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2008
03.31

行者の心得 その1

1 隠形流居合は身体全体を用いて行うヨガであり、大きくうねる能力を創ります。
 それに密教の印明が加われば精妙な能力が創られ、行の目的は達成されます。
 ヨガは鍛える練行、印明を伴って本行になります。
 これが老若男女を問わず実践できる理由であり、根本は守本尊法です。
 昔は、武道者の多くが神社などで願をかけて難行に励んだものです。
 身体は親から授かったものであり、技も誠心と工夫によって仏神から授かりますが、自分の決心なくして人間性の完成をめざす菩提心(ボダイシン)に生きることはできません。
 守本尊様に帰依し、霊性を高める修行に励みましょう。

2 守本尊様と一体になる修行は、身心を整えてから行いましょう。
 寝不足で頭がボンヤリしていたり、不摂生で体調が狂っていたりしては、形をなぞるだけになってしまいます。
 たとえ頑健な身体でなくとも、きちんと自分管理を行い心を定めてから行えば良いのです。
 まじめに準備し、心を清浄で偏らない状態にすれば、必ず守本尊様のお力をいただけます。

3 偏食は行者の敵です。
 自分の好みでしか食べなければ、私たちを養ってくれるいのちの世界と円満な感応ができません。
 それは、文殊菩薩のおられる東へは行くが、不動明王のおられる西へは足が向かないというのと同じです。
 偏りを離れ、小さな分別を離れて大きく和する心になれば、八方天地十方世界と感応し、能力が開発されます。
 もしも、やむを得ぬ身体的条件のある方は、その部分を守る守本尊様のお力をいただいて補いながら進みましょう。

4 すべての始まりは善悪の区別です。
 ものごとの始まりを司る鬼門、北東におられる虚空蔵菩薩は、是非・善悪・虚実を見極める智慧の力を授けてくださいます。
 居合も虚空蔵菩薩の剣から始まります。
 善悪の判断を第一とし、十尊の十力(ジュウリキ)を学んで第十までの智慧を円満に磨き、和の世界を創るのが当流です。
 この「和」こそが、あらゆる財物の中で最上のものです。
 だから、極楽とは、和が平らかに実現されている「平和な世界」なのです。
 ただし、これがすべてではありません。
 心の世界が見たり聞いたりして動く表面の五つだけでなく、自分という意識があり、潜在意識や深層意識があり、そして仏心の世界へ入る扉があるように、心の修行は無限です。
「この神様だけで良い」「この仏様だけで良い」「この経典だけで良い」という姿勢は、根本的に「和」と反するものです。
 円満に学び、和し、らせん階段を登るように無限の向上を続けたいものです。

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2008
03.30

『夢慧(ユメサト)、抒情歌を唄う』の曲目が決まりました

 櫻井恵武氏が撮られた善通寺の愛染明王像との出会いは、同氏からいただいたDVDで夢慧氏が唄う『君と遊ぶ時』との出会いにつながり、今回のコンサートに結実しました。
 愛染明王様は、執着心として動くいのちのエネルギーが仏心によって動くよう導いてくださいます。
『君と遊ぶ時』に込められた地・水・火・風・空・識の「六大」はお大師様によって提唱され、この世にある徳のすべてを表しています。
 尊い仏縁に、ただただ感謝するのみです。

 夢慧氏の歌声は、私たちの心の底を流れている清流と響き合い、心の奥にともる燈火を耀かせます。
 そこには「潤い」があり「清め」があり、「慰め」と「励まし」があります。
 耳をかたむけている時、私たちはみ仏になっているのかも知れません。

 寺子屋の理想は、子供たちが霊性を発揮して生きるよう手助けをすることです。
 慈悲の清流が爽やかに流れ、智慧の燈火が明るく広がれば、子どもたちが担う未来は安心です。
 コンサートに集う方々、そして仏縁につながる方々へみ仏のご加護がありますよう、願ってやみません。

第一部

1 真白き富士の峰
   作詞:三角錫子 作曲:ガードン
2 花嫁人形
   作詞:蕗谷虹児 作曲者:杉山長谷夫
3 月の砂漠
   作詞:加藤まさお 作曲:佐々木すぐる
4 ゴンドラの唄
   作詞:吉井勇 作曲:中山晋平
5 初恋
   作詞:島崎藤村 作曲:夢慧
6 夜の白鳥
   作詞:西條八十 作曲:夢慧
7 青葉城恋歌
   作詞:星間船一 作曲:さとう宗幸
8 荒城の月
   作詞土井晩翠 作曲:瀧廉太郎
9 君と遊ぶ時
   作詞作曲:小椋佳

第二部

1 無縁坂
   作詞作曲:さだまさし
2 母さんの唄
   作詞作曲:窪田聡
3 里の秋
   作詞:斎藤信夫 作曲:海沼実
4 長崎の鐘
   作詞:サトウハチロー 作曲:古関祐而
5 想いさくら
   作詞作曲:夢慧
6 千の風になって
   作詞作曲:新井満
7 愛燦燦
   作詞作曲:小椋佳
8 川の流れのように
   作詞:秋元康 作曲:見岳章
9 風を見つめて
   作詞作曲:夢慧

2008
03.30

海の死

 3月28日、アメリカ海洋大気局とハワイ大学は、海の砂漠化が進んでいるという研究結果を発表しました。
 太平洋と大西洋では、すでに約2割(アメリカ国土の約5倍に匹敵する面積)が植物プランクトンのはたらけない死の海となり、この傾向は今後も進むとみられます。
 死に神に犯される進行速度は、北大西洋で年間4・3パーセント、北太平洋で年間2・2パーセントという恐るべきものです。
 この現象は、地球温暖化によって海水温が上昇し、海に降る雨の量が多くなると海の表層水と深層水が混ざりにくくなり、その結果、植物プランクトンが深層水に含まれる栄養分を採れないために減少することによって起こります。
 植物プランクトンが死ねばそれを食物とする動物プランクトンも生きられず、生態系が崩壊して海は生きものの暮らせない死の海となります。
 海に棲む生きものたちは、故郷である深海の恵みを受けられなくなりつつありますが、それは人間もまた故郷(発祥の地)である海の恵みを受けられなくなることであり、
 原因が地上でただ一種、自然の摂理に逆らう存在である人間のしわざであるとは、何と恐ろしいことでしょうか。

 2002年、ノーベル化学賞を受賞した田中耕一氏は、博士の学位どころか修士の学位も専門職学位もなく、そうした学位を持たずにノーベル化学賞を受賞した初めての人でした。
 当時、現場で生きたい田中氏は島津製作所の係長にとどまっており、ノーベル賞受賞に伴って会社が提示した役員待遇を断ったため、待遇を上げた上で現場に留まれる「フェロー」という職制が新たに創設されました。
 一連の報道に接し、「日本人ここにあり!」と快哉を叫びたい気持になったことを今も鮮明に覚えています。

 お大師様は、大僧都(ダイソウヅ)のまま生涯を終えられました。
 朝廷をも指導するほどの力量を持っていながら僧正にならなかった理由は、僧正(ソウジョウ…僧都の上で、最高位)になれば宮中にある内道場という皇族の祈祷所を担当することになり、京を離れられなくなるためであったと思われます。
 高野山において、禅定(ゼンジョウ)という瞑想だけでなく、三昧(サンマイ)という即身成仏法の中に入る修行を極め、行者たちをも指導しようとしていたお大師様は、ずっと高野山を気にかけておられました。
 即身成仏法をもって四恩に応え、大日如来の顕す自然へ溶け込みたいと願っていたお大師様の思いは「吾れ永く山へ帰らん」の一句に凝縮されています。
 入定後20年が経ち、功績に報いないでいられない朝廷は、大僧正の位を贈りました。
 お大師様が僧都にとどまられたのは、僧階を欲しがったり、競ったり、誇ったりするような僧侶たちへの永遠の戒めでもあると考えたいものです。

 環境破壊は、私たちがつくる悪しき共業(グウゴウ)の最たるものです。
 共業を清め地球を守るためには、私たちが、田中耕一氏やお大師様のような「自他のために持てる力を最大限に発揮しながら生きることのみを求め、余分な名誉や財物や境遇といったものを求めない」心になることではないでしょうか。
 皆がその心で生き、衣食住を営むようになれば、地球は清新ないのちの息吹を吹きかえすのではないでしょうか。
2008
03.29

4月の守本尊様

 今月(4月4日より5月4日まで)の守本尊は普賢菩薩様です。
『諸善解脱三昧智力(ショゼンゲダツサンマイチリキ)』という、煩悩による苦を解決し、心の平穏を保つための道筋を知る智慧をつかさどるみ仏です。
 煩悩は、自分を迷わせるだけでなく、他からの邪魔を受ける具体的な魔ものとなって、いざ何かをしようとする時に、思わぬ妨げとなります。
 正しい方法によって自分を清め、周囲を清め、魔を祓いましょう。

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2008
03.29

4月の真言

 4月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

普賢菩薩(フゲンボサツ) 

