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2007
05.31

6月の運勢(世間の動き)

 今月は、人が集まり、モノを集めてことを為そうとする動きが強くなります。

 問題は、いかなる心で始めるかということです。

「正」と「貞」があれば天運が味方し、なければ数や量があるがゆえの過ちに陥る危険がありましょう。

 正とは、まっすぐで曲がらないことであり、定規となるのは私たちの良心、道義心、廉恥心などです。

 貞とは、問い糾し、得たならば、それを思い定めて守ることです。

 つまり、良心に恥じない目的を持ち、集まる、あるいは集める場合は、信じて始めたならばとことんやり抜く姿勢が大切です。

 また、皆が達成感を分け合う雰囲気にならないと成功しません。

 リーダーや一部の人たちだけが果実を得ようとすれば失敗します。



 ことによっては、マンモスが巨体と牙を持て余して滅んだという説があるように、集まりすぎて行き詰まりになる場合もありますから要注意です。

 どんどん求めて止まない欲望について、釈尊は中道を説きました。



 コーサラ国のパセーナディ王が宴会を開いた時のことです。

 招待された王の一人が「この世で一番楽しいのは何だろうか?」と言い出しました。

 ある王は「色だろう」と言いました。美しい風景や美女を選んだのです。

 ある王は「声だろう」と言いました。美しい声や音楽を選んだのです。

 ある王は「香だろう」と言いました。佳い香りを選んだのです。

 ある王は「味だろう」と言いました。美味しい食べ物や飲み物を選んだのです。

 ある王は「触だろう」と言いました。触れて心地好いものを選んだのです。

 もちろん、いくら議論しても結論の出ようはずはありません。

 そこで、王たちは揃って釈尊のもとを訪ね、それぞれの主張を申し述べてから裁断を仰ぎました。

 釈尊はただちに答えられました。

「王たちよ。心にかなう適度が第一である」

 体験上そうしたことはとっくに知っていたにもかかわらず、欲に流されて愚かしい議論をした王たちは、深く納得して辞しました。


 

 いかに数や量が必要であっても、あるいは欲しくとも、決して「適度」を忘れないようにしたいものです。



 さて、今月は、大勢の人が集まる場所で不測のできごとが起こる可能性の高い月でもあります。

 あっと思った場合は、あまり他人を当てにせず、自分で考えて問題の解決をはかる方が無事安全です。

 特に、流言飛語に惑わされたり、不安感から思考停止になったりせぬよう、腹構えをつくっておきたいものです。

 守本尊様の真言を覚えておき、いざという場合にそれを口にしながら行動するのは、とても良い方法です。

 三蔵法師がインドへ渡る時、『般若心経』の最後にある真言を唱えつつ難関を乗り越えたことは、以前、書きました。



 誠意と智慧によってものごとや社会が前進しますよう。

 また、皆さんが無事安全に過ごされますよう。




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2007
05.30

6月の聖悟

いわゆる十善とは、身三(シンサン)、語四(ゴシ)、意三(イサン)なり。末を摂(ショウ)して本に帰すれば一心を本とす。一心の性(ショウ)は仏と異なることなし ―弘法大師―



(十善戒とは、身体で三つ、言葉で四つ、意志で三つの戒めである。この三つの本源はただ一つ、心である。心の本性はみ仏の心と同じであり、異なるものではない。だから、十善戒とは、み仏の心そのままに生きることに他ならない)



 十善戒は、殺さず、盗まず、邪な淫にふけらず(ここまでで三つ)、嘘を言わず、飾り言葉を使わず、粗悪なもの言いをせず、二枚舌で人を離反させず(ここまでで四つ)、貪らず、つまらぬ怒りを起こさず、気まま勝手な考えを持たず(ここまでで三つ)、人の道をまっとうするための導きです。

 お大師様は、人間のいのちは身・口・意(シンクイ)の三方面ではたらくれけれども、大本は心一つであると説かれました。

 心が身体と言葉と意志とを動かしているのです。

 しかも、その心の本性は「仏と異なることなし」と断言しておられます。



 私たちは、やれ性悪説だとか、性善説だとか、いろいろに思考を廻らしますが、それはすべて、切った張ったが絶えない日常生活のレベルでの話です。

 そこでは、万華鏡をのぞくように、自分にも周囲にも良きことと悪しきことがこもごもと起こり、喜怒哀楽は波のように訪れ、去って行きます。

 釈尊は、そうした自分をよくよく見つめると、五蘊(ゴウン…色・受・想・行・識)がたまたまうまく和合しているだけの存在であって、自分可愛さの対象となっている我(ガ)など、どこにもないと指摘されました。

 確かに、見えたり聞こえたりする対象があり、それを感受し、より分けて受け止め認識するといったはたらきがあるだけで、その他の自分など、どこにもいません。

 五蘊をきちんと観て疑いなく得心できれば、み仏の世界へ一歩、近づくことができます。

 そこでは、いわゆる性悪説も性善説もなくなります。



 しかし、これは、「ああ、そうか、解ったよ」と理解しただけではあまり役に立ちません。

 なぜなら、「知っただけでは、生き方はなかなか変わらない」からです。

 

 ある方から、私たちは誰でもが癌になる要素を持っている一方、知らぬうちに癌になり治っている場合もあると聞いて、とても納得できました。

 品が山となり、病垂(ヤマイダレ)におおわれれば癌になります。

 ついこの前まで不治の病と恐れられていたけれども、早期発見、早期治療によってかなり克服できるようになったことは、「山となる品物」に象徴される煩悩の勢いに気づいたならば、ただちにそれを解消したり清めたりといった手を打って克服できることを教えています。

 自分の身体ばかり大事にしても心が濁っていては、まっとうに生きられません。

 癌を懸命に克服するように、煩悩を克服したいものです。

 教えを導きとして実際に手を打つ実践が、生き方を変える道です。

 釈尊は

「真剣に教えを学び実践して生きる一日は、無明のままに生きる一生よりも価値がある」と説かれました。



 実践の先に待っているのが、み仏の世界です。

 そこに立てば、もう、五蘊の一つ一つは意識されません。

『般若心経』は

「空の中には色無く、受想行識も無い」と説いています。

 それは、隠形流居合(オンギョウリュウイアイ)で、み仏の剣を稽古する場合、立ち方がこう、剣の握り方がこう、意識の持ちようはこうといった一つ一つのチェックポイントをきちんと意識して身につけて行けば、いつかは、そうした意識なしに剣が正しく振れるようになるのと似ています。

 このレベルでは、チェックポイントがなくなったわけではありません。いわば、成就されているのです。

 不殺生戒を念じ実践しているうちに慈悲心が成就し、不妄語戒を念じ実践しているうちに正直心が成就し、不慳貪(フケンドン)戒を念じ実践しているうちに知足(チソク)心が成就するのと同じです。

 このあたりが空(クウ)の世界への扉を開くカギではなかろうかという幽かな予感があります。

 

 昨今、救済力を持つ真言の価値について説いた『般若心経』に関する議論や意見や本の出版などが相次いでいますが、実践者によるものがどれだけあるのかは、はなはだ疑問です。

 右往左往せず、目立つものに引きずられず、お大師様が明言しておられる「一心の性は仏と異なることなし」を目指してひたすら実践を続けたいものです。




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2007
05.30

6月の守本尊様

 芒種(ボウシュ)と夏至の水無月(ミナヅキ…6月6日より7月6日まで)をお守りくださる守本尊は勢至菩薩(セイシボサツ)様です。



6月の本尊



『根上下智力(コンジョウゲチリキ)』という、人の性根を見分ける力をもって、お救いくださるみ仏です。

 人は、生まれにより育ちにより違った性根を持って運命を創り、お救いいただく道筋も、当然異なります。

 勢至菩薩様は、それぞれが持っている蓮華のような尊い心を性根に応じた方法で開けるよう、勢いをつけてくださるのです。




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2007
05.30

6月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



勢至菩薩(せい・し・ぼ・さつ) 



「オン サン ザン ザン サク ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。





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2007
05.29

松岡大臣の死を悼みます ―「作法なき時代」を省みましょう―

 自殺した松岡利勝農林水産大臣は、安倍総理大臣などに宛てた6通の遺書や国民などに謝罪する内容の文書を残しておられたそうです。

 心よりお悔やみ申し上げます。

 

 彼をここまで追い込んだのは、「作法なき時代」をつくってしまった私たち同時代人です。

 特に、社会をリードする立場の人々が「法で罰せられないから」「違法でないから」とばかりに権力と権利を振り回し、やりたい放題にやって責任はとらない風潮によって厚顔な人々が我を通し、心優しい人はここまで追い込まれました。

 

 法で定められていないことが作法に則って行われないかぎり、社会からまっとうさは失われます。

 たとえば、ルールとして典型的なのが、首長や議員の辞職勧告決議案です。

 可決されたからといって選挙で選ばれた首長や議員がただちに失職することはありませんが、良識や道義が肩を押して自発的に辞職するのが常道でした。立場のある人へは、則るべき作法が課せられていました。

 しかし、今や「常道破り」があたりまえになってしまいました。権力は、恥など問題にしません。

 かつて小泉内閣が行った衆議院の解散と刺客騒動、そして熟慮しようとする人々を「抵抗勢力」と嘲り悪者扱いし、見捨てたのも同じ流れにあり、「何でもやれる」風潮がはっきりとつくられました。

