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2007
07.31

画家橋アキラ氏の来山された日

「現代の偉人伝第四十二話」の後日譚です。

 展覧会のあった日、『四国八十八ヶ所「本尊写真・細密画展示会」四国遍路文化を世界遺産に』の会場に掲げられた一枚の写真の前で動けなくなりました。
 善通寺の愛染明王(アイゼンミョウオウ)像です。

 紺色のお顔は凄まじい憤怒の形相ですが、カッと見開いた眼には澄んだ優しさが宿っています。
 その眼は潤いを帯びて光り、どんな心の奥底までも見通されるかのようです。
 しばらく眺めてから、思い切って会場におられた写真家櫻井恵武(メグム)氏へ傑作ですねと声をかけました。
 返って来たのは思いもよらない言葉でした。<
「自分でも、一生に一枚しか撮れない写真だと思っています。どうしてもお要りようですか?」
 よもやプリントしていただけるとは思ってもいなかったので、ぜひにと懇請したところ、普通、作品をプリントしてお分けすることはないけれども、「特別に、拡大したものをお送りしましょう、日本に一枚だけですよ」と言われ、実際、数日後、見事な額装で届きました。
 会場で拝見したものの数倍に拡大された写真は一段と迫力を増し、修行のご守護をいただく護法尊としてお祀りすることにしました。
 また、世界中で大好評だった写真集(絶版)『四国遍路 秘仏巡礼』も送っていただきました。
 初対面であり、いくらも言葉を交わさない氏からこのようなご厚誼をいただけるとは、夢のようなできごとです。



 同時に開催されていた画家橋アキラ氏の秘仏作品頒布会は、一点づつサインをしておられることもあり大盛況で、ついにお話できる機会はありませんでしたが、ご本尊様の特徴を描ききった細密画の精緻さは驚嘆するしかなく、日本にこのような方がおられることに驚きを禁じ得ませんでした。
 限られた時間しかなかったので、お話をお話をすることもできず、後髪を引かれる思いで、会場を後にしました。

 さて、最近、愛染明王の写真が、湿気のためか、所々、歪んで見えるようになりました。
 心配になった妻が東京にある櫻井先生の事務所へ電話をかけたところ、スタッフがちょうど仙台にいるので、すぐに向かわせますとのこと。
 いくばくもしないうちに来られた方に驚きました。
 スタッフのお一人が、何と、画家の橋アキラ氏です。
 細密画の巨匠に作業をしていただくなど畏れ多いことですが、氏は、ただちに手入れに取りかかられました。
 やはり湿気のなせるわざであることが判り、貼り直しをしていただきました。
 終了後、スタッフの方と、たまたま人生相談に来ておられたW氏夫妻を交えた氏との一時間に渡る会話は、興趣の尽きぬものとなりました。

 細密画は超絶的な集中力を必要とするので、挑戦する方々のほとんどが挫折し、心に異常をきたす方も珍しくはないそうです。
 ある高名な方は、入院して5年が経ちました。
 氏は、自分の才能で描けるとは思っていないと言われます。
「たとえば、サーファーが適度の波を待ってしか技術を発揮できないのに似ていますね。
 主役はあくまでも波です。
 波の巨大で美しい力が、小さな人間の技を生かしてくれるのです。
 私も、心に決めた作品を描かせてくださる何ものかの力が高まった時、それに乗せられて初めて描き通すことができると考えています。
 発狂せずにこの仕事を続けていられるのは、何ものかのおかげでしかありません」

 また、氏と龍の因縁話にも感嘆しました。
 氏の行く先々に龍の縁があり、龍神に祈って晴れたなどはあたりまえで、諏訪湖では龍が横切るかのような光景が写真に納められていました。
 山にまで龍を描いた氏は、今、寺院の壁画として巨大な龍に挑戦しようとしておられます。
 
 隠形流居合の話題から飛んだ「宝剣大師」にも考えさせられました。
 剣を持ったお大師様の像がどこかにあることを知っていましたが、見たことはありません。
 ところが、櫻井恵武が撮ったということで、写真をメールしていただきました。
 諸刃の剣が、座したお大師様を隠す形になっています。
 ただちに、お話ししました。
「お大師様は大日如来と一体になれる法力を持った方であり、大日如来の密号(秘密の名前)である「遍照金剛」を師僧恵果からいだだきました。
 大日如来は、ご加護のはたらきを不動明王に託しておられます。
 不動明王は、諸刃の剣をもって転迷開悟・破邪顕正・諸魔辟除(ビャクジョ…祓い除けること)を行います。
 そのお力は時として龍としても表れ、龍と剣が一体になったのが倶利伽藍龍(クリカラリュウ…剣に龍のからんだ姿)です。
 お大師様が剣を持ったお姿はまさに隠形流の精神に共通し、魔から隠すべき尊きものは見せずに、剣に込められた法力をもって魔を断つのです」

 剣とお大師様の関係がやっと解りましたと、橋アキラ氏は、秘話を口にされました。
 櫻井恵武氏が、写真に撮ると眼が見えなくなるという大日如来像を撮ろうとした時のことです。
 住職に止められたにもかかわらずシャッターを切った氏は、失明しました。
 写真には何も写っていません。
 しかし、手術で回復した氏は、またも挑戦しました。当然、失明です。
 三度くり返しましたが、最後に光が写っていただけで、とうとう撮れなかったそうです。
 次元の異なるものは秘されているのです。
 その秘密の世界と現世が一体となっている真実世界を開く密教のすばらしさは、表現のしようがありません。

 橋アキラ氏は、高幡不動の細密画にサインをされ、再会を約して去られました。



 いつか又、櫻井恵武氏と三人でお会いする日が来ることでしょう。




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2007
07.30

おかげさまで、無事、草刈が終わりました

 前日までの猛暑が嘘のように涼しく、霧雨に煙る朝を迎え、善男善女が三々五々集まって来られます。

 お盆を迎えて境内地の草刈をしてくださるためです。

 準備と進行を行う親輪会の役員さんから「無理をせぬよう、ケガのないよう」とのご挨拶があり、4台の草刈機がエンジン音を響かせ始めました。

 お借りしたコミュ二ティセンターでは、炊事班の女性軍が下ごしらえなどにとりかかりました。

 私は、半年前から予約のあった法事にでかけ、昼過ぎに帰山しました。

 

 皆さんのおられるコミュ二ティセンターへ行く前に『守本尊道場』と『法楽の苑』を覗いて驚きました。

 雑草の生い茂る広い境内地が、まるで草食動物に舐められたかのように、きれいさっぱりしています。

 お一方お一方の顔を思い浮かべると、涙がにじんできました。

 Tさんが、この日のために、高さ五尺にもなる和紙へ書いた般若心経の額を抱え、コミュ二ティセンターへ向かいました。

 食事もほとんど終わり、皆さん、ゆったりくつろいでおられます。

 欲得を離れ、ただただ奉仕の思い一つで汗を流した方々のお顔は、まぎれもなく、み仏です。



 Tさんが、「皆さんの願いを込めて小さな色紙へ般若心経を書きたいが、許可していただけますか?」と質問されます。

 額を眼にした方々からご依頼があったのでしょう。

 もちろん、「すばらしいことです」と答え、当山もここまで来たかとの思いがこみ上げました。



 午後も10人ほどの方々が残り、ブルドーザーで地ならしをしたり、残材を片づけたりとはたらいてくださっていますが、私はご供養の予約があり、いくらもお手伝いができぬまま、本堂へ戻りました。

 終わって、『守本尊道場』にある通称「親輪会館」で談笑しておられる皆さんへ、伽藍建立の理想を申し上げました。

 異口同音に「一日も早く」と言われます。何としてもやらねばなりません。



 最後まで残ったS君と廃材を運び、燃やしました。

 廃材は小さなアリたちの巣になっており、彼らはパニックです。

 バラして地面に叩きつけ、アリが一匹もくっついていないのを確認してから火へくべます。

 強い彼らは、生きてさえいれば、必ず又、安住の地を見つけることでしょう。

 最年少のS君は、黙々と手伝ってくれました。



 全員を見送り、人気のなくなった境内地は、セミの声と、残材を燃やし尽くした残り火を消してくれるかのように降り出した雨に包まれています。

 強まる雨に打たれながら昨日までの猛暑を思い出すと、降らず照らずの半日は、み仏が、善男善女のために用意してくださった奇跡の時間だったように思われます。

 深まる夕闇に、み仏と御霊の気配をありありと感じながら、一段と聖性の高まった境内地を後にしました。



 30名の方々、そして、「参加できませんが」と事前に草刈をしてくださった方々やご芳志をくださった方々、電話や手紙でお励ましをくださったすべての方々へ心よりお礼申し上げます。




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2007
07.29

映画 『きけ、わだつみの声』鑑賞会が終わりました

 30名近い方々のご参加をいただき、映画『聞け、わだつみの声』の鑑賞会が終わりました。
 心より感謝申し上げます。

 モノクロの画面を覆う悲惨さはあまりに重く、いかに刺激を求めて止まない現代でも、同じような重さと真実を伴った作品は作れないのではないかと思われました。
 戦場は無慈悲な地獄です。日常生活からはとても想像しきれませんが、私たちは想像力をこそ保たねばなりません。
 たとえば、イラクの爆弾テロで20人亡くなったというニュースに接したならば、顔を思い浮かべられる人々20人が爆発によって手足を吹き飛ばされ、無惨に死んだと想像してみることが大切です。
 大切な想像力を活性化させるこうした作品は、くり返し上映される必要があります。


 講演をしてくださった犬飼健郎弁護士は、アメリカ軍によるクラスター爆弾の行使を知ってから戦争反対・日本国憲法第九條保持の意志を強め、どんな小さな集まりにでも気軽にでかけ、講話と対談を重ねておられます。
 歴史をよく学び、歴史的事実、人間として求める本当のものをきちんと見分ける必要があると述べられました。



 同じく講演をしてくださった熊谷千枝子さんは、戦乱直後のカンボジアから日本へやってきた留学生が、日本の科学技術の発達と道徳の荒廃に驚きながらも、人々に支えられて勉学に励む様子を述べられました。
 野党の国会議員だった兄が暗殺されたにもかかわらず、優しく優秀な学生が、「祖国のために帰らねばなりません」と混乱の残るカンボジアへ旅立つ話には、胸の詰まる思いをしました。


 後日譚です。

 Hさんは、事業に成功し、公職をこなしながら各地で戦争反対を説いておられます。
 しかし、満州で悲惨な経験をしたことから戦争反対運動へ積極的にかかわっているHさんは、「南方で戦った戦友の悲惨さを思うと自分の経験などはとても語れません」と、具体的な体験談については固く口を閉ざしたままです。
 自分が口を開けば、同じような修羅場をくぐった方々の心の傷に塩を塗ることになるという配慮もあるのではないでしょうか。
〈極まった事実〉は、言葉を奪うのかも知れません。

