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2007
02.28

弥生の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。

(掲載が一ヶ月遅れになる場合があります)



大寒の風に真向ひ坂下る



二ン月の午後の日射に坂光る



冬籠すなはち俳句ごもりかな



生き甲斐を俳句に委ね春待てり



 





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2007
02.27

宗教はなぜ必要なのか

 私たちは、自分へ厳しく、他人へ優しく、社会的に正しく、そして親しい間柄では優雅に和やかにと心がけますが、それだけではどうしようもない業(ゴウ)の巨大な影響力があります。
 たとえば、教えに気づいてから生活習慣を変えたけれども、それ以前の生活態度の影響でアルコール依存症が抜けないとか、教えに気づいてから高慢さを克服しようとしているけれども、以前の生き方が今頃になって仕事に支障を来しているとか、生まれ持ったケンカ早い気性が抑えられないなど、せっかく向かおうとしている光明の方向に立ちふさがる大きな障碍を抱える場合があります。

 このように、〈どう生きれば良いかを知っただけではどうしようもない場合〉には、天地仏神のご加護をいただくしかありません。
 いのちの底を支える霊性の力を発揮するのです。
 そして、見る、聞く、嗅ぐ、味わう、肌で感じる、想うといった六根(ロッコン)のはたらきを変えねばなりません。
 たとえば、女生徒を性的興味の対象として視るようになった男性教師は、頭では「この子たちは導かねばならない大切な他人様の娘さんたちだから、これではいけない」と考えるだけでは、落とし穴に堕ちる危険性を離れられません。
 いくら、正しく考えていても、自宅で毎日ロリコンのビデオを鑑賞しないではいられなければ、いつかは問題を起こしましょう。
 正しく考えたならば、その通りに見て、聞いて、嗅いで、味わって、肌で感じて、想うようになるための方法が仏道修行です。

 密教の行者は(隠形流居合を含む)何を行う場合でも、必ず最初に護身法(ゴシンポウ)を結びます。
 そこでは、み仏を礼拝し、お香を塗って心身を清め、身・口・意を総動員して自他の全体を清め、重ねて身体を清め、言葉を清め、心を清め、しかも、そうして清めた自他が再び汚れないように法の鎧甲をまとうのです。
 万人に仏心があり本来は清浄であっても、身・口・意にまつわる業(ゴウ)があるので、重ねてそれぞれの清めを行わねばなりません。

 知識だけでは如何ともし難い業がある以上、人間にとって宗教は欠かせません。
 最後の救いは宗教の役割です。
「思う」通りに生きられるのならば、人生に苦労はありません。
 特にモノ金ではない心の問題は、「思う」「考える」だけではどうしようもない地点が必ず待っています。
「思う」を「願う」「祈る」と高め、深め、清めてこそ、心は正しくはたらき、霊性はこの上ない力を発揮します。
 こうした一連の流れをお導きくださるのが仏神であり、仏法です。
 
 至心におすがりして救いを得られたならば、もう一歩先へ進んでいただきたいものです。
 当山では、ご縁の善男善女をただただすがらせ、束縛することはありません。
 教えに学び、読経であれ、瞑想であれ、呼吸法であれ、居合であれ、自分でできる行を通じて自他の大切なものを護られる人になっていただきたいと願っています。





2007
02.26

遙かな愛

 運転中、NHKドラマ『蝉しぐれ』(原作:藤沢周平)の主題曲を初めてしみじみと聴きました。
 歌詞を追っているうちに驚きました。“これは現代を代表する恋歌ではなかろうか!”

遙かな愛
 作詞:及川恒平 作曲:小室等
 歌:普天間かおり

 もしも私
 生きているのが一年だけなら
 春の息吹をうけたらすぐに
 花を抱きしめ踊り出すのよ
 あなたと一緒に
 花を抱きしめ踊り出すのよ
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのが一日だけなら
 朝の日差しに目覚めてすぐに
 鳥を集めて歌をうたうわ
 あなたと一緒に
 鳥を集めて歌をうたうわ
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのがひとときだけなら
 誰に伝えることもしないで
 風になって遠くへ行くの
 あなたと一緒に
 風になって遠くへ行くの
 あなたと一緒に

 もしも私
 生きているのが一瞬だけなら
 うまれたままの心と姿
 悲しみじゃない涙をそえて
 あげます あなたに
 悲しみじゃない涙をそえて
 あげます あなたに


 生きている時を区切って「もしも」と言っていますが、時は一年であっても、一日であっても、同じことです。
 要は、自分に与えられた時のすべてを相手と共にいたいというのです。
 それも、「踊る」「うたう」「風になる」といった時でありたい、それが叶わぬほど短い場合は、自分をそっくりそのまま相手へ捧げると唄います。
 二人で一つのハーモニーを奏でることこそ、愛する者同士の最も望むものです。
「愛し合っている」とは「美しいハーモニーを奏でている」ことであるとも言えましょう。
 黙って見つめ合っても、セックスをしても、遠く離れて心を通わせ合っても、二人の間には二人だけのかけがえのない旋律が流れています。

 白眉は、「うまれたままの心と姿」にそえられる「悲しみじゃない涙」です。
 涙は不思議なものです。
 哀しいから、嬉しいから、あるいは寂しいから流れるとは限りません。
 この歌を聴き、切なさと一緒に胸に兆した涙は、魂の震えがもたらす「生の証」といった感があります。
「悲しみじゃない涙」とは、〈実存の全体〉〈自分に凝縮された世界のすべて〉といったものではないでしょうか。

 それにしても、こうした二人を引き離す「死」の近くで生きる自分の因縁を思わずにはいられません。
 不断に訪れる死は、必ず涙を伴っています。
 最近、ご主人を亡くされて3年以上も経った奥さんからいただいた手紙には、こうありました。
「夫の死は誰でもこたえます。いつも一人になると夫のことを思い出し、悲しいです」
 
 実際に流れようと流れまいと、涙は人生の伴侶です。
 ご縁のとなたとであれ同じ涙を共有しつつ、仕事をまっとうしたいと願っています。




2007
02.25

子どもと仏法

「大きいお祖母ちゃんありがとうございました。元気なうちは何もできませんでしたが、これから、ご恩返しができるようがんばります」

 ひ孫さんからのお別れの言葉でした。

 引導を渡してこの世とあの世の区切りをつける修法が終わり、いつものように、供養の心についての説法をしました。
 今回は、特に小さいお子さんが多かったので、それを意識して話しました。
 いくつもの小さな目が真剣な光を放ち、全員まっすぐにこちらへ顔を向けています。
お線香を供えたら、『このお線香が最後まで燃えて佳い香りを残すように、私もちゃんとやり遂げます』と誓ってください。いやになったなあと途中で投げ出してはなりません」
お花を供えたら、『このお花のように、誰かが見ていても、誰も見ていなくても、雨風に負けず自分なりの花を咲かせます』と誓ってください。いじめなどに遭っても、お祈りすれば、お祖母ちゃんは必ず護ってくれますよ」
お水を供えたら、『このお水が生きものを潤すように、分け隔て無く誰かのために役立ちます』と誓ってください。線路に入った人を救おうとして亡くなった立派なお巡りさんがいましたね。私たち人間は、誰でも、あのような尊い行いができるように生まれついているのです。これが本当の布施なんです」
 どの子も、視線を逸らしません。

 退堂したら、母子が追いかけてきました。

「いつ、寺子屋が始まるんですか?この子の年でも入れますか?」

 お子さんの頭をなでながら答えました。
お線香お花の心になって、お祖母ちゃんへちゃんとご恩返しをしてよ。君たちが学校へ行っているように、私も毎日頑張ってやっているよ。始まるのはもうすぐです。また会おうね」
 この美しい瞳を護ってやれるかやれないかは、私たち大人にかかっているという実感がこみ上げました。

