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2009
06.30

野の花を眺め、雨風に耐えて咲く力を観じましょう

 野にあるたちは、四季の優しさに守られ、厳しさに鍛えられて時を待ち、陽光を最終的な縁として、まるでソーラーの器械を開けるかのように弁を開きます。
 種が周囲の条件を察知して動き出す、根が水分や養分を探して吸収する、地上に芽を出す、茎を伸ばす、葉が伸びる、つぼみを作る、やがて笑顔となる。
 雨の日や風の日も交えたこうした数ヶ月間のいとなみは、何と着実で淡々としていることでしょうか。
 それでいながら、散るまでの日数は、咲くまでに費やされた日々と比較して何分の一の長さもありません。
 残された種や球根は、またじっと時を待つ期間に入ります。

 古人は、こうしたの生きざまに「忍耐」を感じ取りました。
 時間をかけることを厭わぬくり返しへ入り、逃れたい、怠けたいという煩悩と戦う行者たちもまた、を観て励まされ、忍耐のイメージを獲得したことでしょう。
 
 さて、釈尊は、苦を克服する方法として『八正道』を説かれました。
 正しい見解に立ち、身体で三つの悪を犯さず、言葉で四つの悪を犯さず、心で三つの悪を犯さないことが正しい道であると説き、身体・言葉・心の戒めとして『十善戒』がまとめられました。
 後世、大乗仏教は自他共に苦を克服する修行道として『六波羅密(ロッパラミツ)』を説くようになりました。
 コの中の4つは八正道に重なりますが、布施忍辱(ニンニク…忍耐に近い)は重なりません。
 それはなぜか?
 二つとも、他者と関わることだからです。
 布施は自分から積極的に他者へ慈悲を施すことであり、忍辱は侮辱や無視などの他者からの悪しき関わりに心を乱さないことです。

 小乗仏教では、自分自身のありようをきちんと見つめ、苦の中にあるという事実、苦には原因があるという道理、苦を脱するには正しい方法を実践するという信念が説かれました。
 しかし、自分が悟るだけでは、世間とずれた人が一人生じただけのことです。
 もちろん、正しい方法を実践する行者は他者の苦を看過できません。
 慈悲とは生きとし生けるものへ向けられるものだからです。
 
 そこで、大乗仏教は、「他者は苦を抱えた存在として根本的に自分と同じであり、自分を考えることは他者を考えることである」と踏み込みました。
 だから、「自分が前向きに生きるためには他者へ無償の奉仕をしてはならない」、「自分が財や労力を捧げる相手は、自分に利益を与える神だけである」とするタイプの新興宗教とは正反対です。
 そもそも、釈尊は、「神へ捧げものをすれば神からごほうびとして幸せを与えられる」とするバラモン教に反し、「〈自分のため〉を第一とする我欲の汚れを離れなければ、お互いが苦を克服できない」と説かれ、仏教が弘法され始まりました。
 我欲を離れるためには、自分のためになることが同時に他者のためになることでなければならず、時と場合によっては自分の目先の利益を捨てても他者のためになろうとする心が求められました。
 電車の座席を譲る床座施(ショウザセ)などはその典型です。
 見知らぬお年寄りのために疲れた身体にむち打って席を譲ることは、〈自分のため〉を説く新興宗教とは正反対の方向です。

 忍辱もまた他者との関わりを重視する大乗仏教では欠かせない徳目です。
 自分が修行の厳しさに耐えて精進するのはもちろん、さらに難しい他者との関係においても心の平穏を保ち、なすべきことをなさねばなりません。
 以前、「潔さ -『蝉しぐれ』と『たそがれ清兵衛』-」で紹介した、ブンナの物語を再掲しておきます。

 インドの富裕な貿易商ブンナは商用の途中で釈尊の教えに接し、帰依しました。
 そして、悟りを得てアラカンとなり、自分の出身地である西海岸方面へ帰って布教をしようと思い立ちました。
 釈尊は問います。
「あちらの人々は粗野であると聞いている。もし、誹られたらどうするか?」
 ブンナは答えます。
「手で殴られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
 釈尊とブンナの問答は続きます。
「もし、手で殴られたらどうするか?」
「棒や石で打たれたのではありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、棒や石で打たれたらどうするか?」
「刀で斬られるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、刀で斬られたらどうするか?」
「殺されるわけでもありませんから、彼らは善人であると思い、布教をします」
「もし、殺されたらどうするか?」
「修行者には、愚かな自分を厭い、殺してくれと頼む人さえいるのですから、自分を殺してくれる人がいるなら好都合です」
 ついに釈尊は帰郷を許しました。
 はたせるかな、慈悲と忍辱で布教を行ったブンナは、帰郷した年のうちに、たちまち五百人もの信者を得たということです。


 最近のブログ、「第十五回 映画『チベット チベット』を観る会」でとりあげた密教における「8つの心の訓練」の第5番目も再掲しておきます。

「他人がわたしに対する嫉妬から、罵り、あざけるなどの不当な扱いをしようとも、自らが損を引き受けて、勝利を他人に捧げることができますように」


 味方は救ってくれる菩薩であり、敵は鍛えてくれる菩薩です。
 自分を鍛えてくれる相手がいなければ、弱さの克服は困難です。
 いかに瞑想を重ねようが、滝行に励もうが、万巻の書を読もうが、不当な言いがかりをつけられた時や相手が自分の意に添わぬ時に激高すれ、ばもう、菩薩ではあり得ません。
 修羅界の住人です。

 心はトレーニングをしなければ願う方向へは変化せず、トレーニングへ特に豊富なイメージを取り入れるのが密教です。
 特に密教行者にならずとも、霊性を高めるため、を眺めて耐える力を養いたいものです。
 そのための真言は、

「おん ばぎゃばてい きしゃんてい だりじ うんはった」


です。
 合掌し、

「我、雨風に負けず咲くのごとく、堪え忍び、心の花を咲かせん」


と心に刻み、この真言を唱える時、だれでもが忍辱波羅密菩薩(ニンニクハラミツボサツ)へ限りなく近づいていることでしょう。



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2009
06.29

21年7月の運勢(世間の動き)と六波羅密(ロッパラミツ)行による開運法

 先月は「変化のスピードが速まる」「タガが弛む」月でしたが、今月は円滑な進展が難しい時期です。
 火に油をそそぐように知恵や意見が噴出しますが、それが必ずしも煮炊きする火がおいしい食事を作るような結果を招くとは限りません。
才子才に溺れる」あるいは「策士策に溺れる」場面が映画を観ているかのごとく展開されましょう。

 燃え上がる火も、流れる水も、智慧と工夫によってコントロールされればこそ、文明の発展に貢献できました。
 才や力も同じです。
 節理の前に謙虚であり、節操を保ち、節度ある言動を用いれば、それらは自他を向上させ、発展させますが、「節」を忘れれば自他を大いなる混乱や困苦へ陥れることになりかねません。

 また、ものごとに「けじめ」をつける大切さが見直されることでしょう。
 誰もかれもが変化の波に乗ろうとして気ぜわしく、きちんと区切りをつけません。
 いち早く次の場面をつくりたがるだけで発想も主張も軽々しく、責任感を伴わない底の浅さが露呈されています。
 こうした時こそ、けじめをつける人間の高潔さが際立つことでしょう。
 高潔さを持った人物がリーダーとなれば品格ある社会となり、企業となり、教育の場となるはずです。

 暗闇に隠されて腐敗していたものが度を超して表面に出ようとし、危険なせめぎ合いが展開される可能性があります。
「臭いものにふた」とばかり安易に放っておいたものごとはきちんと処置しておきましょう。
 よく「割れ鍋に閉じ蓋」といいますが、壊れた鍋に適当な蓋をして間に合わせをすることがこのことわざの真意ではありません。
 蓋はあくまでも綴(ト)じられた、つまり、ぴったり、しっくりするように繕(ツクロ)った蓋でなければなりません。
「閉じ蓋」でなく、手間をかけても「綴じ蓋」を用意する慎重さや思慮深さがあれば無事安全に過ごせましょう。

 キツネが川を渡る場合、川を熟知したキツネは尾を濡らさず、安全に渡りきりますが、よくわからないキツネは、途中でうっかり尾を濡らしてしまい、溺れることもあるといいます。
 ものごとにとりかかる場合、まず、対象をよく知ること、そして自分自身を省みて、計画をチェックしてからにしましょう。
「こんなはずではなかった」という状況になるのは危険千万です。
 事実・実態を正確につかんで進む場合と、アバウトにやる場合とでは結果に大いなる違いがでやすいので注意しましょう。

 いよいよ夏本番です。
 水を相手にする時はくれぐれも慎重に、火を相手にする時は調節に気を配り、いのちの勢い盛んな季節を楽しく安全にお楽しみください。

 人の道をしっかりと歩むために、菩薩をめざす六波羅密(ロッパラミツ)行に邁進し、まっとうに生きましょう。
布施行と運勢]お水を供えましょう。
 精進の人は言語も進退も誤らず、順調です。
 不精進の人はせっかくの案を横取りされたり邪魔をされたりして、残念な思いをしがちになります。
[持戒行と運勢]塗香で手や心を清めましょう。
 精進の人は自信をもって着実に歩み、幸運をつかみます。
 不精進の人は自信がないために遅れてしまい、悔いを残すことになりがちです。
[忍辱(ニンニク)行と運勢]お花を供えましょう。
 精進の人は節度を大切にし、倹約が安心をもたらします。
 不精進の人は分不相応な動きで自ら墓穴を掘り、苦しくなりがちです。
[精進行と運勢]お線香を供えましょう。
 精進の人は我を張らず、僥倖を求めず確かな結果を得ます。
 不精進の人は希望的観測や投機的な動きが裏目に出て、危機に陥りがちです。
[禅定行と運勢]飯食(オンジキ)を供えましょう。
 精進の人は人生の裏表を知り意志を形あるものにできます。
 不精進の人は悪しき人と親しくなり裏切りによって失敗させられがちです。
[智慧行と運勢]灯明を点しましょう。
 精進の人は無益なことにこだわらず、我を通そうとせず、安全です。
 不精進の人は勝手な思い込みや実のない義理立てで人生を浪費しがちです。。

 皆さんの開運を祈っています。



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2009
06.28

死後の旅 (その1 死)

 龍太は枯れ木のようにんだ。

 気がつくと、自分の遺体は真新しい布団に横たえられ、天地逆さまにかけられた掛け布団の上には短刀が置かれている。
 脇に小さな机があり、生前、自分が使っていた茶わんにご飯が盛られ、箸が立てられている。
 長いお線香から煙がたゆたい、息子や嫁が黒い服を着た葬儀屋と打ち合わせをしている。

 左側にふんわりした気配が起こり、ゆっくり頭を廻らせてみたが、誰もいない。
 気のせいだったのかと思う間もなく、今度は、後から迫ってくる者がいる。
 ふり向くと、青みがかった灰色をしたモヤのようなものが漂っているだけだ。ふうっと吹いてみたが、息はモヤを素通りするだけで何の効果もない。

