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2009
02.28

救いと宗教 3 ─重い石─

 Aさんは述懐された。
「あの日以来、ずうっと重い石を抱いているような気持で生きてきました。
 除けてしまいたいのですが、なかなか心から去ってくれません。
 最近は、『一生このままなのかな』とも思います」
 誠実に生きている人は、そうした〈石〉を抱いているものである。
 表面の心を夢のようにサラサラと流れる日常のことごとの底へ思考が向かうのは、こうした石のおかげである。
 それは自省を促し、自省は人をねばり強い生き方へ導く。
 それは時と共に変化して、最初は重しだったはずなのに、いつしか人生の柱になっていたりもする。
 人生にはこうした石もあれば、晴れ舞台の扇のようなものもある。

 年老いた時に誇りとしつつ生きられるような思いやできごとの一つや二つは、誰でも持っている。
 大正時代、「ホトトギス」を舞台に活躍した俳人渡辺水巴(スイハ)は、それを詠んだ。
「箱を出て初雛のまま照りたまふ」
 初雛とは、女の子が初めて迎える雛祭に飾るお雛様である。
 お殿様、お姫様、官女などが、何度お祀りしても、初めての時と同じ輝きで晴れの日を祝ってくれる。
 足が弱り、椅子に腰かけて日向ぼっこを楽ししんでいるお爺さんが、『高校生の時、短距離の選手で国体に出たんだ』と張った胸の裡で、お雛様が輝いている。
 その頃になると、多くの石たちは役割を終えつつ、意識の奥深くへ沈み込んでいる。
 もちろん、中には自分一人で抱えきれなくなる石もあり、鼻持ちならない高慢心ををつくるお雛様もあるが、多くは、誠実に生きているうちに両者のバランスがとれてくる。
 
 まじめでまっとうなAさんに幸いあれと祈りたい。
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2009
02.27

救いと宗教 2 ─カウンセラーと二本のレール─

 こうしたできごとを考えてみると、最近目立つカウンセラー、あるいはセラピストの流行が気になる。
 会話やマッサージや音楽や動物などさまざまなものを手段とする息抜きの時間が便利に準備され、専門家らしい人が「さあ、こうやって癒されてください」と手取り足取り導いてくれるようになった。
 簡単に資格めいたものが発行され、人の心へ手を入れる専門家が輩出している。
 他人の意見に耳を傾けれさえすれば運命転化できると判断していた心優しい方が、電話で人生相談を受け、多額の報酬が得られるという有資格者になったのには驚いた。
 もっとも、「他人様のためになりたい」という一心で努力しているうちに、自分自身が向上して行けばそれはそれで良いのだろうが、疑問は残る。
 常識良識見識はどうなっているかが不問のままで人間の心を操作する立場に立って大丈夫だろうか?

 もしも他人様の苦しみを取り除ける仕事に就こうと善き願いを持った方へは、こう申し上げたい。

「み仏のお慈悲の内容は抜苦与楽(バックヨラク…苦を抜き楽を与えること)です。
 苦を抜くためには、まず、相手の苦を深く自分の苦と感じ、無になって心へ寄り添うことです。
 しかも、相手の苦に動揺するようであってはなりません。
 感情は動いても思考や言葉や行動は引っ張られず、屹立していなければ、仕事師とは言えないでしょう。
 ここがいい加減では、沈む船にロープを結んで二艘とも沈没するような危険性があります。
 抜苦がきちんとできるためには、自分を磨くことです。
 そのバロメーターを、常識良識見識と考えてはどうでしょうか。
 独りよがりではなく、他人様へ余分な不快感を与えないふるまいができ、良心に違わぬ思考や言葉づかいや行動がなされ、信念によって生き、言葉にまごころと説得力が伴っているか、時々チェックしてみましょう。
 このあたりができてくれば、優しさが強さで裏打ちされ、相手へ楽を与えられるようになることでしょう。

 何を手段として用いようと、いかなるノウハウを覚えようと、慈悲心がなければ充分に活かすことはできません。
 向上心を持って自分の心のレベルを上げようと努力することを『上求菩提(ジョウグボダイ)』といいます。
 他人様が心のレベルを上げるためのお手伝いを行うことを『下化衆生(ゲケシュジョウ)』といいます。
 密教のマンダラにはそれが表現されています。
 行者が歩む二本のレールを参考にしてはいかがでしょうか」
2009
02.27

救いと宗教 1 ─第一の使命─

 身内が自死自殺)し、どうにもやり切れない気持で訪ねた宗教家から「助かる方法があったのではないか」と言われ、ますます自責の念を深めたAさんが来山された。
 やりとりの具体的な内容は黙して語らないが、おおよそは想像がつく。
 宗教家は「信じていれば救われたのに」と考えたに違いない。
 それはそうだろう。
 しかし、「信じれば、救われる」はずだが、「信じれば、救われたことが必ず実感できる」というものではない。

 自分の力だけでは及ばないであろう願いを持つからこそ祈るのであり、最初からハードルは高い。
 すべてのハードルを越えられれば、それこそ奇跡である。
 奇跡は、なかなか起こらない内容だから奇跡と呼ばれる。
 たとえば、いかに身体堅護を祈っても、無理を続けていれば、いつまでも頑健ではいられない。
「ここ一番」を乗り切れる場合もあるが、ふとした拍子に酷い風邪をひき、寝込んでしまったりもする。
 つまり、「信じて祈ったからといって、必ずしも都合の良い結果だけが得られるとは限らない」と考えるのが常識というものだろう。
 常識は心の基礎であり、良識は土台であり、その上に見識という建物が建てば人は集う。
 いかなる宗教家も、思想家も、指導者も、ここに住まわねば、世間的には変人でしかない。

 たとえ自分は救われていると信じている宗教家にとっても、この世の現実は「信じて祈ったからといって、必ずしも都合の良い結果だけが得られるとは限らない」のであり、悲しみや苦しみに耐えている他人様への、「信仰が間違っている」や「信心が足りない」は禁句である。
 そもそも、他人様の願いを自分の願いとして祈る宗教家は、結果が必ずしも願いどおりにはならないことを深く実感しているはずであり、真の信仰は叶えられないもどかしさの〈先〉にしかなく、自分はもちろん、世間の人々が〈先〉へ入ることがいかに困難であるかも知悉しているはずである。
 だから、信仰そのものについて問われない限り、いかに良き願いを持ち、祈ろうと、そうとばかりはならない不条理なこの世を生きる者同士として、困難を抱えている人の心に寄り添い、苦渋の声で絞り出される言の葉を一枚づつ丁寧に自分の心へしまい込むのが、宗教における第一の使命である。
 当山は、困っている方へ「信仰が間違っている」「信心が足りない」と指摘する発想を持っていない。

 冒頭のできごとがAさんを苦しめる結果になったのは当然である。
 まことにお気の毒と言うしかない。
 しかし、こうしたできごともまた、真摯に生きるAさんにとって、自死についての考えを深め、宗教と宗教家について考えるための貴重な体験だったはずである。
 仏神との距離を縮めようとしているAさんにご加護があるよう祈りたい。

2009
02.27

3月の守本尊様

 3月3月6日から4月4日まで)の守本尊様は文殊菩薩様です。
過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)』をもって、過去から現在を通り未来へと連なる因と縁と果とのつながりを見極めるお力をくださり、悪しきことをせず良きことを行うようお導きくださいます。






2009
02.27

3月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

文殊菩薩(もん・じゅ・ぼ・さつ) 

「オン ア ラ ハ シャ ノウ」



今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2009
02.27

2月の真言

 その月の守本尊様をご供養しお守りいただきたい時、願いを成就させたいと念じる時、つらい時、悲しい時、淋しい時は、合掌して真言(真実世界の言葉)をお唱えしましょう。
 たとえ一日一回でも、信じて行なえば、ご本尊様へ必ず思いが届きます。
 回数は任意ですが、基本は1・3・7・21・108・1080回となっています。

虚空蔵菩薩(こ・くう・ぞう・ぼ・さつ) 

「ノウボウ アキャシャキャラバヤ オン アリキャ マリ ボリ ソワカ」


今月の真言をお聞きになるにはこちらをクリックしてください。音声が流れます


※お聞き頂くには 音楽再生ソフト が必要です。お持ちでない方は、

 こちらから無料でWindows Media Player がダウンロードできます。




2009
02.27

2月の守本尊様

 2月2月4日から3月5日まで)の守本尊様は虚空蔵菩薩様です。
是處非處智力(ゼショヒショチリキ)』をもって、この世の姿をありのままに見つめ、真偽・善悪・虚実・尊卑・上下・清濁などをはっきりと区別し、迷いを解き放つ力と、行くべき道をお示しくださいます。






2009
02.26

霊を感じやすい人 ─救いは光明真言─

 見えるはずのないものが見えてしまったり、不快なものの気配に悩まされたりして来山される方は後を絶ちません。
 しかも、程度の差こそあれ、心が病んでいるのではないかとの不安を密かに抱えている方がほとんどです。
 原因は実にさまざまでお一人お一人づつ異なっており、個々の事例を挙げることはできません。
 しかし、肝心なポイントを記しておきます。
 それは、などを感じやすい頼られる方は、「相手から『理解してもらえる』『頼りがいがある』と判断されている」ことです。
 そうした場合、自分が不安感から脱する方法はどうなるでしょうか?
 怯えたり、祓ったり、逃げたりするのではなく、供養するのです。

