--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2007
08.31

十三仏様のご加護10 ―阿しゅく如来(アシュクニョライ)―

11 阿しゅく如来様のご加護

 隋の開皇時代に釈の雋恵(センネ)という男がいた。
 不退転の心を得ようと決心し、阿閦如来の尊像を10枚描き、三尺の立像を12体造り、感応を願いつつ祈った。

 そんなある夜、夢に二人の僧侶が現れた。
 一人は白光、もう一人は喜辟(キヘキ)と名乗り、雋恵へ問うた。
「汝は、阿しゅく如来の本願を知っているか?」
 雋恵の答はすばらしく、僧侶たちは小躍りして喜んだ。
「汝は、濁悪のこの世にあってかくも真摯に阿しゅく如来へ帰依している。必ずや一生のうちに不退転の位へ至り、やがては歓喜の極楽へ生ずるであろう」

 ますます精進した雋恵はやがて臨終を迎え、周囲へはっきりと告げた。
「今こそ、我は速やかに歓喜の地へ往生しよう」



 阿しゅく如来七回忌の守本尊で、東方妙喜国のみ仏です。
 尊名のアクショーブヤには「動ぜざる尊」の意味があり、悟りを得ようとする菩提心が不退転であるよう大地の徳をもってお守りくださいます。
 その昔、大日如来がこの国に出現された時、決して怒らぬことを誓って修行を重ねた結果、ついに怒りと色欲を克服して如来となり、今も妙喜国で説法中であるとされています。

 三回忌阿弥陀如来の西方浄土へ至った御霊が、太陽の昇る東方の仏国土へ至り、いよいよ転生の流れに乗る段階なのでしょう。
 ここで菩提心をしっかり固めないと、人間界どころか、餓鬼界や畜生界へ転生するかも知れません。

 現代ではあまりなじみのないみ仏ですが、高野山の金堂は阿しゅく如来が本尊です。
スポンサーサイト
Comment:0  Trackback:0
2007
08.31

9月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

今月の第一例祭 9月2日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

今月の第二例祭 9月15日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



Comment:0  Trackback:0
2007
08.30

9月の運勢(世間の動き)

 今月は、自分の分を過ぎた欲を出せば上から叩かれたり、思いもよらぬ災厄に遭ったりする危険性のある時期です。
 たとえこちらに火種があっても、周囲に木がなければ火は燃え上がることができません。
 己の〈分〉と周囲の〈縁〉をしっかりと判断して行動すべきです。
 
 また、「多勢に無勢」といった態勢にならぬよう気をつけましょう。
 自分だけが強気でどんどん突っ込み、後をふり返ると後から付いて来ているはずの仲間や部下がいなくて、敵中に取り残されたりします。
 
 信用というものが軽くなり、つまらぬことで簡単に破壊されてしまう、あるいは自滅的な行為で信用を落とすといったきごとはこれからも続きます。
 すべからく、謙虚な心を持ち、親和をはかり、人徳で信用を積み上げながら事を進めれば開運となりましょう。
 
 雷や地震や事件など突発的なできごとで情報の流れに支障が生じやすく、悪天候や交通事故などにも要注意です。
 いざという時は、今月の守本尊不動明王様の真言を唱え、無事安全に過ごされますよう。

Comment:0  Trackback:0
2007
08.28

目に見えるものと、観想で観えるもの

 虚空蔵求聞持(グモンジ)法は、小雨の開始となりました。
 修法に入ってすぐ解けた疑問があります。
 それは、ご本尊様として、満月を象(カタド)った丸い板へ書いた虚空蔵菩薩様のお姿に関するものです。

 お姿は、もちろん経典によって決められているのですが、多くの場合、虚空蔵菩薩様は、右手に剣、左手に宝珠、あるいは宝珠を載せた蓮華を持っておられます。
 しかし、この修法では、右手が、手を下げて掌を外へ向けた与願印(ヨガンイン…願いを受け止め、叶えてあげようという形)であるように「観想せよ」と説かれています。
 つまり、普通のお姿とは違います。

 ところが、不思議なことに、これまで修法されたものとして寺院に残っているご本尊様のお姿には、両方あります。
 ある行者は、「なぜか解らない」と正直な感想を書き遺しています。

 私もどちらにしようかと考えましたが、剣を持ったすばらしいお姿と出会ったので、迷うことなく剣の形で尊像を描き、ご本尊様としました。

 さて、修法に入り、「観想せよ」とあるとおり、観想を始めました。
 眼前にあるお姿は右手に剣ですが、観想では、右手は与願印です。
 そうしたところ、何のことなく、お次第とおりの観想ができました。
 肉眼には剣が見えていますが、それとは別に、下へ伸べ下ろした手がはっきりと観えたのです。

 考えてみれば当然のことです。
 密教の修法に入るとは、み仏と一体になることであって、お不動様が、どんな人でも「我が子のように」観てお救いくださるのと同じく、肉眼で見る世界とは異なった世界が観えることを驚く必要はありません。
〈この世は迷いの苦界でありながら、同時に、大日如来の徳の表れである〉とは、こうした真実をさすのでしょう。
 第一日目に密教行者へ根本的な自覚を促してくださるとは、やはり、お大師様が生涯に何度も繰り返された秘法はとてつもない力を秘めています。
 ありがたくてなりません。信じて邁進します。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.27

虚空蔵求聞持法を始めます

守本尊道場』建立予定地のど真ん中に小さな建物ができたので、何だろうと訝しく思う方がおられることでしょう。
 密教行者としてぜひやっておきたい修行についてお話したところ、篤信の方がご寄進くださった求聞持(グモンジ)堂です。
 とにかく雨風をしのげれば良いと申し上げたのですが、土台造りから接続する金具を使わず、宮大工さんの精密な工法で造っていただきました。
 場所は八角堂の予定地なので、御神輿と同じく、そのままどこへでも移動できる構造になっています。
 
 そうしたわけで、満月であり、お不動様のご縁日である8月28日(皆既月食)より虚空蔵求聞持法(グモンジホウ)へ入ります。
 この法は、虚空蔵菩薩様のお力をいただいて智慧と福徳とを得る秘法であり、お大師様が行者として最初に行った修行法とされ、お大師様は生涯に何度も行じておられます。

 今回、決意した理由は二つあります。
 一つには、還暦を過ぎた今、お大師様の法統にある者として、是非とも行っておきたいからです。
 できるのは還暦までと言われていますが、出家が遅く、徳が薄いのでこれまで行ずる環境を得られなかった者の願いは、み仏にお認めいただけるものと考えています。
 もう一つには、善男善女へ理想の精舎を造るためのご理解とご寄進をお訴えするに際し、自らも何かをかけねばならないからです。
 無一物の身としては自らをかける以外なく、難行に挑むのは当然です。

