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2008
07.31

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 16 ―真の自分、迷っている自分―

 7月30日の講座で学んだ『法句経』の経文です。

「自らの身を愛する者は、慎みて守る所を護れ、悕望(ケモウ)して解(サト)ることを欲せば、正を学んで寐(ヤ)まざれ」

(自分を愛おしむ者は、我欲を抑えて人の道を護らねばならない。悟りたいと願うならば、睡眠時間を削ってでも、正しい教えを学ばねばならない)

 ここでいう自分とは、自己中心の煩悩によって動く〈穢れ、迷っている自分〉ではありません。
 み仏からかけがえのないいのちを授かったことを深く認識している〈真の自分〉です。
「ああ、ありがたい」と自分を愛おしく思うならば、それを汚さぬように生きねばなりません。
 それには、人の道を踏み外さぬよう、戒めを守ることです。
 さらに究極の悟りを求めるならば、いくら学び実践しても「もうこれで良い」ということはあり得ません。
 み仏に成りきることは、ほとんど不可能だからです。
 もちろん、惰眠をることなどできようはずはありません。
 トイレや風呂の時間はもちろん、歯医者での待ち時間なども活用したくなるはずです。
 釈尊は「寐まざれ」と説かれましたが、これは覚悟のできていない弟子への戒めであり、確固たる発心のある弟子にとっては、もう、通り過ぎている地点のお話です。

 さて、〈穢れ、迷っている自分〉、すなわち自己中心という我欲のままに生きている姿とはどういうものでしょうか。

 まず、何かについて快いと感じた状態を考えてみましょう。
 いかに嬉しいできごとであっても所詮は空(クウ)であり必ず消えゆくものでしかないにも拘わらず、「いつまでもこうあって欲しい」という執着心が発生します。
 空の真理を胆に銘じていないかぎり、「」は「り=欲(トンヨク)」を生みます。

 次に、何かについて不快と感じた状態を考えてみましょう。
 いかに不愉快なできごとであっても所詮は空(クウ)であり必ず消えゆくものでしかないにも拘わらず、「すぐにこの状態を消したい」という苛立ちが発生します。
 空の真理を胆に銘じていないかぎり、「」は「怒り=恚(シンニ)」を生みます。

 次に、快も不快もない状態を考えてみましょう。
 真理を観ずに漫然と生きているならば、「無常」の真理を心得ず、自分のいのちなど何であれ、「常」なるものと考えています。
 生まれたこと、死ぬことなど、人生の根本はすべてままならぬ「」であるにも拘わらず、目先の「」を追っています。
 いかなる財物も、大切な人も、自分ですら不変の実体などどこにもないはかなき存在「無我」であるにも拘わらず、幻の実体「我」を当てにして汲々としています。
 そして、煩悩にまみれている「不浄」なる存在であるにも拘わらず、このままで良い「浄」なる存在であると考えています。
 このように、空の真理を胆に銘じていないただの「不楽不苦」では、「愚か=愚痴(グチ)」なままです。

 これが自己中心を脱していない状態であり、「」も「」も「不楽不苦」も、結局は「(トンジンチ)」の三毒を生んでしまいます。
 常に自他を傷つけ、自他を不幸にする三毒を身・口・意から流れ出させているとは、何と恐ろしいことでしょうか。
 こうした現実を直視すると、戦慄しないではいられません。
 み仏の教えを学び、実践し、本当に愛おしくてならない、大切にしないではいられない〈真の自分〉を磨き続けましょう。
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2008
07.30

日本の歌 76 ―埴生の宿―

埴生の宿
  訳詩:里見 (タダシ) 作曲:ビショップ 明治22年『中等唱歌集』

1 埴生の宿も わが宿
  玉のよそおひ うらやまじ
  のどかなりや 春のそら
  花はあるじ 鳥は友
  おおわがやどよ 楽しともたのもしや

2 ふみよむ窓も わがまど
  瑠璃の床も うらやまじ
  きよらなりや 秋の夜は
  月はあるじ むしは友
  おおが窓よ 楽しともたのもしや

 開国した明治の日本は、西洋の音楽を採りいれて学校教育をスタートさせた。
 唱歌は当然、翻訳によって唄われた。
 明治35年の教科書採択を巡る教科書疑獄事件がきっかけとなり、小学校で用いる教材の著作権は文部省へ帰属することとなった。
 そのため、作者の名前は教科書から消えた。
 しかし、国が発表する格調の高い訳詩、作詞については賛否両論があり、大正時代になって子供の心をそのままに表現する童謡が一気に開花した。

 この歌は親しみやすい旋律だが、確かに詩は文語調で硬く、道徳教育を背景にしている。
 だからこそ多くの日本人の心へ染みこみ、忘れがたいものとなっているのだろう。
 また、昭和36年に発表された映画「ビルマの竪琴」における印象的なシーンも、この歌を忘れがたいものとすることに少なからぬ貢献をしていることだろう。

 埴生の宿とは、埴(ハニ)という赤い粘土で造られた家であり、粗末な家の意味がある。
 1番では、我が家を愛おしみ自然と共にある喜びを唄っている。
 2番は「蛍の光」に通じるイメージがあり、貧しくとも勉学に励み勤勉で道徳的な生きる様子が唄われている。
 英語の原文を調べてはいないが、少なくとも訳詩には明治の香りが充分に宿っている。
 明治の世はもう巡り来ない。
 しかし、芸術は永遠にその香りを伝える。

 身を固くして西洋に互そうとした明治時代の理想は、反動としての大正をはさんで昭和を迎え、さらなる飛躍を夢見て崩壊した。
 人間は否応なく時代息吹に育てられる。
 この歌を頭で反芻する時、もうほとんどこの世での役割を果たし終えた明治の人びとの心を想う。
2008
07.29

【法句経 第四章 篤い心】

法句経』の意訳です。

信心懺悔持戒布施の徳は真の財であり、立派な人が誉め称えるものである。この道は智慧ある賢者の説くところであり、精進する者は天界へ赴く。

○愚かな者は天界へ昇る道を歩まず、布施行を誉め称えない。信心あって布施を実践する善行の者は、その報いとして安楽な世界へ赴く。

信心ある者はアラカンの長であり、教戒を心に保てばいずこにあっても安楽である。み仏へ近づく者は心優れ、み仏の智慧をもって生きる者は、あらゆる生きものの中で最も賢い。

信心ある者は聖なる道を会得し、教えによって涅槃へ赴く。教えを聞いて智慧を獲得すれば、到達するところはすべてが明らかな世界である。

信心で迷いの淵を渡り、不放逸で迷いの大海を行く船の船頭となり、精進して苦を克服し、智慧によって悟りの世界へ入る。

○行者が信心し修行に励めば、聖者に称讃される。涅槃の境地を楽しむようになれば、輪廻の束縛を超越できる。

○信心と持戒智慧をもってしっかり修行すれば、行者は怒りを克服し、迷いの淵を脱する。

○信心ある人は持戒を正しく実践し、智慧を授かる。どこにいても変わらぬ実践を続ければ、どこへ行こうとも供養を受ける。

○世間のいかなる利あるものに比べても、智慧と信仰は明らかに最高の財である。世間の財物はいずれも非常であり滅尽を免れない。

○聖者たちに会いたいと欲し、教えを聞きたいと願い、物惜しみという垢を捨てきること。これが信心である。

○信心は涅槃へ赴く功徳であり、何者にも奪えない。行者の功徳を奪おうとしてはならない。行者はただ、心の平穏を楽しんでいる。

○信心のない者と親しんではならない。心貧しい彼が正しい言葉を発することができないのは、拙い井戸掘りが泉を掘ろうとして泥水しか得られないのと同じである。

○仏弟子は智慧ある者と親しむ。清流を求めて良き水を得るのと同じく、思いは清らかで乱れない。

○信心ある者は他人を悪心で染めず、ただ智慧と慈悲のみを与える。仏道修行において好ましい人物に親しみ学び、好ましくない人物からは遠ざかるべきである。

○信心を自分の乗り物とすれば、他に積むものはない。大きな象を調教するが如く、自分を制御するのは最も得難い勝利である。

○信心、持戒、慚と愧、教えを聞くこと、布施、智慧、これが七つの財である。

○信心に導かれて戒律を守り、常に清浄な心で教えを観想する。智慧をもって行じ、教えを敬い尊び忘れない者、これが信心に生きる者である。

○およそ人として生まれた者は、男女を問わず生まれながらにしてこうした財を持っている。真の財に気づく者は決して貧者にはならない。賢者はこうした真理を知るのである。
2008
07.28

『四十二章経』 第2章沙門の生活

今日も善男善女が集まり、『法楽』を作っていただきました。
四十二章経』の勉強は第二回目です。

 釈尊は、出家して髪を落とし、ヒゲを剃り、教えを受けて行者となった弟子たちの生活について説かれました。
 まず、財物を捨てて頼りとせず、托鉢にいのちを託すことです。
 托鉢から帰った午後、行者たちが受けた施物を集め、皆で分けて食べるのです。
 み仏の恵みとして授かった尊い食べものなので、もちろん、不足や文句を言うことはできません。
 足を知り、感謝していのちをつなぎます。
 お酒以外のものについての禁忌はなく、何でも食べていました。
 提供された精舎(修行道場)では雨風をしのげますが、遊行(ユギョウ…修行の旅)へ出ればたとえ樹木の下であっても、あるいは墓地であっても、休める場所があれば感謝して休み、次の目的地へでかけねばなりません。
 こうした修行を通じて心のありようを変えるのですが、主たる眼目は、執着心)と貪(トンヨク)を克服することでした。
 釈尊は説かれました。