 こちらに生来のアンテナがあり、理由があって情報が発信されてくれば、受信した情報を適正に処理するしかありません。
 その場合のスペードのエースは供養です。
 供養の中心となる真言は、何と言っても光明真言(クリヤーライト・マントラ)です。           

「となえたてまつる光明真言は、大日普門(フモン)の万徳(マンドク)を二十三字に集めたり。
 おのれを空(ムナ)しゅうして一心にとなえたてまつれば、みほとけの光明に照らされて、 
 三妄(マヨイ)の霧おのずからはれ、浄心(ジョウシン)の玉、明らかにして、真如(シンニョ)の月まどかならん
「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」

 個々の言葉の意味は「おん(帰命)あぼきゃ(不空)べいろしゃのう(遍照)まかぼだら(大印)まに(摩尼宝珠)はんどま(紅蓮華)じんばら(光明)はらばりたや(展転)うん(※訳さない)」です。
 全体を意訳すれば、ブログ「死んだ人と、生きている人のように接してはいけないでしょうか 2」に書いたとおり、「自利と利他の功徳を円満する遍き光の偉大なるはたらきよ、宝珠と蓮花と光明との徳によって、迷いを転じ、悟りへ導きたまえ」です。
 ただし、行の現場では、真言を翻訳せずそのまま唱えることになっています。
 如意宝珠は福徳と安楽を生み出し、蓮花は罪障を消滅させ仏性を花開かせ、光明は無明の闇を払って悟りへと導くものであり、チベット密教では、「おん(帰命)まに(摩尼宝珠)ぺめ(紅蓮華)ふーん」と唱えます。

 病的になった場合は別として、「すがられる人は供養する資格があると認められた人」です。
 役割を果たすべく、まず、この真言を3返、7返、21返、108返、あるいは1080返、真剣に唱えてください。
 多くの場合は、「空気が清浄になった感じがする」などの変化が現れ、心が楽になるはずです。
 それでも違和感が免れない場合は人生相談にご来山ください。
 ご加持や、ご供養や、出張しての修法、その他、状況に即した対応が可能です。
 いたずらに恐れず、自他のためにできることを実践しましょう。
2009
02.25

平成21年3月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 3月運勢です。

 今月は、望むものを競い合う流れが生じ、知恵比べがあちこちで見受けられます。
 あたかも、中天にある太陽からまばゆい光が降りそそぐようにアイディアや言葉が氾濫しますが、内容は深く吟味せねばなりません。
 特に、特定の観念を「万能の剣」であるかのようにふりかざしたり、問題の単純化によって難問をたちまち解決できるかのような錯覚に陥ってしまったりせぬよう、そうしたものに惑わされぬよう気をつけたいものです。
 たとえば「官から民へ」「小さな政府」「グローバル資本主義」といったスローガンは、つい最近まで、誰にも異を唱えさせないかのような雰囲気で私たちの社会に君臨していました。
 しかし、それがルールなき弱肉強食の修羅場をもたらし、結果的に、最も強いはずのアメリカも、その弟分を自負している日本も、そして世界中が計り知れないほど深い傷を負う羽目になりました。
 悲惨な現状は、官の放置と民の我欲と、官民の思考停止によってもたらされました。
 複雑な人間社会を一気にパラダイスにできる「万能の特効薬」など、ありはしません。
 そうした刺激的な媚薬を振りかざし、単純なスローガンを声高に叫ぶものを疑ってかかるのが健全な精神というものではないでしょうか。
 
 また、今月は、すぐそこに見えていながら、いざ、手を伸ばしてみるとなかなか掴めないといった現象が出やすい時期でもあります。
 転じて「猿猴(エンコウ)月を取る」とならぬよう、気をつけましょう。
 この故事は、水に映った月を眺めていたサルが、あまりの美しさにそれを取りたくなって木の枝から身を乗り出し、とうとう枝が折れて溺れ死んだというものです。
 自分が惹かれているものの実体は何なのか、それは手にすべきものなのか、また、望んで良いものなのか、熟慮し、決心したならば両手できちんと掴むようにしましょう。
 
 今月の開運ポイントは、まず、忙しい時ほど車の運転などに注意し、目上や恩人などへの気配りを忘れないことです。
 もう一つは、短気や思いつきによって不用意な言葉を口にしたり、パッと走ったりせぬよう気をつけることです。
 また、通信関係のトラブルに備え、早めの連絡やデータの保存などに注意をはらいましょう。
 万事「後の祭」ではなりません。
 そして、今月は信念第一で進みましょう。
 その実現のために全身全霊を挙げて取り組めば信用が増し、理解者が広範囲に広がることも期待できます。
 清らかで熱い動機こそが運命の牽引車であることを忘れずに。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

布施行と運勢お水を供えましょう。
 精進の人は小さなものごとから順々に達成します。
 不精進の人は信用を得られず、絶交されたり、つまはじきにされたりしがちになります。
持戒行と運勢塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は刻苦勉励(コックベンレイ)が認められ、呼応し合う人間関係が発展をもたらします。
 不精進の人は火難・盗難に遭いがちです。
忍辱(ニンニク)行と運勢お花を供えましょう。
 精進の人は自重と、恩を売らない気持が功を奏し、上昇します。
 不精進の人はうぬぼれが仇となり、公の面で失敗しがちです。
[精進行と運勢お線香を供えましょう。
 精進の人は公私の区別が生きて、信用を得られます。
 不精進の人は悪知恵のある者につけ入られて欺かれたり、疑惑を招いたりしがちです。
禅定行と運勢飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は有力者や智慧者に評価されて大事が成就します。
 不精進の人は正しいこともまっすぐに通じにくくなりがちです。
智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は志の力と経験とがあいまって隆盛になります。
 不精進の人は有頂天になったり天魔に襲われたりして、せっかくの運気を損ないがちです。
 
 皆さんの開運を祈っています。
2009
02.24

『四十二章経』第九章 供養の功徳

 2月23日、『法楽』作りの奉仕活動に先立ち、『四十二章経』を学びました。

仏の言(ノタマ)わく、
「凡人百に飯(ボン)せんよりは、一善人に飯せんには如(シ)かず。
 善人千に飯せんよりは、五戒を持(タモ)てる者一人に飯せんには如(し)かず。
 五戒を持(タモ)てる者萬人に飯せんよりは、一須陀洹(シュダオン)に飯せんには如かず。
 須陀洹(シュダオン)百萬に飯せんよりは、一斯陀含(シダゴン)に飯せんには如かず
 斯陀含(シダゴン)千萬に飯せんよりは、一阿那含(アナゴン)に飯せんには如かず。
 阿那含(アナゴン)一億に飯せんよりは、一阿羅漢(アラカン)に飯せんには如かず。
 阿羅漢(アラカン)十億に飯せんよしは、辟支佛(ビャクシブツ)一人に飯せんには如かず。
 辟支佛(ビャクシブツ)百億に飯せんよりは、三尊の教(オシエ)を以(モッ)て、其(ソノ)一世(イッセ)二親(ンシン)を度するものに如かず。
 教(オシエ)うるもの千億よりは、一(イツ)の仏たるを学び、仏たるを願い求め、衆生を救わんと欲するものに飯せんには如(し)かず。
 善人に飯るは、最も深重(ジンチョウ)なり。
 凡人の天地鬼神に事(ツカ)うるは、其(ソノ)親に孝なるに如かず。
 二親(ニシン)は最も(トウト)ければなり」


 釈尊は「凡人への供養よりも善人への供養の方が功徳は大きい」と説かれました。
 さらに、それよりも修行者、聖者、そして最高の供養の相手は実際に人々を救う努力をしている人々であるとしました。
(須陀洹などの見慣れない言葉は、悟りの深さによって与えられる称号です)
 そして、両親こそが最も尊いものであるから供養を怠ってはならないと締めくくられました。
 ここにはスッと読み終えられないような意外感がありはしないでしょうか。
 私たちは、普段、「困っている人へこそ、親切に手を差し伸べねばならない」と考えているからです。
 きっと、こんなイメージでしょう。
「私は、コンタクトレンズを落として、なかなか探し当てられない人と出会った。
 見捨てておけないので一緒に探し、見つけてあげた。
 自分にとってはあたりまえだけれども、やはり、良いことをしたという清々しさがある。
 良いことをした報いが特段、欲しいというわけではないが、きっとお釈迦様が説かれたとおり因果応報は真理だろうと信じて、良いことをしようと心がけている」