「おん さんまや さとばん」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます

※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2008
03.29

チベットへの祈り

 居合の稽古を終えて帰山し、遅い夕食にとりかかった午後10時前後、テレビに流れるチベットの様子に凍りついてしまいました。
 ようやく現地入りした外国メディアの人びとを前にした僧侶たちのうち数人が、突然、泣きながら叫びだしたのです。
「全部、嘘だ!観光客は皆、中国の役人たちです!」
「欲しいのは自由です!私たちはここから出られません」
 町から実際の住民が排除され、観光客でにぎわっているかに見える寺院もまた仮構されたものであるとは、なんと恐ろしいことでしょうか。
 このままでは、彼らは発狂するのではないでしょうか。

 事件の発生以来、チベットではただちに血の粛正が行われて元気の良いチベット人たちはトラックで隔離され、多くはこっそり殺されたに違いないと推察していましたが、それは確信に変わりました。
 僧侶たちは、「記者が無事に帰ったなら、お前たちは当分ここにおいてやる。もし、何かあったらどうなるか、解っているだろうな」と恫喝されていたに違いありません。
 僧侶でなかったならば、あのようにいのちがけで真実を話すことはできなかったことでしょう。
 実際、続いて放映された場面では、みすぼらしいチベット人が「まちがっていました。先生」と、そばで警戒する中国人を怖れ、おどおどしながら語らせられていました。
 僧侶たちの涙の訴えは、文字通り、いのちがけの直訴でした。
 国際社会は、これからくり返し彼らの身の安全を確認できるよう、ただちに中国政府へ申し入れねばなりません。
 さもないと、テレビに映った僧侶たちは拉致され、処刑されるに決まっています。
 もう、手遅れになっているやも知れませんが………。

 民族が千年の単位で大切に守り伝えてきた伝統文化とその中核になっている宗教が踏みにじられ、チベット人すべてが精神的に窒息させられそうになっているだけでなく、神聖な寺院が外貨獲得をもくろむ中国人によって観光地となり、行者である僧侶は見世物に堕とされました。
 このような国にオリンピックを開催する資格がありましょうか。
 国政を司り、文化とスポーツを司る方々には、しっかり考えていただきたいものです。

 市井の私たちは祈りましょう。
 彼らが救われ、人間としての尊厳をとり戻せるよう、ダライ・ラマ法皇が安全に帰国できるよう、そして、チベットが伝統文化の花を咲かせ続けられる国として自立できるよう。
 祈りましょう。
2008
03.28

平成20年4月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 4月の運勢です。

 万事、ものごとのまとめ方や決着のつけ方が吉凶を分けます。
 むろん、きちんとしてから次の段階へ進まねばなりませんが、あまり杓子定規にやろうとすると窮屈になり、発展を損なうやも知れません。
 原理原則を尊びながらも、慈悲心から流れ出る柔らかな道理の感覚をもって行動を定めたいものです。
 原理がぶつかり合う状況を、古人は「水火相逮(アイオヨ)ぼす」と表現しました。
 水がその性を主張すれば火は消され、火がその性を主張すれば水は蒸発してしまいます。
 火事などの場合はそうした「克する」関係が上手に利用されますが、普段は、双方の徳をバランス良く用いて湯を沸かし、ものを煮ます。
 考えましょう。

 さて、今月は、完成と無常と、両方を観る機会が増えましょう。
 学ぶべきポイントは二つです。
 もしも盛運にあるならば、「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の かけたることも なしと思へば」の藤原道長でなく、平家物語の「おごれる者も久しからず」に学び、謙虚に過ごし、無常への準備を怠らぬことです。
 もしも衰運にあるならば、「上がらぬ雨はない」と腹をくくりましょう。
 そして、苦境に押しつぶされる恐怖に呑まれず、アメーバが栄養となるものを取り込むように、苦を包み込んで人生の肥やしにするイメージで克服したいものです。

[布施行と運勢]
 精進の人は困難に遭っても動じないで最善を尽くせます。
 不精進の人は、焦って新しいことに走り、足腰も気力もついてゆけない危険性があります。
※布施行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」

[持戒行と運勢]
 精進の人は他人の苦にからめとられません。
 不精進の人は、強気になっても相棒に力がなく失敗する危険性があります。
※持戒行を護る菩薩様の真言
「おん しら だりじ ばぎゃばてい うん きゃく」

[忍辱(ニンニク)行と運勢]
 精進の人は無益に動かず、危険は早く察知できます。
 不精進の人は、動く時をまちがい、自分で困難を招いてしまう危険性があります。
※忍辱行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」

[精進行と運勢]
 精進の人は思い切ってものごとを革められましょう。
 不精進の人は、浅知恵で動いてしまい、不測の事態に遭った時、「火に油を注いでしまう」危険性があります。
※精進行を護る菩薩様の真言
「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」

[禅定行と運勢]
 精進の人は肝胆相照らす相手と知り合うかも知れません。
 不精進の人は、強気で覇道を進み、高く飛びすぎて墜落したイカロスになる危険性があります。
※禅定行を護る菩薩様の真言
「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」

[智慧行と運勢]
 精進の人は信頼できる人と憩いの場を築けましょう。
 不精進の人は、無軌道やなれ合いによって災いの大火を起こす危険性があります。
※智慧行を護る菩薩様の真言
「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」

 自分が「この面は弱いな」と思う方は、それぞれの菩薩様の真言を唱えながら無事安全に過ごし、開運してください。
 皆さんの開運を祈っています。

2008
03.28

4月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

○今月の第一例祭 4月6日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

○今月の第二例祭 4月19日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。
2008
03.28

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。教材は最も古い経典とされる『法句経』などです。身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成20年4月8日(水)午前10時より12時まで
       平成20年4月22日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター
2008
03.28

厚い恵みの恐ろしさ

 お大師様は「生死(ショウジ)のめぐみ厚きを恐る」と説かれました。
 手厚い保護を受けている弟子たちは、行者として大丈夫だろうかと心配しておられるのです。
 高野山を拓くために尽力しておられたお大師様(50歳)が、天下の布教所となった京都の東寺(教王護国寺)にいる弟子たちを諭したものであり、決して忘れられない一節です。
 
 当時の僧侶は公務員であり、国粮(コクロウ…国による生活の保障)を頼りにして生活し、活動していました。
 収入を求めなくて良い境遇は、修行者にとって大変ありがたいものである一方、何をやって過ごしても日々、生きられる環境は、たやすく人間を堕落させます。
 ちなみに、チャップリンの『街の灯』に登場する上流階級の男性は豪邸に住み、高級車を乗り回し、飲み放題、食べ放題、やり放題の生活で己を失い、時折自殺願望が頭をもたげていました。
 お大師様は、都の華やかな空気の中で、天皇も帰依する大寺院で寝起きする弟子たちが行者として堕落することを恐れ、「できることらば、公食(コウショク…国から与えられる食い扶持)を止めてもらいたい」とまで述べておられます。

 そして、一文を「教えに従って修行する身は、水と野菜など粗末なものを摂り、ぼろ布をまとっても生きられる。そうして得た法力の功徳をもって国の恩に応えたい」と結んでいます。
「厚いめぐみ」などなくとも、行者は生きられます。
 お大師様は、常に、衣をまとう者として本ものであるかどうかを厳しく己へ問い、弟子たちへ問うておられたのでしょう。
「自分は清浄か。仏縁にすがる人を救える法力があるか」

 冒頭の一節は、ひとり行者だけでなく、より安定した生活を望む娑婆の方々にとっても必ず必要な自戒の言葉です。
 親が汗水垂らして得た家にのんびりと住み続ける若者が多くなった今の時代、特に求められる視点ではないでしょうか。
 
2008
03.27

日本の歌 60 ―月の砂漠―

月の沙漠
  作詞:加藤まさを 作曲佐々木すぐる 大正12年3月『少女倶楽部』

 1.月の沙漠をはるばると
   旅のらくだが行きました
   金と銀との鞍置いて
   二つならんで行きました

 2.金の鞍には銀のかめ
   銀の鞍には金のかめ
   二つのかめはそれぞれに
   ひもで結んでありました

 3.さきの鞍には王子さま
   あとの鞍にはお姫さま
   乗った二人はおそろいの
   白い上着を着てました

 4.広い沙漠をひとすじに
   二人はどこへ行くのでしょう
   おぼろにけぶる月の夜を
   対のらくだはとぼとぼと

    砂丘をこえて行きました
    黙ってこえて行きました


 この歌ほど子供ごころを遠くへ遊ばせた歌はない。
 また、この歌によって女性への憧れがつくられたと言っても過言ではない。

 白い上着をはおったお姫様が少し後からついてくる。
 従っているだけではなく、ただ一人、眉を上げて前方を見すえ、すべてをかけて示す道を信じて、ただ一人、同じ道を歩んでくれている。
 自分は、この女性の人生へ全面的な責任を負っている。
 また、女性はただ従っているだけではなく自分を見守ってくれてもいる。
 眼前の茫漠とした砂漠に一筋の道を見つけながら歩むことができるのは、この女性の「信頼」という視線があるからである。

 母は、前にいて、あるいはやや上にいて、あるいは下から包んでくれる。
 懐へ抱き寄せてくれる。
 しかし、お姫様はちがう。
 過保護ぎみなほど私を守ってくれた母からの自立は、この歌のイメージによってなされたのかも知れないと思っている。
 
