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2007
10.31

篤信の方

 檀家のBさんが来山されました。
 重病の奥さんを6年間にわたって介護して送り、続いてお子さんまで失われた方です。
守本尊道場』建設のため、一ヶ月約10万円の年金に頼る暮らしの中から必ず毎月定額のご寄進を続ける決意を述べ、第一回目のご入金をされました。
「住職の理想と気持は理解していても、これしか役に立てません、勘弁してください」と涙まじりに言われる篤信のBさんへ、涙をこらえてお礼申し上げ、必ずやり遂げてご恩返しをしますと約束しました。

 Bさんは、電気代やガス代も節約しながら10万円で30日を過ごす生活をつぶさに述べられましたが、米・味噌・醤油さえあれば何とか生きて行けますとのお話にはまったく同感です。
「卵納豆」を主たる副食にしているのも私と同じです。納豆と生卵を一緒に食べる卵納豆という言葉を聞くとは思いもよりませんでした。
 体調の良い時は近所の新聞屋さんから頼まれる広告の投げ込みなどをアルバイトにしながら、何とか持病と闘って生きて行きたいと言われます。
 
 万が一の場合についても、こんな収入しかないのにきちんと戒名をつけて引導を渡してもらえるだろうかと心配されるので、そうした心配をせず心に安心を抱いて長生きしていただくのが当山の法務であることを、あらためて申し上げました。
 Bさんがお元気なうちに、何としても当山を次のステップへ進めねばなりません。
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2007
10.31

第四十九話 ―無報酬の報酬―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



                                
 NHK教育テレビで、元夜間中学の教師で現在は自主夜間中学を運営している見城慶和氏の話を聞いた。
 氏は、印象に残っている生徒の一人として中年の職人Aさんを挙げた。

 Aさんは所帯持ちで子供もいる。
 お人好しで仕事熱心だが、教育を受けていないのでソロバンが苦手。家計をきりもりする奥さんは、無理矢理夜間中学へ引っ張って行く。
 とても素面(シラフ)では行けないとばかり一杯引っかけ、奥さん同行の初登校となった。
 一念発起したAさんは真面目に通うようになり、運動会を迎えた。
 自転車を止めて現場からマラソンで通学し、マラソンで帰宅する。しかも、時間のある時はさらに走り込む。
 そして、無事、運動会を終え、後に一文を書く。

 当日駆けに駆けた。とても疲れた。でも、得たものは大きかった。
 それは、無報酬の報酬でした。
 自分でやらなければ、この喜びはつかめない。
 それがわかりました


 見城慶和氏は涙ながらにこのエピソードを披露し、生徒たちは自分の先生であり、ありがたいと述懐する。

 無報酬の報酬とはなんという言葉だろうか。
 金に換算できないけれども確かな報い、つまり、仏神からいただく無上の宝ものということだろうが、この言葉がろくに教育を受けなかった人の魂から生まれたことは驚嘆であり、仏心の確かさを教えてくれる。
 無報酬の報酬こそが、まっとうに生きる人にとっての〈いのちの糧〉である。
 これは菩薩のエネルギーの源泉であり、これに救われ、人はいかに苦しくともまっとうに生き続けられる。
 真のいのちの糧を得られる人を幸せ者というべきではないだろうか。
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2007
10.30

官僚 妖怪 勝義心

 10月28日、法務の合間にふと、テレビをつけたところ、民主党公認で落選した防衛庁出身の元官僚A氏が出演していました。
 彼の発言は、おそらく、官僚のナマの声として歴史的発言だったと思われるので、今も耳に残っていることごとを書いておきます。

「(日本の安全を脅かす)脅威など、どこにもありませんよ」
「そもそも、自衛隊は、敗戦後にアメリカ軍の余った武器を引き受けさせられたところから始まっているんです」
「防衛省の予算などわずか5兆円、国家予算の5パーセント程度です」

 かねがね、脅威論は軍需産業が流している嘘ではないかと考えていましたが、A氏は、日本の安全を守る軍事力としての自衛隊は要らないと明言しています。
 国防の最前線で責任者としてはたらいていた人物の公的発言は重く、この際、自衛隊の存在そのものについての根本的な議論が行われるよう願ってやみません。
 敗戦国日本は、憲法によって国防意識を骨抜きにされた一方で、戦勝国から文字通り押しつけられた武器を後生大事に抱え、やがてはアメリカを中心とした武器商人たちの餌食になってきたという面があるのではないでしょうか。
 私たちは現憲法を得たことを奇貨として不戦の志を強固にし、貴重な(わずかではありません)5兆円の使い道をしっかり考えたいものです。

 今、企全体の儲けはバブル時期よりも大きくなり空前の好景気とされているのに、全企の7割(!)が赤字です。
 企のオーナーや役員や株主がどんどん収入を増やしているのに、従員の平均給与は年々下がっています。
 いのちを守る医師や看護士や地方の病院は、制度が変わったために過酷さが増し、悲鳴を上げています。
 お年寄りや病人は医療費の負担増に苦しんでいます。
 その日暮らしに近い低所得者層は、明日への希望が持てません。
 冨の偏在が激しくなっているだけでなく、労働と対価のずれがあまりにも酷くなっています。
 5兆円が、防衛庁や軍需産業やアメリカのためでなく日本のために本当に必要なのかどうか、国民はよくよく考えねばなりません。

「皆さんは、どう使っても結構ですと(私たち官僚)に予算を預けてくれているんでしょう」
「レベルが違うんですよ」
「防衛庁が国民へどんなサービスをしているかなんて誰も解らないでしょう」

 以前、県庁の役職にある方から、県の予算書をきちんと読める県会議員は半分もいませんよと聞かされてショックを受けたことがあります。
 国家予算をきちんと分析できる国会議員がどれだけおられるかは判りませんが、国民の視点に立って、国民の多くが理解できるような形で真実を明らかにできる方がおられぬはずはありません。
 どうせ予算はお前たちなどに理解できぬ数字なんだから、解る俺たちに任せておくしかないだろうという冷酷な人間に税金を動かす資格を与えておいたままではなりません。

「何で皆さんが接待接待と騒いでいるのか解りません。あんなことはどこの省庁でも皆やっています。守屋さんは、ドジっただけですよ」
「業者とつき合わないで、どうして情報収集ができますか。飲み食いを通じたつき合いは必要です」
「職務権限に抵触するとまずいから、直接関係のない関連会社を相手にしてつきあいをやるんです」
「選挙では、領収書をきちんと調えるように主張しています」