「人をして愚弊(グヘイ…愚かで迷った状態)ならしむる者は、


 ところで、執着心としてのと慈悲は、言葉は似ていても内容は正反対とも言えるものです。
 しがみつくは〈求め〉ますが、思いやる慈悲は〈与え〉、あるいは〈捧げ〉ます。
 いかに与え、捧げるかを判断するのが智慧です。
 自己中心であれば、いかなる頭のはたらきも世間的な知恵でしかなく、み仏の智慧ではありません。
 智慧の象徴である灯火は、自分を燃やして闇を払い万物を照らします。
 智慧と慈悲はみ仏の心の両面です。

 自己中心によってはたらけば自他を傷つける煩悩となり、慈悲によってはたらけば自他を生かす大(タイヨク)となります。
 を克服するといっても、生きた尸になることではありません。
 第一、清浄な意がなければ、発心も修行も不可能ではありませんか。
 発心と修行は抜きがたい我欲との闘いを根底に持っており、そこで費やす心のエネルギーの質と量は、我欲のままにふるまう場合とは比較になりません。

「日常生活とこうした生活はかけ離れており、実践するのは困難です。どのように受けとめれば良いのでしょうか」との質問がありました。
 もちろん、こうした経典は出家者へ説かれたものですから、娑婆にいながら経文と同じ生活はできないし、現代の行者が釈尊の時代と同じ生活をしようとしても不可能です。
 娑婆の方にとって大切なのは、経典を宝石箱と思い、たとえ一つでも自分にふさわしいものと感じたならばありがたくいただき、大切にすることです。
 行者にとって大切なのは、み仏の教えは授かる行者が選ぶのではなく、縁の経典はすべてみ仏からの授かりものであると知り、一字一句をも洩らさず大切に読誦し、信じ、自分が置かれた環境の許す限り実践することです。
 経典の文字を知識に終わらせるか、自分の血肉にするかは、自分次第です。
2008
07.28

メビウスの輪と現代詩

 1プラス1は2に決まっているのと同じく、「人を殺してはいけない」は動かしようのない真理であるはずですが、そう考えない人びとがたくさんいることは、毎日流れるニュースが証明しています。
 こうした自明の前提や論理が共有できないと、言葉がスムーズに行き来せず、心もまた通じにくくなります。
 納得に至らず句読点がきちんと打たれない会話は、独人になった時、頭の中にいつの間にか表と裏がくっついている〈メビウスの輪〉のような無限の堂々巡りをもたらす場合があります。

 釈尊ならば「愚と居(オ)るは苦なり」としてさっさと瞑想に入られることでしょうが、家庭を持ち、法務の絶えない凡人には簡単でない場合が少なくありません。
 いかなる場合も、真言が万能なのは、もちろんです。
 しかし、唱えにくい時はどうしたら良いか。
 最近、一法を発見しました。
 
 現代詩を読むのです。
 たとえば、杉本真維子氏の「世界」はこんなふうです。

しずかないきものに囲まれている
伸びをしたり、身をすりよせたり
からだをやわらかく折りたたんでいる

わたしは一羽の
青いつるを折って
深夜のテーブルに置いていく

ドアを閉めると
きゅうに胸が騒ぎはじめた
きっと、
笑ったり、怒ったり、
身体をばたばたと揺らしているんだろう

つるは
無数の傷跡を残し
カーテンが何枚も
風にゆれて

一枚の青い紙だけが
おぼえている


 この詩を3回読んだところ、頭のはたらき方がまったく別のものになりました。
 すっきりし、快眠に入りました。
 おそらく、こうした効果は、ダリの作品を鑑賞すると、まず日常的感覚が混乱し、混沌に続いて清涼感がやってくることに似ているのでしょう。
 モザイク化した言葉は思考の流れをもバラバラにし、目に見える現実が歪み、継ぎ接ぎされると習慣化している反応形態が一旦破壊され、思考や反応がリフレッシュされるのでしょう。

 しかし、注意せねばならないのは、言葉が真実を母とし、絵筆が事物を正確に写しとっていればこそ、解体も再構築もリアリティを失わないことです。
世界」における「からだをやわらかく折りたたむ」何ものか。
 ダリの「宇宙象」における象やオベリスク(ピラミッドを縦長に伸ばした四角錐)。
 これらは材料とされた現実以上の生々しさを持っています。

 現代の芸術が持つ力と可能性には、ため息が出そうです。
 これもまた合掌の対象です。

2008
07.27

8月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

「ノウマク サンマンダ ボダナン アビラウンケン」

今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、
 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。



2008
07.27

8月の守本尊様

 8月8月7日より9月6日まで)の守本尊大日如来胎藏界)様です。
 ご供養し、ご守護いただき、小暑、大暑の一ヶ月を無事安全に過ごしましょう。


種々解智力(シュジュゲチリキ)』という、人の欲するものや楽しみとするものを知る力をもって、お救いくださるみ仏です。
 人は望みを持ってこそ生きられ、「幸せ」とは善き望みのかなうことです。
 にある胎藏界(タイゾウカイ)の大日如来様は、一人一人のそれをよく見極め、力をお与えくださいます。



2008
07.25

平成20年8月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 今月は、賢者が外へ出たり、あるいは天下国家を云々したりするうちに、足元に淋しさや空虚さや困難などが生じやすい運勢です。
 時は一刻の休みなく過ぎゆくので、大事になればなるほど停滞は許されず、賢者は考察し、判断し、決断してことを進めようとしますが、世の中は、ブドウの枝をつまんだ時のように全体がそっくりそのまま動くわけにはゆきません。
 むしろ、馬を駆って先頭に立つ武将の後を徒(カチ)たちが走って追うような形になるのが普通です。
 今月は、そのあたりのズレが大きくなりがちなので注意したいものです。
 ややもすると、先陣切った猛将が一人で敵軍に囲まれてしまうような事態も起こりかねません。
 また、大衆の支持を失ったり、大衆の動向に足を引っぱられたりした名門の没落ぶりが表面化することでしょう。

 さて、病苦を免れない私たちは名医の情報に敏感ですが、心の病気についてはどうでしょうか。
 万人が煩悩という万病の元である強力な病原菌を抱えているのに、割合、平気に過ごしてはいないでしょうか。
 殺人や強盗などのできごとは他人ごとと思いつつ、いつしか他人を傷つけ、何かを奪い合いながら暮らしているのが現実ではないでしょうか。
 こうした私たちは、心の名医にめぐり会うための心構えを持っていないと市井の名医に気づかず、煩悩の処置という最大の仕事をし忘れたまま人生の幕を下ろしかねません。
 それは、豆腐を買ってくるように頼まれてお使いに出た子供がオモチャを買って帰るようなものです。
 心構えの第一は、自分が我(ワレ)を主にしないではいられない煩悩を持ち、それがゆえに罪を犯した病人である、あるいはいつでも罪を犯しかねない存在であると認識することです。
 それができると、煩悩の恐ろしさと、自分では煩悩を処置できないことがよく解ります。
 そして、処置する方法を知っている名医を探し、訪ねないではいられなくなります。
 名医が見つかったならば、教えという処方箋を信じ、薬を服用するように暮らし方を変えねばなりません。
 服用する際は、薬の効能が有効であると信じることです。
 信じて実践せずに他の名医を求める旅に出るならば、処方箋を集めるだけで自ら治療を放棄した病人と同じであり、いつまでたっても問題は解決できません。

 仏法と医術の違いは、仏法の世界では名医になる道が万人へ開かれており、自分の煩悩へきちんと対処できた人は誰かを救える名医になれることです。
 わずかな名医だけが病苦を克服して安心の境地へ入っているだけではなく、お互いに名医となって病苦を克服し合い、共に真の安心の中で暮らせるよう、自分にとっての〈名医探し〉をしたいものです。

「人の道」は「菩薩になる道」です。しっかりと歩むには六波羅密(ロッパラミツ)行を実践せねばなりません。精進しましょう。
布施行と運勢
 お水を供えましょう。精進の人は、自他の智慧によって明るい道を歩めます。不精進の人は、大切なものを失ったり実体のないものに迷ったりしがちです。
持戒行と運勢
 塗香で手や心を清めましょう。精進の人は、仏神を尊ぶ徳によって願いが叶います。不精進の人は、三角関係などの複雑な迷路に入りがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢
 お花を供えましょう。精進の人は、身を慎む徳によって思わぬ幸運に恵まれます。不精進の人は、邪念が表面に出て失敗しがちです。
[精進行と運勢
 お線香を供えましょう。精進の人は、沈着に行って確かな利を得ます。不精進の人は、頑なさのゆえに良き縁を得られず停滞を招きがちです。
禅定行と運勢
 飯食(オンジキ)を供えましょう。精進の人は、君子危うきに近寄らずで無事安全です。不精進の人は、頼りにしていた人との縁が薄れがちです。
[智慧行と運勢]
 灯明を点しましょう。精進の人は、東西南北へうまく動き開運します。不精進の人は、うろうろしているうちに肝心なものが手からこぼれがちです。

2008
07.25

清める

 よく、「こんな自分を清めたい」「清めながら生きて行きたい」「お経を読誦するだけで清められるんでしょうか?」といったご相談を受けます。
清める」とはどういうことでしょうか?