 今から40年前、学生だったTさんは、たまたま夜の列車で隣席だった初老の紳士から、インパールでの体験談を聞きました。
 紳士の部隊は、イギリス軍の攻撃から逃れようと必死の行軍をした際、どうしても捕虜を連れて歩けず、谷へ集めて機銃掃射をしました。
 将校クラスは一人ずつ座らせ、軍刀で断首しました。
 上官が行うと部下は逆らえず、とても嫌なのに、異様な雰囲気の中で結果的には皆がやってしまいました。
 紳士はこれまで、一度も戦場について話したことはなく、これから向かう東京で行われる戦友会でも、体験を語り合ったことはまったくありません。
 忌まわしい事実を口にする戦友は一人もいないのです。
 Tさんは、なぜ自分が紳士から「最初で最後の体験談」を聞かされたのか思い当たらないそうです。

 鑑賞会へ来られなかったSさんは、以前テレビで観た場面について話しました。
「ガラス越しに被験者がいます。
 こちら側には数人が待機し、3つあるボタンを代わる代わる押すことになっています。
 ボタンを押すと被験者の腰掛けたイスに電流が流れる仕組なので、被験者はボタンが押されるたびに、飛び上がって辛い表情と仕草をします。
(もちろん、実際には電流は流れておらす被験者は役者さんですが、押す人々にはそれを知らされていません)
 電流は3段階になっており、最初のボタンを押した人は、より強い電流を流すことになる2番目のボタンを押すことを嫌がります。
 しかし、一人が押すと次々続き、一番酷い刺激を与えるボタンの段階に至った頃は、皆ゲラゲラ笑いながら被験者の様子を〈楽しんだ〉のには、本当に驚き、恐ろしくなりました」

 普段、ほとんど人付き合いのないKさんは、数日前、初めて私の夢を見ました。
 そこへ当人から電話が入ったので、とても驚いたそうです。
 また、鑑賞会の日はご母堂様の十三回忌に当たっており、きっと何かがあるだろうと思っていたので、喜んで参加されました。
 脊髄を折るという大ケガから奇跡的に立ち直ったKさんの久方ぶりの笑顔は、数年前とまったく変わっていません。
「意義深い命日になりました」と合掌するKさんには、病魔の気配もありませんでした。




2007
07.28

日本の歌百選30 ―荒城の月―

37 荒城の月

  作詞:土井 晩翠 作曲:瀧 廉太郎 :編曲:山田 耕筰

  明治34年中学校唱歌となる




1 春高楼(コウロウ)の花の宴 巡る盃影さして

  千代の松が枝分け出でし 昔の光今いずこ

2 秋陣営の霜の色 鳴きゆく雁の数見せて

  植うる剣(ツルギ)に照り沿いし 昔の光今いずこ

3 今荒城の夜半(ヨワ)の月 変わらぬ光誰(タ)がためぞ

  垣に残るはただ葛(カズラ) 松に歌(ウト)うはただ嵐

4 天上影は変わらねど 栄枯は移る世の姿

  映さんとてか今も尚 ああ荒城の夜半の月



 旧制二高時代、会津若松の鶴ヶ城を訪れた土井晩翠は、この詩を着想した。

 亡き白虎隊の若者たちが、何かを伝えようとしたのだろうか。

 彼が住んだ仙台市の青葉城趾には苔むした城の石垣のみが残っており、3番はそこから生まれたとされる。

 それにしても、苔むした様子に眼を奪われた若い学生が「垣に残るはただ葛 松に歌うはただ嵐」と詠めるものだろうか。

 2番が、上杉謙信の「霜は軍営に満ちて秋気清し 数行の過雁月三更」をふまえたことを考えても、歴史と漢文が勉学の基礎になっていた時代を偲ばせる。

 81歳の長寿をまっとうした彼は、自分の生涯を通じて、若き日に感得したものを検証し深めたのだろうか。



 当時は唱歌が懸賞の対象になっており、21歳の天才作曲家瀧廉太郎が応募し、選ばれた。この時、土井晩翠は29歳である。

 12歳から14歳まで住んでいた大分県竹田市にある岡城のイメージが国際的な名曲をもたらしたというのだから、才の力は凄まじいものである。

 23歳で鬼籍へ入った彼の残した曲は、山田耕筰の編曲を得て普及し、ロシア正教会の賛美歌にもなっているという。



 この曲は、昭和63年まで、日に4回、仙台駅前にある百貨店「丸光」の屋上から流されていたが、サイレンか壊れたため、今は聴くことができない。

 大音量で流れても、一百貨店の宣伝であるとは誰も思わなかった。

 駅へ降り立つ人々を迎えるための最高のもてなしであり、市民へ時刻を知らせる貴重な合図でもあったからである。

 昭和という時代へ別れを告げるかのように、サイレンは役割を終えた。



 この歌は19世紀から20世紀への橋渡しの時期に生まれた。

 2年後、瀧廉太郎は世を去る。

 土井晩翠は戦禍ですべてを失い、孤独の日々を生き、逝った。

 800年ほど前に書かれた「平家物語」を彷彿させるこの歌が忘れられる時代は来るのだろうか。




2007
07.27

『この涙が枯れるまで』『赤い糸』2 ―ケータイ小説を読む―

『この涙が枯れるまで』の「あとがき」です。

読者のみなさま、最後まで読んでくれてありがとうございました。

私は“人を愛す”ということをみなささに知ってもらいたいという思いをこめ、この作品を書きました。
この物語はフィクションですが、何か得るものがあったならばそれだけで十分です。
今、好きな人はいますか?
もし、いるのなら、何もしないまま過ごさないでください。


 とてもシンプルでまっすぐな作者の思いが伝わってきます。
 自己表現ではなく、読者の立場に立とうとして一生懸命に書いたメッセージです。

《つらい》という字を書いてみてください。
なにかの漢字に似ていませんか?そう《幸せ》という漢字に。
辛いという字に、一本線を加えれば、幸せという漢字に変わる。
私はこれを聞いた時、まさに辛いことが幸せになったような気がしました。


 こうした優しいメッセージが続きます。

人は一人では生きていけません。

人間は一人ではありません。

私は今、笑顔で毎日を過ごしています。
これもみなさまのおかげなのです。

みなさまの幸せを心から願っています。

本当に、本当にありがとうございました。


 家族の単位が小さくなり、離婚が増え、一人で暮らす人が増え、一人一人がバラバラになって行くような時代だからこそ、こうした小説が生まれたのでしょう。
 街角にカメラがどんどん増え、人が人を信じられない社会になって行くような時代だからこそ、こうした小説が生まれたのでしょう。
 コンピューターが主役になり、すべてにスピードが求められる〈時代のリズム〉からテンポの早い流行歌が生まれ、こうした小説が生まれたのでしょう。
 時代のリズムに乗りつつ、同時代の人々が共に直面している問題へ一緒になって立ち向かおうとする健気さが、多くの若者たちの共感を得て、ベストセラーを生んだのでしょう。

 確かに表現は二次元的であり、感動=快感というストレートさには圧倒されますが、だから文学が終わるかどうかは、まだ先を見なければ判らないのではないでしょうか。
 確かなのは、作者が「善意の人」であり、「感謝の人」であり、「真摯に生きている人」であるということです。
 仏法は、心を第一に、意志を第一に、結果ではなく目的を第一に考えます。
 そうした観点からは、作者「ゆき」さん、最後にこう書いた「ゆき」さんの頑張りに敬意を表し、拍手をせずにはいられません。

☆ So Thanks ☆
大切な読者様、家族、親戚、あさみ、あかね、ちひろ、まなみ、まり、ようこ、りかこ、あけみ
From ゆき 






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2007
07.26

『この涙が枯れるまで』『赤い糸』 ―ケータイ小説を読む―

 文芸評論家の石川忠司氏が、河北新報に『快感のみ支配する世界』という恐ろしい一文を書きました。
 文学の「終わり」を象徴しているというただならぬ副題に驚き、紹介されている「ケータイ小説」なるものを初めて読んでみました。

 代表的ベストセラー「この涙が枯れるまで」の一部です。

始業式。
クラス発表。僕は何組になっただろう。
「優~」
後ろから歩の声が聞こえてくる。
「おっ!!歩じゃん!!久しぶり」
「だなぁ。俺達同じクラスだぜ☆」
「おっ、まじで~」
「あと沙紀も」
「やったじゃん!!!」
百合は…?百合は同じクラスじゃないの?
僕はクラス発表の張り紙を見た。
………そこに百合の名はなかった。


 ベストセラー「赤い糸」の一部です。

いつもより化粧と髪をしっかりと決め、ふたりは学校に向かった。
派手な髪の毛は直すか悩んだけど、コータたち3年と仲が良くなったから、そのままにすることにした。
アタシは制服を取るため、美亜と別れて家に帰った。
夏休みは終わったんだ……。
そう強く実感した。
この夏休みはいろんなことがあった。

嬉しいこと。
楽しいこと。
そして、とても、とても、つらい出来事。

忘れられない夏休み。


 横書きで、段落はありません。
 会話は、どれも、とても短く、事実と、単純化された自分の気持や意志を相手へ届ける、あるいはぶつけるだけです。
 自分で吐いた言葉に次の判断や隠れていた思いなどが喚起され、重なる言葉、あるいは呑み込まれ、しまいこまれる言葉などはありません。

 ケータイの画面が縦と横の二次元であるように、本の面も二次元、言葉で表現される世界も二次元です。

 石川忠司氏は、音楽を例にとってケータイ小説をこう指摘しました。

 問題はテクノミュージックだ。ここではポップスには残っていた精神が関与する部分、すなわち構成や楽想などが見事にはく奪されて、人間に生理的・自動的に快感を呼び覚ます音とリズムが延々と繰り返される。テクノを支える発想とは「快感が欲しいなら、何も精神的な産物=芸術なんかに迂回して手に入れる必要はなく、直接麻薬を打っちまえばいいじゃないか」ということだろう。
 ケータイ小説は音楽におけるテクノに相当する、あたらしい「文学」なのではないか。そこには描写や思想の表明など、いわゆる小説的な要素はまるで見あたらず、ただ感動=快感だけが支配的なのだから、要するに精神の否定、つまりは「人間」の否定である。
 一つジャンルは、それが見向きもされなくなるときではなく、快感のみで出来上がった作品が出現したときにこそ「終わる」。文学の「終わり」として、ケータイ小説の盛況は非常に興味深い現象だろう。


 文学は終わるのでしょうか。
 精神は否定されたままで死ぬのでしょうか。
 世界初の戯曲『三教指帰(サンゴウシイキ)』で儒教・道教・仏教を描いたお大師様の伝統はなくなるのでしょうか。
 もう一度、『三教指帰』を読み返したくなりました。
 最後に、高任和夫氏の最新作『エンデの島』の一部を書いておきます。

