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2009
05.31

古民家

 築300年以上経った古民家がとり壊されるというので、保存を願う大学教授などと共に、山形県鶴岡市へ向かった。
 宮城県は早朝から雨降りで、長靴をはいてでかけたが、山形県へ入った途端に雨があがり、かんかん照りの下での調査となった。
 茅葺きの屋根はもう雪に耐えられず、ブルーシートがかけられてはいたが、300年以上もの長期間、智慧と工夫で保存されてきた人の住む家の存在感は圧倒的である。
 目立たぬように祈り、浄めてから内部へ足を踏み入れた。
 居間も客間も、もう、床が抜けかけており、つい最近までご家族が住んでおられたとは思えない。
 しかし、我が身をふり返り、去年まで、同じように床が抜けかかり湿気とカビに占領されたプレハブに住んでいたことを思い出すと、苦笑してしまう。
 外観も、内側もボロボロではあるが、紫がかった焦げ茶色に底光りする床柱や梁の一本一本が神々しさを湛えており、合掌させられた。
 彼らが江戸時代からここに住む人々の家を支えてきたのだ。
 私たち人間とは、もはや、次元の違う存在だ。
 ハシゴをかけて二階、三階へ上ってみるとススやホコリやクモの巣などが行く手を遮る。
 いずれも明かり取りが少なくてかなり暗い。
 長方形や三角の窓の向こうに小さな青空が見えると、まるで昔話の世界へ入ったような気分になる。

 茅葺き屋根を維持し、床などを補強しながら快適な生活をするためには、一般家庭では負担しきれないほどの経費がかかるため、こうした古民家は次々に取りつぶされているという。
 移築するにも、普通の住宅を建てる以上の費用がかかり、そうした希望者もまれにしかいない。
 舛岡教授は住民の方々や自治体の幹部へ古民家の価値を説き、有効利用の方策などを示しながら奮闘してはおられるが、時代の流れに抗することは難しいと言われる。

 もしも解体して当山へ運ぶことができれば、いずれ、形あるものにして異次元の空間を造りたい。
 足を踏み入れた瞬間に「エッ!」と感じてもらえれば、それだけで、日常生活の中ではたらいている感性とは異なる部分が動き出すに違いない。
 それは、きっと、霊性の開発につながることだろう。
 成り行きが楽しみである。

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2009
05.30

崩れへの抵抗力 ─高窪統教授殺人事件に思う─ (2)

「僧侶になって最初の修行は、チベット仏教などにも見られる五体投地(ゴタイトウチ)から始まります。
『こうしよう』と思っただけでは、なかなか生き直しはできません。
 思うだけで心をつくることはできません。
 だから、身体も言葉も総動員します。
 身体は、両膝・両手・額を地につけてひれ伏します。
 言葉は『南無帰命頂礼(ナムキミョウチョウライ)大日如来慚愧懺悔(ザンギサンゲ)六根罪障(ロッコンザイショウ)滅除煩悩(ボンノウ)滅除業障(ゴッショウ)』です。
 モノ、金、立場、経歴など自分にまつわるすべてを離れ、自分が宿っていると思われる身体全体も投げ出して、帰依します。
 み仏はあまりに尊く自分はあまりに愚かであり、それを感得してしまった以上、すなおに降参するしかとるべき道はないのです。
 生きている瞬間瞬間に目や耳や鼻や下や皮膚や意識を使って作る罪障を懺悔し、自他を傷つけ苦しめる煩悩と過去の悪業を解消できるよう、おすがりします。
 これが修行の入り口であり、これがしっかりできず余分なものを残していれば、修行は形だけのものとなり、場合によっては我を強めてどうしようもない人間をつくってしまう場合すらあります。
 だから、み仏そのものになろうとする密教では、法を授かる前に厳しいチェックがあります。
 詳しい内容は書けませんが、たとえばマンダラを前にして目隠しをされ、花を投げて落ちた場所によってお導きくださるみ仏が決まる投華得仏(トウケトクブツ)もその一種です。
 お大師様が中国で行った時は、二度共、大日如来でしたが、いざ投げる段になってどうしても投げられなかったりマンダラの外へ投げてしまったりして縁の結べない方もおられます。
 み仏の法はありがたく、恐ろしくもあり、ごまかしは通用しません。

 私の場合、実際に無一文になり、この道のみが行く手を照らす燈火として待っていたことを思う時、あまりに煩悩、業障が強く、み仏が強制的に不要なものをはぎ取ってくださったのだろうという答しか出てきません。
 ただただひれ伏すのみの日々は、破滅の先にしかなかったのです。
 自分が根無し草であることをよく知っていながらその不安にきちんと向かい合わず、バリバリはたらき、ガンガン遊び、モノ金が増え、立場が上がる勢いに埋没していった日々は、必要な序章でした。
 しかし、あまりに多くの方々へ迷惑をかけてしまい、本論へ入るための代償は大き過ぎました。
 
 こうした体験を経て、日々、皆さんと喜怒哀楽を共にしている今、いよいよ追いつめられる前に〈自分を投げ出す体験〉〈ひれ伏す体験〉をしておくことの大切さを考えています。
 実際に身体を使い、言葉を発し、観想をもって頭でっかちがつくる自分という幻影から離れる体験は、〈自分らしさ〉というこだわりを少しは薄めるのではないでしょうか。
 だんだんに、〈自分らしい自分〉を自分の外側につくって逃げることもしないで済むようになりはしないでしょうか。
2009
05.29

ペットの供養と存在意義 2

 今日も、お地蔵様の経典を読み、亡くなったペット供養を行いました。
 帰り際、Aさんから質問がありました。
 以前、機関誌『法楽』にも書いた『ペット供養と存在意義』にある
同居しての安心感という意味で最も重要なポイントは、もしも関係が意にそわない状態になったなら飼うことをやめられるという点です」
の部分がどういう意味か解らないと言われます。
 Aさんの顔を見て、「飼いたくなくなったなら手放せばよい」と読まれたのだろうと判断しました。
 確かにこれだけでは「自分の都合で飼ったペットは、自分の都合で勝手にどこかへやってしまえるから便利だ」としか読めません。

 もちろん、真意はそうでなく、飼い主の心の不調や家族関係の変化によってペットがないがしろにされたり、虐待されたりするケースについて憂慮しているがゆえに、ペットのためにも人間のためにもきちんとして欲しいという気持で書きました。
 たとえば、心が荒んで、今までかわいがっていたペットをいじめてしまう、世話をする気持になれない、あるいは、新たな同居人がペットをかわいがらず虐待するなど、人間同士で起こる問題は、ペットと人間との間にも起こります。
 人間同士は簡単に済みません。
 傷つけ合いながらも同居などの関係を続けるしかない場合があります。
 しかし、ペットと人間との関係は、両方の傷が浅くて済むさまざまな切り方があります。
 決断さえすれば、ペットは虐待などから救われ、人間も無慈悲さを強めずストレスを溜めないうちに関係を解消できます。
 この点において、ペットは〈常に癒してくれる良き家族〉としての資格があるのではないでしょうか。
 ペットと同居する以上は、必ず良き関係で同居を続け、それがかなわない場合はけじめをつけるという責任感をもってスタートしたいものです。
 そうすれば、虐待はなくなり、放浪する哀れな犬やネコもいなくなることでしょう。
2009
05.28

崩れへの抵抗力 ─高窪統教授殺人事件に思う─ (1)

 教師生活を送り、長く国際ボランティア活動を続けておられるAさんから、質問を受けた。
「なぜ、高窪教授殺人事件のようなものが起こるのでしょう。
 若者による事件があまりに多くて、いつ、何があったか覚えていられないほどです。
 こんな時代が、いつか転換するのでしょうか。
 とてもそうした兆しが見つからないのですが……」
 Aさんは危機を肌で感じておられるに違いない。
 お答えした。
「いつ、どうなるかを予測、予言することなど、とても私にはできません。
 ただ、言えるのは、事件を起こす若者の多くは、共通した心の傾向を持っているのではないかということであり、それは、時代を変えれば解消できるだろうと考えています。
 傾向とは、〈崩れ〉に対する抵抗力の弱さであり、それは、日本が経済大国にのし上がる過程においてつくられた〈欲しいものは何でも手に入る〉という神話とその崩壊が大きな原因です。
 もちろん、少子化や共稼ぎなどによって家庭でのガマンの訓練がされにくくなったことも見逃せない要因でしょう。

 私たちはモノを求めて突っ走りました。
 学歴も、お金も、地位も、すべてがモノに結びつき、私たちはいつも目の前にモノというニンジンをぶら下げられた馬でした。
 同時に、私たちは〈自分らしさ〉という幻影もまた、目の前にぶら下げられました。
 そのあげく、自分は今、ここにしかいないのに、学歴があり、地位があり、お金があり、家があり、家族に恵まれ、健康で、美しく、皆にうらやましがられる自分を求めるあまり、そうした理想の自分こそ本当の自分であり、今の自分はかりそめのものであるという倒錯した考えを持つようになりました。
 経済発展の持続によって、多かれ少なかれ国民の大部分がある程度のモノを得、自分らしい自分になれたと満足できるうちはこの倒錯が気づかれませんでしたが、いわゆる右肩が上がらなくなった途端、まさに馬脚が現れました。
 なかなか、自分らしい自分になれなくなったのです。
 さまざまな〈オタク〉の出現やアニメの流行は、何かに託していなければ〈自分がいない〉状態に耐えられなくなった人々の要請があったればこそでしょう。