「自分の悪が恐ろしい結果を招かないようにしたい」、あるいは「悪いことをしない人間にになって出直したい」といった感じがあることは解ります。
 そうした希望は、どういう行動によって叶えられるのでしょうか。

 私たちのいのちは〈今〉にしかありません。
 昨日の自分は、もう、どこにも存在せず、明日の自分も、まだ不確定です。
 しかし、昨日生きていた自分を因として〈今〉の自分がおり、〈今〉いる自分を因として明日の自分が決まります。
 だから、清めは、過去現在未来の自分に関わらねば達成できません。

 過去に対しては、懺悔をすることです。
 仏法上の過去は、生まれてからの時間だけを指すのではありません。
 過去は、いのちの発生時まで連なっています。
 生まれた時はすでに無限の過去の善も悪もすべて因縁となって自分に結晶しているので過去を「ここまで」と区切ることはできません。
 だから、「無始よりこのかた、貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて、身と口と心とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる」とみ仏の御前で唱えるのです。

 現在に対しては、仏法僧の三宝帰依することです。
 一時の癒しであれば別ですが、深く自分を省みた場合、の積み重なった自分は自分を次元的に超えた存在によってしか根源的には救われないことが解ります。
 自分の罪の恐ろしさにおののく時、人間としての不完全さに愕然とする時、何ものかへひれ伏さないではいられない思いが起こります。
 そして、み仏へおすがりし、教えと救済力によって愚かさや苦しさから抜け出たいと願い、み仏へ仕えて教えを学び実践している人びとを師とします。
 それが帰依です。
 礼拝は帰依の表現であり、帰依のない礼拝は自分とみ仏への欺瞞でしかありません。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、深く三宝帰依したてまつらん」と唱えるのです。

 未来へ対しては、二度と過ちを犯さないように決心することです。
 自分の罪過の恐ろしさに戦慄すれば、絶対にくり返したくないと思うはずです。
 誰しもが自分を恐ろしいことろへ投げ入れたいとは思わないはずです。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、ひたすら三宝帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん」と誓い、重ねて「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん」と唱え、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の十善戒をくり返します。
 どう生きるかというイメージを明確にします。
 ここまで行かなければ、本当に自分のと向かい合ったとは言えません。

 こうして清め発心(ホッシン)したならば、あとは正しく学び、正しく実践するのみです。
 み仏と御霊への供養も、寺院への布施も、経典の読誦や瞑想などによる修行も、そして、日常生活における六波羅密の実践も、すべてが清めの力となります。
 道理として理解できたなら、実践するしかありません。
 清めという美しい道を歩み始めるかどうか、それを決めるのは自分です。
2008
07.24

仙台良寛会にて

 仙台良寛会で「チベット チベット」の映写会を行いました。
 会場は仙台市青葉区国分町の『』さんです。
 内ヶ崎ビルへ引っ越して間もない『』さんのご主人夫婦は、昔に変わらぬ明るく優しい笑顔のままでした。
 また、この会は初めての参加でしたが、知己の方々が多く、驚きました。
 知己といっても、娑婆にいた頃から、つい最近ご縁になったばかりの方までさまざまであり、自分の年齢を実感させられ、皆さんの自己紹介を聞きながら人生を省みるような気持になりました。

 参上する前は、自由人である良寛さんといつもまなじりを決しているような自分とはあまりにもタイプが違うので、「〈地〉でやったらまずいのではないか」「何か柔らかなテーマにしようか」などとも考えましたが、終わってみると、志と信念のままに拙い話を申し上げて良かったとつくづく感じました。
 知己の方のお顔を拝見したのもさることながら、新聞や地域誌「シルバーネット」やホームページやメールのネットワークや口コミなどで、当山を知っておられる方が多かったからです。

 さて、肝心の映画です。
 今回は持時間がとても少なかったので、かなりの部分を飛ばしました。
 自分がどれ程度映画の内容を把握しているかを問われているようなもので、観ていただく場面の選択もなかなか難しいところです。
 まず在日韓国人三世である監督がいかなる意図でこの作品を作ったか、チベットの現状(映画製作時)はどうか、ダライ・ラマ法皇はいかなる方か、そして亡命先のチベット人たちは何を望んでいるか、この4つについて皆さんなりのイメージをもっていただこうと判断しました。
 いずれも重いテーマであり、結果がどうだったかは観た方々の判断にお任せするしかありません。
 映写が終わってから、毎月第一土曜日に行う予定の映写会へおでかけいただき、全編をゆっくりとご覧いただきたいと申し上げました。
 
 法話では、「自分の(ゴウ)は自分の修行で清めて欲しい。それには六波羅密(ロッパラミツ)を意識して日々を送ることです」と申し上げ、「六つの誓い」を記した置物をお渡ししました。
 また、「共(グウゴウ)に関わっていない人は一人もいない。今の世の中や世界がどうなっているかは、私たち一人一人の生き様の反映です。今のままで良いと思わないのなら、たとえ何であれ、自分にできることを実践する以外、世の中を変え、自分の毎日を変える方法はありません」と申し上げました。
 温かく迎え入れ、私のような若輩者の話に真摯に耳を傾けてくださった会員諸兄にあらためてお礼申し上げます。

 なお、次回の定期映写会は、8月2日(土)午後3時より『仙台青年文化センター』にて開催します。
2008
07.22

【現代の偉人伝】 第六十話 ―『沈黙を破る』―

strong>現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、

 ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。




沈黙を破る』という元イスラエル軍将兵の青年たちによるグループがある。
 平成16年、彼らは、テルアビブにおいて「沈黙を破る――戦闘兵士(コンバット・ソルジャー)がヘブロンを語る」と題した写真展を開催し、大きな注目を集めた。
 パレスチナと闘うイスラエル軍の残虐性、軍人たちの人間性崩壊がありのままに描き出されていたからである。
「外で汚い洗濯物を洗う」ことを潔しとしない彼らは、当初、海外メディアとの接触を拒否していたが、やがて、方針を変える。
 創設者ユダ・シャウール氏は言う。

「これは人間としての問題です。ヘブライ語に『他人の過ちから学べ。すべての過ちを犯す時間はないのだから』という諺があります。アメリカでの公演ツアーの時、何十回と、ベトナム、イラクなどで兵役に就いた人たちが立ち上がって語り出しました。彼らは私が語る言葉と同じ〝言語〟を語り、同じ感情を語った。違った状況だったろうが、同じ〝言語〟なのです。私たちの言葉は〝人間〟の言葉だと思います。同じ世代の声です。〝占領〟に加担し、今、それがどういう意味を持つのかを説明しようとしているのです」


 岩波書店より刊行された『沈黙を破る』に掲載されたテルアビブ育ちのアビハイ・シャロン氏が語った証言である。
 彼は、占領地で兵役に就くことになんのためらいもなかった。

「私は占領地について詳しいことはまったく知りませんでした。イスラエルに生まれ、その一定の生活スタイルや考え方など全体の社会背景の中で育つと、パレスチナ人側の立場については知らないような状況になってしまうのです。自分たちは国を守る義務を果たさなければならないことならわかる。他のすべてはたいしたことではなく、自分が育ってきたなかで知る必要なんてないことです。学校で歴史を習うときは、パレスチナの歴史なんか習わない」


 彼は、占領地での体験を語る。

「壁を壊して次の居間に押し入る、そこからまた壁を壊して次の居間に進む。そんなふうに、一区画すべての家でそれをやるのです。そんなことをしていたら、人間のなかで何かが壊れていき、心が退廃していかないわけがない。人間の生命にも、他人の財産にも、住民の家について全く無感覚になってしまうのです。
 罪のないパレスチナ人の生活のことを想像してみてください。ほぼ五年間、パレスチナ住民は安心して眠れる夜が一晩としてないのです。武装した兵士たちが街や家にやってきて、すかすかとその生活のなかに押し入ってきて、何時間も、何日も、ときには何週間もそこに居座るのです。
 そういう現実に気づくと、自己否定して、自分の殻に閉じ込もってしまう。それに自分が対処できないからです。自分が何者で、何をしているのかということにきちんと向かい合えない。自分がそんな恐ろしいことをやっているのですから。六歳や七歳の幼い子どもの目を見ると、泣いているのです。だって、部屋に放り投げ入れられ、クローゼットをひっくり返され、自分のものがメチャクチャにされて調べ上げられ、その子の母親の下着まで調べられるのです。住民が家のなかにいるのに、その家の壁に爆薬を仕掛ける。どんなひどい被害をその家族に与えるか想像してみてください。
 そのすべてが何も特別なことではなく、日常のいつもの任務なのです。だからもう自分のなかに〝鍵をかけてしまう〟しかないのです。〝否定〟のなかで生きる。つまり自分が何者であるかなんて考えないことです。ただ淡々と任務をこなし、部隊の基地に戻ってきて、眠る。そして起きて、次の任務に出かけていく。それだけです。それに疑問を持たないように、自分自身を内側に閉じ込め〝鍵〟をしてしまいます。自分がやっている現実に気づかないこと、見ないことです。そんな自己崩壊な状況になると、もう抜け殻状態になります。
 まったく無感覚になる、相手のパレスチナ人に対しても、その家々に対しても、また彼らの財産に対してもです。もう自分自身についてもどうでもよくなってしまう。テロリストの家の外で、夜中に眠り込むことだってできる。眠り込んでしまうのです。もうくたくただし、自分のことはどうでもよくなっているから。それが、兵士が無感覚になり、自分が生きている現実を絶えず否定するようになるプロセスなのです」


「何も感じなくなり、ただ〝機械〟になりきって仕事をこなす。そして道徳心や社会的な感性、人間としての感性などが全部麻痺するのです」


 7月11日、北朝鮮の金剛山地域で韓国人の女性観光客が兵士に射殺された事件について、北朝鮮当局は韓国の現地調査を拒み、発表の内容を変えている。
 7月21日付の韓国紙によれば、銃撃したのは17歳の女性兵士であるとの情報を韓国政府が入手し、確認中であるという。
 事実はまだ確認されていない。
 しかし、いずれにしても、昔のアビハイ・シャロン氏と同じく、「一定の生活スタイルや考え方など全体の社会背景の中で育」ち、隣国韓国や日本の現実を知らず、「人間としての感性などが」麻痺した人間のしわざであるに違いない。

