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2009
01.30

二月の例祭

2月の第一例祭 2月1日(第一日曜日)午前9時より(千枚護摩供養会と兼ねるのでいつもより1時間早いスタートになります)
 第一例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
 声明では高橋里佳さんのクリスタルボウルも演奏されます。
 伝統ある密教の音楽と新しい楽器とのコラボレーションは、新たな世界を開きます。

2月の第二例祭 2月21日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
  また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
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2009
01.30

二十四節気

 立春に始まる一年は「二十四節気」に分けられます。 

立春(二月四日)雨水(二月十九日)啓蟄(三月六日)春分(三月二十一日)清明(四月五日)穀雨(四月二十日)
立夏(五月五日)小満(五月二十一日)芒種(六月六日)夏至(六月二十一日)小暑(七月七日)大暑(七月二十三日)
立秋(八月七日)処暑(八月二十三日)白露(九月八日)秋分(九月二十三日)寒露(十月八日)霜降(十月八日)
立冬(十一月七日)小雪(十一月二十二日)大雪(十二月七日)冬至(十二月二十二日)小寒(一月五日)大寒(一月二十日)

 昼と夜の長さによって春夏秋冬に分け、その中間点を定め、さらに温度や気象などで細分化して季節を表現しており、何度眺めても感心させられます。
 これが日本の暦の根幹となっているはずですが、現在こうした意識はかなり薄れ、無視する言葉づかいが主流になりました。
 たとえば立春を過ぎているのに、二月の寒い日などは「春はまだやってきません」と言ったりします。
 正しくは「春らしくない日が続いていますが、春の暖かさを実感できるのはいつになるのでしょうか」と言わねばなりません。
 かつて、NHKの相馬宏男アナウンサーへこのあたりの事情をお尋ねしたところ「そもそも、現代人は、二十四節気をあまり気にしないのではないでしょうか。私たちは何よりも庶民の感覚にそった話し方を心がけているので、二十四節気にはなかなか合わせられないのが現状です」と答えられました。

 きっと、農耕と密接に結びついた面がある暦なのでなじみが薄れたのでしょう。
 無理からぬことです。
 しかし、隠形流居合には「二十四節気の剣」があり、風神雷神の修法を行います。
 何とか二十四節気の感覚を守りたいと願っています。
2009
01.29

平成21年2月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 2月運勢です。
 今月は、五感(視覚や聴覚など、五つの感覚)へはたらきかけてくるたくさんの刺激のうち、何に動かされるかによって運命が大きく分かれることでしょう。 
 たとえば新聞を読む場合、私たちは、とかく、面積の大きな記事に目を奪われがちですが、大きな記事が万人にとって大きな意義があるとは限りません。
 それは、本の発行部数でも、テレビの視聴率でも同じことです。

 最近、食堂で定食ができるのを待つ間にスポーツ新聞を読んでいたら、とても小さな記事が目にとまり、釘付けになりました。
 アメリカのインディアナ州で道路清掃をしていた三人の労働者が、捨てられていた古いタイヤの中から現金を発見し、警察へ届け出ました。
 金額はおよそ十万ドル(約八百九十万円)というから驚きです。
 しかも、三人は「誇りを持って」通報したという説明がありました。
 大統領が就任演説で触れねばならぬほどの人種差別があり、未曾有の経済的危機にあるアメリカで、恐らくは最下層にあり、収入も厳しいはずの人々が清掃という職業に誇りを持っており、それがこうした行動に結びついたとは、ただごとではありません。
 道徳心の普遍性や誇りの大切さ、そしてアメリカの底力などを深く考えさせられました。 

 一瞬一瞬、絶え間なくやって来て去りゆく情報の取捨選択は私たちの心のありように委ねられています。
 この世は一人一人にとって千差万別にたち現れており「いかなる世界をいかに生きるか」を決めるスタートラインがこの判断です。
 主体性を持って情報と対峙したいものです。

 今月の世間は、外観を競う流れが強まることでしょう。
 各方面の内実が固まり、社会が落ちつきを取りもどすまでの過渡期です。
 実態を観る眼を養い、じっくりと判断しましょう。
 また、離合集散も起こりがちです。去るものに代わって現れるものに誠が宿るよう願ってやみません。
 さもなければ、去るものは浮かばれず、現れるものは、去るものを養分として成長発展することができません。
」と「感謝」が選手交代の冷厳さへ潤いを与え、無慈悲な社会にならないためのキーワードです。

 今月は火や書面に関する困難や事故が起こりがちです。注意しましょう。
 今月の開運ポイントは、集中心が保てず気分にムラが生じた時は、結論を急いだり極論に走ったりせず、目上や賢者や親友など信頼できる人に意見を求め、慎重に判断、実行することです。
 準備を怠らず、体制を確認してからスタートしても遅くはありません。
 その場しのぎの浅知恵でなく、信念をベースにした行動に徹して運命を創りましょう。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。
布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は慎み深く仏神を敬う心が徐々に固い扉を開きます。
 不精進の人は妄動して紛糾に巻き込まれ、知恵が空回りしがちになります。
持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は素直に他の善行を誉め、善行に従い、認められます。
 不精進の人は善行から遠ざかり、徳積みの貴重な機会を逸しがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は妄動せず断つべきものを断って道が開けます。
 不精進の人はいつしか良からぬものに溺れて進退に窮したりしがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は相手に惑わされず智慧と慈悲を発揮して成功します。
 不精進の人は善からぬ浅知恵に引きずられて意図せぬ罪科に近づきがちです。
[禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は重荷に押し潰されず背筋を伸ばして上を目ざします。
 不精進の人は力不足に悩まされ、立場を危うくしがちです。
智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は徳の力が自然に相手を圧倒し、戦わずして勝利を得られます。
 不精進の人は目的が明確でない戦いを起こし徳を失いがちです。
 皆さんの開運を祈っています。
2009
01.28

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 26 ―仏法の根本─

 仏法の根本は『法句経』の「述仏品(ジュブツボン)」にあります。

諸(モロモロ)の悪は作(ナ)す莫(ナ)く、諸(モロモロ)の善は奉行し、自(ミズカ)ら其(ソ)の心を浄(キヨ)くする、是(コレ)、諸仏の教(オシエ)なり。


(あらゆる悪行を為さず、あらゆる善行に勤しみ、自ら心を清浄なものとせよ。
 これが、悟りを開いた聖者の教えである)

 よく「あまりにたくさんのことがさまざまに説かれているので、仏教は難しい」と言われますが、根本は何ですかとの問いには、この一句を挙げて答としています。
 私たちの心に宿る仏心が具体的に動いて行動を促す良心の命ずるところは、あらゆる宗教にも道徳にも共通しているのではないでしょうか。
 しかし、「悪を離れ善を実践する」という人間だけに与えられた使命に従うのはあまりに当然であるあるにもかかわらず、こうしたあたりまえな生き方がなかなか実行できず、この世は苦の海になっています。

 考えてみれば、人間は実に特殊な生きものです。
 かつては200万年、今は600万年前とされている人類発祥の時期には、人間以外の動物たちの発祥はすべて終わっていました。
 なぜ、人類は〈最後にやってきた〉のか、そして、人類はネコやイヌのようにさまざまな類に分かれず、いかなる組み合わせでも子孫を残せるのか。
 なぜ、食べ物を得たり縄張りを守ったりするという個体の損得だけでなく、善悪の判断ができるのか。
 たとえば、カジカの雄は、雌が産み付けた卵を守るためにあらゆる外敵と戦い、ウニの大群がやってきたりするとそれを押しのけようとしているうちにボロボロになって死にますが、それに人間は感動しても、カジカは善行を実践しているとは言えません。

 人間には「同類因」があります。
 たとえば、乗り物の席を譲るという善行は、やがて、落ちているゴミを拾うという善行を実践させるきっかけとなります。
 それが、いじめられている仲間を救うことにも結びつき、前の善行が後に続く善行の原因となって、善き連鎖が起こります。
 反対の現象も同じく起こります。
 ウソをついたままで平然としていれば、やがて、盗み、暴力をふるうようになり、悪しき連鎖がt続くことでしょう。

 また、「増長縁(ゾウチョウエン)」があります。
 積を譲る行為やゴミ拾いは見ていた人から賞賛を受け、何かのおりに誉められたりすると、ますます善行へ邁進する力となります。
 一方、暴走族は、はやし立てる無責任な観衆に煽られて、より悪しき行動へとエスカレートします。
 善行は善を育てる縁を招き、悪行は悪を育てる縁を招くのです。

 こうして、善と悪とがからみ合い、一人一人がかけがえのないまったく独自の運命を創りつつ生涯を終えます。
 不思議で尊い一生を貫く〈人間ならでは〉の柱。
 それが、この教えです。
2009
01.27

体祓い・体固め

 守本尊剣を修得して初段となり、五輪の剣の稽古に入ると、いよいよ具体的な修法の仕方に入ります。
 まず、「体祓いの剣」と「体固めの剣」を学びます。

 体祓いとは、第一義的には外から来る魔ものの便りをはねつけ、穢れを祓うことです。
 よく「受けてしまう」方がおられ、「見えて困る」「聞こえて困る」というご相談は後を絶ちません。
 第三者からは、思いこみが激しいのではないか、あるいは神経が疲れているのではないかなどと言われてしまうかも知れませんが、あながち、そうとばかりも限りません。
 そもそも、〈弱いサル〉だったご先祖様が、安全で食料にも比較的恵まれている樹上から追い出され、恐る恐る草原に降り立った時は、今よりもずっと遠くまで見渡せ、かなり微かな音も聞き分けていたことでしょう。
 そうでないと、自分や家族などの無事安全が確保できなかったからです。
 私たちは、文明の発達と共に生活圏を飛躍的に拡大し、今や、地球上のありとあらゆる所から食物を手に入れられるまでになりました。