 とうとう妖怪が姿を見せたか、という感がありました。
 見事なまでの公僕意識の欠落。領収書という証拠あるいはアリバイさえはっきりさせておけば良いんだろうという居直り。
 私たちが汗水垂らしてはたらき納めた税金でこうした「妖怪たちを養っている」事実をはっきり認識せねばなりません。

 こうした現状を考えると、お大師様が、天皇などの指導者たちを仏法によって教化・指導しようとした志が痛いほど解ります。
 無明(ムミョウ)は地位や学歴や財産に関係なく、私たちすべてに宿っています。
 社会的立場の高い人のそれは、自分や家族という狭い範囲の人々の業(ゴウ)を創るだけでなく、国家社会を動かし巨大な共業(グウゴウ)を創ります。
 共業を創る人の無明をこそ退治せねねば人々に暮らしの安心は訪れません。
 無明が薄く慈悲心の厚い人を指導者として選ばねばなりません。

 お大師様は、いわば本丸に乗り込み、成果を上げられました。
 お大師様ならぬ私たちは、自分の無明に挑み、同時に共業に挑む志を強固にしたいものです。
 それが「慈悲心」と並ぶ密教の柱「勝義心(ショウギシン)」であると考えています。
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2007
10.29

密教では、宗派を問わずご葬儀もご供養も行います

 昨日はお不動様のご縁日、求聞持法を始めてから2ヵ月が経ちました。
 有明の月に見とれる朝でしたが、いつものように堀の鯉や金魚へ餌をやっても、もう、ほとんど食べません。
 前日まで、百匹を超える鯉の子供たちが飛び跳ねながら餌へ群がっていたのが嘘のような静けさです。
 土用も半ばとなり、冬はそこまで来ているのです。

 いつものように、他宗派の方のお宅へ年忌供養にでかけました。
 足はお楽にして結構ですと申し上げたので最初はイスに腰掛けた方もおられましたが、終わってふり返ると、皆さん揃って正座しておられました。
 ああ、何かを感じていただけたのだろうと思う間もなく、ご当主様から質問がありました。
「こんな風に祈っていただくのは初めての体験でした。なぜ、真言宗ではすべての宗派のご供養ができるのですか?」

 み仏の世界もこの世もマンダラであり、密教には各尊の祈り方があるので、観音様であろうと阿弥陀様であろうとお釈迦様であろうと、きちんと修法ができるので問題はありませんとお答えしました。
 釈尊は、この世に現れたみ仏であり、応身仏(オウジンブツ)と申します。
 真理を悟り、求める人々の悩み苦しみに応じた教えを説かれました。
 大日如来は、真理を体現しておられる根本仏であり、法身仏(ホッシンブツ)と申します。
 天地万物をもって不断に教えを説かれており、心を清めさえすれば、私たちはいつでもそれを聞くことができます。
 釈尊もお大師様も大日如来の世界を感得されたのであり、観音様も阿弥陀様も、もちろんお不動様もその世界の徳の体現者でおられます。
 だから、マンダラの中央におられる大日如来などの法を修する密教では、祈れない仏神はありません。

 法を結んで結界を張り、ご本尊様と通じてご供養申し上げる時、参列しておられる方々は異次元の世界に入っているので、心が清められ、〝初めての体験〟をされるのは当然です。
 今日も、本堂で、新たにご縁を求められる方々のご葬儀です。
 御霊とご遺族に安心していただけるよう、全力を尽くさねばなりません。

〈『法楽の苑』から眺める笹倉山と有明の月〉
s-191028sasakuratuki3.jpg


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2007
10.28

戒名のつけなおし 1

 ご相談がありました。
「法楽寺さんで葬儀をしていただきましたが、郷里にあるお寺のお墓にお骨を納める時は、住職にわけを話せば大丈夫でしょうか?ウチで新たに戒名をつけなさいと言われたりするのではないかと心配なのですが」

 お答えしました。
「戒名は、戒律を授かり仏弟子として生き直す際にみ仏から降りる厳粛な名前です。
 ちょうど、親が我が子の幸せを願って一生懸命考えて名前をつけるようなものです。
 今は亡くなってからみ仏の元へ旅立つ時に授かる場合が圧倒的に多いのですが、当山では、生前戒名を申し込んで人生の再出発をしようとする方が徐々に増えています。
 人は親からいのちと共にもらった名前を用いて一生を生き抜きます。
 戒名もまた、清らかな一本道を歩むためにみ仏が定めた魂の名前ですから、寺の都合でつけ直すなどということがあってはなりません。
 現に、『法楽の苑』に眠っておられる方々の宗派はさまざまで、当山では、心からこの聖地を選んだ方々をわけへだてすることなく、それぞれの戒名をもってご供養しています。
 万が一、ウチで戒名をつけなければお墓へ入れられませんと言われたならば、その仏法上の理由と、墓地の永代使用契約を結んでいる当事者として拒否する根拠をお尋ねになるべきです」
2007
10.27

霜月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。
(掲載が一ヶ月遅れになる場合があります)

花鋏何を切っても秋のいろ

この風に吹かれていたい赤とんぼ

思ひ立って散歩に出たり鯖雲に

膨れ来しジーパンの膝小鳥来る


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2007
10.27

お焼香後の私語

 このところ葬儀が重なり、体力勝負の毎日です。
 送っていただきたいと申し出られる方々の多くが、旦那寺への不信やご逝去にかかわる問題などスムーズなお葬式をやりにくい事情を抱え、当山にすがってこられます。
 東北地方はお大師様との縁が薄く、故人やご遺族のほとんどが他の宗教宗派ですが、修法を終えて納得していただけなかったことはないと確信しています。なぜなら、続く年忌供養などを当山へご依頼されるからです。
 当宗へ宗旨替えをしなさいと言わずとも、どんどんお大師様のご加護の中へ入って来られます。
 まことにありがたく、お大師様の法のお力に感謝感謝の毎日です。

 ところで、最近、初体験となったできごとがありました。
 やはり新しくご縁になったお宅のお通夜で、お焼香の際にあまりにも私語が多く、修法に続く法話の最後でご注意申し上げたのです。
 なぜ、お焼香の済んだ方は私語をするのか不思議でなりません。
 当山の壇信徒さんが関わるいかなる修法の場合も私語を発する方は一人もおらませんが、初めてのご縁で時折こうした状況に出くわすと情けなくなってしまいます。
 もちろん、S学会に入っている参列者が多いなどの特殊事情があれば別です。あの会の会員は僧侶を最も侮蔑すべき存在と考えているふしがあり、修法中の私語は常態化しているので驚きはしません。
 しかし、今回は、故人が背筋のピンと通った方であり、ご遺族もそれを誇りにしておられるご様子だったので、放置できませんでした。