 それから宮本はちょっと考える仕草をした。私はコーヒーを飲んだ。素晴らしく深い味わいのコーヒーだった。
「門倉さん、笑わないと約束するかい?」
「もちろん」
「じゃあ言おう。経済は実は愛の領域なんだよ。人が幸せになるためのものだ。ものをつくる喜びを味わったり、人の役に立つビジネスをやったり、コミュニティを支えたりするのが経済というものなんだ」
 私は愛の領域という言葉に衝撃を受けた。
 宮本と視線が絡み合った。





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2007
07.25

死んだ人と、生きている人のように接してはいけないでしょうか

 敬虔な信徒Yさんからのご質問です。
「亡くなった人といつまでも身近にいるように接していれば、迷わせてしまいますか?」
 以下が、そのお答えです。

 基本的には、この世で迷っている人の未練などが御霊を迷わせることはありません。
 たとえば、火葬場で、いよいよご遺体が炉へ入ろうとする時、奥さんや母親が取り縋ってなかなか離れないといったケースもあり、あるいは、恋人や娘さんのご遺骨をいつまでも自宅へ置いて放さない方もおられます。
 だからといって、御霊が成仏できないことはなく、それは、引導の修法がいかに行われたかにかかっています。(ご遺骨は自然に還した方が良いのは当然です)」

 社会学者の鶴見和子氏が、亡くなる21日前に詠んだ一句です。

早く死にたい早く死にたくない山茱萸(サンシュユ)の若葉は朝日の中をさ揺らぎてをり


(山茱萸は春先に黄色の花をつけ、果実には身体を温めるはたらきがあり、不妊、生理不順、冷え性などの改善、滋養強壮に用いられてます)

(鶴見氏の名誉のために急いでつけ加えておかねばなりません。
 氏は、亡くなる日の朝、癌による大腸の破裂という苦しみの中で、見守る人々全員へ「幸せでした」「ありがとう」とお礼を言い、静かに息を引き取られました)

 このように、迷いを持ちながら死を迎えるのは人間の自然な姿であり、それを断ち切って「諸行無常」の真理に任せ、安寧の世界へ旅立つためには、真理に目覚めさせる修法が欠かせません。
 法によってきちんと送られた御霊は、まっすぐに旅立つことができます。
 つまり、成仏はあくまでも御霊の側の問題であり、送る側が引き留めることはできません。
 ただし、み仏の世界への歩みがどのようになるかについては、送る側の供養の如何が大きく作用するので、回忌供養などがねんごろに行われます。
 そうでなければ、「四十九日の供養をする」など無意味になってしまいます。

 さて、それならば、御霊とつながる思いはいかなる結果をもたらすのでしょうか。
 典型的なものが「夢」です。
 Yさんが話された、亡くなったおばさんが夢で笑い転げている体験には、変わらぬ親しさがとてもよく表れており、心が和まされます。

 また、つながる思いは御霊との「交感」をもたらす場合もあります。
 一緒にお墓詣りに行けなかったお孫さんが、(亡くなった)おばあさんを居間で見かけたお話などは、「お前の気持ちは解っているよ。いつでも守っているよ」とのお知らせでしょう。

 ご家族皆さんが、「御霊を生きているように扱っていますが、成仏の妨げにならないでしょうか?」には心を打たれました。
 供養の心は、まさにここに極まります。その姿勢はとても尊いものです。

 よく、仏壇の置き方についてのご質問がありますが、いつも、このようにお答えしています。
「向きや方位をあれこれ言うのは、仏壇と神棚を中心として家の設計が行われていた時代の名残です。
 円筒形のマンションや和室のない住宅などが普通になった現在、最も考慮すべきことは、日常生活において、仏壇を家族が集まる親和の場所からあまり離さないことです。
 仏壇への合掌が食事などと同じように生活の一部となり、御霊にとっては、気軽に皆から手を合わせられる状況が一番です。
 もちろん、北へ安置して南面していただくなど、古来の形がとれればそれに超したことはありませんが、方位を第一とするために寂しい場所へ安置するなどは、こだわりが過ぎるというものです。
 これからも、ぜひ、御霊を生活の〈仲間〉へ入れてあげてください」

 なお、「テレビで、写真を飾っていると霊が迷うと言っていましたがどうなのでしょう」といった質問もよくいただきますが、成仏と供養の根本から離れた脅しでしかなく、気にする必要はありません。
 写真は、思い出を大切にしたい真情へ手助けをする大切なものです。
 ご供養にお訪ねしたお宅で、セピア色に古びた小さな写真を見かけることが、よくあります。
 それが兵隊として戦死したご先祖様だったりして、胸を打たれることもしばしばです。
 また、地方によっては、仏間の横の欄間へ代々のご当主夫婦の遺影をお祀りし、その下へ経文の書かれた掛け軸をかけてご供養しておられます。
 こうしたテレビを見たご家族が怖くなって写真をかたづけたら、かたづけた方の夢に写真のおばさんが現れ、「元気でやっていますか」と励ましてくださったという体験談もお聞きしました。
 もちろん、夢の後、写真は元通りに置かれ、ご家族は安心し元気に暮らしておられます。
 実にありがたいことです。

 これからも、貴家の雰囲気を大切にして、御霊と仲良くお進みください。
 必ず、み仏と御霊のご加護があることでしょう。




2007
07.24

教会における児童虐待

 とても小さな記事として、とても大きなできごとが掲載されました。

 7月17日付のAFP通信によれば、米ロサンゼルスのローマ・カトリック大司教区は、数十年という長い期間、多くの司祭たちが信者の子どもたちに性的虐待をくり返していたことについて被害者と和解が成立したと発表しました。

 被害者の数は508人、和解金は日本円にしておよそ805億円に上ります。

 一人当たりおよそ1億6000万円という今回の和解は、全米各地のカトリック教会で続発している虐待事件の和解金としては過去最大のものとなりましたが、これから先、どれだけの事件が明るみに出るのか予想もつかないとされています。



 聖地において聖職者が伝統的に行って来た人権蹂躙のおぞましさ、そして、巨額の和解金を用意できる教会システムへの疑問と驚愕、原告の一人スティーブン・サンチェス氏(47)の言葉「たとえ1万ドルをもらっても(性的虐待を受ける前の)10歳に戻ることはできない。いくらお金を積まれても、われわれの悲劇の代償にはならない」の重み。

 こうした談話もあります。

 性的虐待被害者を支援する団体SNAPのリーダー、バーバラ・ブレイン氏は、

「補償金で被害者の幼年時代を取り戻せるわけではないが、非常につらい過去に1つの区切りをつけることはできる。その点で、和解は喜ばしいニュースだ」

 教会を訴えた際に、和解どころか心理テストを強要された被害者アントニー・アルメイダ氏(44)は、

「これで少しは心が休まるだろう。事件のことは忘れて前に進みたい」



 世界中に700ヶ所以上の基地を持ち、主要国9ヶ国の合計に匹敵する軍事費を使って地球を支配するアメリカの病巣は、私たちの想像できる範囲をはるかに超えています。

 

 なぜ、正義を標榜しつつ国連の決議を無視して核兵器などを使い続け、20世紀中に世界各国で1億人を殺したとされるほどの殺戮を平気で行えるのか、世界へ輸出し続けようとしているアメリカの「自由」「平等」の実体はいかなるものなのか、よくよく考えねばならない時はとっくに訪れています。



「武器と聖書」あるいは「武器とコーラン」を掲げて両手をふりかざす勢力が、戦争ではなく真の平和をもたらす日が来るとはとても思えません。 

 私たちは、私たちの日本を私たちの手で護らねばなりません。―――私たちの方法で。




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2007
07.24

きけ、わだつみの声 

「お知らせ」の欄にある映画鑑賞会『きけ、わだつみの声』の開催が迫りました。

 戦後まもなく制作された戦争映画がいかなるものだったかを知ることは、戦争や平和を考える貴重な機会になることでしょう。

 また、犬飼健郎弁護士の講演『憲法9条を見つめなおす』は、憲法の役割と価値を考える貴重な機会になることでしょう。

 また、熊谷千枝子氏の講演『カンボジアと私』は、発展途上国から来た留学生の眼に日本の姿はどう映っているかを知る貴重な機会になることでしょう。

 短い時間ですが、中身の濃い3時間になるはずです。

 どうぞふるってご参加ください。

 おにぎりなどの準備の都合がありますので、事前のお申し込みをお願いします。

 念のため、もう一度要領を掲載しておきます。





映画  きけ、わだつみの声 

      制作…1950年

      監督…関川秀雄

      出演…伊豆肇、沼田曜一、杉村春子、原保美、河野秋武

日時  平成19年7月27日(金) 午後6時開場

場所  仙台青年文化センターエッグホール

      仙台市青葉区旭ヶ丘3ー27-5

      ?022ー276-2110

参加費 1000円(『法楽の会』会員、『親輪会』会員は500円)

次第  午後6時 開場

     午後6時10分 上映開始

     午後8時 和室へ移動…おにぎりとジュースで休憩

     午後8時10分 講演開始

        弁護士犬飼健郎氏『憲法9条を見つめなおす』

        カンボジア留学生支援者熊谷千枝子氏『カンボジアと私』

     午後9時 解散

申込  大師山法楽寺へ…電話、ファクス、メール何でも結構です



(それぞれのご都合により、途中でお帰りいただいても結構です)





2007
07.23

お墓に入れない人はいるか?ペットは?