 その一方で、生活における利便性が向上し、多様な食物を楽しめるようになった幸せと引き替えに、野生の感覚を急速に失いました。
 視覚、聴覚、嗅覚も、あるいは第六感も感度を落としました。
 しかし、ほんの短いフレーズを耳にしただけで、曲名はもちろん、楽団名や指揮者名、さらにはいつ、どこの会場で行われたコンサートの録音であるかなども聴き分けてしまう仙台レコードライブラリーの山田社長のような人もおられ、時として、普段、感じられない〈何ものか、あるいは何ごとかの気配〉を敏感に感じ取る人もおられるのは確かです。
 問題は、そうした能力がどのように用いられるかであり、また、それが当人の生活といかなる関係を持つかという点にあります。
 頼まれもしないのに闇雲に他人様の不幸を予言して不安に陥れたり、不快感を与えてはいないでしょうか。
 また、感じられることが平穏な日常生活へ混乱をもたらしてはいないでしょうか。

 深海のように冥冥たる次元まで深く分け入った釈尊は、およそ考えられる限りの魔ものたちと遭遇しました。
 そして、恐怖や混乱や執着をもたらす魔ものをことごとく退けた釈尊は、現象界に、あるいは現象界の裏側に何が見えても、何が聞こえても、すべてはみ仏の手のひらにある真実世界であると感得しておられたに相違ありません。
 み仏の世界へまっすぐに入る即身成仏法を完成されたお大師様もまた、法へ入れば、ただちに真実世界の住人となられたことでしょう。
 姿や音や香りは、決して不安も、不快も、混乱も、もたらしはしません。
 体祓いはこうした所へ入る法であり、修得すれば、迷いも、惑いも起こりません。
 本来、空であり、み仏の世界としてこの上なく清浄な存在そのものになれば、何ものがやってきたところで、穢されず、それまで受けていたものも、消滅させられます。
 そして、やがては「人の道」という観点から見えるべきものが見え、聞こえるべきものが聞こえるようになります。
 それらはすべて、自他を救い、向上させる因となり縁となること必定です。

 体祓いの第二義としては、心の浄化作用があります。
 実は浄化作用こそが本来の意義であり、常々この法を修していれば、澄んだ心は魔ものをはねつける鏡となり、魔ものは、自分の発する悪を自分で引き受けねばならなくなります。
 釈尊はそうした悪しき愚か者を哀れと思い、自分の悪や愚かさで自滅せぬよう、教えによって導かれました。
 お大師様は、法によって退けられた悪しき愚か者が自滅せぬよう、菩提心を起こす法をもって魔除けや厄除けを修法されました。
 体祓いの法により、自他共に菩提心を発揮しながら生きたいものです。
2009
01.26

『四十二章経』第八章 功徳は不滅

 今年も、、『法楽』作りの奉仕活動では『四十二章経』を学びます。

 仏の言(ノタマ)わく、
『夫(ソ)れ人の道を爲さんには務(ツト)めて博(ヒロ)く愛せよ。
 博(ヒロ)く哀みて施せ。
 徳は施より大なるは莫(ナ)し。
 志を守り、道(ドウ)を奉ずれば、其(ソノ)甚(ハナハ)だ大なり。
 人の道を施(ホドコ)すを覩(ミ)て、之(コレ)を助けて歡喜(カンギ)すれば、亦(マタ)報(フクホウ)を得ん。』
 質(タズ)ねて曰(イ)わく、
『彼(カ)の當(マサ)に減(ゲン)ずべからざるか。』
 仏の言(ノタマ)わく、
『猶(ナオ)し炬火(コカ)の、数千百人、各(オノオノ)炬(コ)を以(モッ)て來(キタ)り、其(ソノ)火を取りて去り、食(ジキ)を熟(タ)き、冥(ミョウ)を除くも、彼(カ)の火は故(モト)の如(ゴト)くなるが若(ゴト)し。
 も亦(マタ)之(カク)の如(ゴト)し。』


 釈尊は説かれました。
「人の道を探求するならば、懸命になってたくさんの人々を慈しむことである。
 たくさんの人々へ哀れみの心をもって施せ。
 施しに勝る徳はない。
 発心した志を固く守り、教えの道を歩むならば、訪れる福徳は計り知れないほど大きい。
 誰かが学んだ教えを説く場面に遭遇してそれを手助けすれば、その人もまた、福徳という報いを得ることになろう」
 この説法を聞いた人が尋ねました。
「自分がせっかく会得した教えを誰かに教えてしまったならば、自分が得られるはずの福徳が減ってしまうのではありませんか?」
 釈尊は説かれました。
「松明(タイマツ)に火が灯っているところへ、松明を手にした何千人もの人々がやってきて火を分けて帰り、あるいは煮炊きをしたり、あるいは明かりに用いたりしても、最初にあった松明の火は元のままであるのと同じである。
 教えの施しによって得られる福徳も又、決して減ることはない」

 福徳功徳であり、善行に伴い結果として得られる善き果報です。
 施し福徳の門であるのは、何よりも、我欲を解き放つためのこの上ない実践法だからです。
 私たちは、言いわけをして自分を可愛がり、財物を抱え込もう抱え込もうとしますが、そこで可愛がられ、育てられるのは、み仏の子である真の自分ではなく、幻の我欲であることをよく見すえたいものです。
 また、生きとし生けるものは皆、何ものかの施しを受けねば生きられず、他へ施して自分の生きている世界をより良きものにすれば、そこに住む自分もまた、必ずその恩恵にあずかることになるからです。
 暗く険しい山道を歩む場合、一本の松明を先導にするのと各々が松明を手にするのとでは、天地の違いがあります。
 一方、貪欲が破滅の門を開くのは、欲しがる者同士の対立と争いを生み、真の喜びや満足を得られないからです。
 周囲が豊かな世界にならないからです。
 み仏は説かれました。
「充分なる財物も食物もある人が、自分だけ良い食事を摂ろうとするならば、それは破滅への門である」
2009
01.24

改名の日 

 1月21日、お大師様のご縁日に改名しました。
 親からもらった名を離れ、この世で用いる名は龍地だけになりました。
 家庭裁判所で調査する方から詳しく理由を尋ねられた上、判決をいただいて実現しました。
 理由は、使い分けが困難になったからです。
 たとえば、住職として署名する場合は当然僧名ですが、宗教法人の代表として署名する場合は住民票に記載された俗名でなければならず、各種契約に際して、相手様へよけいな頭を使わせてしまうのです。
 もちろん、より明確に娑婆を離れて行者そのものになり切りたいという願望は前提にありました。
 名が変わると、自動的に子供たちにとっての父親の名も変えねばなりませんが、なぜか妻の配偶者としての名の変更は、夫たる本人ではなく妻が行うのだそうです。

 区役所で手続きを待つ間、待合いの場でジェロの晴れ舞台」を放映していました。
 晴れ舞台で自分の名前が呼ばれるシーンを母親に見せてやりたいという歌詞がありました。
 私の母親はもう、この世にいませんが、より純粋なものになった姿を草場の陰から喜んで眺めてくれているだろうと思うと、胸がつまりました。
 待合いの通路では、社会福祉法人の方々が、手作りの品々を売っていました。
 妻が退院したなら、そのお祝いと私の改名祝いを兼ねてご本尊様を供養しようと考え、蝋燭を2本買いました。
 紫と赤の小さなケーキほどのロウソクは透明なビニールに包まれ、裏にこんな但し書きがありました。
「『幸せのおすそわけ』 このキャンドルは結婚式のキャンドルサービスで使用したもののリサイクルです」
 ウェデイングドレスを着なかったことが今でも残念でならない妻と、托鉢による皆さんからのご喜捨で開山した夫にはうってつけの品でした。灯す日が楽しみです。

 さて、帰山したら、父親が井戸のそばでウロウロしています。
 飼い犬「風太」が今朝、死んでいたと言うので駆けつけたところ、溝の側で舌を少しだけ出し、目を開いたまま静かに横臥していました。
 相変わらずたくましい骨格と締まった身体に衰えはなく、苦しんだ気配も、争った形跡も、衰弱した様子もありません。
 世話をしていた父親は、二日ほど食欲をなくしていたので夕べ、自分が食べるのと同じ魚を与えたらペロリと平らげたのであまり心配していなかったそうです。
 宮床で開山して間もなく、「子犬あげます」という新聞広告を見て訪ねた仙北の村からやってきた風太は、柴系の雑種らしい丈夫さで、ほとんど散歩もさせてもらえない環境を生き抜きました。
 雑種らしい野生を色濃く保ち、わたしたち文明人がほとんど忘れている領域で融通無碍に自然と交感し、〈生の歓び〉そのものを見せてくれました。
 がっしりした体躯には似合わぬジャンプ力で丘へ登り、一メートルはありそうな蛇を捕ってガリガリと頭から食べ、杉林などで妖しい気配がすると「ワオン、ワオン」と威嚇しました。
 おそらく、熊が出てきてもひるまず向かって行ったことでしょう。
 当山の隣にあるグラウンドで一緒に走り回った頃を思い出すと、過ぎた日々は昨日のことのように近く感じられます。
 いかにも番犬らしく忠実だった風太は、私の俗名と一緒に役割を終え、自ら去ったのでしょうか。

 夜になり、寺子屋建立に着工するための決定的なできごとがありました。
 離れるもの、去るもの、掴むもの、来るもの、すべてがみ仏のお導きの中で当山の運命を織りなしています。

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2009
01.23

【現代の偉人伝】第72話 ─チェスリー・サレンバーガー機長─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。


 
 1月15日午後3時半過ぎ、ニューヨーク市のハドソン川に乗客乗務員155人を乗せた旅客機USエアウェイズ1549便が不時着水した。
 離陸直後、エンジンに鳥が衝突する「バードストライク」が起き、エンジン停止となったからである。
 住宅密集地をひかえた最寄りの飛行場を目ざすのは困難、かつ危険と判断したチェスリー・サレンバーガー機長は、ただちに着水を決断した。
 水とはいえ衝突時にはコンクリート同様の衝撃が予想され、F4戦闘機の操縦経験があり40年を超える操縦歴を持つ機長は、川上からの進入によってそれを少しでも吸収しようとした。
「衝撃に備えろ」というアナウンスを受けた乗客たちは冷静に行動し、徐々に機内の水位が上がってくる中、女性と子供を優先的に非難させた。
 そして、氷点下六度、水没まで一時間あるかなしかというギリギリの状況下、全員が救助された。  一人の犠牲者も出なかったことは「奇跡」と称された。

