四国遍路 6
【第5番 無尽山地蔵寺】
本尊:勝軍地蔵菩薩様
御詠歌:六道の能化(ノウケ)の地蔵大菩薩 導きたまえこの世のちの世
お大師様お手植えとされる大イチョウの先に、彩色された仁王様が護る仁王門、左手に本堂がある。
扉が半分開き、正面壇上に多宝塔、その奥に神鏡が見える。
おそらく閉まったお厨子の中にご本尊様が安置されているのだろう。
大師堂は暗く、中は覗えない。
伽藍が境内地をぐるりと取り巻く感じが良い。
敷地が活きている。
修行の場であるという雰囲気が濃い。
奥の院の羅漢堂は見事。
入り口の弥勒菩薩様は小さいお堂にあって重い存在感を示し、中央の釈迦如来様は大日如来様と見まがうほどの威容である。
出口のお大師様は珍しく白っぽく若々しいお姿で、天界から見守る形になっている。
五百羅漢の中には必ず参拝者に似た方がおられるとされているが、どなたも眉に共通の特徴があり、自分に似た方を探すことはできなかった。
ただし、ある知人によく似た方はおられた。
受付をしてくださるお婆さんは九十歳とは思えないほどかくしゃくとしておられ、こちらが「お元気で」と送り出された。
松の木の根本にある水琴窟はピーンピーンとよく響いて心地好く、異界の入り口があるようだった。
最初は誰かが偶然にこの音を聞いて驚き、自分で作ってみたのだろうが、とてつもない感性の持ち主だったことだろう。
広辞苑に「水琴窟」が出ていないのは残念。
【第7番 光明山十楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:人間の八苦を早く離れなば 至らん方は九品(クボン)十楽
白と赤のコントラストが美しい鐘楼門をくぐると、階段の下に子安地蔵様、その周囲に皆の願いが込められた小さなお地蔵様が祀られている。
本堂も大師堂も実に本格的な荘厳で、老松と共に、長宗我部軍の兵火にかかるまでは地域で一番の伽藍であったことを充分に偲ばせる。
お大師様は、人びとが人生の八苦を離れ十の喜びの中で活きられるように願われたという
愛嬌のある石彫のお不動様には、なぜか地蔵寺のお大師様との共通性を感じた。
九品とは、極楽浄土へ行くための修行の段階であり、上中下にそれぞれ上中下があるので9つある。
十楽とは、極楽浄土で受ける楽しみである。
源信(942〜1017)は地獄と極楽のありさまを、まるでパノラマで眺められるかのように説き、日本人へあの世のイメージを明確に示した。
さて、極楽へ行く者を迎える十の楽である。
行者として十楽を観ると、極楽は、修行に専念できる夢のような環境に思える。
そして考える。
修行によって大慈大悲の生まれた菩薩は、ここに安住してはいられないはずだ。
地獄界や餓鬼界へでかけて、苦しむ生きとし生けるものに寄り添い、苦を我がものとし、修行によって得た身心の力をかけて立ち向かう。
――しかも、穏和、優雅なふるまいをもって。
如来は故郷で待つ永遠の母ではないか。
菩薩は共に行ずる永遠の父ではないか。
十楽寺にある白と赤は、こうした〈祝福された世界〉を示すのではないか。
本尊:勝軍地蔵菩薩様
御詠歌:六道の能化(ノウケ)の地蔵大菩薩 導きたまえこの世のちの世
お大師様お手植えとされる大イチョウの先に、彩色された仁王様が護る仁王門、左手に本堂がある。
扉が半分開き、正面壇上に多宝塔、その奥に神鏡が見える。
おそらく閉まったお厨子の中にご本尊様が安置されているのだろう。
大師堂は暗く、中は覗えない。
伽藍が境内地をぐるりと取り巻く感じが良い。
敷地が活きている。
修行の場であるという雰囲気が濃い。
奥の院の羅漢堂は見事。
入り口の弥勒菩薩様は小さいお堂にあって重い存在感を示し、中央の釈迦如来様は大日如来様と見まがうほどの威容である。
出口のお大師様は珍しく白っぽく若々しいお姿で、天界から見守る形になっている。
五百羅漢の中には必ず参拝者に似た方がおられるとされているが、どなたも眉に共通の特徴があり、自分に似た方を探すことはできなかった。
ただし、ある知人によく似た方はおられた。
受付をしてくださるお婆さんは九十歳とは思えないほどかくしゃくとしておられ、こちらが「お元気で」と送り出された。
松の木の根本にある水琴窟はピーンピーンとよく響いて心地好く、異界の入り口があるようだった。
最初は誰かが偶然にこの音を聞いて驚き、自分で作ってみたのだろうが、とてつもない感性の持ち主だったことだろう。
広辞苑に「水琴窟」が出ていないのは残念。
【第7番 光明山十楽寺】
本尊:阿弥陀如来様
御詠歌:人間の八苦を早く離れなば 至らん方は九品(クボン)十楽
白と赤のコントラストが美しい鐘楼門をくぐると、階段の下に子安地蔵様、その周囲に皆の願いが込められた小さなお地蔵様が祀られている。
本堂も大師堂も実に本格的な荘厳で、老松と共に、長宗我部軍の兵火にかかるまでは地域で一番の伽藍であったことを充分に偲ばせる。
お大師様は、人びとが人生の八苦を離れ十の喜びの中で活きられるように願われたという
愛嬌のある石彫のお不動様には、なぜか地蔵寺のお大師様との共通性を感じた。
九品とは、極楽浄土へ行くための修行の段階であり、上中下にそれぞれ上中下があるので9つある。
十楽とは、極楽浄土で受ける楽しみである。
源信(942〜1017)は地獄と極楽のありさまを、まるでパノラマで眺められるかのように説き、日本人へあの世のイメージを明確に示した。
さて、極楽へ行く者を迎える十の楽である。
1 まず、阿弥陀如来、観音菩薩、勢至菩薩などが、極楽浄土から迎えに来られる。(聖衆来迎)
2 次、浄土へ転生する者のために蓮華が花開く。(蓮華初開)
3 次、身体は美しく、神通力が備わった者となる。(身相神通)
4 次、見るもの、聞くものなど五官の受けるものはすべて美しく味わいがある。(五妙境界)
5 次、五感六根のもたらす深い悦びは尽きない。(快楽無退)
6 次、生前、縁のあった人びとをも極楽へ迎えられる。(引接結縁)
7 次、常にみ仏方と一緒に居られる。(聖衆倶会)
8 次、み仏から仏法を学ぶ。(見佛聞法)
9 次、思いのままに、み仏を供養できる。(随心供仏)
10 次、悟りへの仏道をまっすぐに歩める。(増進仏道)
行者として十楽を観ると、極楽は、修行に専念できる夢のような環境に思える。
そして考える。
修行によって大慈大悲の生まれた菩薩は、ここに安住してはいられないはずだ。
地獄界や餓鬼界へでかけて、苦しむ生きとし生けるものに寄り添い、苦を我がものとし、修行によって得た身心の力をかけて立ち向かう。
――しかも、穏和、優雅なふるまいをもって。
如来は故郷で待つ永遠の母ではないか。
菩薩は共に行ずる永遠の父ではないか。
十楽寺にある白と赤は、こうした〈祝福された世界〉を示すのではないか。


