--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2008
01.31

2月の聖悟

 (シキ)を孕(ハラ)む者は(クウ)なり。
 を呑む者はなり。
 三密(サンミツ)は何(イズレ)の処にか遍ぜざらん。
 の慈悲は天のごとくに覆(オオ)ひ、地のごとくに載(ノ)す。 ―弘法大師―


(現象世界は、の世界の顕れである。
 を自分そのものとしているのはである。
 のはたらきは、ありとあらゆるものに及んでいる。
 その慈悲は天のように上から守り、大地のように下からささえている)

」は目に見え、耳に聞こえる五感が感じ取れる世界です。
 生きものはすべて、自分が見て感じ、聞いて感じ、触って感じながら生きています。
 アメーバは目も耳もありませんが、触ったものが食べものであるかどうかだけは瞬時に判断できるので生きていられます。
 お大師様は、私たち生きもののそうした世界は、「」という五感ではとらえられない世界の〈顕れ〉であると説かれました。
 
 その目に見えず耳に聞こえない「空」なる世界を呑んでいる、つまり自分の体としておられるのがみです。
 だから、お不動様も、お地蔵様も、観音様も動いているお姿は見えず、教えを説いておられるお声は聞こえませんが、そうしたみ仏の世界があってこそ、この世がパノラマのように、あるいは万華鏡のように展開しています。
 こうした展開はすべて、み仏のお体とお言葉とご志に依っているにもかかわらず、凡夫はなかなかそうは感じとられません。
 だから、み仏のを3つの秘「密」と称します。

 空が私たちのいのちとして展開する時、三密三業(サンゴウ)になります。
 日々、悦び、悲しみ、笑いつつ、私たちは幸せをもたらす善き業(ゴウ)も、不幸をもたらす悪しき業(ゴウ)も積み続けます。
 生きものには、「自分が生きたい」という抜きがたい姿勢があり、人間は、摂理や道理に背いてまでその姿勢を貫こうとします。
 それは、み仏の智慧の明かりが隠されて無明(ムミョウ)となり、煩悩(ボンノウ)がを支配している状態です。

 み仏は、こうした私たちを哀れみ、慈しみ、本来の三密で生きられるよう手を差しのべてくださいます。
 救いは、「体のはたらきを本来のものにしなさい」「言葉のはたらきを本来のものにしなさい」「言葉のはたらきを本来のものにしなさい」という形で現れ、私たちは、身体をみ仏の身体と同じくし、言葉をみ仏の言葉と同じくし、心をみ仏の心と同じくすれば、いつでも根本的な救済を受けられます。
 それが即身成仏です。
「いつ、どこにいても」守本尊としてお救いくださっている具体的なご加護は、決して途切れるものではありません。
 合掌し、真言を唱え、心にみ仏を観想して自分の本源へ還り、ご加護をいただきながら、み仏の子としての確かな道を歩みたいものです。
スポンサーサイト
2008
01.30

2月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。

 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。

 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。



虚空蔵菩薩(こ・くう・ぞう・ぼ・さつ) 



「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」




今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2008
01.30

2月の守本尊様

 今月(2月4日から3月4日まで)の守本尊様は虚空蔵菩薩様です。

是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。







2008
01.30

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。教材は最も古い経典とされる『法句経』などです。身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成20年2月13日(水)午前10時より12時まで
       平成20年2月27日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター
2008
01.30

2月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

○今月の第一例祭 2月3日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。
※今月は、春祭千枚護摩供養会と重なっています。千枚の護摩木を焚く厄除のご祈祷へどうぞおでかけください。

○今月の第二例祭 2月16日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。
2008
01.30

マッカーサーが信じたもの

 かつて、『人を大切にする』という一文を書きました。
 日露戦争において、破れた敵将ステッセル中将を「もののふの心」で遇し、世界中を驚かせた乃木希典大将の故事です。
 明治38年正月2日、投降したステッセル中将が副官たちと「水師営の会見」に臨もうとやってきた時、帯剣したまま握手を交わしました。
 敗軍の将が帯剣を許されるのは歴史上初めてのできごととされています。
 礼を述べる敵将へ、乃木大将は応えました。
「貴官たちが祖国のため尽くされた苦節を嘉(ヨミ)したまい、武士の名誉を保たしめよとの天皇陛下の大御心(オオミゴコロ)に、私はしたがっているだけであります」

 明治32年に新渡戸稲造が英文で書いた『武士道』が欧米で読まれていたとはいえ、実際にいのちのやりとりをする戦地でそれが発揮された事実は、世界中を驚かせました。
 本ものは、本者によって当然のごとく行われ、その真実は圧倒的な力を持つものです。
 その歴史的現場にいたのが士官学校を卒業したばかりの観戦武官ダグラス・マッカーサーです。
 中将の父親共々、深い尊敬の念を抱いて帰国し、自宅に乃木大将の額を飾りました。

 40年後、太平洋戦争の勝者として厚木基地へ降り立ったダグラス・マッカーサーは、わずかな手勢しか伴ってはいませんでした。
 日本軍の武装解除も済んでいないのに最高司令官がそうした形で赴くのは危険ではないかという反対意見を、彼は聞き入れなかったのです。
 彼は、日本に『武士道』と言われる伝統的精神が生きていると信じて疑いませんでした。
 6年後、大統領と意見が合わずに解任されて日本を去る時、乃木大将が自刃した赤坂乃木旧宅のそばへアメリカハナミズキの苗を植えました。
 大木となり、今でも乃木大将の崇高な精神と、共鳴したマッカーサー司令官の誠心を偲ばせているそうです。

 寺子屋でも語り継がねばなりません。子どもたちへハナミズキを見せたいものです。

(この稿は、勉強会のメンバーIさんからいただいた資料によります)
2008
01.29

輪廻転生 6 ―苦労と感謝―

 この仕事をしていると、よく「ご苦労が多いでしょう」「大変ですねえ」と、お心をかけていただきます。
 昨日も、信徒さん方から差し入れをいただきました。
 ありがたいことです。

 確かに、昨日は半日かけて『法楽』の印刷をしました。
 この時期は、印刷機のある部屋で暖房をオンにすると機械が結露して紙詰まりを起こし、使いものにならないので、一切暖をとらず、ジャンバーを着こんでやります。
 もちろん、早朝から部屋を暖め、何時間も経って結露がなくなってからやれば何のことはありませんが、寺子屋建立という目標があり、灯油代は高く、そうした無駄は省かねばなりません。
 来客や祈りの合間に「善行堂」へ駆けつけては紙を補充し、紙詰まりを解消し、ようやく全部できあがったのは午後8時でした。

 親は我が子に〈自分と同じ苦労〉をさせたくないと思います。
 私も弟子たちに同じ苦労をさせたくない気持がある一方で、志を嗣ぐ以上、彼らは自分で苦労を背負い込むに違いないとも考えます。
 それがいかなるものであるかは判りません。
 しかし、菩薩行に生きる本ものの行者ならば、あらん限りの力を発揮しようとしないではいられないはずであり、必ず苦労は付きまといます。
 心は大欲と大安楽に満たされていても、身・口・意のはたらきは、回る独楽のように獅子奮迅(「大日経」の言葉)が続きます。

 ただし、ここまでは客観的なもの言いであって、妻に「苦労を背負わせている」実感は山ほどありますが、私自身には「苦労をしている」実感がちっともありません。
 いかなる法務もいかなる修行も、なすべきことをなしているだけのことであり、なせる範囲のことでしかないからです。
 しかも、結果はすべてみ仏へお任せしている以上、どこに苦労がありましょうか。
 自分の心では決心し、対世間的には理想の旗を掲げ、あとは目標へ向かって邁進するだけであり、もしも自分の代で完結できなければ次の代へバトンタッチし、やがてはまたここへ生まれ変わって携われば良い。
 単純で簡単なことです。
 そもそも、釈尊お大師様のように「生き仏」となってこの世を生き通すことができぬ以上、何度生まれ変わっても未完成な行者でしかなく、56億7千万年かかる修行の道程を思えば、たかだか100年もかからぬこの世の修行など蚊に刺されたほどの苦労でもありません。

 たとえば寺子屋です。
 借家で毎日護摩を焚き、托鉢に歩く行者へ「宗教法人の認証を」と立ち上がっていただいてから12年、翌年、法人となり、その2年後に寺子屋建立の旗を掲げてから9年が経ちました。
 今年は何とか始められそうですが、周囲の状況を眺めていると、やがては、きちんとした幼稚園が必要になるのではないかとの思いもあります。
 お大師様が創られた綜芸種智院のようなところまで行かねばならないのかも知れません。
 もちろん、自分自身も、弟子たちも、指導者にふさわしい人間になれるよう修行や勉強は死ぬまで続けねばなりません。
 形ある世界にあっても、自分自身の心にあっても到達点は遠く、寿命は限られています。
 輪廻転生があるとは、何という救いでしょうか。

 今日も感謝しつつなすべきことを行います。
 鳥たちの声が盛んになりました。
 陽光にも春の気配が伴いつつあります。
 どなた様におかれても佳き一日となりますよう。
2008
01.28

