宮床開運守本尊 大師山 法楽寺 〜法灯により法友とともに法楽に住せん〜

2008-07

平成20年8月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 今月は、賢者が外へ出たり、あるいは天下国家を云々したりするうちに、足元に淋しさや空虚さや困難などが生じやすい運勢です。
 時は一刻の休みなく過ぎゆくので、大事になればなるほど停滞は許されず、賢者は考察し、判断し、決断してことを進めようとしますが、世の中は、ブドウの枝をつまんだ時のように全体がそっくりそのまま動くわけにはゆきません。
 むしろ、馬を駆って先頭に立つ武将の後を徒(カチ)たちが走って追うような形になるのが普通です。
 今月は、そのあたりのズレが大きくなりがちなので注意したいものです。
 ややもすると、先陣切った猛将が一人で敵軍に囲まれてしまうような事態も起こりかねません。
 また、大衆の支持を失ったり、大衆の動向に足を引っぱられたりした名門の没落ぶりが表面化することでしょう。

 さて、病苦を免れない私たちは名医の情報に敏感ですが、心の病気についてはどうでしょうか。
 万人が煩悩という万病の元である強力な病原菌を抱えているのに、割合、平気に過ごしてはいないでしょうか。
 殺人や強盗などのできごとは他人ごとと思いつつ、いつしか他人を傷つけ、何かを奪い合いながら暮らしているのが現実ではないでしょうか。
 こうした私たちは、心の名医にめぐり会うための心構えを持っていないと市井の名医に気づかず、煩悩の処置という最大の仕事をし忘れたまま人生の幕を下ろしかねません。
 それは、豆腐を買ってくるように頼まれてお使いに出た子供がオモチャを買って帰るようなものです。
 心構えの第一は、自分が我(ワレ)を主にしないではいられない煩悩を持ち、それがゆえに罪を犯した病人である、あるいはいつでも罪を犯しかねない存在であると認識することです。
 それができると、煩悩の恐ろしさと、自分では煩悩を処置できないことがよく解ります。
 そして、処置する方法を知っている名医を探し、訪ねないではいられなくなります。
 名医が見つかったならば、教えという処方箋を信じ、薬を服用するように暮らし方を変えねばなりません。
 服用する際は、薬の効能が有効であると信じることです。
 信じて実践せずに他の名医を求める旅に出るならば、処方箋を集めるだけで自ら治療を放棄した病人と同じであり、いつまでたっても問題は解決できません。

 仏法と医術の違いは、仏法の世界では名医になる道が万人へ開かれており、自分の煩悩へきちんと対処できた人は誰かを救える名医になれることです。
 わずかな名医だけが病苦を克服して安心の境地へ入っているだけではなく、お互いに名医となって病苦を克服し合い、共に真の安心の中で暮らせるよう、自分にとっての〈名医探し〉をしたいものです。

「人の道」は「菩薩になる道」です。しっかりと歩むには六波羅密(ロッパラミツ)行を実践せねばなりません。精進しましょう。
布施行と運勢
 お水を供えましょう。精進の人は、自他の智慧によって明るい道を歩めます。不精進の人は、大切なものを失ったり実体のないものに迷ったりしがちです。
持戒行と運勢
 塗香で手や心を清めましょう。精進の人は、仏神を尊ぶ徳によって願いが叶います。不精進の人は、三角関係などの複雑な迷路に入りがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢
 お花を供えましょう。精進の人は、身を慎む徳によって思わぬ幸運に恵まれます。不精進の人は、邪念が表面に出て失敗しがちです。
精進行と運勢
 お線香を供えましょう。精進の人は、沈着に行って確かな利を得ます。不精進の人は、頑なさのゆえに良き縁を得られず停滞を招きがちです。
禅定行と運勢
 飯食(オンジキ)を供えましょう。精進の人は、君子危うきに近寄らずで無事安全です。不精進の人は、頼りにしていた人との縁が薄れがちです。
[智慧行と運勢
 灯明を点しましょう。精進の人は、東西南北へうまく動き開運します。不精進の人は、うろうろしているうちに肝心なものが手からこぼれがちです。

清める

 よく、「こんな自分を清めたい」「清めながら生きて行きたい」「お経を読誦するだけで清められるんでしょうか?」といったご相談を受けます。
清める」とはどういうことでしょうか?

「自分の悪が恐ろしい結果を招かないようにしたい」、あるいは「悪いことをしない人間にになって出直したい」といった感じがあることは解ります。
 そうした希望は、どういう行動によって叶えられるのでしょうか。

 私たちのいのちは〈今〉にしかありません。
 昨日の自分は、もう、どこにも存在せず、明日の自分も、まだ不確定です。
 しかし、昨日生きていた自分を因として〈今〉の自分がおり、〈今〉いる自分を因として明日の自分が決まります。
 だから、清めは、過去現在未来の自分に関わらねば達成できません。

 過去に対しては、懺悔をすることです。
 仏法上の過去は、生まれてからの時間だけを指すのではありません。
 過去は、いのちの発生時まで連なっています。
 生まれた時はすでに無限の過去の善も悪もすべて因縁となって自分に結晶しているので過去を「ここまで」と区切ることはできません。
 だから、「無始よりこのかた、貪瞋癡(トンジンチ)の煩悩にまつわれて、身と口と心とに造るところの、もろもろのつみとがを、みな悉く懺悔したてまつる」とみ仏の御前で唱えるのです。

 現在に対しては、仏法僧の三宝帰依することです。
 一時の癒しであれば別ですが、深く自分を省みた場合、の積み重なった自分は自分を次元的に超えた存在によってしか根源的には救われないことが解ります。
 自分の罪の恐ろしさにおののく時、人間としての不完全さに愕然とする時、何ものかへひれ伏さないではいられない思いが起こります。
 そして、み仏へおすがりし、教えと救済力によって愚かさや苦しさから抜け出たいと願い、み仏へ仕えて教えを学び実践している人びとを師とします。
 それが帰依です。
 礼拝は帰依の表現であり、帰依のない礼拝は自分とみ仏への欺瞞でしかありません。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、深く三宝帰依したてまつらん」と唱えるのです。

 未来へ対しては、二度と過ちを犯さないように決心することです。
 自分の罪過の恐ろしさに戦慄すれば、絶対にくり返したくないと思うはずです。
 誰しもが自分を恐ろしいことろへ投げ入れたいとは思わないはずです。
 だから、「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、ひたすら三宝帰依したてまつり、とこしなえに変わることなからん」と誓い、重ねて「この身、今生(コンジョウ)より未来際をつくすまで、十善のみおしえを守りたてまつらん」と唱え、「不殺生、不偸盗、不邪淫、不妄語、不綺語、不悪口、不両舌、不慳貪、不瞋恚、不邪見」の十善戒をくり返します。
 どう生きるかというイメージを明確にします。
 ここまで行かなければ、本当に自分のと向かい合ったとは言えません。

 こうして清め発心(ホッシン)したならば、あとは正しく学び、正しく実践するのみです。
 み仏と御霊への供養も、寺院への布施も、経典の読誦や瞑想などによる修行も、そして、日常生活における六波羅密の実践も、すべてが清めの力となります。
 道理として理解できたなら、実践するしかありません。
 清めという美しい道を歩み始めるかどうか、それを決めるのは自分です。

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