 玄関から「お着きです」と声がかかり、葬儀屋に先導された僧侶が、沈痛な面持ちで部屋へ入ってきた。
 二年前、妻が逝った時に頼んだH寺の住職だ。
 住職は「もうすぐ奥さんの三回忌なのに……」などと短く悔やみの挨拶をして法具を並べ、手早く着替えにとりかかる。
 修法を待つ小さな机から清新な空気が広がる。

 鐘の音一つ一つが同心円のように広がり、真言が部屋を満たし、揺らいでいた気持が収まる。
 あごを引いて鎌首をもたげた時のような気分だ。
 不動明王真言が唱えられ始めると、さっきのモヤのような気配たちはどこかへ消えた。
 やがて透明な壁に周囲をとり囲まれ、安心感と勇気が出てくる。
「いったい、これは何だ?」

 修法は短時間だったが、部屋の空気も自分の気分も一変した。
 混乱と不安は薄れ、いくらか明るくなったようにすら思える。
 住職は修法の解説をしている。
「いち早く枕経を唱えるのは、逝去されたご当人が体験したことのない事態に迷われ、善悪さまざまなものが近づいてくるので、不動明王結界を張ってお守りしなければならないからです」

 


 どなた様にとっても、佳き一日となりますよう。





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2009
06.27

6月の俳句 2

 俳人で信徒総代でもある鈴木妙朋さん(仙台市太白区在住)の句です。妙朋さんは、機関誌『法楽』と新聞『法楽かわら版』へ何年にもわたって俳句を投稿しておられます。(掲載が月遅れになる場合があります)

父の日や額あじさゐの額開く

                                     
 六月の第三日曜日とされる父の日は、南北戦争後、男手一つで育てられたアメリカ人J・B・ドット夫人の発案による。
 昭和47年にアメリカで国民の祝日とされ、バラを贈る習慣となった。
 この頃、日本で花開く潔く、力強い額紫陽花は、父のイメージである。

父の日やむかし旧家太柱


 旧家に残る太い柱には惚れ惚れする。
 家を形作り屋根を支え、揺るがずに立ち続ける数十年、あるいは数百年……。
 壁を塗り替えたり畳を新しくしたりはするが、柱には手をつけられない。
 手をつけさせる必要もない。
 感謝されにくい、なくてはならぬもの……。

まあいいか自問自答の更衣(コロモガエ)


 更衣の季節になると、しまっておいた衣類を取り出し、あれこれと着方を考える。
 新たな季節は、着るモノと一緒に気持も新しくしてくれる。
 しかし、いきなりは切り替わらない。
 今まで浸っていた気分から抜け出る時期のちょっとした途惑いが表れている。

紫の着物思はす花菖蒲


 花菖蒲の紫色は一枚一枚の葉の中に変化があり、薫風に任せて揺れる時は、光り具合で微妙な変化を見せる。
 着物の色もまた、着る人の動きや仕草によってさまざまな味わいをかもし出す。
 永年、和服に親しんだ作者ならではの連想である。

古茶淹(イ)れて一人ぐらしを存分


 新しいお茶が出回ると、前年に作られたお茶は「古茶」と呼ばれる。
 新茶が喜ばれる一方で、今まであったお茶の値打ちが急に下がってしまう。
 一人暮らしなら、誰を気にして古い、新しいと言うこともない。
 むしろ、古いお茶に変わらず親しむ安心感こそ絶品。

梅雨曇仕立屋は灯を低くして


 梅雨どきは、厚い雲によって昼間でもかなり暗くなり、本を読む時は電灯を灯さねばならない場合もある。
 細かな仕事をする仕立屋さんならなお一層、暗さを強く感じることだろう。
 台を横から照らす電灯の首を曲げて低くするという小さな動作が感興を呼んだ。

木漏れ日の風に吹かるる梅雨


 当山では、早くも黄揚羽を見かけた。
 風が強く吹くと、地面のあちこちにできている水たまりへ落ちはしまいかと心配になる。
 空から射す木漏れ日と地面に広がる水たまり。
 その天国と地獄の間で舞い、つかの間のいのちを精一杯に輝かせる一羽の

ままならぬ疼く腰痛梅雨じめり


 腰痛は決して招きたくない客であるが、時折、前触れなくやって来ては悩ます。
 早く去ってもらいたいのに居座り、ままならない。
 梅雨どきは湿気と、暑さの合間に急降下する気温が腰痛を呼ぶ。
 じめじめした湿気もまた、招かざる客だが、どうしようもない。

腰痛のときどきありぬ蛞蝓(ナメクジ)


 前の句に共通する腰痛と湿気の関係である。
 ナメクジをじっと眺めながら腰痛に耐えておられる姿を想像するのは辛いが、悲壮感のようなものは、不思議と、湧いてこない。
 状況を抱えきってしまった作者の強さだろうか。
 作品が確固と立っているからだろうか。



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2009
06.26

『四十二章経』第十二章 ─修めるべきもの─

 機関誌『法楽』作りに参加された皆さんと『四十二章経』を学びました。

仏の言(ノタマ)わく、
『何をかと為すや。唯(タダ)道をずることのみなり。
 何をか最も大となすや。志、道と合うは大なり。
 何をか多力(タリキ)となすや。忍辱(ニンニク)は最も健(ツヨ)し。忍ぶ者には怨(ウラミ)無し。必ず人に尊ばる。
 何をか最明(サイミョウ)となすや。心の垢(ク)除(ノゾ)こり、悪滅し、内(ウチ)清浄にして瑕(キズ)無く、未(イマ)だ天地有(ア)らざるより、今日(コンニチ)に逮(イタ)るまで、十方(ジッポウ)の所有(アラユ)る、未(イマ)だ之(コノ)萠(キザシ)を見ざるより、知らざること無く、見ざること無く、聞かざること無きを得、一切智(イッサイチ)を得(ウ)るは明(ミョウ)と謂(イ)うべきか。』


 釈尊は言われました。
「何がであろうか。
 それは仏道を学び実践することである」
 仏つまり悟った聖者(覚者)の説くものは真理であり、それに添った生き方がです。
 悪とは、教えに反する生き方ということになります。
 覚者とは真理をつかんだ人のことで、当然、その説くところは道理にかなっているはずです。
 迷いつつ、覚りを求められない、あるいは得られない人間にとって、人生路の羅針盤となるのが仏道です。
 
 釈尊は言われました。
「何が最もすばらしいことであろうか。
 それは、志が仏道と合致していることである」
 私たちはさまざまな志を抱き、人生をかけた動をいます。
 その時、志が覚者の説く道から外れていたなら残念です。
 なぜなら、それは真理・道理から外れていることを意味し、目標に向かって走っても、人生の真実をつかめないからです。
 たとえば、貧しい人々を救いたいという願望を持ち、裕福な家庭から盗んで配ろうとしたならどうでしょう。
「救いたい」は慈悲心なのでですが、「盗む」は「不偸盗(フチュウトウ…盗むなかれ)」という戒律を犯すので悪です。
 ねずみ小僧次郎吉のような志を持ってはならないのです。
 志に含まれる目的も、方法も仏道と合致していなければすばらしい動にはなりません。

 釈尊は言われました。
「何が強い力であろうか。
 それは忍辱である。
 耐え忍ぶ者は人を恨まず、人から恨まれない。
 必ず尊ばれる人間になる」
 釈尊は、「忍辱は行の尊」とも説かれており、弟子の修行が本ものであるかどうかを観る視点にしておられたのではないでしょうか。
 忍辱とは、いかなる辱めや辛さにも耐え忍んで人の道を貫き通す芯の強さであり、肝のすわり方です。
 ガマンとは次元が違います。
 ガマンは「我」と「慢」から成っているとおり、自分を自分の思っている地点から落としたくないためのがんばりです。
 忍辱は、つまらぬ我を離れて、人の道の実践をやめないことであって、一番とするものがまったく異なります。
 我を一番とするのが我慢であり、人の道を一番とするのが忍辱です。
 こうした実践者が怨み恨まれるという泥にまみれず、他から尊ばれるようになるのは当然です。
 尊ばれる内容は、以下のように説かれています。

1 たくさんの人々に愛される
2 たくさんの人々へ喜びを与え、気に入られる
3 なかなか敵をつくらない
4 なかなか過失をしない
5 迷わず、乱れず、死後は天界へ生まれる

 釈尊は言われました。
「何が最も賢いことであろうか。
 それは、心の垢がなくなり、悪行もなくなり、心は清浄にして過ちを犯さず、無限の過去から現在に至るまで、あらゆる場所で起こったあらゆるできごとを知り尽くす一切智を得ることである」
 真理を観た人が人を救えないならば、救済者はいなくなります。
 万人を救う救済者ならば、天地に起こるすべてのことを知っておられるはずです。
 それは、百科事典の前ページを暗記しているというイメージではなく、むしろ、碁や将棋の高段者が最善手を選ぶ時にはたらく頭脳のように「誤らない」といったイメージではないでしょうか。
 たとえば、釈尊が、一人娘を亡くして半狂乱になっている母親へ「死者を出したことのない家があったなら木の実をもらってきなさい。そうしたら、救ってあげよう」と約束する時、人というものの全てを知り尽くしているがゆえの智慧がはたらいていたことでしょう。
 この母親は、村中の家々を歩くうちに、人は皆、いつかは死ぬものであることを実感し、「なぜ、自分だけがこうした目に遭うのか」という妄執が徐々に離れ、救われました。
 釈尊の対機説法(タイキセッポウ…相手の状況に合わせて行う説法)は、一切智があったればこそなし得た奇跡だったのでしょう。



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2009
06.25

ほめる 十六

 かつてO小学校で行われていた校長先生と児童との手紙「ほめほめ便り」による交流をまとめた『ほめほめ集』からの抜粋である。
ホームページを作るのが大変だろうと、篤信の方がわざわざメールで送ってくださった。感謝してやまない。勉強会などを通じてご縁の方々へ紹介しており、寺子屋で参考にさせていただく予定である。
           ◇

PTA 副会長

 二月六日 学校で、PTAの お話しの会がありました。
 わたしたち役員は、その お世話をしました。
 その時ついあやまって、ろうかにおいてある、水を入れた ばけつをひっくりかえしてしまいました。
 さあたいへん、ろうかが水びたしになりました。
 そのとき、るすかていの児童さんたちが、手に手にぞうきんを持って来て、水をきれいにふきとってくださいました。
 わたしたちは、ほんとうに助かりました。
 そして、こんな子どもさんたちのいる黄金山小学校は、すばらしい学校だと思いました。
           ◆    
教師 H

