宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-07

人生の肝所(カンドコロ) ―悩む力―

 またしても辺見庸氏のお話です。
 7月8日付の河北新報連載「水の透視画法」にフォイエルバッハの一文が紹介されていました。

悩むことのできるものだけが生存するに値する」


 彼は「これまで何万回反芻したことか。正直、その一行に救われたこともある」と書いています。
 そして、「フォイエルバッハにこだわりマルクスを理解しなかった」がために友人からばかにされ、「自分はとびきり愚鈍に思えてしかたなかった」そうです。

 同じようにフォイエルバッハまで進み、憎悪と絶対神に動かされているマルクスを信じられなかった者として現代の〈前向き志向〉に懐疑的なのは、悩む力が減退しているのではないかという危惧があるからです。

 人は前向きに、明るく、力強く生きるに超したことはありません。
 しかし、忘れてならないのは、精神の足腰を鍛えるのは順境ではなく逆境だということです。
 逆境にあって、うまく立ち回ってしまう人もいれば、吟しながら重い課題の真下へ入って障害の根を抜いてしまう人もいれば、打ちのめされてなかなか立ち上がれない人もいます。
 いずれにしても、我が身をすばやく守るだけでは、逆境は人生の肥やしになり得ません。
 逆境とは言えませんが、アリを描こうとしてうまく描けなかった画家熊谷守一氏は、5年も10年も地面へ這いつくばって低い視点から観察し続け、アリが左の真ん中の足から歩き出すことを発見してついに独自の境地を開きました。
 他人がどう評価しようと、真の出来具合は本人にしか判りません。
 妥協せず、納得の行くまで壁に向かい続けた姿勢がとてつもない因となり、余人の追随を許さない次元へ入れたのです。

 また、忘れてならないのは、境遇や、性格や、抗しがたい因縁によって、必ずしも前向きに生きられない人びとへの思いやりを失ってはならないということです。
 釈尊の御眼は「君看(ミ)ずや双眼の色 語らざれば憂いなきに似たり」と詠まれました。
 きっと深く澄み柔らかなお慈悲の色が宿っていたに違いない御眼には、いかなる穢れもの気配もなかったことでしょう。
 の現実と取り組み、克服し尽くした厳しい修行の過程があってそこへ到達されたこと、そして、そのお心がいつも人びとのを我がとして受けとめておられることは、教えによってしか窺い知れません。
 しかし、我が、そして生きとし生けるもののと格闘したからこそ、悟りを得られたはずです。
 懺悔と悩みしむ人びとへの思いやりが心を清める力となります。

 自分の人生を前へ前へと進めるのに忙しく、障害となるものを強引に叩きつぶし、うまくすり抜け、あとは無関心ということでは肝心要の人生の宝ものを得られず、いつしか、まっとうさを失っているかも知れません。

 ままならないという、そこから生じる悩み――。
 悩んでいる時は、〈かけがえのない時〉です。
 私も皆と一緒に前向きにならなければと焦り、無理をする必要はありません。
 誠実に生きていればいつしか心は練られ、思いやりも深くなりましょう。
 自他の真実へ誠実に対応し、「生存するに値する」人生を送りたいものです。

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