 戦争に従事することがいかに人間性崩壊させるか告発してやまない『沈黙を破る』人びとの警告を、私たちは他人ごととして聞いてはいられない。
 日本を守るはずの自衛隊は、今や、アメリカの同盟軍として、〈普通の国の普通の軍隊〉として、堂々と戦火の中へ赴こうとしているのだから。
2008
07.22

守本尊道場造営日記二十一 ―ニューロン―

 最近、虚空蔵求聞持法百万返が終わったことに関して「どうだったのか?」と質問をいただきます。
 多くの方々は本やテレビで見聞きするような奇跡体験を期待しておられるやに見受けられますが、夜学行者である私などは、前回書いたとおり、お大師様の「谷、響きを惜しまず」が、いくらか理解できた程度でしかありません。
 三密加持による法の世界へより深く入られる実感が、ご祈祷、ご加持、ご供養などの修法において、より大きな力を発揮できることにつながればありがたいと考えています。
 その後、意識できる変化としては、伝授を受けたさまざまな修法における〈つながり〉の発見が挙げられます。
 ちょうどニューロン(神経細胞)がシナプスによってネットワークを形成し、脳が一つのまとまった世界としてはたらくようなものであると言えそうです。

 いずれにしても、すべてが菩薩行である行者としては〈得られたものがいかに皆さんのために役立つか〉がすべてであり、それ以外の関心事はありません。
 いかなる修行も、抜苦与楽の具体的方便を掴めなければ、菩薩行としての意味はありません。
 である以上、無事満願したならば、ささやかな発見を解りやすくまとめて残さねばならないと考えています。
 たとえば、せっかく生まれ持った知恵があるのに、時として信用をすっかり失ってしまうような行動に走る人の運勢はいかにして形成されるか、弱点と克服のポイントはどこにあるか、などなど、語れる〈奇跡〉はなくとも、「そうか」と納得し「やってみよう」と〈運命転化を志すためのカギ〉が明示できればありがたいことです。
 また、弟子たちへ、修法上のポイントなどを判りやすく指導したいと願っています。

 来たる百八万返の成就が何をもたらすかはご本尊様へお任せし、ただただ、行じ続けます。
2008
07.21

行者の心得 その4

10 結界を張ること。

 結界において一番気をつけねばならないのは、自分が仏神であると思いこんで死んだ人がそのまま妄者となって現れて来る場合があるので、それを決して入れないことです。
日本霊異記』などを読めば、意志を通したいと我を張ったまま妄者となった怨霊のすさまじさが解ります。
 正統な修法結界を結ばないと、念の力が妄者を呼び寄せてしまうことも珍しくありません。
 テレビで怪しい占い師や霊能者が、何かにとりかかるとすぐに気持が悪くなったり、不安げな表情になったりするのは、自分でそうした流れを作るからであり、護身法の力を甲冑としてまとう正統な行者は何ものを相手にしても淡々としており、何ものにも怯えません。
 気持が悪くなったり怯えたりしたら勝負は負けに決まっています。
 だから、第三者の目から見れば、特殊な場合を除けば、何ら〈それらしい〉ところがないままに、修法は終わります。
 護身法は、自分自身へ結界を張るものであり、隠形流行者は迷わず、惑わされず、ただただ素直に伝授を信じ、励みましょう。
 まず、きちんと自分の身を護られればこそ、いかなる亡者をも安心の世界へ導くことができます。
 泳げない人は、溺れている人を救うことはできないのです。

11 念力ではなく法力でことを行うのが仏法を信ずる行者の務めである。

 念ずることにおいて制限はなく、その内容は、善であったり悪であったりします。
 なぜなら、誰でも勝手にできるからです。
 しかし、法を結ぶことは、決して勝手にできはしません。
 なぜなら、法力を動かせる行者からしか法力は受け継がれないからです。
 だから、お大師様は、法の伝授は「器から器へ移すようなものである」と説かれ、弟子が密教を伝授されるべき器であるかどうかを見極めるのが、師となる者の大事な仕事です。
 そして、受け継がれたものは、正しい修行方法によって正しく行者の血肉にならなければ決して生きません。「知った」だけになってしまい、宝は持ち腐れとなります。
 
 法力によって事態が動いたからといって驚く必要はありません。
 法力は加持力となっていのち全体へはたらきかけており、たとえ目立たないとしても心が変化していることは、何よりも大きなできごとなのです。
 修法の場を体験された方が、「霧が晴れました」「心が軽くなりました」「前へ進めそうな気持になりました」などと述懐されるとおりです。

 なお、仏法において「念ずる」とは、心へしまい込むべきものをきちんとしまい、努々(ユメユメ)疎かにせず、決して離さないことを意味します。
 釈尊は、それを「正念(ショウネン)」と説かれました。
2008
07.21

8月の俳句

 8月は葉月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

夏の月今日も同じく鍵を閉ず


 夜更けに外へ出てみると、ひんやりした夜気が心地よく、空には月がかかり、清涼な光を放っている。
 家の中にはまだ暑い空気がよどんでいる。
 いっそのこと戸を閉めず開け放っておきたいが、そうもゆかない。
「閉ず」には「……。」としたくなる心残りがある。

して浮世を厭ふにあらず


 暑さを凌ごうとをかけている。
 一見、バリケード風だが決してそうではない。
 形は拒否のようでも心には受容の準備がある。

高鳴いて山野の眠り解く郭公


 郭公の鳴き声はとてもよく通る。
「高鳴いて」には、音程の高さや声の大きさだけでなく強さがある。
 モズもシカも虫たちも高鳴く。

夏の胸のうつろを埋め尽す


 夏のには春の靄のような膨らみや優しさがない。
 モノに遮られない限り一分の隙なく遍満している空気と一緒に、目に見える世界へすっかり浸透している。
 在りながら虚無のようなそれは、胸中の虚ろな思いと同じだ。
 気づくと、内も外も、もう、無彩色だ。

梅雨蝶の小さく翔び交ふ細流れ


 小さな流れを挟んだ草むらのあたりを蝶々たちが飛んでいる。
 自分と一緒に、梅雨の晴れ間を楽しんでいるかのようだ。

光りては雷神孤独な恍惚境


 稲光に次いで雷鳴が轟く。
 あらゆるものを畏れさせる雷神は世界の王だ。
 しかし身を縮め息を潜めている者たちとの間には絶対的な断絶があり、いかに王の力を示し、それを確認して自ら大きく頷こうとも孤独である。
恍惚境」とは恐れ入ったとしか言いようがない。

あの世より引き戻されし昼寝覚


 夏の昼寝には独特の深さがある。
 愛猫のクロが長く伸びている姿を眺めると、よく解る。
 すっかり我を失い切っている時、あの世に行っているのと何の違いがあろうか。
 目覚めの「ああ、戻ってきた」という感覚が「引き戻されし」となった。

右脳のみ覚めて風鈴聞いてをり

 風鈴の音がチリリーンと響き渡り、全神経が耳に集まって次の音を待っている。
 又、鳴る。
 今、言葉は要らない。左脳はお休みだ。
 

朝曇り今日も暑いと土鳩鳴く


 土鳩の声はどこかヤボ臭い。
 そもそも、伝書鳩などとして飼われていた彼らは、人間界で生きる。
 曇り空の下、眠りを破る野太い声は、すでに暑さを先取りしている。
 

夏の白くて詩心見失ふ


 見事なほど真っ白な
 あらゆるものの形も色もぼんやりし、感性ははたらかない。
 迷子になったようだ。
2008
07.20

20年7月 第二例祭が終わりました

 おかげさまにて、今月も、無事、第二例祭を終えました。
 護摩木供養を申し込んでくださった善男善女の方々へ、心よりお礼申し上げます。

[今年もグミは豊作でした]
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[水の少ない梅雨ですが、紫陽花の色は変わりません]
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[数百体の護摩木が捧げられます]
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因縁解脱を]
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心願成就を]
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[御宝前へ]
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2008
07.20

行者の心得 その3

9 切っ先を飛ばすようにを振るのは、摩利支天法だからである。

 竹刀で〈打つ〉場合は切っ先三寸の速さを競いますが、真でモノを〈斬る〉場合は、円運動を意識した動きになります。
 そうでないとが対象物に食い込んでしまうからです。
 しかし、当流の基本は、真と形、重さ共にそっくりな模造刀を用いるにもかかわらず、切っ先をもってイメージした線を描きます。
 それは、摩利支天(マリシテン)の隠形法をによって不動明王の力を動かし、魔除開運を行うからです。

 当流で唱える『不動尊剣功徳の文』です。

「この(ツルギ)には一々諸神をこもらせ給ふ。
 切っ先は大摩利支天(マリシテン)、焼刃(ヤキバ)は倶利伽藍(クリカラ)龍王、鍔の丸さは日月を表し」

 又、密教経典には、こう説かれています。

「日の前に天有り。摩利支天と名づく。大神通自在の法あり。
 常に日の前に行き、日、彼を見ず、彼、日を見る。
 人よく見ることなし。人よく知ることなし。人よく捉えることなし。人よく害することなし」

 摩利支天は又の名を威光菩薩と申し上げ、その神徳は測ることができず、水に流されず、火にも焼かれません。
 私たちの仏心もまた、何ものにも破壊されません。

 自分を始め、何か大切なものを悪しきものから守りたい時は、合掌して(左手は自分、右手はご本尊様です)真言を唱えましょう。
「おん あにちや まりしえい そわか」
 日天の威光と同化して陽炎のようになれば、もはや、何ものからも害されません。
 心して祈りましょう。