 虚空蔵菩薩様の真言を百万返唱えるこの行は、本来、百日かけて修法するものです。
 しかし、百日間も、人生相談やご祈祷やご供養の法務を離れることはできません。
 だから、朝や夜に行い、日中は今までと同じく法務に勤しみます。
 そもそも、事業に失敗し、出家してからは、昼間、托鉢や人生相談などを行い、ほとんど夜中に修行を重ねて法力をいただいた「夜学行者」です。
 特別の期間を設けず、コツコツと積み重ねるのが分相応というものでしょう。
 こうした方法では、経典にあるような超能力など得られるはずもないでしょうが、志は虚空蔵菩薩様へ届くものと信じています。

 これから、一年かかるか二年かかるか、あるいは千日を要するかは判りません。
 いずれ、日食か月食の日が満願となります。
 己の愚かさを克服するため、そして万人に開かれ万人が救われるための精舎が完成するよう祈りつつ修法を進めます。

 ご本尊様は自分で描いた虚空蔵菩薩様、道場のご守護はお大師様がお生まれになられた善通寺の愛染明王(アイゼンミョウオウ)様です。
 愛染明王様は、史上初めて四国八十八霊場の秘仏を撮られた写真家櫻井恵武(サクライメグム)氏からいただいた迫真のお姿で、きっと満願させてくださることでしょう。
 参道には、六道の迷いを断つための六地蔵様と、九つの心を清めていただくための九字地蔵様をお祀りします。

 南無虚空蔵菩薩。南無愛染明王。南無地蔵菩薩。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.26

第四十五話 ―生還を譲った人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                
“―――やはり”と思った。
 アフガニスタンで起こった韓国人拉致・殺害事件で、ようやく解放されそうになったイ・ジヨンさん(36歳)が、
「私はアフガニスタンの経験が長いので他の人質と残る」
と言い、結果的に金志羅さん(32歳)ら2人が助かったのである。
 中東のテレビ局アルジャジーラが23日に2人のインタビューを放映したところによると、イ・ジヨンさんは、タリバンに申し出て金さんらに家族宛の手紙を託し、公開された。
「元気なので心配しないで。身体を大切に」
などと書かれてあったことを知った母親ナム・サンスンさんは、
「娘を誇らしく思う」
と語り、泣き崩れたという。

 イ・ジヨンさんは昨年12月からアフガニスタンでボランティアに従事しており、今回入国したキリスト教徒たちの通訳兼ガイドとして合流し、事件に遭った。

「他を先にする」のは、仏法の精神と共通する姿勢である。
 釈尊は、『長い箸の例え』で、それを説かれた。

「この世は、お互いが長い箸を持って生きているようなものである。
 それを用いて自分が食べものを摂ろうとすると、食べにくい。
 まず誰かへ食べさせることである。
 そうしてお互いが食べさえ合えば、食べやすく、皆が感謝を交わしながら生きられる」

 幸せと感謝に溢れた世の中にする方法は明らかである。
 実践は簡単ではないが、まず、知って心に刻むことから始めねばならない。
 実践の事実は、大いなる励ましとして、記憶しておきたい。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.24

長月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。
(掲載が一ヶ月遅れになる場合があります)

人生のかたみち切符終戦忌

地下を出て街の猛暑につかまりぬ

振り仰ぐ今宵は見たし天の川

夜の更けて流星群見む空広し 


Comment:0  Trackback:0
2007
08.23

正しい祈り方

 今年のお盆の護摩法には、これまでになくたくさんのお子さん方が参加しました。
 修法中は後をふり返りませんが、皆さんからいただいた写真を見ると、とても真剣にお詣りしていた様子が解り、嬉しくなりました。
 そして、正しい祈り方、正しいお詣りの仕方をよく知っていただきたいと願う気持が強くなりました。

 私たちが合掌するのは、み仏になるためです。
 本来のみ仏へ戻るためです。

 仏法における「祈り」「お詣り」の本質がここにあることは、あまり知られていません。

み仏になる」とは、身・口・意がみ仏の身・口・意と一致することです。
 合掌は印を結んだ姿すなわちみ仏の身体の状態であり、これで三分の一は達成です。
 もし、般若心経を唱えたり真言を唱えたりすれば、それはみ仏の口のおはたらきであり、ここまでで、三分の二が達成されました。
 さて、残りの一つが問題です。意志をどうすれば良いか。
 当然、口にする般若心経や真言と一体になるだけです。
 もし、お不動様や観音様やお地蔵様など、帰依するみ仏の前に座しているなら、そのお姿を瞼の裏側に描く方法もあります。
 専門的には「観想」というさまざまなヴィジョンを描く方法があり、正式な指導者から伝授されなければ、このレベルへは入れません。
 こうして意志をみ仏と一致させれば、祈りの行は完成となります。

 それでは、「自分の願い」はどうなるのか?
 たとえば、子供が「成績がもっと良くなりますように」と祈る場合、どうすれば良いのかが大問題です。
 なぜなら、それはみ仏の意志ではなく、祈る側の意志だからです。
 せっかく合掌し、真言を唱えてみ仏へ近づいても、肝心要の心が自分勝手では身・口・意がバラバラになり、正しい祈りはできません。

「目的を念ずることと祈ることを分ける」
これが答です。
 たとえば「成績がもっと良くなりますように」と念じて願をかけたなら、後は、身・口・意を一つにして祈れば良いのです。
 もしくは、大好きなお地蔵様の前に額づき「おんかかかびさんまえいそわか」を何度か唱えてから、「成績がもっと良くなりますように」と念ずれば良いのです。
 こうすれば、身・口・意をみ仏と一致させた〈尊い自分〉が良き願いをしっかり心に保つので、それまで以上の力が出せること請け合いです。
 また、〈尊い自分〉になった体験は必ずや身・口・意の穢れを清め、まっとうな人間として運命を切り拓く力が高まるにちがいありません。

 まず大人がこうしたことを学び、夏休みというせっかくの機会を有効に使い、子どもたちの霊性をどんどん発揮させていただきたいと願っています。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.22

第四十四話 ―プールの女性監視員―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきなのではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                
 妻が初めて孫Kをプールへ連れて行くことになり、不安だというので、急遽手伝いに駆けつけた。
 初めて大きなプールに入ったKは、年上の子どもたちがたくさんいることもあって、自分の居場所を決められず、不安な様子。
 やがて、スポンジを背中につけ、ビート板を使って遊び始めた。

