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2008
06.30

四国遍路 5

【第3番 亀光山金泉寺
  本尊:釈迦如来
  御詠歌:極楽のたからの池を思えただ 黄金の泉すみたたえたる 

 時の流れが余分なものをそぎ落とした清々しさを覚える。
 護摩堂を脇にした本尊の見えない本堂、右の大師堂はいずれも堂々としており、左手のお地蔵様、右手の金色の剣にからみつく倶利伽藍(クリカラ)龍王などには、さりげない中にも目を留めさせて離さない味わいがある。
 本格派の価値ここにありといった感がある。
 千古変わらぬものの奥深さを体感させる鐘楼の鐘の音。
 納経帳に押印をしてくださるのは小さな子供にまとわりつかれた中年男性。
 出家者かどうかは判然としない。
 非日常と日常が重なっている。
 清められた境内をふり返ったら、懐かしい光景になっていた。

【第4番 黒巌山大日寺
  本尊:大日如来様
  御詠歌:ながむれば月白妙の夜半(ヨワ)なれや ただ黒谷にすみぞめの袖

 深い緑に囲まれ、山門左手には見事な竹林がある。
 小川にかかる小さな橋を渡ると崩れかけた土塀の先に鐘楼門があり、正面には山茶花を両脇に従えた本堂、右手には千羽鶴や絵馬などに囲まれた大師堂が厳かなたたずまいを見せている。
 天皇から飢餓に苦しむ農民まであらゆる人びとと喜びも哀しみも共にされたお大師様への敬慕の念が、千年以上経った今でも何ら変わらず人びとの心にあり、それがさまざまな形になって表れている。
 一匹で飄々と歩いている野良犬はまったく警戒心がなく、お遍路さんなど眼中にないかのように超然としている。
 師が「密教寺院にいる生きものたちは皆、穏やかなものだ」と言われたとおりである。
 帰り道で、猪豚の繁殖場を見た。

 御詠歌のイメージは鮮烈だ。
 皓々と照る月光の下、黒谷の地に墨染め衣の行者が黒々と座して修行している。
 ――の静寂。
 月光は果たして外界にあるのか、それとも彼の心中にあるのか……。

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2008
06.29

はつね

Category: □守本尊様に学ぶ   Tags:
 信徒Sさんの投稿です。
 何のを描いているんでしょうか……。

hatyne.jpg

2008
06.29

【映画鑑賞会】 『チベット チベット』

 ダライ・ラマ法王への同行取材とチベットの現状を描く迫真のドキュメンタリー映画です。
 チベット問題は〈国と人間と文化の略奪〉によって引き起こされた悲劇です。
 遠からず、チベット人の暮らしは地上から消え、チベット寺院は中国が観光収入を得るための遺跡となり、生きたチベット仏教チベットからなくなります。
 何と恐ろしいことでしょうか。
 現代文明が未だにかくも野蛮なレベルに止まっていることを直視し、人類の尊厳にかけて、一日も早くチベット人のチベットを回復せねばなりません。

 チベット人のほとんどは敬虔な仏教徒であり、イスラム教によって寺院が破壊され、僧尼が虐殺されてインドの仏教がほとんど滅ぼされる過程で、たくさんの聖者たちがチベットへもたらした経典と教えを大切に守り伝えています。
 そして、同じく仏教文化の基盤とする日本を信頼し、救いを求めてもいます。
 映像は事実の重みをもって簒奪と悲劇の真実を明らかにしています。
 ぜひ、一人でも多くの方々に現実を知っていただきたいと願っています。


[日時]7月5日(土) 9時~11時
[場所]旭ヶ丘「青年文化センター」エッグホール
[人数]50名
[費用]無料
[申込]電話やファクスやメールなど任意
2008
06.29

7月の守本尊様

 7月7月7日より8月6日まで)の守本尊大日如来胎藏界)様です。
 ご供養し、ご守護いただき、小暑、大暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。


種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 地にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。



2008
06.29

7月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。



2008
06.28

平成20年7月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 各方面において、新しいアイディアはどんどん生まれますが、それを現実化するための裏付けとなるものに不足や足かせなどが伴い、アイディア倒れ、かけ声倒れが多くなりましょう。
 そして、知識が多いから幸せが増すとは限らず、言葉だけが軽々しく飛び交い、信念が揺らぎ、何を信じれば良いのか判らず、右往左往する場面があちこちで見られるかも知れません。
 こうした時期こそ、「四正勤(シショウゴン)」といった普遍的に正しい姿勢を堅持して揺るがず、アイディアや情報や知識をきちんと整理したいものです。

一 すでに生じた悪は除くこと
一 いまだ生じてない悪は生じないようにすること
一 いまだ生じていない善は生ずるようにすること
一 すでに生じた善は増大させること

 つまり、せっかく閃いた新しいアイディアが、人の心や社会から悪しきものを消し、人の心や社会へ善きものをもたらすかどうかを確認することです。
 ここが吉凶の分かれ目となりましょう。
「暗闇のたとえ」は説いています。
「密閉されているまっ暗な家へ入ると、目を開いても、立派な家具が見えない。
 世間を渡るための知識ではなく、み仏の教えを知って智慧の明かりを得ねば、周囲にあるものごとが善であるか悪であるかの判断はできない」

 たやすく親しめるものはたやすく離れがちであるというポイントも、胆に銘じておきたいものです。
 もっとも解りやすいのが、車を運転しながら目に留まった景色と、歩いていて目に留まった草花や家などの印象の違いです。
 また、運転中の車内にラジオから流れる音楽と、苦労して手に入れたレコード盤がもたらす音楽の違いです。

 もう一つ、今月は、夏目漱石が「智に働けば角が立つ」と指摘した点も気をつけましょう。
 理屈だけに走らず、思いやりを大切にする人であり、人間関係でありたいものです。
 もっとも、漱石は続けて「情に棹させば流される。意地を通せば窮屈だ」と書いています。
 ならば、どうしましょう。
 やはり自分を鍛え、磨いておくのが一番ではないでしょうか。

「人の道」は「菩薩の道」です。
 しっかりと歩むには六波羅密(ロッパラミツ)行を実践せねばなりません。精進しましょう。

[布施行と運勢]
 お水を供えましょう。
 精進の人は、信じるに足る人の助力で努力の効果が出ます。
 不精進の人は、感謝せず、欲を出しているうちに運気が移って乏しくなります。

[持戒行と運勢]
 塗香(ズコウ)で手や心を清めましょう。
 精進の人は、穏和な心で用いる智慧が収入に結びつきます。
 不精進の人は我が対立と離反を招き、理では解決しにくくなります。

[忍辱(ニンニク)行と運勢]
 お花を供えましょう。
 精進の人は、困難を引き受けても強い地力で解消できます。
 不精進の人は、肝心なところを処置せずに進み、困難を招きます。

[精進行と運勢]
 お線香を供えましょう。
 精進の人は、実力相応の範囲で動き、成功します。
 不精進の人は、力以上のものを求めて焦り、妬みなどを受けて苦労します。

[禅定行と運勢]
 飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は、目上や能力ある人の加護で成功します。
 不精進の人は、相手の人柄を見誤ったり、ペースにはめられたりします。

[智慧行と運勢]
 灯明を点しましょう。
 精進の人は、相棒の実力を発揮させて成功します。
 不精進の人は、相棒の強引さに負けて願わざる方向へ進ませられたりします。

 皆さんの開運を祈っています。

2008
06.27

守本尊道場造営日記 二十 ―谷、響きを惜しまず―

 6月21日は夏至、ついに百万返となりました。
 ここへ来て、大龍嶽山上で求聞持法満願したお大師様が「谷、響きを惜しまず」と書いている内容が解ったように思えます。
 唱える声は小さくとも、本尊へ届き本尊から流れ出る真言は、鏡面となっている湖水へ投げ入れられた小石が作る波紋のように遠くへ遠くへ広がります。
 それも単なる二次元の世界ではなく、球面となって四次元の世界を広がります。
 波動は遠くへ離れていってもエネルギーが落ちません。
 お大師様の言われた「響き」は、ヤッホーと返ってくる木霊ではなく、真言に共振する天地の声なのでしょう。

 だから、「法を結ぶ行者のいるところが宇宙の中心である」という意味も解りました。
 発信するところは、常に波動の中心です。

 宇宙の中心は、同時に宇宙の涯(ハテ)でもあります。
 響きは中心と涯を一つにします。
 涯から宇宙を丸ごと抱え持っておられるのが法身仏大日如来です。
 だから、「それ仏法遥かに非ず、心中にして即ち近し。真如外(ホカ)に非ず、身を棄てて何(イズ)くんか求めん」の教えも、本当の意味がいくらか解りました。
 仏法の真実世界は至心に行ずるところに自ずから開けるものであり、時間的にも空間的にも決して遠くにはありません。

 もはや、〈自分で〉得たいものも、〈自分が〉得るべきものもありません。
 欲がなくなったのではなく、すべてがある以上、何の不自由もないからです。
 伝授の時、法を結んで道場に法界を顕した師が、「ここには何でもあるじゃろう」とニッコリされた通りです。
 すべてがあり、感謝があります。
 これから先は、虚空に満ちている宝ものを活かすのみです。
 お大師様がこの行からスタートされた意味も、宿題として残っていた半分が、おおよそつかめました。

