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2008
10.31

時の流れは、み仏のいのちの流れです

 五年前にご主人を亡くされた方からファクスをいただきました。
 まず、「ようやく夫が去ってくれました」と言われます。
 きっと、気配がそばにあったのでしょう。
 そして、それを感じるたびに寂しさにおそわれたのでしょう。
 夫婦仲を存じ上げているだけに、この言葉の前には、いかなる言葉も生まれません。
 辛さ、寂しさ、頼りなさに耐えた5年間のお気持を忖度すると、心が静まりかえります。

 そして、「時が必要だったのですね」とありました。
 時はいのちであり、救いです。
 時は人間を老いさせ、あらゆるものを変化させ崩壊させますが、時の流れは、み仏いのちの流れであり、素直に身を委ねる者は〈御手に抱かれている〉というこの上ない安心を得られます。
 大乗仏教は、川を下る大きな船へ分けへだてなく乗りあわせようとするものです。

 共に流れを観て、共に抱かれたいと願っています。
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2008
10.31

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 21 ―「善」のイメージ―

 10月22日の講座で学んだ『法句経』の経文です。

 しき行いは自分の身を危うくするのに、道理の解らない愚者は簡単にそれを行う。
 善なる行いは最も自分の身を安にするのに、愚者はなかなか行えない。


「愛身品(アイシンボン)」の終わり近くにある一句です。

 私たちには「快」を求め「不快」を厭う習性があります。
 それは、生まれながらにして身を守るためのプログラムを持っているからです。
 たとえば、熱いものへ近づいた手は、反射的に離れようとします。
 自分に危害を加えそうな人の側へは寄りません。
 一方、おいしそうな匂いに引っぱられて焼鳥屋の暖簾をくぐり、いつの間にかきな人の側へ行っています。
 仏法は、こうした自動的にはたらく感覚を「(コウ)」「(オ)」「(ヘイ…どちらでもない)」とします。

 また、「」を求め、「」を厭う感覚もあります。
 特別な場合を除き、ほとんどの人はをしたいと思い、しいままで良いと思う人はいません。
 これを、「受(ラクジュ)」「受(クジュ)」「不受(フラクフクジュ)」といいます。

 この6つが、眼・耳・鼻・舌・身・意(心)へ入った情報をきっかけとしてはたらき、それが、過去も現在も未来も続くので6×6×3で108煩悩となります。
 煩悩という自然に備わったプログラムの命ずるままに生きれば危険なのは、なぜでしょうか。
 それは、人間は人間以外の動植物と異なり、精神のはたらきによって自然の摂理を超えたことを考え、行えるからです。
 たとえば、一匹のライオンは、どんなに強くても、自分や家族にとって空腹を満たす必要がある分しか狩りをせず、一匹のツバメは、自分の巣を作るのに必要な分しか木の枝を集めませんが、人間は違います。
 あわよくば、地球上の食べ物のすべてを牛耳り、地球上の建材のすべてを一手に納めようとします。
 あるいは、世界中からお金をかき集めようとします。
 それをさせるのが「自己中心」というです。

 昨今の経済情勢の激変は、「自己中心」思想が、「自由競争」「グローバリゼイション」を旗印とし、お金という武器を手にして暴れ回り、国家権力という武器を手にして暴れ回った結果、もたらされたものです。
 国際金融資本やアメリカは、コンピューターと軍事力いう最新の道具を駆使して意志の実現を図りましたが、やはり「自己中心」はであり、破綻せざるを得ません。
 因果応報の理ははっきりとそのことを示し、金銭的にも軍事的にも両者と一体になろうとしてきた日本がとばっちりを被りつつあるのは当然です。
 否応なくとばっちりを受けた世界中の国々は、両者を制御し、すべての国々が無事安全に成り立ってゆく道を模索し始めたように見受けられます。
 そこで必要な智慧は、コンピューターからは生まれません。
 表立ってどうこうということではなくても、必ずや賢者の叡智が見直されることでしょう。

 私たちが煩悩を持っているのは、生きようとする生きものである以上、どうすることもできません。
 お互いが傷つけ合わず、手を差し伸べ合って安心に、和に生きるための方法はただ一つ、「自己中心」を離れることです。
 そうすれば、自分さえ良ければ良いという小さな欲は消え、お互いが良くなって喜ぶ大欲(タイヨク)となります。
 それには、大欲の世界はどういうものであるかというイメージを持たねばなりません。
 音にしても、小説にしても、あるいは料理や家や車にしても、イメージがあればこそ創造が可能になります。
 だから、経典があるのです。

 経典を正しく読み、読誦して「善」のイメージに従えば、決してを簡単に行えず、自然に善を行えるようになります。
 私たちは、暴力や、過剰な性や、自己中心思想の爆発といったイメージに取り憑かれた人々が犯す罪を毎日毎日、マスコミを通じて見聞きしているではありませんか。
 学び、実践して「善」のイメージに従った生き方をしましょう。
2008
10.30

11月の守本尊様

 今月(11月8日から12月7日まで)の守本尊様は阿弥陀如来様です。

『遍處行智力(ヘンショギョウチリキ)』をもって、人々がどのような世界へ行こうとしているかをご覧になり、地獄界などの悪しき世界へ入らぬよう、お導きくださいます。
 正しく念ずるならば、そのお力により、必ず善き所へ連れて行ってくださるのです。

2008
10.30

11月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

阿弥陀如来(あ・み・だ・にょ・らい)

「オン アミリタテイセイ カラ ウン」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2008
10.30

徳を磨く時代 ─「時は金なり」からの脱却─

 平成20年10月の株価暴落は、世界経済のありよう、そして文明の抱える問題を根底から問うできごとである。
 今こそ、お金という煮ても焼いても食べられない幻のものを唯一最大のよりどころとしてきた文明から脱却せねばならない。
 お金に縛られていた霊性が開放されねばならない。
 奇しくもこの10月は、明治改元(1868年10月23日)からちょうど140年目に当たる。
(ちなみに、当山で行っている隠形流(オンギョウリュウ)居合では、八方天地におられる守本尊十尊のご加護をいただく十刀法へ自在の動き四刀法が加わった14の型を十四根本剣とし、すべての動きの出発点としている)

 武器と宗教で世界を支配しようとした西欧列強と互すべく立ち上がった日本は、西欧文明と同じ土俵で闘い、勝ち負けをくり返しつつ140年が過ぎた。
 同じ土俵とは、絶対神を精神世界の王とし、貨幣を物質世界の王とする世界である。
 明治の日本では絶対神を持たない仏教が弾圧され、世界中の素朴な精霊信仰に通じる神道が国家神道に変質させられた。
 を最高の価値としてきた日本は「富国強兵」策を国家の柱とし、富と武力を求めて走った。
 当時、識字率世界一であり、最大の財だった「」が脇へ追いやられた。

 人生の目標が見つからず漂流していた時代の私には、忘れられない体験がある。
 拙書『み仏は あなたのそばに』の冒頭に書いたできごとである。
 妻子を連れて軽装で山へ入り、道を見失い途方に暮れた時(携帯電話はまだ普及していない)、突然現れた完全装備の山男に救われた。
 ポケットにお金はあったが、山中で水を買うことはできず、麓へ導いてから名も告げず風のように立ち去ったいのちの恩人へのお礼にもならなかった。
「手で水をすくったとき、ポケットの紙は何の役にも立たなかった。それは、お礼として渡すこともできず、心底ありがたいと思いながらも、感謝は風船のように行き場を知らず、宙に浮いていただけだった」
「彼は、自分の足で真実世界に立っていた。私は、かりそめの世界の漂流者だった」

 世界は壁にぶつかっている。
 絶対神を奉じた純粋な信仰者たちが、血で血を洗う戦争を止められない。
 よりどころだった貨幣は、自己増殖という本能のままに制御不能なモンスターとなって人知を超え、国境を越えて暴れ回り、人々の暮らしを破壊するに至った。
 へだてなく認め合う、慈しみ合うという心をこそ普遍の神としたい。
 貨幣ではなく、今のいのちを生かしてくれている太陽や、水や、食物や、家や、生き物たち、そして隣人を「おかげさま」と尊び、「足を知る」喜びをとりもどしたい。
 こうしすれば、日本は「自分の足で真実世界に立」てるのではなかろうか。
 世界の危機に当たり、私たちが本来の姿にたち還り、「」をもって世界を驚嘆させた国として再興することこそ、日本の役割と言えるのではなかろうか。

