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2007
04.30

寺子屋の根本

 私たちは、ろうとして頭を使い、きちんと突きつめる作業をすれば、まず解っていないものに気づきます。
 調べ、考えているうちに〈そうか!〉という瞬間がやって来ます。み仏からのご褒美でしょう。
 そして本当の「」を得ます。

」は、自らを省みて心の底の底から〈悪かった〉と実感できれば、正常にはたらいている証拠です。
 普段は濁っていて、とかくだめなものは他のせいにし、自己弁護し、慢心が抜けないものです。
 また、「我がため」を優先するので、好き嫌いや損得でが動きます。
 しかし、懺悔する瞬間は、必ず清められています。が清水のように流れています。

 見たい、聞きたい、りたい、食べたいと思って右往左往している時、多くの場合、「」は放縦か習慣によって動いています。
 たとえば、老いた夫に車いすを押してもらっている老いた妻と目があった時、すんなり笑顔と「こんにちは」が出れば、志は澄んでいます。
 あれこれと考えなくとも、人として必要な志は必ずはたらいてくれるものです。

 こんな風にを清めれば、霊性としての仏性が導き手になります

 にバランスのとれた指導を行い、悪しき習慣や気まま心などによって供たちの霊性が本来の輝きを失わないよう指導するのが当山の寺子屋です。
 そこで行われるのは、誰しもが持っている仏性という音叉の共鳴です。
 それは指導者と供との間でも、供同士の間でも、供と自然の間でも、供とみ仏の間でも、もちろん子供と保護者の間でも、どこでも起こります。
 み仏と仏法によって護られた聖地で、仏性という音叉の共鳴体験を重ねてもらうこと、これが当山で行う寺子屋の根本です。
 その場を造る作業はもうすぐ始まります。




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2007
04.30

『日本国憲法・誕生』を拝見いたしたく存じます

 4月29日午後9時からのNHKスペシャル『日本国憲法・誕生』をビデオテープかDVDに録画していた方がおられましたなら、拝見させてはいただけないでしょうか。
 ご一報いただければ参上します。
 もしも送ってくださる場合は送料などの経費を負担しますので、よろしくお願いします。

 仏法は〈まっとうに生きるための考え方と力を発揮する方法〉を説くものであり、それは、世界や世間の動きに応じて「最善手」を見つける努力なしには活かされません。
 仏道を志す人間の車の両輪は、菩提心(ボダイシン)と勝義心(ショウギシン)です。
 自他の迷いを解くことと霊性の向上とをめざすならば、心が「世捨て人」になってはなりません。
 たとえ病院のベッドにいのちをつないでいても、善きできごとを話題にし、にっこりと笑う和顔悦色施(ワゲンエツジキセ)という布施行は可能なのです。

 自分の業(ゴウ)を見つめ、人の世の業を見つめながら、性悪説に逃げ込まず、真摯に生きたいものです。




2007
04.29

「焚火の会」のご案内 ※主催者原文のまま

昨年秋の「焚き火の会」から早半年。
その日はあいにくの雨だったため、室内でのキャンドルの会で盛り上がりましたが、たっぷり集めた焚き木はそのまま・・・;

そして、今度こそとの思いを込めて、「焚き火の会」を企画いたしました。

恒例の焼き芋や焚き火を囲んでの歌のほか、今回は特別ゲスト「さばカン」さんのアフリカンドラム演奏や法楽寺の和尚様による真言密教の行もございます。
さらに、「ひとつぶカフェ」の天然酵母パンとあったかシチューなどなどのお楽しみ焚火ランチボックス&ドリンクつきです

焚き火が好きな方、火を見ると血が騒ぐ方、太鼓が好きな方、おいしいものが好きな方、密教に興味のある方・・・、どなたでも大歓迎です!
なんだかすごく楽しい会になりそうですね^^

泉パークタウンから車で約10分、山里の自然を楽しみながら焚火を楽しみましょう!晴れますように

みなさんのご参加をお待ちしております♪

日時:5月12日(土)受付12:30~13:30終了16:00予定 



場所:大師山法楽寺「法楽の苑」(黒川郡大和町宮床)

  

会費:2,000円 



申込締切:5月10日(木)

     限定30名様です。お早めにお申し込みください。



申し込み:022-307-6802 

     ル・ブルー&ひとつぶカフェ




2007
04.29

み仏は結果を問いません

 こんなできごとがありました。



 心身の調子が出ないAさんへ、それとは知らないBさんが、暖かなネットワーク作りをしているCさんを紹介しようとしました。

 まじめな性格のAさんは、対人関係でも一生懸命、失礼のないようにふるまい、身体の不調が他からは判らぬよういつもしゃっきりとしているので、Bさんは不調に気づかなかったからです。

 熟慮の末、自分にはネットワーク作りが無理だと判断したAさんは、Bさんへ「Cさんとの接触を断りたい」と回答しました。

 事情を知ってびっくりしたBさんは、Aさんへ謝りました。

 Aさんは、お詫びには及びませんと挨拶をしました。



 これだけのことですが、人の道を説くみ仏の教えはあくまでも動機を重んじるものであることを再考させられました。

 

 Bさんは、好意から紹介しようとしました。

 だから、Aさんが一時的に悩み、何ら結果は出なくとも罪はありません。

 Aさんの不調は、気づきにくいからです。

 明らかな不注意や怠慢やいいかげんさから判断を誤ったのなら別ですが、まっとうにおつき合いし〈良かれ〉と願って行う行為に、決して罰は下りません。



 そもそも、行為は必ず何らかの結果をもたらしますが、結果が出るまでいかなる因縁がからむのかを判断し尽くし責任を取るのは、み仏ならぬ私たちにとって不可能です。

 たとえば、お世話になった相手がいかにもエネルギッシュで、体格からしても「斗酒をも辞せず」の酒豪だろうと思い、喜んでもらおうと佳い酒を持参したら、意外なことに下戸だったということはいくらでもあります。

 問題は、〈良かれ〉と願ったかどうかです。

 

 人が清浄になるのは、「我がため」でなく「他のため」を願う時です。

 み仏ならぬ私たちが穢れているか清らかであるかは、あくまでも動機によります。

 み仏の教えは、厳しく結果を問う功利主義や成果主義とは無縁です。

 すべての人々へ等しく救いが用意されています。


 あまねく慈しみ、あまねく憂いや悲しみを癒し、あまねく喜びを分かち合いたいものです。




2007
04.28

5月の守本尊様

 今月(5月6日より6月5日まで)の守本尊様は普賢菩薩(フゲンボサツ)様です。

『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩による苦を解決し、心の平穏を保つ智慧をつかさどるみ仏です。

 煩悩は、〈自分を迷わせ、他から邪魔される〉魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。

 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。








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2007
04.28

5月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



普賢菩薩(ふ・げん・ぼ・さつ) 



「オン サンマヤ サトバン」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2007
04.27

『理趣経(リシュキョウ)』百字偈 ②

菩薩(ボサツ)の勝慧(ショウケイ)ある者は 乃至(ナイシ)生死(ショウジ)を尽くすまで
恒(ツネ)に衆生(シュジョウ)の利を作(ナ)して 而(シカ)も涅槃(ネハン)に趣かず



 理趣経(リシュキョウ)は、悟りの眼から観るこの世の真姿が大楽(タイラク)であることを説いています。
 その世界へ入る可能性はすべての人へ与えられています。
 なぜなら、み仏の子でない人は一人もいないからです。
 だから、密教寺院である当山は、開山以来

「法灯に因り法友と共に法楽に住せん ―み仏の教えに導かれ、仏たる我ら皆共に、喜びの世を生き抜かん―」

の旗を掲げています。
 
 さて、この偈(ゲ)は
「自他を幸せにする智慧のある行者は、この世の苦がなくなるまで、生涯かけて励み、自分だけが安楽世界で憩うことはない」
と説いています。

 菩薩とは、上求菩提(ジョウグボダイ…自らの悟りを求めること)と下化衆生(ゲケシュジョウ…人々を教化し救うこと)の実践をする存在です。
 たとえば、泳げない人が、泳げない自分と同時に泳げない人々をも救うために、水泳の厳しい練習に励むようなものです。

 いかに心優しくとも、溺れている人を救うためには、ただ泳げるだけでなく、救えるだけの力を得るまで練習せねばなりません。

 しかも、いかなる状況に陥っている人をも絶対に救おうとするならば、一生涯練習し続けても「これで良い」ということはないことでしょう。
 もちろん、溺れる人は絶えません。
 こうした〈不変の願い〉を持ち〈不退転の努力〉を続ける存在が菩薩です。