 昨日、ご友人同士が同じ聖地で眠るべく、一区画へ石が二組並んだおが完成しました。中央に敬愛してやまない不動明王像を配した品格のあるできばえで、感心しました。
 また、当山には、故人が生前可愛がっていた番犬の姿をそのまま石で造り、おへ置いた方もおられます。
 この際、以前書いた文章を元にして、姓の異なる人やペットを同じおへ入れられるかどうかという問題についてはっきりさせておきましょう。
 
 俗信は山ほどあり、それを恭しくあるいは断定的に宣って人を不安にさせる手合はいつの世にもいるものです。
 見聞きしたことを鵜呑みにせず、「正思」をもって考えてみましょう。
 思惑や都合を小とし、み仏の教えに立つならば、姓の違いで決定的に区別し同じおへ入れないなどというのは、今の世にふさわしくない考え方です。
 一族に連なる人々はどなたであれ共に弔って当然です。
 また、心が通じ合う人同士が同じおへ入られるのも、お墓が供養の場である以上「理の当然」です。
 そもそも、供養の根本は万霊供養にあり、それは生者が死者を供養するだけでなく死者も生者を供養し(ご守護です)、死者と死者、生者と生者の間でもわけへだてなく行われるものである以上、この世で縁の深かった人々があの世でも縁を深くして悪いはずはありません。

「名」というものについても、世間には多くの誤解があるようです。
 名は体や形や価値を示すのみで、姓名は持つ人の意識へ多少の影響を与えても、それが生死の大事に関わったり運命を大きく動かしたりはしません。
 それは、親が子供へ名前をつける場合を考えればすぐに解ることです。
 親は、自分の希望や夢を子供に託して「こうあって欲しい」と必ず良いもの、善いもの、佳いもの、好いものを考えます。
 考えられる限りのすばらしい名前をつけます。
 しかし、子供たちの現状、あるいは子供だった人たちの行く末はどうでしょう。
 地獄へ迷いこんだ子供や極悪非道な行為をした人間の名前に価値ある文字は入っていないでしょうか。
 尊ぶべきは、より吉祥をもたらす名前をつけてやりたいと努力し、子供の幸せを願う親心です。
「親は懸命に親の役割をはたす、子供は感謝する」それがすべてです。

 戒名を並べて吉凶や成仏や一族の家運をうんぬんすることもあるやに聞きますが、戒名が子孫へ影響を与える影響は、それほど大きくはありません。
 戒名は、御霊そのものの心や人生などに含まれるを表現したものだからです。
 何よりも大切なのは、戒名をよく読んでそのを偲ぶことです。
 そして、一族の者として感謝と誇りを持つことです。そうすれば「人の道」を歩む力が授かることでしょう。

 また、人間と他の生きものとは、役割やが異なるのみで、根本的な差別はありません。
 輪廻転生の理によれば、人に生まれる場合と他のものに生まれる場合とでは、が違ってそうなっただけです。
 金のために人を苦しめ、殺し、食欲にまかせて生きものを殺し、恩を仇で返し、権力のために矜恃を捨て、我欲のままに生きて事たれりとし、日々地獄道や畜生道などの六道を輪廻している人間が、自然界の掟に従って生きている動物などを差別する資格がありましょうか。
 ましてや、縁があって同じ屋根の下であるいは同じ敷地で暮らした生きもの同士が、死んだからといってすぐにバラバラになり、片方は手厚く弔われ片方はゴミになるなど、道理ではありません。
 ただし、が異なる以上、お骨を一緒にするわけには行きませんから、同じ墓地であっても、区別すべきところははっきり区別をし、それなりの法を結ぶ必要があります。
(「差別」と「区別」は別ものです。それを混同している世間の迷いに毒されないようにしましょう)
 当山では、ご希望により、ペットをも弔う正統な形をご指導させていただき、この世で畜生であった者も成仏し、やがては畜生道を脱することができるようきっちりと修法しておりますからご安心下さい。



2007
07.23

十三仏様のご加護8 勢至菩薩

9 勢至菩薩様のご加護

 高野山の萱屋(カヤ)千蔵院には、本堂の中尊として、弘法大師作と伝えられる1尺あまりの勢至菩薩が祀られている。
 脇士(キョウシ…本尊の徳を分け持ち、横におられる方)は、行基菩薩作と伝えられる5尺あまりの阿弥陀如来である。
 こうした形に疑問を抱く者たちがいた。
「なぜ、師主であり大仏でもある阿弥陀如来を脇士とし、本来は阿弥陀如来の弟子である小像の勢至菩薩を本尊としているのだろう。場所を入れ替えた方が良いのではなかろうか?」
 しかし、八百余年も定まった位置にあったので、誰も手をかけられなかった。

 元禄7年、住職の尭雄(キョウオ)が所用で江戸へ下り、小石川伝通院前伊勢屋六兵衛宅にいた。
 梅雨が続き、亭主の求めもあって数日留まっていたところ、夢に本尊が現れた。
「往古より本尊として供養されているので、汝達を擁護することを一時も忘れてはいないのに、ものの道理をわきまえぬ亮慧(リョウネ)達がいきなり座位を変えようとしている。急いで我が意を伝えよ」
 感涙を流した尭雄が本尊勢至菩薩の前にいる観想を持って勤行したところ、3晩続けて同じ夢を見た。

 伊勢屋六兵衛とお告げについて語り合い、千蔵院へ手紙を出さねばならぬと言った時、留守を預かっている亮慧から書状が届いた。
「祀り方に皆の批判が高まり、我々も阿弥陀如来を中尊にすべきだと考え、皆の意見が一致したので、日を選んで居替えすることにした」
 驚いた尭雄がただちに書いた書状は、ちょうど尭雄たちが法要にとりかかろうとしていたところへ届き、法要は中止となった。
 千蔵院の諸僧は、今後座位を変えてはならぬと御厨子へ書き付け、尭雄の手紙を納めて後代への戒めとし、勢至菩薩の秘法を修して懺悔した。

 さて、なぜこうした祀り方になったかは、理趣経を読めば解る。
 第四段の経文が示すマンダラは中尊が観音菩薩で、阿弥陀如来が周囲におられる。
 因果の道理は、深い境地にあっては一如であり、阿弥陀如来と観音菩薩の関係である〈主尊と脇士の関係〉は不二となり、阿弥陀如来と勢至菩薩の関係もまた同じである。

 お地蔵様の徳を讃える「延命地蔵和讃」最後の一節です。

「一門すなわち普門にて 地蔵すなわち遍照尊 因果一如の法門は、不二摩訶衍(フニマカエン)の仏なり」

(地蔵菩薩の門は、広くみ仏の世界へ入る門でもある。地蔵菩薩は大日如来でもあり、因果の法を超える絶対の世界では、どの仏とどの仏の関係というものはなくなり、すべてが一つの世界となる)

 摩訶衍は、サンスクリット語のマハーヤーナです。
「大乗」と訳され、特別な聖者だけではなく皆共に救いの船に乗りましょうという願いが込められた言葉です。
 私たちはすべて、み仏の心を分けいただいた〈み仏の子〉であり、善人であれ、悪人であれ、迷いの淵を渡る船に乗る資格のない人は一人もいません。
 それを教えてくださるみ仏は、時には地蔵菩薩、時には不動明王、時には観音菩薩と、さまざまな徳と役割とお姿をもって私たちをお救いくださいますが、いずれも大日如来という無限の世界からの使者です。
 私たちがみ仏にお会いするのは、大日如来という巨大な球体をいろいろな角度から眺め、そこに潜む無限の彩りを、「あっ、すごい橙色だ!――なんと温かな色だろう」「あっ、すごい空色だ!――なんと澄んだ色だろう」と感得しているようなものなのでしょう。

 絶対の世界を前にして己を投げ出す時、こざかしい思弁は要りません。
 と言うより、思弁は消え果てます。
 住職の尭雄は、充分に謙虚で〈祈る人〉でしたが、亮慧たちは、まだ、そこまで行っていなかったのでしょう。
 勢至菩薩様は、それを教えてくれたのです。





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2007
07.22

【現代の偉人伝第四十三話】 ―公約と般若心経に生きるTさん―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                  

 高校の先輩Tさんは、もうすぐ70歳になる。

 長く務めた地方議会の議員を辞め、NPO法人を設立し、活躍しておられる。

 いつまでだって務められそうなのになぜ立候補しなかったんですかと問われると、立法府としての議会で公約を実現できる部分はやり終えたので、次は自分で実践する段階ですと答える。

 バッジを外し、もうほんびりしても良い年齢なのに、いったいいつまで「公約」を掲げているんですかと問われると、掲げた公約がすっかり実現されていないので、まだまだ活動を止められませんと答える。



 Tさんが立候補した際に掲げた公約とは、「元気なお年寄りには仕事を、弱ったお年寄りには介護を」である。



 毎日精一杯はたらくTさんは、疲れる。

 一人一人事情の異なる個別具体的な問題に立ち向かっていると、やりきれない思いにもなる。

 そんな時、Tさんは、お風呂に入り、般若心経を唱える。

「本を読んでも、本当の意味なんて解りません。ただ、声を出してゆっくり唱えていると、皆さんの苦労も自分の苦闘も全部忘れて、何か違う時間の流れに入られるんです。こんな読み方で良いんでしょうかね?」



 唱えることは聴くことである。

 声は自分の声だが、言葉はみ仏の言葉である。

 言葉には特定の意味と響きが伴う。

 意味は無意識の裡に左脳を動かし、響きは右脳を動かす。言霊が魂へ届くのである。

 経典は、唱えられねば姿の美しさを称えられるだけのカナリヤであり、登山道から眺められるだけの山である。

 経典は、ただ考えて書かれ、考える誰かを予想して編まれたものではない。

 唱えねば、「自分の思考」の限度を超えられない。

 

 Tさんにとって、一旦掲げた公約とは、地域の人々へ対して自分の人格をかけて行った〈達成されない限り果たし終えない永遠の約束〉である。

 Tさんにとっての言葉とは、自分をかけねばならないものである。

 言葉に背かぬ行動にこそ、「まこと」は宿る。

 永遠の世界からの贈りものである般若心経は、今夜も「まこと」に生きるTさんを解き放ち、明日のTさんを支えることだろう。




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2007
07.21

歯をくいしばり、やがて浮かれし、六十年

 現在の日本に顕著な歪み、乱れ、不安といったものは、浮かれた結果もたらされた罰ではないでしょうか。

 

 奇跡の復興を遂げた後、浮かれた人々がバブルの崩壊で一度鉄槌をくらったにもかかわらず、その回復過程で、またもや政界や財界が浮かれ、今の惨状を招きました。

「経済が拡大している」という宣伝文句に惑わされた国民は、おかしいなと感じつつも、景気の良い話をする人々につられてここまで来てしまいました。

 企業が儲けるため、はたらく人々の給与はいつの間にかどんどん下げられました。企業の儲けは、富裕層をより富裕にしました。この傾向が日本とアメリカに顕著なのは象徴的です。

 

 若者は、便利な道具として都合良く使われ、いつでも捨てられる運命にさらされる存在となり、将来を確保できるものは何もなくなりました。

 勤めを果たし退職金で老後を生きようとしたサラリーマンは、簡単に首を切られました。

 老後は店などを次世代へ譲ってのんびりしようとした商売人は、大企業の攻勢で次々にシャッターを下ろさねばなりませんでした。

 戦中戦後を耐え抜いた人々、戦後復興を担った人々が、あてにならない年金にすがるしかない存在になり果てました。

 こうして、日本は先進諸国にあってはめずらしい「年をとればとるほど不安が増す国」になりました。

 今や、多くの若者にとっても、年配者にとっても、「安心」はどこにもありません。



 たとえば、昨今盛んな人材派遣業は、一つまちがえば人身売買的要素の強くなる危険性があります。

 決して人材派遣業者を批判しているのではなく、こうした商売が成り立つ社会に疑問を抱かなくなった私たちの心を見直すべきではないかと考えているのです。

 また、各宗各派とり揃えている僧侶を〈必要な時だけ〉〈金額を明示して〉派遣する僧侶が、葬祭関係者に重宝がられ、マスコミの脚光を浴びています。

 修法までが売買されるモノになり、聖職者は貸し出されて唱える機械になりました。

 人が便利に使われるとは、人が道具になることを意味します。

 自分の都合だけで他人を扱おうとする人は、自分も他人からそうしか扱われなくなることに気がつかないとは、恐ろしいことです。



 私たちは、浮かれた結果、いつしか我がことのみを考えるようになり、思いやりを失いました。

 明らかに治安が悪化し、人の尊厳が踏みにじられ、格差が拡大しつつあるのはそのためです。

 