 O小学校の便所は、校舎の下に大きな便そう(大便や小便のたまる水そう)がうめてあります。
 四五〇人あまりの皆さんの出す大小便と、そのたびに流す水とで、この便そうはすぐ一ぱいになります。
 そのたびにくみ取りの車に来ていただきます。
 工事中でくみ取り車が 校舎の裏に行けず、長いホースで表から取っていただくこともたびたびあります。
 みなさんも知っているように、汚物をモーターですいあげるときには、とってもいやなにおいがします。
 そのたびにくみ取りのおじさんたちのご苦労が思われます。
 二十四日(金)とつぜんくみ取りに来てくださいました。
 ちょうど屋体のわたりろうかをつくるため、鉄の柱をうめる工事中だったので、くみ取り車が裏にまわれません。
 脱靴室の所から長いホースで取ってもらうことになりました。
 長いホースは細いので、すい取るのにながい時間がかかります。
 その時おじさんが わたしにつぎのような話をなさいました。
「よその学校に行くと、くさいくさいと大声で言ってにげまわる。
 でも黄金山小学校の子どもはちがう。
『ごくろうさま、ありがとう、ありがとう。』と口々に言ってくれる。
 何べんも来てあげたくなる。
 こまった時にはいつでも知らせてください。」
 自分のしたうんこやおしっこでも 気もちが悪いのに、大勢の大便や小便を いやな顔一つせず、くみ取ってくださる おじさんたちに「ありがとう。」を言うのは あたりまえのことですが、この当たり前が出来ない人が 世の中にはたくさんいます。
 お世話になった人には、心から「ありがとう。」の言える人になるようこれからもみんなで心がけたいものです。
 H先生はとってもうれしかったので、すぐほめほめポストに書いて、みなさんにこのよろこびをおしらせしたいと思います。


           ◇
 児童が善いことを行い嬉しかった体験を文章にして校長先生へ送り、校長先生が書いた返事共々張り出すという「ほめほめ」の交流を綴った『ほめほめ集』は、これで終わりである。
 ちょうど、七月末で寺子屋を行う予定の講堂が完成する。
 六月二十八日、お不動様の縁日には、お迎えする本尊大日如来像が中国の港を出港する。
 寺子屋建立を掲げて『托鉢日記』第二集を出版してから十三年。
 きっと、皆々様のご加護、そして当山のみ仏様に加えて、十三仏様のご加護でここまでたどりつけたのだろう。
 まことにありがたい。
 そして、「いよいよだ」という高揚感もある。

 さて、掉尾を飾るのは父兄と先生の文章である。
 この二篇には、O小学校で行われている教育精華が如実に表れている。
 誰かが困っている時に、言われなくても手助けをする。
 感覚的に嫌でも、相手の立場を考え感謝を先にして、嫌な気持は抑える。
 これは、まさに慈悲である。
 抜苦与楽(バックヨラク…相手の苦を抜き、相手へ楽を与えること)だからである。
 こうした、奇跡とも思える教育は、「ほめる」という単純で、しかし、揺るがぬ一貫した姿勢が可能にした。
 誉められた児童は、〈信じられ〉、〈認められ〉た気持になり、心が広く豊かになる。
 校長先生という学校で最高の位にある人から賞賛を〈与えられ〉自信がつく。
 そして、さらに行為の意味を〈教えられ〉て学びを深め、学校では自分が丸ごと認められ〈守られている〉安心感を抱く。
 この「信・認・与・教・守」こそが、人間が発揮できる「優しさ」の全容である。
 O小学校では、イソップ物語の『北風と太陽』における太陽が、いつも、児童たちへさんさんと陽光を降りそそいでいる。
 こうした極楽で育つ子供たちは幸せものである。
 極楽を創るのは校長先生であり、理念を理解して協力する先生方であり、父兄たちである。
 子供たちが菩薩になると共に、先生方も父兄たちも菩薩への道を歩んでいることだろう。
『ほめほめ集』との巡り会いは、還暦を過ぎてなお未熟な行者にとってあまりにも衝撃的で示唆に富むできごとだった。
 万感の思いを込めてSさんへ感謝し、新たな出発へ向かいたい。



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2009
06.25

6月の俳句 1

 信徒古田正吉さんからいただいた作品です。

[俳句]

 瀬に立ちて絵になっている鮎釣

 笑みかわしあやめの路をゆき交いぬ

 紫陽花の咲いて佛へお賽銭

[川柳]

 財もなくわずらはしさも残さない

 お金より身に学問の親心

 親馬鹿をやめて豪華なホーム入り





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2009
06.24

NHK文化講座「生活と仏法」講義録 31 ―仏法のエッセンス─

 6月10日と24日は、仏法のエッセンスについてお話しました。

○忘れてならないのは五恩
一、社会の恩
一、親の恩
一、生きとし生けるものの恩
一、師の恩
一、三宝の恩

○人としての道は八正道

一、正見
一、正思惟
一、正語
一、正業
一、正命
一、正精進
一、正念
一、正定

○修行は六波羅密(ロッパラミツ)

一、布施
一、持戒
一、忍辱
一、精進
一、禅定
一、智慧

○目的を達成するには五力
 
一、信力
一、精進力
一、念力
一、定(ジョウ)力
一、慧(エ)力

理想の人格は五智を円満に保つこと
一、優しさの智慧
一、厳しさの智慧
一、正しさの智慧
一、優雅さの智慧
一、尊さの智慧

理想の生き方は身口意の三業(サンゴウ)を三密にすること


 これらの項目はどれをとっても、それぞれが、まるまる一回の講義分にも相当する重要なものですが、駆け足で概略の説明をしました。
 たとえば、「正見」(正しい見解)は、どのようなイメージか。
 正しく現象世界を見れば、〈無常〉というありようを離れて存在しているものは、何一つありません。
 いわば、無常という観点を離れないことが、ものの見方を誤らせない根本的な方法です。

 さて、見解が正しいかどうかはどのようにして判断すれば良いのか。
 もちろん、無常をふまえていなければ最初からはっきりしていますが、ポイントは三つ挙げられます。
 まず、人であれ、ものごとであれ、ありのままにとらえて判断材料とすること。
 それから、極論へ走らないこと。
 そして、ものごとを勝手にひっくり返さないことです。
「他人のふり見て我がふり直せ」も大切な実践法です。
 他人の話を冷静に聞いてみると、「あっ、変なとらえ方だ」「あっ、思考停止の極論だ」「あっ、都合良く主張してる」などと気づかされるものです。
 
 無常を忘れず、謙虚で偏らない批判精神を持てば、正しい見解を持てるようになることでしょう。



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2009
06.23

五つの願い 5

 運命を大きく転化させるためには祈りが必要です。

 祈りの根本である「五大願(ゴダイガン)」における第五の祈りは、

菩提(ボダイ)は無上なり 誓って証せんことを願う」


です。

 菩提はこの上ないものであり、それを求め続けて、「悟りこそが自分を救い人々を救う真実であることを実証しよう」と誓います。

 菩提とは、サンスクリット語ノボーディを音写したものであり、悟れば得られる智慧です。
 私たちは誰でもこの智慧を蔵していますが、食欲・性欲・睡眠欲といった生存欲や、モノに頼る財欲、あるいは自己顕示の名誉欲などが生活の前面に出がちです。
 しかし、『大日経』は「菩提とは実の如く自心を知ることである」と説き、欲に追われて荒れ狂う心を鎮めれば、厚い雲に覆われていた満月の皓々たる光が世界の姿をありありと浮かび上がらせるように、自他を救う智慧の明かりがはたらき出します。

 今から800年以上前に、和歌山県で生まれた明恵(ミョウエ)上人(ショウニン)は、月を眺めて菩提心を深める観想を行とし、ついに
「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや月」
という句を詠むに至りました。
 世界は月光に満ち、「ああ、明るい!」という感興以外の何ものもなくなってしまったのでしょう。
 また、月そのものになり果て、
「雲いでて 我にともなう 冬の月 風やみにしむ 雪やつめたき」
とも詠みました。
 身に凍みる風の冷たさ、雪の冷たさが、自分に伴う月にも同じように凍み込んでいるだろうにと憐れを感じています。
 自分と月とは、文字どおり一如となっています。
 そして、上人は「阿留辺幾夜宇和(アルベキヤウハ)」という有名な言葉を遺しました。
 私たちは、「あるべきように生きる」のが一番であるとされました。
 どうあるべきかは、菩提心(悟りを求める心)が教えてくれるのです。
 欲に追われてあれこれ考えを巡らせるだけでは、目先をうまくやる方法は見つかっても人間として歩むべき真の道は見つかりません。
 邪魔ものを省いて菩提心の光さえ輝かせれば、真の道は自ずから明らかになることでしょう。

 さて、中央におられる大日如来様を礼拝して第五の願いを念ずれば、「四つの智慧の根本となっている永遠にして普遍の清浄無垢な智慧」を理解できる智慧を得られます。
 それを法界体性智(ホウカウタイショウチ)といいます。
「あの世とこの世と自分の本質、本体を把握できる智慧」です。
 すべてを余すところなく明らかにするので「大いなる太陽のような如来」とお呼びします。

 ここまで、み仏のすべての智慧の源泉とも言うべき五智について述べました。
 当病平癒・除災招福・運命転化など、いかなる願いをもっていかなる仏神へ祈る場合も、まず、この願を発することが大切です。
 なぜなら、我欲こそが迷いと苦をもたらす原因であり、そこに立っている限り、問題の根は断ち切られないからです。

1 衆生は無辺なり 誓って救わんことを願う
2 福智は無辺なり 誓って集めんことを願う
3 法門は無辺なり 誓って学ばんことを願う
4 如来は無辺なり 誓って事(ツカ)えんことを願う
5 菩提(ボダイ)は無上なり 誓って證(サト)らんことを願う


あるいは、

1 衆生無辺誓願度(シュジョウムヘンセイガンド)
2 福智無辺誓願集(フクチムヘンセイガンシュウ)
3 法門無辺誓願学(ホンモンムヘンセイガンガク)
4 如来無辺誓願事(ニョライムヘンセイガンジ)
5 菩提無上誓願證(ボダイムジョウセイガンショウ


と唱えましょう。

 まず、第一の願いで利他の心を発するところがポイントです。
 ありとあらゆる人間も、そして生きとし生けるものも苦を離れて活き活きと過ごせるようにと願う清浄な心があってこそ、自分の病気も、災いも、真に克服できるのです。
 たとえば、憎い相手への復習を目的として財を得よう願い、実現させたならば、もし、首尾良く財を得られても、それはやがて本人を滅ぼす原因となることでしょう。
 第一の利他があってこそ、自利を目ざす第二以下の願いが菩薩として生きる力をもたらします。
 利他のない自利はなく、自利は必ず利他と一体になっています。

 この願いを不断に保つことによって、運命が明るい方向へと転化しますよう。



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2009
06.23

例祭だより(6月の第二例祭)

 先日の供養堂上棟式の感動も覚めやらぬまま、20日は第二例祭が行われました。
 梅雨が本番の時期なのに、上棟式も例祭も雨をよけました。
 今はとてもみずみずしい季節。
 草木や生き物がどんどん勢いを増してきているのが感じられます。

 護摩の炎も勢いよく爽やかに燃え上がりましたよ(^^)
 毎月二回行われる例祭ですが、その都度季節や空気は少しずつ変わっているので、例祭も毎回雰囲気が違います。
 炎も生きているんだな~と実感しました。

 住職のお話は…

 み仏を信じるということは、
 まず自分の中に決して揺るがない尊いものを見つけ、それを信じること。
 これを「自心仏(ジシンブツ)」という。
 誰にでもある尊い心(仏)は誰にでもある。
 イコールみ仏はそれぞれの方の中にあるということ。