『君と遊ぶ時』余話

 毎日欠かさず聴いている夢慧氏の唄う『君と遊ぶ時』の歌詞に疑問を感じて連絡してみました。
 何しろ作詞作曲が小椋佳氏なので一瞬どうしようかと思いましたが、こちらは仏法のプロであり、疑問は解消しておかねばなりません。
 それはこんな内容です。
 七番まである歌詞のそれぞれに、お大師様が説かれた「六大」である地・水・火・風・空・識が配されています。
 ところが、最初の「地」が「土」になっており、通常、「土」を使うのは木・火・土・金・水の「五行」なので不思議に思ったのです。
 夢慧氏の事務所へ問い合わせたところ、思いがけず、写真家の櫻井恵武氏から連絡がありました。
「小椋さんに聞いたら、メモをする時に書き間違っただけだから、訂正しますとのことでしたよ」
 そして、この名曲の誕生について教えていただくという幸運を得ました。

 櫻井氏と小椋氏はかねての知り合いで、ある日、一緒に高野山へ参詣しました。
 二十万基とも二十五万基とも言われている奥の院の墓所を訪ね、五輪之塔がある一番基のところへ至った時、歌詞とメロディが一緒に口から流れ出ました。
 きっと小椋氏へ霊気がはたらきかけたのでしょう。それをメモし、関係者へ渡したそうです。
 
 これほどの歌が一挙にできてしまうとは、まさに神業です。
 天才といってしまえばそれまでですが、凡人としては、呆気にとられるしかありません。
 荻生徂来の言葉を思い出しました。
「物の形なき者に至りては、すなわち常人の睹(み)ること能(あた)わざる所の者にして、聖人これを立ててこれに名づく、然(しか)るのち常人といへども見てこれを識(し)るべきなり」
(真実世界は、常人に感得し難い。聖人は、それを言葉に表現する。そうして創られた言葉により、常人にも真実世界を感得できる道が開かれる)
 小椋氏は、きっと「名づく人」すなわち聖人なのでしょう。

 この歌が収録されているCD「千の風になって ~夢慧日本を謳う~」にあるもう一つの名曲「風を観つめて(おへんろまんだら)」を絶賛したところ、櫻井氏は、サラリと言いました。
「ありがとうございます。あの歌は、やはり、私と一緒にいた時に夢慧さんが作詞作曲したものです。私の意見も入っているようです」

 こうした成り行きもあって、瓢箪から駒が出ました(!)。
 4月26日(土)、『守本尊道場』建立予定地において、夢慧氏が建立に向けてのチャリティコンサートをしてくださる予定です。
 詳細は追って発表しますので、関心がある方はご覧ください。

2008
01.27

命名 ―鈴香被告に思う―

 秋田県藤里町で発生した連続児童殺人事件の畠山鈴香被告は「まさに鬼畜のなせる業」と断罪され、死刑の求刑を受けました。
 母親と弟が傍聴し、河北新報によれば、「畠山被告が退廷する間際、傍聴席の二人に視線を投げかけると、目が合った母はハンカチで目頭を押さえ、弟は唇をかみしめた」とあります。
「ああ、」と涙が溢れそうになりました。
〝34年前、生まれた我がに「鈴香」と名づけた母親。鈴の音のように気高い徳の香りを身につけて欲しいと願ったに違いない母親の気持はいかばかりであったろうか〟
 人は哀しい存在だと、今さらながらに痛感させられました。
 幸多かれ、と願われて育ったはずなのに、いつしか「鬼畜」となってしまう人間―――。

 私たちの心には、鬼畜になってしまいかねない傾向が宿っています。
 抗えずに流されてしまう人と、どうにか踏みとどまる人。
 おそらくその心にはほんの少しの違いしかないのに、運命は天地に分かれてしまいます。
 いつしか、さまざまな事件の報道に接するたびに、自分の心にあるか、かつてはあった爆弾との距離を測ることが習い性になっていました。
 ほとんどはまったく別世界のできごとですが、かつての自分なら爆発があり得たと判断せざるを得ないケースも珍しくはありません。
 そうすると、今の境遇に感謝する一方で、犯人と「あり得た自分」を重ね合わせ、沈黙する時間がやってきます。
 被害者を悼ましく思い哀れむ一方で、犯人もまた哀れでならず、心は嘆息で満たされ、頭から言葉が消えます。

 同じ日、15年前に命名の相談に乗った少年Y君が、受験について人生相談をしようと来山しました。
 思いやりを忘れず正道を歩んで欲しいとの御さんと私の願いは、今のところ叶いつつあります。
 あの時、思いを夫へ託し、最も良い名前が授かりますようにとベッドの中で祈っていただろう母親は、自分より背丈が高くなったY君の横で、心配そうに、しかし頼もし気に、また、自慢気に坐っています。
 心構えを話し、守本尊様の御守と真言をお授けしました。
 Y君は、周囲に見守られながら、確かな一歩を踏み出そうとしています。

 私たちは、時折、自分の名前を省みる必要があるのではないでしょうか。
 失敗した時は、の心に懺悔し、励まされ、涙するかも知れません。
 成功した時は、親の心に感謝し、自らの慢心を戒めるかも知れません。

 親もまた、時には、我が命名した時の気持を思い出してはいかがでしょうか。
 
 新しいいのちがこの世へ生まれ出た時の清浄な願いは、きっと、不滅の灯火として私たちを導いてくれることでしょう。
 やがて始まる寺屋では、親で実践する時間を持ちたいと考えています。
2008
01.26

平成20年2月の運勢(世間の動き)と六波羅密行による開運法

 2月の運勢は、ものごとがなかなか動きにくくなり、淀みがちな流れをすんなりとさせる方法に工夫が要るという点に特徴があります。
 右往左往するだけではどうにもなりませんが、「石部金吉」には、「道徳や道義を尊び、金銭欲や色欲に負けない志操堅固な人間」という意味がある一方、「頑固で変化に対応する柔軟性に欠け、人間関係をスムーズにする融通性の足りない人」という面もあることを考えてみたいものです。
 
 追い風の時期は、多少甘い人でも割合うまくやれるものですが、向かい風になった時は、器量や胆や誠意や人徳などが否応なく顕わになります。
 老舗と呼ばれ、あるいは急成長した企業がふとしたきっかけで危機に瀕したおりの創業者一族、あるいはカリスマ経営者の姿などが、それを端的に物語ります。
 また、「普通の人」がとてつもないはたらきを見せたりもします。
 以前、ブログで紹介しましたが、もう一度、大川常吉について書いておきましょう。

 大正12年9月、340万人が被災した関東大震災のおり、戒厳令の宣告された横浜で、非常時に乗じて破壊活動を行うのではないかと疑われたたくさんの朝鮮人たちが救いを求めて鶴見署を訪れました。
 それを知った千人以上の大群衆がおしかけ一触即発となった時、進み出た署長大川常吉は「私を殺してから朝鮮人を殺せ」と大音声で呼ばわり、朝鮮人が毒を入れたとされる大量の井戸水を群衆の目の前で飲み干して彼らの無実を証明しました。
 この気迫が群衆を押し返したのです。
 彼はこう語っています。
「朝鮮人であれ、日本人であれ、自分の仕事は人のいのちを救うことなのであり、当然の行動だった」

 風が強まってきたなら、胆を据え、動かされざる山のようにじっとしているか、それとも磨いた腕を頼りにして上手に帆をかけ、一気に進むか、難しくもあり、妙味もある時期と言えましょう。
 
布施行による運勢]
 精進の人は、艱難に際して慌てず、自分の真価を発揮し、やがては「本懐を遂げる」ような成功へ向かうことでしょう。
 不精進の人は、困難を持った相手に悩まされ、自分も共倒れになってしまう危険性があります。
布施行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」

持戒行による運勢]
精進の人は、若々しい心で力を蓄え、若い人の力も借りながら難局を打開することでしょう。
精進の人は、前進しようとする自分の意欲と周囲の縁や環境とがちぐはぐになって、悩まされかねません、。
持戒行を護る菩薩様の真言
「おん しら だりじ ばぎゃばてい うん きゃく」

忍辱(ニンニク)行による運勢]
 精進の人は、たとえものごとが進みにくくとも、希望を失わずに時を待ち、養った鋭気で事態を転換させることができます。。
 不精進の人は、恵みの雨が降るまでの間を我慢できず、癇癪を起こして猛進してしまうやも知れません。
忍辱行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」

[精進行による運勢]
 精進の人は、自分も相手も喜ぶようなふれあいの機会があることでしょう。
 不精進の人は、成功しそうなものごとも七分あたりで止まってしまい、宙ぶらりんな結果になりかねません。
※精進行を護る菩薩様の真言
「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」

禅定行による運勢]
 精進の人は、どんどん成功へ近づき、ゴールが見えてくることでしょう。
 不精進の人は、予期せぬできごとに驚き、焦って失敗するやも知れません。
禅定行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」

智慧行による運勢]
 精進の人は誠実さが評価され、まごころの通じ合いに感謝することでしょう。
 不精進の人は、外面をとりつくろっても見破られ、成功しても長続きしない危険性があります。
智慧行を護る菩薩様の真言
「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」

 自分が「この面は弱いな」と思う方は、それぞれの菩薩様の真言を唱えながら無事安全に過ごし、開運してください。
 皆さんの開運を祈っています。
2008
01.25

『理趣経(リシュキョウ)』百字偈 6

大欲清浄を得て、大安楽にして富繞なり。三界に自在を得て、能く堅固の利をなす。


「大欲」は、何度も書いたように、あらゆるもののためになろうとして止まない無限の意欲です。

「富繞」は、いのちが活き活きとはたらいて止まないことです。

「三界」は、難しい定義は別として、「いつ、いかなることろにいても」という意味です。

「自在」とは、何ものにも妨げられず、あるいはどんな妨害にも負けず、いのちが闊達にはたらくことです。

 この一節は
「我(ガ)の穢れをまとわぬ無限の意欲に満ちあふれ、この上なき安楽の中にあっていのちは活き活きとはたらく。
 いつ、いかなるところに居ようとも、いのちはなすべきことのために闊達にはたらいて止まず、救済・教化のはたらきは不動である」
となります。