 お金を増やすのではなく、を磨く時代が廻ってきたのである。
時は金なり」の呪縛から離れ、「時はいのちなり」と生きたい。
2008
10.29

お焚きあげと安心

 今日も定例の開運不動供養会と共に、お焚きあげを行いました。
 お焚きあげをご依頼される方々は、皆さん、とても敬虔な心を持っておられ、自分や御霊の安心を求めてご来山されます。
 安心とは「心を据える」ことです。
 不安とは「心が据わっていない」ことであり、それは、据わっていないからフラフラしてだめなのではなく、自分で解決できない未解決の問題を抱えている状態です。
 たとえば、身体がだるくて微熱が出れば「風邪をひいたのかなあ」と考え、いつものように無理をしないで早く寝なければと思いますが、それだけでは「明日、大丈夫だろうか?」という気持になります。
 ここから先は、やはり、医者にかかるしかありません。
 問題の解決を図るために専門家の戸を叩くのは当然です。
 問題があることをきちんと捉え、信頼できるプロに相談してこそ、私たちは無事安心に毎日を過ごすことができます。

 今回も、さまざまなご依頼がありました。
 ちょっとしたことで祈祷師を呼んだところ次々にいろいろなものを買わされ、最初は喜んでお祀りしていたものの、「何か変だな」と気づき、処置してから気分も晴れた方。
 どうしても処分できないでいた昔の写真や手紙を思い切って持ち込まれた方。
 嫁いだ娘さんが子供のころ遊んでいた人形をやっと手放した方。
 引っ越しのため、やむなく神棚を取り外した方。
 亡くなられた方が使っていた小さな仏壇を処分した方。
 亡くなったペットが使っていたオモチャを手放せないでいた方。

 不安という仮の悪縁を解き放つ不動明王の法により、供養因縁の解消が行われました。
 ダイオキシンの発生しない炉は、天へ昇るのが見える煙を上げはしませんが、モノは確かに天地へ還りました。
 ───合掌。

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2008
10.28

【現代の偉人伝】第68話 ─墨東病院を訴えなかった人─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。


 


 妊娠中の妻(36)が不調を訴え、東京都内8カ所の病院に断られた結果、脳内出血で亡くなった問題に関し、10月27日、夫(36)が厚生労働省で記者会見した。

 順調だった容体が急変し激しい頭痛を訴える妻の様子に、尋常でないことを察知したかかりつけ医院の医師は搬送先を探したがなかなか見つからず、最初に断った都立墨東病院が引き受けたのは約一時間後、病院に着いた時は、もう、目を開けろという呼びかけに応えることもできなかった。
 帝王切開で子供は生まれたが、妻は3日後に亡くなった。
 世界で最高水準にある日本の医療技術がふんだんに提供されるはずの首都東京で、しかも緊急時へ対応するための指定病院が調えていられながらのこうした事態は、私たちの社会がどうなっているかを冷厳に示している。
 子供を産むというごくあたりまえで最も大切な人間の営みが安心して行えないとは、日本はどうなってしまったのだろう。

 夫は、この記者会見で次のように語った。

「誰も責める気はありません」


 辛い立場に立ったであろう最初に断った都立墨東病院の当直医については、絶対に辞めないで欲しいと言明した。
 罪を現場で購えというのではなく、医師が辞めたなら更に医師不足に拍車がかかるので、耐えてがんばって欲しいというのである。
 さらに、同病院の対応をつぶさに述べて謝意を表した。
 脳死状態になった妻が3日後に息を引き取る際、保育器に入ったままの赤ちゃんを腕に抱かせ、親子水入らずの時間をつくってくれたという。

墨東病院の医師も看護師も本当に良くしてくれた。彼らが傷つかないようにしてほしい」


 そして、決定的で強靱な言葉をもって締めくくる。

「のど元過ぎれば忘れるのではなく、具体的な目標を持って改善に向かってほしい。何かが変われば『これを変えたのはおまえのお母さんだよ』と子供に言ってあげたい」


 人権という言葉に守られた我欲を核とする自己中心思想が蔓延し、一旦何かが起これば、立場が弱くなった相手を徹底的に攻めて自分の利益を追求するようになった時代にあって、人の心と行為を冷静に見つめ、是非と道理とを用いてすべての関係者を救う姿勢を見せたこの夫は、あたかも聖者のようである。
 突然の災難のごとく針のむしろへ座らされた当直医。
 妊婦を救えなかった都立墨東病院
 断らざるを得なかった数々の医療施設と、受け答えをした担当者、あるいは責任者。
 ただでさえギリギリの状態であろうところへマスコミの取材や心ない電話や投書などが殺到し、修羅場となっているだろうことは容易に想像がつく。
 彼は、懸命にはたらく現場の人々を救い、頭が呪詛に占領されそうになる自分を救い、医師不足に不安を抱えながら出産を待つ全国の妊婦たちを救うには、「赦す」以外の方法はないことを悟り、実行した。
 亡き妻の成仏にもこれ以上の方法はないのである。

 もちろん、裁判という手段もあるし、それが最も社会を変えるために有効な場合もある。
 しかし、この問題に関してそうした手続きに入れば、関わった人々すべてが日々の役割を果たす際に重大な支障が生じ、彼が心配しているように職場を離れてしまう医療関係者が出ることも当然予想される。
 また、裁判になれば、「裁判中だから」を言い訳にして最も問題解決の責務を負うべき政治家や官僚が逃げをうち、時間が問題を風化させてしまう可能性もある。
 しかし、現場に携わった具体的な人々を赦し、「システムをどうするのですか」という一点に的を絞って訴えかけている限り、責務を負うべき人々は逃げ切れない。
 彼が選んだ手段は、人を救い、社会を変えるためのこの上ない方法である。
 悔しさ、悲しみ、怒り、寂しさ、辛さ、あらゆる精神的困難に耐えて是非と道理に従った彼を聖者と呼びたい。
2008
10.27

NHK文化講座 ─生活と仏法─

 身近なできごとを通じて、み仏の教えを学びます。
 教材は、釈尊の説法がそのままの形で残された最も古い経典の一つ『法句経』などです。
 身近なできごとにも目を向け、質疑応答を交え、楽しく、真剣に、「まっとうに生きる」道を考えましょう。

一 日 時 平成20年11月12日(水)午前10時より12時まで
       平成20年11月26日(水)午前10時より12時まで
一 場 所 NHK文化センター仙台・泉
        宮城県仙台市泉区泉中央1-7-1泉中央駅ビル(スウィング)6階
        022(374)2987
一 主 催 NHK文化センター
一 申 込 NHK文化センター
2008
10.27

11月の例祭

○11月の第一例祭 11月2日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。

○11月の第二例祭 11月15日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
  また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
2008
10.26

芋煮会が終わりました

 絶好の好天に恵まれ、無事、恒例の芋煮会が終わりました。
 人数は19名と若干少なめでしたが、4才のお子さんから還暦過ぎのベテランまで、多士済々のメンバーが料理人となり、食べる人となり、晩秋のひとときを楽しみました。
 いつもと趣向を変え、独特の料理観を持つ行者興道さんの献立を基にした調理は一糸乱れず(?)に進み、恒例となった行者里佳さんの淹れるコーヒーで幕となり、次の予定があって先に席を立つ中学生メンバーは名残惜しそうでした。
 木刀で打ち合う体験などをしてもらうつもりでしたが、準備が間に合わず、次回のお楽しみとなりました。
 お墓参りに来られた方々の飛び入りもあって、和やかな空気が聖地に満ちました。

 不思議なもので、立つ場所や座る場所がかわるだけで、心持が変わります。
 地べたへ敷いたブルーシートの上は、別天地でした。
 毎日足を運び、見慣れている景色なのに、山も樹も石も人も善行堂も、とても新鮮です。
 おおげさに言えば、足を広げて立ち、股の間から逆さまに見た後の景色のようです。
「急いで歩く人」「立ったままで祈る人」「車で通る人」だけでなく、「地べたへ座る人」になってみて、あらためて聖地の持つ雰囲気や価値や意味が解ったような気がして、こんな話をしました。

「私たちが、千古変わらぬ景色を眺めたり、何千年も前に描かれた絵を観たりしてどこかホッとする気持になるのは、大昔、文化はすべて宗教感覚という大きな容れものの中で一つになっていたからではないでしょうか。
 今、こうしていることはきっと原始的・根元的な宗教感覚の追体験につながり、丸く深々して温かい気持にさせるのです。
 歴史が進み、一つにまとまっていたものが技術、医学、政治、芸術などさまざまな分野に分かれ、深められて来た結果、私たちは発達した文明の恩恵にあずかっていますが、いつしか霊性の根本属性である宗教感覚が脇へ追いやられ、それが科学の暴走や道徳の崩壊へつながったのではないでしょうか。
 生かしてくれている環境を破戒し、戦争をくり返し、人間だけでなくありとあらゆる生きものたちを傷つけ、絶滅させつつある私たちの文明が方向転換するには、ばらばらになったものをまとめて活かす智慧が必要です。
 孫悟空になった気分で四方八方へ飛び回っている私たちは、すべてが、み仏の手のひらの上のできごとであることを思い出さねばなりません。
 日常生活のしがらみから離れ、自然を身近にし、裸に近い心になる時間と空間を体験して魂がリフレッシュされた時、ふと、気づいたり、思い出したりしたものを大切にすることは、とても威儀があるのではないでしょうか」 
 