 こうした状況になるのは、導師の入堂から退堂までが厳粛な「修法(単なる読経ではありません)」であるということを皆さんに感じていただき、あるいは説明によってご理解いただけるよう、私たち僧侶が普段の努力をしていないからではないでしょうか。
 もちろん、第一の責任は、私語を発することができないような空間を作れなかった私の非力にあるので、ますます精進せねばならないと痛感しています。
 釈尊の説法の場はいかなるものだったのか、お大師様の修法の場はいかなるものだったのか、憧れ想像しつつ精進せねばなりません。
 重要なことを教えていただいた一件でした。
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2007
10.26

滝行 4 ―真実―

 亀田事件に関して滝行のシーンがくり返し流されており、聖なる行への誤解が生じはしまいかと危惧しています。
 もちろん、この行は、気合を入れたり、根性を作ったりするものではありません。
 一つまちがえば、(ガ)を強めたり、妄想を肥大させたりする危険性もあります。
 だから、行に入る際は、この行が希望している人にとって必要かどうか、その人が行にふさわしいかどうかが厳しく問われ、指導僧は己をかけて責任ある判断をせねばなりません。
 そして修行が認められた人には厳しい注意が与えられ、作法に反した場合は即座に座を離れねばなりません。

 念のため、以前、当山のホームページへ書いた内容を再掲しておきます。

 滝行の第一の目的は、身体と言葉と心の三つを一つにするために、他へ意識が行かぬよう集中力を高めることです。
 手に不動明王の印を結び、口に不動明王真言を唱え、観想を凝らすと、身・口・意は自然に不動明王の三つへ近づきます。
 身体が水の中にあり死へ向かうという究極の非常事態であってもなお、三つが揺るがなければ、いつどこにいても不動明王になることができます。
 それは、〈本来み仏〉である私たちの本姿で生きることに他なりません。
 私たちは善行のみに生きることは困難で、どうしても、智慧に従って生きられず、欲に流され、身体や言葉や心がみ仏でない時間を過ごしがちです。
 つまり三つが悪業を積むわけですが、三つがみ仏と一致すれば迷いの日常生活で隠れていた秘密の姿が明らかになります。
 こうして善悪の入り交じった三業(サンゴウ)をみ仏の三密(サンミツ)に変えることが即身成仏(ソクシンジョウブツ)であり、真言密教の目的はここにあります。

 第二の目的は、いのちの根元に触れることです。
 私たちは、普段、生きているという意識を持たずに時間を過ごしています。
 精魂込めた仕事をやり終えたり、趣味に没頭する時間を堪能したり、無心に自然と向き合ったり、おいしいものを食べたり、気のおけない友人と過ごしたり、あるいは他人様に喜ばれることがあったりすると、〝ああ、生きている〟と気がつきます。
 滝行では、身体を冷やされているうちに、芯の方で何かが暖かくなり出します。
 きっと、危機に瀕した細胞たちが眠っていた生命力を発揮し始めるのでしょう。
 どこでもなく自分の奧にある不思議な暖かさの実感。―――確かに生きているのです。

 第三の目的は、運勢を変えることです。
 もちろん、何かを変えたいという明確な目的を持っていればこそ厳しい行へ入るのですが、運勢が変わるのは、行者すべてに必ず訪れる嬉しい結果でもあります。
 私たちの生きた歴史はすべて無意識の領域へと蓄えられ、新たな縁に〈反応する可能性〉として人の生き方を左右します。
 美しい音楽を聴いて過ごす人は、心がそうした美しいものによく反応し、むごたらしい映像を好んで見ている人は、いつしかそうした場面を求める行動に走ったりします。
 哀しいことに、親から受けた虐待が子供の運命に強くかかわるのも、同じ理によります。
 体験は、すべて、それが〈活きる時を待っている〉のです。あるいは、〈活きる時を呼ぶ〉とも言えます。
 滝行により三業三密になる(=み仏になる)経験をした人には、み仏になる瞬間がまたやって来るものです。
 運勢は明らかに変わります。


 これが滝行真実であると考えています。
 聖なる場で叫んだりガッツポーズをするなど、考えられない事態です。
 厳粛な行の冒涜を憂いています。

〈当山が行った滝行の一シーンです〉
takigyou52.jpg


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2007
10.26

11月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

今月の第一例祭 11月4日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

今月の第二例祭 11月17日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



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2007
10.25

NHK文化講座講義録1 ―愚暗品(グアンボン)―

 NHK文化講座で行った法話の一部を記します。

 この一章は、冒頭に
「ここでは、あなた方に真理を知ってもらうために、あなた方自身が気づかないでいる実態を明らかに指摘しましょう」
と述べられており、まことに厳しく、図星ですと頭を垂れてしまうしかない教えが続きます。

癡意(チイ)は常に冥(クラ)く、逝くこと流川(ルセン)の如し、在(ア)ること一(ヒトリ)なれば行は彊(ツヨ)く、独(ヒトリ)にして偶(グウ)無けれ


(愚かな精神は理に暗く、欲のままに流され、周囲に左右されて自分を失い、あっという間に人生は過ぎて行く。
 自分にふさわしい伴がなければ、断固一人でまことの道を求めつつ生きるべきである。そうすればきちんと為すべきことを行える。
 一人で進むことを恐れてはならない。生ぬるい時間に逃げてはならない)

愚人(グニン)は数に著(ジャク)し、憂慼(ウシャク)すること久長(クチョウ)なり、愚と居るは苦なり、我に於いて猶(ナオ)怨あるがごとし


(愚かな人は数を恃み、周囲の意見や姿勢を恃み、いつまでも憂いを伴にして人生を送る。
 愚かな人と進むのは苦である。まるで自分自身の中に自分を迷わせる敵を持つようなものである)

 この一節は、坂口安吾の言う「堕落」ではないか、余分なものやかりそめのものや思いこまされているだけのものを離れて真実を求めよということではないかと述べました。
 そして、「戦時中は泥棒もなく夜道も物騒ではなかったけれども、それは戦争遂行を目的として意図的に作られた安心であって、一人一人が必ずしも心から正しく生きている結果ではない」という安吾の節もご紹介しました。
 