 およそ仏道の行者はすべて菩薩をめざすべきであり、ヒマな僧侶や趣味にうつつをぬかす行者などあり得ず、「のんびりしている趣味人」は、菩薩ではありません。
「生死を尽くすまで」とは、この世から生・老・病・死に代表されるすべての苦がなくなるまでという意味であり、経典は、大日如来のおはたらきを「獅子奮迅」と表現しています。
 教主が一刻の休みなくはたらいておられるのに、弟子が悠々としているなどということが許されましょうか。
 常に「衆生の利」のために生き続けるのが弟子の務めです。
 修行によって安楽の境地を得たとしても、決してそこへ逃げ込まない「涅槃に趣かず」こそ、菩薩の真骨頂と言わねばなりません。

 しばしば、こうした人生相談がありますが、もしも「勤め上げた後は出家しよう」と思っておられる方は、ぜひ、このあたりをしっかり認識していただきたいと願っています。
「のんびりしている趣味人」といったイメージでは、出家したこと自体で自己満足するならともかく、本ものの僧侶になることは不可能です。

 ただし、〈不変の願い〉を持ち〈不退転の努力〉を続けることは、誰にでも可能です。
 たとえば、信徒Kさんは、自分の番であろうとなかろうと、日々、ゴミ集積場や道路の掃除を欠かしません。
 それは、人々に公共心や責任感や連帯感を持ってもらいたいと願っているからです。
「あまり酷いことをする人は少なくなりました。ここまで5年かかりました。あと5年もすれば、もっときれいになるでしょう」
 釈尊が、「姿形ばかりの行者であってはならない、心が問題である」と説かれたとおりです。
 Kさんこそが、真の菩薩です。

 出家と在家とで、心の清らかさや行いの気高さに差のあろうはずはありません。
 何よりも我が身を省み、自己流でなく正しく学び、自分のできることを行うところから始めることをお勧めします。




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2007
04.26

皐月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。

(掲載が一ヶ月遅れになる場合があります)



梅一枝白きを活けて利休の忌



梅の香に憩へば風の甘きかな



二分咲きがほどや三椏(ミツマタ)順序よく



三椏(ミツマタ)の花の十字の健気かな









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2007
04.26

十善戒の歌8 ―不両舌―

とにかくに あしくいひもて あしがきの なかをへだつる ことぞいやしき
(とにかくに 悪しく言いもて 葦垣の 中を隔てつる 言ぞ卑しき)

「慈悲」という言葉は、「慈」と「悲」から成っています。
「慈」の原語マイトリは、ミトラ(友情)の抽象名詞です。
 いわば最高の友情が「慈」であり、人々へ楽を与えたいという「与楽(ヨラク)」の心とされています。
「悲」の原語カルナーは、衆生の悲しみを共にすることです。
 悲しんでいる人のそばにそっと寄り添い、悲しみを和らげたいという「抜苦(バック)」の心とされています。

 こうしてみると、慈悲の根本には、他人を「他人だから」と突き放さず、人々はもちろん生きとし生けるものは皆いのちを分かち合っている友であるという姿勢があります。
 自分と無関係ないのちは、どこにもありません。
 
 仏法における「唯願わくば慈悲をもって哀れみを垂れたまえ」という祈りの文は、サンスクリット語の「どうぞ」に発します。
 考えてみれば「どうぞ」には浅からぬ意味があります。
 仏神へ「どうぞ、この病気を治してください」と祈る場合は、自分の幸せを求めており、誰かへ「どうぞ、どうぞ」と勧めたり承諾の返事をする時は、相手へ幸せを与えようとしています。

 良かれと思う純粋で強い気持が起こった時、私たちは「どうぞ」と言うようです。
 そこに、自他を分ける分別はありません。自分が自分にとってかけがえのない存在であるならば、他人も同じくかけがえのない存在なのです。
 この「存在」を友というのではないでしょうか。

 自分可愛さや誰かを貶めようとする憎しみなどから相手によって使い分ける二枚舌は、慈悲心すなわち仏心に背く醜いものです。
 僧月照は「二枚舌は、寄り添い合って生きている葦たちをバラバラにして枯れさせるような卑しいものである」と説き、慈雲尊者は「交友を尊び、二枚舌を離れよ」と説かれました。
 不両舌戒を守り、誠の道を生きたいものです。




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2007
04.25

『宮床弘法水』を掘った方

 当山に貴重な井戸『宮床弘法水』を掘ってくださったYさんが来山されました。
 一本は魚たちを育て、一本は『宮床弘法水』となって私たちに潤いを与えてくれています。
「ガンなので、掘った井戸の処置の仕方をお話しておきたいんです」
 去年、泊まり込みでやってくださった時は、毎晩毎晩、一升瓶を相手にしておられたし、今も大病の気配はみじんもなく、一瞬言葉を失った私にいつも変わらぬ笑顔で続けられました。
「ガンは誰にでもポコポコ出ているそうですね。それが大きくなるかならないかだけの違いだと聞きました。
 誰でもいずれは死ぬんだし、しょうがないことです。
 ただ、どなたかが井戸のモーターや管の掃除のやり方を知らないと困るでしょうから、檀家さんにでも同席していただいてやって見せておかないと………」

 まっすぐな視線には達観があり、病気についての儀礼的な言葉は必要がないので、神様と言われた掘り師の技術が失われることを惜しみ、お弟子さんはいないのですかと訊ねました。
「ボーリング業で食べて行くのは、ほとんど不可能です。
 とにかく元請けさんから言われる値段が厳しいのです。
 もちろん、仕事がいつ来るか分からないので、誰かを雇っておくことはできません。
 一人でやるしかないのですが、これがなかなかきついものです」

 今はインターネットの時代だし、必要としている方々から直接注文を受けたらどうですかと問いました。
「おそらく注文はたくさん来るでしょうが、ほとんどは、都会のお金持からでしょう。
 水道水ではない自然の水を欲しい人は、お金に糸目をつけません。
 でも、都会では、ボーリングする時の音といい、どんどん流す水の処理といい、仕事にとりかかることそものものがとても難しく、しかも、少しぐらい掘ったからといって良い水が出る可能性はあまりまりません。
 もしもうまく出なかったらどうかとか、安全上、何人でやらなければならないとか、契約にも難しいものがあり、これまでの経験からして、都会ではあまりやりたくないのです」

 じゃあ、いつも、Yさんが言っておられる「待っている人たち」とはどういう人なのかと不思議になりました。
「生活上、井戸が必要な人です。
 山奥の一軒家に住んでいる人は今でもたくさんおられ、洗濯にも気を遣いお風呂にはやっと浸かれるほどしか水を入れないなど、沢から汲む水をとても大切にしています。
 こういう人々は、井戸水が出ると本当に喜びます。
 だから、私のような者を神様などと言ってくれるのです。
 行ってやりたいけれども金銭的、体力的になかなか大変で、困っているのが実情です」

 また、言葉を失いました。
(この日本に、水道のない人々がいるのか)
 Yさんは、かまわずに続けました。
「ボーリング屋と称する人たちはいっぱいいますが、ほとんどは、とにかく〈深く掘れば良い〉と思っています。
 ところが、何メートルまで掘ってだめだったから、次は何メートルまで掘ろうというんでは、水をつかめません。掘りながら良い水をつかむことが簡単ではないのです。
 出ないので焦り、どんどん掘ると金気の多い水にぶつかり、もっと掘ればと頑張ると今度は臭い水が出たりするものです。
 途中にあった水脈を見逃している場合がとても多いのです。
 もっとも、掘る前に場所を見極めることが一番難しいのですがね」

 やや息の上がった様子に、ちらりと病人の影を見せ、そのうちに連絡しますと言ってYさんは去りました。
(大恩人Yさんがいなくなる。
 彼の手足であり相棒となっている使い古した道具たちは主人を失う。
 待っている人たちは永遠に救世主を失う。
 そして、たぐいまれな技術もこの世から失われる―――)

 あらためて『宮床弘法水』の脇に立つお大師様に手を合わせ、水を口に含みました。
 水の爽やかさとYさんの笑顔が重なりました。




2007
04.23

エンデの島

 4月25日、小説家高任和夫氏は、最新作『エンデの島』で「この国の理想の未来」を世に問うた。

 ちょうど1年前の同日、彼は『偽装報告』を上梓している。

 赦しの視点が見え、企業における組織の論理と、それにまといつく非人間性の糾弾を描いた一連の企業小説が到着点へ行き着いたと感じた。

 そして、次はどうなるのだろうかと心待ちにしていたところへ、この朗報である。



 彼は、『偽装報告』で

「人間は知能が発達してくればくるほど、とんでもないこと、わるいことを考えるようになる。そして、出世して現場からはなれると、上司にゴマをすったり、ライバルの足を引っ張ることばかり考える。小人閑居して不善をなすというが、暇なエリートほど始末のわるいものはない。なまじ頭がいいばかりに、とんでもないことをおもいつくんだな」

