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2008
02.29

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 5 ―老苦―

 老いて行けば身体はだんだんに利かなくなり、頭のはたらきも衰えます。
 身心共にままならなくなり、やがては、自分が生きることのみで精一杯になります。
 そして、「身体をより長く保たせることが〈生きる〉ことである」という錯覚が強まる場合もあります。

 80歳まで生きた釈尊は、『法句経』で厳しく説いておられます。

「いたずらに年を重ねただけでは、人生経験によって徳が高くなった賢者とは言えない。
 姿形が年相応になり髪が白くなっただけでは、畏敬されるべき老人ではない」
「長老とは、真理に身を委ね、節制し、慈しみにあふれ、ものの道理が解り、人生の垢を落とした人を言う」
「貪っては老苦を招き、怒っては病苦を招き、愚かなままでは死苦を招く。
 三毒を除いたところに人の道は開ける」
「怠惰に過ごし、老いても色情に引きずられ、財物へ執着して施さず、仏の教えに耳を傾けない。このようにして、真実から離れた生涯を終える」

 老いの苦を克服するには、「八正道」における「正思(ショウシ)」を心がけることです。
 正しい思考とは、貪りと、怒りと、愚かさを離れ、真理・道理・原理に導かれたものの考え方です。

 年をとると生命力のはたらきが衰え、当然、摂取するエネルギーは若い時よりも少なくて済むので、老いれば、自然に「足を知る」ようになるものです。
 しかし、皆が自然の摂理に従うわけではなく、恥を忘れて欲をむき出しにする場合もあります。
 こうなると、食欲が仇となり、色欲が仇となり、財欲や名誉欲が仇となって晩年を穢しかねません。
 我がために貪ることを止め、残された貴重ないのちを、他のためにこそ用いるようにしたいものです。

 年をとると頭のはたらきから柔軟性が薄れ、ガマンもきかなくなります。
 時代の変化について行けないと、何もかもが気に入らず、感謝の対象よりも不満や憤りの対象の方が大ききなり、世の中の前途に不安を覚えます。
 古き良きものは残そうとしても、新しき良きものも認めねばなりません。
 自分を基準として怒ることを止め、柔軟な思考と感性を保つ努力をしたいものです。

 年をとると、過去が懐かしくなる一方で、「ああだったら良かった」「こうしたかったのに」と過去へのこだわりが強くなる場合があります。
 こうなったのは貴方のせいだと、自分の現況への不満を誰かのせいにしたくもなります。
 こうしてグチが生じるままに過ごすと未来を拓く力が衰え、運気が尻つぼみになって不安や不満が高まります。
 自分の人生の現況は誰のせいにもできないし、今日を生き、明日をどう生きるかはすべて自分にかかっています。
 また、ここまで生きてこられたのは天地自然と社会の人びとと目に見えぬ仏神のおかげであり、「おかげさま」が一瞬たりとも休むことなくお護りくださったからに他なりません。
 過去にきちんと「おかげさま」を観るのが智慧であり、合掌の心で、自他の運勢を暗くする愚かさを離れたいものです。

 ただし、還暦は人生の大きな分岐点であり、このあたりまで懸命にやってきた方は、身心に息切れを生じる場合ががあります。
 そうした時にあまり自分を責めると心の力が病気のレベルにまで下がり、身体にも大きな変調を来す恐れがあります。
 もちろん、身体の力の急降下が先になるやも知れません。
 そうした異変を感じたならば、気晴らしをしたり、休息をとったり、あるいは気軽に医師を訪ねたりして、早めに手を打つようにしましょう。

 新しい事態へ上手に対応し、歴史が一回りするまで生きたご褒美としての「次なる人生」を活き活きと生きたいものです。
 
 なお、老苦を抜く真言は秘密となっており、伝授によらねばならず、守本尊様の御前で人の道を歩むことを誓えばお授けできます。
 ご誠心の方は、どうどお申し出ください。
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2008
02.28

3月の守本尊様

 今月(3月5日から4月3日まで)の守本尊様は文殊菩薩様です。
『過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)』をもって、過去から現在を通り未来へと連なるとのつながりを見極めるお力をくださり、悪しきことをせず良きことを行うようお導きくださいます。






2008
02.28

3月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

文殊菩薩(もん・じゅ・ぼ・さつ) 

「オン ア ラ ハ シャ ノウ」



今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2008
02.28

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏教えを学びます。教材は最も古い経典とされる『法句経』などです。身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成20年3月12日(水)午前10時より12時まで
       平成20年3月26日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター
2008
02.28

NHK文化講座講義録 10 ―居場所―

大人(ダイニン)は無欲を体(タイ)とし、在所照然(ザイショショウネン)として明らかなり、或いは苦楽に遭うと雖(イエド)も、高く其(ソノ)智を現ぜず。 ―法句経


智慧があり徳の高い人は我欲がなく清浄で、どこにいても居場所に不安がなく明らかである。ままならぬ時も順調な時も、高慢にならず、落ち込んだり高ぶったりせず、淡々と智慧に導かれて生きている)

 ここで用いられている「大」は「大きい」だけでなく、レベルが高く深みもあるといったイメージです。

 無欲とは意欲を失った状態ではなく、我欲がなくなった状態です。
 たとえば、ダライ・ラマ法皇は明らかに我欲を持ってはおられませんが、故国チベットの尊厳を回復したい、仏法の灯を守り世界を救いたいとの烈々たる意欲をお持ちです。
 私財を蓄えようとしなくとも、世界中から財も人も集まってその志を支えています。
 財欲や色欲や食欲を克服するとは、財物や異性や食べ物から離れる、逃げることではありません。
 清浄なる意欲でそれらとの縁をを活かすことです。
 慈悲と智慧とによって財物や異性や食べ物を活かすのが仏法です。
 仏法の根本には道理があり、道理に従って生きられる人になるための方法が修行です。
 
 基礎的な修行の時期にさまざまなものから離れるのは、実社会へ出る前に小学校や中学校でいろいろ学ぶようなものです。
 悩み苦しみを持った方々と共にそれらへ立ち向かう日々の法務こそ仏道修行の本番であり、娑婆から隔離された環境での修行は準備運動のようなものです。
 たとえば浅田真生選手が真価を発揮し観衆を感動させるのは試合においてであって、常々いかに過酷な練習をしていても、本番でジャンプに失敗すれば何もなりません。
 選手生命においては結果がすべてであり、言いわけは通用しません。
 仏道修行もまったく同じでです。
 人生相談であれ、法話であれ、祈祷であれ、供養であれ、本番の内容がすべてです。
 なお、当山が虚空蔵求聞持法を許される範囲で公開しているのは、恥を忍んだ布教活動のつもりです。
 ロックやお笑いや飲み屋などの形態でも布教活動が行われていると聞きますが、当山はそうした方法をとれません。
 
 居場所が明らかであるとは、周囲の人びとにすぐに気づかれるというのが表面の意味ですが、そういう人は、どこにいてもそこが自分の居場所としてかけがえのない唯一の場所であるという絶対の安心を持っています。
 この反対が、「ここは自分が本来、居るべき(生きるべき)場所なのだろうか?」「自分が居るべき(生きるべき)場所はどこにあるのだろう?」という漠然とした不安を抱いた状態です。
 受験に失敗した私は、以後、約20年間にわたって心の根無し草だったので、よく解ります。
 モノ金や地位のあるなし、あるいは職業がどうこう、また、元気かどうかといった問題ではありません。
 だから、釈尊やお大師様ならいざ知らず、私たち凡人にあっては、「安心の人」と「不安の人」との違いが解りにくいのです。
 しかし、たとえば、隠形流居合の道場で初心者が剣を構えた場合、立つ姿勢や剣の握り方などを詳しく教えられてそのとおりにやっても、永年稽古している人と同じ構えをとることはできません。
 その違いは、解る人には歴然としています。
 武士が剣を抜いて向き合った途端、片方が「参った」と降参する場面がありますが、あれは当然です。