 この点について、戦時中、子供だったKさんがこんな意見を述べられました。
「確かにあの時代は社会に緊張があり、教師だった自分の親にも煩悶があったはずです。
 懸命に職務を果たしていましたが、本当は、むしろ、堕落したかったのかもしれません。
 でも、戦時教育とはいえ、きちんと道徳教育などを受けた自分の心は、子供ながらしっかりしていたような気がします。周囲の子どもたちも、今のように崩れてはいませんでした」
 つまり、あの時代にはあの時代なりの真実があった、道徳教育にも一定の意義と価値はあったというご意見でしょう。

 それは至極まっとうなご指摘だと考えますとお答えしました。
 坂口安吾は、あの時代に喧伝された武士道などは国家によって創られ利用されたものであり、多くの国民はただそれに流されていただけであるという判断ですが、そうした面があったとしても、武士道に表現された日本人の魂の崇高な面は否定されるべきではありません。
 それは、凶器として用いられたといって、切れ味の良い包丁が否定されるべきでないのと同じです。

 私たちは、「和」であれ「武士道」であれ「仏道」であれ、私たちの持っている大切な宝ものの真の価値を自分自身で見つけ、自分の人生に活かして行くべきであり、「数に著」する弱さを克服せなばなりません。
 釈尊は、それを「独にして偶無けれ」と説かれたのでしょう。
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2007
10.25

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。教材は最も古い経典とされる『法句経』などです。身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成19年11月7日(水)午前10時より12時まで
       平成19年11月21日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター



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2007
10.24

 守本尊道場造営計画日記4 ―恥じず、臆せず、遠慮せず―

 土用に入り、今日は霜降でした。冬はもうすぐです。
 秋から冬へ移る時期の空はとても澄んでいますが、鋭さや硬さのない青色で、満月に近い月が浮かんでいる今日の夜空にも、包み込んでくれるような気配があります。
 さて、発願してからもうすぐ二ヶ月。日々、感謝と感激の連続です。
 最初に守本尊様を奉納されたのは、関東地方に在住の方でした。何度か来山しておられる篤信の方です。
 時々二千円を送金されるお母さんがおられます。女手一つで育てているお子さんを寺子屋で学ばせたいからです。
 年金暮らしのお爺さんが、五万円貯まったら一度づつ二回分割で納めるから守本尊様をお祀りしてくれと申し込まれました。毎日のように病院へ通いながらご志納金を捻出するのは「大変」という言葉を超えた難行でしょう。
「住職はまだ若いから、後継者へ譲るなどという考えでなく、自分で計画を成し遂げて、これからもしばらく自分の手で人々を救う気概を持って欲しい」と言い添えて守本尊様を申し込まれた方がおられます。
 元気で満願してくださいと、ご自身の田んぼで作った米を大きな袋へ入れて届けてくださった方がおられます。
 定期の満期が来るけれども一人では銀行へ行けないから迎えに来てくださいと申し出られ、生涯かけて蓄えた大事な老後の生活資金を割いてご志納くださったお婆さんがおられます。
 慎ましい生き方を好み、亡き夫が株式投資で退職金をほとんど失った時も動じなかった奥さんが、「今回だけは、心からお金が欲しいと思います。法楽寺に住職が理想とする本堂を建ててあげたいと心から思います」と言われます。
 宝くじを買ってくださる方は何人もおられます。
 こうした皆さんのお心に支えていただき、行は着々と進んでいます。おかげさまと言うしかありません。
 最近、理解し助力してくださる方をご紹介いただくことになりました。
 本計画は、世のため、人のため、子どもたちと日本の未来のためのものであり、私心はありません。「恥じない・臆しない・遠慮しない」をモットーに、どこへでもでかけ、志を誠心誠意ご説明申し上げたいと考えています。
守本尊様のご供養申込数累計 31体
○唱えた真言の回数累計 200,880回

〈薬師如来が見守ってくださる笹倉山〉
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〈百万返堂〉
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〈不動明王がお導きくださる『お焚き上げ堂』は工事中〉
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2007
10.23

堕落論② ―堕落の先に待つもの―

 前回は、「心の崩れ」を早く自分自身で処置すべきこと、そして、坂口安吾の言う「堕落」すなわち仮面を取り去った裸の自分になって生きる覚悟の大切さについて書きました。
 
 ここで言う堕落は不道徳の意味ではありません。
 ただし、形式的に道徳に背かなければ良いというものでもありません。
 安吾はこう書いています。
 

戦争中は眞の闇で、そのくせどんな深夜でもオヒハギなどの心配はなく、暗闇の深夜を歩き、戸締まりなしで眠ってゐたのだ。戦争中の日本は嘘のやうな理想郷で、ただ空しい美しさが咲きあふれてゐた。それは人間の眞実の美しさではない。


 彼は破壊を愛する心情を持っていました。
 

私は偉大な破壊を愛してゐた。運命に従順な人間の姿は奇妙に美しいものである。


 

爆撃直後の罹災者たちの行進は虚脱や放心と種類の違った驚くべき充満と重量を持つ無心であり、素直な運命の子供であった。


 安吾は、戦争という巨大な破壊力を受けた人々が強制的に仮面を剥がされ、〈ただの人間〉として放り出されて運命の前に無心でいるしかない状況を、人間が真の人間として生きるための出発点と観ていました。
 

あの偉大な破壊の下では、運命はあったが、堕落はなかった。無心であったが充満していた。


 ここで言う「堕落」は、仮面のままで嘘の日常を生きることでしょう。
 真の自分をどこかへ置いたまま、誰かが意図的に流す情報に順応させられ、自他を騙し、財や地位や名誉や立場などを自分自身と勘違いして生きることでしょう。
 生の現実から生まれる感動を忘れ、作られた感動に流されて生きることでしょう。
 偽りの感動は真に生を充満させはしません。戦争のために創作されたさまざまな装置によって涙を催させられる時の感動は偽りであり、それよりはむしろ、すべてを失って立ちつくし無心になっている裸の人間こそ生は満ちてくると感じています。

 さて、安吾はこうも書きました。
 

日本は負け、そして武士道は滅びたが、堕落といふ眞実の母胎によって初めて人間が誕生したのだ。


 

人間は變りはしない。ただ人間へ戻ってきたのだ。


 ここで言う「堕落」は仮面を脱ぎ捨てること、仮面を脱落させることです。真の人間へと戻り、生き直すために欠かせない手順です。
 
 しかし、安吾はこう判断しています。
 

人間は可憐であり脆弱であり、それ故愚か者であるが、堕ちぬくためには弱すぎる。


 

自分自身の武士道、自分自身の天皇をあみだすためには、人は正しく道を堕ちきることが必要なのだ。


 つまり、
「戦争という過酷な運命をくぐり抜けてすら、人はたやくすく、かりそめの拠り所を求めてしまうだろう。そうした愚かなことを繰り返さぬためには、ただまっすぐに、かりそめのものたちから離れてしまわねばならない。その先にしか、不思議な生を真に満たすものなど見つかりはしない」
と言うのです。