 最近、40年前に出版された寺山修司の評論集「書を捨てよ 町へ出よう」のフレーズがくり返し思い出されます。
 一度も読んだことがなく、もちろん、同名の舞台も映画も観ておらず、そもそも、彼が書いた本を手に取ったことすらないので不思議です。
 古来、インドには『マヌの法典』に基づく「四住期(シジュウキ)」という思想があります。
 人生を学生期、家住期、林棲期、遊行期(ユギョウキ)の4つに分けて生き、悟りへ至るというものですが、この遊行期に関係があるのかも知れません。
 法典は、遊行期についての心構えをこう説いています。
「死を希(ネガ)ふことなく、生を希ふこと勿れ」
「怒れる者には怒りを以って報ゆる勿(ナカ)れ。呪われたる時には祝福すべし」
 こうした意味も、追々、明らかになることでしょう。

 百万返という関門はくぐりましたが、満願の日と定めた8月17日(満月・月食)を目ざして、さらに精進します。
 おかげさまにて、ようやく、お焚き上げの本尊不動明王像へ屋根がかかるところまで来ました。
 本尊のお姿は、密教の奥義を携えて唐から帰国する途中、暴風雨に見舞われたお大師様が修法した時に波間から航路を示してくださった波切り不動明王と同じであり、いかなる因縁の荒波も乗り越えさせていただけるよう修法を重ねます。
 お像の周辺も、「山の工房村」さんからいただいた数十トンの石や樹木などによって整備されつつあります。
 いかなることになるか、満願が楽しみです。

お焚き上げ場周辺]
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お焚き上げ不動堂]
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[波切り不動明王]
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[守本尊道場の睡蓮]
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[守本尊道場の睡蓮]
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[守本尊道場の皐]
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○守本尊様のご供養申込数累計  138体
○唱えた真言の回数累計       1、001、160回


2008
06.27

NHK文化講座 ―生活と仏法―

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。
 教材は、釈尊の説法がそのままの形で残された最も古い経典の一つ『法句経』などです。
 身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

1 日 時   平成20年7月9日(水)午前10時より12時まで
         平成20年7月23日(水)午前10時より12時まで
1 場 所   NHK文化センター仙台・泉
         宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
         022(374)2987
1 主 催   NHK文化センター
1 申 込   NHK文化センター
2008
06.27

7月の例祭

 いずれの例祭も参加は自由です。
 護摩の火に身を近づけ、大きなご加護をお受けください。

○今月の第一例祭 7月6日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経上巻』の教えが心の核となって前半月を無事安全に過ごされますよう。

○今月の第二例祭 7月19日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
 ご参詣の方々へお授けとなる『法句経下巻』の教えが心の核となって後半月を無事安全に過ごされますよう。
2008
06.26

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 15 ―価値あるもの―

 6月25日の講座で学んだ経文です。

「能善(ヨ)く礼節を行い、常に長老を敬う者は、四福自然(ジネン)に増す。色と力と寿と安らかとなり」

礼節を保ち、常に長老を敬う人は、4つの福徳が自然に身に寄り添う。
 容貌が耀き、力に満ち、寿命は長く、心は安寧になる」
 
 釈尊は、武器と商売で都市国家が勃興したために崩壊しつつあった種族社会の良き伝統を仏教教団(サンガ)で再興されました。
 サンガとは和合する人びとであり、そこには平和と信頼と安心がありました。
 それは「七不退法」に代表される集団の決まり事によって行われていました。 

1 しばしば会議を開き、会議には多数の人が参集する。(合議制による民主的社会)
1 共同して集合し、共同して行動し、共同してなすべきことをなす。(公共心によって支えられる社会)
1 未だ定められていないことを定めず、すでに定められたことを破らず、往昔に定められた法に従って行動する。(法と伝統を守る公正で安心な社会 )
1 古老を敬い、尊び、崇め、もてなして彼らの言を聴く。(礼節を守る道徳的社会)
1 婦女や童女を暴力によって連れ出したり、拘禁したりしない。(弱者に優しい思いやりのある社会)
1 内外の霊地を敬い、尊び、崇め、支持し、以前に与えられ、為された供物を廃しない。(宗教的慣習を尊ぶ社会)
1 真人(行者)たちを正当に扱い、未だ来らざる真人たちがこの領土に入るであろうことを、またすでに来ている真人たちがこの領土で安らかに住まうことを願う。(宗教者と宗教を尊ぶ社会)


 こうした環境で生きれば、4つの福徳は確かなものとなることでしょう。
 釈尊の時代、すでに過去のものとなりつつあった麗しい環境は、今の日本のどこに見出せるでしょうか。
 当山もサンガの空気を残したいと願っています。

「若(モ)し人壽(イノチナガ)きこと百歳ならんも、邪偽(ジャギ)にして智有ること無くんば、生(ショウ)一日なるも、一心に正智を学ぶには如(シ)かず」


「もし百歳まで生きたとしても、邪(ヨコシマ)で偽りに満ちた一生であるならば、一心不乱に正しい智慧を学ぶたった一日にも及ばない」

「若(モ)し人壽(イノチナガ)きこと百歳ならんも、懈怠(ケダイ)にして精進ならずんば、生(ショウ)一日なるも、勉力(ツト)めて精進を行ずるには如(シ)かず」


「もし百歳まで生きたとしても、怠惰に過ごす一生であるならば、堅く心を定めて精進するたった一日にも及ばない」

 釈尊は、虚偽や怠惰に流れ、傷つけ合い、真の価値を見出せない人びとを憐れんで叱咤激励されました。
2008
06.25

7月の俳句

 7月文月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

薫風の一刻づつが余生なる


 薫風は炎熱の夏に吹く一陣の涼風であり、私たちをほっとさせる。
 出典によると、唐の文宗帝が「人は篤い篤いと苦しんでいるが、私はむしろ夏の日の長さを愛でている」と詠んだのに対して臣下の柳公権が「南からやってくる薫風は、殿閣に微かな涼を生じさせている」と応じたことになっている。
 だから、薫風そのものが涼しい風なのではなく、熱風をも楽しむ文宗帝の心を表現したのが薫風であるという解釈もあるそうだが、この句を読むと、そうした回りくどい詮索は不要に思える。
 熱風の中に救いの薫風を感じる、あるいは見つける一瞬、一瞬がそのまま余生であると言う。
 風自体の温度はどうでも良い。
 風がもたらす「一刻」は、盤石より重い。

封書開くときめきほのと青葉風


 誰からか届いた封書を開く時、心が小さくときめき、青葉を渡る風が感じられた。
 風は窓から吹き込んだのかも知れないし、気のせいだったのかも知れないが、そうしたことは問題ではない。
 心の動きと天地の動きが呼応したことだけは確かである。

気まぐれな夕立雲や鴉鳴く


 暑い日の夕刻、突然西空に積乱雲が盛り上がり、一気に暗くなる。
 このまま降るのか降らないのかは判らないが、禍々しい気配は濃くなり、鴉が声高に鳴きながら急いで巣を目ざす。
 雷雨を迎える変化が雄大にとらえられた。

白靴に替へて背筋の通りけり


 白く軽い靴を履くと、身も心も軽くなる。
 さあ、出発だと気合がみなぎる気持に合わせて、独りでに背筋が伸びる。

老猫のころころ肥えて走り梅雨


 五月五日は、一年中で最も雨の降らない特異日とされている。
 この頃を過ぎると、梅雨にはまだ早いのに雨がしとしと降り、梅雨を思わせる日になる場合がある。 これを「走り梅雨」と称する。
 太った猫の暑そうな様子に雨はいっそう拍車をかける。

木漏れ日の風に吹かるる梅雨


 雨の時期に跳ぶは同情心を誘う。
 励ましたくもなる。
 木漏れ日に現れたは風に吹かれてどこかへ消えた。
 雨はまだ降らない。

木の花の白くこぼるる坂薄暑

朝の風「てっせん}りりしく咲き出でし

紫の引き立つ朝の鉄線

雲中へ飛機の溶けゆく梅雨


2008
06.25

【法句経 第一章 無常の教え】  2

法句経』の意訳です。

○この身体は根本的に頼りになろうか。口などの穴からは不浄なものが漏れ出し、臭い匂いを発し、やがては病苦老苦死苦を招くではないか。

の命ずるまま放逸に生きれば、悪行を重ねる。死が待っていることを忘れているうちに、短い寿命はすぐ尽きてしまうものを。

○子供も、父も、兄も救えない。死がやってくれば家族や親族の誰も救えず、たった一人で受けいれるしかない。

○昼も夜も漫然と怠惰に過ごし、老いても性に駆られ、財産があっても施さず、み仏の教えに耳を貸さぬなら、こうした悪弊は自らの人生を貶め欺瞞で満たすことだろう。

○空へ飛ぼうと、海へ潜ろうと、深山の岩陰に隠れようと、この世のどこにも死から逃れられる場所はない。

○これを行わねばならない、こう行った、こう行ってこうした結果を得よう、と騒がしく乱れた時を過ごしつつ、老苦死苦を招いてしまう。

○こうした無常と日常生活の実態を知ったならば、静かに思いをこらし、いのちの行く末を観よ。修行は心を乱す魔ものを克服し、この世の苦から解放する。
2008
06.24

