--
--.--

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

2008
04.30

食欲の問題

 拒食過食など、食欲の問題に悩んでいる方々がおられます。
 決して望んだわけではないのに、コントロールできず苦しんでおられます。
 場合によっては長期間にわたって自分との闘いが続くケースも珍しくはありません。

 直接、身心に法を受けるご加持が有効ですが、ご来山できない場合は、遠隔法が可能です。
 その場合、できることなら、真言を唱えることをお勧めします。
 ご加持において「加わる」のはみ仏の大きな慈悲であり、それを受けて「持つ」のは信心という清らかな心だからです。
 せっかくみ仏のお慈悲が陽光となって降りそそいでも、受ける心が波立っていたり、心の鏡が汚れていたりしたのでは、きちんといただくことができません。

 信心とは、特定のみ仏を無理に拝むことではありません。
 心にもないことをして結果を求めるのは、「はからい」の世界では有効であっても、「まこと」の世界では無効です。
 もちろん、自分の望みだけを持って手を擦ることでもありません。
 それでは、我欲を増しているだけです。
「自分では最善を尽くしているけれども、まだ力が及ばず、どうしても結果が得られない。是非ともみ仏のご加護をいただきたい」と決心したならば、まず、合掌することです。
 右手はみ仏、左手は自分、それを一体にしてみ仏へ近づくのです。
 次に、真言を唱えることです。
 微音でも、あるいは心中でのお唱えでも結構です。
 その響きは表面の心のはたらきを動かすだけでなく、さらに深い心へも届き、動かし、清めます。
 そして観想です。
 願いに応じた守本尊様を正しく胸に思い浮かべられるようになったなら、即身成仏は間近です。

 こうして信心ができれば、お慈悲は充分に身心へ浸透し、悪しき因縁を脱することができましょう。
 欲の問題の解決とは、因縁解脱に他ならないのです。

 なお、こうした信心は、他の仏神への信仰と何らぶつかるものではありません。
 いつも神棚へ手を合わせている方が食欲の問題を解決したいと願いお不動様の真言を唱えたからといって、神様が祟るはずはありません。
 自分だけと我を張るのは凡夫の世界であり、そうした我や対立を離れてすべてが和し、尊きものすべてが存在している浄土こそ、聖なる世界だからです。
 凡夫のはからいを離れたところに聖なる世界が待っています。

スポンサーサイト
2008
04.29

5月の聖悟 ―心の十段階 その2―

本覚(ホンガク)、内に薫じ、仏光、外に射して、忽爾(コツニ)に節食(セツジキ)し、数々(ソクソク)に旦那す ―弘法大師―


(人間にもとより備わっている霊性が心の中で広がり、霊性の核となっている大日如来の慈悲の光が外へ射し始め、たちまちに欲望を制御して他へ施す)

 お大師様が説かれた心の発展段階(深化の過程)における第二段階は、「愚童持斎心(グドウジサイシン)」です。
 幼い童はものの理に疎く人間的な賢さはまだ少ないけれども、行く手には著しい成長が待っています。
 持斎とは「斎を持つ」すなわち、清浄に生活するための掟や決まりを守って我欲を制御することです。

 生きものである人間には、生きるための食欲が備わっています。
 そして、子孫を残すための性欲も備わっています。
 獣の世界における生命力のはたらきはそれだけで、あとは自然界の摂理に随うようにできているので何の心配も悩みもありません。
 しかし、人間は、人間として育てられているうちに、二つの欲を制御して規則正しく生きる習慣が身につきます。
 童がいつしか毎日をきちんと過ごせるようになった心のありようを愚童持斎心といいます。

 こうなると、自分にとって嫌なことは他人にとっても嫌なことを知ります。
 自分にとって嬉しいことは他人にとっても嬉しいことを知ります。
 そして、他人が喜ぶことを行う喜びを知ります。
 この善行が旦那すなわちインドの言葉でダーナであり、仏法では布施といいます。

大日経」は、あたかも地に落ちた一個の種が芽を出し茎を伸ばすように布施の心が成長する過程を詳しく説いています。
 まず、父母や家族や親族などへ施します。これは芽が出たようなものです。
 やがて、周囲の人へも施します。これは茎が伸びたようなものです。
 やがて、徳の高い人の所へ行って施します。これは葉が茂ったようなものです。
 やがて、高貴や人や音楽などで人びとを癒す人を訪ねて施します。これは花が咲いたようなものです。
 やがて、あらゆる縁の人びとへ施さないではいられなくなります。これは果実が実ったようなものです。

 このような人間ならではの尊い心を育てるために、「三帰依(サンキエ)」と「十善業道(ジュウゼンゴウドウ)」があります。
 み仏へ帰依し、教えと法に帰依し、それを守る人びとへ帰依することによって我(ガ)が薄れ、心が霊性で満たされます。
 そして、殺さず、盗まず、性に乱れず、偽りを言わず、へつらいを言わず、粗暴な言葉を使わず、二枚舌を使わず、貪らず、怒らず、正しい見解を持てば、徳の光は周囲をも明るくすることでしょう。

2008
04.29

樹の実 1

 昔むかし、ある村はずれに、珍しい一本の樹がありました。
 一年に一個だけ、とても大きくておいしい実をつけるのです。
 村にはたくさんのがあり、木の実を食べる順番に決まりごとを設けていました。
 中に重篤な病人の出た家が五軒あった場合、翌年の秋、中のメンバーが木の実を分けて食べることができるのです。
 慰労を目的としたあいまいな決まりなので、行司役の村長さんは大変です。
 次々と申し出るにどうして順番をつければ一番公平になるか、いつも頭を悩ませていました。

 ある年の暮、5軒しかメンバーのいない小さなでこんな謀(ハカリゴト)が行われました。
「俺たちのでは4軒、病人が出た。もう一軒あれば、あの木の実を食べられる。五助さんの家では病人が出なかったけれども、病人が出たことにしようじゃないか」
 ところが、重病人を抱えた気の毒な講がいくつもあることと、村長さんの苦労をよく知っている五助さんは謀に乗りません。
 五助さんは村八分にされかけました。
 
 皆がおいしい木の実を食べたいことを知っている五助さんは、遠くの村にいる知り合いから似たような樹があることを聞いていたので、わざわざ持ってきてもらい、講を守る神社の境内へ植えました。
 秋になり、移植した樹は珍しい樹によく似た実をつけたのに、講中のメンバーは面白くありません。
 こうした樹があれば、珍しい樹の実を食べる順番がさらに後回しにされると考えたからです。
 2軒は感謝して実を食べましたが、残りの2軒は、五助さんが無断で樹を植えたことをなじりました。
 そして、村の有力者に頼み、来年は何としても珍しい樹の実を食べようと画策しました。

 続く………。
2008
04.28

【現代の偉人伝】第五十七話 ―紳助―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。




 紳助が、プロボクサー亀田興毅を人気番組「行列のできる法律相談所」へ招いた。
 かつて紳助は、興毅の弟亀田大毅が平成19年10月11日に行われた世界タイトルマッチであくどい反則行為をくり返して敗れ、世間から猛烈に叩かれていた時、「弱い自分にガマンがならず、ああした行為をとってしまったのだろう。気持はよく解るが、自分を鍛えて強くなるしかない。頑張れ!」と励ました。
 同番組では、以前、反則に耐えてチャンピオンになった内藤大助を招いている。
 亀田大毅本人ではないが、双方の関係者を平等に扱ったことになる。

 紳助は、若い時分、あるコンクールで先輩に優勝をさらわれ、悔しさのあまり花束を蹴り上げた苦い経験があるという。
 若気の至りとはいえ、自分への怒りを他人へぶつけてしまった。
 もちろん、やっていけないことであるのは重々知っていたはずだが、どうしても、他に気持のやり場がなかったのだろう。
 その直後から罪の意識を抱き続け、25年経って先輩へ誤る機会を得、ようやく気持が晴れた。
 だから、決して相手を傷つけようとは思ってもいないのに抱え上げてリングへ投げつけるという暴挙に走った亀田大毅を見て、かつての自分だと思った。
「悪者」のレッテルを貼られて一方的に貶められる亀田一家を「そこまでやるのは酷いじゃないか」と擁護せずにはいられなかった。

 ところで、「水に落ちた犬へ石を投げる」ということわざがある。
 落ち目の者へのイジメである。
 マスコミはいつも、こうした犬を探している。
 あるいは、落ちかけた犬を見つけ、寄ってたかって地獄まで堕とし込む。
 こうして誰かが悪役や仇役としてマスコミに叩かれている時、堂々と擁護するのは難しい。
 同類として叩かれる可能性が高いからだ。

 かつての小泉内閣時代、「抵抗勢力」という言葉があった。
 小泉首相が掲げる「改革」なる錦の旗に慎重な姿勢をとったり反対したりする議員たちへのレッテルである。
 マスコミは面白おかしく抵抗勢力を叩き、選挙結果を大きく傾かせた。
 恐ろしいスピードで格差が拡大しているのも、自衛隊が大手を振って外国で戦おうとしているのも、後期高齢者なる言葉でお年寄りが切り捨てられようとしているのも、すべてあの時代の産物である。

 紳助は三重の意味で英雄である。
 一つは、叩かれている最中の仇役に堂々と理解を示した勇気である。
 もう一つは、それを可能にした「他人の痛みや辛さを我がことと感じる」思いやりの深さである。
 そしてもう一つは、マスコミによって善玉とされた側も悪玉とされた側も招き、視聴者へ生の姿を見せて「自分で判断する」機会を作ったことである。
 郵政選挙の最中、抵抗勢力の意見へ真剣に耳を傾けた番組や記事はどれだけあっただろうか。
 まっとうに政治の道を歩み権力に迎合しない議員たちが、タレント風の人気者や同僚や弟子などに座を負われようとしている苦しみや辛さへの忖度はあっただろうか。
 これほどあの時代の問題が明らかになっているにもかかわらず、ほとんど無条件に改革の旗振りをしたマスコミ自身の姿勢を総括する番組や記事の情報に接していない。

 紳助は見えない視聴者を信じ、一人で戦っている。
 英雄と言いたい。
2008
04.27

夢慧チャリティコンサートが終わりました

 おかげさまにて、無事、「夢慧チャリティコンサート」が終わりました。
 立ち上がってくださった櫻井恵武夢慧両氏の全面的な協力はもちろん、連日にわたる境内整備、案内状づくりから受付、さらにはステージ造りと、どれだけたくさんの方々の汗とお心が重なったことか―――。
 そして、時ならぬ低温とやがては雨になる天気予報にもかかわらず駆けつけてくださった方々。
 お一人お一人のお顔を思い出すだに、感極まるといった思いになります。
 本当にありがとうございました。
 心よりお礼申し上げます。

 さて、「真白き富士の峰」に始まる夢慧氏の歌には、圧倒的な説得力がありました。
 ほとんど体験のない野外での演奏、しかも、時折強く吹く風に飛ばされそうになる譜面をガムテープで押さえながらの悪戦苦闘をも、ものともせず、氏の言う「思い」とプロの力で乗り切り、日本人が共通の宝ものとして持っている情緒の世界へ誘いました。
 こうした情緒は時代によって異なる貌(カオ)を見せますが、核心の伝承は途切れません。
 いのちのバトンタッチに必ず伴っているからです。
「ゴンドラの歌」「川の流れのように」「無縁坂」「千の風になって」、いずれにも、ある切なさが宿っています。
 それは、和歌にも、文学にも、映画にも、絵画にも共通しています。

 懇親会の席で、夢慧氏は、「また旅」の見直しという新たなテーマへの挑戦を明らかにしました。
 母の温もりから離れ、故郷から離れて身体を張らねば生きて行けない世間へ旅立った漢(オトコ)の思いには、何かがあります。
 東海林太郎の時代までは「また旅」の歌は一種の厳粛さが伴っていたけれど、いわゆる演歌歌手が唄い、聴衆が手拍子をするようになってから、それが忘れられていると指摘しました。
君と遊ぶ時」や、四国遍路の応援歌となった「風を観つめて」を唄う夢慧氏の「また旅」ものを鶴首しています。