 しかし、この一章における供養功徳の関係は、そうしたパターンとはやや異なっています。
 それは、功徳を施す相手は確かに目の前の相手たった一人ですが、徳の高い人への施しはその人を通じて影響がどんどん広がるので、実際に供養にあずかる相手は計り知れないということです。
 たとえば、万引きをして捕まり、やっと釈放されたばかりで職もなく、お腹が空いて困っている人へ食事を与えることは尊い善行ですが、同じように空腹を抱えて説法している聖者を食事に誘う方が、功徳が大きいのです。
 もちろん、悪行を犯した人も聖者も人間の価値が異なりはせず、前の善行が否定されたり、価値が小さいとされるわけではありません。
 善行の報いとしてやってくる善果が異なるから、自分のために聖者を供養せよと言っているわけでもありません。
 ここで説かれている供養の功徳は、自分へ廻ってくるもののみではなく、いわば社会的広がりをもったものであり、この一章の眼目は「徳の高い聖者を見分け、自分のためだけでなく人々のためにこそ、そうした人を供養することが大切である」であろうと考えます。

 最後の「両親の問題」には、やや、唐突な感じがあります。
 多くの研究者が指摘するとおり、中国の忠孝思想が混じった可能性は否定できにくいでしょうが、経典として素直に読めば、こうなりはしないでしょうか。
「親なくしては、誰もいのちを得られない。
 自分にとって最高の恩人は親である。
 しかし、ともすれば、そのことを忘れてしまう。
 自分の身を第二とし、時によっては自分を捨ててまで子供を第一として育ててくれた親こそが、誰のそばにでもいる最も尊い人である。
 その人の恩を忘れたままでいては、人の尊さは解らない。
 親への供養を通じて『誰にでも可能な、最も尊い相手への供養』を実践せよ」
2009
02.23

小さな滝 2 ─扇畑利枝氏のこと─

「小さな滝 ─扇畑利枝氏のこと─」につき、もう少し、句を紹介して欲しいとのお問い合わせがあった。

われ自ら老いに執してゐたりしか雛を飾らぬ三年あまり ─二人の時間帯─


 歳をとると万事、おっくうになり、「まあ、今年はいいか」などとつぶやきつつ年中行事を端折ってしまう。
 雛祭は女の子だけのものではないはずだが、いつしか大切な節句を素通りしていた。
 それを年齢への執着と観た作者は、やはり厳しい観察者である。

ほのぼのと心明るむ明け方にオランダの木靴工場の夢を見たりき ─木靴工場

 闘病生活を続け90歳近くになった作者が、明け方は心も明るむという。
 そして見るのはオランダの夢。
 作者が実際にオランダを訪ねたかどうかは知らないが、おとぎ話のシーンのような光景が意識に浮かび上がる精神生活の豊穣さは驚嘆である。

怠け癖つきて易々と眠るかな今日は小さき陶の雛の前 ─陶の雛の前─

 作者は、詠みたくなるから詠むのではない。
 詠むことを自らへ課している。こうした姿勢に接すると、あらためて背筋を伸ばさねばならなくなる。
 人が「何者であるか」は、常に「何者になるか」である。
「なろう」としない時、退落が始まる。

病を負ふは思索とならず空空(クウクウ)と長き時間を消費するのみ ─空空と長き時間─

 病床についている時の気持は、実際にそうなってみなければなかなか解るものではない。
 しかし、冷酷な現実を比類なき正確さで掴みだしているのに、この句にはなぜか悲惨さがない。
 言霊は一人歩きしないのだ。
 言葉の主人公は使う人の心である。

朝食ぬきの心臓検査受くる日にゆくりなく思ふ陸上選手たりし少女の日を ─やさしき表情─

ゆくりなく」は、「そうとはっきり定められる縁もないのに」といった意味である。
 作者は、前後の脈絡がなく思い出された遠い過去の光景をそのまま詠んでいる。
「朝食ぬきの」には、突きつけられている状況があぶり出されている。
2009
02.22

教育の現場から

 永年、中学校で教鞭をとておられるI氏から、ご意見をいただいた。
 I氏は、自らの使命を述べられた。

1 生徒たちへ自尊心を持たせること
 自立心を確立し、尊厳を持った一人の人間として生きている実感を大切にして欲しい。
2 生徒たちへ自信を持たせること
 さまざまなものを吸収し、成長している自分自身を見つめ、少々のことでへこたれない人間になって欲しい。
3 生徒たちへ社会の一員としての連帯感を持たせること
 人間は一人で生きているのではないことを実感し、人間観のつながりを大切にしする人間になって欲しい。

 子供たちは、中学生して、すでに、二種類に分類されている。
 部活が終わったら塾へ通い、習い事をし、途中でパンなどを買い食いしつつ午後9時や10時に帰宅し、さらに勉強する過密スケジュールを生きる子供たち。
 4時前に授業が終われば、あとは決まった予定がなく、親も家族もいない一人だけの自由時間になり、一人でゲームなどに熱中するか仲間と遊び歩くかする子供たち。
 いずれも、I氏の言う「教科書だけでは育たない」大切な心を伸ばす機会がほとんどない毎日を過ごしている。
 子供たちは、感動を伴う人間的交流をあまり体験することなく、塾で同級生と机を並べようが、コンビニで同級生とおしゃべりしようが、内面は自分一人だけの孤立した時間を生きている。
 その結果、ちょっとしたことに大きく躓き、すぐに逃避し、立ち直れなかったり、破滅的行為へ走ったりしてしまいやすくなる。
 I氏は、自分以外の人間と正面から向き合えず、自分自身とも向き合えないまま大人にならぬよう指導したいが、教育を担う学校では人間的成長をもたらす場や時間がなかなか作れないのが残念だと言われる。

 I氏は、終始、穏やかな口調で笑みを絶やさず話されたが、内容は〈魂の叫び〉である。
 深く心へ留めておきたい。
 以前、音楽担当の教師O氏からも、情操教育に携わる立場の難しさを縷々(ルル)、お聞きした。
 O氏は四国遍路などに支えられつつ、理想を実現しようと奮闘しておられる。
 私はプロの教育者ではないので、あくまでも一行者として子供たちや親御さんたちと向き合い、こうした教師の方々が切歯扼腕(セッシヤクワン)しながらも手を届かせられない部分に関して、いささかの役に立てれば本望である。
 
2009
02.22

3月の例祭

3月の第一例祭 3月1日(第一日曜日)午前10時より
 第一例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『観音経』三巻を唱えます。
 また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
 声明では高橋里佳さんのクリスタルボウルも演奏されます。
 伝統ある密教の音楽と新しい楽器とのコラボレーションは、新たな世界を開きます。

3月の第二例祭 3月21日(第三土曜日)午後2時より
 第二例祭では、護摩法を行い、太鼓と共に『般若心経』三巻を唱えます。
  また、希望する方は秘法の花占を行い、運勢の舵を明るい方向へ切るために〈現在最も必要な智慧〉は何かを観ます。
 み仏を供養し、万霊を供養し、大きなご加護をいただきましょう。
 声明では高橋里佳さんのクリスタルボウルも演奏されます。
 伝統ある密教の音楽と新しい楽器とのコラボレーションは、新たな世界を開きます。
2009
02.20

小さな滝 ─扇畑利枝氏のこと─

 私の顔を見ると、決まって「M!」と、息子さんの名前を叫ぶお婆さんがいる。
 明らかに痴呆症だが、いつも大きく見開いている目の光は周囲の人々とまったく異なった強さを持っている。
「こんにちわ」と返事をしながら、元気づけられるのはどうしてだろうと思っていた。
 ひょんなことから、そんなお婆さんを車いすに乗せた息子さんと会話になった。
 驚いたことに、お婆さんは扇畑利枝氏といい、当山のある宮床が生んだ歌人原阿佐緒の親友だった。
 石原博士との恋愛問題で村八分どころか世間から総スカンを食った時も、変わらぬつき合いをしていたという。
 原阿佐緒記念館には、扇畑さんが所有していた資料がかなり収められている。

 当山と原阿佐緒には少なからぬ因縁がある。
 仙台市を拠点に修行していた私と宮床を結びつけてくださったkさんは、老いた原阿佐緒を背負って蛍狩りに連れて行った方であり、原阿佐緒のエピソードはたくさん聞かせていただいた。
 当山は原阿佐緒記念館と至近距離にあり、数年前、原家のご当主から原家最後の財産だった土地(隣接地)を譲っていただき、しばらく精舎建立予定地の表示板を立てていた。

捨てられて山にかくれて歌よみて泣きて子とのみ生くるわれはも

生きながら針に貫かれし蝶のごと悶経(モダエ)つつなお飛ばむぞとする

冬庭のわがまへばかりかげり居り


 こうした歌は、何度、法話に登場したことか。

 さて、息子さんは別れ際に車へ戻り、一冊の本をくださった。
小さな滝』(平成18年 角川書店)は、703首を載せた扇畑利枝氏の第六歌集である。
「最後の力をふりしぼって」編まれた歌集には発病してから作られた歌も含まれ、助詞などに乱れが散見されることから訂正するかどうかが関係者の間で議論になったが、心の変遷をそのまま残すことになった。
87歳から90歳までの作品が主となっている歌の数々は、「アララギ」の到達点を考えさせる。