 ダライ・ラマ法皇にお会いし、短い言葉を交わした時、そこにおられる絶対的な存在感を感じました。
 来山された方々にそれを感じる場合もあります。
 もちろん、以前の私と同じだなあとすぐに判る場合もあります。
 皆さんの不安へ共に立ち向かい、迷いがなく、文字通り「自分の居る場所が宇宙の中心」となり切った方々の居住まいに学びつつ、修行を重ねたいと願っています。
2008
02.26

日本の歌 56 ―たきび―

たきび
  作詞:巽聖歌  作曲:渡辺茂 昭和16年NHK「うたのおけいこ」で放送

1 かきねの かきねの まがりかど たきびだ たきびだ おちばたき 
  あたろうか あたろうよきたかぜぴいぷう ふいている
2 さざんか さざんか さいたみち たきびだ たきびだ おちばたき
  あたろうか あたろうよ しもやけ おててが もうかゆい
3 こがらし こがらし さむいみち たきびだ たきびだ おちばたき 
  あたろうか あたろうよ そうだん しながら あるいてく

 焚き火は、子供だけでなく、大人にとっても何か惹かれるものがある。
 最初に火を使ったご先祖様の「ときめきの記憶」が残っているのだろうか。

 (ヒジリ)とは「火知り」である。
 火を起こし、火を操る能力のある者が者だった。
 また、なる火を守る資格のある者こそが者だったことを考えると、護摩法が密教における最奧の修法であるとされているのは深く頷ける。
 お大師様は、各地で柴燈護摩(サイトウゴマ…野外に薪を積んで行う護摩法)を行いつつ、四国八十八ヵ所を開かれた。
 
 仙台市太白区にある『地底の森ミュージアム』では、富沢遺跡における「2万年前の人類の生活跡と森林跡を発掘したままの状態で保存・公開」している。
 回廊に囲まれた幻想的な地下の遺跡では、火を焚いた跡が特定され、人間がこの地で行ったことを想像して作られた映像は、焚き火が中心となっている。

 当山でも、また「焚き火を囲む会」を行い、皆さんと共に、この歌を唄いたい。
2008
02.25

映画鑑賞会 ―四国八十八ヵ所・街の灯―

四国八十八ヵ所~祈りの秘仏たち~秘仏巡礼の旅」
 初めて四国八十八霊場の秘仏を写真に収めた櫻井恵武氏の作品が順番に紹介され、バックには森光子氏が絶賛してやまない夢慧(ユメサト)氏の歌が流れます。関係者から特別の配慮をいただいての上映です。

街の灯
 チャールズ・チャップリン1931年の傑作。お金はなくとも真心一筋に自分のすべてをかけて生きる男と、真情を疑わぬ娘との物語です。擬音と伴奏のみの切なく、やるせなく、心ときめく作品です。
 
・日 時  3月22日(土) 午後6時より
・場 所  仙台青年文化センターエッグホール
        仙台市青葉区旭ヶ丘3―27―5
        電話022―276―2110
・参加費  1000円(お茶付き)
        (『法楽の会』『親輪会』『興詩会』『隠形流居合』会員は500円)
・次 第  午後6時開場
       午後6時10分 「四国八十八ヵ所」上映開始
       午後7時10分 「街の灯」上映開始
・ミニ法話 四国八十八霊場について 
        大師山法楽寺住職 遠藤龍地
・連絡所  犬飼健郎法律事務所
        青葉区一番町2―10―26旭開発ビル202
        022(262)5525
       大師山法楽寺
        黒川郡大和町宮床字下小路45―1
        022(346)2106


2008
02.25

彼岸供養会

彼岸供養会 
 3月20日 午前10時より

 有縁無縁御霊をご供養します。
 一緒にご供養のお経を唱えませんか。
 修法は四十分ほどで終わります。
 法話と、お茶をいただきながらの質疑応答も行います。
 参加は自由です。お気がねなくご参詣ください。
 お塔婆の申込みもお受けしております。
 どこで眠っておられる方であってもご供養できますので、前もってお申し込みください。
 事前にご連絡いただければ、9時30分に地下鉄泉中央駅前の『イズミティ21』前までお迎えにまいります。
 どうぞ、ご遠慮なくお申し出ください。

2008
02.25

3月の例祭

 いずれの例祭参加自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

○今月の第一例祭 3月2日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

○今月の第二例祭 3月15日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。
2008
02.25

輪廻転生 7 ―恵果阿闍梨とお大師様―

 永貞元年(805)、お大師様の師僧恵果(ケイカ)阿闍梨(アジャリ)は60歳で亡くなられました。
 お大師様は、そのおりのできごとを記しました。

 去る年の12月15日、香しい湯を用いた沐浴によって身体を清め、法衣をまとって大日如来の印を結び、釈尊と同じく北枕で右脇を下にして逝かれた。
 その夜通夜の修法を行っていると、恵果和尚が、まるでそこに居られるかのようにはっきりと前に立って告げられた。
「我は、過去世の契りにより、幾たびも生まれ変わっては汝と師弟関係を続け、密教を弘めてきた。
 今度は我が東国(日本)に生まれ、必ずや汝の弟子となろう」

 明くる年の1月、世界各国からの弔問客を前にし、若干33歳のお大師様が、数千人と言われる遺弟たちを代表して追悼文を奉奠されました。

 そもそも、恵果阿闍梨は、お大師様に会った時にこう言っておられます。

 我は汝が来ることを知り、今か今かと待っていた。
 今日、会えたことはこの上なく喜ばしい。
 我がいのちはもはや尽きようとしているが、法を伝授される資格のある者は汝しかいない。
 速やかに伝法を行おうではないか


 皇帝すらも帰依する国師でありながら、異国から来たばかりの若い修行僧へ密教のすべてを伝えたことは、伝法というものが国籍や地位や年齢を超えた「器の判断」によって行われることを示しています。
 東国において弘めよとの師命により、留学を中止して帰国したお大師様は、立派に役割を果たされました。

 ちなみに、お大師様は恵果阿闍梨の師僧である不空(フクウ)三蔵の生まれ変わりであり、恵果阿闍梨は、290年後に、密教中興の祖と称される興教大師(コウギョウダイシ)へ生まれ変わったとされています。
 異次元のレベルへ達した聖者の方々は、とてつもない種を生まれながらにして宿しておられたに違いなく、人は「何者か」としてしか誕生しないことを考えれば、「種は、そのレベルにふさわしい器を待って伝えられる」のが当然だと言えましょう。

 ただし、真実の圧倒的な力にを揺すぶられるのは当然としても、輪廻転生といった異次元そのものについては、私たち凡夫が軽々に口にすべきではありません。
 ましてや他人様の前世といったことがらを具体的に云々するのは、仏神ならぬ身を謙虚に省みて厳に慎みたいものです。


2008
02.24

平成20年3月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 3月は、生みの苦労や悩みがあり、夜明けをじっと待つ根気強さと、それを支える夢や希望を信じられるかどうかが運気の上昇と下降を分けます。
 性急な動きをすれば自他を大きく損なうだけでなく、全体を崩す虞もあります。
 基礎体力を作ることから始まり、工夫を重ね、本番前にはしっかり準備運動もせねばならないのに、自分の力を過信してそれらの過程を怠ったスポーツ選手が肩や足や腰を痛め、やがては選手生命を失うようなことにならぬよう、慎重にやらねばなりません。
 虫食いだらけの土台の上へ、いかなる豪邸を建てても、砂上の楼閣でしかありません。
 努力が「精進」という徳目になって自他を活かすのは、布施の心を持ち、戒めを守り、忍耐し、身心を調え、智慧に導かれるからであって、闇雲に力任せにやるだけでは精進ではないのです。
 人が人たるための六波羅密(ロッパラミツ)行は、精進布施など六つの徳目のいずれもが、他の五つの徳目の支えなしには実践できません。