 仏様は遠い遠い世界(あの世とか?!)にいらっしゃるだけで自分とは掛け離れた存在となのかな?と思いがちですが、自分の中の尊さは仏様の分身のようなものなのでしょうね。

 だから経典にあるとおり、『我らはみ仏の子なり…』なんですね~。

 自分の中には仏様がいるんだわと自信を持ちつつ、み仏の子として恥ずかしくないように(笑)人生修業していきましょう☆(書き手─高橋里佳)



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2009
06.22

俳句を掲載する理由

 当山が俳句を重んじるのは、〈無常〉と〈〉を表現する至高の芸術であると考えているからです。
 常は、そもそも太陽に発し、いつも同じ大きさを持ち、変わらぬ存在であることを含意しています。
 は、そもそもに発し、満ち欠けして形を変えながらも、変化の様子が一貫していることを含意しています。
 両方とも「つね」と読みますが、その意味は異なっています。

 さて、仏法では諸行無常(ショギョウムジョウ)を説きます。
 この場合の行とは「作られて存在しているもの」であり、諸行とは、現象している一切のものを意味します。
 それはすべて「生・住・異・滅(ショウジュウイメツ)」の四相にあります。
 生じているか、とどまっているか、変容しているか、滅するか、いずれかを避けることはできません。
 太陽のように常には在り続けられないのです。

 釈尊は、過去世において雪山童子(セッセンドウジ)だった頃、羅刹(ラセツ…悪鬼)に身を捧げる約束をして「諸行無常・是生滅法・生滅滅已・寂滅爲樂」という真理を聞きました。
 後世、お大師様は、この真理を『いろは歌』で説いたとされています。

「いろはにほへどちりぬるを」は諸行無常(ショギョウムジョウ)、
「わがよたれぞつねならむ」は是生滅法(ゼショウメッポウ)、
「うゐのおくやまけふこえて」生滅滅已(ショウメツメツイ)、
「あさきゆめみじゑひもせず」寂滅為楽(ジャクメツイラク)

です。
 ただし、現在の研究によると、お大師様そのものではなく、弟子の密教行者たちが創ったのではないかと推測されています。
 いずれにしても、ありとあらゆるものは無常であり、それが苦を招きます。
 深く無常の理(コトワリ)を理解し、悟ればこの世は極楽となります。

 悟りの目に見える真理が不変の「」ではないでしょうか。
経』に「雷風(ライフイコウ)」という卦があり、「天地の道は久にして已(ヤ)まざるなり」と説明されています。
 天地の道は永遠にして不滅です。
 悟りイコール天地の道です。
 この不変の「」を観るのが密教の瞑想法です。
 の歌人と呼ばれた明恵上人は、生涯、この法を修し、ついに

「あかあかや あかあかあかや あかあかや あかあかあかや あかあかや

と詠みました。
 今から800年以上前に、明るい光そのものに成りはてた行者がいました。
 明恵上人はまた、生涯、「あるべきよう」を説きました。
 好き勝手をやるのではなく、なすべきことを知り、あるべきように生きるのが悟りであり、人の道です。
 不変の真理を観る目に、道は明らかになります。
 やはり、「悟りイコール天地の道」なのでしょう。

 こうしたことを鑑みて、四季の移りゆくさまを活写し、そこに不変の安心を宿す俳句を掲載しています。



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2009
06.22

期待

 信徒Sさんの投稿です。
 迷い悩みながら大人になって行く感性が表れています。

「今週は学校の中間考査で大変です;
帰りは早いので嬉しいのですが、赤点を取るのではないかとドキドキします;;
授業中理解出来ないものも、1人になってじっくり教科書を眺めていると分かってくるものも多く、少し勉強するのが楽しくなりました☆
中学の時大っ嫌いだった数学も、多分70点くらいは行くんじゃないかなーと期待してます!」

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2009
06.21

五つの願い 4

 運命を大きく転化させるためには祈りが必要です。

 祈りの根本である「五大願(ゴダイガン)」における第四の祈りは、

「如来は無辺なり 誓って事(ツカ)えんことを願う」


です。

 み仏は数限りなくおられるけれども、どなたであろうと縁に応じてご供養します、と誓います。
 み仏はすべて、人間の持つ崇高な精神の結晶としてイメージされるものであり、それは取捨選択できません。
 煩悩がいかに暴れようとしても、強い力で鎮める不動明王
 いかに無慈悲の風が吹いていようとも、慈悲のぬくもりで暖める観音菩薩
 迷いの闇路がいかに暗くとも、行く道を示す地蔵菩薩
 こうした方々のどなたを供養し、どなたを供養しないなどということは、真の供養の心を持っている人にとって不可能です。
 なぜなら、容れ物の形に合わせて自分の形を変える〈水〉のようにすなおな姿勢をもたない供養はないからです。
 また、〈塗香(ヅコウ)〉のように戒めを守り清らかに生きる。
 また、〈花〉のようにじっと困難に耐える。
 また、〈お線香〉のようにたゆまず精進する。
 また、感謝して〈食べもの〉をいただき、心身を整える。
 また、〈灯明〉のように智慧の明かりを灯し続ける。
 こうして六波羅密(ロッパラミツ)の行に生きる生きざまの徳を掌の中へ入れて合掌してこそ、真の供養になります。
 供養とは、み仏の子らしい生き方が咲かせる花であり、気まぐれに「拝む」こととは次元が異なります。
 言い方を変えれば、六波羅密行を実践しつつ生きる人なら、どなたでも真の供養ができるのです。

 花などのモノは心をつくるための道具であり、行のいのちはあくまでもイメージです。
 身体と言葉と心を六つのイメージに合わせて生きられれば、それは菩薩として生きていることに他ならず、即身成仏となります。
 真の供養とは、生き仏が手を合わせることであると言って過言ではありません。

 さて、北におられる不空成就如来(フクウジョウジュニョライ)様を礼拝して第四の願いを念ずれば、「自分の成すべきことは何であり、どうすれば成就できるか」を理解できる智慧を得られます。
 それを成所作智(ジョウショサチ)といいます。
「作すべき所を成す智慧」です。
 この智慧をお授けくださるので「成就すること空(クウ)ならざる如来」とお呼びします。
 六波羅密行を実践し、その徳をもって縁のみ仏を供養し、成すべきことを成しつつ、人として実りある人生を歩みたいものです。
 
「如来は無辺なり 誓って事(ツカ)えんことを願う」と祈り、開運しましょう。

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2009
06.20

上棟式が終わりました

 文字どおり梅雨の晴れ間となった6月19日、70名もの方々のご参列をいただき、予定通り、講堂の上棟式を執り行いました。
 皆々様のご助力に心より感謝しています。
 なお、式典では、宮大工の方々による由緒正しい儀式が行われ、み仏と神々へ祈る日本の伝統文化の底深さ、味わい深さをあらためて認識しました。
 尊いと感じるものをすなおに尊び、他人が尊ぶものを尊重し、誰かのために集まる時は、そこへ勧請する仏神へすなおに祈りを捧げる日本人の心性を大切にしたいものです。
 こうした文化の形は、神やイデオロギーを旗印として人々が衝突する世界にあって、とても貴重なものではないでしょうか。
「日本人一人一人には宗教がない」「信じるものがあいまいだ」などという非難をものともせず、肝心なものをじっと守り続けたいと強く感じました。

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〈天へ向かうは天からやってくる魔もの、地へ向かうは地からわき出す魔ものを防ぎます〉
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〈棟札は五尺の特大版です〉
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〈いつもはまっ黒になってはたらいてくださる宮大工の方々です〉
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〈人生の難局を乗り切った方々も一緒になってモチを撒いてくださいました〉
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2009
06.19

6月の聖語

古(ムカシ)の人は道のために道を求む。
今の人は名利(ミョウリ)のために求む。
名のために求むるは求道(グドウ)の志にあらず。
求道の志は己を忘るる道法(ドウホウ)なり。 ─弘法大師─


(昔の人は、道そのものを得ようとして道を求めた。
 今の人は、名を上げ利を得るために道を求める。
 名のためであれば求道の志があるとは言えない。
 求道の志とは、己を忘れてひたすら道を求めてやまない心のありようである)

 これは、最澄が経典を貸して欲しいと申し込んだ際に答えた文章です。
 最澄は法華経を柱とした体系を創ろうとしており、お大師様が招来した密教もその中に含みたかったのです。
 しかし、み仏そのものになり切ってしまおうとする密教は、所定の修行を経なければ血肉になりません。
 最澄の求道心はいわゆる「有名になりたい」といった下賎なものではなくとも、血肉となっていない密教を含んでいると称する体系を創ること自体、お大師様は「名のため」と考えられたのでしょう。

 お大師様は「今の人」と書かれましたが、この文章は、現代にあってますます重要なものとなっています。
 なぜなら、〈知る〉ことは日を追うごとにたやすくなる一方、知ろうとして時間に追われているうちに、〈血肉にする〉ための修行を行う時間は日に日に少なくなっているように見受けられるからです。
 どこの書店でも、省時間を目ざすノウハウものが山積みされていますが、現代人の霊性は高まっているでしょうか?
 品位や矜持は、どうでしょう。
 昔の人にとっても、今の人にとっても、一日は同じ二十四時間です。
 人生とは時間であり、生きざまとは時間の配分の異名に他なりません。
 私たちは人間として大切なものを血肉にするための時間をどれだけ使っているでしょうか?

 6月18日付の河北新報で、新潟県中越地震で被災した方々の救援、復興に当たっておられる「山古志サテライト」主任支援員の井上洋さんが紹介されました。
 旧山古志村(現長岡市)では、「昨年一年間、住民と支援員、行政、識者らが新しい山古志ビジョン、スローガンを作ろうと話し合いを重ねた」そうです。
 その結果について、井上さんはこう述べました。
「みんなで一緒に考えるというプロセスが大事だった。
 山古志のような中山間地は確かに不便だが、不便さと上手に付き合うことで、むしろ人間らしく生きられる。
 そう思えるようになった」
 人生には、どうしても時間をかけねばならないことがあり、その場合の時間は代役がききません。
 井上さんは現代人が忘れかけている真実を述べました。
 今の政治が信頼を失っている根本原因は、肝心な政策づくりに時間をかけず、その場しのぎにあくせくしている印象が持たれ、政策の中身も実行しようとする誠意も信じられていないところにありまです。
 ブログで紹介した『ひとつぶ堂』さんも、『モカモアコーヒー』さんも、じっくり時間をかけて腕を磨き、自分で汗を流しながら店作りをされました。
 時間と汗こそが両店の土台となり、柱となり、味や店の空間に結実しています。
 
 無から始めた当山も、12年かけてやっと広々したお堂ができます。
 平成11年8月28日に『托鉢日記第二集』を出版して産声を上げた寺子屋建立運動は、もうすぐ8年になります。
 浅学非才、微力であるがゆえに要した長時間でしたが、これから、かかった時間が生きているような法務を行えればありがたいことです。
 当山では、持戒をこのように誓っています。
「我、塗香(ズコウ…手に塗るお香)のごとく、自他を清め、浄戒そのものになり果てん」
 たとえば、不殺生という戒律は「みだりな殺生を行ってはならない」と〈知る〉ことによって動きだし、「みだりな殺生ができない」と〈血肉になる〉ことによって成就します。
 教えに成り果て、道そのものに成り果てられるよう時間をかけつつ、生きたいものです。