 昭和21年に書かれた「堕落論」はこう終わります。
 

人の如くに日本も亦堕ちることが必要であらう。堕ちる道を堕ちきることによって、自分自身を発見し、救はなければならない。政治による救ひなどは上皮だけの愚にもつかない物である。


 確かに、日本は堕ちました。もうそろそろ堕ち切ることでしょう。
 日本にとっても日本人にとっても、現在の状況は、再生のために必要な過程なのでしょう。
 当山は、堕ちきり棄てきる先でなお変わらずに耀き続けているものこそが仏性であり、それを核とする霊性であると信じています。
 そして、マンダラの教えこそが、万人にとって普遍的であるこの宝ものを生かす共生の思想であると信じています。
相互礼拝相互供養」がその実践方法であると信じています。

 坂口安吾の「堕落」にはいろいろな意味が含まれていますが、
「ただ流されるだけの堕落でなく、真の人間として生きるため、勇気を持って堕ちきる堕落をこそ生きてみよ」
と励ましてくれいるのではないでしょうか。

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2007
10.22

「やすらぎ」さんでの供養際が終わりました

 今年も好天に恵まれ、おそらくは300人以上もの善男善女のご参加を得て合同供養祭が催されました。
 8時30分過ぎから灰塚・焼却炉のお清めを始め、引き続き、個別墓でのご供養となりました。
 およそ30基の墓前で般若心経を柱にしたご供養を行い、すべてが終わった時は、もう12時30分をまわっていました。
 
 さすがに途中でエネルギーが怪しくなるのを禁じ得ませんでしたが、何しろ皆さんご家族連れで大勢待っておられます。ちょっと休ませてくださいというわけには行きません。
 息継ぎのタイミングが狂って経文に躓きが生じた時は、さすがに一旦後を向いて九字を切りました。
 恐らく、見ていた方々は〝ああ、和尚さん、気合を入れているな〟と思われたことでしょう。――その通りです。
 こうした場合、力が減ったからといって、あと残りは幾つだからバランスをとろうなどとは考えません。
 むしろ、さらに声のトーンを上げた方が良いのです。
 これは体験上の確信です。
 私たちが持っている本来の力を出し切れないのは、〈我が身可愛さ〉という魔ものの邪魔によることが多いのです。
 当然高い音にギアを入れ替え、さらに経文を増やしました。
 おかげで無事、役割を終えました。
 
 いよいよ困った段階では、供養の本尊であるお地蔵様の観想を強めましたが、不思議にもその後にお不動様とおぼしき気配がありました。
 お不動様であることは確かなのに、お顔は判然としません。
「仏説延命地蔵菩薩経」に

延命菩薩は中心の不動阿字の本体なり

とあることを思い出し、大日如来の使者であるお不動様が、このようにしてご加護をくださるのかと深く納得できました。

 ひき続き12時30分から第一回目の共同墓の供養、そして、恒例の隠形流居合行者による奉納剣、そして、3時からは第二回目の共同墓の供養を行い、帰山してほっとしたのは5時近くでした。
 法話は、「向かい合っている時は私たちに純真な心を取りもどさせ、死んではいのちの尊さを教えてくれるペットたちにあらためて感謝し、まごころで供養しましょう」というものでした。
 無事、法務を終えた安堵感と、お墓の増加を考えると来年は午前8時前に始めねばならないからもっと鍛えておかねばならないという使命感とが交錯し、充実した気持になりました。
 
 それにしても、経営者ご夫婦の心のこもった霊園造りには、いつもほとほと関心させられます。
 年々増える参加者、花一杯の墓前、そしてイベントを支えるスタッフの皆さんのご様子。まごころの力は偉大なものであることを証明した一日でした。

〈写真は「やすらぎ」さんの提供によります〉
(別会場で行った居合の画像はありません)
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2007
10.21

堕落論① ―亀田、赤福、守屋事件―

 人は、心に崩れを発生させたり、崩れを抱いていたりします。
 ボクシングの亀田親子、「福」の浜田典保社長、守屋武昌・前防衛省守事務次官など、皆、大きな崩れを持った人々です。
 それが明らかになるには、必ず何らかのきっかけがあります。
 亀田親子にとっては試合における不利な状況であり、福では8月中旬に東海農政局(名古屋市)の専用電話に寄せられた情報であり、守屋武昌氏についてはいろいろと裏があることでしょう。

 ここで言う「崩れ」は、社会的立場の崩壊ではありません。
 人を真人間(マニンゲン)たらしめる霊性の曇です。満月にかかる群雲です。
 私たちは、無明を脱しない限り曇から逃れられません。
 こうした事件は、そのことを教えてくれます。
 もしも震え上がった人は、ただちに生き方を変えねばなりません。さもないと、時限爆弾を抱えた毎日になります。
 そもそも時限爆弾はあったのですが、気づかされたのは幸いと言うべきです。

 さて、最近、高校生時代以来久方ぶりに坂口安吾の「堕落論」を読みました。
 

生きよ、堕ちよ。その正當な手順の外に、眞に人間を救ひ得る便利な近道が有りうるだらうか。


 これは血を吐くような一節です。
 彼の言う堕落とは、裸になるということでしょう。
 仮面をかぶりながらも、それを知り、仮面に踊らされずに生きるということでしょう。
 太陽のおかげで起きて、お百姓さんのおかげでご飯を口にするという万人に共通な「生の現実」をかみしめながら生きるということでしょう。
 名誉という幻、看板という幻、地位という幻、それらは一見強固な支えのようですが、強めているものが己の執着心になっては霊性を汚し、精神を腐敗させてしまいます。
 幻からの自立、脱落こそが安吾の言う堕落です。
 この堕落なくしては、崩れを根本から防ぐことはできません。小さな崩れに止めてまっとうな日々を送ることはできません。

 以下、続きます。
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2007
10.20

四無量心剣を行います

 21日(日)午後1時30分より、「ペット霊園やすらぎ」さんの慰霊祭にて、四無量心剣(シムリョウシンケン)を含む奉納剣を修します。
 ペットの御霊を慰め、飼い主だった方々や足を運ぶご縁の方々の除災招福と転迷開悟を祈るために、隠形流居合の行者が行うものです。
 思いやる心・いたわる心・喜びを分かち合う心・都合の良い区別をしない心を養う行とはどのようなものか、なにがしかの感じを得ていただけることでしょう。
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2007
10.19