【現代の偉人伝】 第五十九話 ―結婚式を抜け出そうとした消防士―

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。




 6月14日に起こった岩手・宮城内陸地震のすぐ後、二組の結婚式報道された。

 東京で行われた結婚式は、テレビの人気者から政治家に転身したM氏が、同じ政治家の男性と一緒になるものだった。
 こうした時期に敢えて挙行することについての見解を求められたM氏は、コメントを拒否した。
 新郎の言によると、この日は、国会の会期末後あまり日をおかないでやろうということで「何となく」選んだものだった。
 ライバルと目される仲間たちをはずして有名人ばかりをきら星のごとく集めたので、見識を疑った長老議員が数名欠席した。
 マスコミ受けするキャラクターであり政治家同士ということも手伝って報道陣が殺到し、式は大々的なニュースとなった。

 もう一つは、仙台市で行われた消防士のものだった。
 招待されていた職員の多くが現場へ急行せねばならず、欠席者が目立った。
 新郎もまた現場へはせ参じたいので新郎の席を空けたまま挙行して欲しいと関係者へ懇願したが、上司に思いとどまるよう説得され、泣く泣く従ったという。
 新婦一人を壇上に残して困難な被災地へ向かおうとした新郎の思い、その意を受けた新婦の思いはいかなるものだったろうか。
 名もない庶民の式は、とても小さな新聞記事となって報道された。

 国民の苦難について何のメッセージも発しないM氏の件は、私たちの記憶から去ってもどうということはない。
 しかし、この消防士の一件は忘れたくない。
「もしも自分が同じ立場だったなら、どうしただろうか」
「新婦は新郎の決意をどう受けとめたのだろう」
「上司の判断はどのようになされたのだろう」
 いずれも重い問いである。
 寺子屋の子どもたちへも問いかけてみたい。
2008
06.23

み仏の手

 露の晴れ間をぬい、墓石業者Sさんが建て込みに入っていました。
 どんな具合かと見に行ったら、三人のうち最も年配で体格の良い方が、ユンボで当該地周辺を地ならししておられます。
「重機お借りしていました。
 レベルを合わせておきましょう。
 でた砂利は奧へ置けば良いですね」
 区画の中を処置するだけでなく、周辺へも手をいれてくださると言うのです。
 お忙しいのに済みませんとお礼を申し上げたら、私は元々こうした仕事だったんですからとお腹を揺するように笑っていました。
 陽に焼けた顔に合掌してから帰山しました。

 午後遅く足をはこんでみたところ、さっきの方が、豪快な表情とはうって変わった神妙な様子で近づいてきました。
「住職さん、ちょっとお訊ねしたいんですが」
 何ごとがあったのかと、ちょっと身構えました。
「私は霊感が強いわけではないし、こうした経験はないんですが、不思議なできごとがあったんです。
 どういうことなのか知っておきたいと思いまして……」
 両手でレバーを前に倒しながらユンボを動かしていたら、左手の上に誰かの手が重ねられたというのです。
 温かい手がはっきりと乗ったので、思わず払いのけました。
 もう一度乗ったので、今度は右手で外すように左側へ押しやったらそれっきりだったそうです。
 お答えしました。
「ああ、それは、み仏のご加護です。
 お寺のために、皆のためにと思ってご奉仕をしておられたからでしょう。
 実は、私もここでご加護をいただいています。
 すぐ横の崖から川まで重機ごと転落した時、救急車で運ばれたのに奇跡的な軽傷で済み、翌日から普通に法務を行えました。
 お互いに、ありがたいことですね。
 これからもよろしくお願いしますよ」

 本当に不思議でしたとくり返しながら手を眺め眺め、彼が仕事に戻った後で、社長が来られました。
「あの人は、霊感がどうこうとかおかしなことを言う人ではありません。
 さっき、私が様子を見に来たらいつもと全然違う雰囲気なんで、一体どうしたんだろうと心配していました。
 そういうことなら本当にありがたいです。
 ご加護って必ずあるんですよね」

 四国八十八ヶ所第五番地蔵寺の御詠歌です。
「六道の能化(ノウケ…導くこと)の地蔵大菩薩導きたまえこの世後の世」
 ご苦労様、それで良いんですよ、これからもしっかりやりなさいとのお導きだったのでしょう。
2008
06.22

ほめる 4

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋です。
 このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
 頭が下がります。
 勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。 

 二年 A・K

  トイレへ、手をあらいに いきました。ついでに、おしっこをしていこうと、思いました。
 ドアをあけると、「ぬるっ」としたものがついていました。
 つぎにくる人が こまると思って、きもちわるかったけど、きれいに ふいておきました。

                   ◆

 また、ほめほめを 書いてくれましたね。あきちゃんのほめほめの目が、とっても よく見えるようになったんだなと思い、校長先生は、うれしいよ。
 きょうの おてがみは、トイレに、ぬるっとしたものがついていたので、ふいておきました、という、おたよりでしたね。
 トイレは、きれいにおそうじしてあっても、なんとなく、きもちがわるいですね。
 それなのに、あきちゃんは、あとの人が、こまるだろうと思って、きれいにふいてあげたんですね。
「きもちわるかったけど、きれいにふいておきました。」という、あきちゃんの気もちが、校長先生にも、よくわかりました。
 これからも、人のことを かんがえて、よいことを、たくさんする、やさしい、やさしいあきさんになってくださいね。校長先生もおうえんするよ。

「つぎにくる人が こまると思って」は〈思いやり〉、「きもちわるかったけど」は〈忍耐〉です。
「他人を思いやり、自分が嫌だなあと思う気持をガマンして良かれと思うことを実行する」、こうした心を創るO小学校の指導は驚異的です。

 人は生涯、食べものと異性へ興味を持ち、群れたいと願いながら生きるとされています。
 群れるとは、認められるということではないでしょうか。
 まず存在を認められねば耐えられません。
 周囲にどれほどたくさんの人がいようとも、自分を認めてくれるたった一人に巡り会えなければ孤独です。
 教室における無視が子供を自殺させ、大都会の生む孤独感が心を干涸らびさせる場合があるのは、周囲にいる人の多さが容赦なく孤独をあぶり出すからです。

 人間として居ることが認められ、そして行動が評価されれば、心活き活きと生きられます。
 O小学校では、忙しい校長先生が「Aちゃん」「Kちゃん」と一人一人をきちんと認め、しかも行いを賞めてくれます。
 そこですなおに心を開いた子どもたちは、本来持っている霊性が耀くのでしょう。
 経典は「一切衆生 皆如来蔵」と説きます。
 誰でもがみ仏の子なのです。
  

二年 K・Y

 きょう、おかえりのとき、ろうかに、ぎゅうにゅうが、こぼれていました。
 ぼくは、ぞうきんを もってきて、きれいにふいておきました。
 ふいたあと、手が ねちゃねちゃして、とっても いやでした。
でも、ぼくは、
「いいことをしたんだから、いい」と思いました。

                   ◆

 かずゆきくん、
 きれいな字の、ほめほめを 書いてくれましたね。
 ろうかに、ぎゅうにゅうが こぼれていたので、おぞうきんで、きれいにふいておいてくれたんだね。
 ふいたあと、手がねちゃねちゃして、気もちわるかったんよね。でも、がまんして、きれいにふいてくれたんだね。
「ぼくがこぼしたんじゃあないから、しらんよ」と 思って とおりすぎる子が、たくさんいるのに、かずゆきくんは、人がすべってころんだら、かわいそうと思って、ふいたんだよね。かずゆきくんは、やさしい子だね。
 きれいにふいたあと、なんだか、いい気もちになったんよね。きっと、かみさまが、ごほうびに「いいきもち」をくださったんだと思うよ。
 これからも いいことを たくさんして、いいきもちのごほうびを もらうようにしましょうね。


 「いいことをしたんだから、いい」には、一瞬、思考が止まりました。
 こうした善行への確信がある人は、すでに「善因善果悪因悪果」によって導かれる道のゴールを通過しています。
 見かえりを求めず、自分にとって嫌なことでも確信をもって善行を実践する人は、菩薩そのものです。
 自由が認められているのだから嫌なことはしたくないというこの時代、8歳にして菩薩の心になっている子供を想像すると奇跡のようにすら思えます。
 子育てが面倒だからと子供を殺す親、うるさいからと親を殺す子供、孤独だからと無差別殺人へ走る青年、こうした人間を生まないためには、まっとうな教育を行う以外、方法はないことをまたもや痛感させられました。
2008
06.22