 米も、野菜も、果物も、魚も、肉も、酒もありがとう。
 山も、雲も、風も、清水も、陽光も、歌ってくれた鳥も、跳びはねて景気をつけてくれた堀の鯉もありがとう。
 皆さん、笑顔をありがとうございました。
 ご本尊様、ご加護をいただき、ありがとうございました。

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2008
10.26

フィルムチャリティコンサート「『第三回 夢慧日本を謳う』鑑賞会」

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 4月26日に寺子屋チャリティコンサートを行ってくださった「平成の抒情詩人」夢慧(ユメサト)氏が、去る6月29日新橋ヤクルトホールにて「第三回 夢慧日本謳う」を開催し、大盛況となりました。
 いつものようにヴァイオリンは澤田若菜さん、そして朗読に小山明子さんをお招きしての熱演でした。
 その様子がDVDになりましたので、以下の要領にて鑑賞会を行います。
 どうぞ、ふるってご参加ください。
 当日見損なった方、また、当山での感動を「もう一度夢」と願っておられた方など、どなたもどうぞお気軽におでかけください。

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[開催日]平成20年11月24日(日)18時より
[場 所]仙台市旭ヶ丘「青年文化センター」エッグホール
[参加費]無料(寺子屋建立運動への募金はお心のままに)
[定 員]50名
[申込み]電話やファクスやメールやハガキなど任意

【演奏曲目】
 花嫁人形
 雨
 雨降りお月さん
 うり二つ
 協会の裏の細道
 家族
 想いさくら
 赤い花白い花
 北上夜曲
 夢一夜
 シクラメンの香り
 夜の白鳥
 黒髪
 千の風になって
 ある日突然
 風を観つめて
 故郷
2008
10.25

平成20年11月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 今月は、混沌とした状況が生じ、その中からめざましく伸び、育つものが現れます。
 問題は、それが「徳」を柱として発展するのか、それとも「力」を柱として発展するのか、それとも「技」を柱として発展するのかという点です。
 徳は宗教心を土台とし、人倫を柱として造られる家のようなものです。
 この二つがしっかりしていなければ、いかに立派な外見を装っていても、信頼に足る家とは言えません。
 宗教心は「畏れ」を教え、人倫は「恥」を教えます。天地・仏神・いのちへ畏敬の念を持ち、自らの思考・言葉・行動に恥を覚えるチェック機能を失わないものが育てば社会に潤いが溢れ、お互いのためになろうとする人間関係が築かれます。
 最近招かれた結婚式で、新郎は新婦へ「守ります」という言葉を贈り、新婦は新郎へ「お護りしたい」と返しました。
「ああ、こうして年寄りは若者に救われるのか」とありがたくなり、帰り道で、「日本はまだまだ大丈夫」と意を強くしました。
 徳ある勢力が伸び、人々に徳が増大するよう祈っています。

 また、今月の特徴は「曇りのち雨」です。
 初めははっきりせずやきもきさせられても、やがて、太陽が顔をのぞかせます。
 志や夢を捨てず、諦めず、自らを鍛える時と考えて現在の困難や苦難に耐え、やがて赫奕(カクヤク)と昇る陽光を信じて待ちましょう。
 我慢できずに癇癪を爆発させたり、うまく脇道を行こうとしたり、逃げようとしたりすると、「利用しよう」「足をひっぱろう」と待ちかまえている天魔にやられる虞があります。
 ここは一番、守本尊様にお守りいただき、乗り切りましょう。

 もしも「平地を歩いているのに疲れるなあ」「目的地が見えているのになかなか到達しないなあ」「なぜかバカバカしいものに邪魔されるなあ」「予定より遅れたばかりいるなあ」という現象が現れたなら、行魔(ギョウマ)のしわざでしょう。
 今月の守本尊様である阿弥陀如来へおすがりし、無事安全にお過ごしください。

 信頼できる仲間と一緒に師を求めると開運です。
 身体を冷やさぬよう、胃腸や耳鼻を痛めぬよう、ゴミやホコリに注意して健康を保ちましょう。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進しましょう。 まっとうに生きましょう。
布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は模範を見つけ、自分を理想に合わせようとして自省し、発展します。
 不精進の人は我欲が膨らんで妄動し、暴走して自滅しがちです。
[持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は勝れた人と切磋琢磨して運気が高まります。
 不精進の人は根本を見失い、勝れた人との縁を薄くして悪い仲間と堕落しがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は妖しい人を見破り、身を安全に保ちます。
 不精進の人は誘惑に負けて身をもち崩したり、災難に遭ったりしがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は自分の無知を知って師を求め研鑽します。
 不精進の人は、忠告を聞き入れず、学ぶ相手をまちがって一緒に道をふみはずしがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人はこだわりを離れ、純粋な心で開運します。
 不精進の人は謙虚になれず、つまらぬものにこだわって吉運から離れがちです。
[智慧行と運勢灯明を点しましょう。
 精進の人は邪悪なものから離れ、智と情とをもって発展します。
 不精進の人は相手にうるさがられ、うとまれて智慧や知識を得にくくなりがちです。
 皆さんの開運を祈っています。
2008
10.24

ほめる 8

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋です。
 このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださいました。
 頭が下がります。
 勉強会などを通じて、ご縁の方々へご紹介しており、寺子屋の指針にさせていただきたいと願ってもいます。

三年 M・N

 わたしは、いつも、校長先生を見ると、気持ちがすっきりします。
 あいさつも気持ちのいい声で、「おはよう。」・「さようなら。」といわれます。
 それに運動場に水たまりができた時も、自分でなおしておられます。
 そんな時、わたしは、手つだってみたいな。とは思うのですが、はずかしくて行かれません。
 わたしも、校長先生みたいに、はっきり、気持ちのよいへんじや、あいさつをがんばりたいと思います。
 そのほか、ごみくい車や、石くい車にも、たくさんごみや石を入れて、この学校のために、いいことをいっぱいしてみたいです。
                ◆
みちるさん、
 ほめほめのお便りありがとう。きょうは、校長先生をほめてくれた、お手紙でしたね。
 みちるさんにほめられて、ちょっぴりてれくさいけど、ほめられるって、やっぱりうれしいものですね。
 校長先生が、ほめほめの運動をはじめたのも、ほめられて、おこったり、かなしんだりする人はいないだろうと思うからです。
 それに、わたしたちは、人の悪いところを見ると、はらがたったり、おこりたくなります。その反たいに、よいところをみつけると、心がうきうきしたり、楽しくなったりします。
 悪いところをみつけて、おこるより、よいところをみつけて、にこにこするほうが、よっぽどしあわせです。
 そう思うので、校長先生は 大きな声で、なるたけニコニコとあいさつするようにします。返事をするときは、だれにでも「ハイ」を心がけています。いっしょにがんばってみませんか。


                ◇
 生徒が先生を「気持ちがすっきりする」という感覚で見るということは、もう、それだけで教育の大半を終えていると言えるのではないでしょうか。
 誰でもが理解できる範囲の勉強を教える小学校では、何よりも先生の〈人格による感化〉が大切が大切です。
 自分の小学校時代を思い出すとそれがよく解ります。
 先生に心へ植え付けていただいた種が自分の中で育っていることがはっきり認識できます。
 この校長先生のお人柄が偲ばれます。 

          ◆     ◆     ◆

三年 F・Y

 学校から、帰るとき、原先生に会いました。
「何してるの?」と、聞いたら、「くみとりの人が、来ちゃったけーね、お礼いわにゃ、いけんからね。」と、おっしゃいました。
 まもなくくみとりの車が帰りだしました。原先生が、「ありがとうございました。」と、おっしゃったので、私も、友だちの、ふじくらさんも、声をそろえて、「ありがとうございました。」と、大きな声で言いました。
 すこおしだけ、くさかったけど、気もちが、すっきりしました。
 くみとりのおじさんも、なんだか、うれしそうでした。
                ◆
二弥恵さん、
 久しぶりのほめほめでしたね。
 いつも、すばらしいほめほめを書いてくれて、ほめほめのおやぶんの校長先生が、まけてしまいそうです。二弥恵さんのほめほめの目や耳が、どんどん元気になってきているしょうこだと思って、校長先生はとってもうれしいです。
 保けん室の原先生のことや、くみ取りのおじさんのことを書いてくれたものでしたね。
 原先生は、くみとりのおじさんが来てくださると、まっ先に外に出て、いろいろお世話をしてくださいます。そして帰られるときは、かならず「ありがとうございました。」とていねいに頭をあげて、お礼を言われます。ですから、くみ取りのおじさんたちも、黄金山小学校に来るのを楽しみにしていてくださるようです。そんな原先生を、校長先生はいつも、「ありがたい」と思っています。
 二弥恵さんと ふじくらさんも、原先生といっしょに、お礼を言ってくれたのね。やっぱりほめほめの子だと校長先生はうれしく思いました。