弔電を一つ二つ打ちて梅雨入りの今日をたしかむ己が命を ─希望の星─


川石に堰(セ)かれて小さき滝となる梅田川に沿ふ私の歩み ─小さな滝

秋の蝶白く小さし庭草の刈りたる上を低く飛びゆく ─迷信とおもひつつ─


 お婆さんの目の光が何であるか、いくらかは解ったように思える。
 あの光に、また、励まされるのだろう。
2009
02.20

み仏に会えない理由

 み仏にお会いできない人には二つの理由があるとされています。
 理由の一つは、み仏へ帰依する心の深まりが足りないことです。
『不動経』によれば、そのレベルを「根性」と称し、最高のレベルに達すればお不動様に、次のレベルならコンガラ童子やセイタカ童子様に、そして根性がまだまだの場合は、人間や生きものや自然などを通して感得できるとされています。

 もう一つの理由は、せっかくみ仏がそばにおられるのに、それを見分ける眼力が備わっていないことです。
 内田樹教授が面白い体験をされました。
 東京駅前にいたところ、外人が人混みをかき分けながらまっすぐに彼のそばへやって来て、「ちょっとお願いしたいことがあります」と言いました。
 新幹線の車内にコートを置き忘れたのでどうしたらよいかという相談でした。
 すぐに駅の事務室へ連れて行き、コートは見つかったのですが、後から不思議だなあと思ったそうです。
 なぜ、多くの人々の中から「英語が通じて、手助けをしてくれそうな人」を見つけることができたのか?
 彼はいかにも学者然とした格好でなく、スキーの夜行バスを待っていたので、不思議度は相当に大きかったことでしょう。
 彼はこう結論づけました。
「窮地に追い詰められると、そういうことについてのアンテナの感度が上がる」
 み仏を感じるのも同じようなパターンではないでしょうか。
 窮地に陥り、「神様!」「仏様!」といった状態になれば、常々み仏へ心を向けている方は、きっと潜在的な眼力を発揮できることでしょう。

 私たちは、敬虔な心を持つことによって、よしんばお地蔵様やお不動様や観音様そのものを感得できずとも、まるでみ仏であるとしか思えないような人の救いや思いもよらない成り行きにより、「ああ、み仏がお救いくださった」という体験はごく普通にできます。
 必ず、何らかの形で、み仏にお会いできるのです。
2009
02.19

鉢の中の子供 ─免れ得ない因果応報─

 釈尊が悟りを開かれた後、釈迦族は戦乱に巻き込まれました。
 ある日、戦争へ行きたくない子供が釈尊の元を訪れ、鉢の中に隠れました。
 戦争が終わり、釈迦族は滅びました。
 隠れていた子供もまた、鉢の中で冷たくなっていました。
 
 釈尊は説いておられます。
「たとえ天空へ昇ろうと、海中へ潜ろうと、深山に隠れようと、自らの業による結果は免れ得ない」
 戦争は国の名において行われる最も罪深い行為であり、そこで作られる悪業は必ず国民へ苦しみをもたらします。
 この共業(グウゴウ)による報いは、直接戦争に参加しない国民へも必ずもたらされます。
 しかも、それは戦争の勝ち負けに関係ありません。

 戦争に勝ち、自らの国土をほとんど傷めなかったアメリカが、第二次世界大戦後、暦の一巡した現在どうなったか。
 戦争に負け、勝ったアメリカと遂には同盟国にまでなった日本が、太平洋戦争後、暦の一巡した現在どうなったか。
 原爆投下について真の懺悔が行われないまま、兵器はいかにその残虐性と破壊生を向上させたか。
 貧困率NO1はアメリカであり、NO2は日本です。
 こうした薄情な国になったことを恥として深く省み、「大和の国」としての国柄を取りもどしたいものです。
 そして、「殺さぬ国」であり続けたいものです。

 もしも釈尊が逃げてきた子供を出家させれば、助けられたかも知れません。
 因縁解脱はすべてを解決するからです。
 しかし、釈尊は、人々が因果応報の真理に目覚めることを願い、そうされなかったのでしょう。
 きっと、心で涙を流しながら子供の成仏を祈られたに違いありません。
 托鉢に訪れたお大師様の鉄鉢を叩き落とした衛門三郎の子供たちが、親の悪業の報いによってすべていのちを落とし、それが衛門三郎の改心と四国霊場巡拝のきっかけとなった故事も、同じ脈絡のできごとです。
 鉢の中の子供を想い、衛門三郎の子供たちを想い、自らの生き方を考えたいものです。
2009
02.19

献体と引導

 献体を希望していた方が突然亡くなられ、ご遺族から質問を受けました。
「遺体が帰ってくるまで引導を渡していただけないのでしょうか?」
 もちろん、そんな心配は要りません。
 なぜなら、引導を渡す相手は役割を果たし終えた肉体でなく、そこから離れてしまった霊体だからです。
 人が亡くなったなら、み仏のお導きによって、霊体にこの世あの世との境を確実に越えていただかねばなりません。
 その修法が葬儀の中身であり、肉体の状態に関わらないのは当然です。
 修法がきちんと行われなければ、切り刻まれた肉体の一部が帰宅するまで、霊体はこの世あの世とどちらにも居を定めることができないかも知れません。
 当山には、献体の決意を告げ、同時に生前戒名を求めて「生き直し」をする方々が来山されます。
 これは、この世安心あの世安心を究極の形で実現するための一つの姿であると考えています。

2009
02.18

2月の俳句 2

雪の夜の机上に歳時記洋酒瓶


 歳時記とは、歳や月といった時の流れのおりおりに生じる行事や風物を記したものである。
 当然、季語なども含まれ、それを眺めているだけで四季の移ろいがイメージされる。
 想を膨らませ、飛翔させ、沈潜する一冊の書にとって、洋酒瓶は格好の相棒である。

寒き夜やワイングラスに彩しづめ


 彩は「色どり」であり、色合いが重なって美しい様子を示す。
 寒さが厳しくて身体も心も縮こまりがちになる夜にワイングラスを眺めると、硬質の輝きが強い存在感を持ち、自分の心から出そびれている思いたちを忘れる。
 心の彩は光の彩に吸収される。

恋猫となれぬ猫抱く夜更けかな


恋猫」とは、発情期を迎えて元気いっぱいになっている猫のロマンチックな表現である。
 作者の飼い猫は避妊手術を受け、年齢も不足はないので、もはや、そうした時期はない。
〈二人暮らし〉の作者はご自身の身の上を猫に重ね、夜更けにじっと息をしている。

いつの間に添寝の猫寒夜かな


 作者の飼い猫は、作者と同居しているにもかかわらず独立独歩で飄然としており、猫本来の生活を満喫している。
 勝手に掴もうとすると爪を立て、引っかいたりもする。
 そんな「ブラ」ちゃんがいつの間にか、作者の寝床の側で寝息を立てている。
 まさに寒夜である。

ねこ柳よりさざ波の拡がれり  作:古田正吉(仙台市)


 ふんわりとしたねこ柳は、水仙や福寿草やバラと違なり、周囲の空気との接点が緩やかである。
 そんなねこ柳が揺れる時、早春の気配が、まるでさざ波のようにゆっくりと周囲へ広がる。
 こうして春は徐々に濃くなる。
 俳人は見えないものを観て、示す。
2009
02.17

【現代の偉人伝】第73話 ─俣野五郎─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦争が生んだ、偉人とされる人々・・・。それよりも、自らを他人のために投げ打って、人や命を助けた人々の生き様こそ、学ぶべきではないでしょうか? あなたの身近にいる偉人を紹介してください!当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



平家物語」の「篠原合戦」に、俣野五郎景久という武者が登場する。
 源頼朝に弓を引き、都へ逃げ帰った一人である。
 同じ境遇の武将たちは毎日酒を飲み交わしながら天下の情勢を眺めているが、日に日に源氏の軍勢が大きくなり、やがては冗談半分に「木曽義仲の元へ走ろう」と言い出す者も現れた。
 ある時、そうした中の一人、斎藤別当が「いかに、おのおの」と問う。
 俣野五郎は進み出る。
「我等はさすがに東国では皆人に知られて、名ある者でこそあれ。
 吉についてあなたへ参りこなたへ参ろう事も見苦しかるべし。
 人をば知り参らせず、景久においては平家の御方にていかにもならう」
(我々は皆、東国ではよく名を知られた武士である。
 形勢を見ながらあちらの味方になったり、こちらの味方になったりと右往左往するのは、見苦しいと思われるであろう。
 たとえ他の人はどうであろうと、私は変わらず平家方についてを尽くし、いかなる結果をもそのまま引き受けよう)
 斎藤別当はあざ笑い、実は皆さんの真意を確かめようとして言ったまでのことであると言い、全員、これまで通り平家方へ加勢する方向で一致団結を誓った。
 やがて戦いの日が訪れ、全員が討ち死にする。

 この文脈では、俣野五郎は斎藤別当の腹を見抜けなかった浅はか者と扱われているが、そうとばかりは言い切れないのではなかろうか。
 斎藤別当の心に「寝返」の二文字がなかったとは限らない。
 あるいは斎藤別当へそう言わせた人々すらいたかも知れない。
 そもそも、「平家物語」で、わざわざ「あざわらッて」となっているのが不自然である。
 もしも試したのが真実ならば、それほどの度胸を持ち大芝居を打てるほどの人物(大石内蔵助を想像してみよう)が、いのちを捨てて義をとろうとする真剣な訴えへ嘲笑で応えるとは思えない。
 まず、「よくぞ申された」という言葉以外のものの出る幕はない。
 確かな真実俣野五郎の言葉にしかなかろう。
 そして確かな事実は、その言葉をきっかけとして全員が後ろ指を指されない生き方と死に方をしたということである。
 他のことは判らない。