 わざわざご来場くださった櫻井恵武氏の四国八十八霊場におわすご本尊様方を納めた写真集は、5月2日に出版されます。
 事故と病気による絶体絶命の危機を乗り越え、高野山へ2年間こもって高野山の写真集を出すところから始まった求道の旅の集大成とも言うべき渾身の一作は、もうすぐ完成します。
 海外向けの英文は、夢慧氏の奥さんの手によります。
 一人でも多くの方々が四国の霊場へ関心を持ち、来月開館する丸亀市をはじめ、やがては全国に建つであろう櫻井恵武氏の写真による霊場巡りの館が、お大師様のご加護によって善男善女の業を清める場」となるよう願って止みません。

 とこで、今回は一つ、得難い体験をしました。
 昼前から曇って風が出始め、荒天に備えようと、建築会社の人びとが昼食抜きでステージへテントを張りました。
 いろいろなことが重なってスタートが遅れた演奏会は、寒さと風との戦いの様相を呈しました。
 夢慧氏とバイオリニストはもちろん、聴衆もギリギリのところにいます。
 雨が降り出せばもちろん、風の具合によっては演奏会を中止せねばなりません。
 覚悟を決めて会場の隅に立ち、風が強まるたびに瞑目して守本尊様へ祈りました。
 すると瞼の裏が明るくなり、風は引き退がりました。
 何度かくり返すうちに無事、終了し、聴衆が帰り足になられる頃は厳しい寒さになっていましたが、風はそよとも吹いていませんでした。
 法被を着た親輪会会員さんなどが総力を挙げた後かたづけが終わり、最後に音響担当の方々が機材をトラックに積み込み終わる頃、雨が降り始め、やがて強い雨脚になりました。
 守本尊様は、また、道の確かさを教えてくださいました。

 まっすぐに歩み続けて寺子屋を開始する以外、ご縁の方々へもご守護くださった仏神へもご恩返しはできません。
 精進を誓い、参加してくださった方々、協力したけれども参加できなかった方々、さらには関心を持ってくださった方々へ重ねてお礼申し上げます。
2008
04.26

事故死と病死

 落下事故で脊椎損傷の重症を負い、内臓疾患での淵を彷徨った方のお話をお聞きしました。
 事故の時は、一瞬にして、人生のすべてが高速スライドのように現れ、そこに登場したすべての人へ「ありがとう」と挨拶したそうです。
 病気の時は、三途の川花畑が見え、引かれてゆきそうになったけれども誰かが呼んでいる声がしてハッとなり、ベッドの上の自分に気づいたそうです。

 事故で亡くなった方は、まず、十一面観音のご守護を受けてから引導を渡され、彼岸へ渡ります。
 それは、十一面観音は、いかなる逆境からも救い出してくださるお力があり、状況に応じて導く十一の面がすべて阿弥陀如来の宝冠をかぶり浄土よりの使者となっているからです。
 病気などで亡くなった方は、最初から大日如来のご守護の法へ入り、引導を渡されます。

 交通事故者が出た直後に現場を通りかかった方が、なぜか背中が重くなりましたと来山されたケースはいくつもありますが、病の場合は、部屋に留まっている気配が気になって来山されるようです。
 病人を送ったら背中が重くなったというご相談はありません。

 こうした事実は、事故に遭っては人生の総括をする時間がなく、行く手を見極め難いことを物語っているのでしょうか。
 私たちが老い、病気になった時、何をなすべきかが教えられているとも考えられます。

 もう少し、考察しましょう。

2008
04.25

日本の歌 64 ―どこかで春が―

どこかで春が
  作詞:百田 宗治 作曲:草川 信 大正12年発表

1 どこかで春が 生まれてる
  どこかで水が 流れ出す

2 どこかで雲雀(ヒバリ)が 啼いている
  どこかで芽の出る 音がする

3 山の三月(サンガツ) 東風(コチ)吹いて
  どこかで春が うまれてる

 私たちはに「なる」と感じ、そのように表現する。
「ずいぶんらしくなりましたねえ」
 しかし、詩人は「生まれる」と言った。
 たったそれだけの違いで、この歌は80年以上も唄い継がれている。
 どこが違うのだろう。

 になったと思う時、私たちは春の中にいる。
 空の色も、風の温度も、ヒバリの声も、そう告げている。
 ふと気づいたら、天地が春になっていた。
 それは、スライドの写真が入れ替わったようなものである。

 春が生まれると感じる時、詩人はパノラマを眺めるように訪れた景色を観ているのではない。
 五官に訴えてくる情報の一つ一つが孕んでいるいのちのうねりを感得している。
 情報はどんなに小さなものでもよい。
 肝心なのは「動き」である。

 もちろん、春に「なる」も動きである。
 しかし、実際にそう知るのは、もう、天地が春という一枚の画になっている時である。
「生まれる」は芽生えであり、続く成長が天地・万地・万物に春の装いをもたらす。
 確かな芽生えを見つければ、自然に、成長への期待を持つ。
 この歌は、表面的には、発見の鋭さと表現の深さで評価されるのだろうが、真の価値は、知らず知らずのうちに私たちの心から期待や希望を引き出しているところにあるのではないだろうか。

 いよいよ、明日、「夢慧(ユメサト)チャリティコンサート」が行われる。
 当山ではが咲き始めている。
 プログラムの最後を飾るのは、夢慧氏が作詞作曲した「風を観つめて~おへんろまんだら~」である。
 風を観つめ、雲を観つめ、海を観つめ、心を観つめる詩人であり歌手である夢慧氏の世界を堪能していただきたい。

s-konsa-to.jpg

2008
04.24

日本の歌 63 ―通りゃんせ―

通りゃんせ
  作詞:不詳 編曲:本居長世

通りゃんせ 通りゃんせ
ここはどこの 細道じゃ
天神さまの 細道じゃ
ちっと通して くだしゃんせ
ご用の無いもの 通しゃせぬ
この子の七つの お祝いに
おふだをおさめに まいります
いきはよいよい 帰りはこわい
こわいながらも
通りゃんせ 通りゃんせ

 自分という意識より深いところにある意識は、通常、認識の対象にならない。
 そうした意識を仏法ではマナ識アラヤ識といい、潜在意識や深層意識とも呼ばれている。
 この歌は、意識されない意識、言い換えれば記憶として思い出せない遙かな記憶の領域に根を持ち、茎を伸ばし、咲いた花ではなかろうか。
童謡の父」とまで称される本居長世が見つけ、洗練させ、生涯お気に入りだった童歌(ワラベウタ)は、日本人が共有している情緒を動かす。

 高く、遠い々が、いかなる地域にもご近所さんの延長として居た時代。
 おりおりの、あるいは節目節目の催しは必ず々と共に行われた時代。
「ちっと通して くだしゃんせ ご用の無いもの 通しゃせぬ」というやりとりに続いて「この子の七つの お祝いに」とトーンが上がるところには、あたかも、天皇に呼ばれた者が宮中へ入ろうと門をくぐる時のごとく、何者も遮ることのできない強さと晴れやかさがある。
 誰かがに祝福されることは、住民共通の慶びだったのだろう。

 最後の「こわいながらも 通りゃんせ 通りゃんせ」は、青い天空へ魂が溶け込んでゆくような安堵と救済をもたらしている。
 こうしたレベルの歌を持っている日本の子どもたちは幸せ者である。
 子どもたちと一緒に唄い、語り、一緒に、清浄な世界への扉を開きたい。
2008
04.23

真の伴侶 ―虚空蔵菩薩様―

 虚空蔵菩薩様の経典です。

「妻子珍宝及び王位も、命終の時に臨んで随うものなし。唯、と及び施と不放逸とのみ、今世・後世に伴侶とならん」

(妻や子供などの家族や王の位などの名誉は、あの世へ一緒に行きはしない。律を守る徳、布施を行う徳、不放逸に生きる徳、これだけが今の世でも次の世でも真の伴侶である)

 こうした教えは、『法句経』などにもたくさん説かれており、私たちの勘違いを正すとても解りやすい教えです。

 人が寝る時は、どんなに広い寝室にいても畳一畳しか占有できず、棺桶はどんなに立派に飾られていても、遺体が納められる部分は、やはり畳一畳です。
 この世でどんなに信頼できる相手と添い寝していても、あの世へは一人で旅立つしかありません。
 それは心中ですら同じことです。
 別々な魂がそれぞれの人生を歩んだ結果として迎える死は、あくまでも個別のものであり、生きた因縁も業も異なっている以上、死後は別の道を歩まねばなりません。
 どんな場合も「命終の時に臨んで随うもの」はないのです。
 
 因果応報の理は時空を超えているので、いつか必ず悪果をもたらす悪業を解消するには、善業の功徳をもって消すしかありません。
 悪知恵をはたらかせてこの世でいかに〈うまく〉やっても、悪業は埋もれ火のように燃え上がらせる風を待っています。
 あの世へ行ってしまえば、都合良くチャラになるわけではありません。

 だから、安心して死を迎えるには、安心をもたらす伴侶すなわち善業を積むことです。

 さて、気をつけたいのは、「今世・後世に」というくだりです。
 私たちは、満足や安心を与えてくれる五欲の対象を得ると、それだけで幸せと感じます。
「妻子珍宝及び王位」に代表される家族・財物・地位に恵まれれば、それらを自分自身の一部であると錯覚さえします。
 本来、「玉の輿」には自を求める意味合いもあったはずなのに、最近は「セレブ」などの言葉と共に、無条件の憧れに堕しました。
 しかし、何を得たとしても、自分自身の心の卑しさはどうにもなりません。
 いつの世も、「ボロを着てても心は錦」が大切です。

 人間関係がどうであろうと、財物や地位がどうであろうと、私たちを清め向上させる真の伴侶は、人間としてのめを守る心であり、見かえりを求めずに他のためになろうとする心であり、気ままであってはならないと自分を抑える心です。
 家族・財物・地位は、そうした心があって初めて、自他へ幸せをもたらします。
 この世でも、あの世でも、自分と共にあって欲しいものをよく考えましょう。
2008
04.22

守本尊道場造営日記 16 ―無尽の蔵―

 4月20日は穀雨でした。
 私たちは、雨が降ると、いささか困ったという風情を漂わせながら「雨になりましたねえ」などと挨拶を交わしますが、水はいのちの母であり、あらゆる生きものは天から恵まれる水なくして生きてゆくことはできません。
 時には雨が降り、時には陽光を浴びて、私たちは授かったいのちを生きてこの世を創り、目に見えない因縁を遺し、あるいは目に見える子孫を遺してみ仏の世界へ還ります。
「水」「火」そして大地の「地」、呼吸の「風」、絶妙としか言いようのないそれらのバランスたる「空」。
 こうした五大の徳は、「識」たる心の顕れとして融合し、離れ、静まり、うねり、響き合い、パノラマのような現象世界をもたらしています。
 生には誕生の瞬間から死が孕まれており、死は生の激動を待つ静寂の時期、すなわち涅槃(ネハン)です。

法楽の苑」に隣接する百万返堂で真言を唱えていると、この世にいるのかあの世にいるのか判然としなくなります。
 有るのは口と真言
 居るのは虚空蔵様の世界。
 それがこの世であるかあの世であるかは、問題にすらなりません。

 5時近くにどなたかの気配がし、作業しておられます。
 そのうち、もう一人加わりました。
 行を終えてお堂から出ると、Tさんが、植樹していただいた桜の樹々を手入れしておられ、吉岡から歩いて来たというKさんは、早くも重機の音を響かせていました。
 昨夜は、O君が「無償で、できる限り作業などを手伝いたい」と申し出てくれ、感激が重なりました。

 虚空蔵菩薩はこう説かれました。

「よく諸法は、因縁もて生ずるを知らば、その蔵無尽にして、思議すべからず」


(因と縁によってもたらされている現象世界のありようを見極めれば、現象世界を生み続けている泉ともいうべき蔵が無始無終であり、無限の豊かさを持っていることを悟るであろう)
 Tさんも、Kさんも、O君も、そして私も無尽なる蔵から流れ出たいのちの世界の住人。
 こうして輝き、そして去る、一時の光芒。

 今日は、皆さんから奉納していただいた守本尊様をお祀りする壇が百万返堂内に造られます。
 夢慧氏のコンサート用に、野外ステージも作られます。
 ウグイスの声と咲き始めた桜に彩られた聖地は、今日も、善男善女を待っています。

○守本尊様のご供養申込数累計  132体
○唱えた真言の回数累計   802、440回
2008
04.21

平成20年の運勢 その4

 当山は、これまで「平成20年運勢」として、その1、その2、その3を書きましたが、他の運勢判断と共通するだろうと考えて書かないでおいた部分があります。
 しかし、ここまで問題が続発すると、書かないではおけません。
 それは、「」と「」に関する危険性です。