 権力者が、「自らを律するもの」を投げ捨てたのです。

 社会を動かす人々が作法と恥を忘れたならば、社会から良識や道義が失われるのは当然です。



 また、暗黙のルールとして典型的なのが、「格差は社会のひずみであり、弱者は守られるべきである」という観点です。

 しかし、小泉内閣は「格差があるのはあたりまえです。何が悪いんですか?」と開き直りました。

 あの瞬間から日本の若者たちは堀江貴文や村上世彰を理想とし、「とにかく儲けて勝者になる」ための競争へ突入しました。

 我利我利亡者(ガリガリモウジャ)たちへ国がお墨付きを与えるできごとに戦慄を覚えたものです。

 

 最近こうした話を聞きました。会社の創業当時から第一線ではたらきづめにはたらいた方が、結婚して子供ができてもきちんと養って行けそうにないので、まだ無理だと言うのです。

 会社が順風満帆なのを知っているのでいぶかしく思い、調べてみたら、ほんの一握りの人々が利益の大半を手にしていました。

 ここ数年、アメリカでも日本でも景気が拡大し、経営者と資本家が冨を増やす一方で労働者の給料が下がっていることは知っていたものの、身近な方の悲嘆には、あらためて胸の塞がる思いをしました。

 誰しもが「我が利」を追求するのは世間の習いですが、強者は、もう、「我利我利亡者」として恥をさらしたくないという矜持も、強者たるがゆえに厳しく求められる道義も失っているのでしょうか。



 政界であれ、財界であれ、社会をリードする人々が権力をふるい利を貪り、なりふり構わぬ浅ましい姿をさらしていながら、品格や道義のある日本が創れるはずはありません。



 当山は、当時からこうした危険性に警鐘を鳴らしていましたが、とうとうここまで来てしまいました。

「武士の一分」のように、簡単に切腹させられるのが理想とは思いません。

 しかし、作法は必要です。作法の実践によって良識や道義は守られます。

 権力者には何でも許される、何かあった場合、権力者は辞めなくても済ませられるといった風潮が作法を破壊し、人心を荒廃させ、ついに一国の大臣を自殺させました。

 実際には、これまでも、社会の表面に表れない犠牲者の方々がたくさんおられたに違いなくこれからも同様であろうと思うと、そうした世界で生きて行く子どもたちが憐れでなりません。



 松岡大臣の老母は、悲報を耳にしたとたん、「ああ」と言葉を失い泣き崩れたそうです。大臣の心には、その何万倍もの涙があったことでしょう。

 私たちは、この悼ましいできごとを私たちの仕業として受け止め、出直す必要があります。我(ガ)が大手を振って積み重ねた共業(グウゴウ…皆でつくる業)を清め、作法をとり戻さねばなりません。

 それが御霊へ対する一番の供養ではないでしょうか。




 たまたま、『シルバーネット』6月号の「山里の寺から」で、責任の問題をとりあげました。この事件に先立つ文章であり、特定の個人を攻撃する意図はなく、責任と懺悔をあまりにも軽んじる私たちの共業(グウゴウ)を省みるものであることを明記しておきます。




2007
05.28

【現代の偉人伝第三十九話】 ―白鵬を育てた熊ヶ谷親方―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 今場所、大関白鵬は横綱相撲をとった。一番、一番、プロとしての価値ある勝負を見せた。なるべくしてなる横綱、という感すらある。

 彼には育ての親がいる。宮城野部屋でめんどうをみてくれた熊ヶ谷親方である。

 日刊スポーツに掲載された手記は、めったにお目にかかれない滋味にあふれたものである。

 彼がなぜあのような成長を遂げたのか、何が人を創るのか。短い文章はその根っこを明らかに示している。

 忘れたくない一文であり、ここに遺しておきたい。



 涙でテレビ画面が、にじんで見えたよ。生で見ると泣いてしまうと思って家のテレビで見たけど、久々に声を出して泣いたね。

 よく頑張ったぞ、白鵬。おめでとう。

 綱とりの重圧、長女誕生前後の心遣い、週刊誌問題で冷たい視線も感じただろうに、土俵上ですべてを吹っ飛ばしてくれた。ありがとう。



 出会いは6年前だったね。ガリガリだったけれどオレは、15歳と若く長身だったことが気に入って、迷わず部屋に入れた。

 風呂場ではビックリしたね。まだ下の毛もはえず子供の体だったな。

 でも、それがかえって良かったんじゃないかな。体が出来上がっていなかったから、すんなり相撲に適する体に鍛えることができたと思うよ。

 子供の身体ながら、手足が大きく、腰回りが太くてしっかりしていたから、鍛えれば強くなると確信していたんだよ。

 

 体重を増やすのに苦労したね。最初の3ヵ月はけいこもさせず、丼飯4杯を毎食、食わしたからな。吐きそうになりながらも、よく我慢してくれた。

 太らせるために1日15時間も寝かせたのに、外で遊びたい気持をグッと抑えて、よく頑張ってくれた。



 若いし、モンゴルに帰りたかっただろうに。耐えてくれたね。

 オレは知っているぞ。夜中に「洗濯物干してくます」と一人で屋上に上がって、故郷の空に向かって泣いていたことを。

 でも、決して人の前では泣かなかったな。

 かわいがり(しごき)で髪の毛を引っ張られ、竹刀で殴られたとき「親にも殴られたことがない」と、鬼のような目でかみついたけれど「お前を強くさせるためだ。悔しかったら強くなれ」のひと言で、歯をくいしばったな。



 今は「大関」と呼んでいるけれど「横綱」と呼べる日が待ち遠しいね。

 横綱は大変だぞ。けいこ場でも、絶対に負けてはいけないし、人格も問われるからね。今まで以上に稽古して、心も体も、もっと強くならないといけないんだぞ。

 そして今より、もっと人に好かれる人間になれ。

 まだ若いし、大横綱への道は、自分が切り開いていくものだからね。

 最後に、これだけは言わしてくれ。本当にありがとう。






 熊ヶ谷誠志(クマガタニセイジ)氏は、昭和32年、北九州市に生まれ、前頭13枚目まで昇った竹葉山である。

 慎重176?、116?の彼は、幕内通算11勝19敗だった。

 平成元年、引退して年寄中川を襲名し、同年、宮城野親方の逝去により部屋を継承した。

 平成13年、まだ15歳だったダヴァルジャガル少年と巡り会う。

 平成16年、熊ヶ谷と名跡を変更し、部屋付き親方として現在に至る。




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2007
05.27

役者・医者・易者・学者 3 ―学者―

4 学者であれ

「学者であれ」とは学ぶ者であれ、すなわち「人を知り、社会を知り、歴史を知れ」ということであろうと受けとめています。
 言い換えれば、社会として表れている空間のありようと、歴史として表れている時間のありようと、その接点に危うくも美しく輝きながら生き、死んで行く人間の現実を知らねば、菩薩(ボサツ)としての方便(適切な手だて)が判らないということです。
 菩薩をめざす行者の修行は、自分を清め、鍛え、この世とあの世とを問わずありとあらゆる存在のために役立つ道具を手に入れるために行われ、その道具は、現場にふさわしい用いられ方をして初めて存在意義を発揮できます。
 豆腐を切るのに研ぎ澄ました鉈(ナタ)を用いてはしょうがないし、いかに切れるカミソリでも樹木の伐採はできません。

 この「知る」は、書物を読んだり、人里離れて特殊な行に励んだりするだけでは不可能です。
 素直な心でまごころの通い合う体験を重ねる以外、方法はありません。
 釈尊もお大師様も各地を歩かれたことには、他に代え難い意味があったと考えています。
 当山も托鉢行で正式な開山をし、日々の法務によって皆さんとまごころの触れあいを続け、学ばせていただいています。おかげさまと言うしかありません。

 昨日も勉強会に始まり、遙か関西から遠隔加持のご依頼があり、車で一時間以上もかけて来られた男女や、誰にも知られず数年にわたって愛を育んでいる男女がひっそりと水子供養をされ、最難関とされる国家試験への合格祈願が申し込まれ、葬儀のご相談がありました。
 戒律と世間的できごととのギャップへの当惑、病魔へ立ち向かう悲壮な意志、祈っている間中続いた女性のすすり泣き、お子さんの人生へかける“良かれ!”との願い、近々に迫ったご家族の「その時」に備えざるを得ない気持、そうしたすべてのものが教えとなり、修法へ力を与えています。
 方便があってこそ、行者は生きられます。方便を持たぬ菩薩は、菩薩ではないからです。
 
 こうしたことごとは、行者のみにとっての問題ではありません。
 
 どなたであろうと、「社会として表れている空間のありようと、歴史として表れている時間のありようと、その接点に危うくも美しく輝きながら生き、死んで行く人間の現実」を知ることは、充実した人生を送るために欠かせないのではないでしょうか。

「素直な心でまごころの通い合う体験を重ねる」ことも、人生へ豊かな彩りを添えることでしょう。
 そして、方便は、いつ、いかなる場にも必ずあります。もちろん、相手からの要請が実践の条件ではありません。
 たとえば電車のホームを幼子が歩いているのを見たならば、線路に落ちなければ良いなと願いつつ視線を外さないのも、隣人の当病平癒を密かに祈るのも、立派な方便です。
 影が形に従うように、方便は、思いやりに伴っています。

 思いやりを持ち、方便をきちんとつかんで実践しましょう。
『大日経』は「無限の慈悲を根本とし、方便を究極の意義あるものとする」と説いています。
 仏法に生きようとする行者の理想は、きっと万人の理想につながっているはずです。