 いかなる場面でも、俣野五郎のような人物は光っている。
 心がまっすぐに発揮されているからである。
「源氏方へ逃げた方が利口だったのに。全員死んだなんてばからしい」と思うのは現代人の価値観であって、そう思う人が責められるいわれはないが、当時の価値観をもってすれば、俣野五郎心ありと言うしかない。
 また、いずれの時代であろうと、「吉についてあなたへ参りこなたへ参ろう事も見苦しかるべし」は輝きを失わないであろう。
 当時にあっては、他人の目が大きな壁となって「見苦しかるべし」と言わせたのであろうが、現代ならば、自分の良心に照らして自分の行為を「見苦しかるべし」と判断する姿勢を失いたくない。
 見ているのは、社会としての他人であり、お天道様であり、仏神であり、自分の良心である。
 体面の問題として見苦しい行為を避けるのではなく、我欲煩悩に促される行為を見苦しいと感じる感性を失わず、世間体や義理のレベルを超えたところで「さらし」へ鈍感にならず、一生を送りたい。
 
2009
02.17

ほめる 12

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋である。
 このページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださった。
 感謝してやまない。
 勉強会などを通じてご縁の方々へ紹介しており、寺子屋で参考にさせていただく予定である。

五年 S、H

 きょうUさんのくつが見えなくなりました。わたしと麓さんで、さがしていました。そこへ、中垣さんと武田さんがきて、いっしょにさがしてくれました。
 校長先生が通りかかられて、「どうしたん。」といわれました。「くつがなくなったんです。」と言ったら、校長先生もいっしょにさがしてくださいました。わたし達はとってもうれしくなりました。それは、校長先生まで、いっしょにさがしてくださったからです。
 けっきょく、六年一組の一番の所にはいっていました。
 校長先生、ほんとうにありがとうございました。
                ◆
 二人連名のほめほめでしたね。
 Uさんのくつがみあたらなくなって、二人でさがしていたら、多くの人が、つぎつぎと協力してくれて、やっとみつかったという内容のお便りでしたね。
 歌のことばにもありますね「一人はみんなのために、みんなは一人のために」。一人でも悲しい思いをしないように、その人の気もちになっていたわり合い、助け合う、これが、校長先生のいう、「ほめほめの心」です。
 あなたたちの学級が、担任の先生を中心に、こんなすばらしいクラスになっていることを校長先生は、すごくうれしく思いました。
 これからは 心の合った人たちだけでなくさらに、男女の別なく、きやすく、いたわり合える学級へと進んでくださいね。
 きのうのくつさがしに、校長先生も加わることができたことを、何よりうれしく思っています。

        ◆     ◆     ◆

六年 N・S

 これは、直接「ほめる」ことではありませんが、ほめほめのことに関係はあります。
 それは、ほめほめの中に「名前を言ってほしくありません。」と書く人が多いことです。
 人のいいところをみつけて、みんなにしょうかいし、自分も、そのようにしようと考えるのは、すこしもはずかしいことではないと思います。
               ◆
 直美さん、
初めてのお手紙のように思いますが、どうかしら。
 あなたも書いているように、ほめほめというより、ほめほめに対する意見とでも言った方がよいかな。
 直美さんの意見は、校長先生の「ほめほめの心」を一ばんよくわかっていてくれる人だなと思いながら、このお便りを、うれしい気持ちで読みました。
 校長先生は、人のよいところは、みんなの前でほめてあげたい。なおしてほしいところは、人の居ないところで、こっそり注意してあげたい。といつも思っています。そして、できるだけそのようにしたいと努めてきました。
 直美さんも書いているように、ほめほめは、人の悪口ではないのだから、書く人も、自分の名前を堂々と書いてほしいですね。
 ほめてあげたい人の名も、はっきりさせて、みんなでよろこびたいというのが校長先生の願いです。

 しかし、ほめほめは、自分がよいことをしたのも書いていいことにしていますよね。
 そんなとき、自分の名前が出ると「はずかしい」と思う人もいるでしょうから、そのときは「名前を出さないでほしいです。」と書きそえてもらいたいのです。
 でもね、自分の責任をはっきりするために、ほめほめの手紙には、必ず書いた人の名前も入れてほしいのです。
 すばらしい意見をくれてどうもありがとう。直美さんも、ほめほめの一員となって、どしどしほめほめを出してほしいと思います。


 池に落ちた木の実が水面に同心円状の波紋を作り、それがどこまでともなく広がるように、誰かが善いことを行い、それが連鎖的に広がる。
 これが「徳、孤ならず」の深意ではなかろうか。
 徳のある人は決して孤独にならないというのが第一義だが、徳の高い人は必ず善き感化作用を持っているものであり、徳の香は風に逆らって進む。
 きっと、この学校からは、そういった人々が輩出したことだろう。

 また、子供たちはすでに名前の持つ意義について気づき、自己顕示欲のまとう汚れについてもうっすらと気づき始めている。
 校長先生は、ます、勇気責任という感覚で導こうとされ、同時に、生徒の気持を汲んですべての生徒がこの活動に参加できるよう気配りをしておられる。
 こうした地道で確かな活動を続けられた校長先生の日々を想うたびに、何度でも頭が下がる。
 生半可なことは許されないと、強く思う。
2009
02.17

第十一回、映画「チベット チベット」を観る会が終わりました

 2月7日はのっぴきならぬ事情があり、以下の文面にてご挨拶申し上げ、弟子へ司会進行を任せました。
 参加者の方々と質疑応答などができなかったのは残念でした。
 次回はまた、いつものようにテーマを決めて、み仏の教えなどをお伝えする予定です。

 立春を過ぎたとはいえ、まだ「春は名のみの」風の寒さがこたえる時候の中をこの会へおでかけいただき、まことにありがとうございました。
 心より感謝しております。
 本来ならば、責任者である私が直接、皆様へお礼と趣旨の説明を申し上げねばなりませんが、万やむを得ざる事情により、本状にて失礼させていただくことをお詫び申しあげます。
 チベットの悲劇は一国家、一民族のみに関わるできごとではなく、今、地球上で呼吸をしている私たち人間の文明全体のありようが問われている大問題であると認識しています。
 およそ何ごとにも「分」というものがあります。
 現代文明は、人間に与えられている分を超え、許されざるところまで欲望の矢を届かせようとしているのではないか、それは、当然、ただならぬ報いを招くであろうと危惧してもいます。
 気づいた一人一人が問題意識を保ち、考え、自らの意志をもって語り、動くことによってしか、共に作る共業(グウゴウ)を変えられません。
 この体験が皆様とこの世にとって大きな意義を持つであろうと確信し、お詫びとお礼のご挨拶を終わります。
平成二十一年如月七日
大師山法楽寺住職遠藤龍地拝
ご縁の皆々様へ


 さて、「仏法はいかにして人々の救いとなるか」といえば、それは「心の訓練による」が答です。
 私たちの心のはたらきは、その一瞬一瞬のすべてを自分の意思が決定しているのではありません。
 生まれ持った過去の因縁による心の傾向を基礎とし、生まれてからたった今を迎えるまでのすべての時間がもたらしたあらゆる因縁が建物となった無意識全体が「心の習慣」として動きのほとんどを制しています。
 たとえば、仕事から帰宅したならまずお風呂へ入り、ビールを一杯飲むといった習慣を持った方が、帰宅後すぐに食事を摂り、ビールをやめてお茶にすることは、そう容易ではありません。
 自分のリズムを変えるのは大変です。
 まして、それが「快」でなく「苦」と感じられる方向へ切り替えようとすれば、大きな努力を要します。
 しかし、放っておけば「好き」で「快い」方向へ作られる習慣には、埋もれ火のような煩悩が伴っています。
 前の例を考えれば、家で息抜きをするために役立つ一杯のビールが、飲み過ぎによる体調の不良やアルコール中毒への入り口などとなる可能性は常にあるのです。

 全体的な救いは、「歩むべき人の道を歩む」以外の方法によってはもたらされません。
 やっかいなのは、自分本位を通せば、それが人の道に反していても一時的には「快く」、実利すらもたらす場合があることです。
 たとえば子供なら、気に入らない子を叩いて泣かせれば気持がスッとし、意気揚々と帰宅しておいしい晩ご飯を食べるかも知れません。
 万引きによってスリルを味わい、盗品を換金して遊興に溺れる人は、逮捕されるまで、おもしろおかしく日々を過ごすことでしょう。
 しかし、暴力をふるう人は必ず暴力によって泣く日が来るし、盗みが習慣になった人へは監獄が待っています。
 そうした罪に彩られた〈好きで快い〉破滅への道から脱するには、自分本位を抑えることによって〈嫌で辛い〉と感じられる方向へ向きを変えるしかありません。
 それが仏法による心の訓練です。
 その手助けをしてくださるのが守本尊様をはじめとするみ仏であり、教えと法力であり、教えを学び実践する人々、つまり三宝です。
 次回から8回にわたり、ダライ・ラマ法王も実践しておられるという8つの訓練法についてお話しましょう。
 