 さて、5つの文からなる「百字偈」全体についてもう一度眺めてみると、以下のようになります。

1 自他を幸せにする智慧のある行者は、この世の苦がなくなるまで、生涯かけて励み、自分だけが安楽世界で憩うことはない。

2 自他を救う慈悲心に裏打ちされた真の智慧をもって、五蘊によって成り立っている自分へ対して起こる執着心や、周囲の生きとし生けるものへ対して起こる執着心へはたらきかけ、清め、本来清浄なる世界を明らかにする。

3 大欲により、世間の人々を虜にしている我欲をコントロールし、我欲を仏心に導かれる清浄な大欲に変え、天界から地獄界まですべての迷いの世界に生きる者たちを教化して、救い漏れはない。

4 蓮華はそれぞれ固有の美しい色を持っていて、土壌である泥によって染められない。私たち人間がそれぞれに持つ意欲もそれぞれなりにさまざまである。本性である仏性に導かれて欲する先をめざすならば、現世の垢に穢されることなく、縁の人びとや環境のためにすばらしいはたらきができる。

5 我の穢れをまとわぬ無限の意欲に満ちあふれ、この上なき安楽の中にあっていのちは活き活きとはたらく。いつ、いかなるところに居ようとも、いのちはなすべきことのために闊達にはたらいて止まず、救済・教化のはたらきは不動である。

 こうして、み仏の子としての私たちが、大日如来の徳を発揮する菩薩として生きる姿が明示されました。
 極楽は遠くにあるのではなく、こうして生きる今、ここにこそ、確かにあります。
 釈尊は、入滅に際して説かれました。

「この後、未来永劫にわたって、弟子たちがこの自利利他の法を行じてゆけば、そこに如来は常におられるのであり、私が今死んでも如来は決して滅することはない」

 お大師様は説かれました。

「仏法はどこか遠くにあるのではない。一人一人の胸中にある。迷うのも悟るのも自らの決するところである。胸中の仏法に目覚めれば、たちどころにみ仏のいのちを生きられるのである」


 当山では、菩薩の理想像を説く「百字偈」を日々、読誦し、あるいは写経しつつ、皆さんと共に行じています。
2008
01.24

お焚き上げをし忘れた古いお札

 この時期になると、古いお札などの処置をし忘れたという方からのお焚き上げ依頼があります。
 病気や出張といったやむを得ない事情の方も、うっかりした方も、あるいはずぼらにしていて後から不安になってしまったという方もおらます。
 いずれにしても、きちんとすべきことはきちんとしておく生き方が大切であり、時期遅れになってもお焚き上げをすべきです。

 放っておけばが当たるかどうかについては、『NHK文化講座講義録7 ―仏法の基本その2―』に書いた山岡鉄舟の故事をお読みください。
 何もおどろおどろしい話や、霊感などを持ち出すまでもなく、ものの道理として理解できることでしょう。

 また、不安は非常に大切な感覚であり、そこには生き方への警告や、生き方を変えるヒントが隠されていたりするものです。
 良心からの警告や仏神からの誘いだったりするということです。
 そうしたものを無視したり蹴っ飛ばしたり、あるいは後ろ向きだとバカにしたりして、ただただ「前向きに!」と突進するだけでなく、こうした「兆し」を大切にしてこそ、人生を深められるのではないでしょうか。
2008
01.24

NHK文化講座講義録7 ―仏法の基本その2―

 四諦のうち、苦諦集諦は現実を直視する道です。
 この世はままならぬものであり、それには原因がある、そして、それはいずれも、動かせぬ真理であると見極めることが、すべての始まりです。
 さまざまな問題にぶつかりって悩み、苦しんだ時に「どうしてこうなるのか」と探求し、個々のできごとに通底している原理や真理を観ることができれば、根本的な解決の門に立っていると言えます。
 それは、頻繁に風邪を引く子供が、何度も風邪薬を服用したり学校を休んだりするうちに、「ああ、ボクは生まれつき、風邪を引きやすい体質なんだ」と気づくようなものです。
 そして、「じゃあ、この体質を何とかしよう」と思い立つのが滅諦であり、親と一緒になって医者や薬剤師へ相談し、見つけた体質改善方法が道諦です。
 もちろん、結果を出せるかどうかは、自分の実践にかかっています。

 勉強会では、「教えを知らないままでいたら自分はどうなっていたのか、と思うと、ゾッとします」などという言葉がよく聞かれます。
 酷い事件が話題になると、「あの人も、教えを知っていたらああはならなかったでしょうに」と同情する声が聞かれます。
 学ぶ皆さんは、必ず自分を省み、罪を犯してしまった他者へは厳しく断罪するだけでなく、いたわりの眼差しを送っておられます。
 真理が腹の底へ落ちると、自分の前にある世界が今までとは違ったものとして顕れるだけでなく、いつしか、真理に彩られた真実世界から浮き世を眺めるようにもなるものです。

 最近は、「ああなったのは因縁だなあと思います」とか、「辛いと思っているうちに、いつの間にか状況が変わっていて、結局、必ず救われています」などというやりとりもあります。
 どなたも、因果応報を実感し、み仏やご先祖様のご加護にはっきりと気づくようになってきておられます。
 一緒に学ぶこと自体が滅諦道諦にあることなので、当然といえば当然ですが、ありがたいことです。

 剣豪山岡鉄舟にエピソードがあります。
 鉄舟がじっと座禅を組む意味を知らず、やみくもに稽古をすれば強くなると考えている若い門人がこう言い放ちました。
「先生。この間、道場へくる途中にある鳥居へ小便をひっかけましたが、別に何も罰など当たってはおりません。この世に神仏などないに決まっていますよ。座禅も信心も要らないのではありませんか」
 鉄舟は怒鳴りつけます。
「馬鹿者!鳥居へ小便をするのは犬猫の行いだ。お前は人間でありながら人間のやる礼拝ができず、犬猫の真似しかできない。それはすでに罰が当たっている証拠ではないか」

 そうとは気づかぬうちに、あるいは救われ、あるいは無惨になります。
 すべては生まれの因縁と育ちの因縁、そして生きてきた因縁の結果であり、時には浮き、時には沈む浮き世の習いを大きく包み込むみ仏の世界とつながる誠心は、必ずや運勢を明るい方向へと導きます。
 それは何も、病気一つしなくなる、あるいはお金に不自由しなくなるといったことではなく、健康であっても病んでいても、あるいはお金があってもなくても、感謝や安心が確実に心で育ち続けるということです。
 健康かどうか、あるいはお金があるかどうかという事実がもたらす快・不快・楽・苦(煩悩です)などとは異次元の心が創られるのです。
 それは、自分の一心におわす自心仏(ジシンブツ)の光を覆う群雲が取り除かれ、その光が、より明らかに行く手を照らしてくださるという救いの道程に他なりません。

 ただし、注目しておかねばならないのは、病気を治したい、あるいは貧困を脱したいという切なる願いがみ仏へすがる姿勢をもたらし、み仏との縁を強めるきっかけになるということです。
 煩悩あってこそ、悟りへの道が開かれます。
 家族のために何としても病魔に打ち克たねばならない、苦労している親に楽をさせるためにお金を稼ぎたい、そうした切なる願いによって精進し、精進に精進を重ねているうちに自分の矮小さに気づき、自力だけでは到達し得ないところを目ざして「ああ、」と前へ伸ばす手の先に、み仏は必ず待っておられます。
「思い」があって「願い」が生じ、それがやがて「祈り」となる成り行きは、煩悩を持つ私たちが即身成仏できるただ一本の道であると言えましょう。
 
 いたずらに煩悩を敵視し、それを滅してサラリと生きようといった姿勢は、仏法本来のものではありません。
「身心にまといつく煩悩を活かす智慧と慈悲を磨き、自他のために精進し続ける菩薩であれ」
 これが釈尊の、そしてお大師様の声であると信じています。
2008
01.23

四諦について 6 ―道諦―

 第四の真理は「道諦(ドウタイ)」です。

 釈尊は、苦行へ傾かず、放逸へ傾かず、中道を歩んで悟りへ達するための修行方法として、四諦を説く前に八正道を説かれました。
 後に、四諦において「苦を脱する方法」と位置づけられました。

正見(ショウケン)
 これは、基本に関する正しい見解であり、これがない限り正しい修行はできません。
 釈尊は説かれました。
「この世には、どんな人にもなし遂げられぬことが5つある。
 一つには、老いてゆく身でありながら、老いないということ。
 二つには、病む身でありながら、病まないということ。
 三つには、死すべき身でありながら、死なないということ。
 四つには、滅びるべきものでありながら、滅びないということ。
 五つには、尽きるものでありながら、尽きないということである」
 ここにあるのは見極めの大切さです。
 私たちの思考や意志は自由に飛びまわりますが、因果応報や四諦や四苦八苦などの真理を超えることは決してできません。
 人間が動かせぬことは動かせないのだと肝に銘じてしまわないと、「どうにもならぬ」という壁の前で右往左往し、愚痴に堕ちて人生を浪費します。
 行く手を塞ぐ壁を自分で作らぬためには、真理を信じ、教えに導かれて生きることです。
 正しい見解を持つとは、「正しく説かれた真理を信じる」ことであり、修行はこの「信」からしか始まらないとも言えましょう。

