災いはなぜ起こるか ―時の運など―
一つは「時の運」です。
まったくのめぐり合わせで不幸な災禍に巻きこまれてしまうことは不運としか言いようがありません。
もちろん、因果応報の理を超えるものはないので、何ごとも自分の行動に無関係ではありませんが、たとえば結婚式場へ向かう途中で脇見運転の車に刎ねられた事件などは、この範疇です。
もう一つは「業(ゴウ)感」です。
善業によって清められない悪業の報いとしてやってくるものは、決して避けられません。
たとえば、深酒で身体を壊すことや不倫で家庭を崩壊させることなどです。
反省や懺悔などによって生き直し、避けようとすれば避け得るのに自分から「飛んで火にいる夏の虫」となってしまうのは残念です。
もう一つは「天の罰」です。
たとえば、私たちが四国八十八霊場を遍路するきっかけとなった衛門三郎の場合はまさしく天罰でありましょう。
真夏のある日、強欲で名高い庄屋衛門三郎の屋敷へお大師様が托鉢に行ったところ、鉢を叩き落として8つに割ってしまった彼は、まもなく、溺愛していた8人の子どもたちを次々と失ってしまいました。
そして、仏罰に気づき、お大師様を追って歩いたのが遍路の始まりです。
悪業の報いではありますが、鉢と罪のない子供は結びつきません。
やはり仏罰というべきでしょう。
ここで気をつけねばならないのは、仏罰は決して悪業の人を滅ぼすだけではないという点です。
いのちの炎が消え尽きる寸前にお大師様と巡り会って許された衛門三郎は賢い領主として生まれ変わり、彼の懺悔の四国21周は、現在の遍路行をもたらしました。
み仏が与える罰は試練であり、必ず救済が待っています。
7月の聖悟 ―心の十段階 その4―
(み仏は、教えを聞いて悟りを得ようとする人びとのために、「私たちの身体など、この世にあるものはすべて生滅無常のものであり、その一方で、無常なものを分析すれば、それを成り立たせている要素はいつの世も変わりない」という教えを説かれた)
ここまで、3つの心のありようを眺めてきました。
まず、自分の利となるものを求め、欲のままにふるまう心です。
次は、他人を意識して倫理的感覚をもってふるまう心です。
そして、自分と他人の他に、自分の内側や外界に超越的な何か、たとえば神と称されるようなものを「絶対に有る」として執着する心です。
仏法は、自分であれ神であれ、絶対的に「有る」と考える対象を「我(ガ)」といい、そのような本来いつまでも有り続けるものでは「無い」と気づくところからスタートします。
だから無我(ムガ)が入り口になります。
人といい、神といい、常に有り続ける実体がないことを空といいます。
有るものの代表として人を挙げ、それが空であるから「人空」と説きました。
しかし、自分も周囲のモノも死んだり壊れたりしていつかはなくなりますが、何もかも混沌としているのではなく、よく観ると、この世を成り立たせている構成要素はいつの世も変わりありません。
その根本は五蘊(ゴウン)です。
1 色蘊(シキウン)
自分が死ねば身体は灰になりますが、灰は天地へ還るだけであり、消えて無になるわけではありません。
第一、何もない場所はどこにもなく、たとえば、猫が歩いていた場合、猫がさっきまでいた所は空気が満ちているか、さもなければ他のものが必ずそこを埋めています。
ネコがいるのと同じ場所に、同時にイヌがいるわけには行きません。
このように、見えて聞こえるこの世には、必ず何かが充満しています。
それを色(シキ)といい、要素という意味の蘊をつけて色蘊といいます。
2 受蘊(ジュウン)
これは楽だ、これは苦だというふうに感じとる感受作用です。
見えたり聞こえたりするものすべてに対して、私たちはただちに反応します。
3 想蘊(ソウウン)
旅へ出て美しい光景を心へしまいこみ、帰宅してからありありと思い出すといった表象作用です。
あらゆるものは心へ取り込まれ、それが思考の材料となって生きます。
4 行蘊(ギョウウン)
因縁によって創られた心の傾向は、その人その人独自のものであり、意志や意欲はこうしよう、ああしようと千変万化します。
たとえばリンゴを手にした場合、絵心のある人は画材にし、宗教心のある人はお供えし、食欲のある人は食べます。
5 識蘊(シキウン)
自分が意識してこそ、この世はあります。
今日は晴れた、今日は雨だと解る人にしか、晴れも雨もありません。
五蘊のようにこれ以上つきつめようのないものを法といい、法は変わらずに有り続けると考えるので「法有」といいます。
ここが仏法の入り口となります。
空を深く悟って自分にも、人にも、モノにも、心の内外に想定する神にもとらわれず、構成要素を分析し尽くして納得し、「人空法有」の境地に至った行者がアラカンです。
アラカンさんになるのは大変ですが、我欲を離れた空の感覚と、五蘊というこの世への視点、そして原理や真理を探究する姿勢にはどなたも学ぶところがあるのではないでしょうか。