と書いた。

 また、

「挑戦心とは、外にむかって発揮するものだけじゃない。内なる敵と、自分の弱さと闘うことだ」

とも書いた。

 企業から否応なく漏れ出る悪との闘いを自分との闘いと位置づけ、励ましている。

 しかし、『エンデの島』では、「冒険や革命」が男の真骨頂であるとし、主人公へ「男の幸せは恋と冒険だね」と言わしめている。

 冒険心が理想の旗となり、恋が旗手を励ます。



「いつから、こんなに住みにくい国になってしまったのか……。市場原理主義とかグローバル・スタンダードがもてはやされるようになってからじゃないか」

とスタートしているこの小説は、真摯に生きようと「終(ツイ)のすみか」を求める人々へ「流人の島」を用意した。

「挑戦せずに何かが生まれたためしはない」のである。



 主人公門倉がめざす「奥ノ霧島」は理想郷である。

「奥」は隠れている真実を示唆し、「霧」は、その中へと人を優しく誘う。

 事実、そこには〈真に生きている〉人々がおり、生きる手段である労働によって得られる金銭は

「お金というものは、自分自身のためにだけあるものではない。社会のために役に立てるためにもあるのだ」

という思想をまとって島を流れている。

 そして、理想の旗手は決定的な言葉をはく。

「経済はじつは愛の領域なんだよ。人が幸せになるためのものだ。ものをつくる喜びを味わったり、人の役に立つビジネスをやったり、コミュニティを支えたりするのが経済というものなんだ」



 おりもおり、当山は、この地域における新たで安心なコミュニティづくりに関わっている。終(ツイ)のすみかの提唱である。

 期せずして、関係者一同のバイブルが現れた。

 きっと、「特別なものではなくて、生きる上で必要なもの」である文化の香り高い日々を送りたい人々にとっても、バイブルになることだろう。








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2007
04.22

光に………

 昨年の11月22日、『み仏はあなたのそばに』の出版記念講演会で隠形流居合を行い、「四無量心」の修法をしたところ、写真を撮っておられたEさん(仙台市在住)のカメラに、2枚の不思議な写真がありました。

 印を結んだ直後の私の姿が消えています。

 画面中央、ピアノの右下で立っており、写らないはずはありません。

 他の場面では普通に写っているのにこの写真では丸い光しかなく、Eさんは不思議に思い、持参されたそうです。








2007
04.22

初めて選車に乗った奥さん

 故郷のために役に立ちたいとの一念で政界をめざしたTさんは、勝った負けたをくり返し24年になる。
 特段の財も地盤も看板もなく、それらに恵まれた人々と戦い続けて来た。
 奥さんM子さんは公職にあり、これまで一度も夫と共に戦えなかった。
 他に収入を求めない夫を陰から支え、子供たちを育て上げた。

 無事、定年まで勤め上げたM子さんは、今回、初めて夫の選車に乗り、運動に加わった。
 最後の個人演説会場で、M子さんは泣いた。
 聴衆も泣いた。

「初めて夫と一緒に選車から手を振り、支援者のお宅を訪ねました。
 古くから応援していてくださった方々は、男女を問わず、夫の姿を目にしただけで泣くんです。
 『Tさん』と言ったきり、声になりません。
 その手を握る夫もただ泣きます。
 男は無くものじゃないという時代に育った私は、家庭で一度も夫が泣くのを見たことはありませんでした。
 ああいう姿を見たのは初めてです。

 また、新しい町を創ってくださいという新たな支援者の方々にも励まされました。
 夫に期待をかけ、純粋に支援してくださる方々のまごころに、ただただ感謝の気持ちでいっぱいです。

 20年以上も夫を支えてくださった皆さんのためにも、新たな町を創って欲しいという皆さんのためにも、そして夫のためにも、当選できれば良いなと心から思います。
 本当にありがとうございました」

 聴衆の顔を見ると涙になるのだろう。
 うつむき、そして涙を堪えるように天を仰ぎ、M子さんは訥々と語った。

 M子さんの前に夫が訴えた時には、M子さんが泣いていた。
 そして、M子さんの言葉に夫が泣いた。

 最後に揃って頭を下げる二人を励ます万雷の拍手は鳴りやまず、二人は何度も何度も腰を90度に折った。
 こうしてM子さんの短い5日間は終わった。

 会場を埋め尽くした聴衆を送り出してから、M子さんは述懐した。
「私はこれまで、常に立場を持った人間として皆さんと接して来ました。
 しかし、夫は無職で、何もない一人の人間です。
 何者でもない一人の男を心から信じ、期待し、励まし、応援してくださる皆さんの心は、ただただありがたく、感動し感謝するだけでした」

 今夜、結果が出る。
 夫婦の願い、無心に集い戦った皆さんの願いが叶って欲しいと思う。




2007
04.21

『理趣経(リシュキョウ)』百字偈 ①

 密教における根本経典である『理趣経(リシュキョウ)』に「百字偈」があります。
 いわば経典のエッセンスです。

菩薩勝慧者(ホサショウケイシャ) 乃至尽生死(ダイシシンセイシ)
恒作衆生利(コウサクシュウセイリ) 而不趣涅槃(ジフシュデンッパン)
般若及方便(ハンジャキュウホウベン) 智度悉加持(チトシッカチ)
諸法及諸有(ショホウキュウショユウ) 一切皆清浄(イッセイカイセイセイ)
欲等調世間(ヨウトウチョウセイカン) 令得浄除故(レイトクセイチョコ)
有頂及悪趣(ユウテイキュウアクシュ) 調伏尽諸有(チョウフクシンショウユウ)
如蓮體本染(ジョレイテイホンゼン) 不為垢所染(フイコソゼン)
諸欲性亦然(ショヨウセイエキゼン) 不染利群生(フゼンリキンセイ)
大欲得清浄(タイヨクトクセイセイ) 大安楽富饒(タイアンラクフジョウ)
三界得自在(サンカイトクシサイ) 能作堅固利(ノウサケンコリ)



 読み下してみましょう。

菩薩(ボサツ)の勝慧(ショウケイ)ある者は 乃至(ナイシ)生死(ショウジ)を尽くすまで

恒(ツネ)に衆生(シュジョウ)の利を作(ナ)して 而(シカ)も涅槃(ネハン)に趣かず

般若(ハンニャ)及び方便(ホウベン)の 智度(チト)をもちて悉く加持(カジ)し

諸法及び諸有(ショユウ)をして 一切皆清浄ならしむ 

欲等(ヨクトウ)をもちて世間を調し 浄除(ジョウジョ)することを得せしむるが故に

有頂(ウチョウ)より悪趣に及ぶまで 調伏(チョウフク)して諸有(ショウ)を尽くす

蓮體(レンタイ)の本染(ンホンゼン)にして 垢の為に染められ不(ザ)るが如く

諸欲の性も亦(マタ)然(シカ)り 不染(フゼン)にして群生(グンジョウ)を利す

大欲(タイヨク)清浄を得て 大安楽にして富饒(フジョウ)なり

三界(サンカイ)に自在を得て 能(ヨ)く堅固の利を作(ナ)す

 このように、大乗仏教における理想の実践者である菩薩(ボサツ)の真姿を説く教えは5つに分かれています。
 それは、み仏の子である私たち人間の理想像を5つのポイントで示すものでもあります。




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2007
04.20

【現代の偉人伝第三十七話】 ―盾になったイスラエル人教授―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 4月16日、米国バージニア工科大で韓国人学生チョ・スンヒ容疑者による銃乱射事件が起こり、米国史上最悪となる33名もの犠牲者を出した。

 うち2名は寄宿舎で、30名は教室棟で殺害され、1名は自殺した犯人自身である。



 教室が襲われた際、リビウ・リブレスク教授(76歳)は銃声を聞きつけていち早くドアを閉じ、自分でドアを押さえながら学生たちを窓から非難させ、乱入した犯人に射殺された。

 

 ルーマニア生まれのイスラエル人教授は、第二次世界大戦中、父親がユダヤ人収容所へ入れられてから逃亡生活を送り、ホロコースト(ユダヤ人虐殺)の嵐を生き延びた。

 東西冷戦中のルーマニアで教授になったが、共産主義政権と対立してイスラエルに移住後、80年代からバージニア工科大で教鞭をとっていた。

 テルアビブ郊外に住む息子は「冷戦中、父は命がけで論文を発表していた。だから、父が犯人に立ち向かったと聞いても驚かなかった」と話している。

 

 なお、反ユダヤ活動監視団体「サイモン・ウィーゼンタール・センター」のマービン・ハイヤー館長は、16日がホロコースト記念日であることを指摘している。



 犯人がNBCテレビ送付した写真の一枚は、暴力シーンに溢れた韓国映画「オールド・ボーイ」のDVDのパッケージにそっくりであり、英文学の授業で課題とされた戯曲の創作では、過激な言動をくり返すロックバンドの曲名「ミスター・ブラウンストーン」をつけて提出したが、作品は暴力と憎悪に満ちあふれ、読むに耐えないという。



 17日の日本では選挙期間中の長崎市長が銃撃でいのちを落とし、18日にはイラクのバグダッドで150人以上の人々が爆弾テロの犠牲になった。

 はてしなく刺激と快楽を求める現代文明は最も直截的にそれを満たす暴力とセックスの表現に走り、性悪説は不信感を増大させ銃を蔓延させ、さらには兵器を強力化させて止まるところを知らない。