 頑張らない生き方が必要な場合も、頑張らねばならない場合もあります。
 肉体も精神も、緊張と弛緩が必要なのと同じことです。
 法においては、「他力」「自力」の感覚がそうです。
 実際は、どちらの姿勢も必要です。
 そして、そうした区別の感覚を超えたところに本当の救いが待っています。
 ご加持の秘法で私たちが救われるのは、問題を直視し、みへおすがりする自力と、みから誠心へ加わるお慈悲の他力とが感応するからです。
 そこには、自他を云々する言挙げは必要ありません。

 まずは、子どもたちへしっかり頑張られる力をつけてやりたいと願っています。
 傷つきそうになったなら憩う智慧と、傷ついた人を思いやる慈悲も教えねばなりません。
 法は万人を救います。やらねばなりません。




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2007
02.25

生活と仏法 ─説法と懇話の会第10回─

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成19年3月14日(水)午後6時より午後7時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)



※前回に引き続き、特に、「前厄・本厄・後厄」について、受け止め方や心構えなどを詳しくお話します。

 吉凶占いに振り回され、ただただ怖れ、萎縮してはなりません。

 み仏の教えに学び、智慧と慈悲をもって尊い人生をきちんと生きたいものです。




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2007
02.24

ブームの怪

 ゼネコンの役員さんがご来山されました。
 あちこちのお寺へ行くと、住職から決まって聞かされるのが「若い人たちが来ない」「お墓の後継者が減っている」というぼやきだといいます。
“なるほど。それで、皆さんどうしているんだろう?”
 あるいは有益なヒントがあろうかと勝手な期待をしつつ、次の言葉を待ちました。
 とにかく自分の修行と法務で精一杯の毎日なので、情報は大変ありがたいのです。
 ところが、貫禄十分な役員さんのにこやかな表情と一緒に口から出た言葉には愕然としました。
「どこのお寺さんも、今のうちに本堂を建て替えたり改修工事をしておきたいということで、ちょっとしたブームになっています」

 若い人たちが教えと法に惹かれて足を運ぶようにするのではなく、檀家さんがあるうちにご喜捨を募って建物を立派にしておこうというのです。
 これではまるで、老舗のお菓子屋さんの常連客が減ったからといって商品に改良を加えるのではなく、借金して店舗改装をするようなものです。
 建物は残っても商売が廃れればおしまいではありませんか。
“本当にそんなことがあるのだろうか?”
 どうにも腑に落ちず、釈然としません。
 壇信徒の数が増え続けている当山は、特別なことをしているわけではないからです。

 たとえば、ご葬儀のおりに、戒名の意義やお線香を捧げてご供養する意味などを欠かさずお話し申し上げますが、こんなことは住職なら誰でも知っているはずであり、仏法においては基本中の基本に関する法話です。
 いやしくも衣をまとっているプロに不可能な仕事ではありません。
 しかし、それが乾いた布が水を吸うようにご縁の方々の心にしみ込みむものす。
 昨日も、すべてが終わってから、お祖母さんを失った若いご夫婦に改まってお礼を言われました。
「この二日間は自分たちの人生にとってとても有意義な日になりました。
 これまでは、お墓参りをしても戒名の意味は解らないし、お墓に向かって手を合わせても自分は一体何をしているのか、明確に意識できなかったからです。
 どういう心で手を合わせるのが供養なのか、はっきり解りました。
 これからはご先祖様がつくってくださった修行の機会を生かして行こうと思います」
 こんな時は心の底からありがたく、み仏と御霊と目の前にいる方へ合掌してしまいます。

 若い人たちは決して仏神に無関心なのではなく、きっと、“そうか!”“ああ、ありがたい”と納得でき、感謝する機会が少ないのでしょう。
 そうした体験をしていただくために必要なのは、皆さんにとって必要な教えを理解しやすくお話し申し上げ、求める方へはご加護をいただけるよう法力をもって祈れば良いだけのことです。
 それは、運転手さんが安全運転をし、新聞配達さんがきちんと郵便物を届け、八百屋さんが新鮮な野菜を提供してくださるのと同じく、プロとして生きる以上、当然な範囲でしかありません。
 これからも、仏法への信頼を取り戻すため、微力をもって法務に邁進します。




2007
02.23

自他を幸せにする『四無量心』 7 ―出棺経―

 火葬場へ行く前に唱える『出棺経』というものがあります。
 終われば棺が封をされ、御霊は火葬場へ行かねばなりません。
 このお経はわりあい短い時間で唱えられますが、なかなか難しいものです。
 
 私たちは、自分の存在を意識で感じています。
 しかし、同時に、無意識の裡に肉体でそれを確認しています。
 自分とは畢竟、心ですが、肉体を離れては安心できないのです。
 だから、肉体が焼かれるという超非常事態を前にした御霊に執着を離れて安心していただくためには、教えを説き、しっかり法を結ばねばなりません。

 数日前の人生相談は、金銭トラブルが家族間のあつれきを生んだものでした。
 もつれた糸をほぐすには、どうしても手放さねばならないものが生じます。
 その順番は、第一に財物です。
 しかし、大きな財物があると、それをよりどころにしたままで何とかしようともがきます。
 第一に手放すべきものへ、逆にすがろうとするのです。
 これではますます追いつめられ、やがて心が破綻すれば、財物は何の役にも立たない無用の長物となりはてます。
 だから、一番の責任者へ
「自ら無一文になってやり直してはいかがですか。
 貴方がすべてを捨てて生き直せば、ご家族の皆さんも、関係者も生き直せますよ。
 そうすれば、やがては財物が皆のために役立つ時が来るかも知れません。
 しかし、貴方が財物へしがみついていると、誰の心にも新鮮な風が吹かず、お互いの苦は増すばかりとなるでしょう」
と申し上げました。
 
 形あるものにすがりたいのは誰でも同じなのです。

 この世に人間として生じた魂は、かりそめの肉体をよりどころとして修行します。
 しかし、肉体は便利な道具である一方、魂を縛り、時には汚しもします。
 そうした謂わば自分の相棒と別れることは誰にとってもこの上なく辛いものですが、無限の修行道の一里塚とあれば、必ず越えて行かねばなりません。
 この放擲(ホウテキ…投げ捨てること)は、かりそめのものを実体視する迷妄を離れるための最大の試練でもあります。
 
 肉体を失うのは御霊も辛い、お別れをする皆さんも辛い、そして四無量心を心がけて修法する私も例外ではありません。
 皆さんの慟哭や悲嘆は私の心も濡らします。
 その時、すべてをお救いくださるのは初七日をご守護くださる不動明王です。
 一心に祈り、今日も、皆さんと共に厳しい修行をさせていただきました。



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2007
02.21

御霊とお不動様のお導き

1 ご指名を受け、葬祭会館さんへ枕経にでかけました。
 般若心経のところで、声はしませんが、どなたかが熱心に唱和しておられる気配があります。
 亡くなられた方ではないなあと感じながら修法を終え、段取りの打ち合わせになりました。
 最初に喪主からお聞きした言葉です。
「般若心経がよく解らず、これまでいろいろな方の本を読んで来ましたが、真言宗の方のもので初めて納得できました」
 続いて、これを機に改宗し、当山の檀家になりたいとのお申し出をいただきました。
 こちらから理由などは一切お尋ねしませんが、仙台有数の大寺院から移るとは、よほどのことだったのでしょう。
 唱和の主は彼でした。

2 戒名を決めるために必要な質問へ移りました。
 命日はもちろん、生年月日と、趣味や職業、あるいはご遺族のご希望などです。

 故人Mさんは、戦前、満州開拓のために海を渡りましたが、4人の子どもをもうけたもののご主人が若くして亡くなり、終戦の前年に帰国しました。
 お子さん方は「もう少し帰国が遅れたら、私たちは残留孤児になっていたでしょうね。もちろん、ここまで生きられたかどうかも分かりません」と笑っておられます。
 女手一つで戦後の混乱を生き延び、子どもたちを立派に育て上げたMさんのご苦労は、とても筆舌に尽くせぬものだったそうです。
 しかし、いつも身だしなみを整えて明るくふるまい、初対面の人へは「どこの出身?いくつになられたの?」と気軽に言葉をかける人でした。
 昨今は、こうした質問をされるのが不愉快だと文句を言ったり、個人情報が云々と言挙げしたりする寒々しい世相になりましたが、本来は、相手と自分との距離を縮めようとする心のこもった暖かい挨拶の一種だったはずです。
 
