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2007
01.31

白馬の騎士「ウグイ」

 水産総合研究センター中央水産研究所の発表によれば、在来の淡水魚ウグイは、外来魚ブルーギルの繁殖を抑えることが判りました。
 泥にもぐっている餌を食べる習性のあるウグイは、川底に穴を掘って産み付けられたブルーギルの卵を食べるので、プールでの実験でも、明らかに卵は仔魚になれないことが確認されたのです。

 また、ウグイは鮎の成長を助けることも判りました。
 鮎は藻類を餌としていますが、それはカゲロウの幼虫などの昆虫類にとっても餌です。
 ウグイは水棲昆虫類を食べるのでウグイがいると藻が守られ、間接的に鮎の餌が確保されるのです。

 こうした因果関係には、心底、関心してしまいます。
 身の回りにある小さな存在たちの生の現実すら、人間はまだほとんど解っていません。
 智慧のなさに謙虚にならずにいられないし、自分がこうして生きていられることに、いかにたくさんの「人」や「もの」や「こと」が原因として関わってくれているかを考えると、感謝せずにもいられません。
 行者は、真実として顕れている「人」と「もの」と「こと」の全体を法界と称し、畏敬しています。




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2007
01.31

日本の歌百選 4 ―朝はどこから―

4 朝はどこから 

   作詞:森まさる 作曲:橋本國彦 昭和21年『NHKラジオ歌謡』




1 朝はどこから 来るかしら あの空越えて 雲越えて

  光の国から 来るかしら いえいえ そうではありませぬ

  それは 希望の家庭から 朝が来る来る 朝が来る

  「おはよう」「おはよう」



2 昼はどこから 来るかしら あの山越えて 野を越えて

  ねんねの里から 来るかしら いえいえ そうではありませぬ

  それは 働く家庭から 昼が来る来る 昼が来る

  「今日は」「今日は」



3 夜はどこから 来るかしら あの星越えて 月越えて

  お伽(トギ)の国から 来るかしら いえいえ そうではありませぬ

  それは 楽しい家庭から 夜が来る来る 夜が来る

  「今晩は」「今晩は」



 森まさるの歌詞は必ずしも高い評価を得てはいないが、廃墟から立ち上がった日本人にとって、「希望の家庭」「働く家庭」「楽しい家庭」こそが理想であり、価値であり、多くの人々が目指し、手に入れ得る目標だった。

 橋本國彦はウィーンへ留学するなどしたクラシック畑の作曲家で、『國民歌謠』時代も活躍していたが、戦争を鼓舞する作品を作ったことがあだになって東京音楽学校教授などの公職を辞した。

 戦争の犠牲者を慰霊する『三つの和讃』を創ってまもなく、昭和24年、44歳で亡くなった。

 芥川也寸志、團伊玖磨、黛敏郎、矢代秋雄などを育てたことでも知られる。



 戦後、娯楽のない時代にラジオから流れる歌は、自然に日本人の心へ染みこんで行った。

 とにかく生きねばならず、生かさねばならず、そうかといって良心を忘れるほどべらぼうなこともできない人々は、歌に憩い、励まされながら汗を流した。

 闇米を食べずに亡くなった裁判官は別格としても、阪神大震災に際して現代人にも明らかになった日本人の心映えは、敗戦直後といえども揺るがなかった。

 後に総理大臣になる池田勇人氏の乗っていた公用車をも略奪するほどの傍若無人ぶりだったのは占領軍であり、三国人だった。



 祖父も祖母も父も母も、近隣の人々も、「おはよう」「今日は」「今晩は」と支え合いつつ、団塊の世代を育てたのである。




2007
01.29

スピリチュアル・ブームの落とし穴 2

4 くすぐりによる欺瞞の発生

「見える」「聞こえる」を飯の種にしている人たちは「くすぐり上手」です。
 そうした心性を持っていることが特殊な能力であり、それは神仏の世界へ通じているがゆえに持っていない人たちより優れているという言い方で、自分を誇りながら、同類の人々へ巧みに優越感を与えます。
 優越感を得た人々は、それを保証してくれる人を英雄視します。
 英雄視された人は聖者の位置へと高められ、聖なる言葉は信者となった人々へ与える優越感に一層重みを加えます。
 これが今のブームの正体です。


 霊感体質や憑霊体質、あるいは霊媒体質などという言葉には特別な能力を備えている選ばれた人という特権意識が潜み、それは邪見となり、邪慳を呼び、やがては〈他人様の過去や未来について断定的に決めつけ〉たりします。
 テレビに映るこうした場面は、〈怒鳴り合う〉〈こき下ろし合う〉場面と並んで、最も醜悪なものです。

 テレビの悪影響はたちまちに広がり、当山のような田舎の寺にすら、「職場の同僚から私の前世や来世について語られるので不快ですが、やめさせられません。どうにかならないでしょうか?」という人生相談があります。

 確かに勘の優れた人はいます。しかし、それは、それだけのことです。
 辛抱強い人がいることや、正直な人がいることと同じです。
 ただし、辛抱強さや正直さなどはそれ自体で自他を不幸にしませんが、勘の鋭さには諸刃の剣のような危うさもあります。
 辛抱強さや正直さは、それだけで生きる柱になりますが、勘の鋭さは、単独では柱にはなり得ません。
 勘のおかげで危機一髪のところを助かることなどがある一方で、勘に頼ったもの言いで信頼を失ったり、勘に自惚れて山っ気を出したばっかりに失敗するという結果を招く怖れもあります。
 勘を活かすには、心構えが必要なのです。
 それは、善なる心で欲を活かすか、智慧を伴わない欲に振り回されるかで、欲の強さが幸不幸を分けるのと同じです。


 勘の良い善人はたくさんおられます。すばらしい可能性を秘めた人々もいます。
 ご加持の効果がすぐに現れる方の中には、こうした人々が少なくありません。
 ご加持にはっきりと感応し、感動のあまり、一から勉強をしたいと申し出る方々もおられます。

 それだけに、優越感という煩悩のフタを開けられたために持って生まれた長所を正しく活かせない道へ入り込むのはまことに残念です。
 フタを開ける罪深さを考えてしまいます。

5 スピリチュアル・ブームの根本的な危険性

 そもそも、あいまいな情報について断定的な態度をとり続けることは、長い人生のうちにさまざまな問題を発生させることでしょう。
 大人になっても幼児性をひきずっているからです。
 幼児は架空の世界そのものを信じますが、大人は架空の世界に表現された精神を咀嚼、昇華はしても、架空の世界そのものを信じません。
 世の中に、必ずしも咀嚼、昇華しきれない人々がおられるのは当然であり、何人も口出しできるものではありませんが、そうした人々の持つ純粋さなどを利用する者には、否と言わねばなりません。
 優しさを装いながら、実際は人々を閉鎖した世界へ住まわせ、真の魂の解放や我を超えた身・口・意のはたらきをもたらさないからです。

 他人と共有できない情報を断定的に主張する人は、「自分だけに聞こえている」という逃げ場があるので、つきつめた議論の輪へ入られません。
 最後には、「でも、自分にはこう聞こえているんだから」「でも、自分はこう思っている」と開き直ればそれまでだからです。
 こうした傾向が昂じれば、(3)のような、他人の言葉に心を開かない人間になってしまう危険性があります。

 それに、共有できない情報を断定的に主張するだけの人は、まっとうな人から根本的な信頼を得られません。なぜなら、自分を隠しているからです。
 否定され得ないものの陰に隠れている人と隠れていない人とが、裸のつきあいをできるでしょうか。

6 最後に

 釈尊は、厳しく「目覚めよ」と説かれました。
 それは、言い換えれば、「理性と感性のフィルターを通して観よ。そこを通った本ものをつかめ。あいまいなままでは安住は得られない」ということです。

 (1)のKさんは、理性と感性のフィルターを通して因果応報の理が真理であることを掴まれました。
 過去の世があって自分があり、この世の自分の人生は、必ず未来の世へ何ごとかをもたらします。
 我ではない内なる自己は確かに在りますが、それは不動の現在に常住しています。
 その確信には、決して他者を必要としません。
 中世の騎士も古代の聖者も必要ではありません。
 なぜなら、誰々と特定される他者は自分ではないからです。


 もちろん、法の世界である「法界」に入れば、行者と衆生と仏神の区別はなくなります。
 そこでは自他一如ですが、自分Aと騎士Bが時間を超えれば同一人物であるなどという分別の世界の話ではありません。
 自分Aは海に入った海水のようなものになり、時空を超えた衆生も同じになるので、A、Bといった分別はなくなります。
 Aというレベルを超えた〈永遠の自分〉に立つ時、Bと言わねばならぬものは、どこにもありはしません。
 これが、釈尊からお大師様へと伝わる仏法における〈仏性〉〈霊性〉レベルの真実です。

 家族のある人なら、自分の死後も残った家族には幸せに過ごしてもらいたいと願うことでしょう。
 あるいは、未来の日本はもっと心の豊かな国になってもらいたいと願うことでしょう。
 あるいは、せめて孫の時代になったなら、世界から戦争がなくなって欲しいと願うことでしょう。
 そうした消えぬ善願の力こそが守護霊の本体です。
 消えぬ悪しき願いが悪霊の正体です
 その確信には、江戸時代の武士も、室町時代の僧侶も引っ張り出す必要はありません。
 なぜなら、すべては私たちの心が創り出すものだからです。


 実際に守護霊のご加護を感得した人は、誰でも感謝と感激で胸がいっぱいになったはずです。あるいは心が温かくなったはずです。
 その時、感謝以外の言葉の漏れようはずはありません。
 もちろん、あなたはどなたですかなどという問いの発せられるはずもありません。
 ご加護は、「誰」と詮索する迷いなどない真実世界のできごとなのです。

 そして、子孫の守護霊となるのも、悪霊となるのも、すべては心一つにかかっています。

 もちろん、ここに記した「確信」も、皆さんと共有している科学的な情報によってもたらされたものではありません。
 しかし、釈尊が説かれ、お大師様が説かれ、Kさんが納得されたものとのまごうことなき一致が前提にあります。魂の共鳴と言っても良いでしょう。
 それは、私たちが「三角形」と言えば誰しもが同じイメージを持つことと似ています。「不殺生」が過去にも未来にも悪徳となることはあり得ないのが「解る」のと同じです。
 理性と感性のフィルターを通った真理は、万人に共通の尊い情報であろうと考えています。