 また、日常生活にあっては、全体をきちんと捉え見通しを誤らない視点であり、ここが狂っていては、いかなる精進も実を結びません。

正思(ショウシ)
 これは、貪・瞋・癡に毒されず、勝手な思いこみや、自分に都合が良いだけの謀をせず、正しく思慮し、正しい意志を持つことです。
 つまらぬことにカッとなり、刃物を用意しようとすれば、その先には地獄が待つだけです。
 
 社会的な使命や責任を忘れ、ことの軽重や順番を間違えた事業計画などでは、成功できません。

正語(ショウゴ)
 これは、妄語・綺語・悪口・両舌を離れた言語活動です。
 思いやりのある言葉は、思いやりのない心からは生まれません。
 八正道は、どれ一つとして単独に実践することは不可能であり、八つの道は、正しく修行し正しく生きるという一本の道を八つの方面から説いたものです。
 
 ウソをついたり、和を壊したり、不愉快な思いをさせたり、傷つけたりするもの言いではなりません。

正業(ショウゴウ)
 これは、殺生・偸盗・邪淫を離れた行動です。
 無益な殺生をして平気な者、自分に与えられていないものを手にし、与えられた行や作務を行わなずに時間を浪費する者、セックスに走る者に行者としての資格はありません。
 ここまでの三つが、行者に課せられた身・口・意の正しい営みです。
 
 生きとし生けるものを慈しみ、他のものを盗まず、できることをもって施し、道徳感覚を忘れない性行動をしてこそ、まっとうな社会人です。
 
正命(ショウミョウ)
 これは、娑婆の営利活動で生きようとしないことです。
 また、規則正しい生活は修行に不可欠です。自分を律するためには、時間の配分を決めて、それに自分を従わせることができねばなりません。
 行者は、自分のいのちを確保する方法について、厳しく戒められています。
 
 日常生活にあっては、正業をなりわいとして生きることです。食べて寝て生きてゆく方法が誤っていては、虚構の人生になります。
 また、勉強にせよ、仕事にせよ、なすべきことに即した規則正しい生活をせねば、ものごとは成就しません。

正精進(ショウショウジン)
 これは、存在する悪は除き、まだ存在しない悪は生ぜしめず、まだ存在しない善は生ぜしめ、存在する善は増大させるための継続的な努力です。
 善悪の判断を伴わない正精進はあり得ず、行者には常にキッパリとした正邪善悪の判断が求められています。
 この判断を誤らなくなった悟りの境地を「無学(ムガク…学ぶ必要がなくなった)」といい、そこでは、もう、判断する必要すらないままに正しく生きられると説かれています。
 確かに、悟りを得た後の釈尊がロダンの「考える人」のようなポーズをとっている場面は想像できません。
 
 日常生活にあっては、喜ばしい結果をもたらそうとする正しい目的のための継続的な努力であり、目的が誤っていれば、それは怠慢以上に悪しき行為となります。

正念(ショウネン)
 仏法を志す者として必須の心構えなどをきちんと理解し、保ち、常に導きとすることです。
 これができていれば、破戒はあり得ません。
 
 日常生活にあっては、目的や仕事の手順などをしっかりと意識して保ち、失念や不注意などによる失敗をしないことです。
 これができていれば、公務員による汚職や、教育者による淫行などはあり得ません。
 
正定(ショウジョウ)
 これは、正しい方法による瞑想によって身心を健全に保つことです。
 瞑想は精神の錬磨になるだけでなく、肉体のはたらきにも大きな影響を及ぼします。
 正しく行って自己管理をせねば、修行をまっとうできません。
 最後の三つが、正しい修行態度です。
 
 日常生活にあっては、時に応じことに応じて精神統一をはかり、知恵を適切にはたらかせることです。
 
正しさのチェックポイント
①妄見(モウケン)を離れること。
 欲望・希望・先入見などに目隠しをされて、ものごとをあるがままに見なければ、その先に真実の生き方はありません。

②顛倒(テンドウ)を離れること。
 大小や美醜を見まちがえてはなりません。
「第一を第一なりとせよ」と説かれています。

③極端を離れること。
 快楽や苦行などの極端に走れば中正を失します。
「二つの極端を離れて中道に就く」ためには、深い思考も強い意志も必要です。思考停止や放逸は一見「楽な道」であっても、実際は「苦への道」です。
2008
01.22

守本尊道場造営計画日記10 ―折り返し―

 21日は大寒、初大師でした。
 おかげさまにて、ようやく目標の半分50万返へ到達しました。
 ここまで来て感じるのは、縁の変化です。
 虚空蔵菩薩の経典にこう説かれているとおり、心からみ仏へ救いを求め、当山の法務に腹の底から共鳴する方々とのご縁が広がり、深まっています。

「いまだ成仏せぬままに慕ってきた者、また、成仏するのに条件の悪い所へ、虚空蔵菩薩は常に臨み従って守護する。諸々の有情へ、菩薩にまみえんと志向する楽しみを生ぜしめる」

 もちろん、道場内をお見せすることはありませんが、ご本尊様の霊気とでも言うべきものが強まり、引力となっているのでしょう。
 
 自分自身の変化としては、やや、発想力が強まったと感じています。
 もしかして、縁の変化と連動しているのかも知れません。
 宮本武蔵は『五輪書』に書きました。

「我、三十路を越えて跡をおもひみるに、兵法至極してかつにはあらず。をのずから道の器用有りて、天理をはなれざる故か、又は他流の兵法、不足なる所にや。其後なほもふかき道理を得んと朝鍛夕錬してみれば、をのづから兵法の道にあふ事、我五十歳の此也」

(30歳の頃に自分の過去をふり返って思った。自分の剣が最高の高みに達していたから勝ち続けたのではなく、天分があって動きが理にかなっていたためであろう。あるいは、相手の技量がたまたま自分より劣っていたためであろう。
 こう考えて朝夕に鍛錬した結果、50歳頃になってやっと、兵法における最高の高みに達することができた)
 
 勝負に勝ったという事実と、自分が究極のものを掴んだという確信とはまったく異なります。
 確信を求め続けた武蔵の会得が50歳頃だったことは、還暦を過ぎた行者にとって大きな励ましです。
 今の時代なら80歳頃まで求道は可能ですよという話ではありませんか。

 さて、五輪といえば、最近、一日も欠かさず聴いているCDがあります。
 夢慧(ユメサト)氏の唄う『君と遊ぶ時』(作詞作曲:小椋佳)です。
 真言宗では欠かせない四智梵語(シチボンゴ)が曲の前後に入り、いのちの喜びが、哀しいまでに美しく表現されています。

『しおさいの詩』で「汐さいの浜の 岩かげに立って 汐さいの砂に 涙を捨てて 思いきり呼んでみたい 果てしない海へ 消えた僕の若い力 呼んでみたい」と綴った小椋佳は、この歌で、子供と遊ぶ喜びを「命が 踊る 悦び 無限」と書きました。
 そして、7つの歌詞それぞれに、お大師様が根本とされた六大が当てはめられています。
 それは、物質世界に顕れているみ仏の徳であるの五輪(地・水・火・風・空)と、精神世界の「識」です。
 この世ならぬ歌の歌詞を書いておきます。

君と遊ぶ時 遊びながらも それは
まるで 大地に 抱かれるような  (地)
心の 根づきを 感じるんだ

君と遊ぶ時 はしゃぎながらも それは
澄んだ 流れに たゆたうような  (水)
この身に 潤い 染み込むんだ

君と遊ぶ時 夢中なままに そこに
強く 静かな 炎のような     (火)
煌く 願いが 燃え立つんだ

命が 歌う 輝き 不思議
命が 踊る 悦び 無限      (識)
君と 遊ぶ時

君と遊ぶ時 幼いほどに そこに
恐れ 全てを 掻き消すような   (風)
力の 息吹を 感じるんだ

君と遊ぶ時 大空超えて それが
広い 宇宙に 溶け込むような   (空)
命の 歌声 轟くんだ

命が 歌う 輝き 不思議
命が 踊る 悦び 無限      (識)
君と 遊ぶ時


守本尊様のご供養申込数累計 116体
○唱えた真言の回数累計 510、840回
2008
01.21

如月の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。掲載が月遅れになる場合があります)

一年の長く短し雪もよひ


「雪もよひ」は、今にも雪が降り出しそうな様子を言う。
 低く、重くなってくる暗い空は、緞帳が降りて幕が閉まる時のように、何かの「終わり」を連想させる。
 作者は、「長かったようでもあり、短かったようでもあるが、とにかく一年が過ぎゆく」と感じている。

躓きてつまづきて又年明くる


 作者の躓きが何であるかは知らない。
 ただ、重ねて言わずではいられない心の傾向については、他人ごとと思えない。
 躓きの内容を問うことよりも、むしろ、決して嬉しく喜ばしくはないこの傾向と一緒に歩み続けることを大切にしたい。

初晴やいのち愛しく見つむる日


 冬の青空は、もの悲しさを宿している時がある。
 この句も、「ああ、お正月になった。お天気も良いし―――」といった、晴れ晴れして前向きな気持で書かれたのかどうか。
 むしろ、茫漠と広がる青空が醸しだすとらえどころのなさに、小さいけれども確かな自分の存在を再認識しているのかも知れない。
 はてしない海にポツンと浮かぶ島の健気さや愛おしさに通じる気持なのだろうか。