 今月は「取り繕い」が効かない時です。
 本当の智慧をはたらかせずにごまかしで乗り切ろうとすれば、結局は大切な発展の種まで失ってしまう危険性があります。
 基礎や根本本質といったものをしっかり考え、龍が滝つぼから天へと飛翔する環境を整えましょう。

布施行による運勢]
 精進の人は、志や積徳が認められ、信用を得ましょう。
 不精進の人は、高慢になり、馬脚が現れて支持を失う危険性があります。
布施行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」

持戒行による運勢]
 精進の人は、悪しき誘惑に負けず、困難に耐えて本道を歩めましょう。
 不精進の人は、正邪善悪を忘れて道を踏み外す危険性があります。
持戒行を護る菩薩様の真言
「おん しら だりじ ばぎゃばてい うん きゃく」

忍辱(ニンニク)行による運勢]
 精進の人は、行く先の確認を怠らないので、危険を察知して立ち止まることができましょう。
 不精進の人は、どんどん進んでいるうちに行き詰まって、途方に暮れる危険性があります。
忍辱行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」

[精進行による運勢]
 精進の人は、初心を忘れず、智慧をはたらかせながら進めましょう。
 不精進の人は、初心を忘れ、我欲に引きずられているうちに進めなくなる危険性があります。
※精進行を護る菩薩様の真言
「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」

禅定行による運勢]
 精進の人は、分を守っているうちに、未来への足固めができましょう。
 不精進の人は、分を忘れて大きく構え、信望を失って失敗する危険性があります。
禅定行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」

智慧行による運勢]
 精進の人は、迷いや心配があってもきちんと決断できるので、勝機をつかめましょう。
 不精進の人は、迷い、落ち込んでいるうちに勝機を逸する危険性があります。
智慧行を護る菩薩様の真言
「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」

 自分が「この面は弱いな」と思う方は、それぞれの菩薩様の真言を唱えながら無事安全に過ごし、開運してください。
 皆さんの開運を祈っています。
2008
02.24

大吉と小吉 ―おみくじについて―

大吉」は吉がたくさんあり、「小吉」は吉があまりないと考える方が多いのではないでしょうか。
 この場合の大小とは、陽陰であり、大きさではありません。

 大吉とは、ある吉の多くが、もう、明らかになっているということであり、それは、視点を変えれば、すでに運を使い果たしつつあることです。
 大吉が出たならば、自らを慎み、いただいた運を将来へ活かせるよう、智慧をはたらかせねばなりません。
 舞い上がってばかりいたならば、鉄腕アトムが墜落するような羽目に陥らないとも限りません。

 小吉とは、吉が、まだそれほど表面化していないということであり、それは、視点を変えれば、宝の山が明らかになるのはこれからだとも言えます。
 小吉が出たならば、バカにせず大いに感謝し、「おかげさま」と周囲へ施し、徳をもって上手に引き出さねばなりません。
 なあんだと捨てたりしたら、天運に見放され、宝の山を失うばかりでなく、感謝の薄い心が畜生道へ導くかも知れません。

 大凶が出たならば、凶運が出尽くしつつあるので、謙虚に我が身を省み、やがて廻り来る春をゆったりと待つゆとりを持つ努力が大切です。
 運命転化の時はもうすぐです。
 あまりガッカリしたなら、春の便りになかなか気づけないかも知れません。

 凶が出たならば、正邪善悪の判断をしっかり行い、大きな凶事をもたらしかねない悪心をきれいさっぱり切り放つことです。
 そうすれば、早く運気の流れを上昇へと転じさせることができましょう。
 タカをくくっていたならば、泥沼やアリ地獄に足を踏み入れてしまうかも知れません。

 さて、中吉は、吉運がどちらへ転ぶかはっきりしない状態です。
 仏神を尊び、ご先祖様を供養し、天運をつかみたいものです。

 おみくじは、ただ占うだけで「ああ、そうか」と終わりにしてはなりません。
 仏神のお知らせを活かすか、それともドブに捨てるかは、私たちの心次第です。 
 教えに学び、智慧をもってやりましょう。
 
2008
02.22

守本尊道場造営計画日記12 ―読誦の力―

 2月19日は雨水でした。
 まだまだ寒い日が続き、人間も含めて生きものの動きは遅いようです。

 唱えることは響きの体験でもあります。
 体全体が楽器としての「」であり、発する言葉は「」から流れ、「(ココロ)」にイメージが抱かれることによって、は響きという活きたはたらきを表します。
 響きは鐘の音に通じ、線香や焼香の煙の揺らめきに通じ、安置された尊像が漂わせる気配に通じて、み仏の世界を顕します。

 出家得度すると、ただちに読誦が始まります。
 味を考えるより先に、しっかり声を出して読む習慣をつけねばなりません。
 それは、響きによってみ仏の世界を感得するのが僧侶として最も基本的なことであり、その基本は体験の積み重ねによって固められるからです。
 経典や真言を目で読み、調べたり考えたりするのは、スポーツを行う前の準備運動のようなものであると言えそうです。

 さて、真言行者の日々読誦する経典に『理趣経』があり、それは、不空三蔵(フクウサンゾウ…お大師様の師の師)が常々にしていた(常言といいます)「勧請(カンジョウ)の文」から始まります。
「帰命ビルシャナ仏 無染無著真理趣 生々値遇無相教 世々持誦不忘念」
(ビルシャナ仏と清浄で穢れのない真理の教えに帰依します。何度生まれ変わっても比類のないこの教えに遇い、保持し読誦し、決して忘失しません)

「帰命ビルシャナ仏(キミョウビルシャナブツ)」
 密教の教主大日如来のみ前へ己を投げだし尽くすことです。
 行者は、目で「仏」を見、「仏語」をで唱え耳で聞き、「仏智」を念じます。
 投げだすことによってみ仏と一体になり、即成仏が実現します。

「無染無著真理趣(ムゼンムジャクシンリシュ)」
 見聞きするものを実体視してとらわれることを染著(ゼンジャク)といい、迷った姿です。
 み仏に染著はなく、修法する行者もまた染著から離れます。
 そこに真理の趣きが顕わになります。

「生々値遇無相教(ショウジョウチグムソウキョウ)」
 無相の教えとは、大空の真理が説かれており、比べるものがないほど無尽の内容を持った教えという味です。
 幾たび生まれ変わろうと、必ずこの教えに遇って導かれることは三蔵法師の願いであり、み仏との約束だったのでしょう。

「世々持誦不忘念(セセジジュフモウネン)」
 いついかなる世界へ生まれ変わってもこの教えを保ち、読誦し、心に保てば、そこは常に不生不滅のみ仏の世界です。
 即成仏体験が三蔵法師へこの常言をもたらしたのでしょう。
 読誦の力は偉大です。

○守本尊様のご供養申込数累計  119体
○唱えた真言の回数累計  602、640回
2008
02.21

弥生の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。掲載が月遅れになる場合があります)

虎落笛(モガリブエ)犬の遠吠えしきりなる

 虎落笛とは、真冬の寒風が葉を落とした枯れ木立や竹垣などを吹き過ぎる時に出す「ヒューヒュー」という音です。
 そもそもは、中国で作られる虎除けの柵を「虎落(モガリ)」というところから発しています。  寒い夜にこの音を聞くと、寝ている部屋へ風が入ってくるわけではないのに、寒さが一段と骨身へ沁みこむように感じられ、掛け布団へ顎を埋めたくなります。
 こうした時期に耳へ入る犬の遠吠えは、寒さに輪をかけます。
 外の闇に虎ならぬ異界のものが居る気配すら漂う句です。

夜の長しが寝言や夢見しか
寒冷や思はず洩らすひとり言

 この二句は一対になっているのではないでしょうか。
 は自分の世界で憩い、何ということのない思いに心を委ね、意志しなくとも一言二言、口から言葉が漏れ出ている作者もまた、自分だけの世界にいます。
 まったくの別世界にいる生きもの同士ですが、句の心はその全体をとらえています。
 寒冷の夜は長く、雪はと作者のいる家に、町にしんしんと降り積もっています。