 この際、何が奇妙なスピリチュアル・ブームをもたらしたのか、このブームが私たちの心と社会にいかなる影響を与えているか、よく考えてみたいものです。



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2007
01.27

あなたを忘れない

 6年前、東京都新宿区のJR新大久保駅で、ホームから転落した男性を助けようとした一人の韓国人留学生がいのちを落とした。

 その李秀賢(イ・スヒョン)さんを主人公にした日韓合作映画『あなたを忘れない』が完成し、東京都港区にある日本消防会館で試写会が行われた。

 出席した天皇皇后両陛下は、李さんの両親へお言葉をかけられた。

「立派な映画ですね。いのちを落とされてとても残念ですが、本当に立派なお子さんですね」



 両親はこれまで30回以上も事故の現場へ慰霊に訪れている。

 映画化の計画が持ち上がった当初、二人は強硬に反対したが、たくさんの手紙やメールなどで見ず知らずの人々から激励され、翻意したという。



 皇后陛下は、かつて、皇居を参観中の二人を見つけ、わざわざ車を停めて話された。

「母親の悲しみ本人にしか解りませんが、その悲しみが外に伝われば良いですね」



 こうしたことごとは、直接世界を動かすという面からすれば小さいかも知れないが、意義は計り知れないほど大きい。

 天皇陛下が花堂監督にかけられたお言葉通り、「日韓の橋渡しになってくれれば」と願う日本人と韓国人は決して少なくないはずである。



 当山がいつも布施行のたとえとして話している〈乗り物の席を譲る〉行為の極限が、ここにある。

 それは、自分が愛してもらえなければたちまち憎しみに変わる愛や、安っぽいヒューマニズムでは括れない、慈悲の実践である。

 これを菩薩行という。

 横浜に大魔神社ができるくらいなら、新大久保に李秀賢堂ができてもおかしくはない。

 多くの方々にことの大きさを知っていただきたいと願ってやまない。




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2007
01.27

本厄年の過ごし方 その3

 本厄年にもしも老苦や労苦を感じたならば、まず、思いを正しくしてください。
 老いとは生命力の減退です。それは労働や心労による生命力の減退にも通じます。
 とにかくいのちの力が弱ってままならない時は、休息を取り滋養を摂ることも当然ですが、何よりも安心や回復へつながるのは、心を正しくすることです。

 この場合の正しさとは、慳貪(ケンドン…貪り)、瞋恚(シンニ…怒り)、邪見(ジャケン…道理に反する考え)を離れることです。
 十善戒における「不慳貪」「不瞋恚」「不邪見」を実践しましょう。

1 貪りを離れるとは、決して欲をなくすことではありません。
 一つには、好みによると、使命感によると、求めざると得ないとにかかわらず、得たものがほどほどになったならまず感謝の心を持ち、一息ついて、得たことによる福徳を周囲へ振り向けることです。
 
 たとえば、おいしいものにありついたなら腹八分にしておき、家を建てるなら分相応のものを計画し、事業がうまくいったなら地域への協力や困っている人への救済を行ったりし、病気が治ったならば関わった人々への恩返しや社会への奉仕を考えれば良いのです。
 厄年に成人病を発病したり、家を建てて凶事に見舞われたり、せっかく軌道に乗った事業がつまらぬことで躓いたりするのには、こうした心構えができていないことが引き金になる場合があります。

2 怒りを離れるとは、一切怒らず、羊のようになれば良いのではありません。
 社会正義に悖るできごとについて正義感が燃え上がるのは当然であり、義憤も生じます。

 不動明王は、最高の憤怒をもって悪を滅ぼし、私たちを叱り、叱咤激励しておられます。

 たとえば赤鬼になってはなりません。
 つまらぬことでカッカするのは、人格ができていない証拠です。
 たとえば青鬼になってはなりません。
 つまらぬことでウヌッと腹が立てば、しなくても良い失敗に二度腹を立てることになったりします。
 たとえば黒鬼になってはなりません。
 つまらぬことで恨みを抱けば、自分で自分を地獄や餓鬼や畜生に堕とす危険性があります。

 黒鬼になるのは石に文字を書くようなもので、絶対に避けねばなりません。
 青鬼になるのは砂浜に文字を書くようなもので、いずれ潮が満ちれば消えますが、目に見えれば心に悪しきことが刻み込まれ、他人の目にも触れて予想もしない結果を招くかも知れません。
 赤鬼になるのは水に文字を書くようなもので、書いた先から流れてはしまいますが、何度も書くべきでない文字を書き続ければ、必ず良からぬ心が作られ、人間関係にも大きな支障をもたらしましょう。


3 道理に反する考え方を離れるとは、み仏の説かれた真理に背いた勝手な妄想を抱かないことです。
 たとえば、因果応報は時間空間を超えた真理ですが、ともすると、それを無視した自分に都合の良い考え方をする場合があります。
 自分の名前を永遠に残そうと考えたり、死ねばそれまでと自暴自棄になったりしてはなりません。
 また、「この世は、ままならない」「それには、万人共通の根本原因がある」「その原因を取り除けば、ままならぬ苦を離れられる」「そのためにこそ、人の践み行うべき道がある」という教えを無視して、世の中を自分の思い通りに操ろうとしたり、自分の不幸をすべて他人のせいにしたりするのも誤りです。

 このようにして心を創り、根本的な安心をもって、試練の時期を乗り切りましょう。



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2007
01.26

如月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。



餌づけして寒禽仲よし狭庭かな



薄雪や見慣れぬ鳥のくぐみこゑ



初晴やいのち愛しく見つむる日



隣り合ふ年明く窓に話あふ




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2007
01.26

スピリチュアル・ブームの落とし穴 1

1 真の問い

 還暦を前にして病魔に襲われたKさんが来山し、もう余分なものはすっかりそぎ落とし尽くした眼差しで問いました。
「和尚、私はもう、あと一年です。どうやって生きれば良いですか?」
 真剣勝負です。
 眼と眼を見合ったまま答えました。
「生きるとは喰って、排泄して、寝ることです。
 そうしている毎日において、やましいことがなければそれ以上のことはありません。
 釈尊は、それを『悪をなすなかれ、善を行え、自らを浄めよ』と説かれたのです」
 Kさんはつぶやきます。
「そうか………。俺はこれまでずいぶんいろんなことをやって来たけど、今は、やましいところはないな」
 大学、会社と、超一流の世界で生きてきたKさんは、死後の世界についての問答も率直に行い、解った、後はすべて任せますと言って帰られました。
 誰にとっても、いつの時代も、真に自己と向き合い、生死と向き合い、人生と向き合い、真の問いを問うとはこういうことではないでしょうか。
 あいまいなものを残したままでは、決して「解った」とはなりません。

 問答における当山の答は、すべて釈尊の教えとお大師様の教えと師からの伝授に則ったものです。
 ただし、自分の血肉になったものしか話しません。
 行者としては、自分自身をかけて確信できたものしか話せないのです。
 だから、浅学非才の未熟な行者としては、手持ちのものなどたかが知れています。
 しかし、皆さんの問いが、泉から聖水を汲み出すように皆さんにとって必要な答を引き出します。どこからかと言えば、み仏の世界からとしか言いようがありません。
 これを相手の理性と感性でつかめるように行うことが、人生相談である対機説法(タイキセッッポウ…状況に応じ、相手に応じた説法)のすべてです。

 こうした日々を送っている身としては、仙台市長の「ケヤキの精」事件に顕れている現代の危険性を看過できません。

「あいまいなものが肝心なものを覆い隠したままにする」という危うい面があるからです。
 実際、勉強会でも大いに議論になりました。
 その「危険性」に関する見解を述べておきます。

2 仙台市長の「ケヤキの精」事件

 河北新報などの報道によれば、地下鉄東西線本体工事に伴い仙台市がケヤキ50本を移植することについて、市長は、1億6千万円もの支出に関し、「市長選で示した政策目標だ。独断ではなく、議会で精査され民主主義の手続きで来まる。いろいろ議論はあるが、守る価値はある」と説明しました。
 それに続いて、昨年7月にケヤキ並木洗浄活動に参加した時の体験を紹介し、問題発言が飛びだしました。
 ケヤキの精が「市長さん、市長さん。あなたのことは子どもの時から知っています。できれば伐採しないで、どこかへ植え替えしてください」と語りかけてきたというのです。
 さらに「トトロの森にある大木と大人はコミュニケートできないが、感性豊かな子どもは語らえる。私はそれぐらい仙台の木々を愛している」と強調し、しかも、報道陣から精は費用について何か言ってましたかと質問され、真剣に答えたそうです。
「そこまで言わなかった。洗浄してくれてありがとうと言っていた」
 市長のこうした発言がいわゆるスピリチュアル・ブームに乗ったものであることは明らかです。

 この異様なブームがなぜ起こったかといえば、現代人の心が弱くなったからです。
 理解や構想や判断と、それに基づく自分の言葉に自信と責任を持てなくなった現代人は、〈あいまいさ〉の中に救いを求めています。
 八百屋へ行くことを八百屋の「方へ」行くと言ったり、店のレジ係が釣り銭を渡す際に、先に大きい「方を」お渡ししますなどと言うのも、相手へ質問しているわけでもないのに語尾を上げるのも、こうした心理の表れです。
 要は、自分の責任においてきちっとものが言えなくなっているのです。
 逃げ場を作っておきたいのです。

 こうした心理がエスカレートした結果、明らかに他人と共有している情報を基にした言葉による交流を避け、自分が持っていると主張しても、正面切って咎め立てされない情報を基にした発言をするようになりました
 普通は見えないものを自分には「見える」と言い、聞こえるはずのないものが自分には「聞こえる」と言い、より〈あり得ない〉状況を、より〈はっきりと〉自分には確かであると断言することによって、決して否定されない〈自分の世界〉の存在を主張するのです。

 そして、こうした心の傾向を持った人同士が、お互いを認め合うことによって、傷つけず傷つけられない人間関係を築こうとしています。
 そこでは、傷つくことを恐れる気持がいたわられ、尊重されます。
 空気を敏感に察知して商売にする人々も現れ、マスコミに乗った商売の繁盛は空気をさらに濃くしつつあります。
 認め合うという〈優しさ〉をまとったこのブームに真綿でくるまれるような心地良さがあることは理解できます。
 しかし、問題なのは、こうした一面的な〈優しさ〉は心の治療法の範囲でしかなく、心の健康法ではないという点にあります。
 そこにこそ、梅原発言の問題性があります。

3 治療法と健康法

 たとえば、風邪をひいた人は、医者から「なるべく身体を休めてください」と指示されるはずです。
 できるだけ安静にして回復を待つのは、病人の鉄則です。
 しかし、健康な人がなるべく身体を動かさない生活を続けていれば、きっと病気に罹りやすくなることでしょう。
 風邪を引いた人は安静の中で身体を暖めねばなりませんが、普段は乾布摩擦やジョギングなどのトレーニングが丈夫な身体をつくります。
 このように、治療法と予防法は、正反対と言えるほど違います。
 それは心の問題についても同じであり、弱まり、病んだ心の治療法と、強い心を創るための鍛錬法はまったく異なります。


 現代人の心性は、この面をもあいまいにしています。
 典型的なのが、学校へ行かなくなった生徒と、問題のない生徒に対する大人の指導法です。
 学校へ行けない生徒には「行きたくなったら行けば良いから、無理をしなこても良いよ。安心しなさい」といった指導が必要になる場合もありますが、普段は「登校は生徒の義務だよ」と強く肩を押さねばなりません。
 しかし、最初から「行きたければ行きなさい、行きたくなければ行かないのも自由だよ」と言い、登校するかどうかを決めるのは生徒自身であり、その決定権は不可侵の人権であると公言する人々すら登場しました。
 さすがに最近ではこうした主張は影が薄くなりましたが、おかしな優しさによるあいまいな指導が混乱を生むだけで役に立たないのは、口に入らない食べ物が生唾を飲み込ませるだけで決して滋養にならないのと同じです。
 治療法だけで生徒を適切に指導できるはすがありましょうか。