人日や齢重ねて思ひ深し


人日」は七草の異名である。
 この呼称は、漢代の中国で、元旦から六日まで、鶏・狗・猪など六種の動物を配してそれぞれの動物について占い、最後の七日に人間について占ったので「人の日」と称したことに発する。
七草貰い」とは、七歳の正月七日に七軒の家を訪ねてを貰い、あるいは履き物を貰い、健全育成をはかる麗しい風習である。
 子供を皆の宝ものと考え、地域の人々が手を組んで育てた時代は疾うに去り、風習も消えつつある。
 一方で、住民による町内の見回りなどが盛んになった地域もある。
 七草を食べて自他への七福即生を願いたいものである。
 ところで、七草に触発された作者の思いとはどのようなものだろうか。

奢りとす更のタオルと柚子の風呂

 
 いつからか、「自分へのご褒美」とか「自分への励まし」というもの言いが流行りだしたが、この「奢り」はその源泉だろうか。
 ただし、前者たちほどあっけらかんとしてはいない。
 矜持という泉は、とてつもなく深いのである。

冬至とてゆず三個浮く湯船かな
ものぐさに猫も動かぬ三ヶ日
なづな箸にかからぬほどかよし
湯豆腐や湯気の向うに誰か欲し
動かぬ脳けだるしや冬灯


2008
01.20

日本の歌 49 ―しゃぼん玉―

しゃぼん玉
 作詞:野口雨情 作曲:中山晋平 大正11年詩集「金の塔」に掲載され、翌年、歌となった

1 しゃぼん玉 飛んだ
  屋根まで飛んだ
  屋根まで飛んで
  こわれて消えた

2 しゃぼん玉 消えた
  飛ばずに消えた
  生まれてすぐに
  こわれて消えた

  風 風 吹くな
  しゃぼん玉 飛ばそ


 しゃぼん玉は、子供にとって、とてもワクワクするものであり、不思議なものでもあった。
 十分すぎるほど大人になった今も、しゃぼん玉で孫と遊ぶ時は、ワクワク感の残滓に気づく。
 
 この歌詩が発表された雑誌『金の塔』は、子どもたちへ仏教的教養を与えようとして作られたものだった。
 確かに、2番の歌詞にはそうした気配がある。
 2番があるために、1番にも重い意義付けがなされるのだろう。
 野口雨情の娘が早世したことと結びつける議論もある。

 しかし、しゃぼん玉には、子供を無条件に惹きつける力がある。
 また、「屋根まで飛んだ」において「ラ・ファ・ド・ラ・ソ・ラ・ソ」と続く旋律は、唄う幼子へ小さな懸命さを要求しており、大人が無常観を教えようとする目論みなどは、最初から破綻している。
 しゃぼん玉と遊んでいたり、皆でこの歌を唄ったりしている幼子は、「それどころではない」のである。

 野口雨情の心底は解らない。
 確かなのは、この歌を「日本の歌百選」に入れようと選んだ人びとの心を動かしたのは、歌にこめられたとされる思想だったのではないということである。
 幼子は、しゃぼん玉と、ただ、戯れる。
 幼子は、無意識ではあっても、歌詞によって自分なりのイメージを喚起されつつ、与えられた歌を懸命に唄う。
 そうしたいのちを耀かせる真実があって、今の私たちがある。
 この歌は、真実体験に直結しているので選ばれたのだろう。
2008
01.19

イラクとアフガニスタンにおける空爆の実態

 共同通信は、ワシントンポスト紙の報道として、イラクアフガニスタンでの空爆の回数を伝えました。
 新聞記事としてはとても小さく、おそらく読まなかった方の方が圧倒的に多いのことでしょう。
 
 昨年1年間の多国籍軍によるイラクでの空爆は、1447回(前年の6倍以上)に上っています。
 一日平均で約4回、イラクのどこかにアメリカ軍などの爆撃機が爆弾を投下している計算になります。

 昨年1年間の多国籍軍によるアフガニスタンでの空爆は、3572回(前年の2倍)に上っています。
 一日平均で約10回、アフガニスタンのどこかにアメリカ軍などの爆撃機が爆弾を投下している計算になります。
 
 これは、いずれも単なる回数の発表だけであり、規模は判りません。
 アメリカによる東京大空襲では、まず、周囲へ爆弾を落として住民が逃げにくくしておいてから、その内側をじゅうたん爆撃して人も建物も徹底的に破壊しました。
 今は、当時とは比較にならぬほど性能の「優れた」爆弾が用いられているはずであり、イラクアフガニスタンの悲惨さは、私たちの想像を遙かに超えたものでありましょう。
 回数が増えた理由として、攻撃目標に関する情報が「豊富」になったと伝えていますが、大統領選挙にからんだ動きであることはまちがいありません。

 アメリカ軍のイラク侵攻に関し、同盟国日本には、これまで三度、大きな分岐点がありました。
 一度目は、イラク自衛隊を派遣した時、二度目はインド洋での給油を止めた昨年11月1日、そして、三度目は、給油活動を再開する新テロ対策特別措置法が成立した1月11日です。

 かつて、釈尊は、母国が戦争へ歩む道を二度抑え、三度目は抑えきれなかったとされています。
 その結果、母国は滅亡しました。
 天眼無礙智力を徳とする千手観音様がお守りくださる今年は、歴史に学ぶ者と学ばぬ者との運命が大きく分かれること必定です。
 私たちは、いかなる運命を創ろうとしているのでしょうか。
2008
01.18

仏界の確かさを共有すること ―今年の抱負 その2―

 これも抱負です。

 愛染明王(アイゼンミョウオウ)の慈眼にお導きいただき、思いもよらぬ成り行きで拙稿を書いている。
 平成十九年、仙台市で行われた『四国八十八ヶ所「本尊写真・細密画展示会」四国遍路文化を世界遺産に』の会場に掲げられた一枚の写真の前で立ち去りがたくなったことがすべての始まりだった。
 愛欲貪染をそのまま清浄なる菩提心とする三昧に住する愛染明王のお顔は黒を含んだ紺色で、凄まじい憤怒の形相だが、驚嘆すべきことに、大きく見開いた御眼には潤いの光が宿り、澄んだ優しさが溢れ出ていた。 
 心の奥底まで見通されたような衝撃に背中を押されて声をかけた櫻井恵武(サクライメグム)氏のご厚意によって、後日、当山へ来られた善通寺の愛染明王は、日々、因縁解脱の行を見守っておられる。
 
 八十八ヶ所の本尊を収めたDVDから流れる歌声には、二度目の衝撃を受けた。
「読経から臭みを除く」ことを自らへ課しているからである。
 密厳国土の妙なる音楽には、いかなる余分なものもあろうはずはなく、意密をのせたいのちの息吹が身密に支えられて丹田から発し、喉という楽器を自然に揺らして口密となって現象世界へ流れるものが読経である以上、それは限りなく清浄でなければならない。
 一瞬のごまかしも、一切の妥協も排した厳しい姿勢の産物に違いない夢慧(ユメサト)氏の歌は、まぎれもなく、そうした世界のものである。
 香の芳しさが天界・仏界へも届くが如く、歌声に込められた魂から発する尊き想いは現象世界を超えて行く。

 さて、展示会のもう一人の主役だった細密画家橋聡(アキラ)氏が、ひょんなことから来山し、談義の後に残して行かれた高幡不動尊の絵に、「二度あることは三度ある」ことを知らされた。
 A四版の尊像をまじまじと眺め、最初は技法に眼を奪われたが、やがて、信じられないほど確かな質感がいつしか存在感へと変わっており、身震いさせられたのである。
 そもそも仏宝とは、誰しもの心に霊性の核となって潜んでいる至上の人格であり、現象世界に存在する仏像は、祈る者が誠心を捧げることによって霊性を耀かせる機縁となる聖像である。
 それは魂入の修法により、行者や信者の祈りによって、「活きるみ仏」となる。

 日々の法務とは異なった角度から尊き存在の確かさを教えていただいた三度のできごとは、一行者への強い叱咤激励(シッタゲキレイ)となった。
 行者の使命は法力を磨き、救いを求める方々と、その確かさを共有することだからである。
2008
01.17

蓮華を踏むこと ―今年の抱負 その1―

 修法の作法に「足に蓮華を踏むと思うて堂前に歩行し」というものがあります。
 行者修法の場へ向かう際は(もちろん、登高座と称する座所へ向かう間も)、足で蓮華を踏むような感覚で歩まねばならないという意味です。

 蓮華はみ仏の座であり、常に美しくあらねばなりません。
 一足ごとに華を踏みながら前へ進み、かつ、それを壊さぬようにするにはどうしたら良いのか。
 指の方から着地するにせよ、踵(カカト)から着地するにせよ、普通の歩行であれば指のあたりで地面を蹴らねばなりません。
 それでは華を散らしてしまいます。

 結局、方法は一つしか思い当たりませんでした。
 足の裏を限りなく水平に保ちながら真上からそっと下ろし、そのまま垂直に持ち上げて前へ進むというものです。
 もちろん、未だにきちんとできているわけではありませんが、葬儀場で導師の席へ向かう時は、皆さんの背中の側から進むので、皆さんの視野へ入るまでほとんど気づかれない場合もあります。
 蓮華を壊す音が出ないからです。