着膨れて背筋のばせよ寒の入

 一年中で最も寒い寒の時期となり、目一杯着脹れている作者は、寒さの厳しさを自分への厳しさに置き換え、ただただ背中を丸めて寒さから逃れようとするのではなく、シャンとした姿勢で迎え撃とうとしています。
「のばせよ」には、ここを乗り切った先に待つ春を迎え、優しさと恵みを享受しようとする人間の矜持といったものも感じられます。
 作者のお人柄がにじみ出た一句です。

ささがき牛蒡(ゴボウ)寒九(カンク)の水に晒しけり

寒九」とは、寒の入りとなる小寒(今年は一月六日)から数えて九日目のことです。
 この頃に湧く清水はとても腐りにくく身体に良いとされ、薬として用いられた時代もあったほどです。
 雨水も「寒九の雨」といい、春の訪れを告げ、豊年をもたらす縁起の良いものとして飲まれました。
 こうした水に晒された牛蒡は、きっと、独特の香りや舌触りが一段と活きる料理になることでしょう。
 のものをの感覚で料理し、の心でいただく文化の奥行きを考えさせられます。

寒の夜のみだれしままの机上かな
家揺ぶ遠き山より虎落笛(モガリブエ)
さらさらとささがき牛蒡外は雪
寒厨(カンクリヤ)湯気立ち始む炊飯器
おでん鍋又かけ直す寒夜かな


2008
02.20

情緒の核心

「『君と遊ぶ時』余話」に書いたとおり、来たる4月26日(土)、夢慧(ユメサト)氏が、『法楽の苑』において、寺子屋建立のためのチャリティコンサ―トを行ってくださることになりました。
 写真家の櫻井恵武氏もご来山されます。
 昨夜、『法楽の会』役員の方々が中心となり、母胎となる「みやぎ抒情の会準備室」をスタートさせました。

風を観つめて(おへんろまんだら)」では四国の霊場を彷彿させられ、「夢慧万葉の世界を謳う」では日本語のすばらしさを再認識させられ、「君と遊ぶ時」には魂を飛翔させられます。
 また「西條八十詩集より」は、新聞各紙で絶賛されました。

 千年の単位で創られてきた私たちの情緒の核心が確かに在ることを伝えるメッセージは、静かに、しかし力強く輝いています。
 寺子屋においても、大いに子どもたちの魂を揺り動かすことでしょう。
2008
02.19

【現代の偉人伝】第54話 ―ミシェル・オバマ氏(オバマ夫人)―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。




 米大統領選挙は重大な局面にさしかかっている。
 ミシェル・オバマの存在感が増しているという記事に目を奪われた。
「ワシントン共同」はこう伝えている。

 夫人は、夫オバマ氏の出馬を恐れていた。
「わが家にはまだ幼い二人の娘がいるし、素晴らしい生活もある。彼の大統領出馬ほど破滅的な決定はなかった」
 シカゴの労働者の家に生まれた夫人は、奨学金を受けながらプリンストン大やハーバード大で学び、法律事務所で出会ったオバマ氏と結婚し、上院議員夫人となった。
 夫人の言である。
「『恐れ』が私たちの心に巣くっています。
 選挙に負け、家族が傷つくかもしれない。
 テロとの戦いもそう。
 皮膚の色や宗教が異なる人への恐れ…。
 恐れることにうんざりし、出馬に賛成したのです。
 皆さんも可能性を信じて投票してほしい」
 また、こうも言い切っている。
「夫とともにホワイトハウスではたらくつもりだが、(敗北など)すべての出来事を受け容れる準備ができている」

 夫人の「恐れ」は、アメリカへ渡航したことのない私にも容易に想像がつく。
 私的には、穏やかな日常生活の喪失、夫はもちろん家族へのテロ行為に対する警戒、また、公的には、人種・宗教の違いや心の病気が引きおこす軋轢や暴力の蔓延。
恐れ」は空気のようにオバマ家にあり、アメリカ全土にあるのではなかろうか。
 国から払拭する以外、逃れる術(スベ)はない。
 アメリカ人として生きる以上、戦わねば生きられないのである。

 アメリカに蔓延している「恐れ」は、人間不信を基礎にしている現代文明の孕む恐怖であり、不安の源である。
 夫人は、文明の病巣を「私たち皆の問題」とし、真正面からとらえて立ち上がった。
 アメリカを基地としているものは、軍隊や資金や情報や科学技術だけではない。
 アメリカが変われば、世界が変わる。
 救世主ともなり得る希代の夫婦に挫折・夭折のないよう、祈りたい。
2008
02.18

日本の歌 55 ―早春賦―

早春賦
  作詞 吉丸一昌 作曲 中田 章 大正2年『新作唱歌 第三集』

1 春は名のみの 風の寒さや
  谷の鶯 歌は思えど
  時にあらずと 声も立てず
  時にあらずと 声も立てず
2 氷解け去り 葦は角(ツノ)ぐむ
  さては時ぞと 思うあやにく
  今日もきのうも 雪の空
  今日もきのうも 雪の空
3 春と聞かねば 知らでありしを
  聞けば急(セ)かるる 胸の思いを
  いかにせよとの この頃か
  いかにせよとの この頃か


 春の温もりを待ちわびる日本人の情緒が、「春は名のみの 風の寒さや」というたった11文字に、丸ごと込められている。
 1番では鳥という〈動物〉、2番では葦という〈植物〉、そして3番では自分という〈人間〉が季節の変化にいのちを動かされ、息を潜めて時を待っている。
 伝統的な七五調は、短い詩でありながら、立春という時期の天地と心を表現して余すところがない。

 また、表面に出ない隠れた世界、あるいは敢えて潜める思いといった「日本人が惹かれ、かけがえのない価値を持つと感じるもの」が詠まれ、表現としては一つの到達点を示している。
 俳句ならば、定めし「古池や蛙飛び込む水の音」といったところだろう。
 この一句は貞亨3年(西暦1686)に作られており、約230年経ち、またしても「高み」が示された。

 それから約40年、今度は、万葉に発する伝統的な主題である恋における「深み」が詠まれた。
 昭和25年に発表された『水色のワルツ(作詞藤浦洸、作曲高木東六)』である。

1 君に会ううれしさの 胸に深く
  水色のハンカチを ひそめる習慣(ナラワシ)が
  いつの間にか 身に沁みたのよ
  涙のあとを そっと隠したいのよ
2 月影の細路を 歩きながら
  水色のハンカチに 包んだ囁きが
  いつの間にか 夜露に濡れて
  心の窓を閉じて 忍び泣くのよ


早春賦』の「待つ心」は、この切なさ、もどかしさに通じている。
 それは、いかなる夾雑物もはさまない純粋で絶対的な思いである。
 こうしたものに触れる時、あらためて、いのちの泉が清冽な音を立てながら流れ始める。
2008
02.15

NHK文化講座講義録 9 ―できない自分―

「善因善果を信じて行えば、必ず福徳がやってくる。
目先の果にとらわれず修行を重ね、陰徳を積めば、遠からずして、必ず結果は明らかになろう」 ―『法句経』―

 Dさんが言いました。
「こうだろうと理解できます。
 しかし、あまりにも悪しきことが起こり、悪しき人が栄え、善き人が苦しんでいます。
 現実を観ていると、釈尊の説かれた教えに納得しながらもきちんと実践できず、ああ、自分は何てだめなんだろうと思ってしまいます」

 これは根本的に信の問題ですが、今回は少し違った角度から考えてみました。

 日本のロボット研究者たちへ大きな影響を与えている人にロドニー・ブルックス博士がいます。
 彼は、人工知能の研究に身体は欠かせないと主張しました。
 身体は知能を限定するものですが、それによって知能が具体的にはたらける範囲とはたらけない範囲が明確になり、知能を発達させるためには何が必要であるかということが解るというのです。