2008
07.18

極楽

 今日も、お位牌も要らないと言い遺して亡くなった方の奥さんが来山され、位牌入魂する修法を行いました。
 あまりに嬉しいことがあると泣きたくなりますが、ちょうどそういった顔で「夫は今、とても喜んでいます。羽がはえたように浮き浮きしています」と言われます。
 続けて、「お不動様の剣と、お大師様の五鈷杵(ゴコショ)がとても耀いています」。
 振り向くと、どんよりした空模様の下で湿った空気に満たされた本堂なのに、その金色の鮮やかさはあまりに際立っています。

 不動明王の剣は、智慧に導かれず我欲妄想によって動かされる人の迷いを断ち切るものです。
 お大師様の五鈷杵は、あらゆる智慧の源である「五智」を司る五智如来の徳を発揮し、迷妄を破るための法具です。

 とても人間味にあふれた亡きご主人も、奥さんも、何かが吹っ切れたのでしょう。
 奥さんの泣き笑い、そしてご主人の「浮き浮き」。
 悲嘆の向こうにある極楽をかいま見ました。
2008
07.18

ほめる 5

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋です。
 このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
 頭が下がります。
 勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。 

二年 K・K

 きのう、学校からの 帰り道、黄色いはたをもって、おうだんほどうを わたろうとしたら、はたが、たおれていました。
 ぼくは、そのはたを、きちんと、もとのところへ、入れておきました。
 そして、「いいことをしたんだなあ」と 思いながら、おうちへ帰りました。

                  ◆

 けんごくん、ほめほめありがとう。
 いっしょうけんめい、きれいな字を書いているので、もういっぺん うれしかったよ。
 学校の帰り道、おうだんほどうの ところで、黄色のはたがたおれていたので、もとあったところへ、きとんと入れておいてくれたんだね。
 よく気をつけてくれましたね。校長先生がときどき みまわりをしてみて きづくことは、おうだんほどうの 黄色いはたが、散らばったり、なくなったりしていることです。
 わたしたちの いのちをまもってくれる、たいせつなはたですから、みんなで たいせつにしましょうね。
 いたずらをしている人をみたら、やさしくちゅういしてあげてくださいよ。


「いいことをしたんだなあ」と思う気持は、けんご君を自然に悪行から遠ざけるはずです。
 善悪は示しながらも暴力シーンが満載のゲームやテレビ番組が子どもたちをワクワクさせ、善悪をそっちのけにした暴力的行動へ駆りたてるのとは天地の違いです。
 心の傾向の核が創られる時期には、相応の環境が与えられ、相応の指導がなされねばならないのに、現状は悲劇的とすら思える状況です。
 すべては欲望の無限解放と、対象者を選ばない商業主義にあります。
 大人が我欲のままに生き、まだ自分を自分で確立できない子どもたちの我欲を無制限にかき立ててまで儲けの対象としてはばからない人びとは、タコが自分の足を喰うように自分の老後から安心を奪い続けています。
 一人で強く生きられない老人を支える人びとが非情であったなら、老人の安心はどこにもありはしません。
 子どもたちへ悪しき環境を与え、与えるべき教育を施さなければ、それはやがて大人となる子どもたちにとって悲劇であるだけでなく、義務を果たさなかった大人たちにとっても悲劇であることを忘れないようにしたいものです。
 子どもたちが善行に満足と喜びを覚え、それに感謝が加わるようであれば、すべての人びとにとって未来の安心は確かなものになりましょう。


二年 K・S

 わたしが、一年生の、女子べんじょに いきました。
 大きなうんこが、はみでていて、ながしてありませんでした。
 わたしは、じぶんのをすませて、そうじどうぐを とりにいきました。そして、うんこを 中にいれて、水をながしました。
 うんこがながれて、きれいになりました。
 それから、この前の、木ようしゅうかいのとき、校長先生は、うんどうじょうに、しんぶんがおちていたのを、ひろっていましたね。
 わたし見たんよ。
 校長先生、いいことをしたね。

                 ◆

 かずみさん、
 ほめほめのお手紙、ありがとうね。
 校長先生は、ほめほめを書いてくれる子が大すきです。
 よしおか先生との、おやくそくをまもって、トイレをきれいにしてくれたんですね。
 女子べんじょに、うんこが はみでていたんよね。それで、そうじどうぐを もってきて、中にいれて、水をながして、きれいにしてくれたのね。よくやってくれましたね。気もちわるかったでしょう。校長先生からも、おれいをいいますよ。「かずみちゃん、ごくろうさま。」
 校長先生の ごみひろいより、うんとうんと、たいへんなおしごとでしたね。
 こんど、かずみちゃんひとりで、できないようなことがあったら、校長先生に おしえてくださいね。おてつだいするからね。これからもがんばってね。



 かずみちゃんが校長先生の行為を見ていたように、自分が善きことを行う心になっていれば、他人の善行にも意識がはたらきます。
 自分が悪しきことを行う心になっていれば、他人の悪行へも興味津々になります。
 創造につながる想像力がはたらくか、破壊につながる妄想力はたらくか、それは自分の心と環境によります。

 7月16日、多賀城市などの少年たちが決闘と傷害の疑いで逮捕、送検されました。
 テレビの決闘シーンなどに感化された少年らは、ささいなことから決闘を企て、「殺せ」などと叫びながら乱闘に及び、負傷者を出したものです。
 他人の心身の痛みを想像する思いやりが欠如し、思いのままに暴力をふるう妄想が肥大して起こった愚行です。

「かずみちゃん」を育てる環境は失われたのでしょうか。
2008
07.17

【法句経 第三章 教えをよく聞くこと】 

法句経』の意訳です。

○教えをよく聞くことを厭わず、仏法を奉じて邪悪なるものへの盾となし、精進すれば、邪悪なるものに人生を壊されない。これによって戒めは守られ、智慧が生ずるのである。

○教えをよく聞けば目ざすべきものが明らかになり、智慧が増す。智慧が増せば意義や道理が理解され、教えの実践が円滑になる。

○教えをよく聞けば五欲のもたらす憂いが除かれ、身心の安寧による喜びを知る。そうした行者は善き如来の教えを説き、苦を脱した境地へと導ける。

○教えを聞いて教えと戒律を知り、疑問が解消し、真理を理解する。教えを聞いて正しからざるものを捨てれば、やがては苦を脱した境地へ入られよう。

○師たる者は道を現し、疑問を解消させ、明らかな真理を学ばせる。清浄なる修行の根本を明確にし、如来の教えの数々を尊び保持させる。

五欲を制御すれば意義や道理が理解でき、戒律に背かない。如来の教えを受けそれをより所とする者は速やかに苦を脱した境地へ入られる。

○教えを多少聞いたからといって慢心し、自分を大いなる者として驕れば、盲いた人が灯火を手にするようなものであり、誰かは照らされても自分自身は明かりを得られない。

○地位や財を求め、王となり天界へ昇るよりも、世間で弁が立ち智慧ある者となるよりも、教えをよく聞いて悟る者となることが第一である。

○帝王が使者を派遣して招聘するのも、天界において最上の者が招聘するのも、教えをよく聞いて悟った者である。そうした者を得れば真の富を得、あらゆる力が増大す。

智慧ある者は教えをよく聞いて悟った者へ礼を尽くし、求道者もまた、その縁を喜ぶ。王は誠心をもって仕え、帝釈天、梵天といえども同じである。

○仙人は常に教えをよく聞いて悟った者を敬う。まして、世間的な成功者や富豪は敬う。それは、教えを聞いて悟った者の智慧が貴いからである。最も礼を尽くすべきは、教えを聞いて悟った者である。

○太陽を尊ぶのは明るさを求めるからであり、父に仕えるのは恩に報いるためであり、主君に仕えるのはその力で守られるからである。教えをよく聞くために得道の人へ仕えるのである。

○人はいのちを惜しんで医師に仕え、勝負に勝とうとして力ある者へ仕える。真理は智慧のところにあり、それによって福徳を得られる善行をなせば、現世来世も明るい道を歩める。

○友人の信、不信を察するのは何ごとかを行うためであり、一緒に歩む者と分かれるのは急時に対応するためであり、妻がいるのは家の楽しみであり、智慧を求めるならば、教えをよく聞いて悟った者の説法を求めねばならない。

○教えをよく聞くことは今世の利益であるだけでなく、妻子も友人兄弟も友人までもが後世の利益も蒙る。重ねて聞くことによって聖なる智慧がもたらされる。

○教えをよく聞けば憂いや怒りがなくなり、災厄などによる衰運も免れる。平穏無事で幸せに過ごしたいならば、教えをよく聞いて悟った者に仕えねばならない。

○心身を切り痛めつけるものは憂いであり、矢で射られたような苦を招くのは、何よりも自分の愚かさである。この憂いや苦は、勇壮の者も力で除くことはできず、教えをよく聞いて悟った者に導かれるしかない。

○教えをよく聞いて悟った者に導かれて智慧を得るのは、盲いた人が目を得るようなものであり、暗闇にいる人が灯火を得るようなものである。教えをよく聞いて悟った者が世間の人々を導くのは、目の不自由な人を目の健全な人が導くようなものである。

○教えをよく聞いて悟った者に導かれて愚かさを離れよ。慢心と富裕とを楽しまず、よく学び、教えをよく聞いて悟った者に仕えよ。これが徳を積み真の安寧を得る道である。
2008
07.16

