チベット仏教について 2
仏教が本格的に伝播されたのはティソン・デツェン王の時代です。
王はインドの仏教を全面的に採りいれ、国教としました。その熱心さは、家臣たちへ信徒となる誓約書を書かせたほどです。
インドではパーラ王朝がナーランダ、ブッダガヤ、ビクラマシータなどの寺院や大塔を次々と造り、仏教最盛期でした。
王はナーランダ大寺院の大長老シャーンタラクシタを招き、779年には大きな寺院を建立し、弟子たちと共に法要を行いました。サムエ寺はブッダガヤを参考にして造られました。
この時、チベット人七名が初めて正式な仏弟子となる具足戒を授かっています。
同時期、ジャワでは仏教徒のシャイレンドラ朝が興っています。
790年代後半に、中国系仏教が入り、インド直系の仏教と対立しました。サムエ寺の宗問において中国の禅僧とビクラマシータ寺院のインド僧が公開問答を行い、インド僧が勝ち、以後、チベット仏教の方向性が定まりました。
ティ・レルパチェン王の時代には、サンスクリット語の大蔵経を翻訳する作業が本格化しました。
国の方針でインド人とチベット人がペアを組み、およそ三十年ほどの間に完成となりました。
この大事業が成ったのは、仏典を学ぶのに適したチベット語が完成していたからです。
814年には「翻訳名義対照」という辞書ができ、824年には目録が完成しています。それは、大蔵経の翻訳が終わっていることを意味します。
ソンツェン・ガムポ王の時代には勇猛果敢で鳴らしたチベット人が、この時代には敬虔な仏教徒の国になりました。
その後、843年にティ・レルパチェン王を暗殺して即位したランタルマ王が仏教を毛嫌いして破仏政策をとり、ボン教に改宗して寺院や経典を破壊しましたが、846年、何者かに暗殺されました。
敬虔なチベット仏教徒は、この時代の様子を中国の侵略と並ぶ二大法難として語り伝えています。
(2)後伝期
イェシェウー王の命でインドへ遣わされたリンチェン・サンボは「チベットのクマラジュ」と称され、金剛頂経、秘密集会タントラ、チャクラサンバラなどを持ち帰って翻訳し、仏教の復興に努めました。
トルコ軍に捉えられたイェシェウー王が、解放の条件として身体と同じ重さの金を要求された時、王は「そのお金を用いてインドから高僧を招きなさい」と告げて殺されましたが、おかげで、ヴィクラマシータ僧院の座主アティーシャが招かれ、その活躍で仏教はチベット国民へ広く伝えられました。
戒律中心主義の顕教と、み仏の世界へまっすぐに入ろうとする密教との対立はあったものの、アティーシャが著した『菩提道灯論』によってチベット仏教は混乱を克服し、新たな発展段階へ入りました。同書は、それまでに誰もなしえなかった〈仏教の教え全体を矛盾のない一つの流れとしてまとめたもの〉とされています。
まだ幼い王子アティーシャは、敬意を示す人々へ慈悲ある目を向けてこう語りました。
「私はすばらしい両親から生まれ、王子としての豊かさを得て、しかも仏陀の教えに出会うことができた。この国の者たちもみな豊かであるように。仏陀の教えを頼って平和に暮らすことができるように」
マルパがインドへ行って新しい密教を持ち帰り、弟子のミラレーパが布教に努めました。
1203年、西北からチベットへ侵攻したイスラム教徒は、ビクラマシータ寺院を破壊し、僧尼を殺しましたが、その直前にチベットへ逃れた最後の座主シャーキャシュリーパドラは残された仏法の全てをチベット人へ託しました。
以後、インドにおいて、僧院の中で学ぶ仏法は途絶えました。
このあたりが「インド仏教の正統な後継者がチベット仏教である」といわれるゆえんです。
チベット人は、固有の宗教がラマ教(チベットへ入った仏教が民間信仰と融合してできたもの)であると言われることをとても嫌います。仏教の亜流をやっていると考えられたくないからです。