 男性が前、女性が後という形は男尊女卑だと柳眉を逆立てる向きもあろうが、男女は身体全体も脳のはたらきも違うこと、自然に天地があること、徳はイメージによって活き活きとはたらくことを指摘するのみにしておきたい。
 隠形流居合の行者は現在、女性の方が多く、同じ行によって修行を重ねても、男女それぞれなりに輝きを増している。
 とても嬉しい。
 
 4月26日、当山で行う『夢慧(ユメサト)抒情歌を唄う』において、夢慧氏の絶唱をお聴きいただく予定である。
 『少女倶楽部』に発表された秀歌は、ただ女の子に夢を与えるだけでなく、男の子へも憧れを抱かせ自覚を持たせる大傑作であることがお解りいただけることだろう。
 一人でも多くの方々に聴いていただけるよう願ってやまない。
2008
03.26

思いを断ち切るお焚き上げ

 東京から帰山したところ、小さな茶封筒と紙包みが届いていました。
 奥さんのいる男性Wさんからのご依頼は、棄てきれずにいた手作りの御守をお焚き上げして欲しいとのことです。
 10年前に別れた彼女からもらった思い出の品なので、どうしてもゴミとして処分する気にはなれなかったそうです。
 そして、彼女もすでに幸せな家庭を築いており、お焚き上げの修法をもって「彼女への思いも断ち切って欲しい」と綴られていました。
 美しい心を大切にし、心の込められたものを大切にし、そして、きちんとけじめをつけながら前へ進もうとする、そうした方の願いにお応えできれば寺院として本望です。

 こうしたご縁につながるネットの発達はまことにありがたく、智慧の持つ可能性が無限であることをあらためて実感させられました。
 
 Wさん。
 これから修法します。
 返事の出しようはありませんが、法力はきっと貴男の心へ届き、いつであれ、手を合わせられれば心に清浄な風が流れることでしょう。
2008
03.25

元ヒューザー社長小嶋進氏へ判決がおりました

 3月25日、午前10時から、東京地裁にて、元ヒューザー社長小嶋進氏の判決がありました。
 バラ色のテープでしきられた通路で、傍聴券を求めて並んでいる人びとの目に街路樹の緑が美しく見え、総大理石貼りの無機質な空間にいることを忘れさせます。
 もしかするとクジ引きになるのかなあと思いながら1時間前に駆けつけたところ、7番目に並ぶことができ、事件の風化を知りました。
 前の方に並んでいる人たちは誰しもが影法師のようにひっそりと立ち、はしゃいでいるかのような女性たちの声も混じってガヤガヤとうるさいのは、後の方です。

 持ちもの検査が終わり、向かって右手にある被告席とおぼしき長椅子の前、結界をはさんだところにある最前列のイスに腰かけて開廷を待ちました。
 6人の弁護士を伴い、コートを手にし、グレーのスーツ姿で入廷した小嶋氏はかなり痩せた様子。
 案の定、目の前に坐りました。
 まっすぐに小嶋氏の横顔を見ることになりましたが、もちろん、私の視線は裁判長へ向けられています。

 裁判長に呼ばれて正面に立った小嶋氏へ、主文が読み上げられました。
「懲役3年、執行猶予5年」
 2度告げられた小嶋氏はイスへ戻り、約1時間、詳細な内容をじっと聞き入っていました。
 強い意図をもって行おうとしたのではないが、結果的に詐欺行為を行ったと認定されましたが、表情には何の変化もなく、弁護側も静まりかえったままでした。
 裁判官は、思考猶予となった理由について「犯した罪は軽くないが、被害者という面もある。会社も個人も破産を申し立てられ、報道などによって会的制裁も受けていると指摘しました。
 しかし、詐欺行為があったかどうかだけに絞った判決であり、その他の弁護側の主張は「理由がない」と退けられました。
 小嶋氏を被害者にした最大の問題である「『何もかも民営化しよう!』の原理主義でチェックをすべて民間へ委託し、ずさんな審査で検査済証を乱発させるに至った国策の誤り」については一言も触れられませんでした。
 よく調べれば、全国至るところで「ミニ姉歯」的行為が発覚するはずです。
 実際、不動産のプロの間では、「ある一定期間に建てられたマンションは買わない方が良い」と囁かれているそうです。
 しかし、国土交通省は、これから被害者が出るかも知れないにもかかわらず、これまで発行された検査済証の再チェックなどを行うことなく、一気に基準を厳しくしました。
 幕引きを急いだのです。
 そのおかげで今度は土地の取得から建物の販売までの流れが極端に悪くなり、政府がさかんに好景気ですよ叫んでいるにもかかわらず、住宅業者やマンション業者には倒産も出始めています。
 明らかな国策の誤りを誰も糾せず、政治家も官僚も誰一人責任を明確にすることなく小嶋氏だけを血祭りに上げて一件落着というのでは、やりきれません。

 最後にもう一度小嶋氏が呼ばれて立ち、量刑を確認させられて閉廷となりました。
 その瞬間、衛視が結界の前に現れ、退廷してくださいと促します。
 お弔いのおりに司会者からお焼香を早くするように急かされるのと同じかと考えながら、踵を返しました。
 小嶋氏は無言でうなだれたままでした。
 
 ところで、上京する新幹線の中で読んだ本に、密教の精髄について書かれた古い文献が紹介されていました。
 当然、絶版になっています。
 裁判所を後にしたなら一目散に帰山せねばなりませんが、なぜか足は八重洲口の『ブックセンター』へ向かっていました。
 エスカレーターで着いた四階のほぼ正面に小さな仏教関係の新刊書コーナーがあり、小走りに駆け寄った視線のやや斜め下に、その文献が待っていました。
 万人に一人も読まないはずの専門書が、65年ぶりに再版されたばかりだったのです。
 お導きくださったお大師様と虚空蔵菩薩様へ合掌してから、恭しくおし頂きました。
 光景を目にした人は、さぞやびっくりしたことでしょう。
 
 小嶋氏は「右手でつかんだ財物は、左手で使わないと腐る」という信念を持ち、親兄弟を思い、故郷を思い、御霊を思ってさまざまな陰徳を積んでおられます。
 こうしたご加護が信徒小嶋氏へももたらされるよう、祈る思いでこの文章を書いています。
 新幹線は、もうすぐ福島県へ入ります。
 さあ、気合を入れて読まねばなりません。
2008
03.23

卯月(四月)の俳句

 信徒総代鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の俳句です。鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。掲載が月遅れになる場合があります)

季の移る跫音たしか二月尽(ニガツジン)

 立春は二月四日だが、寒さはまだまだ続き、「いつまでも寒いですねえ」が挨拶代わりとなる如月の一ヶ月が尽きる頃、ようやく水も温み、フキノトウがコンニチワとばかり、頭をもたげる。冬は確かに足音を立てて過ぎてゆく。まさに、「確か」にである。

空しさは云わず一輪落椿

 空しさについて口にないと断言するのは、そうたやすいことではない。作者の場合、覚悟が控えていなければ詠まないからである。椿はまだ紅いままポロリと落ちてしまっていて無常を示してはいるが、枝にあった時と同じく紅色を保っている様子に、一種の潔さのようなものを感じておられるのではなかろうか。心の背筋が常にピンとしているところは、作者の真骨頂である。

猫共にほほけて一ト日よ春炬燵

「ほほける」は「呆ける」である。厳寒での炬燵は、縮こまって何とか寒さをしのごうとする人を救う命綱である。しかし、温もりが感じられる頃にあってのそれは、ほっとできる憩いの場所となる。人間にとっても猫にとっても、至福の時が流れている。

青き踏む足うらにやさし温き土

「青踏」という季語がある。晩春、ヨモギなど緑色(青)のものたちが地を覆いフカフカになった上を歩き、花やクローバーを摘んで遊ぶことである。植物たちの勢いを足裏で感じ、その年の豊作などを占ったことに発しているという。主として乙女たちの遊びである。
ちなみに、明治四十四年に発刊された『青鞜』は、十八世紀のイギリスで、因習に縛られない生き方を求める女性を「ブルー・ストッキング」と呼んだことに由来する。平塚雷鳥の名高い文を書いておこう。
「元始 女性は実に太陽であった 真正の人であった 今女性は月である 他に依って生き他の光によって輝く病人のような蒼白い顔の月である 私共は隠されて仕舞った我が太陽を今や取り戻さねばならぬ」

ものの芽を育てる風よ日の光よ

 薄いカーテンを透過してくる春の陽光は、なぜか冬の光と違う。カーテンは揺らす微風は、私たちに拒否されていた北風と違い、歓迎される。光も風も温もりの中にあり、動き始めたいのちたちを励ます。「風よ、育くめ、光よ、伸ばせ、さあ、時はやってきたのだ」

鳶舞ふやとびきり空の青き朝
ぽっかりと綿雲浮かぶ水温む
鳶の輪や蒼天に描き春うらら
過き行くはなべていとしや春の風
鶯のひと声延びぬケキョケキョと


2008
03.23

守本尊道場造営計画日記14 ―五官―

 3月20日は春分でした。
 
 求聞持法(グモンジホウ)は実に単純な行為のくり返しです。
 身体は印を結んで虚空蔵菩薩の像を観たまま動かず、口は一種類の真言をくり返し、意識は観想を保ったままです。
 前後には多少さまざまな修法が入っても、百万返を目ざす行為そのものは決して複雑なものではありません。