 釈尊の教えは普遍的であり時空を超えた真理ですが、いつの世あっても、それが活きるのは〈今の時代に生きる私〉という限定された存在においてしかあり得ません。
 芝生への散水を想像してみましょう。
 水道の蛇口からはいくらでも水が供給されますが、水を必要としている場所までは細いホースで引っ張らねばなりません。
 大量の水と広大な範囲とをつなぐものはとても限定性の高いホースです。
 しかし、その出口を上手に絞れば、広い範囲の芝草へ水をやることができます。

 私たちもまた、無限の大きさと深さと広さを持ったものを手にしても、できることしかできません。
 しかし、清浄で豊かな水があればこそ、自分の能力いっぱいに活かせます。
 汚れた水やすぐに枯れる水しかなければ、自分の持てる能力を充分に役立てることはできません。
 だから、縁となった教えと法の巨大さに圧倒されず、「できないところ」から目を背けぬ謙虚さと潔さとを持ちながら、活かして行けば良いのです。

 Dさんはとても大切な視点を持たれました。
 勉強会をやっている甲斐があります。
 ありがたいことです。
2008
02.14

NHK文化講座講義録8 ―悦びの種―

「正しい教えを喜んで学び実践すれば、眠りは安穏で、心に悦びがあり、意志するところに穢れはなくなる。
 聖者はそのような法を説き、智慧ある行者は喜びつつ修行に励む」 ―法句経


 Aさんは言われました。
「日々、辛いことや怒らずにいられないできごとなどが起こりますが、嬉しいできごともたくさんあります。
 ありがたいと感謝する心になれれば、喜ぶ対象はどこにでも見つかるものですね。
 よしんば、それが小さなできごとであっても………」
 Aさんは、こうして世代が違い国籍さえ違う人びとと真剣に接しつつ、笑顔を忘れないで奮闘しておられます。

 熱心に勉強するBさんは、相手へ厳しくできず、悪しき人とも親しく交わってしまう性格が災いしてつけ入られ、全財産を失った人について言われました。
「相手に問題があると見抜いていながら邪慳にしないのは、やはり、優しさというものではないでしょうか」
 落伍者となった人の心にも光る珠を見つけ、全否定はしません。

 最近、敬虔な信徒Cさんが脳腫瘍の手術を受けることになりました。
「腫瘍のできた場所は、普通、なかなか見つからない場所だったそうです。見つけていただいて、本当にありがたいことです」
 公私共に忙しい方なのに、不安を前にしてもなお、感謝しておられます。
 
 冒頭の句における「心に悦びがあり」とは、こうしたことでしょう。
 釈尊が説かれる「生死を度する」とは、「人生がいつも前向きですべてがバラ色である」ということではありません。
 それは、「苦楽が交差し、悲喜こもごもと起こっても右往左往せず、いつ、どこにいようと感謝のきっかけを見つけつつ生きる」境地ではないでしょうか。
 悟られた釈尊や、即身成仏を体験されたお大師様がいつもルンルン気分だったなどということは考えられません。
 むしろ、以前よりも、人びとの悲嘆や苦吟は我がこととして強く感じられたことでしょう。
 それでもなお、いや、それだからこそ、釈尊は、我が子を失って半狂乱になった母親へ「人は必ず死ぬものである」とハッキリ教え、お大師様は、天皇へも「信じ、思いやり、より高い境地を求めて悟りの中へ身を投げ入れなさい」と説かれました。

 冒頭の教えは、何が起ころうと超然として孤高を守る姿勢ではありません。
 自他共に有為転変の嵐の中で生き、死んで行くのはこの世の習いではあるけれども、学び実践する人の心には、いかなる嵐も消せない温かな灯火が保たれるというイメージです。
 身を切るような苦しみや悲しみも、そしてはち切れる笑顔をもたらす楽しみや喜びも等しく燃料となり、その明かりは、ますます耀くことでしょう。


2008
02.12

読み下し文

 最近、各種の修法において読み下し文を多用しています。
 たとえば観音菩薩がお導きくださる百ヵ日忌では観音経を読みますが、終わってから皆さんの感想をお訊きすると、「何となく解る部分があります」あるいは「初めて観音経に何が書かれているかを知りました」という返事が返ってきます。

 いかなるイメージを抱いて生きるかは私たちの心の動きに大きな影響を与えるだけでなく、身体や脳の機能にも深く関わっているということは、最新の理学療法や脳科学の研究によって明らかになってきました。
 隠形流居合の稽古で「イメージをしっかり」と何度も指導するのは、そこに理由があります。

 一日は24時間しかなく、み仏からお預かりしたいのちの持ち分は砂時計の砂のように時々刻々流れ落ちています。
 因果応報の理にあって生きる私たちが「自他の幸せを」と願うならば、運勢を動かし、運命を創る主役である第七識(マナ識潜在意識)へ、〈良きもの〉や〈善きもの〉や〈佳きもの〉を入れるような生き方をせねばなりません。
 み仏の世界を彷彿させる経典を読むこと、聞くこと、書くことは、そのための方法であり、そうした行為は私たちにとって救いとなるだけでなく、清められつつ生きる私たちの姿を見ていただくことは、み仏と御霊への最高の供養となります。

 観音経は、悪しきものに害されそうになった時も、苦しい状況に陥った時も、観音菩薩は必ずお救いくださるというお約束に満ちています。
 御霊を供養するためにこの経典を読む理由は、み仏を信じ、経典を信じて救われる私たちの姿を回向(エコウ…回し向けること)するところにあります。
 読み下し文が役立つよう、これからも読誦と法話に努めます。

 蛇足。

 最近、葬祭会館で葬儀を行ったところ、「本尊のおられる本堂でやらないと本当の効果がない」と言われ、お身内の方々が呼ばれてもう一度やり直し、大変辛い思いをしたという話を聞きました。
 み仏は私たちの心にこそおわすものであり、いつ、いかなる所においてもみ仏と一体になる法を結んで修法するのがプロの行者である僧侶の務めであって、こうした暴論に耳を貸す必要はありません。
 また、伝家の宝刀のように用いられる高額の離壇料にも法的根拠はなく、信教の自由という正当な旗を掲げて拒否することができます。
 もしも無体な目に遭ったなら、仏法や寺院の全体を見捨てることなく、真の聖地と聖職者を探して縁を結ぶ選ぶ勇気を持っていただきたいと願ってやみません。
 み仏はどこででも、誰をも必ず救うと約束しておられます。
 どなた様のお近くにも、必ず見つかることでしょう。
2008
02.12

オバマ氏

 当山が
「米国大統領候補オバマ氏は、米国を変え、時代を転換させる希望の星です。
 しかし、彼が濃い悲しみの影を宿していることは心配でなりません。
 星が堕ちませんよう」
と書いた同じ日、ノーベル文学賞作家ドリス・レッシング氏(88歳)もまた、
「当選したなら暗殺されるだろう」
と警告しました。

 氏は、「黒人の大統領として長くは続かないだろう」から「クリントン氏が大統領候補になり、オバマ氏が副大統領候補となるべき」と提言したそうですが、そんな調整のできようはずはなく、当選を待たずしてオバマ氏はすでに標的になっており、いのちがけの漢(オトコ)たちがガードを固めていることでしょう。
 オバマ氏が退がってどうこうなどということではなく、むしろ、オバマ氏を守りきれるかどうかはアメリカという国に突きつけられた大問題であると考えねばなりません。
 吉と出れば世界が明転し、凶と出れば暗転しましょうが、いずれにしても、明と暗はコインの裏表です。
 史上なかった大帝国、陽光の盛りを過ぎつつあるアメリカがうまく舵を切れるよう願ってやみません。
2008
02.11

未来のない時代 ―菊本の死―

 NHK大河ドラマ『篤姫』で、篤姫の老侍女菊本の自決シーンがありました。
 永年、が子同様に、あるいはそれ以上に宝ものと思い、人生をかけて守り育ててきた篤姫が主君島津斉昭公の養女になることとなり、自分の役割が終わったからです。