 私たちは、浮かれた結果、心が弛み、ものごとを甘く考えるようになりました。 

 各界でこれまで考えられなかったような不祥事が続発し、責任ある人々の失言がくり返されているのはそのためです。



 今の日本を色濃く覆っている不安を招いた元凶である「浮かれ」を私たちの心から消し去り、浮かれている人々の「まやかし」に否を言わねばなりません。

 新たな六十年が「安心」の六十年になりますよう。




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2007
07.20

修行する方々





 休日も、雨の日も、Kさんの音頭で石を運び、砂利を盛り、水子地蔵をお迎えする台座ができあがりました。
 最近、水子供養を希望される方が多く、いつでも自由に「水子地蔵」様へお詣りいただけるようにせねならないと決意したところ、皆さんが立ち上がってくださったのです。

 中央の台座は、仙台市の方からいただいたものです。その前の供物台の石は、石巻の方からいただいたものです。小さなお地蔵様をお祀りするために左右へ並べた岩は、秋保の方からいただいたものです。参道の長い石は涌谷の方からいただいたものです。
 Kさんたちは、これまでにご寄進いただいているたくさんの素材から慎重に選び、一つ一つ姿形の異なる岩石を相手に智慧と技術の限りを尽くして立派な作品を造られました。
 事業(ジゴウ)をなし終えたKさんとAさんは、雨に濡れた作業着のまま、言われました。
「これをやらせていただいたのも、修行です。ありがたいことです」

“ああ、ここに僧宝(ソウボウ)がおられる”と、思わず心で合掌しました。
 ご本尊様をお祀りし、経典があっても、〈人〉がいなければ仏法は廃れます。寺院は建物がいのちではありません。
 僧宝とは、プロの僧侶だけに限らず、自分のできる範囲で何かを行ずる方々は、すべて僧宝です。
 こうした労力や財物や祈りなどの布施をする方(布施)、戒めを抱き「自分はまっとうだろうか」と問いつつ生きる方(持戒)、人の道を踏み外してはならないと修羅場でも耐える方(忍辱)、厳しい環境でも自他のためと信じた行動を止めない方(精進)、いかなる愚かな言いがかりにも心を乱さずきちんと対応できる心のおさまりを持った方(禅定)、我がことのみに走らず、他のため、家族のため、社会のため、世のためを忘れない方(智慧)、皆さんが真の宝ものであり、その心こそが仏法を活かす原動力です。

 僧宝の方々にお護りいただいている以上、心強いことはありません。
 共に行じ続けたいと願っています。




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2007
07.19

寺院は困りごとを共有し、解決する方法を共に探す場です

 NHKカルチャーセンターの講座で、『法句経』の一節を読んだAさんから「こういう教えが自殺願望の方々を救えるのではないでしょうか。多くの方々に知っていただきたいです」との声が上がりました。
 

生ある時に悩みを離れ、他を悩ませなければ、死後に憂いはない。これを、はっきりと道を見つけた人という。
 このような賢者は、憂うべき状況にあっても、憂いに悩まされることはない。


 古代インドの人々は、愚かな自分が再びこの世へ舞い戻ってくることを恐れ、別世界つまり天界へ生まれ変わりたいと願っていました。
 釈尊の当時は、バラモン教を信じることが最高の方法とされていましたが、それに飽き足らない求道者たちによってさまざまな修行が行われました。
 そうした状況下、行者の一人であった釈尊は、ついに異次元へ入り、世界の根本を観ました。
 きっと、嵐に遭遇したジェット機が雲の上へ脱出し、別世界に浮かんだようなものだったことでしょう。
 この教えは、そうした聖者の遺されたものです。
 
 悩みを解決し、憂いを解き放つのは、今しかありません。
 原因には必ず結果が伴うので、生前の問題は死後、いつかどこかで何らかの結果を生みます。
 善業と悪業は、それぞれ必ず善果か悪果をもたらすのであり、死は決して因果の糸を切り得ないのです。しかし、これだけでは、追い詰められ、絶望し、壁にぶつかり、出口のなくなっている人々にとって、「ここが出口ですよ」と示すものではありません。
“そうか、いつまでも解決できないのか。死んですら、悩みは消えないのか”とますます落ち込んでしまう可能性すらあります。
 そこで、釈尊は、同時に、こうも説かれました。

 人は過ちを犯すものである。しかし、悔い改めて、同じ過ちをくり返さぬ人になれば、世間の灯火ともなれよう。
 それは、群雲が晴れれば、いつも変わらず大空にある月光が暗夜を照らすようなものである。


 単純な私などは、この教えに巡り会い、「バカで罪人の自分だってきちんと修行すれば行き直せるんだ。お釈迦様がおっしゃっておられるのだからまちがいはない」と一気にお救いいただきましたが、そこは、人それぞれです。
 
 もしも、「〈くり返す〉自分を変えられないから困っているのに」という方へは、こう申し上げておきましょう。
「釈尊の境地を求め、行き直す方法を求めて無数の聖者たちが研究し、体験した真実を伝えるものが現在残っている経典であり修行法です。

 一人で困っていないで、何かをやってみませんか。
 一切のこだわりなくすべての人々へ開かれ、すべての人々を救おうとする法が仏法ですから[:日の出:]」




2007
07.18

現れた菩薩様

 梅雨を忘れさせる好天の下、四十九日の法要で本堂をぎっしりに埋めた人々が『法楽の苑』へ列をなして歩き、納骨を行ないました。
 もうウグイスは去り、セミに主役が移って三日目です。
 お骨をずっとそばへ置かれた奥さんは寂しそうであり、いくらか安心もされたかに見えましたが、いずれ、できごとが心の底で安定し異物でなくなるまでは、モノがゆっくりと水中を沈むような時の経過が必要です。

 仙台からわざわざ足を運ぶ人も多い知る人ぞ知る名店『新ばし』で横に座ったご遺族は、淡々と亡きTさんの話をされました。
「さっき、お墓へ甘いものをたくさんお供えされましたね。好物だったんですか?」とお尋ねしたところ、予想もしない答が返りました。
 甘いものが好きだっただけでなく、お酒も大好きだったそうです。
 しかし、あれば食べ、飲む方ではありませんでした。
 お菓子をいただいても、子供が食べないうちは絶対に食べなかったそうです。
 子供や奥さんの満足を優先していたのです。
 それだけではありません。
 持病のあったご長男は、大きくなって体調が安定するまでは、父親が家で酒を口にするところを見たことがありませんでした。
 年に数回とはいえ、いつ突然発作が起こるか分らないので、すぐに病院へ連れて行けるよう酒を我慢していたのです。
 娑婆にいた頃、日々成長する子供は妻と両親へ任せ、仕事を口実に遊び歩いていた私は頭を殴られたような衝撃を受けました。

父母恩重経』に、こういう一節があります。

「父親も母親も、他所でおいしいものを前にすれば、自分で食べるに忍びず、懐へ入れて持ち帰り、子供を呼んで与えるものである」


 ありがたいけれども心のどこかで当り前と感じながら読誦し、罪深い自分でもそんなことをいくらかはやっていたつもりでしたが、経典の説く世界は次元が違っていました。
 その真実を、菩薩として生きた方の魂を通じて、たった今教えていただきました。

「髪が白くなったからといって真理が解ったわけではないぞ。
 愚かなままでは一体何のための人生か!」

と鋭く問う『法句経』の経文が頭の中でくり返されています。
 何たる60年だったのか………。

 Tさんは、時折、お子さんと一緒に泣いたそうです。
 子供が辛い気持になっていると黙って話を聞き、いつも涙ぐみました。
 8人ものお孫さんが同席していましたが、その若い父母は全員、Tさんと同じ姿勢で子育てをしているとのことです。

 他の人の苦しみも喜びも我がこととして全身全霊で受け止めるのが慈悲の根本であり、菩薩はそこから行動を起こされます。
 何者にも姿を変えて人々を救うと経典で誓っておられる菩薩様は、一職人Tさんとしてこの世に現れたのだろうと確信しています。



2007
07.18

十三仏様のご加護7 ―観音菩薩―

8 観音菩薩のご加護

『本朝諸仏霊応記』の霊験譚(レイゲンタン…不思議なできごと)である。
 
 若狭国(今の福井県西部)に住む糟谷宗次の妻は上月氏景連の娘だった。
 宗次が江戸に単身で赴任していた時、女が緋縮緬に黒帯を付けて夢枕に立った。
 我が妻かと思って顔を見たら絵像にある観音様で、「汝の妻は観音の化身である」と告げた。

 元気だった妻は、7年後の7月11日、33歳の厄年に突然病死してしまった。
 今度は夢に亡き妻が現れ、告げた。
「我は岩殿観音の化身であったが、今は岩殿へ帰ったのである」
 驚いた宗次は両親共々肥後国飽多郡(アクタゴオリ)にある岩殿観音への信仰を篤くした。

 ある時、女がこんな書面を手に岩殿山へ現れた。

「金子少々と硯一面を寄進します。硯は紫石という貴石製で、宗次の妻が秘蔵していたものです。

 袱紗(フクサ…慶弔の贈答で使われる小型の風呂敷)は、妻の袖の小切れで作りました。
 宗次には男女それぞれ2人づつ子どもがいるので、ご守護のため御影像を4枚いただきたきたく存じます。
 宗次夫婦は常々岩殿観音への信心深く、妻は、死後、自分で書いた観音経を読んで欲しいと言いのこしたため、母親はずうっとそれを読んで回向しております。
 法名は耀室周貞信女といい、33歳の歳に亡くなったのも奇瑞にちがいないと、両親共々胸を晴らしました。
 老人の悪筆で恐縮ですが、心の裡を申し上げようと、ここに筆を染めた次第です。
 貞享元年甲子年四月11日 亡女周貞父母
 肥後国岩殿観音別当御衆中」
 この書面は、今も岩殿山に秘蔵されているという。

 観音様を妻にしたとは、宗次も果報者でした。
 ところで、貞享元年は西暦1684年、今からおよそ320年前ですが、年齢に応じた守本尊様が深く信仰されていたことが解ります。
「33歳の歳に亡くなったのも奇瑞にちがいない」とは、33歳の1年間をご守護くださるのが観音様であり、信仰していた観音様のお導きで逝ったことを遺族が喜んでいるゆえの表現です。
 
 人は、生まれたての頃は目も見えず百パーセント親へいのちを預けており、お地蔵様に手を引いていただかなかれば生き延びられません。
 次は、行くべき方向を阿弥陀様にお示しいただき、数え3歳ではお不動様にまちがった世界へ入らぬよう厳しくご指導いただき、やがて虚空蔵様に善悪を教えていただくというように、毎年ご縁となる守本尊様のご加護があればこそ、一生を過ごせるのです。
 