 さて、(2)において、「自分には聞こえる」「自分には見える」と言いたくなる姿勢が受け容れられ、癒される場合があることを指摘しました。
 受容という〈優しさ〉の持つ治療法としての有効性は否定されるべきではありません。
 しかし、誰しもがそうした心性のままで適切な行動をとれるかといえば、否です。
 お年寄りが風邪を恐れてじっとしているのは解りますが、若者がそうしていたなら、ひ弱な身体になってしまうことでしょう。

 施策に合理性・妥当性・必要性・客観性などが問われ、「議会で精査され民主主義の手続きで来まる」べき政策の最終決定権を持つ市長が、ケヤキの精から「市長さん、市長さん。あなたのことは子どもの時から知っています」と語りかけられ、「ケヤキの精がありがとうと言っていた」と真顔で報告する姿勢には、こうした面から、じつに「そぐわないもの」を感じます。
 立場の持つ影響力の大きさからも、自省を求められる事態ではないでしょうか。

「見える」「聞こえる」に走る心性が、ずっとそのままで良いよとお墨付きを与えられたようなものになるからです。
 さらには、重要な判断がこうした心性を基に行われることを推奨する危険性もあります。
 実際、当山には、「見える」「聞こえる」にはまり込んでしまい、どうにかせねばならなくなった方々やご家族からの人生相談すらあるのです。

 他から否定されない「見える」「聞こえる」をさんざん言っているうちに、心は「こう思う」「こう考える」も否定されないのがあたりまえという傾向を強め、親の言葉を聞けない子どもになってしまいました。
 恐ろしい悪影響は、すでに生じ始めているのです。




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2007
01.25

日本の歌百選 3 ―赤とんぼ―

3 赤とんぼ 

   作詞:三木露風 作曲:山田耕筰 昭和2年




1 夕焼 小焼の 赤とんぼ

  負われて見たのは いつの日か



2 山の畑の 桑の実を

  小籠に摘んだは まぼろしか



3 十五で姐やは 嫁に行き

  お里のたよりも 絶えはてた



4 夕やけ小やけの 赤とんぼ

  とまっているよ 竿の先



 5歳の三木露風は、離婚により母親と別れる。この詩は12、13歳の時の作品である。トラピスト修道院の窓から空に舞うトンボを見、かつて自分を背負ってくれた娘を思い出したという。

 再婚した母親は90歳で亡くなり、彼は添い寝して通夜を過ごす。そして2年後の12月29日、交通事故で落命する。

 

 前年の同じ日に病死した山田耕筰もまた、17歳で母親と死別している。

 すでに父親を失っていた彼は東京音楽学校への進学を希望するも、周囲から反対されたが、母親の遺言が道を開いた。

 

 子守娘はもうどこにもいない。子どもたちは立派な施設で遊ぶ。養蚕の行われない農村に桑の木もなくなった。

 しかし、柿の実がなるころ、赤とんぼは、今も舞う。

 失われた光景を紡ぐ歌詞は、原初的な感覚を呼び起こす旋律と一体になって、今も心を潤す。





2007
01.24

日本の歌百選 1 ―仰げば尊し― 

 1月14日、文化庁は「親子で歌いつごう 日本の歌百選」を発表した。
 昨年9月から11月までの間に6771通の応募があり、895曲が候補となったが、選考委員会は101曲を選んだ。
 あいうえを順に、すべての歌詞を読んでみたい。
 河合隼雄文化庁長官の望み通り「歌を通じて家族のきずなを確かめるきっかけに」なればありがたい。

仰げば尊し
  作詞:不詳 作曲:不詳 明治十七年『小学唱歌集』

1 仰げば尊し わが師の恩
  教えの庭にも はや幾年(イクトセ)
  おもえば いと疾(ト)しこの歳月(トシツキ)
  今こそわかれめ いざ さらば

2 互いに睦(ムツミ)し 日頃の恩
  別るる後にも やよ忘るな
  身を立て 名をあげ やよ 励めよ
  今こそわかれめ いざ さらば

3 朝夕なれにし まなびの窓
  蛍のともし火 積む白雪
  忘るる間(マ)ぞなき、ゆく歳月(トシツキ)。
  今こそわかれめ いざ さらば


 この歌は『尋常小学唱歌』などには掲載されておらず、忘れられた存在だった。
 昭和33年、研究のために東京芸大の図書館で調べていた山住正巳によって発見され、再び歌われるようになった。
 昭和21年生まれの筆者は12歳以後になってから耳にしているはずだが、小学生の頃から唄っていたとしか思えない。
 まだ充分には咀嚼していなくとも、「仰げば尊し わが師の恩」は自分の位置を教え、口にすると清々しいフレーズだった。
 実際、教えを受けた先生方には尊さを感じ、指導者の徳と力をも感じていた。母とも思えたK先生、人気テレビ番組の主人公ライフルマンのようにどっしりといていて頼もしいS先生、クラシック音楽などに目を開かせてくださったI先生、指導力を教えてくださったS先生、どなたも、まぎれもなく師であり聖職者だった。
「恩」を受けたのは確かである。
 今や、学校が商売になり、先生が生徒をお客さんと称し、父兄が先生より偉くなり、聖職者というものはなくなった。
 生徒が絶対的に信頼できる先生がおられ、生徒が恩に浴して先生を仰ぎ見ていた時代は去った。
 
 世に「五恩」というものがある。
 国家社会の恩、親や先祖の恩、生きとし生けるものの恩、仏法僧の恩、そして師の恩である。
 右も左もわからぬ頃に師がいないのは不幸である。
 口の利き方であれ、焚き火のつけ方であれ、何であれ、子供たちが縁になる大人たちは、ぜひ、いずれかの面で師であって欲しい。

 立身出世を勧める内容に対する反発や、教師が自分を仰ぐべしと教えるのは不自然であるといった意見もあるが、師の恩を忘れないのは正しく生きる心を創るための根幹であり、卒業式には欠かせない名曲である。
 なお、「わかれめ」は「わかれ目」ではなく、「こそ」に応じた係り結びである。意味は「別れよう」である。
2007
01.22

死の淵からの生還

 会社役員Tさんは、早朝の仕事を終え、食事前の一風呂を浴びて自室へ戻り、テレビを見ている妻の後で、こんなに気持の良い風呂は初めてだなあと思いながら身体を拭いていました。
 その時です。変に胸焼けがするので胸をトントンと叩いていたら、続いて吐き気と発汗に襲われ、とっさに、目の前にいる妻の背中へ「救急車を頼む」と言うなり倒れ込みました。
 幸いにも近くの消防署からすぐに救急車が到着しましたが、ほどなく心停止が確認されました。
 奥さんはもちろん、消防士が名前を呼び手を握ってみてくださいなどと声をかけても反応はなく、身体はどんどん冷たくなって行きます。
 三度目の発作なので、医者から「今度起こったらかなり危険なので覚悟をしておいてください」と告げられていた奥さんは、もうだめかなあと思いました。

 しかし、Tさんの意識ははっきりしており、呼びかけも全部解っていたのに身体はまったく動かず、口もきけなかったそうです。
 周囲からはもう意識すらないと思われていても、本人としては通常とまったく同じ気持だったのです。
 ただし、「救急車が走っていてサイレンが鳴らないのはおかしいなあ」としきりに思ったそうですが、このあたりでは、聴覚も鈍りかけていたのでしょう。
 病院へ到着する頃からは何も覚えておらず、医師に「Tさん、もう終わりましたよ」と呼びかけられて我に返りました。

 倒れた時に家人がそばにいたこと、救急車の到着が早かったこと、まっすぐにかかりつけの病院へ運ばれ、担当医によってすぐに処置が行われたことなどなど、奇跡に近いほど諸条件が重なっての生還でした。

 Tさんは、意識がはっきりしていたことを「不思議なものですねえ」と言い、奥さんは「考えていた通りだということが証明されました」と言います。
 いずれにしても、死の淵から奇跡的に生還したことはまちがいありません。
 また、聴覚が最後まで残るのも明らかです。

 何度も「あのまま逝けば昨日が四十九日忌でした。おかげさまでした」と言われるご夫婦を前にして、新聞記事を思い出しました。
 鳥取県米子市で、57歳の無職男性が甥を刺し殺し、二人に傷を負わせた事件です。
 時は男性の母親の四十九日忌法要の日、所は法要後に親族が揃って行った飲食店です。
 そして、事件の原因は、故人の遺産相続をめぐるトラブルでした。

 また、前回の大河ドラマも思い出しました。
 臨終間際となり口もきけない秀吉の耳元で、茶々は恨みを込めて囁きます。
「早く死になさい。
 豊臣家はこれで滅びます。
 これから秀頼に織田家再興をさせましょう」

 いずれも、死が必ず自分にも訪れることを自覚していたならば起こりえない場面ではないでしょうか。
 人一倍責任感の強いTさんの「もう、気をもまないことにしました」と笑う顔にはいかなる穢れもなく、微光すら感じました。

 釈尊は、
「死に神の来る前に善行をなせ。死に迫られれば、肉親ですらどうにもならない」
と説き、ダライ・ラマ法王は
「誰もが自分自身の業の力に促され、死後の道をたった一人で行かねばならない」
と説きました。
 密教においては
「阿字の子が 阿字の古里たちい出て またたち還る阿字の古里」
です。

 死は生の断滅ではなく、人生のすべてを背負った生の変容です。
 因果応報の理がある以上、いかなるものも無になるはずはありません。
 現に、過去は今を生きる私たちの生に厳然と在るではありませんか。
 それは、ご先祖様がおられて自分がこの世に生まれたこと一つをとってみても明らかです。
 約2ヶ月前のできごとを淡々と語るお不動様の敬虔な信者Tさんのように、悠然と「変容の時」を迎えたいものです。




2007
01.21

極楽へ行くのか地獄へ行くのか -イスラエル兵士の残すもの-

 AP通信の伝えるところによれば、イスラエルの裁判所は、亡くなってから取り出された兵士の精子を人工授精し出産することを認める判決を下しました。
 2002年にガザ地区で戦死した息子の精子を取り出すよう要請した両親に対し、病院側は死後約2時間後の採取に成功しましたが、人工授精については、配偶者でなければ認められないと拒否していました。
 しかし、兵士の両親は、独身の息子が家族を欲しがっていた事実をビデオなどで証明し、裁判所は本人の意志と認めました。
 その結果、家族に選ばれた女性が無事出産した場合、亡き息子を父親として戸籍登録するよう、内務省へ命じたのです。

 生前に採取した精子の死後利用を認める国はあっても、死後採取を認めるのは極めて珍しいのですが、イスラエルでは、兵士たちが精子を残そうとする事例が増えています。

 なお、この件については、母になりたい女性からの申し込みが、すでに40件を超えているそうです。

 さて、戦争の過酷さと子孫を残したいという願望の強さをあらためて感じさせられましたが、同時に、この世が極楽へ向かうか地獄へ向かうかの分かれ目がこうして訪れる現実に、新たな時代への心構えの大切さが身にしみる思いでした。