 妻がバタ足などを教えているうち、ビート板が傾き、足がもつれてお定まりのブクブク体験となった。
 慌てて抱き上げたら、駆けつけた女性の監視員がはげしく拍手をする。
「上手!上手!うまく潜れたわねえ。きっとうまく泳げるようになるわよ!良かったわねえ」
 孫は私にしっかりしがみついたまま、無理に笑っている。
 私も言った。
「初めてだったのに、大丈夫だったねえ。Kはすぐに泳げるようになるぞ」
 そして、Kを妻に預け、バタ足だけで進んでみせた。
 Kは恐怖を忘れ、もう一度やってと喜んでいる。
 もう一度水面にうつぶせになりながら、ありがたさがこみ上げて来た。

 初めて溺れそうになって不安に襲われた時、周囲の大人たちも慌てるばかりで「危なかったねえ」「怖かったねえ」「だから気をつけないとね」などと言ったなら、子供の心には水への苦手意識が生まれ、トラウマが生じてしまう可能性がある。
 しかし、笑顔で褒められ、励まされると、できごとは恐怖体験ではなくなる。

 女性監視員は、まだ、二十歳そこそこである。
 いかに訓練をしているからといって、間髪を入れず、まるで自分の子供を褒めるように一生懸命励ましてくださったのには、心底、感心した。
 おおげさに考えれば、子供の心の底に不安という黒い球が溜まろうとした時、代わりに希望や好奇心という白い球を投げ入れてくれた大恩人である。
 きちんと学び、的確に実践する姿勢は尊敬に値する。

 権力者や富豪や著名人などを含め、どこか〈タガが外れた〉としか思えない不祥事や事件が相次ぐ中、まっとうな人々のさして目立たない基本的な努力が日本の肝心なものを守っていることに、あらためて感謝と喜びが起こって来た。                      
Comment:0  Trackback:0
2007
08.21

日本の歌31 ―秋桜―

38 秋桜     
  作詞:さだまさし 作曲:さだまさし 昭和53年発表

1 薄紅のコスモスが 秋の日の
  何気ない陽だまりに 揺れている
  この頃 涙もろくなった母が
  庭先でひとつ 咳をする
  縁側でアルバムを 開いては
  私の幼い日の思い出を
  何度も同じ話 繰り返す
  独り言みたいに 小さな声で

  こんな小春日和の 穏やかな日は
  あなたの優しさが 沁みてくる
  明日(アシタ)嫁ぐ私に 苦労はしても
  笑い話に 時が変えるよ
  心配要らないと 笑った

2 あれこれと思い出を たどったら
  いつの日も一人では なかったと
  今更ながら 我儘な私に
  唇噛んでいます
  明日への荷造りに 手を借りて
  しばらくは楽しげにいたけれど
  突然涙こぼし 元気でと
  何度も何度も 繰り返す母

  有難うの言葉を 噛み締めながら
  生きてみます 私なりに
  こんな小春日和の 穏やかな日は
  もう少し あなたの
  子供でいさせてください

 26歳の青年が清冽な言葉を紡いだ。
 言葉と旋律が一体になって心の中からゆるゆる、ゆらゆらと出てくるイメージに、六波羅蜜寺にある空也上人の像が思い出され、驚嘆したことを今もはっきりと覚えている。

「小さな声で」が「こんな小春日和の 穏やかな日は」へ移る流れは、小さな魂の震えを大きく解き放つ巧みさで聞く者の心を掴み、放さない。
 まるで、オーケストラの指揮者に演奏者がついて行くようなものだ。
 タクトを握ったことのある者には、さだまさしが自分自身へタクトを振っていたと思われてならない。
 天才である。
 
 ちょうどこの頃、「アリス」や「甲斐バンド」といったイキの良い歌手たちも活躍し始め、日本語の佳さが新しい感性によって見直されるようになったと感じられた。
 一文字が一つの音符へ乗ってはいるが、言葉の句切りと旋律の区切りが一致しており、作曲者さだまさし本人の歌も山口百恵の歌も、日本語が日本語としてはっきり聞こえた。
 どんな時に耳から入って来ても、心地好かった。
 
 彼は3歳からヴァイオリンを習いめざましい上達ぶりだったが、家業の破綻に伴い小学校を卒業してすぐ故郷の長崎を離れ、たった一人で上京した。
 ヴァイオリンを探求するためである。
 しかし、目標とした高校の受験に失敗し、一時、ヴァイオリンを諦めた。
 音楽への意志はありながらも道はみつからず、席を置くだけだった國學院大學を中退しながらアルバイト生活を続けているうちに肝炎を患い、無念の帰郷となった。

 彼の作る歌詞には切実さがある。誠実さがある。
 挫折者に特有の居直りや、劣等感に促された傲慢さや、陰から窺うような濁った眼差しなどは、まるでない。
 まともに人生へぶつかり抜いたからだろう。
 倒れ、伏し、足をふんばり自分で立ち上がった経験があるからだろう。
 言葉がヴァイオリンの感覚で奏でられる旋律と解け合った時、比類のない作品となる。
 哀しい歌も、楽しい歌も、どれもが澄んだ水晶のようである。
 しかも、温かい。
 至宝である。


2007
08.20

ブログの移動

 ブログが、「ロリポブログ」から「FC2」へ移動になっております。
 お気に入りなどへ登録しておられる方は、変更をお願いします。合掌
Comment:0  Trackback:0
2007
08.20

刃の上を歩く ―車谷長吉著『世界一周恐怖航海記』―

 お盆が終わるのを待っていたかのように逝く方がおられ、地鎮祭やご加持などで奮闘の日々が続いています。
 平和な日本に住みながらほとんど「一日三度の飯」にありつけず、安穏は決して許されぬ我が身の業(ゴウ)を思い知らされる毎日です。

 作家の高任和夫氏から「おもしろいぞ」と推奨された車谷長吉著『世界一周恐怖航海記』を一度、読み終えました。
 トイレや駐車場などでしか読めないので、真剣勝負の著者に合掌しながらの読了です。

 一文字一文字の表すものは、やはり業(ゴウ)としか言いようがない世界です。
 書評はあと2度読んでからとしても、僧侶としては、どうしてもとりあげておかねばならない記述があります。

「キリスト教について考えていると、あることを思い出した。
 二十七歳の男が癌に罹った。絶望した。人の勧めでキリスト教に入信した。それまで信仰心などかけらもない男だった。救われたい一心で、ひたすら祈った。三ヶ月後に死んだ。この話を聞かされた時、私はこの男は救われなかったと思うた。死は存在の消滅である。だからこの男の場合も、存在が消滅しただけである。救われたい一心で祈る、というのが、そもそもさもしいことである。」

 
 宗教心には段階があり、〈自分のため〉に祈るのは、信仰の入り口です。
 感応があれば、祈りは必ず、〈他のため〉へと広がります。
 やがては、他のために祈ることがすべてとなり、自分のために殊更に祈る気持はなくなります。
 自分のために祈らずとも、救われているからです。
 み仏と一体になった身に、〈自分のため〉はあり得ません。