 しかし、機長の判断や技術の確かさ、また、乗客・乗務員の公徳心もさることながら、永く記憶に留めるべきできごとは、むしろ、墜落後に見られた機長のふるまいである。
 新聞記事によれば、彼は、「最後に機内を二往復し人が残っていないことを確認後、自らも避難」したという。
 そして、救出直後、厳寒の中にあって救助された誰もが毛布を求め、濡れた身体を暖めようとしていた時、彼は、毛布すらまとうことなく毅然として当局者などの聴取に応じていた。
 一週間経っても、機長のコメントはいっさい報道されていない。
 航空機事故の調査を行う米運輸安全委員会(NTSB)の聴取に応じており、近づこうとするマスコミ関係者は、警備員に「NO CHANCE!」とはねつけられているからである。
 関係者から漏れ伝わっているのは、二つのエピソードしかない。
 現場で「急いでやらなくてはならないことの一つは、妻に電話して今日は夕飯はいらないと断ることだ」とゆとりある受け答えをしていたこと、
 また、不時着水については「訓練してきたことをやっただけ。自慢も感動もない」と述べていることである。
 いずれにせよ、危機的状況にあって最後まで機内確認を行ったことは特筆に値する。
 彼は、「空軍士官学校で最も優秀なパイロットの一人に選ばれ」、「非常事態に対応するため心理学を学び、米運輸安全委員会(NTSB)の研究会にも参加した」逸材であるが、そういう優秀さとは別次元の凄味を持っている。

 かつて、日本海軍では艦長が軍艦と運命を共にした、あるいは共にしようとしたことを思い出す。
 連合艦隊司令長官山本五十六は、ミッドウェー海戦で沈没した空母飛竜と運命を共にした艦長加来大佐と司令山口少将を称えつつ、率直に胸の裡を語っている。
「大和であれ武蔵であれ、五~六年もあれば建造できるが、大佐や少将クラスの指揮官を養成するには二十年かかる。
 アメリカとの戦争は長期戦になるのだから、有能な司令官はとても貴重だ。鑑と一緒に死んでは能力を発揮できないではないか」
 戦意高揚をはかる報道によって一般国民は艦長の最期に涙したが、山本五十六の考え方は勝利を目ざす者としてまったく正しい。
 おそらく、チェスリー・サレンバーガー機長も現場の危険性について冷静に判断した上で、使命を果たしたのだろう。
 確かな判断力に支えられた責任感オバマ大統領の就任演説を支えたキーワードである!)がもたらした〈当然の〉行為であり「自慢も感動もない」は真実だろう。
 それにしても、未曾有の危機にあるアメリカでオバマ大統領とサレンバーガー機長が彗星のごとく登場したのは、み仏のご加護ではなかろうか。
 二つの衝撃が政治に利用されるポピュリズムや安っぽいヒロイズムを喚起するのでなく、世界中の人々が夢を持ち、理想の人間像を考えるきっかけになれば、世界は危機から急回復できるかも知れない。
 この時代に現れたこの二人は、永く語り伝えられることだろう。
2009
01.22

1月の俳句 2

足音も立てず来るもの


 いは、人生の経過を忘れている人々へ背後から忍びより、は、秋の深まりに続いて密かに浸透してくる。
 いずれも足音を立てはしないが有無を言わさず、それはの影をまとっており、逃れられる人はいない。
 輪廻転生四季の移り変わりは同じである。

シャキシャキと白菜漬のつかり頃


 の空気と水の冷たさは、心身を縮こまらせる一方で、背骨を伸ばさせるような強い清らかさも持っている。
 白菜の「シャキシャキ」にはその気配が隠っている。
 江戸に住んだ作者の気概すら感じさせる。
 五・七・五は短いがゆえに想像力をかきたててやまない。

優しさの言葉が欲しい寒のバラ


 バラの鮮やかな紅色は寒い季節こそ際だつ。
 いのちの有りったけを色という粒子に乗せ、電磁波のようにふりまいている姿はいじらし過ぎ、「お前さんよ」と声をかけたくなる。
 ふり返って思う。
「私だって………」

2009
01.22

1月の俳句 1

 1月は睦月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

ピーと鳴る薬缶(ヤカン)に走るお元日


 缶はそもそも水を汲むための器であり、ヤカンは薬を煮出す道具だった。
 元旦にヤカンとくれば、初釜の心で年の初めを祝って飲むお茶が連想される。
「あっ、沸いた」。
 期待に続いて、お茶の香りとおいしさを先取りする
 小さな喜びが起こる。
「走る」のである。

ひたひたと身ぬちを染めて初茜


「身ぬち」は身内である。
初茜」は、元日の払暁、東の空があかね色に染まることである。
 ご来迎を待っている作者の眼前に広がっていた暗い空が徐々に明るくなり、雲たちが茜色をまとい、形を見せ始める。
 その色はひたひたと心をも染め、嬉しいものが兆す。

おほよそは良き年なり葛湯吹く


「どんな年になるのかなあ」と待っていた新年が、いざ、やって来てみると、何というほどもなく平穏な日常が続いている。
 葛湯の甘さと温かさが、作者に静かな安心を教える。
「吹く」一息一息が、その確認作業となっているのだろう。
 人生の達人と言いたい。

足を知る小さき幸せ福寿草


 福寿草は、冷気を透過して届く日光を浴びて健気に咲く。
 いのちの結晶が輝くさまは、神々しい。
 その神聖で絶対的な完結性と対峙している作者の心に、自分のいのちを小さきものと感じる謙虚さが起こる。
 控えめにしっかり生きている者同士の共鳴がある。

硯海(ケンカイ)に墨汁みたし筆はじめ


硯海」とは、墨汁を溜めておくために池のようになった部分である。
 東洋人は、大きな庭にも、小さな盆栽や道具にも無窮の天地自然を感じ、表現しようとする。
「海」と命名されたことによって、その一滴は広大な世界を孕み、筆先を通じて無限の創造をもたらす。

晩学のあせり冬日のやはらかさ


 深く学べば学ぶほど、新たなゴールが遠くに姿を顕す。
 探求する者に最終的なゴールはない。
 この世で到達できない地点は、あの世で目ざすまでである。
 菩薩道を歩む仏法の行者とまったく同じである。
 暖かく柔らかな冬の陽光が、峻烈な思いを慰撫してくれる。
2009
01.21

春祭厄除千枚護摩供養会

 1日には24時間のリズムがあり、1カ月には30日のリズムがあり、1年には四季のリズムがあるように、人間の一生にも九年を周期として寄せては返す波のようなリズムがあり、厄年などはすべてこの理によって決まっています。
 人間の1年の運勢(リズム)は、立春から変わります。
 運勢を知るのは道しるべを見るようなもので、走行中「制限時速100km」とあれば安心してスピードを出せるし、「この先突風」とあればより気をつけて運転し事故を防ぐことができるのと同じく、運勢に合った生き方をすれば、難を逃れ、福を招くことができます。
 1年1年と、その歳にご縁となる守本尊様も変わりますので、吉凶それぞれにお守りくださる守本尊様をご供養され、運勢に応じた御加護を受けられてはいかがでしょうか。
 運気の強い方は、確実に追い風をいただいて、より早く善願が成就されますよう、運気の弱い方は、天魔などを祓って無事安全に過ごし、善願をきちんと成就されますよう、当山では、立春を迎えるに際し、千枚の護摩木を焚いて守本尊様をご供養し、御加護をいただいています。
『千』という数字は、仏教においては無限を意味します。無限のまごころを捧げて守本尊様をご供養し、自分の努力と周囲の縁の力に加えて仏神のご加護もいただき、運勢を活かして運命を切り拓くために万全を期されますよう、ご案内申し上げます。

※平成19年2月1日(日)午前9時より厳修します。
※祈願を申し込まれた方は、総本山開悟峯寺の『星祭』でも厄除け祈祷拝受となり、当山経由で祈祷札と御守が送られます。
※ご参詣できない方へは、祈祷札・御守などをお送りいたします。
※申し込みはメールやファクスでもけっこうです。住所・氏名・生年月日をお示しください。 
※ご祈祷には時間がかかりますので、途中からお詣りされても、途中で帰られても結構です。聖なる護摩の火に身を近づけ、一層のご利益をいただいてください。

数えの年齢によって、一年間を守ってくださる守本尊様が決まっています。

地蔵菩薩様  1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100
阿弥陀如来様 2・11・20・29・38・47・56・65・74・83・92・101
不動明王様  3・12・21・30・39・48・57・66・75・84・93・102
虚空蔵菩薩様 4・13・22・31・40・49・58・67・76・85・94・103
勢至菩薩様  5・14・23・32・41・50・59・68・77・86・95・104
千手観音様  6・15・24・33・42・51・60・69・78・87・96・105
大日如来様  7・16・25・34・43・52・61・70・79・88・97・106
文殊菩薩様  8・17・26・35・44・53・62・71・80・89・98・107
普賢菩薩様  9・18・27・36・45・54・63・72・81・90・99・108

 
○一白生まれの方は、阿弥陀如来様のご加護で、積徳による幸福の種まきと開運の年を、慌てず無事安全に過ごしましょう。
○二黒生まれの方は、不動明王様のご加護で、質素倹約を忘れず、歓喜と散財の交差する年を無事安全に過ごしましょう。
○三碧生まれの方は、虚空蔵菩薩様のご加護で、運命が転化し悲運の部分は大きく打開できる年を無事安全に過ごしましょう。
○四緑生まれの方は、勢至菩薩様のご加護で、心の鏡を清浄にして虚実を見誤らず、前厄ながら積徳積善が開花する年を無事安全に過ごしましょう。
○五黄生まれの方は、千手観音様のご加護で、真の指導者や友人や伴侶などを得、本厄年を無事安全に過ごしましょう。
○六白生まれの方は、大日如来様のご加護で、後厄なれど心身を暖め励ます陽光のありがたさを実感できる一陽来復の年を無事安全に過ごしましょう。
○七赤生まれの方は、文殊菩薩様のご加護で、善悪を見誤らず、仮の縁が多く虚実の判断が迫られる一年を無事安全に乗り越えましょう。
○八白生まれの方は、普賢菩薩様のご加護で、良縁が多く善願が花開く年を無事安全に乗り越えましょう。
○九紫生まれの方は、地蔵菩薩様のご加護で、八方塞がりながら、天地が通開している年を無事安全に過ごしましょう。