 共に、学び、方便に生きたいものです。




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2007
05.26

スピリチュアルブーム最終考 ―新たな文明への期待―

 当山は、これまで、幾度かにわたっていわゆる「スピリチュアルブーム」への警鐘を鳴らして来ました。

 当山は、ブームに惑わされた方々が、目に見えない世界へ安易に因果の糸を投げ込むことによって思考停止に陥ることを危惧しています。
 広義には、いわゆる「水子の祟り」もそうです。
 水子というものを正しく知らぬ隙が、怖れを催させるものにうまく利用され、正しい動機によるしっかりした供養が忘れられています。
 また、いたずらに霊魂などを実体視し「見える」「聞こえる」といった妄言で人心を惑わすものが流行ることによって、霊性を感得するまっとうな感覚が穢されることを危惧しています。
 純粋な人々の持っている〈正しくはたらけばすばらしい力を発揮できる〉はずの能力が、子供じみたレベルで止まらされ、もてあそばれています。
 また、優しさを求める人々が、結果的に一時的な感覚の満足を求めて彷徨うことになり、せっかくの善人が「どこかおかしなベール」をまとった人になってしまっている例をたくさん見てきました。
 そして、精神世界を探求する人々全体が、まっとうな感覚を持った人々から胡散臭い目で見られるようにもなりました。
 科学的方法以外は「十把一絡げ」で放り投げられる気配があります。

 今回は、この問題の締めくくりとして言葉そのものを再考し、別な観点から考えてみました。
 大学受験時代から愛用している『クラウン英和辞典』によると、スピリットには7つの意味があります。

1 霊 魂
2 幽霊
3 心 精神
4 気力 意気 元気 勇気
5 気分 気性
6 人物 人士
7 酒精 アルコール 強烈な酒類 火酒

 また、スピリチュアルには、2つの意味が挙げられています。

1 霊の 聖霊の
2 霊的 精神的 宗教的 脱俗的

 ところで、高野山真言宗教学部長村上保壽氏は「スピリチュアルケアと密教の福祉」で、こう述べておられます。

「スピリチュアルを『霊的な』と訳すならば、この言葉は、キリスト教などで使われる聖霊の意味から日本などで使われる冥界にさまようさまざまな霊をイメージさせることになる」

「スピリチュアルを実体ではなく『生きている』という感覚的事実あるいは『いのち』のエネルギー的働きをあらわす言葉として理解するならば、この言葉は聖霊や霊魂とはまったく異なった概念として理解することができる。
 すなわちスピリチュアルとは、人間だけでなく一切の生命体の存在根拠としての霊や霊性を示すのではなく、『生きている』という感覚的事実が自己の深層意識に与える『いのち感』とでも言うべき言葉である」

「この感覚の存在に気がついていながら、それが何であるかを明確に規定したり定義したりすることはできない。まさに『不可得』というべき感覚である。
 したがって、スピリチュアルと言うしかないのである」

「スピリチュアルの概念が具体的な何を意味しているかについては、これからまだ数年の経過を見なければ社会の共通認識を得ないと思われる」

 ある勉強会の質疑応答で、〈危険な年齢〉にさしかかっているお子さんを正しく導こうと奮闘しておられるAさんが、真剣な目で言われました。

「愛知県長久手町の発砲事件で殉職した林一歩警部は、なぜ、防護服のたった1センチの隙間から被弾せねばならなかったのでしょうか?」

 論理的な探求を仕事としているBさんからご依頼がありました。

「娘がつき合っている男性にとても心配な面があります。何としても娘を守りたいので、無事安全を祈ってください」

 こうしたことごとを勘案しているうちに気づきました。
 もしかすると、私たちの文明は、現在かかえているさまざまな行き詰まりを打開するために、忘れられていた第六感を復活させようとしているのかも知れません。
「脳細胞の2割も使えていない人間の浅知恵や知識だけでは、物質文明がもたらした危機を乗り切れませんよ。
 あなたたちが持っている仏性の力に気づきなさい」と、み仏が警告を発しているのかも知れません。

 歴史の転換期や新しい文明の揺籃期におかしなものが流行るのは歴史の常です。
 忘れられつつあった『いのち感』が、いのちを正しく活かす文明の扉を開いてくれるよう願って止みません。

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2007
05.25

水無月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。

 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。

(掲載が一ヶ月遅れになる場合があります)



しだれ桜その上垂(シダ)る風の中



しばらくは落花の中に我身をき



ゴールデンウィーク爪伸び放題



こんな時は友とティータイム





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2007
05.25

役者・医者・易者・学者 2 ―易者であれ―

3 易者であれ

 菩薩であるべき僧侶は、皆さんの苦を共有し、求めに応じて対策を考慮し、教えと修法をもって対処せねばなりません。
 そのためには、現在を知り、未来を見極める必要があります。
 ただし、未来は時々刻々創り出され、方向もゆらゆらと変化しており、決して確定的なものではなく、未来を見極めるといっても「必ずこうなる」といった予知や予言ではありません。
 ある人が、性格も考え方も生活習慣も変わらず、周囲の環境にもさしたる変化がなければ「こうなり得る確立が高い」という判断です。
 あるいは、いつ、どういった行動をとれば、「いかなる結果を得る可能性が高いか」の判断です。
 現在を「因」とすれば「果」はどうなるかという見通しと言えましょう。
 僧侶におけるこうした面の修行や稽古は、日常的な頭のはたらきではなかなか気づきにくい「因果の糸を観る」訓練です。
 それは、いわゆる霊感に頼るのではなく、霊性を高める正統な方法によって行われ、信心と精進があれば、み仏は必要なものを必ずお授けくださいます。

 修法によって仏法から現在を観、未来を観、必要な人にとって必要な情報をお伝えするのが僧侶の役目ですが、それは、僧侶に限らず、日常生活でも大切なことです。
 極力、我(ガ)のフィルターを薄くして現在を観、相手の立場に立って共に将来を考え、相手に役立つと思われるポイントを思いやりと共に言葉にするのは、万人に可能な慈悲行です。
 特に気をつけるべきは、「思いやりと共に言葉にする」という面です。
「一日に3回、『顔色が悪いね』と言われれば、誰でも体調を崩しやすい」と言われるとおり、言葉の持つ影響力は私たちの想像以上に強いものです。
 他人様の未来について断定的なもの言いをして相手を不安にしたり、不調にしたり、反発させたり、怒らせたりしてはなりません。それは我(ガ)の仕業です。
 未来について語られる言葉の意義は「当てる」ところにはないとも言えます。
 あくまでも、こうなる可能性が高いからこのように話して〈勇気づけよう〉、あるいは〈新たな視点に気づいてもらおう〉、あるいは〈危険を回避させよう〉、あるいは〈開運させよう〉、あるいは〈落ちつかせよう〉といった、相手を幸せにし、安心させるものでなければなりません。
 そのためには、思いやりと智慧が欠かせません。
(このあたりの詳細は拙書『み仏は あなたのそばに』に書きました)

 今は、占いが流行っているそうです。
 いかなる占いであれ、勉強してなにがしかの能力を身につけようとするならば、是非、仏法も学び、思いやりをもって技術力を活かしていただきたいものです。
 原理を知って作られた薬品は、善き心で用いられれば人間を救うけれども、悪しき心で用いられれば人間を殺すことにもなりかねません。
 
「今」に追われつつも、時には心を落ち着けて未来を想ってみましょう。『百年の愚行』(写真集の名前です)をくり返さぬためにも。




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2007
05.24

【現代の偉人伝第三十八話】 ―ワクチンを贈り続ける和田毅投手―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 5月23日付の河北新報に掲載されていた「僕のルール」に眼を奪われた。

 公共広告機構が福岡ソフトバンクホークスの和田毅投手(25歳)を紹介している。

 マウンドに立つ写真の横に短い一文があった。



 発展途上国では、

 ワクチンがないために

 一日6000人の

 幼い命が失われている。

 この事実を知った時、

 何かしなくては、と思いました。

 そこで、投球一球でワクチンを10本。

 勝利投手になれば20本。

 子どもたちにワクチンを送るという、

 自分のルールをつくりました。

 昨シーズンは、3090球を投げ、

 45770本のワクチンを

 贈ることができました。



 下の方にはこんな添え書きがあった。

 

 はしか 破傷風 ポリオ 結核 百日咳 ジフテリア

 あなたもあなたのルールで、

 世界の子どもたちを

 感染症から守ることができます。



 和田毅投手は、出身地の出雲市へ2年続けて「少年少女のスポーツ振興に」と寄付をするなど、他の慈善行為も行っている。

 子どもたちへ夢を与える立場の人々がこうした姿をも見せてくれるのは、何よりの「生きた教育」になる。

 拍手喝采を惜しまない。




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2007
05.23

少欲知足

 NHKカルチャーセンター講座「生活と仏法」で少欲知足の話になりました。

 テキスト『法句経』に「不貪(フドン)に歓喜を致し」とあるのを、「欲に振り回されず、少欲知足(ショウヨクチソク)に生きて喜びを感じ」と意訳したからです。



 少欲とは、意欲全体を縮小するという意味ではありません。我(ガ)によって喚起される「我がため」の欲は限りなく減らすのが真意です。

 一方、正しい行には必ず慈悲心の興起が伴います。

 そうすると、人間としての意欲は、必ず「他のため」という方向をとります。

 

 人間は意欲する生きものですが、「小人(ショウジン)閑居して不善を為す」というとおり、閑散としている環境(他人の眼が届かない場面)では、とかく善からぬことをやってしまうものです。