                ◇
 臭いものを扱ってくれている人へ必ず感謝の言葉をかける先生の行動が、子供たちへの無言の教育になっています。
「しなさい」と言わずとも、子供たちは、先生と同じ行為を行い同じ言葉を話すことが人間として価値あるものであることを感じとり、自発的に行っています。
 まさに「真似ぶ」が「学ぶ」になっています。
2008
10.24

【現代の偉人伝】第67話 ─佐久間勉─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。


 
 


 明治43年4月15日、広島湾沖において、潜水訓練中の佐久間艇が沈没した。
 数日後に引き上げられた艇内は驚くべき状況だった。
 艇長の佐久間勉(30歳)は司令塔で、艇員たちはそれぞれの持ち場で息絶えていたのである。
 当時はまだ潜水艦の造船技術が低く、世界各地でこうした悼ましい事故が起こっていたが、現場はすべて修羅場だった。
 唯一の出口であるハッチへ我先に殺到して押し合いへし合いになり、格闘した痕跡すら珍しくはなかった。
 当然、佐久間艇の様子は世界中から賞賛の的となり、日本に駐在する武官たちはこぞって弔意を表した。
 この悲劇は、日本軍人の精神レベルが図抜けていることを全世界へ証明したのである。

 あまつさえ、佐久間艇長は遺書をしたためていた。
 その一部を掲載する。

小官の不注意により
陛下の艇を沈め
部下を殺す、
誠に申し訳なし、

されど艇員一同、
死に至るまで
皆よくその職を守り
沈着に事をしょせり

我れ等は国家のため
職に倒れ死といえども
ただただ遺憾とする所は
天下の士は
これの誤りもって
将来潜水艇の発展に
打撃をあたうるに至らざるやを
憂うるにあり、

願わくば諸君益々勉励もって
この誤解なく
将来潜水艇の発展研究に
全力を尽くされん事を

さすれば
我ら等一つも
遺憾とするところなし、


溢入の水に浸され
乗員大部衣湿ふ寒冷を感ず、
余は常に潜水艇員は
沈着細心の注意を要すると共に
大胆に行動せざれば
その発展を望むべからず、
細心の余り
萎縮せざらん事を戒めたり、
世の人はこの失敗を以て
あるいは嘲笑するものあらん、
されど我は前言の誤りなきを確信す、


 佐久間艇長は事故の原因、対処した事実、刻々と進む状況の悪化なども克明に記し、「将来潜水艇の発展研究に全力を尽」してもらいたいとの意志を明確にしていた。
 そして最期の覚悟を示した。

一、潜水艇員士卒は
抜群中の抜群者より採用するを要す、
かかるときに困る故、
幸い本艇員は皆良くその職を
尽くせり、満足に思う、

我は常に家を出ずれば死を期す、
されば遺言状は既に
「カラサキ」引き出しの中にあり


公遺言

謹んで陛下に申す、
我が部下の遺族をして
窮するもの無からしめ給わらん事を、
我が念頭に懸かるものこれあるのみ、


 部下たちの勇気と冷静沈着な行動を誇り、その遺族たちへ温かな手を差し伸べて欲しいと願っている。

諸行無常の世に処する人世の
明日をも計り知るべからざる、
実に朝露の如し、
されば人たるもの予め生前に於て
死後の善策講じ置かざれば、
一朝無常の嵐に誘はるるに際し、
遺族をして徒らに路頭に迷はしめ、
或は骨肉をして不義の争ひを譲さしむるに至ることあらん。

追補

我れ死せば遺骨は郷里に於て
亡妻のものと同一の棺に入れ混葬さすべし


 極限の状況下で艇長以下の乗組員たちが遺した精神と行動の軌跡は、まさに奇跡と呼ぶべきではないだろうか。
 与謝野晶子は短歌を詠み、明治天皇は遺族へ弔慰金を贈られ、海軍省と朝日新聞によって行われた募集には56,000円(現在では数億円)もの義援金が全国から寄せられた。

海底の水の明かりにしたためし永き別れのますら男の文 ─与謝野晶子


 昨今の自衛隊における不祥事を見るにつけ、記しておきたい。
 何としても語り伝えたい。
 
2008
10.23

真実

 信徒Sさんの作品です。

「ハロウィンを少し意識したイラストですが、題名は『真実』といいます。
 これはお母さんが決めたんですけどね^^
 こういう意味が込められています↓
『人の欠点片目見る』ということを勉強しました。
 闇の中でもほんの少しの明るさで真実が見えてくるのではないかと思い、このタイトルにさせていただきました」

 Sさん、ありがとうございます。

2010222satouirasuto.jpg





2008
10.23

11月の俳句

 11月は霜月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

野の花で貫く一生曼珠沙華

 彼岸花は忽然として道ばたに現れて独特の紅い細身を見せる。万葉集では目立つ花として詠まれ、西条八十は「ああ切なきは女の恋の曼珠沙華」、山口百恵は「恋する女はマンジューシャカ」と恋心を込めた。作者はその紅色をどのように心へ映しとったのだろうか。

幾秋に幾秋かさね老いにけり

 迎えたと思うまもなく冬の気配が忍びより、足早に立ち去る秋。秋は四季の中にあってもっとも短い印象がある。冬は寒さが耐える時間を感じさせ、春は想いが膨らみ、夏はいのちがはじけるが、秋はスッと身を引く。秋に重ね、幾星霜を足早と感じている。

きき馴れて聞き飽きせずちちろ聞く

ちちろ」はコオロギである。「あっ、鳴いているな」と気づいても、意識はすぐに別の対象を求めてしまうほど自己主張の薄い鳴き声だが、もう一度聞き耳を立ててみると、小さないのちの確かさを感じさせられる。作者は耳だけの存在になり果てて聞き入っている。

ここ三日同じところにちちろ鳴く

 その場所は栖なのだろうか、それとも気に入った演奏会場なのだろうか。いずれにしても、作者はその場所を知っている。この家で今を生きる自分が、すぐそこで今を生きるコオロギの声を聞いている。小さな交感が宇宙大に広がってゆく。

埒(ラチ)もなき日の繰返し秋深む

「埒」は柵である。転じて「埒もない」と言う場合は、とりとめがない、きまりがつかないなどの意味となる。目に飛び込む山や雲を眺め、耳に届く虫の音に没入する感性を遮るものはない。「ことを為す」という濃さはなくとも、観つつ聴きつつ、確かな日々が続く。

思ひ出を胸に秘めしもの衣被キヌカツギ

衣被」は、そもそも、平安時代の高貴な女性が外出する際に顔を隠そうと被った薄い衣である。秋口に採れた小さな里芋を皮のついたまま食べる場合も衣被という。団子と一緒に名月へ供える旬の食材に、作者は何を想うのだろうか。

向ひ合ふ人のなき卓火の恋し

 独りでテーブルを前にして座っている。猫を撫で、トンボを目で追い、お茶を飲む淡々とした日々。ふと身体が冷えていることに気づいて暖をとらねばと思った拍子に、自分以外の人の温もりがないことを実感する。孤独を冷徹に観ている。

卵黄のゆらりとのりし今年米

 新米のご飯が炊きあがり、新鮮な卵をかけていただく。形を崩さないまま、湯気の上がる白いご飯へ乗ってゆく黄色で冷たい卵黄。材質といい、彩りといい、温度といい、対称の妙が尽くされている。そして「ゆらり」という一語。最高傑作ではないか。

鳥渡る振って確かむお茶の缶

 窓外を、群になった渡り鳥が波のように舞う。「あの小さな身体でどこまで飛んでゆこうとしているのか。脱落する者はいないのだろうか」。弧を描く様子に見とれていると、どんどん時が過ぎる。お茶も進む。そのうちに「まだ大丈夫かな」と缶を確かめたくなる。

湯殿てふ虫の音を聞くところかな

湯殿」はお風呂場である。
 作者のお宅は緑に囲まれており、風呂場の外でコオロギや鈴虫の鳴く声が聞こえる。
 身体はゆったりと温まり、耳は虫の音を愉しむ。
 それは、きっとこの世の極楽に違いない。