 去る17日、元早稲田大学総長西原春夫先生の講演会がありました。
  演題は「日本の進路、アジアの将来(未来からのシナリオ)」です。
 もちろん出席できなかったのですが、お送りいただいた先生の写真を拝見し、こんなお礼状を書きました。

「先生のお姿には後光が感じられます。
 参加できなかった私のような者へも、『未来への眼差しを失わないでこそ人間ですよ』と、表情をもって教えてくださったのでしょうか。
 仏法も、そこにこそ、いのちがあります。
 あきらめや、いなおりや、世捨ての如きものを理想と称するような〈解説〉が結構流行っているようですが、叡智と慈悲を根本とする仏法は、そんなところにとどまりはしません。
 釈尊は、倒れ、伏した後も修行を説き、お大師様は、最期を決めて弟子たちに洞の入り口を塞がせた後も、天下万民を救うため、暗闇の向こうに弥勒の浄土を観、真言を唱え続けられました。
 たとえ明日なくなるいのちであっても、心に讃歌を抱くことはできるはずです。」

 
 釈尊は、一族滅亡という悲惨を味わい、お大師様は、「生まれ生まれ生まれて生の初めに昏(クラ)く、死に死に死に死んで死の終わりに冥(クラ)し」という絶望を抱えておられました。
 決して脳天気な楽観主義や軽薄な未来志向ではありません。
 絶望の闇の深さと讃歌の明るさは正反対であるように見えながら、根は同じではないかと感じています。

 車谷長吉氏が、己の感性で「さもしい」と感じる行為を断じて行わず「絶えず捨て身、抜き身で生きて来た」のも、釈尊とお大師様がみ仏と共に生きられたのも、刃の上を歩くような生き方と言えましょう。
 願わくば、その爪の垢でも煎じさせていただく気持で、毅然と生きたいものです。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.19

隠形流の精髄

 隠形流居合行者による炎天下の奉納剣です。 

s-iino1.jpg


s-iino2.jpg


s-iino3.jpg


s-iino4.jpg


s-iino5.jpg


s-iino6.jpg


s-iino7.jpg


s-iino8.jpg


s-iino9.jpg


2007
08.19

小さきもの 4

5 毬
 
 37度を記録した猛暑の8月15日、参道にポツンとが一個落ちていました。
 
nettkuri.jpg


 あまりの残暑の激しさに、私たちはもう立秋(8日)が過ぎたことを忘れがちですが、季節は明らかに変わりました。

 この夏は、まさしく〈修行〉の時期でした。
 今、〈菩提(ボダイ)〉の秋を迎え、我が心に何があるのかを沈思黙考する時を持ちたいものです。
 ここを心豊かに過ごせれば、やがて来る〈涅槃(ネハン)〉の冬は安寧なものになることでしょう。
 そして、志を新たにする〈発心(ホッシン)〉の春を待ちたいものです。


2007
08.18

朝青龍関を救いましょう

 ブログの「お詫び・朝青龍事件」へ書いたように、当山は、この問題が報じられた時から、
「本人の心の健康の回復が何より優先されるべきであり、このまま状況が悪化し、長期入院、あるいは廃業となった場合、責任の所在云々もさることながら、日本とモンゴルの友好の象徴を非人道的なやり方で潰した影響は計り知れないほど大きい」
と主張して来ました。
 
 お盆中も、岩手県から来られた檀家さんたちへ、こう申し上げました。
「たとえは良くないかも知れませんが、もし、事件を起こした人が盲腸らしい症状で苦しんでいたならば、警察へ連れて行って留置場へ入れますか?それとも病院へ運びますか?それと同じような緊急事態なんですよ」
 これまで人生相談を受けてきた体験上、これは一人の人間の人権にかかわる大問題であると認識しています。
 モンゴルをはじめ世界中から、日本人の、心の病気への認知度が測られてもいます。
 なぜ、医師たちが病人の危険性を指摘して立ち上がらないのか、相撲協会へ意見を言い、抗議をしないのか不思議でなりません。

 16日、ついに、憂いていた事態となりました。
 モンゴルの人々約40人が、ウランバートルの日本大使館前で、「人権侵害をするな」との抗議活動を行ったのです。
 万が一、朝青龍関がなかなか立ち直れない状態に陥ったならば、取り返しのつかないことになりましょう。
 
 モンゴルからやってきた青年が部屋に閉じこめられたまま、心がだんだん破壊されて行くことを想像すると、哀れでなりません。
 相撲協会は、軟禁という非人道的で最悪の対処を続けてはなりません。
 一人の人間を救うため、相撲界と日本への信頼をこれ以上貶めないため、一日も早く、本人にとってもっとも治療にふさわしい環境を与える決断が行われるよう願ってやみません。

Comment:0  Trackback:0
2007
08.17

お墓と仏壇の関係

 お墓についての疑問集の最後に、仏壇についても、以前公開した文章を転記し基本的なことを記しておきます。

 仏壇お寺のミニチュア版です。
 それは、古い時代の仏壇には三角の屋根がついており、正にお寺そのものの形をしていたことからも判ります。
 今日一般的になっている箱形の仏壇も、正式な形をふまえたものは中に屋根のような形の部分があり、ご本尊様を安置する一番上の台はまさに須弥壇(シュミダン…寺院の正面にある大きな壇)であって、お寺と何ら変わりありません。
 つまり、仏壇の意義は、そこにご本尊様がおられ、法と教えがあり、それによって御霊も生者も共に成仏への道を歩む場であることです。

 かつて、お寺には寺子屋がありました。
 文化年間(1804年~1818年)には江戸だけで1200~1300軒もの寺子屋があったとされ、そこで習う「読み書きそろばん」と僧侶の指導が教育の基礎であり、同時に社会人となるための基盤づくりともなっていました。
 もちろん、寺院ですから、子供たちは心が浄められみ仏も御霊も身近な存在だったことでしょう。
 江戸時代の識字率は世界最高だったというのも頷けます。
 私たちが仏壇の前に座るのは寺子屋にいるのと同じだとも言えましょう。

 さて、そこで学ぶものは何でしょうか。
 それは、何はさておいても「六波羅蜜(ロッパラミツ)」であり、そのためにそ「六種供養」が行われます。
 水をお供えしては「布施」を念じましょう。
 手へ塗香を塗っては「持戒」を念じましょう。
 花の供養では「忍辱」を念じましょう。
 お線香を立てては「精進」を念じましょう。
 ご供物をお供えしては「禅定」を念じましょう。
 灯明に明かりを灯せば「智慧」を念じましょう。
 こうして、日々のご供養がそのまま供養をする人自身の行になります。
 一心に念じていれば、凡夫の身・口・意がみ仏の身・口・意と一致し、迷いの三業(サンゴウ)が如来の三密(サンミツ)となります。
 つまり、仏壇の前は、この身このままでみ仏の世界へ入るための場です。

