宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-07

落書き事件の本質

 最近、落書き事件が目立ち、モラルの低下への警鐘があちこちで打ち鳴らされています。
 発端は、世界遺産に登録されているイタリア・フィレンツェ歴史地区のサンタ・マリア・デル・フィオーレ大聖堂の見晴台にある大理石へ岐阜市立女子短大生活デザイン学科1年生6人が書いたものです。
 また、同大聖堂には、京都産業大学(京都市)の2年生3人が落書きしていたことも発覚し、学長が駐日イタリア大使館に謝罪文を郵送しました。
 身近なところでは珊瑚礁や鍾乳洞といった年月をかけて育ち、造られたものを破損する行為も取りあげられ、公共心の欠如ぶりに驚きの声も上がっています。

 なぜこうしたことになってしまったかを考える前に、事件本質を考えねばなりません。
 確かに、モラルの低下、公共心の欠如が愚かな行為へ走らせたのですが、そうした心の状態は「畏敬の念」が薄れたことによってもたらされました。

 畏敬とは畏れ敬うことです。
 その対象となるのは、すべからく、〈大いなるもの〉です。
 私たちを守り育て、時には翻弄する大自然、いかなる能力をもってしてもとらえきれない大宇宙、精神が爛漫たる華となって結晶した文化、文明、時を超えて生き続け、風雪に耐えて残っているもの、悠久なる時の経過が造ったもの、そして、矮小な自分を超えた仏神、………。
 聖なるものは霊性を震えさせ、身を慎しませ、心はいつしかひれ伏しています。
 霊性というアンテナが錆びついていなければ、大いなるもののを前にして畏れ敬うのは当然であって、落書きしたり破壊することはあり得ません。
 できないのです。
 
 つまり、畏敬の念が薄れたのは、その対象に反応するアンテナが錆びついていることを意味します。

 では、なぜ、錆びついたのか。

 原因は、宗教的感覚の破壊と煩悩の解放にあります。

 前者は明治維新に伴い国家神道が他の宗教を弾圧したことに端を発し、私たちは、いまだに「宗教は心弱い人がすがるもの」という無意識の偏見から脱し切れていません。
 宗教については、せいぜいが知的興味の範囲で語られているだけであり、事件にあきれた人びとは「学校で何を教えていたのか!」と憤慨しますが、子どもたちへ宗教的感覚を養う機会がまったく与えられていないことについて憤慨する意見にはあまり接することができません。

 後者は、言うまでもなく、太平洋戦争の敗戦によってもたらされた占領軍の日本弱体化政策が日本人の精神の背骨を打ち砕いたことに発し、無我夢中で経済的な復興遂げ、踊り場に立って一息ついてみたら子供が親を殺し、親が子供を殺す世の中になっていました。
 社会を覆う無慈悲さは、弱肉強食原理による政策、あらゆる面における格差の拡大、食料を扱う事業者などの無責任さ、女性や子供や老人やホームレスへの暴力、子供社会におけるイジメの常態化などとなって表れています。

 しかし、システムとしての文明について議論はされても、宗教的感覚を最奧とする文化のありようについての議論はあまりなされていません。
 一つには、絶対的価値とされる自由への過度の期待、もう一つは、宗教へのタブー意識によるものでありましょう。

 ことここに至った以上、もう、偏見や敗戦後遺症を力強く脱しなければなりません。
 いかなる文化も、中心に畏敬の念があればこそ健全に発展し深まるのではないでしょうか。
 子どもたちへ宗教的感覚を養う教育を施し、畏敬の念を情緒の中心に坐らせましょう。
 それには、無理に特定の仏神を拝ませる必要はありません。
 選び取った子どもたちがそれぞれ、サッカーや野球やバレーや華道やバイオリンや将棋などへなじむように、自然などと無心に交流することによって〈感じる〉機会を与えれば良いだけのことです。

 江戸から明治にかけて開国した日本と日本人が世界中の人びとから尊敬された理由をあらためて思いおこし、本来のDNAに磨きをかけたいものです。

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