3 他人への思いやりと自分への厳しさを兼ね備えたすばらしい方だったのだなあと思っていたら、意外なお話になりました。
「法楽寺さんは、冬は大変なのでしょう?」
 以前、ご紹介を受けて当山を見に来られたらしいのです。
 一瞬、電流が走りました。
“この方々は、本堂がみすぼらしく、住職夫婦は現場用プレハブに寝起きしている現実を知った上で、大寺院から移って来られたのだ!”
 例年は積雪の影響を受けますが今年のような冬は初めてですと答えながら、心の雲がすうっと晴れて行きました。

 昨年後半から、本堂などを造り寺子屋や居合の道場も始めようと具体的な計画を練っていますが、必要な空間と現実的な予算とのつり合いがとれず、暗礁に乗り上げていたのです。
 壇信徒の皆さんも、良かれと思って意見を述べてくださる各界の専門家の方々も、皆さん、それなりのものになって欲しいと願っておられます。
 もちろん私もそうですが、問題は、大事なものの順番がどうであるかということです。
 当然、修法が第一です。建物はそのための道具です。
 礼拝すべきはご本尊様であり、御霊であり、生きとし生けるものです。決して寺院の建物ではなく、由緒来歴でもありません。
 それならば、後世に残すべきものの第一は、法です。
 行者がそれによって正しく修行し、ご縁の方々も御霊もそれによって救われ安心できる法をこそ残さねばなりません。
 
 仏法における行者とは、み仏を信じ、ご加護を信じ、教えに学び修行して法力を身につけ、もって遍くご縁の方々のため、御霊のためになろうとする者です。
 行者が生きて死んだ後に残っているべきは、〈仏法という教え〉と〈仏法によって開発された法力〉です。 
 この二つをきちんと残すことこそ、寺院を預かる者の使命です。
 寺院は、それを可能にする場でさえあれば良いのです。

 こうしたことは疾うに判っていたはずなのに、どうも〈残すべき建物〉という観念が強くなっていたようです。
 Mさんとご一族のおかげで完全に見極めがつきました。ありがたいことです。

4 帰山し、十三仏様へお詣りしようと『法楽の苑』で車から降りたところ、神気を感じました。
 思わずふり返ったら、どなたかがご寄進くださったと思われる5トンもありそうな苔むした石が置いてありました。
 神気はお不動様のものでした。
 一流の仏師は、石や木の中に宿っておられるみ仏をそのまま彫り出すそうですが、まことに、宿っておられるものです。
 今日のお導きは、このお不動様のお力によるのでしょう。
 後日、梵字を彫るなりしてお祀りせねばなりません。
 
 Mさん、お不動様、ありがとうございました。
 あとはまっしぐらです。




2007
02.19

後厄年の過ごし方 その4

 後厄年に強い障りが生じた場合は、ご先祖様や先亡の人々の戒めではないかと考えてみましょう。
 
1 後厄の年は「地」の徳をいただく時期ですが、地は大地であり、梵字のアで示されます。
 ただし、アは単なる地球を指すのではなく、天地万物としてその徳を発揮しておられる大日如来を指します。
 それはすべてを生み出す源であり、育む場所であり、いのちの生きる土台であり、還り行く故郷でもあります。

2 また、大日如来は多宝塔に象徴され、教典によれば、聖なる塔は大地より涌き出るとされています。
 多宝塔は、大日如来の崇高さを表したものです。
 形なき精神世界を確かに感得するために、私たちは授かった五感六根を使います。
 そのための眼に見える形が多宝塔です。

3 さて、多宝塔が大地より涌き出るとはいかなる意味でしょうか。
 それは、精神世界が物質世界に支えられて具体的なはたらきを行うということです。
 人間も、魂が肉体に宿って初めてこの世での修行が可能になるではありませんか。
 父母なくしてこの世に生まれる子どもは一人もいません。

 父に象徴される精神性と母に象徴される物質性の奇跡的な交感が一つのいのちを生みだします。
 私たちには父なる〈天の大日如来〉と母なる〈地の大日如来〉の徳が宿っています。
 だから〈み仏の子〉なのです。

 つまり、多宝塔は私たちの魂そのものです。
 
4 こうした強く「地」の徳をいただく時期に、〈み仏の子〉である輝かしいものに障りといった陰りが生じたならば、いのちの根源からのお知らせと考えねばなりません。
 きっと、私たちより先に生まれ、生き、いのちのバトンタッチをして逝った方々が、やがては私たちも還って行く故郷から何かを教えてくださっているのでしょう。
 み仏と先亡の諸精霊をご供養し、心へ訴えてくるものに謙虚に耳をかたむけ、最後の厄年を乗り切りましょう。



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2007
02.18

日本の歌百選 6 ─あめふり─

6 あめふり 

   作詞:北原白秋 作曲:中山晋平 大正14年『コドモノクニ』




1 あめあめ ふれふれ かあさんが

  じゃのめで おむかい うれしいな

  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン



2 かけましょ かばんを かあさんの

  あとから ゆこゆこ かねがなる

  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン



3 あらあら あのこは ずぶぬれだ

  やなぎの ねかたで ないている

  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン



4 かあさん ぼくのを かしましょか

  きみきみ このかさ さしたまえ

  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン



5 ぼくなら いいんだ かあさんの

  おおきな じゃのめに はいってく

  ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン



 さかんにこの歌を唄っていた時分は、あまり歌詞の内容を考えなかった。

 とにかく「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」だけでよかった。

 実際、商売をしていた両親は忙しく、迎えに来てもらった記憶は残っていない。

 強い印象があるのは、一人で床屋へ行っていたらどしゃぶりになり、家のお手伝いをしていたお姉さんにおぶってもらって帰った時のことである。

 道路は川のように思え、恐ろしかった。

 背中に乗っている自分と眼の下を流れる濁流だけが記憶にあり、傘をさしてもらったのかカッパを着せてもらったのか、お姉さんがどんな顔だったのかなどは一切覚えていない。



 『あれふり』が小学校の教科書に掲載されたのは、昭和25年から48年までである。

 戦後生まれた子供たちが結婚する頃、もう、蛇の目傘はほとんど作られていなかったはずである。

 蛇の目傘はすっかり洋傘に変わり、手軽なものとなった。そして、親子が一緒に入られるような大きいものがなくなった。

 同時に、5番の歌詞にある「ぼくなら いいんだ」という潔さや小さなやせ我慢の持つ清らかさも失われたように思えてならない。

 そして「かあさんの おおきな じゃのめ」に象徴される母親への絶対的な信頼感や安心感も薄れたのではなかろうか。



 今も、「ピッチピッチ チャップチャップ ランランラン」は傑作であると思う。

 背中を押し、励ます力がある。

 しかし、蛇の目傘に代わった車は、それを無用にしてしまった。

 孫には弾むようなリズムを体験させ、「きみきみ このかさ さしたまえ」「ぼくなら いいんだ」の意味をよく教えてやりたい。




2007
02.18

【現代の偉人伝第三十四話】 ─不死鳥 渡辺謙─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。


                                  
 2月13日、東京・内幸町のイイノホールで「第49回ブルーリボン賞」の授賞式が行われた。
 注目の主演男優賞は、『明日の記憶』で若年性アルツハイマー病と闘う姿を熱演した渡辺謙(47歳)だった。