 もしも、兵士が「自分の亡き後も、我が子は意志を継いでイスラム勢力と戦い、きっと勝利して欲しい」と願えば、新しいいのちに宿る憎悪と敵意は、この先も戦争をもたらすことでしょう。
 
 もしも、兵士が
「自分の亡き後は、二度とこうした戦争をしないで欲しい。
 息子は父の死を克服して憎悪や敵意を離れ、互いに認め合う世界を創って欲しい」
と願えば、新しいいのちに宿る平和志向は、きっと争いのない時代を創ることでしょう。


 イスラエルの宗教者たちがどのような主張をしているのかは知りません。
 ただ、東洋の聖者ガンジーに倣って欲しいと願うのみです。
 ガンジーは、ヒンズー教のインドとイスラム教のパキスタンが戦った際にハンガーストライキを行って戦争に抗議し、自分の子どもをイスラム教徒に殺され、その報復としてイスラム教徒の子どもを殺したインド人へ説きました。
「貴方が救われる方法は、イスラム教徒の孤児を我が子として育てることです。
 しかも、その子はイスラム教徒として」




2007
01.20

【現代の偉人伝第三十三話】 -火事場からの救助-

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 1月19日付の河北新報によると、18年12月23日、塩釜市新浜町で火事が発生して民家2軒が消失した際、1人の青年が燃えさかる家から住人を救助し、16日、塩釜消防署は感謝状を贈って表彰した。



 仙台市青葉区在住の内装業向井敦美さん(24歳)は、現場付近で作業中だったが、火元となった家から脱出した86歳の女性に「家の中に孫が残っている。助けて欲しい」と頼まれ、すでに居間が炎に包まれている家へ飛び込んだ。

 そして、寝たきりの男性(36歳)を抱きかかえ、救出した。

 その直後、建物の外にあったポリタンクに引火し、火は瞬く間に隣家へ燃え移った。

 救出された男性のズボンにはすでに火がついており、文字通り間一髪のところだった。



 一緒に作業をしていた仙台市宮城野区在住の建築会社経営小野義夫さん(56歳)も逃げた女性を保護し、消防署へ連絡をするなどして協力し、表彰を受けた。

 女性とお孫さんは火傷を負ってまだ入院中だが、順調に快方へ向かっているという。



 おそらく女性は半狂乱だったのではなかろうか。

 どんな気持で孫を置いて逃げたのか。いかに、孫を助けて欲しいと願ったか。とても、察しきれるものではない。

 もしも孫が犠牲になっていたなら、女性はどうして生きて行けただろうか。



 向井さんの話である。

「室内はかなり燃え広がっていて怖かったが、とにかく助けたいという一心だった」

 小野さんの話である。

「とにかく命が無事でほっとしている」



 こうした行動は、3つのものがあって可能となる。

 1つは慈悲心である。

 他人のことだからと放っておけぬ思いやりである。

 もう1つは決断である。

 現場の2人にどういう会話があったのか、あるいはなかったのかは判らない。しかし、決断はあくまでも行動した向井さんにあった。

 彼は、とっさの決断、しかも、自他のいのちがかかった適切な決断ができた。

 そしてもう1つは、身体能力である。

 女性はどうしても救助できなかった。いかに「火事場のバカ力」とはいえ、動けぬ中年男性を1人で移動するのは体力的に無理である。

 しかし、彼には作業で鍛えた強靱な身体があった。



 極限状態では、否応なく生き様が明らかになる。

 市井のお2人に心から合掌したい。




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2007
01.18

本厄年の過ごし方 その2

 本厄年の守本尊は千手観音様です。
 過去世のありさまを知る智慧をもって私たちをお救いくださるこの時期は、「歴史に学び、ご先祖様に学び、目上に学ぶ」ことと、「自らの因縁を知る」ことが困難克服のための大きな力となります。
 
 大切なのは、学んだものを活かして目下や困っている人々のために施すことです。
 また、因縁を知ると言っても、占い師などに「貴方は誰々の生まれ変わりです」などと告げてもらうのではなく、自分の生まれ持った性向と、これまで生きてきた歴史とをよく省みねばなりません。

 人は必ず過去を背負って生まれて来ます。
 心に溜まった生前の歴史をアラヤ識(西洋心理学の深層意識に近い)といい、これは過去の事実なので動かせません。
「きかん坊」として生まれたならば、その傾向は一生、心のどこかに保たれます。
 
 ただし、生き方が必ずしもそれに引きずられるとは限りません。
 なぜならば、この世で生きた歴史であるマナ識(西洋心理学の潜在意識に近い)がどんどん溜まって「ものごとに反応する習慣」を創り、人生を重ねれば重ねるほど、アラヤ識は主役の座から遠ざかるからです。
 たとえば、「きかん坊」が小さい頃に友だちを傷つけてしまい、深く後悔して暴れるのをやめ、むしろ暴力をふるう友だちを止める人になるようなものです。
 こうなると、幼い頃の姿はどこかへ行ってしまったようですが、性向が消えたわけではありません。
 それは暴力を止める勇気となって昇華され、表面に出なくとも確かに心を支えているのです。

 こうした真理をふまえれば、私たちがいかに生きるべきかは自ずから明らかになります。

1 生まれ持ったアラヤ識は動かしようがなく、しっかり見つめ、宝ものとして尊ぶこと。これは、親やご先祖様への感謝にもなります。この世へ生まれ出たことは文字通り「有り難く」、ありがたいのです。

2 表面の意識(自分という感覚を持った、いわゆる「意識」)で悪を避け、善を選び取り、そうして生きることによってマナ識へ善きもの・良きもの・佳きものをたくさん蓄えること。


 これが、み仏のいのちの世界からこの世へ人生修行に来た私たち旅人の尊い宿命です。
 
 百年足らずの旅が終われば、積み重ねることをやめたマナ識はアラヤ識へ融けこんで、転生の時を待ちます。
 原因には必ず結果が伴うはずであり、できあがったアラヤ識は、いつの日か「誰かの生まれ持ったもの」として日の目を見るに違いありません。
 悪しき性向をたくさん持った人間となるか、善き性向をたくさん持った人間となるかは、私たちがこの一瞬をどう生きるかにかかっています。
 それは、自分の来世を決めるだけでなく、未来の日本がどうなるか、未来のこの世がどうなるかを決めることです。
「現在がかけがえのない一瞬である」とは、こういうことなのです。

 [:ニコニコ:]昨夜の勉強会で厄年についてのさわりをお話したところ、「聞いたことがありません」「そうだったのか」と驚かれました。
 ここに記していることごとには、伝授されたものもあり、自ら学んだものもあり、そして、人生相談やご祈祷やご供養に訪れる善男善女と苦楽を共にしながら感じとったものもあります。

 だから、市販されている本に書いていないのは当然です。
 内容が学術的にどうなのかは知りません。
 一行者が信じるに至った人生の真実を記し、読んだ結果、役に立つと思ったどなたかためになれば良いだけのことです。



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2007
01.17

本厄年の過ごし方 その1

 本厄年の特徴は、水の性の影響を強く受けるということです。
 
 それは、まず第一に「水の中を歩く」といった感じになって表れます。
〝あれ、どうも順調に進めないなあ〟と思ったら、プールに入っていると考えてください。

 水中では普通に歩いているよりも抵抗があって当然ですね。
 だから、今年はこんなものだと考えて準備は早めに調え、所要時間は長めに計画し、ゆとりをもってことに臨むことです。
 今は、わざわざプールで身体を鍛える時代です。段取りをきちんとする習慣をつけ、足腰を鍛える時期であることを理解して進みましょう。

 また、「棒を水へ入れた時のように曲がって見られる」場合があります。
 自分ではいつも通りなのに周囲の雰囲気が何か違うなあと感じたら、この作用のせいです。

 こんな時は、ムキなって「自分はこうです!」と主張するよりも、むしろ他のためになることを黙って行い、徳を積むことです。
 そうすれば、善行の功徳が自分を向上させ、やがて大きな花を開かせる時が来ることでしょう。

 あるいは、「水に浮いているように頼りなげに見られる」場合もあります。
 こういう場合は、目上から信頼を受けようとがんばるよりも、目上への尊敬を忘れず、目下へ思いやりをもって接し導くことです。
 そうした地道な努力がいつしか信頼を勝ち得て、本当の力が発揮できる場面を招来することでしょう。

 さて、水は交友の象徴であり、男女の交わりの象徴でもあります。
 自分が鍛えられる時期には、同じように何かと闘っている人との縁がつきやすくなります。
 あるいは、無理解な人々の多い中で、自分の困難をまっすぐに理解してくれる人が見つかる場合もあります。
 それが同性であれば親友となり、異性であれば仲睦まじい夫婦となるものです。
 なぜなら、威勢が良い状況では、人間そのものよりも勢いが人を引きつける場合が多く、耐えている場合の人間関係では、人間そのものを問われる場合が多くなるからです。
 いつの時代も権勢を誇る人の周囲へは人だかりができ、没落した人の周囲は寂しいものです。
 しかし、困難な時期にこそ人は裸になり、魂の響き合う「生涯の友」や「おしどり夫婦」が生まれます。

 厄年だから手を組んではいけない、あるいは、結婚してはいけないなどという怖れを持たず、お互いをしっかり見つめ合って“この人なら”という確信を得たならば、かけがえのないチャンスを逃さないようにしたいものです。

 ただし、情に流されてはなりません。
 泳げない人は溺れている人を救えません。
 自分の分をわきまえ、陰徳積善に励み、なすべきことに邁進するのみです。
 そうすれば、やがて訪れる飛び立ちの時期には、大きな飛躍を可能にする足場と足腰ができていることに気づくことでしょう。



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2007
01.16

前厄年の過ごし方 その4

 前厄年に強い障りが生じた場合は、戦死者や争いごとで亡くなった方の思いが影響している場合があります。
 決してお祓いや除霊などではなく、真心と法力によるご供養をもって慰め申し上げ、無事安全に過ごしましょう。

 自衛隊員のイラク派兵に際して、移動中に道ばたで苦しんでいるような人を見かけても無視して通過するといった訓練が行われました。
 人が人であるための布施行も、智慧行も通用しません。心優しい日本の若者たちは、慈悲心を抑えることによってしか我が身を守り得ない修羅場へ送られたのです。
 何と恐ろしいことでしょうか。
 人が死のうが死ぬまいが、戦争は修羅の極であり、戦地は霊性を破壊する地獄です。
 私たちは想像力を豊かにして戦争の恐ろしさを考えねばなりません。
 その想像力が欠如すれば、人間性を豊かにする創造の場は失われるます。