 そして、これが「行者歩行」というものであれば、隠形流居合においてもそうした動きが基本にならねばならないのではないかという問題意識をずっと抱いていました。
 今年はこの地点から修行の再出発をし、何年かかるかは判りませんが、自分なりに納得の行くレベルを目ざそうと考えています。

 法力に己の衣をかけ、一振りの剣に己のいのちをかけていた時代には、数珠を手にする行者も、剣を手にする行者も、加齢を言い訳にして法力が使えなくなった、あるいは剣さばきができなくなったなどと口にすることは許されなかったはずです。
 それは行者としての死を意味するからです。
 身心を酷使し数に不足はないほど薬も服用していますが、病魔死魔と闘えるうちにできるだけのことを行い、いのちの核心となっているものが動かせるヒントを次の世代へ遺したいと願っています。
 修行と祈願を重ねると同時に、法事などの修法の場となるだけでなく、寺子屋としても居合の道場としても皆さんが使えるお堂を、何としても造らねばなりません。

 何人かの善男善女から同様のご質問があったので、忌憚なく書きました。
2008
01.16

善行とは ―薬害肝炎集団訴訟に思う―

 薬害肝炎集団訴訟がようやく決着しました。
 この事件により、私たちは、「善行とは何なのか」を深く考えさせられました。

 私たちの現実は、お互いに「これが道理だ(正しい)(善である)」と信じて対立する場面の連続です。
 そして、結果的に力の強い者が自分の理を通しますが、だから正義が実現された、あるいは善行が行われたとは限りません。
 それが一番端的に表れるのは戦争です。
 常に勝者が言い分を掲げて戦後処理の主役になり、歴史を書き残そうとします。
 しかし、イラク戦争で勝者を宣言した米国に正義があるなどと、一体誰が証明できましょうか。太平洋戦争で原爆を投下し日本を支配した米国に正義があったとは、とても考えられません。

 さて、「長いものに巻かれろ」「よらば大樹の陰」は、自分の〈得〉を望んで止まない凡夫の習いであって、み仏の〈徳〉の世界は原理が違います。
もしも弱者強者が対立したならば、弱者の立場に寄り添ってみるのがみ仏の姿勢です。
 なぜなら、「弱者は、より、思いやり(ご加護の手)を必要とする」からです。
 この世は、互いの支え合いによって初めて人間社会たり得るからです。
 摂理のみで生きる動植物たちと違い無明を抱えている人間同士の弱肉強食闘争は、強者が煩悩に歯止めをかけない限り、人倫という人間が人間たり得るより所を破壊し続けるからです。

 新興勢力や人気者や見てくれの良いもののみに正義の使者まがいのスポットを当て、政敵へは侮蔑的なレッテルを貼って面白おかしく攻撃し、勧善懲悪の舞台を見せるかのように仕組んで議席を積み上げた劇場政治。
 時代の風を読んで成り上がった成功者を持ち上げ、誰でもが金持ちになれると錯覚させ、「格差のない時代はなかった」と公言して強者が限りなく自由にふるまえる環境をつくった弱肉強食原理解放の政治。
 そして、人間である政治家を、権力者の道具として「使い捨てされるもの」と公言し、人間が、道具として必要とされるその場限りで便利に使われ、簡単に捨てられる企業の都合で動く政治。

 こうした政治は、日本経済の活性化などの功績がある一方で、使ってはならない劇薬を用いた治療を行ったかのような大きな弊害をもたらしました。
 自殺者の増加は、それを端的に物語っています。
 以前は二万人台を超えなかった自殺者数が政策の進行に合わせるかのように増大し、今は毎日九十人(交通事故死者数の五倍)が死亡しています。
 米英の二~三倍の死亡率であり、自殺は二百万人もの関係者へ深刻な影響を与え、おそらく日々千人が未遂で止まっているものと推定されています。
 強者の言い分がそのまま通り、人間が人間たり得るよりどころが破壊され続けていると言わざるを得ません。

 自分の利を目的として正邪善悪を主張するのが凡夫であり、相手や弱者を思いやってはたらく智慧を鏡として正邪善悪を決するのがみ仏です。
 真の善は、利のために理を主張し合う土俵から離れ、心のステージを一段登ったところに観えてくるはずです。
 弱者同士が肩を寄せ合い、スクラムを組んで強者の壁をうち破った薬害肝炎集団訴訟原告の方々と、損得を離れて活動を支えた方々へ限りない拍手を送り、善行の何たるかを考え続けたいものです。

2008
01.15

春祭厄除千枚護摩供養会のご案内 ―厄年などの注意点―

 一日には二十四時間のリズムがあり、一カ月には三十日のリズムがあり、一年には四季のリズムがあるように、人間の一生にも九年を周期として寄せては返す波のようなリズムがあり、厄年などはすべてこの理によって決まっています。
 人間の一年の運勢(リズム)は、立春から変わります。

 運勢を知るのは道しるべを見るようなもので、走行中「制限時速100km」とあれば安心してスピードを出せるし、「この先突風」とあればより気をつけて運転し事故を防ぐことができるのと同じく、運勢に合った生き方をすれば、難を逃れ、福を招くことができます。
 一年一年と、その歳にご縁となる守本尊様も変わりますので、吉凶それぞれにお守りくださる守本尊様をご供養され、運勢に応じた御加護を受けられてはいかがでしょうか。
 運気の強い方は、確実に追い風をいただいて、より早く善願が成就されますよう、運気の弱い方は、天魔などを祓って無事安全に過ごし、善願をきちんと成就されますよう、当山では、立春を迎えるに際し、千枚の護摩木を焚いて守本尊様をご供養し、御加護をいただいています。

『千』という数字は、仏教においては無限を意味します。無限のまごころを捧げて守本尊様をご供養し、自分の努力と周囲の縁の力に加えて仏神のご加護もいただき、運勢を活かして運命を切り拓くために万全を期されますよう、ご案内申し上げます。



○2月3日(日)午前10時より厳修
○祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』でも厄除け祈祷拝受となり、当山経由で祈祷札と御守が送られます。
○ご志納金は、総本山で金額が決まっているので、それに準じております。
  数え歳十九歳以上の方     一金五千円
  数え歳十歳から十八歳の方  一金三千円
  数え歳一歳から九歳の方    一金二千円
○生年月日もお忘れにならぬようお願いします。
○ご参詣できない方へは、祈祷札・御守などをお送りいたします。
○申し込みは、「お問い合わせ」欄からのメールでも、ファクスでも、お電話でも結構です。 
○当日のご祈祷は長時間になりますので、途中からお詣りされても、途中で帰られても結構です。聖なる護摩の火に身を近づけ、大きなご利益をいただいてください。

【数えの年齢によって、一年間を守ってくださる守本尊様が決まっています】

〇地蔵菩薩様   1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100
〇阿弥陀如来様  2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101
〇不動明王様   3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102
〇虚空蔵菩薩様  4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103
〇勢至菩薩様   5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104
〇千手観音様   6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105
〇大日如来様   7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106
〇文殊菩薩様   8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107
〇普賢菩薩様   9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108

【年齢と運勢】

〔 年齢 1 | 10 | 19 | 28 | 37 | 46 | 55 | 64 | 73 | 82 | 91 | 100 〕
●● 大凶  
八方塞がりになりがちですが、天地は開いており通じます。精進者には、身分・実力に応じた幸いがありましょう。尊きものを大切にすることと、仏神の眼があることを忘れぬことが肝心です。
不精進者は迷いやすく、天災・方災に遭う可能性が高くなるとされています。 身辺に気を配り、横変死(オウヘンシ)に注意しましょう。

〔 年齢 2 | 11 | 20 | 29 | 38 | 47 | 56 | 65 | 74 | 83 | 92 | 101 〕
○● 半吉  
種蒔きと開運の流れがあります。開運の近道は積徳・積善です。
精進者は、天の恵みや目上の引き立てを得られ、智者との良き縁が生じます。金運・商運も強く、前進力がつきます。
不精進者は、ただやみくもに忙しいだけになりやすく、金銭の損失や目上との争いも起こりやすくなります。事故(特に交通事故)や火災や刃物の取り扱いに注意しましょう。

〔 年齢  3 | 12 | 21 | 30 | 39 | 48 | 57 | 66 | 75 | 84 | 93 | 102 〕
●○ 末吉  
歓喜がある一方で散財の危険もあります。質素倹約を一番と心得ましょう。
表面を飾るよりも、内面を充実させようとする精進者には、交友や飲食などの楽しみ悦びが多くなります。
足るを知らぬ不精進者であっては、言葉による災いや飲食での失敗、あるいは異性とのトラブルを呼び込むおそれがありましょう。水難にも要注意です。

〔 年齢  4 | 13 | 22 | 31 | 40 | 49 | 58 | 67 | 76 | 85 | 94 | 103 〕
○● 半吉
運命を転化させ、悲運を打開するチャンスがあります。
精進者には、障碍を打破する時が訪れます。公のためを考える行動には追い風が吹きます。不意の変化を上手に使いましょう。
不精進者は、仕事や家族や親族に関するトラブルが発生しやすくなります。手足や関節などの病気、あるいは子供の問題には素速く対応しましょう。

〔 年齢  5 | 14 | 23 | 32 | 41 | 50 | 59 | 68 | 77 | 86 | 95 | 104 〕
○○ 大吉
前厄ですが、ものごとを明らかにできるチャンスに恵まれます。善悪虚実を心鏡に映してはっきりと見極めましょう。
精進者には、抱えていた問題を解決し、旧悪を断つチャンスがやってきます。陰徳積善が思わぬ形で認められ発展するやも知れません。良き人との巡り会いにも期待できそうです。
不精進者は、旧悪の露呈による困難へ陥りやすくなります。親しい人やペットなどとの離別、火難・公難のおそれも高まります。戦没者の供養を忘れぬようにしましょう。