 いぜれにせよ、モノを求め、心が本体である自分の外側に自分を求めるのは倒錯であって、常に今、ここにいる自分の霊性を深める以外、確固として生きる方法はありません。
 しかし、まだ、若者たちも子供を持った親たちも充分には気づかず、どんどん、自分らしくなれない若者たちを輩出しています。
 一方、ガマンの訓練が足りないので、若者たちの心はたやすく崩れます。
 そして、修復の方法を知りません。
 だから、親や周囲の気づかぬところで始まった小さな崩壊が修復されないままにだんだん大きな崩壊へと向かい、結果としてアッと驚く事件が起こるのです。
 崩れへの抵抗力がない、あるいは弱い若者たちが実に多くなりました。
 どこへ行ってもくじけてしまい、転職をくり返すなどの過程を経てだんだんと堕ちて行く若者たちの心を思うと、いてもたってもいられない気持になります。
 しかし、この状況は必ず克服できます」
2009
05.27

お授け 11

 例祭で行われるお授けです。

7 御宝号

「南無守本尊法楽寺如来」


 法楽寺の祈りを縁としてお護りくださるあらゆるみ仏へ帰依します。
 具体的には、子の方位(北)を護り、子年生まれの方を護り、腹腰を護る千手観音様をはじめとする守本尊八尊、それに天地を護る大日如来様と地蔵菩薩様、そしてお大師様、お釈迦様です。
 腹の底から声を発して祈る時、暗い堂内にご守護の気配が満ちてきます。

 平成19年9月、マザー・テレサの書簡が発表され、物議をかもしました。
「神が存在しないのであれば、魂の存在はあり得ない。もし魂が真実でないとすれば、イエス、あなたも真実ではない」
と書き、69歳になってなお、神父への手紙で恐ろしい告白をしています。
「あなたはイエスの愛を受けている。私はといえば、むなしさと沈黙にさいなまれている。見ようとしても何も見えず、聞こうとしても何も聞こえない」
 インドのスラム街に生きるという現実はいかなるものであるか、10万人以上もの最下層の人々を送る生涯はいかに過酷なものであったか、凡人の想像はとても追いつきません。
 またしても映画『チベット チベット』のシーンが思い出されます。
 乞食のいなかった平和な国の平和な首都ラサは侵入した中国人の天下になり、路端ではボロボロの僧衣をまとった僧侶たちが座って物乞いをし、子供を連れた貧しい夫婦が恵みを乞うて美容院を訪れてはノラ犬同様「シッ、シッ」とばかりに追い出されています。
 政治と社会がつくる悪しき共業としての貧困、救いのない生活、そして死──。
火垂るの墓』にも描かれたように、戦争をきっかけとした貧困と死は世界中に満ちあふれています。
 餓死者がいるとされる北朝鮮が、日本に落とされた原爆に匹敵する規模の核爆発を起こす実験をしました。
 高任和夫氏は、『青雲の梯』の「あとがき」に書きました。
「私は今、人間というものは進歩するのだろうかという、深い疑念にとらわれているのです」

 どうにもならない不条理を抱えているからこそ、救いを感じとれる瞬間を求め、自他の生き方と社会を変えようと願って私たちは祈ります。
「南無」と唱え続けます。
 そして、当山を訪れる方々すべてが救われるよう、法務を続けます。

2009
05.26

盧武鉉(ノ・ムヒョン)・前大統領の自殺に思う ─義理と慈悲─(2)

 前回、考えたとおり、私たちはを着せ合っています。
 有権者は「〈当選させてやったのだから〉~をしてくれ」と要求し、政治家は「〈~をしてやったのだから〉票をまとめろ」と要求します。
 この構造は社会のすみずみまで行き渡り、と義理が社会の通念をつくり、日常生活における人となりを計る基本的な基準になっています。
 
 確かに、を忘れないことは倫理的に深い意義があります。
 感謝が人間性の陶冶に欠かせないからです。
 感謝を忘れた人が高い人間性を獲得することはあり得ません。
 では、こうした大切ながなぜ、人間を堕落させるか?
 それは、相手へを着せた瞬間に、我欲を満足させるための武器になり、相手のためになったという尊い行為が尊さを失うからです。
「私のために、貴方はこれをしなければならない」
 こうした形の要求、そして強要ほど相手の尊厳を踏みにじり、相手の価値判断を無視し、相手の人生へ土足で踏み入る行為はありましょうか。
 我欲が恩を武器として手に持った時、人間は最も醜い存在になります。
 そして、ここには、強者が弱者を潰す無慈悲さもあります。
 なぜなら、権力であれ、財物であれ、たくさん持っている者ほど、恩という武器をたくさん手にすることができるからです。
 最近注目されているセクハラ、パワハラ、アカハラにおけるハラスメント(嫌がらせ)の醜悪さは、強者が弱者へ恩を着せるという構造に根ざしています(セクハラの一部には、やや異なった問題があります)。
 私たちは、このことをもっとはっきり認識する必要があるのではないでしょうか。

 さて、仏法においては恩と慈悲、そして布施を説き、相手のためになる、すなわち恩人となる尊い行為は人間性を高める修行となり、決して変質しません。
 それはなぜか?
 慈悲は思いやりであり、布施は見返りを求めず自発的に相手へ何かを差し出す行為です。
 思いやりから行われる布施においては、相手にとって恩となるものは相手へ渡し放しになります。
 渡したことすらどんどん忘れます。
 なぜなら、それは毎日食事をするのと同じであり、呼吸をするのと同じだからです。

 もしもこうした心で投票が行われ、政治が行われればどうなりましょうか。
 有権者は、結婚式や葬式に電報がきたから、あるいは義理のある人から頼まれたから投票することはないでしょう。
 国家国民のために真に有為と思われる人や政党を選んで投票し、自分の判断がどうだったかは、国がいかなる舵取りをされるかで判断することでしょう。
 政治家は、葬儀へでてやったから、あるいは仕事をつけてやったから投票してくれと頼むことはないでしょう。
 政策をもって有権者へ信念を訴え、自分の行動がどうだったかは、当落で判断することでしょう。
 それらはすべて、交通量の多い道路をなかなか渡れないで困っているお年寄りや子供のために、一緒に手を挙げて渡るのと同じ心で行われるはずです。
 こうしたことは「きれいごとだ」「夢物語だ」と思われるかも知れません。
 しかし、日本における社会通念に大きな淀みがあるのは事実であり、それが一種の息苦しさとすらなっていることも否めず、その解決法が意識を変える以外にないのも確かです。

 盧武鉉(ノ・ムヒョン)・前大統領は、2002年の大統領選挙において、当初は泡沫候補扱いされていました。
 しかし、「戦争より平和」「成長と分配」の政治信念に共鳴する若者たちを中心に大きなうねりが発生し、選挙当日までインターネットなどによって行われた支持者の活動がよもやの逆転勝利をもたらしました。
 その後、彼がいかなる政治活動を行ったかはよく知りません。
 しかし、当選までの経緯からしても、きっと、さまざまな壁に挑戦したことであろうと推測します。
 そして、その壁の一つに、日本にあるのと同じ淀みや息苦しさがあったのだろうという想像は許されないでしょうか。
 
 隠形流(オンギョウリュウ)居合を学ぶ行者は、こうした誓いを口にしないうちは決して稽古を始めません。

「我、恩を着せず、恩を忘れぬは、人の道を忘れず、自他の発展を願うがゆえなり」


 恩を着せず、恩を忘れぬ覚悟で慈悲布施の実践を重ね、結果的に社会の通念を変え、選挙のありようも変えることが、盧武鉉(ノ・ムヒョン)・前大統領の悲劇を超えてゆく道であろうと考えています。合掌
2009
05.25

5月の俳句 3

 信徒古田正吉さんからいただいた作品です。

短歌

 優雅なる韓国舞踊に目を見張る 博物館の風薫る庭

 壊されし忠魂碑わきひっそりと こもれび受けて軍馬の碑立つ

俳句

 大神輿かつぐ男に育ちけり

 なるほどと大葉眺むる水芭蕉
 
川柳

 鼻おしろいつけて小雀背で眠る

 スナップのカメラを逃げるやんちゃ坊




2009
05.25

盧武鉉(ノ・ムヒョン)・前大統領の自殺に思う ─義理と慈悲─(1)

 もう、知っている方は少なくなったことでしょうが、かつて、高倉健はこう唄いました。
「♫義理人情を秤にかけりゃ、義理が重たい男の世界♪」
 そして、若者は銀幕の主人公と一体になって義理人情を踏みにじる悪漢と闘い、勝って人生の表舞台から去る主人公に涙しました。
 悪とは我欲のために義理人情を顧みないことであり、男の値打ちは〈義理を守る〉こと、女の値打ちは〈人情に生きる〉ことにありました。

 あれから40年、仏法に生きていると、ずいぶん遠い世界にいたのものだなあと嘆息してしまいます。

 義とは義であり、その理とは、義を忘れないのが人間としての道であるということです。
 こう考えると当然に思えますが、問題は、義が人を縛るところにあります。
 確かに、仏法においても、を忘れない心が説かれます。
 社会の、親の、生きとし生けるものの恩、師の恩、仏法僧の恩です。
 しかし、仏法で説く五恩は決して人を縛りません。
 それはなぜか?
「恩を忘れません」と誓うと共に、「恩を着せません」とも誓うからです。
 それによって、恩は〈やりとり〉をするものでなくなります。
 どういうことか?