 女性の盗写やインサイダー取引や政治資金の私的流用など、我欲のままに行動しても「ばれなければよい」というという風潮は、小人の世界を顕わにしています。

 この前段にある「君子は必ず其の独りを慎むなり」つまり「人格高邁なる人物は他人が見ていようといまいと悪しき行為は決して行わない」のが、大人(タイジン)の世界です。

 僧月照が、不偸盗(フチュウトウ)戒を「山守の 許さぬほどは 谷陰に 落ちたる栗も 拾わざるなん」と詠んだ境地です。たとえ人っ子一人いない山中に落ちている栗の実一個でも、拾って良いものでなければ手を出さぬのが、我欲を制御した姿です。



「我がため」がなくなり「他のため」に意欲する人は大人です。それは大欲(タイヨク)の人であり、菩薩(ボサツ)そのものです。



 さて、少欲知足の後段「足るを知る」は、財のあるなしとは無関係です。

 この「足る」には絶対的な基準があるわけではなく、「我がためにあるものへ感謝し、ほどの良いところで慎みをもって満足する」ことです。

 たとえば極貧の環境で育った子供が大きくなった場合、育ちの環境に合った方向で小さな家を建てて満足するかも知れないし、親にはゆったりした部屋を与えたいと願って刻苦勉励し、豪邸を建ててやっと満足を得られるかも知れません。

 もしも小さな家しか建てられなかったからと大きな家へ嫉妬を抱いていれば、「足る」はありません。

 だから、慎ましい家の持ち主であるか豪邸の持ち主であるかで、人格の判断はできません。

 ただし、足るを知らぬ下劣さや高慢さは隠しようがなく、以前、「テレビの番組で豪邸を見せびらかす人の広い部屋にポツンと棺桶を置いてやりたい」と書いたのは、そうした人格への警鐘であり、垂れ流される情報から下劣さや高慢さといった穢れを感じ取れなくなっている人々への警鐘でした。



 最後の「歓喜を致し」には、さまざまな内容があることでしょう。

 しみじみとした感謝かも知れないし、天地万物と共に在る深い歓びかも知れないし、大欲のもたらした成果への達成感かも知れません。

 いずれにしても、「我がため」の少欲と「他のため」の大欲は、人間本来のありようとしてはたらく清らかな意欲を二つの面から表現したものあり、それは必ず歓喜という果をもたらすと、み仏は約束されました。




2007
05.22

役者・医者・易者・学者 1 ―役者・医者であれ―

 かつて、師から受けた「僧侶は四者であれ」との教えは、自他共に幸せに生きようとするすべての方々に共通する心構えであると考え、以前機関誌『法楽』へ書きましたが再記しておきます。

1 役者であれ

 僧侶は、相手のためになる法・言葉・表情・動き、何でもせねばなりません。
 例えばこういう人生相談があったとします。
「私は、つまずいてばかりいます。占い師から悪霊が憑いていると言われましたが、どうすれば良いでしょうか?」
 もしも、悪霊などは関係なく、自分は美人ではないから男性になかなか相手にしてもらえないという思いこみがコンプレックスとして運勢を暗くしていたたならば、まず、お世辞ではなく、貴女は男性を惹きつけるものがあるといったお話をし、自信をつけさせることです。
 そして、もしも求めるならば和合の法を結びます。
 不思議なもので、願いをかけ、法を受けた人は、いのちの輝きが強くなります。
 経典には釈尊の光り輝くお姿がたびたび登場するのは、もちろんみ仏になっておられる証ですが、正しい法に護られた人にはある種の輝きが出るように感じています
 
 お話をする際に必要なのは、必ず魅力のポイントを見つけてきちっと伝え、それを心から素晴らしいと感じつつ言葉を用いることです。
 そもそも、客観的な美などはどこにもなく、美とは「その人の感性を魅惑するもの」にしか見いだされません。
 ダリの絵にしても、ジョン・コルトレーンのサックス演奏にしても超一流としか評価のしようはないけれども、魅力を感じない人にとっては何だか解らず不気味であり、ただただ煩いものでしかないはずです。

 いのちあるもので美の要素を持っていないものはアリ一匹いません。
 まして人間です。
 太った人が好まれたり痩せた人が好まれたり、丸顔が好まれたり細い顔が好まれたり時代によって流行はさまざまであっても、必ず、その人特有のチャームポイントがあります。
 それを見つけ、そこに〈惹かれている人〉として指摘することは、役者の仕事に共通するものがありましょう。

 私たちは、相手が誰であれ、その人のかけがえのない長所や魅力を見つけて接する温かな心を持ちたいものです。

2 医者であれ


 釈尊の生涯をかけた説法の旅は「万病を治療する旅」と言えそうです。
 釈尊がある山へ行った時のことです。
 
 一軒の大きな家があり、そこには山賊の妻たちがいました。
 悪業を積んでいる人々を憐れとおぼし召した釈尊は法力で御身と明々と照らし、悟った人の来たことを知らせました。
 驚いて駆け寄った女たちへ説いたのが『法句経』にある一節です。
「慈悲をもって行い、自分を正しく律することができれば、浮き世の憂いを離れ、心安く生きられよう」
 そこへ男たちが戻りましたが、教えに耳を傾けている女たちは、誰も迎えに出ません。
 怒った男たちは弓矢で釈尊を殺そうとして女たちに止められ、礼をもって説法を受けました。
 
 頭目は釈尊へ述懐しました。
「深山に生まれた私たちは、山賊として生きるしかありませんでした。
 どうすれば罪過を清められるでしょうか?」
 これも『法句経』にある釈尊の答です。
「慈悲を実践し、広く人々のためになるならば、十一の幸いを招くであろう。
 即ち、福徳が身に従い、寝る時は心安らかで、覚めても安らかで、悪夢にうなされず、仏神に護られ、人々に親しまれ、毒物に遭わず、戦に死なず、水難や火難に負けず、どこで生きても生き甲斐があり、死後は天界へ昇るのである」

 
 このように相手のさまざまな難事を診察し、問題点を指摘し、仏法(教えと法力)という薬をもって治療し、再び難事に遭わぬよう予防法を説く釈尊は、まさに〈人生の医者〉でした。
 
 私たちも、困難にぶつかっている人がいたならば、他人ごとではなく自分のこととしてとらえ、原因を正しく把握し、できることをもってお手伝いしたいものです。
 宮沢賢治の「雨ニモ負ケズ」も、こうした世界ですね。
「東に 病気の子供あれば 行って 看病してやり
 西に つかれた母あれば 行って その稲の束を負い
 南に 死にそうな人あれば 行って こはがらなくても いいといい
 北に けんかや そしょうあれば つまらないから やめろといい」




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2007
05.21

『理趣経(リシュキョウ)』百字偈 ③

般若(ハンニャ)及び方便(ホウベン)の 智度(チト)をもちて悉く加持(カジ)し
諸法及び諸有(ショユウ)をして 一切皆清浄ならしむ


「般若」は、究極的な真理を知る智慧であり、「方便」は、他のためになる具体的で適切な方法を知る智慧です。
 いかなる真理を悟ろうとも、慈悲によってその智慧をはたらかせてこそ、人々を幸せにするために役立ちます。
 たとえば、原理を知る智慧によって作られた爆薬は、ダム工事などに用いられれば何千何万人分もの力として役立ちますが、テロに用いられれば、人殺しの道具になってしまいます。
 だから、真理の探究と真理の用い方の探求は、二つ揃って初めて人間として正しい智慧の完成となります。

「智度」は、「智の度」すなわち智慧の力で、迷いのこちら側から悟りの向こう側へ渡すはたらきです。
 これによって加持する相手は「諸法及び諸有」です。

「諸法」は、色、受、想、行、識の五蘊(ゴウン…自分を構成している5つの要素)です。
「色」とは、「自分の目に見え耳に聞こえる現象世界」です。
 世界がどういうものであるかは、たとえば作曲家や運転手やパン職人など人それぞれによって異なっていますから、「色」は千差万別です。
「受」とは、情報に対する感受作用です。

「想」とは、取り入れた情報を表す作用です。

「行」とは、目的を持って情報を処理する作用です。

「識」とは、意識であり、色と受と想と行とが結晶して生じる「自分」でもあります。

「諸有」とは、情すなわち感覚を有する生きもの、殺されることを望まぬ生きとし生けるものです。

 つまり、この一節は、「自他を救う慈悲心に裏打ちされた真の智慧をもって、五蘊によって成り立っている自分へ対して起こる執着心や、周囲の生きとし生けるものへ対して起こる執着心へはたらきかけ、清め、本来清浄なる世界を明らかにする」と言っています。
 それが、菩薩(ボサツ)の生き方です。

 懸命に励んで何かをつかんだならば、自他のために役立てようと智慧をはたらかせ、自他のために努力することそのものによって自分が清められ、清められた魂に真実世界が顕わになって来るとは、何とすばらしいことでしょうか。
 三宝とされる一つの僧宝(ソウボウ)は、僧侶だけとは限りません。
 菩薩たる生き方をしようとする万人が僧宝としての宝ものです。 
 私たちが「かけがえのない存在である」とは、こうしたことです。
 ただ単に、人間として生まれたから尊いのではなく、本来の菩薩として生き得る存在であるから尊いのです。
 真に人間として生きられるかどうかは、自分自身の生き方にかかっています。
 限られた人生を、本来の姿で生きたいものです。