1 は潤いを与え、生きとし生けるものを育みます。
 それを長養といいます。
 こうした徳が損なわれ、失われると人は不幸になり、社会は乾きます。
後期高齢者」なる言葉が闊歩する昨今の世情を観て「仕組まれた時限爆弾が爆発した」などと表現する方もおられますが、無慈悲な発想は、こうした時期を待ってその貌(スガタ)を明らかにします。

 3年前の8月、アメリカを襲った大型ハリケーン「カトリーナ」によってルイジアナ州ニューオリンズでは大きな被害がもたらされました。
 もしも今年、同じようなハリケーンが起こったならば、アメリカの被害はもっと深刻なものになる危険性があります。
 迎え撃つ態勢は整っているのでしょうか。
 この世で唯一、自然界を思うがままに動かそうとする人間は、ある意味で自然界の異物であり(環境破壊は人間の業です)、文明が生き残るためには、智慧慈悲をもってを上手にコントロールせねばなりません。

 に感謝し、心の世界でも、モノの世界でも、の徳をもって自他を潤したいものです。

2 はいのちを危険に陥れます。
 は自然界にもありますが、それによって自然破壊が起こったり、種が滅ぶなどということはありません。
 人間以外の生きものは摂理の範囲内でしか動かないからです。
 しかし、人間はフグのを楽しむ果てに死んだり、人を殺したり、害虫を殺そうとして用いたによって自分を害したりします。
 今年は硫化素ガスによる自殺が急増し、まだ4月半ばを過ぎたばかりなのに、すでに昨年一年間の13倍に達する事件が起こっています。
 お大師様が、「智慧のある者は石が宝ものに見える」と説かれたように、病気によく効き、副作用がなく、自然も破壊しない薬を開発するなど、智慧慈悲をもって毒を利用したいものです。

3 今年は、水と毒の徳を考え、危険性への感覚を鈍らせず、無事安全に過ごしましょう。
2008
04.20

立ち上がった「風」君

 仙台市在住のHさんご夫婦がペット供養にご来山されました。
 転勤で故郷の山里を離れることになり、心臓に病気を抱えていたイヌ「」君の体調を心配しながら連れてきましたが、案の定、環の激変に適応できず、10歳にして世を去りました。

 ご主人は仕事にでかけるので、奥さんが一生懸命世話をし、肺に水がたまるようになってからは「」君と一緒になって病気と闘ってきました。
 だんだんに弱り、ついには人間と同じように体中に管をつながれた状態になりました。
 やがて、あまりの哀れさに耐えきれなくなった奥さんが、「救命措置を止めてください、家へ連れて帰ります」と頼み、「」君は束縛から解放されました。
 そのままぐったりとしてしまうのかと思いきや、「」君は必死に立ち上がりました。
 そして、奥さんの腕の中で息を引き取ったそうです。

 奥さんは、あれもこれも悔やまれてならず、一週間経っても「」君の死を受け容れられません。

 修法後に申し上げました。
「数年前、生まれながらの難病によって逝った娘さんが、最期に『お父さん、お母さん、生んでくれてありがとう。お父さんとお母さんの子供で幸せでした』という言葉を遺しました。
」君が立ち上がったのは、精一杯の『ありがとう』だったはずです。
 こうして供養されれば、もう、これ以上、できることはありません。
 きっと、「風」君は感謝していることでしょう。
 お地蔵様の法をむすびましたから、もう苦しみはありません。
 心配しないでください」
2008
04.19

5つの観察 ―観音様―

 観音様は、「音を観る」方です。
 私たちは音を耳で聞き、眼でモノを見ますが、観音様は、聞いても見ても、相手の思いをそのままに知って受けとめられます。
観音様、愚かな私をお導きください」と祈る者をお慈悲の心でじっと観察し、必ず手を差しのべられます。
 観察は5つのはたらきによって行われます。

1 真観
 ありのままに正しく観察します。
2 清浄
 凡夫に付いて離れない我執をまったくまとわない清らかな心で観察します。
3 広大智慧
 ものごとを小さな現象だけでとらえず、時間的には過去の因縁、空間的には縁のつながり、両方を全体的に観察します。
4 悲観
 苦を脱したいという切なる願いを観察し、苦を抜こうとされます。
5 慈観
 楽になりたいという切なる願いを観察し、楽を与えようとされます。

 経典は、「観音様のこのようなお心を信じ、願い、仰ごう」と説きます。

 観音様のお心を信じて経典を唱え、真言を唱えることは、お心をイメージする体験を重ねることです。
 それは、唱える人の潜在意識にそのイメージが蓄えられ、心のはたらきが観音様へ近づくことを意味します。
 真の救いは眼前の難事が解消されるより先に、唱える人の心にもたらされています。

 たとえば理不尽な難癖をつけられたとしましょう。

1 怒ったり恨んだりせず、できごとを正確に判断する。
2 自分の欲を離れて客観的に考える。
3 なぜできごとが起こったのか、これまでのことと、周囲との関係をよく考える。
4 相手の苦しみを観る。
5 相手が楽になりたいと思っている心を観る。

 その上で判断し、行動すれば、事態は良き方向へと転化するのではないでしょうか。
 運勢が変わり、運命転化します。
 凡夫には因果の糸がどうなるのかを知り尽くす力はないので、結果が、いつ、いかなる形でもたらされるかを正確に予測することはできません。
 しかし、信じて行えば、自他の苦を除くための根本的、かつ最短距離の方法を実践しているはずです。
 観音様は、それをお約束しておられます。
2008
04.18

天魔に負けない人になってください

 天魔は、「幸せつぶし」としてたち現れます。
 天魔に遭うと、考え深い人は「理不尽」、あるいは「不条理」などととらえ、さらりとした人は「運が悪い」、「間が悪い」などと思います。
 そして、何とかしようと悪戦苦闘してもなかなか去ってくれないと怒りや怨みを抱いたり、途方に暮れたりします。
 こんな時に真言を唱えると目の前の壁が意識から離れ、唱え終わる頃にはまったく新しい考え方をしていて驚く場合もあります。

 真言は瞬時にして異次元の真実世界へ導きますが、絵画や音楽といった芸術にも似たようなはたらきがあります。
 たとえばシュルレアリスム(超現実主義)のサルバドール・ダリ、ルネ・マグリット、あるいはマックス・エルンスト、ジョアン・ミロなどの絵画は、惰性的に動いていた眼や心をストップさせ、日常的なはたらきの陰に隠れていた感覚を目覚めさせます。
 20世紀初頭に作曲されたホルストの代表作『惑星』などの音楽も、例を挙げたらきりがありません。
 いずれ、寺子屋では、学校、熟、パソコン、テレビといったものに縛られている日常感覚から解放する時間と空間を体験させたいと考えています。

 私たちは、知らぬ間に自分の心を染めています。
 歓喜、悲嘆、安心、不安などに応じて色は移ろいますが、心に強いベールがかかると一色になります。
 そうなると、淀んだいのちは活動を弱め、塞がった心は固まるだけでなく、何かのおりに火山のような動きに転ずる可能性もあります。
 解放体験はそうした状況の救済になるだけでなく、能力開発にも大きな効果を発揮することでしょう。

 当山では日々、人生相談やご加持やご祈祷などで個々の問題に対する治療法を行っており、寺子屋では子どもたちへ新鮮な体験をさせ、身心の病気に対する予防法と能力開発法を行い、天魔などに負けない大人に育ってもらいたいと願っています。

2008
04.17

宗教は幸せを得るための必須要件ではない

 今日は、ある文化研究会で、連休明けは大学の同窓会で、映画『チベット チベット』上映会と、ダライ・ラマ法皇の説く平和についての法話を行います。
 小さなプロジェクターと資料を持ってでかけます。
 当山は寺院であり、政治的な立場でなくあくまでも人道的な見地から、現実を知っていただき、普遍的な価値である平和について仏教はどう説いているかをお話し申し上げたいと願っています。

 ダライ・ラマ法皇は、驚くべきことを述べておられます。

「私は常々、幸せな人間となり、よりよい人生を送りたいと望むなら、善き心を培う必要があると人びとに説いています。
 宗教を信じていようといまいと、まったく関係ありません。
 人類家族の一員であるかぎり、温かい心をもった善き人間であるべきなのです」

 表面的には各界の有名人と対話などを行いながら、布教の現場では弟子たちが信者の獲得競争に血眼となり、さらには政治的な勢力を伸ばそうと画策している新興宗教の指導者とはまったく異なっています。
「あくまでも非暴力的な方法で、宗教思想の異なった方々とも一緒に、世界を平和にしたい。故国チベットの解放はその理想を実現するための第一歩である」と考えておられます。
 ここにこそ、マンダラに生きる聖者の真骨頂があります。

 法皇は「希望」について明確に述べておられます。

「私たちの未来は物質的な発展やテクノロジーや科学に全面的に依存するのではなく、心の安らぎにかかっていると私は信じています。
 テクノロジーや科学と心の安らぎが手を携えたならば、次の世紀はもっと幸せで輝かしく、友愛と安らぎに満ちたものとなるでしょう」


 こうした考え方を、〈道理〉として納得できない方がおられましょうか。
 

 今日も、釈尊と、お大師様と、法皇の教えについて学び、道理に導かれながら法務を行えればありがたいことです。
2008
04.17

4月16日付河北新報夕刊の記事について

 河北新報夕刊に、4月26日開催予定となっている夢慧氏のチャリティコンサートに関する記事が掲載されました。
 より多くの方々が足を運ばれるきっかけになればありがたいことです。

 さて、新聞の文面は事実に即しており感謝するしかありませんが、いささか真実が隠れてしまっている面もあり、憂いなしとはできません。
 それは「1億2千万円集まらなければ、寺子屋が始められない」と読まれてしまう危険性があり、事実、すでにそうした心配の電話が数本入っています。

 この計画の全体像は、あくまでも一人前の寺院たる形が調った場合の理想であり、全体が完成せねば何もできないわけではありません。
 しかし、民家にいささか手を加えただけの現本堂では、居合を行うこともできず、もちろん寺子屋も不可能です。
 だからこそ実態を知った方々のご賛同をいただきながら、寺子屋建立運動をここまで進めてきました。

 寺子屋が行える供養堂を部分的に作るにはおよそ2千万円かかるので、夢慧氏もあと一歩のところを応援してくださるつもりで来山されます。
 決して「1億2千万円集まらなければ、寺子屋が始められない」のではありません。
 誤解されないようにと願うばかりです。

 また、このコンサートは、ただただお金を集めようとするものではありません。
 夢慧氏の歌声に超越的なものを感じた私が、ぜひ当地でも唄って欲しいと願い、夢慧氏もまた、お葬式をしてすら金額を決めたお布施を請求せず、お墓を建てた墓石業者へバックマージンを請求せず、子どもたちと日本の未来のために寺子屋を始めたいと願っている当山の姿勢に共鳴されたからこそ、話がトントン拍子にまとまりました。
 コンサートは、結びの神たる櫻井恵武氏も含めて、共振がもたらしたものです。

 歌の感動、寺子屋の理想、ご縁の方々に真実を知っていただきたいと願っています。
2008
04.16

クロの向上

 お大師様が輪廻転生を説いておられる文章です。

「前生(ゼンショウ)に善を修して今生(ンコンショウ)に人を得。
 此の生に修せずんば、かって三塗(サンズ…地獄・餓鬼・畜生)に堕ちなん。
 春の種(シュ)を下さずんば、秋の実いかんが得ん。
 善男善女、仰がずんばあるべからず。仰がずんばあるべからず」

前世の善行が原因となり、この世に霊性を持った人間として生まれた。
 今、尊い人間として生きているからといって、善行に励み徳を積まなければ、来世は地獄界や餓鬼界や畜生界に堕ちてしまうことだろう。
 それは、春に種を蒔かなければ秋の実りを得られないのと同じである。
 善男善女よ、み仏の教えを信じ、その道理に従って生きようではないか)