 現実を観ましょう。
 私たちの日常生活における恩は明らかにやりとりの対象となり、義理は道理を超えようとしています。
 それが端的に表れているのは、政治家有権者の関係です。
 政治家を当選させた有権者は、人を出し金を出した自分が当選させてやったのだからと、自分の要求を実現させようとします。
 問題は、要求のレベルです。
 国家運営の大枠はこうあって欲しいといった天下国家の利益にもとづくものなら結構ですが、人と金を出した見返りをもらうのは当然であるとして、自分や自分の企業への利益を求めるケースが相当にあるのが現状でしょう。
 それを後押しするのが、「恩に報いるのは当然だ」という考え方です。
 議員の立場からすると、たとえば国会議員ならあくまでも国の全体を考え、立法によって国を動かすわけですが、恩のある有権者の要求に応じようとすると国益に反する部分が生じてしまいかねません。
 特定企業、特定団体、あるいは特定地域への利益誘導です。
 国家運営の見地からまずいと思っても、これをはね除けると「恩を忘れた」「義理を知らない」と非難され、次の選挙で応援されなければ落選するかも知れないので、多かれ少なかれ、言うことを聞かざるを得ません。
 大所高所からの判断により有権者の要求と反する方針を有権者へ納得させるなどということは至難のわざとなります。

 自殺した盧武鉉(ノ・ムヒョン)・前大統領が何を行ったか、何を行わなかったかは、知りません。
 しかし、こうした恩と義理でがんじがらめになった社会のありようが彼を追いつめたであろうことは想像に難くありません。
 そのありようは、日本の社会と共通しています。
 ネットに流れている彼の遺書全文です。

「あまりにも多くの人たちのお世話になった。
 わたしのために多くの人が受けた苦痛はとても大きい。
 これから受ける苦痛も推し量ることができない。
 余生も他人の荷物となるしかない。
 健康が良くないので何もすることができない。
 本を読むことも、文章を書くこともできない。あまり悲しむな。
 生と死はすべて自然の一部ではないか。
 すまないと思うな。
 誰も恨むな。
 運命だ。
 火葬にしてくれ。
 そして家の近くに、ごく小さな石碑を1つだけ残してくれ。
 長く考えた末の考えだ。」(2009年5月23日)


 私たちは、黙って彼の気持を受け止めるべきではないでしょうか。
 そこからしか、この悲劇を超える道は見つからないはずです。
2009
05.24

平成21年6月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 6月の運勢です。

 固まっていたものがほぐれ、新鮮な風が吹いて局面があらたまることでしょう。
 ただし、革命的に上下がひっくり返るといったものではありません。
 いわば、持続創造が同時に行われるようなものになります。
 それは人間の身体を考えるとよく解ります。
 約六十兆の細胞でできている身体は、肌なら二十八日、血液は百二十日、骨は七年ですっかり入れ替わるとされ、不摂生をしているとたちまちに肌が荒れたり、食生活が適正であれば血液がサラサラになったり骨が丈夫になったりします。
 今月は、このような変化のスピードが速くなるので、気持の整理をしたり、体質改善をはかったり、積年の問題の解消にとりかかったりしてはいかがでしょうか。
 思い切って悪癖や好ましくない習慣を変える、あるいは「井の中の蛙」を脱皮するなどにはとても良いタイミングです。

 その一面、タガが弛むように、緊張感が薄れる、気持がだれる、結束が弱くなるなどのマイナスも生じやすいので、引き締めの必要も出てくることでしょう。
 人の心がバラバラになりかける時、いかなるものが求心力を持つかによって、組織の未来は大きく変わります。それは、家庭においても、会社においても、国においても同じです。
 よく考えたいものです。
 気が大きくなって散財したり、家族がそれぞれ好き勝手なことを言いだしてギクシャクしたり、いつの間にか親しい人と疎遠になったりしやすいので、要注意です。
 また、仏神を粗末にしたり、恩人や先生や上司や目上をないがしろにしたり、公共物を破損させたり、自然を汚したりする行為は運気を下降させるので、厳に慎まねばなりません。
 感情や煩悩に流されて「頭では解っているはずのこと」を忘れた行動に走るのも危険です。
 いかなる場合も、誠意や信義や浄信は絶対に脇へ置かず、揺れ動いてやまない心をつなぎとめる柱として確立しておきたいものです。

 さてこのたび、ご縁があって仙台市内にある大きな山を使えることになりました。
 しかし、資金はなく、どこからどう手をつけたらよいかと思案しつつ専門家Aさんに見ていただいたところ、Aさんはこともなげに言われました。
「まず、手前から木を切って、進入路を確保しましょう。
 切った木は適度な長さにしておいて、土留めに使えば良いのです。
 なあに、手のあいた日に少しづつやればどうにかなるでしょう」
 Aさんの目には、もう、山全体を歩ける通路の光景が見えているのでしょう。
 そういえば、『法楽の苑』もそうでした。
 三千八百坪もの雑木林を前にして、「一体、どうしよう」と思案に暮れましたが、木の切り方を教えてくださる方、刈り払いを手伝ってくださる方、ブルトーザーを寄進してくださる方、地ならしをしてくださる方などが現れていつしか切り拓かれ、おかげさまにて現在の状態までこぎつけられました。
 今度はさらに広いので容易ではありませんが、やれることからやり始めるしかありません。
 たとえ徐々にであれ、結果は必ず出るはずです。

 いずれにしても、6月は、注意点に留意すれば創造的な変化に追い風が吹く時期です。
 共に、佳き順風をとらえて高く帆を上げ、大いに前進しようではありませんか。



 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。

[布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人は他に頼らず、本分を守り、慳貪を離れて安泰です。
 不精進の人は僥倖を恃み、仕事などの、今ある宝ものを捨て、安定を失いがちになります。
[持戒行と運勢]塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は自助努力が認められ、信用を獲得して成功します。
 不精進の人は目上へ誠意を尽くさず、依怙贔屓によって墓穴を掘りがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は定見を保って無駄な動きをせず、安泰です。
 不精進の人は焦燥し、不安定な状態で妄動に走り、敵ができて失敗しがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は公のために汗を流し、悪縁を断って成功します。
 不精進の人は勝手な策略で私利私欲を求め、自己主張して壁にぶつかりがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は同志や目下との協力で問題を解決します。
 不精進の人は自己満足で前途を狭め、色情因縁起こって混乱しがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は自重して分を超えた望みに走らず安全です。
 不精進の人は大風呂敷を広げる誇大妄想と「取らぬ狸の皮算用」によって信用を失いがちです。

 皆さんの開運を祈っています。

[今年も睡蓮が咲きました]

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2009
05.23

誠心と赤心

 隠形流(オンギョウリュウ)居合の稽古を行うのは自分の努力であり、「自力」の範囲です。
 自分の努力による結果への確信を超えたところのイメージに引かれて行うのは祈りであり、仏神による「他力」の範囲です。
 たとえば重病に罹った時、医者の指示に従い、病気に効くと思われることごとを生活へとり入れます。
 一方、それだけでは快癒への確信が持てず、何としても病魔に克ってやるべきことを行いたいと切望する時、何かにすがらないではいられなくなり、祈ります。
 努力は誠心であり、祈りは赤心です。
 誠心とは、一人前の人間として誠を尽くす心であり、赤心とは、母親にすがる赤子のように自分を投げ出す無垢の心です。
 自力を尽くし、他力へすがる人は、その二つの心が矛盾なく輝いています。

 チベットでは、今でも五体投地をくり返しつつ聖地を目ざす修行に人生をかけている方々がたくさんおられます。
 写真家野町和嘉氏の『地球巡礼』に掲載された行者の眼は、この世にありながらすでに聖なる世界を確かに観ています。
 行者にとって、自力他力の区別などという言葉は、とっくに消えていることでしょう。
 
 釈尊は、宿命を説かれました。
 必ずいのちに宿るままならないものです。
 それを四苦八苦といいます。
 そもそも、生まれ出ること自体、いのちの危険をともない、しかも自分で意識して選んだわけではありません。
 この「生苦」から人生の旅が始まり、八つの苦は、影法師のように離れない同伴者です。
 しかし、宿命が人生のありようを決めるわけではなく、万人は色とりどりの運命を創りながら生涯を終えます。
 たとえば怨憎会苦(オンゾウエク…憎い相手とめぐり会う苦)や愛別離苦(アイベツリク…愛する相手との別離による苦)に鍛えられて精神を深める人もいれば、打ち倒されてなかなか立ちなおれない人もいます。
 このやっかいな同伴者の存在に耐えられなくなった時は、祈りの生ずる時でもあります。

 釈尊は、宿命を観る智慧の大切さを説き、万人に宿命を観て必然的に生じる慈悲の尊さを説き、宿命を生かし宿命を超える祈りの方法を説かれました。
 それはお大師様により密教の修法として洗練されました。
 祈りつつ稽古する密教兵法隠形流居合は、宿命を学び、思いやりを育て、誠心と赤心をもって運命を創る道です。

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2009
05.22

ほめる 15

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋である。
 ホームページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださった。感謝してやまない。勉強会などを通じてご縁の方々へ紹介しており、寺子屋で参考にさせていただく予定である。
          ◇
教師 S