チベット仏教について 1

 6月9日、東京で行われた『密教21フォーラム』の研修会での講演「チベット仏教の歴史と現在」に関するメモのまとめです。

1 チベット仏教ダライ・ラマ法皇

 チベット仏教には四大宗派(ニンマ派・サキャ派・カギュー派・ゲルク派)があり、ダライ・ラマ法皇はゲルク派の出身ですが、一宗派の最高指導者ではありません。
 日本における民俗宗教である神道(国家神道となる明治より前のもの)に似たボン教もありますが、法皇は、そうした宗教すべての最高指導者であり、同時に政治面でもトップに位置します。

2 インドからそのままチベットへ入った仏教の歴史

(1)前伝期
 唐の時代にあったトバン王国がチベットの前身です。
 ソンツェン・ガムポ王は、国力を充実させ、強い軍隊を持ちました。
 唐が最も盛んな時代、圧倒的に人口の多い唐軍と戦って一歩も引かず、唐へ行けば、席はいつも最上位でした。
 チベットに仏教を導入し仏教国と定めた偉大な三人を特別に法皇と呼んでいます。
ソンツェン・ガムポ王(581~649)、ティソン・デツェン王(742~797)、ティ・レルパチェン王(806~841)です。
 ソンツェン・ガムポ王は観自在菩薩の化身とされ、マンダラ上では蓮華部のみ仏を統括し、身・口・意においては口のはたらきである口密(クミツ)を司り、慈悲の徳を象徴する方です。
 ティソン・デツェン王は文殊菩薩の化身とされ、マンダラ上では仏部のみ仏を統括し、身・口・意においては身体のはたらきである身密(シンミツ)を司り、智慧の徳を象徴する方です。
 ティ・レルパチェン王は金剛手(コンゴウシュ)菩薩の化身とされ、マンダラ上では金剛部のみ仏を統括し、身・口・意においては意識のはたらきである意密(イミツ)を司り、救済力の徳を象徴する方です。

 ちべっと仏教の中心となるみ仏は国の本尊とされる四臂(シヒ…手が4本あります)観自在菩薩であり、十一面観音や千手観音は特別に変化した姿です。
 観自在菩薩の象徴が猿であり、チベット人の祖先は、猿と強力な救済力を持つターラー神(羅刹女…ラセツニョ)から生まれたと信じられています。
 チベットでは、大きな救済力を発揮するものとしてターラー神二十一尊の経典が重要なものとなっています。

 肉体は滅びても心相続(シンソウゾク)は、前世・今世・来世を貫いて連綿と続き、三人の王は業と煩悩によらずして輪廻転生した偉大なる存在です。
 観世音菩薩は凡夫には生まれ変わりません。

 首府ラサにあるジョカン寺がチベット仏教全体の総本山であり、ソンツェン・ガムポ王の妃となった唐の玄宗皇帝の娘文成公主が持参した釈迦牟尼像が本尊です。
 この時代に仏典を学ぶことを目的としてチベット語が創られました。
 チベット・ビルマ語族は、日本語にとても近いものです。
 ちなみに、仏典を残したサンスクリット語はインド・ヨーロッパ語族です。
2008
06.21

【法句経 第一章 無常の教え】 1

法句経』の意訳です。

○ 心を塞がず、心豊かに眼や耳をはたらかせよ。教えを聞き、悟りし者の言葉を胸に納めよ。

○ この世のすべては無常であり、興れば滅す。生じたものは必ず滅ぶ。こうした無常な現象に惑わぬ心になれば安楽である。

○ 陶芸家が丹誠こめて作ったいかに見事な作品も、いつかは壊れ形を失う。人のいのちもまた、同じである。

○ 川の水は速やかに流れ、いったん流れ去った水はふたたび戻らない。人のいのちも同じであり、者は二度とこの世へ戻ることはなく、人生はただ一度である。

○ 牛飼いが杖を用いて牧場で育て、やがては食べてしまうように、何をもっていのちを養おうとも、いととがいのちを葬り去りる。

○ 男女を問わず、人びとはすべて蓄えをこの世で失い、もしくはのおりに手から放す。この宿命を免れる者は一人もいない。

○ いのちある者はすべて、昼も夜もいのちをすり減らし続ける。不断にいのちが消え尽きつつあるのは、わずかな水が陽光で干上がるようなものである。

○ いかなる集まりもいつかは消散し、高いものも永遠に高みでとどまることはできない。会えば別れがあり、生まれたものにはが待っている。

○ 人びとは他に勝とうと勝とうと争っているうちにを迎える。行いに応じて後の世界が決まるのであり、心して生きねばならない。

○ いればがよく実感され、死ねば意識はなくなる。漫然と日常生活に流されているだけでは、の根を抜かないうちにいと死が訪れてしまう。
2008
06.20

四国遍路 4

〈第二日目 平成9年10月7日〉

 日が昇るのを待って本堂前で護身法を行い、光明真言と慈救呪とご宝号を唱える。
 早起きの女性信者たちも一緒に唱和する。
 師より、各寺院へ奉納する納め札とお唱えの心構えについて注意があった。

「願いは、納め札に書いてお納めすればそれで仏神へ届く。
 手を合わせて祈る時は、願いを念じるのではなく、とにかくご本尊様を尊んで拝むことである。
 まず、帰依がなければならない。
 そして、ご本尊様を通してそこに祀られているすべての仏神を敬うことである。
 巡拝で最初に唱える声明は、あらゆる仏神の総徳を集める金剛界大日如来の智慧を讃えるものであり、心して唱えねばならない。

 拝むことには危険な面がある。
 正しいものがしっかり頭に入っているならば、拝んでいるうちに自然とそれが動くから良いが、悪しきものが入っている場合は、拝めば拝むほど、とんでもない人格を創ってしまう怖れが高まる。
 拝む量や時間を重視するよりも、いかなる心構えで拝むかという質にこそ注意をはらわねばならない」

 虚空蔵菩薩がものごとの終わりと始まりを象徴する北東を守り、是非善悪を峻別する智慧を司っておられることを思い出す。
 すべては空であることを胆に命じ、因果応報を信じ、自己中心を離れ、誰かのためにならないではいられぬ正しい心で行うならば、身・口・意のはたらきは善となる。
 そうでない場合は、たやすく悪へ傾いてしまう怖れがある。
 たとえば、花形であるバイオテクノロジーを研究する場合、飢えて苦しむ人や難病に苦しむ人のためになりたい一心で行うならば善であるが、細菌兵器を作るならば悪である。
 
 努力や忍耐は善でも悪でもない。
 正しい心で努力を行えば精進であり、正しい心で忍耐を行えば忍辱(ニンニク)であり、人を菩薩への道へ導く。
 拝めば、心に入っているものが膨らむ。
 善きものが入っている場合は善き人格が創られ善き人生へと向かう。
 悪しきものが入っている場合は悪しき人格が創られ悪しき人生へと向かう。
 だから、人生において最初になすべきことは、正しい心を創ることである。
 さもなければ、いかなる努力も、いかなる忍耐も、いかなる信仰も善なる人間を創るとは限らず、皆が安心して楽しく暮らせる社会をもたらすとは限らない。
 
 さて、阿波の国は発心の道場である。
 ここでは、護身術における5つの心構えのうち、「優しさ」の修行を心がけたい。
 それは、何よりも隣人を思いやることでなければならない。
 お大師様は四国四県で修行し、阿波の国を発心、土佐の国を修行。伊予の国を菩提、讃岐の国を涅槃の道場とされた。
 仏道に邁進する決心をし、精進を重ね、悟りを得、絶対の安寧を体験するという、この世でみ仏になる即身成仏の道である。
 今から1世紀以上も昔、地図も交通機関も無い時代に4つの国を歩いてそれぞれの地形や方位を検討し、既存の寺院を建て直し、あるいは新たな寺院を開創しながら完璧な密教の道場を造られたことは驚異である。
 幸田露伴、南方熊楠、岡倉天心、菊池寛、湯川秀樹など、西洋文明を学びながらも心の土台を崩さなかった天才たちは、一様にその世界史的意義に気づいていた。
 こうした時代であればこそ、マンダラの道場は「心を浄化し、世界を救う力」を発揮するに違いない。
 行者としてこの道場を歩けるとは、何と幸せなことだろうか。
2008
06.19

普賢菩薩の六根清浄法 2

 自分の過ちを省みたならば、5つの実践にとりかかりましょう。

1 み仏の教えに学んで心を正しく保ち、仏法僧を謗らず、行者や人生修行に励んでいる人びとの善行の邪魔をしないことです。

2 父母に孝養を尽くし、師や長老を敬い尊ぶことです。

3 み仏の教えにかなう方法で社会を浄化し、人心を清めることです。

4 縁に応じて身心を慎み、殺生などの悪行をしないことです。

5 因果応報を信じ、真実を求め、み仏がおられることを実感できるよう心を清めることです。

 無始の過去から重ねてきた悪業を清めるためには、こうした具体的な心構えを持ち、できることから実践する以外ありません。
 最近、あることを正しいと信じてコツコツ実践を重ねてきたAさんは、自分の変化に気づき、感慨を口にしました。
「これまでは頭でそうなんだろうなあとぼんやり理解していただけですが、やっと、因果応報を信じられるようになりました。
 天地自然のすべてを動かしている理法にかなうようにやれば、必ず目ざす生き方ができるのですね」
 真摯な神経内科医Bさんは、述懐されました。
「私は、薬を自分で服用し、自分の心と身体がどう変化するかを確認しない限り、処方箋を書きません。
 こうすればこうなると本当に解らなければ、責任をまっとうできません」