 皆さんの開運を祈っています。
2009
01.21

ほめる 11

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋である。
 このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださった。
 感謝してやまない。
 勉強会などを通じてご縁の方々へ紹介しており、寺子屋で参考にさせていただく予定である。

四年 T・O

 このあいだ、歯医者に行きました。
 わたしが、バスに乗ってから少したって、おばあさんが、乗りました。
 バスが止まるたんびに、おばあさんが、よろよろとなるので、わたしは、おばあさんとかわってあげようと思いました。
 そして、「おばあさん、ここにすわったらどうですか」というと、おばあさんが、「いいんですか?」といいました。
 わたしは、「いいです」というと、おばあさんは、「ありがとう」といってすわりました。
 おばあさんのうれしそうな顔を見たら、わたしもうれしくなりました。

                ◆

智鶴さん、
 すばらしいほめほめを書いてくれましたね。
 さすが、ほめほめの学校の子どもだと、校長先生は、とってもうれしく思ったよ。
「バスが止まるたびに、おばあさんが、よろよろとなる」と書いていましたね。
 ほんとうに、おきのどくなおばあさん。
 よくかわってあげましたね。
 みなさんからくる、ほめほめのお手紙にも、バスの中のことが、たくさんありますが、たいてい、よその人が、お席をゆずってあげたので、こんどから自分もそのようにしたいというのや、かわってあげようと思ったけどはずしくて、できなかったというのが、とっても多いですね。
 学校の目あての一つ「やさしい子」というのは、強い心で実行しないと、やくにたちません。
 そのためには、どのように言ってあげたらよいか、考えることがたいせつですね。
 そうした、強い子、やさしい子、考える子の三つをバスの中で実行してくれて、とってもうれしく思いました。

        ◆     ◆     ◆

五年 M、F、N

 きょう、お手洗いにいたら、下級生がたくさん来たので、わたしたちは、「先に行ってもいいよ」といってあげました。
 わたしたちは、とても気持ちがよかったです。
 これからもたくさんいいことをしようと思います。

               ◆

 三人連名のほめほめでしたね。
「仲よし三人組といったところかな」
 去年の暮れに生まれた、ほめほめの運動をしっかりがんばって、「ほめほめ三人組」になってくれないかな。
 きょうのほめほめは、お手洗いに行って、下級生に順番をゆずってあげたという内容のものでしたね。
 近頃では、世の中がいそがしくなって、自分さえよければそれでよいといった、早いもの勝ちのくせがついてきたようで、校長先生はとっても残念に思っています。
 自分がすわりたいばっかりに、人をおしのけてバスに乗ろうとしたり、お年寄りや、からだの不自由な人が困っていても、しらん顔で、電車の窓から外をながめていたりする人をよく見かけます。
 こんな若者や大人になってほしくないと思ってはじめたのが「ほめほめの窓口」です。
 きょうの「ゆずる心」をたいせつなものとして、ほめほめの若木を大きく育ててほしいと思います。


 乗り物の席を譲るのは、六波羅密(ロッパラミツ)行の典型と言える。
 見返りを求めず、ゆったり過ごせる場所を他へ与えるのは、床座施(ショウザセ)という言葉があるとおり「布施行」である。
 自分だけが楽をしたいという煩悩を抑えるのは「持戒行」である。
 他のためになろうと、立って疲れる状況に耐えるのは「忍辱行」である。
 時に応じてこうした善行を続けるのは「精進行」である。
 常々、心身の状態を調えておき、いざという場合に迷わず善行を実践し、淡々としているのは「禅定行」である。
 大変だろうなあと思う慈悲心から、当然のように席を譲るという判断を下すのは「智慧行」である。

 また、譲ることは和の原点であり、譲る清々しさを子供のうちから体感させる教育は、自己中心の気まま心を克服させるにちがいない。
 家庭であれ、学校であれ、職場であれ、あるいは国であれ国際社会であれ、人間の平和な共存は譲り合いによってしかもたらされない。
 それは、特に、強者へ対して強く求められる。
 万物流転、諸行無常の世にあって、いかなる強者も永遠に強者であり続けることはできない。
 たまたま「譲ることのできる存在」であるたった今、善行を為しておかねば、いつ善行ができるか判らず、「今、行わない」という怠慢は、福徳がもたらされるチャンスを逃してしまう。
 それは、人間関係と社会を潤いなく乾いたものにする悪行である。
「譲られるべき立場である存在」こそ、譲る人間へ福徳をもたらす幸せの源泉であり、それを「福田(フクデン)」という。
 だから、布施は、受ける方も、施す方も等しく感謝するのである。

 校長先生の「強い心で実行しないと、やくにたちません」は善行への力強い後押しである。
 きっと、「強い子、やさしい子、考える子」が輩出したことだろう。
2009
01.20

ひとつぶ堂

 独特のパン工房がオープンしました。
ひとつぶ堂」さんです。
 まず、ホッとし、次に、なぜか元気が出ること受けあいです。
 特に、予約を受けてから作る特性シュトーレンの香ばしさと硬軟ほどほどの舌触りと深い味わい、加えて、食べた後に長く続く幸福感は例えようがありません。
 ぜひ、おでかけください。

〒989-6436
宮城県大崎市岩出山字ニノ構169-1
TEL&FAX 0229-72-2662
open10:30~18:00
close 火・金
http://hitotsubu-do.petit.cc/

 オープン前の忙しい時に訪問し、勝手に写真を撮ってしまいました。

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2009
01.20

飛ぶ

 信徒Sさんの投稿です。

 最近スランプ状態に陥ってしまったので、昔描いた線画に色を塗ってみました。
 テーマは「飛ぶ」です。
 学校の授業で、貧しい人が世界にどれくらいいるのかを勉強し、考えさせられました。
 どんな人でも人間は平等です。
 平和を願ってこのイラストを描きました。
 皆、に向かって羽ばたけるよう、私は小さな胸で祈っています。



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2009
01.19

お授け 1

 当山では、例祭の最初に「お授け」を行っています。
 これは、祈りに先んじて自分を清め、み仏へ帰依する姿勢を明確にすることによって、み仏への供養とみ仏からいただく心願へご加護を確かなものにするめの大切な修法です。
 形は単純であり、導師が唱える言葉をなぞり至心に唱えるだけです。

1 懺悔(サンゲモン)

「我昔所造諸悪業 (ガシャクショゾウショアクゴウ)
 皆由無始貪瞋痴 (カイユムシトンジンチ)
 従身語意之所生 (ジュウシンゴイシショショウ)
 一切我今皆懺悔 (イッサイガコンカイサンゲ)」


(無始よりこのかた貪瞋痴煩悩にまつわれて身と口と心とにつくるところのもろもろの罪科を、皆ことごとく懺悔したてまつる)

 懺悔なくして祈りは始まりません。
 いのちも心も〈いつ始まったか〉は判りませんが、親がありご先祖様方があってこそ自分へバトンタッチされたことは確かです。
 無始と表現されるほど遠い過去から現在までの道のりの途中で、さまざまな善行と悪行を積み重ねてきたこともまた、確かです。
 それは、数十年という短い人生をふり返ってみただけで、すぐに理解できます。
 そうである以上、至高至尊の存在であるみ仏の前へ出る時、悪行による汚れを意識し、悔い改めずにはいられません。
 これは、現前のみ仏を通して自分の心の奥におられるみ仏の心を輝かす唯一の方法でもあります。
(密教の瞑想には、実際にみ仏を自分の心中へお招きし、字通り一体となる「入我我入観(ニュウガガニュウカン)があります)
 み仏は、深い懺悔へ必ず救いの手をさしのべて浄化され、悔い改めて二度と同じ過ちを犯さなければ、ついには無明煩悩そのものを滅するところまで到達することも可能です。
 
 身体と口と心のはたらきを行(ギョウ)といいます。
 行はマナ識という潜在意識へ蓄えられて精神を動かし運勢を創る潜在的な力となります。
 それを業といいます。
 この世で人生と運命を創って役割を終えた業は、アラヤ識という深層意識を通じて次の世へと受け継がれ、特定の人格を形成します。
 私たちはすべて、無始の過去から積み重ねられた善業と悪業を背負ったまったく独自の存在です。
 同じ業はあり得ないので、同じ人格もあり得ません。

 一方、私たちはみ仏の子でありながら、「自分が生き永らえたい」という根元的な欲求を持っているので、そこに現れる我(ガ)が心へ強い影響力を発揮します。
 それが智慧の方面にはたらけば、み仏の智慧の明かりが出ない無明となり、意欲は、行いを誤らせる煩悩となって暴れます。
 歯止めのきかない貪り、驕り高ぶって発する瞋(イカ)り、身勝手な考えを持つ痴(オロ)かさは、自他を傷つける諸刃の剣です。

 こうした自分を認識し、ありとあらゆる罪科を深く深くみ仏へ懺悔するのが懺悔です。
 腹の底から「我昔所造諸悪業」と唱える時、私たちはみ仏が約束される浄化の世界の扉を開け、一歩入ることができるのです。
2009
01.18

うつ病を克服する

 三年前、妻がうつ病に罹り、2ヶ月後の不動明王のご縁日に奇跡的な回復をした。
 ほとんど口をきけず、一人でトイレにも行けないほど抜け殻同様になっていた重病人が、突然、受話器を取り、以前と変わらぬ声で応答したのである。
 その瞬間から、日常生活は以前に戻った。
 あの頃の妻は、荒野の一本道をスポーツ車に乗って突っ走る夫を、自転車で追っていた。
 懸命にペダルをこいでいた狭い道へ、身近な人間が小さくない石ころを投げ入れたからたまらない。
 もともと不器用な妻が転倒したのは当然である。
 石ころ事件は直接的原因であり、無理に自転車をこがせていたことが間接的原因だった。
 自分でつくった因縁を解くために入院の勧めを断った。
 夜中に炊事も洗濯も行い法務と看護を平行させて病魔にうち克ったが、それに関わった自力など爪の先ほどのこともない。
 不動明王のご加護である。