 最初の本厄年は6歳です。ここでは千手観音様が乗り越えさせてくださいます。
 女性は33歳で大厄、男性は42歳で大厄とされていますが、運勢は9年で一回りするので、厄年はそれだけではありません。
 60歳の還暦も本厄年です。60年かかって暦が一巡りするほど長生きしたことを祝うと同時に、この坂を越えたならば後はありがたい「いただきもの」という感覚もあります。
 
 生まれたお祝いはお地蔵様の法、前厄ならば勢至様の法、本厄ならば千手観音様の法、後厄は大日如来様の法をもって行います。
 これからも、守本尊様の修法に務め励み、伝えて行きたいと念じています。





2007
07.17

日本の歌百選29 ―高校三年生―

36 高校三年生

  作詞:丘灯至夫 作曲:遠藤実

  昭和38年 舟木和夫でヒット




1 赤い夕陽が 校舎をそめて

  ニレの木陰に 弾む声

  ああ 高校三年生 ぼくら

  離れ離れに なろうとも

  クラス仲間は いつまでも



2 泣いた日もある 怨んだことも

  思い出すだろ なつかしく

  ああ 高校三年生 ぼくら

  フォークダンスの 手をとれば

  甘く匂うよ 黒髪が



3 残り少ない 日数(ヒカズ)を胸に

  夢がはばたく 遠い空

  ああ 高校三年生 ぼくら

  道はそれぞれ 別れても

  越えて歌おう この歌を



 よく、「歌は世につれ 世は歌につれ」と言う。

 歌は世相を反映し、世相もまた歌の影響を受けるということだろう。

 歌と世相は二人連れとも言えそうだ。

 しかし、〈世間〉とは畢竟、〈自分〉であり、二人連れなのは、歌と自分である。

 世相がいかなるものであるかは、自分の眼で世間をいかに観るかということと同義だからである。

 仏法では、それを「一水四見(イッスイシケン)」という。



・人間にとって、水は飲む水であり、清めの水である。(人間界)

・天人にとっては、自分が歩く水晶の床であり、池を作る水晶やメノウなどの宝石である。(天人界)

・魚にとっては、棲む世界である。人間にとっての空気である。(畜生界)

・餓鬼にとっては、口にできない火焔を上げる膿の流れである。(餓鬼界)



 修羅界に当てはめれば、きっと自他を焼く怨みや怒りの炎であり、地獄界であれば己を茹でる釜の熱湯であり、炎の池だろう。



 だから、歌は自分の生き方に並んで歩くものから覚えるのであり、やがて卒業を迎えようという高校生の耳には、この歌が一番強く残った。

 しかし、当時はそれぞれが自分の道をめざしており、「道はそれぞれ 別れても 越えて歌おう この歌を」は、あまり実感を伴っていなかった。

 この歌詞には真実より感傷があるということに、いくらかは気づいていたのだろう。

 

 同期会が定期的に行われるようになっておよそ30年経った今、この歌と共に生きた私にとって、歌は役割を終えつつある。

 日々の時間がかけがえのなさを増しつつあり、最も価値ある時間の使い方を厳しく選んで過ごすようになったからである。

「あの時ああだった」という、もはやどこにもない幻と感傷に身を委ねる時間はない。

 もちろん、「あの時ああであり、今はこうである」ことを認められる誰かとなら時間を共有できる。

 あくまでも、未来を見すえた「今」という真実しか対象にできなくなったのである。



 こうして去りつつある人生の友もあり、新たに並んで歩くようになった友たちもある。

 歌という友は、来たり、去る。

 実際の友は、どちらかがこの世に別れを告げない限り、去らない。


 はからずも、流行歌(ハヤリウタ)に、友を考えさせられた。




2007
07.16

人を大切にする

 人を大切にするとはどういうことかをお話しし、乃木将軍の故事をテキストにしたところ、意外に知られていなかったので、書いておきます。



 今からおよそ100年前、明治37年2月6日(1904)勃発し、明治38年9月5日に集結した日露戦争は、中国の北東部と朝鮮半島を主戦場として行われました。

 当時の大日本帝国とロシア帝国が正面衝突したのです。

 今は「北の香港」とも謳われるようになった大連のある遼東半島は、両軍にとってどうしても確保しておかねばならない拠点であり、ここにあるロシア軍の旅順要塞を陥落させられるかどうかが勝敗を大きく左右することとなりました。

 双方共に譲れない激戦ながら、休戦の間は負傷者のために協力し合って赤十字の活動を助けるなど、戦争法規はきちんと守られていました。



 第三軍を率いて攻撃を指揮した乃木希典大将はなかなか要塞を攻めきれず、大山巌元帥の指示で着任した満州軍総参謀長兒玉源太郎大将の判断によって攻撃目標を203高地に絞り込んで総攻撃を行い、明治38年1月1日、旅順要塞司令官ステッセル中将は降伏しました。

 ロシア軍にはまだまだ人的余力があったにもかかわらず、中将は、厳寒の中で圧倒的に不利になった闘いを続行し、これ以上死傷者を増やしてはならないと考え、決断したのです。

(この攻防戦で、日本軍の死傷者は約7万5千人、ロシア軍は約2万人でした。そのため、後にステッセル中将は軍法会議で死刑判決を受けますが、乃木希典大将たちの減刑嘆願などによって死刑は免れました)



 1月5日、水師営で双方のトップである乃木希典大将とステッセル中将が会見した時のことです。

 世界各国の取材団は写真を撮ろうとしましたが、乃木希典大将は「写真を残すのは敗軍の将へ対して無礼である。後世へ恥を残させることは、日本の武士道が許さない」と拒否しました。

 しかし、度重なる要請に、乃木希典大将は「会見が終わってから、一同が友人として並んだ様子を一枚だけ許可しよう」と言い、揃って帯剣した写真が世界中へ流されることになりました。

 敗軍の将が帯剣を許されたことは、歴史上初めてのできごとでした。

 ステッセル中将は「このように謙譲の徳厚き将に破れたのなら恥ではない」と敵将を称えました。

 

 このできごとは、明治43年、「水師営の会見」(作詩:佐々木信綱、作曲:岡野貞一)として『尋常小学読本唱歌』に収録されました。

 その一部に、有名な「昨日の敵は今日の友」があります。

「昨日の敵は 今日の友 語ることばも うちとけて 我はたたえつ かの防備 かれは称えつ わが武勇」



 米軍が捕虜となったイラクのフセイン大統領の屈辱的な写真を公開し、あまつさえ、処刑の様子まで世界中に報道されたこととは、天地の違いがあります。

 人はいつでも人を大切にできるはずです。

 こうした歴史に学びたいものです。





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2007
07.15

十三仏様のご加護6 ―薬師如来―

7 薬師如来のご加護

 昔、インドに零落した上流階級の男がいた。
 乞食となって彷徨う毎日だったが、どこの家も冷たく、この上は薬師様におすがりする他ないと思い定めた。
 寺院へ詣で、薬師様の周囲を右廻りに歩きながら懺悔をくり返すこと5日、断食もそろそろ限界に近づいた頃、奇跡が起こった。
 薬師様そっくりの貴人が夢のように現れ、彼に告げた。
「汝の宿業はすこぶる薄くなった。この行の報いとして必ずや富貴を得られよう。かつて父母と住んだ故郷の我が家へ買えるべし」
 やっとの思いで帰ったが、城郭のようだった家は疾うに朽ち果て、ただ、古びた柱だけが残っていた。
 それでも、彼は薬師様のご指示を信じて一夜を過ごした。
 翌日、杖で地を突いたところ、両親が蓄えておいた金子に当たり、それを元手にして仕事にかかって一年後、ついに大きな富貴を得た。

 奈落の底で眼を上げ、上には清浄なみ仏が見守っておられることに気づいた彼は、そのまま死んでも構わないという覚悟でおすがりしました。
 ただ助けてくださいと願うのではなく、己の愚かさを懺悔したところに意義があります。
 おそらく、彼は、どうにか毎日を暮らせたなら、深い懺悔は行えなかったことでしょう。
 しかし、落ちぶれ果てた時、誰のせいにもせずただただ愚かな我が身を振り返る謙虚さがあったために、滅罪の祈りを捧げる機会を得、大きな運命転化がもたらされました。
 逆境の価値と懺悔による浄めの力を考えさせられます。
 誰しも、ある程度満たされていればそのまま明日も明後日も生きられると考え、我(ガ)を捨てようとは思いません。
 我の主張を誰にも受け容れられない逆境は、己を根本から浄める尊い機会なのでしょう。





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2007
07.15

日本の歌百選28 ―鯉のぼり―

35 鯉のぼり

  作詞:不祥 作曲:不祥

  大正2年「尋常小学唱歌(五)」




1 甍(イラカ)の波と雲の波

  重なる波の中空(ナカゾラ)を

  橘かおる朝風に

  高く泳ぐや鯉のぼり



2 開ける広き其の口に

  舟をも呑まん様(サマ)見えて

  ゆたかに振う尾鰭(オヒレ)には

  物に動ぜぬ姿あり



3 百瀬(モモセ)の滝を登りなば

  忽ち竜になりぬべき

  わが身に似よや男子(オノコゴ)と

  空に躍るや鯉のぼり



 戦後、鯉のぼりを空に泳がせる家は少なく、復興が進んでからは、その大きさで隆盛の度合いを計る、あるいは誇るような雰囲気もあった。

 今は、学校はもちろん地域ごとにいろいろが行事が催され、たくさんまとめて泳がせることも珍しくないので、あまり大きさが気にならなくなったようである。



 5月5日の端午の節句は、そもそも平安時代から「菖蒲の節句」として祝うものだったが、江戸時代に菖蒲=尚武の連想で男子の祝日になったという。

「高く」「動ぜぬ」「登り」といった言葉を含む文語体、拳を振りたくなる旋律と調子、いずれも「男子は克己心第一に上昇志向で生きるべきである」という思想がありありと表れている。

 皐月の風の爽やかさともあいまって、男性としては心地良い応援歌と感じつつ生きて来たが、現代ではすんなり受け容れられにくい面もあることだろう。

 いずれ、ものごとにはさまざまな面がある。それは、私たちの心が千差万別である以上、当然である。

 問題点は上手に咀嚼しつつ、心の深層へ届く伝統を守り、生かす大人の智慧を持ちたい。



 最近、ある病院長と話をして、医療現場の悲惨さに驚いた。

 たとえば、自分で食事のできない患者さんへスプーンで食べさせてあげようと看護士が懸命に努力しているのに、面会に訪れたご家族が、当日たまたま順番が後になったためにやや冷えてしまった食べ物を見て、抗議や叱責や罵倒に及ぶことがあるという。

 また、手術には常に危険が伴うので、きちんと手順をふんで患者さんやご家族に納得・了解を得て最善を尽くし、残念ながら厳しい結果が出た場合、何か病院に落ち度はないかと、こまごま詮索されるという。