 仏壇の意義を活かすには用意した仏壇をどうすれば良いのでしょうか。
 仏壇は小さなお寺ですから、何よりも先にご本尊様をお祀りすることです。
 ご本尊様のおられないお寺はありません。
 ですから、ただ位牌を置くのは謬りです。
 ご本尊様がおられてこそ、手を合わせる私たちも位牌をよりしろとする御霊もお救いいただけるのです。
 こうした本義からすれば、当然、位牌がなくご本尊様だけがおられる仏壇はあってしかるべきです。
「お地蔵様が好きだなあ。ちゃんとご供養して手を合わせたいなあ。お経も読みたいなあ」「自分はなぜかお不動様にお護りいただいているような気がするから、お不動様をお祀りしたい」などと思えば、仏壇を用意すれば良いのです。

 また、「姓の異なる位牌を置くと家庭が乱れる」といった話がおかしいこともすぐ分かります。
 お慈悲の深いご本尊様が「お前は導いてあげよう」「君は嫌だよ」などとわけへだてすることがあり得ましょうか。
 せっかくみ仏がおられるお寺なのに、人間の好き嫌いや都合などを主とするのは愚かしいことです。
 供養とはわけへだてなく縁に応じて互いのためになろうとする慈悲行である以上、万霊供養が根本的な形であって、もしも代々の御霊のみを祀るならば、ご本尊様にお導きいただけないだけでなく、そうした狭い了見はそれこそ一家一族の繁栄の障害になり、仏壇は空虚な死後の家でしかなくなってしまいます。
 御霊成仏できず、一家の人々もお護りいただけません。

 こうして、お墓、仏壇、寺子屋、お寺はつながっています。生きている間も死後も魂のよりどころとなるかけがえのないものを、大切に護りたいものです。



2007
08.17

お盆供養会が終わりました

 37度を超える猛暑も何のその。おかげさまにて、無事、お盆供養会が終わりました。
 準備に汗を流してくださった方々、お心をお寄せいただいた方々、そして、ご参詣され、共に経文や真言を読誦して祈り、み仏のご威光を増益してくださたった善男善女の方々へ心よりお礼申し上げます。

六地蔵様のお出迎え
obon011.jpg


法話
obon014.jpg


経典を読む
obon035.jpg


思いを捧げる塔婆
obon045.jpg


清め・ご加護
obon048.jpg


護摩壇へ
obon052.jpg


一心不乱
obon53.jpg


敬虔
obon061.jpg


純真
obon065.jpg


奉納剣 無心
obon098.jpg


奉納剣 集中
obon116.jpg


奉納剣 静寂
obon126.jpg


奉納剣 残心
obon127.jpg


見守る
obon140.jpg


奉納剣 獅子奮迅
obon148.jpg


奉納剣 秘剣
obon149.jpg


奉納剣 感謝
obon159.jpg


Comment:0  Trackback:0
2007
08.14

チョウチョ

 昨日は、途中、本堂で行った修法をはさみ、午後9時過ぎまで歩きましたが、ご要望にお応えできないお宅がたくさんありました。
 重ねてお詫び申し上げます。
 10分や15分では、仏壇の前で法具をセットして護身法を行い、ご挨拶の真言を唱えるだけで過ぎてしまいます。
 修法を端折りたくさんのお宅を廻るやり方は採りませんので、ご了承いただきたく存じます。
 もしご来山できなくとも、こちらからお伺いできなくとも、ご供養のお申し込みをされれば、本堂で行う修法をもって皆様のご誠心を必ず仏界へお届けします。
 法は時空を超えますので、どうぞ、ご安心ください。

 本堂で修法を行った際、こんな体験をしました。
 
 護身法に入った瞬間、何かが左耳へ舞い降りました。
 重さはあるかなしかといったところです。
 一旦法へ入れば余計なことはできないので、そのまま続けました。
 ご参列の方々が「チョウチョだ!」「あっ、本当だ!止まってる」などと囁いておられるので、チョウチョだということは判りました。

 次々と印と観想が続くので手と頭脳は動きますが、頭や身体全体は動きません。
 そのせいか、チョウチョは止まったままです。
 護身法が後半へ入り、心をみ仏と一体にする法へさしかかったあたりで、ほとんど存在感がなくなっていた左耳に、「カ―――」というか「サ―――」というか、何かが幽かに流れているような音が聞こえました。
 
 やがて聖水によるお清めが始まった時、チョウチョが耳を蹴り、それっきりになりました。

 後から考えてみると、あれはチョウチョの〈いのちの音〉、あるいはそれに託された〈幽かではあっても大切なメッセージ〉だったように思われます。
 
 天地を覆って響くセミたちの饗宴の真っ只中にありながらとても小さな音が聞こえたのは、「耳元」だったからです。
 ―――なぜ、チョウチョは耳元へやってきたのか。
 餓鬼道に堕ちた御霊をお慰めし、ご先祖様をご供養し、同時に、この世にあって苦吟しているあらゆる人々への慈悲心を新たにするこの時期に、一匹のチョウチョが耳元で教えてくれたものをよく考えながら、法務に励みたいと考えています。

※ブログが「ロリポブログ」から「FC2」へ移りました。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.13

お詫び・朝青龍事件

 ホームページの更新に伴う作業に乱れがあり、お経の配信などがとぎれています。
 まことにもうしわけなく、心よりお詫び申し上げます。
 お盆明けには復旧させますので、少々お待ちください。

 残念だというお声などをお寄せくださった方々、また、ご不快などを感じておられるすべての方々へ重ねてお詫び申し上げます。

 ところで、朝青龍事件には、問題が起こった当初から心を痛めています。
 心に異常を発したならば、何をおいても、真っ先に本人が調子をとりもどすための方策がこうじられねばなりません。
 しかし、現状は、周囲の事情や都合が優先されているように思われます。
 モンゴルからやってきた心優しい青年の健康を第一に考え、一日も早く、心の病気にとって最悪の軟禁状態から解放し、最も心の安らぐ環境へ帰してあげたいものです。

 こうした状況を見ると、日本では、残念ながら心の病気への理解がまだまだ足りないと慨嘆してしまいます。
 他人からはなかなか理解されにくい心の病気を抱えた方への自然で優しい眼差しと、本人の立場に立った対応とがが大切であることを、多くの方々に考えていただきたいと切に願っています。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.11