 昨年末、再発したのは、自分の役割を見失ったからである。
 誠実で有能な二人の信徒さんが弟子となり、法務を手伝ってくださることになった。
 私はもちろん妻も心から感謝し、喜々として次のステップを目指していた。
 妻はそこで舞い上がっているうちに、また、順調にスピードを上げている夫と弟子たちに自分は追いついて行けないと感じ始めた。
 ハイテンションの反動としてやってきた疲労感に目的喪失感が加わり、本堂で寝起きする状況が引き金となって、再び、深く落ち込んだ。

 今度は私一人で対処できる環境になく、年末年始を乗り切るためにも妻を入院させた。
 医療はプロである医師へ任せ、私は密かに目標を定め、願をかけた。
 妻に〈自分は不必要な人間ではない〉と自覚させようとしたのである。
 法務のあらかたは若い方々へバトンタッチできるとしても、夫の妻である役割は誰にも代わってもらえない。
 もちろん、身の回りの世話などを押しつけようというのではなく、〈妻として存在している〉重みそのものを思い出させようとした。
 人生相談に来山される方の中には、その存在感に耐えられず参ってしまったケースもあるが、妻の場合はこれが決め手になると確信した。
 またしても、自分でつくった因縁を解く行が始まった。
 一日も空けず妻の顔を見にでかけた。

 大日如来縁日である8日、密やかな声で雑談する妻の頬に春風が兆し、目に見えぬ蝶が舞った。
 病院の玄関口で主治医とバッタリ出会った。
「奥さん、初めて笑いましたね。
 主人は私がいないとだめなんですと言うので、そんなことはないでしょうと茶化しておきましたよ」
 同年配の彼は同志のような笑顔を見せ、斜め後から肩を叩いた。
 意図を見抜かれた。
 さすが、評判に違わぬ名医である。
 克ったという実感と医師への感謝が腹の底からせり上がり、小さく「ありがとうございました」と言うのが精一杯だった。

 回復の複線は、面影加持にある。
 遠隔加持法を修する場合、顔を知っている相手なら、その面影へ法力をつなぐのである。
 この法を続けているうちに、私は結婚して以来、初めて妻へ真のをした。
 病院にいる妻の一挙手一投足が、感じ取られるようになった。
 フッと法を結べば、寝ている姿が観想に浮かび、食事している姿が浮かぶ。
 見合いをした瞬間に「この娘は私が救わねばならない」と直感し、決して別れない覚悟を決めて結婚して以来、もちろん好きだったのだが、これほど深く〈つながった〉ことはない。
 種々解智力(シュジュゲチリキ…意欲の源を観る力)を司る胎蔵界の大日如来は、色情因縁と格闘したこともある行者へ、あまりにも粋なご褒美をくださった。

 虚空蔵菩薩の初縁日となる13日、妻は言った。
「私、嫌なことはなるべく考えないようにしているの」
 二度目の危機は去りつつある。
 守本尊様のご加護は確かである。
2009
01.17

四国遍路 16

【第13番 大栗山(ダイリツザン)大日寺】
  本尊:十一面観音様
  御詠歌:阿波国(アワノクニ) 一宮(イチノミヤ)とや ゆうだすき かけてたのめや この世のちの世

 本堂入り口の天女・鳥・獅子・龍の彫り物、大師堂の龍・獅子、いずれも見とれてしまう。
 本堂横の子安地蔵様は古いお堂の中で金襴緞子(キンランドンス)の衣をまとい、千羽鶴などに囲まれている。
 冥々たる過去からつながっている信仰を想う。
 一方、斬新なものもある。
 手のひらに入った幸せ観音様の解りやすい優しさ、倶利伽羅龍王(クリカラリュウオウ)とそれを囲む七福神のユニークさ、お地蔵様と並んでいる十八体の稚児たち(背中に空華孩児とある)の安らかさは、万人へ訴えるものがある。
 お不動様の力をいただいて黒龍の強大な力を用いる修法が行われているうちに、黒龍自体がお不動様の化身として崇められるようになったのが倶利伽羅龍王である。
 稚児は、水子たちであろう。
 本堂のすぐ横の、手が届く位置にビンズル尊者がおられる。
 このあたりにビンズル様のお像が多いのはなぜなのだろう。
 ビンズル様が赤い顔をしておられるのは、空中浮遊などの神通力にばかり頼っていて、釈尊に叱られたせいだというから面白い。
 十六羅漢としてある程度の悟りは得たが、釈尊の指示によって、涅槃へ入らず、この世で人々の供養を受けることによって福田(フクデン)となっている。
 福田とは、人々が福の種を蒔く場であり、徳積みの機会を提供するものである。
 元々は仏法僧の三宝を福田と称したが、いろいろな福田が現れた。
 たとえば「敬田」は、尊敬することが徳積みとなる対象で、寺院や僧侶を指す。
恩田」は、父母や師など、恩に感謝し報いることによって徳積みとなる対象である。
悲田」は、病人や貧者や老人など、憐れみ、情けをかけることによって徳積みができる対象である。
 ビンズルとは不動の意味であり、一旦、人々のそばで座ったビンズル様は、ずっと拝まれ、撫でられつつ私たちに徳積みをさせてくださるのである。

 それにしても、福田思想は究極の救済法を持っているのではなかろうか。
 飢えた人がいて、一方に施せる人がいるとする。
 飢えた人は施しによって救われ、施す人は、持ちものを我がためという我欲でなく、布施行として消費することによって煩悩を離れ、救われる。
 飢えた人が福田であるからこそ、相手を下に見る蔑みを伴わず、感謝をもって布施を行えるのである。
 世に救われない人はいない。

 ここには身近で、素朴で、確かな信仰が息づいている。
 ありがたい。
2009
01.16

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 25 ―み仏のお姿─

 1月14日は今年最初の講義となりました。
法句経』は悟りを開いてみ仏となったありようを描く「述仏品(ジュブツボン)」です。

已(スデ)に勝ちて悪を受けず、一切、世間に勝つ、叡智は廓(カク)として疆(キワマ)り無く、曚を開いて道に入らしむ。


(悟った者は煩悩にうち克っており、悪に汚されず、一切の世間的なものに惑わされない。
 叡智は無限に広く、無明を脱して仏道へと導く)

 真の勇者とは千万の敵に勝利する者でなく、己の煩悩を克服した者であると、各所で説かれています。
 身体を持った生きもののうち、人間だけが大脳新皮質という高度な脳を使うようになったばかりに、生きようとする盲目的な意志に加えて自分を主として周囲の情報へ対応する無限の意欲を持ってしまい、他の生きものにない煩悩が生まれました。
 宇宙の真理を直覚できる霊性をきちんとはたらかせてみ仏の子らしく生きるためには、意欲の質を変えねばなりません。
 真の勇者と形容されるみ仏は、それを成就した存在であり、覚者とも呼ばれます。

「悪を受けず世間に勝つ」とは、煩悩という悪を流れ出させる泉がなくなっているので、自分から悪を発して他を傷つけ、その因縁によって自分も悪しき業苦に苦しむことはないばかりではありません。
 他からやってくる悪行への反応にも煩悩が影響しないので、自分が傷つかないのはもちろん、悪行をぶつけてくる相手が因果応報によって受けざるを得ない苦しみすら溶かし、救うのです。
 そして、世間的な苦として最も辛い〈死〉すら、覚者を苦しめることはできません。
 なぜなら、六道輪廻の原因を滅しており、地獄界や餓鬼界に堕ちる恐怖はないからです。
 無常を深く悟れば、我が身に迫る死は、もはや死に神ではなく、最大の悪魔がどこにもいないのは言うまでもありません。

 心にある苦の種を滅し、生死の真理を悟ってしまえば、この世は無限の広さを持つことでしょう。
 そして、智慧の明かりがない状態である〈無明〉の闇を祓い去った覚者は、どこへ行っても自ずから発する智慧の明かりで縁となる人々を救ったことでしょう。
 応身仏(オウジンブツ…この世で肉体を持つみ仏)となって行脚(アンギャ)している釈尊とお大師様は、永遠の憧れです。
2009
01.15

悪魔はいるか 1

 悪魔の力を使えるAさんに良い運気を吸い取られたというBさんが人生相談に来られました。
 自分だけでなく、周囲の人々もいろいろやられましたと涙ながらに訴えられます。
「こんなに人を苦しめる魔力って何なのでしょう。
 Aさんは本当に悪魔なのでしょうか?」
 お答えしました。
悪魔はいません。
 悪しき迷いの心、つまり煩悩があるだけです。
 自分に魔力があるとうそぶいている人は、『自分は煩悩の塊である』と告白しているのと同じで、恥を知らず、実に哀れなことです。
 ただし、人は皆、み仏の子なので、短所と共に必ず長所を持っています。
 問題は、その長所が他人の煩悩を上手に刺激し、惹きつける力を持っている場合があるという点です。
 とても尊敬に値しないと思われる人々もマスコミの寵児になっているのは、視聴率を上げるためにその能力を利用されており、視聴者が煩悩をくすぐられているからです」

 ネコであれ、イネであれ、人間であれ、いのちあるものは、いのちのある有機物といのちのない無機物と両方との関係において生かされている存在です。
 関係が生存に都合良くバランスがとれていれば生きられるし、バランスが崩れればいのちは聞きにさらされます。
 たとえば気象が荒れて極寒の冬になったり灼熱の夏になったり、あるいは水や食料が不足したりすれば大変です。
 そうした存在のありようはネコもイネも人間も同じであり、いのちに差別や上下をつけることはできません。
 仏法は特にこの観点を大切にし、密教においては、「有機物も無機物もすべて〈み仏のいのち〉のダイナミックに表現しており、み仏の眼になってこの世の真姿を眺めればありとあらゆるものがみ仏であることが解る」と説きます。
 それを「草木国土悉皆成仏(ソウモクコクドシツカイジョウブツ…草も木も山も川もすべてがみ仏のお身体に成っている)」と称します。
 成仏とは、一般的なレベルでの善悪を超えたいわば絶対善として存在していることです。
 ありとあらゆるものが、み仏のお身体の一部である以上、悪はどこにもありません。
 密教は直接このレベルの世界へ入ろうとするものであり、即身成仏(ソクシンジョウブツ)がその方法です。