 人生に希望を持つならば、まず自分の意志を固め、実践するしかありません。
 その霊性の動きが周囲の縁を動かし、仏神の世界へも通じて「おかげさま」の偉大なる力となり、運命の舵が切られます。
 もしも、特に自分の因縁で問題があると思う場合は、眼であれ、耳であれ、以下の文を読んでから何か経典や真言を読誦してください。
 必ず転換の時が訪れましょう。

[眼の懺悔法]
若(モ)し眼根(ゲンコン)の悪有りて 業障(ゴッショウ)の眼不浄ならば
但だ当(マサ)に大乗を誦(ジュ)し 第一義を思念すべし
是を眼を懺悔して 諸もろの不善業を尽くすと名づく


(「大乗」とは、般若心経観音経理趣経などです) 

[耳の懺悔法]
耳根(ニコン)は乱声(ランショウ)を聞きて 和合の義を壊乱(エラン)す
是に由りて狂乱(オウラン)を起こすこと 猶お痴なる猨猴(エンコウ)の如し
但だ当に大乗を誦(ジュ)し 法の空無相を観ずべし
永く一切の悪を尽くして 天耳(テンニ)もて十方を聞かん


(「法の空無相」とは、すべてが因と縁によって現れているものであり、変化を免れるものはないのだから、何ものにも執着せず、ただ、今在ることに感謝する心です)
(「猨猴」とは、猿です。欲に追われてやみくもに騒ぎ動きまわることの象徴です)
(「天耳」とは、清らかな心でありのままに聞く耳のはたらきです)

[鼻の懺悔法]
鼻根(ビコン)は諸香に著して 染に随いて諸もろの触を起こす
此くの如き狂惑(オウワク)の鼻 染に随いて諸塵を生ず
若し大乗経を誦(ジュ)し 法の如実際(ニョジツサイ)を観ぜば
永く諸もろの悪業を離れて 後世に復(マタ)生ぜじ


(「狂惑」とは、香を縁として煩悩を起こす穢れたありさまです)
(「法の如実際」とは、煩悩を離れて解る清浄な真実世界です。末期の眼がとらえる世界も、そうしたものなのでしょう)

[舌の懺悔法]
舌根(ゼッコン)は五種の 悪口の不善業を起こす
若(モ)し自ら調順(ジョウジュン)せんと欲せば 応(マサ)に勤めて慈心を修し
法の真寂の義を思いて 諸もろの分別の相無かるべし


(「調順」とは、コントロールすることです)
(「法の真寂」とは、煩悩の波風に見出されない真実世界の不動のありさまです)

[身体の懺悔法]
身は是れ機関の王 塵の風に随いて転ずるが如し
六賊は中に遊戯(ユゲ)して 自在にして罣礙(ケイゲ)無し
若(モ)し此の悪を滅して 永く諸もろの塵労(ジンロウ)を離れ
常に涅槃(ネハン)の城に処し 安楽にして心恬白(テンパク)ならんと欲せば
当(マサ)に大乗経を誦(ジュ)して 諸もろの菩薩(ボサツ)の母を念ずべし


(「六賊」とは、眼・耳・鼻・舌・身・意の六根です。身体があってこそ、6つのはたらきがあります)
(「遊戯」とは、動き回ること、「罣礙」とは、障害となるものです)
(「涅槃」とは煩悩の火が消えた状態、「恬白」とは、清浄で悩みのない状態です)

[心の懺悔法]
心根(シンコン)は猨猴(エンコウ)の如くにして 暫くも停まる時有ることなし
若(モ)し折伏せんと欲せば 応(マサ)に勤めて大乗を誦(ジュ)し
仏の大覚心 力無畏(リキムイ)の所成(ショジョウ)を念じたてまつるべし
(「折伏」とは、抑え、コントロールすることです)
(「力無畏の所成」とは、智慧と慈悲の力が無限にはたらくことです)


2008
06.18

普賢菩薩の六根清浄法 1

 普賢菩薩は、まず六根(眼・耳・鼻・舌・身・意)のありさまを直視し、懺悔せよと説かれました。

 無限の過去から重ねた目のはたらきによる因縁が見えるものへの執着心を起こさせ、それが欲しい、惜しいという欲をかき立て、苦を招いている。

 無限の過去から重ねた耳のはたらきによる因縁が快なるものに惹かれ執着させ、不快なるものにはさまざまな煩悩を生じさせ、悪しきはたらきが悪事を招き、常に不快なものによる苦に悩まされている。

 無限の過去から重ねた鼻のはたらきによる因縁が佳き香を求めさせて止まないがために、勝手な分け隔てを行い、輪廻転生の原因を作っている。

 悪業が原因となって不妄語戒、不綺語戒、不悪口戒、不両舌戒に背き、誹謗し、嘘をつき、邪見を褒め、無意義な言葉を用いている。

 無限の過去から身体は殺生し、盗み、邪淫を重ねてきた。

 無限の過去から心は不善すなわち、貪り、怒り、愚かしい考えを重ねてきた。


 このように示されると、「見えるから、聞こえるから、善いことも行ってきたはずだ。確かに悪しきことを行ったが、それだけを取りあげるのはなぜか」と思うやも知れません。
 しかし、善行を行えば悪行が許されるはずはなく、過去の過ちを省み、意識するとしないとにかかわらず六根によって動かされる心のはたらきがいつ、誰を傷つけるか判らないことを怖れるならば、潜在意識や深層意識までをも清めておかねばなりません。
 たとえば、ちょっとした言葉のやりとりが殺人事件にまで進んでしまうのは、深い意識にそうした粗暴なものがたくさん蓄えられているからであり、ただ、殺人はいけないと知っているだけでは瞬間的に起こる激情とそれに触発される行動を抑え尽くすことはできません。
 日々の精進により、こうありたいと願う方向へと心を導いておかねばなりません。

 心は正直です。
 必ず因縁によって動きます。
 考え、語り、行動する主体(因です)となる心を訓練しておき、人間関係を含め清浄な環境(縁です)を選んで生活することが、清浄で創造的で生き甲斐のある人生をもたらします。
 そのためには懺悔が欠かせません。
 そして、『六根懺悔の偈』を読んでから経典を読誦すれば六根清浄になると説かれています。
2008
06.17

ハイムひまわり放火事件 ―自己中心の闇―

 綾瀬市の知的障害者施設「ハイムひまわり」で火事があり、入居者三人が死亡しました。
 逮捕されたのは、大家の志村桂子容疑者(64歳)です。
 かけられた容疑は、殺人、殺人未遂、現住建造物等放火というものです。
 知的障害者が寝静まったところを見計らっての放火であり、殺人の意志があると断定されました。

 さて、同容疑者は社会的弱者のためのボランティア活動などに熱心なことで知られ、海外にまででかけて活動をしており、知人たちは「あの人が、なぜ?」と、一様に驚いているそうです。
 確かに日常的に見せている生き方と容疑をかけられている犯罪の内容とは正反対のようですが、別に驚くほどのことではありません。
 人はいかに善いことを行おうと、いかに社会的に役立とうと、自己中心という煩悩を克服しているとは限らないからです。
 たとえ目立たなくとも、それができている人は決して愚かしい行為に走りませんが、煩悩を抱えたままの人は、いつ、何時(ナンドキ)、その魔力に負けるか判りません。

 人びとの心を観ていると、自分の心にある斧の処置ができず、その恐ろしさを知っていればこそボランティア活動などへのめり込んでしまう方は少なくないようです。
 とても残念なのは、趣味的に布施行を行ってもなかなか斧は消えず、自己欺瞞が膨れている場合すらあることです。
 心を変えるためには、身・口・意を一つにした修行が最も有効です。
 修行と言っても、僧侶のような特殊な行だけではありません。
 たとえば自己中心的なところを克服しようとしてボランティア活動に汗を流すならば、布施行の象徴である水をイメージし、その心を念じながら行うのです。
「水のごとく、素直に、他を潤し、心の汚れを洗い流さん」
 たとえば嫌な上司の下ではたらくならば、忍耐の象徴である花をイメージし、その心を念じながら行うのです。
「雨風に負けず咲く花のごとく、耐え忍び、心の花を咲かせん」
 その時、身体で善行を行い、言葉で善行を誓い、心に善行の観想を抱いていれば立派な菩薩行です。
 こうした娑婆での実践は、寺院に籠もったり山へ登ったりして恵まれた環境にあって行う特殊な修行よりもむしろ難しい修行です。
 知って、実践し、菩薩へ近づいていただきたいと願ってやみません。