卒業

 作家の高任和夫氏が、10月4日付の日経新聞へ「さらりーまん生態学(イキザマガク)」を書きました。
 
 入社して間もなく先輩から「三月で卒業する」と聞かされ、ピンと来なかったそうです。
 この時、定年退職を卒業と称するのだと初めて知りました。
 なにしろ終身雇用の時代であり、自分もいつかは卒業するのだろうと考えていたところ、作家活動に専念するため五十歳で早期退職を迎えるという予想もしなかった結果になりました。
 それから十年が経って次々に同窓会の案内が来るようになり、彼は「卒業すると淋しくなるにちがいない」と思います。
 また、卒業名簿を眺め、勤務先が空白になっている欄の多さに驚きます。
 仲間たちは、もう、文字通り仕事から卒業する年齢になっていたのです。
 最後に、私とおぼしき僧侶について、「世間的には不運であったかもしれないが、一番いい卒業をしたのは、彼かもしれないと思うのだ」と、温情溢れる一行があります。

 娑婆にいた時代に事業の失敗などでさんざん世間様へ迷惑をかけ、今もなお、ご縁の方々のお心で生かしていただいている身としては、とても「いい卒業をした」などとは思えません。
 娑婆での生業から足を洗うという意味の卒業なら、確かに、み仏のお導きで仲間たちより早く終わっています。
 しかし、志からの卒業はまだ終わっていません。
 青臭いままで老い、ゆったりと平穏にではなく、一本の道で前向きにつんのめりながら死に神と握手をするような気がしています。
 その時に、大日如来様やお大師様を行く先に確認できなくとも、道の後に私の背を追う人の気配があれば良い―――。虫の良い妄想かもしれませんが………。

 つまり、まだ〈為しおえていない〉私には、この世で無事、卒業できるという予感はまったくないのです。
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2007
10.17

志にかけた死 ―黒川紀章氏―

 10月12日、建築家黒川紀章氏が亡くなりました。
 晩年の行動は凄まじいとしか言いようがありません。
「超一流の建築家が、政治なんかに手を出して…」という陰の声も聞きましたが、名声や財産よりも大切なものはです。
 黒川紀章氏は、いのちまでもかけてそれを明らかに示してくれました。

 選挙のスローガン「共生」は、建築設計という分野で過ごした幾星霜にあって彼の心中に芽生えた理念であり理想であって、その実現こそが彼にとって生きる目的だったのでしょう。
 いかに名声を得、冨を得る世界的レベルの仕事であろうと、建築設計はあくまでも手段であり、目的の前にはいかほどのこともなかったのではないでしょうか。(現に、いくつもの仕事を断っています)
 自民党総裁となった福田康夫氏は、所信を表明する場で三度もそれを表現する言葉を言い間違えて失笑をかいましたが。彼のはそうした付け焼き刃とは次元の違うものでした。
 霊性を持った人間は〈自分のいのちよりも重いものがある〉ことを知り、それにかけられることを示す壮絶な死でした。

 こうした姿に接すると、「五・一五事件」をリードした青年将校三上卓作詞作曲の『青年日本の歌』を思い出します。
 特に、九番の歌詞は忘れられません。

功名何ぞ夢の跡
消えざるものはただ誠
人生意気に感じては
成否を誰かあげつらう


 当時海軍中尉だった三上卓は、佐賀中学を卒業して江田島の海軍兵学校へ入りました。
 政財界の腐敗ぶりに義憤を覚え、自分は何をすべきかと悩み、上司などを歴訪しても納得の行く道は見つからず、自決を計るほど国家社会を思う青年でした。
 この歌を作ったのは昭和5年、その2年後に事件は起こりました。

 ことの功罪は、歴史家がいろいろと判断します。
 もちろん、、暗殺は許される行為ではありません。
 しかし、無謀な若者たちが日本を戦争へ駆りたてたというのが定説とは言え、昭和4年の世界恐慌によって倒産が相次いだ状況、昭和5年に締結された不平等な「ロンドン海軍軍縮条約」、そして昭和6年に起こって膠着したままの満州事変、共産主義が一世を風靡し軍服姿を見つけると罵声を浴びせる人も珍しくなかった世相などを考えると、青年三上卓のに清浄な風を感じてしまいます。

 点滴を打ちながらも2度の選挙を戦った黒川紀章氏の心は、三上卓と同じくにあふれた青年のものだったのではないでしょうか。
 青年なら身体が持っても(三上卓は禁固15年の判決を受けました)、70歳を過ぎていれば持ちません。それだけのことです。
 このあたりは、私にとっても他人ごとではありません。
 その点、次世代の方々が順調に育っているのはまことに心強く、ありがたいと感じています。
 
 年齢相応の身体に合わせた行動をしたのではなく、に合わせて何もかも擲(ナゲウ)ち、身心を使い切った黒川紀章氏の晩年は見事なものでした。合掌
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2007
10.17

犬の引っ越し ―相互礼拝・相互供養―

 犬をかわいがっていたご家族が入院し、ご年配のお年寄りお一人の生活になって、当面、犬を飼ってくださる人はいないでしょうかかというご相談がありました。
 さっそく、『法楽かわら版』でご紹介したところ、すぐに希望者が現れ、犬はめでたく引っ越しができました。
 人間ですらたやすく虐待される世の中で、家族同様のペットを誰かへ託すには勇気と決断を要します。
 信頼の輪の中でこそ起こるこうしたできごとには、心からありがたいと思い、嬉しくなります。

 心優しい新たな飼い主Kさんは、きっと、犬を可愛がりながら、元の〈ご主人〉の当病平癒を祈られることでしょう。
 これこそが「相互礼拝・相互供養」の光景です。
 供養は生者がみ仏や死者へ行うだけでなく、死者も生者を見守って供養しており、生者同士が互いのためになりたい心で行うものでもあります。
 秋雨が降ってはいますが、今日も、み仏の慈光をありありと感じながらの一日が始まりました。
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2007
10.16

日本の歌36 ━サッちゃん━

43 サッちゃん 
   作詞:阪田寛夫(サカタヒロオ) 作曲:大中恩(オオナカメグミ)