2008
10.22

今を大切に生きる

 作詞家の阿木洋子さんが、「今を大切に生きましょう」と話し、面白い例を挙げておられます。

【時の過ぎゆくままに】
作詩:阿久悠 歌:沢田研二
「時の過ぎゆくままに この身をまかせ 男と女が ただよいながら」

【時の流れに身をまかせ】
作詩:荒木とよひさ 歌:テレサテン
「時の流れに身をまかせ あなたの色に染められ」

【川の流れのように】 
作詩:秋元康 歌:美空ひばり
「川の流れのように おだやかに この身をまかせていたい」

【星の流れに】
作詩:清水みのる 歌:菊池章子
「星の流れに 身を占って どこをねぐらの 今日の宿」

【ミラボー橋】
作詩:ギョーム・アポリネール
「ミラボー橋の下をセーヌ河が流れる 夜よ来たれ 鐘よ鳴れ 日々は過ぎ去り 私は留まる」

 これらの詩を読むと、日本人は流れる時間に自分を委ねる感覚を持ち、西欧人は時間の流れを観ているのではないかと思えるそうです。
 鴨長明の「方丈記」にある有名な文章を思い出しました。
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。
 よどみに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例(タメシ)なし。
 世の中にある、人と栖(スミカ)と、またかくの如し」

 また、交友のある人々も例に挙げられました。

【タイプ1 中森明菜
 過去のできごとをいつまでも引きずり、強いトラウマの影響で未来への不安や人間不信などから離れられない。
 意識の一部がいつも過去に向かい、うつむき加減で進む。

【タイプ2 松田聖子
 常に前だけを向き、上昇志向が、並はずれて強い。
 自分の年齢へもあくなき挑戦し続け、歳を感じさせない。
 上を向きすぎて不安定なところがある。

【タイプ3 小泉今日子
 時代と共に呼吸をし、自分の年齢のままに生きる「錆びない人」。
 同時代の女性のオピニオンリーダーになっている。
 求められているものをきっちりとこなすプロ意識が強く、そのために時間に遅れず、スタッフへの気配りも欠かさない。
 どこにもいそうな目立たない女性の姿で「おはようございます」とやってきて、メークも普通だが、「スタート」の声がかかった瞬間からオーラが出て、200パーセントもの自己表現が行われる。

 三人ともすばらしい個性を持ったスターだけれども、私たちが今を輝いて生きようとするなら、小泉今日子さんのように、自然体でその時その時を大切にしましょうと提案しています。

 阿木洋子さんは、お母さんが亡くなられた後、遺品を整理していて、素敵な茶碗や布が真新しいままで発見されました。
 ご縁で手に入れたそうしたものを大切にしまっておき、欠けた茶碗と古くなったテーブルクロスでお茶を飲んでいた母親の気持を想像しながら、こう考えました。
「私はしまっておかないで、きれいなテーブルクロスをかけ、気に入った美しい茶碗でお茶を飲みたい。
 今日はもう還ってこないし、明日のいのちだってどうなるか判らないのだから……」
2008
10.21

日本の歌 87 ─見上げてごらん 夜の星を─

見上げてごらん 夜の星を
  作詞:永 六輔 作曲:いずみたく 編曲:渋谷毅 坂本九の歌で昭和38年にヒット

1 見上げてごらん 夜の星を
  小さな星の 小さな光りが
  ささやかな幸せを うたってる

2 見上げてごらん 夜の星を
  ぼくらのように 名もない星が
  ささやかな幸せを 祈ってる

  手をつなごう ぼくと
  追いかけよう 夢を
  二人なら 苦しくなんかないさ

3 見上げてごらん 夜の星を
  小さな星の 小さな光りが
  ささやかな幸せを うたってる

4 見上げてごらん 夜の星を
  ぼくらのように 名もない星が
  ささやかな幸せを 祈ってる


 この歌は、定時制高校に通う生徒たちを励まそうと作られた。
 ヒットによって映画にもなった。
 戦後の復興がすっかり軌道に乗った日本では、しっかり勉強して一定のレールに乗れば、万人に人並みの社会生活が待っていると信じられていた。
 一流大学を出て一流会社へ入ろうとする競争はあったが、受験に失敗したり、早くからはたらいたりしてぼちぼちとやって行くコースをたどっても、そこそこの未来は待っているはずだった。
 少なくとも表面的には皆が上を向き、社会には優しさがあった。
「手をつなごう ぼくと 追いかけよう 夢を」と社会は進んだ。
 もちろん、当時も救いの手を待つ人々はいたが、今のように、冷酷で非情で乾いた政治と経済のシステムによってアリ地獄へ落とされた人々の群れはなかった。
「手をつなごう」にある偽善は小さかった。

 しかし、今は、上手な偽善すら探すのは難しい。
競争」は「自由」に裏打ちされた正義となり、勝者や強者はいささかも良心を痛めることなく、堂々と敗者や弱者を喰らう。
 権力や富や名声を貪り求め、得た者は我がもの顔に誇ることを躊躇しないし、敗者や弱者の気持を忖度する姿勢も薄い。
 日本人の心がどう変わったかは、児童虐待の実態に端的に表れている。
 平成16年中に全国の児童相談所が処理した案件は約33000件に達し、10年前との比較では約17倍になっている。
 子供の数が減っているにもかかわらず、虐待される子供たちは飛躍的に増えている。
 明日の仕事すら不確かな低所得者も爆発的に増えた。
 弱者が徹底的に叩かれている。
 恐ろしいと思う。

 坂本九のヒットから半世紀が経とうとしている今も、この歌は唄いつがれている。
 星々は変わらぬ光を発して私たちへささやきかけ、語りかける。
見上げてごらん 夜の星を」と唄う人々、聴く人々にとって、励ましてくれる星はどのくらいの距離にあるのだろう。
 唄う人の顔に坂本九のような笑顔はあるのだろうか。
2008
10.20

「ペット霊園やすらぎ」さんの慰霊祭

 昨日は一日中、「ペット霊園やすらぎ」さんの慰霊祭で祈りました。
 朝の火葬炉と灰塚のお清め、ご供養から始まり、個別墓でのご供養と続きました。
 個別墓では弟子の興道さんと手分けして、一基づつ順番に祈りましたが、約2時間かかりました。
 12時30分からの合同供養会には200人を超える人々が参加され、お焼香も大変だったようです。
 そして、3時からの共同墓でのご供養にもたくさんの皆さんが足を運ばれました。
 皆さん「ウチの子は~」などと会話を交わしておられるとおり、どなたにとっても亡きペットは家族同様というよりも家族そのものです。
 短い法話では、こういう気持で修法しますと申し上げました。

「あなたは家族
 あなたは友
 生きて私たちを慰め 励まし 勇気づけ
 死していのちの尊さを教えたまう
 あなたのいのち尊し
 生きとし生けるもののいのち尊し
 今 心からあなたの御霊を供養し
 生きとし生けるものの幸せを祈ります」

 それにしても「やすらぎ」さんの様子は奇跡に思えます。
 決して大規模ではない文字どおり手作りのペット霊園にしては、とてつもない数の人々が足をはこばれ、埋葬後何年たってもお墓を訪れる方がどんどん増えています。
 その理由はただ一つ、経営する鈴木さんご夫婦の心配り、気配り、目配りが行き届き、お世話に手抜きがないからです。
 仕事ぶりを見ていると、ていねいな受け入れから始まり、DVDを作ったり、手紙を出したり、あるいは墓所、墓地の掃除や花壇の整備などと、とどまるところを知らないはたらきぶりです。
 ご夫婦はいつも笑顔を絶やさず、霊園には死を扱う場所とは思えない明るさや和やかさが満ちています。
 亡きご「家族」を託した方々の安心はいかばかりかと、いつも感心させられます。
 そして、ご夫婦は菩薩様だなあと心で合掌する思いになります。
 ご夫婦のご精進なくしては、「家族」を失った方々にこれほど篤い供養の心が起きるとは思われないからです。
 ご夫婦の温かい心が、不幸を前にした方々の心から温かさを引き出しているに違いありません。

 お大師様の言葉を思い出します。
道自ら弘まらず。弘まること必ず人に由(ヨ)る」
 仏法は放っておいて広まるものではなく、必ず布教活動によります。
 布教の「布」は宣布の布であり「教」は教義の教です。
 教えを学び会得した人々による伝達の努力が、池へ投げ入れた小石が作る水紋のように教えを広めます。

 ご夫婦は口を揃えて言われます。
「私たちは教えとか供養とかを勉強したわけでも何でもありません。
 家族を亡くされた人のためにただ一生懸命やっているだけです」
 しかし、学問的な勉強だけが「思いやり」「まごころ」「布施」「供養」といった〈み仏の教えにかなった心〉を創るわけではありません。
 因縁については知りませんが、いつしかご夫婦の心がそうした色合いを強め、その努力がご縁の方々の心を染め続けていることは確かです。
 本人の知らぬ間に行われている無形の布教には、ただただ脱帽です。
ペット霊園やすらぎ」さんのご発展を願ってやみません。
2008
10.19

