです。冬の赤陽が傾き始めてから夕闇がやってくるまでは、アッという間です。



 目に見えているものは、手にとって初めて自分のものとなり、力となります。いくらおいしそうな料理でも、実際に食べないことには何にもなりません。

 見えているものや聞こえているものがそのまま自分にとっての現実であると錯覚させられることなく、必要であれば一つ一つを着実に手に取ることです。



 また、真に尊いものが覆われる一方で、世間一般に信じられているものの実態が明らかになり、何が信じられるのか判らなくなる状況も生まれます。

 周囲にある力にすがろう、周囲にある知恵をうまく利用しようとするだけでは、確かな生き方はできません。

 隠形流居合では、「中に構えて左右を守る」意識を大切にします。

 右も左も不安だからといって、右を向いたり左を向いたりしていては、隙が出て防御はできません。動ぜぬものをいつも自分の中心としていればこそ、周囲に何が起ころうとも最善の対応が可能になります。

 それと同じく、自分の中心に、「他へ微笑みを向ける温かさ」を保ちたいものです。

 これがあれば、周囲に何の崩壊が起こっても、右往左往しません。



 すべてのものは「生・住・異・滅」と転変してとどまらないので、すがろうとし、利用しようとする姿勢に無理があります。

 それに対して、他へ微笑む心は何があっても変わらずに保ち続けることができます。霊性から発しているので、周囲の環境に左右されないからです。

 観音様も、お地蔵様も、それを教えてくださっているではありませんか。

 合掌し、よく拝顔してみましょう。いつしか私たちの顔からもそうした気配がにじみ出ているはずです。

 もしも、お互いがこうした心を発揮し合えるならば、この世はたちどころに極楽浄土となることでしょう。





Comment:0  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。