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2009
06.18

上棟式

 19日の上棟式が近づき、棟札(ムナフダ)を書くところです。
 棟札とは、木や銅板に願いごと、年月日、建て主や大工さんの名前などを記して祈祷を行い、棟木に打ち付けるお札です。
 普通は目に触れない場所に取り付けられるので、解体か修理の場合しか日の目を見ることなく、建物と所有者と利用者を守り続けます。

 棟札には、こう書かれます。

「我此土安穏 天人常充満 園林諸堂閣 種種宝荘厳」
(我がこの土は安穏にして、天人常に充満せり
 園林、諸々の堂閣は種種の宝をもって荘厳せらる)


 み仏のおられる浄土には常にたくさんの天神や天女がおり、庭やお堂はさまざまな宝もので飾られています。
 このように安穏で美しい浄土であって欲しいと祈ります。

「聖主天中天 迦陵頻伽(ガリョウビンガ)声 哀愍(アイミン)衆生者 我等今敬禮(キョウライ)」
(聖なる主、天中の天よ、架陵頻伽の声をもって
 衆生を哀愍する方を 我等は今、敬い奉る)


 極楽に住むガリョウビンガの声をもって天神たちの主たるみ仏を供養する神々は、み仏のお慈悲の偉大さに心から敬服するのです。
 私たちも帰依し、清浄な声で読経して供養のまことを捧げます。

令法久住(リョウボウクジュウ) 利益人天(リヤクニンデン) 天下泰平 国土安穏」
(法を久しく住せしめ 人天を利益す 天下泰平にして 国土安穏ならんことを)


 仏法が永遠に続き、人々をも神々をも導き、救ってくださるようにと祈ります。
 天下泰平とは、生きとし生けるものが安泰に暮らせること、そして、国土安穏とは環境世界が穏やかで調和のとれていることです。
 私たち凡夫は至高のものをイメージすることができます。
 しかし、イメージと一体化するまで自らを高めるのはなかなか困難です。
 高める意志を持続させるものが北極星のようなみ仏です。
 生者であろうが死者であろうが神々であろうが、導き手はみ仏です。
 み仏がおられ、教えがあり、仏法が力を発揮してこそ、有為転変(ウイテンペン)極まりない宇宙にあって霊性を高め続けられます。

 当日はたくさんのモチを撒きます。
 もしも雨天の際はお配りします。
 お気軽にでかけられ、モチと一緒にたくさんの福徳をお受けください。
 なお、場所は黒川郡大和町宮床字兎野1-11-1(安部屋酒店の裏手)、修法開始は午後3時です。

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2009
06.17

青葉祭

 6月15日は、お大師様の1235回目の誕生日「青葉祭」でした。

 インドにおいてヒンズー教と共存していた仏教が、イスラム教徒の侵略によって滅ぶ前にたどりついた最終形態が密教であり、釈尊への憧れは即身成仏によって結実します。
 生者であれ、死者であれ、導いてくださるのはみ仏です。
 日常生活の垢が付着している心は導きのシグナルをつかまえにくいので、即身成仏法を結ぶ行者がアンテナとなって、皆さんの願いや祈りみ仏へ届け、ご加護の橋渡しを行います。
 亡くなった方があれば、無明妄執を祓い涅槃寂静(ネハンジャクジョウ)の境地へ向かっていただくために、引導を渡してこの世とあの世の区切りを明確にし、アンテナとなって、み仏の待つ道を感得していただきます。
 その新たな旅立ちのために必要な戒名は、修法する行者へみ仏から降ります。
 私たちがこの世に生まれ出た時に親が精一杯考えてつけてくれる名前以上の意義を持つ戒名を、一介の行者風情が決められるわけはありません。
 法の中に入って初めて、死者の還り行く安心世界で待つみ仏がつけてくださる戒名を知ることができます。
 行者はそれをご遺族へお知らせするのみです。
 15日もお大師様の法によって戒名をいただき、16日のご葬儀を迎えました。

 こうした密教を日本へ伝え、心の世界とモノの世界との両方を安心世界へと変容させる方法を確立したのがお大師様です。
 私たちは、感謝をこめ、救いを求めてご宝号を唱えます。

高野(タカノ)の山に身をとどめ救いのみ手を垂れ給う おしえのみおやに帰依したてまつる
願わくは無明長夜(ムミョウジョウヤ)の闇路をてらし 二仏中間(チュウゲン)の我等を導きたまえ
南無大師遍照金剛(ナムダイシヘンジョウコンゴウ)


 二仏とは釈尊と弥勒菩薩です。
 釈尊が明確にされた仏法によって私たちは導かれますが、迷う人がいなくなるまでには五十六億七千万年を要するとされています。
 弥勒菩薩がこの世に現れて最後の一人をも救いきってくださるまでの間が「二仏中間」です。
 そこを守るよう託されたのが地蔵菩薩です。
 私たち密教行者は、お大師様の遺された次第によって地蔵菩薩をはじめとする守本尊様方のお力をいただき、この世を幸せの世界に、あの世を安心の世界にするよう修法します。
 お大師様は、次第として目に見える形で今に生き、それをなぞる行者と法を信じる方へ、今も救いの手を差し伸べてくださいます。
南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛 南無大師遍照金剛



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2009
06.16

モカモアコーヒー

 古民家に移り住んだ若夫婦がコーヒー店「モカモアコーヒー」を出しました。
 当山から車で約5分のところです。
 20年も放置された家なので屋根はプロに頼んだものの、大部分は自分たちの手作りで開店にこぎつけたそうです。
 時間を経た柱やガラス戸でつくられた空間は、窓外に見える自然と一体になっています。
 信楽寺(シンギョウジ)跡地のすぐそばにあるお店のコーヒーはもちろんとても味わい深く、わざわざでかける価値のあるお店です。 

 それにしても、釈尊の時代ならさだめし精舎があったと思われるような山里に若い方が新たに移り住むとは、嬉しいことです。
 お客様の平均年齢も結構低いらしく、都会の喧噪を離れて憩うという感覚が若い方々に芽生えつつあるのでしょうか。

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2009
06.15

保育所の闇 (4)

 我が身を省み、同世代の人々を眺め、つくづく思うのは、「子供は、お金をかけるよりも目をかけてやらねばならない。目をかけることは、他の何をもっても換えられない」ということです。
 そして、「これからでも遅くはない。たとえ邪魔だと思われようと、うるさがられようと、自分の孫だけでなく、小さな子供たちすべてへ思い切り目をかけつつ生きよう」と決心しました。
 その上で、言い遺しておきたいのです。
「親になったなら、〈なりわい〉と〈家事〉と〈子育て〉は、当面、人生の三本柱です。
 なりわいに励み、家事に励むのと同じ熱心さで子供へ目をかけてください。
 モノや趣味によって自己実現をするのは、我が子が親離れしてからでも遅くないではありませんか。
 子離れした後の人生がどれだけあるか、考えてみてください」


 釈尊は『法句経』で説かれました。

「心の雑草は早く抜かねばならない。
 さもないと、肝心の心の稲はきちんと生育しないであろう」


 満2歳の頃になると、雑草は充分、育っています。
 まさに「三つ子の魂百まで」です。
 数え年3歳児の守本尊不動明王です。
 我欲が爆発的に発達するこのあたりを充分注視し、育ち方が変わる4歳(数え歳です)、生活環境などの影響が顕著になる5歳、子供の本心が見えにくくなる6歳を無事通り抜けさせましょう。
 そして、守本尊大日如来のご加護を受けながら、晴れてランドセルを背負い小学校へ入学できるよう、目をかけ続けようではありませんか。



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2009
06.15

【現代の偉人伝】第77話 ─アポロ11号の乗員マイケル・コリンズ─

現代の偉人伝~隣にいる英雄たち~とは

アレキサンダー大王、ジンギスカン、ナポレオン、織田信長・・・戦いの勝者となって世の中を変えた偉人たちに学ぶことも大事ですが、市井に住む私たちにとって目指すべき具体的な北極星となるのは、中島みゆきの唄う「地上の星」に表現されるような方々ではないでしょうか。
 ここでは主としてそうした人々をとりあげます。
 もしもあなたの身近にそうした方がおられたならば、どうぞご紹介ください。
 当山では、身近な人々の善行に関する情報を集めています。

>詳しくはこちらをご覧ください。



 6月14日、読売新聞はアポロ11号による人類最初の月面着陸に関する記事を掲載した。
 1969年7月20日、世界中が大騒ぎとなり、ニール・アームストロング船長は文字どおり「世界の英雄」と賞讃された。
 しかし、月着陸船『イーグル』で月面へ降り立った船長に「一人の人間にとっては小さな一歩だが、人類にとっては偉大な飛躍だ」と言わしめた宇宙飛行士が他に二人いたことは、たちまちに忘れ去られた。
 記事を追い、記憶にとどめておきたい。

 乗員バズ・オルドリンは、『イーグル』で船長と行動を共にし、約15分後に月面を踏んだ。
 もう一人の乗員マイケル・コリンズは司令船のパイロットとして、ただ一人、110キロの上空から『イーグル』と二人の行動を見守っていた。
 役割分担が決まった時、月面へ降りられない彼は、マスコミの取材にこう答えている。

「月飛行の99・9パーセントは同行するのだから、それで十分」


 船長の母親は、『イーグル』が「静かの海」へ降下をし始めた時、コリンズを気遣った。
「彼が一緒には行けないことを申し訳なく思いました。
 献身的な彼をとても誇らしく思いました」

 着陸から3時間後、月面行動は終了し、『イーグル』は離陸しようとした。
 コリンズにとって、もっとも緊張した瞬間だったろう。
 何しろ、彼は、もし離陸に失敗した場合、二人を酸素のない月面へ残したまま地球へ帰還するよう指示されていたからである。
 無事、飛び立った『イーグル』は、時速6000キロメートルもの速度で帰陸船とドッキングし、三人は再び地球の地を踏むことができた。
 コリンズが850回もコンピューターのボタンを押して指示を行い、一度のまちがいも起こさずに帰陸船をつかまえたからである。

 コリンズは、たった一人で月面の裏側を飛行していた時の気持について語っている。

「特に月の裏側にいるときは、格別な感情を味わった。
 私はほんとうに一人だ。
 全太陽系のなかで、自分の生まれた惑星すら見ることのできない、たった一人の人間」
「私は今一人、まったくの一人だ。
 月の向こう側には30億人プラス二人、こちら側には一人プラスそれ以外の人数」


 読売新聞の記事はこう結ばれている。
「最後の『それ以外の人数』というのは、我々以外の知的生命体のことだろう。
 宇宙生命の気配を感じ取る。
 それほど高貴な孤独だったのだ」