 しかし、経典によれば、虚空蔵菩薩は

「諸魔外道(ゲドウ)を降伏(ゴウブク)せんがためのゆえに、邪心を廻(カエ)して正見を得せしめる」

(霊性の光を発揮させないさまざまな魔ものや道理に反する道へ誘うものを成敗するために、人びとの邪心を本来の仏心へと還らせ、正しい見解を持てるようにする)
お力を発揮されます。
 また、

「憂いの箭(ヤ)を被る衆生は悉く憂い無きを得、三塗(サンズ)に堕せる衆生は、光の身に触るるを蒙(コウム)り一切の苦を除き、身心快楽(ケラク)ならしめる」

(刺さった憂いという抜きがたい矢が心に刺さった人からは、矢を抜いて苦を除き、貪り、怒り、愚かな考えにとりつかれている人へは仏光を当てて苦を除き、身心が自在にはたらくようにする)
とされています。

「心の闇が払われて正見がはたらき、迷いが去って自在に生きられるようになる」
 単純な行為を根気よくくり返すことによって、虚空蔵菩薩がこうした世界へ誘ってくださるとは、何とありがたいことでしょうか。
 もちろん、救いは行者にのみ待っているのではありません。
 教えを学び、真言や経典を読誦し、写経や写仏にいそしみ、尊像へ至心に合掌し、あるいはご本尊様のために奉仕活動をしたり、何かを捧げたりするすべての人びとがこの道を歩けるのです。

「単純化」というキーワードを考えていたところ、ヘレンケラーの写真が発見されたという記事に接しました。
 視力と聴力を失い、話すこともできない三重苦の障害を負った8歳の少女へ、アン・サリバン先生が人形を持たせ、「DOLL(人形)」という文字を教えています。
 二人の神々しい姿に打たれ、学生時代、田舎町のアパートで窓へ黒いカーテンをかけてじっと動かず、見ざる聞かざる言わざるの行をした時のことを思い出しました。
 結局、何ら得るものもなく、迷いの淵へ舞い戻っただけでした。
 しかし、二人の聖者は、五官の中でもっともはたらく二つを用いないまま、しかも会話を交わすことなく、清浄な霊性の光に生きる道を見いだしました。

 昨夜は、映画「四国八十八ヵ所の秘仏」と「街の灯」の鑑賞会を行いました。
 黙していながら合掌する者を優しく包んでくださる秘仏に涙し、声を用いずに画面だけで心を表現するチャップリンに驚嘆しました。
 声だけでなく、チャップリンの顔にはほとんど表情がありません。
 その無表情と突っ張ったように不自然な動きだけで観客を笑わせます。
 しかも、脳裏に残る印象的な場面を思い出す時、喜劇に隠されていた強烈な風刺に気づかされます。
 決して悪意ではないながら、チャップリンをもて遊ぶかのように振る舞う男性は、上流社会の退廃を象徴しています。
 パーティーの乱痴気騒ぎの最中、チャップリンが小さな笛を呑み込んでしまってシャックリが止まらず、「ピー」「ピー」と喉の奥で鳴らすしかなくなったのは、まっとうな人間が起こしたアレルギー症状でしょう。
 一旦、会場を離れたチャップリンが、笛の音に集まった犬や猫を連れて会場へ舞い戻り、パーティーがメチャメチャになったのは、自然を離れた文明の虚構性と脆弱さを表現していました。

○守本尊様のご供養申込数累計  127体
○唱えた真言の回数累計  711、720回
2008
03.22

【現代の偉人伝】第五十六話 ―国宝の流出を阻止した人―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

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 3月18日、クリスティーズで注目の競売が行われ、国宝クラスの一品は無事、海外へ流出せずに済んだ。
 日本人は恥をかかずに済んだ。
 快哉を叫びたい。

 出品されたのは、北関東地方在住の美術品収集家が所有する鎌倉時代の仏師運慶作と見られる「木造大日如来坐像」である。
 落札価格は2億円程度と予想されていたが、実際は約12億5000万円だった。
 落札者は三越であり、国内の顧客からの依頼によると発表されたが、今後の展示や一般公開などの予定はないという。
 渡海文部科学相の談話である。
「わが国の貴重な文化財が海外に流出しなかったことに安堵している。今後、この仏像が適切な環境の下で保管され、多くの方々に公開されることを期待する」

 まさに安堵したが、成り行きには大いに不満がある。
 そもそも、所有者は、平成14年に東京国立博物館が鑑定し運慶作であろうと判断した時、自分が持っているには荷が重すぎるとして文化庁に引き取りを依頼したという。
 ところが価格の折り合いがつかず、文化庁は文化財指定を検討したにとどまった。
 重荷を下ろすことが叶わぬ所有者は競売にかける以外、方法がなくなった。
 約1万3千人もの足利市民たちが海外流出防止を訴える署名を集めたが、文部科学省は受け入れなかった。
 
 事前に報道された落札予想価格を知った時、それを蹴った文部科学省の判断に「何を考えているのか」と憤激してしまった。
 生命保険も、福袋も、天下りの官僚が手にする退職金も、マンションも1億円があたりまえになった今の時代、これだけの「国の宝」へ1億円や2億円を国が投じられないはずはない。
 もちろん、灯油代を気遣いながら生きている身にとって億のお金は途方もないものだが、子孫へ残す国の宝ものの対価としては、何ら驚くべき水準ではない。
 私などは、「本当にこんな価格で落札されるのか?」といぶかったほどである。
 10億を超えたのは当然である。
 遙かな峯のように屹立する運慶が彫った根本仏大日如来である。
 しかも、内部には秘法が結んであるに違いない五輪塔の形をした木札や水晶の玉が納められている。
 価値が判らなかったのか、国宝の流出を黙認する恥ずかしさはないのか。
 もはや、「何を考えているのか」というしかない。

 さて、この件をとりあげたのは、もちろん、落札者を称賛しないではいられないからである。
 江戸時代に世界最高水準にあったとされる日本の文化がレベルダウンしていると評されて久しいが、ここで国宝を確保できないようでは、「ことここに至れり」だった。

 ところで、財欲が煩悩(ボンノウ)の一つとされているのは、我がために「もっと、もっと」と果てしなく欲しがり、我がモノを「惜しい」と他のために手放せない執着心が自他を苦しめる迷いだからである。
 財物そのものに穢れはなく、財物を敵視するのもまた、自分の執着心をモノのせいにする煩悩である。
 モノを手放せば煩悩がなくなるように言うのは、本人がものごとを他のせいにする心や自分の困窮を自己弁護する心を持っているか、もしくは、モノを巻き上げたい下心を持っているか、あるいは単純に勘違いしているかである。
 もちろん、何かを手放すのがモノへの執着心を克服するための一方法であるのは理解できるが、決して、「敵であるモノを手放せば良い」のではない。
 だからこそ、聖徳太子は、裕福な維摩居士(ユイマコジ)が文殊菩薩などと丁々発止のやりとりをする『維摩経(ユイマキョウ)をもって、国を導く経典と定められたのである。
 当然、財物は、無いよりもあった方が良い。
 今回の一件でも明らかなように、自他のために役立つからである。
 畢竟、問題はどう用いるか、その心である。
 財物を敵視してはならない。

 三越への落札依頼者は、日本を恥さらしにしなかった。
 大欲(タイヨク)と言いたい。

※この文章を書いた後で、文部科学省は買値4億円を提示し、持ち主は8億円を要求していたらしいとの報道があった。
 それにしても、オークションが始まって数分も経たぬうちにセリ値が10億円を突破し、手数料を含めて14億円を支払う買い主はとても喜んでいたと聞けば、文部科学省の判断は甘かったと言えるのではなかろうか。
 

2008
03.21

彼岸供養会が終わりました

 おかげさまにて、とどこおりなく彼岸供養会を終了しました。
 ご参詣の方々が心を込めた真言の読誦が優に一時間を超え、小さな本堂は極楽浄土になりました。
 法話は、「真言の力」です。

 今日、私たちが祈っている間も、チベットでは、僧侶や若者たちが中国の軍隊と警察によって次々に連行され、秘密の収容所へ送られていることでしょう。
 どれだけの人びとが抹殺されつつあるか見当もつきません。

 一昨日、ある新聞に、ラサ市でタクシーの運転手をしている中国人男性の話が、小さな記事として掲載されました。
 武装警察とみられる部隊が中心部の住宅を一軒づつ廻り、人びとが「トラックの荷台に家畜が放り込まれるように」乗せられ、連れ去られたというのです。
 悪寒が走りました。
 以前、上映会を行ったドキュメンタリー映画『チベット チベット』で、中国軍がチベットへ侵略した際の様子が、まったく同じ表現によって証言されていたからです。
 中国政府は、強硬手段をとっていないと表明していますが、装甲車はもちろん、映画のヒーローのように完全武装をした警察官らが大量に投入され、外国メディア関係者を閉め出した地域は、地獄と化していないなどと信じられましょうか。

