『四十二章経』 第1章沙門の位
善男善女が集まられ、おかげさまにて機関誌『法楽』作りを終えました。
作業に先立って六種供養の文と真言を唱え、続いて『四十二章経』に関する第一回目の法話を行いました。
初めて中国へ伝えられた仏教経典とされているこのお経は、沙門(シャモン)すなわち出家修行者の得られる境地に関するものから始まります。
釈尊は、娑婆を捨てた弟子たちへ、修行の先に待つものが何であるかを説かれました。
釈尊から弟子たちへ与えられた約束とも言うべきものです。
戒律を守り、「苦・集・滅・道」の真理に基づいて実践し、志をもって清浄に行ずれば、アラカンの位へ登られます。
アラカンは「飛行変化(ヒギョウヘンゲ)し、寿命に住(トドマ)り、天地を動かす」ことができます。
こうした経文の意味に関する解説書で納得できたものはありません。
理由は明らかで、行者の血肉から発した文章ではないからです。
字面を追うだけならば、「飛べる」と読んだ時点で、もう、突き当たってしまうことでしょう。
しかし、いやしくもみ仏の経典である以上、嘘偽りのあろうはずはなく、いささかなりともこの道にある者の目で読めば内容は明らかです。
「飛行変化」とは、空を飛んだり、化けられるといった意味ではなく、いかなる所へも心を通じさせることができ、いかなる衆生の心にもなれるということでありましょう。
外国におられる方のためにも遠隔加持を行い、さまざまな問題を抱えた方々のための人生相談やご祈祷やご供養などを行っている身としては、当たり前の法務内容であり、ご縁の方々のために、より役立てる者となるよう生涯にわたってこうした能力開発を続けるのが行者であると心得ています。
「寿命に住り」とは、いつまでも生き続けることではありません。
自分の「いのち分を尽くす」という意味でありましょう。
私たちのいのちは、無限の過去世において積んだ業に応じてみ仏から分けいただいたものであり、それを「分」といいます。
いのちの意義は、長さにはありません。
問題はいかに生きるかということであり、その視点の大切さは、『法句経』などさまざまな経典にくり返し説かれています。
巨大な像が歩む一歩一歩のような真に充実した意義深い一日一日の積み重ね、これこそが「住(トドマ)る」のイメージです。
「天地を動かす」とは、ちゃぶ台をひっくり返すような行為ではなく、空想劇画における仮想世界のできごとでもありません。
そもそも人間も天地自然の一部であって、自分を離れた「天地」はどこにありましょうか。
自分のありようが天地のありようと直結しているのは当然です。
一番解りやすいのが、文明による自然破壊・環境破壊であり、太陽や空気や水や土や生きとし生けるものによって自分が今ここに生きているという事実です。
ならば、自分の心を動かすことが天地自然を動かすのは当然です。
私たち凡夫の一人一人のバラバラの動きはそう目立った変化をもたらせないかも知れませんが、志を一つにした人びとの行動によって明らかな変化を得られることはたくさんあります。
釈尊やお大師様は、み仏そのものになることのできる聖者です。
経典に説かれた釈尊による超人的救済活動や、歴史書に書かれたお大師様の超人的救済活動に驚くことはありません。
私たちも、経典を信じ、正しく生きることによって、天地をが穏やかで恵み深いものとなるよう精進したいものです。
作業に先立って六種供養の文と真言を唱え、続いて『四十二章経』に関する第一回目の法話を行いました。
初めて中国へ伝えられた仏教経典とされているこのお経は、沙門(シャモン)すなわち出家修行者の得られる境地に関するものから始まります。
釈尊は、娑婆を捨てた弟子たちへ、修行の先に待つものが何であるかを説かれました。
釈尊から弟子たちへ与えられた約束とも言うべきものです。
戒律を守り、「苦・集・滅・道」の真理に基づいて実践し、志をもって清浄に行ずれば、アラカンの位へ登られます。
アラカンは「飛行変化(ヒギョウヘンゲ)し、寿命に住(トドマ)り、天地を動かす」ことができます。
こうした経文の意味に関する解説書で納得できたものはありません。
理由は明らかで、行者の血肉から発した文章ではないからです。
字面を追うだけならば、「飛べる」と読んだ時点で、もう、突き当たってしまうことでしょう。
しかし、いやしくもみ仏の経典である以上、嘘偽りのあろうはずはなく、いささかなりともこの道にある者の目で読めば内容は明らかです。
「飛行変化」とは、空を飛んだり、化けられるといった意味ではなく、いかなる所へも心を通じさせることができ、いかなる衆生の心にもなれるということでありましょう。
外国におられる方のためにも遠隔加持を行い、さまざまな問題を抱えた方々のための人生相談やご祈祷やご供養などを行っている身としては、当たり前の法務内容であり、ご縁の方々のために、より役立てる者となるよう生涯にわたってこうした能力開発を続けるのが行者であると心得ています。
「寿命に住り」とは、いつまでも生き続けることではありません。
自分の「いのち分を尽くす」という意味でありましょう。
私たちのいのちは、無限の過去世において積んだ業に応じてみ仏から分けいただいたものであり、それを「分」といいます。
いのちの意義は、長さにはありません。
問題はいかに生きるかということであり、その視点の大切さは、『法句経』などさまざまな経典にくり返し説かれています。
「たとえ百歳まで生きたとしても、己を清め高め他のためになるという点において怠慢な一生であれば、しっかり教えを学び実践した者のたった一日にも及ばない」
巨大な像が歩む一歩一歩のような真に充実した意義深い一日一日の積み重ね、これこそが「住(トドマ)る」のイメージです。
「天地を動かす」とは、ちゃぶ台をひっくり返すような行為ではなく、空想劇画における仮想世界のできごとでもありません。
そもそも人間も天地自然の一部であって、自分を離れた「天地」はどこにありましょうか。
自分のありようが天地のありようと直結しているのは当然です。
一番解りやすいのが、文明による自然破壊・環境破壊であり、太陽や空気や水や土や生きとし生けるものによって自分が今ここに生きているという事実です。
ならば、自分の心を動かすことが天地自然を動かすのは当然です。
私たち凡夫の一人一人のバラバラの動きはそう目立った変化をもたらせないかも知れませんが、志を一つにした人びとの行動によって明らかな変化を得られることはたくさんあります。
釈尊やお大師様は、み仏そのものになることのできる聖者です。
経典に説かれた釈尊による超人的救済活動や、歴史書に書かれたお大師様の超人的救済活動に驚くことはありません。
私たちも、経典を信じ、正しく生きることによって、天地をが穏やかで恵み深いものとなるよう精進したいものです。