 現代人は、化け物に仮装した自分の顔を鏡で見て、心の化け物を呼び起こしているのではなかろうか。



 そうした中でも、人間の霊性は輝く。文明の毒牙に動じない教授の行為は、私たちの心に希望をつなぎとめる。

 昨年の10月2日には、やはりアメリカのペンシルバニア州ランカスター郡でアーミッシュが運営する学校へ銃を持った暴漢が押し入り、5人の子供たちを殺害した。

 その際、13歳の少女が、自分を撃ち友だちは助けてくださいと言って殺され、さらにはその妹が次は私を撃ってくださいと訴えたということは『―アーミッシュ・赦す人々―』に書いた。



 今ならまだ間に合う。

 好きこのんで化け物に仮装する愚かさに気づかねばならない。

 霊性が不信と不安と恐怖と憎悪にすっぽりと包まれないうちに出直さねばならない。

 すべての責任は、気まま心と我欲を野放しにした私たちにあることを肝に銘じて出直さねばならない。

 ――未来を創る子供たちを誤らせないためにも。

 




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2007
04.19

色情因縁の解決4 ―色情因縁のタイプ―

 当山は、これまで、「破滅への色情因縁を芳香に変えましょう 」及び「菩提心(ボダイシン)とは?」そして「極楽と地獄を見たアーアナンダ」において、色情因縁について書きました。
 最後に、それが表れやすい代表的なタイプを書いておきます。

1 煩悩に妨げられて知恵がはたらかず失敗するタイプ ご先祖様やみ仏の戒めを受けたり、上司や指導者から叱られたりし、重大な問題で失敗をやらかします。
 争いごとを起こしたり、居直ったりすれば、大きな傷を負うことになりかねません。
 因縁解脱によって、悩みを抱えた人の心を深く理解する大悲の人になりましょう。

2 自分から悶着を起こしてしまうタイプ
 なまじ他人や身内から信用されるばかりに、良からぬ状況を引きずってしまいます。
 長引けば長引くほど、親しさが募り、最期は信用を地に落としてしまいかねません。
 因縁解脱によって、太陽のように暖かな心を持ち、困っている人へ手を差しのべられるようになりましょう。

3 素直に楽しんだり話したりできないのに異性への興味が強いタイプ 一旦親しくなると、善悪を忘れ、困難な状況に陥ります。
 水中に発生したオタマジャクシがうごめくように新たなトラブルの種が後から後から芽を出し、災いが続きかねません。
 因縁解脱によって、瑞々しい感覚を持ち新しい世界の扉を開く人になりましょう。

4 自分には無いものを持った相手に惹かれトラブルを起こすタイプ
 知恵やセンスに鋭いものを持っているばかりに、そうした面から相手へ近づくと予想もしない展開になり、とまどってしまいます。

 争いや諍いが絶えず、最期は背反してしまい、後味の悪い結末になりかねません。
 因縁解脱によって、味わいのある楽しみ方をもって真の和を創られる人になりましょう。

5 決断やけじめをつけることが苦手で、ズルズルと引きずるタイプ
 小さな子供に悪影響が出やすく、言うことを聞かない我がままになったりします。
 指導者や頼りになる人がどんどん離れ、愚か者に流される生き方になりかねません。
 因縁解脱によって、人々の心に共通する思いを忖度し、大地に足を踏ん張って生きる人になりましょう。

6 頑固で動くのが嫌なのに突然とんでもない行動に走るタイプ 妻や母親や家庭に悪影響が出やすく、後でしまったと思うようなことをくり返します。
 多勢に行く手を塞がれ、なかなか思うように前進できない羽目になりかねません。
 因縁解脱によって、毀誉褒貶に揺るがず、守るべきものを守って動じない人になりましょう。

 いずれの場合も、色情因縁に負けて起こしてしまった問題への共通した対処法としては、策を弄することなく、言い訳をせず、心から懺悔し、出直すことです。
 実際の色情因縁の表れ方はその方その方、その場合その場合で千差万別です。占いの本やコンピューターの答などで対応できるものではありません。
 詳しくは、個別のご相談となります。

 これまでも記したとおり、色情因縁は、主として異性間ではたらく引力の問題です。
 過去の因縁のすべてを背負ってこの世に生まれてくる以上、強さの強弱は別として必ず持っています。
 この気配は、それ自体が悪であるということではなく、自分自身の生き方によって善くも悪しくもはたらきます。
 煩悩に流されて肉体的に用い、自他を混乱させたり破滅させたりしてはなりません。
 菩提心(ボダイシン)に導かれて知的に用い、心の絆を深め自他を幸せにしたいものです。


 なお、この因縁の最も悪しく表れる形が不倫です。
 霊性のある人間にとっては、実際のセックスのあるなしは二義的です。
 伴侶がありながら他の異性に惹かれることは起こってあたりまえですが、そのままに流されるならば、人倫に背くことになります。
 昨今は「不倫愛」「略奪愛」などと言い、最初から言い訳をするような愚かしい表現が反乱しています。こうした風潮に流されぬようにしましょう。
 最後に、「色欲とのつきあい方」の一部を再び掲載しておきます。
江戸時代に説かれた慈雲尊者の戒めは、そのままそっくり現代人への戒めにもなっています。
 私たちの霊性向上の旅は、目的地へ到着するまでやはり56億7千万年かかるのでしょう。

「この不邪淫戒は、万巻の書を暗唱する者ですら、持たねば身に災いが来る大切な戒めである。はなはだしい場合は、家を滅ぼし国を滅ぼす。この戒に背かなければ一生、心安らかである。学者も愚者も、同じように慎み守らねばならない」

「国の乱れもこの戒が破られることを元として起こる。家の礼節の破壊も、身の礼節の不備もこれを元として起こる。謹慎に戒を守る者は、神々の冥助が得られる。男性も女性も、我に属せぬ者に心を寄せてはならない。みだりに狎れ睦まじくしてはならない」

「淫欲は身心を縛り、重なり来る憂いとなる。愛欲に随順すれば、この世界はことごとく執着の地獄となる。淫欲・愛欲が流れれば我を一番とする高慢となり、あるいは争いを起こす」

「愛欲は心身の安寧と澄んだ智慧の障害となるので、戒律で深く戒められている」

 
 尊者は、色欲による「乱れ」が身を滅ぼし、家庭を崩壊させ、ひいては社会関係すら破壊してしまうと説かれました。
 乱れは、親しくなるべきでない相手と「狎れ親しむ」ところに起こり、そうした「いい加減さ」は昂じて人格を賤しくし、精神の背骨を砕きます。

 男性の「優しさ」が向けられるべきでない相手へ向けられること、女性が自分を大切にし「守る」意識が薄れること、これが「いい加減さ」の現れです。 心をあいまいに揺れ動くままに任せていれば、はてしなく、いい加減になることでしょう。
 倫理・宗教の必要性は、たやすくケダモノになり得る人間の尊厳を守るところにあります。
 尊者は「正義不邪淫戒」と説かれました。
 色欲の相手はただ一人と思い定めましょう。
 この単純な決意が、一夫一婦制の私たちにとって正義と尊厳を守る生き方になります。



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2007
04.17

十善戒の歌7 ―不悪口(フアック)―

わがやどに やしないおける いぬだにも しかりたけりて せめじとぞおもふ
(我が宿に 養いおける 犬だにも 叱り猛りて 責めじとぞ思う)
 
 月照は、飼い犬にすら荒々しい言葉で怒鳴りつけたり、責め付けたりしないように心がけねばならないと説かれました。
 相手が人間であれ、犬であれ、自分の心の暴れるままに言葉やふるまいをもって相手に襲いかかることは、煩悩に支配されている証です。
 粗暴であっては、相手の煩悩にも火をつけ粗暴なふるまいに走らせる危険性があります。現に慎まねばなりません。
 慈雲尊者は、それを
「この戒、謹慎の徳。従順の功なり」
と説かれました。

 ところで、ここで説く「従順」とはいかなる心でしょうか。
 それは、素直で、状況に自分を合わせ、我を張らない心です。
 そうした人になれば、悪口(ワルクチ)などによる愚かしい攻撃性は薄れることでしょう。

 私たちは、ともすると誰かの悪口を言います。
 時に応じ、ことに応じて、自他のためであれば勇気をもって間違いや問題点を指摘することは大切ですが、ともすると、嫉妬や自己弁護などが陰で悪口を言わせます。
 その典型が、〈自分の持っていないものを持っている人を攻撃する〉というものです。
 金銭であれ、美貌であれ、名声であれ、地位であれ、能力であれ、持たざる者が持てる者を、持っているがゆえに悪し様に言う時、心は濁っています。
 いかなる理屈を口にしようと、嫉妬や自己弁護は汚らわしいのです。
 それは、持てる者が持たざるものへ向ける無慈悲な心と同じ醜さです。