 1月27日金よう日、きのう午後から降った雨が、昨夜のうちに やんだらしく、けさは 気もちのよい青空が広がり、春のような 暖かい日ざしです。
 運動場を見ると、ところどころ水たまりができていました。その水たまりを よけるように、みんなが 元気一ぱいに 遊んでいます。中には、元気があまって 水たまりにとびこみ、ズックをどろんこにした人もいました。
 10時前に、校長先生は 仕事が ひとくぎりついたので、今朝のことを 思い出して、運動場の水たまりに、土を入れることにしました。一輪車で 土を運び、スコップやレーキで たいらにします。春のような あたたかさで、少しすると汗ばんできました。
 大きゅうけいになって、みんなが元気一ぱいに 運動場にとび出しました。校長先生は運んだ土をレーキでたいらにならしていました。そのとき、校舎の方から走って来た男の子が「校長先生ごくろうさーん。」と大きな声で、さけびながら走り去りました。校長先生は 思わず「ありがとう。」といって顔を上げましたが、もうその時には、大ぜいの走り動いている人の中にはいって、どの子がいってくれたのかわかりませんでした。たしか、五・六年ぐらいの男子だったように思います。
校長先生ごくろうさーん。」このひとことが、校長先生のつかれを いっぺんに ふきとばしてくれました。ひたいににじんだ汗に冬の風がとてもここちよい きょうの大きゅうけいでした。
 それにしても「ごくろうさん」のたったひとことが、人の心をこんなに明るくするものなのかなーと思いました。そして校長先生も、この男の子をお手本にして、やさしい一声をかけるようにしようと、心に強くきめました。
          ◇
 これは、教師が児童へ向けて公開した手紙であろう。

 校長先生が一人で黙々と運動場へ土を運び、平らに地ならしをしておられる。
 泥の上で一輪車を押すのには根気が要る。
 しかし、子供たちがどろんこになっているのを見捨てておけず、次の休憩時間までに遊びやすくしておいてやろうと、校長先生はがんばっている。
 授業が終わり、案の定、子供たちは飛び出してきた。
 皆、遊ぶのに夢中になったが、誰か一人、校長先生に気づいて、走りながら感謝の気持ちを叫びに託した。
 その子の声は、言葉にならなかった大勢の子供たちの気持を代弁していたのだろう。
 見ていた教師S氏は、後から校長先生と話をし、校長先生の心が明るくなったことを全員に告げ、誰とは特定できない男の子へのお礼にすべく、この文を書いた。

 いつもは「こうしなさい」と指導している先生方が受け身になって感謝の気持を率直に述べ、喜びの体験を明らかにすることによって、感謝の気持と、受ける感謝が励みとなることとを子供たちへ解りやすく見せた。
 普遍の価値を持つ〈感謝〉が、こうやって子供たちへ根付いてゆく。
 実に、地に足のついた教育ではないか。
 鏡としたい。
 
2009
05.22

5月の俳句 2

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葱坊主寝かされてゐる屋敷畑


 屋敷にある畑で抜かれたネギが横になっているだけの光景だが、土の匂いを運んでくる風や、ネギの白さを際立たせる日光や、畑を手入れしつつ暮らす家のある地域の雰囲気といったものまでがにじみ出てくる。
 俳句は、実に不思議な力を持っている。

柴桜地の温もりを彩に出す


 北アメリカから海を渡って来た柴桜は、高く伸びることなく、地上十五~二十㎝ほどのところで赤や紫や白などの小さな花をびっしりと咲かせる。
 大地がぬくもりを宿す頃から暑い盛りまで、色鮮やかなベールとなって地を覆う。色彩は大地の息吹だろうか。

夏木立茂りてわが詩息ずきぬ


 もの憂い春先は何となく勢いのつかない日々だったが、緑の葉を茂らせる夏の木立を眺めていると、眼に入るものたちが宿すいのちの光に感応する詩心がムクムクと頭をもたげ、言葉を紡ぐ力が湧いてくる。
 生む心と生まれた詩が一体となって息づいている。

カーテンを引くもたのしき若葉光


 雨の日は、カーテンを引く力が鈍る。体調が悪ければ、半分しか開けなかったりもする。
 しかし、若葉の頃は、早く外光を部屋へ入れたい一心で、一気にカーテンを引ききってしまう。
 この「一心」はほとんど無意識だが、とっさの動きが勢いのある句を生んだ。

藍絞り江戸袢天三社祭


 毎年五月に行われる浅草神社の例大祭では、袢天姿の男たちが御輿をかついでねり歩き、藍絞りの袢天は、五月晴れによく映える。
 江戸が気っ風が息を吹き返し、百万人もの人々が四十四町の繰り出す御輿と共に渦となって熱狂する。
 いのちを回復する。

東京は吾がふる里よ夏祭


 東京で人生の盛りを生きた作者の「吾がふる里よ」には、魂を握られたような思いがする。
「ふるさとは遠きにありて思ふもの」と書いた室生犀星は、歯をくいしばっての東京生活だったが、作者にとってのそれは、今となれば輝かしい日々だったのではなかろうか。

[当山の花々です]
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2009
05.21

5月の俳句

 5月は皐月です。
 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。
 妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

の心探らる清さかな


 まっ白なの花たちが房を形成して棚から下がり、洩れ来る陽光を浴びながら微かに揺れている。
 周囲は緑や赤や黄色などさまざまな色があるのに、なぜだけが抜けたように白いのか、ふと、不思議になる。
 何もまとわない存在の清らかさに惹かれてしまう。

酔ふて静かに香を流す


 の房が揺れている。
 止まったかと思うとまた揺れる。
 眼を奪われ時間を忘れているうちに、藤が揺れているのか自分が揺れているのか判然としなくなる。
 昔、酒に酔ってふらふらした感覚がよみがえる。
 房の動きに合わせるかのように香が漂い、流れてきた。

の思ひ出ゆるる藤房に


の思ひ出」とは何だろう。
 昔、この色を髪にまとい、アイシャドウに用いた人は淡谷のり子だった。
 パーマの先生をしていた作者にとって、気品があって神秘的そして自立した色と、青森出身で都会的洗練を表現した彼女は、憧れだったのではなかろうか。

藤房のゆれ誘ふ


 小さな花々の持つ色は空気の波に映っている。
 それがやってくる。
 陽光の明るさも一緒だ。
 渾然一体となった過去のできごとは夢のように霞んでいるが、強く粋に生きた時代の気持は決してかすれていない。
 誘われるままに甦る気持に任せるひととき……。
2009
05.20

経済の季節から政治の季節へ

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 世界は同時不況に陥り、まるで追い打ちをかけるかのように、新たなインフルエンザが流行し始めました。
 日本政府は、膨大な国債を発行して〈不況前の日本〉をとりもどそうと躍起になっており、インフルエンザ対策にしても、警戒の姿勢を緩めることによって経済への影響を少なくしようとしています。
 しかし、私たちの求める理想の未来像は、はたして〈不況前の日本〉でしょうか?

 1960年代から1970年代にかけて経済が急成長した高度成長期の前と後では、まったく異なる日本になったという説があります。
 同感です。
 昭和35年(1960)に岸信介氏の跡を嗣いだ総理大臣池田勇人氏は所得倍増計画を掲げ、日本は政治の季節から経済の季節へ移行しました。
 この約20年間に、日本人の生活形態が一変しました。
 最大の変化は核家族化です。
 発展のめざましい都会でお父さんがはたらき、お母さんが守る家庭で子供が育てられるというパターンの出現です。
 まじめにはたらけば生活に必要なものは何でも手に入り、自立した核家族によって構成された都会は、個人が個人の価値観だけをもって泳ぎ回れる自由な海になりました。

 復興から発展へとギアを切り替えた日本は、さらなる上昇カーブを描いて経済力を高め、1980年代後半から1990年代初頭へかけてのバブル景気で絶頂期を迎えましたが、あえなく崩壊し、「失われた10年」を迎えるに至りました。
 平成元年(1989)12月3日、ブッシュ米大統領とゴルバチョフ書記長が「冷戦終了宣言」を行い、世界が政治の季節から経済の季節へ移行した結果、グローバル経済化の波に乗った国際資本が世界を庭として自由にあらゆるものを買いあさり始めたからです。
 三菱地所が平成元年にニューヨークのロックフェラー・センターを買収したことなど夢のまた夢と化し、日本の国土も企業もノウハウも、ハゲタカファンドから狙われる側にまわります。
 そして、飽くなき利益追求に走る国際資本の自滅が引き金となってアメリカ発の世界同時不況が起こり、グローバル資本主義の危険性、無慈悲さがようやく日の下に明らかとなり、世界中の人々が、「より自由な競争がより富を増大させ、より幸せをもたらす」というマインドコントロールを脱しようとしています。
 加えて、新たなインフルエンザは、人とモノの動きにブレーキをかけつつあります。

 ここは、おちついて考えるべき時ではないでしょうか。
 もちろん、困窮している方々へ支援の手を差し伸べねばならないし、インフルエンザが蔓延しないよう最善を尽くさねばなりませんが、同時に、この事態から私たちが何を学ばねばならないか熟慮すべき大きな分岐点にさしかかっています。
 高度成長期に匹敵する大きなうねりが始まっており、舵取りは日本の運命を左右することでしょう。

 私たちは、〈自分がこれまでの自由と豊かさを保ち続けること〉と、〈誰もが生活と治安の不安がなく暮らせる社会をつくること〉との二者選択を迫られているのではないでしょうか。
 明らかに、経済の季節は政治の季節へと変わりつつあります。
 経済にまかせて新しい世の中をつくり、あるいは世直しをすることはできません。
 休校になった高校生諸君も、カラオケ店やコンビニでたむろするだけでなく、モノに不自由になり健康が脅かされる事態は何を意味しているのか、読書し、語り合いつつ、よく考えて欲しいと願っています。