〔 年齢  6 | 15 | 24 | 33 | 42 | 51 | 60 | 69 | 78 | 87 | 96 | 105 〕
●● 大凶
本厄で、外面よりも内面に乱れが生じやすくなります。
精進者は、内に喜びが生じます。真の理解者や心を許せる友、あるいは生涯を共にする伴侶の出現もあり得ます。
不精進者は、万事悩みが多く、誤解されやすく、目下の問題・異性との難・水難・病難・盗難などに悩まされる可能性が高まります。

〔 年齢 7 | 16 | 25 | 34 | 43 | 52 | 61 | 70 | 79 | 88 | 97 | 106 〕
●● 大凶
後厄ですが、一陽来復の兆しが出ます。
精進者は、進展が遅くとも後に収穫がありましょう。賢母のごとき女性の慈悲や智慧による救いもあります。
不精進者は、古物・偽物・不動産・母方に関する問題が発生しやすいくなります。 先祖供養を忘れぬようにして、ご加護をいただきましょう。

〔 年齢 8 | 17 | 26 | 35 | 44 | 53 | 62 | 71 | 80 | 89 | 98 | 107 〕
○○大吉
仮の縁が多く、姿あって声なしというものも多く、虚実入り交じった縁となりましょう。正邪・善悪の見分けをきちんとつけ、虚縁に注意しましょう。
精進者には、新たな展開があります。魚が水を得るが如く早く進むやも知れません。勇気と智慧を持って前進しましょう。
不精進者は、声あれど掴めず、成就が遠いままになりやすく、雑音や中傷や突発事故に要注意です。空虚な話詐欺などに騙されないよう。

〔 年齢 9 | 18 | 27 | 36 | 45 | 54 | 63 | 72 | 81 | 90 | 99 | 108 〕
○○ 大吉
良縁が多く、盛運になります。来福の喜びが待っています。
忍辱(にんにく)ある精進者は、万事花開き、声望も高まる場合があります。時間かかっても成就へたどりつきましょう。友が遠方より来訪するやも知れません。
不精進者は、信用失墜、生霊の妨害、あるいは思わぬ破れの生ずる危険性があります。縁談・商談共に長引くばかりで、成就は難しくなる可能性があります。

2008
01.14

心あたたかな方々と聖地 ―親輪会の新年会―

 清浄な方々の一年が始まりました。
 聖地も真っ白です。
 事情があってご参加されなかったたくさんの方々にも、喜びを共有していただけますよう。

s-003.jpg


s-014.jpg


s-011.jpg


s-008.jpg


s-009.jpg


s-002.jpg



2008
01.14

ご加持法としての隠形流居合

 密教における秘法であるご加持は、修法が終わってもあまり疲れません。
 それは、行者の身・口・意がアンテナとなって、み仏からいただくご加護の力が、救いを求めておられる方へ届くからです。
 行者は念力超能力を出そうと力む必要はありません。
 ご加持の世界は、スピリチュアル何とかという方々のやっている前世当てや、心優しい方々が研鑽している手かざしとはまったく別の原理に立つものであり、行者と受者が正統な方法で正しく行えば、無意識の裡にみ仏との感応が起こり、余分なものや邪魔ものが消え、身心が本来の力を取りもどせます。
 かつて、手かざしで有名になったまじめな男性が、世のため人のためと懸命に術を行っているうちに疲れ切ってしまい、廃業宣言をしてマンションへ隠ってしまったたことがありましたが、新聞記事を読み、彼のような真摯で感応力の鋭い人にこそ密教の門を叩いてほしいものだと痛切に感じたものです。

 密教の修行である隠形流居合においても、身体で剣を振り、口から気合真言を発し、心に観想を持つ身・口・意のバランスが大切です。
 一刀ごとに声をしぼり、動かす剣の先で魔を祓う信念を持つことです。
 黙っていては、エネルギーを出すだけになってしまい、早く疲れます。
 たとえ日中の仕事などでエネルギーが怪しくなっていても、丹田から声を出しましょう。
 力や早さを競う必要はありません。
 正確に、真剣に、手抜きをせず、今の自分のできる範囲できちんと行うことがすべてです。
 そのまごころとまじめさと清らかさを、み仏は必ず観ておられます。
 だから、きちんとできないなら、むしろ休んで体調を整え、また立ち上がるべきです。
 そもそも、たくましい武芸者を目ざすのではなく、他へ優しく、自分に厳しく、自他のためにまっとうに生きられる人間になるのが当流の目的であり、無理な稽古をする必要はありません。
 しかし、いかに仕事や家事や勉強などで疲れていても、身・口・意のバランスがとれた稽古なら、それなりにやれるものです。
 日中は托鉢や人生相談などを行い、夜中に自分の修行をした〈夜学行者〉の体験上、断言できます。
 だから、女性でも年配の方でも続けられ、やがて見違えるように活き活きし始めるのです。
 誠心をこめた修行によってまず自分へご加持ができるようになり、やがては誰かのためにもなれる菩薩を目ざして、今年もやりましょう。






にほんブログ村 哲学・思想ブログ 仏教へ
にほんブログ村
2008
01.13

原点にたち還ります

 古い写真は、初心を思いおこさせます。
 試し斬りで何本も真剣を折り、打ち合っては樫の木刀が折れて飛ぶほどの稽古をしていた時代―――。
 身・口・意再出発です。

s-画像 006


s-obata1.jpg


s-iini34.jpg


s-iai95.jpg


s-bu4.jpg


s-bu3.jpg


s-bu2.jpg


s-bu1.jpg




2008
01.13

第五十三話 ―天使の姉と菩薩の妹―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。




 夕刻、葬儀屋さんから電話で知らされたAさんの訃報に絶句した。
 新年のお守り札が届いた頃だったからである。

 Aさんは生まれつき障害があり、病弱だった。
 妹のBさんは59年に及ぶ姉の人生に寄り添い、見送った。
 Aさんのあだ名は「天使」である。
 ほとんど口をきくことはないが、誰ともニコニコと接し、握手する。
「今日、Aさんのところへ行きたい人は?」と訊かれると、事務所のヘルパーさんはこぞって挙手する。
 頻繁に出入りする病院では、治療と関係のない科の看護士さんたちも「今日はどう?」とやってきて、話しかけたり握手したりして喜ぶ。
 花のようなくったくのない笑い顔は、周囲の人びとの癒しになった。

 戦争で片目と片足を失った父が最近逝ったことを感づいてはいたが、一切、表情に出さなかった。
 どんな治療にも、痛い、苦しいと音を上げることはなかった。

 泊まり込みで看病したBさんは、Aさんの遺体の隣部屋で「苦労は何もありませんでした」と言う。
 そばには病弱の母親がうずくまっている。
 思わず、「そうはおっしゃられても………」と返すと、「心残りは一切ありません」とキッパリ告げられた。
 もう、言葉は出ない。

 暮れになって容態が悪化し、入院したAさんが今度はお正月を迎えられないのではないかと危惧したBさんは、一家3人の安全祈願を申し込んだ。
 当山で修正会(シュショウエ)祈願をしている間、3人は病室で正月を祝っていた。
 発送されたお札の住所などに不備があったため運送屋さんのところで止まり、問い合わせがあったので、早く届いて欲しいと願っていたところだった。
 やがて到着したお札を待っていたかのように、、Aさんは旅立った。
 役割を終えたお札を手にして辞する私を見送る色白のBさんは、観音菩薩のように穏やかな表情だった。
2008
01.12

四諦について 5 ―滅諦―

 第三の真理は「滅諦(メッタイ)」です。

 無明煩悩を滅すれば、苦をもたらす一切の執着が無くなり、心は静寂な悟りの境地にありながら、いのちいっぱいに生きられるということです。
 それには二つの方法があります。

 一つは、見惑(ケンワク)という誤った見解に陥っている状況を脱すること。つまり、理論から入る道です。
 正しく学び、心の底から「ああ、―――そうだったのか」となれば、もう、世界は違ったものになります。違って見えます。
 それを現観(ゲンカン)と称し、真理が現実であることを体験する境地です。

 NHK文化講座の語り合いで、まじめに悩みを口にするAさんへ、先輩のBさんが言われました。
「今すぐに学んだこと全部ができなくたって、必ず〈違う人〉になっているんだから………。学んで、自分を省みて、〈今までと違う人〉になれれば、それ以上のことはないでしょう。大丈夫よ」
 
 もう一つは、修惑(シュワク)という身にまとっている煩悩を滅し、迷いにひきずられない涅槃(ネハン)というこの上なく心地好い境地へ入ること。つまり、修行から入る道です。
 私たちが貪り、怒り、自分勝手な考え方をするのは悪習とも言うべき状態で、誰しもが「解っちゃいるけど止められない」といったものを抱えています。
 やっと欲しかった洋服を手に入れたのに、もう、別な洋服が欲しくなっています。
 出社して気に入らない上司の顔を見るたびに、心でバカ野郎と叫びます。
 テレビが報じた見ず知らずの人の小さな奉仕活動に涙を流して感動したのに、自分の近くで行われているそうした活動にはびた一文出しません。
 そうした修惑を身心から解き放つには、身・口・意でくり返し行う修行による他はありません。
 箸の持ち方を変えるように、ふるまいの修行をすること。
 アナウンサーの卵が発音の練習を重ねるように、言葉の修行をすること。
 問題を起こした子供が、親や先生や友人の温かい心に接しているうちに別人のように立ち直るのと同じく、心の修行をすること。
 この三つ以外、便利で、効率的で、お金をかければすぐに手に入る方法などはないのです。
 