 こうした地獄で亡くなった方々のすがる思いを脇へ取り除いて自分だけ安心を得ようとすることは、人として許されません。
 心からご供養し、回向としましょう。

 以上のポイントに学び、守本尊である勢至菩薩様と英霊をご供養し、無事安全に前厄を通過されるよう願っています。



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2007
01.16

前厄年の過ごし方 その3

 前厄年に「求めてもなかなか得られない」時は、心にある欲そのものをチェックせねばなりません。  本当に必要なのか、分を超えた貪りになってはいないか、勝手な高望みではないか、よくよく省みる必要があります。
 欲の宿命は、自己完結ができないことです。
 欲は得ようとする意志ですが、欲自体は、得ることによってなくなりはしません。
 コッペパンを一つ得れば次はあんパンが欲しくなり、やがてはサンドウィッチでないと満足できなくなります。
 テレビで、家族の人数にはそぐわぬほどベッドルームがたくさんある豪邸などを紹介している場面がありますが、誇らしげに公開する所有者や、媚びへつらうレポーターには辟易させられます。
 ああした番組が視聴率を稼いでいる日本とは、いかにおめでたく、堕落した国なのかと肩が下がってしまいます。
 しかし、人間がかくも滑稽で哀しく、しかし愛おしい存在であるのは、古今東西変わらないのでしょう。

 争いは、得ようとして得られないところに発します。
 飢饉などで食料難にあえぐ人々はお気の毒という言葉も無意味な悲惨さの中にあります。
 そうした貧しさが争いを生むのは悲しいことですが、裕福な国や巨大化した資本が、「もっともっと」と醜い爪を伸ばし簒奪をし続ける亡者となり、国際紛争や戦争をもたらしているのが現実です。
 我を一番とする我欲によってもたらされる争いや戦争は、一時の満足によっては解決できません。  真の安寧や平和のためには、我欲がもたらす悪しき個人主義や目的を見失った拝金主義などと次元の違う原理が必要です。
 人間を奴隷にする我欲に振り回されている姿は、ちょうど、麻薬の常習者のようなものです。
 私たちは、あたかもすべての人々に必要な清浄な空気であるかのように思わされている「~主義」たちを、正気になって見直すところから始めねばなりません。

 肝心でないものを捨て去って根本的なものごとに集中すれば、叶います。
 それは、人生における根本とは、畢竟、精神的価値の問題であり、世間的な尺度を超えているからです。
 一本の指にはめた大きな指輪だけでは足りなくて、指いっぱいに着けた宝石を見せびらかす心の貧しい人もいれば、古びたアパートに住みながら、あるいは身体に不自由を抱えながらご本尊様への定期的なお布施を欠かさない心豊かな方々もおられます。
 分を超えて欲しがる欲が醜いものならば、見せびらかして己を高いとする欲もまた醜いものです。
 真の安心は、自分にある仏性に住むことによってもたらされるものであり、そこに世間的尺度が関与する余地はありません。
「生き抜くこと」も「生かすこと」も容易ではありませんが、世間的な尺度をもって「多い」「少ない」「ある」「ない」と一喜一憂せぬ心のおさまりを核とした生き方をしつつ、世間の荒波を乗り越えたいものです。



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2007
01.16

前厄年の過ごし方 その2

 前厄年の守本尊は、勢至菩薩様です。
 勢至菩薩様は、人の性根を見分けるお力で、私たちをお導きくださいます。
 この年回りの方は、自分をごまかさずに見つめて善行に励み、悪しき性向や習慣などは思い切って断ち切るべきです。
 「わかっちゃしるけど止められない」と喫煙や深酒にはまりこんだままではなりません。
 さもないと、善行が日の目を見ず、旧悪の露呈によって驚き、悪しき習慣によって心身が傷つくことになりましょう。

 自分を冷静に見つめて買いかぶらず、尊大にならず、成功は八分で良しとする謙虚さが必要です。
 調子が出たぞとばかり浮ついたり、他人を押しのけようとしたり、高望みしたり、独断専行したりすると、大吉がたちまち大凶に暗転します。
 つまらぬプライドは争いをもたらし、人を結びつける縁を遠ざけます。
 礼節を大切にして大吉の面を持続させたいものです。

 また、接する相手の性根もよく見分けることです。
 真心から意見をし、忠告をしてくださる方を煙たいと感じたり、敵意があると勘違いしたり、面倒だからと避けたりしてはなりません。
 おもしろいからと悪友といつまでもつきあっていては、落とし穴が見抜けません。



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2007
01.16

前厄年の過ごし方 その1

 ホームページをご覧になられた方々から、厄年についてのご質問が相次ぎました。
 皆さんからご志納金をいただけるのはまことにありがたいのですが、残念ながら1日は24時間しかなく、対応し切れません。
 ついては、個別・固有のご質問はあくまでも日時をお約束の上ご来山されての「人生相談」としていただきたく、ここに教えを明記して、善男善女のご誠心にお応えすることにしました。
 参考になれば幸いです。
 なお、内容には正統な伝授によるものも含まれており、無断転用などはご遠慮ください。

 まず、一生を通して波うつ運勢のリズムについて記します。
 
 大きく分けて「大吉」の年が3年、「中吉」または「末吉」の年が3年、そして「大凶」の年が3年あり、9年で運勢は一回りし、生きている限りこのリズムをくり返します。
 つまり、人生の3分の1は追い風が吹き、3分の1はさまざまな風の中にあり、3分の1は向かい風です。
 追い風の3年は楽に歩を進める時期、不確定な風の3年は的確な対応が求められる時期、向かい風の3年は足腰を鍛える時期です。
 365日昼夜を見守り、一刻の休みなく八方天地を守っておられるみ仏は、いずれの運気にあってもさまざまな徳をもって私たちを導き、護ってくださいます。
 決して見捨てることはありません。

 
 さて、今回は、前厄の年について述べましょう。

 この年回りは、厄年なのに大吉です。本厄も後厄も大凶なのに、なぜでしょうか。
 それは、9年間で最も「火」の徳をいただく時期だからです。
 火は、ものの姿をはっきりと見せる明かりであり、智慧の象徴です。それは灯明の徳です。
 つまり、この一年が最も明智の発揮されやすい時期なので大吉とされるのです。
 
 ただし、悪行を積んでいる人は智慧の徳が業によって覆われ、浅知恵による契約の失敗や、世間との軋轢、あるいは他人との衝突などによる凶事を招きやすくなります。

 また、火は、燃やすはたらきを持っており、不動明王のまとう智慧の火炎は、煩悩や悪業を燃やし尽くしてくださいます。
 この年は、悪しきものを滅ぼし、過去の業を浄める力を大きく発揮しやすいので、その面からも大吉となります。
 
 ただし、不精進の人には、火難や煩悩の火によるやけどなどの凶事が待っているとされています。

 そして、火は燃え移る習性がある一方で、燃えるものが近くになければ消えてしまいます。
 つまり、「付く」「離れる」といった動きが出るのもこの時期です。
 良き人間関係ならば結びつきを固め、腐れ縁などはきれいさっぱり解き放つチャンスです。
 だから、「悪を断ち善を修める明運」の年とされます。
 まっとうに額に汗している人々は、「明らかになる」というはたらきによって、人知れず積んでいた徳行が認められて努力が日の目を見ます。
 
 ただし、「ばれなければ構わないから」と陰で悪業を重ねている人にとっては、そうしたものが露呈されるので大変です。
 「なぜ隠していたのにこうなったのだろうか」という状況に落とされる面が、厄年とされるゆえんです。
 だから、この年回りの方の最も大切な注意点は、「処理しておくべき問題(特に、改めたい、これではいけない、もうやめようと考えているものごと)は、早めにきちんと手を打つ」ことです。

 また、親しい人との別れ、争いによる離反なども「離れる」という力の現れです。



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2007
01.14

春祭厄除千枚護摩供養会

 1日には24時間のリズムがあり、1カ月には30日のリズムがあり、1年には四季のリズムがあるように、人間の一生にも9年を周期として寄せては返す波のようなリズムがあり、厄年などはすべてこの理によって決まっています。

 人間の一年の運勢(リズム)は、立春から変わります。

 運勢を知るのは道しるべを見るようなもので、走行中「制限時速100km」とあれば安心してスピードを出せるし、「この先突風」とあればより気をつけて運転し事故を防ぐことができるのと同じく、運勢に合った生き方をすれば、難を逃れ、福を招くことができます。

 一年一年と、その歳にご縁となる守本尊様も変わりますので、吉凶それぞれにお守りくださる守本尊様をご供養され、運勢に応じた御加護を受けられてはいかがでしょうか。

 運気の強い方は、追い風をいただいてより早く善願が成就されますよう、運気の弱い方は、魔を祓って無事安全に過ごし、善願を成就されますよう、当山では、立春を迎えるに際し、千枚の護摩を焚いて守本尊様をご供養し、御加護をいただいています。

 また、お申し込みの方へは、総本山開悟峯寺の星供養における守護札もお送りします。

『千』という数字は、仏教においては無限を意味します。

 無限のまごころを捧げて守本尊様をご供養し、自分の努力と周囲の縁の力に加えてみ仏のご加護もいただき、万全を期されますよう、ご案内申し上げます。



[日  時]

  平成19年2月4日(日)午前10時より厳修

    

[ご志納金]

  数え年19歳以上の方………………5千円

  数え年10歳から18歳までの方……3千円

  数え年9歳までの方…………………2千円

  (総本山の星祭ご志納金に準じております)



[お申し込み]

  ご芳名・ご住所・生年月日をお知らせください。

  ハガキ・ファクス・メールなど、何でも結構です。

  ご祈祷札・御守などをお送りいたします。



[:ニコニコ:]「厄年だから凶事が起こる」「厄年だから新しいことをしてはいけない」ということはありません。

 心構えができていないと、せっかく強くなれるチャンスなのに活かせず、試練に耐えられないだけのことです。

「大吉だから何をしてもうまく行く」「厄年が過ぎたから、さあ走ろう」というのもいかがなものでしょうか。

 心構えができていないと、せっかく伸びられるちゃんすなのに活かせず、自分から転んでしまう危険性があります。

 守り本尊様は、厄年には鍛え、大吉の年には追い風をもって私たちを成長させてくださいます。

 大切なのは、そうした運気に応じた智慧ある生き方をし、それぞれの年のリズムを活かすことです。

 厄年の結婚も、開業もただただ不安に思う必要はありません。

 厄年に出会った男女は、とても睦まじい夫婦になる場合すらあります。

[:楽しい:]恐れず、舞い上がらず、運気を活かすみ仏の教えに学び、ご守護を受け、かけがえのない一年を大切に生きてください。

 

[年齢と、一年間を守ってくださる守本尊様]