死んだ人と、生きている人のように接してはいけないでしょうか 2

 以前、「死んだ人と、生きている人のように接してはいけないでしょうか」との質問をいただき、供養する側の心が吹っ切れない場合の対応などについて書きましたが、少々つけ加えておきます。

 そもそも、み仏であれ、御霊であれ、何かを供えるなり合掌するなりして供養する時は、そこに人がいるつもりでお供えし、心を向けねばなりません。
 当然、おは活き活きしていなければならず、ごは自分が食べるものと同じものを先にお供えすることになります。
 自分にとって最も大切な人へ萎れたを贈ったり、古くなったごを「さあ、どうぞ」と差し上げるはずはありません。
 ただし、ここで気をつけねばならないのは、「赤いはだめ」とか「炊きたてのごでなければ失礼だ」などという習俗的なタブーにとらわれるあまり、供養がしにくくなってはならないということです。
 季節のであればなおさら色を気にする必要はないし、自分が昨日の残りを温めて食べるのならそれを捧げることに何らの問題もありません。
 日々、懸命に生きる中でできるかぎりのおもてなしをしようとする健気な姿勢こそが最も大切なものです。

 そして、「さあ、どうぞ」と捧げたなら、合掌して「こんな私ですが、おかげさまで、今日も精いっぱい生きます。どうぞお見守りください」と懺悔し、真言を唱えるなどしてから「おかげさまで、今日も人の道を生きられます。どうぞお見守りください」と感謝して一日の活動を始めたいものです。

 もちろん、自分なりの供養の中で、おを捧げたなら忍辱(ニンニク…忍耐)を誓い、お線香を点したなら精進を誓うといった六波羅密(ロッパラミツ)の心も忘れぬようにしましょう。

 もしも、朝はとても忙しいので何か一つだけお唱えしてからでかけたいといった場合は光明真言をお勧めします。
「おん あぼきゃべいろしゃのう まかぼだらまにはんどまじんばら はらばりたやうん」は大日如来の真言であり、同時に、あらゆる仏神へ届く一切諸仏の総呪(ソウジュ…全てに通じる呪文)でもあります。
 意味は、「自利と利他の功徳を円満する遍き光の偉大なるはたらきよ、宝珠と蓮と光明との徳によって、迷いを転じ、悟りへ導きたまえ」というものです。
 如意宝珠は福徳と安楽を生み出し、蓮花は罪障を消滅させ仏性を花開かせ、光明は無明の闇を払って悟りへと導きます。
 仏壇の前でも、寺院や墓地の前でも、神社の前でも、あるいは事故や事件のあった場所でもお唱えできるスペードのエースです。
 覚えておけば、何かのおりに、きっと役立つことでしょう。
2008
10.18

懺悔と感謝

 毎朝ご飯を供えたりお線香を点したりする場合の心構えのお訊ねがありました。
 それは、いかなる場合も懺悔に始まり、感謝に終わるべきものです。
「こんな私ですが、おかげさまで、今日も精いっぱい生きます。どうぞお見守りください」
 そして合掌します。

 合掌する右手はご本尊様、左手は自分です。
「右仏左は我と合わす手の中ぞゆかしき南無の一声」
 南無帰依(キエ)を意味します。
 帰依とは、赤ん坊のような裸の自分をみ仏へ投げだし、お導きいただくことです。
 チベットの人々はよく尺取り虫のように字面へ伏したり立ち上がったりしながら本堂へと進みますが、あの伏して拝む形が帰依の象徴です。
 懺悔し、謙虚にならなければ、これは実践できません。
「この俺」などという傲慢さ、自己中心思想を持ったままで合掌するのは、大切な人と会う時に顔も洗わないででかけるようなものです。
 それでは、合掌する身体と南無と唱える口は聖なるものになっていても、心は汚れたままです。
 身と口と心がバラバラです。
 この身口意(シンクイ)がバラバラな状態こそ、悪業を生み出す姿です。
 悪意や敵意や嫉妬などを持ってにこやかに笑いながら握手することを想像してみれば、その情けなさ、愚かさ、恐ろしさ、哀れさが解りましょう。
 病気などの場合は別として、顔も洗わないで南無大師遍照金剛と唱えられる信徒は一人もおられないはずです。

 合掌してお経や真言を唱えたり、ご挨拶をしたりし終えたなら、こんどは感謝です。
「おかげさまで、今日も人の道を生きられます。どうぞお見守りください」
 最初の気持と似ていますが、今度は「こんな私」がなくなっています。
 それは、合掌し、至心にお勤めをしたことによって、もう、み仏と一体になっているからです。
 身口意が聖なるものになれば即身成仏(ソンシンジョウブツ)です。
 何とありがたいことでしょうか。

 こうして一日にたとえ3分か5分でも、み仏に成る体験を重ねることこそ尊い人間修行です。
 懺悔に始まり、感謝で終わる数分が人格を変え、人生を変えます。
 悪業を作る〈自己中心〉という魔ものを退治したければ、実践あるのみです。
 人生の同伴者として陰のように寄り添っている魔ものは、意識して切り離さねば、決して消えてはくれません。
 やるか、やらないか、決めるのはたった一人、自分しかいません。
2008
10.17

逆子なおし

 穏やかで車の窓を開けたくなるほどの日和。半袖でジョギングをしている姿も見かけました。
 翌日引っ越しされるという中古の家を清め、結界を張って帰山しました。
「子年生まれの方は千手観音様が守本尊ですね。卯年なら文殊菩薩様です。そうした守本尊様方は、当然、子の方位、つまり北。あるいは卯の方位、つまり東にもおられるわけですから、それぞれのご本尊様の法を結ぶのが当山の結界法です」
 お茶を前にしての説明を聞かれる方々は、目から安心と希望があふれているようです。 
 畳替えをし、掃除の行き届いたお宅はまだ新たな主人を迎えていないにもかかわらず温かなぬくもりが漂い、皆さんの笑顔がともよく似合って、その喜びが私の胸にも届いてきました。

 本堂へ帰る前に『法楽の苑』へ立ち寄ったら、お子さんを抱いた若いお母さんがお墓参りをしています。
「ああ、あの時の……」
 ご加持逆子がなおり、無事、出産した方です。
 そう言えばやはり守本尊様の話をしたなあと思い出しました。
「頭は勢至菩薩様が守ってくださっています。だから、頭痛などに関しては勢至菩薩様の法を結びます。
 腹や腰は千手観音様が守ってくださっています。だから、腹や腰の不調に関しては千手観音様の法を結びます。
 逆子なおしも同じ原理で、お腹の赤ちゃんに両方のご本尊様の法をかけて頭と腹を動かします」

 さて、千手観音様のご加護はこれだけではありません。

「幸運や良友に恵まれる。理解者や援助者がある。戒律を守り、まっとうに生きようとする。教えを正しく理解する。必要なモノに不自由しない。悪人や悪鬼の呪いや障りに負けない」


 経典は、信じて祈る善男善女にこうしたご褒美をくださると説いています。
 ただし、ご褒美は棚ぼた式に手に入るものではありません。
 自分自身を省みてその小ささに気づき、仏神へ祈らないではいられない謙虚さが大切です。
 謙虚さは懺悔と裏表になっており、ここから出発した祈りは本ものです。
 そうして真心が動き出せば、あとは、祈りを仏神へ届ける行者の選択を間違わないことです。

 ところで、時折、邪宗と誹謗する文言を目にしますが、きちんとした仏神を祀る邪宗はありません。
 もしも世の中に悪い影響を及ぼす宗教があるとすれば、それは仏神が悪いのではなく、祀る人々の心に問題があるのです。
 勢力を拡大しようとか、世間的な権力を持ちたいとか、後ろめたいところや痛いところを隠したいとか、「直い心」や「慈しみ」とは関係のないところで仏神が利用されています。
 声高に「邪宗!」を叫ぶ宗教をこそ注意深く観察せねばなりません。

 真理が万人に共通するものである以上、きちんとした行者がいて、切実な求めへ対して道理のある説明ができ、門戸を広く開け放ち、去る者を追わないのが正しい宗教者、正しい宗教団体のあり方ではないかと考えており、当山もこのようにありたいと努力しています。
 皆さんの善き願いをしっかり仏神へ届ける善き宗教、善き願いを持つ善き心が深まるように祈る善き宗教が行われる日本であって欲しいものです。
2008
10.16

月輪観(ガチリンカン)

 昨夜の満月は玲瓏(レイロウ)として中空に浮かんでいましたが、今朝の有明の月は一転して実に優しく、観音様を連想させられました。
 密教には月輪観(ガチリンカン)という瞑想法があります。
 月を自分の心へ引き入れ、その霊光と一体になって迷いを脱します。