法楽寺々です]

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2009
05.19

お授け 10

 前回とりあげた光明真言の続きです。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」


「まかぼだら」は大印すなわち無限の徳が溢れ出る印であり、五色光印を指します。
 如来の放つ五色の光は、いかなる迷いに苦しむ衆生をもあまねく救って限りありません。
 密教では、み仏と行者が向かい合うだけでなく、その間に大きな正方形の壇を置き、護摩を焚いたりします。
 そこは、法力によって降りていただいたみ仏と、祈願をかける人の思いと、法の中へ入った行者との三者が一つになる場です。
 この壇を五色の糸で織った紐がとりまき、五色が飾られます。
 嵯峨天皇が、当時行われていた各宗派の代表を招いて修法をさせたところ、お大師様は即身成仏の法を行いました。
 頭上に現れた宝冠は五色の光を発し、大日如来の印を結んだお大師様は金色に輝いてみ仏に成ったとされています。
 密教では五色の紙を用いた「色紙法」も行われ、五色は修法に欠かせないものです。
 真言を唱えてこの境地へ入れば、解脱できるとされています。

「まに」如意宝珠といい、宝ものを意のままに現出させる珠です。
 打ち出の小槌のようなイメージですが、これは私たちが手に入れることはできません。
 煩悩が求めるのは真の宝ものではないからです。
 たとえば虚空蔵菩薩は右手に剣を持ち、左手にこの如意宝珠を持っておられますが、剣で煩悩を断ち切った上でなお求めるものがあれば、それを授けてくださいます。
 また、地蔵菩薩も右手に錫杖を持ち、左手にこの如意宝珠を持っておられますが、錫杖で迷いから目覚めさせた上でなお求めるものがあれば、それを授けてくださいます。
 煩悩を離れた意欲は大欲(タイヨク)であり、聖なる意欲は、使える限りの宝ものをみ仏の世界から引き出すことができます。
 真言を唱えてこの境地へ入れば、未来永劫安寧が約束される大安楽身(ダイアンラクシン)になれるとされています。

「はんどま」蓮華です。
 いかなる泥中にあっても穢れをまとわず、清浄なを咲かせる蓮華は限りない慈しみの象徴でもあり、観音様をはじめ、このを手にするみ仏はたくさんおられます。
 真言を唱えてこの境地へ入れば、無限の過去世から積み重ねた悪業罪障が消滅し、迷いの黒雲をうち祓って仏性が輝くとされています。

「じんばら」
智慧の光明です。
 煩悩に導かれるのではなく、智慧の灯りに導かれてこそ私たちはまっとうに生き、周囲の人々のためになりつつ人生を終えることができます。
 自他の幸せを願ってやまない行者はこの真言を唱え、自他共に無明煩悩から脱することを祈ります。

「はらばりたや」は転入です。
 迷いを転じて悟りとし、穢れた欲を転じて清浄な大欲とし、〈いつか〉〈あの世で〉ではなく、〈たった今〉〈ここで〉即身成仏するためにこの真言を唱えます。

「うん」は訳せない聖悟です。
 ここには悟りも、守護も、打破も、満願も、大力も、除魔も、歓喜もあり、悟りをめざしてこの真言を唱えることにより、自他共に地獄などの迷いを脱してこの世もあの世も五色の光明に包まれた浄土と化することができるとされています。

 光明真言は偉大です。
 四国八十八霊場を巡拝すると、この真言を百万返唱えた満願の石碑が建っていたりします。
 昨年、虚空蔵菩薩の真言を百万返唱える求聞持法(グモンジホウ)を満願しましたが、いつの日か、破地獄(ハジゴク)の光明真言百万返へ挑戦したいと考えています。

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2009
05.18

お授け 9

 前回とりあげた光明真言について、もう少し詳しく考えましょう。

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」


「おん」は聖悟であり、本来は訳せないことになっていますが、古来、三つの意義があるとされています。
 一つは帰命、帰依であり、み仏を信じて自分を投げ出すことを意味します。
 前に、あるいは向こう側にみ仏がおられ、こちらに自分がいるのではなく、「おん」と唱えた瞬間に我はなくなっています。
 両膝・両手・額を地につけてひれ伏す五体投地(ゴタイトウチ)は、その誠心を形に表す最上の礼拝法です。
 もう一つは、法身(ホッシン)・報身(ホウジン)・応身(オウジン)の三身(サンジン)です。
 法身仏とは宇宙の根源としてのみ仏であり、報身仏とは修行の報いとして仏となったみ仏であり、応身仏とは地上へ現れた釈尊やお大師様です。
 唱えた瞬間にあらゆるみ仏へ通じるとは、三身すべてへの帰依であるということです。
 もう一つは供養です。
 帰依するならば、残しておくものはありません。
 み仏のために自分を捧げ尽くすのみです。

「あぼきゃ」は不空とされ、無限の徳が詰まっていることを意味します。
 徳とは、もちろんみ仏の悟りであり、悟りに発する救済です。
 なお、不空三蔵はお大師様へ法を伝授した惠果和尚の師であり、お大師様が生まれた6月15日が命日なので、お大師様は不空三蔵の生まれ変わりではないかと考えられています。

「べいろしゃのう」は光明遍照(ヘンジョウ)であり、大日如来が常恒(ジョウゴウ…いつも)説法をしておられる徳のことです。
 宇宙がみ仏であるならば、ウグイスが鳴くのも、カラスがゴミ袋をいたずらするのも、線路に落ちた人を助けるのも、万引きするのも、それを見聞きする人にとって説法でないはずはありません。

 たとえば、5月16日に起きた強盗未遂事件です。
 風俗店を解雇され、4円しか持っていないホームレス藤居雄二容疑者(34歳)は、強盗を目的としてタクシーに乗りましたが、65歳の男性運転手から「朝まではたらいている」「不景気だけれども、たとえわずかでも収入になればありがたい」などという話を聞いているうちに泣き出し、「1週間ほとんど食べておらず、強盗をしようと思ってタクシーに乗ったが、不景気でも頑張っている運転手さんからお金は取れない」と告白して大阪府警浪速署に逮捕されました。
 小さな新聞記事ですが、たくさんの真実を伝える小さくないできごとです。
 食べものに困り寝るところもない人が続出する無慈悲な社会になったこと。
 仕事のある人も、やっと生きてゆける程度の生活しかできなくなりつつあること。
 食べものがなければ、奪うか死ぬしかないこと。
 奪おうとする悪心で行動しながらも、思いやりの心がはたらいて自らを制する人がいること。
 共業へ憤りつつ、藤居雄二容疑者の手を取って一緒に泣きたい衝動に駆られてしまいます。
 藤居雄二容疑者へ救いがもたらされ、再び立ち上がって欲しいと祈らずにいられません。
 ここには、明らかに、大日如来の常恒説法があります。

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2009
05.17

お授け 8

 例祭で行うお授けです。

6 光明真言

「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」



「となえたてまつる光明真言は、大日普門(フモン)の万徳(マンドク)を二十三字に集めたり。おのれを空(ムナ)しゅうして一心にとなえたてまつれば、みほとけの光明に照らされて、三妄(マヨイ)の霧おのずからはれ、浄心(ジョウシン)の玉、明らかにして、真如(シンニョ)の月まどかならん」

 大日如来の徳を称えるこの真言については、これまで何度も言及しているとおり、言葉の意味と意訳は以下のとおりです。
「おん(帰命)あぼきゃ(不空)べいろしゃのう(遍照)まかぼだら(大印)まに(摩尼宝珠)はんどま(紅蓮華)じんばら(光明)はらばりたや(展転)うん(※訳さない)」
(自利と利他の功徳を円満する遍き光の偉大なるはたらきよ、宝珠と蓮花と光明との徳によって、迷いを転じ、悟りへ導きたまえ)

 光明真言は諸仏諸菩薩の総呪(ソウシュ)とも呼ばれ、ありとあらゆるみ仏、あるいは神々ヘ向かってお唱えできるスペードのエースのような真言です。
 自他の悪業を浄め、生き霊・死霊を成仏させ、迷い呪縛を解き、拝む仏神すべてのご加護を得られるとされています。

 光明と言ってもただの光ではありません。
 み仏のすべての智慧を体現しておられる五智如来(ゴチニョライ)が発する智慧の光です。
 それは、すべてをありのままに観る智慧、すべてをわけへだてせず平等に観る智慧、それぞれの違いをそのままに見分ける智慧、それぞれのはたらきを見分ける智慧、そして、真実世界を輝き出させる智慧です。
 この光の届かぬところはありません。
 密教行者がこの真言を唱えない日もありません。

 ところで、日々、信じ、唱えていますが、野坂昭如著『火垂(ホタ)るの墓』を読むと、人間の犯す最も愚かで慈悲から遠い戦争という行為の恐ろしさに立ちすくむ思いがします。
「戦争で両親を失い、衣食住が奪われ、道ばたの雑草や池の貝や盗んだ芋などを食べさせながら必死で面倒をみていた妹を餓死させ、自分で焼いたその遺骨を腹巻きの中へ入れたたまま自分もまた街頭で餓死した中学生清太へ、いかなる救いがあろうか。
 自分の祈りは確かに届くだろうか」
 信じて、これから法務へ向かいますが、今朝読んだばかりの原稿用紙に血が滲んでいるかのような文章が描き出した戦争のもたらす絶望の気配は、簡単にはぬぐい去れそうにありません。