地蔵菩薩様  ●● 八方塞がり・天地通開

  精進者は、身分・実力に応じた幸いあり。尊きものを大切に。

  不精進者は、迷い、天災・方災を受けやすい。

 1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100歳の方



阿弥陀如来様 ○● 種蒔きと改運・積徳開運

  精進者は、目上の引き立て・天運あり。

  不精進者は、ただ忙しく、金銭の損失・目上との争い・事故多い。 

 2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101歳の方



不動明王様  ●○ 歓喜と散財・質素倹約

  精進者は、楽しく悦びごと多い。

  足るを知らぬ不精進者は、口舌の災い・異性難・飲食の難・水難多い。

 3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102歳の方



虚空蔵菩薩様 ○● 運命変化・非運打開

  精進者は、障害の打破・公私共の幸いあり。

  不精進者は、仕事や家族や親族の難・手足関節などの病気多い。 

 4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103歳の方



勢至菩薩様  ○○ 前厄・明運・虚実明鏡

  精進者は、悪を断ち、陰徳積善が認められ身分の向上あり。

  不精進者は、旧悪露呈・離別・火難・公難多い。  

 5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104歳の方



千手観音様  ●● 本厄・外穏内乱

  精進者は、内に喜びあり。

  不精進者は、万事悩み多く、目下の問題・異性難・水難・病難・盗難・誤解多い。  

 6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105歳の方



大日如来様  ●● 後厄・一陽来復

  精進者は、進展遅くとも後に収穫あり。

  不精進者は、古物・偽物・不動産・母方に関する問題発生しやすい。 

 7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106歳の方



文殊菩薩様  ○○ 仮縁多く声運・善悪虚縁

  精進者は、新展開あり、魚が水を得るが如し。

  不精進者は、声あれど成就せず、雑音・中傷・突発事故あり。  

 8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107歳の方



普賢菩薩様  ○○ 良縁多く盛運・良縁来福

  忍耐ある精進者は、万事花開き、声望・吉事・成就あり。

  不精進者は、信用失墜・生霊の妨害・破れあり。  

 9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108歳の方




2007
01.13

不思議な人間

 米国カリフォルニア大学などで作る研究チームが、地球から最も近い球状星団の一つ「NGC6397」の背後にある別な星団を研究していて、それが最も遠い球状星団群であることをつきとめました。
「NGC6397」と地球との距離は8500光年、発見されたものとの距離は10億光年以上もあるというから驚きです。
 驚くといっても、月光を浴びている銀世界の神々しさに打たれた時のような、現象世界と自分が全面的に通じてしまうといった強烈な感覚によるのではなく、むしろ、感覚がついて行けない「途方もなさ」に圧倒されてしまうのです。

 光が曲がるとか、空間が歪むなどという説にも、理としては解るように思えても感覚的には追いつかない面を感じてしまいますが、いずれにしても、私たちは、目に見え、耳に聞こえる世界のほんの一部しか知ってはいません。
 この先も、地球の寿命が尽きるまでの間に人知が現象世界を把握し尽くすことは不可能なのではないでしょうか。

 その点、2500年前に釈尊の説かれた「無益な殺生は罪悪である」といった命題が、1億年後には「無益な殺生は善行である」などとひっくり返ることは考えられません。
 それは、私たちの魂の核である「み仏の心」が時間・空間や自他の別を超えており、命題が、「み仏の心」の教える真理だからではないでしょうか。
 もちろん、森の精を崇める心が森林を慈しみ育てるなど、時代により、場所により、民族により、真理はさまざまな姿をとります。
 真理は、真理であると直観する人や人々にとって真理なのであり、千差万別なのは当然です。
 しかし、どのような姿で現れても、真理であるならば万人に通じるものを持っているはずであり、そこに、国や人種を超え、あるいは時代を超えた真理への共感・共鳴が成り立ち、真理をふまえた対話も可能になります。

 世界の一部しか知らないのに不変の真理を知っている人間は何と不思議な存在でしょうか。




2007
01.12

十善戒・五戒

 十善戒について書いたところ、五戒との関係についての質問がありました。
 簡単に記しておきます。

『十善戒』
1 不殺生・不偸盗・不邪淫……………身体[身(シン)]のはたらきについての戒め
2 不妄語・不綺語・不悪口・不両舌…言葉[口(ク)]のはたらきについての戒め
3 不慳貪・不瞋恚・不邪見……………心[意(イ)]のはたらきについての戒め

 身・口・意(シン・ク・イ)が煩悩で汚れていると三業(ゴウ)となり、愛憎こもごもに乱れる生き方を招きます。
 身・口・意が汚れを落とし、み仏と一体になれば三密となり、安心で活き活きとした生き方になります。
 密教は、三業を三密にする具体的な方法を説くものです。

『五戒』
1はそのまま不殺生・不偸盗・不邪淫の三つになります。
2は不妄語にまとめられます。
3は不邪見にまとめられます。
 
 以上で5つになりますが、これは密教の伝授によるものであり、密教以外では、2にある不妄語が4番目になり、5番目は不飲酒(フオンジュ)となります。
 それは、深酒が不綺語以下の戒めを守らせないからです。
 酔ったばかりに悪口を言いつのったり、ケンカになったり、バカな考えに走ったりするのは日常的な光景です。

 さて、平成19年は日中平和友好条約が結ばれてから35周年になりますが、条約の根幹である『平和五原則』が『五戒』の国家的遵守であることはあまり気づかれていません。

1 主権及び領土保全の相互尊重…他国を破壊しない。不殺生です。
2 相互不可侵………………………他国を侵さない。不偸盗です。
3 内政に対する相互不干渉………邪な干渉をしない。不邪淫です。
4 平等及び互恵……………………欺かず誠をもって接する。不妄語です。
5 平和共存…………………………道に背く考えを起こさない。不邪見です。

 個人的にも社会的にも、『十善戒』や『五戒』を活かしましょう。




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2007
01.11

受精卵の売買

 アメリカテキサス州にある『アブラハム・センター・オブ・ライフ』社は、人間の受精卵を1つ2500ドル(約29万円)で販売し始めました。
 アメリカの産婦人科医院では、精子バンクや卵子バンクから選んだものを用いる人工授精が普通に行われており、そこでは、人種や学歴が選択基準になっています。
 今回の商売がこれまでと決定的に異なるのは、精子と卵子の両方が選択の対象となり、両親とまったく血縁のない子供が生まれることです。

 血縁のない親子ができることに倫理的問題を感じないかと問われた同社の社長は、「養子縁組だってあるし、子供が欲しいと思っても手に入らない人たちにとても喜んでもらえるのだから問題はありません」と答えています。

 ここには、欲しいものは何でも手に入れたい、ないものは与えられる権利がある、欲しいものを提供して利益を得るのは当然という欲望肯定の思想があり、“これ以上欲するはまずいのではないか”“ここから先は宿命に身を任せねばならない”などの、欲望や論理を超えた自主的な制御装置はまったくはたらいていません。
 畏怖という宗教の泉は枯れ果て、道徳は根拠を失っています。
 欲している人へ与える行為は一見、慈悲心の発露のような形をしていますが、内実は、畏れを知らぬ商売人の我欲でしかありません。

 優秀で裕福な人間の精子と卵子を組み合わせれば、この世が優秀で裕福な人間だらけになるなどということがあり得ましょうか?
 与えられた脳細胞の3割も使えていない未完成な人間が、〈いかに生まれて来るか〉という霊妙な世界を欲に合わせて都合良くコントロールできるなどということがあり得ましょうか?
 釈尊の時代と同じく無明を抱えたままの愚かしい人間に〈許される限度〉というものはないのでしょうか?

 考えるヒントを少々集めてみました。

 かつて、アインシュタインは「貴男の精子とマリリンモンローの卵子を組み合わせたら、きっと素敵な女性が生まれるでしょうね?」と問われ、「僕の身体と彼女の脳を受け継いだ子供が生まれたらどうなるんだろうね」と答えました。

 賢い少年福沢諭吉が、村人の尊ぶ祠を開けてご神体を暴いたら一個の石だったので、それを取り除き別な石ころを入れておいたところ、そんなことを知らない村人たちはこれまで通り拝み続けました。
 進歩的な諭吉は物陰で笑っていたそうです。
 一方、少年柳田国男は、亡き祖母が生前いつも手にしていた蝋石が祀られている祠の前でそれを見ていたら、白昼の空一面に星がまたたき、別世界へ入ったような気持になりました。鋭い鳥の鳴き声を聞き、危うく我に返ったそうです。

 壮大な渡りを行う雁は、強い鳥だけで隊列を組むことはなく、必ず飛行力の劣った弱い鳥たちも含め全員でV字を作ります。

 アリの一族には必ずぐうたらな一群がおり、それを排除すると、一族は秩序ある行動をとれません。

 異様なまでに清潔好きな日本人の都、東京の小学校で、戦後猛威をふるったシラミが再発生しています。
 かつて、オーソン・ウェルズは、ばい菌を撲滅した未来の地球人が他の天体から飛来した細菌によって滅びようとするさまを描きました。

 藤沢周平作品に登場する下級武士たちの喜びや哀しみが私たちの魂を震えさせるのは、霊性あふれる人生の真実が、貧しく脚光を浴びない人々の間でも変わらずに、むしろ一層強い光を放っているからではないでしょうか。

 小学生だった私は、講演に来た偉い学者が体育館へ生徒たちを集め、「偉大な発明をしたのは、裕福な家に生まれた子と、貧しい家に生まれた子と、どちらが多いと思いますか?」と片方への挙手を求めた時、立ち上がって「関係ないと思います」と発言しました。
 それが正解とされました。




2007
01.10

潔さ -『蝉しぐれ』と『たそがれ清兵衛』-

 最近、勉強会などで最も話題になる作家が藤沢周平です。

 ブームは年配者だけのものではなく、木村拓哉の『武士の一分』などによって若者たちからも支持されている様子。大変、嬉しいことです。

 それは、他人の欠点や失敗を人前で容赦なくこき下ろす醜さがテレビなどで大手を振っている今、主人公たちの潔さが一段と光っているからです。



『蝉しぐれ』の文四郎や『たそがれ清兵衛』の清兵衛に共通する潔さは、一言も愚痴を言わず、いかに過酷であろうと難しかろうと、人間としての役割を自らの責任においてまっとうしようとするところにあります。

 それをさせるのは忍辱(ニンニク)の力です。

 忍辱とは、意地になって我慢することではありません。

 小さな我にとらわれる我執を超え、いかなる相手であろうと慈しみと憐れみをもって接し、虐げられても罵られても、激情で自分を失わない不動心を保つことです。




 教典は説きます。



 インドの富裕な貿易商ブンナは商用の途中で釈尊の教えに接し、帰依しました。

 そして、悟りを得てアラカンとなり、自分の出身地である西海岸方面へ帰って布教をしようと思い立ちました。

 釈尊は問います。

「あちらの人々は粗野であると聞いている。もし、誹られたらどうするか?」

 ブンナは答えます。

「手で殴られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」

 

 釈尊とブンナの問答は続きます。

「もし、手で殴られたらどうするか?」

「棒や石で打たれたのではありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」

「もし、棒や石で打たれたらどうするか?」

「刀で斬られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」

「もし、刀で斬られたらどうするか?」

「殺されるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」

「もし、殺されたらどうするか?」

「修行者には、愚かな自分を厭い、殺してくれと頼む人さえいるのですから、自分を殺してくれる人がいるなら好都合です」



 ついに釈尊は帰郷を許しました。

 はたせるかな、慈悲と忍辱で布教を行ったブンナは、帰郷した年のうちに、たちまち五百人もの信者を得たということです。



 忍辱に生きた文四郎や清兵衛の幸せは、大きさで言えば手のひらほどしかないかも知れませんが、それには珠玉の輝きと限りない深みが宿っています。

 文四郎や清兵衛における〈現在〉は何と充実して確実なことでしょうか。

 未来のあいまいさは、彼らにいかなる不安を与えることもできません。

 そして、彼らに、人生につきものであるめぐり合わせの運不運はあっても、現在を無意味にし未来を塞ぐ魔ものが入り込む隙はまったくありません。
 

 まっとうに生きる人間の潔さ・美しさ・気高さを教えてくれる彼らは、不滅の灯火です。




2007
01.09

【現代の偉人伝第三二話】 -チャンピオン 坂本博之-

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 元東洋太平洋ライト級王者、坂本博之(36歳)がリングを去った。