 1950年、チベットを侵略した中国は、「チベットへ行くなら解放してやる」と言って囚人たちを送り込み、半世紀以上にわたって敬虔な仏教徒たちの国を蹂躙してきました。
 そこで生まれ、育ち、あるいは各地へ散った若者たちが、ダライ・ラマの説く「非暴力」に共鳴しつつも、「もはやこれまで」と腹をくくって立ち上がったのでしょう。
 そして、かつて猛威をふるった文化大革命のおり、毛沢東の思想を受け容れないからといって子供が親の髪の毛をつかんで町中を引きずり回し、密告された人が突然姿を消した状況と同じく、思想と暴力による弾圧を受けているのでしょう。
 それは、私たちの想像をはるかに超えているに違いありません。
 
 東へ伝わった密教は日本で洗練され、北へ伝わった密教はチベットで洗練されました。
 日本において行者も導師も行う五体投地は、チベットにおいてさかんに実践され、大地へ五体を投げだしては立ち上がり、また投げだして尺取り虫のように寺院をめざす人びとの姿は、強く訴えかけるものがあります。
 み仏へ帰依し、み仏と一体になるために唱える真言は世界のどこでも共通しており、私たちが唱えた真言は、ダライ・ラマの肖像画さえも掲げられない圧政の下で、密かに信仰の燈火を燃やし続ける人びとの真言と響き合い、眼に見えぬ力となっていることでしょう。
 お大師様は

「真言は不思議である。
 よく学びきちんと唱えれば無明を除いてくれる。
 たった一文字にも無限の理を含み、唱えるその身はそのままに仏であることを実証する」

と説かれました。
「一字に千理を含む」の教えは、「一字が千里をも超えて真実世界を現す」ことでもありましょう。

 共に唱えた真言は、み仏を供養し、御霊を供養したばかりではなく、チベットの人びとをも供養しました。
 これからも、遙かな地で虐げられている人びとへのみ仏のご加護を願い、至心に唱えましょう。
2008
03.20

小さきもの ―福寿草―

 この花を知ったのは、托鉢を初めてからです。
 一方的に「知った」というよりは「知り合った」といった方が適切でしょうか。
 何かしら語りかけてくるものがあり、眼にすると、必ず立ち止まらされます。

 人間と稲はDNAの40パーセントを共有しているという説があり、とても納得できます。
 以前、このブログで、ある実験結果について書いたことがありました。
 小さなエビを熱湯へ入れようとすると、部屋にある植物に著しい電気的変化が起こります。
 それは、エビの発する危険信号を植物がキャッチするとしか考えようがないそうです。

 昨日、寺子屋の理想について取材を受け、「霊性と感性を育てたい」と答えました。
 子どもたちには、仏性と潤いを持った生きものとして活き活きと成長してもらいたいからです。
 福寿草の発しているものに感じ、福寿草へ語りかける若者に育ってもらいたいと、切に願っています。

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2008
03.19

NHK文化講座「生活と仏法」講義録11 ―淵に入る―

「生活と仏法」においてとりあげた経文です。

静かに智慧を思い、反(カエ)って淵に入って其(ソノ)明(ミョウ)を棄猗(キイ)せず ―法句経―

(心静かに、無限の思いやりから生ずるみ仏のお智慧を思い、迷いの淵である世間にあってもその智慧を棄てない)

 釈尊は、み仏の智慧がいかなるものであるかをよく学び、心の底から納得できるまで復習を重ねるよう指導されたのでしょう。
 そして、忘れてならないのは、たとえ苦を克服する境地を得ても、一人でそれに憩うていてはならないということです。
 もちろん、「我がため」を競う世渡りの技術へ走り、自他を救う大切な境地を棄ててもなりません。
 学ぶのも、修行するのも、唯一の目的は「自他の苦を除いて共に救われる」ことにあります。

 宮沢賢治は、亡くなる4年前、『疾中』を綴りました。

われやがて死なん
今日又は明日

あたらしくまたわれは何かを考える
われとは畢竟(ヒッキョウ)法則以外の何ものでもない

からだは骨や血や肉や
それらは結局さまざまな分子で
幾十種かの原子の結合
原子は結局真空の一体
外界もまたしかり
われが身と外界とをしかく感じ
これらの物質諸種に働く
その法則をわれと云ふ

われ死して真空に帰するや
ふたたびわれと感ずるや
ともにあるのは法則のみ

その本源の法の名を妙法蓮華経と名づくといへり
そのこと人に菩提(ボダイ)の心あるを以って菩薩(ボサツ)と信ず
菩薩を信じることを以って仏を信ず
諸仏無数而も仏もまた法なり

諸仏の本源の法これ妙法蓮華経なり
帰命妙法蓮華経
生もこれ妙法
死もこれ妙法
今身より仏身に至るまでよく持ち奉る

 あの『雨ニモマケズ』はこうした菩薩の信念によるものでした。
 人には必ず、み仏から分けいただいた仏心があり、宮沢賢治は「人に菩提の心ある」と信じました。
 いのちと共にその満月を持って生まれ出ながら、過去の因業という群雲が光を遮る場面もあります。
 迷いの淵では光がチラチラと明滅し、禍福があざなえる縄のようにからみ合いながら運命を創り、人は笑い、泣いて一生を終えます。
 菩薩は、「そんなものさ」と高見の見物を決め込むことはできません。
 なぜなら、この世で流される涙は自分の涙だからです。
 宮沢賢治が
「ヒデリノトキハナミダヲナガシ」
と流す涙は、万人のものです。
「東ニ病気ノ子供アレバ 行ツテ看病シテヤリ」
と書く時、「行ツテ看病シテ」やらないではいられないのが菩薩です。

 私たちは、本来、菩薩です。
 そのことに気づき、あるいは思い出しさえすれば、この世は大欲(タイヨク)と大安楽に満ちた極楽浄土、密厳国土になります。
 み仏は、そのことをはっきりと約束しておられます。
 学び、実践しましょう。
2008
03.18

枕をおさえる

 宮本武蔵は『五輪書(ゴリンノショ)』に書きました。

 枕をおさゆるといふは、我(ワレ)実(マコト)の道を得て敵にかゝるあふ時、敵何ごとにてもおもふ気ざしを、敵のせぬ内に見知りて、敵のうつといふうつのうの字のかしらをおさへて、跡をさせざる心、是枕をおさゆる心也

(「枕を抑える」とは、こういうことである。
 私が兵法を会得した自覚があってから、敵と渡り合う場面では、相手が自分の意図する動きに入らぬうちにそれを察知し、相手がこちらを打(ウ)とうとする「う」の字の瞬間、こちらの技をもって制圧してしまい、相手の意図する動きを事前に封じる心がはたらくようになった。
 これが「枕を抑える」という心である)

 最も上手のする事は、緩々(ユルユル)と見へて、間のぬけざる所也。
 諸事しつけたるもののする事は、いそがしく見えざる物也

(最も上達した者がふるう剣は、ゆったりしているように見えながら、描くべき軌跡をきちんと作って動き、隙がない。
 何ごとにつけても、熟練した者の行うことは、こせこせチマチマしていないものである)

 はやくいそぐ心わろし。
 枕をおさゆるといふ心にては、少しもおそき事はなき也。
 亦(マタ)人のむさとはやき事などには、そむくといひて、静かになり、人につかざる所肝要なり。

(早く早くと急ぐのは悪い心である。
 枕を抑えるという心ができていれば、何ごとにつけても遅れをとるものではない。
 また、人がやたらと急ぐ場合などは、あえて平静になり、他人の動きに引きずられないことが肝要である)

 宮本武蔵は、枕の抑えについて
「このようにはたらく心をつくれば、敵を打っても吉(ヨシ)、敵の懐へ飛び込んでも吉(ヨシ)、打ちかかってくる剣を外しても吉(ヨシ)、先手を打っても構わない。
 どのような場面でも自在に対処できる。
 よくよく鍛錬せよ」
と念を押しています。

 こうも書きました。
「深い道理をつかもうとして朝から夕まで鍛錬してみた結果、五十歳の頃、いつの間にか兵法の神髄を会得していた。
 その後は、さらに奧へ進む道はなくなり、日々が過ぎている」
 バッハとベートーベンの違いは、泉と奔流に例えられましょうか。
 目に見えぬ深層海流があってはじめて親潮や黒潮が生じ、マグロやイワシが生命の饗宴を演じられます。
「最奧」の境地はこうした「最深」の境地でもありましょう。

 それにしても考えさせられるのは、確かに「そうか!」「そうだったのか……」と解る瞬間はあるものですが、それは、そうした形で「気づいた」ということであって、達成は知らぬ間になされていたということです。
 もしも、宮本武蔵が階段を一段づつ登るように同じテンポで上達していたのであれば、未熟な時点できっと上手(ウワテ)の相手に負けていたはずです。
 求道のどこかで、異次元へワープしてしまうような飛躍があったに違いありません。
 飛躍の前に凄腕の兵法者との勝負がやってこなかったことは、彼の強運でしょう。
 飛躍の後は上達とはいっても異次元にあるステージ上のできごとであり、そのステージを知らぬ兵法者は束になってかかっても勝負にならなかったと推測されます。

 異次元の存在をありありとを感じさせ、天皇すらもひれ伏さないではいられなかったお大師様の修法。
 宮本武蔵の達した次元に思いを馳せる時、一気にステージを替える「即身成仏」法に入っておられるお大師様のお姿がだぶります。
2008
03.17