「自分をかけられるものがない」とは、「未来空白である」ことと同じです。
 私たちは、戦後、と言うより、もしかしたら西洋的な自由の観念を知って以来、ずうっとこうした方向へ走ってきたのかも知れません。
 自分を縛っていると思うものを敵視し、あらゆる「限定するもの」から離れて自由意志のみで生きることが人間として正当な権利であるという観念に縛られてきました。

 慣習、ひいては行儀、作法をてました。
 家庭を軽視するようになりました。
 若者たちが国家を敵視し、流浪の民を理想とした時代もありました。
 国民という言葉は死語に近くなり、国のレベルや県のレベルでとらえるべきものごとについても、国民や県民の視点でなくすべて「市民」の視点から考えられるようになりました。
 政府はできるだけ小さい方が良く、県、市、あるいは村など、より小さな単位で予算の使い方を決めるのが理想であるという考え方は、急速に日本中を染めつつあります。
「男らしさ」「女らしさ」「父親らしさ」「母親らしさ」「先生らしさ」「生徒らしさ」という観念はすべて自由の敵であると定められました。
 企業は社員がお荷物にならぬよう、必要に応じて人間を道具として用い、使いてにできるようにしました。
 社員も、役員も、たとえ今勤めている会社のライバル企業であろうと、いつ、どこへでも移動できるようにしました。
 
 こうして、私たちは、全能の神のごとく、自分で自分の今日を、明日を、未来を決められるようにしたいと願いつつ走ってきました。
 未来へのより強く大きなフリーハンドを持てば、それに応じて幸せになれると信じてきました。

 しかし、ここへきて、いくつかの問題点がはっきりしました。
 全能の神ならぬ私たちは、「無限定自由意志」だけで自分の未来をきちんと埋めて行くことなどできはしないということです。
 自分をかけられるものは「無限定自由意志」だけで選び取れるものではないということです。
 空白となった未来は、意欲をかきたてるよりもむしろ不安を生み、実生活も不安定にさせるということです。
 (ガ)が解放され、その衝突が先鋭化したことです。
 
 「らしさ」を敵視した結果、男や女、あるいは親や子、あるいは先生や生徒というイメージを持てず、男でも女でもなく、親でもなく子でもなく、先生でもなく生徒でもない「のっぺらぼう」の人びとが、根無し草と同じくゆらゆらと揺れながら生きています。
 また、ごく一握りの人間だけがこうした思想の恩恵を受ける一方で、ほとんどの人間が踏み台にされています。
 そして、靄のような不安は呼吸と共に私たちの身心へ絶え間なく浸透し続けて、止まりません。
 生殖能力が衰え、アレルギーなどが増え、心の病気は拡大する一方です。

 菊本が生きたのは、良くも悪しくも、「限定するもの」の力が強かった時代です。
 菊本の死に潔さや崇高さが漂っているのは、「限定するもの」を「志」として昇華させ、それに自分をかけていた、さらに言うならば自分をてていたからです。
 
 今の時代は、反対方向へ来過ぎたのではないでしょうか。
限定するもの」をてたい一心の私たちは、何を「志」として保ち、それに自分をかけて生きられるのでしょう。
 いかにすれば現在と未来を真に充実させることができるでしょうか。

 答は二つのキーワード、「」と「」にありそうです。
 また、航空機の客室乗務員だけでなく、ほとんどの乗務員を外注させられるようにしたいという政府案へ警鐘を鳴らす元機長の言葉「安全確保にチームワークは欠かせません」も、重要な指摘でしょう。
 家庭からも仕事場からも失われつつあるかけがえのない宝もの、それは「時間が築く信頼関係」だからです。
2008
02.10

日本の歌52 ―背くらべ―

背くらべ 
  作詞:海野厚 作曲:中山晋平 大正12年『子供達の歌 第3集』に発表

1 柱のきずはをととしの
  五月五日の脊くらべ
  (チマキ)たべたべ兄さんが
  計つてくれた脊のたけ
  きのふくらべりや何のこと
  やつと羽織の紐のたけ
2 柱に凭(モタ)れりやすぐ見える
  遠いお山も脊くらべ
  雲の上まで顔 だして
  てんでに脊伸してゐても
  雪の帽子をぬいでさへ
  一はやつぱり富士の山

 この歌は、海野厚が17歳年下の弟春樹の立場になって書いたものとされている。
 東京にいて童謡などの創作活動に没頭していた海野厚は、とうとう端午の節句にも静岡県へ帰郷できぬままに2年が過ぎた。
「弟はどうしているだろうか。だいぶ大きくなっただろうなあ」という気持が傑作を生んだ。

 そもそも1番しかない状態でレコードへ吹き込む予定になっていたが、作曲家中山晋平の要請によって急遽、2番が作られたという。
 おそらくあっという間に2番が作られただろうことには驚いてしまう。
 作家から聞いた話を思い出す。
 悠然と散歩などをしながら想起した内容を書き留めているのだろうという想像とはまったく異なり、「プロは、期日までに必要なものを生み出すのです」と教えられ、職業だから言われてみれば当然ではあるが、意志によって創作ができてしまう能力には舌を巻いた。
「てんでに脊伸してゐても」などがポンと浮かぶ作家の頭脳はどうなっているのだろうか。

 さて、考えてみれば、1分かそこらで終わってしまう1番だけで吹き込もうというのも、とてつもないことである。
 海野厚は、発表される時、「場合によっては1節の歌だけで十分と思ひます」と注釈をつけたという。
 俳句や短歌というとても短い言葉の羅列によって世界をまるごと表現してしまう文化が根底にある。
 「古池や」の一句は読む日本人の誰もが納得できるはずだが、英訳された詩は、何度読んでもピンとこない。
 
 実際に俳句も作っていた海野厚は28歳で夭折した。
 当時はどこにでもあった日常生活の一こまを大傑作に結晶させた海野厚の創作魂は、今も私たちの胸で耀き続けている。

2008
02.09

芽と星

 河北新報によると、2月7日、仙台高裁は、前方不注意で70歳台の女性をはねた福島県いわき市在住の男性(25歳)へ、罰金100万円(支払えない場合は1日当たり5000円換算の労役場留置)を言い渡しました。
 地方公務員の男性は、2006年12月24日午後5時50分頃、いわき市小名浜で横断歩道を歩いていた女性をはね、意識不明の重体にさせましたが、被害者家族へ謝罪し被害の弁償にも努めていました。
 福島地裁では禁固1年(執行猶予2年)の判決が出ていましたが、地方公務員が禁固以上の刑が確定すると失職することを知った被害者家族は、男性の誠意ある行動を認めて嘆願書を作成し、それが今回の判決言い渡し直前に弁護から裁判所に提出され、減刑されたのです。

 救われたのは男性だけでなく、むしろ、被害者とその家族だったのではないでしょうか。

 ラジオで民主党の渡部恒三衆院議員(福島4区選出)の質問を聞きました。
東京都に高さ二百メートルの高層ビルが建つと、四千人もの人が住む。
 一方では、人口四千人の村が消滅へ向かっている」
「日本では、お嫁さんが看護婦、長男が役場職員として稼ぎ、親の年金をつぎ込みながら皆で田んぼを守り、山を守ってきた。
 しかし、そうした現実が無視され、稲作が見捨てられて米の値段が暴落した今、日本の米の生産高はトヨタ自動車一社の売上高と同じでしかない」

 引退間近の老政治家は、美しい山野と、水と食料の供給地である地方とを大切にしない政治に強く警告を発しました。
 
 私たちは、いのちの泉を渇らしながら、一体何を得ようとしているのでしょうか。
「日本の資源は人である」は間違いではないでしょう。
 しかし、その後に「だから、もっと先端技術分野での人材を育成することが肝要だ」と続くと、そうかなと首を傾げてしまいます。
 日本の危機は、技術競争に負けるかも知れないという面よりも、徳の衰退にこそあるように思われてなりません。
 象徴的なのが年金問題です。巨額のお金を扱う人びとの心の荒廃が無駄遣い、不明金、データ破棄、システムの不備の放置などをもたらしました。
 道義的には犯罪の域にある大事件を起こしていながら誰一人責任をとろうとしないことを見ても、荒廃ぶりは明らかです。
 