 2年後、コリンズは、スミソニアン協会の国立航空宇宙博物館館長となり、数々の要職を勤め上げた後、経営コンサルタント会社を創設し、児童書の出版なども行っている。
 私たちは、気に入った家ができあがれば大工さんを誉め、おいしい食事をいただけば料理人を誉め、こうした記事を読んでは新聞に感謝するが、基礎工事を行った人々や、食堂を支える人々や、配達してくれる人々の存在はほとんど意識に上らない。
 工事の途中で大地震などが起こらなかったことや大事故が起こらなかったことをありがたいとは、あまり思わない。
 新鮮な食材となっていのちをくれる米や野菜や魚へ感謝することも、あまり、ない。
 かなりの程度、自由に報道が行われ、自由に情報へ接することのできる国に住んでいることを感謝することも、あまり、ない。
 かつて、NHKテレビは、「プロジェクトX」という番組において、〈支える人々〉の視点から印象に残るできごとの全体像を追った。
 番組では、一般的な報道からだけではうかがい知れない真実が明らかにされていた。

 できごとに感動したなら、あるいは衝撃を受けたなら、その全体像へ迫る姿勢を忘れないようにしたい。
 のすべてを見通すみ仏の「過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)」は無理であっても、をもたらしたを広い視野からとらえる自在な心眼は曇らせないようにしたい。
 マイケル・コリンズは、こうした人生の大事を思いださせる英雄の一人である。



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2009
06.14

保育所の闇 (3)

 敗戦から立ち直ろうとした世代は、365日、朝から晩まで休みなくはたらいて日本を復興させました。
 今は「背中を見て育つ時代ではない」と言われますが、当時は、ほとんで親の背中しか見えず、母親はいつもエプロンをかけていました。
 そして、生きるための「なりわい」と「家事」以外の時間は「子育て」に使う親が多かったのではないでしょうか。
 もちろん、貧しくて遊興にうつつを抜かす余裕もなかったわけですが、モノがなかった代わりに、父親も母親も子供の遊び相手になり、先生になってくれました。

 さて、団塊の世代である自分自身を省みると、自分は「なりわい」に一生懸命でした。
 妻は「家事」と「なりわい」の手伝いに一生懸命でした。
 私は遊びながらも会社を発展させ、いくばくかは社会的貢献も行い、家や車などを持ち、家族旅行へでかけました。
 読書や音楽鑑賞などの趣味にも没頭しました。
 さて、「子育て」はどうだったか?
 習い事や勉強をやらせ、家庭教師はつけたけれども、子供と一緒になって遊びや勉強を行い、落ちついて子供の考えや希望や悩みを聞いてやる時間はほとんど持ちませんでした。
 夫婦して「なりわい」と「家事」の次は、「自分の欲しいモノを手に入れ人生を楽しむこと」であり、「子育て」の重要性をほとんど認識してはいませんでした。
 決して放置していたつもりはなくとも、子供は自然に育つものであるという感覚でいたことは確かです。

 最近、中年にさしかかりつつある子供に訊ねてみました。
「学校でいじめはなかったか?」
放置されていると思わなかったか?」
 結果には文字どおり打ちのめされました。
 親が会社を倒産させて無一文になる前後、学校でかなりいじめられていたけれども、親はとても〈それどころではないだろう〉と思って我慢し、どうにか〈自分のいる場所〉をつくって乗り切ったというのです。
 自分が危機に陥っていても、親は当てにならず、自分の家にいても、自分の心の安心を得る方法は自分で探すしかなかったとは、もう、頭を垂れるしかありません。
 そして、「自分は放置されていると思っていた」というのです。

 私ははたらき、遊びもしましたが、子供の欲しいものは何とかして買い与え、たまの休みには家族旅行もしました。
 それで子供へ果たす責任はまっとうしていると考えていました。
 しかし、仕事へ対する真剣さと同じ真剣さをもって子供へ対していたかといえば、恥ずかしいなどという言葉を超えた状況でした。
 仕事の次の関心事は社会的活動であり、次は自分の人生を豊かにすることであり、そうしたがんばりはそのまま家族全員の幸せにつながると錯覚していました。
 明らかに錯覚だったのは、子供の心を知らずして子供を幸せにできるはずはないからです。
 団塊の世代の多くは、過去をふり返る時、きっと似たような苦い思いを味わうことでしょう。

 戦争を生き抜いた親は懸命に復興をはかり、懸命に育ててくれました。
 自分と同じ苦労をさせぬようにとがんばって汗を流してくれました。
 団塊の世代は、モノを手に入れ、遊ぶことによって自分らしく生きよう自己実現をしようという産業界の誘いに乗り、豊かで楽しい時代を生きました。
 しかし、「子育て」という大事業を「自己実現」の下へ置いたために、充分、目をかけてもらえない子供たちを輩出させました。
 子供たちは、団塊の世代ではほとんど見られなかった登校拒否や家庭内暴力を引きおこしました。
 今、その子供たちが子供をつくり、幼子たちは心に闇を抱えて育ちつつあり、心の病気は飛躍的に増えています。



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2009
06.13

保育所の闇 (2)

 北海道に住むAさんからご祈祷の依頼がありました。
 5歳になる息子B君が、保育所でいじめに遭っているというのです。
 心配して父兄参観にでかけたところ、親が見ている前で、B君は使っている色鉛筆を取りあげられそうになりました。
 数人で「すぐ返すから、貸して!」と迫るのを見かねたAさんが、「後で貸してあげるからね」と仲裁に入ってB君を守りました。
 B君はストレスから家で母親に当たり、母親は疲れた身体を引きずって帰宅する夫に当たります。
 先生に相談すると一時的に下火になっても、いじめる子供たちの心は容易に変わらず、一家三人の葛藤は深まるばかりです。

 仙南に住むAさんが人生相談に来られました。
 5歳になる息子B君が、夜、寝る前になると泣き出すというのです。
「どうしたの?」と訊いてもあまり話したがらず、ようやく、保育所で、無視するなどのいじめに遭っていることが判りました。
 一旦へそを曲げるとテコでも動かないようなところのあるB君は、ケンカになると、とてつもない凶暴性を発揮するので、いつも仲間たちよりもきつく叱られていました。
 そのせいでガマンを覚えたの結果、ギリギリのところまでガマンするようになってしまったようです。
 先生に相談すると「そうした事実は、ほとんどありませんが、なお、よく観察します」と言われました。

 仙北に住むAさんが人生相談に来られました。
 4歳になる娘Bちゃんがいじめられて保育所へ行きたがらなくなってしまい、諸々の関係上、簡単に保育所を変えられないので困ったというのです。
 先生に相談したところ「子供たちの成長過程で、よくあることですから」と一蹴され、Aさんは心の病気を発症してしまいました。
 家族はいてもこの問題に対処できるのは自分しかいないので、母娘そろってダメになってしまうのではないかと強い不安を訴えられます。

「保育所の闇 (1)」に書きました。
「一番目をかけて欲しい親から目をかけられない子供は、親の前で本心を表すことができず、裏へ回った心は、裏にふさわしいものを育てるのです」
 以前、ブログ「学校へ入るまでの間をどのように導けば良いのでしょうか」へ書いたとおり、数え年5歳は人生最初の前厄であり、数え年6歳は人生最初の本厄です。
 後厄を抱えて小学校へ入学する子供たちが無事安全であるよう祈りつつ、なぜこうした結果になったのか、過去のほの冥い記憶へ分け入ってみましょう。



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2009
06.12

十力 3 ─過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)について─

 み仏のお智慧「十力」の第二は、過現未来業報智力(カゲンミライゴッホウチリキ)です。
 衆生が感じ、行って業をつくり、そのが報いをもたらす成り行きを知る力です。
 業は時の経過と共に熟し、柿の実が時を待って落ちるように、結をもたらします。
 こうした因果応報の理は、過去・現在・未来にわたって不変であり、その流れに始まりも終わりもありません。
 私たち凡夫は、柿の実が落ちて来て初めて、「おいしい食べものが手に入った」と喜び、あるいは、頭に当たって「酷い目に遭った」と嘆きますが、み仏は、落ちるまでの経過をすべてお見通しであるとされています。

 これは自在に運命を創り得ることを意味しています。
 なぜなら、〈こうすれば、こうなる〉と知っているならば、何かを感じ、行動する時、必ず、〈願う結をもたらす方法〉を選択するからです。
 また、業に応じた確かな救済ができることを意味しています。
 なぜなら、〈こうすれば、こうなる〉と知っているならば、誰かが困っている時、その原を正確に知った上で、〈困った状況から脱するために最も役立つ方法〉を選択、明示できるからです。

 私たち凡夫は、の全体を知ることができないばかりに、「すべては誰かに決められている」、あるいは「すべては偶然だ」というふうに考えてしまう場合がありますが、釈尊は、そうした極論に陥ってはならないと説かれました。
 良いことが起こったならば、必ず過去に良い原があったはずであり、良い結に結びつけるがあったはずです。
 悪いことが起こったならば、必ず過去に悪い原があったはずであり、悪い結に結びつけるがあったはずです。
 しかし、私たちは過現未来業報智力が充分にはたらいていないので、善行に消極的だったり、隠れて悪行へ走ったりする場合があります。
 この能力不足、人間が未完成であり発達途上の存在であるがゆえに生じる迷いを補うのが信じる力です。
 み仏の教えを理解し、信じて根気強く善行を行い、根気強く悪行を抑えることが開運への一本道です。
 信心と理解をまとめて「信解(シンゲ)」といいます。
 み仏の子である私たちはすべて心に過現未来業報智力の種を宿しており、それをどの程度はたらかせられるかは、いかに信解をもって生きるかにかかっています。
 信じ、祈りつつ、学びつつ、やりましょう。



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2009
06.11

保育所の闇 (1)

 ある朝、Aさんが5歳になる娘Bちゃんを保育所へ送って行った時のできごとです。
 Bちゃんは、一人ではたらきながら子育てをしているAさんから久々に買ってもらったキャラクターのシャツを着ていました。
 嬉しそうに、恥ずかしそうにしていたBちゃんは、仲間の輪の中へ入って行きました。
 出勤するAさんは、小さな満足感を持って踵を返しました。
 その瞬間、背中が凍りつきました。
「お前、そんなものを着たからって、人気者になれるわけないじゃん」
 とても5歳の子供が発するとは思えない呪詛のような嘲りを含んだ言葉。
 そして、シーンと静まった空気──。
 あまりの恐ろしさとBちゃんの哀れさに頽れそうになりましたが、そこで予定外の行動のために使う時間など、ありません。
 Aさんは、重い足を引きずるように保育所を後にしました。

 声の主は判っています。
 Bちゃんは以前も同じ子からいじめられ、先生へ相談しましたが、保護者の会をとりしきる会長のお子さんはとても頭がはたらき、親や先生の前では本当の姿を見せません。
 5歳にして、すでに大人に劣らぬほど卑劣な心性がつくられているとは、信じがたいほど恐ろしいことです。
 Aさんは、チラッと保育所を変えようと思いましたが、それはすぐに諦めました。
 諸事情が許さず、よそへ移ったとしても、同じような子がいるにちがいないからです。
 空気のように子供の世界を覆う共業(グウゴウ)から逃れる先はありません。