 第十二回「チベット チベット」の上映は3月7日(土)午後7時より行います。
 皆様の参加をお待ちしています。
2009
02.16

2月の俳句 1

 2月は如月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木悦子さん(仙台市太白区在住)の句です。
 鈴木さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

一人居の夜のしじま寒の雨


しじま」は、「密度の濃い静寂」といったイメージである。
 外は天地いっぱいに冷たい雨が降っており、心には孤愁が広がっている。
 この世は決して空虚ではない。
 しかし、今、そこに満ちているものは、「しじま」としての孤独感である。

ひもすがら五体不機嫌寒の雨


 三寒四温の頃は、どうしても体調を崩しがちになる。
 それが「ひもすがら(一日中)で」あっては大変だ。「不機嫌」はありそうでない表現ではなかろうか。「不調」なら身体の問題だが、心身が連動し、糸のような春雨への興趣すら失われてしまった。

寒に入り気付けば歩幅小さくなる


 春を迎える直前の小寒大寒は、一年中でもっとも寒い時期である。
 どうしても身体が縮こまってしまう。
 作者はそれを歩幅に観た。
 隠形流居合で修する風神の剣でも踏み込みを重視する。
 稽古を五回、十回とくり返すうちに身体が暖まり、だんだん大きくなるものである。

わが腕(カイナ)ひしと抱きしむ寒の風


 寒の時期に吹く風は、いくらコートを着ていても、マフラーをかけていても、情け容赦なく身体の表面から芯へと冷たい刃を突き刺してくる。
 無駄と解っていたとて襟元を固く閉じ、体温を奪われまいと腕を組み、皮膚と衣類を密着させないではいられない。

更けし夜無音は雪の降る気配


 雪のしんしんと降る夜は、不思議なほど静寂である。
 それは、私たちの耳では識別できない雪の降り積もる幽かな音が空間を埋め尽くすからではなかろうか。
 耳は無音であると判断しても、研ぎ澄まされた第六感は気配をきっちり捉えている。

物音を吸ひつくしてや雪の


 雪が降るのは、ダイナミックな自然のいとなみである。
 人間の力など芥子粒ほどもないと思わせる深遠なうねりである。
 そこに生き、私たちと交感するものを「」という。
 舞い降りる雪のたちはあらゆるものを真っ白に覆うだけでなく、物音まで覆い隠してしまう。
2009
02.15

ご加持(カジ)の会 ─クリスタルボウルと共に─

 下記の要領でご加持を行います。
 ご加持とは、守本尊様の法が結ばれた世界へ入ることによって、仏心が動き、いのちのエネルギーが回復する秘法です。
 お大師様より伝わる修法は知らぬ間に心身を揺り動かし、その歪みや疲れを癒し、願う方向へと導いて救います。
 ちなみに、私がこの道へ入ることを決意した大きなきっかけの一つが、教えを聴いてその道理に納得し、ご加持を受けて法力の実在を実感したことです。
 法力といっても、行者がそれを使う超能力者であるということではありません。
 救いを求めて法を受ける方の願いが、法を結ぶ行者の祈りをアンテナとしてみ仏の世界へ届き、み仏の世界から発するご加護の力が行者のアンテナを通して受ける方へ〈加わり〉ます。
 受ける方は、心身をリラックスさせているうちにそれをしっかりと〈保持し〉、修法が終わった時は癒しを超えた救いがもたらされています。
 だから、ご〈加持〉といいます。
 お大師様は、庶民から天皇陛下に至るまで、ご加持法を用いてお救いになられました。
 正統な行者は、今も、同じようにこの法を結び続けています。

 最近、クリスタルボウル奏者の橋里佳さんが行者となり、修法に加わっています。
 天界の音に包まれながら、異次元のひとときをお過ごしください。 
 
 なお、参加したからといって入信を強制したり、何かを買わせるようなことはまったくありません。
 ただただ、釈尊の示された救いの世界へ入るためにお大師様が遺された宝ものを、皆さんと分かち合いたいと願っています。

一 日時 平成20年3月21日(土)午後6時より午後7時まで
        午後5時30分から開場
一 場所 仙台青年文化センター3階和室
        仙台市青葉区旭ヶ丘3─27─5
        022─276─2110
一 会費 無し(ご志納金はお心のままに)
一 申込 葉書:(981─3624)黒川郡大和町宮床字下小路45─1
       電話:022─346─2106
       ファクス:022─346─2107
       メール:ryuuchi@hourakuji.net
一 注意 敷き並べた座布団の上で横になります。コートやタオルケットを持参してください。

※個別のご加持は、随時、行っています。
 お気軽にお申し込みください。
2009
02.14

もやしもん

 漫画『もやしもん』を読みました。
 農業大学で菌や醸造を研究している人たちの日常を描いた作品です。
 人間には識別できない細菌の活躍ぶりがちゃんと見える沢木惣右衛門直保が主人公になってはいますが、誰が王様でもなく〈皆で瞬間瞬間に創りだす現実〉が描かれ、登場人物たちはそれぞれに生を謳歌しています。
 平成16年『イブニング』に初登場して以来、人気を集め、平成17年に第一刷が発行された単行本第一巻は、平成20年に第24刷を数えるに至りました。現在は第7巻まで登場しています。

 あらためて考えさせられたのは、解放体験の大切さです。
 保育所・幼稚園から始まり、小学校へ入り中学校を出るまでは社会で生きる人間としての準備期間です。
 自分の将来像を具体的に描けるようになる高校で飛躍し、社会へ出る人もあれば大学などへ進む人もあります。
 それぞれの人生は比較対照を許さぬ絶対的なものではありますが、大学生として過ごす数年間の価値は、他に代え難いものがあります。
 とにかく、自由な夢想が許されます。
 親元で暮らし小さい頃から知っている仲間の作るグループ内にいるのとは全く異なる空間で、予期せぬ出会いや考えてもみなかった発想の連続が知らなかった自分を目覚めさせ、新しい夢想がどんどん膨らみます。
 キャンパスは、魔法の村のように一人一人を解放し、連帯させ、個を創り固めてくれます。

 よく「日本の大学は入学が難しく、卒業が簡単である。これではいけない」という批判が耐えませんが、いかがなものでしょうか。
 もちろん目的の学部へ入るとはいえ、実際は、学生のほとんどが、入学してから自分の道らしいものを見いだすはずです。
 この見つかるまでの〈過程〉こそが、人生にとってかけがえのない体験ではないでしょうか。
 学んだ学問が直接役に立つ仕事に就くとは限らず、見つけたはずの道ではないところへ歩を進めるかも知れません。
 しかし、体験は必ず発酵し、時を待って、人生を切り拓く具体的な力となります。
 その意味で、『もやしもん』は、大学を、教育界や親にとってではなく、学生にとっての理想郷として描いています。
 だからこそ、圧倒的な支持を得たのでしょう。

 現在、大学進学は金銭的に難しくなりつつあり、格差社会となりました。
 一方で、若者は自衛隊へ体験入隊させて鍛えなければならないという意見もあります。
 しかし、学ぶ意欲を持った若者が解放体験を味わえる日本であり続けて欲しいと願ってやみません。
 アニメや科学的研究の成果に代表される現代日本の文化は、夢想の成長を許す精神風土が結晶させた宝ものだからです。
2009
02.13

お授け 2

 例祭で行うお授けです。

2 三帰(サンキ)

「弟子某甲(デシムコウ)
 盡未来際(ジンミライサイ)
 帰依(キエブツ)
 帰依(キエホウ)
 帰依(キエソウ)」


(この身今生より未来際を盡くすまで、深く三宝帰依したてまつらん)

 最初に懺悔を終えたならば、「みの弟子である私は、未来永劫にわたって、み帰依したてまつり、帰依したてまつり、侶へ帰依したてまつる」と、帰依の覚悟を披瀝します。
 
「某甲」とは誰々という意味で、唱える人自身を指します。
「未来際を尽くす」とは、いつまでと特定できない未来のすべてにおいてという意味です。
 それは、帰依の持つ永遠性を示しており、「帰依してみる」ということはあり得ません。
 では「帰依」とは何か。
 まず、「趣向」とされ、自分という存在をふり向け、投げ出すことです。
 頭を地へ付けてみのお御足をいただく礼拝をする時、すべてはみへお任せしており、こちら側に残っている〈自分〉のものはありません。
 正に「身も心も」すべてを捧げるのが帰依です。
 残っているものがないので、未来永劫にわたってみ仏の世界の住人です。
 だから、帰依はもう一つの意味「救護」を持っています。
 み仏は帰依するすべての人々を必ず救い護ってくださるのです。
 み仏は「見捨てない」存在であり、仏を信じ、み仏を敬い近づこうとする行者も信徒もまた、決して見捨てない人間となることが求められています。