ホームページを新しくしました

 ホームページを新しくしました。
 発想は、「お寺の立場」から作るのでなはく、「ご覧になられる方々の立場」から作ろうというものでした。
 ページを開こうとした場合の便利さを考えたつもりですが、まだまだ不十分であり、実際にアップロードが終わってみると文章の解りにくさや文字のまちがい、あるいは文字化けなども散見され、だんだん完成度を上げて行こうと考えています。
 手抜かりのあったところはご容赦いただきたく存じます。

 さて、この時期は一年で一番お塔婆供養の行われる時期なので、少しだけ触れておきます。
 眼にする面の上部には梵字で「ア・バ・ラ・カ・キャ」と書かれ、「地・水・火・風・空」の五輪すべての徳を捧げる心がこめられます。
 宇宙も地球も私たちも、五輪の徳の表れです。
 固い骨は地、流れる血液は水、生きている証である温かな体温は火、止まらない呼吸は風、そして、それらがお互いを邪魔せずに調和のとれたはたらきをするには空なる場が必要です。
 裏になる面の上部には梵字で「バン」と書かれ、五輪に対する精神である「識」の徳を捧げる心がこめられます。
 人間が万物の霊長であり、地球の運命に最も大きな力でかかわっているのは、精神があるからです。
 精神の根源には霊性が宿っており、それはみ仏から分けいただいた仏心に他なりません。

 いわば全存在の徳すべてを捧げる心を表現するお塔婆は、好きな相手へ思いを伝えようと考えに考えた末に思い切って口にする「告白」の言葉に似ています。
 万感の思いを託した一本のバラです。
 本当は何もかも捧げたいけれどもそれができないので、短い言葉や一本の花で表現しているのです。
 しかも、お塔婆は決してたんなる飾り物ではなく、魂を入れる修法によって御霊の依代(=聖なる場)となります。

 こうした意味を知り価値を知って寺院へお塔婆を作る依頼をし、きちんと思いを込めて墓前へ捧げていただきたいものです。
 お塔婆は値札のついた「売り物」ではなく、その価値は、いかなる心をこめるかによって、供養を願う人そのものが決めるしかありません。
 
 仏界へ心が開かれやすいこの時期、皆さんの仏心が清浄な光を放つよう、御霊にとってより増進菩提(ゾウシンボダイ…よりみ仏に近づくこと)となるよう願っています。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.10

ペット供養のお地蔵様

 10年近く本堂入り口におられたお地蔵様を『法楽の苑』へお移しし、ペットたちの霊をお守りいただくことになりました。

 ペット供養では、以下の文をお唱えすることがあります。

眷属(ペット)は友 眷属(ペット)は家族
生きて私たちの心を和ませ 慰め 勇気づけ
その死をもっていのちの尊さを教えたまう
あらゆるいのち尊し いのちつながるあらゆる生きもの尊し
いのちを分け与えたまうみ仏尊し
今 お導きくださる地蔵尊を供養し
故~を供養し
すべての精霊を供養し
生きとし生けるものを供養し
逝きし御霊の安らかならんことを祈りたてまつる
オンカカカビサンマエイソワカ


nettpetjizou2.jpg


nettopetjizou.jpg


Comment:0  Trackback:0
2007
08.09

秋の詩、人生の詩

 秋になりました。
 詩を二篇、思い出しました。


鳴く虫  ―高橋源吉

草かげの
鳴く虫たちの宝石工場

どの虫もみんなあんなに冴えてゐるから
虫たちはきつといつしんになつて
それぞれちがつたいろの宝石を
磨いてゐるのだらう

宝石のひかりがうつり
いひやうもない色まであつて
方々の草かげがほんのりあかるい



 昭和21年、敗戦という未曾有の混乱にあってすら、詩人の心にはみじんの揺らぎもありません。
 秋の到来を告げる虫たちの美しい鳴き声は、宝石の光となって詩人の心に届きました。
 虫の音を「宝石」ととらえられる感性を持っているのは、日本人以外あり得ましょうか。


五十年  ―木山捷平

濡縁におき忘れた下駄に雨がふつてゐるやうな
どうせ濡れだしたものならもつと濡らしておいてやれと言ふやうな
そんな具合にして僕の五十年も暮れようとしてゐた。


 木製の濡縁で濡れている下駄、置き忘れられてはいるものの確かに在る下駄、雨が染みこみ始めた以上そのままであっても一向に構わないと思われる下駄。
 庶民とは、こういうものではないでしょうか。
 昭和42年発行の詩集に収められた一篇です。
 詩人は、庶民を描きながら、誰にとっても必ず人生の基盤になっている「日常生活」、力が抜けて裸になっているしかない万人共通の「憩いの時間」を鮮やかに見せてくれました。
 反骨も感じられます。
 ここには、地位や、名誉や、財物に惑わず、流行や、かけ声や、誘いといった目くらましにも惑わない〈精神の屹立した人間〉がいます。
Comment:0  Trackback:0
2007
08.08

墓地を動かすと罰が当たりますか

 県内外各地からお骨を持って来られる方が五月雨式に続いています。
 すべての方が事前に来山し、いろいろな事情を述べられます。
 最も多いパターンは、仕事などの関係上仙台市や富谷町や大和町などに落ちついた結果、遠方にあるお墓をそのままにしてはおけず移動するというものですが、寺院や親族とのトラブルが原因となるケースも決して少なくはありません。
 いずれにしても、御霊が一番安らかでおられ、実際に供養する方が清らかな心で手を合わせられることを第一にお考えいただきたいとお話し申し上げています。
 最近も「お骨を移動すると罰が当たる」と脅かされた方が人生相談に来られたので、この際、以前記した文章をもって、そのあたりの問題について述べておきます。

 雪深い他県にお墓があってなかなかご供養に行けない方が、五月(!)の雪解けを待って『法楽の苑』へお骨を移動することになりました。
 お骨を取り出しお墓を解体するに際してこれまでの旦那寺に法を解いてもらえないので、こちらから行くという段取りになりました。
 来山されるまでの間はいろいろ心配しておられたようですが、お骨の移動は、もちろん吉凶に結びつくことはありません。
 もしも宗派が変わっても、兄弟の家へ引っ越すようなものですから心配ご無用です。
 そもそも、宗派の一つだけが、同時にすべての人にとって最高であるなどということはあり得ません。
 長い仏教の歴史にあって、それぞれの時代の宗教的天才たちが、それぞれ異なった問題に苦しむ人々を救うために、膨大な教えの中から必要なものを選び出し(み仏に選んでいただいて)理解可能な形で説いたものが教典として残っているのです。
 それに、真理を体現しておられる法身仏から発せられている真理を未完成の人間が完全に表現することなど不可能であって、これからも人間の能力の向上にあいまって無数の教典が出現することでしょう。
 また、伝えられた教えを活かす方法も研究され続けることでしょう。
 お墓移動する場合は、何よりも、建墓の本来の目的を考えて、より良い場所へ移さねばなりません。
 生きている人が不快な家に住みたくないのと同じで、御霊も、本尊のおられない、教えのない、生気のない、汚れた場所では喜ばれないでしょう。
 自分がそこを拠り所として心の底から安心できるかどうかよくよく考えることです。
 また、誰しも引っ越しにはなにがしかの苦痛を伴います。
 必ずより良い所へお移し申し上げますとの信念をもってやれば、御霊は癒され、その真心をきっとお喜びになられます。
 御霊の喜びこそが家運隆盛への追い風であることを忘れないようにしましょう。