月輪の自性(ジヨウ)清浄なるゆえに、よく欲(トンヨク)の苦を離れ、月輪清涼なるゆえに瞋恚(シンニ…怒り)の熱を去る。月輪光明のゆえに、愚痴の闇を照らす。


 仲秋の名月は特に澄み渡り、憧れすら感じさせます。
 その清浄さを深く心へ染みこませる時、「もっと、もっと」というりの悪魔は消えてしまいます。
 その涼やかさを深く心へ染みこませる時、「このっ」「うぬっ」という怒りの悪魔は消えてしまいます。
 その明るさを深く心へ染みこませる時、自己中心という愚かさの悪魔は消えてしまいます。

かくのごときの三毒、自然に清浄にして、離散すれば、湛然(タンネン…動ぜずゆったりしているさま)として自ら苦しむこと、これ無し。


 瞋痴(トンジンチ)という毒が心に発生するために、私たちは苦しみます。
 四苦八苦といっても、生をり、老いに怒り、病気に悩み、死から逃れようとするのは自分の勝手さです。
 本来、かりそめの肉体を授かり、天地万物のおかげをもって、ありがたくもこの世で人生修行をさせていただいている身であることを忘れてはなりません。
 満月を見上げる時、そうした勝手さはどこにもなく、正しい修行を行うことによって、本来あるものでない勝手さは姿を消します。
 そうすれば、苦しみをもたらす原因となる悪行が行われず、深く空(クウ)を悟れば、これまで行った悪行も結果につながる成熟を止められるので、「自ら苦しむこと、これ無し」となります。
 まことに、密教の瞑想は感性を活かす、道理にかなった修行法です。

 供養堂が完成したなら、瞑想道場も始める予定です。

201016有明7

201016有明5

2008
10.15

生活の純化

一利を興(オコ)すは一害を除くにしかず。
一事を生(フ)やすは一事を減らすにしかず。


 モンゴル帝国の官僚耶律楚材(ヤリツソザイ)の有名な言葉です。
 確か高校の教科書にあったはずですが、すっかり忘れていました。
 最近、友人と話題になり、再考してみると、やはり歴史に残るだけのことはあると感心させられました。
 54才で亡くなった彼がいつ発した言葉であるかは知りませんが、若い頃なら優秀な官僚である証拠であり、晩年であれば見事な終焉を迎えたであろうと推測させられます。

 何ごとかの成就をめざせば、進む力を増進させると同時に、ブレーキとなるものを取り除かねばなりません。
 前者は目立った動きですが、後者は地道なはたらきです。
 しかし、後者に巧みでなければ無駄が生じます。
 目立ちにくい無駄の恐ろしさと、そこに気づかぬ愚かさをヤリツソザイは冷静に観ていました。

 また、何ごとかの成就をめざせば、生活上限られた条件を最大限に活かそうとします。
 その場合、肝心でないことを思い切ってやめねばなりませんが、これがなかなか難しいものです。
 習慣を変え、生活を変えるには強い意志力が必要です。
 経典は説きます。

「仲間が順に殺されているのがあなたには見えないのか。
 しかし、惰眠を貪る者は、屠殺者のもとの水牛のようである」
「『これはまだしていない』『これはやり始めた』『これは半分ほどすませた』という時、突然閻魔が訪れる。
 そして、『ああ、滅ぼされる』と考えることになる」


 なすべきことは今、始め、余計なものは今、切り捨てねばなりません。
 肝心なものごとに関しての「そのうちに」は、怠惰というべきです。

 最近、ノーベル賞を受賞された日本人は、皆さん、当然のごとくに「除き」「減ら」して偉業を達成されました。
 この箴言を思い出させてくれた作家の高任和夫氏は、これから歴史小説に邁進するそうです。
 人間を描き、社会を描いてきた彼もまた「一事を減ら」そうとしています。
 彼は「生活の純化」をめざしているのでしょう。
 もちろん、私たち行者もそうです。
 こんなことを考えていると、純化した生活を清浄に生きた釈尊の『法句経』が次々と思い出されます。 
「法に遠ざかる人に親しむことなかれ、また、愛に染(ゼン)せらるるを為すことなかれ」
「怒らざること地のごとく、動かざること山のごとく、真人(シンニン)は垢(ク)無ければ、生死(ショウジ)の世を絶つ」

 とはいえ、すべての人々が生活のすべてを純化させられるものではありません。
 四苦八苦宿命を懸命に生きる中で、こうした〈純な時間〉を持ちたいと相談される方へは、念持仏(ネンジブツ)を持ち、祈る時間を確保するようお勧めしています。
 ご相談ください。

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2008
10.14

【法句経 第五章 戒め】

法句経』の意訳です。

○規則を守って清浄に暮らし、善行に邁進すれば、自然に戒め通りの生き方をして揺るがぬ者となる。

智慧ある人は戒めを守り、三つの宝ものを得る。名声と財物と死後の天界行きである。

戒めを守って善なる生き方をする者は賢者である。賢者たる正見を具えれば、抜きんじて吉祥なる人生となる。

戒めを守る者の心は安心に満たされ、身体のありように悩むこともない。眠りは安らかであり、喜びのうちに目覚める。

戒めを保ち、布施を行い、徳積みをする者は、この世で福徳に恵まれ、死後も安寧が待っている。

○何が老いても善く、何が確立されるべきであり、何が人間の宝であり、何が盗賊に盗まれないものであろうか。

戒めを守るのは老いても善く、戒めを守る生き方が確立されるべきであり、智慧は人間の宝ものであり、善行による福徳は決して盗まれない。

出家修行者は戒めを拠りどころとし、眼・耳・鼻・舌・皮膚・意識のはたらきを制御し、節度ある食事をし、心を常に目覚めた状態に保つ。

出家修行者は戒めによって気まま心を制御し、心が汚されることなく精神統一を行い、真理を正しく観て、常に正しい智慧に従わねばならない。

道理をよく理解して戒めを守り、思惟を深めて正しい智慧を得よ。適切な修行によって慎み、を滅尽せよ。

煩悩の束縛を脱して慢心もなく、再びそれらを生じさせることもなく、生涯、真理を求めて聖なる道を離れるなかれ。

○戒めと精神統一と真の智慧とをよく理解し、思惟を止めるなかれ。その修行を続けるならば煩悩を離れ、憂いなく、生存のは生滅する。

○執着心から解放されればを脱し、煩悩は再び生じない。魔もののはたらく世界を超越し、陽光のように清明となろう。

○狂って道理が理解できず、外界へ気ままな関心を向けているだけではならない。戒めと精神統一と真の智慧を極める修行を離れてはならない。

○戒めを守って清浄に心を制御し、正しい智慧を得て煩悩を脱した者は、魔ものと出遭わない。

○これが吉祥なる悟りへ至る無上の道である。非道を離れた者は、魔ものの世界と無縁になる。
2008
10.13

五つの願い 2

 運命を大きく転化させるためには祈りが必要です。

 祈りの根本である「五大願(ゴダイガン)」における第二の祈りは、

「福智は無辺なり 誓って集めんことを願う」

です。

「福」とは、布施、持戒、忍辱(ニンニク)、精進、禅定(ゼンジョウ)によって、み仏からもたらされる宝ものです。
 見返りを求めずに誰かのためになること、戒めを守り良心に背かぬこと、他からの攻撃に怒らず不動心をもって対応すること、人の道に反しないものごとをやり遂げること、心身を調えものごとを正しく分析して理解し、肝心なものごとへ集中する姿勢を養うこと。
 こうした修行は、人間本来の尊さを発揮しながら生きる大きな力をもたらします。

「智」とは、み仏の教えを学び、道理に反した考え方や我欲に導き出された考え方などを離れるとことにもたらされる智慧です。
 それは、必ず自他を人の道へと導き、迷いの脇道や、堕落や破滅の崖へ向かう道を塞ぎます。

 この福徳智慧、すなわち尊く生きる力と人の道へ導く智慧とがあって初めて、人は菩薩として生きられます。
 自分が穢れた生き方をし、我欲に彩られた知恵しかなければ、自他を幸せにすることはできません。
 だから、福徳智慧を身につける努力をしますと誓い、祈ります。
 それは、猪八戒が我がために熊手で財物を集めようとするのとは正反対の祈りです。

 南におられる宝生如来(ホウショウニョライ)様を礼拝して第二の願いを念ずれば、「あらゆるものが、み仏の徳を表現するものとして平等に存在していること」が理解できる智慧を得られます。
 それを平等性智(ビョウドウショウチ)といいます。
 福徳智慧は、勝手な差別を離れ、縁の相手へ向かって発揮されます。