『この声が枯れるまで』 ―ケータイ小説を読む―

 渾身込めて書かれた「愛」と「信」が、まるでサイダーかシャンペンを飲むかのようにすうっと心へ入ってきます。
 若い方々なら、定めしコーラか酎ハイといったところでしょうか。
 何気なく読めて、ふんわりしたものが残り、心地好い。
 こうした小説は、気持をストレートにぶつける歌や、枠を取り払ったファッションや、奔放な劇画などとあいまって現代日本の文化を彩っています。

 人がどんどんバラバラになり、自己防衛の感覚を保たなければ安全な日常生活が成り立たなくなりつつある社会。
 あらゆる方面で心の箍(タガ)が外れ、どこでどのような事故や事件が起こっても不思議ではなくなりつつある社会。
 国が国民へ行う約束が紙切れほどの信頼性しかなくなりつつある社会。
 行く先に不透明感が増しているからこそ、人びとは信頼や奇跡を信じようとするのでしょうか。

「自慢のパパ」・「自慢のママ」がいる家、信じられる友人、新たな出会い、過去と現在を結ぶ奇跡、そして恋。
 ここには希望のすべてがあるようです。

運命は必ずある。
あなたと出逢ったのも運命。
パパとママの子供に生まれてきたのも運命。

この声が枯れるまで、
私はあなたの名前を呼び続けるの。

愛しい、あなたの名を…永遠に。

作歌「ゆき」さんは、またもやこんな「あとがき」を書きました。

みなさんには幸せになってもらいたい。

『叶うと思ったら叶う。叶わないと思ったら叶わない』


私は日々強くなっていきます。

今も…笑顔で生活をしています。
これもみなさまのおかげです。

本当にありがとうございました。


 人間と人間関係に繊細な感性と情緒と智慧をはたらかせ、感謝と励ましを交わしつつ生きる若者たちへ拍手を送りたいと思います。
2008
03.17

映画『チベット チベット』上映会

 ある日、在日韓国人三世金森太郎(金昇龍)さんは、「国とは何か、自分とは何者か」を知ろうと、世界一週の旅へ出ました。
 途中、亡命者となりながらもチベットと世界の平和を説いてやまないダライ・ラマ法王への10日間にわたる同行取材を行い、さらに混迷の地チベットへとカメラを廻します。
 チベットへ混乱をもたらしたものと、相手を区別しない慈悲を説くダライ・ラマ法王とを描く迫真のドキュメンタリー映画です。
 
開催日……4月5日(土)
場所………仙台市青葉区『旭ヶ丘青年文化センター・エッグホール』
次第………午後2時     開場
       午後2時15分  上映開始
       午後3時40分  法話『ダライ・ラマ法皇とお会いして』・質疑応答
       午後4時30分  解散
参加費……無料
定員………50名(電話やメールやファクスでお申し込みください)
主催者……大師山法楽寺 TEL022(346)2106・FAX022(346)2107

 チベットの人びとは敬虔な仏教徒であり、若いうちから死後の準備をし、穏和な文化を創ってきました。
 最高指導者ダライ・ラマ法王は、「互いを認め合う」ことが平和の礎であると説かれます。
 多くの方々に真実を知っていただきたいと願っています。
2008
03.16

ああ、チベット ―暴動に涙―

 一昨年の12月、当山では、映画「チベット チベット」の鑑賞会を開きました。
 その折りに書いた文章を再掲します。

 たくさんの善男善女が集まられ、映画『チベット チベット』の鑑賞会が終わりました。

 中国軍による国家破壊のすさまじさを物語るシーンには、想像を絶するものがありました。
 人々の心のよりどころであった寺院の僧侶たちは次々に銃座で殴り倒され、血まみれのまま手足を縛られ、一・ニ・三といったかけ声と共にトラックの荷台へ積み上げられて、どこかへ運ばれました。
 観光資源として役に立つ寺院は軍が支配し、その他の寺院は廃墟と化しました。
 侵攻後の5年間で、120万人のチベット人が虐殺などで消えました。
 中国軍人や監獄から解き放たれた犯罪者たちが続々と平和な国へ送り込まれた結果、侵攻前はいなかったチベット人の物乞いが都会に溢れ、主人公となった中国人たちは犬猫を相手にするように貧しい人々を追い払います。
 そして、こうした事実は、チベットから離れた地域に暮らす中国人たちには、ほとんど知られていません。

 いつの世も、絶対的な権力を握ろうとする者が目の敵にするのは宗教です。
 目に見える行動は恫喝で抑えられても、心の中のありようは支配できないからです。
 しかし、権力者は、それを容認できません。
 必ず、弾圧しようとします。

 西洋諸国が軍隊と聖書で世界を制覇しようとしたのと同じく、国家神道を柱にして国を強くし西洋列強に対抗しようとした日本もまた、内にあっては廃仏毀釈で伝統仏教を破壊し、侵略したアジア諸国では同化政策によって固有の文化や宗教の日本化を計りました。

 ダライ・ラマ法王は説きます。
「お互いの宗教や心を尊び合い、相手を選ばずに思いやりを施そうではないか」 より多くの人々がこの映画を観てチベットの現実を直視し、それは決して「他人ごと」ではないことに気づいていただきたいと、心から願ってやみません。


 中国は、軍隊を後ろ盾にして囚人たちを送り込み、仏教をより所として暮らす平和な国を奪い取りました。
 権力と金力になびかぬ善良な人々は次々に社会的立場も財産も奪われ、中国では罪人だった人びとが社会の王となりました。
 寺院は観光資源として残され、軍の管理の下で収入源としての価値しか認められず、僧侶たちは、聖なる世界を己一心の中にしか実現できなくなりました。
 僧侶たちも、「死者の書」を奉ずるチベット人も、ダライ・ラマ方法の教えに従い、ならず者たちを許しつつ心の自立を保たねばならないのです。
 共産主義者や権力主義者や唯物論者の命令に従って日々を暮らす人びとの心は、想像するだに哀れでなりません。
 
 今回起こった暴動現場の写真に写っているチベットの人びとは、いずれも貧しさを漂わせています。
 地上に数少ない敬虔な仏教国で何が行われてきたかがよく解るのではないでしょうか。

 こうした蛮行を続ける国の指導者たちを目覚めさせるには、今回の「毒入り餃子事件」へ賢い消費者たちが敏感に対応したとおり、まずは、中国産のモノを買わないことです。
 圧政者の用いるモノ・金・恫喝に屈せず、正義を実現する方法は、ガンジーによってお手本が示されています。
 世界中の一人一人が「非暴力」「不服従」の範囲内で強い力を発揮することは充分に可能なのです。
 もちろん、チベットでは、僧侶たちをはじめとしてこれまでずうっとそうした行動が行われてきたのでしょう。
 しかし、中国の圧力は、もう、チベット人全体を押しつぶすところまで来ているに相違ありません。
 チベットの悲劇は、私たち地球で息をしているすべての人びとの問題です。
 日本政府は、中国政府に対してチベットの現状に関する情報公開を求めるべきです。
 国連は、チベットにおける人権侵害についての調査を行わねばなりません。

 一人一人の強い意志による断固とした行動が世界を動かします。
 一人一人が人の道に基づく善なる業を重ねれば、社会や地球の悪しき共業(グウゴウ)を清めることができます。
 国を奪われ、文化を奪われ、いのちまでも奪われつつあるチベットの人びとを救いましょう。
2008
03.15

五体投地

 五体投地(ゴタイトウチ)というものがあります。
 み仏へ向かって右膝、左膝、右肘、左肘、頭頂の順に地へ投げだしながらひれ伏し、立ち上がっては同じ動作をくり返す祈り方です。
 以前、チベットの「死者の書」が注目を浴びた頃、テレビで何度も何度も放映されました。
 あの世を信じ死を懼れない敬虔な人びとは、寺院を目ざして尺取り虫のように進みます。
 スピードを競い、成果を急ぐ私たちの文明が忘れかけているものを考えさせる光景でした。

 僧侶の位が上がって高い修法壇へ登るようになると、柄香炉(エゴウロ)というものを手にして礼拝するようになりますが、私は、ほとんどの場合、五体投地を行います。
 最後に頭を地へこすりつけ、両手を頭より高く上げてみ仏のみ足をいただく時、心の底から懺悔の思いが起こります。
 一人で修法する場合などは、しばし、この姿勢のままでいたりします。

 五体は、地・水・火・風・空の五輪です。
 地なる骨格、水なる血、火なる体温、風なる呼吸、空なるバランスによって成り立つ愚かな己のすべてを擲(ナゲウ)って仏界の五輪に一致させ、み仏の五智をいただくのです。
 三度行うのは、仏部、蓮華部、金剛部のマンダラへ帰依するからであり、これによって、清らかな菩提心(ボダイシン)ガ集まる「蓮華部のマンダラ」、我を離れた智慧が集まる「金剛部のマンダラ」、そして、それが如来として一体になった「仏部のマンダラ」におわす諸尊がご守護くださいます。
 隠形流居合で「ア・バン・ウン」と魔切りの剣をふるうのは、三部のマンダラにおわすみ仏と行者との間で障害となるものを断つ修法でもあります。