 技術は道具です。大切なのは用いる人間の心であり、それは、我欲が野放しにされている米国、そして儲け第一で後を追おうとしている中国とも共通する課題でしょう。
 私たちは人類の罪が顕わになった狂牛病をアルファベットの頭文字で言い換え、もう、あの時のショックを忘れかけています。
 自然界からの文明へ対する警告を、心が問われていることを忘れかけています。
 このままでは、子供が、そして孫が哀れです。
 改革などという軽い言葉で済ませようとせず、日本が変わり、願わくば米国にも変わってもらわねばなりません。

 冒頭の小さなできごとは、日本に希望の芽が残っていることを示しています。
 多くの人びとの心に残るよう願っています。
 また、米国大統領候補オバマ氏は、米国を変え、時代を転換させる希望の星です。
 しかし、彼が濃い悲しみの影を宿していることは心配でなりません。
 芽が育ちますよう、星が堕ちませんよう。
 寺子屋を始められますよう。
2008
02.08

予言の迷い

 早くに父親を失い、母の手一つで育てられた袁黄(エンコウ)という人がいました。
 確実に出世し収入も安定するようにと、母親は医者になるための勉強をさせていました。
 ある日、真っ白なあごひげの老人が訪ねて来て、少年へ「君はなぜそんなに熱心に勉強しているのか」と質問しました。
 理由を話すと、老人は言いました。
「そんな惜しいことをせぬよう。君は役人になればもっと出世するだろう」
 そして、役人になるための試験に、いつ何番で合格するか、いかなる出世をするか、成功した人生はどのように幕を閉じるかまでを詳細に予言しました。
 信じた袁黄は路線転換をし、すべて予言通りに進むので、「人間は運命通りに生きて死ぬものだ」と悟りました。

 ある時、出張先の寺院で会った雲谷禅師に質問されました。
「君は、年の割に人間ができているが、いかなる修行をしたのか?」
 袁黄は正直に告白しました。
「最初は医者になろうと努力してしていましたが、老人と会ってからは何もかもその通りになるので、人間は決まった運命に従って生きるものだと知り、煩悩は消えました」
 雲谷は笑いました。
「それではつまらぬではないか。
 すべてが決まっているというのであれば、釈迦孔子はなぜあれほど厳しく学び修行して聖人になられたのか。
 人間は、学び、修行してこそ、自分の目ざす人格、境地が得られる。
 人生が誰かに決められているなどという考えは、親不孝であり、人の道を知らぬ迷いでしかない」

 言葉が腑に落ちて人生の根本に思い至った袁黄が勉強をし直したところ、老人の予言はどんどん外れ、真の納得が得られるようになりました。

 運命とは、日々、自分で創り続けている人生行路です。
 命に宿っている宿命を知り、真理に導かれれば、真実に満ちた運命を生きられます。
2008
02.07

日本の歌 51 ―スキーの歌―

スキーの歌
 作詞:時雨音羽 作曲:平井康三郎 昭和17年『文部省唱歌』発表

1 山は白銀(シロガネ) 朝日を浴びて、
  すべるスキーの風切る速さ
  飛ぶは粉雪(コユキ)か 舞い立つ霧か
  お お お この身もかけるよ かける

2 真一文字に 身をおどらせて、
  さっと飛び越す飛鳥(ヒチョウ)の翼
  ぐんとせまるは、ふもとか 谷か。
  お お お たのしや 手練(シュレン)の飛躍

3 風をつんざき、左へ、右へ、
  飛べは、おどれば、流れる斜面
  空はみどりよ 大地は白よ
  お お お あの丘われらを招く


 題名には記憶がなく、どんな歌だったかなあと思いつつ歌詞を調べて驚いた。
 おそらく半世紀以上思い出したことのない歌が、するすると頭に甦った。
 記憶とは不思議なものだ。

 この歌が発表された前年、太平洋戦争が勃発しており、「母の歌」 と「スキーの歌」が明治14年以来続いてきた小学唱歌の歴史にピリオドを打った。
 3年後に日本は敗れた。
 さかんに唄われたのは、ほんの数年だったのではないか。
 もちろん、それっきりだったわけではないので戦後生まれの私もいくばくかは記憶しているのだが、この歌が百選に選ばれる時に一票を投じた人びとの気持を訊ねてみたい気がする。

 この歌には、スポーツの爽快さを超えたものが含まれていることに考えさせられる。
 あるのは、明らかに「鼓舞」である。
 野上弥生子の作った「母の歌」である。

1 母こそは 命のいずみ いとし子を 胸に抱きて ほほ笑めり
  若やかに うるわしきかな 母の姿
2 母こそは み国のちから 男の子らを いくさの庭に 遠くやり
  涙かくす 雄雄しきかな 母の姿
3 母こそは 千年(ちとせ)の光 人の世の あらん限り 地にはゆる
  天つ日なり 大いなるかな 母の姿

   
 戦後、2番の歌詞には「君が代」が含まれているという理由で歌唱を禁止されたという。
 しかし、1番と3番には観音菩薩としての母親像が耀いている。
 セットになった2つの歌に時代を考えさせられ、激流に呑み込まれてしまった宝ものを想う。
2008
02.06

日本の歌 50 ―ずいずいずっころばし―

ずいずいずっころばし
 わらべうた

 ずいずいずっころばしごまみそずい
 ちゃつぼにおわれてとっぴんしゃん
 ぬけたらどんどこしょ
 たわらのねずみがこめくってちゅう
 ちゅうちゅうちゅう
 おっとさんがよんでもおっかさんがよんでもいきっこなしよ
 いどのまわりでおちゃわんかいたのだあれ



 ずいずいずっころばし ゴマ味噌ずい
 茶壷に追われて トッピンシャン
 抜けたら ドンドコショ
 俵のねずみが米食って チュウ
 チュウ チュウ チュウ
 お父さんが呼んでも
 お母さんが呼んでも
 行きっこなあしよ
 井戸の周りで お茶碗欠いたのだあれ

 こうした脈絡のないものを子どもたちは正確に覚え、大人になっても忘れない。
 それは、リズムと旋律と一体になって身体に染みついている。
「かごめかごめ」なども同じである。
 こうした謎めいたものを解読しよとする方々がおられ、なかなか興味深い説が立てられてもいる。

 もちろん、無から有は生じないので、歌が生まれたきっかけはあり、きっかけよりも歌の持つ何かが子供の感性へうったえたからこそ、時が経っても唄い継がれているのだろう。
 今や、きっかけはきれいさっぱり忘れられ、歌詞の意味すらもほとんど理解できないが、不思議にも歌全体としては依然として子供の感性に響いている。
「先生、ここはどういう意味?」
「先生もよく解りません。ごめんね」
「ふうん」
 それでも、子どもたちは身体を揺らしながら、あるいは手を叩きながら「トッピンシャン」とやる。

 この歌は、「呪(シュ)」であろう。
 身体であると口とであると心であるとを問わず、聞く者を動かさずにはおかないからである。

 呪の極みが真言である。
 お大師様は説かれた。

四大(シダイ)のそむけるには薬を服して除き、
鬼業(キゴウ)のたたりには、呪悔(ジュカイ)をもってよく消す。
薬力は業鬼(ゴウキ)をしりぞくこと、あたわず。
呪功(ジュク)は通じて一切の病を治(ジ)す。

(肉体の病気は、薬によって治る。
 生霊・死霊や業による病気は、真言を読呪して治す。
 薬では業や鬼のもたらす病気を治せない。
 真言のはたらきは身・口・意を動かし、気功は一切の病気を治す)