 そもそも、「持てる者」と「持たざる者」との線引きなどできようはずはありません。
 区別をする善いきっかけとしては、貧窮に苦しんでいる人を見て自分が恵まれていることを知り、手を差しのべます。
 また、世の中がおかしいと義憤を感じた時に自分の非力さを痛感し、活躍している政治家のようになりたいと勉強を始めます。
 一方、悪しききっかけとしては、自分が持っていることを誇り、持っていることを美化しようとして初めて両者の区別が生まれます。
 また、自分が持っていないことを僻み、持っていないことを正当化しようとして初めて両者の区別が生まれます。
 
 たとえば、財物であれば、あってもなくても他と比較して誇らず、僻まず、自他のために活かすならば、少ない財は少ないなりに、多い財は多いなりに役立ちます。
 財物を用いる人の智慧と慈悲のあるなしのみが問題であり、財物のある在家の方は穢れており、財物のない出家者は清らかだなどということは断じてありません。
 財物がなく我を張るだけの出家者が、持てる財を活かして世のため人のために一心不乱に汗を流している在家の方より清浄であり得ましょうか。
 だから、聖徳太子は、富豪でありながら文殊菩薩にも負けない悟りを開いた維摩居士(ユイマコジ)が主人公である『維摩経』を大切にされました。
 釈尊は「姿形が行者であれば清浄なのではない。心が穢れていないかどうかを直視せよ」と厳しく説かれました。

 
 むろん、プロの僧侶になるための修行に個人の財物は要らないので、出家者は財物を離れた時期を過ごします。
 しかし、いつまでもそのままで良いわけはありません。この世に生かしていただいている以上、社会へご恩返しをせねばならないからです。
 親の庇護を受けている子供が学校で勉強をせねばならないのには理由があるのと同じです。
 いかなる職業に就こうと、己を育ててもらった環境世界である家族と社会へ恩返しをするのが人間としての努めです。
 それが菩薩(ボサツ)になるということであり、僧侶になるための第一歩は、「国家社会、親、生きとし生けるもの、師、仏法僧への恩を忘れない」という誓いから始まります。
 
 修行を重ね真のプロとなったお大師様は、さまざまな場所におけるご祈祷で社会の安寧を祈り、ご加持で病気を治し、ご供養で御霊を弔っただけでなく、東寺を整えて布教の場とし、高野山を開いて修行の場とし、天皇から庶民に至るまで求めに応じて仏法を説き、井戸を掘り、堤防を修理し、学校を創りました。
 それができたのは、法力と人徳と見識が人々を惹きつけ、社会的立場が確立し、力のある人々が集い、財物が集まったからです。
 プロの僧侶にとっての「無一物」とは、「あらゆる財物に個人的所有の執着心を起こさない」ということであり、決して「財物に恵まれない貧窮者であれ」などということではありません。


 また、悪口は卑劣な心を潜ませている場合があります。
 悪口を言うことによって自分を相手より相対的に高くして誇ろうとするだけでなく、存在感が大きかったり社会的地位が高かったりする相手を攻撃し続けることによって、自分の存在価値を確保しようとします。
 自分には他から評価されるものがあまりない時に、誰かが得ている存在感や地位を利用するのです。
 こうした心になると徳は積まれず、霊性は磨かれなくなります。
 心の気高さを得るために「有徳者(ウトクシャ)を尊敬(ソンギョウ)せよ」と説かれているのは、このような歪みを離れるためです。

 粗暴な言葉遣いも、悪口((ワルクチ)も、霊性の濁りに発します。
 謹慎と従順を心がけ不悪口戒に生きましょう。




2007
04.15

『千の風になって』考

 またしても『千の風になって』に関するご質問がありました。ずいぶん人口に膾炙しているようです。
「亡くなった方はお墓にいませんと宣言していますが、どこにおられるのでしょう。お墓は要らないんですか?」
 この歌のヒットを利用して墓地無用論を説く人々がおられると聞いてはいましたが、葬祭関係者からも、不安を宿した声でこうしたお訊ねがあるとは………。
 もう一度、信念を述べておきます。

 まず、大切なのは、いかなるものが流行ろうと、動じずにいつもと変わらぬ智慧をもって世の中を観、判断せねばならぬということです。
 17世紀のオランダではチューリップへの投機が大流行し、「チューリップ狂時代」が到来しました。 
 珍しい品種の場合は、たった一個の球根が家一軒、あるいは工場一棟と交換されたりしたというから驚きです。
 政府が投機を禁止した途端に狂躁は一気に沈静化し、人々は目が覚めました。
 また、革命前夜のフランスでは、女性たちの生き甲斐は着飾って社交場の花形になることと、商売をしてそのためのお金を得ることだったので、生まれた子供たちは田舎などに預けられる羽目になりました。
 こうした母性の崩壊が王族一家をギロチンにかけるような惨劇をもたらし、フランスの人々は、「フランス革命」が二度とあって欲しくないと考え、宗教教育を重んじています。

『千の風』が心を解放し、救いにもなるすばらしい歌であることに異論はありません。かつて、当山のブログでご紹介もしました。
 しかし、その気分に流されて肝心なものごとをよく考えないのではいかがなものでしょうか。

 仏法における本題です。

1 お墓はあの世の家です。
 物質的な縛りのなくなった御霊は、時には家におられ、時には思う所へ行っておられるのはあたりまえです。歌の文句がどうであろうと、「お墓には決しておられない」などということはありません。
 なぜなら、そこは御霊を導いてくださるみ仏のおわす場だからです。
 そうでなければ、開眼供養の意味がありませんし、墓地や仏壇の前で行う修法が御霊とご一族を守り導く力になっていることは、日々実感している真実です。

 こうした例があります。
 開眼供養の予定日が天気予報では雨風の心配があり、ご高齢の方々も来られるはずなので、事前に修法をしておいて当日を迎えました。
 お骨を納め終わった時のことです。
 石屋さんが墓石などをすっかりきれいにしてくださったのに、お孫さんが、とても愛おしそうに重ねて裏の方を拭いたりしました。
 あまり大きくない質素でシンプルな墓石ですが、お孫さんは、まるで宝ものでも扱うようにしておられました。
 み仏の法に守られ、祖父と祖母の眠る場が聖地であることを魂が感じとっていたのでしょう。
 すべてが終わっての帰り際、ご両親と一緒に見送ってくださったお孫さんへ申し上げました。
「さっきお墓を拭いていた時の心で、これからもお墓とご一族を守ってください」
 嬉しそうに頷く青年と、控えめに侍している若い妻、そして安心がいっぱいのご両親。お導きくださるみ仏と、それを実感できる場の大切さをあらためて教えていただきました。




2007
04.14

和尚さんと語ろう会 第3回(※主催者原文のまま掲載)

 今月も好評の「和尚さんと語ろう会」を開催いたします。



 今回は「瞑想と呼吸法」を中心に法楽寺の遠藤住職にご指導いただきます。

 微力ながらわたしはクリスタルボウルでお手伝い致します。



「瞑想と呼吸法」は心身を整え健康維持にもつながり、さまざまな方法がありますが、弘法大師(空海)が伝えた真言密教の瞑想と呼吸法をこの機会にぜひ体験されてみてはいかがでしょうか。

 皆様のご参加をお待ちしております♪

 

一 日 時 平成19年4月19日(木)午前10:30時~12時まで

一 場 所 グラスハウス ル・ブルー&ひとつぶカフェ

        仙台市太白区日本平3-10

        022(307)6802

一 参加費 1000円(ハーブティサービス)

一 主 催  グラスハウス ル・ブルー&ひとつぶカフェ




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2007
04.13

梅と桜

〈臥龍梅が満開になり、十三仏様を荘厳しています〉

そよ、我やどの梅の立枝や見えつらん思ひのほかに君が来ませる―梁塵秘抄―
 後白河法王は、アウトサイダーとして生きる人々が日々の思いを込めて唄った歌をまとめました。
 美声の持ち主の歌声は「梁(ハリ)」の「塵(チリ)」をも舞い上がらせるという中国の故事から『梁塵秘抄』となりました。

〈皆さんが心を込めて植えてくださった桜が、順々に咲き始めました〉

さくら さくら やよいの空は 見わたす限り かすみか雲か 匂いぞ出ずる
いざや いざや 見にゆかん―さくらさくら―

 この歌は、激動の幕末、子供たちが箏(ソウ…現代の琴)を習うために作られたものです。
 子供たちがたどたどしく伝統楽器を鳴らしている光景を想像すると、嬉しくなりますね。




2007
04.12

赤ちゃんポスト

 NHK講座「生活と仏法」で赤ちゃんポストについて話題にしたところ、受講生の皆さんからいろいろなご意見が出ました。

 その中に「親ではなく、赤ちゃんの立場から考えた場合にどうなのでしょう。赤ちゃんそのもののいのちが守られるという点では、否定できないのではないでしょうか」というものがありました。

