第四回、映画「チベット チベット」を観る会が終わりました
映像がとらえたチベットの修行僧たち、そして、ダライ・ラマ法皇の法話を聴きに集まる人びとの表情は皆、真剣そのものです。
国と文化の消滅に立へ向かう人びとの、揺るがずに刃の上を渡るような勁さについて考えさせられました。
ティソン・デツェン王(742〜797)の時代、チベットの前身である吐蕃国の軍隊は唐の長安を陥れ、783年には唐と国教を画定しています。
織田信長の桶狭間の合戦や、源義経の鵯越(ヒヨドリゴエ)が連想されます。
ネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に掲載されている1950年から1951年にかけての「チベット侵攻」を読んでみても、圧倒的な中国軍と戦った勇猛果敢さが想像されます。
こうしたチベット人のほとんどは敬虔な仏教徒です。
彼らの勁さは「発心(ホッシン…自らを仏法へ投げ入れること)」の堅固さに結晶しています。
だからこそ、毎年、二千人もの人びとがいのちがけで標高六千メートルのヒマラヤ山脈を越え、亡命するのでしょう。
二千人の成功の陰で、どれだけの人びとが無念の落命をしているかは判りません。
また、3月10日の暴動後、初めて現地を訪れた外国のマスコミへ文字通りいのちがけで真実を伝えようとした僧侶たちの表情も忘れられません。
観光寺に監禁されている彼らは、殺されるのを覚悟し、テレビの前で叫びました。
「皆、嘘だ!嘘だ!ここを歩いているのも皆、中国軍だ!」
「自由がない!」
一見、平和そうに見える光景はすべて、中国軍によって一時的に作られた仮構の空間だというのです。
何と恐ろしいことでしょうか。
中国軍は、世界のマスコミを前にして、町を歩く人びとまでも入れ替えていたのです。
さすがに僧侶は代役がきかないので、十二分に恫喝してからマスコミの前へ出したのでしょう。
もちろん、最初からいのちがけで直訴しそうな僧侶は監禁するか殺すかして、従順そうな人たちだけを選んで現場に置いたのでしょう。
しかし、彼らは、心が殺され、故郷がなくなり、仏法が死滅することに耐えられなかったのです。
発心した以上、抜け殻にされた身体だけが生き残ることに耐えられなかったのです。
絶望の中で理不尽さを訴えようとした人びとの恐怖と慟哭と憤怒の入り交じった顔を忘れられません。
もしも、中国が人権を尊重するまっとうな国であると主張するのなら、あのシーンに写った僧侶たちをもう一度、世界のマスコミの前へ立たせなければならないはずです。
人のいのちは尊ぶべきであると考える世界中の人びとが、さまざまな形でこうした要求を行うよう強く提唱しておきます。
日本の政治家のたった一人でも、中国大使館なりへ当然の要求を堂々と行い、身をもって世論を喚起するような気骨ある人がいれば、日本の未来はまだ信じられるのかもしれませんが………。
第五回上映は、8月2日(土)午後3時より『仙台青年文化センター』にて行います。
一人でも多くの方々がご来場されるよう、祈っております。
国と文化の消滅に立へ向かう人びとの、揺るがずに刃の上を渡るような勁さについて考えさせられました。
ティソン・デツェン王(742〜797)の時代、チベットの前身である吐蕃国の軍隊は唐の長安を陥れ、783年には唐と国教を画定しています。
織田信長の桶狭間の合戦や、源義経の鵯越(ヒヨドリゴエ)が連想されます。
ネット上のフリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』に掲載されている1950年から1951年にかけての「チベット侵攻」を読んでみても、圧倒的な中国軍と戦った勇猛果敢さが想像されます。
こうしたチベット人のほとんどは敬虔な仏教徒です。
彼らの勁さは「発心(ホッシン…自らを仏法へ投げ入れること)」の堅固さに結晶しています。
だからこそ、毎年、二千人もの人びとがいのちがけで標高六千メートルのヒマラヤ山脈を越え、亡命するのでしょう。
二千人の成功の陰で、どれだけの人びとが無念の落命をしているかは判りません。
また、3月10日の暴動後、初めて現地を訪れた外国のマスコミへ文字通りいのちがけで真実を伝えようとした僧侶たちの表情も忘れられません。
観光寺に監禁されている彼らは、殺されるのを覚悟し、テレビの前で叫びました。
「皆、嘘だ!嘘だ!ここを歩いているのも皆、中国軍だ!」
「自由がない!」
一見、平和そうに見える光景はすべて、中国軍によって一時的に作られた仮構の空間だというのです。
何と恐ろしいことでしょうか。
中国軍は、世界のマスコミを前にして、町を歩く人びとまでも入れ替えていたのです。
さすがに僧侶は代役がきかないので、十二分に恫喝してからマスコミの前へ出したのでしょう。
もちろん、最初からいのちがけで直訴しそうな僧侶は監禁するか殺すかして、従順そうな人たちだけを選んで現場に置いたのでしょう。
しかし、彼らは、心が殺され、故郷がなくなり、仏法が死滅することに耐えられなかったのです。
発心した以上、抜け殻にされた身体だけが生き残ることに耐えられなかったのです。
絶望の中で理不尽さを訴えようとした人びとの恐怖と慟哭と憤怒の入り交じった顔を忘れられません。
もしも、中国が人権を尊重するまっとうな国であると主張するのなら、あのシーンに写った僧侶たちをもう一度、世界のマスコミの前へ立たせなければならないはずです。
人のいのちは尊ぶべきであると考える世界中の人びとが、さまざまな形でこうした要求を行うよう強く提唱しておきます。
日本の政治家のたった一人でも、中国大使館なりへ当然の要求を堂々と行い、身をもって世論を喚起するような気骨ある人がいれば、日本の未来はまだ信じられるのかもしれませんが………。
第五回上映は、8月2日(土)午後3時より『仙台青年文化センター』にて行います。
一人でも多くの方々がご来場されるよう、祈っております。