 また、2月16日、東京・港区の新高輪プリンスホテルで「第30回日本アカデミー賞」の授賞式が行われ、同じく渡辺謙が最優秀主演男優賞に輝いた。
 記念スピーチで、彼は男泣きに泣いた。
 彼は、平成元年、急性白血病に犯され、念願の初主演作『天と地と』を降板せざるを得なかった。
 闘病生活中、なぜか「この賞をとってスピーチをする」との思いが高まり、何度そのシーンをイメージしたかわからないほどだったという。
 みごとに復活を遂げ、18年越の初主演作によって夢の檜舞台に立った彼は、涙と共に感謝の言葉を重ねた。
 司会をしていた吉永小百合も「謙さんが受賞されて本当にうれしい」と言ったきり言葉につまり、泣きに泣いた。
 演ずることの難しさ、怖さ、厳しさ、そして、身体を道具とする演技者にとって難病の克服がいかに困難であるかを知っている人たちは、心から祝福したことだろう。

 成就する可能性の計算などとまったく無縁に胸の底に住み着く想念というものは、確かにある。
 私が『み仏は あなたのそばに』へ記した「文武両道の塾をつくろう」もそうである。
 失意にうちひしがれながら帰仙する車中、自然に口から漏れた一言が、数十年の時を経て穏形流居合の道場となって結実した。
 それは、寺子屋としてさらに広がりを持とうとしている。

 言葉は不思議である。
 心によって紡ぎ出されるものでありながら、心と運命を創る力を持つ場合もある。
 渡辺謙の夢見たスピーチは、実際に涙まじりに重ねた言葉と同じものだったのだろうか。




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2007
02.16

ひとつぶ

 食事の前に合掌して唱える文言があります。

「一粒(イチリュウ)も天地の恵み、己(オノ)が身を他に与えて自他を養う定めの食物と天地に感謝し、おいしくいただき身と心とを養わん。いただきます」

 たった一粒の米であっても、それができるためには、水、肥料、光、温度などさまざまな要因がすべて満たされなければなりません。
 虫に食べられないことや台風などに倒されないことも間接的な要因であり、さらに私たちの口に入るためには、農家の方の無事な刈り入れを初め、どれだけの要因があるのか数え切れないほどです。

 やっと実り、無事食卓までたどりついた一粒の米たちが、自分たちのいのちを捨てて私たちのいのちを養ってくれています。
 食べ物となるいのちと天地として表れている仏神へ感謝せずにいられましょうか。

 托鉢で生きながら、手に持った鉢へいただく硬貨一枚一枚の重さを実感し、一握りの米のありがたさを知った私は、食べ物をおいしくいただかなかったことはありません。
 料理に味付けの上手下手はあっても、食べる私にとって〈まずい料理〉はないのです。

 そんな一粒の大切さを知った人たちが、仙台市太白区にカフェを開きました。
 『ひとつぶカフェ』です。
 集う善男善女が一粒のありがたさを語り合ってくれるなら、とてもありがたいことです。




2007
02.14

輪廻転生 5 ―生まれ変わり その2―

 とてもまっすぐな心を持った教師Nさんが、久方ぶりに来山され、あらたまってのご質問がありました。
「私は今まで輪廻転生を信じて来ました。それは因果応報を信じていたからです。
 ところが、最近、『自分がどのようにこの世に生まれて来るかは自分で決めているんです。
 自分が願うように生まれてきたのですから、過去の因縁を恐れる必要はありません。
 因縁などは気にしないようにしましょう。』という説に接して迷うようになりました。どのように考えれば良いのでしょうか?」

1 こういう因果応報を無視した妄説は、優しさを売り物にする人たち特有の言い方です。
「あなたの苦しい状況は、自分で自分を鍛えようとして望んだものなのだから、心の持ちようでどうにでもなります。
 過去の因縁は気にしないで良いのです」
と真綿でくるむように慰撫します。
 こうした言い方をしたくなるのは解ります。
 たとえば、昔、ハンセン氏病などにかかった人々を過去の悪業の報いだからと蔑んだ歴史があり、今も、不条理としか思えない逆境にある人々はたくさんいるからです。
 因果応報を突きつけられてしまえば、過去を変えたり取り戻したりすることは不可能なので、どうすることもできません。
 
 しかし、ちょっと考えてみましょう。
 今の逆境をもたらした原因が過去にあったからといって、それを云々してどうなるのでしょう。一体、誰の何のために役立つのでしょう。
 逆境にある人の過去を揶揄したり、自分の過去についてクヨクヨしたりするのは、実に愚かしいことです。
 もし、過去について言うのなら、順境にある人へは、「お前なんか、昔、良いことをしただけなのだろう」と攻撃することもできるではありませんか。

 動かせない過去は、人生の真実を詰め込んだ教科書のようなものです。
 それぞれが固有の一冊を持ち、他人のそれをかいま見ることもできます。
 厳粛な真実を無視するのも、囚われるのも極端であり、真実から離れる道です。
 智慧の眼で読み、書かれている善きできごとも悪しきできごとも、慈悲の心で現在に活かしましょう。
 
 智慧と慈悲がなければ、いかなる真理も活かせません。
 愚痴や邪知は真理を曲解します、
 「水子の祟り」や「先祖の祟り」を言い立てて人を恐れさせるなど、真理が悪用される場合すらあります。

 
2 二つのキーワードをもって、み仏の教えを述べておきます。
「業力自然(ゴウリキジネン)」と「鬼手仏心(キシュブッシン)」です。

「業力自然」とは、善なる業も、悪しき業も、因果応報の理によって必ず何ごとかの結果をもたらし、〈結果が出ることにより、原因となった業は消える〉という真理です。
 たとえば、怒りのあまり人を殴った場合、心から懺悔し、謝り、許してもらえたならば、殴ったという悪業はその時点で役割を終えるということです。
 釈尊は、それを、
「もしも過去に悪業を積んでも、真に懺悔し二度とくり返さないならば、世を導く灯火ともなるであろう」
と説かれました。
 つまり、自分に表れている過去の業(生まれる以前のものも、生まれてからのものも)は、それを真正面から受け止め、悪業によってもたらされる試練は向かい風、善業によってもたらされる順境は追い風として活かすことによってのみ消滅させ、新しい未来へ進むことができるのです。
 この正しく「活かす」行為こそが新たなる善行であり、善業となって良き未来を創ります。
 真理を無視した慰めに逃げているだけでは、真の善業を創ることはできません。

3 「鬼手仏心」とは、み仏の心で鬼のような行為をすることです。
 たとえば外科医の仕事はその典型です。
 手術は肉体の一部を切り取ってしまう恐ろしい行為であり、場合によっては人を死に至らしめる場合すらありますが、患者を救うためには断固として行わねばなりません。
 深く膿んだ傷口をさすってやっているばかりでは、根本的な解決はできないのです。
 
 厳しくしつける親の姿も同じです。
 小学生だった私は、野球をしていて、言うことをきかない気ままな下級生を殴りました。
 たまたま自転車で通りかかった父親は、理由を訊かずに私を殴りました。言葉はこれだけでした。
「小さい者をいじめて、この野郎!」
 以来、私は、目下を殴ることはもちろん、いじめることもできなくなりました。
 
 食べ物の好き嫌いをする子どもを、泣く泣く柱に縛り付けた母親の故事もあります。
 縛られた子どもは流れる涙と自由になる足の指で床に絵を描きました。
 やがて彼は日本一の彫刻家になったのです。

 もちろん体罰は勧められるものではありません。
 真に相手のためを思えば、表面的に厳しい態度も必要であるこということです。

4 因果応報は、動かすことのできない宗教的、科学的真理です。
「業力自然」を信じ、時には「鬼手仏心」をもって他人へ優しく、自分へ厳しく生きましょう。
「無視せず、囚われず」。これが、因縁の積み重なった過去の業を正しく活かす唯一の道なのです。





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2007
02.13

後厄年の過ごし方 その3

 後厄年に病苦に襲われたならば、自分の言葉に注意して過ごしましょう。<

 病気になった場合の「苦」には、三種類あります。
 一つは病気そのものによる肉体的な苦しみです。
 お腹が痛いとか、だるくて力が入らないなどというものです。
 これは、医療技術の発達によってかなり緩和されるようになり、不治の病気でも、身体的な苦しみに精神が破壊されることなくいのちをまっとうできる場合が多くなっています。