 とっさに、「生まれて間もない赤ちゃんは、親と一体の存在です。とにかく赤ちゃんさえ生きれば良いとは思えません」とだけ答えましたが、この問いには大きな問題が含まれています。



 生まれたばかりの赤ちゃんは自分で生きることができません。親へ百?いのちを預けています。

 こうした存在は、へその緒は切れたものの、十月十日体内に抱えて育み、自分の血肉を分けてこの世へ生まれさせた母親と事実上一体であると考えるべきではないでしょうか。

 自分のいのちと切り離そうにも切り離せないはずです。だからこそ、母親はいのちがけで我が子を守られるのではないでしょうか。

 私は男性ですから実感は持てませんが、おそらく母性が崩壊していない母親ならば、「事実上一体である」のは、頭でどうこう考えるというよりも自明の真実でありましょう。

 ならば、赤ちゃんをどうするかは、母親自身のいのちをどうするか、母親自身の人生をどうするか、母親自身がどう生きるかの問題であるはずです。

 へその緒を切った瞬間から母親とは別個の生きものであるという突き放した認識には、真実から離れた姿勢がありはしないでしょうか。


 

 また、一連の流れを想像してみると、やはり背中が寒くなるものを感じます。

 

 ある夜、人目を忍んでポストのそばに現れた母親が、あたりをはばかりながら我が子を素早くポストへ入れる。

 病院内では、シグナルに気づいた担当者がポストへ急ぐ。

 その間に、母親はそそくさと立ち去る。

 担当者は、誰の子とも分からない赤ちゃんを生かすべく、所定の処置をする。

 母親も父親も、ポストに捨てた瞬間から、赤ちゃんとはまったく無関係、無縁の生活を始める。

 赤ちゃんは、親でも親戚でも知人でもない人に育てられ、成長したある日、自分の出自が白紙であることを知る。親を探すすべはない。



 自分で作った子供ロボットが要らないロボットたちは、誰も知らぬ間に、我が子を他の子と区別できる表示を一切つけずに、子供ロボットをかねて用意されている工場のローラーベルトに乗せる。

 置かれた子供ロボットは、淡々と受付の手はずがとられ、所定の方法で画一的に手入れされ、性能に応じて大きくなる。



 こうした想像は、我が身を切り刻むような思いで赤ちゃんを手放さざるを得ない母親の気持を無視したものですが、それは、そもそも、我が子と自分が一体であるという真実に生きる母親ならば、決して赤ちゃんポストへ捨てるはずはないという前提に立っているからです。

 地球上で最も子供が生きやすい国の一つに違いない日本では、母親が萬やむを得ざる事態に直面した時、我が子を放置するしかないような制度にはなっておらず、住民たちも、窮地に陥った母親へ一切手を貸さぬほど無慈悲な国民ではないからです。



 一見、母親にとっては〈便利〉であり、赤ちゃんにとっては〈安全〉でありそうなこのポストには、恐ろしい欠陥がありそうです。




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2007
04.11

十善戒の歌6 ―不綺語(フキゴ)―

くもとりの あやをりなして いひたつる ことにまことは すくなかりかりけり
(雲鳥の 綾織なして 言い立つる 言に誠は 少なかりけり)

 雲鳥は、雲の中を飛ぶように見える鳥たちであり、雲の近くまでも高く飛ぶ鶴と雲をあしらった模様でもあります。
 また、「雲鳥の」は「あや」へかかる枕詞として用いられます。
 ここでは、鳥たちが騒がしく飛び回るかのようにいろいろと言い立てて相手の心を動かし、自分の意を通そうとする人の心には、誠は少ないものであると言っています。
 論語も「「巧言令色鮮(スクナ)し仁」と説いており、口先巧みに言い立て、心にもない笑顔をつくろって媚びへつらう人は仁の心が少ないものであると説きました。
 なお、仁とは相手のためには己をも捨てる思いやりであり、それを実践できるような人間になるめには強い克己心を涵養せねばなりません。

 今は言葉が紙のように軽くなりました。「武士に二言はない」など、夢のまた夢です。
 責任ある立場の人が簡単に前言を翻したり問題のある発言をしたりしてもたいしたことはなく、いよいよとなれば「反省しています」で通るのだから楽なものです。
 また、軽くなった分、たくさん用いねばならないので大変です。どこかの国では「愛している」と言い続けねば離婚の原因とされるそうです。

 よくまちがって用いられる言葉に、易経の「君子豹変す」があります。
 これは言葉や行動に責任をとらず平然としている軽薄な態度ではなく、豹の毛が季節に合わせて抜け替わり美しく装うように、君子たる人物は状況に合わせて的確に判断し、過去にとらわれず自らをも速やかに変える智慧の深さと潔さを称えるものです。
 すべては変化し、一瞬たりとも止まるものはありません。寝て起きればすでに環境が変わっており、自分自身も、もう昨日の自分ではないのです。
 しかし、私たちは変化の実態に鈍感で、過去にすがる弱さを持っています。
 その反面、周囲に流されやすく、自分の言動に無責任な人もいます。
 君子たる器量はなかなか持てないものですが、思いやりのあるまっとうな人間として生きるには、よく学び自分を向上させ続けるしかありません。
 それが行者の資格である「菩提心(ボダイシン)」と「勝義心(ショウギシン)」です。

 さて、回り道をしましたが、巧言令色の正反対が「維摩(ユイマ)の一黙」です。
『維摩経(ユイマキョウ』の主人公維摩居士は、在家ながら徳が高く悟りも深く、釈尊のお弟子さんたちが束になってかかっても論争に勝てないので、ついに文殊菩薩が対峙して問答を交わし、最期に悟りの極意について問いを発したところ、今までなめらかに言葉を紡いでいた維摩居士は、黙ったまま一言も口にしません。
 その無言で圧倒的な世界を感じさせる様子を、教典は「雷のごとし」と書いています。

 まことに象徴的ですさまじいできごとですが、ここで注意しなければならないのは、文殊菩薩であればこそ、沈黙の意味が理解できたという点です。
 理解力がなければ、「なあんだ。実際は分からないんだ」とバカにしたかも知れないではありませんか。
 現代に生きる私たちは、言葉のもつ意義を薄れさせた一方で、映像に頼るようになりました。
 しかし、私たちは、今のところ、映像から情報を受け取る「早さ」の面でどんどん巧みになってはいても、「以心伝心」の総合的な面では、かなり心許ないものがあります。
 やはり言葉には言霊が宿り、他のもので代役が務まるというものではないようです。
 不綺語戒を心に誠を磨き、言葉を用いるにせよ、沈黙を用いるにせよ、ことに応じ時に応じ相手に応じて適切に表現したいものです。




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2007
04.10

日本の歌 ―お正月―

20 お正月

   作詞:東 くめ 作曲:滝 廉太郎 『幼稚園唱歌』明治33年発表
 



1 もういくつねるとお正月 お正月には凧(タコ)あげて

  こまをまわして遊びましょう はやく来い来い お正月



2 もういくつねるとお正月 お正月にはまりついて

  おいばねついて遊びましょう はやく来い来い お正月



 お正月にこの歌を唄ったというよりも、この歌がお正月を連れてくるといった感があるほど、団塊の世代にとっては身近な歌でした。

 凧、独楽、鞠、追い羽根なども欠かせぬものでした。凧は父に作り方を教えてもらって準備し、独楽は、戦争で足が不自由になった同級生K君のお父さんが作ってくれました。

 長屋の一番入り口側に住んでいたK君一家は、お父さんが傘を張り、ロクロを回してこけしを作り、お母さんはもんぺに手ぬぐいを姉さんかぶりにしてお父さんを手伝い、朝から晩まではたらいていました。



 私たちは、自分の心で環境世界から選び出したものを見、聞いて自分の住む世界を創っています。

 大人にとってお正月の主役は神棚であり、お屠蘇やおせち料理であっても、子供にとっての主役は何と言ってもオモチャであり、それを使って遊ぶ友だちです。

 今も、この歌は、こうしたオモチャたちと共に子供たちへお正月を連れて来ているのでしょうか。



 23歳で早逝した滝廉太郎最期の年の作品です。彼を導いた情緒は、幼き日のお正月体験を出発点にし、この歌に帰結したのではないでしょうか。




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2007
04.08

【現代の偉人伝第三十六話】 ―アフガン文化財を里帰りさせた二人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 共同通信によれば、3月中旬、アフガニスタンのカブール国立博物館で、海外に流出していた文化財が公開されました。

 平成13年3月、イスラム原理主義勢力のタリバンがバーミヤンの大仏像を破壊した衝撃の事件から6年が経ち、戦乱と混乱の中で不法に外国へ持ち出された文化財のうち、1423点の品々が故国へ戻りました。

 