 み仏へ帰依する以上、五体投地の心を忘れないようにしたいと願っています。
2008
03.14

善意の危うさ ―新東京銀行―

 新東京銀行の破綻は起こるべくして起こったとしか言いようがありません。
 平成16年の発足時、経営者の方々と話し合う機会があり、私は言いました。
「この計画は詐欺師たちを喜ばせるようなものです。成り立つんでしょうか?」
 かつて修羅場をくぐった経験上、世間には善意やお人好しを喰いものにし、弱点や好みや名誉欲につけ入ろうとする人びとがいることを知っていたからです。
 そうした悪事をなりわいとする人びとの狡知は、善人の想像できる範囲を遙かに超えています。
 なにしろ毎日のように喫茶店などに集まり、あるいは飲み屋でふざけながら獲物に結びつく情報を探り合い、早く見つけた者は抜け駆けを狙い、後から見つけた者は横取りを狙う。
 たとえ仲間であろうと、騙した方が勝ち、騙された方は負けるだけ。
 必要とあらば誰であろうと恫喝し、逃げるならば地球の果てまでも逃げてしまう。
 こうした人びとに普通の役人が太刀打ちできるはずはありません。
 無担保・無保証の融資は、詐欺師たちにとって夢のような千載一遇のチャンスだったのです。

 また、担当者たちが貸出額を競ったという点も、危うい一線を越えさせる結果を招いたと言えましょう。
 理念は「人助け」であり、それは結構です。
 しかし、その量を競えば、もう、人助けではなく、自分のための行為です。

 融資申込者に危険性を感じた時、優秀な担当者は「危ないかな」と思ったはずです。
 しかし、融資は人助けという御旗に飾られており、しかも、貸せば自分の収入に結びつきます。(貸し付け実績に応じて200万円にも及ぶ報奨金が出ていました)
 御旗を言いわけにして我欲を隠し、エイヤッと判を押すたった一回の行為が、自己欺瞞という泥沼へ踏みこませます。
 後は数字が積み重なって評価され、賞められるだけであり、融資先の破綻という不安は相対的に小さくなり、意識の底へ追いやられます。
 しかし、一見、優秀な仕事ぶりは、所詮、砂上の楼閣でしかありません。
 いつかは小さな不安が大きな魔ものとして担当者を破滅させます。
 もちろん、運の巡り合わせによっては、うまく責任回避ができる人もいることでしょう。
 しかし、欺瞞は自分自身が知っており、いずれにしても、善意が欺瞞に終わることに変わりはありません。
 こうした成り行きは、手に取るように解ります。

 もしかすると、石原都知事の脳裏には、平成18年にノーベル平和賞を受賞したバングラデシュのグラミン銀行があったのかも知れません。
 夢へ手を貸そうとする志は高く、評価せねばなりませんが、経営陣を含め、早く規模を膨らませて目に見える業績を作りたいという姿勢が失敗へのきっかけだったのではないでしょうか。
 いざとなればいくらでもつぎ込める、いくらでも集められるという過信もあったのでしょう。

 こうなってみるまでもなく、たとえ融資残高がなかなか増えず、やっと担当者の給与が支払えるような業績しか得られなくとも、コツコツやるしかまっとうな方法はなかったはずです。
 そもそも、善意は、コツコツと実践されるべきものです。
 実践者が集まっていかなる規模になるかは、成り行きに任せるのが自然です。
 善意は評価を競う時点で堕落し、たやすく欺瞞を招きます。
 利益を求めず私財を用いて新東京銀行の理念を受け継ぐ人びとの登場が待たれます。

 ちなみに、グラミン銀行は、株主の93パーセントが借り手、7パーセントは政府です。
 だから、資金は貧しい人びとのためにのみ使われ、借り手はしっかり返済し、規模は自然に拡大しました。
 サブプライムローン問題で揺れるアメリカへ進出するようですが、どうなることでしょうか。

(なお、本稿は、借り手がすべて詐欺的行為をしていると主張するものではありません。
 当然、まっとうな融資により発展したまっとうな企業の方が多く、銀行は一定の役割を果たしつつあるのでしょうが、一度も返済しない融資先が百社近くあるということを見ても、意図的に銀行の資金が奪われた例が多数あっただろうことはまごうことなき事実です)

2008
03.13

私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか 2

 私たちは、誰かを、あるいは何かを心の底から愛おしいと思う時、哀しみややるせなさが伴うものです。
 それは、思いはつながっていても個体として離れているという事実がもよおさせる情感なのでしょう。
 前回「私たちは何者なのか、どこへ向かうべきか」に書いたとおり、私たちの根本的なありようが「ままならないという苦を抱えた病人」であると気づかれた釈尊の心には、涙の雨が降っていたのではないでしょうか。

 経典は、釈尊が降魔成道(ゴウマジョウドウ…魔ものたちの妨害をはね返して悟りを開いたこと)をなし遂げた際の力強い様子と、その後に訪れた法楽の世界を説いていますが、み仏の境地に達した釈尊の心がただただ五月晴れだったとはとうてい想像できません。
 一点の曇もない心の鏡にありありと映った人間も生きものも野山も、愛おしく、かつ、哀しかったことでしょう。
「苦」という言葉の裏には「嗚呼(アア)」という慨嘆が感じられてなりません。

 み仏の教えを学ぶ時は、経典にある言葉を私たちの日常生活にそのままあてはめて表面的な判断をしないよう、気をつけたいものです。
 経典にあるのは凡夫の言葉ではなく、み仏の言葉だからです。
 苦の問題についても、「苦があると言ったって楽もあるだろう」「苦楽いろいろで構わないさ」などと上辺だけで判断してしまえば、み仏の次元をかいま見ることはできません。
 苦へ立ち向かう勇猛心は湧いてきません。
 言葉を何度も咀嚼し、言葉に表現されている心をおもんばかりましょう。
 そうすれば、言葉の奧に広がる世界への扉が静かに開く瞬間がやってきます。
 経典や真言の読誦、あるいは写経も、そして瞑想もその手段です。
 
 み仏の眼から観た私たちが病人であり、その原因も明らかであるならば、私たちはいかに生きるべきでしょうか。
 希望へ向かって生きるために必要なのは何でしょうか。
 嬉しく潤いを得られる人間関係、楽しい家庭、やりがいのある仕事、安定した毎日の土台は何でしょうか。

「解消されない不満、やり場のない怒りや怨み、空しい愚痴、これらを離れた活き活きし揺るがない心の状態」


 これが人生という絵を描くための白いカンバスであり、演奏会が始まる前の会場の静寂であり、誤りのない決断を生む落ち着きをもたらすものです。
「貪・瞋・癡(トン・ジン・チ)の三毒を離れること」
 ここに立脚しない限り、まっとうな人生は歩めません。

 苦を観て原因を突きつめ渇愛をつかんだ釈尊は、原因があって結果があるならば、原因となっているものを取り除けば、望まぬ結果はもたらされないと悟り、一人一人が貪ったり、怒ったり、愚かな考えを持ったりしなくなれば、「ままならない」という心の覆いも人間同士のぶつかり合いも解消されると確信しました。
 その方法が八正道です。
(悟った釈尊の最初に知った内容が正しい生き方、つまり八正道だったという説もありますが、前後はどのようであっても、「苦・集・滅・道」の四諦の中のことです)

 さて、誰しも自分を中心にして「~しよう」と考え、行動します。
 狭い道路へ向かい合うように車が進入すれば身動きがとれなくなってしまうのと同じく、自己中心と自己中心がぶつかり合えば、トラブルにならざるを得ません。
 この状況を克服するには、いつでも、どこでも、どちらへ向かっても決してぶつからない通行にならねばなりませんが、それは、自分一人では達成できません。
 しかし、自分から始めない限り永遠にトラブルは解消されません。
 この状況を頭で考えただけでは、「自分が道を譲っても、自分が損をするだけだ」「皆が譲り合うようになることなどあり得ない」となり、実践できない可能性があります。
 せっかく釈尊が苦を脱する八正道を示されても、実践されない限り宝の持ち腐れになってしまいます。
 ここを突破する方法をもって最終回とします。
2008
03.12

私たちは何者なのか、どこへ向かうべきなのか

 仏法は何であるかと問うならば、答は
「私たちは何者であるか、どこへ向かうべきかを教え、導くものである」
となりましょう。
 社会が新年度へ入る時期に際し、三回にわたり、その内容をかいつまんで記します。

 釈尊は、悲喜こもごもの人間を観て深い哀れみと悲しみとを感じられました。
 それは、誰しもがままならず、苦しんでいるからです。
 釈尊は、私たちの存在を「ままならないという苦を抱えた病人」と喝破されました。
 病人といっても、寝てばかりいるわけではありません。
 元気に走り回る場合もあり、笑ったり泣いたりしているのですが、そのありよう全体が苦という定めにからめとられており、カラリと解放されていないのです。
 それは、単に、事実としてどうであるかという問題ではなく、喜怒哀楽を見せながら生きている人間の存在に顕れている真実が、釈尊の魂の鏡へはっきりと映ったということでありましょう。

 釈尊は、あらゆる方面からそのありようを確かめました。

 生も苦である。
 老も苦である。
 病も苦である。
 死も苦である。
 憎い人と出会うのも苦である。
 愛する人と別れるのも苦である。
 求めて得られないのも苦である。
 とらわれを離れられない身心があるのも苦である。