 当山では、ご祈祷とご加持についてこう書いている。
「自分なりの努力をし、周囲の環境を整え、そして人智を超えた目に見えぬ尊い存在へ祈ってこそ、「万全」というものです。私たちは、み仏のいのちを分けいただいたみ仏の子であり、素直に祈れば必ずや最善の結果をいただけます。
 当山では、頭が痛いならば勢至菩薩、言葉の因縁を解きたいなら不動明王、厄年を無事に乗り切りたいなら千手観音菩薩などと、それぞれの役割を担ったみ仏のご加護をいただく守本尊法を行いますが、法の最中、皆さんと一緒に魔法のじゅうたんに乗っているような気持になる時もあります。結界の内側は、明らかに別世界なのです」
「願いに応じてみ仏から〈加〉わるお力を善男善女がしっかりと受け止め、それを〈持〉って運命転化ができるよう行う修法です。ご加持の様子は決して第三者へ見せてはならず、当事者だけの閉ざされた空間で、千年以上も受け継がれている秘法が修されます」

 印を結べばそれは秘密のはたらきを行うみ仏の姿であり、身密(シンミツ)と言う。
 呪は真言であり、それを唱えて一体となれば口密(クミツ)と言う。
 み仏の世界を観想すれば心は意密(イミツ)となる。
 釈尊もお大師様も凡夫として生まれ持った身体と言葉と意志の身・口・意(シン・ク・イ)を三密(サンミツ)にされたからこそ、法力を使えた。
 僧侶は、法力を信じ、それを身につけるために修行を行う。
 薬や手術などによって患者さんを治せると信じて医師をめざすのと同じことである。

 さて、「ずいずいずっころばし」である。
 全体として意味不明ながら、言葉の切れ目と旋律の変化がうまくマッチしており、リズムもそれをうまく支えている。
 長く残るものは土台がしっかりしていると感じざるを得ない。
 現代の流行歌(ハヤリウタ)に、言葉を五〇音の一つ一つに分解し、言葉の切れ目と旋律の変化を無関係にしてしまうものがある。
 かねて、こうしたものは全体として一種の呪であろうと考えている。
 リズムが原始的な感覚をかき立て、言葉と旋律が背景へ退いたところに一つの世界が現れる。
 かつて一世を風靡したフリージャズでは、最後は旋律だけが生きて、コードやリズムが破戒された。
 こうしたものは時代の空気に乗り、強烈な力を発揮するが、後代へ残るかどうか。

 真言は千年の時を生き続けている。
「ずいずいずっころばし」も大健闘と言うべきだろう。
2008
02.05

守本尊道場造営計画日記11 ―空也上人の阿弥陀様―

 2月4日は立春、とうとう春になりました。
 新しい春夏秋冬が始まります。
 
 真言は口から外へ出ます。
 流れる声に自分のいのちが乗り、世界へ広がります。
 一つの真言は一つの完結したものであり、蓮華とも宝珠とも、そして当然、み仏とも言えます。
 京都の六波羅密寺及び松山市の浄土寺にある空也上人像では、口から次々に現れる小さな阿弥陀如来像が目に見える形で表現されていますが、真実であると思えます。
 高野山においてお大師様が唱えられた弥勒菩薩の真言は、きっと弥勒菩薩のおられる兜卒浄土までつながり、その一本の糸に託された仏心の鼓動そのものになり切ってしまわれたのではないかと想像されます。
 即身成仏においては、姿がみ仏とみまがう様子となるだけでなく、心が澄み切ってしまうだけでなく、やはり口密(クミツ)となってはたらく言葉が欠かせないのでしょう。

 作日、寺子屋を楽しみにしておられる篤信のMさんから一通の手紙をいただきました。
「立春も過ぎ、光の春のおとずれとなりました。
 お元気でいらっしゃいますか。
 私もおかげさまで元気ですが、接骨院通いをしています。
 長い間、会員として『法楽』を購読していましたが、昨年、目の病気(ドライアイ)になり、新聞を読むのが精一杯で読書ができなくなりました。
 完治するまで『法楽』を休みたいと思います。
 忙しい日々と思いますが、ご夫婦で頑張って下さい。
 余寒の折、お体を大切にご自愛ください」
 相変わらずの美しい文字は、目に沁み、心に沁みます。
 ただただありがたく、非力を思い知らされます。

 ここまで来ると、「住職、百万返やっても伽藍ができなかったらどうするんですか?」と直球を投げ込む方もおられます。
 こんな返事をしています。
「み仏へお任せしているので、何の心配もしていません。
 そもそも、虚空蔵様は〈始まりの方〉なので、無事、満願したら次は文殊様の真言をやりましょう。
 守本尊十尊を全部唱え終わると千万返になる計算ですが、それまで生きていられるかどうか。
 暖かくなれば若い方々が手伝ってくださる予定だし、今年は、必ず、造れるものからとりかかりますよ」

「死して後、止む」と言いますが、死して後も止まないのが行者による行というものでしょう。
 釈尊は経典となる教えを説き、お大師様は真言を唱え、行じ通されました。
 意識さえはっきりしていればベッドの上でもやれることは、崖から落ちた時に運ばれた集中治療室で経験済みです。
 因があれば、果は必ず待っています。
 いつ、いかなる果となるかは、凡人の浅知恵が及ぶところではありません。
 志を保ち、ただただ、信じ、行います。

守本尊様のご供養申込数累計 118体
○唱えた真言の回数累計 551、880回
2008
02.03

千枚護摩供養会が終わりました

 おかげさまで、春祭千枚護摩供養会が、無事、終わりました。
 ご縁の方々へ心よりお礼申し上げます。
 お申し込みされた一名様一名様へ今年一年をお守りくださる守本尊様の法を結び、厄除開運を祈りました。
 太鼓に合わせ、般若心経と、不動明王のご加護をいただく慈救呪を唱え、「南無大師遍照金剛」のご宝号にしばらく浸った皆さんは、何かが抜け去ったように清々しいお顔になっておられました。

 法話は、やはり、この一年をお守りくださる千手観音様に関するものでした。
 
 千手様は、「色情因縁」による迷いや苦からお救いくださる力の強い方でもあります。
 この因縁が一種の「引力」によるものであること、は前に述べました。
 今年は、「好み」と限らず、「信頼感」や「安心感」や「頼もしさ」などから近づいてくる人、惹きつけられてくる人へ対しても、ストレートに「情」をもって当たらず、一呼吸おいて自他の様子を客観的に観察してから対処するような気持が大切です。
 その場合、力になるのが人間観察力ともいうべきものです。
 歴史に学び、賢人や親の一言に学び、友人の進言などへ謙虚に耳を傾けたりしていれば、それが養われます。
 私たちは自分の心のフィルターを通してしか周囲を見られまませんが、こうした姿勢によって、フィルターに宿る我(ガ)の色を薄めておくことがこの因縁に負けない方法の一つです。

 今年の春祭の厄除お守は、大人用として錫杖の置物、子供用として八方除のカード型お守です。
 それぞれ小さなものですが、六道の迷いを祓う錫杖が自他の迷いを除けるよう、また八方からの方災を除けるよう、法を結びました。
 明日から始まる新たな春夏秋冬がすばらしい一年になりますよう。 合掌

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2008
02.02

ケヤキ板

 夕刻、百万返の行が折り返し点を通過したことに鑑み、お堂へ額をかけるようにとケヤキの板をいただきました。
 ちょうど明日が千枚護摩の日なので、しっかりと清め、来週にでも揮毫します。
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 ところで、昨夜、昭和天皇の夢を見ました。
 真正面に立たれ、口ではしゃべらずにご意向を伝えてこられ、テレパシーとはかくなるものかと深く納得できました。
「思いの通る世の中にせよ」
 実に昭和天皇らしい、短く区切られたフレーズです。
 これがいかなる意味なのか、そう遠くない時期に判ることでしょう。

 何としても、釈尊お大師様のお力が強力にはたらく〈〉のような場を造らねばなりません。
 
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