 皆さん、ぜひ『火垂るの墓』を読んでください。
 そして、このように過去にあり、今も世界中で生まれ続けている絶望に打ちのめされつつ、それでも自分の祈りを信じてゆけるかどうか、自分に問うてみましょう。
 心に黒いベールが降りてなおかつ、心底から「「おん あぼきゃ べいろしゃのう まかぼだら まに はんどま じんばら はらばりたや うん」を絞り出せるかどうか───。

※「火垂る」は蛍と同語です。
2009
05.17

5月の第二例祭が終わりました

 早いもので桜の時季は終わり、境内ではピンクや白のつつじが咲き誇っています。
 寺務所の窓を開けると5月の風とともに蛙と鶯の鳴き声が聞こえてきて・・・なんだかほ~っとします。
 先週までは初夏のような日が続いたのに今週はちょっと肌寒く、お寺では時々ヒーターを焚いていました。

 そんな五月晴れの本日、第二例祭が行われました。
 今日の天気のようななんとも爽やかな護摩でした。煙は風が運んでいってくれて、涙も出ませんでしたよv

 住職のお話は・・・

 社会のは一人一人のにつながる。
 一人一人のを清めることによって、社会のも清められていくということ。
 教えを学んでいるうちに、自然に正しい心構えが蓄えられ自然に実践できるようになる。しないでいられない人になる。

 どんな小さなことでも一人一人が正しい行いをすることによって、社会も清く正しく美しく☆なっていくのですね^。^

 前回に引き続き、「心の訓練」も大事なんですねー。

 夕暮れ。
 今週より着工した仮本堂の地(法楽の苑)を見に行きました。
 思ったよりとても大きな建物になりそうでびっくりしました。
 すごく楽しみです!
 そして、その周りにはたくさんの方のご協力で様々な木や花が植えられ、庭園になっていました。(感動T。T)

 目の前には夕陽を浴びた新緑の笹倉山がとても美しく、たくましく見えました。

 次回は第一例祭で、6月7日(日)10:00~です。

(書き手─橋里佳)

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2009
05.16

工事が始まりました

 5月14日、供養堂(仮本堂)の工事が始まりました。
 今年のお盆は、テントを用意することなく、広々した堂内へ皆さんをお迎えできます。
 ご寄進いただいた守本尊様もようやく祀られます。
 乞う、ご期待!といったところです。

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2009
05.16

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 30 ―戒と律─

 5月13日は、第二十二章「述仏品(ジュブツボン)」を終えました。

「諸仏(ショブツ)の興るは快く、経道(キョウドウ)を説くも快く、衆聚(シュジュ)の和するも快し、和なれば則ち常に安し」


(もろもろの悟りを開いたブッダが出現するのは嬉しい。
 妙なる説法を受けるのも嬉しい。
 行者や聴衆が和するのも嬉しい。
 和合は常に安楽をもたらす)

 ここには、仏法僧三宝に接する悦びと、信ずる心一つで和合する人々の間の安心感とが表現されています。
 三宝への帰依は仏教徒である第一要件であり、救いの源ですが、この大前提に続く「和なれば則ち常に安し」には特段の重みがあります。
 釈尊は、行者一人一人の「自分の悟り」と行者も聴衆も「共に歩む安心」とを並列させているからです。

 正しく学び、正しく実践するには、正しい心がけや正しいふるまいが欠かせません。
 ここに、一心の問題である「」に対する集団の問題である「」の重要性があります。
 集団における決まりごとがであり、これを破る者は行者たる資格がなく、精舎にとどまることはできません。
 それは、自分が悟りの縁を離れるだけでなく、同志の修行も破壊するからです。
 社会的存在としてはを守り、個としてはを守るのが霊的向上をはかる唯一の道であり、この二つは「人」の文字のように互いに支え合ってお互いを成り立たせています。
 を守らない者はを成就できず、を守らない者はを成就できません。
 悟りを求める人間には、他の妨害にならず、他の修行のために役立つ人間であることが最初から求められています。

 ひるがえって考えてみれば、(ゴウ)と共業(グウゴウ)に対する私たちのあり方にも似たような問題があります。
 自分一心の清めようとするならば、社会がつくる共業へ無関心であることはできません。
 たとえば、自分の愚かさに慄然としてみ仏へ帰依した若者が、泥棒の息子のままで平然と日々を過ごせましょうか。
 社会がつくる共業に押し潰されまいとするならば、自分のも放置してはおけません。
 たとえば、政治の無慈悲さに憤り小さな慈善の行動を始めた若者が、己の心の汚れに気づかぬことがあり得ましょうか。
 大勢の業が積み重なって共業をつくり、共業が一人一人の業の形成に大きな影響力を持っていることを知ったならば、我が業の清めと社会の共業清めとを一如として学び実践するしかありません。

 こうしてみると、「最初は我が悟りを求める小乗仏教であり、後に自他共に悟りを求める大乗仏教になった」とばかりは言い切れないように思われます。
 そもそも、悟りを開いた釈尊が帝釈天の求めに動かされて説法の旅に発たれた瞬間から、自他を分け隔てしない菩薩道の歩みが開始されたのではないでしょうか。
 自分だけがいかに嬉しくとも、それだけでは本当の喜びではありません。
 自分へ厳しくめ、他人へ優しくして和し、自他共に喜びを分かち合える人間になれるよう、また一歩を進めたいものです。
2009
05.15

仙台稲門会で講演を行いました

 5月13日、「仙台稲門会」の例会で、「仏法の本質」と題するお話を申し上げました。
 大げさな演題でしたが、仏法の価値は〈(他の苦しみを)見捨てておけない人間〉を創ることにあるのではないかという体験上の感想が柱でした。
 その例として、「【現代の偉人伝】第76話」に書いたAさんをとりあげました。
 自分では口べただと思い、他人様のやることへ口出しするなど考えもしなかったAさんは、パン屋でいたずらする子供へ注意することができました。
 それは、〈見捨てておけない人間〉になっていた証であり、注意したAさんはその瞬間、菩薩様になっていました。
 お大師様は、世捨て人のように自分だけの安寧を求める行者を「慈悲が欠けているので菩薩ではない」と叱り、仏法の実践者はそうしたレベルにとどまっていてはならないと鼓舞しました。
 このように、仏法は菩薩を創る教えであり、創る力をそなえています。

 Aさんは、仏法を自分のこととして学び、血肉にしました。
 トレーニングを行ったのです。
 ジョギングや水泳によるトレーニングで身体をなまらせないように、にもトレーニングが欠かせません。
 さもないと、は気ままに言葉を吐かせ、気ままな行動へと誘います。
 社会的地位のある人が、まるで化けの皮が剥がれたような言葉を発し、信じられない行動で失脚するのは驚くに足りません。
 トレーニングを怠っていたからです。
 原因が結果をもたらすのは当然です。
 いかなる地位や名誉や財物や知識も、正しいトレーニングの代わりを務めることはできないのです。

 ダライ・ラマ法王のトレーニング法とされている観想文をお渡ししたところ、来年の5月、再度、詳しい説明を申し上げることになりました。
 会員の方々と共にのトレーニングを進めたいものです。
  
2009
05.15

言えること、言えないこと 2

 前回採りあげた石原吉郎氏の作品に、とても印象的な詩があります。

待つ

憎むとは 待つことだ
きりきりと音のするまで
待ちつくすことだ
いちにちの霧と
いちにちの雨ののち
おれはわらい出す
たおれる壁のように
億千のなかの
一つの車輪をひき据えて
おれはわらい出す
たおれる馬のように
ひとつの生涯のように
ひとりの証人を待ちつくして
憎むとは
ついに怒りに到らぬことだ


 石原吉郎氏は、じっと憎しみに耐えているうちに、意外にも、笑うしかないところへ到達しました。
「憎むとは
ついに怒りに到らぬことだ」
には衝撃を受けました。
 仏法の目ざす忍辱(ニンニク…耐えつつ徳目を実践すること)が達成されているからです。 

 彼は、詩とは何かという問いに対して、「詩の定義」でこう語っています。

 ただ私には、私なりの答えがある。詩は、「書くまい」とする衝動なのだと。このいいかたは唐突であるかもしれない。だが、この衝動が私を駆って、詩におもむかせたことは事実である。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、「沈黙するための」ことばであるといっていい。もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、このような不幸な機能を、ことばに課したと考えることができる。いわば失語の一歩手前でふみとどまろうとする意志が、詩の全体をささえるのである。


 彼は何を言おうとしているのでしょう。
 詩人が書くまいと決意したならば、詩は決して生まれないのではないでしょうか。
 しかし、詩は生まれます。
 ──沈黙を語るための言葉が創る糸として………。
 つまり、沈黙を経由して尚かつ、耐えがたく溢れ出るものでなければ、言い換えれば、沈黙から顕れるものでなければ詩を紡ぐ言葉たり得ないのです。
 たとえば、憎しみが発生し、あいつが憎いと思います。
 この「憎い」は言葉です。
 ここで、「憎い!」と心で叫び、文字にすれば、真の詩は生まれません。
 できごとが言葉になっただけであり、それは、「ネコがニャンと鳴いた」と書くのと何ら変わりありません。
 だから、真の詩人は、憎しみが生じたならば沈黙し、どうなるかは時の経過に任せます。