 もう一つは、すべては移りゆき、自分の人生もまた終末を迎えねばならないことに直面させられる苦しみです。
 誕生の瞬間から、次の瞬間には訪れるかも知れない死への歩みを始めているはずなのに、その真実をきちんと把握しながら生きる人はそう多くありません。
 無意識ながら永遠に生きられるようなつもりで日々を過ごすのが普通ではないでしょうか。
 しかし、病気は、死に神が人生の伴侶であることを否応なく気づかせます。

 そしてもう一つは、自分が確かに持っているはずのものを失わねばならない苦しみです。
 どれほど仕事が生き甲斐であった人であっても、ベッドに横たわる身は、もう活動を停止させられています。
 いかに夢を持って子どもを育てていても、ベッドの上にいれば、もう手をかけてやることはできません。
 どんなに親しくつきあっていた友人でも、時の経過とともに見舞いに訪れる回数はだんだん減り、いつしか遠ざかります。

 こうした苦にあって口からこぼれる言葉は何でしょうか。
「どうして私が…」「なぜこんな時に…」「こんなことなら…」「どうしたら良いのか…」「あいつのせいで…」「俺はバカだった…」などなど、苦が愚痴となって表れます。
 心が言葉を生む以上こうなるのは当然ですが、釈尊は、言葉に導かれて病苦を克服せよと説かれました。
「正語」を心がけるのです。
 正直で嘘のない言葉、志を汚さぬ飾りのない言葉、柔軟な心で状況に対応することによって生まれる柔らかで穏やかな言葉、誠の交流を貫く言葉。
 周囲の人々への思いやりを忘れぬ言葉を用いるよう心がけることによって、三つの苦は克服できるのです。

 数年前、不治の病気に犯され若くして世を去った女性が別れの言葉を口にしました。
「生んでくれてありがとう。お父さんとお母さんの娘で幸せだった」
 即身成仏(ソクシンジョウブツ)とはこのことです。
 こうした言葉が口から出たのは、もう救われている証拠です。
 そして、この一言によって、ご両親はもちろん、家族も、友人知人も、医療や介護に携わった人々もすべて救われています。
 態度も言葉も心も自他を救うみ仏であるならば、もはや「生き仏」というしかないではありませんか。


 心は言葉に表れる一方、言葉によって創られもします。
 自然に出る言葉は、自分の心の状態を教えてくれます。

 苦から脱するには、つまり自他を救うには、教えに学び実践するしかありません。
 自分を鍛える厄年の最後に、人間を人間たらしめている言葉によって自分の心をしっかり確認し、心を鍛えたいものです。



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2007
02.12

後厄年の過ごし方2

1 後厄年の守本尊は大日如来様です。
 大日如来が人々の欲するところを観てお導きくださるこの時期は、「欲の実態を知り」「煩悩を大欲へと転化する」ことが困難克服のための大きな力になります。

 およそ生きとし生けるものには、必ず欲があります。
 それは、生きようとする盲目的な意志となって表れます。
 この意志は、自分の生命を維持することを最優先します。我欲の発露です。
 具体的には食欲、性欲、睡眠欲が代表的なものです。

2 さて、自然界が摂理によって動いている以上、カエルやネコなどと同じように人間もそうした欲に任せて生きていて大丈夫かといえば、否です。
 なぜなら、人間以外の生きものたちの欲には自動制御装置がついており、放っておいてもバランスがとれますが、人間は、制御装置がついていないばかりか、無限の想像力と創造力があるので、自己規制をしなければ欲が自他を傷つけ、破壊し、破滅させる虞れがあるからです。
 満腹のライオンは決して獲物を狙いません。
 しかし、人間は、裏切った恋人が憎いばかりに世界の消滅を願い、一国をも得ようとし、永遠の寿命へすら挑戦するではありませんか。
 環境破壊や核戦争によって、地球という生命の庭をすら消滅させかねないではありませんか。

3 それなら、人間の未来はないのかといえば、これも否です。
 人間には自他を救う霊性があるからです。
 それは最高位の仏性(ブッショウ)です。
 ただし、人間も肉体を持っており、見えるもの、聞こえるもの、匂うものなどが強い関心の対象になる以上、肉体の維持にかかわる食欲、性欲、睡眠欲が前に出ようとします。
 次に財欲、そして名誉欲です。
「食べられる」ようになれば、次は「気まま」をしたくなるのです。
 それが今の日本ではないでしょうか。
 
 生きるため、生かすために戦後の日本人は汗水をたらし、次は生活の豊かさを求めてここまで来ました。
 反面、アメリカの「ウォー・ギルト・インフォメーション・プログラム」や「3S政策」によって日本人らしい霊性の発露を封じられた私たちは、すっかり心が貧しくなりました。
 それが政界・官界・財界・学会における腐敗や、警察官の万引き、文筆家の盗作、運転手の飲酒運転、教師の淫行、自動車やガス器具産業の欠陥放置、菓子屋の衛生管理の不徹底などなど、各方面での信じられないような社会的信頼への裏切り行為となり、大人の堕落は子どもたちをダメにしつつあります。

 これが現実における「欲の実態」です。

4 煩悩とは、霊性の光を伴わない人間の欲です。
 自他を破壊する煩悩を克服するためには、霊性を発揮する以外、方法はありません。

 霊性によって欲を活かすことが万人共通の「生きるべき生き方」です。
 それがとりもなおさず「煩悩を大欲へと転化する」ことになります。
 
5 後厄の時期は「もどかしい」ものです。
 しかし、いつも走ってばかりいては、列車の窓からしか景色を眺めないのと同じになります。

 樹々の葉が発している緑光や、花々の香りや、鳥たちの声が分からなければ寂しいではありませんか。
 時にはゆっくり歩き、あるいは立ち止まり、季節の気配を感じたり、足元を確認したり、悠久の過去と未来を考えたりする必要があります。
 後厄の一年間は、そうした人間性の回復が行われるチャンスです。

 大日如来のお導きをいただき、欲という人間のいのちの根源をもしっかり見つめたいものです。



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2007
02.11

日本の歌百選 5 ―あの町この町―

あの町この町
  作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 大正13年『コドモノクニ』

1 あの町この町 日がくれる 日がくれる
  今来たこの道 帰りやんせ 帰りやんせ
2 お家がだんだん 遠くなる 遠くなる
  今来たこの道 帰りやんせ 帰りやんせ
3 お空に夕(ユウベ)の 星が出る 星が出る
  今来たこの道 帰りやんせ 帰りやんせ


 この歌が頭で流れるたびに、幼い日のできごとが甦る。
 農村にいた四歳の私は、妹を連れ、柿の木を探しにでかけた。
 やがて、たわわに実のなった一本の木を見つけ、実が落ちてくるのを待ったがなかなか落ちない。
 とうとう日暮れになり、一個も手に入れられないまま、妹の手を引いて帰った。
 この詩の秀逸さは「お家がだんだん 遠くなる 遠くなる」にある。
 だんだん遠くなるといっても、自分と家との距離が離れて行くのではない。
 子どもがどこかで安心して遊んでいられるのは、安心の基である家が〈あそこにある〉からである。
 いつでも帰られるという安心が、子どもを無邪気にさせる。
 しかし、暗くなると共に、闇に潜む得体の知れない何ものかが近づき、不安が兆す。
 家へ安心を求める心が動き出す。
 また、不安が介在し始めたために、遊びに来た場所と家との距離は変わらないのに、〈あそこにある〉自分の家へいつでも帰られるという安心が崩れ始める。
 無事、帰られるかどうかが心配になる。
 それが「遠くなる」である。
 幼い頃は、夕闇と共に何かの気配が迫ってくることを感じていた。
 闇の中には、子どもがいる世界とは違う何かがあるはずだった。
 そこで夜更けまで時を過ごす大人は、子どもより大きな存在だった。
 闇への畏怖、別世界にまたがって生きる大人───。
 だから、大人の言葉には威力がこもっていた。
 その分、包んでくれる優しさの風呂敷も無限に大きく感じられた。
 これは、〈子供の領分〉〈大人の領分〉があった時代の歌である。