1 サッちゃんはね サチコっていうんだ
  ほんとはね だけど ちっちゃいから
  じぶんのこと サッちゃんって呼ぶんだよ
  おかしいな サッちゃん

2 サッちゃんはね バナナが大好き
  ほんとだよ だけど ちっちゃいから
  バナナを はんぶんしか たべられないの
  かわいそうね サッちゃん

3 サッちゃんがね 遠くへ行っちゃうって
  ほんとかな だけど ちっちゃいから
  ぼくのこと わすれてしまうだろ
  さびしいな サッちゃん


 この歌は、阪田寛夫が幼稚園時代に一緒だった一年上の女子を思いおこして作詞したという。
 一番と二番は、サッちゃんの日常を周囲から眺め、〈まだ幼いがゆえの限界〉を半ば自分のこととして感じ、そばに寄り添っている。
 しかし、「おかしいな」と「かわいそうね」には、大人の視点もある。
 幼い日の思い出という過去へ降りて行っても、自分は現在に生きているという現実があり、その二重構造が表れた面白さがある。

 三番はガラリと変わる。
 いきなり自分との関係が登場する。
 傍観者としてサッちゃんを向こうに置くのではなく、そっと気持を寄り添わせて側にいるのでもなく、存在に正面から向き合っている。
 阪田寛夫にとってサッちゃんは他に代え難い何ものであるかという切実さが、そのまま表現されている。
 ただし、「ちっちゃいから ぼくのこと わすれてしまうだろ」は、あくまでも、大人になった阪田寛夫の発想だろう。
 自分も小さなうちに、相手が小さいから忘れるだろうとは思えないのではなかろうか。
 幼子の寂しさや不安を言葉にする段階で、明らかに大人の分別が顔を覗かせている。

 こうした、視点や思いや言葉の交錯が、一見単純な童謡を味わい深いものにしている。さすがは芥川賞作家である。
 なお、「おかしいな サッちゃん」のメロディは秀逸。一度耳にしたら忘れられない。
 この歌を忘れかけていたことを知った。
 今も、子どもたちには新鮮なのだろうか。
2007
10.14

芋煮会

一 日 時  平成19年10月21日(日) 午前10時より
一 場 所  『法楽の苑』附近
一 参加費  1000円(ご夫婦、お子さん連れなどでも同額です)
一 主 催  『親輪会』と法楽寺
一 申 込  法楽寺まで
※交通手段のない方は、泉中央駅前の「イズミティ21」前までお迎えに行きます。ご遠慮なくお申し出ください。
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2007
10.14

善行堂

 毎月、親輪会の役員さんが『法楽』作りに集まったり、ちょっとした打ち合わせで使ったりするプレハブを、きれいに片づけていただきました。
 これまでも草取りや芋煮会や焚き火の会などで利用してきましたが、これからも善男善女に使っていただくように、「善行堂」と命名しました。

 そもそも、この聖地へ足をはこばれること自体がすでに善行であり、その上、奉仕活動などをしてくださるならば、それは文字通りの菩薩行です。
 誰にも言わず、草むしりをしてくださる方がおられます。私や妻が手をかける時間がなくとも、仮設トイレは掃除が行き届いています。
 あるいは、古くなった花を片づけてくださる方がおられます。
 あるいは、樹木を植えてくださる方がおられます。
 あるいは、重機で地ならしをしてくださる方がおられます。
 こうした菩薩行が行われていることは当山の誇りです。
 どなたであれ、菩薩の方々にここで休息をとっていただきたいと願っています。


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2007
10.14

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。教材は最も古い経典とされる『法句経』などです。身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成19年10月10日(水)午前10時より12時まで
        平成19年10月24日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター



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2007
10.14

仏心に生きましょう

 釈尊の時代に、老若男女が会して四阿(アズマヤ)で行なわれた各部族の集会と同じような雰囲気で、質疑応答も交え、ゆったりとやりましょう。
 私たち誰もが持っている霊性の核となっている仏心についてお話します。

一 日 時 平成19年10月25日(木) 午後6時より午後7時30分まで
一 場 所 天風庵
        国分町二丁目12-15凱旋門ビル8F
        022(266)3730
一 参加費 1500円(コーヒーサービス)
一 主 催  天風庵
一 申込み 天風庵(定員になり次第、締め切りとなります)

※久方ぶりの夜間法話です。



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2007
10.14

10月の例祭

 護摩法を行ういずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

今月の第一例祭 10月7日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

今月の第二例祭 10月20日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。



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2007
10.13

イボが落ちた話

 稽古帰りにYさんから質問がありました。
「あのは、悪いものを除ける力があるんでしたよね?」
 自分へ厳しく、他人へ優しく、社会的に正しく、親しい仲で和やかに、限りなく尊くという5つの仏心を円満に成就するためのです。
「善行・仏法を護るのが一般的な用い方ですが、除災招福の特殊な修法にあっては、主として除災の面に力を発揮する法です」
と答えたら、嬉しい報告を受けました。 

 ある時、Yさんが小学生の甥と会ったら、指にイボができて困っていました。
 鉄棒の好きな活発な子なのに、ぶら下がれないと残念そうです。
 yさんは、とっさに稽古中のを思い出しました。
〝み仏の心になれるなら、きっとご加護があるに違いない〟
 そして、言いました。
「小母さんがおまじないをしてあげるからね」
 たいしたことはないだろうと放っておいたら、どんどん大きくなってしまい、医者の診断では、切らないで済むようにやってはみますという段階だったので、甥も真です。
 小さな指の大きなイボへ向かい、Yさんは剣印で一心に法をかけました。

 そのうちに、甥から連絡があり、かゆくなってゴシゴシやっていたら、ポロリと取れてしまったと言います。
〝えっ、あの剣て、やっぱり凄いんだ!〟
 Yさんは、この剣法を見直しました。
 こうしたできごとは、伝授の縁です。
 そのうち、除災招福法をやらねばなりません。
 
 人の心は、本来、み仏と同じです。
 私たちが迷い、ヨタヨタと人生を送るのは、〈本来の存在〉になり切っていないからです。
 ならば、本来の存在になれば、想像を超えた大きないのちのエネルギーをもって、より良き世を創る努力ができるはずです。
 それが菩薩行です。

 隠形流居合能力開発法であり、運命転化法であり、除災招福法であるというのは、菩薩行のための修行であるということです。
 
 多忙な時間を割いて熱心に稽古に通うYさんは、甥を何とかしておげたいと心から願ったのでしょう。
 そして、信じる法を結びました。
 稽古は、立派な菩薩行へと結びついたのです。
2007
10.12

警備員の殺人

 10月9日、イラクのバグダッドで、女性二人が、アラブ首長国連邦(UAE)を拠点とするオーストラリア系民間警備会社「ユニティー・リソース・グループ」から派遣された警備員によって殺害されました。
 同地では、9月16日、米国系民間警備会社「ブラックウオーター」の警備員が発砲し、17人が死亡したばかりです。
 事件が起こった詳しい経緯は、まだ解明されていません。
 しかし、敗戦直後の日本で、政府高官の乗った乗用車が占領軍に強奪されてすら問題にされなかった事実を思いおこすと、武器を持った強者のふるまいがいかなるのものになるか、大方の予想はつくというものです。
 