 急に体調を崩して倒れた場合、周囲の誰かが救急車を呼ぶこと、あるいは、天災に遭った場合、見ず知らずの人たちが義援金や奉仕活動で支えること、あるいは小さな子供が連れ去られそうになった時、大人が助けること。
 これらはすべて、福智を備えたまっとうな人が平等性智によって行動しているのです。
 すばらしいですね。ありがたいですね。

「福智は無辺なり 誓って集めんことを願う」と祈りましょう。

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2008
10.13

法楽寺に生きるものたち

 当山でいのちを育む生きものたちです。
 見る私も見られている小さきものも、等しく大日如来の顕れです。

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2008
10.12

五つの願い 1

 運命を大きく転化させるためには祈りが必要です。

 そもそも、私たちが祈る時は必ず願いを持ちます。
 願いのない祈りはありません。
 当山での祈りは、清めから始まります。
 それは、私たちは善きことも悪しきことも考え、何でも願い、そして何でも祈ることができるからです。
 もしも悪しき願いを持って祈ったならば、やがては、自分自身へ恐ろしい結果をもたらすことでしょう。
 だから、誤った祈りを行わないよう、まず清めの作法を行うのです。

 さて、仏道に志す者におけるいかなる祈りも、その根本は「自他共に迷いを脱し、本来の〈み仏の子〉たる生き方ができますように」というものです。
 それを当宗では「五大願(ゴダイガン)」といいます。

1 衆生は無辺なり 誓って救わんことを願う
2 福智は無辺なり 誓って集めんことを願う
3 法門は無辺なり 誓って学ばんことを願う
4 如来は無辺なり 誓って事(ツカ)えんことを願う
5 菩提(ボダイ)は無上なり 誓って證(サト)らんことを願う

 第一の願いは、「生きとし生けるもののためになり切りたい」というものです。
 この願いを持たない菩薩はおられません。
 仏法は菩薩になる道を説くものであり、学び、実践しようとする者にとって、ここが出発点となります。
 菩薩の修行は自利(ジリ…自分を高めるため)と利他(リタ…他の役に立つため)を合わせて行いますが、5つの願いのうち4つは自利を主とした実践であり、最初の願いが利他を主としたものになっています。

 東におられる阿閦如来(アシュクニョライ)様を礼拝して第一の願いを念ずれば、曇りのない鏡があらゆるものをそのままに映し出すような智慧を得られます。
 それを大円鏡智(ダイエンキョウチ)といいます。
 私たちは、心にそれぞれ自分勝手な色眼鏡をかけており、この世の真実のありようをそのままに観ることがなかなかできません。
 だから見当違いや勘違いや誤解が生じ、せっかく善き心でものごとを行ってもうまく行かなかったりします。
 もしも麦を見て米であると判断したり、温かい心がつくった笑顔に嘲りを感じたりしたならば、自他共に無事安全な生活を送ることは困難になります。

 生きとし生けるものが幸せでありますようにと心から祈れば、み仏が、まっすぐにありのままに観られる智慧をくださるのです。
 何とありがたいことでしょうか。

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2008
10.11

日本の歌 86 ─牧場の朝─

Category: 《日本の歌》
牧場の朝
  作詩:杉村楚人冠(スギムラソジンカン) 作曲:船橋栄吉 昭和8年「新訂尋常小学唱歌(四)」初出

1 ただ一面に立ちこめた 牧場の朝の霧の海 
  ポプラ並木のうっすりと 黒い底から 勇ましく 
  鐘が鳴る鳴る かんかんと

2 もう起き出した小舎小舎の あたりに高い人の声 
  霧に包まれ あちこちに 動く羊の幾群の 
  鈴が鳴る鳴る りんりんと

3 今さし昇る日の影に 夢からさめた森や山 
  あかい光に染められた 遠い野末に 牧童の 
  笛が鳴る鳴る ぴいぴいと


 歌の場面は福島県の鏡石町にある岩瀬牧場である。
 勇ましく鳴っているのは、明治40年にオランダから牛と牧場用器具を輸入した記念として送られた鐘である。
 長閑な光景ではあるが、時代は確実に混乱の気配を濃くしていた。
 この歌が始めて小学校で唄われた年の元旦、日本軍はシナ軍と衝突し、10月にはナチスに率いられたドイツが国際連盟を脱退している。
「蟹工船」を書いた作家小林多喜二が治安維持法違反容疑で逮捕され、特別高等警察の拷問を受け虐殺されたのもこの年である。
 こうして、安心と不安、平和と戦争が地球上のどこかで同時進行しつつ、人類の歴史が創られてきたのだろう。
 釈尊の説かれたとおりいつの世も無常であり、人生は苦であるというしかない。

 仏法で言うところの苦は「苦あれば楽あり」の苦ではない。
 人生には楽しみがあるから苦があるのもしかたがないといった達観では済まない。
 真の智慧を塞ぐ煩悩が私たちを動かす土台になっているために四苦八苦が避けられない状況を深く観れば、釈尊の恐ろしい指摘が解る。
「互いに我を張り合い傷つけ合う中で過ぎてゆく人生は、根本的にままならない」のである。
 貪りのために、怒りのために、愚かさのために自分が苦しみ、誰かを苦しめることが避けられない自分のありようを知った時、「苦あれば楽あり」と言ってはいられなくなる。

 私たちが何者であるかを知った時、「いかにあらねばならないか」を考えないではいられなくなる。
 そして「こうありたい」と思っても、やってみると、自分を変えることは難しいと気づく。
「解っちゃいるけどやめられない」のである。
 根本から自分を変える方法はなかなか見つからない。
 それはそうである。
 煩悩という甲羅の厚さ、固さは生やさしいものではない。
 だからこそ釈尊もお大師様も、すべてを捨てて難問へぶつかった。
 そして、両者の跡を継ぐ数知れない聖者や行者たちが方法を探求し、遺したのが今に伝わる教えであり、修法の次第である。

 子供たちが牧場を連想しながら目を輝かせてこの歌を合唱してから10年後、日本も世界も火の海となった。
 かんかんと鐘が鳴り、りんりんと鈴が鳴り、ぴいぴいと笛が鳴る世界中の牧場も、どれほど被害を受けたことだろう。
 豊かな自然も心休まる牧場も、私たちに潤いを与えてくれる存在であり続けるためには、私たちが煩悩から脱却しなければならない。
 かけがえのないものを保つのも、破壊するのも私たちのありよう一つにかかっていることを忘れないようにしたい。
2008
10.10

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 20 ―今、精進しよう―

 10月8日の講座で学んだ『法句経』の経文です。

いのちは日夜に尽きつつある。時を逃さぬよう修行せねばならない。
この世は明らかに無常である。それを知らずに惑い、智慧なきままであってはならない。


「老耗品(ロウモウボン)」の終わり近くにある一句です。
「時を逃さぬよう修行せねばならない」は「時に及んで勤力(ツト)むべし」という印象的な言い回しになっています。
 私たちのいのちは、刻一刻と砂時計が時を刻むように減り続けています。
 まさに無常。そして、この世のすべては無常です。
 今、人間として最も肝心なことを行わねば、いつ、できるのでしょうか。
 明日のいのちどころか一瞬後のいのちすら保証されてはおらず、むしろ、事故や病気など、何らかの理由でなくなってしまって何の不思議もありません。
 私たちは、とても脆くてあてにならない身体を唯一の頼りとして生きていますが、身体が壊れてしまえば、風が吹けば知らぬ土地へ飛び去ってしまうタンポポの種のように、あるいは海流によってどこかへ流されてしまうクラゲのように、いのちはたちまちに消えてしまいます。
 いかに身体を鍛えようと、終末を迎えるまでは、長くてもたかだか百年です。
 しかも、よほど精神と頭脳を鍛えておかねば、老いて身体のはたらきが弱くなるのに合わせて精神も頭脳も弱って行きます。

 およそ2500年前の2月15日、80才で臨終を迎えた釈尊は、「この世のすべては無常です。怠らず、精進しなさい」と言い遺されましたが、それは、釈尊自身がその瞬間まで修行し続けておられたことを意味します。
 努力し、天運に恵まれれば、釈尊のように、あるいは10月5日に急逝した緒形拳のように見事に生き、見事に死ぬことができましょう。
 最期を看取った津川雅彦氏は、間際まで談笑し、意識が消えかけたと思ったらカッと眼を見開き、虚空をにらんで逝った様子をこう語りました。
「歌舞伎役者のように、虚空をにらみつけていた。その10分間に執念と覚悟を感じた。かっこいい立派な最期だった。最期まで闘って燃え尽きた。役者として見事だった」

 かけがえのない人生を悔いなく生きているかどうか、肝心なことを疎かにしていないかどうか、時にはこの言葉を思い出して省みたいものです。

「時に及んで勤力(ツト)むべし」


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