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2007
05.20

み仏にお会いする

 お大師様の説かれるところによれば、般若心経は、大般若菩薩(ダイハンニャボサツ)の悟りに感応した観音様が、それを舎利子(シャリシ)という行者へ語ったものであり、全文が、末尾にある「ぎゃてい ぎゃてい はらぎゃてい はらそうぎゃてい ぼうじそわか」という真言の意義と価値を示す内容になっています。
 経典は、読む人次第であさまざまな読み方があるのは事実ですが、正しく学び、すなおに読み、声を出して読誦するならば、真実は明らかになるはずです。
 三蔵法師として名高い玄奘は、国禁を犯して出国したおり、この真言を唱えつつ海を渡りました。
 お大師様は、「よく読誦し、大切に保って供養するならば苦から解き放たれ、安楽が得られるであろう。正しく学び実践し、深く思索するならば悟りを得、神通力すらも身につくことであろう」と約束されました。

 このように、経典の読誦を含む修法や修行の意義は、み仏の世界との感応を得ることにあります。
 いわば〈感応〉の真実世界を明らかにするためにこそ経典は編まれたと言えましょう。
 
 昨日も、敬虔な信徒Sさんが、お子さんや御霊のために写経した千七百巻もの般若心経を納経されました。
 まっとうなSさんは、ただただみ仏におすがりする姿勢しか見せられませんが、このような偉業を後押ししたのは、信心をもたらす感応がどこかにあったからに相違ありません。

 また、昨日、他の場所で葬儀を終えた方々が、事情により、当山を訪れました。
 修法が終わって壇を降り「ご苦労様でした」と申し上げましたが、誰一人言葉を発する方がおられず、しばし、沈黙がありました。
 おそらくは、法の場へ入った体験に、言葉を失っておられたのでしょう。
 こうしたできごとは、たびたびあります。
 修法に際しては、地を清め、八方天地へ結界を張り、最初の声明で東方・南方・西方・北方とそれぞれのみ仏へご挨拶をします。
 この時点で行者は感応に入っており、その場におられる方々も、敬虔な心になってさえいれば、〈非日常的で清浄な何ごとか〉を感じとるのは当然です。

 み仏にお会いするとは、肉眼でお姿を見るとか、耳で予言を聞くなどといった問題ではなく、こうした「清浄な感応を得ること」です。
 それが実際に眼や耳を動かすのは、非常にまれなことであり、真実体験は、饒舌ではなくむしろ沈黙をもたらします。
 み仏にお会いしたいならば、饒舌なものに惑わされず、正しく学び、読経であれ、写経であれ、至心に実践していただきたいものです。




2007
05.19

信心とは

 昨夜の隠形流居合の稽古でも、「明王や観音様にお会いした話」などについての質問がありました。
 質問者は真剣ですが、こうした〈話題〉は、だんだん、より現実離れし、より滑稽の度を深めたものになることでしょう。
 なぜなら、人は刺激に慣れ、より強い刺激を求めるようになるからです。
 身近にあり得る水子霊の祟りなどに始まり、誰かの前世が中世の騎士や王室の美女だったなどという類の妄言が珍しくなくなると、今度は仏菩薩までが「見えた」「聞こえた」の対象になって来たようです。
 質問者の多くは「本当でしょうか?」と言います。
 にわかには信じられないけれども、誰か信頼できる人から「本当だよ」と言ってもらいたい期待も心のどこかにあるのでしょう。
 要は、信じられるものと信じられないものとの区別が自分でははっきりとつけられないところが問題になっているのです。

 お大師様の説かれた「信ずる心」すなわち信心について述べておきます。

 お大師様は、信心には十の意義があるとされました。

1 澄浄(チョウジョウ)の義………澄んで清らかなこと

  まっとうなものを信じている人は、穢れから遠ざかります。

2 決定(ケツジョウ)の義…………定まり揺るがないこと

  揺るがず、ぶれず、心へ強い柱を打ち立てます。

3 歓喜(カンギ)の義………………歓びにあふれること

  憂いや迷いが消え、感謝や喜びが湧いて来ます。

4 無厭(ムエン)の義………………飽きず怠けないこと

  修行や善行には「飽きる」ということはありません。

5 随喜(ズイキ)の義………………善行に素直に共感すること

  どなたの行いであれ、善行には魂が震えさせられます。

6 尊重(ソンチョウ)の義…………価値あるものを素直に尊重すること

  仏心や精神性の高い人や一心不乱に励む人を尊重するようになります。

7 随順(ズイジュン)の義…………気高い対象や体験に素直に随うこと

  気高いものに導かれ、尊い体験を大切にして生きるようになります。

8 讃歎(サンタン)の義……………気高い対象を素直に誉め称えること

  傲慢さや嫉妬を離れ、価値ある対象を素直に褒め称えるようになります。

9 不壊(フエ)の義 …………………一心になり壊れないこと

  心の柱は、何者によっても破壊されません。

10 愛楽(アイギョウ)の義 …………他へ良かれと願うこと

  慈悲心が涌いて止まらなくなります。


 これを読むと、信心とは、むやみやたらに何かを信じることではなく、気高くまっとうなものへ素直に共鳴し、それに導かれてまっすぐに自分を創って行く過程でできあがり、強められて行くものであることが解ります。
 心の眼を澄まし、正しい智慧でまっとうなものを選び取っていただきたいと願ってやみません。




2007
05.18

お母さん、死なないで

 若い母親からの相談です。
「夕べ、突然、息子から『お母さん死なないでね』と言われました。私の身に何か起きるんではないでしょうか?」
私は嬉しくなりました。
「それは、息子さんが何かを見て『死』を知ったからです。何の問題もありません」
「でも、やっていた番組はちびまる子ちゃんです。言われたのは、息子がテレビから離れてトイレへ行き、手伝ってから抱っこしてあげた時のことですよ」
ますます、判断に確信を持ちました。
「子供とはそういうものです。今、死を知ったとは限りません。今日を含めたここ数日のうちに、〈その時〉があったのです。
お母さんの胸に抱かれてこれ以上ない幸せを実感した瞬間、〈その時〉知った死の恐怖を思い出したのでしょう。
もしも自分にとって大切な母親がいなくなったらという恐怖が、親を含めた周囲の人々、生きとし生けるもの、そして天地万物に対する感謝へと移って行くよう、上手に指導しましょう。
今日は、怖い日ではなく、おめでたい日です。どうぞ、ご安心ください」

死を知ることは、最も大切な知を得たことに他なりません。
これが正智となるか、それとも「自分の」「母親だけがいれば良い」という邪知(ジャチ)や妄知(モウチ)をかき立てるかは、親次第です。
親子は、まさに「三つ子の魂百まで」の分岐点に立っています。
数日前、法務を終えて目にしたテレビのニュースに、虞(オソレ)が現実化したことを知りました。
「赤ちゃんポスト」に三歳の男児が捨てられ、17歳の少年が母親の生首を手にして会津若松署へ出頭したというのです。
それぞれ、「自分かわいさ」と「生死の真実を知らぬ愚かさ」が根源にある行動です。
我が子を捨てた父親は煩悩障(ボンノウショウ)の悪魔にやられ、母親を殺した少年は所知障(ショチショウ)の悪魔にやられました。
親と幼子のいのちをバラバラに観る「赤ちゃんポスト」も、おそらくは少年の心を破壊したであろう周囲の情報も、穢れた器世間(キセケン…環境世界)です。

私たちは自分自身を省み、そして、私たちが日々創り出している社会を省みねばなりません。
いたずらに煩悩障所知障を引き起こすような文明を創ったのは私たちであるという真実に、恐ろしさを感じないでいられましょうか。
以前、指摘した通り、日本は「年齢が高くなればなるほど幸福度が低くなる」先進国では唯一の「不安大国」になりましたが、このままでは「恐怖大国」になってしまうことでしょう。
 かつて、夏目漱石は、朝日新聞社へ入社したおり、「自分の小説は、少なくとも諸君の家庭に悪趣味を持ち込むことだけはしない」と断言しました。
 明治という時代にはいろいろ問題があったにしても、明治の人々にはこうした矜持がありました。
 社会に悪を増大させるようなマネは断じて行わないという強い意志です。
 一人一人が器世間に責任を持ち、「お母さん死なないでね」という子供の清らかな霊性をまっとうに育てたいものです。




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2007
05.16

笹倉山の夕陽を観る会

 青葉が瑞々しく、とても佳い時候になりましたね。
 さて、このたび、ご縁の方々よりご提案があり、左記の要領にて『笹倉山の夕陽を観る会』を開催することになりましたので、ご案内申し上げます。どうぞ、ふるってご参加ください。

      記

1 日時  6月2日(土)午後4時より

1 場所  法楽の苑

       荒天の場合は、『法楽の苑』入り口近くの「コミュニティセンター」

1 参加費 2千円 

       ・太白区の『ひとつぶカフェ』さん提供

        特製シチューと天然酵母パン+お楽しみメニュー

       ・国分町の串焼&美野菜『芽ぶき』さん提供

        特製焼き鳥+自家栽培の新鮮野菜料理

       ・太鼓に合わせ、山へ向かって般若心経を唱えましょう。

       ・幻想的なクリスタルボウルの演奏を聴きましょう。

       ・飲み物は当山で多少は用意しますが、原則、各自持参です。

1 交通  ご希望の方は、午後3時30分に、地下鉄泉中央駅前「イズミティ21」前へ。

       乗り合わせる車を用意します。

1 申込  5月31日までに当山へ電話やファクス、あるいはメールなどでお申し込みください。

       なお、「イズミティ21」へ来られる方は、ご遠慮なくお申し出ください。





[東を護る十三仏様]





[西を護る笹倉山の薬師如来様]




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2007
05.16

十善戒の歌10 ―不瞋恚(フシンニ)―

ちりばかり いからでしのべ しのびなば やまよりたかく とくはつもらん
(塵ばかり 怒らで忍べ 忍びなば 山より高く 徳は積もらん)