 ところで、地下鉄に乗って寒々しい体験をしました。
 きちんと制服を着た中学生たちが年配者や妊婦のための座席に坐り、年配者がそばに立っても誰一人、席を譲ろうとしません。
 まったく周囲へ気を配ることなく、お互いに歴史の教科書から問題を出し合い、正解を競っています。
 まぎれもなく現代日本の病巣が顕れていました。
 彼らは勉強さえしていれば親からも先生からも褒められ、自信満々で成長し、うまく行けば社会のリーダーになるのでしょう。
 しかし、自己中心という悪魔もまた慢心をエネルギーとして確かに育ち、寄生した生きものが自分を育てた親の身体を内側から食い破って世界へ飛び出すように、〈その時〉を待っています。
 もしも挫折すれば、秋葉原通り魔事件を起こした加藤智大容疑者のように、悪魔は憎悪をエネルギーとして育ち、時を待つことでしょう。

 悪魔を克服する仏法の光が彼らの心を照らしますよう。
2008
06.16

お大師様ご生誕の日

 6月15日はお大師様ご生誕の日でした。
 宝亀5年(西暦774年)は、もう1200年以上前のことです。
 自分がここまで生きてきた60年が20回くり返されたことを想像し、いろいろな映画で観た当時のシーンを思い出すと、とても遠い昔のようでありながら、それほど遠くない出来事のようにも思えます。

 平成28年(西暦2016年)になると、高野山開創1200年を迎えます。
 聖徳太子が天皇は民族の祖先である神々を祀り、国民はみ仏に導かれてまっとうに生きるという国造りをされたことを承け、お大師様は一歩進んだ国家像を示されました。
 指導者はすべからく仏法における理想的帝王である転輪聖王(テンリンジョウオウ)を目ざすべきであり、国民は神々の守護の下にみ仏の示された道を歩むというものです。
 仏神共に尊び、宗教による争いを行わず、和を第一とする国柄は江戸時代まで続いていましたが、神道を国教化し祭政一致で西洋のような強い国を造ろうとした明治の廃仏毀釈によって美風は破壊されました。
 仏道を茶道や華道や武道のような趣味の世界に並列させ、あらゆる仏神を尊ぶ密教を蔑むような感覚が残っている様子を眺めると、狂風の後遺症が続いているのは明らかです。
 また、日本は太平洋戦争に敗れ、国家神道は崩壊しましたが、占領軍の徹底した日本弱体化政策によって伝統的精神の復活は妨げられ、物質文明を前へ前へと進めるだけの薄っぺらな国になりました。

 欲望はみごとなほど解放され、気まま勝手になった人びとはみごとなほどバラバラになりました。
 人からも社会からも思いやりが薄れ、無慈悲な人と国になり、家族間の信頼感も、無意識のうちに共有していた他人同士の信頼感も急速に消え、家庭でも社会でも疑心暗鬼の不安が日々高まっています。
 世界一安全な先進国だった日本が防犯カメラに見張られる国になることなど、一体誰が予想し得たでしょうか。
 最も頼りにしていた経済力の急降下も激しいものがあり、資源がなく、食べものすら外国に頼ってばかりいた日本は、いかなる国として生き残るかが厳しく問われています。

 今こそ、洗練され和を尊ぶ文化をもった「大和の国」にたち戻らねばなりません。
 国策としては、最大の罪である殺生を国民に命じる戦争を決して行わないことを国是として確認したいものです。
 精神的には、「おかげさま」「お互いさま」の感覚を取りもどしたいものです。
 そのためには、お大師様のマンダラの教えをはじめとする伝統仏教の行者たちが、己の修行と社会的な行動とによって「互いを尊び互いのためになり互いに感謝し合う」精神の波動を起こさねばなりません。
 今ならまだ、まに合います。何よりも心をこそ、取りもどしたいと念じています。

 一密教行者として高野山開創1200年を迎えるまで何ができるか。微力を尽くしたいと願っています。
2008
06.15

岩手・宮城内陸地震に際して

 14日の岩手・宮城内陸地震に際して被災された方々へ心よりお見舞い申し上げ、亡くなられた方々へは深く哀悼の意を捧げます。
 
 当山へ各地からお見舞いのご連絡をいただき、まことにありがとうございました。
 おかげさまにて、当山においてはまったく何の被害もなく、無事、お勤めを果たすことができました。
 仏神のご加護とご縁の皆様のご誠心によるものと心より感謝しております。

 地震が発したのは寺務所から出た時で、あまりに揺れが強くあきれてしまい、何だこりゃあとつぶやくしかありませんでした。
 ただちに本堂を確認しましたが、ご縁の切れた方からお納めいただいた観音像以外は位牌一つ倒れていません。
 仏器などが多少動いたのを直すのは妻に任せ、墓地へ向かいました。
 早朝から奉仕活動をしていた行者O君がすでに見回りを終えており、「無事です。何もありません」との報告を受けてほっとしました。
 ご本尊様やお墓の様子が心配なのはもちろんですが、造成していた崖の附近を大きな重機で修復したばかりだったので、大きな安心感と感謝の思いが起こり、合掌しました。
 好天が続き、順調に工事を終えて重機をリース屋さんへお返しし、朝から晩まで汗を流してくださったTさんやKさんと「これで安心ですね」「良かったですね」と言葉を交わしたのは前々日のことでした。

 ミャンマーのサイクロン、中国四川省の大地震、そして今回の阪神淡路大震災に匹敵する規模の岩手・宮城内陸地震と天変地が続いています。
 私たちの文明へ対する天地からの警告かも知れません。
 天地の理です。
 すべては空であり、形あるものは、いつか必ず壊れます。
〉まれた私たち、そして私たちの創り出した文明が〈〉の段階にある時、そこに孕む〈〉への〈〉を観て自省せねばなりません。
「自分は今、死んで悔いはないか、自分たちの文明は今、消して悔いはないか」
 悲惨な情報に接した一人一人が被災者へ援助すると共に、新たな出発をすること。
 これが犠牲となった方々への一番の供養ではないでしょうか。
2008
06.14

守本尊道場造営日記 十九 ―是所非所智力(ゼショヒショチリキ)―

 6月5日は芒種でした。
 百万返の行は、いよいよ最終コーナーへさしかかりました。
 生死の分かれ目を象徴する北東を守り、人間が霊性をもった存在らしく生きるために不可欠の善悪虚実などを見極める是所非所智力(ゼショヒショチリキ)を司っておられる虚空蔵菩薩と一体になるこの修法が、なぜ、お大師様の修行人生を開く形で行われたのか。
 お大師様も、真言密教中興の祖といわれる興教大師(コウギョウダイシ)も、なぜ、心の位置を確認するかのように何度もこの修法を行われたのか。
 その本当の理由が、ようやく解りかけてきました。
 ありがたいことです。

 そもそも、虚空蔵求聞持法(コクゾウグモンジホウ)については、成満すれば超人的な記憶力が身につくという面だけが後世の研究者たちから注目され、経典を読み解いたり、真言を暗唱したりするための能力開発を行おうとして最初にこの修法をされたのだろうと理解されてきました。
(私もまた、超人的な力うんぬんはさておき、密教行者としてやっておかねばならぬと考えて挑戦しました)
 それならば、成満したお大師様も、興教大師様も、一度その力を得てしまった以上、くり返し修法する必要はないはずです。
 しかし、お二人とも、生涯において何度も修法しました。
 この謎を解くカギは、是所非所智力にありました。
 
 是所非所智力から観る善悪虚実とは世間的なものではなく、み仏のレベルにおける善悪虚実なのです。
 こんなことは気づいてしまえばあまりに当然ですが、凡人にとっては、「知っていたはずなのに実は知らないでいた。やっといくらか理解できた」といった感があります。

 まっとうな人たちは「人を叩いてはならない」「嘘をつくのは悪い」と考え、暴力的な人や嘘ばかりついている人はどんどん世間から見放され、やがては犯罪者へと堕ちていったりします。
 正しく生きる人や虚構に騙されない人と、悪行を重ねる人や虚構の世界で騙し騙される人は、はっきり別々の世界で生き、接点はどんどんなくなります。
 ものごとを正しく考える人は明るい世界と暗い世界を峻別し、より、太陽へ近づこうとします。
 もちろん、これは正しい生き方であり、人はこのようにあるべきですが、ここまでの正しさで止まれば〈世間的に正しい人〉でしかありません。
 なぜなら、悪人との対立はいつでも起こり得るだけでなく、正しさの主張だけで頑なな悪人の持つ悪因縁を解消できるとは限らないからです。

 それなら、み仏のレベルにおける善悪虚実とは何か。
 大日経は「大悲を根本とす」と説いています。
 大悲すなわち相手を選ばない無限の慈悲心に生きることが善であり、慈悲心を持たないのはもちろん、自分勝手に取捨選択をして慈悲心をかける人と見放す人とを区別するのもまた、善ではありません。
 大日経は「現象は陽炎(カゲロウ)のようなものである」と説いています。
 すべては因果応報の法によって存在している空(クウ)なるものであることをきちんと認識し、諸悪の根源である自己中心を離れるのが虚実の見分けというものでしょう。
 また、大日経は「方便を究境(クキョウ)と為す」と説いています。
 菩薩として生きるためには何をすれば良いかを知るということ、つまり、真実の智慧がはたらくことです。
 虚空蔵求聞持法は、虚空蔵菩薩様の世界へ入って是所非所智力を分けいただき、「世間的な是非・善悪の判断も出世間的な是非・善悪の判断もできるようになり、なすべきことが見えてくる」、こうした道へ導くのではないかと朧気ながら考えています。
 