 こうした状況下、精神的に耐えられず、病院に勤務する医師も看護士もどんどん少なくなりつつあり、特に若者のわがままに直面する産科は危機的状況にある。

 こうした真実は、それほど与論を動かさない。

 苦悩する医師や看護士よりも、不満や文句に走る利用者やご家族の方が圧倒的に多いからだろう。

 また、誰かを叩く、潰すということに快感を覚える視聴者や読者は、それを上手にくすぐるテレビなどのマスコミによって、ますます邪慳になりつつあることも見逃せない。

(「ののしる」「怒鳴る」場面になったなら、チャンネルを変えてみませんか。視聴率を下げる以上効果的な浄めはありません)

 院長は「荒れた世相です」と言い、一瞬、精悍な顔に深い翳りを見せた。



 慈悲は「容れる」「認める」、つまり、相手の立場に立つ。

 一方、我(ガ)は「拒否する」「貶める」、つまり、自分を通そうとする。

 慈悲のみで世間を渡ることは難しいが、慈悲を心に保ちながら生きることは、霊性を持つ人間にできぬはずがない。

 心に「荒れ」はないか、「大人の智慧」に欠けてはいないか、自分を検証しつつ生きたいものである。

 そうすれば、『鯉のぼり』は、佳い歌であり続けることだろう。




2007
07.13

日本の歌27 ―靴が鳴る―

34靴が鳴る

  作詞:清水かつら 作曲:弘田龍太郎

  大正8年『少女号』に発表




1 お手(テテ)つないで 野道を行けば

  みんな可愛い 小鳥になって

  歌をうたえば 靴が鳴る

  晴れたみ空に 靴が鳴る



2 花をつんでは お頭にさせば

  みんな可愛い うさぎになって

  はねて踊れば 靴が鳴る

  晴れたみ空に 靴が鳴る



 大正時代のセンチメンタリズムとは色合いが異なる明るい歌だが、貧しく複雑な家庭の事情を抱えた幼少時代を過ごした作詞家清水かつら氏が、求めつつ得られなかったものを表現したと考えれば、精神の高貴さと芸術の力を再評価したくなる。

 

 清水かつら氏は、童話雑誌『赤い鳥』を創刊した鈴木三重吉氏から「芸術にあらず」「童謡を侮辱している」などと批判された時、「私は芸術をめざしているのではなく、子供の自由な感情の表出をやさしく表現したいのである」と一歩も譲らなかった。

 その詩が、「すべての歌は芸術であるべきだ」と信ずる作曲家弘田龍太郎氏の旋律を得て名曲になったのは、実におもしろい。

 子供が書いた作品のような要素を持ちながら高い芸術性を持つ山下清やルソーの絵を思い出させるエピソードである。



 また、可愛いシャーリー・テンプルが唄い、戦争への道を歩む騒然とした時代に世界各国で親しまれたということも、考えさせられるところが多い。

 戦後、米軍関係者たちから表敬訪問された清水かつら氏は、どんな気持で彼らと会ったのだろうか。



 この歌はただただ懐かしく、過去は哀愁を伴っていることを教えてくれる。

 きっと唄い継がれることだろう。

 誰かが唄い、与える限り、子供の心に届かない時代が来るとは思えない。




2007
07.12

眼差し

 菩薩の行う行為は以下の3つとされています。



1 諸悪莫作(ショアクマクサ)

   悪しきことを行わない。



2 諸善奉行(ショゼンブギョウ)

   善きことを行う。 



3 四摂繞益(シショウニョウヤク)

   人々をみ仏のご加護の中へ引き入れて守っていただけるよう務める。

   ・布施(フセ…ことに応じ、時に応じ、相手に応じて施す)

   ・愛語(アイゴ…思いやりのこもった言葉のみを用いる)

   ・利行(リギョウ…身・口・意を他のために総動員する)

   ・同事(ドウジ…相手と同じ立場に立った心になる)



 NHK文化センターの講座でこのお話をしたところ、熱心なKさんから「『同事』はとても難しいです。どんどんと他人様の悩みごとがやってきて自分が押しつぶされてしまいそうです。法楽寺では、皆さんから持ち込まれた膨大な問題にどう対処しているのでしょうか?」というご質問がありました。

 一つには、1日は24時間しかないので時間を区切って対応し、修法すれば、あとはご本尊様へお任せしていること、もう一つは、ブログの『スピリット・空』へ書いた空体験を行うと、問題事の入れ物となる心の枠が柔軟性を持ち簡単には参らなくなることを申し上げました。

 そして、大切なのは眼差しですとつけ加えました。

 

 生身で行う菩薩行には自ずと限界が生じます。

 Kさんのような例もありましょうし、また、病気になったり年老いたりすれば、思った通りに動けなくもなります。

 しかし、いずれの場合にも、「同事」の心があれば、眼差しに慈悲が宿っているはずです。

 この「思いやりのある眼差し」が菩薩行の出発点であり、終着点ではないかと考えています。

 もちろん眼の不自由な方もおられましょうが、その場合は表情なり態度なり雰囲気なりに必ず菩薩の心は表れているはずです。



 小学校で3年から6年まで担任をしてくださったS先生の温かく深い眼差しは、子供心に大きな〈安心〉〈尊敬体験〉〈聖なるものの存在の予感〉を与えてくれました。

 この三つは、教師が聖職者である証なのでしょう。

 言葉少ない先生の眼差しこそ、一番の導きだったような気がしてなりません。

 

 また、中学校では、I先生から〈厳しさ〉と音楽による〈感動〉を教えていただきました。

 荒波をどうにか乗り越えてここまで来た現在、子供たちへ解放と感動を与える寺子屋を実現せねばとの願いを持ち続けていられる原点は、「『運命』による感動体験」にあります。

 あのような魂の震えは、必ず清めと勇気の核を創るであろうと確信しています。



 眼は心の窓です。人としての温かさを失ってはいないか、感動できる瑞々しさを失ってはいないか、時には鏡でチェックしましょうか。




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2007
07.11

スピリット・空

「マインドは自分から外へ出て行く意欲や意志、ハートは外から来るものを受け容れる気持であり、ハートに立つのが安寧である」という話を聞きました。

 確かにそういう面はありましょうが、それは菩薩(ボサツ)の立場ではありません。

 たとえ身にいささかの穢れを残していようとも、ことに応じ時に応じてスピリット(霊性)をはたらかせ、マインドにおいてもハートにおいても温かさと力とを失わないのが菩薩です。

 まして、密教においては、悟りへ趣く菩提心(ボダイシン)と、より高いところを目指して止まない勝義心(ショウギシン)とは、どちらが主であるとも言えない二本柱です。

 人間の尊厳の実現を求める姿勢は、向上心なくしては継続できず、向上心は、尊厳をめざしてこそ価値があるのです。

 

 密教は、丸くなった悠々自適の好々爺を理想像とはしません。

 難病を抱えながら世の人々に眼を見開いて欲しいと活動する人や、我が身を削りながら病気に立ち向かう医師や、生涯かけて虐げられている人々を救おうとする弁護士こそが理想像です。

 釈尊はいのちのなくなる日まで法を説き続け、最後には「修行せよ」と言い遺されました。修行と説法に生き、死んだからこそ菩薩であり、如来になられました。

 お大師様は、二年前から入定(ニュウジョウ)の日を予告し、法務と平行して行へ入り、だんだんに食物を断ち最後には水をも断って座った岩窟の入り口を塞がせ、真言を唱え切られました。



「私たちの心は限りある入れ物であって、そこが一杯になってしまうとストレスになる。だから整理して、つまらぬものはあまり入れず無一物で良いではないか。入っているものにこだわったり、とらわれたりしないのが空(クウ)の境地となる」という話も聞きました。

 そうした議論をする場合の空とは「五輪(地・水・火・風・空)」の空という観念なのでしょうが、般若菩薩の悟りを顕した『般若心経』を密教的に読むと、そこにとどまるものではありません。

 

 何でも入れる場所である空が無限大に広がる地点、それが行の先に待つ空、観自在菩薩が「照見」した空です。

 そこに立っても、生きている以上、日常生活は続き喜怒哀楽はありますが、入れ物が無限大である以上、何が入っても、もはやぎゅうぎゅう詰めにはなりません。

 コップへ入れた水へインクを一滴落とすと、たちまち水は黒っぽく変化します。しかし、大海へ同じことを行っても、水の色が変わらないのと同じです。

 釈尊もお大師様も、終生、社会と人々の抱えている問題へ立ち向かわれましたが、次々にもたらされる娑婆の難問に押しつぶされずいささかの揺らぎもなかったのは、入れ物が無限大だったからであると想像しています。



 ゴミ拾いであれ、写経であれ、正式な瞑想であれ、できる行を実践し通し、菩薩をめざしましょう。




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2007
07.10

小さきもの2

3 へびいちご 
 
 降っては照り、固まった粘土の上に、赤いへびいちごがいました。
 茎は地面を這うように斜めに伸び、もたげた鎌首の先にある実はまっすぐ天を向いています。
 それにしても、人が食べられないようには見えません。
 飢饉の時も、先人たちは手を伸ばさなかったのでしょうか。






2007
07.09

日本の歌26 ―今日の日はさようなら―

33今日の日はさようなら

  作詞:金子詔一 作曲:金子詔一

  昭和41年歌手森山良子でヒット




1 いつまでも絶えることなく 友だちでいよう

  明日の日を夢見て 希望の道を



2 空を飛ぶ鳥のように 自由に生きる

  今日の日はさようなら またあう日まで



3 信じあうよろこびを 大切にしよう

  今日の日はさようなら またあう日まで

  またあう日まで



 この歌があちこちで聞かれた頃、早熟な若人たちは大学改革やアメリカの原潜寄港反対などを主張してデモに走り、一方では、こうした癒しを色濃く含んだフォークソング系の歌が流行った。

 飛行機が次々に墜落し、ビートルズが武道館で公演するなど騒然とした一年は、自民党代議士田中彰治の逮捕に続く衆議院の「黒い霧解散」へとなだれ込んだ。

 振り返ってみると、私たちはどこかでヤジロベエがはたらいて、危うく日常というものを確保できているのではないかと思う。

 この歌にしても、「バラが咲いた」「君といつまでも」「若者たち」などにしても、旋律が単純であまり抑揚がなく、デモなどの事件が嵐とすれば、こうした一連の歌たちはそよ風である。

 我がことを顧みると、デモなどに批判的だった分だけ、フォークソング系の歌にも惹かれなかったようだ。

 その時々で、ヤジロベエが強くはたらく人もいれば、あまり必要としない人もいるのだろう。



 楽譜を見て驚いた。休符は最後の4分休符一つだけである。

 曲の切れ間で瞬時に息を吸う技術があることを前提に書かれている。

 森山良子が唄ったことはよく解る。

 