 怒りが自分へのとらわれや高慢心によって生ずることは以前、書きました。
 また、カッと頭に来る赤鬼、ウヌッと恨む青鬼、腹の底に憎しみがとぐろを巻く黒鬼のことも書きました。
 それらを退治する方法として、川の水に相手の名前を書いたり、砂浜に書いた相手の名前が寄せる波で消えるのを見たりすることも書きました。
 今回は、怒りを徳とする明王について述べます。

 怒りといえば不動明王です。
 不動明王は奴隷の姿で私たちを下から持ち上げ頭上の蓮華へ乗せてお救いくださる方であり、密教行者の理想ですが、怒っておられるのは、優しく教えていただいただけでは必ずしも正しく行動できないのが私たちの常だからです。
 それは、小さな子供へしつけをするために親が叱るようなものであって、憤怒は、「まだ解らないのか」と悲しみつつ怒る慈悲の極地を示しています。
 
 不動明王は不動使者とも申し上げ、大日如来の使者として私たちを危険な道へ進まぬようお導きくださいます。
 若者のようなはつらつとしたお姿でおられるのは、最初に迷いを解き放ってくださるためであり、どうしても悟れぬ者を最後に救うのが老年者のお姿になった降三世明王(ゴウザンゼミョウオウ)です。
 三世とは、時間的には過去・現在・未来であり、世界的には欲望世界・物質世界・精神世界であり、迷いの根本原因としては貪・瞋・癡であり、要は「どんな人をももらさずに」迷いを降伏してくださるのです。

 降三世明王は、両足でそれぞれ夫と妻を踏みつけています。
 夫は世界を支配する神でマケイシュラといい、私たちがそれによって支配されている煩悩の障りを表しています。
 妻はウマー妃といい、私たちが周囲のものをありのままに知ることのできない無知の障りを表しています。
 また、マケイシュラは感情的な怒りを、ウマー妃は果てしない貪りを象徴するものでもあり、それらを踏みつぶそうとしている降三世明王は、まさに「叱ってくれる親」そのものです。
 なお「踏みつぶそうとしている」だけなのは、大日如来が、明王の叱責によって改悛した夫婦を苦からお救いくださったからです。
 いのちのはたらきが誤った形で表れれば我欲、清浄な形で表れれば大欲(タイヨク)としていのちの勢いを尊び、悪神をもマンダラから追い出さずに救い尽くす密教らしさが感じられます。

 私たちは、マケイシュラに支配されて煩悩に流され、感情的に怒っては自他を傷つけ苦しめてはいないか、ウマー妃に支配されて真実を観ず、自分だけを大事にして醜く貪ってはいないか、自戒したいものです。
 また、明王様に叱ってくれる親の恩を観、至心に合掌して懺悔し、帰依し、不瞋恚戒に生きたいものです。





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2007
05.15

日本の歌 22 ―朧月夜―

22 朧月夜

   高野辰之 作曲:岡野貞一 『尋常小学唱歌 第六学年用』大正3年
 



1 菜の花畠に入り日薄れ 見わたす山の端(ハ)霞ふかし

  春風そよふく空を見れば 夕月かかりてにおい淡し

 

2 里わの火影(ホカゲ)も森の色も 田中の小路(コミチ)をたどる人も

  蛙(カワズ)のなくねもかねの音も さながら霞める朧月夜



 この歌を思い出すたびに、およそ90年前の子供たちが持っていた感性のレベルの高さを考えさせられます。

 現代の子供たちとは関心の対象が違うと言ってしまえばそれまでですが、いつの時代にあっても、自然や宇宙と交感する深い感覚は、必ず霊性の発露につながるはずです。

 

 私たちが〈知っている〉花は美しく感じ、〈有名な〉人の話は信用するといった、「知識」を介しなければ安心して環境と接触できない習慣は、子供たちの世界へも影響を及ぼしています。

 ゲームなどによって作られたイメージを通して自然や生きものを観る子供たちは、「生きものは死ぬものだ」という真理から離れ、生きものを機械のように感じつつあります。



 数年前、小児神経科の医師たちが小学生・中学生・高校生を対象に行った調査では、約2割が生き返る可能性を信じており、判らないが3割、生き返らないと正しく認識している子供はわずか3割でした。

 小学校へ入学する頃には死の概念を知り、数年で掴みきってしまうはずなのに、この結果は慄然とさせるものでした。

 死の概念がないのは、生の概念がないのと同じです。

「いのちの尊さ」を教えるには、自分を含め、死へ向かっている生きものたちが揃って今の一瞬に生きていることを「奇跡!」と感じる感性を育てねばなりません。

 本当の思いやりや感謝は、そこから生まれます。

 そのためには、生の自然や生きものたちに接することが欠かせません。

 こうした歌も、その導き手となりました。

 しかし、「里わ」は、もう消えつつあります。本来「里曲」と書き、里のあるあたりを表現した言葉ですが、もう、多くの大人にすら実感できないはずです。

 もちろん、「田」も、都会の子供たちにとっては、ほとんど関心の内に入らない別世界でしかないことでしょう。

 

 現代の『朧月夜』は、どこかで生まれつつあるのでしょうか。それとも………。




2007
05.14

宮床周辺の遺跡めぐりをしました

 絶好の好天に恵まれた5月8日、郷土史研究家伊藤宏子先生を師とする勉強会のメンバーが、宮床周辺の遺跡などを訪ねることになり、「親輪会」役員の方々も急遽合流しました。

 足は、ご協力いただいた「みちのく観光」さんのバスです。



 『法楽の苑』にお詣りをしていただいた後、早速、信楽寺(シンギョウ)寺跡へ向かいました。かつては数十人もの修行僧が寝起きしていた寺院は、最近建てられたお堂があるだけです。

 禅興寺さんでは、ご葬儀が迫っているというのに、特別、本堂と観音堂を開けていただき、お詣りができました。

 続いて訪れた石神山精(イワガミヤマズミ)神社では、赤みがかった巨大な一枚岩に皆さんびっくりしました。

 皆さんそれぞれ自由な服装をしておられるのに、どこかお遍路さんのような雰囲気があり、敬虔なお心がにじみ出ています。





 鶴嶺八幡宮は、入山禁止でがっかりです。ご参詣の方々のマナーや山火事の防御が問題のようです。

 行(ユキ)神社は、鬱蒼とした石神山精神社の雰囲気とはまったく異なり、たたずまいに格の高さは明らかなものの、割合カラリとしたイメージでした。







 

 昼食は、吉岡の「新ばし」さんでゆっくりと和食を楽しみました。





 鳥屋八幡の古墳では、中に入ることができて、またまたビックリでした。鉄格子の扉から腰をかがめて一人づつ行くと、ようやく立てるほどの小さな空間があります。そこはご遺体のあった場所ですが、赤茶けた土と周囲を囲む石が落ちないように組まれた鉄柱があるだけで、もはや何の気配もありませんでした。





 最後は大亀山の鹿島天足(カシマアマタリ)別神社です。富谷(トミヤ)にちなんで134ある石段はなかなかに厳しく、全員が登ることは出来ませんでした。



 御歳80歳を超えてなお勉強会を開催し続けておられる伊藤先生の講義は、バスの中と現場とを問わず止まることを知らぬように続き、まるで、実際に古(イニシエ)の風景を観ておられるかのようでした。

 興趣あふれた時間はあっという間に過ぎ、別れを惜しみつつの解散となりました。

 また、残りを探索したいものです。

 伊藤先生、勉強会の方々、まことにありがとうございました。




2007
05.13

進路に迷ったら ―心配か信頼か―

 今度は親御さんが来られました。
 娘が歌手になりたいという希望を捨てるように修法して欲しいと言われます。
 申し上げました。

「娘さんは、ご自身の将来を冷静に考えています。
 そして、ご加持を受け、心身の元気を取り戻しつつあります。
 この時点で大事なのは、何よりも娘さんを信じることです。
 進路についの忠告よりも、〈信じられている〉事実の方が娘さんの力になります。
 それに、娘さんがここまで追い込まれてしまった以上、人が変わらなければ事態の速やかな改善は見込めません。
 その面から言えば、第一に変わるべきは親御さんです。
 心配は尤もですが、必要なのは心配でなく信頼です。
 親御さんが、「我が子を信頼する人」になり「子離れ」することです。
 そうして娘さんの心が晴れれば、必ず最善の道を選ぶにちがいありません。
 人が変わるには膨大な心のエネルギーが必要であり、それ与えてくれるのが仏法です。
 もしもお求めになられるなら、いつでも方法をお伝えします。
 私自身がそうしてここまで歩んで来たので、自信を持ってお勧めできます。
 親御さんが新たな生き方を始めれば、娘さんも未来へ向かい笑顔で歩み始めることでしょう。
 よくお考えください」




2007
05.12

「焚き火の会」が終わりました

 降らず照らずの絶好の日和となり、30人ほどの善男善女が焚き火を囲んで特製シチューやパンなどの味わいある料理に舌鼓を打ち、ドラムの演奏や歌を楽しみました。
 薩摩乙女の焼き芋も大変うまく焼けて、これ以上ない出来でした。
 暗くなってから、高橋里佳さんのクリスタルボウルをバックに、皆さんと一緒に守本尊様の真言を210回唱えたところ、すぐ後の堀では大きな鯉が集まり、重なり合うようにして大変威勢良く泳いでいたそうです。
 最後に、残り火を囲み、ロシアのフォークソングで輪になって踊りました。



[「さばカン」さんのドラムは宮床の山々へ届きました]