日本の歌 74 ―花―


  作詞:武島 羽衣 作曲:滝 廉太郎 明治33年 組曲『四季』より

1 春のうららの隅田川
  のぼりくだりの船人が
  櫂のしづくもと散る
  ながめを何にたとふべき

2 見ずやあけぼの露浴びて
  われにもの言ふ桜木を
  見ずや夕ぐれ手をのべて
  われさしまねく青柳を

3 錦おりなす長堤(チョウテイ)に
  くるればのぼるおぼろ月
  げに一刻も千金の
  ながめを何にたとふべき

 この歌には、古典の力とでも言うべき不滅の輝きがある。
「櫂のしづくもと散る」には、線香火、七夕の短冊、ホタルの灯、そして切腹までつながる日本人の感性が顕わになっている。
 歌詞の内容からすれば強過ぎるのではないかと思われる旋律も、清浄に唄われ4小節の麗しい山を形成する。
 朝の桜は未来を含んだ陽光の中で励ますように語りかけ、夕べの青柳は深く優しい憩いの闇へさし招く。
 そして、夜桜が続く長い堤防の上にかかるおぼろ月。
 日本人の心性の原風景とも言うべきものの典型的な表出である。

 一番の歌詞は、『源氏物語』に拠っている。
「春の日のうららにさして行く船は棹のしずくもぞ散りける」
 三番の歌詞は、漢詩『春夜』に拠っている。
春宵一刻 価千金
 古典から古典が生まれた。
 時、武島羽衣28歳、滝廉太郎21歳である。

 明治以降、確かに物質文明は発達した。
 しかし、その核となっている文化の状況はどうであろうか。
 千年の単位で育まれた原風景はどうなっているのだろう。
2008
07.15

日本の歌 73 ―花―


  作詞 作曲:喜納 昌吉(キナ ショウキチ) 昭和55年 喜納昌吉とチャンプルーズ

1 川は流れて どこどこ行くの
  人も流れて どこどこ行くの
  そんな流れが付く頃には
  としてとして 咲かせてあげたい
  泣きなさい笑いなさい
  いつの日か いつの日か を咲かそうよ

2 涙流れて どこどこ行くの
  愛も流れて どこどこ行くの
  そんな流れを このうちに
  としてとして 迎えてあげたい
  泣きなさい笑いなさい
  いつの日か いつの日か 花を咲かそうよ

3 花は花として 笑いもできる
  人は人として 涙も流す
  それが自然の 唄なのさ
  心の中に 心の中に 花を咲かそうよ
  泣きなさい笑いなさい
  いついつまでも いついつまでも 花を掴もうよ
  泣きなさい笑いなさい
  いついつまでも いついつまでも 花を掴もうよ


 歌詞を何度読んでみても、言葉とイメージが滑らかに流れない。
 いちいちダメを押しながら進むようなところがある。
 言いたいことは理解できるが、一編の詩としての完成度については、何とも判断し難い。

 どういう人なのか調べてみて、即刻、合点がいった。
 志の人なのである。
 氏のホームページにはこうある。

「すべての武器を楽器に」「すべての基地を花園に」「すべての人の心に花を」「戦争よりも祭りを」をスローガンに音楽活動を展開。2004年7月より参議院議員となる。

 ダメを押すには、当然、訳があったのだ。
 
 唄ってみた。
 現実の重さがある。
 歌の副題が「すべての人の心に花を」だという。
 理想であり、ロマンのようだが、この歌は理想郷へと心を飛翔させるのではなく、荒れ地に草花をびっしりと植えて行くような汗を感じさせる。
 氏が国会議員になったのは本望だろう。
 聴衆と間近に接するライブコンサートと〈どぶ板選挙〉は、とても近い。
 
 きっと、この歌は、一風変わった経緯で百選に入ったのだろう。
2008
07.15

日本の歌 72 ―七つの子―

七つの子
 作詞:野口 雨情 作曲:本居 長世 大正10年 児童文学雑誌『金の船』に発表

烏 なぜ啼くの
烏は山に
可愛い七つの
子があるからよ
可愛 可愛
烏は啼くの
可愛 可愛
啼くんだよ
山の古巣に
行つて見て御覧
丸い眼をした
いい子だよ


 この歌に関しては、野口雨情がなぜ〈不吉な鳥〉といった感のあるカラスを子供向けに詠んだのか、「七つ」は7羽なのかそれとも7歳なのかなど、いろいろ推論、議論があるらしい。
 しかし、明るいものや幸せなものよりも、むしろ、暗いものや不幸、不運の中に人生の真実を探る鋭さを潜めている詩人が行った仕事と観れば、特段に理解しにくいものではない。
 世間では、黒い全身、他の音色を塗りつぶす強く鋭い声、群れている時のただならぬ気配などから不吉な鳥として忌み嫌っているが、いのちを丸ごと掴む詩人の感性は、そうした先入見の向こう側へ届いている。
 そして、ハトやスズメに通じる愛しさを真っ黒なカラスに感じた時、「斜めに構えてやろうか」、「そもそも、斜めなのは世間の方だ」という気持が起こったのではなかろうか。

 スルメをアタリメと称し、葦(アシ)をヨシ(良し)と称し、サル(去る)をエテ(得て)公と称するような手段を用いず、いきなり七という吉祥の数字を持ち出している。
 その前にある「なぜ啼くの」には、「鳴くカラスをなぜ忌み嫌うのか」が隠れているのかも知れない。
 そして、「可愛い 可愛い」、「可愛い 可愛い」、「良い子」と、もう有無を言わせない。

 子どもたちは、この歌を唄う時、大人の持つ「カラスは不吉」という先入見とはまったく反対の心持になっている。
 山の巣にいる子供を思って聞こえるように甲高く鳴く親鳥、そして、親が帰ってくるのを待っている小さな可愛い子どもたちを想像し、情緒は暖かく膨らむ。
 
 詩人の圧倒的な力量が表れた傑作である。
2008
07.14

【法句経 第二章 教えを学ぶこと】  2

法句経』の意訳です。

戒めを守り、教えを学ぶのは共に善行であり、賢者への道である。戒めを守れば正しい教えを学べ、正しい教えを学べば戒めを守られる。大いなる目を見開いて学業せよ。

○学ぶ者はまず戒めを守り、心を雑念から守らねばならない。得ようとせずに徹底して施し、教えに納得と実践が伴わぬうちは眠らぬどの覚悟をもってせよ。

○もし、百歳まで生きながらえようと、邪なるものを学び不善なる行いを志向する一生ならば、精進し、正しい教えを学たった一日にも及ばない。

○もし、百歳まで生きながらえようと、火の神に仕え正しからざる術を修行するならば、戒めを守り解脱を求める行者を讃え供養する一瞬にも及ばない。

○正しい教えは実践すべきであり、いたずらな論議にふけってはならない。表面的に学ぶのみで信心と実践が伴わぬのは、智者の厭うところである。

真理を求めて学び、真実を観て教えの納得を求めよ。まず教えを生きる者となり、その上で教えを説かねばならない。真の智慧を持ち惑わぬ者とならねばならない。

○髪を振り乱し粗末な服装にて行者を装うとも、正しい教えに導かれず煩悩に支配されていては何にもならない。それは真理に暗く、耳の聞こえぬ者がさまざまな音色を聞こうとするようなものでしかない。

○学べば貪り・怒り・愚かさの三毒を脱することができるのは、薬が毒を消すようなものである。精進する者が持って生まれた煩悩を捨てて悟りの岸へ行くのは、ヘビが脱皮するようなものである。

○よく学び、戒めを守って揺るがぬならば、現世にも来世にも称讃を受け、願いは成就する。

○よく学ばず、戒めをきちんと守れぬならば、現世にも来世にも非難を受け、願いは成就しない。

○正しく学ぶは二つの方法がある。より深く学ぼうとする姿勢と、よく考え深く理解しようとする姿勢である。それが困難であろうとも、邪道へ逃げてはならない。

○稗や雑草が稲の生育を妨げるように、学び実践する以外のことごとに意欲を持っているならば、学は成就しにくい。雑念や他のことごとへの意欲を取り除くならば、大いなるものが得られよう。

○思慮ある言葉を用い、強引でなく、教えと道理に基づく説法ならば、真理に違うことはない。

○正しい教えを学んで戒めを守り、仏法を畏怖して自らを慎む。こうして真理を知った智者は真理に背かぬ者となり、悪業を犯す憂いはなくなる。

世間に起こる罪過や福徳などから遠く離れ、清浄修行に邁進し生涯かけて放逸に陥らぬ者こそが、善を学ぶ者と呼ばれるにふさわしい。

2008
07.13

ご加持あれこれ 2 ―揺り戻し。吸い取り紙―

 以前、生来の口の悪さを何とかしたいとご加持を受けたAさんが、法に入ったことを体感し、感謝しながら帰ったにもかかわらず、またもや言葉の問題で人間関係を壊しました。
 授かっていた経文は、
「人は生まれながらにして、口中に斧を持っているようなものである。
 その悪言が自他の身心を斬る」です。
 あらかじめ、「揺り戻しがあるかも知れませんが驚かないでください。そこは通過点です」と言われていたので、「あっ!来たな」と考えたAさんは、自分のの深さをさらに自省して再び当山を訪れ、ご加持を受けました。
 今度も深く法に入り、経文
「常に因縁を自覚し、明け暮れに解決法を学び実践せよ。
 煩悩は消えて心爽やかになり、ついに、因縁を解脱する」
を受け、とうとう、〈人は良いけれども口の悪い人〉から脱した実感を持ち、その後、二回、合計四回ご加持を受けて因縁を解き去りました。
 大日経にある四魔(シマ)を克服されたのです。