 当山にはクロという小さな黒猫がいます。
 5年前、妻と寝起きしているプレハブのそばで、野良猫マイケルとエリザベスの子として生まれました。
 一緒に生まれた2匹は、すぐにいなくなりました。
 カラスなどにやられたのでしょうか。
 マイケルは別の縄張りに移り住み、白と黒の華奢な身体で高貴な気配がありながらなかなかにすばしこいエリザベスが育てました。
 一年もしないうちにエリザベスもどこかへ行き、クロはプレハブの出入り口付近で冬を迎えました。
 たまたま雪の深い年で、とても小さなクロは生きられないだろうと思い、中へ入れました。

 こうして飼い猫となったクロは、人間を親と思ったのか、まるで犬のように人間のそばを好む性格になり、耳や目や口元などをさまざまに変化させて感情を豊かに表現でき

るようになりました。
  私が風呂へ入ったりトイレへ入ったりするとドアの外で待っている場合があるので、出入りには注意しています。
 顔にある筋肉の関係上、イヌやネコには人間のような表情がないそうですが、感情の動きは解ります。

 さて、私は、時折、彼女へこんな言葉をかけています。
「野良猫だったのが飼い猫になり、ネコ好きな皆さんに可愛がってもいただき、良かったね。
 皆さんを癒しながら随分と徳を積んだね。
 もっと向上しようね。
 メダカだって遺伝子の6割が人間と共通しているんだから、お前と私は随分と近いんだよ。
 今度は野良猫でなく、もっと人間の近くに生まれてきなさいよ」
2008
04.15

布施の三忘

 布施には、寺院からの強制という良からぬイメージがまつわりつき、根本にある「布施三忘」は意外に知られていません。

 真の布施を行うならば、三つものを忘れねばなりません。
 それは、「時」と「相手」と「物」です。
 いつ、誰に、何をしてあげたか、を忘れてしまうのです。
 つまり、布施行とは呼吸のようなものです。

 そもそも布施は、菩薩が絶えず行う六波羅密(ロッパラミツ)行の最初に挙げられているものであり、大乗仏教の教えを学び実践する者の一挙手一投足はすべてそれに叶っていなければなりません。

1 見かえりを求めずに、誰かのためにできる何かをすること。
1 戒めを守ること。
1 高慢心などによって怒らず、じっと耐えること。
1 なすべきことを弛まずやり続けること。
1 生活を慎み、身心をきちんと整え、自分で制御できること。
1 自分の利益を離れて誰かのためになれる方法を考えること。

 身・口・意がこれらの行のみではたらいており、離れたなら菩薩道からの墜落なので、もはや、行は呼吸と同じというしかありません。

 こうなると菩薩行はとてもハードルが高くて尻込みしたくなるかも知れません。
 しかし、心配ご無用です。
 文殊菩薩様や地蔵菩薩様などが「たまに羽目を外す」などという事態はあり得なくとも、凡夫は「たまに菩薩様になる」ことが大切だからです。

 当山では、「たとえ一日十分でも、み仏になり切りましょう」と申し上げています。
 布施を行った後の清々しさや充足感は、即身成仏によってもたらされる「法楽体験」です。
 布施を受けた後の感謝は、即身成仏している人によってもたらされた「慈悲体験」です。

 極楽とは、二つの体験が呼吸のように行き交う浄土ではないでしょうか。

 四国八十八霊場の聖性は、「お接待」という布施行によって支えられています。

 文化のレベルは、モノや知識ではなく、こうした聖性をもって計られるべきではないかと考えています。
2008
04.14

怨霊・お焚き上げ・共業

 鹿児島県在住の女性Kさんから電話がありました。
「体調の不良を知った女性同僚から『怨霊を祓わないと子供が危ない』と聞かされ、連れて行かれた祈祷所で言われるままにお金を納めてお守をもらったのですがいっこうに良くならず、結局、医者に行って完治しました。
 お守はもう捨てたいのですが、霊能者の同僚が見張っているようで、このあたりでは処分できません。
 お送りすれば、お焚き上げをしていただけますか?」

 似たようなご依頼は、さみだれ式に続いています。
 いまだかつてないほど煩悩が解放された今の時代、急に人びとの霊性が開発されたとはとても思えません。
 むしろ、妄想がテレビなどで面白おかしく、しかも堂々と語られているので、妄想を口にすることが「はばかられない」時代になったのだろうと判断しています。
 それは、他人の心を「おもんばかる」姿勢が薄れ、イジメが常態化したことと表裏一体です。

 最近、こうした世情を利用して急成長したお焚き上げ業者が摘発されました。
 業者によっては仏壇すらもゴミと一緒にどんどん捨てるなど、さまざまな問題があるというのは有名な事実でした。
 当山がお焚き上げの場を造ったのは、悪業による悪果は悪徳業者と依頼者だけにもたらされるのではなく、共業(グウゴウ)として社会へも悪影響を与えるからです。

 なお、当山における「祓い」は、単に「憑いた怨霊などを切り放って清々しくなれば良い」というものではありません。
 怨霊にもっとも必要なのは怨みを解き放つ太陽のごとき慈光であり、迷いを知る智慧です。
 み仏の慈悲と智慧は過去世、現世、未来世に通じ、この世とあの世を同じく救います。
 祈祷法も、加持法も、供養法も、原理はここにあります。
 修法は、常に、「北風と太陽」における太陽のようなみ仏のご加護をいただきます。

 Kさんから送られてくるお守に修法すれば、悪因縁が消えてKさんが安心できるだけでなく、霊能者気取りの同僚も祈祷所も、ご加護の陽光によって善き方向へ向かう機縁を得ることになりましょう。
 業は共業の因となることを忘れずにやりましょう。
 善き業を積み、共に、善き共業の世界で暮らせますよう―――。
2008
04.13

骨のうたふ

 昭和17年8月、入隊2ヶ月前の青年が詩を書きました。
 彼は自分の行く先を知り、そのまま隠さずに書き、天命に従い、戦死しました。
 今日も、世界中で、人びとは詩の言葉と同じく「ひょんと」死に続け、殺され続けています。 

 4月12日 内閣府は「社会意識に関する世論調査」の結果を発表しました。
 「日本誇りに思うこと」の項では、48・1%の人びとが「長い歴史と伝統」を挙げ、第一位になりました。
 以下、「美しい自然」、「優れた文化や芸術」の順になっています。
 日本に住む人は、いつの時代もおおよそこうした感覚を持って生きてきたのではないでしょうか。
 それは戦争になると、一気に崩壊します。
 死ぬ人の目には、広漠たる渇いた光景が広がります。

 世論調査に納得しつつ、歴史と伝統、美しい自然、優れた文化や芸術のすべてが破壊され始めて半世紀経ったチベットを想ってしまいます。
 誇りを踏みにじられ、社会の片隅に追いやられつつある人びとのことを想ってしまいます。
 侵略戦争がもたらした占領、破壊、略奪、そして圧政。
 こうした中で耐えつつ生き、殺されつつある人びとのことを想ってしまいます。

骨のうたふ」 竹内浩三

 戦死やあはれ
 兵隊の死ぬるやあはれ
 とほい他国で ひょんと死ぬるや
 だまって だれもゐないところで
 ひょんと死ぬるや
 ふるさとの風や
 こひびとの眼や
 ひょんと消ゆるや
 国のため
 大君のため
 死んでしまふや
 その心や

 苔いじらしや あはれや兵隊の死ぬるや
 こらへきれないさびしさや
 なかず 咆えず ひたすら 銃を持つ

 白い箱にて 故国をながめる
 音もなく なにもない 骨
 帰っては きましたけれど
 故国の人のよそよそしさや
 自分の事務や 女のみだしなみが大切で
 骨を愛する人もなし
 骨は骨として 勲章をもらひ
 高く崇められ ほまれは高し
 なれど 骨は骨 骨は聞きたかった
 絶大な愛情のひびきを 聞きたかった
 それはなかった
 がらがらどんどん事務と常識が流れてゐた
 骨はチンチン音を立てて粉になった

 ああ 戦死やあはれ
 故国の風は 骨を吹きとばした
 故国は発展にいそがしかった
 女は化粧にいそがしかった
 なんにもないところで
 骨は なんにもなしになった


2008
04.12

日本の歌 62 ―手のひらを太陽に―

手のひらを太陽に
  作詞:やなせ たかし 作曲:いずみ たく 昭和39年NHK『みんなのうた』でヒット

1 僕らはみんな生きている
  生きているから歌うんだ
  僕らはみんな生きている
  生きているから悲しいんだ
  手のひらを太陽に すかしてみれば
  真っ赤に流れる 僕の血潮
  みみずだって おけらだって あめんぼだって
  みんな みんな 生きているんだ ともだちなんだ

2 僕らはみんな生きている
  生きているから笑うんだ
  僕らはみんな生きている
  生きているから嬉しいんだ
  手のひらを太陽に すかしてみれば
  真っ赤に流れる 僕の血潮
  トンボだって カエルだって ミツバチだって
  みんな みんな 生きているんだ ともだちなんだ



 この歌は、無条件に生きる悦びを謳歌している。
 太陽があり、太陽の子どもたちがいる。
 すべては太陽の下にあって、この上なく明らかである。
 翳りは微塵もない。
 幼子の導きは、ここから始めたい。
 柳暗花明(リュウアンカメイ)の味わいを知るのは、次の段階である。

 この歌は、青年をも励ます。
 あるいは、疲れた大人たちを励ます場合もあるだろう。
 作られた昭和38年には、日米間で初めて成功した衛星中継でケネディ大統領の暗殺事件が流れ、次いで力道山が殺され、国民はヒーローの夭折に衝撃を受けたが、翌年の東京オリンピックはそうした暗転の気配を払い去った。
 昭和39年は、この歌と共に、三波春夫の『東京オリンピック音頭』、坂本九の『明日があるさ』、岸洋子の『夜明けのうた』 が日本の津々浦々まで流れていた。

 ところで、深い悲しみを抱いた人は、他人の喜びをも自分の悲しみを深めるための素材にしてしまう場合がある。
 心の沈んだ人は、明るい部屋ではおちつけないのである。
 小さく開けた窓外に陽光を認めながら、ほの暗さのある部屋で憩う。
 しかし、最終的な救いはやはり、陽光にある。
 それを反射して他の誰かを照らす鏡のような心にはなれなくとも、花木に与えられた肥料のように陽光が静かに染み入る心で戸外へ出られれば良い。
 
 この歌は子供向けに作られたが、悲嘆や憂いを抱いた人辛抱強く待っていてくれる趣きも持っている。
 それは、一番に「生きているから悲しいんだ」、二番に「生きているから嬉しいんだ」とあるからかも知れない。
 旋律もまた、ここまでは短調のような気配すら漂い、「手のひらを」のところで弾ける。
「悲しみも喜びもあるさ、でも、太陽の方を向いてみようよ」と誘っている。

 私は、待っていてもらったと感じた一人である。
 救ってくれた歌を若い世代へも伝えたいと願う。
2008
04.11

お地蔵様のご利益 1

 私たちは、道が見つからず「手探り状態」に陥る場合があります。
 その時に手を引いてくださるのは地蔵菩薩です。
 亡くなった場合も同じです。
 初七日を護る不動明王の魔除けを受け、7日ごとに釈尊や文殊菩薩の教によって導かれても、尚かつ迷う場合があるので、五番目に地蔵菩薩が救いの手を差しのべてくださいます。
 経典によれば、遺族などがみ仏を供養し、その功徳廻向すれば御霊は苦しみを離れることができます。
 しかも、供養する人びともまた、たくさんのご加護を受けられます。
 反対に、み仏を供養せず、たとえば遺族が誰かを恨んで殺したりすれば、その悪業は実行犯を苦しみに陥れるだけでなく、御霊をもまた苦しみの重荷を背負ってしまいます。
 
 経典は、誰かが亡くなった場合の心がけはいかなるものであるべきかを明確に示しています。
 まず、導き手であるみ仏を供養し、その心で、「御霊が安らかでありますように」と祈らねばなりません。
 私たちの心は、いつも揺れ動いています。
 常に六道を彷徨っています。
 目覚めた時は「今日もありがたい一日を迎えられる」と感謝していたのに、夕刻になると「ああ、酷いめに遭わせられた。あんな人は地獄へ堕ちてしまえ!」と恨んでいたりします。
 祈りは、自分の心のはたらきようを左右するばかりでなく、心を向ける相手(この世とあの世を問いません)の運勢にも少なからぬ影響を及ぼします。
 だから、祈りは、常に、我(ガ)を離れる清めから始まらねばならず、我を離れさせてくれるものは、み仏以外ありません。