 福岡県に生まれた坂本は、幼い頃に両親が離婚し親戚の家へ預けられたが、満足な食事すら与えられず、弟と一緒に近くの川へでかけては獲ったザリガニやタニシを焼いて空腹を満たした。

 あちこちの孤児院へ入れられた末、小学2年生の時に児童養護施設『和白青松園』へ落ちついた。

 初めて口にした鍋物はとてもおいしく、未だにその味を忘れられないという。

 食べたのは豚汁だったが、夢中になって食べていた坂本の耳にはブラジルと聞こえ、しばらくの間、あの「ブラジル」はおいしかったと思っていた。



 平成3年にプロボクサーとしてデビューし、2年後には日本王者になり、平成8年には東洋太平洋のチャンピオンとなった。

 力強いパンチで「平成のKOキング」と称されたが、4度にわたる世界への挑戦は実を結ばず、椎間板ヘルニアなどの故障に苦しんだ末、引退を決意した。



 坂本は、世界の頂点に立つという夢は叶わなかったが、変わらぬ希望を持っている。

「子供は皆、平等であって欲しい」

 坂本は、日本王者となった直後から毎年数回、『和白青松園』への訪問を欠かさない。

 平成12年12月の世界ライト級タイトルマッチを控えた夏には『心の青空基金』を設立し、以来、全国の施設へ寄付をし続けている。

 最後の世界挑戦となった平成12年の闘いで畑山隆則に敗れ、応援した施設の子供たちが腹立ち紛れに畑山選手への悪口を言った時、坂本は諭した。

「僕たちは正々堂々と闘ったじゃないか。負けたからといって畑山選手を悪く言うのはいけないよ。

 僕はボクシングと出会えたおかげで変わることができた。君たちも何か夢中になれるほど好きなものを見つけて欲しい」



 1月6日、超満員となった後楽園ホールで行われた引退試合の相手は、タイのカノーンスック・シットジャーパイト(17歳)だった。

 子供ほど年下の若い選手から無数のパンチを浴びてもひるまず、坂本は一発逆転をねらって前へ前へと果敢に進み、ファンも夢を追った。

 基金で招待した『和白青松園』の園児15人も声が嗄れるほどの声援を送った。

 しかし、3回以降はロープを背負う場面が多くなり、切った左目の上の負傷は重く、7回終了負傷引き分けとなった。 

 

 故障でボロボロとなり選手としての限界を超えている坂本は、最後まで座右の銘「不動心」を貫いてチャンスをとらえようと闘争心を持続し、観戦した園長にこう言わしめた。

「世界王者にはなれなかったけれども、そんなことは大事じゃない。施設を出た子供でもやれるということを、坂本選手は見せてくれました」

 今後の坂本はジムのトレーナーとして第二の人生を歩むという。

 

 人生において勝者になるか敗者になるかは紙一重であり、大切なのは勝者になることそのものではなく、目的意識をもって真摯にものごとを行うこと、勝っても舞い上がらないこと、結果を得てからも本来の目的を見失わないことである。

 また、敗者になっても、破れたことに負けないことこそが最も大切であり、坂本は敗れても破れても鎌首をもたげ続け、境遇にかかわらず失ってはいけないものが何であるかを子供たちへ教えた。

 堂々と破れ、破れても泰然として動ずることなく、破れてなお変わらずに輝く矜持の値打を実証的に示したのである。


 勝者のなしえない貴重な教育である。

 世間に勝者は少なく、敗者は多い。

 さればなお一層、坂本の仕事は尊いと言えよう。


 

 アリスの名曲『チャンピオン』を思い出した。



♪つかみかけた熱い腕を ふりほどいて 君は出てゆく

わずかに震える 白いガウンに 君の年老いた悲しみを見た

リングに向う長い廊下で 何故だか急に君は立ち止まり

ふりむきざまに俺に拳を見せて 寂しそうに笑った

やがてリングと拍手の渦が ひとりの男をのみこんで行った

[You’re King of Kings]

立ち上がれもう一度 その足で 立ち上がれ 命の炎を燃やせ



君はついに立ち上がった 血に染まった赤いマットに

わずかに開いた君の両目に 光る涙が何かを語った

獣のように挑戦者が おそいかかる若い力で

やがて君は静かに倒れて落ちた 疲れて眠るように

わずかばかりの 意識の中で 君は何を考えたのか

[You’re King of Kings]

立たないで もうそれで充分だ おお神よ 彼を救いたまえ



ロッカールームのベンチで君は 切れたくちびるで そっとつぶやいた

帰れるんだ これでただの男に 帰れるんだ これで帰れるんだ

オーライラライラライ ラライラライ ライラライラライ ラライラライ

ライラライラライ ラライラライララ




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2007
01.08

十善戒を生きる

 お正月に必ず復習するのが、慈雲尊者の説かれた十善戒です。
 亨保3年(1718)大阪に生まれた尊者は、13歳で出家得度しました。その場所が大阪市東住吉区の法楽寺です。
 54歳の尊者が阿弥陀寺で説かれた『十善法語』に巡り会い、僧侶としての出発が当山と同じ寺号であることを知った時から、この書物は文字通り座右の銘になりました。
 
 尊者は十善戒を修行上の戒めとしてだけでなく、善行を実践するための契機として説かれました。
 それは、悪行の棄捨はそのまま善行の実践であって一つの行為の裏表であり、そこにみ仏の子である真姿が顕わになるからです。
 尊者は、戒律は決して人を縛るものではなく、むしろ真の解放をもたらすものであることを明確にされました。
 そして、「我を知り我を罰するものは、それ十善法語か」としばしば口にされ、自らの信念をもって厳しく自らの導きとされました。

 さて、その戒律の骨組を調べましょう。

 第一 慈悲、不殺生戒(ジヒ、スセッショウカイ)
  慈しみと憐れみによって、みだりな殺生をせずに生きよ。
 
 第二 高行、不偸盗戒(コウコウ、フチュウトウカイ)
  節操を高く保ち、他人の領分へ手をかけずに生きよ。
 
 第三 浄潔、不邪淫戒(ジョウケツ、フジャインカイ)
  行いを清らかにし、邪な獣性に導かれずに生きよ。
 
 第四 正直、不妄語戒(ショウジキ、フモウゴカイ)
  正直な心で言葉を用い、嘘をつかずに生きよ。
 
 第五 尊尚、不綺語戒(ソンショウ、フキゴカイ)
  高く尊い志を汚さず、言葉を飾らずに生きよ。
 
 第六 従順、不悪口戒(ジュウジュン、フアックカイ)
  柔軟な心で言葉を用い、粗野な言葉で罵らずに生きよ。
 
 第七 交友、不両舌戒(コウユウ、フリョウゼツカイ)
  誠の交流を尊び、人を離反させずに生きよ。
 
 第八 知足、不貪欲戒(チソク、フドンヨクカイ)
  己の分を守り、貪らずに生きよ。
 
 第九 忍辱、不瞋恚戒(ニンニク、フシンニカイ)
  耐えて動揺せず、つまらぬ怒りを起こさず生きよ。
 
 第十 正智、不邪見戒(ショウチ、フジャケンカイ)
  正しい智慧を発揮し、真理に背く考えを持たずに生きよ。

 こう見ると、尊者が「小乗仏教、大乗仏教、顕教(密教以外の仏教)、密教すべての戒めはこの十善戒に収められ、あらゆる善行もまたこの中に含まれる」と説かれた意味が解ります。

 ところで、戒律のお話をすると、とても私には守れそうにありませんと腰を引いてしまう方がおられます。
 そういう場合にいつも申し上げている言葉です。
「守れないのではないかと心配したり、守れないことを恥じたりする必要はありません。
 私たちは誰しも、〈自然に生きていたのでは戒めに反してしまう〉ように生まれついているのですから。
 それが無明を抱えているということです。
 戒めを守れないことよりも守ろうとしないことをこそ恥じねばなりません。
 
 人は皆、自分でやれる範囲しかやれずに生き、死んで行きます。
 自分が何を行えたか、何を行ったかは、死ぬ時にならなければ判りません。
 能力や結果よりも、今をこうして生きている自分が何をしようとしているか、つまり、今を生きる目的が何であるかが肝心です。
〈自他を傷つける獣性ではなく自他のためになる聖性〉に生きる方法を知ったならば、あとは実践するしかないではありませんか」
 
 今年も十善戒を生きる決心を新たにしましょう。




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2007
01.07

いのちの火を正しく燃やしましょう

 龍樹菩薩(ナーガールジュナ)様は、若い頃、神通力を得て透明人間になりさんざん悪さをしたけれども、危うく殺されそうになったことから悔い改めてみ仏へ帰依し、「空(クウ)」の哲学を完成させたと言われています。

 

 私たちは、無明という「分けの解らなさ」を抱えて生まれてきているので、自他を害する煩悩の火が燃えさかるのは当然です。

 しかし、火はそもそも自然界の恵みであり、殺菌や掃除や煮炊きや暖をとるのに用いれば、生活上、他にとって代われぬほどの威力を発揮するのと同じく、いのちの証である心の火もまた上手に用いれば、意欲という人生の機関車となって良き未来へ連れて行く力になります。



 マンダラの教えでは、世界から追い出されるべきものは、何もありません。

 その昔、帝釈天と闘って危うくこの世を暗黒の世界にしそうになった阿修羅さえ信仰の対象となり、水をあやつり、時として干ばつをもたらす龍神もまた、お大師様の法力によって水神に姿を変えて私たちに清らかな水をもたらす善神になりました。



 人生相談に来山される善男善女の中には、懺悔の気持が強いあまりに自分を押さえようと懸命になり、いのちの勢いまでも削いでしまう方がおられます。

 仏法は「とにかく欲を抑える」ものだと勘違いしておられる方も多く、実際、評論家などにはそういったトンチンカンなことを言う人々もいます。

 煩悩をやみくもに断とうとするのは、「罪を憎むあまり人をも憎む」のと同じ誤りです。

 私たちは、子供へ「罪を憎んでも人を憎まないような人になりなさいね」と教えるではありませんか。それと同じです。

 大切なのは「いのちの火の用い方を正しく学ぶ」ことであり、決して火を弱めることではありません。

 せっかく懺悔する尊い心が動いたのに、いのちの火を弱めることによって新しい道へ踏み込む決断力や勇気をも弱め袋小路に入ることのないよう、気をつけねばなりません。

 いのちの火が弱れば免疫力が落ち、やホルモン・分泌物のバランスが崩れ、病気に負けやすくもなります。



 たとえば、「不殺生」の教えは、決して、虫一匹殺せない恐がりの弱虫を創ろうとするものではありません。

 米であれ魚であれ野菜であれ他のいのちを絶たねば生きられぬ自分の宿命を見つめ、殺し合いの中で生涯を終える自然界の生きものたちの宿命を見つめ、いのちの厳粛さに気づき、生きとし生けるものへの感謝を忘れず無益な殺生のできない人間になることが目標です。