 最近、来山されたBさんは、夫の不行状は自分にも原因があると自覚し、ご加持を受けました。
 ところが、目立った体感がありません。
「法を受けた場合の現象は人それぞれですから、心配は要りません。
 法の場にいること自体が、身心の清めになっています。
 四魔切りをするために、できれば四回、おでかけになることです」
 こう言われていたのに、手っ取り早く夫の行状を正そうと焦り、「何でも見える」という有名な〈神様〉のところへ走りました。
 そして、率直なやりとりをしているうちに〈神様〉を怒らせてしまい、「貴女は不愉快な人だ。皆を不愉快にさせるような人は、救いようがない」と宣告され、神様に見放されたような気持になり、すっかり落ちこんでしまったBさんは、四魔の話を思い出し、勇気をもってもう一度、ご加持に来られました。
 守本尊様の真言を唱えながら運転してきましたと聞いて、ご加護の確かさを確信しました。

 ちなみに、高名な〈神様〉に怒られたといった話はよく聞きます。
 己を神様と称する傲慢さが怒りという毒を発し、怒る自分が愚かなのにもかかわらず、「貴方が皆を怒らせる」という言い方で相手を悪者にし、藁にもすがる思いでいる純情な人を簡単に塞がりという地獄へ堕とすのです。
 有名だから、あるいは〈当たる〉から、といって、その人が本当に菩薩の境地にあるとは限りません。
 むしろ、公衆の面前で特定の個人の未来について(それも、不安や恐怖を与えるような悪しきことが多い)臆面もなく断言するような高慢な人は、人格を疑われるべきです。
 他人様の未来を晒しものにして自分の飯の種にする菩薩などあり得ましょうか。
 
 さて、今のBさんはお地蔵様との縁が深いと観たので、今回はお地蔵様の代受苦(ダイジュク…身代わりとなって苦を引き受けてくださること)についてお話し、法に入りました。
 最初はなかなか動きませんでしたが、変化の気配を察知して眼を開けると、不思議な形をとっておられます。
 さらに真言を重ねているうちに安楽な姿勢になり、法の甲冑をまとって起きあがった時には、別人のように穏やかな表情をしておられました。
「大地にあるお地蔵様は、言わば、吸い取り紙のように悪因縁や悪を吸い取ってくださったのです。
 自分の欠点をどうにかしたいという貴女の誠実な願いは確かにみ仏へ届きました。
 貴女は確実に変わられました。
 自信をもってお進みください」

 守本尊様のご加護は確かです。
2008
07.12

お寺を変える ―新たに位牌を作り亡き両親と会った方―

 一年前、事情があり、父母のお骨をある墓所へ収めたまま縁を切るしかなくなった方が相談に来られました。
が時間、空間、次元を超えて通じればこそ、三回忌などの供養会を墓地や自宅や寺院や会館などさまざまな場所で行うのであり、どこにお骨があろうと当山で供養を結ぶのに何の問題もありません。
 例えば、太平洋戦争後、遺骨南方やシベリアから帰って来ない方々の供養もできるのです。
 実際、当山では、外国にお骨のある方の供養も行っています。
 ご誠心はどこから、どこへでも届きます。
 ご安心ください」

 理解して供養を申し込み、檀家になって次の質問に移りました。
位牌も預けたままになってしまうけれど、大丈夫ですか?」
「もちろん、問題はありません。
 分骨と同じく、位牌をいくつか作って複数の方が供養するケースはめずらしくありません。
 亡き親の位牌を子どもたちがそれぞれ作って供養しているとか、お寺とトラブルになって話し合いができないから新たに作るとか、いろいろです。
 依代(ヨリシロ)が複数あることは、御霊にとって、むしろ嬉しいことでしょう。
 昔、インドのアショーカ王が、釈尊のご加護を願う人びとのためにたくさんの仏塔を造ったことや、お大師様が、何かを祀って私を呼ぶ者があればどこへでも行って救うであろうと告げられたことをよく考えてみましょう。」
 数日後、できあがった位牌へ魂入れを行い、本堂にも一対を収めてすっかり安心し、帰られました。

 最近そのお位牌を拭いてご供養していたたところ、Aさんから、しばらくぶりで手紙が来ました。
「不思議なできごとがありました。
 朝方、両親が枕元に座っています。
 父親はあぐらをかき、母親は正座しています。
 その横には愛犬太郎がいるので呼んだところ、たちまち懐へ飛び込んできましたが、匂いもなければ体温もなく、重量さえありません。
 親父へ、太郎は空気みたいに軽いぞと言ったら、あたりまえだと答えました。
 親父は、四つ足がちゃんとあることについても、最近のお化けは足があるんだと大笑いしています。
 私も、思わず一緒に笑ってしまいました。
 おふくろは黙ったままです。
 とても和やかな気持になっていたら、二人と一匹は風のようにいなくなりました。
 最近の幽霊は、映画のようにすうっと消えて行くんではないようです」

 電話をかけ、ほのぼのさせられる体験ですねと言ったら、私はどうすれば良いのですかと、またもや質問です。
 何ごとも自分の頭で納得できなければ気が済まず、謙虚に専門家の意見へ耳をかたむけてやってこられた方なので、一瞬も気を抜けません。
 ご自身で行える供養と当山で行った方が良い供養を申し上げました。
 例によって、ただちに了解と返ってきました。

 問題が起こったならば信頼できる専門家を探し、意見を聞き、遠慮無く議論することです。
 真心を持って当たればきっと正道がみつかり、ご自身も御霊も安心の日々を迎えられることでしょう。
2008
07.11

戒名のいらない方

「今のお寺は信じられない。戒名葬式要らない」と言っていた方が亡くなり、ご遺族の求めでお伺いしました。
 このところ、こうした方々とのご縁が続いています。

 枕経が終わった時点で、お身内から、戒名とはどういうものですかというご質問がありました。
 故人だけでなく周囲の方々も何らかの理由でお寺へ強い不信感を抱き、その影響でいろいろなことをよく考えていなかったけれども、お不動様の結界法によって御霊をお守りする場に入り、考えが変わったそうです。

戒名とは、生まれた時に親が良き人生を歩んで欲しいと願って我が子へつける名前のようなものです。
 生前戒名にはまた別の意義がありますが、亡き方へみ仏から降りる戒名とは、肉体の束縛を離れ、魂だけの存在となって故郷であるみ仏の世界へ帰って行く旅立ちにあたって、その魂を特定するための名前です。
 だから、私ごとき一介の行者である僧侶が決められるはずはありません。
 亡き方の生き方やご遺族のご意向などをお聞きし、修法すると、必ずふさわしい名前がみ仏から授かります。
 私たち僧侶は、ただ、それをお伝えするだけです。
 だから、『降りる』というしかないのです。

 戒名をつけるかつけないかは、もちろん自由であり、戒名がなければみ仏に救っていただけないなどということはあり得ません。
 分けへだて無く、あらゆる人びとへ救いの手を差しのべるが故に〈み仏〉なのです。
 この人は救う、この人は救わないなどというみ仏はおられません。

 大事なのは、御霊安心の世界へ行くためにどうすれば良いかを、ご供養する皆さんご自身が道理をもってよくお考えになられることです。
 その結果によって、み仏と皆さんへお仕えする私たち僧侶が、供養法に区別をつけるなどということはありません。
 そもそも、すべての人びとが等しくみ仏の子なのであり、亡くなった途端に、戒名のあるなしで供養のされ方が異なったり、地獄と極楽と行く先が分かれるなどということもまたあり得ません。
 安心した上で、よくお考えください。
 そして、納得されたならお求めください」

 法の場という異次元世界を体験されたご遺族は戒名を求め、家族葬をされました。
 すべてが終わり、皆さんが安堵されたお顔は忘れられません。
2008
07.11

散骨を思いとどまった方

 亡くなった方をお送りするのは、最も身心をすり減らす法務です。
 しかし、やり遂げた後は、役割の重さに「自分のような者がこのような大役を果たさせていただけるとは、何とありがたいことか」と感謝の心が起こります。
 そしてその思いに後押しされ、また、気力を奮い立たせて法務へ向かいます。
 送る役割を死ぬまで続けるのは、やはり、自分の因縁の結果であると深く納得できます。

 また、お通夜の修法後には戒名についての法話を行い、葬儀の修法後には五種供養についての法話を行いますが、皆さんが〈人生の根本〉、〈人生の大事〉に関して心が開いている時、肝心の教えをお伝えできることにも感謝せずにいられません。

 最近、「身内が、お寺に世話になりたくないから散骨してくれと言って亡くなりました。こうした場合もお経を唱えていただけますか?」という問い合わせがあり、もちろん、二つ返事で駆けつけました。
 修法が終わり、さまざまな質問をいただきました。

「故人の願いと遺族の考えが異なる場合は、どうすべきでしょうか?」
「誰一人、自分の死後の始末を自分でできる人はいません。
 まず、死に臨んだ方が、亡くなる前に、そのことを自覚せねばなりません。
 もちろん、自分の願いを言い遺すのは当然ながら、あとは信じて任せるよという広い心が必要です。
 そして、この世にいる方々は、故人の思いを大切にしながらも、これからずっと供養をして行く自分たちの考えや都合も勘案せねばなりません。
 きちんと納得できる方向へ進まなければ、結局、供養の誠を尽くすことが難しくなるからです」