 み仏が、み仏への供養の大切さを説かれるのは、決してみ仏自身のためではありません。
 凡夫の祈りが過たぬよう、お慈悲をもって導いておられるのです。

 さて、追福のご利益がどうなるのかは、明確になっています。
 御霊は、遺族などの作る功徳の7分の1を受けられます。
 残りの7分の6は、祈る遺族自身が受けます。
 何と尊い教えでしょうか。
 この意味について、よく考えてみたいものです。
 
2008
04.10

NHK文化講座「生活と仏法」講義録12 ―いのちは仏様からの預かりもの―

 NHK文化講座「生活と仏法」におけるMさんからの質問です。
「人生相談をするのは大変ですねえ。
 たとえばお子さんを亡くされたお母さんなどへは、どうおっしゃるんですか?
いのちは仏様からの預かりもの』という風に思えれば、いくらかは救いになるんでしょうか。
 そうそう、仏教ではこうした考え方はあるんですか?」

 お答えしました。

 いのちは〈預かりもの〉あるいは〈授かりもの〉であると考えられれば、執着心が克服しやすくなり、粗末にできなくもなりましょう。
 また、今のケースでは、まず、親御さん自身が、自らのいのちについてそのように得心しておられることが大切ですね。

 さて、仏法においてもこうした教えはあります。
 すべては空(クウ)だから、何にもとらわれず自由闊達にやりましょうというだけではありません。
 本有(ホンウ…本来有している)という考え方があります。
 私たちがいのちと共に受け継いでいるものは遺伝子だけではなく、霊性をもたらす仏心もそうです。
 生物学は人間の類書来歴を解き明かしますが、仏心の発祥は進化の歴史をいくら遡っても突き止められません。
 それを「本不生(ホンプショウ)」といいます。
 私たちは、本不生である「生き通しのみ仏」からいのちと仏心を分けいただいています。
 肉体を縁として二つの宝ものを授かり、預かった存在です。
 また、この世にいる間、二つはそれぞれが確としてありながら決して分けられません。
 二つの面を持つ一つの存在です。
 その状態を「而二不二(ニニフニ)」といいます。

 生き通しのみ仏は不滅であり、「生まれる」とは、それが人間というかりそめの姿をとったということであり、「死ぬ」とは、かりそめの姿が滅して不滅の世界へ還ることです。
 悟るとは、かりそめの姿をまとったまま不滅の世界へ入ることです。
 その境地が富饒(フジョウ…富み豊かなこと)な大安楽と、清浄な大欲(タイヨク)とをもたらすと説かれているのは当然です。

いのちは仏様からの預かりもの』と達観して生きるのは、悟りへ近づく一つの道でありましょう。
 大人が子供の手を引きながらこの道を歩めば、親殺し、子殺しはなくなるにちがいありません。


2008
04.09

経典に書いてあることは本当ですか

 大病に罹った方へ「観音経」をお勧めしたところ、素朴な質問をいただきました。
「海で暴風雨に遭っても船が沈まないとか、高い崖から落とされても大丈夫とか、本当にそうしたことがあるんでしょうか?」

 確かに「観音経」には、一見したことろ叶えられそうにない不思議なお約束が羅列されています。
 しかし、疑えば唱えられません。
 読誦が口先だけになるからです。

「本当かどうか」は、「それが真実を示すかどうか」ということであり、「自分」にどこまでもとらわれているか、それとも、心の底から自分の愚かさを知り、悪業を恐れ、「こんな私をお救いください」「お導きください」と、み仏へお任せできるかどうかがポイントです。

 真実を求めず、煩悩を主人公としている自分の姿から眼を背け、その場しのぎで渡る人生の儚さに気づくために、「空」の教えがあります。
 み仏からいただいたいのちの値打ちに見合った生き方をしたいならば、モノ(自分の身体を含めて)を頼りにしてはならず、我(ガ)を頼りにしてはならず、周囲の人を頼りにしてはならず、まちがった説を頼りにしてはなりません。
 すべて、蜃気楼のようなものだからです。
 因と縁によって成るものはすべて空です。
 たとえば、在ると思っている手の指も空です。
 たまたま事故に遭わず、病気にもやられていないから身体にくっついているだけです。
 最近も、ある工場で起こった事故によって失われそうになった方の指が落ちないようご加持を行ったばかりです。
 だからといって、身体を粗末にし、自分を粗末にし、周囲の人びとを粗末にし、いろいろな説を粗末にしてはなりません。
 それは、人生修行のために、み仏からいただいた環境世界という道具だからです。
 
 道具を活かすもの。
 それが大我(タイガ)であり、慈悲と智慧とによって成り立ち、清浄大欲を発します。
 慈悲と智慧から成るならば、それはみ仏そのものです。

大我=み仏」なら自分の内側へそれを求めれば良さそうですが、煩悩が凝固した我の壁は厚く、気まぐれな瞑想や自分探しの旅などで簡単に突き破れるものではありません。
 だから投げ出すのです。お任せするのです。おすがりするのです。
 そうすると、〈祈りの対象となっているみ仏〉と〈内心におわすみ仏〉との間で感応が起こり、内と外がなくなります。
 いつしか「大我=み仏」の世界へ入っています。
 修行とは、こうした過程です。
 皆さんがお経や真言を読誦するのも、写経をするのも、隠形流居合の稽古をするのも、知らぬ間にこの道程を進んでいることに他なりません。

 冒頭のご質問への答です。

「日常生活のひび割れを縁として愚かな自分を知ったなら、いつまでもそのままでいてはなりません。
 虚構欺瞞を離れたくなったなら、み仏の世界を信じて祈りましょう。
 救いは日常的な計らいを超えています。
 日常的な計らいの範囲ならそれは凡夫の世界であって、み仏の世界ではありません。
 だから、般若心経で『苦・集・滅・道も無い』と説いているでしょう。
 行うべきは〈苦・集・滅・道〉と現れている凡夫の世界からの超越です。

 船が沈みそうになったからといって、高い崖から落とされそうになったからといって、み仏の世界はびくともしません。
 観音経は、み仏の世界を説いているので、当然のことです。
 般若心経観音経も、『こだわらないで生きよう』『いつでも観音様の元へ行けるから安心だ』と理解し、信仰するならそれも結構でしょう。
 しかし、せっかく「超越」が示されているのだから、そこを目ざそうではありませんか。
 
 超越とは、日常を支配する我をうち破り、〈祈るみ仏〉と〈霊性の核となっているみ仏=大我)とが一体になることです。
 
 さて、経典の不思議はどこにありましょうか」
2008
04.08

釈尊の誕生日

 今日は釈尊誕生日です。
 釈尊誕生日とは人間としてこの世に生まれた日、覚りを開いて生まれ変わった日、そして、説法を始めた日があると考えています。
 甘茶の嬉しい今日、思い出すのは「甘露の法門」が開かれた場面です。

 悟りを開いた釈尊は法楽に憩い、「この法は、相当の智慧がなければ理解しがたい。煩悩にまみれた人びとには無理であろう」と考えました。
 それを知ったバラモン教の最高神ブラフマンは跪いて願いました(勧請…カンジョウ)。
「この世には、智慧の眼があまり覆われていない人びともいる。
 そうした人びとすら、法を聴かねば皆と共に堕ちゆくであろう。
 穢れた者が教えを説くこともある。
 悲しみに沈む人びとを、生と死に敗れた人びとを哀れみ救いたまえ。
 あなたの法は、必ずや理解者を得るであろう」
 請われた釈尊があたらめて仏眼で世間を観るとさまざまな人がおり、来世の恐ろしさを知りながら生きている人すらありました。
 それはまるで色とりどりの蓮華が咲く池であり、水面から出られないものも、水面でとどまるものも、そして、水面から抜け出して泥水に濡れることなく屹立しているものもあります。
 ついに、釈尊ブラフマンへ告げました。

「彼らに甘露の門は開かれたり耳ある者は聞け。古き信を去れ」

 安心したブラフマンは、礼拝して消えました。

 釈尊は、甘露の門を開くためにこの世へ来られました。
 それから2500年。
 この世の苦を見つめ、そこから脱する方法を信じて行い悟りを開く「声聞(ショウモン)」、因縁のつながりを見極め、過去から未来へつながるいのちの流れをつかんで悟りを開く「縁覚(エンガク)」、布施行や精進行などの六つを実践して自他を救う「菩薩(ボサツ)」と、道は明確になりました。
 しかし、私たちは「耳ある者」や「古き信を去る」人になっているでしょうか。
 教えを学び、実践し、救われ、救っているでしょうか。
 仏弟子としての誓いをあらたにしたいものです。
2008
04.07

日本の歌 61 翼をください

翼をください
  作詞:山上路夫 作曲:村井邦彦 1971年 フォークグループ「赤い鳥」

1 いま私の願いごとが
  かなうならば翼がほしい
  この背中に鳥のように
  白い翼つけてください
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい

2 いま富とか名誉ならば
  いらないけど翼がほしい
  子どものとき夢みたこと
  今も同じ夢に見ている
  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ

  この大空に翼をひろげ
  飛んで行きたいよ
  悲しみのない自由な空へ
  翼はためかせ
  行きたい


 あの時代――。
 美濃部東京都知事、黒田了一大阪府知事、そして青島幸夫・立川談志・田英夫・一流斉貞鳳・木島則夫といった国会議員の面々。
 自民党の63議席に対して、社会党が39、民社党が6議席を持っていた国会。
「ピース」のサインが流行り、「アンアン」「ノンノ」を手にした若い娘たちがホットパンツで街を闊歩。
 沖縄が返還され、中国が国連へ復帰し、川端康成の「美しい日本の私」が、人びとを日本再確認の旅へと誘った。

 挫折した私は「浮かれる」空気になじめず、時代の胡散臭さを感じながら商売に没頭していた。
 朝から晩まで「稼ぐ」ことで時代の頼りなさから逃れ、浮き草のような心の不安定さから逃れようとしていた。
 
 歌は心の友であり、親友に似ている。
 親友とは「自分にとっての親友」であり、他の誰かにとってその人がどうなのかということとはまったく関係がない。
 国策研究会というグループで勉強していながら、政治的なメッセージを発する芸術に懐疑的だった私は、歌を道具として用いようとする人びととは無縁に過ごしてきた。
 グレープの「精霊流し」は本もの、「~」は怪しい、と勝手な峻別をしてきた。

 そうした関係で、私は、時代の香りが濃いこの歌を口ずさんだことは一度もないが、、あらためて歌詞を読み旋律を思い出してみると、やはり懐かしい。
 この歌を口ずさんだ人びとと一緒に生きてきたことを、心からありがたく思う。

 でも、「自由な空」に連想が起こる。
 頭に浮かぶのは、バグダッドに築かれている巨大なコンクリートのである。
 アメリカの軍隊に守られたイラク政府は外界と遮断されたの中で政務を行い、「治安は改善されつつある」と発表している。
 一体、日本人のどれだけがの存在を知っているのだろう。
 ドイツの人々は、ベルリンのを取り除くために途方もない時間と人命を費やした。
 バグダッドはどうなるのだろう。

 そして、チベットを救うために非力な私に何ができるだろうかと思う。
 チベットを侵略し文化を破壊し人権を踏みにじっている中国で行われる予定のオリンピックとは何だろう。
 やはり、あの時代の胡散臭さを思い出してしまう。
 今、中国へ抗議する人びとは歌を唄わない。
 デモを行い、勉強会を行い、インターネットへメッセージを流す。
 私は、映画「チベット チベット」を上映しダライ・ラマ法皇の教えを紹介する催しを行っている。
 
 時代は変わった。

 ともあれ、人びとへ山ほど希望や夢を与え、励まし、たくさんの共感を得、支持されるこの歌は名曲に違いない。
 流行った時代の空気を吸わなかった若い年代に唄い続けられる時、 真に名曲であることが立証されることだろう。
2008
04.06