 平成10年、反タリバン勢力の指導者マスード将軍は、スイス人ポール・ブハラ氏へ言いました。

「日々戦争で破壊される祖国アフガンの未来を背負う子どもたちのためにも、自分たちの文化や歴史を保護せねばならない」

 ブハラ氏はマスード将軍の志を実現すべく、スイスに「アフガン文庫基金」を設立し、文化財の保護と回収を開始しました。

 平成12年にはユネスコの指導でスイスに「アフガニスタン文化財避難博物館」を建設し、平成18年10月まで、回収されたものを展示していました。

 その後、マスード将軍は、平成13年9月11日に米中枢同時テロが起こる数日前、テロ組織アルカイダによって暗殺されましたが、「文化や歴史を保護せねばならない」を遺言と聞いたブハラ氏は揺るがぬ活動を続け、ついに遺志を実現させました。

 

 個人所有だったものも含めて文化財がすべて無償で提供されたということにも瞠目させられます。

 なにしろ、カブールの博物館から盗まれた二千年前の象牙の彫刻、タリバンが破壊したバーミヤンの仏像近くで見つかった印章、北部遺跡で発掘されたアレキサンダー大王の愛犬を象った大理石の噴水口など、金銭に換算できないほどの一級品ばかりです。

 盗品と遺失物は元の所有者に無償回復を請求する権利があるとはいえ、そうした品々を探し出し、すべてを無償で提供させたブハラ氏の活動がいかに清らかで不屈の意志に依るものであったか、そして、死後もなおブハラ氏を動かし続けたマスード将軍の願いがいかに清らかで切実なものであったか、二人の魂の共鳴がいかなるものであったか、とても言葉にはできません。

 

 帰郷した流出文化財を世界各国で暮らしているアフガン難民にたとえ、カブール国立博物館のマスディ館長のが日本へメッセージを寄せました。

「日本にいる難民たちも、近い将来、里帰りできる日を心待ちにしています」

 金満日本人の精神のレベルが試されていると言えないでしょうか。




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2007
04.06

十善戒の歌5 ―不妄語(フモウゴ)―

いつはりて かたらんよりは しらつゆと みはいさぎよく きえもはてなん
(偽りて 語らんよりは 白露と 身は潔く 消えも果てなん)

 嘘を言うよりは信念を通して死んだ方がましであるとの厳しい表明です。
 不妄語戒にいのちをかけています。
 僧侶が口にする以上、当然、自らに課している戒律であり、その峻厳さは彼の行動が示しています。

 月照は幕末の文化10年、大阪で医者の長男として生まれましたが14歳で出家し、22歳で清水寺成就院の住職になりました。
 尊皇攘夷の志が強く、弟に寺院を譲り、肝胆相照らす仲になった西郷隆盛と行動を共にしているうちに、井伊直弼から危険人物して追われる身となって薩摩藩へ逃れました。
 水戸藩が攘夷へ傾いたのは月照のしわざであると判断されたのです。
 ところが薩摩藩は幕府との軋轢を恐れて藩を追放しようとしたため、安政5年、日向の国へ送られる途中、鹿児島錦江湾で西郷隆盛と共に船から身を投げました。
 数刻の後に二人の身体は海面へ浮き上がり、西郷隆盛は蘇生しましたが、月照はそのまま他界しました。
 
 月照が行年46歳で残した辞世の句です。
「大君の ためにはなにか 惜しからむ 薩摩の瀬戸に 身は沈むとも」

 西郷隆盛は31歳。今からおよそ150年前のできごとです。
 月照は、かつて島津斉彬の死に際して西郷隆盛が殉死を試みたおりに諫め、錦江湾でもまた生き延びさせました。
 その後、西郷隆盛は7年後に大政奉還を成し遂げ、その12年後に50歳の生涯を閉じました。
 月照は隆盛を守り、西郷隆盛を通じて大望を成就させたと言えるのではないでしょうか。




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2007
04.05

日本の歌 17 ―大きな栗の木の下で― ―大きな古時計―

17 大きな栗の木の下で

   イギリス民謡(2番と3番の作詞は阪田寛夫)




1 大きな栗の木の下で あなたとわたし

  たのしく遊びましょう 大きな栗の木の下で



2 大きな栗の木の下で お話しましょう

  みんなでわになって 大きな栗の木の下で



3 大きな栗の木の下で 大きな夢を

  大きくそだてましょう 大きな栗の木の下で



 子どもの頃、手をつないだり手を打ったりしながら唄いました。

 しかし、歌そのものにあまり強い印象がなく、「大きな夢を 大きくそだてましょう」などと口にしていたとは信じられません。

 そもそも、「大きな栗の木」というものが、日本人にはあまり身近なものでなかったのではないでしょうか。

 子どもにとって日常生活で目にする大木は桜であり、松であり、杉であり、イチョウでした。

 イギリスでは違うのでしょうね。



18 大きな古時計

   作詞・作曲:H・C・ワーク(訳詞:保富庚牛)1876年発表




1 大きなのっぽの古時計おじいさんの時計 百年いつも動いていた御自慢の時計さ

  おじいさんのうまれた朝に買ってきた時計さ 今はもう動かないその時計

  百年休まずにチクタクチクタク おじいさんと一緒にチクタクチクタク

  今はもう動かないその時計



2 何でも知ってる古時計おじいさんの時計 綺麗な花嫁やってきたその日も動いてた

  嬉しい事も悲しい事もみな知ってる時計さ 今はもう動かないその時計

  百年休まずにチクタクチクタク おじいさんと一緒にチクタクチクタク

  今はもう動かないその時計



3 真夜中にベルが鳴ったおじいさんの時計 お別れの時が来たのを皆に教えたのさ

  天国へ昇るおじいさん時計ともお別れ 今はもう動かないその時計

  百年休まずにチクタクチクタク おじいさんと一緒にチクタクチクタク

  今はもう動かないその時計



 時計には他のものに代え難い魅力があります。

 時を刻む針は、一瞬が永遠に連なっていることを教えます。

 カチッと示す一瞬にこの世界のすべてがあり、それは無限の空間です。

 そして続いて止まない針の動きは、時間の永遠を告げています。



 私たちのいのちのありかは、今、この一瞬にしかなく、それは、ありとあらゆるものとの共有物です。

 なぜなら、空間には一ミリの隙間もなく、アリ一匹、風一陣、雨の一粒といえども、すべては関連し合っているからです。

 だから、お大師様は、動物や植物だけではなく、石や水なども含めてありとあらゆるものがいのちの世界を造っているのであり、すべてのものは成仏していると説かれました。

「地・水・火・風・空」の五大には「識」が宿るとされ、「六大」の真理を示されたのです。

 それを表したものが、表面に五大の梵字を書き、裏面に識の梵字を書く塔婆(トウバ)です。



 六大を身体とする世界の一部である私たちは、一面では、過去のすべてによって創られた存在です。

 そして、一瞬一瞬に未来を想像しつつ生きています。

 過去は私たちに凝縮され、未来はすべて私たちの掌の中にあります。

 こうした歌によって自分につながる過去の真実を知り、それを魂で受け止めることは、きっと、明るく確かな未来を創造させる力になることでしょう。




2007
04.04

日本の歌 15 ―江戸子守歌― ―おうま―

15 江戸子守歌

   日本古謡




1 坊やはよいお児おねねしな 坊やのお守はどこへ行った

 (ねんねんころりよおころりよ ぼうやはよい子だねんねしな)



2 あの山越えて里へ行った 里のみやげになに貰た

 (ぼうやのおもりはどこへいった あの山越えて里へいった)



3 デンデン太鼓に笙の笛 金の手筥に銀の杖      

 (里のみやげになにもろた でんでんたいこにしょうの笛)



4 ねんねんおねむのよいお児よ 夢のお里でおねねしな



 この歌は古来から伝わり、地方によって歌詞が微妙に異なるそうです。

 語りかけるイメージが何とも言えず、幼子の面倒をあまりみなかった私も娘の頭をなでながら唄った記憶があります。

 また、何度かくり返していると、子どもの心へ届くと同時に子育てに疲れた親の心をも慰撫するようで、どこかお経に似ているなあと感じてもいました。

 「よい子」には、良い子どもに育って欲しいとの願いだけでなく、いつまでも泣いていると大変だから良い子らしくどうか早く眠って欲しいとの切実な思いも込められているようです。

 どんな親も、我が子には「良い子」に育って欲しいと願うもので、大石内蔵助良雄や佐久間良子などと、ストレートに名前になってもいます。

 子守娘のいた時代はすっかり遠くなりました。これからも歌い継がれるのでしょうか。

 



16 おうま

   作詞:林 柳波 作曲:松島 彜 昭和16年 文部省発行「ウタノホン(上)」




1 お馬のおやこは なかよしこよし

  いつでもいっしょに ぽっくりぽっくりあるく



2 お馬の母さん やさしい母さん

  こうまを見ながら ぽっくりぽっくりあるく



 馬が日常生活の中にあった時代の歌ですが、「馬」を身近な生きものに代えてみようとしてもなかなかうまくゆきません。

 犬やネコでは身体が小さく動きも速くて、抱っこされた子どもの目から「うわあ――」と眺める時の、ゆったりと大きく表現されている親子の様子は見られません。

 馬は犬やネコと違って生まれてすぐに四つ足ですっきりと立ち上がり、親と同じ姿で歩くことも、馬ならではのものを感じさせる要因なのでしょうか。



 この歌は、「お」「う」「ま」「の」「お」「や」「こ」はと、四分音符一つ一つへ五十音の一文字が配置されており、早く唄ってもゆっくり唄っても違和感がないように作られています。