「仏」とは、覚者すなわち覚りの世界におられる方であり、地上に現れた釈尊やお大師様、宇宙に現れた阿弥陀様やお地蔵様、そして宇宙を抱え持つ大日如来などすべてのみ仏です。
」とは、説かれた教えとしての仏であり、真実世界のエネルギーである力です。
」とは、み仏と教えを信じて修行し、体得し、救いを求める人々のために法力をもってはたらく行者であり、それを護り広めようとする在家の方々です。
 侶が宝ものとされ帰依の対称になるのは、袈裟衣をまとって寺院にいるからではありません。
 修行の結果として得られたなにがしかの力をもってご縁の方々のために日々、自らを捨て、僕となってはたらかせていただくからです。
 仏法へ帰依し護る在家の方々もまた宝ものとして帰依されるのは、そうした方々のお支えがなければ寺院は成り立たず、法は廃れるからです。
 お大師様は、「法は人によって興り、人によって滅ぶ」と説かれました。
 行者と支える方々は車の両輪なのです。

 こうした点から考えると、宗教芸術は似ています。
 宗教家も芸術家も利を求めず、意義と価値を認める人々の支えなくしては成り立たないからです。
 また、まっとうな宗教やまっとうな芸術がたずさわる人間へ相応な利をもたらすとは限らず、宗教芸術も利に賢い人々に利用されやすいからです。
 ここで提案があります。
 自分が「これだ!」と思った本は買って読みましょう。
 皆が図書館を無料貸本屋と考えて便利に利用するだけになったなら、上質の芸術たる文芸は滅びます。
 なぜなら、本が売れないと作家は困窮するからです。
 たとえば、回転寿司でたらふく食べて使う千円があれば、上質な本一冊が買えます。
 それを手の垢がつくほど読む人は、千円の何万倍にも値する魂の向上を得、そうした人々の使う千円が積み重なれば、作家はいのちを永らえながら信念一筋の活動を続けられます。
 たとえ一ヶ月に一冊でも、上質な本を買おうではありませんか。

 脱線しました。
 次回へ続きます。
2009
02.12

八方塞がりの過ごし方 3

 かつて、ナチスがユダヤ人を閉じこめたアウシュヴィッツから奇跡の生還を遂げたプリーモ・レーヴィは、『アウシュヴィッツは終わらない』を書きました。
 その中に、彼が友人へダンテの『神曲』を講義する場面があります。
 死を避けられない絶望の淵に立ちながら彼は真剣に話し、友人もまた全身全霊で聴きました。
 ある日、連れ去られた友人はそれっきりとなり、残された彼は生還を果たして収容所の様子を記します。
 この講義こそが〈具体的な目的を持って行う祈りを超えた〉善行ではないでしょうか。
 絶対的で崇高な人間の営みの前で、私たちは「何のために行うのか」という問いを発し得ません。

 それは末期医療の現場ではたらく方や、死刑囚へ人の道を説く教誨師に受け継がれています。
 人間の尊厳を守り、保たせる最後の砦となるものが芸術であり、宗教であり、裸のままの人間そのものを見捨てないあらゆる善行です。
 こうした行為を可能にする霊性の純粋な凝縮体がお地蔵様ではないでしょうか。
 だからこそお地蔵様は、「是非善悪を見分ける」虚空蔵菩薩様や、「悟りへの道筋を示す」普賢菩薩様などと異なって、司る時期や方位や個々の具体的な願いなどを持たず、いつ、どこにあっても大地のように私たちをお支えくださっていると説かれるのでしょう。
 こうしたお地蔵様へ近づくためには、絶望的状況にある人々を見捨てないことです。
 そこからきっと、その人に住むお地蔵様がその人にできる崇高な行為をさせてくださることでしょう。

 最近、日本の経済界の理論的指導者である中谷巌氏が、自分の主張は間違っていたと発表しました。
 彼は小泉首相の諮問機関である「経済戦略会議」の議長代理として小泉構造改革をリードしましたが、その中心においたグローバル資本主義の推進が日本に深い傷を負わせたと認めたのです。
 2月11日付の読売新聞で、それを3つにまとめてあります。
 第一は、「バブルの崩壊と世界の大不況」です。
 巨大な国際資本が国境を越えて自由に世界中で暴れ回れば、時にはバブルが起こり、やがては反動としての不況がやってくるのは当然ですが、それを野放しにしました。
 第二は、「貧困層の増大と社会の崩壊」です。
 日本の貧困率(中位所得者の所得の半分以下しか稼げない貧困層の比率)は14・9パーセントに上り、最悪のアメリカに次いでワースト2となりました。
 ちなみに北欧諸国は5~6パーセントです。
 また、会社や地域などあらゆるところにあった一体感や信頼感が崩れ、孤独者・孤立者が彷徨する無惨な社会になりました。
 第三に、「地球環境破壊の加速」です。
 自分の儲けのみを貪欲に求める国際資本は、環境を保護する規制の緩やかな所を探してなだれ込むために、結果として地球全体の環境の悪化が進むのです。

 学者が自説の誤りを認めるにはとてつもない決断を要します。
 彼にそれを促したのが何だったかは、この一行にあります。
「とりわけ、貧困大国となった日本社会をもう一度『一体感』のある温かい社会に戻すには何が必要なのか」
 きっと、冷え切った社会の片隅で凍えている人々の姿が、一学者のお地蔵様を目覚めさせたのでしょう。
 当山は、小泉内閣のスタートにあたり「シヴァ神(強大な破壊の神。オウム真理教の主神)の登場である」と指摘し、その後も、時間をかけた工夫や多様な願いを無視する姿勢に無慈悲の刃を観、政治的な視点からではなく人道的な視点から強く注意を喚起し続けましたが、とうとうここまで来てしまいました。
 何はともあれ、「温かい社会」を取りもどすには、一人一人が胸におられるお地蔵様に導かれてできることを行うしかありません。
 こうした社会を作ったのは、まぎれもなく私たちです。
 ならば、それを糺すのも、私たちをおいて他には誰もいないではありませんか。

 八方塞がりについて書いているはずが、かなり脱線しました。
 しかし、海外から外貨を稼いで潤った日本が、不況と円高のために八方へ伸ばしていた手で富をつかみ取ることが難しくなった状況は、八方塞がり的であると言えなくもありません。
 欲の目で周囲を見渡すよりも、精神的な高みへと意識を向け、お互いが温かい人間性を取り戻す時代になったのではないでしょうか。

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2009
02.11

教育と寺子屋 ─ブラックボックス─

 以前「仰げば尊し」に書いた。
 
「教えを受けた先生方には尊さを感じ、指導者の徳と力をも感じていた。
 母とも思えたK先生、人気テレビ番組の主人公ライフルマンのようにどっしりといていて頼もしいS先生、クラシック音楽などに目を開かせてくださったI先生、指導力を教えてくださったS先生、どなたも、まぎれもなく師であり聖職者だった。
『恩』を受けたのは確かである。
 今や、学校が商売になり、先生が生徒をお客さんと称し、父兄が先生より偉くなり、聖職者というものはなくなった。
 生徒が絶対的に信頼できる先生がおられ、生徒が恩に浴して先生を仰ぎ見ていた時代は去った」

 人を育てる学校までが「勝手に初め、勝手に儲け、勝手に潰れなさい」と弱肉強食の修羅場へ放り出され、損得を離れた頭を使って行う真の教育は不可能になりつつある。
 教育は売り物になり、学校は、お得意さんを獲得するために、まず親、そして子供に喜ばれる商品を用意せねばならなくなった。
 最も喜ばれる売り物は、容易く確実に点数を上げる技術である。
 技術は子供の成績により客観的に評価され、親は血眼になってより高い技術を求め、高い費用を払う。
 費用を用意できない親の子供は低い技術しか得られず、親の貧富と子供の学歴は限りなくパラレルになりつつある。
 それは、子供が大人になった際に得られる収入の多少につながる。
 自由競争が、地位や収入に恵まれる者は代々恵まれ、地位や収入に恵まれない者は代々恵まれない階級社会への扉を開いた。
 代々恵まれている二世・三世の政治家たちの多くは、その冷たさ、無慈悲さをなかなか理解できないのではないか。

 また、「国のためにこうした精神でやりなさい」と教師の心の持ち用は厳しく制限されつつある。
 しかし、制限を強めることにいかなる価値があるのか。
 およそ教育者たらんとする者には、必ずそれなりのがある。
 は、時の権力者たちの意にかなうとは限らない。
 自分の頭でよく考える若者は、必ず現状に問題点を見いだし、「こうあらねばならない」と自分なりの目的を定める。
 学校は、そうした人々がお互いのをぶつけ合い、あるいは確認し、あるいは修正しながら生徒に接し、現場でのフィードバックを最高のきっかけとして教師が成長する場であり、結果的に教える側の成長が教えられる側の成長を促す聖なる空間である。
 自分の〈儲け〉も、お上の〈評価〉も眼中になく、ただただ生徒のために工夫をして止まない教師の〈無我夢中の姿〉が生徒にとって最も価値あるものであり、そこで起こる感化作用をこそ「教育」と呼ぶべきではなかろうか。