そもそもラマとは、師僧の意味であって、み仏ではなく、ティソン・デツェン王の時代から探求され信じられてきたチベット仏教の「教えの中身と修行の方法」は、インドで流布していた仏教から何ら外れるものではありません。
プトゥン大師は文献的整理を進めました。
ツォンカバ大師は教理と実践とを集大成し、1406年、チベット最大の宗派となるゲルク派を開いて総本山ガンデン寺を建立しました。
最初のダライ・ラマとなるダライ・ラマ三世はモンゴル(中国は明朝の時代です)へ布教活動にでかけて指導者アルダーン・ハンを教化し、「ダライ・ラマ」という称号を授かりました。
その前からチベットには転生活仏(テンショウカツブツ…輪廻転生する活き仏がチベットを導く)の思想があり、ゲントゥシ・トゥッパが第一世、ゲントゥシ・ギャゾが第二世でした。
後にモンゴル人のグシハンがチベット全土を統一してダライ・ラマ五世へ権力を献上し、ガンデンポタン政権が誕生しました。
ダライ・ラマ法皇は、こうして政教両面の指導者となりました。
(3) その後
1959年、中国軍の侵攻を受け、ダライ・ラマ法皇と共に、三大寺院の僧侶や一般人など十万人がインドへ亡命しました。
1970年代に入ってインドのダラムサラにおいてチベット仏教が再構築され始め、亡命政権、仮宮殿、中央寺院(ジョカン寺)などが次々に整備されました。
後、デカン高原に三大寺院であるセラ寺、ガンデン寺、デプン寺が再建され、ほぼ一万五千人ほどが修行に励んでいます。
寺院はいずれも巨大なものですが、それは、毎年二千人ほど亡命してくる修行者たちを受けいれねばならないからです。
中国は「チベットは二十世紀前半までは政教一致の農奴制閉鎖社会だった。50年代になって中央政府の指導を受け、チベット自治区として急速に豊かになった」と宣伝していますが、実態はチベット国土の略奪と、宗教と言葉に象徴される固有の文化の破壊であり、毎年、命がけで多数の人々が亡命し、世界へ救済を訴え続けています。
王はインドの仏教を全面的に採りいれ、国教としました。その熱心さは、家臣たちへ信徒となる誓約書を書かせたほどです。
インドではパーラ王朝がナーランダ、ブッダガヤ、ビクラマシータなどの寺院や大塔を次々と造り、仏教最盛期でした。
王はナーランダ大寺院の大長老シャーンタラクシタを招き、779年には大きな寺院を建立し、弟子たちと共に法要を行いました。サムエ寺はブッダガヤを参考にして造られました。
この時、チベット人七名が初めて正式な仏弟子となる具足戒を授かっています。
同時期、ジャワでは仏教徒のシャイレンドラ朝が興っています。
790年代後半に、中国系仏教が入り、インド直系の仏教と対立しました。サムエ寺の宗問において中国の禅僧とビクラマシータ寺院のインド僧が公開問答を行い、インド僧が勝ち、以後、チベット仏教の方向性が定まりました。
ティ・レルパチェン王の時代には、サンスクリット語の大蔵経を翻訳する作業が本格化しました。
国の方針でインド人とチベット人がペアを組み、およそ三十年ほどの間に完成となりました。
この大事業が成ったのは、仏典を学ぶのに適したチベット語が完成していたからです。
814年には「翻訳名義対照」という辞書ができ、824年には目録が完成しています。それは、大蔵経の翻訳が終わっていることを意味します。
ソンツェン・ガムポ王の時代には勇猛果敢で鳴らしたチベット人が、この時代には敬虔な仏教徒の国になりました。
その後、843年にティ・レルパチェン王を暗殺して即位したランタルマ王が仏教を毛嫌いして破仏政策をとり、ボン教に改宗して寺院や経典を破壊しましたが、846年、何者かに暗殺されました。
敬虔なチベット仏教徒は、この時代の様子を中国の侵略と並ぶ二大法難として語り伝えています。
(2)後伝期