 では、なぜ煩悩があり、人間は悪行をなすのでしょうか。
2009
01.13

「厄年の過ごし方」講演会

みやぎシルバーネット」さんのイベントで、「厄年の過ごし方」についての講演と質疑応答の機会を設けていただきました。
 質問は厄年に限りません。
 当日は、当山にて厄払い千枚護摩法を行う日であり、修法後ただちにかけつけます。
 どうぞふるっておでかけください。

日時:2月1日(日)  14時45分~15時45分
場所:エル・パーク仙台5Fセミナーホール①
費用:無し
2009
01.13

ガザ地区の戦争について

 ガザ地区におけるイスラエルとパレスチナの戦争について「仏教団体の判断はどうなっているのか?」という質問がありました。
 答えはただ一つです。
「強い者が譲歩して打開を図るべきである」
 イスラエルに自制を求める以外、結果的にガザの住民が虐殺されることは防げません。
 もちろん、形は戦争であってこのまま進めばイスラエル側にも死傷者が続出するでしょうが、戦力的には大人と子どもの戦いであり、事態を全体的にとらえれば、虐殺が行われているのは明らかです。
 それは、大学生と小学生が言い争いから取っ組み合いに発展し、大学生が何度も何度も小学生を突き飛ばしたり叩きつけたりしたなら児童虐待になるのと同じです。

 いつの世も、社会に正義が実現するには、与えることのできる人が与えられるべき人を救う以外、方法はありません。
無名塾」を主催している仲代達也氏が、朝日新聞の1月4日号にこんなことを書いていました。
「いよいよ苦しくなったら、私なら出演料を裏方も俳優もみんな均一にする、または全員に出演料が出るような芝居を企画する。小さい組織だが経営者とはそういうものではないか」
「人間、太陽があるかぎり生きていける。うろたえてはいけない」
 
 10数年前になりますが、天候不順や台風などの影響で農家がピンチに陥ったおり、農家出身の社員を多数抱えている建築会社のO社長が、内部留保を取り崩して社員たちへ配り、しかも、実家の手伝いをするための休暇も認めるという大英断をくだしました。
 環境と経済事情の悪化は当然、受注にもひびくはずです。
 しかも、一代で築いた会社が次のステップを視野に入れていた時期です。
 ここで数千万円を使ってしまえば、予定は大幅に遅れることでしょう。
 川沿いの小さな町の社長室でお会いした小柄なO社長は、こうした重大事をこともなげに、笑顔で語ってくれました。

 社会が潤いのあるものになるためには、皆が利他の心にならねばなりません。
 それは、結果として、余力のある人が困っている人を救うことになりますが、だからといって人間に上下関係があるわけではなく、その時点ではたまたまそうであるというだけのことに過ぎません。
「平家物語」を読むまでもなく栄枯盛衰、有為転変の無常は明らかです。
 無常を生きる私たちの確かな幸せは利他の心から生じ、互いの苦は自己中心我欲から生じます。
 国家の運営は人間が行うものであり、国際社会に正義を実現する方法は、人間と人間との間における方法と変わりありません。
 我欲我欲がぶつかって地獄になったなら、まず、より影響力の大きな我欲を抑制する以外、方法はありましょうか。
2009
01.12

四国遍路 15

〈第三日目 10月8日〉

 今日は霜降(ソウコウ)である。
 朝の修法で、いつものようにご縁の方々の除災招福を祈る。

 この巡拝では、ガイドブック以外一冊の本も持参していない。
 資料を読みながら書いている時とはまったく異なるスピードでメモが進む。
 もちろん、限られた時間でしか書けないのだから当然ではある。
 しかし、養分を摂る根と表現する花のように、読むことと書くこととは、役割がはっきり別れているからなのだろう。
 友人の小説家は一日を区切っているのだという。
「朝の暗いうちに起きて散歩しから、午前中は一気に書く。
 午後から夜にかけては、資料を読んだり人と会ったりして仕入れをするんだ」

 朝一番に、師から指示があった。
「家族のような心で、先のことを心配せず、流れに逆らわず、水の心でやりましょう」
 26人もの団体になると、マイクで誰かが話していても自分勝手におしゃべりをする方や、お土産物売り場を通ると必ず立ち止まらないではいられない方など、様々なタイプの人がおられる。
 しかし、同じ目的を持ち一緒に行動する同志は、自分の好みにとわられず互いに助け合い、共に願いを成就できるよう務めねばならない。
 我一人のための行であってはならない。
 大きな船に乗り合わせた大乗仏教を信ずる者としての行動でなければ、修行になりはしない。
 修行とは心の訓練であり、訓練とは、正しいと判断し信じた方向へ向かってはたらくように心を練り、慣れさせることである。
 理解と信心とによってつくられた明確なイメージを持ち、それを保持し、自分を無にしてそこへ投げ入れねばならない。
 伝授によって植え付けられる戒体イメージとなって結晶し、扇子の要となる。
 即身成仏の「仏」は、イメージなきところに顕現されはしない。
 教団の規律を厳しく説かれた釈尊のお心を忖度し、戒めとしたい。
2009
01.11

第十回、映画「チベット チベット」を観る会が終わりました

 今年最初の上映会が終わりました。
 10年前の同じ映画を何回観てもその都度、新しい発見があり、起こっている悲劇の重みはより強く胸に迫ります。
 質疑応答で、「現在の中国政府を牛耳っている人間が起こした問題だから、体制が変わらない限りどうしようもないのではないか」というご意見がありました。
 権力を握っている人間が「自分の施策に誤りがありました」と認めるなど、日本の現状を考えるまでもかく、期待できないのは確かです。
 しかし、北朝鮮の拉致問題も、関係者やごく一部の誠意ある政治家のねばり強い努力が世論を喚起し、国際与論を動かすに至ってようやくここまで来ました。
「見捨てておけない」と考える人々の力が独裁国の扉を開かせつつあります。
 一国の文化と血を消滅させるという、現代社会において考えられない蛮行は、現代に生きる私たちへ「見捨てる人」になるのかどうかを厳しく問いかけています。
 ネパールの厳しい環境でチベット亡命者たちのケアに従事する女性責任者の悲痛な願いは、観た人の心から去りません。
「私たちは、援助を受けるよりも、この事実を世界中の皆さんに知っていただきたいのです」
 彼女は、人々は知ればきっと見捨てないであろうと、私たちを信じ、一縷の望みを託しています。
 私たちは、仏神から人間性の如何を問われているのかも知れません。

 今回は、「仏法における怨みや怒りを克服する方法」についてのお話も申し上げました。
 次回もテーマを設けて仏法に関するお話をしたいと考えています。
 2月7日(土)の上映会への参加をお待ちしています。
2009
01.10

怨みをなくす 怒りをなくす

 誰かの裏切りによって憎しみが発生し、苛まれる場合を想定してみましょう。
「自分を害した憎い相手を許せるか」「憎悪という泥沼からどのようにして抜け出すか」は重大な問題です。
 一旦生じたら最後、それは、突然、何の前触れもなく頭を占領し、何度でも胸へ黒雲を広がらせます。
 そして、彼の裏切りによって自分へもたらされた不幸を何度も何度も確認します。
 多くの場合は、いかなる感情も時の経過と共に薄れますが、人の気性によっては思い出すたびに増幅し、遂には取り返しのつかない行為へと駆り立てる場合すらあります。

 さて、仏法に基づいて怨み怒りなくす方法克服法)を考えましょう。

〈根本原因を探求する〉
1 私の憎悪は彼の裏切りによってもたらされたと認識するならば、その第一原因は彼の裏切りにあり、彼に裏切りという卑劣な行為をさせたのは彼の心にある煩悩です。
 煩悩無明(根本的な智慧の明かりが無い状態)を生きる私たちすべてが共有しているものであり、煩悩によって善からぬことを「やらかしてしまう」のは万人の宿命です。
 我が身をふり返って観れば、自分の得を優先して結果的に誰かに損をさせたり、自分の好みによる言動が周囲の誰かを不快にさせたりといった煩悩による悪業を積んでいることが実感されるはずです。
 人間が生きものである以上、常に我がいのちを最優先しないではいられない無明を抱えているので、それをどうにかして解消しようと努力しない限り、欲が煩悩となってはたらくことを避けるのは困難なのです。
 つまり、彼の裏切りは、万人の共有する黒雲がたまたま彼の心を厚く覆ってそのようにし向けただけのことです。

2 だから、彼個人を相手にするのは問題の根本的な解決法ではありません。
 裏切りという行為によって見せつけられた煩悩をこそ相手にすべきであり、畢竟、自分の煩悩に向かい合いことが求められます。
 こうした思考を深めると、必ず、「彼」個人の憎き面影は薄れて行きます。

3 さらに時が経つと、「ものごとには因と縁がある。彼をあれほど卑屈にさせたものは何だったのだろう。彼も哀れな人間なのだ」と考える余裕ができ、こうなればもう、大丈夫です。

憎悪のありかを観る〉
1 釈尊は、面前で悪口を言う相手へ尋ねました。
「貴方は贈り物を持って訪れた相手が受け取らなかったらどうしますか?」
 持ち帰ると答えた愚者へ諭しました。
「私もそれと同じく貴方の悪口を受け取りません。貴方は悪口という悪業を持ち帰り、その悪果を自分で引き受けるしかないのです」
 この教えに学べば、裏切られた自分が相手を憎悪するとは、裏切りという贈り物へ憎悪というお返しをしていることになります。
 もちろん、受け流してしまえば何のことはない言葉だけの問題と、具体的な困難を招いている裏切り行為とでは、ことの重大さは違いますが、「向こうから来るものへ対して自分の心に何を生ぜしめるかは自分次第」という構図は同じです。
 もしも悪口だけでなく突き飛ばされたとしても、釈尊は決して暴力をふるわず、悪業を積む相手を哀れむ慈悲の眼の光は変わらなかったことでしょう。