2007
02.09

後厄年の過ごし方 その1

1 後厄年にあっては、何ごとも〈時間がかかる〉と覚悟して計画を立てれば、運勢を活かせます。

 確かに、ものごとをなすのに時間が多くかかれば「困る」のが私たちの感覚ですが、すべてが早ければ良いというものでもありません。
 たとえば、ウィスキーにしてもワインにしても、熟成という過程を経て初めて円やかで深い味わいや芳醇な香りがもたらされます。
 数学者や科学者は、突きつめて考えた果てに、ある時突然、解が得られるといいます。入浴中に原理を発見したアルキメデスは、その典型でしょう。
 また、母親の手をかけた食事は何よりもおいしく、子どもへ満足や安心を与え、母親や家庭への信頼をもたらします。
 時間がかかることを恐れず、愚痴を言わず、労を厭わず、「精進」を誓い腰を据えてやりましょう。

 時間がかかるなら早く取りかからねばなりません。この時期は、準備や確認といった手順を身につけるチャンスです。
 慌てても間に合わないので、肝心なものごとほど準備を急ぎ、スタートしたなら確実に進められるようその確認もしっかりやらねばなりません。
 古人は、そうした心構えを「段取り八分(ブ)の仕事二分(ブ)」と言いました。
 
2 この時期は、寒い冬が去り温かな春の兆しがやってきたと感じられるような気持になります。

 四季の移り変わりのように、再び廻り来るものがありましょう。それが何であるかを見極めなければなりません。
 愚かな人との腐れ縁だったりすれば、早くはっきりと断ち切りましょう。
 古い付き合いの人から持ち込まれた計画などは、信頼関係のあるなし、目的が善か悪かなどをもって判断しましょう。
 なれ合いや損得だけで動くのは危険です。悪人に利用されかねません。

3 人生の酸いも甘いも経験した年配女性のはたらきがことの成否に大きな影響を及ぼす場合があります。
 
 母親や祖母、あるいは目上の女性を敬い尊び、地に足のついた智慧に学びましょう。

 そもそも、生きものの本性は女性です。特殊な条件が満たされなければ男性は生まれません。
 実際に子孫を残すかどうかは別にしても、女性が生み育てる性であることはまちがいありません。
 母性本能の持つ「自分のいのちに代えても子どもを守る」という絶対の慈悲は、あらゆる生きものの尊さの根源です。 
 母親までが自己中心という煩悩をむき出しにし、裏側に我欲が貼り付いている権利を主張するのみで母性を忘れたならば、人間はあらゆる生きものの中で最下等に堕してしまいます。ハトよりもワニよりも下劣になります。
 現代日本の子どもたちに表れている地獄が母性崩壊によってもたらされた面があるのは、厳然たる事実です。

 もちろん、母性の崩壊は、必ずしも母性を失った本人だけのせいにはできません。
 そうした女性は、現代文明の毒による被害者でもあります。
 私たち全員がイデオロギーに惑わず、真実を観る目を開き、真理と原理をふまえた道理に基づいて生きるよう、方向転換をしたいものです。

 さて、太陽神に仕えた卑弥呼は女性です。
 日本に仏教がもたらされ、最初に出家したのは三人の女性です。
 狩野芳涯の『悲母観音像』は日本人のみならず東洋人の誇りです。
 真の意味で女性を尊び、試練の年を乗り切りましょう。



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2007
02.08

遺言と提案 -戦争の終結と核兵器の廃棄-

 読売新聞によると、昨年12月26日に93歳の天寿をまっとうしたフォード元アメリカ大統領は、生前、ワシントン・ポスト紙のインタビューに応じ、「イラク戦争は正当化できない」と反対意見を述べていました。
 このインタビューは、平成16年7月、元大統領の死後に発表するという条件の下に行われ、遺言ともいえるものです。
 その中で、サダム・フセイン政権が大量破壊兵器を開発しているという理由でアメリカがイラクを攻撃したことを批判し、ブッシュ大統領とチェイニー副大統領は大きな過ちを犯したと断定しています。
 世界を欧米流の民主主義で塗りつぶそうというブッシュ大統領の構想をも、国家の利益を第一とすべきであると批判しました。
 これは、開戦翌年のできごとです。
 叡智の鏡にはとっくに真実と危機が映っていたにもかかわらず、その後2年半を経過した今、状況はさらに悪化しつつあります。

 また、共同通信によれば、1月4日付のウォールストリート・ジャーナル紙は、4名の提案を伝えました。
 4名とは、キッシンジャー元国務長官、シュルツ元国務長官、ペリー元国務長官、ナン元上院軍事委員長です。
 その概要は以下の通りです。

 冷戦時代に核兵器は戦争防止の抑止力であったが、現代における核兵器依存戦略は、北朝鮮やイランなどへの核拡散、あるいはテロ組織が核兵器を取得するなどの恐れがあり、アメリカ政府は、核兵器削減など「良心に従った大胆な行動」を迅速に行わねばならない。
 北朝鮮とイランの核問題を解決するために、北朝鮮、イラン、全核保有国、日本、ドイツを交えた交渉を開始せねばならない。
 核拡散の懸念がある濃縮ウランの管理を強化せねばならない。


 アメリカをリードする外交の専門家たちがこぞって、良心に従って「核なき世界」を目指すべきだと主張したのは、画期的なできごとです。
 この動きに呼応して、ゴルバチョフ元ソ連大統領が提案を支持するとの見解を発表しました。
 核廃絶の支持は、かつて「真剣に核削減交渉へ臨んだ者の義務」だと言い、ロシア、イギリス、フランスを含む全核保有国の努力を促しました。

 戦争と核兵器の問題は明らかに行き詰まっており、ブッシュ大統領の姿勢が解決をもたらすと考えている国はないと思われます。
 今こそ新たな突破口が必要であり、それは不変の真実に立った理想に基づく根本的な方法でなければなりません。
 この遺言と提案をきっかけとして、日本の政治家にも「良心」に従い「大胆」に行動していただきたいものです。




2007
02.08

本厄年の過ごし方 その4

 本厄年に強い障りが生じた場合は、水に関して亡くなられた方の思いが影響している場合があります。
 水と言っても水死者だけではありません。
 水に象徴される「酒」や「性」に関するトラブルによる死者の御霊、あるいは「すべてが水のごとく流れてしまった子」である水子霊なども含まれます。

 思い当たるならば、お祓いや除霊などではなく、まごころと法力によるご供養をもってお慰め申し上げ、無事安全に過ごしましょう。
 もちろん、この年回りに当たる方自身が酒や性に野放図になってはなりません。
 もしも、水子霊をそのままにしておいたなら、きちんとご供養しましょう。
 水子は「水子供養」の欄に明記してある通り決して祟りはしませんが、水子を何とも思わない「いのちの厳粛さに無感覚な生き方」が難問を引き寄せてしまうのです。
 厳しく鍛えられる時期に自分で難問を抱えたのでは、なかなか大変です。