 おそらく、馬の歩みを表現したものでしょうが、幼児たちにはとても覚えやすく唄いやすいはずなので、「なかよしこよし」「やさしい母さん」などの完結した嬉しい言葉と相まって心にすんなりと入るのでしょう。




2007
04.03

人生相談とスピリチュアルブームの問題

 このところ、「見ていただけるんですか?」「和尚さんは見えるんですか?」といったお問い合わせが増えたので、もう一度、人生相談に関することを記しておきます。

 これまで何度か書いたとおり、当山における人生相談は「世間話」ではありません。
 わざわざ足を運ぶ方々は、どなたも人生の一大事を抱えておられ行き詰まっておられる以上、当然です。
 高名な占い師や祈祷所などへさんざん通ってもどうにもならず、「もしや」と思ってご来山される方も少なくありません。
 愚かな行者が、世間話を通じて、こうした方々へ一体何を申し上げられましょうか。

 だから、み仏と一体になる法を結ばない限り、決してお相手をできません。
 ご来山される方がいのちがけなら、それを我がこととして受け止め、最善の道を示されるのは、み仏以外のものではないからです。
 たとえ話題に身近なできごとが含まれていたとしても、ご相談を受ける私の口から出る言葉はみ仏のもの以外であってはならず、もしも不適切であったなら、それは法の結び方に甘さがあったということになります。

 こうして人生相談を行う時、ご来山された方の訴えられる問題を通して、悩み苦しむ方と一緒に、私もみ仏の法を聞いています。
 むしろ、私が正しく聞ければこそ、過たずに口から出せると言えましょう。
 ここで注意せねばならないのは、「聞く」と言っても、スピリチュアルブームにはまっておられる方々のように、「お告げが聞こえる」「見えないはずのものが見える「こういう気がする」などといったものとはまったく異なるということです。
 正しく修行した上で正しく法を結べば、み仏は〈必要なものを必要に応じて〉お与えくださるので、〈知るべきことを知り〉〈聞くべきことが聞こえ〉〈見るべきものが見える〉のは当然です。
 何の才能もなく、特段勘が優れているわけでもない凡人の私であっても、体験上、断言できます。「必ずお救いくださる」み仏のお約束以上信じられるものはありません。
 もちろん、法の中で見たり聞いたりするのは、日常生活で用いる目や耳ではなく、法によって清められた目の心であり、耳の心です。

 こうしたことを転識得智(テンジキトクチ)と称します。
 日常生活にあっては、見て迷い、聞いては迷うのが私たちの常です。
 見て、聞いて、嗅いで、味わって、触れて万華鏡のように動く意識が「前五識(ゼンゴシキ)」です。
 これが法によって清められれば、必要な所作を成すことができる智慧、すなわち「成所作智(ジョウソサチ)」に転換します。
 ここに映るものが、〈知るべきこと〉〈聞くべきこと〉〈見るべきもの〉です。

 ところで、このところ、急激に「見える」「聞こえる」などによる弊害が明らかになってきました。
 迷った心に生じる妄想を道しるべとする方々は、必ず思考停止をしています。
 必要なものをよく学び、優れた人の話をよく聞き、自分自身でよく考え、よく突きつめねばならない大切な場面で妄想へ逃げれば、結果は「推して知るべし」です。

 そうした生き方は自分自身を向上させず、迷いの闇へ誘うだけでなく、周囲の人々を知らぬ間に傷つけ、知らぬ間に疎んじられ、やがては周囲を恨んだり世を儚んだりするようになり、最悪の場合は精神に異常を来します。
 決してマスコミはこうした現実を採りあげませんが、スピリチュアルブームは確実に恐ろしい害毒をもたらしつつあります。
 特に子育てをする世代の女性たちの現状には、憂いが深まるばかりです。

 そもそも、勘は、磨かれ、研ぎ澄まされてこそ本来の力を発揮します。
 プロ野球のバッターは気の遠くなるほど素振りを重ねて打てるようになり、大工さんは工夫に工夫を重ねて1ミリ以下の誤差でカンナをかけられるようになり、画家は天賦の才能をデッサンなどの修練によって鍛えてこそ精神世界を表現できるのではありませんか。
 おだてられて少々何かをやったからといって、誰しもが超常的な力を発揮できるはずなどあり得ません。
 いくら漫画ブームとはいえ、大人までが現実と非現実を区別できなくなれば、日本はおしまいです。
 漫画ブームと連動して商業ベースに乗っているスピリチュアルブームは、強く警戒したいものです。


 さて、人生相談です。
 当山では、ほとんんどの場合、ご相談に来られた方自身が行うべきポイントをお示しします。ただただ「すがらせる」ことはありません。
 それは、人生相談をきっかけとして、共に向上したいからです。
 菩薩様を漕ぎ手としてこの世の極楽へ向かう聖なる船へ、ご縁の皆さんと共に乗りたいと願っているからです。

 誰かの悩み苦しみは特定の人だけの問題ではなく、人間全体の悩みであり苦しみです。
 誰かの悩み苦しみが解消すれば、人間全体の悩み苦しみが減るのです。
 悩み苦しむ時こそ「縁の時」です。
 共にみ仏のご加護をいただき、まず自分を清めて苦から脱し、この世をよりすばらしい世界にしましょう。









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2007
04.02

清めについて ―「恋人にふさわしい人」になりましょう―

 修法の最初に木の棒を水へ入れて行う作法があり、よく「何をしているのですか?」と訊ねられます。



 水は洒水(シャスイ)、棒は散杖(サンジョウ)と言います。

 修法の目的は、み仏のご加護をいただく聖水をもって清めることです。

 清める対象は、まず自分自身の心であり、衆生の心であり、捧げる供物であり、み仏にまつわるものであり、特定のモノであり、特定の人でもあります。



 清めるとは、祓い除けるのではなく、本来の姿を取り戻させることです。

 この世には、何一つ、不要なものはありません。

 なぜなら、すべてのものがあるから世界は成立しているのであり、たとえ木の枝で啼いているウグイス一匹であっても、時を刻む時計のように正確にはたらいている天地の摂理がもたらす因と縁の結果だからです。

 世界はみ仏の掌で展開するマンダラであり、密教のマンダラには、み仏も鬼も描かれています。

 

 また、煩悩といえども、断ったり消したりすべきものではなく、正しい意欲へと昇華させれば良いのです。

 例えば煩悩の一面である食欲の旺盛な人は生命力が強く、名誉欲の強い人は社会へ関わる力が強いものです。

 煩悩としての食欲を野放しにすればいずれは病気を招きかねず、名誉欲を野放しにすれば人格が卑しくなり、気ままな行動で潰される被害者が出ることでしょう。

 しかし、強い生命力や社会へ関わる力が正しい目的のもとにはたらくならば、自分の人生が活き活きとするだけでなく、世のため人のためになる善行をたくさん行えることでしょう。

 こうした転換をもたらそうと行われるのが清めです。

 だから、当山ではお祓いをしません。除霊もしません。

 穢れたものや悪しきものを、清らかなものや善きものへと変えるのです。

 自分にとって嫌なものをどこか遠くへやってしまおう、あるいは消してしまおうとするならば、自分だけが助かれば良いという我欲による願いであり、正しい願いではないからです。



 最近、恋敵が自分の恋人へ近づかないようにして欲しいというご相談がありました。

 X子さんは、自分こそがY夫さんの相手としてふさわしいことと、恋敵がふさわしくないことを山ほど並べ立てられましたが、私はこう申し上げました。

「貴女がY夫さんを真剣にかけがえのない人だと思うのならば、最も大切なことは何ですか?

 Y夫さんの幸せではありませんか?

 それならば、貴女の願うべきことは、第一にY夫さんの幸せであり、第二に自分がY夫さんへ幸せをもたらされる女性になることであって、それがすべてです。

 結果がどうなるかは、Y夫さんの心にまかせるしかありません。


 人を幸せにするものは、我欲による愛ではなく、相手を思いやる慈悲です。

 愛が裏返った感情によってZ子さんを憎んだり恨んだり、排除しようとしたりすることが、Y夫さんへ幸せをもたらされる女性になるために必要なのかどうか、よく考えてみてください」

 恋は盲目でなかなか納得されませんでしたが、約一時間の後、X子さんはついに決心し、Y夫さんの仕事がうまく行くよう祈願を申し込んで帰られました。

 誤った方向へ行きそうになっていた欲が、自分を高め、相手を幸せにしようとする願いへと昇華したのです。




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