 豪邸に住む幼子の心で、なぜ、悪意が育ったか?
 それは、たとえ冷蔵庫の中であっても、永く放置されていれば食べものにカビが生えるのと同じく、目をかけられないからです。

 以前、とても独創的な庭師さんの事務所で、あまりに植物たちが活き活きしているのに驚き、秘訣を訊ねたことがありました。
 彼は即座に答えました。
「なあに、毎日、目をかけているだけですよ。
 ちゃんと見れば、何を必要としているのか、どうして欲しいのか、すぐに判ります。
 それだけです。
 誰だってできますよ」

 一番目をかけて欲しい親から目をかけられない子供は、親の前で本心を表すことができず、裏へ回った心は、裏にふさわしいものを育てるのです。
 子供へ充分に目をかけぬ親と、目をかけられぬ淋しさを抱えた子供で構成される家庭はどうなるか。
 そのまま成長した子供がやがて一人で世間へ出た時、周囲の人々とどういう関係をつくるか。
 保育所でのできごとは現在の実相を現し、はっきりと未来を予告しています。



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2009
06.10

『法句経』物語 10 惟念品(ユイネンボン)第六

 昔、フツシャカとヘイシャという二人の王様がいて、二人は親友同士でした。
 仏道を知らないフツシャカ王は、ある時、七宝の華を作ってヘイシャ王へ贈りました。
 ヘイシャ王はそれを釈尊へ捧げて質問しました。
「私の友人フツシャカ王からこの華が届きました。
 彼の心が開き、煩悩が解消し、み仏と会って教えを聴き、聖者の方々を尊崇するようにしたいと願っています。
 そのためには、この贈り物へどのように応じたらよろしいのでしょうか?」
 釈尊は告げられました。
十二因縁経を書写して送りなさい。
 彼は必ず理解し、信じることでしょう」

 ヘイシャ王は、さっそく、手紙をつけて経典を贈りました。
「王様は、宝の華を贈ってくれました。
 私は、法の華をお贈りしました。
 なぜこのようになったかをよくお考えくだされば、すばらしい結果がもたらされるでしょう。
 そうなったら一緒に読誦して、共に仏道の醍醐味を味わいたいものです」
 経典を読んだフツシャカ王は教えに従って我が身の因縁を省み、深く理解し、教えを信ずるに至り、ため息をつきながらつぶやきました。
「教えの教化力はすばらしい。
 説く真理は魂を安らげ、国を栄えさせる。
 五欲から生まれた憂いや悩みによって永い年月迷いの中にあったことを、たった今、気づかされた。
 五欲に満ちた世間には、真に求めるべきものはないのだ」
 そして、すぐに群臣を集め、太子へ位を譲って自ら剃髪し、出家修行者になりました。
 行者の姿で手には鉄鉢を持ち、首都王舎城を離れた陶器職人の家にある窯を一夜の宿としました。
「明日、王舎城で托鉢し、食事が終わったら釈尊のところへ行って教えや戒律を授けていただこう」

 ところが、神通力でフツシャカの様子を観た釈尊は、食事を摂る時に彼が臨終を迎えることを知りました。
「わざわざ遠くから来ても、私と会えない。
 教えを聴かぬままになってしまうのはしのびない」
 そこで、釈尊は行者になりすまし、フツシャカがいる陶器職人の家へ出向いて一夜の宿を請いました。
 職人は答えました。
「ちょうど、一人の行者が窯の中におられます。
 どうぞ、一緒に泊まってください」
 フツシャカと対面した釈尊は問いました。
「あなたはどこから来られたのですか?
 師はどなたですか?
 どのような因縁で行者になられたのですか?
 聖者にはもう会えましたか?」
 フツシャカは答えます。
「私はまだ、聖者に会っていません。
 十二因縁を知って出家したばかりです。
 明日、街へ行って托鉢が終わったならば聖者のところへでかけるつもりです」
 行者の姿をした釈尊は言いました。
「人のいのちは儚いもので、朝であれ夕であれ、亡くなる時はたちまちに死んでしまいます。
 無常は遠い過去からのくり返しであり、時を待ちません。
 身体は地水火諷の要素がかりそめに結合してできているだけのものであり、何かの拍子にそれが分離すれば身体は自然に還ることをよく観なければなりません。
 よく思考をはたらかせ、煩悩から目覚め、あらゆるものには実体がなく空であり、定まった特質がなく、とどまろうと執着する何ものもなくて清浄であることを知りましょう。
 仏法僧を尊び、大切にし、布施持戒の徳を持ち、深く無常の理を悟れば聖者と会ったのと変わりありません。
 こうした真理を思惟せずに明日をたのみとするのは、役に立たない考え方です」
 そして、詩をもって真理を説きました。
「真の利を求めるならば聖者に帰依せよ。
 そのためには昼夜を問わず、仏法僧の三宝を念ずることである。
 
 自ら悟りへの意志をはっきりさせる者は仏弟子となる。
 そのためには昼夜を問わず、仏法僧の三宝を念ずることである。

 この身は無常と知り、持戒布施の徳を求めよ。
 朝に夕に、あらゆるものには実体がなく空であり、定まった特質がなく、とどまろうと執着する何ものもなくて清浄であることを深く心へ納め続けよ」

 行者となった釈尊は、フツシャカのために諄々と無常の理を説きました。
 よく聴いて理解したフツシャカは悟り、欲界へ戻ることのないアラカンとなりました。
 これを観た釈尊は聖者本来の光明に満ちた姿を顕し、フツシャカは狂喜乱舞して礼拝しました。
 釈尊は重ねて告げました。
「これまで積んだ罪の報いとして死がやって来ようとも、その罪はすでに償われているので怖れることはない」
 フツシャカは誓いました。
「聖者の教えを信じ、敬い、奉じています」
 釈尊は忽然と消えました。

 翌日、街へ托鉢にでかけたフツシャカは、子を生んでまもない雌牛に腹を刺されて死に、天界へ行きました。
 釈尊は数人の弟子を遣わして火葬にし、塔を建てました。
 そして、弟子たちに説きました。
「罪の報いをもたらすその根本を、慎んで観想しせよ」


 無限の過去世から積み重ねられた(ゴウ)がもたらす生と死と輪廻は避けられません。
 凡夫には、因と縁の糸がどのようにつながっているかを理解できなくとも、原因があれば必ず結果が出るので、犯した罪の報いは避けられず、贖わねばなりません。
 一方、いつ、どのような形であるかは知ることができなくとも、善行の結果としてやってくる善報もまた、必ず得られます。
 この物語には、悟りを開いてそうした糸の結ばれ方を知り、良き結合によって発心した善人が救われるよう導くみ仏のおはたらきが示されています。
 この世のことごとは、超越者によって「必然」とされているのでなく、無限定の「偶然」だけで成り立っているのでもありません。
 因果応報の理は動かぬ真理であり、途切れることのない変化の流れの中で自由意志がはたらき、〈不動〉と〈動〉が目眩く有為転変してやまない万華鏡のようなこの世を創っています。
 仏縁に感謝し、理解し、信じ、意欲をもってやりましょう。



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2009
06.09

交通安全祈祷について

 密教における安全祈祷は、体へのご加持と運転者へのご加持によって行います。
 は大変便利な道具であり、現代社会においてなくてはならないものですが、一瞬で人を殺す恐ろしい凶器になりうるという側面も持っています。
 だから、は四方八方どちらへ向かって走っても、たとえば東なら文殊菩薩、西なら不動明王というように方位の守本尊にしっかり護っていただくよう法を結びます。
 人は、に感謝し、間違っても人や生きものを傷つけないよう、菩提心をもって運転するよう法を結びます。
 この修法が行われている時、と、運転者と、ご本尊様と、そして行者は平等平等となり、み仏の世界に入っています。
 終われば法はベールとなって車と運転者を包み、鎧甲をまとうように加護されます。

 交通ルールの遵守は、戒律を守る修行です。
(スピード違反で罰金を払っています……。トホホ……)
 安全運転は、智慧と慈悲の修行です。
 こうした心構えで車を用いれば、鬼に金棒となることでしょう。
 
 車に関する不思議な体験はいろいろあります。
 たとえば、夜に凍結した坂道を登れずにいた時、ボンネットの先についているエンブレムへ不動明王の法を結んだところ、グッ、グッ、グッという感じで、無事、登り終えて目的地へ着きました。
 また、走っている車の前に子供が飛び出してぶつかった時、たいしたかすり傷もなく、たまたま目撃していた方が「子供の不注意です」とはっきり言ってくださったおかげで、親御さんから攻めらず、反対に謝っていただいて事件になりませんでした。

 ご加護をいただき、心構えをしっかりさせて安全運転を行いたいものです。



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2009
06.08

例祭だより(6月の第一例祭)

 6月、水無月になりました。
 今週はたっぷりと恵みの雨が降っていましたね。梅雨入りもまもなくでしょうか。

 さて、6月7日(日)は第一例祭でした。
 昨日までの雨は止み、例祭の行われる10時頃には陽が差してきて新緑がとても生き生き☆草木のパワーが穏やかに漲ってみんな喜んでいるかのような空気でした。

 第一例祭では途中、住職の力強い太鼓と共に「観音経」を3回読誦します。
 ちょっと長いお経ですが、がんばってひたすら3回唱え終わると何やら秘かに達成感が湧き上がるのでありました。^^
 太鼓の音と唱えるお経が同じに心身に響き、揺り動かされます。

 住職のお話は・・・

 私たちの中にはみんな仏様がいます。
 その仏様を体現するために、この世でいろいろな人間修行をしているのです。
 その中で仏教の教えを実践することは私たちの中にある仏様(慈悲の心)を思い起こさせるきっかけになるということです。

 私たちを生み出してくれたのは仏様(=宇宙)だとすると、私たちは皆仏様の子なんだから、皆の心の中には仏様がいるんですね~。
 自分の気持ちの中でも「いやだなぁ~」と思う時。
「あ!これは煩悩の仕業だな?」と思うと意外といやなことも流せることもあるものです。
 訓練、訓練♪
 世界中・・・仏様みたいにやさしい人がいっぱいになるといいなぁと思いました。

 帰りに居合仲間のTさんと供養堂の工事を見に行きました。
 早くも立派な太い柱が立っていて建物の大枠が出来上がっていました!