 以上のポイントに学び、守本尊である千手観音菩薩様と水に関する御霊をご供養し、無事安全に厄年を通過されるよう願っています。



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2007
02.07

清めと祈り

 当宗では、祈りの前に清めを行います。

 それは、第一に、何を祈ることも可能であり、善なる祈りは自他へ善果をもたらしますが、悪なる祈りは自他へ悪果をもたらすからです。



 もしも恨んでいる相手の死を祈るならば、そのこと自体が祈る人を地獄へ堕とす悪行であり、祈りをかけられる仏神がいかに尊い方であろうと、救いは得られません。

 古人は「人を呪わば穴二つ」と言いました。

 誰かを恨み、呪い、死を願って墓穴を掘るならば、それは自分の墓穴を掘るのと同じなのです。

 恨みの刃は、恨みを持つ人そのものをも害せずにはおきません。



 また、第二には、善悪は心の問題であり、すべては「動機」にかかっているからです。

 たとえば、金品を奪おうとして一人暮らしのお年寄りに優しい態度で接すれば、いかに行為と言葉でお年寄りを喜ばせようと、悪行です。

 まだ害を加えられないお年寄りが、いくらありがたいと感謝しても、決して善行ではありません。

 もし、凶行に至らなかったとしても、裏腹である心と行為とで人様に接した悪行は、必ず悪果を招くことでしょう。

 善なる心を持たないかぎり、いかなる祈りも、いかなる行為も、いかなる言葉も、穢れたものでしかあり得ません。



 ところで、み仏は、幸せをこう説かれました。



 「心が鎮まっていれば幸せであり、鎮まっていなければ不幸である」



 鎮まっているとは、ただ静かであるということではありません。

 私たちを迷わせ、誤らせ、狂わせる煩悩の火が燃えていないということです。

 その証拠に、悟りを開いたラカンさんたちの表情を見てください。

 ある人は笑い、ある人は泣き、ある人は瞑想しているではありませんか。

「鎮まっている」とは、決して無感動、無表情、無意欲になることではなく、「幸せ」とは、煩悩が消えて本来の清らかないのちの炎が何にも妨げられずに燃えている状態を指すのです。



「清め」とは、自他共に幸せになるために行う心の掃除、煩悩の鎮火です。

 すべてはここから始まります。



「無始よりこのかた貪瞋痴の煩悩にまつわれて 身と口と意とに造るところの もろもろの つみとがを みな悉く懺悔したてまつる」




2007
02.06

生活と仏法 -説法と懇話の会第9回-

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。

 

一 日 時 平成19年2月14日(水)午後4時より午後5時30分まで

一 場 所 天風庵

        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F

        022(266)3730

一 参加費 1500円(コーヒーサービス)

一 主 催  天風庵

一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)



※今回は、開催時刻を早めました。

※立春を迎えたので、特に、「前厄・本厄・後厄」について、受け止め方や心構えなどを詳しくお話します。

 吉凶占いに振り回され、ただただ怖れ、萎縮してはなりません。

 み仏の教えに学び、智慧と慈悲をもって尊い人生をきちんと生きたいものです。




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2007
02.06

色即是空について

 ひんぱんに提起されるご質問「色即是空(シキソクゼクウ)」について、かいつまんで書いておきます。
「色」は目に見え耳で聞こえるものの世界、つまり、この世です。
「空」は、そうしたものの源、つまり、み仏の世界です。
「色即是空」とは、「この世が即ちみ仏の世界である」という単純な真理を示すものです。
 そもそも、み仏を信じない仏法はありません。
 ならば、空こそがみ仏ではありませんか。
(研究を使命とする学者だけでなく、み仏を信じお仕えする行者たる僧侶たちも、み仏を脇へ置いた議論をしている現状は、腑に落ちません)

 ただし、その真理は、頭で考えて“そうか…”と思うだけでは、目の前にある料理を見て“うまそうだな…”と思うのと同じで、人生を動かす力にはなり得ません。

 釈尊は生きたまま、この世で悟られました。
 釈尊が成仏されたことによって、この世でみ仏に成れることが証明されました。

 その境地を目指して行者たちは修行に励みました。
 悟りの追体験をしたい、いかなる方法で悟られたのかを究明したいという一心です。
 釈尊と同じく、恵まれた環境を捨てて悟りを目指したお大師様は、ついに成仏の追体験をされ、しかも、正統な伝授を基礎としてその境地へ至る具体的な方法を確立されました。
 真言密教の根本「即身成仏」です。

 人間がみ仏の子である以上、誰しもが本来の姿になれます。つまり、「即身成仏」は、すべての人々へ約束されています。
 ただし、当然のことながら、方法の実践以外、実現の可能性はありません。
 方法は、「身体も、言葉も、心もみ仏と成る」ことです。
 お大師様は、「迷いの三業を、み仏の三密に昇華する」と説かれました。
 それは、いかなる場で生きていても同じことです。

 釈尊が説かれた戒律のままに生きられれば、即身成仏の実現です。
 身体では「不殺生、不偸盗、不邪淫」、言葉では「不妄語、不綺語、不悪口、不両舌」、心では「不慳貪、不瞋恚、不邪見」です。
 身・口・意を正しく保ち、み仏になりましょう。
 教典はその導き手となるからこそ、今に伝えられています。

 料理を何年眺めていても埒があきません。
 うまそうだな、いつ食べようか、どういう風に調理したのだろうなどと逡巡しているうちに、時々刻々といのちは減って行きます。
 すばらしいことが解ったなら食べましょう。
 み仏になりましょう。
 般若心経という最高の一品がこの世にある第一の理由は、読誦、そして修法という実践によって私たちをみ仏の世界へ誘うため、即身成仏を実現するためなのです。




2007
02.04

自他を幸せにする『四無量心』 6 ―心の豊かな人 心の貧しい人―

 心の豊かな人は、思いやりのある人です。
 誰かに〈やれる〉温かな〈思い〉のある人です。


 心の貧しい人は、思いやりのない人です。
 誰かにやれる温かな心のない人です。


 モノがなくとも、やれる心がどんどんあふれ出る人がいる一方、モノを求めて忙しいばかりに、やれる心の枯れる人もいます。
 心が豊かであるか、貧しいかは、財や地位や名誉や年齢や健康などとは関係ありません。
 財があって心も豊かな人がいれば、財はふんだんにあるのに心の貧しい人もいます。
 財はなくとも心が豊かな人がいれば、財がなく心まで貧しい人もいます。

 どちらの人になるかは、もちろんその人次第ですが、必ずしも心がけが悪いから心の貧しい人になるとは限りません。
 過酷な環境や重い病気や突然の事故などに負けて心が貧しくなってしまった人を責めてはなりません。
 もちろん、負けたことは誰のせいにもできませんが、私たちは誰でも、いつ、何に負けてしまうか判らない存在であることを謙虚に見つめねばなりません。
 辛い状況になった時、“どうして自分だけがこんな目に遭わねばならないのか………”という思いを簡単に払拭できる人ばかりではないのです。
 私たちは、一瞬後に環境が激変するかも知れないし、発病するかも知れません。あるいは事故に遭ったとしても、何の不思議もないではありませんか。

 心の豊かな人に救われる場合があり、心の貧しい人に鍛えられる場合もあります。
 心の豊かな人のそばで憩える場合があり、心の貧しい人の仕打ちに心が萎える場合もあります。
 そもそも、自分自身が、時には心豊かになり、時には心貧しくなってはいないでしょうか。
 この世は、心の豊かな人と心の貧しい人とが万華鏡のように変化し、つながり、離れながら創っている一瞬、一瞬の連続です。

 こうして生き、死ぬ人々は何と愛おしい存在でしょうか。
 慈しみ合えば、この世は優しさであふれます。
 人は何と哀しい存在でしょうか。
 誰かの哀しみを分かち合えば、哀しみはそれだけ薄れます。哀しみは霊性が減らすのす。
 人は一時の喜びに救われてこそ、哀しみの海を泳ぎ続けられます。
 誰かの喜びを我がことと思えれば、喜びは何倍にもなります。喜びは霊性が増やすのす。
 人は同じ時、同じ地球上に薄く漂う空気を吸う仲間によって支えられています。
 生きとし生けるものは、皆、仲間です。

 慈しみを抱き、悲しみを分かち合い、喜びを共にし、気まま勝手な選り好みを捨てましょう。
 この「四無量心(シムリョウシン)」こそが、心を豊かにする打ち出の小槌です。

 誰でも持てる小さな宝ものを、持ってみませんか。



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2007
02.02

2月の運勢(世間の動き)

 今月は、大衆の支持を得られるものがどんどん伸びます。

 それが古今東西変わらぬ人の道にそったものであれば、社会は明るい方向へ向かいますが、愚かなものや邪なものであれば、支持した人々だけでなく社会全体へ良からぬ報いが来ることでしょう。