 きりきりと音がするほど心が痛み、胃が痛み、身体が痛みます。
 心に霧が立ちこめ、雨が降ります。
 しかし、待ちます。
 すると、時が至り、まるで壁を倒すような勢いで、笑いが弾けます。
 車輪に乗ったように止まりません。
 疾駆する馬がさらなる速さを求められてどっと倒れ伏してしまうような勢いで、笑いが爆発します。
 まるで生涯を終えてしまうかのように笑いがエネルギーを消費し尽くす頃、ついに、真実を告げる証人が現れます。
 彼は書きませんでしたが、証人はこう言ったのではないでしょうか。
「もう、いいではないか」
 だから、憎しみ怒りになり、自他を破壊することはありません。

 こうして、詩人は言わないことによって、詩を紡ぐ資格のある言葉にめぐり逢います。

 前回は、「言えない」「抱える」について書きましたが、「言う、言わない」には、こうした世界もあるのです。
 耐えられると思ったなら、動ぜず、抱えましょう。
 憎しみ笑いをもたらしたように、辛いと感じつつ抱えたものが、笑いに似たものをもたらすかも知れないではありませんか。

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2009
05.14

【現代の偉人伝】第76話 ─正念の人─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦いの勝者となって世の中を変えた偉人たちに学ぶことも大事ですが、市井に住む私たちにとって目指すべき具体的な北極星となるのは、中島みゆきの唄う「地上の星」に表現されるような方々ではないでしょうか。
 ここでは主としてそうした人々をとりあげます。
 もしもあなたの身近にそうした方がおられたならば、どうぞご紹介ください。
 当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。


 
 ある日、Aさんは近くのスーパーへでかけた。
 お昼前なのでパンコーナーには、どんどん、できたてのパンが並べられている。
「どれにしようかな」と思案していたら、子供をおぶった若い母親がやってきた。
 幼稚園児らしい男の子もついてきている。
 アッと思う間もなく、男の子は人差し指でパンをつつき始めた。
 母親は止めようとする気配もない。
「注意しなくちゃ」と思ったものの、こういう時勢なので何が起こるかわからないという不安があり、躊躇した。
 しかし、男の子はパンへ指がもぐり込むのが面白いらしく、次々と触っている。
「やめなさい。触ったらパンが汚れてしまうでしょ。汚れたら売り物にならなくなって、パン屋さんが困るでしょう」
 思わず口にしてから、Aさんは「言ってしまった」と少々身を固くした。
 返ってきたのは意外な言葉だった。
「すみません。どうもありがとうございました」
 ダメでしょと叱り、子供の手を引いた母親は足早にたち去った。
 Aさんは、安心しながら、小さな驚きを感じた。
 以前の自分のままだったなら、見ず知らずの人へ声をかける勇気など、なかったからである。
 ──きっと勉強したせいだ。
 今度は小さな喜びと勇気がわいてきて、元気な声が出た。
「パン屋さん!これください」

 Aさんは、家庭で起こったできごとをきっかけに、人生への疑問が生じ、講習会へ参加した。
 講義を聞くたびに「そうか」と納得し、疑問が解けつつあるものの、だからといって特段、自分の生き方が変わったとは思えなかったという。
 しかし、今回のできごとをふり返ると、Aさんが知らぬ間に変わっていたのは確実である。
 Aさんは、はにかむだけで多くを語らないが、次のような教えが潜在意識へ蓄えられ、八正道における「正念(ショウネン)」となって行動を促したに違いない。
 
「社会の(ゴウ)をつくるのは私たち一人一人であり、無関係な人はいない。
 社会のを清めるのは、自分のを清めることにつながる。
 を清め霊性を高めるのが人生修行である」
「知ることと実践することとの間には飛躍がある。
 自他のために飛躍した人はその瞬間、菩薩となり、飛躍しない人は永遠に六道輪廻のままである」
「他人への傍観者は自分への傍観者であり、自分への傍観者は他人への傍観者である。
 傍観者は、人生の真実を生きられない」

 正念とは、正しい心構えを学び、保って忽せにしないことである。
 実践者の報告は、一緒に学ぶ仲間にとっても、講師にとっても力強い励ましとなる。
 正念を目ざし、精進したい。
2009
05.13

言えること、言えないこと

 かつて吉田兼好は「おぼしき事言わぬは腹膨るる業(ワザ)なれば」と言って『徒然草』を書きました。
 言いたいことを言わないでいては、心身のためによろしくないというわけです。
 だから、昨今は「ストレスを溜めないように皆しゃべりましょう」と喧伝していますが、気持にひっかかりが生じた時、洗いざらいぶちまけてしまうのが最も良い解決方法であるとは限りません。

 少女Aさんが人生相談に来ました。
 正確に言えば、閉じこもりがちになったAさんを案じて、お母さんが連れてきたのです。
 お母さんは、閉塞状況を解きほぐす糸口を示してもらいたいと願って一生懸命にAさんの気持を代弁していますが、Aさんはおし黙ったままです。
 きっと、お母さんは、Aさんが心のモヤモヤをはき出せば元気を取りもどすと考えたのでしょう。
 しかし、私は、一言も口をきかないAさんをまっすぐに見て、きっと二人共予期しなかったであろう言葉を口にしました。

「人は誰でも、心の奥底にしまっておくしかないものを抱えてしまうことがあります。
 困ったと思い、最初は誰かに話したくても、話せない、あるいは何となく話せないでいるうちにどんどん底へ底へと沈んでしまい、小さくても重い石のようになってしまう場合があります。
 そうなれば、もう、話すことがベストの解決法であるかどうか判らなくなります。

 心のしこりは、話すことによって解ける場合もあれば、そうでない場合もあります。
 しこりが悪性のものに変化して病気へと到る場合もあれば、そうでない場合もあります。
 しこりは毒があるとばかりは限らず、薬になる場合もあります。
 だから、『やられた』『被害者だ』『ストレスだ』と固定的にばかり考える必要はありません。
 周囲の方も、心配だからといって無理に相手のデリケートな気持の小径へ分け入ろうとしない方が良い場合があります。

 太平洋戦争後、ソ連の収容所で抑留生活を送った詩人石原吉郎(大正4年ー昭和52年)氏に、じっと抱える強い心を表現した言葉があります。

『ありふれた蹉跌(サテツ…挫折、失敗)から、ありふれた絶望しか生まれないようなら、もうだめなのだ。ふみとどまれ。そして、重荷をしっかり負え』


 また、こんな傑作もあります。

世界がほろびる日に

 世界がほろびる日に
 かぜをひくな
 ビールスに気をつけろ
 ベランダに
 ふとんを干しておけ
 ガスの元栓を忘れるな
 電気釜は
 八時に仕掛けておけ


 私たちの生活とはこうしたものです。
 喜怒哀楽、悲喜こもごもで天にも昇るような高揚感に満たされる時期もあれば、地獄に堕ちたとしか考えられない時期もあります。
 しかし、日々は、「寒いからセーターを着よう」、「今夜はおでんにしよう」といった衣食住の行動が枠組みとなっており、そうしながら生きていることにおいては大差ありません。
 また、石原吉郎のように、どんな時でも淡々と生活の枠組みを保てれば、人生はその人なりの豊穣さを生むものです。

 だから、抱えるしかないと判断したならば、あっさりと放っておきましょう。
 話したくないことは、話さなくても構わないのです。
 すべては変化します。
 善き心で過ごしていれば、変化は必ず良き方向へ向かいます。
 ポイントは、気持だけではなく、心持ちを良くすることです。
 心持ちとは、心のもちようです。
 それを良くするための方法が、『五恩』を忘れず、『十善戒』を守ることです。
 そうして生きていれば、石だと思っていたのにいつしか宝ものになっている場合もあります。
 守本尊様は必ず見守っておられます。
 信じ、無理をせず、ただ、まっとうに生きましょう」

 Aさんが重荷をしっかり負えると判断したので、この回答になりました。
 もしも、負いきれないと判断したならば、まったく異なる回答になったはずです。
 袈裟衣をまとえば、ご本尊様へお任せするしかありません。
 Aさんの運命転化を祈るのみです。

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2009
05.12

お授け 7

Category: □救われる道
 例祭で行うお授けです。

5 三摩耶戒(サンマヤカイ)

「おんさんまやさとばん」



「われらはみほとけの子なり ひとえに如来大悲の本誓(ホンゼイ)を仰いで 不二(フニ)の浄心(ジョウシン)に安住し 菩薩(ボサツ)利他の行業(ギョウゴウ)を励みて 法身(ミホトケ)の慧命(イノチ)を相続したてまつらん」

 清浄な心で悟りを求めることを固く決意したならば、それを生涯にわたって保ち続けることを具体的に誓います。

 まず、「自分はみ仏の子である」と固く信じて疑わないことです。
 私たちは、つまらないことで怒ったり、身勝手な妄想を起こしたり、自分に言い訳をして怠けたりしますが、それは、風が吹けば湖面にさざ波が立つようなものです。
 嬉しい縁も嫌な縁もいろいろとやってきて悲喜こもごもの人生ですが、一瞬も止まらないのちと心はみ仏のいのちと心につながっており、孫悟空がいくら遠くへ飛んでも、み仏の掌から出られないのと同じです。
 この確信と実感がなければ、修行はなかなか進みません。

 難しい病気に罹り、何度かご加持を受けたAさんが言われました。
「ご加持を受けて数日経つと、身体が辛くなります。しかし、その後、必ず楽になります。どういうことかと考えました。
 そして、これは変化していることなんだ。とりついている病魔が揺すぶられているんだ、と気づきました。
 最近は、辛さを忘れていられる時間も確保できるようになりました。ありがたいことです」
 Aさんには、「おんさんまやさとばん」の心がしっかり根付いています。
 だから、ぶれずに、救いを深められます。