[炎が一段落した後、サツマイモを入れてから杉の葉を上に重ねて燃やしました]



[園子さんのリードで合唱しました]


[笹倉山をバックに踊りました]

「ル・ブルー」http://blog.lebleu.raindrop.jp/さん、「ひとつぶカフェ」さん、「シンフォニー」さん、園子さん、「さばカン」さん、まことにありがとうございました。




2007
05.12

十善戒の歌12 ―弘法大師の十善戒―

「十善戒の歌9 ―不慳貪―」を読んだ方から、お大師様の説いた十善戒についてもっと知りたいというご希望があり、簡単に書いておきます。

 十善戒そのものを説く前に、このような一節があります。

「諸仏・如来、この大慈悲、勝義(ショウギ)、三摩地(サンマジ)をもって戒となし、時としてしばらくも忘るることなし。何が故にこれをもって戒と名づくるや。戒に二種あり。一には毘奈耶(ビナヤ)、これ調伏(チョウブク)と翻ず。二には尸羅(シラ)、翻じて清涼寂静という」

(あらゆるみ仏、如来様は、大慈悲、勝義、三摩地の心をもって戒とし、一時も忘れることはない。なぜこの三種の心を戒と名づけるかといえば、戒には二つの種類があり、一つには毘奈耶すなわち悪しきものを調伏する「律」であり、二には尸羅すなわち澄み切って穏やかな清涼寂静の「戒」である)

「大慈悲」とは、恩を忘れず、他を先にし己を後にして、人々へ苦を抜き楽を与える心です。

「勝義」とは、より深く、より高い真理を求めて止まぬ深い智慧のはたらく心です。

「三摩地」とは、修行によって、迷いをもたらす無明(ムミョウ)が明智となり、心身を悩ます毒薬は良薬となり、み仏方にお会いできる境地のことです。



 お大師様にとっての戒律とは、煩悩を一つづつ潰して行こうとする努力目標ではなく、み仏の悟りの世界にある「悪しきものが生ぜず、清らかな状態」を示すものです。

 私たちは、自分が本来み仏であることに気づきさえすれば、戒律は自(オノズ)ずから明らかになります。
 この「気づき」をもたらすのが、即身成仏の修行であり、修法です。

 さて、十善戒です。

1 一切の衆生を観るに、なおし己身(コシン)及び四恩(シオン)の如し、このゆえにあえてその身命を殺害せず。
2 衆生を観ることなおし己身の如し、ゆえにあえてその所有の財物を奪盗(ダットウ)せず。
3 衆生を観ることなおし四恩の如し、ゆえにあえて凌辱汗穢(リョウジョクカンオ)せず。
4 衆生を観ることなおし己身と四恩の如し、ゆえにあえて欺誑(ギオウ)せず。
5 衆生を観ることなおし己身と四恩の如し、ゆえにあえて麁悪語(ソアクゴ)をもって罵詈(メリ)せず。
6 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて離間(リカン)せず。
7 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて綺語(キゴ)せず。
8 衆生を観ること己身と四恩の如し、ゆえにあえて所有(ショウ)の財色(ザイシキ)を貪求(トング)せず。
9 衆生を観ること己身の如し、ゆえにあえて前人(ゼンニン)を瞋恚(シンニ)せず。
10 衆生を観ること己身の如し、ゆえにあえて愚癡(グチ)の心行(シンギョウ)を起こさず。

 生きとし生けるものは皆、恩のある相手であり、み仏のいのちを分け合っている存在は本質的に自分と同じなので、誰かを傷つける悪しき行為はできません。 
 恩人であり、自分でもある存在を殺せましょうか。
 自分で自分の持ち物を盗むということもあり得ません。
 このように、ひとりでに、悪しき行為を行わせる悪しき心を離れてしまうので、「調伏」と言います。
 そして、悪しき心がなくなれば、澄み切って穏やかな心境が現れるので「清涼寂静」と言うのです。
 十善戒は、いつの日か実現するかも知れない遙かな理想ではなく、私たちそのものにすでに授かっている仏性の表れです。
 即身成仏をめざし、十善戒に生きたいものです。




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2007
05.11

十善戒の歌9 ―不慳貪―

さくをまち ちるをばおしむ くるしみは はなほりうへし とがとこそしれ
(咲くを待ち 散るをば惜しむ 苦しみは 花掘り植えし 咎とこそ知れ)

 花の咲く時期が来れば、〈いつ咲いてくれるだろうか〉と気になり、寒い日が続いたりすると、〈ああ、なかなか咲かないなあ〉と気にかけます。
 そして、咲いた後は、ちょっとした風が吹いても、〈せっかく咲いたのに、もう散ってしまう〉と残念に思います。
 こうした気がかりは、すべて、自分で花をつける植物を植えたからこそ発生しており、自分の心がもたらすものであって、気温のせいにするのも、風のせいにするのも「お門違い」というものです。
 
 しかし、咲いた花の佳さを無心に楽しみ、散り行く佳さもまた楽しむ境地には、なかなかなれるものではありません。
 また、花を植え、美しい花を家族や友人と楽しみたいと願う心に曇や穢れはありません。
 そして、ものごとに意欲的な青年や壮年の人々に達観した心を求めるのは、土台、無理な話です。
 ならばどう考え、何を理想とすべきなのでしょうか。

 お大師様は、こう説かれました。
「衆生を観ること己身(コシン)と四恩の如し。ゆえにあえて所有(ショウ)の財色(ザイシキ)を貪求(トング)せず」
(他人と自分を澄んだ眼で観ると、いずれもみ仏のいのちと心をいただいている者として何の違いもない。
 また、他人は、あるいは平穏な社会をもたらす統治者であり、あるいは現世や過去世の父母であり、あるいは輪廻転生しながら他のいのちを養う生きものであり、あるいは、仏法僧として導いてくれる三宝であって、四恩(シオン)をもたらさぬ人は一人もいない。
 だから、他人の持っているものを見て自分も欲しがる心は起こらない)

 修行によって大楽(タイラク)の心になれば、財物を持って裕福な暮らしをしている人の喜びも、健康なスポーツマンの喜びも、もてる美人の喜びも、散歩を楽しむお年寄りの喜びも、あるいは日向ぼっこを楽しむネコの喜びも、皆、自分自身の喜びであって、世に満ちるそうした喜びに囲まれていれば、あえて「自分の」喜びを貪ろうなどという気持にはなりません。
 もしも喜びをもたらすものを必要と感じるならば、必ず「自他のために」という思いが根本にあるはずです。
 そこから出る真の意欲こそが大欲(タイヨク)です。
『理趣経』が、大欲を清浄と説くのはこうした理であり、当山が「法灯に因り法友と共に法楽に住せん ―み仏の教えに導かれ、仏たる我らみな共に、喜びの世を生き抜かん―」と願っているのは、この世界を求めているからです。

 欲を敵視し、欲のない人間になろうとするのは現実逃避であり、責任回避であり、恩知らずであり、もったいない人生となりましょう。
 正しい「知足(チソク)」とは、〈もう、これで良いや〉という諦めでも、居直りでも、逃避でもありません。「自分だけの」ものなどは、いかほども必要ないことを知る心です。
「自他のために」なら、安全な食品であれ、より高い医療技術であれ、子供を正しく導く方法であれ、五種供養の意義を知ることであれ、霊性の向上であれ、必要なものは果てしなくあるではありませんか。
 大いなる意欲を持ち自他のために未来を切り拓こうとしてこそ、霊性は磨かれます。

 不慳貪の扉を開き、大楽と大欲の世界をめざしましょう。





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2007
05.10

日本の歌 21 ―おはなしゆびさん―

21 おはなしゆびさん

   作詞:香山 美子 作曲:湯山 昭 NHK「みんなであそぼう」昭和37年発表
 



1 この指パパ ふとっちょパパ やあ やあ やあ やあ 

  わははは ははは お話する

 

2 この指ママ やさしいママ まあ まあ まあ まあ 

  ほほほほ ほほほ お話しする

 

3 この指にいさん 大きいにいさん おす おす おす おす 

  へへへへ へへへ お話する

 

4 この指ねえさん おしゃれなねさん あら あら あら あら 

  うふふふ ふふふ お話する

 

5 この指赤ちゃん よちよち赤ちゃん うま うま うま うま 

  あぶぶぶ ぶぶぶ お話する



 ほとんど記憶にない歌です。妻が唄ってくれても、最後のあたりがおぼろげに思い出されるだけです。

 ただ、自分の指を見ながら何度も歌詞を読んでいるうちに、<ああ、こういうことだったんだな>と、「発見の瞬間」が感じられました。

 コロンブスの卵と似ており、何でもないことでも鋭い感性でとらえなおされ、ちょっと色づけされて具体的に示されると、新鮮な印象が生まれます。

 かけ声や笑い声、そして「お話する」としたのは秀逸で、短くて単純な歌にもかかわらず選ばれた理由が解りました。



 ただし、兄弟3人、そして揃っている両親といった設定には、時代背景が現れています。

 この歌を家族一緒に楽しく唄える時代がまた廻って来るでしょうか。

 

 そういえば、3年ほど前、友人の山田耕一氏が、「ここや」という名前で作詞作曲した童謡『あいうえおばさん』を発表しました。

 当時クラシックレコード専門店としては日本有数の「仙台レコードライブラリー」を経営しており、ちょっとしたフレーズを聴いただけで、曲名はもちろん、演奏者や指揮者や録音年代までも判る山田氏の、普段あまり表面には出ない温かな人間性が感じられ、大いに拍手をしたものです。