2007
08.07

十三仏様のご加護9 阿弥陀如来

10 阿弥陀如来様のご加護

 三州(現在の愛知県付近)赤松在住の武人鈴木某が語った話である。

 私には、昔、娘があった。
 心気高く、見目麗しく、親の目からはもちろん誰が見てもこの上なく美しい女子で、観音様の生まれ変わりかと噂されるほどだった。
 幼い頃から信心深く、朝夕、持仏堂での勤行を欠かさない。
 どんなことをしているのかと妻に問えば、阿弥陀経観音経を読誦し、念仏を唱えているという。
 まるで白衣観音のように白い手ぬぐいを髪の上に置いて入堂し、教えたわけでもないのに、ふりがなを頼りにして読んでいるらしい。

 ある時、「お前はまだ幼いのに、なぜそんなに熱心なのか。人々は皆、笑っているぞ。それに、その手ぬぐいはどうしたのだ」と訊ねた。
 娘は、母もいるのを確認し、恥ずかしげに告げた。
「世に、老少不定(ロウショウフジョウ)と言うではありませんか。必ず長生きするとは限りません。だから、私は、今のうちにお経を読んでいるのです。また、女は業が深く髪の中へ角を生じると言われているので、それが恥ずかしく、悲しく、せめてみ仏の御前へ出る時は隠したいのです」
 涙ぐむ娘を見て哀れではあったが、このままにしてはおけぬと思い、とにかくこうした毎日は止めにせよと諭した。
 ところが、娘はにっこり笑ってこう言い、立ち去った。
「お父上。それは、あまりのことです。貴方も結構お年をとられたのですから、少しは後世の菩提を願ってはいかがですか」
 妻と顔を見合わせ、娘の主張はいちいちもっともではあるが、一体誰がこんなことを教えたのだろうと訝しくてならなかった。
 しかし、しばらく放っておくことにした。

 ある時、熱心に、苧(オ…イラクサ科の植物、茎が糸の原料になる)を績(ウ…苧を裂いて糸を縒《ヨ》ること)み始めた。
 なぜ、そんなことをするのかと訊ねても笑うだけだったが、そのうちに召使いなどを集めて機織りを始めた。
 さすがに驚いた妻は、「お前はまだ幼いのだからそんなに熱心にはたらかなくても良い、だれかにやらせなさい」と止めたが、娘は、「念仏を唱えながら織り上げ、ご両人(両親)様へ記念に差し上げる念仏帷子なので、自分で織っているのです」と言う。
 忌々しいと思いつつも、あまりの熱心さと親孝行の思いに押され、思案しつつもそのままにしておいた。

 やがて成長し、19歳になって嫁入りをした。
 ほどなく身ごもったが、翌年正月2日、出産した折りに、母子共に死んでしまった。
 私は、“我が子ながらあれはまさしく観音様の化身であり、我々が世間のことごとに執着し無常をうち忘れていることに警鐘を鳴らすために死んだのだろう”と思った。
 今更ながらに、思い当たるふしがあった。
 元旦、私は大声で寝言を言った。
「仏の道に入るぞ嬉しき!」
 そうか、目覚めるとはこのことだったのかと、嘆き悲しむ妻を励まし、追善供養を行った。

 しかし、妻は嘆きのあまり、阿弥陀様を拝みながら、つい、恨み言を口にした。
「私の娘は幼き頃よりずうっと信心して来たのに、こんなに早く逝ってしまった。いのちには限りがあるのでやむを得ないが、お慈悲があるのなら、せめてもう一度、夢にでも娘に会わせていただけないでしょうか」
 その夜、娘は、生前の麗しい姿のまま、子供を伴って妻の夢に現れた。
「私は阿弥陀様のおそばへ向かう途中で、今は、お地蔵様のおそばにいます。阿弥陀様からお知らせがあったので、お地蔵様にお願いして子供と一緒に参りました。
 お母上も、ぜひ、信心されますように」

 お地蔵様は三十五日忌の守本尊様です。
 ここには、三回忌の守本尊阿弥陀様へ至る道筋がはっきりと示されています。
 理の頭だけではとらえきれない真実が、祈りによってもたらされる感応を通じて明らかになりました。
 祈りの力は偉大です。




Comment:0  Trackback:0
2007
08.06

クモに会った話

 かなり、日が短くなりました。
 午前4時の明るさは幽かで、主役は虫たちです。
 地にはジージーと秋の虫たちの声が広がり、天からはカナカナとヒグラシの声がかぶさり、時折、チチッと鳥が目覚めを告げています。

 トイレで水を流そうとしたら、小さなクモが黄金色の水に浮かんでいました。
 ちぎったトイレットペーパーを丸めてすくい上げ、紙ごと床へ置きました。
 胴体は1㎝で、その2倍ほどある長い前足を持った美しいクモは、急いで一番高い部分へ登り、じっとしています。
 ああ、安心しているのだなとこちらもホッとした瞬間、不思議なことが起こりました。
 トイレットペーパーの端が、規則正しく小刻みに震えています。
 どんなに眼をこらしても、クモは微動だにしてはいません。
 解りました。
 彼(彼女?)は、よほど怖かったのでしょう。まだ安心してはいないのです。
 心でもう大丈夫だよと告げましたが、震えは約1分ほども続いたでしょうか。
 ようやく動かなくなったトイレットペーパーの上で、クモは移動する気配すらありません。
 そのまま別れを告げてトイレを出ました。

 最近気づいたことを思い出しました。
 突然、孫が病気に罹ると、娘は「どうしてあんなに元気だったのに、こんな風になるんだろうね?」と言います。
 小さなうちはまだいのちが安定していないからだろうなあと口にはしても、本当の理由は解りませんでした。
 数日前、楽しみにしていたお出かけの前の晩、仕事を終え、明日は元気で行ってこいよと電話を入れたら、孫が熱を出して寝ていると言い、いつも電話口に響く元気な声が聞こえません。
 その時、天啓が降りました。
“―――私の祈りが足りなかった。誰かの不幸の根は、ここにあったのだ………”
 電話を切ってから、しばし、溢れて止まらない涙に任せていました。
 み仏は、ようやく、教えてくださいました。
 おすがりし、おすがりして約20年、長かったようですが、愚かな私にはまだ短かったのかも知れません。
 今世で教えていただいたとは、何とありがたいことでしょうか。