 こうした病気の原因はどこにあるのでしょう。
 釈尊は、自分自身の心に病気を引きおこす毒があると気づかれました。

 欲しい・惜しいと貪ってやまない欲。
 驕り高ぶり、意にそわぬものにガマンできず爆発する怒り。
 道理に合わぬ自分勝手な考え方から離れられない愚かさ。


 私たちの心にはこうした毒を生み出してしまう根源的・盲目的な欲求があります。
 意識を持った生命体としての「生」にぴったりと貼りついている「いつも自分を第一にしないではいられない欲求」。
 釈尊が渇愛(カツアイ…喉が渇いた時に水を求めるような欲求)と呼ばれた欲求です。

 現代のようにあらゆる立場、あらゆる職業、あらゆる階層の人びとが渇愛を解き放った時代はなかったと思われます。
 はやり言葉のように「ジコチュウ」と軽々しく言われている現状は深刻であり、どの方面を観ても、世の中全体が無慈悲な方向へと進んでいることは確かです。

 これまで幾度となくこうした教えについて書いてきました。
 仏法に何かの手がかりを求めようとする方は、ここまでの土台について、よくよく考えていただきたいと思います。
 根本的なものは、意外と単純な姿をしており、「ああ、そうか」と解ったような気になって流してしまえばそれまでです。
 たとえば「愛する人と別れるのも苦である」という指摘一つをとってみても、自分に起こったこと、起こり得ること、周囲の人びとに起こっていること、起こり得ること、マスコミの情報で知ったこと、あるいは、イラクやパレスチナやボツワナなどで戦争のために絶え間なく人びとが斃れつつあること。
 こうした場面を具体的に想像し、その気持をおもんばかるならば、釈尊が説かれた「苦」の真実が腑に落ちることでしょう。
 思いやりに裏打ちされた想像力を枯渇させる「ジコチュウ」こそが万人にとって最も恐ろしい魔ものであることに、深く思い至るのではないでしょうか。
2008
03.11

日本の歌 59 ―チューリップ―

チューリップ
  作詞:近藤宮子 作曲:井上武士 昭和7年文部省唱歌として発表

1 さいた さいた チューリップの花が
  ならんだ ならんだ あか しろ きいろ
  どの花見ても きれいだな

2 ゆれる ゆれる チューリップの花が
  風にゆれて にこにこ 笑う
  どの花見ても かわいいな

3 風にゆれる チューリップの花に
  とぶよ とぶよ ちょうちょが とぶよ
  ちょうちょと花と 遊んでる

 この歌を唄っている児童は、どの子も可愛さ全開といった表情になる。
 極めて単純な歌詞と曲だが、群を抜いた独自性がある。
 
 一番では、「赤い!」「白い!」「黄色い!」「ああ、きれいだな」と、色の鮮やかさに目を奪われ、心の窓が開け放たれている。
 二番では、揺れている様子を笑っていると感じ、「ああ、可愛いな」と、情が流れ出している。
 三判では、潤った心に、花と虫の遊ぶ世界が映り、自分もその仲間に加わっている。

 この素直さは、技術からは出てこない。
 作詞者近藤宮子は、父親が国文学者、母親が音楽教師という家庭で育った専業主婦である。
 夫は東京音楽学校(後の東京芸術大学音楽学部)講師・国文学者。
 宮子は、たった1ヶ月の間に「オウマ」「こいのぼり」など10編を作歌し、すべてが幼稚園唱歌として採用された。
 生まれと育ちの因縁を想う。

 当時はこうした歌が無名著作物として公表されることが多く、1940年代後半になると日本音楽著作権協会の活動とあいまって作者が名乗り出る風潮となったが、宮子は黙していた。
 1960年代に著作権の改正問題がクローズアップされ、他人が作詞者を名乗って登録した。
 やがて真の作詞者が近藤宮子ではないかとの記事が新聞に掲載されるに至って、宮子はついに重い腰を上げ、裁判となった。
 1983年。76歳だった。
 1993年、勝訴し、名曲は出自が確定した。

 こうした成り行きがあっても、歌の持つ清らかさ、豊かな潤い、無邪気さは、いささかも損なわれない。
 回るミラーボールは、観客の目に見えない裏側でも同じように光っている。
 横変死(オウヘンシ…不慮の事故や事件や災難などで亡くなること)した御霊を導く観音様は十一面観音である。
 今日も、悲喜こもごもと起こる人の世のどこかで、児童たちは目を輝かせながらこの歌を唄っていることだろう。
2008
03.11

幸せをもたらす五種供養 ―五輪と供養―

 今回は、み仏を供養してご加護をいただくための「願(ガン)」について記します。
 地・水・火・風・空の五輪に合わせて、どのように願をかければ良いか。

1 花を捧げるのは「地」の徳をいただく供養法です。
 大地のように堅固な身体と生活の根である家庭の安定を願いましょう。
 体調不良が続いたり、家庭生活に波風が立ったりしたなら、この供養法で修行しましょう。
 ※忍辱行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うん はった」
 
2 水やお茶などを捧げるのは「水」の徳をいただく供養法です。
 水が入れ物に合わせて姿を変えるように、人間関係を含めた環境に適応した生き方ができることを願いましょう。
 環境とうまくやれないなら、この供養法で修行しましょう。
 ※布施行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい だのう じはてい びしゃりじゃ ほらや だなん そわか」

3 灯明を捧げるのは「火」の徳をいただく供養法です。
 マッチの火で灯明を点すように、み仏の智慧を分けいただくことを願いましょう。
 もっと智慧があればと願うならば、この供養法で修行しましょう。
 ※智慧行を護る菩薩様の真言
 「おん ちしり しゅろた びじゃえい そわか」

4 供物を捧げるのは「風」の徳をいただく供養法です。
 心の塵を吹き払って清らかな人間になることを願いましょう。
 悪縁を祓ったり、過去の因縁から脱したいならば、この供養法で修行しましょう。
 ※禅定行を護る菩薩様の真言
 「おん ばぎゃばてい さらば ばんぱかりに まかなちえい うん うん うん はった」

5 線香を捧げるのは「空」の徳をいただく供養法です。
 線香が燃え尽きた後も佳い香りが漂うように、子孫や後の世代へ徳の香りを残すことを願いましょう。
 未来へ良きものや善きものを残したいならば、この供養法で修行しましょう。
 ※精進行を護る菩薩様の真言
 「おん びりやきゃり うん びりえい びりえい そわか」

 このように、五種供養は、五輪の徳をいただく供養法でもあります。
 願をかける皆さんに幸せがもたらされますよう。

2008
03.10

運命転化法13 ―何かが希望を邪魔する時は―

 運気の流れがおかしいなと思った時は、『大日経』の説く四魔にやられている場合があります。
 魔ものは自他の心に住み、運勢に作用して苦をもたらします。

1 煩悩魔
 この魔ものが活躍すれば、「五欲」がむき出しのままで暴れます。

 意志を実現させ、生活に安定と安全をもたらすべき「財欲」は、奪い、奢り、品格を失わせる醜い力になります。
 恥を忘れず矜持を大切にし、社会貢献の機会を大きくする「名誉欲」は、勲章を誇り、他を見下す醜い力になります。
 子孫を繁栄させ、人生を彩る「色欲」は、生活に乱れと破壊と転落をもたらす醜い力になります。
 活力と身心の安寧をもたらす「食欲」は、節制を忘れさせ、身心に病気をもたらす醜い力になります。
 生命力を回復させ、精神を健全にはらたかせる「睡眠欲」は、怠惰をもたらす醜い力になります。

2 天魔
 この魔ものが活躍すれば、「幸せつぶし」が行われます。
「他人の不幸は蜜の味」というとんでもない言葉がありますが、こうした暗いものが心のどこかに潜んでいることは確かです。
 自分は他人と異なっているからこそ自分だという「自分らしさ」の意識がある一方で、周囲の人びとや周囲の生活や周囲の環境と同じだからという安心感もあるものです。
 この安心感は無意識にはたらいており、誰かが急に上昇を始めると敏感に反応し、悪口を言ったり邪魔をしたくなったりします。

3 死魔
 この魔ものが活躍すれば、夢は色あせます。
 私たちは死へ向かって生きている存在ですが、そのことを「知りつつ、程ほどに忘れている」のが健全な精神というものです。
 忘れ過ぎていれば我欲の虜になり、品位が失われます。
 釈尊は『法句経』において、その醜さをくり返し説いておられます。
 一方、意識させ過ぎるのが死魔のしわざであり、生きる力を害します。

4 蘊魔(ウンマ)
 この魔ものが活躍すれば、能力が発揮できなくなります。

 陰魔(オンマ)とも称されるとおり、運勢を陰の方向へ導き、意欲を歪ませます。
 一方、歪んだエネルギーが溜まると思いもよらない形で暴発し、自他を破滅させたりもします。
 校長先生が生徒へセックスを迫ったり、生徒が学校へ殺人予告をしたり、迷惑メールをばらまいたりといった行動は、この魔ものの仕業です。

 み仏は私たちを魔ものから救うため、守本尊として不断にはたらいておられ、それを「獅子奮迅(シシフンジン)」と言います。
 魔ものに負けないためには、教えを学び実践し、仏神のご加護をいただき、周囲へ良き縁を招き寄せることです。
 ご加護をお求めの場合は、守本尊法によるご加持やご祈祷によって魔切を行います。

 春になると特にはたらくのが煩悩魔です。
 やられないように気をつけましょう。

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