2 つまり、憎悪は自分がつくりだした、自分の心にしかない感情だということです。
 釈尊は「怨みなくすには自分の心から怨みなくす以外、方法はない」と説かれました。
 恩人を裏切るような哀れな人間に対して慈悲心を起こすどころか勝手に不快感に苛み続けられている「自分」のありように気づけば、必ず憎悪は薄れます。

〈縁起を考える〉
1 裏切りが裏切る人と裏切られる人との関係において発生するできごとである以上、裏切られた人のありようが裏切りというできごとと無関係であるはずはなく、因か縁となっていることは確かです。
 当事者が無関係であり得ないことは、忠臣蔵の「松の廊下」を思い出せば明らかです。
 是非いろいろ論争はあっても、双方の要因がからんで事件が起こりました。

2 ならば、裏切られた自分にいかなる要因があったのか、よく検証しなければ問題の根本的な解決は不可能です。
 そして、相手の煩悩を解消させるのは事実上難しく、自分の煩悩をどうするかは自分次第であることを考えても、自省こそが最大の解決策であると言わざるを得ません。
「相手を丸ごと認めていたか」「相手への思いやりに欠けていなかったか」「相手の気持ちの変化に鈍感でなかったか」「相手の長所を褒め、短所を密かに補おうとしていたか」

3 こうして自分の愚かさ、至らなさに気づけば、裏切りによってもたらされた困難へ対処する姿勢が変わり、地獄と思えていた現場が貴重な修練の場に思えたりもします。

〈憎しみや怒りを消すための方法忍辱(ニンニク)行です〉
 忍辱行の完成とは、他への怒りが生じず、いかなる状況下に置かれても心が萎縮せず、教えへの不信や実践の怠慢を起こさせない状態です。
 雨風に耐えて咲く花を観想する忍辱行によって思いやりや不動心がもたらされ、自分の心を煩悩任せにできなくなります。
 チベット密教は説きます。
「粗暴な衆生は虚空のように多く、滅ぼし尽くすことはできない。
しかし、怒りという心一つを滅ぼせば、すべての敵を滅ぼしたようなものである」
「私は『過去に衆生をこのように害した』と認識できる。
ならば、そうした自分が、報いとして衆生に害されるのは当然である」
 そして、観想法として、まず無関係な人を想い、次に愛する人を想い、最後に憎い人を想うという瞑想の訓練を行い、人間の平等性を観る心を養っています。

2009
01.09

四国遍路 14

【第17番 瑠璃山井戸寺
  本尊:七仏薬師如来様
  御詠歌:おもかげを うつしてみれば 井戸の水 むすべば胸の あかやおちなむ

 本堂の中央には穏やかで威厳に満ちた堂々たる薬師如来、左右におられる六体のお顔は御簾の陰に隠れて見えない。
 実に見事な荘厳であり、これまで三度も火災に遭っているにもかかわらず、天武天皇の勅願道場としての歴史と誇りを偲ばせる。
 右手にある八軒堂は、中央に金剛界大日如来、向かって右に胎蔵界大日如来、左に阿弥陀如来がおられる珍しい配置である。
 その手前に古い大師堂がある。
 日限大師様の前には正方形の『おもかげの井戸』があり、上からのぞき込む自分の顔が映って見えれば寿命が3年延びるとされており、怖々と井戸へ顔を差し出す人々は、皆、「ああ、良かった」と胸をなで下ろす。
 もしかして他の人の顔も映れば面白いなと思ったが、自分の顔しか見えなかった。
 この井戸は、当時、水質の良くない水しか得られない人々のために、お大師様が錫杖をもって一夜で掘られたという。
 その後、一度として涸れることなく人々を潤し続けている。
 このあたりではコンクリートの側溝を流れる水も飲料に適しているのではないかと思えるほど澄んでおり、こうした生活環境をもたらしたお大師様がいかに慕われ、尊敬されてるかは、東北に住む者の想像を遙かに超えていることだろう。
「御加持水」というラベルを貼った小さなポリ容器は、今も、洒水加持(シャスイカジ…水を用いるご加持)用の水を持ち運びするのに重宝している。

 宿泊所へ着き、見える尊像と見えないみ仏へ合掌する際の心構えについて質問した。
「他の宗派は目の前の仏様を拝むが、密教は各尊をお呼びする方式である。入我我入(ニュウガガニュウウ…み仏と一体になること)観もある」
 確かに、日常の修法ではお不動様やご縁のみ仏をお呼びしてご加護をいただいている。
 立派な尊像を前にしようが中の見えぬお堂の前に立とうが、そこを縁として現れてくださるご本尊様やお大師様にお会いできるかできないかは、行者の心次第である。
 明日からは、一段と心を集中して祈りたいと願う。

 三日目の強行軍に備えてしっかり食事を摂っていると、隣の大部屋でR宗の研修会のメンバーが大宴会を始めた。
 廊下には白やピンクの草履、あるいは金色の飾りがついたハイヒールが並び、携帯電話を片手に「お前、何をやっているんや!」と怒鳴っている髭の伸びた老僧に睨まれた。
 ―――僧侶とヤクザは紙一重か。

 自動販売機で清涼飲料水を買おうとしたら、一本百五十円である。
 立ち止まっていると先輩僧がやって来て、一緒に下駄を借りて外の販売機へ行く。
「名もなく貧しく情けなくですか」
「あまり情けないとは思えないですね」
「しかし、そこはかとなく、侘びしいものはありますね」
「そうですね………」
「でも、これで良いんですよね」
 どちらからともなく、こんな会話になった。

 師に易占を教えていただく夢を見た。
「これから雷はどうなるか」という問題をいただき、しばらく答えられないでいると「そうか、皆にバラバラに教えていたからな」とつぶやいてから、一挙にすべてを教えてくださった。
 目から鱗が落ちるということわざがこれほど深く実感されたことはない。
 しかし、起きてみると、残念ながら印象以外はっきり残っているのは三つだけだった。
「今は晴れているよ」「沢雷随」「象意の意味をよく考えよ」
 天気予報を見ようとテレビをつけたところ、関西地方が出ており、京都をはじめ「雷・雷・雷」。
 それも雲の様子ではすぐに去ってしまいそうな気配だった。
2009
01.08

本堂に流れる夢慧(ユメサト)氏の万葉集

 今年も、当山の本堂では夢慧(ユメサト)氏の謳う万葉集が流れています。

「うつつにも 夢にも我は 思はずき
 古りたる君に ここに逢はむとは
 うつつには 逢ふよしもなし ぬばたまの
 夜の夢にを 継ぎて見えこそ
 里遠み 恋ひわびにけり まそ鏡
 面影去らず 夢にし見えこそ」


(現実にも夢にも私は思わなかった。
 昔から知っているあなたにここで会えるなんて。
 現実に会える手だてもなく、せめて、夜の夢にだけでも見えて欲しいものよ。
 里が遠いので恋しく侘びしく思って、あなたの面影が消えず夢に見えて欲しいことよ)

 こうした言葉の一文字一文字が一つ一つの音符に乗り、幽かにゆったり流れていると、もはや熟語としては聞こえず、夢慧氏の声もまたシンセサイザーと絡み合う楽器のようなものとなり、座る人の心を娑婆の現実から離れさせます。
 真情を孕む音楽がそれとは知られずに、聞く人の心身を柔らかく包む空間は、無垢真実世界を開かせます。

 今年も、善男善女が人生相談やご祈祷やご加持に訪れ、善くありたいという願いを確たるものにして帰られます。
 家庭内の悩みを相談しにご来山されたお母さんが、「貴女を含む皆さんの幸せのためには」と提案した解決策へ即座に答えられました。
「私は自分の幸せを求めてはいません。そんなことはどうでも良いのです。ただ、息子が幸せであって欲しい。それだけです」
 隣で黙って聞いていた息子さんは目を伏せたままでしたが、日頃静かな母親がこうした言葉を発するとは思いもよらなかったことでしょう。
 お母さん自身も、思わず口から出たご自身の言葉に驚いた様子で、しばし、沈黙が流れました。
 やがて、ゆっくり、低い声でつぶやきました。
「私は、元々、こうした考えで行動する人間ではありませんでした。
 自分のことなど考えていられない介護の現場ではたらくうちに変わったのです。
 家族であろうと、介護を求める人であろうと、とにかく、周りの人々に喜んで欲しい、幸せになって欲しい、願いはそれしかありません」

 私も、皆さんに「喜んで欲しい、幸せになって欲しい」一心で法務を続けています。
 守本尊様の法に守られ夢慧氏の歌で荘厳された空間が、今年も、ご縁の方々への宝ものを生み出す空間でありますよう。
2009
01.06

四国遍路 13

【第14番 盛寿山常楽寺
  本尊:薬師如来様
  御詠歌:常楽の 岸にはいつか いたらまし 弘誓(グゼイ)の船に 乗りおくれずば

 約1200年ほど前、この地を巡錫中のお大師様が感得した弥勒菩薩様を木に刻み、本尊として開創された。
 弥勒菩薩が本尊となっているのは88ヵ寺のうちここだけである。
 たわわに実った柿の木の多い道をしばらく行くと、山門の左手前に大きな池があり、渓谷風の小川にかかった橋を渡って参道になる。
 石段を登り切って目にする「流水の庭」は異様な光景だ。
 七福神がところどころに隠れているとされる露出した一枚の岩盤に伽藍が乗っている。
 薄暗い本堂も大師堂も五輪の塔も、そして岩の割れ目に根を張って天を目ざす巨木も、み仏の手のひらにあって聖なる空間を創っている。
 