 40年経った今は、小学生などの子どもたちが学校で唄っているという。

「希望」「自由」「信じあう」といったテーマは、いつの世も若人たちの情熱をかき立てる。

 良き灯火であって欲しい。



※この頃「自由からの逃走」(E・フロム著 日高六郎訳)が売れた。

 最近、ある政治家がこの書物を引用し、「自由を得た大衆は権力者がいないと右往左往するものだから、政治家は強いリーダーシップを発揮せねばならない」と主張していると聞いた。

 危険な話である。

 E・フロムは、自由というものの危うさを指摘し、世の中が単色に染まることへ警鐘を鳴らしたはずである。

 私たちは、いつの世も、自分を懸けるものは自分で探さねばならない。たやすく与えられるものはむしろ疑ってかかる先に、まことのものが見つかる。

 それは、何も西洋的自我の仕事ではない。

 本ものを見つけるには、我(ガ)は、むしろ邪魔になる。

 霊性を曇らせぬこと、良心を置き去りにせぬことが肝要である。

 流行の「自分探し」が「我探し」になっているように見受けられ、若人たちが自分の殻へ隠る気配の強い今、こうした政治家に踊らされぬよう、気をつけたい。




2007
07.08

死刑制度へ一石を投じるもの ―前上被告の決断―

 7月5日、殺人犯が真人間になりつつあるニュースが流れました。
 平成17年2月、インターネットの自殺サイトへ投稿した無職女性(25歳)を殺し、5月に男子中学生(14歳)、6月に男子大学生(21歳)と相次いで犯行に及んだ無職前上博被告(38歳)が、6月28日に大阪地裁で受けた死刑判決を受け容れる意志を示したのです。

 判決は、検察側が「例がないほど残酷で凶悪。倒錯した性的衝動の抑止は不可能で再犯の恐れは高い」と快楽殺人であったことを主張したのに対し、弁護側は善悪を判断する能力がなかったと主張し、裁判所が18年12月に「判断能力は減退していなかった」とする精神鑑定書を証拠採用し、鑑定人も公判で「刑事責任能力を認める」証言をした結果によるものでした。
 しかし、弁護側は判決を不服としてただちに抗告していました。

 18年12月から20回以上も接見を重ねた長谷川博一・東海学院大教授(臨床心理学)によれば、被告は即日抗告に関し、教授への手紙に

「最低限私にできる償い、それは罪を受け入れること」


と書き、被害者遺族の処罰感情に応えるために取り下げ書面を提出することにしました。
 被告はこれまでに、「自制が効かない」ために殺人を犯し、いまだに「理屈では悪いと判ってますが、他人事みたい」と自分の異常性をすなおに告白し、「長生きする事に意味を見つけられない。遺族の希望通り早く死刑になる努力をする」と決意するに至りました。
 教授は、

「被告から『私を分析して社会に役立てて』と言われた。犯罪を防ぐため、経験を世に伝えるべきだとも考えているようだ」


とも話しています。

 これは、殺人犯が精神に異常性を抱えながら魂は真人間になりつつある希有の例ではないでしょうか?
 当山は、かねて、「現在の人間の精神レベルでは死刑制度があるのはやむを得ないが、受刑者が真人間になったなら罪一等を減じ、人が人を殺すという行為を止めることは可能ではないか。そのためには、受刑者の生まれ変わり、生き直しと、それを確認した被害者遺族の方々が赦す心になる必要がある」と主張して来ました。

 最近、光市の母子殺人事件で死刑判決を受けている被告が、差し戻し控訴審において「今ここで話していることだけが真実だ」と一転して殺意を否認し、大弁護団も同様の主張をするに至り、傍聴した被害者遺族本村洋氏に「聞くにたえない3日間だった」と言わしめました。
 死刑反対という個人的な主義主張を通そうとする弁護士たちの、被害者の心情を無視したいかにも無理な理屈に対し、賢明な本村洋氏の姿勢は微動だにしません。
「謝罪する気がないんだと思います。
 ただ、私は一度も反省をしていない被告に死刑を科したいと言ったことはないと思います。
 彼は悔い改めて自ら犯した罪を反省して納得して、胸を張って死刑を受け入れることに私は意味があると思っています。
 もし彼が嘘をついてこの法廷を戦って、負けて死刑が出たときに、彼の人生は何だったのかと思います」
「早く裁判を終了してほしいが死刑がかかっている。
 存分に主張されたらいいと思う。
 元少年や弁護側が証人を出すだけ墓穴を掘っていく。
 この人間を裁けない司法ならいらない」

 こうした悲惨な状況をあちこちでもたらしているものの本質を考えれば、前上博被告の態度は奇跡的とすら言えます。
 彼の「心の生まれ変わり」が「生き直し」に通じるよう、祈り、微力を尽くしたいと考えています。
 真実のみで死刑を止めることは必ずできるはずです。
 前上博被告のまごころが歴史を変えてくれますよう。



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2007
07.07

グミを活かしてください

 本堂前のグミがたくさん実をつけました。ブルーシートなどをご持参の上、樹を揺らして採ってください。

 せっかくの実です。グミ酒などにされてはいかがでしょうか。












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2007
07.07

お釈迦様が出家された理由

 釈尊が出家した理由は三つあるとされています。



1 樹下の静観

 

 カピラ城の重大な式典である親耕式に臨んだ若き釈尊は、王宮所有の農場で父王や農民などが行っている農耕の作業を涼しい木陰から眺めておられました。

 もともと静慮するタイプだった釈尊は、そのうちに気づきました。

「農民は、朝から晩まで陽に焼けながら作業を行っても、せいぜい生きられる程度の収入しかない。

 そうしているうち、いつ、死がやってくるか知れない。

 この樹で鳴いているセミなどはわずか7日のいのちだが、他の生きものに喰われれば、たった7日のいのちすらまっとうすることはできない。

 人間のいのちの無常なること、セミと何の変わりがあろうか」




 この無常観は、45歳で釈尊を生みながら7日で世を去った面影も知らぬ母親への慕情とからみ、人が生まれ死ぬということの理を明らかにせずにはいられない思いを強く後押ししたことでしょう。



2 四門出遊(シモンシュツユウ)



 何不自由ない暮らしをしていた釈尊は、ある日、城門から出た時、二本の杖にすがって苦しそうにしている白髪の老人に遇いました。

 それまで老人が周囲にいなかったので従者に何者かと尋ね、いかに若くともいつかは歳をとり、老い、幸いにして長寿を得てもあのようになってしまうと聞き、ため息と共に述懐されました。

「ああ、月日は流れるように過ぎて行き、二度と還らない。今日の少年は明日の老人となる。

 生きとし生けるものは皆、死へ向かって生きている。

 たとえ天輪聖王になったとしても、この苦から逃れられないのだ」



 また、ある日、路上に倒れている病人と遇い、また、親族が泣きながら歩く葬儀の列と遇った日もありました。

「ああ、人は皆、死という苦が待っている。

 それを忘れて、その日その日を面白おかしく生きている私たちは何と哀れであろうか」



 そして、清浄な出家者と遇って「一師出家すれば、九族天に生ずる」と聞きました。


 

 たった一人が出家し悟れば、自分が救われるだけでなく、多くの親族たちもまた苦を脱することができるという聖者の言葉は衝撃的だったのではないでしょうか。

 こうして、 ままならぬ「苦」、老い、病気になり、死という断崖絶壁から必ず堕ちねばならぬ「宿命」を見つめずにはいられない思いが強まりました。



3 采女(ウネメ)の熟眠



 父王は、静慮をもっぱらとする我が子が出家することを怖れ、これ以上ない環境を用意しました。

 妻子も得た釈尊が29歳になった年、王は、歌舞を楽しませようと一流の采女を招いたところ、釈尊はちっとも楽しまず、いつしか眠りに落ちました。

 それを見た采女たちは、もう、音曲の必要はないから自分たちも休もうと、一緒に寝てしまいました。

 やがて、先に目覚めた釈尊の眼に、さっきまで美しく舞い、唄っていた美女たちのあきれ果てた様子が映りました。

 ここに至り、もはや軽浮な生活を厭い切った釈尊は、夜半にもかかわらず城を出て林へと向かい、汚れた衣をまとっただけの出家修行者となられました。


 

 たとえ何不自由なかろうと、賢明な釈尊には、人生の大事を放ったまま無自覚に過ごす毎日が耐えられなかったのでしょう。




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2007
07.06

失敗と懺悔

 人は誰しも、時には成功し、時には失敗もします。
 人を創るのは失敗体験です。
 どのように失敗へ向き合ったかが人格の磨かれ方を決めるとさえ言えましょう。

 仏法は、礼拝に続く懺悔に始まります。

「無始よりこのかた 貪瞋痴の煩悩にまつわれて 身と口と意とに造るところの もろもろのつみとがを みな悉く懺悔したてまつる

 我昔所造諸悪業(ガシャクショゾウショアクゴウ)
 皆由無始貪瞋痴(カイユムシトンジンチ)
 従身語意之所生(ジュウシンゴイシショショウ)
 一切我今皆懺悔(イッサイガコンカイサンゲ)」


 至心に、偽りなく心の底からこれを唱えなければなりません。

 平成18年3月、当ブログへ書いた『懺悔し、責任をとるとはどういうことでしょうか』は、YAHOOにおいて未だに10万を超える同類の稿のトップに指示されており、一部を再度掲載しておきます。
 自他を省み、判断したいものです。

 織田信長は、弱冠十六歳で父織田信秀の後を嗣ぎました。
 父から指南役を命じられた平手政秀の進言にはまったく耳を貸さず、異風としか言いようのない身なりや立ち居ふるまいを続ける一方で、馬術・武術・鉄砲術・鷹狩り・兵法などの錬磨に連日汗を流しました。

 そんなある日、平手政秀の長男五郎衛門が大切にしていた名馬を欲しくなり、譲ってくれと頼みました。
 五郎衛門は、きっと信長の言動をいまいましく思っていたのでしょう、自分は武道を探求しているので差し上げられませんと断りました。
 これは大事件です。当時は家臣が主君の意思に背くなど許されぬことであったのはもちろん、こうしたもの言いは、明らかに相手を蔑んでいるからです。
 以来、二人の中は険悪になりました。
 
 平手政秀は深く悩みました。
 息子の行為が自分と信長の間に悪影響を生み、指南役として役割を果たす上で大きな障害となっていると考えたからです。
 彼は決断しました。
 息子を切腹させ、自分も、主君を諫める遺書を遺し、後を追ったのです。

 信長は言動を改め、『政秀寺』を建立して弔いました。
 天下人となってからも、政秀がいたからこそここまで来れたとしみじみ述懐し、川へ行けば、政秀よこれを飲んでくれと水を捧げ、鷹狩りに行けば、政秀よこれを食べてくれと獲物を捧げて涙しました。


〈責任をとる〉とは、こうして己の肝心なものを捨てることです。
〈悔い改める〉とは、こうして新たな力を発揮することです。




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