 お大師様も興教大師も、み仏のレベルにおける善悪や虚実の判断が高まるよう、真実の智慧がはたらくよう無限の向上をはかられたのではないでしょうか。

○守本尊様のご供養申込数累計    136体
○唱えた真言の回数累計    950、400回
2008
06.13

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 14 ―秋葉原通り魔事件―

 6月11日の講座で学んだ経文です。

「性根の悪い衆生や 罪や苦しみに苛まれている者を眼にしたときには 貴重な宝と出会ったときのように めったに見出せない者として、慈しむことができますように」
「他人がわたしに対する嫉妬から 罵り、あざけるなどの不当な扱いをしようとも 自らが損を引き受けて 勝利を他人に捧げることができますように」

 6月8日午後、高松空港から市内へ向かうシャトルバスの中で、秋葉原通り魔事件を知りました。
 NHKが昼のニュースとして第一番目にこの事件を流したからです。
 なぜ?という疑問は起こりませんでした。
 現代日本の社会が、さらにいえば、現代文明が危険水域にさしかかっていることを痛感させられるできごとが日常茶飯事となっているからです。
 事件を起こしたのは加藤智大容疑者ですが、彼をここまで狂わせたのは、彼が育ち、生きた環境としての社会でであり、それに無関係な人は誰一人いません。
 いかに父母との縁が遠かろうとも、いかに孤独であろうとも、彼は、現代文明という大海のうねりから飛び散った一滴の波しぶきです。

 暗澹としたものを抱えつつ四国八十八霊場の写真展を行っている会場へと向かい、各尊をゆっくり拝顔しました。
 時代がどうであろうと、いかなる事件が起ころうと、み仏方の境地は微動だにしていません。
 あっという間に夕刻となり、櫻井恵武ご夫婦と支援者ご一同との会食後、宿でもう一度できごとを確認し、考えました。
「被害者も犯人も、等しくみ仏の子なのだ。それはどういうことなのか……」

 翌9日、東京都港区の真福寺にて行われたチベット関係の研修会に参加し、冒頭の経文に出会いました。

 深い苦しみの中にある人ほど、私たちへ教えを強く意識させる存在であり、大きな救済を必要としています。
 私たちを理不尽に貶める人は、私たちに忍辱(ニンニク…忍耐)修行の機会を与えます。

 私たちは、み仏の教えを知っても、人びとと接し、社会と接し、自然と接しなければそれを実践して自分の血肉にすることはできません。
 一方、聖者の示す人の道を知らねば、損得や好き嫌いなどの物差しを振りかざして気まま勝手に周囲と接し、恐るべき自己中心の魔ものを育てながら傷つき、傷つけつつ、苦の色に覆われた人生を過ごすしかありません。
 智慧を与えてくれるみ仏と、慈悲を実践させてくれる衆生あればこそ、私たちは己を磨き、霊性を高めつつ生き甲斐のある人生を送られます。
 だから、仏法では「み仏と衆生は等しく尊い」と説かれ、「衆生を選ばず、等しく慈しまねばならない」と説かれています。

 事件を起こした加藤智大容疑者の悪業は、いくら憎んでも憎み切れません。
 しかし、恐ろしいのは彼の心を支配した煩悩であり、煩悩を育てさせた社会であり、環境です。
 彼が「彼女がいない、ただこの一点で人生崩壊」と言い、「イケメンではないから彼女ができない」とし、自分を「負け組」と決めつける愚かさを笑うことは簡単です。
 しかし、子供の頃から性欲と財欲をくすぐられ、人生の成功は気に入った異性と財産を得ることにあるとする文明に流され、勝ち組負け組という観念を植えつけられ、その上使い捨ての労働者になってしまえば、誰しもがこうなって何の不思議もありません。
 歩行者天国を中止したのは、加藤智大容疑者予備軍が無数にいるのを皆が知っている証拠です。
 色ボケ財ボケの大人たち、色ボケ財ボケの文明を放置した大人たち、経済第一主義の無慈悲な政治がこうした若者たちを育てたとしか言いようがありません。
 もちろん、大人たちとは、私を含む全員であり、無慈悲な政治とは、政治家と政治家を選んでいる選挙民全員です。

 被害に遭われた方々の心を忖度し、御霊の無念を思い、加藤智大容疑者の心の荒廃を憐れみ、自他を幸せにするためでない自己中心的な色欲と財欲を心から追い出す努力をせねば、誰一人救われず、慈しみの実践はできません。
 冒頭の教えをくり返し心に刻んで自分の業を清め、社会の共業を清めましょう。

2008
06.12

上棟式を行いました

 春浅い時期に地鎮祭を行ったSさんが待望の上棟式を迎えました。
 五色の吹き流しが目に鮮やかな佳き日、関係者ご参列の中、粛々と修法は進み、一時の休みなく八方天地十方世界を守る守本尊様と天神地祇をご供養するためのお焼香も済み、「以上で修法を終わります。おめでとうございました」と述べると、空気はいっそう爽やかさを増したようです。
 やがて早朝から準備していた餅つきが最終段階となり、急ごしらえの机にあんこ餅、しょうゆ餅、うぐいす餅、納豆餅、それに御神酒やお膳が並べられ、関係者一同そろって舌鼓を打ちました。
 上棟式の雰囲気はいつ味わっても楽しく浮き浮きするものです。

 現場監督から質問がありました。
「先日のような剣による修法は、どこででもやっていただけるんでしょうか?」
 地鎮祭隠形流居合の法を行ったことについてのお訊ねです。
「もちろんです。ご依頼があれば、どこへでもでかけます。
 これまでも、北は青森県から南は神奈川県まで出張していますから、お気兼ねなくご相談ください」
 次いで、お供えした塩をどうしたらよいかとの質問もあったので、前回と今回における法の違いをちょっとお話しました。
地鎮祭では、清め、魔切を主体とした修法なので、ああいった形をとり、塩なども鬼門から順周りに撒いて結界とします。
 上棟式では、むしろ供養に重点があり、当地を守る神々や守本尊様方などを讃え、供養し、そのご加護のもとで施主の福徳が増大して無地安全に完成へこぎつけるような発展の法を結びます。
 だから、塩などの使い方も地鎮祭とは異なり、ブログの『清め塩 2』へ書いたとおり『目に見えぬ世界の方々をも供養する』ために捧げ、餓鬼界で迷う亡者の方々も聖なる安心の世界へ行っていただこうとします。
 この家屋敷と縁になるすべての人びとも目に見えぬ世界の方々もすべてが守られ救われてこそ、家族一同の無事安全が確保できます。
 このように、塩は智慧と法力をもってさまざまに用いられます」

 もっといろいろなお話をしたかったのですが次の予定があり、和やかに、嬉しそうに談笑する方々に後ろ髪を引かれる思いで失礼しました。
 夢を持って進む人びと、その実現を願って心から応援する人びと。
 施主と施工者の関係とはいえ、深い信頼関係をもって一つの目的へ向かう姿は等しく耀いています。
 帰山する道すがら目にする樹々の緑は、ひときわ活き活きしていました。
2008
06.11

本当の幸せを得る方法

 本当の幸せとは、何ものにも壊されず、時が経つにつれてたとえ無意識となっても深く心に染みわたり、どんな逆境をも乗り越えさせる力になるものです。
 だから、どれほど重なっても、いかに心で膨れあがっても毒となることはありません、
 反対に、増えたり広がったりして困るものは本当の幸せではありません。

 もしも、おいしいものを食べた満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、セックスの満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、睡眠の満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、称賛される満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。
 もしも、財産が増える満足感を際限なく求めたならどうなるでしょうか。

 色欲・食欲・睡眠欲・名誉欲・財欲という「五欲」の満足として得られる快楽はいつか必ず毒を生み、得た満足感の何倍もの苦しみをもたらします。
 だから、快楽は人生の味付けとしてほどほどにしておかねばなりません。
 こうした〈制限されるべきもの〉は本当の幸せではありません
 それなら、本当の幸せは何によってもたらされるか。

 それは、徳積みとなる行です。
 たとえば、誰しもが勤め励むべき「四正勤(シショウゴン)」です。

1 すでに生じたは除くこと
1 いまだ生じてないは生じないようにすること
1 いまだ生じていないは生ずるようにすること
1 すでに生じたは増大させること 


 こうした行は深い満足感をもたらし、いかに重なろうとも決して毒を生まず、自他の運勢を明るい方向へと導きます。
 み仏の子にふさわしい行のみが本当の幸せの源泉であり、それに伴う充実感や感謝の思いこそが本当の幸せです。
 たとえ感謝の笑顔や思いやりのある言葉をもって他人と接する「和顔愛語(ワゲンアイゴ)」といった目立たぬものであっても、誰かの苦を抜き、誰かに楽を与えない限り、自分が真に幸せにはなれません。
 もしも一人でひっそりと暮らしているならば、誰かの幸せを祈ることです。
 それは見知らぬチベットの人びとのためであっても構いません。
 明らかに、すでに生じたを除くための行いであり、いまだ生じていないを生じさせるための行いだからです。