 もちろん、悩み苦しみ不安を抱えるどなかたへ「貴方の祈りが足りないからですよ」と申し上げるつもりは毛頭ありません。
 戦後、貧困や病気に苦しむ人々へ「貴方の祈りが足りないからです。もっともっと拝みなさい」とすがらせ、急成長した新興宗教がありますが、自分できづくことと、くり返し言われて洗脳されることとは、天地の違いがあります。
 昨日、県北からはるばる来られた女性が「死ぬ前に、自分の罪を悔い改めるために学び、自分を清めたいのです。祈る方法を教えてください」と懇請されました。
 まだ30歳を過ぎたばかりで、この地点に立つ人もいます。
 経典を正しくすなおに読誦し続け、必ず起こる疑問を一つづつ解いて行けば、やがては気づき、暗雲の上へ抜けられることでしょう。

 忘れないうちに紙を捨てておこうとトイレへ行ったら、もう、クモはいません。
 どこかで、元気に、網をかける準備に勤しんでいることでしょう。
 ずいぶん明るくなり、もう、ヒグラシは朝の合唱を終えました。
 ツクツクボウシが一匹、二匹と唄い始め、ミンミンゼミも、一匹、仲間に加わりました。
 ウグイスも上手に鳴きます。
 みんなで、助かったクモを祝福しているのでしょうか。
 にぎやかな朝になりました。


Comment:0  Trackback:0
2007
08.05

今月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

今月の第一例祭 8月4日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

今月の第二例祭 8月18日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



Comment:0  Trackback:0
2007
08.04

8月の聖悟

詩はもと志なり。心に在るを志とし、言に発(アラ)わすを詩と為す。情(ココロ)、中に動いて言に形(アラ)わる。然(シカ)して後にこれを紙に書(シル)すなり ―弘法大師―

(詩は、そもそも志である。心にあるうちは志であり、言葉になれば詩である。思いが動けば言葉となる。それを書いたものが詩である)

 お大師様は、漢詩集『詩経』にある言葉を引用して、「志」の尊さを説いておられます。
 そもそも、古代の中国人にとっては、人間や社会がこのようにあるべきであるという理想(志)を持ち続け、行動することには幾多の困難があったので、それを凝縮した短い文章にして世の中へ知らしめようとしました。
 それが、判りやすく、覚えやすい詩です。
「諷詠」とは、覚えた詩歌をそらんじて口にすることです。
 言葉が覚えられ、風に乗って飛ぶ虫たちのように世へ広がり、信じる理想(志)が多くの人へ伝わることこそが、詩人たちの願いでした。

 お大師様は仏法を志し、菩提心(ボダイシン)を起こされました。
 菩提心とは、〈自他共に人間本来の尊さに生きよう〉とする決意であり覚悟です。
 み仏の子である真姿に生きることがすべてであったお大師様にとって、見えるものも聞こえるものも、み仏の言葉以外のものではありませんでした。
「情、中に動いて」とは、菩提心が、見聞きするものと感応を起こすことでしょう。
 そうすると、おのづから言葉が現れ、書けば一編の詩となりました。
 法力においてだけではなく、詩においても書においても超一流だったお大師様の志は、時空を超え、行き詰まりつつある現代世界を救おうとしています。
 あらゆる対立を克服させるもの、それはマンダラの思想以外にはありません。

 詩ならずとも、口から出る言葉、あるいは書かれた文章には、否応なくその「人」が表れ、志がいかなるものであるかが明らかになるものです。
「情、中に動いて言に形わる」を忘れぬようにしたいものです。




Comment:0  Trackback:0
2007
08.03

8月の運勢(世間の動き)

 今月は、一見、ものごとがどんどん進んでいるようでありながら、「面従腹背(メンジュウフクハイ…表面的には従っているようでありながら、本心では背いていること)」が横行し、波乱と混乱が醸成されましょう。
 凧が高く上がるためには、必ず、糸がしっかり地上でつかまれていなければなりません。
 地につなぎとめる強い糸があればこそ、凧は天空へ舞い上がれます。
 何かを進めようとする時は、このことを忘れないようにしたいものです。
 もしも、待ちに待った風がやってきて、さあ乗ろうとした時に、こっそり糸を切ろうとする人がいたら大変です。
 武田信玄ではありませんが、志を共有する人々と心を一つにし、堅固な土台を造った上で最終目標を目指したいものです。
 
 コンピューターが支配する文明では、速度が価値とされ、変化しようとするものはすべて正しいかのような錯覚に陥りがちです。
 誰しもが速度を競い、他人より早く先へ行った者がたくさんの果実を得られるような錯覚に陥ります。
 それを「冥升(メイショウ)」と称します。
 早く進もう、他人を出し抜いて先に昇ろう、と焦って眼がくらみ、冥(クラ)いにもかかわらず手探りでやみくもに進むうちに足元がもつれ、やがては高転びに転んでしまうのです。
 このところ、私たちは「冥升の人々」の失敗を数多く眼にしているはずなのに、我がこととなると、そのあたりの真実が見えにくくなるものです。

 弥勒菩薩の経典によれば、すべての人間が霊性そのものとなり、悟りの眼に映る世界と煩悩に四苦八苦する現世が一致するまでは、五十六億七千万年かかります。
 先は長いのです。
 ほんの少し先を急ぎ、財物や地位や名声などを手にしたからといって、それほどのことはありません。
 確かなのは、「霊性のはたらきに障害となる邪魔ものをきちんと取り除けば、それによって苦しむことは二度とない」ということです。
 しかも、それは、誰にでも、今すぐ実行可能であり、競争する相手などありはしません。
 五十六億七千万年かかる道程の確かな一歩を踏み出したいものです。

 今月は、自分の居場所をちゃんと守りましょう。
 無理してつくっている自分ではなく、ありのままの自分で生きてみましょう。
 そうすれば、誰かのありのままに感応できるかも知れません。
 いざという時は、今月の守本尊大日如来様の真言を唱え、無事安全に過ごされますよう。




Comment:0  Trackback:0
2007
08.03

8月の真言

 今月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」




※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でQuickTime Playerがダウンロードできます。




Comment:0  Trackback:0
2007
08.03

8月の守本尊様

今月(8月8日より9月7日まで)の守本尊様は大日如来(胎藏界)様です。



『種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、お力をお与えくださいます。



Comment:0  Trackback:0
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。