 五十音が巧みにもりこまれており、きっとたくさんの親子に親しまれていることでしょう。

   

あいうえおばさん かきくけこんにちは

さわやかさしすせ そよぐかぜ

たちつてとっても いいてんき

ならんでなにぬね ののこみち

はひふへほほほほ ほほえんで

おばさん おばさん

まみむめもうすぐ ひがくれる

やまはゆうやけ よるがくる

 

あいうえおじさん かきくけこんばんは

ささやくさしすせ そらのほし

たちつてともだち またあした

なかよしなにぬね のどかなひ

はははははひふへ ほがらかに

おじさん おじさん

まみむめもいちど おはなしを

やさしいゆめみて よいこたち

らりるれろじうら こいぬが わん




2007
05.09

密教と顕教

 今日のNHK文化講座で、前回ご質問のあった密教と顕教の違いについて説明せねばなりません。簡単にまとめてみました。

1 教えを説くみ仏の違い
 顕教(ケンキョウ…密教以外の仏教)では、救いを求める人々の声に応じて教えを説いた応身仏(オウジンブツ)である釈尊が教主です。
 密教では、悟りの世界そのものをお身体とし、その境地を不断に説いておられる法身(ホッシンブツ)仏大日如来が教主です。
「法身の仏は、常に光明を放って常に説法したまう」

2 教えの違い
 釈尊は生涯をかけて、モノに目がくらんで迷い、肉親を亡くして悲しみ、真理を知らずに争う人々へ、一人づつ安心を与え続けられました。
 大日如来は、あるいはウグイスの声、あるいは川のせせらぎ、あるいは人々の声として常に真実世界を表しておられ、私たちは、心のアンテナを研ぎ澄ませれば、いつでもそれを感じとることができます。
「法身は、常に光明を放って常に説法したまえども、衆生は無量劫(ムリョウゴウ…長い期間)の罪垢厚重なることあって見ず」


3 悟りを開く速度の違い
 顕教は、いつの日か悟りを得るために煩悩を断つ努力を続けます。「煩悩無尽誓願断」です。
 密教は、この身このままで即刻成仏する「即身成仏」の方法を実践します。「衆生無辺誓願度」です。
「速疾に解脱し頓悟(トンゴ…ただちに)涅槃(ネハン…悟りの境地)すべきには、しかも彼がためにもろもろの陀羅尼蔵(ダラニゾウ…真言の教え)を説く」

4 秘密の世界を説くものと説かないものとの違い
 衆生は無明煩悩のために、誰しもが持っている仏性を発揮できず、自ら最高の境地を秘密のベールに隠してしまっています。
 これを「衆生秘密」といいます。
 群雲があるために満月の月光が天地を照らせないようなものです。
 また、衆生の求めに応じて説く教えは、求めるレベル以外のものはふさわしくないので開示しません。
 これを「如来秘密」といいます。
 刃物を扱いなれない子供には、鋭利なハサミなどを与えないようなものです。
「一には衆生秘密、二には如来秘密なり」




2007
05.07

進路に迷ったら ―田中将大か斎藤佑樹か― 

 お嬢さんが人生相談に来られました。
 歌がとても好きでどうしても歌手になりたいけれども、親が反対して困っているというのです。
 すっかりやせ細ってせっかくの美人も台無しです。
 CDプレイヤーを取り上げられた時は、睡眠薬を飲もうとしました。
 でも、親は頑として大学受験を勧め、毎日、勉強をしているかどうか見張っています。

「ただ音楽を聴いていると楽しいというだけなら、お酒を飲むと楽しい、あるいはスポーツをすると楽しいというのと同じで、〈遊んでいたい〉だけの現実逃避でしかありません。
 しかし、自分の将来像として具体的なイメージが描け、そこへたどりつくまでの道のりをよく研究した上でのことなら、立派な〈人生の選択〉です。
 自分自身を省みて、まず、そこのところをよくよく考えてみましょう。

 また、自分自身の能力を冷静に判断した上で、今なすべきことは何かを検討せねばなりません。
 大学へ進学する能力があり、これまで重ねてきた勉学を離れてまでもすぐに歌手をめざす道へ入るべきかどうか、難しいところです。
 甲子園を沸かせた二人の投手を知っていますね。
 田中将大投手はすぐにプロとして楽天へ行き、斎藤佑樹投手は早稲田大学で学んで自分をもっと鍛えてからプロになろうとしています。
 二人の結末がどうなるかだけでなく、決断し実行して強く進む生き様に学びたいものです。

 それに、親御さんの気持も大問題ですね。
 私自身、中学生の時に作曲家をめざした進学を考えた時期がありましたから、親御さんの願いもよく解ります。
 まじめな貴女が抱えた悩みはとても尊いもので、必ず貴女の霊性を高めます。
 親の気持を簡単に脇へは置けない姿勢は、人としてまっすぐな道を歩ませることでしょう。
 しかし、いかに迷っても、結局は貴女の人生の問題です。
 貴女の人生は貴女だけのものであるというのではなく、貴女をここまで育んでくださった親や家族、また、先生や友人など周囲の人々の恩を忘れず恩に報いる生き方をするためには、自分自身の足を鍛えねばならないということです。
 親を含め、誰も貴女の代わりにご飯を食べたり歩いたりしてくれる人はおらず、自分の人生に責任を持つのは自分自身でしかありません。
 後になって、「あの時、ああ言われたばっかりに………」と文句を言うのは、お門違いというものです。
 もちろん、「あの時、よく、ああ言ってくれたなあ………」と感謝するかも知れません。
 
 いずれにしても、親心には合掌し、それに報いるためにも「したいこと」の内容を見極め、「自分が今すべきことは何か」を考えましょう。
 どうしても判断がつかない時は、守本尊様の真言を何度も何度も唱えてください。
 あるいはご加持を受け、心身の苦しさを離れた状態で仕切り直しをしてみてください。
 貴女のまじめな姿勢に、必ず、み仏はご加護をくださるでしょう」




2007
05.06

NHKスペシャル『日本国憲法・誕生』のDVDをいただきました

 4月30日、この欄で「『日本国憲法・誕生』を拝見させていただきたく存じます」と公開したところ、DVDを貸してくださる旨のご連絡をいただきました。
 ありがとうございました。
 当該ページをお読みくださった方々へ心よりお礼申し上げます。




2007
05.05

水子供養と法話 ―名湯『琢秀』さんにて―

 絶好の好天に恵まれ、中山平温泉の『琢秀(タクヒデ)』さんで水子地蔵様のご供養と開眼の修法を行いました。

 熱帯植物園入り口近くにある石彫の水子地蔵様には、たくさんの人々から祈りを込められた気配がありありと感じられ、これ以上ないほど美しく整えられた堂内は、地蔵菩薩本来の大きなお慈悲を約束しているかのようでした。

 植物園の開園を迎えた女将は、何としても水子地蔵様のご供養を行いたいと計画に着手し、県境をまたいで各界から集まった『琢秀』ファンの方々の大きな理解と後押しをもって盛大な法会となりました。

 

 会場を移して行った法話の概要を簡単に記しておきます。



 地蔵菩薩は、釈尊入滅から56億7千万年後に弥勒菩薩がこの世に現れ、最後の一人をも救い尽くすまでの間、あらゆる衆生を護る役割を担ったみ仏です。

 経典には

「我が滅度の後、未来悪世の衆生を汝に付属す」

すなわち、

「自分がこの世を去った後、救い手のない悪しき世の中で苦しむ人々をお前の手に委ねよう」

とあります。

 それに対して、地蔵菩薩は「我、当(マサ)に六道の衆生を抜済(バッサイ)すべし。若(モ)し重苦あらば我、代わって苦を受けん」

すなわち、

「地獄界や餓鬼界など、迷いの世界のどこにいる人々をも救います。もし、自分でどうしても解消できぬほど重い責め苦を背負ってしまった人のためには、自分が身代わりとなってその苦を引き受けてでも、必ず救いましょう」

と応えています。

 

 こうした地蔵菩薩は、あるいは「水子地蔵」となり、あるいは「延命地蔵」となり、あるいは「ぼけ除け地蔵」となり、あるいは「身代わり地蔵」として私たちを救い続けておられ、たとえ水子供養が手を合わせるきっかけであったとしても、その本体は無限のお力を持っておられるので、必ずや善男善女へ必要とする力をお授けくださるのです。

 陽の目を見られず忘れられがちな水子の御霊を供養しようとする尊い心は水子地蔵様を通じて地蔵菩薩の本体へ届き、『琢秀』関係者だけでなく、足を運ばれる方々へも大きな福徳をもたらすことでしょう。



 なお、水子は決して祟りません。

 水子は、「霊性を持った人間としてこの世に生まれ出るという快挙」を成し遂げるための数多い試練の一つとして、出生の失敗をした魂です。

 それは、スキー競技のジャンパーが、本番のジャンプを成功させるために何万回もの練習をするようなものです。

 出生の縁を完全に整えてあげられなかったことを詫び、今度は必ず生まれて来なさいと励まし、そうした心で行う供養こそが大切であり、凶事を水子霊のせいにするなど、もってのほかです。

 この世に縁のなかった魂が、尊い稽古の機会を与えてくれた男女へ恨みを持つはずはありません。

 何かが凶事をもたらしたならば、それは、こうした正しい理を知らず、我が身を省みず、供養をせず、悪しきできごとを他のせいにするその人の心にこそ原因があるはずです。

 なお、詳しくは、当山のホームページの「水子とは」に記してあります。



 名湯『琢秀』を護る水子地蔵様へ手を合わせる善男善女にご加護があるよう願って止みません。




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