 この戒律を正しく保って生きていれば、感謝と安心と勇気が湧いてくること必定です。

 ポイントは「正しく」にあり、そのためにこそみ仏はさまざまに説かれ、菩薩や聖者もまた研究を深めてたくさんの教えを残されました。

 

 今年も厄年における結婚などについての人生相談が相次いでいます。

 煩悩の上手な活かし方や運気の上手な用い方など、人生に力を与え方向を誤らせないための「教えとご加護の力」によって、皆さんと共に未来を切り拓いて行きたいと願っています。




2007
01.06

新年に思うこと ―維摩居士と病気―

 新しい年の初めに必ず思い浮かぶ教典があります。
 それは、聖徳太子が国を治めるための導きとした『維摩経(ユイマキョウ)』です。

 この教典は、娑婆にいながらにして悟りを得た維摩詰(ユイマキツ)という大富豪が、釈尊の弟子たちとのやりとりにおいて空(クウ)の境地を解き明かすものです。
 妻も子もある維摩居士が出家した聖者たちを次々と論破し、やがては智慧の権化文殊菩薩と丁々発止を行うという物語の痛快さは、他に類を見ません。

 さて、自室の病床に文殊菩薩を迎えた維摩居士の言葉です。
「来るものも見るものも、そのままに絶対の真理である。文殊菩薩よ、よく来られた」
 常に真理のみを口にする維摩居士の面目躍如です。

 文殊菩薩は応えます。
「居士よ、すべての現象は一である。
 来るべきものは特に〈来るべき所〉としてあげつらうべき所はなく、去るものにとっても特に〈行くべき所〉というべき特別の所があるわけではなく、見るものも見えているそのままがすべてであって〈さらにもっと見るべきもの〉などはどこにもない。
 一という絶対の真理にあっては、去るとか来るとか、特に言い立てる必要はないのだ」
 よく来たねという挨拶をとりあげて議論し、もう、戦いは始まりました。

 文殊菩薩は尋ねます。
「ところで、貴方の病気の具合はいかがか?釈尊はことのほか心配しておられる。
 病気の原因は何か、よほど前から患っていたのか、どうすれば治すことができるのか?」
 真理を会得した者が病気で寝ているのはどういうことか、貴方ほどの人なら何でもできるはずではないかと言外に攻撃しています。

 ここで応答した維摩居士の言葉が行者として菩薩道を歩むべき僧侶の原点であり、ここをはずれた僧侶はもはや行者とは言えません。

「釈尊が説かれたように、真理に生きることを妨げる無明(ムミョウ)が原因となって愛着心が起こり、生死の苦を招く。
 病気は、その苦として起こる。
 人々は無明を抱えてこの世に生まれる存在なので、自分もまた病気になるのは当然である。
 もしも、すべての人々に病気がなかったならば、自分もまた病気にかかることはない。
 
 聖者は生死の苦を離れてはいるが、人々を救うためにかりそめの肉体を持ったままでこの世で生死の姿を見せるので、当然病気にもかかる。
 もしも、すべての人々が無明を克服して苦を離れたならば病気はなくなるので、聖者もまた病気と無縁になるであろう。

 それは、ちょうど、子供が病気になれば親もまた苦しみ、子供の病気が治れば親もまた癒されるようなものである。
 み仏に仕える聖者が一切の衆生を慈しむのは子を思う親に等しく、衆生が病めば聖者も病み、衆生が癒えるならば聖者もまた癒えるのである。

 つまり、聖者が病気にかかるのは、苦を共にして衆生の苦を抜くためである」


 維摩居士は、すでに釈尊の病気を予言しているかのようです。
 人々と共に歩まねばならぬ菩薩の苛烈さを支えるものが真の慈悲なのでしょう。

 何かを悟ったからといって安穏と暮らし、趣味にうち興ずるのは単なる風流人に過ぎず、菩薩ではありません。
 もちろん、僧侶としては堕落した姿です。
 人々と悩み苦しみを共にし、共に救いの智慧とお慈悲を求め続けることこそが、菩薩であるべき行者の使命であると考えています。
 この教典に見るとおり、自他のためを願い、まことの道を求める菩薩道に出家と在家の区別はありません。

 これからも、皆さんに教えていただきながら行者とし生き、死んで行きたいと願っています。




2007
01.05

満月

 昨年に倍する善男善女のご心願を受け、おかげさまにて正月修正会、6回の護摩供養会を無事終えました。
 心より感謝申し上げます。
 すべてが終わって見上げた夜空に満月がかかっており、4日の払暁前にもう一度つくづくと眺めたら無意識に月輪観(ガチリンカン)へ入り、動けなくなってしまいました。
 光は皓々と白く、我に返った瞬間、月光がいかにものの輪郭をはっきりと見せるかを知りました。

 約800年前の冬、明け方まで瞑想にいそしんでいた明恵上人がふと眼を上げ、月光がお堂の窓から差し込んでいたのに気づきました。
 自分の身を暗い所に置いたままで眼にした光はとても清らかで、心境と光との区別がつかなくなりました。そのおりに詠んだ句です。

 くまもなくすめるこゝろのかゝやけば わがひかりとや月をもふらむ


 (一点の曇もなく澄んだ心は、月光として輝いている。月は、この心境を、自分の発する光と同じだと思っていることだろう)

 もう、自分と月との区別はありません。
 私たち凡人にはとても及ばぬ至高の境地です。
 
 ともあれ、冬の月には、他の季節では味わいにくい圧倒的なものがあります。

 それにしても、今年のお正月は好天に恵まれました。
 修法後の法話のたびに、今年一年もこのように穏やかであって欲しいと申し上げました。
 スキー場などの方々は大変かも知れませんが、天下太平を願う気持に変わりはないはずです。

 昼の陽光のように温かな〈思いやり〉と、夜の月光のように澄んだ〈智慧〉が世界に満ちるよう願ってやみません。




2007
01.03

真の平和

1 平和とは

 平和とは単に戦争のない状態ではありません。
 独裁者による恐怖政治の下でも、侵略国による圧政の下でも戦争はなくなりますが、人々に平らかで和やかな日々はないからです。
 霊性を持つ存在である人間がかけがえのない霊性を輝かせながら暮らせる状態こそが真の平和です。

 そこでは、おのづから人間としての戒めが守られているはずです。
 もちろん殺し合いはありません。
 盗みや、権力あるいは暴力による収奪もありません。
 脅迫よる意に沿わぬセックスも、道に反するセックスも行われません。
 言葉に誠意が伴い、お互いが思いやりの心をもって接します。
 こうなって初めて平らかで和やかな日々であり、平和な国と言えるのではないでしょうか。

2 何が平和をもたらすか

 文明は人間の心の産物です。
 道具は生活を便利で安全なものにする一方で、より効率的な人殺しを可能にしました。心身を養う一方で、環境を破壊し続けています。
 それは、原子力発電所と原爆を見れば明らかであり、さまざまな嗜好の満足と森林やオゾン層の破壊は、平行して進んでいます。
 文字は精神を豊かにする一方で卑劣な心をも育て、時として心身を斬り裂く鋭利な刃物になります。
 学問は深まりましたが、言葉やネットを用いたいじめも悪質の度を深めています。

 ならば、平和もまた心の産物としてしかもたらされません。
 殺さず、盗まず、犯さず、言葉に誠意があり、他人を思いやる人々によってこそ、平和は実現されます。
 血塗られた手で権力をつかみ、収奪したものに満たされ、気ままに犯し、言葉に内容が伴わず、他人へ冷酷な人々が平和をもたらすことはあり得ません。

3 今の日本は平和か

 冒頭の平和の定義からすれば、平和でないのは明らかです。
 日々マスコミをにぎわすもののほとんどが凶悪な事件や悲惨なできごとであり、いかなる統計も日本人の心が荒んでいることを示し、治安も悪化の一途をたどっています。
 しかし、戦後の日本が半世紀以上もの間、戦争によって外国人を一人も殺さず、戦死者を一人も出していないこともまた事実です。
 戦争がないという「かりそめの平和」が続いたのは、先進国と呼ばれる国々にあっては奇跡的な歴史と言えましょう。

 しかし、かりそめの平和すら風前の灯火です。
 戦後日本の守護神と思われてきたアメリカが、今度は本性である破壊神の仲間に入ることを強要しているからです。
 それに応えようと日米同盟の強化が叫ばれ、軍事力が増強され、海外派兵が当然のものとなり、憲法が変えられようとしています。

4 アメリカによって今後もかりそめの平和は保たれるか

 昨年、衝撃的なニュースが流れました。
 人道的な立場から北朝鮮による拉致事件をあれほど攻撃していたアメリカが、こともあろうに、世界中からテロの容疑者としておそらく3千人以上に上ると思われる人々を拉致していたのです。

 ニューヨークのビルが航空機によって破壊された6日後、ブッシュ大統領はCIAのこうした計画を認める秘密書類にサインをしました。
 その結果、幽霊会社の所有となった32機の航空機は、ヨーロッパだけで1245回以上にわたってテロの容疑者を国外へ移送し、アフガニスタン・イラク・エジプトなどの秘密収容所で虐待を伴った取り調べを行い、少なくとも108人以上の人々が殺されました。
 現在、幽霊会社はすでに消滅しています。
 この国際犯罪に関わった『CIA反テロセンター』の職員は約1200人、虐待したアメリカの軍人と文民は600人以上とされています。
 中には、夫婦げんかしてバスに乗りうさばらしをしていたレノン系ドイツ人がアフガニスタンへ拉致され、5ヶ月にわたって尋問と虐待を受けたケースもあります。

 こうした国の主張する「人道」にいかなる人々、いかなる国々が共鳴できるでしょうか。
 いかなる国が命運を共にしようとでするでしょうか。
 しかし、今の日本はアメリカとの軍事同盟を強化してかりそめの平和を維持しようとしています。

5 日本の役割

 戦後いっさい交戦せず、最悪の兵器原爆の被害に遭い、はっきりと戦争を放棄する憲法を持ち、「和をもって尊し」となす精神風土を保っている日本こそが、真の平和を求める願いを「人類の願い」として世界へ発信できる資格のある国です。
 政治的・外交的努力によってかりそめの平和を保ちながらも、人類のめざす理想郷へ向かう姿勢を国是として確立したいものです。
 そのために、私たちは真の平和とは何であるかという根本的な問題を正面から考え、平和を主張できる資格のある人つまり、「殺さず、盗まず、犯さず、言葉に誠意があり、他人を思いやる」人にならねばなりません。
 ぜひ、「育てる」徳が満ちる今年の運気を活かしたいものです。
 子供たちと日本の未来のために。




2007
01.02

感謝申し上げます

 おかげさまにて、たくさんの善男善女と共に、新たな祈りと清めの道を歩み始めることができました。
 有遠無縁の方々へ心より感謝申し上げます。
 誰もが思いやりを忘れず、「育て」「育つ」年が日本の背骨を創りますよう。

〈撮影高橋さん〉




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