 退役軍人などが設立した会社は、こうした危険地帯ではたらく警備員たちへ、日本円にして10万円を超える日当を払っています。
 彼らは母国オーストラリアやアメリカやシュージーランドなどの法の下にあり、イラクで何を行ってもイラクの法で裁かれることはありません。
 彼の国の地獄、銃を手に彼の国へ足を運ぶ人々の修羅を想像すると、人間の営みの無惨さに心が暗くなってしまいます。
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2007
10.11

白くなるペットのお骨

 ペット霊園『やすらぎ』さんでご葬儀がありました。
 拾って育てた野良猫を大切に飼っておられた方が、火葬の前にきちんと祈って欲しいと願われたのです。
 
 祭壇の前には、開けたばかりのキャットフードと水が供えられ、お線香の煙が上がっています。
 病気で覚悟していたとはいえ、飼い主の女性は涙を流し、山形県から来られたというお母さんも沈痛な面持ちです。
 修法とご説明が終わると、ウチの子のために紫の衣を着ていただくなんて何とありがたいことでしょうと言われますが、こちらとしては当然ですからと申し上げるしかありません。
 いよいよ炉へ入る段になり、飼い主はすがって離れません。
 もらい泣きしたくなる気持をぐっと抑えて霊園を後にしました。

 動物たちは昔からペットとして人間を和ませ励ましてきましたが、人間関係が希薄になり、核家族化した現代では、特にその役割が大きくなっているようです。
 家族として生きるだけでなく、活躍の場は社会のさまざまな分野にわたっています。
 ある単身赴任の方がしみじみ言われました。
「女房より猫に会いたくてなりません」
 何となく解るのは、―――あまり良い傾向ではないかも知れません。

 ところで、園長さんから興味深いお話を聞きました。
 成仏を祈らないで火葬にした場合と、きちんと修法をしてから火葬にした場合とでは、残ったお骨に明らかな違いがあるそうです。
「今日は、きっと、白くきれいなお骨になりますよ」
 こうしたこともまた、傷心の飼い主にとって小さくない救いになるのだろうと思うと、またまたみ仏への感謝の心が涌いてきました。

【『ペット霊園やすらぎ』さんです】
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2007
10.09

守本尊道場造営計画日記3 ―摩利支天(マリシテン)―

 10月9日は寒露です。
 最近、太陽の位置がかなり低くなり、思わぬ発見をしました。
 
 道場では、東にある窓を背にした虚空蔵菩薩様へ祈ります。
 薄明の頃は全体がぼんやりしているのですが、朝日が昇り、窓から日が差すと虚空蔵菩薩様の描かれた丸い木板は逆光で暗くなり、お像は、はっきりと見えなくなります。
 ああ、これが摩利支天の隠形法(オンギョウホウ)なのだと深く理解できました。
 
 大日如来の慈光は除闇遍明(ジョアンヘンミョウ)と言われ、太陽と違って影をつくらないとされています。
 仏法の守護神摩利支天は、大日如来の光あふれる真実世界にあって、必要に応じて法による影をつくり、悪心を持った者から大切なものを守ります。
 法によっていつでも逆光の原理を使えるのが摩利支天なのでしょう。

 その昔、帝釈天と阿修羅の軍が戦ったおり、阿修羅の軍勢が日月を破壊してこの世を闇にしようとしました。
 危機一髪のところへ摩利支天が登場し、目くらましの法を用いて阿修羅の軍勢から日月を守ったとされています。
 これが隠形流の発祥です。
 隠形流居合には朧(オボロ)の剣というものがあり、剣を回して辟除(ビャクジョ)や結界を行いますが、まさしく〈目くらまし〉なのです。

 摩利支天の法は戦国武将たちの武運長久・怨敵退散を願って用いられ、盗難・火難・水難など万事の魔除・災厄除の秘法として今に伝えられています。
 摩利支天にかけた山本勘助の願いは現代人の願いに通じ、信じて隠形流を正しく行じる善男善女は、確かな足取りで運命転化・能力開発・除災招福の道を歩んでいます。

○守本尊様のご供養申込数累計
 20体
○唱えた真言の回数累計
 123,120回
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2007
10.06

天命の待ち方

 一年に数日、どうしても隠形流居合の稽古場を確保できない日があります。
 昨5日も、やむなく、いつもとは別な会館の会議室をお借りして勉強会を行いました。
 守本尊様への祈り方です。

 私たちは、日常のおりおりに、ふと、祈ります。
 大事な話し合いへ出向く時、試験を受けに行く時、身体の精密検査を受ける時、スポーツでここ一番という時、などなどですが、そのほとんどは、何となく気持を落ちつかせるだけになっているのではないでしょうか。
 
 第一に、祈る相手がはっきりしていません。
 第二に、どういう体勢がふさわしいか、あいまいです。
 第三に、祈る言葉が適切かどうか不安です。
 第四に、心をどう定めれば良いかよくわかりません。
 
 つまり、誰を相手にどうするのが「祈り」なのかという基本があまり知られていないようです。
 仏神にさまざまな方がおられ、ご尊名も異なっているのは、役割、徳分が異なっているからです。
 私たちの祈りもまた、さまざまです。
 それなら、祈る内容に即した方へ祈るのがもっとも自然ではないでしょうか。
 そして、「祈る」とは、身・口・意を挙げて仏神へ帰依することであり、身・口・意を目的の仏神にふさわしいものとせねばなりません。
 
 こうした観点から考えると、もし文殊菩薩に受験合格を祈るなら、最高の方法は、文殊菩薩の印を結び、真言を唱え、心に文殊菩薩のお姿や徳を思い描くことです。
 なぜなら、文殊菩薩は、どこか遠くにおられるのではなく、私たちの心におわすからです。
 自分の身・口・意を文殊菩薩へ近づければ、心中の文殊菩薩とお会いするための最短距離を歩むことになりましょう。
 
 お大師様は明確に説かれました。

仏法遙かにあらず、心中にしてすなわち近し


(み仏の世界は遠いところにあるのではない。己の心中というもっとも近いところにおられるみ仏にお会いすれば良い)

「人事を尽くして天命を待つ」ならば、こうした明確な祈りをもって最後の人事を尽くし、澄んだ心で〈その時〉を待ちたいものです。
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