 つまり、損得を離れ、あまりお上の意向がはたらかない自由な空間が確保されなければ、真の教育は成り立たないのである。
 それは祈りに似ている。
 誠心をもって祈る時、結果は百パーセント、み仏へ〈お任せ〉である。
 祈りは、ブラックボックスを通って結果をもたらす。
 結果がいかなるものになるかは判らない。
 それを「神のみぞ知る」という。
 しかし、必ず、誠心に違わぬ何ものかがもたらされる。
 教育も同じではないか。
 聖職者たる教師の教育にかける熱情が現場に投げかけられ、生徒は育つ。
 生徒がいかなる成長を見せるかをあらかじめ知ることはできないが、そこには、必ず熱情が反映されている。

 当山の寺子屋も、こうしたダイナミックかつ聖なる空間でありたい。
2009
02.10

八方塞がりの過ごし方 2

 八方塞がり年の守本尊様は地蔵菩薩様です。
 お地蔵様は、生まれ、死ぬ時期や場所、また、過去・現在・未来を貫く因縁の糸を観られます。
 人生の区切りやつながりを知った上で導くとはどういうことだろうかと考えさせられます。
 
 当山には不治の病に罹った方や、そのお身内の方などがひんぱんに訪れます。
 そして祈願をし、ご加持を受け、あるいは奇跡的な回復をし、あるいはガンなどの進行が止まり、あるいは力尽きて別れとなります。
 お地蔵様はいつ、どこででも、誰のためにも、等しく寄り添い救ってくださると説かれています。
 私たち行者もまた、そうした救済力を信じてどなたへ対しても等しく祈ります。
 病魔に克って笑顔が取り戻せますよう、無事安全に赤ちゃんが生まれますよう、はたらき口が見つかりますよう、………。
 み仏を信ずる行者は、祈願をかける方にとって最善の結果をいただけると信じて祈り、祈願する方は、もちろん、成就を念じて祈ります。
 双方が「信」と「希望」を持っているからこそ、思いの丈をかけた祈りが行われます。
 祈りは、仏神を信じない方からは冷笑されるかも知れませんが、人間が行う努力の最終形態です。
 医者や薬を求め、「アカチャンホンポ」などで必要な限りのものを用意し、まじめにハローワークへ通ってなお、祈るのです。
 ロケットを打ち上げる時すら、「5・4・3・2・1・0」とカウントダウンされる間、関係者の多くはその家族も含め、祈る思いで過ごされることでしょう。

 しかし、結果を知っているならば、祈られるでしょうか。
 あるいは病人が明日亡くなると知っていて、あるいは出産する日時を知っていて、あるいは2年後にしか就職できないことを知っていて、尚かつ祈りは成り立つでしょうか。
 すべてをご存じのお地蔵様は、そうした地点から病人へ安心を与え、妊婦を支え、求職者へ希望を失わせないよう導かれます。
 私たち凡夫は、祈りを持っているからこそ善行に邁進できますが、お地蔵様は〈祈りを超えた次元〉から無限の慈悲を発揮し、救済されます。
 み仏の持つお慈悲の絶対性、途方もないありように、ただただひれ伏す思いです。

 さて、こうしたお地蔵様に導かれる私たちは、どのように過ごせば良いか。
 それは、導く方へ近づくことであり、究極は導く方に成りきることであり、即身成仏です。
 しかし〈祈りを超えた次元〉からの善行など、凡夫に可能でしょうか。

[お地蔵様は護摩の火にも現れます]
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2009
02.09

八方塞がりの過ごし方 その1

 八方塞がりと言われる年回りになった場合の過ごし方を述べます。

 八方塞がりの年にあっては、むやみと横へ手を広げるより合掌して仏神を仰ぎ見、天災などに注意することを第一にせねばなりません。
 そうして高みを目ざしつつ自然に行われる拡張や膨張であるならば大丈夫です。

「塞がっている」とは、「隙間がない」ことであり、我(ガ)をそのままに発揮しようとすれば壁にはね返されるような感覚に陥りやすい年回りです。
 右へ自己主張すれば新規のものとなじみ、左へ自己主張すれば言葉を慎みながら和合し、前へ自己主張すれば出会った人の困難に助け船を出すといった智慧が求められます。
 そうした〈状況に合わせる水のように素直な心〉は常に必要ではありますが、家で気ままに寝ころぶ裸の自分と同じ感覚でさりげなく散歩する融通無碍(ユウズウムゲ…遮られず伸び伸びした状態)な気分をどこかで発揮しないと、苦しくなるやも知れません。
 だから、空を仰ぎ見るのです。
 流れる雲を見て無窮を感じ、星や月を見て永遠を感じ、矮小な自分を包む壮大な仕掛けの運行を観ずれば、そこには解放が待っています。

 昨日ご加持を受けた方が、終了後、しみじみ言われました。
「合掌している両手から温かいものがフワッと出てきて、後に引かれました。
 寝ている間は、まるで仏様の手のひらに載せていただいているような気分でした。
 仏様は私たちを手のひらで救いとってくださるそうですが、本当にそういう実感ってあるんですねえ」
 塞ぎこみ、自分一人で〈解放〉するのが難しい時は、ご加持を受けてみてはいかがでしょうか。
 ご加持とは、み仏の慈悲のお力をまっすぐに我が身へ受ける秘法です。
 前方へ足を伸ばして合掌しているうちに背中から大地へ引かれ、そのまま仰臥しているだけで心身の不自然な状態が解消されて、いのちの力が回復します。
 これからは、可能な限り、高橋里佳さんのクリスタルボウルの演奏を伴う修法にしたいと考えています。

 さて、天災は文字どおり天のもたらす災いであり、人知をもって避けることはなかなか難しいものですが、人間から失われつつある天地と交感する感覚を回復させれば、ボーっとしている状態よりは遙かに速やかな対応が可能となります。
 その昔、草原で暮らしていたご先祖様は、遙かな空に浮かんだ一片の黒雲で嵐を予感し、風に乗った微かな気配で危険な獣が近づくのを知りました。
 現代人がこうした感覚をとりもどし、天災に代表される突発的な事態により大きな打撃を被ることを極力避け、与えられたいのちを目一杯に活かすためには、まず〈仰ぎ見る〉ことであり、自分が天地自然の一部であると実感する体験を重ねることです。
 梵字の「阿」に象徴されるみ仏の世界へ入るご加持もまた、交感の感度を高めます。

 八方塞がりだからといって、むやみに恐れ、萎縮する必要はありません。
 智慧をはたらかせ、大切な力を取りもどし、霊性を高めつつ発展する貴重な一年にしたいものです。
 1・10・19・28・37・46・55・64・73・82・91・100歳(数え歳)の方々、合掌しましょう。
 高みを目ざしましょう。

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2009
02.08

お別れ

 出棺経から、ご遺体について行き炉の扉が閉まるまでの時間は、ほとんど言葉が出なくなります。
 葬祭会館の方や斎場の方からのご質問などへは自動的にお応えするし、時候の挨拶なども必要な場面では行いますが、ほとんど「上の空」です。
 故人が〈自分の肉体が処置される〉のを知っておられると感じているからです。

 枕経ではしっかり不動明王のご加護をいただき、悪しき便りが届かぬよう、魔ものや亡者が近づかぬようお護りします。
 通夜では位牌を用意してみ仏から降りた戒名を告げ、戒律を示した経文を読み、引導への心構えをつくっていただきます。
 出棺経では固定していた地結を解き、後に執着心を残さぬよう、汚れなきみ仏の無漏智を重ねてお授けします。
 斎場での最後の修法では、この世のあらゆる因縁を解き放ち、不動明王のご加護を重ねて祈ります。
 そして、炉の扉が閉まるまで不動明王の真言を唱え続けます。

 この間、意識せぬうちに辛さが溜まり、斎場でご遺族が控え室へ移動される頃は、恐らく、私の顔は表情を失った状態になっているはずです。
 法の中ではみ仏と一体になっていますから一切の障碍を受けませんが、同時に、一人の人間としてご遺族と近い心で状況を受け止めているという部分もあるのです。
 それは、外界から入った情報に対し、脳幹や脊髄が生きものに共通した受容を行う一方で、大脳皮質などが内部モデルに照らし合わせ、その人特有の判断を行うことと似ているのではないかと考えています。
 脳は幾重にもはたらき、その歴史は潜在意識へと沈潜し、「人となり」を左右します。

 全身全霊で引導を渡すと、持っているエネルギーが一気に数分の一まで落ちてしまう実感があります。
 その直後に根本教典『理趣経』を読み始める時が最も大変であり、ここへきちんと入れなくなったなら、一人でお送りすることはできません。
 最後にご参列の方々へ供養の意義を申し上げて、一連の流れは終了します。
 引導に立ち会った皆さんは辛い、私も辛い、しかし、人生で最も厳粛な気持になったところでみ仏の教えが説かれることこそ、故人への最高の報恩行であると信じ、特殊な場合を除き、五種供養の法話は欠かしません。

 百ヶ日までの法要が終わる頃には、すっかり空気が変わり、皆さんの表情にも穏やかさが戻っています。
 そこで法話を行う私の表情にもゆとりがあるはずです。
 会食が済んで法友となった者同士が別れの言葉を述べ合うところには絶対の信頼感があり、お互い、み仏の子であると実感して会場を去ります。
 ご遺族と法を結ぶ行者とは、心の流れを共有し、み仏に救われる永遠の法友です。
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