 魅力あるものに反応する「好み」は人を動かす力となります。それは、いのちに彩りを与える一方、迷わせもします。

 どの道であっても、第一人者となる人は、「自分が好きだ」というレベルを超えて好む対象の中に自分を没入させます。対象と自分は一体化します。 プロスポーツの選手であれ、画家であれ、音楽家であれ、学者であれ、役者であれ、同じです。



 好みは、一人の人間に生きる意味を教えるほどのものでありながら、我欲から生じたそれは、愛憎のもつれによる殺人事件や、各種の依存症などを引き起こし、自他を破滅させる場合すらあります。



 隠形流居合では、「我、好むと好まざるを語らぬは、人に束縛されず、自他の発展を願うがゆえなり」と唱和します。

 世間的な意味としては、「好みを口にすれば、つけ入って好みを満足させてくれる者に束縛されてしまうので、自在に生き、人の道を主として自他の発展を願う行者は、うかつに好みを語らない」ということです。

 また、霊性の世界における意味としては、「好みは得意分野を伸ばす原動力であるであると同時に弱点でもあり、魔ものにとってはとり憑くきっかけとなるので、自他の霊性を高めようとする行者は、魔ものとの縁を作らぬため、うかつに好みを語らない」となります。



 好みに走れば善悪を忘れる場合があります。

 しかし、私たちは、いかなる場合も善悪を忘れるわけには行きません。

 いかなる場合も善悪の判断は最優先であり、好みが優先されてはなりません。

 だからこそ、「是非、善悪、虚実などを判断する力」をつかさどる虚空蔵菩薩様が、生死の境を決める北東(鬼門)を守り、私たちの出発点において過たぬようお導きくださいます。

 ちなみに、「好みや得意なものを見分け、行動を取捨選択する力」をつかさどる大日如来様は陽と陰の境を決める南西(裏鬼門)を守り、私たちのいのちの燃焼において過たぬようお導きくださいます。



 さて、私たちは何を好み、何を支持し、何に期待しましょうか。




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2007
02.01

2月の聖語

手に印契(インゲイ)を作(ナ)し口に真言を誦じ心三摩地(サンマジ)に住すれば、三密相応して加持するが故に、早く大悉地(シツジ)を得 -弘法大師-



(手に印を結び、口では真言を唱え、心をみ仏の境地にすれば、行者の清浄な身・口・意とみ仏の身・口・意とが感応するがゆえに、早く悟りを得られるのである)



 私たちのいのちのはたらきは、身体と言葉と心のはたらきとして現れます。

 

 普段の私たちは、心の通じ合う人と堅い握手をする一方で、つまらぬきっかけで人を叩く場合もあります。

 慰めの言葉で人を救う一方で、心ない言葉で人を傷つける場合もあります。

 誰かの幸せを願う一方で、誰かを深く恨んでいたりします。



 このように揺れ動く身・口・意はそれぞれが業(ゴウ)を生み出します。それを三業といいます。



 しかし、体勢を整えて印を結べば、もう、み仏の姿です。

 真言を唱えれば、言葉に穢れはありません。

 心がみ仏の境地へ入れば、それ以上清らかな心にはなり得ません。



 こうして身・口・意がみ仏のそれと一致すれば、もう迷いの業はどこにもありません。

 凡夫の思量を超えたみ仏の世界は秘密になっており、そのはたらきを三密といいますが、み仏の三密と一致した凡夫の身・口・意も三密になっています。

 この状態が「即身成仏(ソクシンジョウブツ)」です。



 普段の私たちは、心に憎しみや嫉妬を抱きながらにこやかに握手したり、言葉では固い約束をしていながら裏切りの行動に走ったりします。

 身・口・意がバラバラなのです。

 こういう状態では、一時の幸せに慰められても、結局は、迷いの川を浮きつ沈みつしながら滝壺に落ちるまで流れて行くしかありません。



 そこで修行が必要になります。

 三業を三密に変える修行とは、み仏に成る体験、つまり「成仏体験」です。

 これを重ねれば、潜在意識がみ仏の世界に感応する良きものでいっぱいになり、地獄や修羅の世界に感応する悪しきものは、はたらきの力が薄められます。

 それは、運命をみ仏の色に変えて行くことです。

 み仏に導かれて運命を創るとは、こういうことです。

 合掌し、心を静めて正しく保ち、真言を唱えたり経文を読んだりして、「成仏体験」をしましょう。




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2007
02.01

2月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



虚空蔵菩薩(こ・くう・ぞう・ぼ・さつ) 



「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2007
02.01

2月の守本尊様

 今月(2月4日から3月5日まで)の守本尊様は虚空蔵菩薩様です。

『是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。








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2007
02.01

真の布施行 -親輪会の心-

 昨日も親輪会の役員さんとご家族が集まり、『法楽』作りが行われました。

 2月号は60ページを超えたので、特に大変でした。毎回のことながら、頭が下がりっぱなしです。

 

 さて、夕刻に座談会となり、親輪会を盛り上げようと、忌憚のない意見が述べられました。

 役員の方々は、おりにふれ、こういう会がありますからどうですかと入会を勧誘しても、なかなか理解してもらえないと言います。

 それは、墓地を契約した方は、毎年、年間管理料を払っており、契約した永代使用分の周囲はお寺で管理してくれることになっているのに、なぜ、草むしりなどの奉仕活動をする会へ入らねばならないのかという疑問を持たれるからです。



 整理すればこういうことになりましょう。



1 支払っている年間管理料には草むしりなどの必要経費が含まれている。

2 それなのに、自分で草むしりをしなければならないのはおかしい。

3 ましてや、別な会の会費を払うのはおかしい。



 しかし、自発的に発足した親輪会の役員さん方は、こう考えておられます。



1 壇信徒となった以上、み仏の教えを学び、実践したい。

2 お寺での奉仕活動は、その基本である。だから草むしりなどをさせて欲しい。

3 また、仏縁で共に汗を流す法友は、この世だけではなくあの世までも続く永遠の友なので、親しく交流する場が欲しい。

4 だから親輪会を創り、会を運営するには最低限の費用はかかるので、年会費を定めた。

5 親輪会は、あくまでも志を同じくする法友が集う任意の会であり、布施行が自発的でなければならないことを考慮しても、一切、強制的な勧誘はしない。

6 身体が弱いなどいろいろな事情で具体的な行動を共にできない方々にも、趣旨を理解して入会して欲しい。そうして会とお寺を支えてくだる方々にも、入って良かったと思っていただけるような企画をして行きたい。まず、ご本尊様の写真を小さな卓上パネルにした。次は、役員が写経したものを額に入れるなどして、ご希望の方々へお配りしたい。



 胸のつまる思いで、お答えしました。

「寺院は、ご本尊様と、教えと法力、それに僧侶や壇信徒など教えを学び実践し支える人々とによって維持され発展します。それが仏法僧の三宝です。

 一緒になってお支えくださる皆さんのお心には頭が下がります。

 頭割りの募金で立派な建物を造り、あとはお金を払って業者に清掃などをしてもらう寺院であれば、草むしりは僧侶にとっても壇信徒にとっても不要になります。

 しかし、当山は違います。開基してわずか10年。頭割りのお布施依頼をせずにすべて手作りでここまで来ました。

 理想の実現へ向けた発展途上にあるので、皆さんからいただく浄財と奉仕活動でどうにかやっているというのが現状です。

 お手数をおかけするのはまことに申し訳ありませんが、皆さんにできることをもって、自発的にお支えいただくのはまことにありがたいことです。



 寺院を実践の場にしたい、一切のしがらみを離れた法縁の仲間との交流を深めたいというお心は、まさに浄信であり、浄心です。

 私も、仏縁を求める方々へこうした趣旨をきちんとお話しましょう。

 これからもよろしくお願いします」



 四国八十八霊場巡拝のおり、寒い雨の降る朝、境内地を掃除するご婦人や、手押し車にすがりながら参拝をするお婆さんや、作業をしている中年男性の姿に心で合掌した記憶が鮮明に甦りました。

 霊場と同じく、教えが生き活かされている本ものの寺院、真の布施行が実践されている聖地でありたいと、強く願ってやみません。




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