第一回が終わりました

 4月5日の「チベット チベット」上映会は、25名の方々が参加され、無事、終了しました。

 鑑賞が終わり、ミニ法話を行いました。

 因と縁が結果をもたらします。
 この上映会を行うきっかけとなった「因」は、チベットで問題が勃発した直後、新聞に掲載された小さな記事でした。
 それは、チベットの人々が家畜のようにトラックの荷台へ載せられてどこかへ運ばれたという運転手の話です。
 その瞬間、以前観たことのある映画『チベット チベット』で同じ証言が行われていることを思い出し、中国政府の公式発表などをあてにせずとも、チベットで何が起こっているかを知りました。
 弾圧と虐殺です。
 当初120万人を殺した中国軍が今回は人道的にふるまうなどということがあり得ましょうか。
 しばらくして世界のマスコミが限定された地区で調査をした際、いのちをかけて僧侶たちが叫んだ「皆、嘘だ!」「自由が欲しい!」「ここから出たい!」「観光客は皆、中国の当局者だ!」こそが真実であるにちがいありません。

「縁」は、高輪プリンスホテルで行われたダライ・ラマ法王の講演会で法王こそが真の聖者であると確信し、人生の師の一人と定めていたことです。

 だから、私はチベットの惨状を見捨ててはおけません。
 菩薩道を歩もうとしている行者であると同時に一人間として、見捨ててはおけません。

 さて、法皇の教えは、映画にあり、お手元へお渡しした資料にもありますが、内容の一部に触れるならば、一つは、科学と宗教を対立させて考えてはおられないことです。
 そもそも仏法は予言やお告げではなく、道理を重んじ、世界へ広がる過程ではそれぞれの地域の文化などと融合しながら変化し、発展してきました。
 進む科学や進む文明と矛盾したり対立したりせず、道理の宗教として今日、世界各国で花開いています。
 法皇も、科学者たちと対積極的に話を重ねてこられました。
 科学と宗教は、共に人びとの幸せのために切磋琢磨してゆかねばならないという法皇の姿勢は、世界の人びとから共鳴されるのではないでしょうか。

 もう一つは、教えを鵜呑みにせず、自分で納得できるかどうかよく考えてからやりなさいという指導です。
 私はいつもメモをとり、それを整理・復習・確認するというやり方でここまで歩んできたので、よく解ります。
 仏教が道理の宗教である以上、当然であり、どのような検証をも受けようとする教えは、実に信じられるものです。

 法王は、私たちへ呼びかけておられます。
「日本はすばらしい国だ。日本の人々にも手を貸して欲しい」
 日本の人々とはここにいる私たちです。
 できることをやろうではありませんか。

 先ほど、入場された方々からお布施をいただきました。
 この尊いお金で次回の申込みを行い、以後、毎月一回、チベットの人々が救われるまで上映会を続けます。
 皆さんは、ぜひ、お知り合いへお声がけをしてください。
 一人でも多くの方々に真実を知っていただき、チベットが解放されるよう、できることをやろうではありませんか。


 こうした成り行きで、毎月一度、上映会を行うことにしました。
 第二回は以下のとおりです。

[日 時]  5月3日(第一土曜日)午後2時より
[場 所]  仙台市旭ヶ丘青年文化センター
[入場料]  なし
[申込み]  電話・ファクス・メールなどで
 
 ゲストの方からお話をいただき、映画で流れるダライ・ラマ法皇の法話に関するミニ講話も行う予定です。
 この貴重なドキュメンタリー映画によって、一人でも多くの方々に真実を知っていただきたいと心から願っています。

 上映会が終わってビルの外へ出たところ、日本にいる人びとは、春の陽光の中で耀いています。
 平和であればこその光景です。
 しかし、チベットでは、今、こうしている時も、チベット人は泣き、呻き、苦しみ、奪われ、殺されつあります。
 生きている私たちにとって、日本の平和も、チベットの混乱も、同じ「現実」であることを忘れないようにしようと思います。
2008
04.06

守本尊道場造営計画日記 15 ―自灯明―

 4月4日は清明でした。
 セイメイ。何と嬉しい響きでしょう。
 古来、日本人の心映えは、こうした「清らからで明るい」ところを核としていたのではないでしょうか。
 日の丸を国旗にしたご先祖様へ感謝したいものです。

 さて、釈尊の「覚り」に憧れ、お大師様の示された「方法」を信じてここまで歩んできて、思わぬことに気づかされました。

 釈尊は入滅に際し自灯明法灯明(ジトウミョウ、ホウトウミョウ)」すなわち、「自らを灯明とし、法を灯明として行を続けよ」と説かれました。
 お大師様は、大日経にある如実知自心(ニョジツチジシン)」すなわち、「実の如く自分の心を知る」方法を実践されました。

 釈尊の示した「自分」とは大日経の「自心」と同じです。
 それは何か。
 やはり大日経に明示されています。
「自心に菩提(ボダイ)及び一切智とを尋求(ジング)すべし。何となれば、本性清淨なるが故に」
 清浄なるもの、穢れのない泉のようなもの、それはみ仏の心です。
 私たちは清浄なみ仏の心を自分の心としていただいていればこそ、より、まっとうに生きようとしないではいられない菩提心も、真実を知る一切智もはたらくのです。

 そうすると、釈尊の遺言が持つ本当の意味が解ります。
「自分自身の心の奥にあるみ仏の心に導かれて修行を続けなさい。
 まちがっても、気まま勝手な我(ガ)にひきずられてはなりません。
 あなた方は、誰でも、清浄な心を持っているはずです。
 灯明となって行く手を照らすものは、それ以外にないのです」


 この「自灯明」の「自分」を、ただ「自分の心」と考えている限り、なかなか清浄な本性は感得できないことでしょう。
 心の奥におわす清浄極まりない満月のようなみ仏の心には、いつも煩悩という群雲がかかっているからです。
 群雲は厚く、漫然と自分探しをしても群雲しか見えないのは当然です。
 だからこそ、満月を求める行者たちは二千年以上も群雲の向こう側を観るための行を深めてきました。
 修法の「次第(手順。手順を記したもの)」は、み仏に導かれてこの方法を探求した無数の行者たちの遺した尊い遺産に他なりません。

 ならば、釈尊の「自灯明」を実践したい人はすべて専門の行者にならねばならないかといえば、そうではありません。
 たとえば四国八十八霊場巡りなどもその有力な方法です。
 しかし、それには条件があります。
 漫然と「自分探し」をやるのではなく、遺された手順を信じ、我を捨ててそれに従い、実践しつつ巡ることです。
 せっかく霊場へ足をはこんでも、自分らしく自分探しをしようなどと我を張っているのでは、哀しいことです。
 霊場と別世界として活かすためには、ぜひ、我を捨てていただきたいものです。

 当然、お経や真言を読誦することも写経することも尊い実践方法です。
 その場合も同じく、正しく手順を学び、きちんと実践しましょう。

守本尊様のご供養申込数累計  130体
○唱えた真言の回数累計  750,600回

2008
04.05

映画『チベット チベット』鑑賞会でのお話です

 以前、ブログに書き、機関誌『法楽』にも掲載したノートをまとめました。
 この流れにそって法話を行います。

[ダライ・ラマ法王講演会 一]
 
 十月三十一日、東京都品川の新品川プリンスホテルにて、チベット国の最高指導者ダライ・ラマ法王テンジン・ギャツォ猊下の講演と謁見・懇親会が行なわれました。
『密教21フォーラム』と『全真言宗国際救援機構(ASIRA)』の共催です。
 親しく質問にもお答えいただけるという希なる機会なので、妻共々参加しました。
 その模様を何回かに分けて記します。
 オープニングの後、ドキュメンタリー映画『チベットチベット』が上映されました。
 半世紀にわたり、中国によるチベット国の簒奪という恐るべき蛮行が行なわれていることは知っていましたが、この映画のおかげで、実情を詳しく知りました。
 ぜひ、多くの方々に観て、考えていただきたいものです。
 監督は、カメラを片手に必死の取材を敢行した在日コリアン三世の金森太郎こと金昇龍氏。
 以下、映画で流れたダライ・ラマ法王の言葉などを記します。

「新しい科学の知識と伝統ある宗教の智慧が一つになって初めて、完全な人間になる」 
 
 ヨーロッパ人の女性が、床にいたハチを叩き殺したのを見て、法王は笑顔で諭した。

「刺さないハチを殺してはいけない。キリスト教は虫への思いやりを説かないが、仏教は、人間も虫も同じと観る」 
 
 中国政府は、チベット人がダライ・ラマ法皇の写真を持つことすら禁じている。

「私たちが求めるのは、チベットの平和を含む人類の平和である。一人一人に世界的使命感を持って欲しい」 
 
 観光客にあふれるチベット自治区の寺々には、弾圧の様子は見られない。
 しかし、今や、チベット人六百万人に対して、囚人なども含む中国人は七百五十万人になった。
 ポタラ宮殿は、高額な撮影料を取る部分もある観光スポットとなり果て、観光客のほとんどは中国人である。
 そこは中国人兵士に守られ、江沢民の言葉などが掲げられている。
「神の国」を意味する首都ラサでもチベット人たちは困窮し、町は、かつてのチベットにはほとんどいなかった物乞いに溢れている。
 日本風に髪の色分けをするパーマ屋には若い中国人女性が群がり、店員は物乞いに訪れた薄汚いチベット人を、犬猫のように追い出す。
 チベット語しか話せないチベットの人々は、経済活動に参加する機会すら与えられない。
 過去五十年間に餓死するなどして亡くなったチベット人は百二十万人にもなり、現在も六百人が政治犯として収監されている。
 一般の中国人たちは、こうした事実についてほとんど知らされていない。

「チベット人は、自分たちの言葉や文化を知り、自由になり、初めて中国の文化の良さも解る」
「チベットが良くなれば、中国も世界も良くなる」
「真実がどのようなものか、いつか中国人たちに解る時が来ることだろう」


 亡命するチベット人のほとんどは、修行の地を求める僧侶や尼僧、あるいは子どもたちである。
 人々は、標高六千メートル、氷点下三十度にもなるヒマラヤを夜間歩き、越境を試みる。
 途中でいのちを落とす人々は数知れない。
 ネパールにある難民キャンプは、始めた当初一年で八百人が救いを求めて来たが、それが毎年、二千人、三千人、四千人と、うなぎ登りに増えており、凍傷などに苦しむ人々を救援する活動は困難を極めている。
 やっと亡命政府のあるインドへ入っても、求めていた生活がなかなか得られず、うつ病になったり、チベットへ戻りたくなったりする人々がたくさんいる。
 もちろん、帰国は許されない。異国では、亡命者の生きられる場所は少ないのである。
 インド北部ダラムサラで、これから修行を始めるため謁見を許された若き亡命者たち、法王は親しく言葉をかけられる。

「お前たちこそがチベットの主人である」
「チベット人、中国人と分けて考えてはならない。同じ人間ではないか。中道こそが大切である」

 法王は、最後に監督へこう言い、握手された。

「日本人にも、チベットの法灯が消えぬよう、手助けをして欲しい」

[ダライ・ラマ法王講演会 二]
 
 映画が終わり、梵字の書かれた法被をまとった行者たちが、暗い会場で真言密教独特の太鼓などを打ち鳴らす。
 やがて、スポットライトを浴びた法王が、先導僧たちに続き数名の弟子たちと共に、にこやかに歩を進められ、自然に立ち上がった参加者たちは拍手をもって法王をお迎えした。
 笑顔を絶やさぬ法王は、登壇前にひざまずいておられる様子。
 きっと礼拝であろう。
 真言宗の儀軌によってしつらえられた壇上で足を組んだ法王は合掌し、法話を始められた。
 用いるのはチベット語と英語。
 向かって右下に控える男女二名が通訳である。
 
「ナーガールジュナの結界を張り、世尊に帰依する」 
 結界を張ってからものごとを行なうのは、密教行者の常である。

「私たちは釈尊の法灯を嗣ぐ者であり、同じ師の弟子である。
 しかし、法友一人一人の積んだ功徳は少ない。
 集めれば大きいものになるが、それでも足りない。
 それぞれの行動には限りがあるからである。
 お互いに学び合えることはたくさんある。
 学び合うことが大切である。
 チベット仏教から日本仏教へ教えるものも、その反対もある。
 学び合おう」

 法王は、適当なところで話を区切り通訳へ顔を向ける。それを合図に通訳は口を開く。
 
「形式張らずにやろう。
 後に質疑応答も行なう。
 形式張ったことは、本当の対話を妨げることがある」
「これから世界の平和と人権について語ろう。
 なお、平和とは、人間間だけのものではない、生きとし生けるものすべてにとって大切なのである」
「真の平和とは『暴力のないこと』ではなく、『身・口・意による慈悲の実践が行なわれていること』である。
 怒りや貪りによって動機づけられた行いが、平和を破壊する暴力などである」
 