 Tさんと「すごい、すごーい!」「ほんとに出来るんだね~よかったね~!」などとはしゃいでしまいました(笑)

 夕方5時半を過ぎているというのに、夕陽とは思えないお天道様が燦燦と法楽の苑を照らしてくれておりました。(書き手─高橋里佳)

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〈1ミリ単位のレベルで水平をとりながら、コンクリートを打った上へ、土台となる横木を置きます〉
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〈超精密な刻みです〉
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〈宮大工さんたちは地上数メートルのところで、かけやを振るい、縦の材木と横の材木を合体させます〉
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2009
06.08

5月28日のお焚きあげ

 28日は晴天に恵まれたお焚きあげでした。
 大きな仏壇もあって、火が消えたのは夕刻でした。
 今回は、お不動様の讃歎分を書いておきます。

稽首聖不動尊秘密陀羅尼経(ケイシュショウムドウソンヒミツダラニキョウ) (讃嘆文)

聖無動摩訶威怒王(ショウムドウマカイヌオウ)に稽首(ケイシュ)し奉る。
極大慈悲心。衆生(シュジョウ)を愍念(ミンネン)し給う。
本體。盧遮那(ルシャナ)。久遠(クオン)に正覚(ショウガク)を成(ジョウ)ず。
法身(ホッシン)法界(ホッカイ)に偏く。智慧。虚空に同じ。
無相にして相を現じ。相(ソウ)世界海に偏し。
無聲にして聲あり。聲。塵刹土(ジンセツド)に聞こゆ。
仏法を護持せんが為め。群生(グンジョウ)を利楽(リラク)せんが為に。
無辺の相好海(ソウゴウカイ)。瞋怒(シンウ)の相を孌現(ヘンゲン)す。
慈眼(ジゲン)をもって衆生(シュジョウ)を視(ミ)ること。平等にして一子(イッシ)の如し。
方便に一髪(イッパツ)を垂(た)れて。第一義を表示す。
金剛智は能(ヨ)く断じ難き。諸(モロモロ)の煩悩を断じ。猛利(ミョウリ)の剣を執持(シュウジ)して。一たび断じて餘習(ヨシュウ)なし。
金剛定(コンゴウジョウ)は能(ヨ)く縛(バク)し難き諸(モロモロ)の結業(ケツゴウ)を縛(バク)す。
金羂索(コンケンサク)を執持(シュウジ)して。一たび縛(バク)して能(ヨ)く動くことなし。
究竟(クキョウ)して能(ヨ)く煩悩の毒龍子(ドクリュウシ)を取り盡す。
迦樓炎(カルエン)を示現(ジゲン)して業障(ゴウショウ)の海を焚焼(ボンショウ)す。
能(ヨ)く菩提心(ボダイシン)を護りて行者をして堅住(ケンジュウ)せしめ。
磐石(バンジャク)の座に安住して。菩提(ボダイ)の行を退せず。
假使(タトイ)三千に満る。大力の諸(モロモロ)の夜叉(ヤシャ)も。明王(ミョウオウ)降伏(ゴウブク)し盡して。解脱の道に入らしむ。
一たび秘密の呪に持すれば。生々(ショウジョウ)に加護し。随逐(ズイチク)して相(アイ)離れず。必ず華藏界(ケゾウカイ)に送る。
念々に明王を持して。世々(セセ)に忘失(モウシツ)せざれば。三摩地(サンマジ)を現前(ゲンゼン)して。如来の慧を覚了(カクリョウ)す。
此(コ)の三業(サンゴウ)。明王を禮(ライ)する功徳善を以(モッ)て。平等に群生(グンジョウ)に施して同じく不動定(フドウジョウ)を證せん。
唯(タダ)願(ネガワ)くば法界(ホッカイ)に遍き金剛秘密の呪(ジュ)。同じく明王の体に住して我が三密(サンミツ)に加持し給え。
稽首(ケイシュ)す。明王の力を以て我が悉地(シツジ)をして満てしめ給え。
稽首(ケイシュ)す。明王の力を以て。法をして久しく世に住せしめ。自界及び他界。無盡(ムジン)の世界海。界中の諸含識(ショガンシキ)。同じく無上覚(ムジョウガク)を證せしめ給え。


 講堂建設も順調に進んでいます。

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2009
06.07

第十五回 映画「チベット チベット」を観る会

 映画鑑賞後、チベット密教における「8つの心の訓練」全体について概略を説明し、質疑応答を行いました。
 ここでは5番目について書いておきます。

第五詩
 他人がわたしに対する嫉妬から、罵り、あざけるなどの不当な扱いをしようとも、自らが損を引き受けて、勝利を他人に捧げることができますように。


 誰かを嫉妬したり、汚い言葉でこき下ろしたり、バカにして嘲(アザケ)り笑う時、心に曇りが生じているのはそうした行為をしている人であり、対象になっている人の心には何の曇りもありません。
 しかし、もしも、相手の心の暗い炎から出る言葉に同じレベルで反応し、同じように相手を攻撃する心になり、攻撃的な言葉を吐いたなら、心は相手と同じように曇ります。
 それを、不当に扱われたからであると弁解しても始まりません。
 心に悪を生じさせたのは、相手に反応した自分の責任であり、誰のせいにもできません。
 相手がどうであれ、自分の心の主人は自分でしかなく、自分の心の状態について誰も責任をとってはくれません。
 いかなる場合も相手にとって良かれと願う心は決して悪を生じることなく、不動の慈悲心を持った人は、常に真の勝利者です。

 こうした観点から、映画で流れていたダライ・ラマ法王の言葉を思い出すと、あらためて法王の偉大さが解ります。
 チベットへ悲劇をもたらした侵略者である中国の政府を一言も攻めず、「悲惨な現状を、チベットの人々と中国の人々が共同で解決せねばならない」という姿勢で一貫しています。
 標高6000メートル以上の山を越え、いのちがけで亡命してきた人々へ「チベット人、中国人と分けて考えてはならない」と説く姿には涙が出そうになります。
 法王の心は、いかなる人間も、いかなる生きとし生けるものも、苦を抱えた存在として平等なのだという慈悲心一色になっているに違いなく、それは、こうした悲劇のただ中にあれば尚更に希有なことと言わねばなりません。
 ノーベル平和賞に値する〈奇跡の人〉です。

 会場から質問がありました。
「どうして法王は同胞を棄てて亡命したのでしょう。
 踏みとどまって戦うことはできなかったのでしょうか?」
 映画にあったとおり、侵略者中国軍は情け容赦なく寺院を破壊し、僧侶たちへ暴行を加え、指導者たちを連行しました。
 殴られ、手足を縛られ、まるで荷物を積むようにトラックへ積み込まれ、どこかへ連れて行かれた人々がどうなったかは闇に隠されたままです。
チベット チベット」の金監督は、映画の中で、侵略後約50年間に殺されたチベット人が120万人に上ると明言しています。
 中国政府がダライ・ラマ法王の自由な活動を認めた可能性は万に一つもなく、抹殺された可能性は99パーセントといえましょう。
 暴力に屈しない不動の慈悲心は侵略者にとって最も目障りで邪魔なものであり、そうした燈火をすべて消し尽くすことが侵略と征服の成功だからです。
 チベットを消滅させないために最高指導者がとるべき方法は亡命しかなかったと確信しています。

 ある作家が言いました。
革命家と宗教家は対極にある。
 両方を兼ねることはできない。
 相手を打ち倒そうと戦う冷徹、非情な革命家になるか、敵味方なく万人を救う宗教家になるか、二本の道はまったく別々のものだ」
 確かにそうでしょう。
 しかし、社会に正義を実現させるという目的は共通しています。
 もちろん、〈正義〉の内容が違うので達成へ向かう方法も異なりますが、いつの世も、正義が実現されている社会とは〈虐げられ、奪われる人のいない社会〉ではないでしょうか?
 それを主としてハードの面すなわち仕組みから目ざす革命家と、主としてソフトの面すなわち心の面から目ざす宗教家が手を携えることは不可能でしょうか?
 このドキュメンタリー映画を観た方々にも考えていただきたい、そして、映画の内容を話題にするなど、何らかの方法で現状を変える行動を起こしていただきたいと願っています。



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2009
06.06

オバマ大統領のカイロ演説

 6月4日、オバマ米大統領は、イラクのフセイン前大統領などを輩出した名門カイロ大学で約2500人の招待者を前に演説し、「米国と世界中のイスラム教徒の間で、相互利益と尊敬に基づく新たな始まりを追求するために、ここにやってきた」と訴えた。
 世界共通の固定観念となっている「米国とイスラム世界を二分する見方」を戒め、「不信の連鎖」を打破しようと提言し、米国におけるイスラム系米国人の活躍を称賛した上で、「イスラムは米国の一部」と言い切った。
「イスラムに対する否定的固定観念と戦うのは米国大統領としての自分の責務」であるが、「自己利益のみを求める帝国」というイスラム側の対米認識も事実に反するとして、堂々と再考を促した。
 イスラム世界がギリシャ・ローマの古典文化を守りヨーロッパの文芸復興や啓蒙運動へ役割を果たした歴史を重く観て、その文化を称賛し、「イスラム教は過激主義と戦う障害ではなく、平和を進める重要な勢力である」との認識を示した。
 そして、「われわれの関係が『違い』によって決められる限り、憎しみを植え付ける者たちに力を与える」とした。

 以下は、産経新聞ニュースによる「オバマ大統領演説骨子」である。

一、相互利益・尊敬に基づく米国と世界中のムスリム(イスラム教徒)の新たな始まりを追求するために、カイロにやってきた。

一、少数だが影響力のあるイスラム過激派が(米国とムスリムの間に生じている)緊張を利用している。米国は、イスラム教と戦争をしているわけではないが、安全保障を脅かす過激派とは容赦なく戦う。

一、イスラエルと米国のきずなは不動だ。だが、イスラエルの生存権が否定できないのと同様、イスラエルはパレスチナの権利も否定できないことを認めなくてはならない。

一、イスラエルが続けるユダヤ人入植地建設の正当性は受け入れらない。即時停止を求める。

一、イランに対し、過去にとらわれず(さまざまな問題で)前進する用意があると明確にした。だが、核兵器の問題に関しては決定的な局面に至った。核拡散防止条約の義務を順守すれば、イランを含むすべての国に原子力平和利用の権利がある。


 現在、キリスト教イスラム教が直接戦争を行っているわけではないが、これまで、世界の政治的・経済的・軍事的な動きは米国を中心に回ってきており、米国の政権を支えるキリスト教があらゆる場面で背景にあったことは確かである。
 そして、ブルトーザーで地ならしをするように地球上を覆ってしまいたいと願う一神教が、同じ一神教であるイスラム教と衝突してきたことも事実である。
 一神教徒が白であり同時に黒であることはあり得ず、両者の排他的傾向は一神教宿命である。
 オセロゲームはマスが埋め尽くされて終わるが、強い一神教は自分と同じでない色の存在を許せず、相手を同色化しようとする動きをやめない。
 イスラム法を適用している国では今でも脱教は死刑であり、ブルトーザーは止まらないのである。

 オバマ大統領は、ケニア人でイスラム教徒の父親と米国人で白人の母親の間に生まれ、「僕の父は、僕の周りの人たちとは全然違う人に見えた」という幼年期を送り、高校時代には飲酒、喫煙、大麻やコカインに手を染めている。
 こうした出自を持ちながら米国で初の黒人大統領になった彼は、現代人が抱えている最大の難問へ挑戦することを明らかにした。
 もちろん、いかに強大な権力者といえども、一個人のみでなし得ることではなく、「ひとつの演説が一夜ですべてを変えることはできない」。
 しかし、いつかは誰かが始めない限り決してもたらされることのない対立解消への「新たな始まり」があったことはまちがいない。
 オバマ大統領は、救世主の一人である。
 世界の宝である。
 仏法の根幹である「相手を選ばぬ慈悲心」をも参考にして、互いを認め合い許し合う世界になるよう、無事、役割をまっとうしてもらいたいと祈るばかりである。



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