 こうした真実を示す一例として、大恩ある親に幸せになってもらいたいと願う子供のまごころはいかにすれば現実化するかを説いた『父母恩重経(ブモオンジュウキョウ』があります。

「父母のために心と財を尽くしておいしいものを食べさせ、歌舞音曲で楽しませ、安楽に住まわせ、一生おもしろおかしく過ごさせようと、仏法僧を信じる心を起こさせないならば、親不孝である」

 快楽に満ちた生活を保障することが、親を本当に幸せにする方法ではありません。
 愚かな人間を超えた存在を畏怖し尊ぶ心を持ち、何歳になっても謙虚に人の道を学び、人の道を求めて寺院を守る人々(出家者と在家者を問いません)を尊ぶようにしむけてこそ、真の親孝行です。
 なぜなら、五欲となって現れる煩悩は、自分でそれを抑制し清浄な意欲に変えない限り埋もれ火のように心へ居ついており、いつ何どき自他へ苦しみをもたらしても不思議はないからです。

 そもそも、自分が過去の因縁によってこの世へ生まれ出たことを観るにつけても、〈どう生きるか〉はこの世の幸不幸として結実するだけではなく、あの世と次の世がいかなるものとなるかをも決めます。
 本当の幸せを得るための根本的な方法は、善行により、善果としての幸せをもたらす不壊の徳を積むしかないのは明白です。
2008
06.10

四国遍路 3

第6番 温泉山安楽寺
  本尊:薬師如来様
  御詠歌:かりの世に知行あらそうむやくなり 安楽国の守護を望めよ

 堂々たるご本尊様とまばゆいばかりの荘厳。
 日光菩薩と月光菩薩を左右に従え十二神将軍に護られた薬師如来様は瑠璃光世界の主としての威厳と力を示しておられる。
 十二神将軍を生まれ年それぞれの守本尊としてお祀りしてあるのも好もしい。
 大師堂も圧倒されんばかりの威容で、左にお不動様、右に愛染明王様がおられる。
 ただ、トイレがあまりに便利な位置にあり、少々考えさせられた。

 泊まりは宿坊。
 住職に〈なり代わって〉お世話くださる僧侶の片手には金のブレスレット、もう片方にはダイヤが光る一文字の指輪、伸びた髪もいただけない。
(これは平成9年当時のメモです。次に訪れた際は事実上の尼寺になっており、修法への参加を促されるなど、とても大切にしていただきました)
 夕食後のお勤めでは、内陣へ案内された。
 舎利礼、延命十句観音経、法句経の一部などを記した経典が用意されている。
 修法に続いて、お大師様の足跡をたどりながら行った修行についての法話があった。
 お大師様がお座りになったまさにその場所へご自身も座られたという。
 数年前、世間を騒がせている新興宗教の教祖がインドへ行き、釈尊がおられた聖なる場所へ入り込んで瞑想を始めひんしゅくをかったが、私などは畏れ多くてとてもできそうにない。
 数珠は108つの珠で作られたものだけが本ものであり、珠がたくさんついている目的は百まで数えるところにあって、残る8つは補助であるというお話もあった。

 部屋へ戻り、師から教えをいただいた。
「み仏を拝むことは尊い。
 それは確かに信仰である。
 しかし、もっと尊いのは教えを守ることであって、それが真の宗教である。
 お互い、教えを守り合って進もう」

 心の問題は、必ず奥底まで掘り下げて処置せねばならない。
 虫歯と同じであり、一時的に痛みが薄らいだからといって適当にしておけば、やがては大ごとになってしまう。
 しかも、悪影響は自他へ及ぶ。
 自戒し、精進せねばならない。

 煩悩を抱えた人間は、必ず「やらかしてしまう」存在である。
 だから、何度でも誓いを立てねばならない。
 それをくり返しているうちに、いつしか〈誓った通りの人〉になる。
 これが転迷開悟であり、そのための智慧が仏教である。
誓いなどすぐに破ってしまうから誓わない」のは敗北主義であり、霊性は閉ざされたままでとなろう。
 一行者として自らへ課す戒めとしての誓い
「願わくば所縁を活かして運命を創り、無明を断じて法楽に住せん」
である。
 この道から外れれば、自他のために生きる菩薩となり得ない。
 法楽寺の壇信徒の方々と共に、生涯の誓いとしたいものである。
 
2008
06.10

チベットの現況

 6月9日、東京都港区の真福寺にて『密教21フォーラム』の研修会がありました。
 講演Ⅰの「チベット仏教の歴史と現在」に関しては後日、まとめることとし、講演Ⅱの「仏教者として現今のチベット情勢にどう対処すべきか」に関して書いておきます。
 講師を務めたソナム・ギャルツェン師(チベット仏教布教協会事務局長)は冒頭に「ただ、気持を伝えたい」と述べ、この日のために作成した原稿を読みつつ1時間以上にわたる講演を行われました。
 まだ、たどたどしいところの残る日本語ですが、つかっかかりつっかかりしながら原稿と格闘し、何としても状況を理解してもらおうとする真剣なご様子に、会場は水を打ったような静けさに包まれました。
 手元に残ったかなりの量のメモから、最後の「8つのまとめ」を整理しました。 

1 チベット問題は、一人一人の生活がどうであるかという問題ではない。
 一人一人をいうならば、インドの亡命政府周囲にいる人びとは自由に暮らし、きちんと修行もしている。
 あくまでもチベットチベット人の国でなくなり、固有の文化、言葉、宗教が滅びようとしているという全体の問題である。

2 中国政府は「ダライラマ法皇がいなくなればチベットはなくなる」と言っているが嘘である。
 仏教を柱とするチベット文化は世界の宝であり、チベット人は最後の一人になってもそれを守り、チベット復興のための運動を決して止めないであろう。

3 チベットの問題は、政治的なものだけではない。
 ダライ・ラマ法皇はこう言われた。
「これは一般的にいう政治の問題ではない。単に政治的なものならばこうした行動はとらないし、行者たちもこのようにはしない」
 文化の抹殺、宗教の破壊という人間の尊厳にかかわる問題だから宗教者も立ち上がり、行動を止めないのである。

4 このまま推移すれば、中国はチベットを完全に抹殺するであろう。
 ・中国人と差別され、人権が認められていない。
 ・宗教や思想の自由がない。
 ・チベット語を事実上、自由に使えず、仏教の修行もできない。
 ・チベット人はみるみるうちに少数民族化している。
 ・チベットの寺院も経典も破壊され続けている。
 ・鉄道が造られてから、中国人はどんどんチベット人を追い立てている。

5 中国政府は残忍であり、独裁的であり、軍事大国であり、宗教は毒であるとして弾圧している。
 侵略に始まる半世紀のチベット破壊は、完全に人間の道から外れており、自由と平和を尊ぶ先進国が勃興する中国に媚びず、正義が実現されるために立ち上がってくれるのを待っている。

6 本土にいるチベット人たちは、残忍さに耐え、差別に耐えて戦っている。
 チベット人たちの不屈の行動は、ただ国を守るためではなく、世界の平和や幸せのために仏教が必要だからであり、「慈悲」「空性」「縁起」の思想は人類とってなくてはならないものだからである。

7 チベットでは、チベット文化の教育が禁止されている。
 このままでは、中国語しか使えない子どもたちはチベット人でなくなってしまい、チベットは消滅させられる。

8 双子の仏教徒である日本人からは、いろいろな支援をいただいており、これからも支援して欲しい。
 ただ、祈っていもらえるだけでもありがたい。宝ものである仏教を共に守って欲しい。


2008
06.09

「空海の世界『四国名刹』」本尊写真展示会

 香川県高松市にある宮脇書店総本店で「空海の世界四国名刹』」の発売を記念する本尊写真展示会が行われています。
 写真家櫻井恵武氏が7日から15日まではり付き、説明やサインなどを行います。

 今回、じっくりと時間をかけてご本尊様方を拝顔しあらためて気づいたことの一つは、神々しい存在感を示す方、もう大丈夫と抱きとめてくださる方、空気へ溶け入っておられる方、寄り添う感じで近くにおられる方、前へ進む姿勢で先頭に立たれる方などの違いです。
 特に波切り不動、楫とり地蔵はいかにも船の舳先に立っておられるようで、祈る人びとの安心感はいかばかりかと察せられました。

 戦乱、混乱、対立から世界を救うマンダラの教えが地上で形となった四国八十八霊場こそ世界遺産に登録されるべきです。
 矮小な人間を超えた秘仏のお姿は、宗教や人種や文化の壁にかかわらず、世界中の人びとの心から大切なものを呼び醒ますことでしょう。
 四国では、英語の表現も交えたこの写真集の役割に期待が高まっています。
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