 釈尊は、これを理として学び、修行として実践すれば無明煩悩を克服できるとして8つの正しい道(聖なる道)を示されました。
 それが「八正道八聖道)」です。
2008
01.11

煩悩のある自分 ―NHK文化講座にて―

 新年の第一回はとても和やかな語り合いとなり、印象的なやりとりがあったので、記しておきます。
 
 Aさん。
煩悩についてここで学んだことを自分自身にあてはめると、どれもこれも思い当たってダメな自分にがっかりしてしまい、うつ病になりそうです。
 また、子供が外で一生懸命やっているのを知っているので、自己中心的な面が目立ってきてもあまり叱らず、様子を眺めています。
 自己中心が最悪だと知っていながら、それを抜いてやれません」

 私。
釈尊は、『まず、実態をきちんと観なさい』と、煩悩が現れる姿を明確に示されました。
 無常や愚暗や悪行についての指摘には、容赦ない厳しさがあります。
 その上で、『ここを目指そうではありませんか』と、救われた姿を示されました。
 安寧や涅槃吉祥についてのお約束には、今すぐそこへ行きたいと思わせる優しさがあります。
 そして、体験に基づき、『こうすれば良いんですよ』誰でもが歩める道筋をお教えになられました。
 その通りに実践すれば必ず自他共に救われるはずなのに、私たちは、まず、第一段階でつまずきがちです。
 自分可愛さに負けて実態から眼を背け、目先の安楽や楽しさや快感を求めてしまうからです。
 あるいは逃げ、あるいは醜い自己弁護をしてしまうからです。
 その点、貴方は、今、勇気を持って第一段階へ入り、第二、第三段階をも視野に入れつつあります。
 自然のすばらしさを求めて山へ行ったなら、山道を登って初めて、その息吹に抱かれます。
 時には汗をかきつつ登らねばなりません。
 そうすれば、風の肌触りや鳥の声や花の笑顔や樹々の囁きと、確かに逢えることでしょう。

 お子さんの件は、今の方針で良いのではありませんか。
 釈尊の説かれた中道を持ち出すまでもなく、何ごともバランス感覚が大切です。
 心も身体も、能力が開発され、健全に使われるためには程よい緊張と弛緩が欠かせません。
 お不動様が索(縄)を持っておられるのはそのためです。
 日常生活にあっては、み仏と一体になったままで生きることは大変難しく、どこかで多少脱線しても、また『まっとうな道』へ戻れば何とか人生を乗り切れます。
 脱線の許される範囲が索の長さであると考えれば良いではありませんか。
 お子さんが、索に守られながら伸び伸びと成長できるよう、ゆとりを持った教育が大切です。
 今年もやりましょう」
2008
01.10

NHK文化講座講義録6 ―仏法の基本その1―

 NHK文化講座で行った法話の一部を記します。
 毎回、身近なできごとを題材にして充分に質疑応答を重ね、一緒に学んでいます。
 気楽におでかけください。

 新年を迎え、今年は特に基本・根本を大切にせなばならぬ年回りでもあることから、一月の2回は、釈尊が悟りを開いて最初に説かれたとされている、「四諦」と「八正道」についてお話します。

 9日は「苦諦」と「集諦」でした。
 
 釈尊の転法輪以来の2500年は、わたしたち人間のいのちに貼りついている「渇愛」としての欲を、み仏の子として活き活きと生きる意欲「大欲」へと昇華させるための挑戦の歴史でした。
 無数の行者、菩薩方が釈尊の境地へ憧れ、金口から説かれたものは一体何だったのか、いかなる方法で最高の境地へたどりついて大日如来となられたのか、その真実を求めて研究と修行を重ね、さまざまな資料を遺されました。
 さいわいにして、私たちは行者方の「追体験の歴史」に学び、同じように追体験をめざすことができます。
 何とありがたいことでしょうか。

 さて、生きる意欲を大欲へと清め高めるとは、凡夫のレベルからみ仏のレベルへ近づこうとするものであり、それは転識得智(テンジキトクチ)、つまり、迷いの意識を悟りの智慧に転換することです。
 転換により、眼・耳・鼻・舌・身によって動く意識は、自他のためになる行為をめざす意識になります。
 自分という意識は、目の前に広がる世界に現れるものがそれぞれなりの意義と意味を持つという真実を観る意識になります。
 生まれて以来、時々刻々と生きた歴史を溜め込んでいるマナ識は、自分勝手な選択を離れて、現象を平等に観る意識になります。
 生まれ持ったアラヤ識は、曇のない鏡のように一切をありのままに観る意識になります。
 そのような転換がなし遂げられた時、私たちの意識は、真実世界にはたらいて止むことのないみ仏の心そのものになります。

 こうした転識得智によって無明が克服されれば、いのちのエネルギーは自他を傷つける渇愛ではなく、自他のためにはたらく大欲となります。
 私たちが仏法を学び、行じ、実践するとは、この過程を歩むことに他なりません。
 救いの道を正しく歩むために、釈尊は、まず「姿を根本から観よ、それはこうではないか」と示されました。
 それが、「一切は苦でありままならぬ。原因は渇愛があることであり、それを野放しにしている愚かな状態が無明である」という、「苦諦(苦に関する真理)」と「集諦(原因に関する真理)」です。
2008
01.09

四諦について 4 ―集諦その3― 

 霊性の邪魔をする十の煩悩の残り4つです。

貪欲(トンヨク)…むさぼり。

 日本人には貪る醜さを嫌う心性があり、古来、「慎み」を美徳としてきました。
 本ものの「徳ある人」や「人格者」で、この美徳を備えていない人はおられません。
 貪る醜さは、腹がパンパンに膨れてなお求め続ける餓鬼の姿が端的に表しています。
 自分の心に餓鬼がいないかどうか、省みたいものです。

瞋恚(シンニ)…怒り。

 私たちは、自分の考えや気持に違うものに対して我できない心の暴れを発します。
 それが怒りです。
「腹が立つ」とはよく言ったものだと感心してしまいます。
 ムカッとなった後は、爆発が収まっても憎悪が残り、それを何度も何度も思いだして「石へ文字を刻むように」怨みを深める場合すらあります。
 自分で自分の心へ毒を溜め込むとは何と恐ろしいことでしょうか。
 私たちがみ仏のご宝前や墓前へ花を捧げるのは、雨風に耐えてじっと咲く花を目にして、「この花のように何ごとにも堪え忍び、人の道をまっとうします」と誓い、ご加護を願うためです。
 花の導きと救いを忘れぬようにしましょう。

 また、不動明王や愛染明王などの明王様方が、聞き分けのない子供を健全に成長させるために親が叱るのと同じく、〈相手のために役立つ怒り〉を発しておられることも忘れぬようにしたいものです。
 義憤は正義を実現するために欠かせません。
 怒りが自他を傷つける毒かそれとも自他のために必要な破邪の剣なのかを判断するために、相手、あるいは誰かを思う心があるかどうかを確認しましょう。
 社会悪としての共業(グウゴウ)へ立ち向かうには、観音様の思いやりと不動明王の怒りが必要なのです。

愚痴…愚かさ。

 道理に基づく智慧がはたらかないことです。
 謙虚に真理・真実を求める姿勢がないと、道理の感覚は身につきません。
 サイコロを振って行く道を決めるような我(ガ)に任せた人生を送っていると、自分の運命を暗く彩るだけでなく、縁の人びとを傷つけ運勢を暗い方向へと道連れにしてしまいます。

 世間では「愚痴を言う」と使われています。
 口に出してもどうにもならぬことを言わずにはいられない、それ自体が愚かさの現れですが、口にすることでストレスを発散できるという一定の効果はあるそうですから、無下に否定してしまうのも可愛そうではあります。
 しかし、こうしたいわゆる愚痴は、根本的に現在を浪費させ、未来を空白化させます。
 だから、隠形流居合の稽古で用いる『七言法』の最初に、愚痴を言わぬ誓いがあります。
 自分へ対する厳しさをつくるためには、愚痴を離れるところから始めねばなりません。
 
心。

 自己中心的な驕りの心です。
 これが強い人は、よく居直ります。
 居直った姿には我(ガ)がむき出しになっておりこの上なく醜いものですが、本人は気づきません。
 哀しいことです。
 よく「カエルの顔へおしっこをかけたような」と表現しますが、顔がツルンと硬質で「平気の平左」と書いてあったり、脂ぎった炎を発する顔に「文句があるか」と書いてあったりします。
 こうした顔になっているかどうかは、地位や名誉や職業や学歴や収入とはまったく関係ありません。
 おそらく本人は、それを強さと勘違いしているのでしょう。
 残念なことです。

 もちろん、一見したところ同じようなタイプでも、心から離れて、さらりとした爽やかさが漂っていたり、信頼感を伴う意欲に溢れていたりする方は、とても魅力的なものです。
 ここでは、「タイプ」をけなそうとするのではなく、他人の制御されていない我を観て自分を省みようとしています。
 
 ここまでの10の煩悩が、苦を招く原因です。
 次回は、それを取り除く道筋を考えましょう。
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。