「『俺の骨は思い出深い海へ撒いてくれと』言われ、その気持は充分に解りますが、どうしてもそうし切れない気持もあります」
「私たちは、亡くなった方の身体が唯のモノとなり、焼かれることで、無常の鬼に心を引き裂かれます。
 その一方で、白々としたお骨が残ることで無意識ながら永遠を感じ、親愛の情をどうにかそこにつなぎ留めて心のバランスを保つのが人生の真実です。
 斎場の方々が実に丁寧にお骨を取り扱い、遺族ももちろん、その最終的な帰属をどうするか真剣に考えるのは当然です。
 もちろん、お骨も長い年月の間にいつかは自然へ還りますが、少なくとも炉の猛火をのり超えた時点では『生き残った』大切な宝ものなのです。
 今回の場合、共同墓『法楽の礎』へ収めてみ仏にお守りいただき、折々に訪れて供養することを基本にし、分骨した一部だけを海へ撒かれてはいかがでしょうか」

「彼は私の人生のすべてでした」と言うAさんは、お骨を散じたならば後を追いたいと考えておられましたが、正しく供養を行いながら自分を向上させることが妻の幸せを願っていた亡夫にとって最も嬉しく安心なことであろうと気づき、当山の檀家になられました。
 花をたむけては忍耐を誓い、お線香を灯しては精進を誓い、お水を供えては布施を誓う道へ入られました。

 み仏の教えと、み仏のご加護は偉大です。
 自分のすべてを尽くして、み仏と御縁の方々へお仕えしたいと願っています。
2008
07.09

人生の肝所(カンドコロ) ―悩む力―

 またしても辺見庸氏のお話です。
 7月8日付の河北新報連載「水の透視画法」にフォイエルバッハの一文が紹介されていました。

悩むことのできるものだけが生存するに値する」


 彼は「これまで何万回反芻したことか。正直、その一行に救われたこともある」と書いています。
 そして、「フォイエルバッハにこだわりマルクスを理解しなかった」がために友人からばかにされ、「自分はとびきり愚鈍に思えてしかたなかった」そうです。

 同じようにフォイエルバッハまで進み、憎悪と絶対神に動かされているマルクスを信じられなかった者として現代の〈前向き志向〉に懐疑的なのは、悩む力が減退しているのではないかという危惧があるからです。

 人は前向きに、明るく、力強く生きるに超したことはありません。
 しかし、忘れてならないのは、精神の足腰を鍛えるのは順境ではなく逆境だということです。
 逆境にあって、うまく立ち回ってしまう人もいれば、吟しながら重い課題の真下へ入って障害の根を抜いてしまう人もいれば、打ちのめされてなかなか立ち上がれない人もいます。
 いずれにしても、我が身をすばやく守るだけでは、逆境は人生の肥やしになり得ません。
 逆境とは言えませんが、アリを描こうとしてうまく描けなかった画家熊谷守一氏は、5年も10年も地面へ這いつくばって低い視点から観察し続け、アリが左の真ん中の足から歩き出すことを発見してついに独自の境地を開きました。
 他人がどう評価しようと、真の出来具合は本人にしか判りません。
 妥協せず、納得の行くまで壁に向かい続けた姿勢がとてつもない因となり、余人の追随を許さない次元へ入れたのです。

 また、忘れてならないのは、境遇や、性格や、抗しがたい因縁によって、必ずしも前向きに生きられない人びとへの思いやりを失ってはならないということです。
 釈尊の御眼は「君看(ミ)ずや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」と詠まれました。
 きっと深く澄み柔らかなお慈悲の色が宿っていたに違いない御眼には、いかなる穢れもの気配もなかったことでしょう。
 の現実と取り組み、克服し尽くした厳しい修行の過程があってそこへ到達されたこと、そして、そのお心がいつも人びとのを我がとして受けとめておられることは、教えによってしか窺い知れません。
 しかし、我が、そして生きとし生けるものの苦と格闘したからこそ、悟りを得られたはずです。
 懺悔と悩み苦しむ人びとへの思いやりが心を清める力となります。

 自分の人生を前へ前へと進めるのに忙しく、障害となるものを強引に叩きつぶし、うまくすり抜け、あとは無関心ということでは肝心要の人生の宝ものを得られず、いつしか、まっとうさを失っているかも知れません。

 ままならないという苦、そこから生じる悩み――。
 悩んでいる時は、〈かけがえのない時〉です。
 私も皆と一緒に前向きにならなければと焦り、無理をする必要はありません。
 誠実に生きていればいつしか心は練られ、思いやりも深くなりましょう。
 自他の真実へ誠実に対応し、「生存するに値する」人生を送りたいものです。
2008
07.08

災いはなぜ起こるか ―時の運など―

 お大師様は、災いに遭う場合、3つの原因があると説かれました。

 一つは「時の運」です。
 まったくのめぐり合わせで不幸な災禍に巻きこまれてしまうことは不運としか言いようがありません。
 もちろん、因果応報の理を超えるものはないので、何ごとも自分の行動に無関係ではありませんが、たとえば結婚式場へ向かう途中で脇見運転の車に刎ねられた事件などは、この範疇です。

 もう一つは「業(ゴウ)感」です。
 善業によって清められない悪業の報いとしてやってくるものは、決して避けられません。
 たとえば、深酒で身体を壊すことや不倫で家庭を崩壊させることなどです。
 反省や懺悔などによって生き直し、避けようとすれば避け得るのに自分から「飛んで火にいる夏の虫」となってしまうのは残念です。

 もう一つは「天の罰」です。
 たとえば、私たちが四国八十八霊場を遍路するきっかけとなった衛門三郎の場合はまさしく天罰でありましょう。
 真夏のある日、強欲で名高い庄屋衛門三郎の屋敷へお大師様が托鉢に行ったところ、鉢を叩き落として8つに割ってしまった彼は、まもなく、溺愛していた8人の子どもたちを次々と失ってしまいました。
 そして、仏罰に気づき、お大師様を追って歩いたのが遍路の始まりです。
 悪業の報いではありますが、鉢と罪のない子供は結びつきません。
 やはり仏罰というべきでしょう。
 ここで気をつけねばならないのは、仏罰は決して悪業の人を滅ぼすだけではないという点です。
 いのちの炎が消え尽きる寸前にお大師様と巡り会って許された衛門三郎は賢い領主として生まれ変わり、彼の懺悔の四国21周は、現在の遍路行をもたらしました。
 み仏が与える罰は試練であり、必ず救済が待っています。
2008
07.08

7月の聖悟 ―心の十段階 その4―

仏、声聞(ショウモン)を求むる者のために、人空法有(ニンクウホウウ)の理を説きたまえり ―弘法大師―


(み仏は、教えを聞いて悟りを得ようとする人びとのために、「私たちの身体など、この世にあるものはすべて生滅無常のものであり、その一方で、無常なものを分析すれば、それを成り立たせている要素はいつの世も変わりない」という教えを説かれた)

 ここまで、3つの心のありようを眺めてきました。
 まず、自分の利となるものを求め、欲のままにふるまう心です。
 次は、他人を意識して倫理的感覚をもってふるまう心です。
 そして、自分と他人の他に、自分の内側や外界に超越的な何か、たとえばと称されるようなものを「絶対に有る」として執着する心です。

 仏法は、自分であれであれ、絶対的に「有る」と考える対象を「我(ガ)」といい、そのような本来いつまでも有り続けるものでは「無い」と気づくところからスタートします。
 だから無我(ムガ)が入り口になります。
 人といい、といい、常に有り続ける実体がないことを空といいます。
 有るものの代表として人を挙げ、それが空であるから「人空」と説きました。
  
 しかし、自分も周囲のモノも死んだり壊れたりしていつかはなくなりますが、何もかも混沌としているのではなく、よく観ると、この世を成り立たせている構成要素はいつの世も変わりありません。
 その根本は五蘊(ゴウン)です。

1 色蘊(シキウン)
 自分が死ねば身体は灰になりますが、灰は天地へ還るだけであり、消えて無になるわけではありません。
 第一、何もない場所はどこにもなく、たとえば、猫が歩いていた場合、猫がさっきまでいた所は空気が満ちているか、さもなければ他のものが必ずそこを埋めています。
 ネコがいるのと同じ場所に、同時にイヌがいるわけには行きません。
 このように、見えて聞こえるこの世には、必ず何かが充満しています。
 それを色(シキ)といい、要素という意味の蘊をつけて色蘊といいます。

2 受蘊(ジュウン)
 これは楽だ、これは苦だというふうに感じとる感受作用です。
 見えたり聞こえたりするものすべてに対して、私たちはただちに反応します。

3 想蘊(ソウウン)
 旅へ出て美しい光景を心へしまいこみ、帰宅してからありありと思い出すといった表象作用です。
 あらゆるものは心へ取り込まれ、それが思考の材料となって生きます。

4 行蘊(ギョウウン)
 因縁によって創られた心の傾向は、その人その人独自のものであり、意志や意欲はこうしよう、ああしようと千変万化します。
 たとえばリンゴを手にした場合、絵心のある人は画材にし、宗教心のある人はお供えし、食欲のある人は食べます。

5 識蘊(シキウン)
 自分が意識してこそ、この世はあります。
 今日は晴れた、今日は雨だと解る人にしか、晴れも雨もありません。


 五蘊のようにこれ以上つきつめようのないものを法といい、法は変わらずに有り続けると考えるので「法有」といいます。
 ここが仏法の入り口となります。
 空を深く悟って自分にも、人にも、モノにも、心の内外に想定するにもとらわれず、構成要素を分析し尽くして納得し、「人空法有」の境地に至った行者アラカンです。

 アラカンさんになるのは大変ですが、我欲を離れた空の感覚と、五蘊というこの世への視点、そして原理や真理を探究する姿勢にはどなたも学ぶところがあるのではないでしょうか。
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