 法王は、平和は生きとし生けるものすべてにもたらされねばならぬとしながら、〈人間にとっての平和〉とは何かを明確に解かれた。
 ただ争いがないだけでは、真の平和ではない。
 たとえば中国軍に押さえられ沈黙しているチベットに戦争はなくとも、平和もまたないようなものである。
 法王は、ここで、スポットライトが眩しいからと、サンバイザーを被られた。
 アメリカ人の友人からもらったもので、重宝しているという。
 会場は一気に和やかになった。
 法王は見かけの権威を自ら壊し、一瞬にして会場を緊張から解き放った。

「平和は心の中から生まれ、育てられる。
 強い意志によって実現されるものである。
 慈悲は、すべての生きとし生けるものに自然に備わっている。
 その種子はすべての生きものが持っている。
『私』という思いのある生きとし生けるものすべて(人間と動物を指す)に慈悲はあっても、それは、怒りやうぬぼれによってはたらかなくなる。
 自分で、自分がより良く生きて行くための条件を整えねばならない。
 愛や慈悲により、逆境となる条件である怒りや嫉妬やプライドなどをなくすことである」
 
「世界平和のため、慈悲の実践のためになさねばならぬ行いは、『慈悲心を持つこと』と『その反対のものをなくすこと」』である。
 私たちは、生まれながらにして、愛と憎しみと、相反する二つの感情を持っている。
 私たちは、一つのものを二面から見る。
 たとえば他人なら、『苦しみをもたらさぬように』と見れば慈悲であり、『苦しみを与えたい」』と見れば憎しみである。
 これらの二つは、決して同時には生じない。
 好きな人が同時に嫌いであることはあり得ない。
 しかし、同時でなければ、それらはさまざまに起こる。
 相反する二つは、異なった見方のもたらすものであり、愛を育てたいのなら、憎しみをなくすことである」

「大切なのは、心の持ちようを変えることである。心に平安がなければ、世界を平和にすることはできない。
 少しの鳩しか飛ばせなければ、少しの平和しかもたらされない。平和には多くの慈悲心が必要である。
 平和は内なる平和を元にして達成されなければならない。
 平和な社会の実現のためには、一人一人の心の平和・家庭の平和が必要であり、それが確立されるかどうかがポイントである」
 
「心には愛と憎しみが備わっている。
 一方を育て、一方をなくさねばならない。
 その必要性や根拠を考え、心の修行を積まねばならない。
 悪いものの観方により、憎しみや嫉妬が起こる。
 正しいものの観方により、愛や慈悲が起こる。
 そのための修行は二通りある。
 一つは宗教的な教えの実現、もう一つは宗教によらない心の育て方である」

「まず、宗教的方法によらないものから話そう。
 すべての人々は幸せを望み、苦しみを嫌がる。それが自然である。
 生まれてすぐ、新生児は母の胸に抱かれ母の愛を感じる。
 そして心の底から満足感を味わう。
 母の愛は人生の第一番目から大切である。
 それが与えられない子供は恐怖感などを持ち、生きられぬほどに生命力が弱る場合もある」
 
「最新の研究によれば、愛があれば脳(特に右脳)が活性化される。
 子供にとっては、母親のぬくもりが脳の成長にとても役立つ。
 医学によれば、心の平安は病気を治す。のんびりした状態で生活すれば、早く治る。
 また、医者や看護師の強い愛情は、効き目のない薬を与えてさえ患者を治すほどである。
 反対なら、いくら効き目のある薬を投与しても、なかなか良くならない。
 科学者の研究によれば、愛と慈悲の瞑想をした子供は、わずか三週間から四週間で心が穏やかになり、記憶力も伸びた。
 煩悩は免疫力を抑制する。
 愛や慈悲は免疫力を高めるのである」
 
 心と免疫力などとの関係は、体験上、それが事実であることを断言できる。
 ご加持の修法が心身の状態に良き変化をもたらすのは、行者にとって当然ですらある。

[ダライ・ラマ法王講演会 三]
 
 法王は、一言一言に身振り手振りを交え、子供へ言って聞かせるように説かれた。

「愛と慈悲が私たちに必要であり心身へ良き影響を与えることは、世間的、科学的、常識的、体験的にも判る。
 怒りは、心にも社会にも、すべてのものに悪影響を与える。
 アメリカやカナダの大学でも、もちろん、日本でも、こうしたことはよく研究されている。
 教育を通して心へ慈悲を浸透させるなど、人間にとって何が必要であるか、未来のためによく考えてみるべきである」

「幸せを得、苦しみを解く宗教的な手段を考えてみよう」

「宗教には、創造主を認めるものと認めないものとの二種類がある。
 認めるものは、神の愛が究極であり、永遠であると説き、神の愛・隣人愛・許しを説く。創造主を認めない仏教とは哲学的命題を考えれば違っているが、大いなるものの愛・人間同士の愛・寛容などの大切さは共通のものである。
 哲学的見解は異なっても、『困っている人を救う』など、実践においては同じである面が多い。
 すべての宗教は同じように愛や慈悲を説いており、それを高めるという目的において協力し合えるものである」

「特に仏教は、慈悲の大切さを強く説く。
 仏教の真髄は『縁起』にある。
 それは、因と縁と果のつながりを説く。
 すべてのものは相互依存によって生起するのである。
 苦(ク)・集(ジュウ)・滅(メツ)・道(ドウ)の四諦(シタイ)は、集という原因によって苦が生じ、道という原因によって苦が滅すると説くものであり、すべての仏教において共通・根本・土台となる真理である。
 仏教には大乗(ダイジョウ)・小乗(ショウジョウ)とあるが、分け隔てをするのは誤りである。小乗(ショウジョウ)仏教は仏教の土台であり、これなくして仏教は成り立たない。
 小乗(ショウジョウ)仏教の上座部(ジョウザブが土台であり、その上に大乗(ダイジョウ)仏教の菩薩乗(ボサツジョウ)があり、それをふまえて密教の金剛乗(コンゴウジョウ)がある。
 三つに矛盾はなく、そろって一つの建物を構成している」

「我々の宗教的実践の中心は、非暴力と慈悲である。
 慈悲と縁起の教えには深い関係がある。
 他者を害することが因となって不幸という果が生じ、他者を愛することが因となって幸せという果が生じる真理を観るのが智慧である。
 宗教と無関係なやり方によっても同じ縁起となること。
 また、こうした事実が科学的・常識的に理解できるのは、仏教の正当性の根拠である」

「私はこれまで、科学者との対話を重ねてきた。
 ある人から、科学者との対話は仏教を殺すと言われたことがある。
 しかし、仏教は、教えの裏付けや理由を明確にして実践してゆかねばならない。
 釈尊の言葉だからと、盲信するのではない。
 科学者はよく調べるが、仏教徒も同じく調べ、実践してゆかねばならない。
 この点においては、科学と宗教とは似ている。
 我々は、他者の利益となることと、解脱を最終的な目標とする。
 科学者もまた、人類のためを思い、人類のためになろうとする。
 我々と同じである。
 よく調べ、分析し、正しいかどうかを考えるという方法は大切であり、その対象となる経典はとても重要である」

 
 すべてがすんなりと納得できる内容である。
 特に、宗教的な教えは常に時代によって検証され、確信を土台として現実的に生かされねばならないとする考え方は、まったく同感である。
 こうした柔軟性と理性的姿勢によって、仏教は世界各地で、その地域なりの精神的風土になじみながら、他の神々と争うことなく生かされてきた。
 当山は、「魂で受けとめ、血肉となった仏法を、たった今、自他のために生かす」ことが使命であると信じてここまで来たし、これからもそうあり続けたい。

 ところで、必死になってメモをとっている人はほとんどいない。
 どうしたことだろう。
 聞いた言葉などは、すぐに忘れてしまう。
 珠玉の言葉を心へとどめたいならば、復習せねばならない。
「学びて習う」のは基本ではないか。
 もちろん、貴重な講演内容は後に本になったりはするだろうが、そうしたものを読むことと、霞の中へ消えゆく記憶をたどりながらメモを整理することでは、天と地ほどの違いがある。
 たとえつたないメモでも、会場へ行けなかった方々のためになるならば、ありがたい。とてもありがたいと思う。

[ダライ・ラマ法王講演会 四]

 法王は、力強い言葉を続けられた。

「般若経に説かれている菩提心(ボダイシン)は空性(クウショウ)によって成り立つ。
 空性とは、すべては依存によって成り立っているという原理であり、大乗仏教の真髄である」


 自分が今、生きているのは、親がいたからであり、学校があったからであり、食べものがあるからであり、空気があるからであり、さらには運転中に他の車がぶつかってこなかったからである。
 数え切れない諸条件が重なり続けているから、生きていられる。
 すべての人々は「おかげさま」「お互いさま」でしか生きられないのである。

「すべての衆生は楽を望み、苦を望んでいない以上、一切衆生に権利ありと言うべきである。
 仏教では、人間だけの権利を考えない」


 ここで言う権利とは「尊ばれるべき尊厳」だろう。
 人間も、犬も、金魚も、気分良く楽しく暮らしたい。
 皆がそうであり「お互いさま」で生きている以上、尊び合わねばならないのは当然である。
 もしも犬を虐待するならば、それはこの世に虐待というおぞましいものを生じさせたのであり、自分だけがその悪徳のもたらす影響と無縁であることはできない。

「マントラ(真言)とは、心を護るものである。方便・修行によって、心をいかに護るかが問題である」

 心は意図して護られねばならない。
 心を放っておくと、それはキツネのように、サルのように、ヘビのように、オオカミのように、カラスのように揺れ動き、時には善いことを行なっても、時には悪しきことを行う。
 霊性を持った人間らしく生きるには、自分で自分の心を創り、護って行かねばならない。
 釈尊も、生涯をかけて「放逸であってはならない」と説かれた。
 心を放置しておくと、放任主義で育てられた子供のように自分本位で生きてしまうのが、人間の宿命であり、その心が諸悪をもたらす。
 殺人、強盗、詐欺などあらゆる事件の陰には、必ず自分本位という邪心が隠れている。
 それを抑えるには、み仏の言葉であるマントラを唱え、教えを実践することである。
 
「金剛杵(コンゴウショ)は、方便と智慧を表わすものである。
 方便とは諸尊の瑜伽(ユガ…悟りの境地)を観想することである。
 智慧とは空の理解である」
「金剛鈴の音は空性を説くものであり、金剛杵と必ず二つを用いるのは、方便と智慧が欠かせないからである」


 金剛杵とは、両端の尖った金属の仏具である。
 魔ものを破壊する武器であり、どんなものにも負けず修行など善きことを行なう決意や力などを表わす。
 金剛鈴とは、手に持って鳴らすリンである。
 ここで、意外なことに、法王は仏壇の前などに必ず置かれている卓上のリンを叩かれ、これは何に使うのかと通訳へ訊ねられた。
 そして、瞑想の始まりと終わりに使えば便利だねと笑われた。

 ここまでで、講演は終わり、質疑応答となった。
 私はまっ先に挙手をし、お尋ねした。
 会場は広いので、前から三番目の列にいるとはいえ、大音声で話さねばならない。
「聞く耳を持たぬ者は、いかにして救われ得るでしょうか?」
 日々、人生相談を受け、祈り、世間を観ている者として、最大の関心事の一つである。
 むろん、霊性・仏性は人類共通であり、深い心のレベルに入れば通じないことはあり得ないと信じて修法するのが、密教行者の立場ではある。
 しかし、「真理をふまえた言葉」の通じない体験を数限りなく重ねられたであろう世界最高の頭脳を持つ聖者の意見を、どうしても聞きたかった。
 中国に侵略され、百万人以上の同胞が殺された国の最高指導者としてどう考えておられるのかを聞きたかった。

「宗教は世界中にさまざまあり、何を信じるかは自由である。
 仏教を信じるかどうかも自由である。
 一般論としては、先祖から受け継いだものを信じれば良い」
「信じない人へは教えを説いても無意味である。
 しかし、愛と慈悲は、どのような人にとっても特に信じ実践すべきものである。
 それには普遍的な価値があるからである。
 それがある人は幸せになり、ない人は不幸になる」
「四諦(シタイ…苦・集・滅・道)の真理と、愛と慈悲の力は、必ずコモンセンスを動かす。
 だから、私は、いかなる場合もこれらの根本を話すのである」