イェシェウー王の命でインドへ遣わされたリンチェン・サンボは「チベットのクマラジュ」と称され、金剛頂経、秘密集会タントラ、チャクラサンバラなどを持ち帰って翻訳し、仏教の復興に努めました。
トルコ軍に捉えられたイェシェウー王が、解放の条件として身体と同じ重さの金を要求された時、王は「そのお金を用いてインドから高僧を招きなさい」と告げて殺されましたが、おかげで、ヴィクラマシータ僧院の座主アティーシャが招かれ、その活躍で仏教はチベット国民へ広く伝えられました。
戒律中心主義の顕教と、み仏の世界へまっすぐに入ろうとする密教との対立はあったものの、アティーシャが著した『菩提道灯論』によってチベット仏教は混乱を克服し、新たな発展段階へ入りました。同書は、それまでに誰もなしえなかった〈仏教の教え全体を矛盾のない一つの流れとしてまとめたもの〉とされています。
まだ幼い王子アティーシャは、敬意を示す人々へ慈悲ある目を向けてこう語りました。
「私はすばらしい両親から生まれ、王子としての豊かさを得て、しかも仏陀の教えに出会うことができた。この国の者たちもみな豊かであるように。仏陀の教えを頼って平和に暮らすことができるように」
マルパがインドへ行って新しい密教を持ち帰り、弟子のミラレーパが布教に努めました。
1203年、西北からチベットへ侵攻したイスラム教徒は、ビクラマシータ寺院を破壊し、僧尼を殺しましたが、その直前にチベットへ逃れた最後の座主シャーキャシュリーパドラは残された仏法の全てをチベット人へ託しました。
以後、インドにおいて、僧院の中で学ぶ仏法は途絶えました。
このあたりが「インド仏教の正統な後継者がチベット仏教である」といわれるゆえんです。
チベット人は、固有の宗教がラマ教(チベットへ入った仏教が民間信仰と融合してできたもの)であると言われることをとても嫌います。仏教の亜流をやっていると考えられたくないからです。
そもそもラマとは、師僧の意味であって、み仏ではなく、ティソン・デツェン王の時代から探求され信じられてきたチベット仏教の「教えの中身と修行の方法」は、インドで流布していた仏教から何ら外れるものではありません。
プトゥン大師は文献的整理を進めました。
ツォンカバ大師は教理と実践とを集大成し、1406年、チベット最大の宗派となるゲルク派を開いて総本山ガンデン寺を建立しました。
最初のダライ・ラマとなるダライ・ラマ三世はモンゴル(中国は明朝の時代です)へ布教活動にでかけて指導者アルダーン・ハンを教化し、「ダライ・ラマ」という称号を授かりました。
その前からチベットには転生活仏(テンショウカツブツ…輪廻転生する活き仏がチベットを導く)の思想があり、ゲントゥシ・トゥッパが第一世、ゲントゥシ・ギャゾが第二世でした。
後にモンゴル人のグシハンがチベット全土を統一してダライ・ラマ五世へ権力を献上し、ガンデンポタン政権が誕生しました。
ダライ・ラマ法皇は、こうして政教両面の指導者となりました。
(3) その後
1959年、中国軍の侵攻を受け、ダライ・ラマ法皇と共に、三大寺院の僧侶や一般人など十万人がインドへ亡命しました。
1970年代に入ってインドのダラムサラにおいてチベット仏教が再構築され始め、亡命政権、仮宮殿、中央寺院(ジョカン寺)などが次々に整備されました。
後、デカン高原に三大寺院であるセラ寺、ガンデン寺、デプン寺が再建され、ほぼ一万五千人ほどが修行に励んでいます。
寺院はいずれも巨大なものですが、それは、毎年二千人ほど亡命してくる修行者たちを受けいれねばならないからです。
中国は「チベットは二十世紀前半までは政教一致の農奴制閉鎖社会だった。50年代になって中央政府の指導を受け、チベット自治区として急速に豊かになった」と宣伝していますが、実態はチベット国土の略奪と、宗教と言葉に象徴される固有の文化の破壊であり、毎年、命がけで多数の人々が亡命し、世界へ救済を訴え続けています。