 理を理解せず、目先の結果だけにとらわれていれば、より〈効く〉ものを求める放浪者になり、結局、菩提心を深めるという尊い生き方から離れる一方になってしまいます。
 安くて、早くできて、おいしいものを用意するのは食堂の役割です。
 無始の過去から膨大な業を積んできた私たちが因縁解脱を行おうとした場合、便利で手っ取り早い方法はありません。
 理解し、信じ、実践し、そしてさらに理解を深め、信心を強め、実践のレベルを上げるという地道な過程をたどるのみです。
 行者にとって、「おんさんまやさとばん」は、超強力な味方なのです。
2009
05.11

お授け 6

 例祭で行うお授けです。

4 発菩提心(ホツボダイシン)

「おんぼうじしったぼだはだやみ」


「白浄(ビャクジョウ)の信心を発(オコ)して無上の菩提(ボダイ)を求む 願わくは自他もろともに 仏の道を悟りて 生死(ショウジ)の海を渡り すみやかに解脱の彼岸に到らん」

「み仏の教えを信じ、実践して、霊性を高め、自他共にこの世の苦を脱してみ仏の子らしく生きられる境地をめざします」と誓う真言です。
 十善戒を守るという清らかなイメージをつくった上で悟りを求めるところが重要なポイントです。
 なぜなら、苦を脱したいと強く願っても、行く先のイメージは必ずしも明確になっておらず、苦しまぎれに別な苦を生む道へ進まないとも限らないからです。
 また、苦しんでいる人へ手を差し伸べるのが善人とは限らず、弱みにつけいって利用しようと企む悪人もおり、自分自身をしっかり清め、悪しきものの縁をはね返す満月のような心で悟りを求める必要があるからです。
 
 仏法を説く教典に誤りはありませんが、それを用いる人や教団に誤りがある可能性は排除できません。
 よい包丁は食材を鋭く切りますが、その包丁を用いて作られた料理がおいしいとは限らず、包丁が本来の目的以外に用いられるととんでもない結果をもたらす危険性もあるのと同じです。
 仏法は決して邪宗を生みません。
 邪宗は邪心がもたらします。
 満月を心へ映しとったような心で正邪を見極め、まっとうな教団、まっとうな師に導かれてまっすぐにみ仏の世界をめざしましょう。
2009
05.10

お地蔵様、お焚きあげ道場付近の整備が進みました

 おかげさまにて、お不動様が祀られているお焚きあげ道場へ至る付近が一段と整備されました。
 石を寄進される方や、樹木を寄進される方や、造りあげる方や、花々を寄進される方や、掃除をする方など、皆さんのご助力のたまものです。
 本当にありがたいことです。
 ご参詣の見知らぬ同士が声をかけ合い、タクシーで来られた方を地下鉄の駅まで送ってくださったり、誰かが鉢のままで置いてゆかれた草花を誰かが植え付けてくださったりと、和気藹々の聖地になっています。
 石に腰をおろしておにぎりを食べている方のそばでウグイスが鳴いています。

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2009
05.10

お授け 5

 前回、「自分でつくる苦であろうと、他からもたらされる苦であろうと、脱するために必要不可欠なのが十善戒であり、ここを離れるのは、み仏の救いから遠ざかることを意味します」と書きました。
 では、この戒律を守ればいかなる人になれるのでしょうか。

不殺生…他を思いやり、慈しむ心の深い人になります。 
・不偸盗…自他の人生・時間・モノを尊ぶ信頼される人になります。 
・不邪淫…品格のある高潔な人になります。
・不妄語…仏神に恥じない正直な人になります。
・不綺語…卑しくない毅然とした人になります。 
・不悪口…他の長所をすなおに認められる重みのある人になります。 
・不両舌…友情に厚く、親交に恵まれる人になります。
不慳貪…奉仕し、足るを知る高邁な人になります。
・不瞋恚…がすわり、他を許せる肚の大きな人になります。 
不邪見…ものをまっすぐに観てもつれた人生の糸を解く人になります。

 こうした十善戒こそ人倫の基礎です。
 宗教宗派を問わず、日々、唱え、心に刻んでおきましょう。
2009
05.09

お授け 4

 例祭で行うお授けです。

4 十善戒(ジュウゼンカイ)

「弟子某甲(デシムコウ)
盡未来際(ジンミライサイ)
不殺生(フセッショウ) 
不偸盗(フチュウトウ) 
不邪淫(フジャイン)
不妄語(フモウゴ) 
不綺語(フキゴ) 
不悪口(フアック) 
不両舌(フリョウゼツ) 
不慳貪(フケンドン) 
不瞋恚(フシンニ) 
不邪見(フジャケン)」


「み仏の弟子である私は、未来永劫にわたって、殺生・偸盗・邪淫・妄語・綺語・悪口・両舌・慳貪・瞋恚・邪見の悪行から離れます」と、善行に生きることを誓います。
 宗教の価値は救いにあります。
 足をとられ、転んで汚れ、泥水を飲み、そして溺れ死ぬ恐怖を与える底なし沼から脱しようとする時、初めて目の前にある山へ登りたいと切望します。
 底なし沼に足を突っ込んでいると自覚しない人にとっては、山は見えず、あるいは見えていても眺める対象でしかありません。

 生に尊厳を与える智慧のない「無明(ムミョウ)」、そして汚らわしく悲しい行動へ走らせる「煩悩(ボンノウ)」、この二つに動かされていると強い苦が起こります。
 あるいは、この二つに動かされている人との縁が深まると、強い苦が起こります。
 どうしようもないという焦りや、不安、あるいは怒りなどに苛まれ、頭の中で発展性も出口もない思考が堂々巡りし、暗く愚かな妄想が起こったりもします。
 こうしたところから抜け出るための動きをもたらすものが十善戒です。

 自分でつくる苦であろうと、他からもたらされる苦であろうと、脱するために必要不可欠なのが十善戒であり、ここを離れるのは、み仏の救いから遠ざかることを意味します。
2009
05.08

十力 2 ─是処非処智力(ゼショヒショチリキ)について─

 み仏のお智慧「十力」の第一は、是処非処智力(ゼショヒショチリキ)です。
 ここでいう「処」は、場所ではありません。
 すべては因縁によって消滅するという真理であり、その是非を知るとは次のようなことです。
 たとえば「いかに親しい間柄でも、いつかは別れの時が来る」という考えは「是」となり、「このネコと決して離れたくない」という考えは「非」となります。
 前者は諸行無常の理に立っており、後者は愛着にとらわれて諸行無常の理に反する空しい希望となっているからです。
 いつまでも自分の思うがままに可愛がっていたいと執着するのではなく、愛する者との別離による苦は必ずやってくると深く納得した上で、だからこそ、今、しっかり可愛がっておこうと考えるべきなのです。
 こうした真理を基にした判断力は、広く「道理に合っているかどうか」「善なのか悪なのか」「虚構なのか実体があるのか」などという判断においても誤らない大切な力です。

 最近は、スピリチュアルブームに乗って眼に見えない世界を実体視するさまざまな商売が起こり、危険なオカルトや詐欺商法に騙されないための正常な判別力が、若い層を中心にして著しく低下しています。
 これは、自由が放逸に陥り、民主主義が衆愚政治に陥っている観のある世相と軌を一にしています。
 与えられた自由が、〈空想上の真空〉へ解き放ったものは我(ガ)であり、しかも、その我もまた〈観念上の自分〉でしかないという「二重の空虚」が、人々を寄辺(ヨルベ)ない不安に陥れているのが現状ではないでしょうか。

 そもそも、私たちは、社会(家庭も含みます)に生まれ、社会で生きるという他人(家族も含みます)との関係性つまり〈縁〉の中にある存在です。
 そして、固有の肉体を持った私たちもまた、固い骨格、流れる血液、適度な体温、とぎれない呼吸、それらのバランス、そして連なる意識という地水火風空識の〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉です。
 しかも、過労や恨みや悲しみなどのストレスが高じると仮の和合が崩れて心身に異常をきたす可能性があり、常に心身を整え、鍛えなければ健全に生きられません。
 しかし、今の日本では、〈縁〉の中で生きていることが忘れられ、〈空想上の真空〉で生きているという錯覚に陥っています。
 また、自分は〈「六大」が仮に和合し危うく成り立っている存在〉であることが忘れられ、〈観念上の自分〉が気ままに生きているという錯覚に陥っています。
「二重の空虚」とはそういうことです。

 こうした寄辺(ヨルベ)ない時代にあっては、自分の存在意義を確信したり、不退転の志を保ち続けることはなかなか困難です。
 不安の中にある不安定な私たちはどうしても放逸にならざるを得ず、たやすく付和雷同しては政治を人気競争に堕としてしまいがちです。
 危険なオカルトや詐欺商法は不安を土壌とし、養分として育ちます。
 それらに騙されないためには、自分を生かしている縁をきちんと観て感謝し、自分の危うさを認識して学び鍛える生き方をせねばなりません。

 最近、九十歳を超えたAさんとの出会いがありました。
 産婆さんだったAさんは、子供たちを預かる施設を造り、現在は家族総ぐるみで活動しておられるそうです。
 Aさんは、はっきりした声で告げられました。
「明るい家庭をつくるにはどうしたら良いか。お寺へ教えていただきにまいります」。
 是処非処智力を磨き、Aさんのように、〈いつ、いかなる場にあっても、自分の責任において、自分の分を尽くす〉腰のすわった人になりたいものです。



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