 法王は、「世界中の人々に仏教を信じさせることによって世界に平和をもたらそう」と考えてはおられない。
「人間にとって普遍的な価値のあるものを共有することによって共に平和を創ろう」と訴えておられる。 他の宗教宗派を否定し、他宗で信じる神や仏を要らぬものとし、自分の宗教へ改宗させようと争う姿勢とは正反対である。
 何が世界にとって必要なのか、あらためて教えられた。

 法王は、こちらの目と通訳の目を交互に見ながら、はっきりと説かれた。
 そして、次の質問者の声が小さくて聞き取りにくいので、前へ出るようにと指示されてから、わずかの時間、もう一度じっと私の目を見つめ、にっこりと笑顔になられた。
 目と目を合わせていたのは十秒もなかったはすだが、法王は心で「解ったかな?行者よ」と言っておられた。
 後の呼びかけは「仏弟子よ」あるいは「法友よ」だったかも知れない。
 しかし、私は、視線の絡み合った数秒の間に、まぎれもなく法王の弟子となった。
 法統(ホウトウ)の問題ではなく、私淑(シシュク…人知れず尊敬し、模範とすること)の問題である。
 法王は、会場を去られるまでに、何回もこちらを見られた。師であり、父であると確信した。

[ダライ・ラマ法王講演会 五]

 次いで、会場から、前世と来世をどう考えるかという質問があった。

「宗教哲学には、創造主の存在を受け入れるものと、受け入れないものとがある。
 仏教は後者であり、すべては因と縁によって成立していると考える。
 因には本質を形成する『実質因』と、『助けとなる因』とのカテゴリーがある。
 たとえば、水は液体であり、氷は固体であるが、氷の実質は水である。
 この場合、水の存在が実質因であり、それに低温という助けの因が加わって氷ができたのである」
「実質因は不変である。
 物を形勢する実質因も不変、心を形成する実質因も不変であり、物質が実質因となって心を創ることはあり得ない」
「物質は、あくまでも物質的な要素を持つものが実質因となって存在しているのである。
「意識にはさまざまなレベルがあるが、心の原初はあくまでも意識でなければならない。
 どこまで遡っても、意識である。
『この心』があるのは、明らかにものを知り得る意識があるからである。
『この身体』の実質因もまた、どこまで遡っても物質的な要素をもったものでなければならない」
「脳によってもたらされると調べられている意識のレベルは低い。
 原初の心とも言うべき微細で高度なレベルについては、科学によって説かれることはない。
 目に見える世界について調べるのが科学であり、目に見えない世界について調べるのが宗教である」


 原初の心は不変であり、前世も現世も来世も、その中へ万華鏡のように現れるのである。
 心は、心によって創られ、心によってその根本をつかみ得る。
 他にいくつかの質問が出され、法王は答えられた。

「私は、心には縁起の真理を抱き、愛と慈悲を実践しようとしつつ、ここまで来た」
「修行は、①知識を得る。②それについて納得を得られるまで考える。③確信を得たものを、ゆっくりと時間をかけ心に馴染ませるという順番で行なうべきである。
 すべての宗教はこのコースをたどる。
『善き変容』は必ずそうである」


 法王は、自分で納得のできるように自分の心を創るのが真の宗教であると説かれた。
 心が正しくはたらくまでには時間がかかるとも説かれた。
 のたうちまわりながらここまで来た行者としては、すべてに頷くのみである。
 妄信させよう、あるいは早く信者にしてしまおうとする宗教は、必ず邪知をまとっているものである。
 景品を餌にして人を集め、場の雰囲気で判断力を失わせ、そのすきに高価な羽毛布団などを売りつけるやり方と同じである。
 真の宗教は、縁の人に考えさせるはずである。
 そして、確信を持つかどうかは、その人にゆだねる。
 そうでなければ、真の発心(ホッシン)(帰依(キエ)しようとの決心)はあり得ないし、時間のかかる『善き変容』はもたらされない。

「仏教者は、『この二十一世紀に生きる仏教』について話さねばならない。
 今の悲惨な状況の原因は、必ず過去にある。
 時間をかけて過去を調べる必要がある。
 そのために、私は対話を進めるのである。
 皆で考えねばならないからである。
 二十一世紀は、対話を進めて行く時代である。
 広島、長崎といった歴史的事実を持っている日本人には、世界平和へはたらきかけて欲しい。
 皆さんなら必ずできる!!」


 法王は合掌され、にこやかに会場を後にされた。

[ダライ・ラマ法王講演会 六]

 最後に昼食・謁見(エッケン)会の冒頭に行われたスピーチを記しておきます。

「法友へ心から感謝する。
 このご縁が長続きするよう願っている。
 私は1967年を初めとし、幾度も来日している。
 日本の最初の印象は、『古い伝統的文化と近代的な科学の発展とが両立した国』というものだった。
 良い習慣と近代的な考え方はこれからも必要なものである。
 神道のお祭も貴重である。
 アインシュタインが認めた通り、日本の仏教はすばらしい。
 日本の皆さんは、世界へ貢献できるところ大である。
 その後も、精神的文化の発展が科学の発展と共に行なわれていることを実感している。
 両面で豊かな伝統は、世界平和と人間の未来の発展に欠かせない」

「私は、一介の僧侶として旅をし、世界へ貢献できていると感じている。
 私には、二つの目的がある。
 一つは、精神的発展の手助け、より良い人間になろうとする人の手助けをすることである。
 もう一つは、各宗教には見解、実践、儀式の違いはあっても『足るを知る。慈悲心を持つ』などの共通した徳目があり、それを人々の心へ浸透させることである」


 法王は、正面テーブルで人々と親しく言葉を交わし、昼食もそこそこに、次の会場である広島市へ向かわれました。
 終始一貫、表情は柔和でありながらピンと首が立ち、歩く速さはとても七十歳を超えた方とは思えず、一挙手一投足にまったく年齢を感じさせない輝きを伴っておられました。
 
 今回の体験ではからずも弟子となった私は、これから「修行は、①知識を得る。②それについて納得を得られるまで考える。③確信を得たものを、ゆっくりと時間をかけ心に馴染ませるという順番で行なうべきである」と説かれたとおり、おりにふれて教えを復習し、時間をかけてそれを熟成させ、「善き変容」を得たいと願っています。
 そうした生き方がご縁の方々にとって何ごとかであればありがたいと心から願っています。
 早くも実感できる善き変容の一つは、常に根本を説く決心がついたということです。
「四諦(シタイ)の真理と、愛と慈悲の力は、必ずコモンセンスを動かす。だから、私は、いかなる場合もこれらの根本を話すのである」
には、ドンと背中を押されたような気がしました。
 これまでは、講演や法話にあたり「皆さんになじみのないものを、いきなりぶつけないようにしよう」といった遠慮がありました。
 しかし、万人共通のところに立つならば必ず通じるはずです。
 そして、もしもなじみが薄い、あるいは耳にしたことがない言葉や教えであっても、それこそが毎日懸命に生きておられる皆さんにとって、新鮮で爽やかな風となることでしょう。
 実践するには、自分自身が常に根本に立っていなければなりません。
 修行を深めねばなりません。

 法王からいただいた宝ものが皆さんにとっても宝ものとなるよう、祈っています。


2008
04.04

『八正道』により『四苦八苦』を克服しましょう 6 ―病苦―

 今回は、『四苦八苦』の三番目、病苦の克服法です。
 かつて、「後厄年の過ごし方 その3」で、病苦について書きましたが、もう少しつけ加えます。

1 病気になった場合に現れる苦には三種類あります。

 一つは、痛み、だるさ、辛さ、苦しさなどの肉体的な苦です。

 もう一つは、すべてが移りゆくことを知らされることです。
 私たちは無意識の裡に「今の自分は明日もいる」と思っていればこそ、希望を持ち、励み、誠実に生きようとします。
 重い責任を担っている人などは、「自分がいなければ、この世は成り立たない」と思ってもいます。
 しかし、いざ、自分が入院してみれば、周囲の人びとは「心配しないでしっかり治してください」などと慰撫しつつたちまちにして新たな状況の中でやり始め、口では「安心したよ」などと言いながら、心中ではガッカリさせられます。
「立場」など、いつでもヒョイと脇へ置かれて何の不思議もないのに、私たちはイスがないと不安であるばかりでなく、ともすると、イスが自分そのものであると勘違いしがちです。
 無論、重篤な病気であれば、死を意識せねばならなくなります。
 自分のいのちが移りゆくと実感した時、初めて行く先を思い、亡き後を考えます。
 あの世、この世、過去世、祖先、神、仏、といったものが重い想念となってたち顕われもします。
 こうした段階で、「人生の大事を何一つ掴んではいませんでした」と当山の門をたたく方もおられます。

 もう一つは、失う苦です。
 どんなに忙しくはたらいていた人も、はたらけなくなります。
 自分の一生をかけた研究でも、中断せねばなりません。
 あるいは断念する場合もありましょう。
 可愛い子どもたちを養う生き甲斐の時を失います。
 確かだった「充実の時間」を生きることはできません。
 そして、自分のいのちを失うという恐怖は死魔を呼びこむ場合もあります。
 
2 苦は共通の言葉による呻き「愚痴」を生みます。
 
「どうして私が…」「なぜこんな時に…」「こんなことなら…」「どうしたら良いのか…」「あいつのせいで…」「俺はバカだった…」などの言葉です。
 原因のない結果はありません。
 例えば、はたらき過ぎたから、酒を飲み過ぎたから、親から病気になりやすい体質を受けたから、などなど。
 もちろん、不意の事故や、血液製剤による肝炎などの避けがたい原因もありますが、いずれにしても、原因が解ったからといって、事態を受け容れることは用意でありません。

3 釈尊は、言葉となってやるせなく生じる思いを、言葉そのものをコントロールすることによって克服せよと説かれました。

 それが「正語(ショウゴ)」です。
 十善戒における言葉の戒め、すなわち、「不妄語」「不綺語(フキゴ)」「不悪口(フアック)」「不両舌(フリョウゼツ)」を避ける決心をしましょう。
 慈雲尊者は、抑制としての戒律に具体的な目標をつけ加えられ、不妄語は「正直」を、不綺語は「高尚」を、不悪口は「従順」を、不両舌は「交友」をイメージして実践せよと説かれました。
、正直で嘘のない言葉、志を汚さぬ飾りのない言葉、柔軟な心で状況に対応することによって生まれる柔らかで穏やかな言葉、誠の交流を貫く言葉など、周囲の人々への思いやりを忘れぬ言葉を用いるよう心がけるのです。

 さて、釈尊の言葉に関する説法は『法句経』にまとめられており、そのいくつかを記しておきます。
 経文はくり返し読むことが肝心です。
 一字一句をきちっと眼で追い、できれば声に出して読誦したいものです。
 実践なくして苦の克服は不可能です。
 経文を導きとして、自他のために、克服しましょう。

「夫(ソ)れ士の生まるるや、斧の口中に在るがごとし、身を斬る所以(ユエン)は其(ソノ)悪言(アクゴン)に由(ヨ)る」
(人は生まれながらにして、口に斧を持っているようなものである。悪しき言葉となって振るわれる斧は、相手を傷つけるだけでなく、自分をも傷つけるのである)

「諍って少利(ショウリ)を為すは、失財を掩(オオ)うが如く、彼に従って諍(アラソイ)を致し、意(ココロ)をして悪に向かわしむるなり」
(はかないこの世の利益を求めて他と争うのは、自分の徳が少ないことを覆いかくそうとするようなものである。
 我が利益を求めて争い続ければ、ますます徳を失い、心は他を傷つける悪へと向かうであろう)

「言(ゴン)をして意(ココロ)の可(ヨロ)しきに投ぜしめ、亦(マタ)歓喜を得しめ、悪意に至らしめざれば、出言(シュツゴン)するも衆(ミナ)悉(コトゴト)く可なり」
(悪意がなく好ましい言葉のみを用い、周囲の人の心を和ませ喜ばせる言葉を用い、周囲の人びとが悪意を持たぬような言葉づかいができるようになれば、そうした言葉は皆、正語である)



 なお、病苦を抜く真言は秘密となっており、伝授によらねばならず、守本尊様の御前で人の道を歩むことを誓えばお授けできます。
 ご誠心の方は、どうどお申し出ください。
back-to-top
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。