 20歳過ぎの修行僧と出会った。
 黄色の如法衣(ニョホウエ)を纏い、頬をこけさせ、ズック靴の左足を引きずりながら手作りの錫杖を杖にして歩いている。
 襟元も足元も乱れた風体は、どう見ても自己流である。
 不自由な身体で歩こうとする尊い発心があるのなら、たとえボロであっても正統できちんとした身なりであれば、きっと得られるものも違うであろうに、と思ってしまう。
 他人ごとでも、残念である。
 身・口・意をみ仏と一つにすることが目標である密教の修行では、まず、身なりを整え姿勢を正しを結ぶなど、身体の分野を固めるところから始まる。
 それを確認した上で、経文や真言を唱える口の行へ入る。
 この二つが機械のようにできるようにならなければ、観想という意(心)を動かす行はできない。
 身・口・意(シンクイ)は基礎と土台と建物の関係になっており、修行はこの道筋でなければ正統に行われない。
 いかに観想を研究しようと、や真言が血肉になっていなければ法は動かず、法力が使えなければ、いつまでたっても研修生でしかない。

 こうした形は仏道修行の「三学」と同じである。
 修行は、まず「」すなわち自分自身をめ、毎日がモラルを守った正しい生活であるかどうかをチェックするところから始まる。
 生活態度に誤りがなければ、心を集中させ、深める「(ジョウ)」の修行を行う資格ができる。
 めに背かない生活と心のコントロールという準備ができてこそ、自他のためになる方便(具体的な手だて)を知る「(智)」の行がまともに行われ得る。
 (カイジョウエ)が一体となってこそ菩薩としての生き方が可能になる。
 そして、この順番で確立されないと学んだものが生きない。
 高額なお布施を請求したり、趣味や遊興にうつつを抜かしたりする僧侶の姿勢が檀信徒の方々を悩ませるようになるのは、このあたりが狂っているからである。

 同行の女性信徒さん二人が、お茶と手縫いの小さな座布団を「お接待」していただいたという。
 そのお宅をふり返って見ると、道路沿いの用水堀に清流が流れ各家の植え込みが美しいこの町に似合った小柄なお婆さんが、縁側に座り、笑顔で見送っておられた。
2009
01.05

第一例祭が終わりました ─花占い─

 1月4日(日)、おかげさまにて、今年最初の例祭が終わりました。
 毎月、護摩木をお供えしてくださる「法楽の会」会員の方々をはじめ、ご縁の皆様に心からお礼申し上げます。

 高橋里佳さんのクリスタルボウルをバックに流れる声明から始まり、ご参詣の方々との温かいハーモニーで唱えられる光明真言や般若心経、そして太鼓に合わせて三返読誦される観音経、最後はまた声明クリスタルボウルという流れは、今までで一番、澄浄でダイナミックでした。
 濁(ダミ)声で唸り、いかにも僧侶臭く唱えるのではなく、み仏へ心を開くように素直に喉を開き、まっすぐ声を出してみ仏をご供養する清らかな読経と修法を目ざしている当山は、確かに一つ上のステージへ登ったという手応えがあります。

 また、終わってから行った秘法「花占い」では、お大師様を深く信仰しておられるAさんの投げた花が大日如来の上に落ちてとても喜ばれました。
「自他の好みとするところについて仏法を鏡としてよく検証し、お互いに大切にし合えば親和が生まれ、平坦な道をゆったりと進めることでしょう」
 前回、ご来山されたおりには「花占い」を行えず失礼したので、安心しました。
 Aさんが重ねて引いたおみくじは大吉で願い通りの方向が示され、大満足されました。

 阿弥陀如来の上に落ちたBさんへは、こう申し上げました。
「行くべき所へ行けるようにお導きいただけます。
 行ってはならない所へ行こうとすると何らかのお知らせがあることでしょう。
 また、どちらへ行こうかと迷った時は、深呼吸し、阿弥陀様の真言『オン アミリタテイセイ カラ ウン』をお唱えしてからじっと想を練ってください。
 必ず最前の道を選べることでしょう」
 じっと視線をそらさずに聞いておられたBさんは言われました。
「実は、私、もうすぐ東ヨーロッパ数カ国へ旅立つ予定です。
 周りには反対意見もあるのですが……。
 今のお話ですっきりしました。
 自信を持って行ってまいります」

 また、初めてこの占いをするCさんの花は、普賢菩薩と勢至菩薩へすっかり重なっています。
「問題の相手についても、ご自身についても、解決策と思っている形が人の道に合っているかどうかを、よく確認して下さい。
 そして、お互いが、自分の心根と相手の心根をよく観ることです。
 この二つをしっかりさせて誠意をもった話し合いをすることにより、未来が開けることでしょう」
 Cさんは、一身上の問題につき、重大な決意をもって参詣されていました。
 このポイントと決心の内容を照らし合わせて迷いが消え、何度も「助かりました」とくり返しながら、晴れ晴れしたお顔で帰られました。

 今日は、修法に関しても、得難い体験をしました。
 行者の心にカンという梵字があり、それが剣に変化し、ついには不動明王になるという観想があります。
 その内容を暗記しイメージしますが、こうしたシンボルや尊像の位置と自分の身体の関係が、今ひとつ明確でありませんでした。
 ところが今日はズシンときました。
 何のことはない、剣は行者の身体の真ん中にまるで心棒のように屹立しているものだったのです。
 であればこそ、この身このままで不動明王に成れるのでしょう。
 満月のような心に浮かんだ梵字が身体を貫く直刀となり、頭のてっぺんから足まですべてが不動明王になるダイナミックさを初めて知りました。
 これも、行者たちとご参詣の方々の読経によるご本尊様への供養という清浄で力強い支えがあったればこそです。

 石とコンクリートで造られたパリは、1980年代に入ってガラスと鋼鉄による造形物が出現し、歴史の醸し出す陰影と憂愁に新たな光が加わり、一段と味わいが深まったそうです。
 今年は劇的に変化するであろう世間も当山も、そうした創造性を持って向上する一年であって欲しいものです。
2009
01.04

正月修正会第三日目を終わりました

 おかげさまにて、正月の修正会をすべて終了しました。
 今年は、声明高橋里佳さんのクリスタルボウルが入り、さらに荘厳な雰囲気となりました。
 皆々様のご助力にあらためて感謝申し上げます。

護摩法で上がる写真です〉
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2009
01.04

平成21年1月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 皆さん、今、共にこの世で呼吸し、心を通じ合わせていることを喜び合いましょう。
 おめでとうございます!今年が善い、良い、佳い年でありますよう。
 皆さん、お元気ですか。元気とは根元的ないのちの勢いです。
 それは、子供なら無邪気な遊び、大人なら心の勁さとして顕れます。
「今年はこう生きよう」と決心する時、その方は元気です。 今年も、共に人の道を学び実践しましょう。

 さて、今年の運勢は別紙へ書きましたので、いつものように平成21年1月の運勢を観ましょう。
 今月は、手を携えて問題に立ち向かう連帯の動きが活発になり、菩薩道を実践する人々が次々に現れます。
 脳梗塞に倒れ、不自由な体になってもなお、旺盛な執筆活動によって日本の政治と社会の無慈悲さを糾弾し続けている多田富雄先生や、「年越し派遣村」を運営する方々などはすべて菩薩様というべきです。
 このところ、悲観論が強くなっていますが、日本はまだまだ大丈夫です。
 DIYなどの大駐車場にある身体障害者用のスペースはほとんど空けられており、初売りなどで並ぶ買い物客の列を乱す無法者もいません。
 また、日本語の優秀性は科学の分野でノーベル賞を得た方々が証明しています。
 アルファベットと数字の組み合わせだけが研究に有利なのではありません。
 日本人が年月をかけて培ってきた「徳」や「社会のしくみ」などの長所を見なおせば、手元にありながら忘れていた宝ものが未来を切り拓くきっかけを与えてくれることでしょう。
『大日経』に説かれているとおり、大いなる思いやりの心こそが人間と社会の根本であり、それを具体的にはたらかせる方法をもたらすものが真の智慧です。
 マンダラの教えは、この世を一体の身体と観ます。足にトゲが刺さったなら手で取り除くように、〈足である誰か〉の苦しみを〈手である自分〉の苦しみと感じ、自分のできることを行うことが菩薩道です。日本人は古来、「おたがいさま」「おかげさま」の心でやってきたはずです。
 この普遍の原点を土台として未来を見すえたいものです。

 さて、一難去ってまた一難と問題が起こりやすい時期ですが、手を広げてパッと片づけようとしたり、横に広げてみて困惑したりせず、順番を決め、誠意をもって一つ一つと対処すれば道は開けます。 
 昔、武芸者が一人で大勢と闘う時は、必ず一本道か狭い場所を選びました。
 背後を気にせず、目の前の相手を確実に倒せるからです。
 また、環境に大きな問題があるとしても、自らを正し、向上させるという姿勢を捨てないことです。
 環境が好転した場合、きっと、そうした努力を怠らない人から順に恩恵を被ることでしょう。

 今月は飲食物や水に関する困難や事故が起こりがちです。注意しましょう。
 
 今月の開運ポイントは、自分の心をはじめ、人間関係や会社などの「陰に隠れている部分」をきちんと見て対処することです。
 そこに潜む問題をあいまいにしたままで表面を繕ってもうまく行きません。
 まじめに、まっとうにやりましょう。

人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。
布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人は積徳が行動に力を与え、けじめや区切りがつき、視野が開けます。
 不精進の人は焦慮が重なり見通しが立たず、立ち往生しがちです。
持戒行と運勢]塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は親和が生じ、心に宝ものを持った豊かさが感じられます。
 不精進の人はうまい話に乗せられて信用を落としたりしがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は妄動せず断つべきものを断って道が開けます。
 不精進の人はいつしか良からぬものに溺れて進退に窮したりしがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は決着すべきものを人知れず処置し、安泰になります。
 不精進の人は、実質第一にできず形作りに励んでくたびれもうけになりがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は問題の整理がついて飛躍の準備が調います。
 不精進の人は仮の良縁に気が緩み、思わぬ争いにはまったりしがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は困窮しても道を踏み外すことなく、足元が揺るぎません。
 不精進の人は分不相応な望みで突っ走り、足元が危うくなったりしがちです。

 今年も、山里で皆さんの開運を祈っています。
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